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「ゼロ・トゥ・ワン」を再読した

投稿時刻2024年11月24日 17:44

ゼロ・トゥ・ワン」を 2,024 年 11 月 22 日に再読した。
初めて読んだのは 2,022 年 4 月 30 日だったみたい。

目次

メモ

p7

ティールは多数派の意見を積極的に覆すことを意義あることと考える。
であるから、政治的には個人の絶対的な意思、自己決定を重視するリバタリアンの立場をとり、先ほど紹介した人工島国家計画を支援したり、さらには、リバタリアン系の政治家に大口献金をしたりするわけである。
そんなティールが起業に関する本を書けば、世の中の流行と同じものになるわけがない。
ティールは、ヘッジファンドのマネージャーとして世界経済の流れに逆張りして投資していたこともあるくらいの「逆張り投資家」であるから、本書の内容も逆張りである。

ティールの主張で最もコアとなる部分は、「リーン・スタートアップ」と呼ばれる今流行りのコンセプトとは真逆である。
リーン・スタートアップでは、事前にあまり計画せずに、少しずつ改善することを重視するが、ティールはそうしたスタートアップは結局は成功しにくいと考える。
むしろ、あるべき姿は、「競合とは大きく違うどころか、競合がいないので圧倒的に独占できるような全く違うコンセプトを事前に計画し、それに全てを賭けろ」というスタンスである。
Yコンビネーターや500スタートアップスといった、「どれが成功するかはわからないので、一定の基準を満たしたら全て投資する」という最近のインキュベーター型の投資会社とは真逆のスタンスだ。
私自身の経験からも、皆が反対する投資の方が結局リターンが良いという実感がある。

p10

日本人はスタートアップにおいても、「隠れた真実」とは真逆の「皆が知っているが実は間違っていること」に賭けて損をする人が多い。
投資の世界では、「日本人が来たら売れ」などとやや皮肉めいた格言があるが、こんなことでは、日本で成功したベンチャー企業が、国内市場の成長性では株価が維持できそうにないので無理に海外進出し、結局、現地で返り討ちに遭い、グローバリゼーション失敗という展開になっても無理からぬ話である。
一方、ティールが手がけている投資先の場合、当初はそんなことがビジネスになるのかと言われ、あるいは技術的に現時点で疑問点があるからこそ、世界でトップになることができるわけである。

p20

テクノロジーは奇跡を生む。
それは人間の根源的な能力を押し上げ、より少ない資源でより多くの成果を可能にしてくれる。
人間以外の生き物は、本能からダムや蜂の巣といったものを作るけれど、新しいものやよりよい手法を発明できるのは人間だけだ。
人間は、天から与えられた分厚いカタログの中から何を作るかを選ぶわけではない。
むしろ、僕たちは新たなテクノロジーを生み出すことで、世界の姿を描き直す。
それは幼稚園で学ぶような当たり前のことなのに、過去の成果をコピーするばかりの社会の中で、すっかり忘れられている。

ゼロから1へ:進歩の未来 p24

未来を考える時、僕らは未来が今より進歩していることを願う。
その進歩は次の二つの形のどちらかになる。
ひとつは水平的進歩、または拡張的進歩と言ってもいい。
それは、成功例をコピーすること、つまり1からnへと向かうことだ。
水平的進歩は想像しやすい。
すでに前例を見ているからだ。
もうひとつの垂直的進歩、または集中的進歩とは、新しい何かを行なうこと、つまりゼロから1を生み出すことだ。
それまで誰もやったことのない何かが求められる垂直的進歩は、想像するのが難しい。
一台のタイプライターから同じものを一〇〇台作るのが水平的進歩だ。
タイプライターからワープロを創れば、それは垂直的進歩になる。

マクロレベルの水平的進歩を一言で表わすと、「グローバリゼーション」になる。
ある地域で成功したことをほかの地域に広げることだ。
中国はこれを国家ぐるみで行ない、二〇年計画で今のアメリカを目指している。
彼らは先進国でうまくいったことをそっくりそのままコピーしてきた。
一九世紀の鉄道、二〇世紀の空調、そして都市そのものをも真似ている。
その過程で、たとえば有線網を作らず直接ワイヤレスに向かうなど、進歩の段階をいくつか飛び越す場合もあるけれど、基本的にはすべてを同じようにコピーしている。

p27

新しいテクノロジーが時間の経過とともに自然に生まれることはない。
僕らの祖先は固定的なゼロサム社会に生きていた。
そこでの成功とは、他者から何かを奪うことだ。
富の源泉はめったに生み出されず、普通の人が極限の生活から抜けだせるほどの富を蓄積することはできなかった。
でも原始農耕から中世の風車、そして一六世紀の地球儀までの一万年にわたる断続的な進化を経て、いきなり一七六〇年の蒸気機関の発明から一九七〇年頃までの間に、たて続けに新たなテクノロジーが発明されていく。
そのおかげで、僕たちの世代はこれまでのどの世代も想像できないほど豊かな社会を受け継ぐことになった。

p40

シリコンバレーに居残った起業家は、ドットコムバブルの崩壊から四つの大きな教訓を学んだ。
それがいまだにビジネスを考える時の大前提となっている。

1 少しずつ段階的に前進すること
壮大なビジョンがバブルを膨張させた。
だから、自分に酔ってはいけない。
大口を叩く人間は怪しいし、世界を変えたいなら謙虚でなければならない。
小さく段階的な歩みだけが、安全な道だ。

2 無駄なく柔軟であること
すべての企業は「リーン」でなければならず、それはすなわち「計画しない」ことである。
ビジネスの先行きは誰にもわからない。
計画を立てるのは傲慢であり、柔軟性に欠ける。
むしろ、試行錯誤を繰り返し、先の見えない実験として起業を扱うべきだ。

3 ライバルのものを改良すること
機が熟さないうちに新しい市場を創ろうとしてはならない。
本当に商売になるかどうかを知るには、既存顧客のいる市場から始めるしかない。
つまり成功しているライバルの人気商品を改良することから始めるべきだ。

4 販売ではなくプロダクトに集中すること
販売のために広告や営業が必要だとしたら、プロダクトに問題がある。
テクノロジーは製品開発にこそ活かされるべきで、販売は二の次でいい。
バブル時代の広告は明らかな浪費だった。
バイラルな成長だけが持続可能なのだ。

これらの教訓は、スタートアップ界の戒律となった。
それを無視すると、二〇〇〇年のハイテク・バブルの二の舞になると考えられている。
でも、むしろ正しいのは、それとは逆の原則だ。

1 小さな違いを追いかけるより大胆に賭けた方がいい
2 出来の悪い計画でも、ないよりはいい
3 競争の激しい市場では収益が消失する
4 販売はプロダクトと同じくらい大切だ

p42

僕たちは今も新たなテクノロジーを必要としているけれど、それを手に入れるには一九九九年的な尊大さと熱気が少しはあっていいのかもしれない。
次世代の企業を築くには、バブル後に刷り込まれた教義を捨てなければならない。
ただし、すべてを逆にすればうまくいくというわけでもない。
イデオロギーを否定したところで、群衆の狂気から逃れられるとは限らない。
むしろ、こう自問するべきだ。
ビジネスについて、過去の失敗への間違った反省から生まれた認識はどれか。
何よりの逆張りは、大勢の意見に反対することではなく、自分の頭で考えることだ。

p42

*13 リーン/lean
「贅肉がなく細い/ムダを省き効率的」の意。
エリック・リースが提唱した「リーン・スタートアップ」は、消費者の需要を探るため必要な最小限のプロセス(仮説構築、製品実装、軌道修正)を繰り返しながらプロダクトを改良するビジネス開発手法。

p44

航空会社はお互いがライバルだけれど、グーグルにはそうした相手がいない。
経済学者はその違いを説明するのに単純化された二つの図式を使う。
完全競争と独占だ。

「完全競争」は、経済学の教科書において理想的なデフォルトの状態とされている。
いわゆる完全競争市場とは、需要と供給が一致し、均衡状態に達した市場だ。
ここでは企業間の差別化は存在せず、売り手はまったく同一の製品を販売している。
どの企業も市場への影響力はなく、市場が価格を決定する。
利益機会が生じると、新規企業が参入し、供給が増えて価格が下がるため、参入者の目論んだ利益機会は消滅する。
参入企業の数が増えすぎると損失が生まれ、一部の企業が撤退することで価格はもとに戻る。
完全競争下では長期的に利益を出す企業は存在しない。

完全競争の反対が独占だ。
完全競争下の企業が市場価格を強いられる一方で、独占企業は市場を支配しているため自由に価格を設定できる。
競争がないので、独占企業は生産量と価格を調整して利益の最大化を図る。

経済学者から見ると、独占企業はどれも同じに見える。
不正にライバルを蹴落としていようが、国から既得権を得ていようが、イノベーションによってトップに登ろうが、変わらない。
本書では、不法に他社を妨害する企業や政府のお抱え企業について触れるつもりはない。
「独占企業」と言う場合、それは他社とは替えがきかないほど、そのビジネスに優れた企業という意味だ。
グーグルは、ゼロから1を生んだ企業の好例だろう。
マイクロソフトとヤフーを完全に引き離した二〇〇〇年代のはじめから、検索分野でグーグルにライバルはいない。

アメリカ人は競争を崇拝し、競争のおかげで社会主義国と違って自分たちは配給の列に並ばずにすむのだと思っている。
でも実際には、資本主義と競争は対極にある。
資本主義は資本の蓄積を前提に成り立つのに、完全競争下ではすべての収益が消滅する。
だから起業家ならこう肝に命じるべきだ。
永続的な価値を創造してそれを取り込むためには、差別化のないコモディティ・ビジネスを行なってはならない。

p50

二〇〇一年、僕とペイパルの仲間たちは、マウンテンビューのカストロ街でしょっちゅう昼食を食べていた。
インド料理、お寿司、ハンバーガーといった中で、まず何にするかを決める。
種類が決まると、その中でさらに多くの選択肢がある。
北インドか南インドか、カジュアルかフォーマルか、などだ。
地元のレストラン市場とは対照的に、メール決済サービスを提供する企業は世界中でペイパルだけだった。
カストロ街のレストランより従業員数は少なかったけれど、地元のレストランをすべて合わせたよりも企業価値は高かった。
南インド料理のレストランを開いても、なかなかお金は儲からない。
おばあさん秘伝のレシピで作ったナンがいくらおいしいからといっても、競争の現実に目を向けず、ささいな差別化に力を注ぐだけでは、生き残りは難しい。

p56

独占は進歩の原動力となる。
なぜなら、何年間、あるいは何十年間にわたる独占を約束されることが、イノベーションへの強力なインセンティブとなるからだ。
その上、独占企業はイノベーションを起こし続けることができる。
彼らには長期計画を立てる余裕と、競争に追われる企業には想像もできないほど野心的な研究開発を支える資金があるからだ。

では、なぜ経済学者は競争を理想的な状態だと説くのだろう?
それには歴史的な経緯がある。
経済学の数式は一九世紀の物理学の理論をそのまま模倣したものだ。
経済学者は、個人と企業を独自の創造者ではなく、交換可能な原子と見なす。
経済理論が完全競争の均衡状態を理想とするのは、モデル化が簡単だからであって、それがビジネスにとって最善だからじゃない。
一九世紀の物理学が予測した長期均衡とは、すべてのエネルギーが均等に分布し、あらゆるものが静止した状態――いわゆる宇宙の熱的死だ。
熱力学をどう考えるかはさておき、これは強烈な喩えで、ビジネスにおいて均衡は静止状態を意味し、静止状態は死を意味する。
競争均衡にある業界では、一企業の死はなんの重要性も持たない。
かならず同じようなライバルがその企業に替わるからだ。

宇宙のほとんどを占める真空は完全均衡によって説明できるだろう。
多くのビジネスにも、それが当てはまるかもしれない。
でも、新しい何かが創造される場は、均衡とはほど遠い。
経済理論の当てはまらない現実世界では、他社のできないことをどれだけできるかで、成功の度合いが決まる。
つまり、独占は異変でも例外でもない。
独占は、すべての成功企業の条件なのだ。

トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭にこう綴った。
「幸福な家族はみな似かよっているが、不幸な家族はみなそれぞれに違っている」。
企業の場合は反対だ。
幸福な企業はみな違っている。
それぞれが独自の問題を解決することで、独占を勝ち取っている。
不幸な企業はみな同じだ。
彼らは競争から抜け出せずにいる。

p64

今日のシリコンバレーで、人付き合いの極端に苦手なアスペルガー気味の人間が有利に見えるのは、ひとつにこうした模倣競争が不毛だからだろう。
空気を読めない人間は、周囲の人と同じことをしようとは思わない。
ものづくりやプログラミングの好きな人は、ひとり淡々とそれに熱中し、卓越した技能を自然に身につける。
そのスキルを使う時、普通の人と違ってあまり自分の信念を曲げることもない。
だから、わかりやすい成功につられて周囲の大勢との競争に捕らわれることもない。

p74

短期成長をすべてに優先させれば、自問すべき最も重要な問いを見逃してしまう――「このビジネスは一〇年後も存続しているか」というものだ。
数字はその答えを教えてくれない。
むしろ、そのビジネスの定性的な特徴を客観的に考えてみる必要がある。

独占企業の特徴 p74

遠い未来に大きなキャッシュフローを生み出すのは、どんな企業だろう?
独占企業はそれぞれに違っているけれど、たいてい次の特徴のいくつかを合わせ持っている。
プロプライエタリ・テクノロジー、ネットワーク効果、規模の経済、そしてブランドだ。

といっても、これらは、起業の際に「やるべきこと」のリストではない独占への近道は存在しない。
それでも、この特徴に従って自分のビジネスを分析することが、存続可能な企業を作るのに役立つはずだ。

1 プロプライエタリ・テクノロジー p75

プロプライエタリ・テクノロジーは、ビジネスのいちばん根本的な優位性だ。
それがあれば、自社の商品やサービスを模倣されることはほとんどない。
たとえば、グーグルのアルゴリズムは、他社より優れた検索結果を生み出している。
ビジネスの核となる検索エンジンの信頼性と盤石さに加えて、グーグルはスピードの速い検索結果表示と確度の高い検索ワードの自動候補表示というプロプライエタリ・テクノロジーを併せ持っている。
二〇〇〇年はじめにグーグルがほかの検索エンジン企業を引き離したのと同じようにグーグルを引き離すことは、ほぼ不可能に近いだろう。

確かな経験則から言えるのは、プロプライエタリ・テクノロジーは、本物の独占的優位性をもたらすようないくつかの重要な点で、二番手よりも少なくとも一〇倍は優れていなければならないということだ。
それ以下のインパクトではおそらくそこそこの改善としか見なされず、特にすでに混みあった市場での売り込みは難しい。

一〇倍優れたものを作るには、まったく新しい何かを発明するのがいちばんだ。
それまでまったく何もなかったところで価値あるものを作れば、価値の増加は理論的には無限大となる。
たとえば、眠らなくてもよくなる安全な薬や、禿げをなくす薬は、確実に独占ビジネスとなるだろう。

または、既存のソリューションを劇的に改善してもいい。
一〇倍の改善ができれば、競争から抜け出せる。
たとえば、ペイパルはイーベイでの取引を少なくとも一〇倍は改善した。
小切手を送れば七日から一〇日はかかるところを、ペイパルは買い手がオークション終了後直ちに支払いができるようにした。
売り手も即座に代金を受け取ることができ、小切手と違って不渡りになることもない。

アマゾンはとりわけ目に見える形で、いきなり一〇倍の改善を果たしたほかの書店よりも少なくとも一〇倍の書籍を揃えていたのだ。
一九九五年にオープンした時、アマゾンは「地球上最大の書店」と謳うことができた。
一〇万冊の書籍を抱えるリアルな書店と違い、アマゾンには物理的な在庫を抱える必要がない。
ユーザーからの注文の都度、サプライヤーに発注するだけだ。
そのあまりの効率の良さに、アマゾンの実体は「ブローカー」なのに「書店」と名乗るのは不正だとして、バーンズ&ノーブルはアマゾン上場の三日前に訴訟を起こしたほどだった。

包括的な優れたデザインによっても、一〇倍の改善が可能になる。
二〇一〇年以前、タブレットはまったく実用的でなく、市場も存在しなかった。
マイクロソフトは二〇〇二年にタブレットPCを発売し、ノキアは二〇〇五年にインターネットタブレットを発売したものの、ほとんど使いものにならなかった。
その後、アップルがiPadを世に出した。
デザイン改善のインパクトを正確に計測することはできないけれど、これまでに世に出たどんなタブレットをも完全に凌駕するものをアップルが生み出したことは明らかだった。
タブレットは「売れない」ものから「役立つ」ものに変わった。

p76

*6 プロプライエタリ/proprietary
製品やシステムの仕様や規格、構造、技術を開発メーカーなどが独占的に保持し、情報を公開していないこと。

2 ネットワーク効果 p77

利用者の数が増えるにつれ、より利便性が高まるのがネットワーク効果だ。
たとえば、友だちみんながフェイスブックを使っていれば、自分もフェイスブックを使うのが理にかなっている。
誰も使わないソーシャル・ネットワークを選ぶのは変人だけだ。

ネットワーク効果は強い影響力を持ちうるけれど、そのネットワークがまだ小規模な時の初期ユーザーにとって価値あるものでない限り、効果は広がらない。
たとえば、一九六〇年にザナドゥという風変わりな会社が、すべてのコンピュータをつなぐ双方向のコミュニケーションネットワークの開発に乗り出した。
ある種のワールドワイドウェブの初期バージョンとも言えるようなものだ。
三〇年間虚しい努力をつづけたザナドゥが事業を畳んだのは、ちょうどウェブが普及し始めた時だった。
ユーザー規模が大きければおそらく成功していたはずだけれど、逆に規模がなければ決して成功しないビジネスだったとも言える。
すべてのコンピュータが同時にネットワークに加入することが必要で、それはあり得なかった。

矛盾するようだけれど、ネットワーク効果を狙う企業は、かならず小さな市場から始めなければならない。
フェイスブックはハーバードの学生だけの間で始まった。
マーク・ザッカーバーグの最初の目的は同級生全員を加入させることで、全世界の人口を狙ったわけではなかった。
ネットワーク事業を成功させた人たちのほとんどがMBAタイプではないのはそのせいだ――初期の市場が小さすぎて、そこに事業チャンスがあるようには見えないのだから。

3 規模の経済 p78

独占企業は規模が拡大すればさらに強くなる。
プロダクトの開発に関わる固定費(エンジニアリング、経営管理、家賃)は販売量の拡大にしたがって分散される。
ソフトウェアのスタートアップは、販売増加にかかる限界費用がほぼゼロに近いため、劇的な規模の経済の恩恵を受けられる。

多くの企業にとって、規模の拡大によるメリットは限定的だ。
サービス業では特に独占は難しい。
たとえば、ヨガスタジオを経営している場合、顧客の数は限られる。
インストラクターを雇ったり、店舗を増やしたりして拡大することはできても、利益率はかなり低くとどまり、ソフトウェアのエンジニアと違って、いくら才能のある講師陣を集めても、数百万人のクライアントに価値を提供するほどの規模に達することはない。

規模拡大の可能性を最初のデザインに組み込むのが、優良なスタートアップだ。
ツイッターのユーザー数は、今の時点で二億五〇〇〇万を超えている。
さらなるユーザーの獲得に多くのカスタム機能を加える必要はなく、成長が止まりそうな内的な要因はない。

p79

*8 限界費用/marginal cost
生産量を1つ増加させたことによる総費用の増加分。

4 ブランディング p79

ブランドとは、そもそも企業に固有のもので、強いブランドを作ることは独占への強力な手段となる。
今いちばん強いテクノロジー・ブランドはアップルだ。
iPhoneやMacBookの魅力的な外観と慎重に選ばれた素材、アップルストアの垢抜けたミニマリスト的デザインと顧客体験への厳格なコントロール、いたるところに見かける広告キャンペーン、ハイエンドメーカーとしての価格設定、そして今も残るスティーブ・ジョブズのカリスマ性といったすべてが、アップル製品を独自のカテゴリとして位置づけている。

これまでに多くの人がアップルの成功から学ぼうとしてきた。
独自の広告戦略、ブランドストア、高級素材、注目されるプレゼンテーション、高価格、そしてミニマリスト的デザインでさえ、すべてを模倣することはできる。
でも、そうやって表面を磨き上げても、その下に強い実体がなければうまくはいかない。
アップルは、ハードウェア(優れたタッチスクリーン素材)とソフトウェア(特殊素材用に特別にデザインされたインターフェース)の両方で、一連の複雑なプロプライエタリ・テクノロジーを有している。
大量生産によって、材料価格も支配できる。
その上、コンテンツの生態系を通して強力なネットワーク効果を享受できる。
数億人のアップルユーザを狙って数万の開発者がアプリを開発し、豊富なアプリがあるのでユーザーはアップルのプラットフォームを離れない。
アップルの一連の独占的優位性は偉大なブランドの陰に隠れているけれど、アップル・ブランドによる独占を強化しているのは、こうした本質なのだ。

本質よりブランドから始めるのは危険だ。
マリッサ・メイヤーは二〇一二年半ばにヤフーのCEOに就任して以来、かつて一世を風靡したインターネットの巨人をふたたびクールに見せることで、生き返らせようとしている。
ヤフーはメイヤーの戦略を、「まず人、それからプロダクト、それからトラフィック、そして売り上げへ」の連鎖反応だとツイートしている。
人はクールな場所に集まる。
ヤフーはロゴの改変でデザインへの意識を表現した。
人気のスタートアップ、タンブラーの買収で若々しさを訴えた。
メイヤー自身の存在感でメディアの関心を集めた。
でも、何より大切なのは、ヤフーが実際にどんなプロダクトを生み出すかだ。
アップルに戻ったスティーブ・ジョブズは、アップルをクールな職場にしようとしたわけじゃない。
製品群を絞り込み、一〇倍の改善を望める少数のプロダクトに集中した。
メイヤーに新しいプロダクトを開発するための有効な戦略があるならば、ブランディング努力は報われるだろう。
でも、ブランディングだけではテクノロジー企業は築けない。

独占を築く p81

ブランド、規模、ネットワーク効果、そしてテクノロジーのいくつかを組み合わせることが、独占につながる。
ただし、それを成功させるには、慎重に市場を選び、じっくりと順を追って拡大しなければならない。

小さく始めて独占する p81

どんなスタートアップもはじまりは小さい。
どんな独占企業も市場の大部分を支配している。
だから、どんなスタートアップも非常に小さな市場から始めるべきだ。
失敗するなら、小さすぎて失敗する方がいい。
理由は単純だ。
大きな市場よりも小さな市場の方が支配しやすいからだ。
最初の市場が大きすぎるかもしれないと感じたら、間違いなく大きいと思った方がいい。

小さいことと存在しないことは違う。
僕たちは初期のペイパルでそこを間違えた。
僕たちの最初のプロダクトはパームパイロット経由の決済サービスだった。
それはユニークなテクノロジーで、ほかにプレーヤーはいなかった。
ただ、世界中の数百万のパームパイロットユーザーは地域もバラバラで、共通点もほとんどなかった。
しかもたまにしかパームパイロットを使っていなかった。
僕たちのプロダクトは誰にも必要とされず、ユーザーは見つからなかった。

この経験から学んだ僕たちは、イーベイのオークションに狙いを定め、そこで最初の成功を収めた。
一九九九年の後半、イーベイは取引量の多い数千人の「パワーセラー」を抱えていて、たった三か月の集中的な売り込みの結果、その四分の一が僕たちのサービスを利用してくれた。
バラバラの数百万ユーザーの関心を求めて争うよりも、僕たちのプロダクトを本当に必要とする数千人に訴求する方がずっと簡単だった。

スタートアップが狙うべき理想の市場は、少数の特定ユーザーが集中していながら、ライバルがほとんどあるいはまったくいない市場だ。
大きな市場はいずれも避けるべきだし、すでにライバルのいる大きな市場は最悪だ。
起業家が一〇〇〇億ドル市場の一パーセントを狙うと言う場合は常に赤信号だと思った方がいい。
実際には、大きな市場は参入余地がないか、誰にでも参入できるため目標のシェアに達することがほとんど不可能かのどちらかだ。
たとえ小さな足がかりを得たとしても、生き残るだけで精一杯になるだろう。
壮絶な競争から利益が出ることはない。

p84

イーベイもまた、小さなニッチ市場を支配することから始めた。
一九九五年にオークションのマーケットプレイスを立ち上げた時点で、はじめから全世界を狙う必要はなかった。
ビーニーベイビー・コレクターのような、熱心なコアユーザー向けのサービスで成功を収めることができた。
ビーニーベイビー取引の市場を支配したあとも、イーベイはスポーツカーや工業製品の市場には手を出さなかった。
引き続き、ちょっとした素人コレクターを開拓し、最終的にどんなアイテムを取引する人にとっても、最も信頼できるオンラインのマーケットプレイスとなった。

規模拡大には隠れた障害が存在することもある――最近イーベイが学んだことだ。
マーケットプレイスすべてに言えることだけれど、オークション市場もまた、自然に独占が生まれやすい。
買い手は売り手の集まる場所に行くし、売り手も買い手の集まる場所に向かうからだ。
でも、オークションモデルが成功するのはコインや切手といった特殊なアイテムの市場に限られる。
コモディティではあまりうまくいかない。
鉛筆やクリネックスに入札する人はいないし、それならアマゾンで買った方がいい。
イーベイは今も重要な独占企業であることに変わりはない。
ただ、二〇〇四年に予想されたよりも少し小さいだけだ。

正しい順序で市場を拡大することの大切さは見過ごされがちで、徐々に規模を拡大するには自己規律が必要になる。
大成功している企業はいずれも、まず特定のニッチを支配し、次に周辺市場に拡大するという進化の過程を創業時から描いている。

ラストムーバーになる p87

ファーストムーバー・アドバンテージ、先手必勝とよく言われる。
市場に最初に参入すれば、ライバルのいない隙に大きな市場シェアを握れるという意味だ。
それがうまくいくこともあるけれど、先手を打つのは手段であって目的ではない。
本当に大切なのは将来キャッシュフローを生み出すことであって、君が最初の参入者になっても、ライバルがやってきてその座を奪われたら意味がない。
最後の参入者になる方がはるかにいい――つまり、特定の市場でいちばん最後に大きく発展して、その後何年、何十年と独占利益を享受する方がいいということだ。
そのためには、小さなニッチを支配し、そこから大胆な長期目標に向けて規模を拡大しなければならない。
少なくともこの点に関していえば、ビジネスはチェスに似ている。
チェスのグランド・マスター、ホセ・ラウル・カパブランカはこう言った。
勝ちたければ「何よりも先に終盤を学べ」。

6 人生は宝クジじゃない p88

人生は宝クジじゃないビジネスでいちばん意見が分かれるのが、成功は運か実力かという問題だ。

成功している人はどう言っているだろう?
成功者を描き続けることで自身も成功している作家のマルコム・グラッドウェルは著書『アウトライヤー』で、成功は「チャンスと才能の幸運なめぐり合わせ」だと書いている。
ウォーレン・バフェットが自分を「幸運なDNAクラブの一員」で、「当たりくじを握って生まれた」と言ったのは有名だ。
ジェフ・ベゾスはアマゾンの成功を「惑星直列のような珍しい現象」で「運が半分、タイミングが半分で残りが頭脳」だと冗談めかして言った。
ビル・ゲイツは「たまたま生まれつきある種のスキルがあった」とまで言っている。
でも、そんなことが本当にありえるだろうか。

彼らの謙虚さはおそらく戦略的なものだ。
連続起業家が世に存在するということは、成功が単なる運とも言い切れない。
数百万ドル規模のビジネスを複数立ち上げた起業家は何百人もいる。
中でもスティーブ・ジョブズ、ジャック・ドーシー、イーロン・マスクは数十億ドル企業を複数生み出してきた。
成功がほぼ運によるものだとしたら、こうした連続起業家はおそらく存在しないはずだ。

二〇一三年一月、ツイッターとスクエアの創業者ジャック・ドーシーは、二〇〇万人のツイッターフォロワーに向けてこうつぶやいた。
「成功は決して偶然じゃない」

反応は一様に否定的だった。
そのツイートを記事で取り上げたアトランティック誌のアレクシス・マドリガル記者は、思わずこう返信しそうになったらしい。
「『成功は決して偶然じゃない』と言うのは、億万長者の白人男性ばかりだ」。
すでに成功を収めた人たちが、その人脈、資金、経験を使って新しいことを始めやすいのは本当だ。
それでも、計画通りに成功したという意見を、世間は軽く見すぎていないだろうか?

この論争を客観的に結論づける方法は、残念ながらない企業は実験ではないからだ。
たとえばフェイスブックの成功について科学的な答えを出そうと思ったら、時計を二〇〇四年に巻き戻し、一〇〇〇通りの世界を作ってフェイスブックを立ち上げ、それが何度成功するかを実験しなければならない。
そんなことはもちろん不可能だ。
起業の状況はみな違うし、どんな会社も始まりは一度きりだ。
サンプルがひとつしかなければ統計に意味はない。

ルネサンスから啓蒙時代、二〇世紀半ばにいたるまで、幸運とは自らが引き寄せ、支配し、操るものとされていた――自分ができることを行ない、できないことに目を向けるべきではないと考えるのが当たり前だった。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンはその精神をこう表わした。
「浅はかな人間は運を信じ、流れを信じる。強い人間は因果関係を信じる」。
一九一二年、世界で初めて南極点に到達したロアール・アムンゼンはこう書き残している。
「完璧な準備のあるところに勝利は訪れる。人はそれを幸運と呼ぶ」。
不運が存在しないわけではないけれど、昔の人たちは努力によって幸運が訪れると信じていた。

人生が運に左右されると信じているなら、なぜ君は本書を読んでいるのだろう?
スタートアップが宝クジを当てた人の物語だと思うなら、学ぶ意味はない。
スロットマシン入門書は、当たりが出るお守りや、当たりそうな台を見分けるコツは教えてくれても、どうしたら勝てるかを教えてくれるわけじゃない。

ビル・ゲイツは単に知性の宝クジを当てただけだろうか?
シェリル・サンドバーグは銀のスプーンをくわえて生まれたのだろうか、それとも「リーン・イン」に努めたのだろうか?
こうした議論での「幸運」は過去形だ。
でも、はるかに重要なのは未来がどうなるかだ。
それは偶然や運命で決まるのだろうか?

なぜ誰も隠れた真実を探さないのか? p131

世の中のほとんどの人は、知られざる真実なんてないかのように振る舞っている。
その極端な例が、「ユナボマー」の悪名で知られるテッド・カジンスキーだ。
カジンスキーは一六歳でハーバードに入学した天才児だった。
その後数学の博士号を取り、カリフォルニア大学バークレ一校の助教授となる。
でも、彼の名前を世間に知らしめたのは、学者や技術者やビジネスマンにパイプ爆弾を送りつけるという一七年にわたるテロ行為だった。

一九九五年末、当局にはユナボマーの正体も居場所もわかっていなかった。
最大の手がかりは、カジンスキーが報道関係者に匿名で送りつけた三万五〇〇〇語に及ぶ犯行声明だ。
FBIは、事件解明のきっかけを掴もうと、大手新聞社に声明文の公開を要請。
これが奏功する。
カジンスキーの弟が文体に気づき、警察に通報した。

そう言うと、明らかな精神異常を示すような文体を想像するかもしれないけれど、犯行声明には不気味な説得力があった。
彼は、どんな人間も、幸せになるには「達成に努力を要する目標が必要で、その目標の少なくともいくつかを達成しなければならない」と主張していた。

カジンスキーは人間の目標を次の三つに分類した。

1 最低限の努力で遂げられる目標
2 真剣に努力しないと遂げられない目標
3 どれほど努力しても遂げられない目標

簡単、難しい、不可能の典型的な三分法だ。
現代人が鬱々としているのは、世界のすべての難しい問題がすでに解決されてしまったからだとカジンスキーは言っていた。
あとに残ったのは簡単な目標か不可能な目標しかなく、それらを追いかけても満足感はまったく得られない。
自分にできることは子どもにもできる。
自分にできないことはアインシュタインにもできない。
そこで、既存の制度を破壊し、すべてのテクノロジーを取り除けば、またゼロから難しい問題に取り組めると考えた。

カジンスキーのやり方は狂っているけれど、彼が感じたテクノロジーの進歩に対する幻滅は今の社会のいたるところに見え隠れしている。
たとえばちょっとしたことだけれど、都会のトレンドセッターの間で流行しているものにも、この傾向は現れている。
フェイクのビンテージ写真、カイゼル髭、ナイロンレコードのプレーヤーなど、どれもが人々がまだ明るい未来を描いていた時代を彷彿とさせる。
やる価値のあることがもうやり尽くされたのだとしたら、成功になどまったく興味のないふりをして、バリスタにでもなった方がいい。

テロリストやトレンドセッターだけでなく、原理主義者はみなそう考える。
たとえば、宗教的な原理主義者は、難しい質問の存在を許さない――子どもでもすぐに答えられるような単純な真実か、そうでなければ説明できない神の秘跡かのどちらかしか存在しないと考えるのだ。
両極端の中間、つまり難しい真実が存在する場所は、異端とされる。
環境主義という名の現代の宗教では、人は環境を守るべきだというのが単純な真実だ。
それ以上のことは、母なる自然に任せるべきであり、自然に楯突くことは許されない。
自由市場の信奉者も、似たようなロジックを使う――モノの価値を決めるのは市場である。
株価は子どもにもわかる。
だが、その価格が理にかなっているかどうかを疑ってはならない。
市場は君たちよりはるかに多くを知っているのだから。

なぜ僕たちの社会は、知られざる真実なんて残っていないと思い込むようになったのだろう?
確かに、世界地図に空白はない。
君が一八世紀に生きていれば、まだ発見されてない場所があった。
未開の地の冒険談を聞き、自分でも探検家になれた。
一九世紀から二〇世紀のはじめまでは、おそらくそうだったのだろう。
ナショナルジオグラフィックには、人跡未踏の最果ての辺境地を探検する白人の姿が多く残されている。
今では探検家は歴史の本かおとぎ話の中にしか存在しない。
親たちは、子どもが海賊や王様になることを望まないように、探検家になることも望まない。
おそらくアマゾンの奥地のどこかにはまだ、知られざる種族が何十と暮らしているだろうし、海底深くには地球最後のフロンティアが残っているだろう。
でも、現代において未知のものに出会うことはかつてないほど難しい。

物理的なフロンティアがほぼなくなったという自然の制約に加えて、四つの社会トレンドが隠れた真実への探求心を根っこから摘み取ろうとしている。
ひとつ目は漸進主義だ。
僕たちは幼い頃から、一度に一歩ずつ、毎日少しずつ、学年を追ってものごとを進めるのが正しいやり方だと教えられる。
人より進みすぎたり、テストに出ないことを勉強しても、誰にも褒めてもらえない。
期待されていることだけをきちんと行なえば(それを同級生よりも少しだけうまくやれば)、Aをもらえる。
これが終身在職権を得るまでずっと続いていく。
だから、学者たちは新たな分野に挑戦する代わりに、ありふれた論文を量産することになる。

二つ目はリスク回避だ。
隠れた真実を恐れるのは、間違いたくないからだ。
隠れた真実とは、言うなれば「主流が認めていないこと」だ。
だから間違わないことが君の人生の目標なら、隠れた真実を探すべきじゃない。
自分ひとりだけが正しいと思える状況、つまりほかの誰もが信じていないことに人生を捧げるのは、それだけでもつらい。
自分が孤立していて、しかも間違っているかもしれないとなったら、耐えられないだろう。

三つ目は現状への満足だ。
いわゆる社会のエリートたちは、新しい考え方を模索する自由と能力を誰より持ちあわせているのに、隠れた真実の存在を誰よりも信じていないようだ。
過去の遺産でのうのうと暮らしていけるなら、隠れた真実を探す理由がどこにあるだろう?
トップのロースクールやビジネススクールの学長は、毎秋同じ内容のメッセージで新入生を迎え入れる。
「君はこのエリート組織の一員となった。もう心配はいらない。人生安泰だ」と。
だけど、本当に安泰なのは、人生安泰と思わない人だけだ。

四つ目は「フラット化」だ。
グローバリゼーションが進むにつれ、人々は世界を同質的で極めて競争の激しい市場と見なすようになっている。
世界は「フラット化」していると言うのだ。
そうなると、隠れた真実を探そうという志を持つ人はまず、こう自問する。
新しい何かが発見できるなら、世界のどこかで自分より賢くクリエイティブな人たちがそれをすでに見つけているのでは?
そういった疑念の声によって、隠れた真実を探し始める前に諦めてしまう。
世界は大きすぎて、ひとりの力では何もできないと感じてしまうのだ。

こうしたトレンドには良い面もないわけじゃない。
たとえば、今どき、カルト教団は成り立たない。
四〇年前なら、まだ世界には知られざる知識が存在するという考えを、人々は受け入れていた。
共産党からクリシュナ教にいたるまで、「道」を示してくれる啓蒙集団に入ってもいいと多くの人が考えていた。
今、非伝統的な考えを真剣に受け止める人はほとんどいないし、主流の人々はそのことを進歩の証しだと見ている。
頭のおかしいカルトが少なくなったのは喜ばしいけれど、それには大きな代償が伴った。
まだ発見されていない真実への探究心を、僕たちは失ってしまったのだ。

一流の営業はそれとわからない p173

営業マンはみな役者だ。
彼らの仕事は売り込みであって、誠実であることではない。
「セールスマン」という呼び名が中傷にもなるのはそのせいで、中古車ディーラーはいかがわしい人物の典型とされている。
でも、僕たちがネガティブな反応を示すのは、ぎこちないあからさまな売り込み、つまり優秀じゃないセールスに対してだ。
一口に営業と言っても能力はピンからキリまでだ。
新人とエキスパートと達人の間にもさまざまな段階がある。
セールスの超達人もいる。
超のつく達人を知らないとすれば、それはまだ出会っていないからではなく、目の前にいながら気づいていないからだ。
トム・ソーヤは近所の友だちにフェンスのペンキを自分の代わりに塗ってもらった。
それが、達人の技だ。
さらに、用事をしてもらった上にそのことに対してお金を払わせたのは、超達人の技だった。
友だちをまんまと口車に乗せたわけだ。
一八七六年にマーク・トウェインが小説を書いた時代から、何も変わってはいない。

演技と同じで、売り込みだとわからないのが一流のセールスだ。
営業にしろマーケティングにしろ宣伝広告にしろ、販売にかかわるほとんどの人の肩書が、「営業」と無縁なのはそういう理由だ。
広告を売る人は「アカウント・エグゼクティブ」と呼ばれる。
新規顧客の開拓は「事業開発」と呼ばれる。
企業買収や売却を商売にする人は「インベストメントバンカー」。
自分を売り込むのは「政治家」だ。
こうした肩書には理由がある。
誰も売り込まれたくないからだ。

どんな仕事でも、営業能力がスーパースターと落ちこぼれをはっきりと分ける。
ウォール街では新卒は数字をはじく「アナリスト」からスタートするけれど、最終目標はディールメーカーになることだ。
弁護士は法律の専門家であることに誇りを持っているけれど、法律事務所のリーダーは大手クライアントを獲得できる儲け頭だ。
学問的業績によって評価される大学教授でさえ、専門分野で名を上げる宣伝上手な学者に妬みを抱く。
歴史や英語についての学術アイデアは、いくら知的に優れていてもそれだけでは話題にならない。
基礎物理学の研究や癌研究の未来でさえも、売り込みにかかっている。
企業人でさえ営業を軽んじる最も根本的な理由は、すべての分野のあらゆる段階が営業に動かされていることを、社会全体が隠そうとしているからだ。

エンジニアの究極の目標は、「何もしなくても売れる」ようなすごいプロダクトを作ることだ。
でも現実のプロダクトについてそうだという人がいたら、嘘になる。
妄想か(自分に嘘をついているか)、売り込んでいるか(自己矛盾になる)のどちらかだろう。
その対極にあるビジネスの格言が、「最高のプロダクトが勝つとは限らない」だ。
経済学者はこれを「経路依存性」によるものだとする。
製品の客観的な品質とは無関係の歴史的経緯によって、どの製品が広範に普及するかが決まるというものだ。
それは事実だけれど、だからといって今僕たちが使っているオペレーティング・システムやキーボードの配列は、単なる偶然によって押しつけられたわけじゃない。
むしろ、販売を製品デザインの一部と考えるべきだろう。
何か新しいものを発明しても、それを効果的に販売する方法を創り出せなければ、いいビジネスにはならない。
それがどんなにいいプロダクトだとしても。

どう売るか p175

差別化されていないプロダクトでも、営業と販売が優れていれば独占を築くことはできる。
逆のケースはない。
製品がどれほど優れていても、たとえそれが従来の習慣に合うもので、利用者が一度で気に入るような製品だとしても、強力な販売戦略の支えが必要になる。

二つの指標が有効な販売チャネルの条件となる。
つまり、ひとりの顧客から生涯に得る純利益の平均総額(顧客生涯価値、またはCLV)が、ひとり当たりの新規顧客獲得費用の平均(顧客獲得コスト、またはCAC)を上回らなければならない。
一般的に、商品価格が高いほど、営業コストは上がり、またコストをかけることが理にかなっている。
最適な販売手段は下の直線上のどこかにある。
コンプレックス・セールス平均販売単価が七桁を超える場合、すべての案件について隅々まで念入りに一対一の注意を払わなければならない。
顧客と良い関係を築くのに何か月もかかることもある。
売り込みに成功するのは一年か二年に一度だろう。
販売が終わっても設置やサービスなど、長期間にわたってアフターケアを行なわなければならない。
骨の折れる仕事だけれど、高額商品を売るには、こうした「コンプレックス・セールス」を行なうしかない。

スペースXは、それが可能なことを証明している。
立ち上げから数年の間に、イーロン・マスクはNASAと数十億ドル単位の契約を結び、古くなったスペースシャトルをスペースXがデザインした宇宙船に置き換えた。
こうした巨額案件では技術的なイノベーションもさることながら政治力が要求され、売り込みは簡単ではない。
スペースXは三〇〇〇人をほぼカリフォルニアの一州で雇用している。
既存の航空宇宙産業は、五〇州すべてで五〇万人以上を雇用している。
議員たちは地元に交付される補助金を失いたくはない。
でも、スペースXは毎年数件だけ売り込みを成功させればいいので、イーロン・マスクのような売り込みの超達人は、いちばんのキーパーソンたちに働きかけることに集中し、硬直した政治の壁を破ることができる。

コンプレックス・セールスは、「営業マン」がいない方がうまくいく。
僕がロースクールの同級生、アレックス・カープと立ち上げたデータ分析会社のパランティアでは、営業だけを仕事にする社員はいない。
その代わり、CEOのアレックスが月のうち二五日は外に出てクライアントに会ったり、新規顧客を開拓している。
案件の規模は一〇〇万ドルから一億ドルにのぼる。
これほどの高額案件になると、買い手は営業部門の副社長ではなくCEOと話したがるものだ。

コンプレックス・セールスモデルを持つ企業は、五〇パーセントから一〇〇パーセントの年率成長を一〇年間続ければ成功する。
バイラルな成長を夢見る起業家は、それでも遅いと感じるだろう。
明らかに優れたプロダクトだと顧客が認めれば、売り上げはすぐに一〇倍になると思うかもしれない。
でも、そんなことはほとんどあり得ない。
優良企業の営業戦略は、小さく始まるものだし、またそうでなければならない。
新規顧客が既存顧客より大きな契約を結ぶことはあっても、従来の案件規模からかけ離れた金額の契約を結ぶことはほとんどない。
そのプロダクトを使って成功した顧客の数がある程度増えたところで初めて、さらに大きな案件に向け長期的で体系的な売り込み戦略を始めることが可能になる。

個人セールス p178

ほとんどのビジネスは、コンプレックス・セールスに適さない。
一件当たりの平均販売額が一万ドルから一〇万ドル程度なら、CEOがすべてを自分で売り込む必要はない。
こうしたセールスの課題は、特定案件をどう売り込むかではなく、適正規模の営業チームを使って幅広い顧客層に商品を売り込むプロセスをどう確立するかだ。

二〇〇八年、ボックスは、安全に、しかもアクセスしやすい形でクラウド上にデータを保存する企業向けサービスを開始した。
でも、当時はまだ誰もその必要性を自覚していなかった――クラウドコンピューティングはまだメジャーではなかったのだ。
状況を変えるため、その夏に本書共著者のブレイクがボックスの三人目の営業マンとして採用された。
ボックスの営業マンたちはまず、ファイル共有の問題に誰よりも頭を悩ませていた少数のユーザーを口説き、その後クライアント企業の中でユーザーを増やしていった。
二〇〇九年、ブレイクはスタンフォード睡眠クリニックに少額のボックスアカウントを売り込んだ。
クリニックの研究者が、実験データのログを保存するための簡単で安全な方法を探していたからだ。
今ではスタンフォード大学が、大学ブランドのボックスアカウントを全学生と教員に配布し、スタンフォード病院もボックスに頼っている。
もしはじめから学長に全学的なソリューションを売り込んでいたら、失敗していたはずだ。
もしコンプレックス・セールス戦略で臨んでいたら、ボックスは失敗スタートアップとして今頃忘れられていただろう。
個人セールスがこの会社を数十億ドル企業にしたわけだ。

プロダクト自身がある種の販売を兼ねるケースもある。
ファウンダーズ・ファンドが投資するゾックドックはオンラインでの病院探しと予約を助ける会社だ。
このネットワークに加入する医師から、毎月数百ドルを受け取っている。
一件当たりの平均売上額は数千ドルで、セールスには多くの営業マンが必要になる――社内には営業マンの採用を専門に行なうチームがあるほどだ。
医師に加入してもらうことは、一度の売り上げにつながるだけではない。
多くの医師がネットワークに加入することで、患者にとってこのプロダクト自体の価値が上がる(そして患者数が増えれば、医師にとっての魅力も増す)。
すでに五〇〇万を超えるユーザーが毎月このサービスを利用している。
医師の過半数が加入するまでにネットワークの規模を拡大できれば、これがアメリカの医療産業にとっての基本的なインフラとなるだろう。

販売の落とし穴 p180

個人セールス(当然、営業マンが必要になる)と従来の広告宣伝(営業マンは必要ない)の間には、デッドゾーンがある。
たとえば、コンビニのオーナー向けに在庫と発注管理のソフトウェアを作ったとしよう。
ソフトウェアの利用料が一〇〇〇ドルだとすると、見込み客の中小企業にそれを売り込む有効な販売チャネルはないようだ。
その商品に明らかに価格以上の価値があるとしても、それをどう伝えればいいだろう?
広告宣伝は範囲が広すぎる(コンビニのオーナーだけが見るテレビのチャンネルなどない)か、効率が悪すぎる(たとえば、コンビニ専門誌の広告を見て年一〇〇〇ドルもする商品を買う人はいないはずだ)。
対人セールスが必要だとしても、単価を考えると見込み客のすべてに営業マンを訪問させる余裕はない。
大企業にとっては当たり前のツールを中小企業が使わないのは、そうした理由からだ。
中小企業オーナーが遅れているわけでも、ツールが存在しないわけでもない。
販売は隠れたボトルネックなのだ。

マーケティングと広告宣伝 p181

マーケティングと広告宣伝は、バイラルな訴求方法のないような一般大衆向けの低価格品に効果がある。
P&Gが洗剤を個別訪問販売するのは割に合わない(ただ、大手スーパーや量販店に対応する営業マンはいる。こうした買い手は一度に一万本単位で購入を決めるからだ)。
消費者製品のメーカーがエンドユーザーに製品を売り込むには、テレビCMを打ち、新聞にクーポンを載せ、目立つパッケージをデザインしなければならない。

スタートアップにも広告宣伝が効くことはある。
ただそれは、顧客獲得コストと顧客生涯価値を比べてほかのすべての販売チャネルが割に合わない場合に限る。
ワービー・パーカーは、自社デザインのおしゃれなメガネをオンラインで販売するeコマースのスタートアップだ。
価格は一〇〇ドル程度からで、ひとりの顧客が生涯に数個のメガネを買うとすると、CLVは数百ドルになる。
すべての取引に営業マンを張り付かせるには単価が低いけれど、かといって数百ドルもする品物はバイラルに広がらない。
広告を打ち、ひねりのあるテレビCMを流せば、数百万人のメガネ利用者に良質で割安な商品を紹介できる。
彼らは単に、「テレビは巨大拡声器だ」と考えている。
新規顧客獲得の予算がひとり当たり数十ドルしかない場合、できるだけ大きな拡声器が必要となる。

起業家は誰しも目立つ広告キャンペーンを羨むけれど、スタートアップは、いちばん記憶に残るテレビスポットや練り上げられたPR戦略を打ち出して大企業と延々競い合いたいという誘惑に抵抗しなければならない。
僕は経験からそれを学んだ。
ペイパルは『スター・トレック』でスコッティを演じたジェームズ・ドゥーアンを雇い、企業スポークスマンになってもらった。
パームパイロット向けの第一弾ソフトウェアの発売イベントで、ジェームズにあの有名なセリフを披露させたのだ。
「私は生涯をかけて人間を転送してきたが、今初めてカネを転送できるようになった!」
これが裏目に出た――イベントの招待客には通じなかったのだ。
僕たちはみんなおたくだったので、機関主任のスコッティの方が、カーク船長よりもエライとばかり思っていた(カーク船長はそれこそ営業マンのように、いつもどこかの珍しい惑星でドンパチやっていて、機関士に自分の失敗の尻拭いをさせていた)。
僕たちは間違っていた。
プライスライン・ドットコムがウィリアム・シャトナー(カーク船長を演じた俳優)を起用して大々的に打ち出したシリーズ広告は当たった。
ただ、その頃すでにプライスラインはメジャーになっていた。
大企業以上の広告費を出せる初期のスタートアップはない。
カーク船長はまさしく唯一無二の存在なのだ。

バイラルマーケティング p182

プロダクト自体に友人を呼びこみたくなるような機能がある場合、それはバイラルする。
フェイスブックとペイパルがあっという間に広がったはそのおかげだ――友だちと何かをシェアしたり支払いをしたりするたびに、より多くの人が自然にそのネットワークに招き入れられる。
安いだけでなく、早いやり方だ。
新規ユーザーがふたり以上のユーザーを呼び込めば、指数関数的な成長の連鎖反応が起きる。
その伝達が速くスムーズに行なわれるのが理想的なバイラルの循環だ。
つい笑ってしまうユーチューブの動画やインターネット・ミームは、すぐに数百万の視聴者を獲得する。
サイクルタイムが極端に短いからだ。
たとえば、猫を見て癒されたら、その画像を友だちに転送するには数秒とかからない。

ペイパルの最初のユーザー数は二四人で、全員がペイパルで働いていた。
バナー広告による顧客獲得はコストがかかりすぎるとわかった。
そこで、僕たちは加入者に直接キャッシュバックを行ない、さらに友だち紹介に現金を支払うことで、桁外れの成長を遂げた。
この戦略の顧客当たりの獲得コストは二〇ドルだったけれど、顧客数は毎日七パーセントずつ増加し、一〇日おきに顧客数は倍増した。
四、五か月後には数万人のユーザーを獲得し、少額の送金手数料を課金することで偉大な企業へと発展するための足場を確保した。
手数料収入は最終的に顧客獲得コストを大きく上回った。

バイラル成長の可能性があるような市場の中の、いちばん重要なセグメントを最初に支配した会社が、市場全体のラストムーバーとなる。
ペイパルはランダムに顧客数を増やすつもりはなかった――最も価値の高いユーザーを最初に獲得しようとした。
メールベースの送金市場でいちばん明らかなセグメントは、いまだに普通の銀行から故郷の家族に送金している数百万にのぼる移民たちだった。
僕たちのプロダクトなら送金の手間が大幅に省ける。
ただ、頻度が少なすぎた。
それよりもよりニッチで送金頻度の高いセグメントを探す必要があった。
それが、イーベイの「パワーセラー」、つまりネットオークションでの商品売買を生業にしている人たちだった。
当時、イーベイには二万人のパワーセラーがいた。
大半は毎日複数のオークションを行ない、販売と同時に仕入れも行なっていた。
ということは、コンスタントに送金が必要だ。
しかもイーベイの決済システムは使い物にならなかったので、こうしたプロの販売人は僕たちのサービスを熱烈に歓迎し利用してくれた。
このセグメントを独占したペイパルは、イーベイ全体の決済プラットフォームとなり、イーベイ内でもその外でも、後に追随できる会社はなかった。

販売の〈べき乗則〉 p184

ビジネスの種類によって、効果的な販売手段は異なる。
販売もまた独自のべき乗則に従っている。
ほとんどの起業家には、それがピンとこない。
コストをかければ効果が上がると考えるのだ。
だけど、何人かの営業マンを雇い、いくつかの雑誌に広告を打ち、後付けでバイラルな機能をプロダクトに付け加えるといった場当たり的なやり方には効果はない。
有効な販売チャネルをひとつも見つけられずに終わるビジネスも少なくない。
いちばんよくある失敗の原因は、ダメなプロダクトではなく下手な営業だ。
有効な販売チャネルがひとつでも手に入れば、ビジネスは成功する。
もし君がいくつか試してみてどれもものにできなければ、そこで終わりだ。

顧客以外への売り込み p185

企業が売り込むのはプロダクトだけじゃない。
経営者は企業そのものを社員や投資家に売り込まなければならない。
素晴らしい製品なら自然に売れるという嘘には、「人材」版もある。
「いい会社なら、みんなが熱烈に参加したがる」というやつだ。
その「資金調達」版もある。
「偉大な会社なら、投資家が先を争って投資する」というものだ。
こうした熱狂的なお祭り騒ぎは確かに現実にあるけれど、そこに計算された採用計画や売り込みがない限り、めったに起きるものじゃない。

マスコミへのアピールは、会社そのものの売り込みに欠かせない。
はなからマスコミを信用しないおたくたちはマスコミを無視しがちだけれど、それは間違いだ。
優れたプロダクトなら販売戦略がなくても売れると期待してはいけないように、いい会社ならPR戦略がなくても賞賛されると思い込んではいけない。
君がバイラルな販売戦略をとっていて、ユーザーの獲得にマスコミへの露出は必要ないとしても、マスコミは投資家や社員を惹きつける助けになる。
君が雇いたくなるような優秀な人物なら、事前に君の会社を調べるはずだ――そのグーグル検索の結果が、君の会社の成功に決定的な影響を与えるだろう。

誰もが売り込んでいる p186

おたくたちは、販売のことなんて考えたくもないし、営業マンをほかの惑星に追放できればいいのにと願っていることだろう。
僕たちはみんな、自分は何ものにも影響されずに判断し、営業に惑わされることはないと思いたがる。
でも、それは間違いだ。
誰もが売り込みに影響される。
社員であれ、創業者であれ、投資家であれ。
君とコンピュータしかないような会社だとしても、例外じゃない。
周りを見回してみるといい。
営業マンがいないとしたら、君自身がその営業マンなのだ。

社会起業家という神話 p219

環境テクノロジー起業家は、商業的な意味での「成功」だけを求めていたわけではなかった。
環境バブルはまた、史上最大の「社会起業」現象であり、最大のどんでん返しだった。
この慈善目的のビジネスというアプローチの根っこには、営利企業と非営利組織は対極にあるという前提が存在する。
企業には大きな力があるけれど、利益追求という足かせをはめられている。
非営利組織は公共の利益を追求しているけれど、経済全体の中では弱い存在だ。
社会起業は両方のいいところを組み合わせ、「社会のためになることをして、利益を上げる」ことを狙っている。
ただし、だいたいはどちらも達成できずに終わる。

社会的目標と利益目標の板挟みは成功の妨げとなる。
「社会的」という言葉自体のあいまいさはさらに問題だ。
「社会的にいいこと」というのは、社会のためになることなのか、それとも単に社会の誰もがいいと見なしていることだろうか?
誰もが手放しで「いい」ということは、代替エネルギーのようなありふれたアイデアと同じで、もはやただの常識にすぎない。

だから進歩を阻んでいるのは、営利企業の強欲と非営利組織の善行とのぶつかり合いじゃない――両者の共通点こそが、僕たちの足を引っ張っている。
営利企業がお互いを模倣し合うように、非営利組織も揃って同じ課題を追求する。
環境テクノロジーがいい例だろう。
あまりに広すぎる目標の名のもとに、数百もの似たり寄ったりのプロダクトが作られている。

本当に社会のためになるのは、これまでと「違う」ものだ。
それが新たな市場の独占を可能にし、企業に利益をもたらす。
最良のビジネスは見過ごされがちで、たいていは大勢の人が手放しで称賛するようなものじゃない。
誰も解決しようと思わないような問題こそ、いちばん取り組む価値がある。

p223

販売:ほとんどの企業は販売を軽く見ているけれど、テスラはそれを真剣に受け止め、自社の販売網を持つことを決めた。
独立系ディーラーに頼る自動車メーカーは多い――フォードとヒュンダイは製造だけを行ない、販売は他社に任せている。
テスラは自社の販売店で販売とサービスを行なっている。
従来のディーラー販売より初期投資ははるかに大きいが、このやり方なら顧客体験をコントロールでき、テスラのブランドを強化して、長期的には節約できる。

p236

昔から、偉人と悪人は大衆感情の受け皿となってきた。
彼らは繁栄の中では賞賛され、不運の中では責められた。
原始社会においては、ある根本的な問題が何よりも重要だった――対立を止める手段がなければ、社会はバラバラに壊れてしまう。
だから飢饉や災害やライバル争いなどで平和が脅かされると、社会はすべての責任を、みんなが納得できるようなひとりの人間に押し付けた。
それが、生け贄だった。

どんな人が生け贄になるのだろう?
創業者と同じく、生け贄になるのもまた極端で矛盾を抱えた人物だ。
一方で、生け贄は弱い者でなければならない。
犠牲者となることを自分では避けられないほど、力のない人物だ。
だけど他方で、罪をかぶって対立を和らげることができるという意味では、コミュニティの中で最も影響力のある人物でもある。

生け贄はしばしば、処刑前に神のように崇められる。
アステカ族は生け贄を神の化身と見なしていた。
生け贄は正装してごちそうを食べ、一瞬だけ王のように扱われたあとに心臓をえぐられる。
それは君主制のルーツとも言える。
王様はみな現人神で、殺されることで本物の神となる。
現代の王様は処刑の時をなんとか遅らせている生け贄にすぎないのかもしれない。

p245

アップルの価値は、ある人物のひとつのビジョンから生まれていた。
このことは、新たなテクノロジーを生み出す会社が、いわゆる「現代的」な組織ではなく封建君主制に近いことを暗に示している。
独創的な創業者は、有無を言わせず決断を下し、忠誠心を呼び起こし、数十年先まで計画できる。
逆に、訓練されたプロフェッショナルが運営する個性のない官僚組織は、ひとりの寿命を超えて存続するけれど、目先のことしか見ていない。

企業は、人々が創業者を必要としていることを自覚しなければならない。
だから、創業者の偏屈さや極端さにもっと寛容になるべきだ。
単なる漸進主義を超えて会社を導くことのできる非凡な人物を、僕たちは必要としている。

創業者は、個人の栄光と賞賛はつねに屈辱や汚名と背中合わせであり、慎重さが求められることを自覚しなければならない。

何よりも、自分の力を個人のものだと過信してはならない。
偉大な創業者は、彼ら自身の仕事に価値があるから重要なのではなく、社員みんなから最高の力を引き出せるから重要なのだ。
偏屈な創業者が必要だと言っても、誰の力も借りないで「世界を動かす」と豪語するようなアイン・ランド的創造者を崇拝すべきだという意味ではない。
偉大な作家であるランドも、この点では間違っている。
彼女が描く悪者は本物だが、英雄はニセ者だ。
「別天地」など存在しない。
誰も社会から完全に離れることなどできないのだ。
自己完結できる力を授かったと信じるのは、強い人間だからではなく、人々の憧れ――そして嘲笑――を勘違いしているからだ。
創業者にとって何より危険なのは、自分の神話を信じこみ、本当の自分を見失うことだ。
一方で、どんな企業も陥りがちな落とし穴は、すべての神話を否定して、幻想を砕くのが賢さだと勘違いすることだ。

終わりに 停滞かシンギュラリティか p247

先の先まで見つめる起業家でさえ、今後二〇年から三〇年より先のことを計画できないとすると、遠い未来について言えることなどあるだろうか?
具体的なことはわからないけれど、大まかな輪郭を描くことはできる。
哲学者のニック・ボストロムは人類の未来に四つのシナリオが考えられるとしている。

すべての歴史は繁栄と衰退の繰り返しだと古代人は考えていた。
その不運を永遠に避けられるかもしれないと人間が希望を抱くようになったのはほんの最近のことで、今当たり前のものとして享受している安定が今後も続くかどうかはわからない。

だけども、僕たちは普段その疑いを表には出さない。
一般的には、最も裕福な国の生活水準まで全世界が追いつき、その後は横ばいが続くと予想している。
このシナリオでは、未来は現在とそれほど変わらないことになる。

現代社会は地勢的につながり合っていること、また近代兵器が途方もない破壊力を持っていることを考えれば、もし大規模な社会的騒乱が起きた場合、その拡散を防ぐのは難しそうだ。
こうした恐れから第三のシナリオが導かれる。
僕らが生き残れないほどの惨事が起きる可能性だ。

いちばん予想外なのが四つのうちの最後のシナリオで、すばらしい未来に向かって加速しながら飛び立つという可能性だ。
このシナリオにはさまざまな最終形が考えられるけれど、そのどれもが現在とはまったく違う姿になるので、ここですべてを描くのは難しい。

未来はこの四つのどれになるだろう?

衰退が繰り返されるとは考えにくい。
今では文明の基礎となる知識が普及し、長い暗黒時代の末に社会が回復する可能性よりは、絶滅の可能性の方が高い。
ただし、人類が絶滅するなら、未来を考える必要もない。

今と違って見える時代を「未来」と呼ぶなら、ほとんどの人は未来を期待していないことになる。
これから数十年の間にグローバリゼーションや生活水準の収斂や均一化が起きると予想しているわけだ。
このシナリオでは、途上国が先進国に追いつき、世界経済全体が横ばいになる。
でも、本当にグローバルな横ばい状態になったとして、それは持続するのだろうか?
仮にそうなったとしても、個人や企業にとって競争はこれまでになく厳しいものになるはずだ。

ただし、稀少な資源をめぐる競争がこれに加わると、世界的な横ばい状態が永遠に続くことは考えられない。
競争圧力を和らげる新たなテクノロジーがなければ、停滞から衝突に発展する可能性が高い。
グローバル規模での衝突が起きれば、世界は破滅に向かう。

そうなると残されるのは、僕たちが新たなテクノロジーを生み出し、はるかにいい未来へと向かう、四番目のシナリオだ。
中でもいちばん劇的なケースが「シンギュラリティ」と呼ばれるもので、これは、現在の自分たちの理解を超えるほどの新しいテクノロジーがもたらす、特異点のことだ。
シンギュラリティ信奉者として名高いレイ・カーツワイルは、ムーアの法則に発想を得て、多くの分野における指数関数的成長トレンドを追跡し、人間を超える人工知能の未来をはっきりと予言している。
カーツワイルによれば、「シンギュラリティは近い」。
その避けられない特異点に向けて僕たちができるのは、それを受け入れる準備をすることだ。

だけど、どれほど多くのトレンドを追跡しても、未来は自然に起きるわけじゃない。
シンギュラリティがどのような姿になるかよりも、今の時点で最も可能性の高い正反対の二つのシナリオのどちらを選ぶかの方がはるかに重要だ。
絶滅か、それとも進歩か。
それは僕たち次第だ。
未来が勝手によくなるわけはない――ということは、今僕たちがそれを創らなければならないということだ。

宇宙規模のシンギュラリティを達成できるかどうかよりも、僕たちが目の前のチャンスをつかんで仕事と人生において新しいことを行なうかどうかの方がよっぽど大切だ。
宇宙も、地球も、国家も、企業も、人生も、この瞬間も、大切なものはすべて、取り換えのきかない「一度限り」のものだ。

今僕たちにできるのは、新しいものを生み出す一度限りの方法を見つけ、ただこれまでと違う未来ではなく、より良い未来を創ること――つまりゼロから1を生み出すことだ。
そのための第一歩は、自分の頭で考えることだ。
古代人が初めて世界を見た時のような新鮮さと違和感を持って、あらためて世界を見ることで、僕たちは世界を創り直し、未来にそれを残すことができる。