コンテンツにスキップする

「予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版」を読んだ

投稿時刻2024年2月5日 15:00

予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版」を 2,024 年 02 月 05 日に読んだ。

目次

メモ

p17

というわけで、わたしたちがみんなどんなふうに不合理かを追求しようというのがこの本の目的だ。
この問題を扱えるようにしてくれる学問分野は、「行動経済学」、あるいは「判断・意思決定科学」という。

p24

それにしても、どんな手を使ってわたしを操ったのか。
おそらく、《エコノミスト》のマーケティングの達人たちは名門校のネクタイにブレザーといういでたちが目に浮かぶ)、人間の行動について重要なことを知っていたのだろう。
人間は、ものごとを絶対的な基準で決めることはまずない。
ものごとにどれだけの価値があるかを教えてくれる体内計などは備わっていないのだ。
ほかのものとの相対的な優劣に着目して、そこから価値を判断する(たとえば、六気筒の車にどれだけの価値があるかわからなくても、四気筒モデルより高いだろうことは想像できる)。

p40

おとり効果についてもう少し説明するために、パン焼き機の話をしたい。
ウィリアムズ・ソノマ社がはじめて家庭用「ブレッドベーカリー」を売りだしたとき(二七五ドルだった)、ほとんどの消費者は無関心だった。
え、家庭用パン焼き機?何それ?いいの?悪いの?家庭用パン焼き機なんている?
それより、隣に置いてあるおしゃれなコーヒーメーカーを買ったほうがいいんじゃない?
ちっとも売れないのに業を煮やしたパン焼き機の製造業者は、マーケティング調査会社に相談し、こんな解決策を提案された。
新モデルのパン焼き機を売りだすこと。
しかも最初のパン焼き機より大型で、値段は一・五倍のモデルにする。

すると、売り上げが膨らみはじめた(たくさんのパンも)。
ただし、売れたのは大型のパン焼き機ではない。なぜだろう?
消費者が二種類のパン焼き機から選べるようになったからだ。
一方のほうが見るからに大きく、はるかに高価なため、これまでのように比べようのないまま判断しなくてすむ。
「まあ、パン焼き機のことはよくわからないけど、もし買うとしたら、小さくて安いほうかな」というわけだ。
このときから、パン焼き機は飛ぶように売れだした。

p44

このことを踏まえながら、わたしは会談した幹部に思いきって尋ねてみた。
「社員の給与データベースの情報が会社じゅうに知れわたったら、どうなると思われますか?」

幹部はぎょっとした顔でわたしを見つめた。
「わが社はたいていのことなら克服できるでしょう。
インサイダー取引も、財政上の不祥事も乗りこえられるはずです。
ですが、もし全員が全員の給与を知ってしまったら、それこそ大惨事でしょうね。
いちばんの高給取り以外は、みんな自分の給料が安すぎると感じると思います。
退職してほかの勤め先を探しかねません」

おかしな話ではないか。
給料の多さと幸福感とのあいだに、わたしたちが思っているほど強い関連がない(というより、むしろ関連は弱い)ことは、これまで繰り返し立証されている。
研究によれば、「もっとも幸福な」人々が住んでいるのは、個人所得がもっとも高い国ではないこともわかっている。
それなのに、わたしたちは、より高い給料を求めてやまない。
そのほとんどはたんなる嫉妬のせいだ。
二〇世紀のジャーナリストにして、風刺家、社会評論家、皮肉屋、自由思想家だったH・L・メンケンは言った。
いわく、給料に対する男の満足度は、(読者のみなさん、覚悟はよろしいか?)妻の姉妹の夫より多く稼いでいるかどうかで決まる。
なぜ、妻の姉妹の夫なのだろう?
それは、この比較ならぱっと目につくし、手っとり早くできるからだ(思うに、メンケンの妻は、自分の姉妹の夫がどれだけ稼いでいるかをメンケンにきっちり報告していたのだろう)。
最高経営責任者のべらぼうな報酬は、社会に悪影響をおよぼしている。
だれかがとんでもない報酬を手にするたびに、よその最高経営責任者たちは不面目を恥じるどころか、自分はそれ以上の報酬を要求しようという気になる。
《ニューヨーク・タイムズ》紙の見出しによれば、“ウェブの世界はいまや金持ちが大金持ちに嫉妬する時代”だ。

p80

ソクラテスは、吟味されない人生は生きる価値がないと言った。
わたしたちもそろそろ、自分の人生における刷りこみやアンカーをよくよく検討していいころだ。
その刷りこみやアンカーがかつてはまったく合理的だったとしても、いまも合理的とはかぎらない。
ひとたび昔の選択を考えなおせば、新しい決断に、そして新しい一日の新しいチャンスに気持ちを向けられるようになる。

p84

では、どうすればいいのか。
最適な市場価格を設定する役目を市場の需要と供給という力には任せられず、自由市場の仕組みが効用を最大にする助けになりそうにないなら、ほかの場所を探すしかないのかもしれない。
保健、医療、水、電気、教育といった社会に不可欠なものの場合はとくにそうだ。
市場の力と自由市場がいつも市場をうまく調節できるわけではないという前提を受けいれるなら、政府(願わくば分別のある思慮深い政府)がもっと大きな役割を果たして、たとえ自由企業体制を制限することになっても市場活動を部分的に調節するべきだと考える人たちの仲間入りをすることになるかもしれない。
たしかに人間がほんとうに合理的なら、需要と供給にもとづいた摩擦のない自由市場は理想だ。
とはいえ、わたしたちは合理的ではなく非合理的なのだから、政策もこの重要な要素を考慮すべきではないだろうか。

無料!のほんとうの魅力 p96

無料!の何がこんなにも心をそそるのだろう。
自分がほんとうに求めているものではなくても、無料!となると不合理にも飛びつきたくなるのはなぜなのか。

わたしの考える答えはこうだ。
たいていの商取引にはよい面と悪い面があるが、何かが無料!になると、わたしたちは悪い面を忘れさり、無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。
なぜだろう。
それは、人間が失うことを本質的に恐れるからではないかと思う。
無料!のほんとうの魅力は、恐れと結びついている。
無料!のものを選べば、目に見えて何かを失う心配はない(なにしろ無料なのだ)。
ところが、無料でないものを選ぶと、まずい選択をしたかもしれないという危険性がどうしても残る。
だから、どちらにするかと言われれば、無料のほうを選ぶ。

そのため、価格設定の世界ではゼロはたんなる価格とはみなされない。
たしかに、一〇セントの需要に大きなちがいを生むこともある(何百万バレルもの石油を売っているとすれば重要問題だ)。
しかし、無料の感動にうち勝てるものは何もない。
値段ゼロの効果は、単独で独自のカテゴリーをつくっている。

p101

数年前、アマゾン(Amazon.com)一定額以上の注文をすると無料配送になるサービスをはじめた。
たとえば、一六ドル九五セントの本を一冊買うと、三ドル九五セントの配送料がかかる。
ところが、もう一冊本を買って合計が三一ドル九○セントだと、配送料が無料!になる。

人によっては(わたし自身の経験談でもあるのだが)、二冊めはべつに欲しい本ではないのに、無料!配送があまりに魅力的で、これを得たいがために追加の本の代金を払うのをいとわない。
アマゾン側はこのサービスをはじめたことにとても満足したが、ただ一か所、フランスだけは売り上げがまったく伸びなかった。
フランスの消費者は、ほかの国の人たちより合理的なのだろうか?
それはない。
そうではなく、フランスの消費者はよそとはちがう取り決めに反応していたことがわかった。

こういうことだ。
フランス支社は、一定額以上の注文で配送料を無料!にするのではなく、一フランにしたのだ。
たった一フラン――二〇円程度だ。
無料!と大してちがわないように思えるが、これが大ちがいだった。
現に、アマゾンがフランスでの販売促進に無料配送を加えたところ、ほかの国と同じように売り上げが劇的に伸びた。
つまり、配送料一フラン――破格の値段だ――はフランス人にほとんど無視されたが、無料!配送は熱狂的な反響を呼んだわけだ。

無料!が起こす不合理さ p101

なになに、自分なら無料!を制御できる気がする?

よろしい。では問題を出そう。
無料で一〇ドル分のアマゾンギフト券を受けとるのと、七ドル出して二〇ドル分のアマゾンギフト券を受けとるのではどちらがいいだろう。
ぜひ即答を。
あなたならどちらを選ぶ?

もし無料!のほうに飛びついたとすれば、わたしたちが以前ボストンのショッピングモールで調査した人たちの大半と同じだ。
だがよく見てもらいたい。
二〇ドルのギフト券を七ドルで手に入れれば、一三ドルのもうけになる。
一〇ドルのギフト券を無料で手に入れる(一〇ドルもうける)より得なのはあきらかだ。
不合理な行動がとられているのがおわかりだろうか。

無料!の力を生かす p106

というわけで、あなたは二〇円の手数料のままで(フランスのアマゾンの配送料のように)現状を維持することもできるし、何かを無料で提供して人々の殺到を起こすこともできる。
なんと強力な概念だろう。
値段ゼロは単なる値引きではない。
ゼロはまったくべつの価格だ。
二セントと一セントのちがいは小さいが、一セントとゼロのちがいは莫大だ。

もしあなたが商売をしていて、この点を理解しているなら、たいしたことができる。
お客をおおぜい集めたい?何かを無料!にしよう。
商品をもっと売りたい?買い物の一部を無料!にしよう。

同じように、無料!を利用して社会政策を推進することもできる。
人々に電気自動車を運転させたい?登録や車検の手数料を安くするのではなく、手数料をなくしてしまって、無料!をつくりだそう。
あるいは、公衆衛生に関心があるなら、重い病気への進行を防ぐ方法として早期発見に重点をおくことだ。
人々に適正な行動──定期的な結腸鏡検査や、マンモグラフィー、コレステロールのチェック、糖尿病のチェックなど──をさせたい?自己負担金をさげて検査費用を安くするのではなく、重要な検査は無料!にしよう。

思うに、ほとんどの政策参謀は、無料!が手持ちのエースだということに気づいていない。
まして、その切り札をどう使うかなど考えてもいない。
予算削減が叫ばれる昨今、何かを無料!にするのはたしかに直観に反している。
しかし、ちょっと立ちどまって考えると、無料!は絶大な力を持ちうるし、それを利用するのは大いに理にかなっている。

社会規範から逸脱してしまったあと p124

というわけで、わたしたちはふたつの世界に住んでいる。
一方は社会的交流の特徴をもち、もう一方は市場的交流の特徴をもつ。
わたしたちは、この二種類の人間関係にそれぞれちがった規範を適用する。
また、これまで見てきたように、社会的交流に市場規範を導入すると、社会規範を逸脱し、人間関係を損ねることになる。
一度この失敗を犯すと、社会的な関係を修復するのはむずかしい。
楽しい感謝祭のディナーに謝礼を払うと申しでたが最後、義母は何年ものあいだそのできごとを根にもつだろう。
もし、恋人になるかもしれない相手に、さっさと本題にはいって、デート代を割り勘にして、ベッドに直行しようと提案すれば、おそらくその恋は永遠に壊れてしまうだろう。

p130

オープンソースのソフトウェアは社会規範の可能性を示している。
リナックス(Linux)などの共同プロジェクトの場合、オンラインの掲示板にプログラムの不具合の報告をすれば、すぐにだれかが(ときにはおおぜいが)あなたの要望にこたえて、自分の余暇を使ってソフトウェアを修正してくれる。
あなたはこの水準のサービスに見合う代金を払えるだろうか。
おそらく払えるだろう。
しかし、もし同じ力量を持った人たちを個人的に雇おうと思ったら、法外なお金がかかる。
ただし、こうしたコミュニティーの人たちは、社会全体のために喜んで自分の時間を割いている(そこから、わたしたちが友人の部屋の塗りかえを手伝ったときに得るのと同じ社会的便益を得ている)。
ここから何を学んでビジネスの世界に応用できるだろうか。
オープンソースのソフトウェアには、行動を強く動機づける社会的な報酬が存在する。
そして、会社生活でなかなか利用されないもののひとつは、社会的な報酬や名声による奨励だ。

p133

もちろん、プレゼントは象徴的な意思表示だ。
それに、なるほど給料のためでなくプレゼントのために働こうという人はいない。
ついでに言えば、ただで働こうという人もいない。
しかし、グーグル(Google)のように、社員にさまざまな特典(無料のグルメランチなどもある)を与えている企業を見ると、企業と従業員の関係の社会的な面を強調することで、いかに友好ムードが盛りあがるかがわかる。
社会規範(いっしょに何かをつくりあげる興奮など)のほうが市場規範(昇進ごとにだんだん増えていく給料など)より強い企業(とくに新興企業)が、人々からどれほど多くの働きを引きだしているかはまさに驚きだ。

企業が社会規範で考えはじめれば、社会規範が忠誠心を育てることに気づくだろう。
さらに重要なことに、社会規範は人々を奮起させる。
柔軟で、意識が高く、進んで仕事に取りかかるという、企業が今日必要としている従業員になろうと努力する気にさせる。
それが社会的関係のもたらすものだ。

p141

要するに、プレゼントは経済効率が悪いものの、社会の潤滑油として重要だ。
友人をつくったり、山あり谷ありの人生を通じて長くつづく関係を築いたりする助けになる。
お金は、ときに無駄づかいする価値がじゅうぶんにあるのだ。

p144

この原理があてはまるのはプレゼントだけではない。
多くの雇い主は、自分がいかに従業員を手厚く待遇しているか示そうと、給与明細に別枠を設けて、医療や年金や職場のスポーツジムや社員食堂にかかる金額を明記している。
いずれの項目も法で認められたもので、雇い主が実質負担しているが、あからさまに金額を示すことで、雇い主と従業員がお互いに献身しあう職場の社会的な環境が取引関係に変わってしまう。
また、こうした福利厚生の金銭的な価値を露骨に表わすのは、楽しみや意欲や職場への忠誠心の低下にもつながる。
雇い主と従業員の関係にも、仕事への誇りや喜びにも悪影響をおよぼすわけだ。

プレゼントや福利厚生は、一見したところ、資源を割り振る方法としては奇妙で効率が悪いように思える。
しかし、長くつづく関係や相互利益や肯定的な感情をつくりだすのに重要な役割を果たしていることを考えれば、企業側は福利厚生やプレゼントを社会規範の領域にとどめるよう努力すべきだろう。

p191

いまやアメリカの平均的な家族は、クレジットカードを六枚持っている(二〇〇五年だけを見ても、アメリカ人はクレジットカードの勧誘ダイレクトメールを六○億通も受けとっている)。
恐ろしいことに、平均的な家族のカード負債額はおよそ九〇〇〇ドルにのぼり、七割の家族が食費や光熱費や衣服費といった基本的な生活費をクレジットカードの借金でまかなっている。

p278

言うまでもなく、予測は食べ物にかぎったことではない。
人を映画に誘うとき、とても評判のいい映画だと言いそえれば、相手をいっそう楽しませることができる。
これは、ブランドや製品の信用を築くのにも不可欠だ。
つまるところ、マーケティングとはそういうものだ。
情報を提供することで、予測される喜びを高め、ひいてはほんとうの喜びも高めようというわけだ。
しかし、マーケティングによってつくられた予測は、ほんとうにわたしたちの喜びを変化させるのだろうか。

p316

プラセボはマーケティング担当者にとってもジレンマとなる。
マーケティング担当者の仕事には、顧客や消費者が感じる価値(知覚価値)を生みだすためにプラセボが欠かせない。
客観的に証明できる以上に製品の価値を誇大に宣伝するのは、誇大宣伝の程度によっては、真実の誇張にもなれば、まったくのうそにもなる。
しかし、これまで見てきたとおり、医療、栄養ドリンク、市販薬などに対して人々が感じる価値は、本物の価値になる場合がある。
誇大に宣伝した製品で人々が実際にもっと満足するのなら、マーケティング担当者は、ステーキを売るときにジュージューと効果音をつける以上に悪いことをしていることになるのだろうか。
プラセボや、信念と真実とのあいまいな境界について深く考えるようになればなるほど、こうした質問は答えるのがいっそうむずかしくなる。

p330

大多数の人はあきらかにこれが何かのいたずらだと考えていたいたずらかどうか尋ねる価値もないくらい、そう思いこんでいた。
ときおり学生たちは、あきらかに露店の張り紙を見たのに素通りしていった人に声をかけた。
露店に近よらないことに決めた理由を尋ねると、何か裏があるにちがいないと思ったからだという答えが返ってきた(経済学者のお気に入りの主張に、一○○ドル札が歩道に落ちていることはない、というのがある。もし落ちていれば、すでにだれかが拾っているはずだからだ)。
わたしたちには、これが根深い疑心の証拠のように思えた。