コンテンツにスキップする

「リサーチのはじめかた」を読んだ

投稿時刻2023年10月29日 14:52

リサーチのはじめかた」を 2,023 年 10 月 29 日に読んだ。

目次

メモ

p16

研究の進めかたを教える本はどっさりあるのに、自分がなにを研究したいのか見極める方法を教えてくれる本はほとんどない。
これはなぜだろう。
その理由はすぐにわかる。
人はふつう自分の「やりたいこと」を最初から知っていて、あとはそれを追究するだけだとみんなが思い込んでいるからだ。
だれでも最初からやりたいことがあって、それにはっきり気づいているとみんな思っているのである。

私たちはそうは思わない。
だれしもそれぞれにやりたいことがあるとは思うが、ただみんながみんなそれに気がついているとは限らない。
やりたいことはあっても、正確に言語化できないかもしれない。
それどころか、なにをやりたいのかまったく気がついていないこともある。
それは自分のことがあまりよくわかっていないからだったり、自分の興味があること、好きなことが「やりたいこと」の数に入るとは思っていないからだったりする。
さらにややこしいことに、自分が本当はなにをしたいのか勘違いしていることもある。
これは人が思うよりずっとよくあることなのだ。
なんと言っても、私たちはみな外的な期待 (社会や文化や家族の期待など、現実にある期待も、あると思い込んでいるだけの期待もある) に囲まれて生きているから、それを自分自身の期待だといつのまにか思い込む。
自己を省みるすべや自分を信頼するすべを学ぶより、人はもっと手っ取り早い道を選びがちだ。
他人のやりたいことを採用して、それが自分のやりたいことだというふりを一生懸命してしまうのである。

言い換えれば、どこから研究を始めるかという問いに直面したとき、人はついつい自分の外に答えを探してしまうということだ。
外的なお墨つきを求め、他人に自分の課題を決めさせてしまう。
しかし研究というものは、研究者が自分のなかにある問題を見極め、それに対してどうすればいいか考えることから始まるものだ。

生まれて初めて講義を担当したとき、私たちはそこに気づいていなかった。
そうとは知らずに、能力を十分に発揮する機会を学生たちから奪ってしまったわけだ。
自分で自分をじっくり観察する時間を与えれば、学生たちは研究者としてはるかに実りある経験ができただろう。

「自分中心的研究」宣言 p18

本書で推奨するのは、研究に対する「自分中心的」アプローチである。
研究の初期段階に着目し、研究という旅に乗り出すさいに役立つさまざまなテクニックや心構えを説明する。
これによって、正しい方向――つまり、きみ自身にとってひじょうに重要な問題――を見定めて、そちらに向かって出発することができるだろう。
さて、〈自分中心的研究〉とはなにか、なぜそれがよいのだろうか。

まず明確にしたいのは言葉の意味だ。
なにを意味するのか、そしてなにを意味しないのか、である。
〈自分中心的研究〉を定義すれば次のようになる。

1
実践の面から言えば、まさに自分がいまいる場所から研究の道程に踏み出すこと、
そして自己――自分の直感、興味、志向――との密接なつながりを終始維持することが重要だ。
「自分中心的な」研究者であるためには、どんなときも自分の二本の足でしっかりと立ち、自分のなかに重心を保たなくてはならない。
実在も定かでない外的な審判者が喜びそうという理由で、テーマや問いを選んではいけない。

2
精神的には、研究者としての自己の能力と限界を自覚し、意識的に評価することである。
自分を中心に置くというのは、自分が何者であるかを知り、自分自身の直感に耳を傾け、
それが子供っぽいとかあいまいに思えるときでも信頼し、研究を進めつつそれを深化させていくということだ。

3
考えかたとしては、課題を明確にし、研究の方向性を決めるうえで、自分のアイディア、前提、そして関心事を重視することである。
研究者としての自分の関心と動機をよりよく (そしてより短期間で) 理解できれば、
きみにとって、そして広く世界全体にとっても研究する意義のある問題を、よりうまく (そしてより短期間で) 発見できるだろう。
その問題はしかし、だれよりもまず研究者本人、つまりきみにとって重要なものでなくてはならない。
〈自分中心的研究〉とはなにかについて述べたので、次は「なにではないか」を明らかにしていこう。

〈自分中心的研究〉とは、エゴのたかを外す (というかエゴを膨張させる) という意味ではない。
自分を中心に置くとは、自分のことしか考えないとか、自惚れるとか自己満足とか、他人に頼らないとか、逆に自分に甘くて自分勝手とか、要するに利己的という意味ではないのだ。

まったく逆である。
自分中心的な研究者はたえずわが身をふり返り、自分で自分を批判しつづける。
自分の興味や動機や能力について嘘をつかず、自問自答をくりかえしている。
しかし、他者の意見の妥当性を評価できるだけの公平さと自信も持ちあわせている。
つまり、広く認められた常識に挑戦する能力があるということだ。
そしてその「常識」には、自分でも気づかないうちに信じ込んでいた根拠のない考えも含まれる。

また、〈自分中心的研究〉とは自伝的な研究という意味ではない。
きみの書く論文や記事やレポートや本が、きみの人生を物語っているということではないのだ。
ドキュメンタリーを制作しても絵を描いても、なんでも自画像になるわけではないのと同じだ。

〈自分中心的研究〉の最終目標は、従来どおりの研究と同じく、私たちを取り巻くこの世界の一面について、
実証的で、根拠があり、理論的に裏づけられた、説得力のある研究成果を生み出すことであり、また他者の考えかたをもそれによって変化させることだ。
しかし、他者にとって真に重要な問題を見極めて解決するためには、だれよりもまず自分にとってそれが重要なでなくてはならない、というのが自分中心的研究の考えかたである。

要するに、ちょっとした好奇心とか「いい思いつき」、あるいは第三者から割り当てられた仕事とか、そういうものを研究の焦点に据えてはいけないということだ。
これはすぐれた研究成果を生み出すための第一の必須条件である。

以下では、問いきみにとって重要な問いをどのようにして生み出すか順を追って見ていこう。
そしてきみの情熱と努力を通じて、それが他者にとって重要な問いともなり得ること説明する。

p22

研究プロジェクトを生み出す秘密の方程式を知っているなどと言うつもりはない。
なにを研究すればよいか教えることはできない。
本書で教えられるのは、いくつかの問いを立てることできみのなかに潜在する研究課題を発見し、
そこから実際に研究プロジェクトを立ち上げる、そこまでの道のりをスムーズにたどるのに役立つ具体的なテクニックだ。

ということで本書の目的は、きみの心に火ジャズドラマーのバディ・リッチが天才を評して言った言葉を借りるなら、「みずから点る火」――をつける理想的な条件を生み出す手助けをすることだ。
それだけではなく、複雑で不確実であいまいな状況において、バランスと明晰さをいかに保つかについても説明する。
また、非生産的な不確実性 (まちがった道に踏み込んでいて、引き返したほうがよさそうだという場合) と、
生産的な不確実性 (道に迷ったように感じるかもしれないが、内なる直感と叡智が先に進めと励ましている場合) とをどうやって見分けるかについても教えよう。

p23

本書は、なによりもまず実践的であることを目指し、次のような場面で確実に役立つ具体的なテクニックを紹介する。
・研究テーマを選択する。
・そのテーマから具体的で面白そうな問いを生み出す。
・その問いが生まれるもとになった潜在的な問題を明らかにする。
・そのテーマに関して自分のなかにある (かもしれない) 思い込み、偏見、先入観を明らかにし、対応策を講じる。
・その問題に関わる利害関係を明確にし、競合する利益と関心に優先順位をつける。
・同じ「テーマ」 (つまり、きみの「専攻」や「分野」) を扱っている研究者と広く接触し、その仕事について知る。
・自分の専門分野の外に目を向け、関連する研究者コミュニティを見つけてその関連性を調べる。
・研究プロジェクトに役立ちそうな資料を探す。
・見つかった資料をもとに問いに磨きをかけていく (とくに予備調査段階で) 。
・プロジェクトの初期段階は迷いの出やすい危険な時期だから、その間に遭遇する精神的なつまずきの石に対処し、前進の勢いを維持する。
・研究者として、頭の柔らかさとフットワークの軽さ、鋭い観察眼と熱意をもちつづける。

このような能力はどこでも不足している。
ここでは学問の世界の言葉を使っており、論文だの学位だの、学生や講義や教師について語っているが、このような能力はさまざまな分野や職業でも広く求められる重要なものだ。
以下で紹介する考えかたや演習は、ビジネス、ジャーナリズム、アート、デザイン、エンジニアリング、コミュニティ構築、起業などにも応用できる。
本書でとりあげる能力は調査研究の基本だから、どんな分野や専門レベルの人にでも役に立つだろう。

反響板 p30

〈反響板〉に自分のアイディアを投げかけるのはときに役に立つ。
ここで言う〈反響板〉とは、教師や師匠、友人、研究仲間など、相談相手になってくれる人のことだ。
相談するときになにに気をつけたらいいか、本書では具体的な方法を提案する。
〈反響板〉に向かって話すのは、自分のアイディアや文章をべつの角度から見直すことにつながり、自分自身を客観的に見直すのにも役立つ。
自分のアイディアについて話すうちに、最初は気づかなかった側面が見えてきたり、知らず知らずにやっている自分の考えかたの癖が見つかったりするかもしれない。
〈反響板〉は自分自身を見つめなおし、よりよい決断を下すのに役立つから、研究の初期段階で信頼できる人と話すことをぜひ習慣化しよう。
〈自分中心的研究〉をマスターすれば、いずれは自分で自分の〈反響板〉を務める能力も身についてくる。

〈反響板〉を用いるさいには、ひとつ重要な点に注意してほしい。
教師や相談役などの権威ある人物からの善意の提案――つまり、どんなことを「研究できる」か、あるいは「研究すべき」かというは、研究の初期段階において非常に大きな影響力を持つことがある。
迷っていたり、萌芽的なアイディアの価値にまだ自信が持てなかったりしていると、上司や教師からの提案 (高飛車な提案ならとくにそうだ) は命令のように感じられがちだ。
あるいはそれが安全ネットになってしまい、「これよりよいのは思いつきそうにないし、もうこれでいいじゃないか」ということになってしまったりする。
親切に指導してもらうのは、手っ取り早く話を先に進める便利な方法に思えるかもしれない。面倒な自問自答などすっ飛ばすこともできる。
信頼できる相談相手が重要だと言ってくれた、できあいのアイディアに飛びついてしまっても、なにも問題はなさそうに思える。
しかし残念ながら、それが足かせとなって逆効果をもたらすことがあるのだ。

私たち自身、指導者として何度も経験がある。
最初に私たちが何気なく口にしたアイディアに、学生たちは足をとられてしまう。
そんなときには、数か月後に出てきた論文を見て、ほんとうにこれが書きたかったのかと納得できない思いをすることになる。
それで最善の結果が得られることはまずない。
研究で重要なのは安全策をとることではなく、危険を恐れず前進して、新しいものを発見し創造することだ。
指導者にアドバイスを求めれば、他の人と同じ道をたどって同じ結論に至るといった、むだなことをせずにすむ場合もあるだろう。
しかし、きみが研究プロジェクト案を持っていって「これでいいと思いますか」と尋ねたら、真の指導者の答えはただひとつ――「きみはそれでいいと思うの」である。

経験から言うと、時間をつぎ込んでも答えを見つけたいと心底思う課題でないと、よい成果をあげるのはもちろん、最後までやりとげるのすらむずかしいものだ。
だから〈反響板〉と話をする前でも、また研究資料に真剣に取り組む前であっても、本書の第1部に書かれたステップに従って、自分の中心を見極めることがたいせつだ。

p35

本書の各セクションには、この「はじめに」もそうだが、
書く作業や演習がかならずあって、研究の目標や優先順位や計画について考えているうちから、さっそく書き始められるようになっている。
本書を通じて何度も力説することになるが、研究は直線的に進められるものではないから、
いまやっている書く作業も「下書き」ではなく、あとで捨ててかまわないむだな落書きを生み出しているわけではない。
肩慣らしではないのだ。
いま書いているメモも研究の核となる作業、すなわちアイディアを生み出し、記録し、検討し、新たな情報に基づいて修正し、疑問を解消してより正確に表現する方法を、たえず探しつづける作業の一部なのだ。

p36

よくある失敗
人のために書いてしまうこと。
このプレインストーミングでは、人を感心させる必要はないし、重要そうに聞こえる必要も、目標を合理化する必要もない。
自分が研究したいこと思うことをそのまま書けばいいのだ。

p45

学生はトムを説得しようとまた全力で説明を始め、「賢そうに聞こえる」理由を片っ端からあげていった。
たとえば「文献にはギャップ」があるとか――これは学問的な隠語のようなもので、「知識の地図にまだ埋められていない重大な空白がある」という意味だ。
その歴史地図を埋める「介入」として風水は有望ではないかと思う、とも学生は言った。
これまた学者の世界でよく聞かれる隠語だ。
要するに、この学生はトムと業界用語で話をしようとしていたのだ、指導教官は学者だからそういう用語を使えばうけると思って。

それでもまだ疑問は晴れない。
「文献にギャップ」があるというのは、もっかのテーマが疑う余地なく重要であり、それに取り組む必要があるということを前提にしている。
しかし、だれにとって、なぜ重要だというのか。
そもそも人間の知識には「ギャップ」などいくらでもある。
なぜこの特定のギャップを埋めようと言うのか。

こんなふうに問われて詰まってしまうのは、たんに学生が「経験不足」だからだと片付けることはできない。
ほとんどの研究者は (どんなベテランでも) 本能的に、まだ考えついたばかりの研究案を「重要」だとか「意味がある」といった用語を使って正当化しようとする。
架空の、そして外部の審判によってそう評価されているというわけだ。
しかしそもそもからして、ここで必要なのは外部の審判などではない。
研究プロジェクトの最初期の段階で必要なのは、きわめて個人的な問いに答えることだ面白そうな研究テーマはいくらでもあるのに、なぜ私はとくにこのテーマに惹かれるのか。
言うなれば、このテーマは私とどんな関係があるのか。
なぜ私はこれが気になってしかたがないのか。

ここに来て無視できないほどの間があって、学生の雰囲気が変化した。
口調がやわらぎ、声も少し穏やかになった。
肩から力も抜けたようだった。
教授を感心させるために、学生がパフォーマンスをしているという印象が急に薄れた。
話しぶりもあけっぴろげになり、打ち明け話でもするような雰囲気にになってきた。
学生は心底からの理由を言葉にすることにし、賢そうにふるまうのをやめて、ほんとうに賢い自分をさらけ出しはじめたのだ。

「私の母は弁護士です」と学生は続けた。

「高い教育を受けているし、こんなに合理的な人はいないってぐらい合理的な人です。
ぜんぜん迷信深い人じゃありません。
なのに風水を信じてるんです――本気で信じてるんですよ。
それが私には理解できないんです」

そのとたん、これまでとは違う質問が次々に飛び出してきた。
「合理的」な人はほかにどんなことを信じないと思う?
瞑想とかヨガとか、リフレクソロジーとか、数秘術とかは?
心理学とか、経済学なんかもどう?
その「合理的かそうでないか」の境界を決めるのはだれ、またはなんだろうか。
その境界は世界じゅうどこでも同じだろうか。
そういう合理性に関する見かたは、歴史的に見てどんなふうに、いつ形をとってきたのだろうか。
そしてそれはなぜか。
ほかの時代、あるいはほかの文化の一次資料を見たらなにがわかるだろうか。
それはそうと「合理的」とはどういう意味だろう。
どうして私はその言葉を使っているのだろう。
「合理性」は論理に依存していて、風水は非論理的だと私は思っているのだろうか。
それとも、風水と合理性は相容れないと思う理由がほかにもあるのだろうか。

まるで眩しい都会の照明から逃れたようだった。
ふと気づけば、頭上は満天の星だったのだ。
質問はさらに続き、学生のノートはいっぱいになっていく。

p57

ステップ3:
検索結果が得られたら、それがどんな結果であってもやることは簡単だ。
スクロールしてなにが引っかかってきたか眺めて、いくつかクリックして読んでみよう。
これらのサイトではオリジナルの文献が表示されることはまずなく、たいてい登録されたタイトルが見られるだけだ。
しかし全文が表示されたとしても、現時点ではあまり長いことひとつの文献にとらわれないようにしよう。
いまはまだ精読のときではない。

ではなにをするかと言うと (ここが肝心な点だ) 、検索結果をスクロールしながら、自分が心電計につながれていると想像するのだ。
体内を流れる電気信号が、それを読んだときにどう変化するか記録しているというわけだ。
わずかでも心拍数があがった一次資料があれば、それを書き留めておこう。
また、いかなる点でもなんの影響も受けなかった資料はどれだろうか。
それもメモしておこう (少しあとで、きみにとってなにが退屈かということも調べるから) 。

もっかの目標は、先にも述べたように、読んでいるときの「自分を読む」ということだ。
検索結果に目を通すさいには、リンクをクリックしたり文献を拾い読みしたりするのには脳のエネルギーの二〇パーセントを充てるだけにする。
残りの八〇パーセント (にして重要な部分) は、その文献を見ているときのきみ自身を観察することに充てなくてはいけない。

なぜそんなことを気にするのか。
それで研究の方向性を発見することにいくらかでも近づけるというのだろうか。

ここでちょっと考えてみよう。
人間の五感は日々あまりに多くの刺激にさらされているため、人はその視覚的・聴覚的・嗅覚的情報をほとんど無視している。
常にそれらの刺激のすべてに注意を払おうとしたら、神経系はパンクしてしまい、簡単なことすら実行できなくなってしまうだろう。
その結果人の身体は、なにを無視すべきか判断する高度なふるい分け装置に進化してきた。
つまり人の心身は、見ない感じない嗅がない聞こえない味わわないという驚異のマシンに進化したというわけだ。

人が刺激をいかに巧みに「無視する」かを考えると、逆になにかに気づいたときは、それがどんなに些細な、つまらないことであっても、自分がなにかに気づいているということに気づいてしかるべきだ。
この種の自分証拠は、心の奥底の興味や好奇心を知る手がかりになるかもしれない。

簡単に言えば、きみの心がなにかに (それがなんであれ) 気づいたときは、そこにきっと問いがあると考えてよいということだ。
たとえそれがどんな問いなのかわからないとしてもである。

このような手がかりに注目することを学び、さらにそれがどのような問いの存在を指し示しているか明らかにすることを学ぶなら、
漠然としたテーマから出発して、発展性のある具体的な問いを生み出すまでの道のりを、素早くむだなく進んでいくことができるようになる。

「自分がなにに気づいているか気づく」のは、ときに驚くほどむずかしいものだ。
自分自身の声によくよく耳を澄ましていなくてはならない。
というのも、なにか気づくというのはたいていそれほどドラマチックなできごとではないからだ。
天啓はつねに大音響で降ってくるとは限らない。
かすかな息のように「ふうん」と声が漏れるだけかもしれない。
「エウレカ!」の瞬間には無言のことすらある。
ちょっとにやりとしたり、眉間にしわを寄せたり、画像や文章の一部にふだんよりほんの少し長く目を留めているだけだったり。
ソニックブームの轟きを聞くのに手助けは必要ないが、ここでのきみの目的は、むしろごく微弱な重力波を検出することに近いのだ。

p62

ステップ6:
項目のリストを片付け、まる一日見ないようにしておく。
文字通りだ。
この本もパソコンも閉じて、二四時間後にタイマーをセットしておこう。

反響板 研究ネットワークの構築に着手する p77

ここまで、きみは自分ひとりでかなりの成果をあげてきた。
テーマや問いについて考えてきたし、三つの演習をこなしてテーマに基づく新しい問いを生み出してきたわけだ。

ここまでに生み出してきた問いを用いて、知人と話し合いを始めてもいいころだ。
研究ネットワークの構築に取りかかろう。
研究を進めるさいに相談したりアドバイスを求めたりできる人々のコミュニティを作るのだ。
教師や同僚、学生、研究仲間など、定期的にきみと意見交換をすることができ、またそれを迷惑がらないと思われる人々のリストを作ろう。
ほとんど自分ひとりで研究を進める研究者もいるが、頼れる〈反響板〉はよい触媒になってくれるものだ。

〈反響板〉候補にあげた人々のうち、数名の名前を丸で囲もう。
この章を読みながら作成した問いをいくつか選んで、その人たちに相談を持ちかけてみよう。
結論を出そうとしてはいけない。
〈反響板〉に対して、どの問いが「一番」か決めてもらおうというわけではないのだ。
研究課題を決めたいわけではないと説明しよう。
いまはまだあれこれ探っている段階なのだ。
目標は、きみの考えをその人たちに知ってもらうこと、そして研究のアイディアを言葉で伝える作業に取りかかることだ。
きみはすでに考えを文字にする作業はある程度進めているのだから。

事前に質問を送っておくのもよいが、なるべくくだけた会話になるよう心がけることだ。
「私の立てた問いはいい問いでしょうか」と尋ねるのではなく、「これらの問いからどんなことを連想しますか」とか「これらに関連して、ほかにどんな問いを思いつきますか」と尋ねよう。
少し時間をかけて、あるテーマについていっしょに問いを考えてもらうのだ。

お礼を言うのを忘れずに。
あとでまた助けてもらうことがあるかもしれないし。

p82

本章の目標は、きみの多くの問いの根底にある問題を見極め、正確に言語化することだ。
これができれば、よりよい問いを立て、より意義のある研究を行なえるようになるし、それをいっそう巧みに行なえるようにもなるだろう。

問いに飛びついてはいけない (問題をとらえ損なうことになる) p82

問いを立て、分析し、磨きをかけ、また追加していくうちに、疑問が湧いてくるかもしれない。
自分の〈問題〉を見つけたとき、どうしたらそれとわかるだろうか。
私にはほんとうに「問題」なんてものがあるのか、たんにでたらめな問いを積み重ねているだけで、いつまでたってもまったくモノにならないのではないか。
たしかに、人はさまざまなことに興味関心を持つか、そのすべてについて研究プロジェクトを立ち上げるわけではないし、またそんなことをしてもしかたがない。

問題とでたらめな好奇心の集まりとを見分けるなら、簡単な方法がある。
それが日ごと過ごと月ごとに変化していくなら、一時的な好奇心に過ぎない可能性が高い。
しかしそれがずっと変わらないなら、たぶん問題だと思っていいだろう。

問題とは、きみのなかにある厄介な存在だ。
きみの邪魔をし、悩ませ、いらいらさせると同時に、惹きつけ、駆り立て、気になってしかたのないものだ。
それはきみの心中に問いを生み出すものであり、どんなにバラバラで無関係に見えたとしても、きみ自身はなんらかの形で相互に関連しているとわかっているその理由を説明できないとしても。
問題はいつもきみについてまわる。
きみがフランスの歴史学者であろうと、フィリピンの社会学者であろうと、あるいはインドの文学研究者であろうと関係なく、問題はきみに自分を解決せよと要求しつづける。
きみの仕事は、その問題に名前を与えることであり、きみの個人的な能力と制約に基づいて、きみに研究できるその問題の事例を特定することであり、そしてその事例をどのように研究すれば、広範な解決策にたどり着けるか考えることだ。

問題の研究には、問いを立てることが必要なのは言うまでもないが、例によって言わずもがなのことを言うようだが、問いは問題ではない。
答えは出せるけれども、それが問題の解決につながらない、そういう問いはいくらでも考えつくだろう。
そんな無益な問いを立てたりそれに答えたりするのは時間のむだだから、その問いが本当に問題から発するものかどうか確かめよう。
問いに飛びつかないのが重要だというのはそのためだ。

p85

「結論に飛びつく」べきでないのはみんな知っている。
これは偏見や早とちりによって引き起こされる行動だ。
人が結論に飛びつくのを見たことがない人はいないだろうし、だれでも一度はやらかしたことがあるだろう。
じゅうぶんに時間をかけて考えてもいないのに、こうだと決めつけて議論をしたり仮説を立てたりする。
そしてその結果、まちがってしまうというわけだ。

研究の初期段階では、問いに飛びつかないよう注意しなくてはならない。
これまでにきみは多くの問いを立ててきたわけだが、いま危険なのは、先に進まなければと焦るあまり、せっかちに問いのひとつを選んでしまいたくなることだ。

きみの問いは?
ほかの人たちからそう訊かれるだろうし、しまいには頭のなかの小さな声からもそう訊かれるようになるだろう。
その声は、プロジェクトにはただひとつの〈問い〉が必要だ、早く決めなくてはならないときみに思わせようとする。

この「ひとつの問いに飛びつく罠」は、「テーマを絞り込めの罠」と同じくらい有害だったりするものだ。

ある問いに飛びつくのは、地盤を調べずに家を建てるようなものだ。
設計図はみごとで、敷地は広々としていて、息をのむような眺望に恵まれていたとしても、砂地のうえに家を建ててしまったら、砂が流れた時には大問題が生じることになる。
その問題が表面化するころには、改修しようとすれば莫大な費用がかかり、かといって引っ越すこともできなくなっているかもしれない。

キーワードと検索の記録を残す p104

キーワードを次々に見つけて試していると (たとえ小規模なプロジェクトでもキーワードの数は数百にものぼったりする) 、なにをどう調べたか忘れてしまって、すぐに収拾がつかなくなるものだ。
というわけで、この作業にはもうひとつ欠かせない側面がある。
それはすなわち、記録管理というぱっとしない世界だ (やれやれ) 。

このキーワードでもう検索はしたっけ。思い出せない。
このデータベースでこのキーワード検索はやったっけ。どうだったかな。
このデータベースでこのキーワードの検索を最後に実行したのはいつだっけ。さあねえ。

重大な取りこぼしをしてしまう危険はつねにある。
データベースは絶えず更新され拡張されているし、プロジェクトは完了までに何か月 (あるいは何年) もかかることがあるからだ。
また、すでにやった検索をまたやってしまって、何時間もむだにする破目になるのは容易に想像がつく。

幸い、この問題は簡単に解決できる。
表を使って検索の記録を残すのだ。
やることは以下の三つだけである。

1
各行の左端に、使おうと思っているキーワードを入力する。

2
列のヘッダーに、調べる予定の電子データベースや図書館のカタログをすべて入力する。

3
検索を実行したら、該当するセルに記録を残す。
検索した日付を入力し、場合によってはヒット件数を簡単にメモしておいてもいい。

これだけで大幅に時間を節約することができ、よりよい研究結果を出すことができる。
どの検索を実行したか、まだ実行していないか、いつでもひと目でわかるからだ。

p119

問題は簡単に消えたりしない。
むしろいつまでもしつこく残りつづけるものだ。
あっさり厄介払いしたり無視したりできるものではない。
フリーダ・カーロがシュールレアリスティックな自画像を何枚も描いたのは、問題に突き動かされていたからだ。
音楽の世界で言えば、ジョン・コルトレーンが『至上の愛』を作り、ビリー・ホリデイが「奇妙な果実」を歌ったのも、やはり問題に突き動かされていたからだ。
ボブ・ディランが「青の時代」に突入したのも問題のせいだ。
研究者もまったく同じである。

問題はよいものだ。
問題があるのはよいことだし、そのことで気を揉むのも、くよくよ考えるのもよいことだ。
私たちが抱えて歩く問題は、生産的な摩擦と考えることができる。
この現実にぶつかったり擦れあったりして生きていく、そのさいに生じる摩擦なのだ。

とはいえ、最終的な決定を下すことができるのはきみだけだ。
これまでに作ってきた興味深い問いの集まりがひとつの問題にまとまるか、それともひじょうに高度で面白いとはいえ、たんなる興味関心の雑多な集まりに過ぎないのか、それがわかるのはきみだけなのだ。

複数の問題にたどり着くかもしれないが、今のところは一度にひとつずつ取り組むことにしよう。
他の問題をどうするかについては最終章で説明する。

一次資料とその使いかた (あるいはシリアルの箱を読む五〇の方法) p122

独自の研究に資料は必要不可欠だから、資料をどのようにして見つけ、評価し、用いるかというのは、決しておろそかにできない実践的な問題だ。
資料は通常大きく二種類に分けられる。
すなわち一次資料と二次資料だ。
たいていの参考書では、一次資料は「原資料」または「生の資料」と定義されている。
研究者はそれを証拠として用いて、現実に関する主張や仮説、理論を展開・検証する。
なにを一次資料とするかは、研究分野によって違ってくる。
歴史の分野なら、手紙や地図などの文書であれ、その他の物理的な遺物であれ、いずれにせよ対象とする時代のものである場合が多い。
人類学なら口頭での証言とか録音に頼ることになるかもしれない。
また文学や哲学などの分野であれば、一次資料はたいていテキストになる。

どの参考書を見ても、二次資料は同じように定義されている。
たとえば『リサーチの技法』 (原題 The Craft of Research, 4th edition) では、
二次資料を定義して「一次資料に基づく書籍、論文、記事などで、学者あるいは専門家を読者として想定しているもの」とし、
研究者が「その専門分野の動向を知り」、「他の研究者の結論あるいは手法に反論したり、あるいはそれを発展させたりする」ことによって「新しい問題を作り出す」ために利用するものと述べている。

こういう定義が間違っていると言いたいわけではないが、ベテラン研究者ならよく知っている危険性、
つまり「一次資料」と「二次資料」の定義を絶対視することの危険性についてここで強調しておきたい。
私たちが声を大にして言いたいのは、一次資料は文書庫やオンラインのリポジトリで見つかる遺物や文書だけではないし、
また二次資料は一次資料を「用いて」得られる研究結果、つまり原材料を加工してできた完成品ばかりではない (このたとえをあくまで用いるなら) ということだ。
「一次資料」という言葉を聞いて、古びた写本やセピア色の写真、古代の陶器の破片、何百年も前の新聞の切り抜きなどを思い出すとしたら、そういう考えかたはそろそろ改めたほうがよい。

p123

資料の定義を絶対視することは、一次資料を特定し、また研究上の問いを立てるさいの妨げになる。
その理由は次のふたつだ。

1
どんな資料でも、プロジェクトによっては一次資料とも二次資料ともなりうるし、またまったく資料として使えない場合もある。

2
資料の種類は、答えようとしている問いや、解決しようとしている問題との関連性によってのみ決まるものだ。
一次か二次かという種別が最初から決まっているわけではない。

p139

実際には、ありとあらゆる一次資料のうち、デジタル化されているのはごく一部だ。
トムの勤めるスタンフォード大学の図書館は、デジタル化に関しては世界でもとくに進んでいる機関だ。
にもかかわらず、スタンフォード大学の所蔵する何百万という文書や写本資料のうち、デジタル化されているのは約一パーセントにすぎない。
残りはアナログのまま、つまり物理的な形のままなのだ。
一部はこれからもずっとそのままだろう。
オンラインやキーワード検索にばかり頼っていると、役に立つかもしれない資料の九九パーセント以上が手付かずのままということになる。
目にすることも、おそらくはその存在を知ることすらないまま。

p166

性格。
とくに抽象的でありながら重要でもある要因のひとつに、きみ自身の性格がある。
人の感じかたを「外向的」と「内向的」のふたつに分けるのは大雑把すぎるが、ともあれ次のような重要な問いに答えてみよう。
どのような状況できみのなかのバッテリーは再充電され、どのような状況だと消耗するか。
人と頻繁に接触すると元気が出るか、それともひとりで仕事をするほうが好きか。
これを念頭において、自分の研究でどのような調査が必要になるか現実的に考えてみよう。
長期間ひとりで文献を読むことが必要か。
それとも朝から晩まで研究室での作業やフィールドワークが必要で、ひとりの時間はないも同然なのか。

ここで重要なのは、自分自身、自分の人格や能力について「本質主義」に陥らないことだ。
いま自分で自分がどんな人間だと思っているかにかかわらず、研究の影響力は極めて強く、限界に挑戦するよう研究者を促し、変容させることすらあるということを忘れてはいけない。
だから、そんな一面が自分にあるとすら思わなかったような面が引き出されたとしても驚くことはない。
同様に、プロジェクトが重要だと思うあまり (それぐらい研究に打ち込んでしまって) 、今回に限っては少々の不快などどうでもいいと感じられることもある。

これは憶えておいてほしい。
自分自身の限界を認識し、それに応じて行動するのは悪いことではない。
自分が傷つくようなプロジェクトは追求しないと決めるのも、同様に悪いことではない。

そして何より、これは忘れないでほしい――あるプロジェクトを実行しないと決めた場合でも、それは自分自身、あるいは自分の抱える根源的な問題を放棄するということではない。
先にも軽く触れたし、本章のあとのほうでもっとくわしく見ていくが、別のプロジェクトにきみの〈問題〉を見出し、
それを追求することで、同じように有意義な研究を同じように厳密に行なうことも可能なのだ。

作業場を用意する p179

研究者は職人だ。
職人である以上、自分の好きなように作業場を整えることが重要だ。
本職の芸術家や音楽家の友人がいる人は知っているだろうが、かれらは楽器や道具や仕事の習慣について話すのが大好きだ。
画家は理想の絵筆を探し、バイオリニストは理想の弓を、オーボエ奏者は理想のリードを、ギタリストは理想の弦を探し求める。
同じことは、料理人と包丁、釣り師とルアー、機械工と機械についても言える。

じっくり時間をかけて作業環境を整えれば、自分で自分に感謝することになるだろう。
きみはその物理的空間で、その道具を使って長時間過ごすことになるのだ。
第1章で問いは小さくと説明したのを覚えているだろうか。
作業場を整えるときも細かいところが重要だ。
一見すると些細な事でも、適切に整えれば、やる気や生産性や幸福度の増大という利益が得られる。
条件に配慮するのは決してつまらないことではない。
それは、きみの幸福ときみの成功に影響を与えるからだ。

手持ちの資源と達成したい内容を考えて、どの道具に投資する価値があるか評価しよう。
何時間もの調査が必要なら、マイクやレコーダー、そしてデータの保存と検索のシステムが必要だ。
フィールドでボイスメモを作成するなら、音声をテキストに変換する信頼性の高いソフトウェアと、長持ちするバッテリーにお金を使うほうがいいだろう。
コンサートピアニストは、私たち一般人が自動車の購入に使う (あるいは使える) よりも多額の金をピアノに惜しみなく注ぎ込むものだ。
これは、ピアニストにとってはピアノは贅沢品ではないからだ。
潤沢な資金のある研究者なら、助手を雇うことでより大きな成果をあげられるかもしれないが、これはだれにでもできることではない。
なにが必要か (欲しいかは二の次) を考えて、「いまここでは、これが私にとって完璧」と言えるように作業環境を整えよう。
しっくり手になじむ皮むきナイフや毛筆があれば、料理をしたり作品を制作するのがそのぶん楽しくなるし、
やる気も出るし、楽々とできるような気さえするものだ。
研究者のきみにとってもそれは同じだから、自分の道具や作業場について考えるのを怠ってはいけない。

というわけで、きみの作業場をスムーズに運営するのに必要なものをいくつか紹介しよう。

適切な道具 p181

手書きの場合は、ペンや鉛筆は慎重に選ぼう。
鉛筆の芯はきみに合っているだろうか。
硬すぎたり折れやすかったりしないか。
ペンと紙が合っていなくて、滑ったり引っかかったりしないか、インクがこぼれて汚れたりしないか (そしてそれが気にならないか) 。
書いていてどれぐらいで手が疲れるか。
また同様に、字を書く気分になるためには二五ドルの革装のノートが必要か、
それとも近所のドラッグストアでビニール袋に入って二ドルで売っているルーズリーフ紙で十分か。
このような選択も大きな影響を及ぼすことがある。
革装の立派なノートだと、ちゃんとしたものを書かなくてはという気持ちになり、より多くのエネルギーを注ぐことができるかもしれない。
よい意味で「スローダウン」して、もっと自分のアイディアをじっくり時間をかけて考えようという気になるかもしれない。
その反面、革装のノートは恐れ多い感じがし、その値段や装丁の前に物おじして気軽にものが書きにくいかもしれない。
つまらないことを書くんじゃないぞと言われているかのようだ。
ちょっとした思いつきなど、もったいなくてこのノートには書けないと思い、
本当に書く「価値のある」ことを思いつくまで、この綺麗なページは汚さないでおこうと考えてしまう。
しっかり考え抜かれたことを、磨き抜かれた文章で書かなくてはならない。
下書きや断片的な考えでページを汚すなどもってのほかだ。
これでは用紙の選択で大失敗である。
文章を書いたりメモをとったりするのはそれでなくてもむずかしい。
さらにハードルをあげる必要はないだろう。
というわけだから、紙やノートはあまり高級品でないほうが無難かもしれない。

こういうことはどれも取るに足らないことと思えるかもしれないが、
作業環境に関することはどんなことでも、書きたいという欲求や、やる気の持続時間、それどころか文章の質や調子にまで影響を与える。
ちっぽけなメモ帳のように、無意識のうちに余裕がないとか窮屈だとか感じさせる道具を使っていると、それがきみの仕事に影響を及ぼす。
アイディアを大きく広げにくくなったり、やたら短い文章しか書けなくなったりする。
同じように、面倒で不便な道具 (Wi-Fiに接続していないと書けないアプリとか、持ち運びしづらい大きなスケッチブックなど) を使っていると、どうしてもメモを取るのがおっくうになってしまいやすい。
芸術家や音楽家や職人と同じように、研究者であるきみも道具にこだわるのは当然のことだ。

適切な時間帯 p182

いつ書くべきか。
具体的に言えば、どの時間帯をどのような文章を書くのにあてればいいのだろうか。
答えは人によって大きく違うが、一応経験則を言えば、元気で集中力がある時は「取りかかりづらいこと」をやり、
疲れたり注意力が落ちている時には「頭を使わない」仕事をしよう。
午前中や深夜に頭が冴えるという人は、その時間帯に新たに文章を書き始めよう。
対照的にそれ以外の時間には、疲れて注意力散漫になりやすいという人が多いので、あまり創造性の必要でない作業に時間を割り振るのがよい。
たとえば脚注の整理とかスペルチェックとか。

文章を書くにも時機というものがあり、ときにはプロジェクトを休ませて土壌を再生させなければならないこともある。
ちょっと休憩して散歩に行く。映画を見る。運動する。食事をする。眠る。
仕事を「休んでいる」ように感じるかもしれない――実際そのとおりだ。
しかしじつのところ、おそらくきみの頭は執筆というパズルにそのあいだも取り組んでいて、きみ自身は意識的にはなんの努力もしていないのに、複雑な結び目を解いていたりすることさえある。
そういうことがあると (じつはよくあるのだ!) 、そのあとで執筆に戻ったときには、自分の代わりにだれかが問題を解いてくれたとか、暗号を解読してくれたにちがいないと感じたりする。
なぜなら、複雑でむずかしくてどうしても表現できないと思えたことが、なんの苦もなくすらすらと文章になって流れ出てくるからだ。

まただれかに、あるいはなにかに、自分の文章を読み上げてもらうという手もある。
自分の原稿を読み返すのはもうたくさんという場合は、友人に声に出して読んでもらおう。
どんなに親しい友人にもそんなことは頼めないと思うなら、簡単に利用できる「テキスト読み上げ」機能を使えば、書いた文章を音声に変換してくれる。
ゆったり座って、あるいは立っていてもいいが、自分の原稿が読まれる (ぎこちない機械の声が滑稽に感じられることもあるが) のに耳を傾けよう。
それで気がつくのは、自分の文章を何度も読み返しすぎて慣れっこになり、もう原稿のミスを見つけられなくなっていても、
なぜか耳から聞いているとすぐに「見つかる」ということだ。
なんだか「おかしい」と感じ、気になって原稿を見直してみると、その原因に気づいて間違いを修正することができるというわけである。

文章の調子にも耳を傾けよう。
文章はこなれていて説明は丁寧か、ところどころ性急に感じるところはないか。
独りよがりな文章が長々と続いているところはないか。
また冗長な箇所はないか、あるいは文章が長すぎて切れ目が必要なところはないか。
また、ひとつのパラグラフに同じ長さの文章が多すぎると、変化が欲しいと感じるかもしれない。

忘れてならないのは、論文を人に読んでもらうとき、その内容がかれらの頭に瞬時にダウンロードされるわけではないということだ。
論文を読むのはひとつの経験であり、それを充実した経験にできるかどうかはきみ次第なのだ。

p207

〈問題集団〉とは、問題を中心として形成されるさまざまな知的なつながりや協力関係――研究を進めるうちに見つかったり作りあげたりしていくもの――を想定した概念だ。

ここで集団とは、関心または活動を共有する個人の集まりを言う。
したがって〈問題集団〉とは、想像はつくと思うが、協力してであろうと単独でであろうと、同じ研究上の問題を解決しようと努力する個人の集まりのことである。
ギャングと呼んでも部族と呼んでもあるいはコミュニティと呼んでも構わない。
なににたとえようとそれは重要ではない。
重要なのは、この 集団が個人によって構成されているのを認めることだ。
ひとりひとりが独自に「中心」を持っていて、集団のメンバーは分散していて中央集権的ではない。
それがあまりに徹底しているので、メンバーは互いの存在に気がついていないことさえある。
この集団は、ひとつの教義を奉ずる思想的派閥ではない。
民兵でもカルトでもない。

p208

〈問題集団〉の規模はさまざまだ。
きみの〈分野〉のメンバー (もちろんきみも含めて) だけでなく、おそらくその他多くの分野のメンバーも含まれているだろう (分野については次章でくわしく見ていく) 。
きみの〈問題集団〉のメンバーは広範囲に散らばっている可能性もあるし、目印のバッジをつけていることもまずないから、探し出すのは途方もなくむずかしいように思えるだろう。
そこをなんとかするための戦略を本章ではいくつか紹介していこう。

それはそうと、なぜわざわざ苦労してそんな集団を探すのか。
ひとりで研究していてなにがいけないのか。
あるいは自分の〈分野〉の仲間とだけつきあっていてもいいではないか。

きみの〈問題集団〉を見つけることができれば、次のようなよいことがある。
・それまで考えもしなかった問いを教えてもらえる。
・それまで知らなかった語彙を知ることができる。
・存在すら知らなかった見かたや視点を教えてもらえる。
・新たなテクニックを学ぶことができる。
・承認されたという感覚、仲間がいるという感覚を得られる。

p211

だがこれは正直に認めよう――きみの数多くの問いの深層に隠れている問題を把握し、
それからきみの〈問題集団〉のメンバーを見つけるにはかなり時間がかかることがある。
何か月も、何年もかかることすらある。
しかも、「文献」にはすばらしいアイディアやそそられる課題がすでにあふれているから、どうしてもそこに没頭して自分を見失ってしまいやすい。
しかし、本章で紹介するテクニックを使えば、他の研究者の業績を調べるのにどんなに時間を使っていても、自分の〈問題〉を決して手放さずにいられるはずだ。

きみの〈問題集団〉のメンバーを見つけるためには、まず、研究者が直面するとくに厄介な問題のひとつに取り組まなくてはならない。
それはつまり、「私の〈問題〉は世間でなんと呼ばれているのか」ということだ。

反響板――きみの〈分野〉で〈反響板〉を探す p287

きみの〈分野〉の〈反響板〉は、きみの研究プロジェクト案に対して異なる視点をもたらしてくれるだろう。
きみの所属機関に属していない人上司ではなく、同業者としての善意をべつにすれば、きみの研究結果に対して個人的になんの利害関係もない人に協力を求めることを考えてみよう。
きみの言いたいことが同じ分野の仲間に伝わるかどうか、文章を読んでもらって意見を聞くこともできるし、きみが見逃していた資料を探すヒントを与えてくれるかもしれない。
また、きみの一次資料 (言わばシリアルボックスだ) について、〈分野〉の他のメンバーがどんな問いを立てて答えているか、予想するのを助けてくれるだろう。
ここでもやはり、きみの研究提案書を見てもらって、文章でも口頭でもいいから感想を聞かせてもらおう。
そして (わかっているとは思うが) お礼を言うのを忘れずに!

p296

いや、きみはたんに「はじめる」以上のことをすでにやっている。
つまり、研究の次の段階への用意をしたのだ。
その次の段階でも、次の次の段階でもこれは同じだが、必要なのはまた始めることだ。

だから始めよう!

断片的なメモを集めて、それを完全な文章、そして段落にまとめ上げていく。
引用文を原稿に書き入れて、それがきみの研究上の問題にとってなぜ重要なのか書き出そう。
これまでに作ってきた数多くの自己省察を見直し、きみの研究の底流にある「問題」を、説得力のある言葉で表現していると感じる文章をメモのなかから見つけよう。
それを計画書やいま書いている原稿に追加する。
コピー&ペーストしてきた書誌データ――もうずっと前に目に飛び込んできたやつ――を膨らませて、完璧な形の脚注や参考文献のリストを作成しよう。

このような作業は、創造的な研究の一部をなしている。
これらは、研究論文や論説や書籍を作る原材料だ。
乱暴な言いかたをすれば、映画とは撮影して編集した映像だ。
絵画は、ものの表面に鉛筆で色を塗っていったものだ。
本は、単語と文章と段落、それに注と図の集まりだ。
そして間違いなくきみは、きみの作った単語の集まりをたえずよくしていくことができる。
っとわかりやすく、説得力があって、経験に基づいていて、厳密で、エレガントな文章にしていくことができるのだ。

これは覚えておこう――きみの目標が「書くこと」であるならば、ペンを持って紙に向かうこと、
あるいは指をキーボードに置くことは、つねにその目標に向かう一歩なのだ。

文章を書くのは、泥臭い汚れ仕事であり、でたらめで支離滅裂な作業だ。

そういうわけだから、自分が生み出してきた成果を見返して、ここまでずっと書いてきた自分を褒めよう。
つねに明瞭で格調高い文章を書いてきたとはいかないだろうが、それでもこれまで書いてきたものは貴重な原材料になる。
自分で書いた文章をすべてふるいにかけて、どれを捨ててどれを残すか選別しよう。
残したものもほとんどは手直しが必要だろうし、ほぼすべて書き直すことになるだろう。
いま手元にある断片的な文章を出発点に、推敲され構造の整った文章からなる段落を作っていくのだ。

つまり、いよいよ「書きはじめる」ときだというのは実際には、
すでに書いてきたものをすべて集めて、ふるい分け、選別し、構成を整え、意味の通る文章に組み立てていくときだ、という意味なのだ。

やってみよう――「第 0 稿」を作る p298

これまで〈自分中心研究〉で作ってきたさまざまな文章をすべてまとめて、ひとつの文書にする。
ここで作るのは「第 0 稿」であって、新たにどっさり書くことが必要な「初稿」ではない。
つまり、いままで書いてきた文章をすべて、ひとつの電子的ファイルにまとめるだけでよいということだ。

ここでまとめるべき文章は以下のとおり。

電子的なメモ
パソコンやスマートフォン、タブレットなどを使ってメモをとっているなら、さまざまな場所のさまざまなファイルにさまざまなフォーマットで保存されているだろう。
それをコピー&ペーストして、〈第 0 稿〉のファイルにまとめる。
これには、第3章で書いた研究計画の原稿のほか、それを〈集団〉や〈分野〉に合わせて書き直したものも含む。
それぞれをどこに貼り付けようかと気にする必要はない。
どこでも適当に貼り付けておこう。
いまは構成はどうでもいいのだ。

手書きのメモ
ルーズリーフ用紙、メモ帳、あるいはナプキンなどにメモをとっているなら、それを一言一句そのまま〈第 0 稿〉に書き写そう。
文章を直したくなっても、いまはまだそのままにしておくこと。

下線、ハイライト、余白の書き込み
これまでに印をつけてきた一次資料や二次資料をまた引っ張り出して、書き込みやメモを電子的ファイルに書き写す。
どの資料に関するメモかわかるように、書誌情報も忘れずに記録しておこう。

これらのメモ書きなどを〈第 0 稿〉にまとめるさいは、次の作業もいっしょに行なう。

整理 (ただし面倒でない場合に限る)
断片的なメモや考察を書き写すとき、無意識のうちに電子的メモのスペルミスを修正したり、断片的なメモを膨らませてちゃんとした文章にしたりすることもあるだろう。
ファイルにまとめる作業の足を引っ張らないなら、それぐらいは構わない。
ただこれは必須ではない。あとでいくらでも時間はある。
表現を変えたり、推敲したり、膨らませたり、発展させたり整えたりするのに時間がかかって煩雑になってきたら、
この〈第 0 稿〉はたんに、文章を機械的に一箇所に集めたファイルにすぎないということを思い出そう。
これまで書いたものを同じフォーマットでひとつのファイルにまとめる、ただそれだけでよいのだ。

「自分証拠」を書き留める
この「まだ推敲しない」ルールにはひとつだけ重要な例外がある。
書き写してまとめる作業のあいだも、自分自身を中心に据えて「波長を合わせる」のを忘れてはいけない。
きみはいまも心電計につながれているのだ。
以前に書いた文章を読み直すさいも内省のテクニックを忘れないように。
以前に書いたメモをまとめているとき、新しい考えや疑問が湧いてこないか注意深く観察し、もし湧いてきたらじかに〈第 0 稿〉の電子ファイルに書き込もう。
これは足を引っ張ることにはならない。
どんなときも、この作業には時間を費やす価値があるのだ。

自分の言いたいことを理解する――〈第 1 稿〉を書く p303

これまで書いたものをすべてまとめたファイルを作成したところで、いま重要なのはその〈第 0 稿〉を〈第 1 稿〉に移行させることだ。
ふるい分けやグループ分けをし、文章を整理し、段落分けし、タイトルを考えるなど、編集作業をおこなうわけである。
この作業のさいには、有効性保証付きの先人の知恵を肝に銘じよう――文章は直せば直すほどよくなる、というあれだ。

やってみよう――「 0 」から「 1 」へ p307

「第 1 稿」―― (極めて) 予備的な構造感のある文書――を作成するため、〈第 0 稿〉にまとめた文章について、初回のふるい分けとグループ分けと編集をおこなう。

この変形のためのステップを以下にいくつか紹介しよう。

1
当然まとめるべき部分をまとめる。
たとえば、同じ人の文章をすでに三箇所書き写しているとしよう。
しかし別々のときに書き写したため、〈第 0 稿〉のあちこちに散らばっている。
こういうときはカット&ペーストして同じ場所にまとめておく。
同様に、ある同じ人物、事実、学説などに関するメモが、〈第 0 稿〉のさまざまな場所に散らばっていたりするかもしれない。
そういうものも一箇所にまとめておこう。
せっかくまとめても、何か理由があってまたばらばらにすることになるかもしれない――三つの引用文を最終原稿の別々の場所に置きたいとか――が、経験則としていまのところはひとつにまとめておくほうがよい。

2
書誌情報はすべて文書の末尾に移す。
これは「似たようなものはまとめる」という最も簡単な作業のひとつだ。
メモのなかにある書誌情報を、すべてカットして文書の末尾にペーストするだけである (最終的には、参考文献、引用文献、あるいは書誌情報として作品の末尾に置かれることになるのだから) 。
本文中に引用を入れたり、脚注、巻末注を入れたりする段になったときも、このように一箇所にまとめてあったほうが便利だ。

3
まとめられそうな部分を試しにまとめてみる。
別々のメモになんとなくつながりがありそうな気がするが、そのつながりがそれほど明白ではないとしよう。
たとえば断片的な三つのメモが、きみの〈問題〉を構造化するのに使えそうな、ひとつの論旨に関わっているように思えるとか。
これらのメモは、論文の一節あるいは一章の中核をなすことになるかもしれない。
そういう場合はカット&ペーストして文書の同じ部分にまとめ、どうなるか見てみよう。
そのまとめかたに一貫性があって面白いと感じられるだろうか。
その場合はさらに発展させてみる。
逆に無理があると感じられる場合は、べつの論旨によるグループ分けを試してみるか、
あるいはいまのところはそのままにしておいて、もっと考えが整理されてから、
あるいはもっと多くの一次資料や二次資料にあたってからまた考えればよい。

4
文章の塊を並べ替えるときは「自分証拠」に注意する。
試しにグループ分けしていると、やがて予備的な構造のようなものが見えてくる。
こうなると、原稿はもう完全にばらばらでもなければでたらめでもない。
だんだん形が整ってくる。
この作業を進めるさいには、自分証拠を見落とさないように注意しよう。
作業中に浮かんでくる新しい考え、問い、表現、思いつきに耳を傾け、それを〈第 1 稿〉に必ず書いておくこと。
また、それをどこに置くのが最も適当か考えよう。
その考えを呼び起こした、当の論旨を中心とする塊の近くに置いてもいいが、置き場所がどうも思いつかないなら、すべてまとめて〈第 1 稿〉の冒頭あるいは末尾に置いておけばよい。
そこはなんでも入れてよい「その他フォルダ」のように扱っておいて、どう処理するかはあとで考えよう。

5
可能な場合は、文章の塊をだいたいの順序に並べる。
文書のパーツの順序が正しくないと思える場合は並べ替えてみる。
たとえば、同じ人物による三つの引用文をまとめた部分があるとして、そのすべてが一九二〇年代の文章だとしよう。
それで気がついてみると、その直前には一九六〇年代の作品からの引用が置かれていたとする。
この場合はなにも考えずに順序を入れ替えよう。
必要ならあとでまた並べ替えてもよいが、現段階では経験則として年代順に並べておくのがよい。
同様に、文章の塊三個がすべて共通の題材を扱っているのに気がついた場合は、その三個をまとめて独自のセクションをたて、どんな感じか見てみよう。
どんな「並べかた」あるいは「順序」がよいのかはっきりしないこともあるが、いまのところは気にしなくてよい。
ただし無理はいけない。
その文章の塊がどこに「属している」か明らかな答えが見えない場合は、とりあえずそのままにしておこう。

6
文書のセクションにタイトルをつける。
一フレームも撮影しないうちに映画にタイトルをつける話を憶えているだろうか。
研究を進める際はこの種の予想は継続的に行うもので、そのことはいま書いている文書のタイトルはもちろん、その中のセクションのタイトルについても言える。
というわけで、テキストの断片をグループ化する作業がかなりの程度進み、そのグループがまとまってセクションができてきたら、次のステップではそのセクションにタイトルをつける。
そうすることで原稿作成がより効率よく進められるだけでなく、考えを整理するのにも役立つ。

7
物書きとしての声を開発する。
きみの使う言葉は正確か、それともぼんやりしているだろうか。
語彙は豊富か、それとも同じ言葉の繰り返しが多いか。論旨は明快か、わかりづらくないか。
使用する語句や決まり文句、アイディアからアイディアへ移行する手法がいつもほとんど同じだったりしないか。
〈第 1 稿〉は、物書きとしての声について考えはじめるよい機会になる。
比喩表現によって、自分でも気づいていなかった議論に関わることになったりする。
たとえば歴史学者は、「成長」「萌芽期」「進化」「根幹」のような生物学的な比喩表現を好んで使う (ときには過剰に) 。
駆け出しの研究者は、自分の選んだ分野の権威を模倣しようとして、そういう用語を不用意に使いがちだが、経験ある研究者でも無批判に使ってしまうことがある。
ここで重要なのは、そのような用語は「中立的」ではないと気がつくことだ。
言葉は無意識のうちに (サブリミナルだとしても) 思考を形作り、ゆえに研究の方向性や結果にも影響を及ぼす。
分野特有の用語を無批判に使っていないかチェックし、もし使っていたらべつの言葉に言い換えよう。

8
略語を使わないよう注意。
〈集団〉および〈分野〉に合わせて二度の書き直しを経験してきたが、用語の正確さと明晰さを高める作業は終わりにはほど遠い。
一度チェックしたぐらいで、専門用語をすべて見つけられれば苦労はしない。
さらに重要なのは、新たに文章を書くごとに、自分の題材や目的をはっきり伝えるどころか、むしろあいまいにしてしまう用語を使う癖がつい出てしまうということだ。
書き直し作業のあいだはつねに、仲間言葉に目を光らせていなくてはならない。

9
脚注、巻末注など、必要な書誌情報を追加する。
情報源を系統立てて記録する作業を開始する。
書き写した引用文をそのまま使うつもりがあるなら、この段階で脚注を付け加え、完全な書誌情報を書いておこう。
プロジェクトを通じて用いる記載法をひとつ選び、最後まで一貫してそれを用いること。
研究という長い道のりの最後に、めちゃくちゃな注を何時間も、ときには何日もかけて整理しなくてはならない――こんなに疲れることはない。

完璧は退屈 p313

本や音楽、映像、美術作品は、ときに「完璧」と称賛されることがある。
だが実際のところ、もしほんとうに完璧だったら死ぬほど退屈だろう。
「完璧な」ものは他者を必要としない。
強力な顕微鏡をもってしても、そのなめらかな表面には傷ひとつ、足がかりひとつ見つからないだろう。
つまりどこにも「とっかかり」が見つからず、なにも言うべきことはなくなってしまう。
それ自身のかけがえのない自己さえあれば、それが存在するのに他者は必要ないのである。

研究や文章でもそれは同じだ。
きみの作品が完成の瞬間から「完璧」だったら、だれもなにも言えなくなってしまう。
付け足すところも差し引くところも、反論すべきところも観賞すべきところもない。
手がかりがないのだ。
水も漏らさぬ鉄壁の守りで、批判も改善も思考すらはねのける。
それはほんとうに望ましいことだろうか。
完璧だと感じさせる芸術品や研究や創造物に出会う幸運に恵まれたら、
おそらくこう気づくだろう――「完璧な」ものはその作者によって完璧なわけではなく、それを読む者、見る者、聞く者としての他者によって完璧となるのだ。

つまり研究の目標は、他者に賞賛されるすばらしい作品を生み出すことではない。
継続的な、たえず更新される改善のプロセス――たゆみなく向上し、完璧を目指すプロセス――を生み出すことが目標なのだ。

研究プロジェクトは、最初からしっかり組み立てられていることもあれば、穴だらけのこともある。
スポンジを考えてみよう。
他のものと接触しないうちは、スポンジは穴だらけだ。
しかしいったん外界と接触すると、別のなにかから供給される物質がしみ込んで、その穴は満たされる。

研究プロジェクトは完璧ではありえない。
しかし、限られた数の具体的な問いを立て、それに答えることに加えて、知的なスポンジの形をとり得るように構築・実行することはできる。
つまり、それを見る者、聞く者がかれら自身の物質――かれらの問いや〈問題〉や事例――で満たすことのできる隙間が、その構造内にたっぷり残されているということだ。
きみの研究を完璧にするのは他者に任せよう。
他者のために入り口を残しておこう。

もう想像はついているだろうが、〈自分中心的研究〉の目標、何度も繰り返した内省の目標は、そのような完璧さを生み出す条件を整えることだ。
冒頭で言ったように、だからこそこの本を完成させるのはきみなのだ。
きみの力があって初めて、本書は完璧になるのである。

p320

問題が変化するのは人が変化するからだ。
人生経験を重ねるにつれて、〈問題〉は変容していく。
完全に消え失せることもある。
消え失せないまでも、かつての影響力は影をひそめることもある。
つねに理由は明らかとはかぎらないが、かつて私たちに大きな影響力を及ぼしていた問題が、あとから振り返ると大したこととは感じられなくるったりする。
そして新たな問題 (ひとつとは限らない) が形をとってくる。
その問題が頭にこびりついて夜も眠れず、来る日も来る日も、何年間もぶっ通しでつきまとってくる。
くりかえしになるが、ここで言っているのは、生産的で研究の動機となるような問題のことである。
個人的な悩みであるにもかかわらず、批判的な独立の視点から分析・評価できる問題のことなのだ。

海面下の構造プレートの動きのように、長期にわたる知的問題の消滅、そして新たな問題の形成は、なかなか検知しにくかったりするものだ。
しかし自分中心の研究者であれば、そのようなかすかな動きを大半の人々よりよく感知できる。
以前のきみなら見過ごしていたような変化でも、鋭敏に感じとれるようになっているのだ。

謝辞 p330

この本を書くのには一八年かかっている。