「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」を 2,023 年 12 月 18 日に読んだ。
目次
メモ
p19
あるいは、Amazonなどのネットショップを、「人」を探す場所だと考えてみる。
そして、自分のお気に入りをいくつか検索してみよう。
すると、その本を好意的に紹介するレビューアーが見つかるだろう。
なかでも、自分のお気に入りのすべての作品に対し、高い評価を付けているレビューアーが見つかるかもしれない。
そのレビューアーこそ、探すべき「人」になる。
同様に、はてなブックマークやブクログ、読書メーター、シミルボンなどのSNSを「人」を探す場にすることもできる。
検索欄にお気に入りの作品名を入れるのだ。
すると、その作品に言及している記事や読書メモ、コメントが出てくるだろう。
その記事から、書いた人を探すんだ。
Amazonレビューアーと同じように複数の作品で検索して、自分の推しについて最も多くヒットしたコメント主こそが、探すべき「人」になる。
p46
好きなものを手放したい、というわけではない。
わたしが「好き」と感じるものは大切にしたい。
なぜなら、わたしが好きなものは、わたしを構成する一部なのだから。
好きなものを大切にしつつ、そこから派生して「好き」を拡張する、そんな方法がないかを模索した。
試行錯誤でたどりついたのが、アウトプットだ。
p48
読む前と後で変化したものがあるはず。
自分が、その本の何に対して、どのように変化したのかを考え抜く。
そして、それを言葉にする。
言語化することで、自分が何に対して「よかった」としているのかを、あらためて知ることもある。
言葉にしたものを、発信する。
ブログや Twitter で、「よかった」だけでなく、生じた変化を綴るのだ。
ほとんどの場合、だれからも何のリアクションもない。
まるで暗闇に向かって、自分の心をちぎっては投げちぎっては投げているような気分になる。
だが、ごくまれに、放り投げたものがキャッチされることがある。
だれかが、わたしの言葉を読んでくれたのだ。
最初は百に一つあればいいくらいだろう。
ブログの場合、ツールを使うことで、特定の記事が読まれているかについて解析することができる。
その人が、どんなリンクをたどって (どんな検索ワードから) 自分のブログにやってきたのか、可視化することができる。
そのうち、キャッチした言葉を投げ返してくる人が出てくる。
これは千に一つだ。
何かのコメントを添えて返してくれる。
投げ返すのではなく、どこかの掲示板に貼り付ける人もいる。
はてなブックマークのように、パブリックな場所にコメントとともに載せる人もいる。
とにかく借りる、本に部屋の空気を吸わせる p63
読書は量だ。
量は質に転化する。
だから、買わなくてもいいのだ。
本当に好きでたまらない人は、図書館を利用せざるをえなくなる。
なぜか?
図書館を使わないと、床が抜けるから。
あるいは生活できなくなるから。
多読せずに「おもしろい本ない?」と言う資格なし。
図書館を使えば、週一〇冊も可能だ。
ただし、必ずしも全読しなくてもいい。
たくさんの本に触れることが「量」なのだ。
とにかくたくさん借りてくる。
知りたいことを調べてもらう p65
図書館は本を借りるだけの場所ではない。
司書によるレファレンスサービスが利用できる。
レファレンスサービスとは、調べたいことに対して、どのような資料(書籍や雑誌・データベース)を使えばいいのかを案内してくれるものだ。
直接カウンターに申し出てもいいし、ネットで受け付けている図書館もある。
レファレンス担当のためのFAQもあり、「レファレンス協同データベース」はそれだけで宝の山となっている(時間を忘れて読みふけろ)。
レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/
p69
わたしがよく利用するのは、品川区立図書館、東京都立図書館だ。
海外系はニューヨーク公共図書館も利用している。
カウンターに問い合わせると時間が限られるため、もっぱらネット経由でレファレンスを依頼している。
品川区立図書館と東京都立図書館のいいところは、登録が不要なところ(二〇二〇年二月現在)。
図書館利用カードの登録も申込用紙の記載も不要。
質問するときに記入したメールアドレス宛に、回答を返してくれる。
これはニューヨーク公共図書館もいっしょだ(ただし、英語で質問する手間はかかる)。
わたしの経験上、だいたい数週間ぐらいで返事を返してくれる。
図書館を身体化する p74
じつは、本に対するアクセシビリティが最も優れているのは、ネットでも書店でもなく、図書館だ。
「本にまつわる情報」を元に決めなくてはならないネットより、「買う」という行為をしないと家に持って帰れない書店より、
コストゼロで「その本に集中する時間」だけがそのまま純粋に投資となるのが図書館なのだ。
売るための導線・動線に満ちあふれたネットや書店をさまようよりも、知の導線に沿った書棚をたどろう。
何度もウロウロしているうちに、どこに何があるか、なんとなく把握できるようになるに違いない。
そのとき、物理的・身体的に、あなたは、図書館を自分のものにしつつある。
そのとき、あなたは気づくだろう。
「あなたの図書館」は、知が可視化された場所だということに。
さらに、その分類は日本のどの図書館でも同じであることを。
あらためて強調したい。
一つの図書館をマスターすれば、全国の図書館の見取り図を手にしたのと同じなのだ。
p92
分析読書とは、一冊の書物から深い理解を得るための読み方のこと。
テーマを把握し、内容を解釈し、著者のいわんとしていることを充分に理解したうえで、批評する。
要するに、「流し読み」「拾い読み」ではない、ふだんのあなたがやっている読み方のこと。
いまふうに言うならば、“So What?”と“Why So?”を連発して、トピックセンテンスを抜きだす。
そこからイシューツリーを再構成して、論証の誤りや脆弱なところを衝いたり、前提そのものを疑ったりする読み方になる。
ロジカルシンキングに親しんでいる方なら手馴れたものだろうが、一九四〇年代に自分の言葉で書いたアドラーはえらいと思う。
そして、シントピカル読書とは、特定のテーマについて複数の書物を横断的に読むやり方のこと。
当然ある本を読むと、そこから別の本へ派生して……が延々とくりかえされることになる。
p97
『本を読む本』では、小説を読むための心得として、非常に多くのものを要求する。
おもしろかっただけではダメで、どこがどうおもしろかったのか、キチンと説明できなくてはならないと。
だから、審美せよ、鑑賞せよ、味わえ、学べ、追体験せよ、統一性を把握せよ、解釈せよ、とやかましい。
なのに、最も大切なところが抜けている。
著者のスタンスに欠けているもの。
それは、「その本を楽しんで読む」ことに尽きる。
おもしろがって読む、同化して読む、おもしろいとこだけ読む、読まない、つまみ読み、ナナメ読み、音読、黙読、味読……好きに読めばいいんだよ。
アドラーは、読書を、高級な何かのように勘違いしているようだ。
知識や教養を摂取するのに躍起になって、肝心の読書のよろこびを見落としている。
知識欲を満足させる「たのしみ」ではない。
あるいは、小難しい思想にくすぐられた自尊心の「よろこび」ではない。
純粋に、単純に、本そのものをおもしろがって読むそうした読み方を、忘れてしまっているのではないかと。
p272
「怒りの根っこには必ず、『私が正しい』という思いがある」
かつて、ちょっとしたことにイライラしたり、テレビに向かって悪態をついていた。
よせばいいのに、過去の嫌なことを思い出しては真っ赤になって震えたり、恥ずかしさや妬ましさが転換された負の感情にさいなまれていた。
カッとなって気分が悪くなるだけでなく、単純なミスを完全な失敗に導いたり、人間関係を悪化させたり、眠れない夜を何度も過ごすハメになったりしていた。
激しい後悔と破壊衝動に身をゆだね、物理的に実行したこともある。
モノに当たるなんてサイテーだと知りつつ、念入りにドアを破壊したこともある。
そして、怒りは伝染する。
だれかの怒りをもらってしまうこともある。
ただの行き違いに悪意を嗅ぎ取って、根に持つ。
わたしは怒りたくないのに、そうさせたアイツが悪い。
これほどの目に遭ったのだから、怒ってもいたしかたない。
だからコイツを攻撃し、嫌な気分をおすそ分けするのは、当然の報いなのだ――なんて考えていた。
p284
おもしろいことに、「怒り」の本質についても、シャカとセネカが重なってくる。
すなわち、怒りとは自分で毒を飲むようなことで、文字どおり身を滅ぼす感情だ。
人間の本質は、時空を超えても変わらない。
セネカが違うのは、怒りに身を任せた暴君が何をしたかを詳細に記したところ。
淡々とした筆致で、エグい話をつづっている。
「怒り」を延期させる方法 p285
怒りには時間が効く、ということはわかった。
たしかに、感情的にワーッとなってもひと晩寝かしたら冷めることもあるし、怒っているときに下した判断は誤りやすい。
ようするに「頭を冷やせ」だね。
では、どうすれば怒りを延期させることができるだろうか?
セネカは、怒りから「逃げろ」という。
自分に罵声を浴びせ、自分を怒らせるような者から(物理的に)遠ざかることで満足せよというのだ。
または、怒りという中に逃げ込もうとする自分を指摘する友人に頼めという。
そして、「怒り」そのものから自分を引き離せと提案する。
友人がいないなら、鏡を見ろという。
怒りがどれほど内面だけでなく形相を変化させたかに気づけば、現実に戻ってこれるというのだ。
最も避けるべきは判断する前に怒ることで、怒りは未解決状態にとどめておくべきだという。
「罰は延期されても科すことができるが、執行後に取り消すことはできない」は刺さる至言だ。
感情的になった勢いで何度となく後悔するハメになる暴言を吐いた夜をたくさん思い出すから。
「私は何も間違ったことをしていない」という人のために p287
しかし、怒らせているのはあいつなのに、なぜ怒ってはいけないのか。
「私は何もしてない」「私は間違っていない」と強く思うときがある。
怒りが今にも身体じゅうに広がろうとする瞬間だ。
間違っていないのに、なぜガマンしてやらなければならないのだ。
セネカは、そんなときはこう考えろという。
“だが、まさにそのとき、悪事と傲慢と頑固さを付加するという過ちを犯している”
つまりこうだ、「間違っていない」という裏側には、「法を犯してなどいない」とか「正しいのは私だ」という気持ちが待っている。
セネカはうそぶく、法に従うから善人だというなら、
無辜とはなんと狭隘なことかと。
法で律せられる範囲なんて狭いものよ、それよりも義務の原則――孝心、思いやり、寛容、公正、誠実のほうがどれほど広範囲を覆っているのだろうかと。
そして、法はもとより、この義務の原則に従えというのだ。
セネカは、さらに気の利いた言い回しを使う。
“だれもが自分の中に王の心を宿している。
専横が自分に与えられるのを欲し、自分がこうむるのは欲しない。
だから、われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である”
つまり、「わたしが正しい」からといって、それは怒る理由にはならない。
「正しい」からといって、好き勝手できるわけじゃない。
むしろ、「わたしが正しい」傲慢さを思い知れという。
これは最初に述べた「怒りの根っこには『わたしが正しい』という思いがある」と同じだ。
ブッダとセネカが重なっているところが、人の怒りの本質なのだろう。
p297
つまり、「生きるとは、食べること」であり、「死ぬとは、食べられること」なのだ。
人は、というより生物は、「食べる」を通して生きており、死ぬことで「食べられる」存在となる。
もちろん日本の場合、人が死んだら焼かれて灰になる。
だが、灰は拡散し、めぐりめぐって土に還る。
それは、植物にとってのご馳走となる。
辛いときに寄り添ってくれる ~ 「なぜ私だけが苦しむのか」 p358
辛かった時期の自分に渡したかったのが、『なぜ私だけが苦しむのか』 (H・S・クシュナー/岩波書店)だ。
これは、強い喪失感で心が痛いときや、死にたいほど悲しくなったとき、このタイトルだけでも思い出してほしい。
もちろん、苦痛にさいなまれているとき、本など読んでいる余裕なんてない。
日々なんとか死なずにしのぐので精いっぱいだ。
突然、わが身に降りかかった災厄――病や事故、わが子や配偶者の死――から立ち直れず、「なぜ私がこんな酷い目に遭うのか?」と悲嘆に暮れているとき、ほかのことなんて考えることすらできない。
著者自身が、そんな目に遭ってきた。
まだ幼い息子を病で喪ってしまう。
なぜ、こんな目に遭うのか。
何か悪いことをしたのか?
神の試練なのか?
理不尽と思える不幸と絶望の淵で、聖書に問いかける。
これは、現代の「ヨブ記」なのだ。
そこで彼がつかみ取ったものは何か。
著者はいう、これは、神がひきおこした災厄ではないと。
世の中には、理由のない不幸が確かに存在するが、それは神がもたらしたものではないというのだ。
神は災厄の側ではなく、犠牲者とともにいる。
人に運命を選ばせるという自由を与えた以上、人がどんな選択をするのかを、神はコントロールすることができない。
たとえ、それが隣人や自分自身を傷つけるとしてもだ。
だから、どんなに悲惨なときでも、怒りに我を忘れて「神よ、なぜわたしだけが苦しむのですか?」と問うのではなく、
「神よ、この困難に立ち向かう勇気を、わたしにください」と祈れという。
大切な人を喪ったとき、非道な目にあったとき、この本を読んだという記憶があれば、わずかでも和らぐことがあっただろうに。
「本棚のあそこにある」と思うだけで勇気づけられる、保険のようなこの一冊に、もっと早く出会いたかった。
世の中の仕掛けを知る ~ 『プロパガンダ』 p367
『プロパガンダ』(アンソニー・プラトカニス、エリオット・アロンソン/誠信書房)は広告・宣伝のからくりを見抜く一冊。
「だまされた」と思わせずに大衆をだますテクニックがわんさと紹介されている。
もっと早く読んでおけば、コマーシャルで衝動買いしたり、マスメディアの詭弁に誘導されることはなかっただろう。
大衆を説得し、積極的に賛同させることがテーマだが、あたかも自分自身の考えであるかのように、自発的に受け入れるように仕向ける技法が素晴らしい。
誉め言葉としては最悪かもしれないが、ナチスやカルトを興すノウハウがたくさんある。
たとえば、「返報性の原理」。
人から何かしてもらったらお返しをしなければという感情を抱くが、これを利用することで、小さな貸しから大きな見返りを得ることができる。
そして、その貸しから購入につなげるときに、行動の一貫性を保ちたいがために「一貫性の原理」が働く。
スーパーの試食や、ゲームの「無料です」がそれ。
また、高額のものをお薦めした後に低額のものに切り替えると(相手が譲歩したということで)客は断りにくくなるテクニック「ドア・イン・ザ・フェイス」や、
小さな「YES」を積み重ねて要求を吊り上げる「フット・イン・ザ・ドア」が紹介されている。
読むと「あるある」だらけで空恐ろしくなる。
だまされたということに気づかないだけでなく、自分で選んだのだと信じて疑わない信者になっていることに気づくのだから。
「プロパガンダ」は、決して表に出てこない。
だからこそ、目から鱗を振り払うため、人生の早いうちで読んでおくと吉。