コンテンツにスキップする

「“私”が生きやすくなるための同意 『はい』と『いいえ』が決められるようになる本」を読んだ

投稿時刻2023年10月18日 15:34

“私”が生きやすくなるための同意 「はい」と「いいえ」が決められるようになる本」を 2,023 年 10 月 13 日に読んだ。

目次

メモ

はじめに p3

たくさんの学生から日常的にメールを受け取るのですが、昔から、どうもこれにモヤモヤすることがあります。
いや、だいたいのメールは、受忍できる内容・体裁なのです。
でも、気になる言い回しのメールも混じっています。

「先生、昨日、、PCの調子が悪くて、期限内にレポートを提出できませんでした。なのでこちらのメールに送ります。よろしくお願いします!」

このようなメールをしれっと送ってくる学生がいます。
「どうして期限の過ぎたレポートを受けつけてもらえるって、勝手に決めているの?まずは、相談して同意を得るのが筋では?」と思いつつも、
その学生を頭ごなしに叱るわけではなく、少し冷静になってから、なぜこのメールの書き方が理不尽なのかを説明するために、「指導」というタイトルをつけて、時間をかけ書き込んで返信します。

もちろん私だって、相談をしてくれれば、臨機応変に対応する準備はあります。
でも、レポートの提出が遅滞したのが自分の責任ではなくPCの責任で、教員はレポートを受け取るのが当然であるような連絡を受けると、
私自身の領域に勝手に入り込まれた感覚になります。
そして、こういう学生は社会に出て、ちゃんとやっていけるのか?という漠然とした不安に襲われます。

p5

ここで挙げた一例を、みなさんは、どのように受け止めますか。
「それくらいのレベルのこと、私だってしょっちゅうだよ」と思われる方、結構多いのではないかと想像します。
多くの人が、いろいろなところで、他人から無断で境界線をまたがれてモヤっとしたり、逆に相手をモヤっとさせたりしているのでしょう。
重要なのは、そこなのです。

私たちは、それぞれ、違った毎日を送っています。
1億人いれば、1億通りの生活があります。
同時に、たくさんの人が空間や時間を共有しながら生きています。

そしてそのつながりから、他人の領域に踏み込む時、お互いの日常に影響を与えるので、「同意」が必要となります。

でも、私たちの日常は、その同意を得るルールが、実はちゃんと守られていないのではないかと感じます。
マナーのようなレベル、人としての常識のレベル、道徳的に求められるレベル、法的に必要なレベルなど、さまざまあり、同意を得ないで暴走した場合、
周囲からうしろ指をさされる程度のこともあれば、犯罪として処罰される程度のこともあります。
実は程度の差こそあれ、いろいろなレベルで同意のルールが守られずに、
自分の領域に勝手に踏み込まれたり、他人の領域に勝手に踏み込んだりすることで、いろいろなトラブルになっている気がします。

p7

自分がモヤっとした経験、また、相手にモヤっとされた経験は、私たちが、「同意」とともに生きていることの証拠です。
本書を通じて、少しでも、「はい(Yes)」「いいえ (No)」をうまく伝えるためのきっかけを掴んでもらえたら幸いです。
本書が、あなたのための本になることを願っています。

p14

この本は、「同意」について考える本です。

今の世の中は、「同意社会」といえます。
つまり、私たちは他人に対して、上手に「はい (=同意)」「いいえ (=拒絶)」が言えるようにならないと、生きづらさを感じる社会なのです。
そしてまた、他人の「はい」「いいえ」を正確に理解できないと、いつの間にか自分が加害者になる社会でもあります。

もちろん、「そもそも、そんな社会ではダメだ!」と考える人もいるかもしれません。
でも、この本では、そのような社会の風潮の是非については語りません。
ひとまずそのままを受け入れ、そのうえで、「はい (Yes)」「いいえ (No)」を言えるようにするには、
また反対に、他人の「はい (Yes)」「いいえ (NO)」を上手に感じ取るには、どうすればいいのだろうというのを一緒に探っていきたいと思います。

第1章に入る前に、この本を読みやすくするための指標となる、イメージのようなものを説明させてください。

私たちは、毎日の生活で必要な「自分の領域」を持っています。
そこには、 身体そのもの以外にも、大切ないろいろなものが存在します。
自分に関する情報(名前・住所・年齢・職業・家族構成など)、気持ち、価値観、趣味、財産、時間……。
それら「私の○○」は、全て自分の領域の中にあります。
「自分の領域」は、他人が無断で踏み入ることができない聖域です。

「自分の領域」を、もう少しかみ砕いてイメージするならば、自分専用の乗り物の中にいるような状態です。
誰でも自分で運転できて、プライベート空間が保てる乗り物を想像してください。
その乗り物のことを、「ジブン号」と呼びましょう。
また、それと区別する意味で、他人が運転している他人の乗り物を「タニン号」と呼びましょう。
ジブン号は、自分そのものです。
私たちは、ジブン号に乗って毎日を過ごし、人生を歩んでいくのです。

p16

私たちは、無人島に一人で生きているわけではないので、人と人との間に、いろいろな接触が生まれます。
家族の間で、会社で、学校で、お店で、電車の中で……。
そして不意に、「自分の領域」に他人が入り込もうとしてきます。
「仕事の帰りに飲みに行こう」と誘われたり、「お金を貸して」と頼まれたり、ハグされたり、
「食器洗っておいて!」と命じられたり、「ご主人は、お仕事何されてるの?」と聞かれたり……。

いつ誰が自分の領域に入ってきても全く気にしないなんて人、ほとんどいないはずです。
みんな、自分が他人に飲み込まれずに自分を保つ権利を持っているのです。
ですから、物理的にも、精神的にも、境界線をまたいでズカズカと自分の領域に入ってこられると、ストレスがたまったり、怖くなったり、傷ついたりするわけです。

その時に、大切になるのが「同意」です。
同意は、自分の領域に他人が入り込んでくることを許容することです。
「この人ならいいか」と考えて、自分の時間をその人と一緒に過ごすことにあてたり、プライベートな情報を教えたり、身体的な接触を許したりするのです。
もし、ちゃんと同意を得ないで他人の領域の境界線をまたいだらそれは、時としてマナー違反であり、場合によっては犯罪にもなるのです。

p28

インターネットを使っていれば、 Cookie (クッキー)使用について同意を求める表示が出てくる時がありますね。
同意しなくても、大きな不都合は生じませんが、同意すれば、ウェブ上で、自分のニーズにより近い広告などが表示されるようになって、便利といえば便利です。

なんちゃって同意との区別 あるという点です。 p28

ちょっとここで注意したいことがひとつあります。
それは、形式的には「同意」の範囲に含まれるような話でも、実は、ここで扱う「同意」とは性質を異にするものもあるという点です。

―非常識なことや自分本位なことを並べ立てたうえで、「あなたもそう思わない?」とやたら同意を求めてくる人がいるとします。
そういう人は、自己承認欲求が異常に高く、自分のことだけがかわいい、「かまってちゃん」なのかもしれません。

―他人の悪口をさんざん言い散らかして、「ほんと、みんな迷惑しているよね」なんて無理やり同意を求めてくる人は、
特定の人の悪い噂を広めたいだけかもしれませんし、他人の悪口を言うことでストレスを発散しているだけかもしれません。

―知人から、「会社を辞めて、自分で起業しようと思うのだけど、どう思う?」と相談された経験がある方はいませんか。
そういう人は、本当に意見・助言を求めている場合もあるかもしれませんが、
もしかしたら、どのように返事しようが結論は決まっていて、ただ背中を押してほしいだけなのかもしれません。

このような場合、話を持ちかけた人自身が、本当の意味で相手に同意を求めているわけではなく、
同意されようが拒絶されようが、どちらでも、その後のストーリーにそれほど大きな影響はない場面があります。

これを、話を持ちかけられた人の目線で見ると、「どうやってこの場を切り抜けるか」
「どうやってこの人の話を打ち切らせるか」「どうやったら周囲から同じ穴のムジナだと思われないで済むか」というところに力点があって、
真剣に同意するかどうかを考える場面とはちょっと違う気がします。
同意したとしても、それはいわゆる、「なんちゃって同意」の領域です。

実は、その場面の切り抜け方を修得するのも、自分自身が傷つかないためにとても大切なスキルです。
でも、これを一緒に扱うと、ちょっと論点がズレてきてしまうので、この本では、なんちゃって同意は、扱わないことにします。

3. なぜ、私たちには同意が必要なの? p31

他人に踏み入られたくない「自分の領域」がある
そもそも、私たちの社会には、なぜ「同意」がこれほどまでに必要なのでしょうか。
それは、第0章で示したとおり、私たちには「自分の領域」があるからです。
人として生きていくために、生命体としての自分自身に加えて、自分の領域を持つことが必要不可欠です。
「自分の時間」とか、「趣味」とか、「結婚観」とか、「宗教」とか、「誰にも話せない秘密」とか、「人間関係」とか、「進学・就職先」とか……。

 「プライバシー」という言葉が近いかもしれませんが、それよりももっと広いイメージです。
自分の責任でコントロールする領域全てを含みます。
そして、この自分の領域をイメージして、本書では「ジブン号」とします。

このジブン号は、他人が無断で入り込めない聖域です。
いろいろな場面で対立関係が生じやすい社会構造になっている今、そして、集団よりも個人が重視されるようになってきている今、特に意識したいですね。

p34

ところで、同意をすれば、自分の領域に相手が入り込んでくるわけですから、自分だけの世界と比べた時に、何らかの束縛のようなものが生じるのです。
相手と一緒の時間を過ごすとか、自分の情報を相手も知ることになるとか、自分の財産の一部が相手に渡るとか、肌が触れ合うとか……。

ちなみに、同意と似た言葉として「合意」があります。
本質的には、大きな違いはありませんが、合意は、お互いが能動的に意見を出し合って認め合うニュアンスが強いのに対し、同意は、それに比べるとやや受動的です。
相手からの何らかのアプローチを受けてから、「はい(Yes)」で応えるのが、同意だといえます。

p36

私たちはつながっている
もうひとつ、私たちが生きていく中で同意が必要となる要因として、私たちは常に他人と「つながっている」ということが挙げられます。
私たちは、無人島に一人で住んでいるわけではありません。
そこには、どうしても「つながり」が生まれます。

もちろん、そのつながりには、濃淡があります。
家族のような濃いつながりもありますし、学校の友だち、職場の同僚、ママ友、お店の店員さんとお客さんなどでつながっている場合もあるでしょうし、
同じ電車に乗り合わせたり、朝の犬の散歩ですれ違ったりするだけの名前の分からない薄いつながりもあります。

また、つながり方にも、いろいろなものがあります。
一緒に暮らす、一緒に勉強する、一緒に食事をする、お金の貸し借りをする、会話をする、取引をする、同じ目的地に向かうなど、さまざまです。
つながっている時間も、いろいろです。
この先一生かもしれませんし、3年間かもしれませんし、1週間かもしれませんし、ほんの一瞬かもしれません。

つながりを持つ時には、少なからず自分に影響があり、同意の必要性がつきまといます。

つまり、ジブン号に積んであるスーツケースの中の袋を、他人のために開けなければならないタイミングが訪れてくるのです。

p38

気をつけなければならないのは、現代の私たちは、昔に比べて、決して、つながっていないというわけではないのです。
むしろ、インターネットの普及によって、人と人とのつながりは、格段に広がっているでしょう。

ただし、そのつながりは、「お互い顔や本名すら知らない、薄~い、薄~い、つながり」であることが多いのです。
また、後腐れないその場限りの、極めてアドホックな関係も広がっている気がします。
そのような薄い関係には、同意は不可欠のアイテムです。

これが、「今こそ同意の時代である」ことの正体なのです。

「同意を考えるための出発点 2つの大原則」 p40

自分の領域は全て閉ざされている
さて、ここで、同意というものを考えるうえで基本とすべきポイントについて確認しておきましょう。
まず、大切なことを2つご紹介します。

ひとつめは、私たちの自分の領域は、最初は「全て閉ざされている」ということです。

もちろん、私たちは、自分の殻に閉じこもっているわけではありません。
特に最近は、自分から積極的に、SNSなどを通じて自分を発信していく人も増えています。
つながりを求めて、意識的に仲間を集めるようなこともされています。
SNSが発達していて、本当に便利な時代です。

でも、他人と接する時の出発点は、「自分の領域には他人はむやみに立ち入れない」
「他人の領域には一切立ち入れない」ということから出発しなければなりません。
そう。
ジブン号の扉は閉まっていて、勝手に他人が乗り込むことはできないのです。
そして、そのジブン号の中にある、スーツケースにも鍵がかかっていて、外から見えないようになっているのです。

そのうえで、相手が自分とつながりを持つ中で、必要に応じて、また、徐々に信頼関係ができ上がっていく中で心を許し、
「同意」がなされて初めて、他人の領域に踏み込めるようになるのです。
相手の領域に入り込んでいく時に、扉が開いていると勝手に思い込んだり、当然開いているよねと言わんばかりに強引に入り込んだりしてはいけません。
あくまで、「ゼロから始まる関係」というのを意識する必要があります。

そして、共有できる領域には、いろいろなレベルがあるということも理解しなけれ ばなりません。
同意をする場合には、その時間や範囲に限定が加えられる場合がほとんどです。
一度ジブン号に同乗させたら、同乗者が何時間でも好きなだけ乗れて、何でも好き勝手できるというわけではないのです。
運転手から「ここまでなら同乗していいよ」と限定される場合もありますし、途中で「降りてほしい」と言われれば降りなければなりません。
また、スーツケースの中は、運転手が許した袋だけを開けることができるのです。

つまり、最初のジブン号に同乗することが認められる段階、次のスーツケースの中の袋を少しだけ共有できる段階、
その次の特に大切にしまわれている袋も含めて、たくさんの袋の中身を共有できる段階……と、いくつもの段階があるのです。

「名前くらいは教えてもいいけど、メアド(メールアドレス)の交換はしたくない」という関係もあり得ますし、
「手をつなぐのはいいけれど、それ以上の身体の関係はダメ」というレベルもあるのです。
くれぐれも、出発点はゼロから始まることをお忘れなく。

同意するかどうかは自分で決める p44

2つめは、同意をするかどうかは、「自分の意思で決める」ということです。
ジブン号の扉を開けるかどうかは、自分自身が決めるということです。
開けていない扉を、他人が無理やり壊して乗り込むようなことがあってはいけません。
開けろよ!という無言の圧力もいけません。
意図せず、その決定権が他人に奪われている場合、私たちは強くストレスを感じるのです。

もちろんこれは、なんでもかんでも他人と協調性を持たずに、我が道を行けばいい!ということではありません。
特に日本社会は、(良くも悪くも)協調性を大切にするところがありますから、
それにいつも反しながら生きていくには、相当の熱量が必要になります。

でも、そこには、必ず自分の意思がなくてはなりません。
特に、自分が大切にしたいことは、自分で決めるようにしなければなりません。
むやみに、同意するかしない他人に委ねてはいけないのです。
「親が言うから」「先生が言うから」「友人が言うから」で決めてはいけません。
いろいろな人からアドバイスを聞くことは大切ですが、しかし、自分の領域の責任は、自分しかとれません。
自分の人生は、最終的には自分で決めなければなりません。

ジブン号を運転するのは自分であり、スーツケースの開け閉めをするのも自分です。
他人がジブン号を乗っ取ったり、他人に任せっきりになったりすることは許されないのです。

同意がなくてもやっていいこと p52

反対に、「同意がなくても許されること」というものもあります。
ジブン号は、自分で責任を持って運転しなければなりませんが、他人のことは全て知らんぷりでは、それもまた、社会としてうまくいかない可能性があります。
ジブン号が、どんなに困っていても、自分の領域に属する以上は、他人はそれを助けないとなると、冷え切った社会になってしまいます。

例えば、人が路上で倒れている時に、心肺蘇生などの応急手当を行うことは、本人の同意がない以上、絶対にやってはいけないのでしょうか?
また、迷子の犬を見つけた人が、その犬を一時保護してあげることも、本人の同意がない以上、絶対にやってはいけないでしょうか?

もしそうだとすると、助かる命も助からなくなってしまいますし、社会がギスギスしてしまいます。

そこで、例外的ではありますが、相手の同意がなくても、他人のためにやってあげる行為を正当化する場合があります。
法的に、これを事務管理といいます。
事務管理を行うことは、許されるだけではなく、事務管理によって、かかった費用を後で本人に請求することもできることになっています。

6. 同意の必要指数 = 相手が守りたいものの大きさ x 自分と相手のつながりの強さ p54

同意の必要指数とは
同意の必要指数について触れておきましょう。
聞きなれない言葉ですね。
それもそのはず。
私が今ここで作った言葉です。
要は、どのような場面でどれくらい明確な同意が必要なのかを示す指標といえます。

そもそも、同意の必要性の度合いは、いろいろな場面に応じて個別で考えていかなければならず、
そんなに単純ではないのですが、敢えて単純化すれば、大枠は、「相手が守りたいものの大きさ」と「自分と相手のつながり」の関係で異なってくるといえます。

相手が守りたいものの大きさが大きければ大きいほど、同意は明確にしっかりとしたものが求められますし、
自分と相手のつながりの強さが弱ければ弱いほど、やはり同意は明確にしっかりとしたものが求められます。

自分と相手とのつながりとは何か p58

他方で、私たちは、社会の中でいろいろな人と「つながり」を持って生活をしています。
しかしその「つながり」には、いくつかの強度があるとよくいわれています。

この点、書籍を見てみると、いろいろな人がいろいろな区分けを主張していますが、私は、主として5段階のつながりを感じます。
1 愛情的なつながり、 2 友情・義理的なつながり、 3 仲間的なつながり、 4 対価的なつながり、 5 無機質なつながりの 5 つです。

そして、この中で、 1 ~ 3 は、感情を伴って濃くつながっている関係、
4 と 5 は、感情未満の薄くつながっている関係というように分類します。

もちろん、愛情が薄かったり憎悪の方が勝っていたりする夫婦関係もあるでしょうし、
本当の親子関係よりも強い連帯意識を感じる関係や師弟関係もあるはずです。
見ず知らずの人に、何かのきっかけで強い恩義を感じるようになるかもしれません。
ですが、極めて一般的にいえば、 1 から順番に、関係性は徐々に薄くなるはずです。

感情でつながっている関係 p61

1 はなんだかんだいって自分の人生の一部であり、相手の人生も客観的な視点だけでは語れない関係で、相当強い信頼関係があるでしょう。
もちろん、強いつながりがあるからといって、なんでもかんでも同意が不要というわけではありません。

しかし、理屈だけでは語れない愛情関係の中で、ジブン号の扉は、相当程度、開いている状態の場合が多いといえそうです。
また、本来であれば鍵をかけてスーツケースの中にしまわれているはずの袋も、無防備に放置されているかもしれません。

そして、 2 や 3 も、 1 までではないにしても、相当程度の感情的なつながりはあるように感じます。
2 と 3 の違いは、 2 が生活一般の中に溶け込む関係であるのに対し、 3 は、職場など、ひとつの目的・目標に向かったつながりといえます。

ただ、いずれにしても、気の置けない友人や、尊敬する職場の先輩であれば、
構築された信頼関係の中で、部分的にではあっても、ジブン号の扉やスーツケースが開かれているのです。

マウンティング、スクールカースト、職場内の派閥抗争、会社全体の営業目標などに立ち向かう際に共感し合う仲間が必要であるために、戦略的な同意が求められる場合もあるかもしれません。

ただし、1~3は、やっかいな面もあります。
ジブン号が乗っ取られる危険も、それなりに強いということです。

自分の価値観をグイグイ押しつけてくる親に対し、「親の言うことだから」と渋々従わなければならない気持ちになるかもしれません。
成長しきっていない子どものジブン号には親が乗り込み、運転を代わってしてあげているのが普通ですから、運転手の交代時期が難しいのです。

また、ママ友や会社の先輩からの誘いは、断りにくいかもしれません。
相手としてしてくれるだろう」という期待が強いかもれません。

感情未満の薄いつながり p64

これに対して、4の対価的なつながりは、場合によっては対立的であり、利益の面でも緊張関係が強くなります。
契約においては、通常、当事者はそれぞれが自分の利益になるように行動しますから、同意も、自分の利益になるように相手からもらう傾向にあります。

例えば、医療同意は、患者側から後でクレームを受けた時に「このような治療方法に同意していた」と、病院側が治療行為を正当化する役割があります。
また、企業間の取引において、契約当事者同士のドライな力関係によって、同意が得られたり、得られなかったりします。
感情よりも金銭でつながっている関係ですので、両者の関係もシンプルであるのが特徴です。

最後に、5の無機質なつながりにおいては、例えば、同じ電車に乗り合わせた人とか、ネットの世界だけでつながっている名前も知らないです。
感情的なつながりはもちろん、金銭的なつながりもありません。
このような関係においては、他人の領城に入り込むのであれば、感情的なつながりがあるよりも、より明確な同意が必要ということになるでしょう。

一方で、つながりが薄いぶん、同意したくなければ、容易に断ることもできるでしょう。
ともかくその場を離れるだけでいいのです。
基本的に、同意せずに拒絶することに対して、心理的な抵抗感を持つ必要がない場合が多いです。

1. 自分のことは自分で決める p88

自分のことを決められるのは自分だけ
この章では、「同意をする側」から見て、適切に同意ができる(=なんでも同意せずに、適切に拒絶できる)ようになるためのポイントを考えていきます。
要は、ジブン号を他人に乗っ取られずに、安全に運転するための工夫の仕方です。

まず私たちが、適切に同意ができるようになるためには、何が一番大切なのでしょうか。
これは、第1章でも少しお話ししましたが、最も根本的なことは、ズバリ、「自分のことを自分で決められる人になる」ということでしょう。

もし明日、地球が滅亡するとして、あなたは、誰と、どこで、何を食べますか?

みなさんそれぞれ答えの内容は違うでしょうし、実際に、明日に地球が滅亡する可能性はそれほど高くないでしょう。
でも大切なのは、「それを自分で主体的に決められるか」です。

私たちは、日頃から、自分のことは自分で決めながら人生を送っています。
特に社会人になって自立すれば、「今日は、何を食べるか」とか「週末どこに遊びに行くか」とか、「今度の髪型をどうするか」とか、いろいろ自分で決めることになりますよね。

また、もっと大きな話で、「どの大学に進学するか」「どの会社に就職するか」「誰と結婚するか」といった人生の節目の選択や、
「どのような治療を受けるか」「手術をするかどうか」といった命や健康に影響する決断や、
「自分で稼いだお金をどのように投資するか」「自分が死んだ後に、自分の遺した土地や預金をどうするか」といった財産上の事柄を、自分の意思はなく全部他人に決めてもらっている人は少ないでしょう。

いろんな人にアドバイスをもらっても、最後に決めるのは自分です。
これを、一般的に、「自己決定(権)」と呼ぶことがあります。
法律用語としても登場します。

自己決定ができる人になっていないと、他人から同意を求められた時に、それに応じるかどうかも、適切に決定できない可能性があります。
ジブン号をどちらの方向に走らせたらいいか分からず迷走する人は、他人がジブン号に乗り込もうとした時、同乗させていいかどうかも迷ってしまいます。

人間関係の希薄化と薄い関係の広がり p90

なぜ、自己決定が大切なのでしょうか?
それは、「自分の領域に対する責任は自分で取らなければならない」というのが基本だからです。
ジブン号は、自分の日常生舌、そして人生そのものです。
ですから、自分で運転しなければならず、向かう先は自分で決める必要があるのです。

いろいろな決定が他人任せになってしまうと、「私は○○と思っていたのに、友人に流されて、こんなになってしまった」とか、
「私は○○するのは嫌だったけれど、親が言うので従ったから、やはり間違いだった」という発想になってしまって、他人や社会に対する不満ばかりが募ってしまいます。
岐路に立った時の選択は、自分ですべきなのです。

特に、今の社会を生き抜くためには、この発想が大切です。
核家族化、未婚化、少子化、離婚率の上昇などによって、昔は「家族会議」で話し合って決めていたものも、自分だけが頼りなんてこと、少なくありません。
社員旅行は敬遠されがちですし、飲みニケーションなんて、今や、ウザいものの典型例として映っています。
そういう中で、社会は「薄いつながり」へと、どんどん移行しているように感じます。

また、仲間意識の中での助け合いより、対価(お金)だけの関係が好まれる傾向も読み取れます。
「親戚やご近所や友人などに気を使いながらお世話になるより、お金でサービスを受けられるのなら、気も使わずいい!」なんて気持ちになるのも、頷けるわけです。

私たちは、敢えて、薄いつながりを求めているようにも見えます。
そうだとすると、やはり、自分のことを自分で決める必要度が、以前よりも格段に高くなってくるのです。

2. どうしたら自分で決められるの? ―決め方の基本― p98

自分で決める習慣をつけよう
どうしたら、自分の領域について、自己決定できるようになるのでしょうか。
おそらく、自分の性格や環境などに大きく左右されますから、「これをしたら、明日からすぐに自分で決められる」という特効薬はないでしょう。
それができれば、苦労はしませんよね。

でも、その中で敢えて言うとすれば、「普段から自分で決定をする習慣をつける」ということです。
小さなことでも、自分で考えて、決めてみる。
他人からの提案が意に沿わなかったら断ってみる。
ランチの行き先で飲み会の誘いでもいいわけです。
考えて決めることを続けていくと、その習慣は自分の性格になり、振り返ると、自分の人生に大きな影響を与えているはずです。

ジブン号は自分が運転すること、そして、ジブン号の行き先は、日頃から自分で決めるように心がけること、それを習慣化することに尽きるのです。

時にはマイルールを p102

では、法には反しないけれど、「常識」と自分の価値観に齟齬がある場合はどうでしょうか。
常識の中には、それが立法手続きに至っていないだけであって、もはや法に近い存在としての常識もあります。
いわゆる「ソフトロー」と呼ばれるものです。

反対に、世間的に見れば「そんなの常識だ」と思えるものだとしても、
それに「はい(Yes)」と言うかどうか、立ち止まってもいい場合があります。

新入社員は、ともかくお酌!それが常識だから、今日の飲み会も頑張ってね

これは、どのような人を対象とした常識なのでしょうか?
どの時代の常識なのでしょうか?
「○○するのは、常識でしょ」とか、「当然、○○してくれるよね」とか、
そういう他人や社会の評価に対して無批判的に、すぐに「はい(Yes)」という答えを出してしまっていいのか考えてください。

p123

でも、他人とのつながりの選別は大切です。
自分の領域に入ってくる人に対して一定の距離を置くことをためらっていては、自分が傷ついてしまいます。
自分を傷つけないために、ジブン号の扉を開けることに、少しだけ保守的になりましょう。

他人に、扉の開け閉めをコントロールされてはいけません。
また、同乗させたとしても、スーツケースを開けることには慎重になりましょう。

IT社会の功罪 p123

一般人が情報を発信したり収集したりする際に、とても役立つのが、インターネットです。今や、完全なIT社会です。
ほんの30年ほど前までは考えられないような技術で、人と人がつながっています。
また、そこには、他人の領域に土足でズカズカ入り込んでいきやすい環境ができ上がっています。
匿名で、他人を誹謗中傷したり、無許可で他人のプライバシーに踏み込んだりして、勝手に暴露する行為が容易なわけです。

トラブルを回避しながら正しくインターネットを活用する能力のことを、「ネットリテラシー」と呼びますが、これはなかなか難しいのです。
ITというエリアを走行する時には、ジブン号の扉を意識的に厳重に閉めておかないと、
知らない人が突然、覆面で侵入し、自分の大切なものを食い漁って、支配される危険性があるということなのです。

匿名で構わないので、写真を1枚、アップロードしてくれませんか?
これに同意してしまうのは危険だと、お分かりですよね。
たった1枚の写真から、住所や名前など、重要な個人情報が読み取られて、場合によっては悪意をもって拡散される場合だってあるのです。
見えない相手だから余計に危険ということもあるのです。

拡散されやすい環境がある以上、なかなかそれを食い止めることも難しいです。
私たち自身が受け手側として、自衛をするしかないでしょう。
自衛手段としては、ネットの世界に身を置きすぎないことが一番です。
他人に入り込まれやすいITエリアに、ジブン号を無意味に近寄らせないということです。

自分が社会に対して情報を積極的に発信することによって、自分を開放し、自己実現が図れるというのは、そのとおりです。
ただし、匿名の世界では、他人を攻撃しようと狙っている人もいるのです。
ネットに身を置くというのは、そういうことです。

嫌がらないということの意味 p164

「嫌がらない」というのは、嫌だという内心を外部に分かるように表現していないだけにすぎません。
論理的に言っても、「嫌ではない」=「いい」ということにはなりません。
嫌だと言わない状態は、明確に拒絶の意思を表していないだけで、いい(同意)とは、距離があるので注意が必要です。

分かりやすい例を挙げましょう。
自分が相手に対して「私と付き合ってください」と言って、相手から返事をもらえない場合、「付き合っているんだ」なんて思い込む人がいたら、ドン引きではないですか。

タニン号の扉も、スーツケースも閉まっていることを忘れてはいけません。
同意がない以上は、「はい(Yes)」ではなくて、「いいえ(No)」またはそれに近い状態なのです。

誘うということの重み p168

何を伝えたいのかというと、誘い方に注意が必要だということです。

誘うという行為は、相手の領域に入り込もうとしているのです。
たしかに、私たちの周囲には、同意をしていないのにズカズカと自分の領域に入ってくる人、
マウントを取りたがる人など、いろいろいて、自分の力で、その人たちをいなくすることはできません。
できるのは、その人をジブン号に乗り込ませないことのみです。

もっと大切なのは、自分自身がそうならないことです。
タニン号に勝手に乗り込んで、スーツケースを無理やりこじ開け、相手の領域を食い散らかす怪獣になってはいけません。

もし、「リナちゃんが、カホと一緒に通ってくれたら、楽しいだろうな」と思っていたとしても、
相手を困惑させないために、50歩くらい遠慮する姿勢があっていいでしょう。

対等ではない関係がもたらすもの p170

まだ、ママ友の関係は、形式上は対等な立場ですから、同意するかしないかは、
ある程度自由に決められるわけですが、明確に嫌だと思っていたとしても、嫌だと言えない空気感が支配している場合も十分に考えられます。

そのような中で、形式的に同意があったとしても、それで「同意をもらった」と思うのは、都合のいい勘違いです。

嫌なものを嫌と言えない環境は、対等な関係ではない場合に生じることが多いように思います。
例えば、教師と生徒、先輩と後輩、上司と部下、お店と顧客……。

この仕事、明日までに絶対に終わらせてよ、ねっ
みなさんが、誰かからこんなことを言われたらどうでしょうか。
対等な関係でないのならば、立場の弱い人は、「はい」と言わざるを得ないかもしれません。

これを、同意を求める立場のタニン号をノックする側から見た時、同意の取り方により一層の注意が必要なはずです。

力関係を利用することは、凶器を突きつけて「金出せ!」と脅しておきながら、
「あいつが自分の意思で金を出した」と言っているのと、変わりありません。

「ハラスメント」という言葉が社会の中で定着して、随分と時間が経ちました。
セクシャルハラスメント、パワー・ハラスメント、アカデミック・ハラスメント、モラル・ハラスメント……。
このような「嫌がらせ」は、私たちの日常から、それほど遠いところにあるわけではありません。

いつでも、誰でも、被害者になる可能性があり、また、加害者になる可能性もあります。
自分は意図していなかったとしても、相手が苦痛に感じていれば、それは、立派なハラスメントです。
ハラスメントは、自分の目線ではなく、相手がどう思うかが大切のです。
立場の強い人ほど、自分の立場をわきまえて、タニン号をノックするのは慎重に、慎重にしなくてはならないのです。

p191

社会学者のポール・アダムスは、人間関係のタイプを、知り合い、情報源、遊び友だち、協力者、仲間、癒し手、相談相手、親友に分類しています。
これは、後者であればあるほど絆が強くなっていくのですが、
強い絆(親友、相談相手、癒し手)で結ばれているのは、どんなに多くても15人程度、本当に強い絆(親友、相談相手)で結ばれているのは、5人以下、親友に至っては1~3人と主張しています。

加えて、「友だち」は自分の人生の時間軸の中で、刻々と変化します。

たまに食事に行ったり、相談にのってもらったり、年賀状のやりとりをしたりする関係はありそうですが、
自分の日常生活、そして人生の中心を占める「友だち」がわんさかいる状況は、考えにくいです。
なぜなら、私たちの時間は無限ではないからです。
1日24時間、1年365日、長く生きることができてもせいぜい90年くらい、それが10倍に延びることはあり得ません。

無数の友だちと、深いところまで理解し合ってつながりを深めていくなんてことは、最初から無理なわけです。

それでもその人は友だちですか p193

何が伝えたいのかというと、「友だちは、選べる」ということです。
もちろん、友だちはかけがえのないものですし、ありがたいと思うこともあるでしょう。
友だちができないと、ちょっと焦ったりするかもしれません。

以前、40代・男性・独身で友だちが一切いない人の孤独についての記事に触れたことがあります。
たしかに孤独なのでしょう。
しかし、「友だちは大切である」ことと、「その人が自分の友だちとして大切である」ことは、別の観点で考えなければなりません。
いつもマウントをとってくるママ友、自分勝手に振る舞うサークルの仲間、貸したものを返してくれない友人······。
そういう人は、同意なく他人の領域に踏み込んできます。
ストレスを感じながら、無理やり友だち関係を継続することに、どれくらいの意味がありますか。

今月ちょっとピンチなんだよね。
悪いけど、5万円貸してくれない?
すぐ返すからさ、私たち友だちじゃん。お願い!

このように「友だち」から言われて5万円を貸せますか?
誰になら貸せますか?
もちろん、人それぞれ、答えは違うわけです。

ただ、その「友だち」が、ずっとご無沙汰だったのに、突然現れてお願いしてきたらどうですか?
こんな時だけ連絡してくる人を、「友だち」と呼べますか?

「意外と頑張ったね」と褒めているようで実はいつも上から目線な人、約束を何度ドタキャンしても申し訳ないと思わない人、他人の悪口を陰で言いふらす人……。
その人との関係が大切と思うのならば、付き合っていく努力も大切かもしれません。
でも、本当にその人との関係が必要なのかを考えることも、常に自由なのです。

日本だけでも、1億人以上が暮らしています。
その中で、自分が強いつながりを作れるのは、結局のところ、たったの数人です

「この人との友だち関係がなくなったら、一人ぼっちだ」なんて思い詰めるより、
新たな友だち関係を作るのにエネルギーを注ぐ方が生産的かもしれません。

自分の領域に踏み込まれるたびに、過度にストレスを感じるようならば、無理に付き合う必要なんてないのではないでしょうか。
領域を強引に越えてくる「友だち」らしき人のために、ジブン号の扉を開ける必要は全くありません。