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「ユニクロ」を読んだ

投稿時刻2024年10月28日 14:02

ユニクロ」を 2,024 年 10 月 27 日に読んだ。

目次

メモ

p6

日本の会社の99%以上が名もなき中小企業だ。
ユニクロもまた、この国に数え切れないほど存在する中小企業のひとつだった。
それも東京や大阪のような大都会で生まれたわけではない。
現在のスタートアップのように「世の中を変えてやろう」という志を胸に若い才能がしゃれたオフィスに集まったというわけでもない。

店の2階に住居があるような典型的な家族経営の地方の一商店が、やがて世界的な企業へと飛躍していったのだ。
しかも、それは高度経済成長期という現代の日本にとってはもはや神話のように思える恵まれた時代の話ではなく、この国から成長が失われた頃に起きたことである。

名もなき地方の小さな紳士服店がかくも稀有な成功を収めた理由の多くは、柳井正という経営者の手腕に帰するのだろう。
その実績から見れば天才的な人物だろうと思えてしまうが、果たしてそうなのか。

酒も飲まず毎日早朝から仕事に取りかかる柳井は自らを厳格に律する一方で、部下にも敬語を使って厳しく接する。
「泳げない者は沈めばいい」という身も蓋もないような言葉を好んで使う時期もあった。

歯に衣着せぬ語り口には直接的というよりぶっきらぼうという印象を受ける人も多いだろう。
必要だと思うこと以外はあまりしゃべらない。
普段から気の利いたジョークを飛ばすことも少ない。

そのため冷徹な経営者だという印象を持つ人もいるだろう。
とかく誤解されやすい人だというのが、柳井との付き合いが長い者たちに共通する印象のようだ。
一代でユニクロ王国を築いたというまばゆい実績もまた、どこか近寄りがたいイメージを周囲の人に植え付けるのかもしれない。

だが、今では日本を代表する経営者と称されるこの人も、もとをたどれば日本の津々浦々のどこにでもいるひとりの若者に過ぎなかった。
それも、後の成功を予感させるような才気あふれるエピソードに満ちた若者と呼ぶにはほど遠い人物だった。

高校の教室では影が薄く、級友のほとんどが柳井正という同級生のことなど記憶にないと振り返るような、内気で無口な少年だった。
早稲田大学に進んでからもマージャンやパチンコに明け暮れ、せっかく宇部から遠く離れた東京に出て来たというのに人付き合いも同じように上京した高校時代の友人ばかり。
挙げ句の果てには働くことを放棄して数少ない友人のアパートに居候として転がりこむような無気力な青年だった。

嫌々ながら継いだ家業の紳士服店では、すぐに古参の従業員たちの反感を買ってしまう。
店員たちは散り散りになり、たったひとり残ってくれたのは、付き合いが長い住み込みで働く兄貴分だった。

そこからも鳴かず飛ばずの時代が続く。
運命的とも思える出会いをへて結ばれ、宇部で緒に暮らすことになった妻からは「私の青春を返してよ」と迫られる始末だ。

ここまでの柳井正の足跡は、典型的な「中小企業のお気楽跡取り息子」と言っていいだろう。
だが、ここから先が違った。

若き柳井正は、もがき続けた。

仲間が去った商店街の紳士服店でひとり思索し、答えのない未来を探し続けたのだ。

(どうすればここから抜け出せるのか……)

自問自答を繰り返し、どこに存在するのかも分からない成功への道筋を見つけようともがき続けることを、やめようとしなかった。
ヒントを求め続けた20代はしかし、手掛かりさえ見つからないままにただただいつもと変わらない毎日が通り過ぎていった。

p21

応接間で柳井等からどんな話を聞かされたのかは、今ではまったく記憶にない。
商売の心得だったような気がするし、なにか人生訓めいた話だったような気もする。

ともかく、こうして15歳の少年は実家を離れ、住み込みでこの商店街の小さな紳士服店で働くことになった。
昭和初期まで日本全国で見られたでっち奉公のようなものである。

「社長のことは大将と呼びなさい」

女性の先輩従業員からはそう言われたが、今となっては、浦はあまりその呼び方がしっくりとこないという。
もう長いこと「先代」と呼んでいるからだ。
それに大将というより、もう一人の父親という方が正確に思える。
この日からでっち奉公同然に暮らすことになったこのにぎやかな家の、同じ屋根の下で暮らす自分より4歳下の跡取り息子である柳井正との、その後の濃密な日々が自然とそう思わせるのかもしれない。

p22

浦少年が店を開けるとひっきりなしに客がやってくる。
ただ、中学を出たばかりでまだまだ見習い扱いの浦には接客は許されていなかった。
毎朝、ずらりとつるされたスーツ一枚ずつにブラシをかけていく。
メンズショップ小郡商事は創業当初はオーダーメードスーツも扱っていたが、既製品のスーツが中心となっていた。

仕事を教えてくれる者はいない。
ブラシをかけながら先輩とお客の会話を盗み聞きしてメモを取るように教えられた。
「仕事というものは耳で聞き、目で見て盗むものだ」ということは、浦だけでなくこの時代を生きた働く若者たちがおしなべて経験してきたことだろう。

そうやって毎日が過ぎていく。

休みは商店街全体が店を閉める毎月20日だけだ。
ただ、休みになっても浦には宇部に知り合いがいるわけでもない。
月に一度の貴重な休みの日も柳井家や先輩たちと過ごすことがほとんどだった。
住み込みなので衣食住にカネはかからない。
散髪代やたまの映画代も店が出してくれた。
給料の使い道といえば、一本38円の瓶のコカ・コーラを買って飲むことがこの上ない楽しみであるくらいだった。

そんな浦の働きぶりを何も言わずに見守っていたのが柳井等だった。
自ら接客することはほとんどなく、いつも店の奥にあるカウンターに丸い火鉢を置き、新聞を読んだり書き物をしたりしながら店全体に目配りしていた。

p30

本書の主役となる柳井正の少年時代の姿を描くのは、正直に言ってちょっと難しい。
本人だけでなく周囲の者たちの一致する当時の印象が、とにかく目立たないおとなしい性格の少年だったということだ。
特に成績が優秀だったわけでもなく、仲間をまとめるような存在でもない。
後の成功を予感させるようなエピソードは皆無である。
むしろ内気で言葉数の少ない性格だった。

口数が少ないのには、実は少し理由がある。

将来はおもちゃ屋になることが、柳井が小さな頃に抱いた密かな夢だった。
少し大きくなると学校の先生になりたいと思うようになったが、この夢は早々に諦めてしまった。

その原因は、生まれ持ってのどもり症だった。
誰かと会話している時にはまったく問題がないのだが、紙に書かれた文章を読み上げようとすると不思議とすぐに言葉に詰まってしまうのだ。

柳井のどもりは、実は今も残っている。
講演などで原稿を用意して話す時に突然言いよどみ、同じ言葉を繰り返すことが度々だ。
そのため今でも講演の依頼などは断ることが多い。
現在はともかく、幼い頃にある種のコンプレックスになってしまうのは仕方がないところだろう。
「本を読むと(どうしても)言葉が詰まるんですよ。先生になったらそれじゃ無理でしょ。だから諦めたんです」。
若いながらにそう考えて、教師になる目標はあっけなく消えてしまった。

遊び場といえば家の前の商店街だった。
メンズショップ小郡商事のはす向かいにある鳳鳴館という小さな本屋で漫画を立ち読みし、たまに店主から雑誌の付録をもらうのが密かな楽しみ。
柳井正はそんなどこにでもいるような、目立たない少年だった。

p32

父を避けるようになったもうひとつの理由が、紳士服店に次いで等が手を出した土建業にあった。
正が中学に進学すると等は建設会社を立ち上げた。
その勢いで喫茶店や映画館の経営にも手を出し始めた。
そうなるとどうしても街の実力者や政治家たちとの付き合いが多くなる。
いや、等はむしろ自ら進んでそういった実力者たちとの交流に時間とカネを注ぐようになっていった。

等が特に懇意にしたのが通産大臣にもなった地元の実力者である田中龍夫で、後援会長も務めるようになった。
メンズショップ小郡商事がある銀天街の通りのすぐ隣にある宇部興産の社長で、同社の中興の祖とも呼ばれた中安閑一とも昵懇の仲だったという。

すると、どうだろう。

誰を次の市議会選で擁立しようか、あそこの工事は次はウチが取るからな――。
自宅の居間からは、そんな大人たちの会話が度々聞こえてくるようになった。
付き合いのある宇部興産の幹部が昇進するたびに店で扱う上等なスーツを贈る父の姿にも、言いようのない反感を覚えたという。
売り物を私物のように扱うのは、その後も柳井が嫌う行為である。

そんな息子の疑念に満ちた視線を気にとめることもなく、父は正にもよく「最初からこの仕事(土建業)をやっていたら俺はもっと大成功していたはずだ」と豪語していた。
思春期を迎えていた正にとって、大人たちの馴れ合いの世界は受け入れがたいものに思えた。

付け加えるなら、それは10代だった当時だけのことではない。
ファーストリテイリングの創業者として成功した現在も、柳井は政治家とはまともに付き合おうとしない。

p36

「寝太郎」

それが、大家のおばさんが柳井青年に付けたあだ名だった。
モゾモゾと部屋から起きてくるのはいつも夕方も近づく時間帯だった。
それから何をやるわけでもない。
思いつくままに本を読み、たまに近くのジャズ喫茶やパチンコ店にぶらぶらと出かけていく。

多くの学生を見てきたはずの大家の目にも、どこまでも無気力で怠惰な青年に映ったのだろう。
実際のところ、柳井は学生運動に冷たい視線を送りながらも、自分自身には打ち込み熱くなれるなにかがあるわけでもなかった。

朝と夜が交互に古いアパートの一室にやってくるのを傍観するかのように、政治の季節に沸く東京の街の喧騒からひとり取り残されたかのように、ただただ毎日が過ぎていく。
学生というこの国にあってある意味で特権階級のような身分を日々消費していく。
寝太郎とは、この頃の柳井正の姿を言い表すのになんとも言い得て妙な表現だったことだろう。

p38

山本の目にも当時の柳井には後の成功を予感させるような資質は見て取れなかったという。

「なにかと言うと柳井が口にしたのが、『それになんの意味があるんね』でした。いつもそうだから会話が続かないんですよ。だからといって変に合理主義者というわけでもなく、一緒にいて肩がこるようなタイプでもない。ケンカになるネタもないというか。私にとってはまるで空気のような男でした」

ジャスコでの9ヵ月 p48

世界一周旅行から帰った後も特に打ち込めるものに出会えず、元のもくあみのような無気力生活に戻ってしまっていた柳井も大学4年になると就職を考えた。
だが、希望した商社はことごとく落選。
すぐにやる気をなくし、父に留年したいと申し出た。
父・等の一喝にあい、卒業はしたものの特に何をするでもなくそのまま諏訪町の下宿でプータロー生活を始めてしまっていた。

見かねた父の斡旋で入社したのがジャスコだった。
ちょうどこの頃に等は地元の経営者と一緒に銀天街に中央大和というショッピングセンターを作っていた。
店舗兼自宅の小郡商事の建物も取り壊し、商店街の裏地も含めて当時としては近代的なビルを建てたのだが、この共同経営者が、修業を兼ねて長男をジャスコに就職させるというので、「お前も一緒に行ってこい」ということになった。
今で言うコネ入社である。

実は、父は息子がサラリーマンになることには以前から猛烈に反対していた。

「ええか、正。人に使われるような人間にだけはなっちゃあいけんぞ。例えば、お前が小便をしたくなった時に上司に『トイレに行っていいですか』と聞かんといけん。そんな人生でええんか」

高校生になった頃からこんなことを何度も言われたという。
それでも等がジャスコへの就職を手引きしたのは、息子の怠惰ぶりがよほど見るに見かねるものだったからだろう。

こうして柳井正は大学を卒業した1971年の5月になってからジャスコ本店があった三重県四日市市にやってきた。

研修の後に配属されたのが包丁やまな板、ザルなどを扱う雑貨売り場だった。
店はセルフサービス方式で、お客は陳列された中から必要なものを選んで買っていく。
柳井の仕事といえば商品を補充するために売り場と倉庫を行き来するくらいのものだった。

数カ月が過ぎると紳士服売り場に配属された。
直接そう言われたわけではないが実家が紳士服店だったことが考慮されたようだ。

p50

それは岡田屋の社長でジャスコ(イオン)の実質的な創業者となった岡田卓也が、1958年に1ヵ月をかけて米国の小売店を視察して回った経験をもとに取り入れた流通改革だった。
セルフサービス方式は当初2階の肌着売り場だけで導入したが、当時の日本ではなじみがなく、誰もカゴを手にしてくれなかったという。

ところが、コネ入社で四日市へとやってきた柳井はその革新性に気づくどころか仕事の意味さえ見いだそうとしないまま、たったの9カ月でジャスコを辞めてしまった。

「これではサラリーマンになっても本当の意味で商売人にはなれないんじゃないかと思ったんですよ」

当時の心境をこう振り返るが、そこまでの深い考えがあったわけではないようだ。
その後は東京に戻って元通りの無気力生活に落ち着いてしまった。
決して、商売人としての一本立ちを志してジャスコでの修業を9ヵ月で切り上げたというわけではない。

p69

千田は柳井が小学生になる前から、叔父にあたる柳井等の会社で住み込みの店員として働くようになっていた。
浦よりずっと先にでっち奉公生活を始めていたわけだ。
正がジャスコを辞めて宇部へと戻ってきた頃には千田はすでに30代半ば。
親族でもあるだけに父の等が最も信頼する右腕となっていた。

第1章で触れた通り、柳井等はメンズショップ小郡商事で財を成した後に、息子の正が中学生の時期に土建業へと稼業を広げていた。
さらに喫茶店や映画館、パチンコ店などの経営にも手を出し、政治家や地元財界の有力者たちとの付き合いにも精を出すようになっていた。

オゴオリとOS、ふたつの洋服屋の仕事はすっかりおざなりになっていたのだが、それでも店が滞りなく回っていたのは、この千田に店の経営を任せることができたからだ。
その千田を支えていたのが、まだ20代の浦だった。

千田と浦は、どちらも柳井等に拾われた身だ。
住み込みのでっち奉公のような少年時代から見よう見まねで先輩たちの仕事を盗み、幼いながらに宇部の商店街の片隅で世を生き抜く力を身につけてきた。
ふたりとも自分たちを一人前に育ててくれた柳井等に心酔する一方で、等もまた彼らのことを心底から信用していた。

千田は当時、小郡商事の専務という肩書だが、すっかり土建屋などの仕事に傾注するようになっていた等の番頭であり名代と言っていい存在だった。
正にとっても「兄ちゃん」と呼ぶように気心が知れた存在で、正が早稲田大学に合格した際に東京での下宿などを手配したのも実はこの兄貴分だった。

ふたつの店のことを隅から隅まで知り尽くした「兄ちゃん」が仕切る小郡商事。
そこに、23歳になった跡継ぎ息子が帰ってきた。

東京の名門大学を卒業したというのにロクに働こうともせず、親のコネで入ったジャスコもたったの9ヵ月で辞めてプータローのような暮らしをしていた、放蕩息子といわれても仕方のない男である。
少なくとも、でっち奉公のような身から少しずつ仕事を覚え、やがて店を仕切るまでになっていた千田の目にはそう映ったことだろう。

そんな不肖の跡取り息子が、この時点ですでに20年以上の歴史がある商店街の店をかき回し始めた。

人の群れが慌ただしく行き交う銀天街。
その一角にあるふたつの洋服屋の店頭に立ちながら、若き柳井正はすぐに疑問を抱くようになっていた。

(この商売で、俺はこれからずっと生きていかなければならない。でも、本当にこのままでいいのか……)

実はこの当時、いやずっと以前から内心で思っていたことがあったという。

「こう言っちゃなんですけどね……、本当は『あんな商売は意味がないな』と思っていたんですよ。社会の役に立っていないような、そんな感じがしたんですよ」

当時の偽らざる本音を、柳井はこう振り返った。

決してやりたかった仕事なんかじゃない。
それでもやるしかない。
自分にはもう他に道はない――。
そう考え始めた時、幼い頃からずっと眺め続けてきた小郡商事の商売のアラが見過ごせなくなってきた。

ノートに綴った自己分析 p78

また話が脱線してしまった。

兄弟のようにして育った浦利治だけを残し、古参社員がことごとく去ってしまった銀天街の小郡商事柳井の周囲には相談できる人もいない。
その代わりに柳井は自宅に帰ると自分自身と向き合うことにした。

柳井が自室でペンを握ると、自分の世界に閉じこもってしまう。
妻の照代もその空間に立ち入ることはできない。
銀天街の喧噪から離れて森の中の高台に立つ新居では、暖かくなる頃には虫の鳴き声しか聞こえてこない。
静寂の中で、たった一人で過ごす自省の時間。
この頃だけではなく、その後もこの習慣が変わることはない。

机に座ると、柳井は大学ノートに自分自身の性格について思うことを書き記していった。

(俺の短所はなんなのか。逆に長所はなんだ)

長所だと考えたのは「正義感があること」と「自分を客観的に見ることができること」だった。
あくまで自分なりの考えなのだが、正義感の裏返しが歯に衣着せぬストレートな物言いとなって時には相手を傷つけてしまう。
言わなくてもいいかもしれないことまで口にしないと、どうしても気が済まないのだ。

自分を客観的に見ようとする一方で、他人のこともつとめて客観的に見ようとする。
それを遠慮ない直接的な表現でぶつけるものだから、確かに言われた方はたまったものではない。
従って、周囲の人たちから自分は自己主張の強い冷たい人間だと思われてしまう。
それこそが自分の短所なのだ……。

酒を飲まない柳井は自宅に帰ってから机の前で悶々とこんなことを考え、ノートに書き記していった。

どこまでも内省的な柳井らしい作業だが、こんなことを続ける中で、今でもことあるごとに社員たちにも勧める、ある思考法にたどり着いたのだという。

それは「できないことはしない」、「できることを優先順位をつけてやる」という極めてシンプルな思考法だ。
悩みというものは、悩めば悩むほど出口が見えなくなってしまう。
それならいっそのこと「いくら悩んでもできないこと」と「よく考えれば、悩むまでもなくできるかもしれないこと」に二分してしまうのだ。
そして割り切る。
エネルギーを割くのは後者だけだ。

そもそも解決できないようなことについて悩んでいる時間がもったいない。
それを最初に割り出してしまう。
その先は難しく考えることなく、「できそうなこと」から順番に片付けていけば、いずれトンネルの出口が見えてくるはずだ。
古参社員たちの離脱騒動を通じて、柳井はそんな考え方を身につけていったのだ。

「当時はそこまで(割り切れたわけ)でもなく、無我夢中でしたが」

開き直りにも似た発想だが、もうひとつ重要な考えに至る。

「長所だけの人間になろうなんて考える必要はない。そもそも長所だからといって他人に誇るようなものでもないし、短所だからと劣等感にさいなまれる必要もない」

要するに、ありのままの自分で良いということだ。
ありのままの自分でしかいられないと言った方が良いのかもしれない。

かつて銀天街の店舗兼自宅で寝起きをともにしてきた古株たちを失った柳井正が行き着いたのは、こんな極めて単純な経営者としてのあり方だった。

柳井が自室にこもって大学ノートに書き記したのは自己分析だけではなかった。
ちょう若い女性スタッフを採用することができたため、仕事の内容を正確に伝えるために日々の仕事でやってもらいたいことをひとつずつ文章化してみたのだ。

仕入れはどうやればいいのか、品出しのタイミングは、店頭での接客のポイントは、採寸から先の流れは、在庫整理はいつどのような手順で進めるべきか、掃除はどこに気をつかうべきなのか……。

その作業のひとつずつを文字にしていった。
柳井は後にユニクロをチェーン展開するにあたって詳細なマニュアルを作ることにこだわってきたが、思えばこの時の自筆の「仕事の流れ」がマニュアルの第一歩だった。
もっともこの当時は、自分が口下手であることを認識しているが故の工夫でしかなかったのだが。

マニュアルの作成が終わると次に取り組んだのが、日々の商売の「見える化」だった。
どの商品のどのサイズ、どの色が売れたのか――。
そんなことを毎日店を閉じてから自らノートに詳細に書き記していった。

この当時は紙とペンでのアナログな作業だったが、柳井はこの時に始めた「商売の見える化」には、ずっとこだわり続けてきた。
ユニクロを始めてからいち早くPOSシステムを導入したのもこのためだし、後々になって戦友と呼ぶソフトバンク創業者の孫正義と出会うのも、見える化の方法を探し求めていたことがきっかけだった。

こんな地道な作業を進めていると、小郡商事の業績は少しずつ持ち直してきた。

託された印鑑と通帳 p81

こうして柳井は、幼い頃からの付き合いで互いの性格を知り尽くした浦利治との二人三脚で再スタートを切った。
浦が千田秀穂に代わる番頭として店先に立ち、なじみの客と世間話をしたり、ちょっと傷んだスーツの補整を頼まれたりと忙しく立ち回る一方で、柳井は店の全体に目を光らせる。
そんな役割分担のコンビが機能し始め、人が去った小郡商事の利益は相変わらずカツカツの状態ながらも、なんとか再び軌道に乗り始めていた。

もともと商売にはまったく関心がなく、そもそも自分には向いていないと思っていた柳井が「もしかしたら自分は向いているのかもしれない」と思い始めるようになっていた、ちょうどそんな頃のことだった。

スーツを売る「オゴオリ」の店が1階に入るショッピングセンター「中央大和」の一角にあった小郡商事の事務所に、社長の肩書を持つ柳井等がやって来た。

土建屋を掛け持つ等が普段ここに来るときは信頼する浦を呼び出して店の売れ行きなどを聞くのだが、この時は息子で専務の柳井正を呼び出した。
狭い事務室で親子ふたりだけで向き合うと、等はおもむろに銀行の預金通帳と印鑑を差し出した。

「今日からこれをお前に預ける。そやけぇ、これからは会社のことは全部お前がやれ」

それ以上の説明はない。
差し出された通帳は店の出納管理に使うものだけではなかった。
等個人のものも含まれていた。
その意図を、父は息子に伝えない。
だが、正には父の思惑が理解できた。

「カネ儲けは一枚一枚、お札を積むこと」

「商売人はカネがなくても、持っているように振る舞え」

「カネがないのは首がないのと同じ」

そんなことを幼い頃から何度も息子に言って聞かせてきた父だ。
「商売人は信用が第一」。
そのことを父なりの表現で伝えようとしていたことは、自らも商売人となった今となっては染み入るように理解できる。

実際、父は信用の源泉ともいうべき銀行預金を積み上げることに執念を燃やしてきた。
そんな商売人の魂であり、信用を積み上げるための「一枚一枚」の記録が刻まれた銀行通帳を今、自分に丸ごと託すという。

等の定期預金は最終的に6億円になるのだが、今となっては父がそのための一円ずつをどんな思いで積み上げていったのかがよく理解できる。
お気楽学生の頃には「あんな仕事なんかやりたくないし、やる価値もない」と思っていた土建屋の仕事が成功したのも、今思えば父なりに商売人としての信用を積み重ねた結果だ。
思春期には「オヤジの趣味は貯金かよ」と毒づき、嫌悪感に近い感情を抱いたこともある。

その集大成を、まだ25歳の自分にポンと預けてしまった。
特になんの説明もなく、である。
正には父の真意がうかがい知れない。
息子が黙っていると、父はこんなことを付け加えた。
柳井は今でもその言葉が、鮮明に耳に残っているという。

「ええか。失敗するんやったら俺が生きているうちにせえよ」

これからはお前が思うように経営しろ。
万が一、それで失敗したら俺がケツを拭いてやる――。
それは、どこまでも親分肌の父らしい表現での禅譲だった。

通帳と印鑑を手渡された時には正直なところ、父が心血を注いで育ててきた家業を託されたという実感がなかった。
だが、時間がたつにつれて言葉数が少ない父の思いが伝わってきた。
すると、ひりひりとした感覚が背筋を走る。

「潰せない」

後にこの禅譲劇について柳井に問うと「あれは『(商売人としての)命をお前に預ける』ということでした。それまでも覚悟はしていたけど、あの時にこれは逃げられない、失敗できないなと気づいたんです」と答えた。

父の真意を悟ると、これまでに感じたことのない重圧が25歳の若者の両肩にずしりとのしかかってきた。

暗黒の10年間 p84

父から銀行通帳と印鑑を手渡された柳井正。
今になって思えばこの静かな禅譲劇が、お気楽学生が一個の確たる意志を持つ経営者になっていく、まさに変曲点だった。
ただ、経営者として銀天街にふたつの小さな店を持つだけの小郡商事をどう導けばいいのか。
その答えがこの時点で柳井に見通せていたわけではなかった。

ここから新米経営者・柳井正の暗中模索の日々が始まった。
それは柳井自身が「金の鉱脈」と呼んだユニクロの「発見」にいたるまで、10年ほどの暗く長いトンネルの中でもがき続ける日々の始まりでもあった。

「いつまでも銀天街で街の紳士服屋を続けているようでは、お先真っ暗だ。でも、じゃあ、どうすればいいんだ……」

そんな自問自答がこの後、実に10年間も続くことになった。
暗いトンネルの出口に至るまでのストーリーはこの後に書く。

唐突かもしれないが、あえてここで問いたい。
柳井正という人の凄みはどこにあるのか。

経営者としての軌跡を追うのなら、それはユニクロというビジネスモデルを発見し、さらにそれを後に「LifeWear(ライフウエア)」と呼ぶひとつの産業といえるだけの高みにまで持っていくため、アジアにヒントを求めて大規模な国際分業を実行に移し、さらには情報産業との融合を目指していったダイナミズムで語ることができるだろう。
もちろん、それは一人のアントレプレナーとして大きな足跡であり、本書でも詳細に再現する。

だが、そういった後に誰もが知ることになる成功へと至る物語の以前に存在したこの長い時間にこそ、経営者としてのこの人の本質を垣間見ることができるのではないかと思う。
要するに、まったく結果を出せなかったこの「暗黒の10年間」に、柳井正という人の凄みが凝縮されていると、私は思うのだ。

解なき問いと向き合い続けた10年。

こんな風に言い切ってしまうのが、我ながら陳腐な表現だと思える。
この10年間は後のユニクロの物語と比べると実に静かに過ぎていく。

この間、柳井が率いて浦が支える小郡商事は少しずつ地元で店舗数を広げていった。
会社としての当時の過程に関しては正直に言って、あまり書くべきことはない。
だが、この間に柳井が向き合った「解なき問い」こそが、その後のユニクロの爆発的な成長をもたらす原動力となったことは間違いない。
そこに焦点を当てていきたい。

このままでは潰れる p86

紳士服のオゴオリとVANショップのメンズショップOS。
銀天街にある2つの店を切り盛りする中で見えてきたのが、当時のこの業界が抱える構造的な課題だった。
これは先述したノートに書いて日々の商売を「見える化」することから把握していったことだ。

まず祖業である紳士服は、一着が5万円から10万円はする。
単価が高いのは良いが一方で、なんと言っても回転率が悪い。
はやり廃りはそれほど大きいものではなく定番の商品の売れ行きは計算しやすいものの商品単位での回転率を考えれば、良くて年に3回ほどになる。
平均すれば同じお客が買ってくれるのは年に2回が良いところだろうか。

しかもスーツを売るには丁寧な接客が不可欠となる。
並べておけばお客が手に取って勝手に買っていってくれるというものではない。
スタッフには単にお客に服を勧めるだけでなく採寸や裾の直し、ネーム入れなどを求められることも多い。
極めて労働集約的なのだ。

一方のカジュアルウエアは、基本的に黙っていても売れる。
陳列棚からお客が気に入った服を選んでくれるからだ。
ただし、こちらにも短所があった。
メンズショップOSで主に扱っていたVANはこの当時、販売価格の5%が卸に入るように決められていた。
しかも全額をキャッシュで支払う必要がある。
小郡商事に残る利益は極めて少ない。

実際、浦と二人で再出発してからしばらくして小郡商事の経営は軌道に乗り始めたとはいえ、利益面では綱渡りのような状態が続くことになった。

毎シーズンのように期末になるとセールをするのだが、そこでそれまでに蓄えてきた利益が飛んでしまうということも度々だった。
それでもセールで売らないと資金繰りが途絶えてしまう。
柳井は「毎年、おかしいなと思いながらやっていました」と振り返る。

日々食いつなぐだけならなんとかなるかもしれないが、その先の展望は見えてこない。
いや、いつまでも「なんとかなる」が続く保証なんてどこにもなかった。

ちょうどこの頃、石炭の街として栄えてきた地元・宇部の経済は転換期を迎えていた。
すでに炭鉱を運営する宇部鉱業所は閉鎖され、1970年代の2度の石油危機を経て石油へのエネルギーシフトは不可逆にして揺るぎないものとなっていった。

その余波が、かつてあれだけ栄えた銀天街にもじわりと押し寄せてきていた。
日々店頭に立っていると、人の波をかいくぐるようにして歩いた昔日のにぎわいが目に見えてしぼんでいくのを実感せざるを得ない。
宇部の商店街で産声をあげた牧歌的な家族経営が通用しなくなる日がじわじわと、そして確実に近づいている。
そんな恐怖心が決して思い過ごしではないことを嫌でも思い知らされるのだ。

「こんな商売をしよったら先はないよなぁ……」

柳井は浦にこんなことをつぶやくようになっていた。
店の敷地がもともと家族の持ち物だったからなんとかやりくりできたが、そうでなければとっくにたち行かなくなっていたことだろう。

柳井はこの頃、店が潰れる夢を繰り返し見たという。
うなされるようにして眠りから覚めると、まどろみ混じりの中で「まだ潰れていないか……」と確認してホッとひと息つく。
そんな朝を何度も経験した。

柳井の右腕となって店を切り盛りしていた浦は、当時の小郡商事の経営についてこう証言する。

「社長は自分の家も銀行の担保に入っていたし、そういう夢を見るのも仕方がなかったのだと思います。もし自分だったら気がおかしくなっていたんじゃないかな、と」

生き残るために、できることはなんでもやった。
浦がこう続ける。

「閉店セールも何度もやりましたよ。
閉店だとチラシを打って、大阪の業者に頼んで店を少しだけいじるんですよ。
でも、お客さんからすれば『またかいな』ですよね。
それでもやらないよりはやった方がまし。
少しは売れますから」

柳井はユニクロを経営するようになってからも「チラシはお客様へのラブレター」と言って、チラシの出来栄えにはとことんこだわってきた。
この当時もチラシには並々ならぬ情熱を注いだというが、経費を節約するためにチラシの写真のモデルには浦や他の社員を起用することも多かった。

小郡商事のふたつの店には何が足りないのか。
どこかに縮小均衡を打ち破るヒントはないものか。
柳井の模索が続いた。
黙考するだけではなく、出口につながる何かを求めるように飛び回った。

柳井はバイヤーの仕事も兼ねていたため関西まで買い付けに行くと、問屋たちにこれから売れ筋になるかもしれない服のことをしつこく聞いて回った。
大型の展示会にはなるべく足を運ぶようにした。
同業のベテランバイヤーたちから情報を仕入れるためだ。

期末セールの時期になるとメーカーなどから宇部にも派遣されてくるのがルートセールスの営業マンたちだった。
店頭に立って即席の販売員として手伝ってくれるのだが、彼らが来ると決まって自宅に誘って食事の後にはマージャンの卓を囲んだ。

今、他の地域では何が売れているのか、何が売れなくなっているのか。
銀天街のふたつの店には何が足りないのか――。
応援販売員として店頭に立っている時には彼らが明かさない本音を聞き出そうとしたのだ。

言うまでもなく宇部の商店街はアパレル業界の中心地とは遠く離れている。
東京にいれば当たり前のように入ってくるような情報も皆無だった。
今の言葉で言えば情報弱者だ。
周囲を見渡しても手掛かりのようなものは皆目見当たらない。
それどころか生まれ育った銀天街の商売仲間たちの姿に違和感を覚えるようになっていた。

「毎年、同じことの繰り返し。洋服屋は洋服が好きだからやっている。そういうのはビジネスというのとは何か違うんじゃないかなと思っていました」

そんな圧倒的な弱点を柳井は痛感していたからこそ、自分の足で補おうとした。
足を動かすだけではなく、世界の叡智と会話することができる本にもそのヒントを求めた。

皮肉なことに、この弱点を補おうとする情熱こそが、ユニクロ誕生の原点となったのだ。
逆説的ながらユニクロが日本にはなかったアパレルの形を創りあげることができたのは、創業者である柳井がアパレルの本場から遠く離れた場所にいたことも要因と言えるだろう。
もし柳井家の小郡商事が東京の繁華街にあったらユニクロは生まれなかったのではないかとさえ思える。

暗中模索の日々の中で、柳井は経営者としての決意を一枚の紙に書き記した。
黄色い便箋に手書きで「今後10年間の経営方針!!」と題されている。

冒頭に記されているのが「家業から企業への転換」だ。
次が「科学的経営の確立」。
これらは言葉を換えれば「銀天街での家族経営の小郡商事からの脱却」ということになるだろう。
その下には、具体的な施策が列記されている。
原文をそのまま引用する。

「紳士服のトータル専門店としてのチェーン展開をはかる(三年以内に人口10万以上の都市に出店を目指す)」
「年率20%アップの売上、荒利益、純利益の確保をはたす」

この一枚の便箋が柳井にとっての初めての経営計画となった。
この時点では「これを一生やって30店舗で年商3億円くらいにできればいいなと思っていた」と言う。
そんな柳井の目線を大きく持ち上げてくれたのが、ヒントを求めて尋ね歩いた問屋でもルートセールスでもなく、本を通じての偉人たちとの対話という静かな時間だった。

憧れだった松下幸之助 p91

柳井の読書好きは当時も今も変わらない。
自宅に戻り食事を終えると、書物を通じて世界の叡智と向き合う時間を大切にする。

いくつもの本を手に取ってきたが、その中でも特に強く影響を受けた人物が何人かいる。
日本の経営者の中では、松下幸之助と本田宗一郎には強く感化されたという。

ここでまた少し余談になる。

柳井は松下幸之助のことを「経営者としてのモデルというより僕のアイドルだった」と言うほど心酔している。
子どもの頃に小郡商事の住み込みの従業員が毎晩、幸之助の著作を読んでいるのを見て「幸之助さんというのは偉い人なんだなぁ」と思っていたというが、店の経営を託されてその著作を実際に読むことになり、幸之助の経営哲学に傾倒するようになった。

幸之助翁と言えば「水道哲学」が有名だろうか。

「産業人の使命は貧乏の克服である。
そのためには、物資の生産に次ぐ生産をもって富を増大させなければならない。
水道の水は加工されるものであるが、通行人がこれを飲んでもとがめられない。
それは量が多く、価格があまりにも安いからである」

「産業人の使命も、水道の水のごとく物資を豊富にかつ廉価に生産提供することである。
それによってこの世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。
わが社の真の使命もまたそこにある」

その言葉を、柳井はこう解釈する。

「やはり幸之助さんの言葉には社会観がある。
決してきれいごとじゃない。
彼は本心でそう言っているんだろうなと思うんです」

そして自らの境遇を重ねた。
松下幸之助はわずか9歳で火鉢店にでっち奉公に出されてから己の才覚ひとつを頼りに道を切り開いていった。

「逆説的な言い方ですが、幸之助さんが恵まれていたのは、恵まれていなかったこと、つまり何もなかったことなんじゃないかと思うんです。
何もなければ全部自分でできるでしよ。
恵まれていないからこそ創意工夫でなんとでもできるから」

それは戦後すぐに会社を興した本田宗一郎も同じである。
こちらもやはりでっち奉公から這い上がり、苦心の末に創り上げたピストンリングというエンジン部品の会社をおこした。
それを、とことん気があわなかったというトヨタ自動車に売り払い、終戦の焼け野原の中で「人間休業」と称して無為な日々を送りながら温めたのが、自転車を改良した二輪車の会社だった。

正真正銘の「無」から始めた、偉大な先人たちから何を学ぶべきか――。
自分にも同じことができないはずがない。
できないと、誰が言えるだろうか。
ファッションという世界から見れば辺境の中の辺境と言える宇部の商店街からでは、何かを創り上げることができないなどと、誰が言えるだろうか。

コンプレックスとも反骨心とも言える感情の中で、柳井の中に芽生えたのが、偉大な先人たちの足跡をただの成功物語という史実として学ぶのに終わらせるのではなく、自らの形で再現できるのではないかという希望だった。

p96

松下幸之助や本田宗一郎と並び、柳井が尊敬する海外の経営者の中で真っ先に名前が挙がるのが米マクドナルド創業者のレイ・クロックだろう。
そして、この時からしばらく時代が下り、ユニクロ第1号店をオープンさせた後に宇部の書店で手に取ったのが米ITT(インターナショナル・テレフォン・アンド・テレグラフ)のCEOだったハロルド・ジェニーンが書いた『プロフェッショナルマネジャー』という本だった。

他には「経営の神様」と言われるピーター・ドラッカーの著作から極めて強い影響を受けた。
ドラッカーの著書はすべて手に取ったという。
代表作である『マネジメント』や『現代の経営』、『イノベーションと企業家精神』、『プロフェッショナルの条件』などはその後もユニクロの経営が節目を迎える度に何度も読み返してきた。

実はドラッカーの著作は早大の学生時代にも読んだことがあったのだが、父から通帳と印鑑を渡された後に改めて読み直したのだという。
まだユニクロ前夜の小郡商事を経営していたこの時点では、それほど感じ入ることはなかった。
ドラッカーの言葉のひとつずつが染み入るように響き始めたのは、1984年に広島の繁華街の裏道でユニクロをオープさせ「金の鉱脈」を見つけた後のことだった。

数々の偉大な先人たちと書物を通じて対話してきたという柳井だが、ここではマクドナルド創業者のレイ・クロックについて触れることにしたい。
そこに、紳士服とVANの小郡商事からユニクロへと至るヒントが隠されていたからだ。

レイ・クロック p98

20世紀に入り英国やドイツ、フランスといった欧州の列強に代わってアメリカが世界の頂点に君臨するスーパーパワーとして台頭していた。
この頃、かの国では資本主義の申し子たちがまばゆいばかりの成功をつかみ取っていった。
アメリカン・ドリームを手にした者たちの中でも、クロックは実に異質な存在と言えるだろう。

チェコ系ユダヤ人の子としてシカゴの近郊に生まれたクロックだが、成功者としてその名が知られるようになったのは初老を迎えた頃だった。
52歳でマクドナルドに出会うまでの半生は波乱に満ちたものだった。

高校生の頃にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、クロックは戦地に馳せ参じようと、年齢を詐称して赤十字病院の救急車ドライバーとなった。
衛生隊に所属することになったのだが、同じ隊に居合わせたのがまだ無名だった若き日のウォルト・ディズニーだった。

衛生隊で訓練を積んだクロックだが、フランス行きの船に乗り込む直前に休戦協定が結ばれ、やむなくシカゴに戻ることになる。
両親の説得にあってしぶしぶ高校に戻ったが長続きせずに退学し、装飾リボンのセールスとピアノ演奏で食いつなぐ生活を始めた。
その後は職を転々とする。
バンドマン、シカゴの証券取引所のボードマーカー、紙コップのセールスマン、不動産業者、そしてミルクセーキミキサーの営業マン……。

ミキサーの仕事をしていた52歳のある時に立ち寄ったのがロサンゼルス郊外の砂漠にさしかかる辺りに位置するサンバーナーディーノにあるハンバーガーショップだった。
多くのお客たちから、この店を経営するマクドナルド兄弟が使っているのと同じマルチミキサーを売ってほしいという話を聞いたのがきっかけだった。

そこでクロックが見たのは、8台のミキサーがフル回転する大繁盛店の様子だった。
クロックが感銘を受けたのはミキサーそのものの性能ではなく、午前11時の開店から8台ものミキサーが絶え間なく動くほどにシステム化された店内の働き方だった。
クロックは代表作『成功はゴミ箱の中に』で、その様子をありありと回想している。

八角形の店の裏にある倉庫から材料を運んでくると仕込みが始まる。
ポテトの袋、牛肉の箱、牛乳とソフトドリンク類、パンのケースが台車に載せて次々と運ばれてくる。
その様子を眺めていたクロックは、「何かが起こりそうな気配がはっきりと感じられた」という。
店員が働く姿はまるで「アリの隊列のように見えた」。
一切の無駄がなくテキパキと働く様を見て、マクドナルド兄弟がこの店で創り上げたシステムが何か新しいものであることに気づいたのだ。

その日の夕食の席で兄弟は、クロックに繁盛の秘密を明かした。
最も重要なのはメニューを最小限に絞って、スタッフの作業効率をギリギリまで高めるというアイデアだった。

例えば、ハンバーガーはたったの2種類だけ。
普通のハンバーガーと、それにチーズを挟んだだけのチーズバーガーだから、実質的には1種類だ。
ドリンク類も同様だ。
これをマニュアル化された手順で作っていく。
なるべくセルフサービス方式も採り入れているのは、スタッフの動きを最小化するためだ。
兄弟はさらに効率経営を徹底するためにドライブイン形式の新店舗を考えており、クロックにその設計図を見せたという。

マクドナルド兄弟の言葉に耳を傾けるクロックは、確信した。

「これは、私がいままでに見た中で最高の商売だ!」

マルチミキサーを売り込もうと思ってやって来たクロックは、考えを一転させる。
この兄弟が創り上げたハンバーガーショップそのものを売り込もうと決めたのだ。

こうしてマクドナルド兄弟からハンバーガーショップのフランチャイズ権を買い入れたクロックは、このロスの街外れで見た店を、世界中に知られることになる巨大チェーン店へと押し上げていった。
そんなクロックは前掲書の冒頭で、こんなことを述べている。

「人は誰でも、幸福になる資格があり、幸福をつかむかどうかは自分次第、これが私の信条だ。シンプルな哲学である」

まさにアメリカン・ドリームそのものである。

「Be daring, Be first, Be different」 p101

こんなストーリーを宇部の自室で読みふけった柳井は、自らもクロックが言う「幸福になる資格」をつかみ取れないものかと思案を重ね始めた。
クロックの言葉が胸に響く。

「Be daring, Be first, Be different(勇敢に、誰よりも先に、人と違ったことを)」

柳井はこの言葉を手帳に書き写し、その後に何度も読み返したという。
ただ、柳井が異国のアントレプレナーから書物を通じて学び取ったのは精神論だけではなかった。

「なるほど、小売りはシステムか……」

クロックが創り上げたのは単なる飲食店ではなかった。
ロス郊外の砂漠のほとりに立つ小さなハンバーガーショップをもとに、ファストフードという新しい産業を築き上げていった事績にこそ、クロックの経営者としての神髄が凝縮されている。
クロックはもともと働き方が効率化されていたマクドナルド兄弟の店を多店舗展開する中で、チェーンとして多くの店の運営をシステム化していき、ファストフードチェーンというまったく新しい業態を創り上げてしまったのだ。

「ならば、自分には何ができる」

柳井はこう考えた。
ただ単に偉人伝を読むのではない。
柳井流の読書法は、「もし自分だったらどうするか」と考え、筆者と対話する点にその妙がある。
柳井の自問自答が始まる。

ファストフードのような、紳士服のファストチェーンというのは、どうか。
いや、それなら紳士服より可能性があるのは、VANのようなカジュアル服ではないだろうか――。

この頃の柳井にとってもうひとつの気づきを与えたのが、業界団体の存在だった。
父の柳井等やその番頭である千田秀穂が小郡商事の店を切り盛りした時代に加盟していたのが日本洋服トップチェーンという紳士服店が集まるボランタリーチェーンだった。
当時の小郡商事はこの団体を通じて紳士服を仕入れていた。

この日本洋服トップチェーンから羽ばたいていった店は数多い。
広島県福山市の青山商事は日本初の郊外型紳士服店をオープンさせ、長野市のアオキは早くからコンピューターシステムを導入して長野県内に紳士服の超大型店を開いた。
福島県いわき市から生まれたゼビオは紳士服からスポーツ用品店へと変貌を遂げていく。
岡山のはるやま商事は関西一円にチェーン展開を仕掛けていった。

全国のライバルたちが街の紳士服店から業容を広げていく様を目の当たりにした柳井は、じっと考え込んだ。
数々のライバルと小郡商事との彼我の差を考えた時に、ひとつの結論に達した。
それは極めてシンプルなことだ。

「同じことをしていてはダメだ」

p104

この時に柳井の脳裏によみがえったのが、生まれ育った銀天街だった。
狭い通りを挟んで小郡商事のはす向かいにあったのが鳳鳴館という小さな書店だった。

子どもの頃に立ち読みしていると店主がハタキを手にパタパタとホコリを落としている。
たまに売れ残りの少年誌の付録をもらえるのが、幼い頃の柳井の密かな楽しみだった。
その後も書店には足しげく通うことになるが、よく考えれば店舗の大小にかかわらず、書店という場所ではお客がじっくりと本を吟味し、思い思いに欲しい本を手に取っていく。
押しつけがましく話しかけてくる店員は皆無だ。

目の前の大学ショップと同じである。

大好きなレコードを売る店も同じようなものだ。
接客なんてものはなく、店員はお客が求める商品を補充するだけ。
それは手抜きのように見えてそうではなく、誰もが買いやすい空気感を演出していたのではないか。

できれば鳳鳴館のような商店街の小さな店ではなく、かつて照代とのデートの待ち合わせ場所にしていた大阪・梅田の紀伊國屋のように、そこに行けば確実に欲しい本が手に入るような品ぞろえの充実したまるで倉庫のような店。
そんな店をカジュアル衣料でつくれないか――。

こんな考えを巡らせるうちに柳井が行き着いたのが「いつでも誰でも好きな服を選べる巨大な倉庫」というコンセプトだった。

悶々とした日々の中で、柳井はその後の成功へといたるアイデアを手にすることになる。
そうとなれば取るべき行動は決まっている。
手帳の中に、その言葉はあった。

「Be daring, Be first」

勇敢に、誰よりも速く――。

人生の転機というものは思うだけではモノにできない。
行動に移してこそチャンスは自分の手の中に転がり込んでくる。
いや、転がり込んでくるのではなく、そこに手を伸ばし、自分の力でつかみ取るのだ。

勇敢に、誰よりも速く、人と違ったことを――。

こうして手帳に書き写したレイ・クロックの言葉を、柳井正は実践していくのだった。
ヒントを探し続けた20代から30代前半の暗黒の10年、解なき問いと向き合い続けた10年とついに決別する時を迎えた。

柳井が「金の鉱脈」と呼んだユニクロの発明。
広島の裏通りでオープンした「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」は開店初日から大ブレークを記録する。

それはしかし、柳井正とユニクロが歩んだ物語の、ほんの序章に過ぎなかった。

p110

こうしてできあがったユニーク・クロージング・ウエアハウス。
店があったのは広島の繁華街である袋町だ。
ただし、地元では「うらぶくろ」と呼ばれる通りで、アーケードのある大きな商店街からは少し離れた場所にある。
今でも多くの人が行き交うアーケードの本通りに出店するだけの力は、当時の小郡商事にはなかった。

それでも柳井にとっては乾坤一擲の大勝負である。
オープンの数週間前から多くの社員を宇部から広島に派遣して近くの学校などでビラを配らせた。
人海戦術で新しいコンセプトの店を告知したのだ。

柳井はチラシを「お客様へのラブレター」と呼んでいるが、この時のチラシにも新しいコンセプトへの思いを綴っている。

「本屋みたいな、レコードショップみたいな、在庫ドッサリ、服屋さん。どうしてなかったんだろうね」

3万もの在庫をうたい、そのほとんどが1000円か1900円。
高いものでも2900円までという激安の価格帯だ。
豊富な品ぞろえもさることながら、やはり安さがこの新店舗の「売り」だった。

地元限定ながら「笑っていいとも」の時間帯でテレビCMも流した。
この時に起用したのが広島県の出身で、当時テレビ番組の「ベストヒットUSA」で人気を博していたDJの小林克也だった。

王道の広告戦略に加えて奇策といえるのが、柳井が考案した早朝6時の開店だった。
アパレルショップが朝6時にオープンするなど、前代未聞だろう。
そんな早朝に誰が服を買い求めにくるのか。
これには古参幹部も耳を疑ったという。

2号店の失敗、「僕のおごりだった」 p116

暗黒の10年間をへて柳井がついに掘り当てた「金の鉱脈」。
ここからユニクロの飛躍的な成長が始まった、……わけではなかった。

プロローグでも述べた通り、ユニクロの物語は足し算と引き算の繰り返しである。
時に大きく飛躍したかと思えばつまずき、坂道を転げ落ちる。
そしてまた坂を登る。
そのたびに登り方を変えて――。

さばききれないほどのお客が押し寄せて大成功として記録されることの多いユニクロの原点だが、実はこの直後にも小さなつまずきが待っていた。

うらぶくろの1号店から歩いて数分の距離にある新天地と呼ばれる繁華街。
うらぶくろより人の通りが盛んなこの場所に、柳井は広島2号店を作ることを決めた。
選んだ場所は宝塚会館という映画館の2階だった。
路面店である1号店と比べて不利なことは承知していたが、柳井は著書『柳井正の希望を持とう』で、「賃料が安かったので、売れたらぼろ儲けだなと胸算用していた」と振り返っている。

これが裏目に出た。
私の取材にはもっと率直に打ち明けた。

「僕のおごりでした。自分が思っている通りの店なら絶対に流行ると思っていたのが、大失敗です」

この証言の通り、広島2号店には1号店にも増して柳井の趣味が色濃く反映されていた。
300坪ほどもあった広い売り場面積の半分ほどをハンバーガーショップと、ビリヤード台を置いたプールバーにしてしまったのだ。

店の名前はロックンロールカフェ。
ロンドン発祥でアメリカでも人気となったハードロックカフェをまねたものだろうが、下之園によると柳井とアメリカ西海岸を視察した際に立ち寄ったダイナーバーの「ジョニーロケッツ」もモチーフにしたのだという。

ちなみにバーガーが350円でホットドッグは280円。
やはり柳井が愛するアメリカの文化を取り入れたわけだが、客の目にはどう映っただろうか……。

この2号店の店長に指名されたのが、1号店のオープン日に助っ人として派遣されていた下之園秀志だった。
下之園はそのまま1号店の上の階に引っ越して店長の森田らを手伝うことになったのだが、柳井から「2号店では飲食店もやるから」と聞かされたため、少しでも経験を積もうと広島のロッテリアとコーヒーチェーンでアルバイトもしてオープンに備えていた。

だが、服の店にハンバーガーショップとビリヤードを併設する斬新なアイデアは、大ハズレとなった。
当時の小郡商事の年間利益は7000万円ほどだったが、これが吹き飛んでしまうほどの赤字となった。

「そりゃ、頭の中が真っ白になりましたよ」

そう言いつつ、柳井はこうも付け加えた。

「でもね、ものごとはやってみないと分からない。僕は失敗だと思った時、その理由を考え抜くんですよ」

そうして失敗を次の成功への気づきに変えてしまえばいいというのが柳井の思考法である。
この時の「気づき」は、飲食店を併設したことより立地を甘く見たことに尽きた。
路面店ではないというデメリットもさることながら、ファッションの店より飲食店が多く立ち並び始めていた新天地では、やはり映画館の上の服屋にお客の足は向かないという実にシンプルなことが敗因となった。
自ら「僕のおごり」と言うように、賃料の安さに目がくらんだことを今でも反省材料にしているという。

郊外店の成功 p119

金の鉱脈に見えたユニーク・クロージング・ウエアハウスだが、変調の兆しは華々しいスタートを切った「うらぶくろ」の1号店にも押し寄せていた。
1984年6月にオープンして半年ほどが過ぎ、年が明けた頃から、徐々に店内で目立つようになっていたのが地元の男子中高生たちだった。
店にたむろするだけでなかなか商品を手に取ってくれない。
繁華街に近い1号店は次第に彼らのたまり場のようになっていった。

当時は校内暴力が社会問題化していた時期でもある。
今では想像しにくいが、ダボダボの変形学ランを着込んで目が合う者たちを片っ端からにらみつける「ヤンキー」たちが、客の中に混じることが多くなっていた。
森田たちがうらめしさを込めてカラス族と呼んだ黒ずくめの学ランの彼らの存在は、実際のところ店にとってはありがたくない、招かれざる客だった。

最初から失敗だった2号店に続いて、当初は飛ぶ鳥を落とす勢いだった1号店にまで早くも陰りが見え始めてきた。
このピンチに「僕は失敗の原因を考え続ける」という柳井は、すかさず次の手を打った。

本やレコードのように気軽に手に取れる「安いカジュアルウエアの倉庫」というユニクロのコンセプトは間違っていないはずだ。
問題は立地にあると考えるべきだ。
では、本当の意味でユニクロの可能性を問うべき立地をどんな場所に求めるべきだろうか――。
そんな風に「失敗の理由」を因数分解した上で次の一手を練っていったのだ。

柳井は繁華街がダメなら郊外で勝負してみてはどうかと考えた。
ちょうど、山口の下関郊外で見つけた自動車用品店の跡地を借りて出店すると、手応えは悪くなかった。

「ユニクロのコンセプトは繁華街より郊外のほうが受け入れられるのでは」

こんな仮説を検証するチャンスは、すぐに巡ってきた。
広島で1号店をオープンさせてから1年余り。
広島の隣の岡山県で、街中と郊外の2店舗を同時に開店できる物件が見つかったのだ。

結果は郊外店の圧勝だった。

これには時代的な要因も強く影響しているだろう。
1985年の当時は、時代がバブル経済の絶頂期へと駆け上っていく、今思えば日本経済にとって最後の春を謳歌しようというタイミングだった。
時代は「燃費が良くてとにかく頑丈」という日本車がアメリカで飛躍していく時期とも重なる。
1970年代に訪れた2度のオイル・ショックを乗り越えて、日本の地方都市にもモータリゼーションの波が押し寄せていた。

まさにそんな時代のことである。
ユニクロの郊外店には暮らしに余裕ができた子育て世代がクルマに乗って続々と訪れたのだった。
なんとなくぶらりとやってくる客も多い街中の店と比べ、わざわざハンドルを握ってやってくる郊外店のお客の方が「今日はこれを買おう」という意識も強く、来店客一人当たりの購買単価が高いこともすぐに分かった。

実は、これこそが柳井にとって本当の「金の鉱脈」の発見だった。
広島での成功と失敗を通じて、今度こそ本物の金鉱脈を見つけたのだ。

この後、柳井はクルマが多く行き交う郊外の幹線道路沿いにターゲットを絞って次々とユニクロの郊外店をオープンさせていく。
こうして、柳井は暗黒の10年の末に見つけたユニクロという金鉱脈を、徐々に軌道に乗せていった。

ファストファッションへの疑問 p121

経営者としての柳井が情報に飢え、成功への手掛かりを探し続けていたことは第2章で触れた通りだ。
柳井は私の取材に対して、ユニクロの成功の秘訣についてこんな風に語ったことがある。

「やっぱり宇部という情報が限られた田舎町にいたことが大きかったんじゃないですか。そうすると求めにいくじゃないですか、外にね。東京にいたら色々な情報が入ってくるでしょ」

「それと、まずはひょっとしたら大成功するんじゃないかと考えることがすごく大事なんです。その手掛かりを世界中に聞いて回ればいいんです。僕はそうやってきた」

成功へのヒントは本の中にだけあったわけではない。
柳井は銀天街というファッションの世界では辺境の中の辺境と言っていい場所から、その目を世界に向け続けていた。
ユニクロのヒントがアメリカの大学で見たセルフサービスの店だったことはすでに述べたが、この時点でのユニクロは我々が現在知るユニクロとは、似て非なるものだった。

この当時、カジュアルウェアの倉庫をイメージした店舗で並べられていたのは、他社から買い付けてきた服だった。
海外から輸入してきたアディダスやナイキ、リーバイス、エドウィン……。
国産品も岐阜や大阪、名古屋から調達してくるといった具合だ。

大衆受けする服を大量に買い付けて大量に売る。
2000年代に入ってファストフードになぞらえてファストファッションと呼ばれるようになったビジネスモデルだが、この当時のユニクロはまさにその典型だった。

柳井はそんなユニクロを金の鉱脈と呼んだが、だからといってそれで満足しているわけではなかった。
むしろ、後にファストファッションと呼ばれるビジネスの限界を、早くも感じ取っていた。

ファストファッションでは、シーズンごとに大量に仕入れる商品をいかに売り切るかが勝負となる。
流行を先取りして売れそうなものを仕入れて、とにかく売り切るのだ。
資金力がない当時の小郡商事にとって大量の在庫を抱えたままシーズンの終わりを迎えることは、そのまま赤字を意味し、場合によっては致命傷になりかねない。

このビジネスモデルでは、服を企画するのはメーカー側だ。
メーカーがつくった服を小郡商事など小売店側は卸業者を経由して買い付ける。
こうなるとどんな服を取り扱うかについてはメーカーや卸に主導権があり、小売店側はとにかく売り切れるものを確保するという受け身の姿勢に、どうしてもなりがちだ。
価格設定はメーカーや卸に握られ、肝心の品ぞろえもその場しのぎのような形で一貫性がなくなってくる。

さらに言えば、「売れそうな服」を外すことなく店頭に並べようと思えば、どうしても商品の種類が多くなってしまう。
それらを売り切ろうとするために価格を安く設定する。

この構図はカジュアルウエアに限った話ではなく、小郡商事の本業だった紳士服でもまったく同じだ。
いわば業界の常識。
どこまで行っても小売店側が不利になるように思えるこの常識、言葉を換えれば負の連鎖を断ち切るにはどうすればいいのか――。
郊外型ユニクロで成功の端緒をつかんだ柳井は、小さな成功に満足することなくその解を探し続けていた。

香港で見たポロシャツ p123

そんな時に外にヒントを求めようと渡ったのが香港だった。
1986年のことだ。
アメリカの大学の店をヒントに、広島のうらぶくろでユニクロ1号店をオープンさせたのが1984年、岡山で郊外型店舗を始めたのが1985年のことだ。
そして、その翌年には続けざまに「脱ファストファッション」の手掛かりを求めて海外に飛んだことになる。

それは人の群れがごった返すような香港の下町の小さな店だった。

通りに面したジョルダーノという店にぶらりと入った柳井たち一行は、一枚のポロシャツに目を見張った。
特に上等というほどでもないが、モノはしっかりしている。
何より驚かされたのがその値段だった。
一枚が79香港ドル。
当時の為替レートで1500円ほどに相当した。
当時、ユニクロで扱っていたポロシャツは1900円だった。
ジョルダーノの店で売られていたのは、柳井が「これより安くは売れまい」と思っていた価格を下回る値付けだった。

「なんで、どうやったら、こんな値段で売れるんだ」

柳井は驚き、その場でそのポロシャツを何枚も仕入れて宇部に持ち帰った。
その場に立ち会ったのが広島2号店の店長となった下之園だった。
「デザインは普通のポロシャツですが、僕が感動したのが縫製でした」と振り返る。
つまり普通の消費者が目にしないような隠れた部分の仕事が実に行き届いているということだ。

それが、なぜ1500円で売れるのか――。

調べてみて分かったのが、ジョルダーノが卸を通さずに工場から直接仕入れているということだった。
しかも単に仕入れているだけではなく、そもそも服のデザインも自分たちで手掛けていることも分かった。

ジョルダーノが香港で実践していたこのビジネスモデルこそ、製造小売業(SPA)と呼ばれるものだった。
単に製造と販売を分業し、卸を通さない「中抜き」をするだけではない。
販売元がデザインまで手掛けて工場に発注する。
そうやって大量生産した服を全量買い取るリスクと引き換えに、圧倒的な安価を実現する。
そうすることで商品づくりの主導権を小売り側が持つことになる。

SPAは、まさにこの当時、1986年に米GAPが自らのビジネスモデルを表現するために使い始めた言葉だった。
正確には「Speciality store retailer of Private label Apparel」。
大文字をつなげて「SPA」だ。

この言葉の通り、SPAのAはアパレルを意味するが、SPAの発想はなにもアパレル業界だけにとどまるものではなかった。
このアイデアを後にIT業界で実践したのが米アップルだったと言えるだろう。
スティーブ・ジョブズがiPhoneで実現したのは、まさにSPAのビジネスモデルに他ならない。

初期のiPhoneの裏面には「Designed by Apple in California」「Assembled in China」(アップルがカリフォルニアでデザインし、中国で組み立てた)と表記されていた。
iPhoneはアップルが設計し、それを台湾のホンハイ(鴻海精密工業)が中国の工場で大量生産する国際分業体制を確立したことで、世界中に行き渡らせることに成功したのだ。

もっともジョブズは単にハードウエアとしてのiPhoneを成功させただけではなく、iPhoneというハードウエアを通じてアプリ経済圏というソフトウエアのエコシステムを築き上げた点に、その凄みがある。
そして後年、ジョブズがiPhoneで起こそうとしていた情報革命の本質にいち早く気づき、SPAをさらに進化させてユニクロを「情報製造小売業」へと転換させようと考えたのが、他ならぬ柳井だった。
このあたりの経緯は後に詳しく述べたい。

ジミー・ライとの出会い p126

「これは」と思う成功への手掛かりを見つけたら即座に行動に移すのが柳井流である。
柳井は知人を通じて香港で発見したジョルダーノの創業者に会う約束を取り付けた。

待ち合わせの場所に指定されたのは、香港の街中にあるレストランだった。
ジョルダーノの創業者であるジミー・ライ(黎智英)はロールスロイスに乗ってやってきた。

このジミー・ライという人は、立志伝中の人物と言っていいだろう。
中国の広東省広州市に生まれたが、7歳の時に父親は香港に亡命し、母親は労働改造所に送られたという。
12歳で密航船に乗って広州を離れ、マカオを経由して香港に逃げ延びてきた。
「自由の地」である香港では、幼くして手袋工場で働き始め、カツラ工場などを経て苦難の末に自ら立ち上げたのがジョルダーノというアパレルの会社だった。

ライの物語には続きがある。
1989年の天安門事件の際に民主化運動を支持するTシャツを大量に配ったことをきっかけに、ライは政治活動にのめり込んでいった。
この活動によって中国共産党に目を付けられることになり、ジョルダーノは中国本土での商売を禁じられた。
ライもジョルダーノの経営権を手放さざるをえなくなった。

アパレル業界から身を引いたライが、その後に立ち上げたのが香港の民主系メディア「蘋果日報(アップル・デイリー)」だった。
ライは2014年に雨傘運動と呼ばれた反政府デモに関わって当局に逮捕された。
香港で再び民主化運動が激しく取り締まられると、ライは2020年に再び逮捕され、アップル・デイリーも廃刊に追い込まれた。

柳井が会った時、ライは政治活動に没頭し始める以前であり、香港ではアパレル業界で成功を手にした風雲児として知られていた。
ライは柳井にも、流民の身から一代で成功をつかんだ自らの半生を語って聞かせた。

「香港に亡命した時、最後は泳いで海を渡ってきたんですよ」

「家ではペットとして熊を飼っています。今度、遊びに来てくださいよ」

世界史上の激動期を生き抜いた男らしい実に豪胆なエピソードを聞かされながらも、柳井は腹の内ではこんな風に思っていた。

(こいつにできるんなら、僕にもできるんじゃないか)

ライは1947年12月の生まれで、1949年2月生まれの柳井とは同世代にあたる。
豪快な立志伝にうなずきながら柳井がユニクロに取り入れようと考えていたのは、そのビジネスモデルだった。
そのためのヒントを、この立志伝中の人物との出会いでつかもうとしていたのだ。

幼い頃のライがそうだったように、中国では1949年の共産党革命を機に多くの資本家階級が香港近辺に逃げてきた。
その中でも特に多かったのが上海近郊などの紡績工場の経営者たちだったという。
1966年から10年間続いた文化大革命によって、その流れは一層、加速していった。

ライの立ち上げたジョルダーノが頼っていたのが、まさにこのような紡績工場の経営者たちだった。
GAPやリミテッドなどアメリカのアパレルブランドはすでにそこに目を付けて彼らの力を使い始めていた。
ライのジョルダーノもリミテッドのセーターの生産を請け負うなどして飛躍していた。
なんと言っても一度につくる量が違う。
聞けば、ひとつの商品だけで300万もの量をつくることもあるという。

その実態をつぶさに聞いて柳井が再認識させられたのが、「商売に国境はない」という戦後の西側世界で浸透しようとしていた資本主義社会のゲームのルールだった。
もはや国際社会は貿易によるモノの交換という大航海時代以前から徐々に築き上げられた古い形の分業体制から、製造や販売まで緻密に一体化された水平分業体制に移行している。
自らが身を置くアパレル業界でこそ、その変革の波が起きていて、そのダイナミズムを体現している男が今、目の前にいる。
自分と同じ年代の立志伝中の人物だが、果たして自分とそれほど違うのだろうか。

いや、俺にだってできるはずだ――。

香港での会食で柳井はこんなことを「発見」した。
発見するだけではダメだ。

「Be daring, Be first, Be different(勇敢に、誰よりも先に、人と違ったことを)」

ヒントを探し求めていた時代に米マクドナルド創業者のレイ・クロックから学んだ言葉だ。
よく考えれば、日本ではジョルダーノのようなSPAのビジネスモデルは確立されていない。
それを自分にだってできるはずだ。
やるなら勇敢に、誰よりも先に、である。

柳井はようやく見つけた金の鉱脈であるユニクロが軌道に乗り始めたかという、まだまだよちよち歩きだったこの時期に、全く違うビジネスモデルに転換させることを思いたった。
国内外の色々なメーカーから服をかき集めてつくる「カジュアルウエアの倉庫」から、本格的なSPAへの転換である。

「売れそうな服」をメーカーから大量に仕入れて安く売るビジネスモデルから、「売れる服」を自ら仕掛けてつくっていく。
そのために香港を中心に広がる海外の生産能力を味方に付ける国際分業体制を築き上げる――。
後にファストファッションと混同されることになるが、その実態は真逆と言ってもいいだろう。

この頃、小郡商事の本社はまだ宇部の銀天街の隣に立つ小さな4階建てのビルにあった。
社内で「ペンシルビル」と呼ばれていたほどの狭小ビルだった。
そんな吹けば飛ぶような規模の中小企業が、いきなり世界を相手に新しいビジネスモデルを創りあげようと動きはじめたのだった。

それは、手探りでのスタートだった。

「三行の経営論」 p138

ただし、この時点での成功は、柳井に言わせれば目的が曖昧なまま商売人として目先の仕事に追われていたに過ぎない。
当時のことをこんな風に振り返っている。

「毎日、努力さえしていれば、その歩いた先には何かしらの結果が待っていてくれると素直に思っていた」

周囲から見れば、ユニクロという新しいコンセプトの店を成功させた新進気鋭の経営者である。
しかも、山口の宇部という地方から頭角を現してきた新世代の経営者だ。
実際、この時期にすでに地元メディアではそのように取り上げられていた。

たいていの経営者はここで成功の味をかみしめるのだろう。
だが、柳井は違っていた。
「あの頃の僕はゴールを定めていなかった。だから、たいして成長しなかったんですよ」。
淡々とそう振り返る。

実はこの当時、柳井は山口や広島、岡山など中国地方を中心に30ほども店を展開できればそれで大成功だと考えていたのだと言う。
実際、そうなれば一生の安泰が約束され、地方の名士たちの間にその名が列せられるだろう。
だが、そんな考えが根底から覆される出会いが待っていた。
それは柳井が「商売人」から「経営者」に変容するきっかけでもあった。

それほど劇的な出会いというわけでもない。
柳井を導いてくれたのは、またしても一冊の本だった。

読書家である柳井がたまたま宇部の書店で手に取ったのが、ハロルド・ジェニーンというアメリカの経営者が書いた『プロフェッショナルマネジャー』という本だった。
一般には全くの無名だろう。
柳井も「あの当時、宇部であの本をむさぼるように読んだのは僕ぐらいだったんじゃないですか」と振り返る。
だが、この一冊の本が柳井を変えた。
結論から言えば、柳井が学んだことはふたつの言葉に集約される。

ひとつ目は、第2章でも言及した言葉だ。

「現実の延長線上にゴールを置いてはいけない」

私は何度かユニクロの経営を足し算と引き算に例えてきた。
スタート直後に広島での小さなつまずきがあったように、引き算はこの後に何度もやってくる。
一方で、足し算については、それが足し算に思えないほどのケタ違いの成果を、この後に何度も柳井は追求していくことになる。
それはまさに「現実の延長線上にない」というような規模の足し算を柳井が設定し、そこに至る道筋を描いて、実行した結果だ。

だから、後からその足跡をザッとたどるとそれらは足し算ではなくかけ算のような飛躍に見える。
だが、やはり足し算だというのが私の考えだ。
時に、あまりに高い場所を目指して一気にジャンプするから、ついついかけ算のように見えてしまう。
つまり、現実の延長線上にはない場所への飛躍だ。

ただし、実はそれらはあくまで地に足の着いた実現可能なジャンプだということだ。
飛躍の幅が大きすぎるので、とてもそうは思えないのだが……。
柳井とユニクロはこの後、そんな「現実の延長線上にはないけど、実現可能なプロセス」を追い求めていく。
時に周囲から理解されないこともあるし、誤解されることもある。
社内からも「とてもついて行けない」と思われ、人が去って行くこともある。
だが、この時から柳井が信念を曲げることはない。
その歩みを、これから本書ではひもといていきたい。

そして、柳井がジェニーンの『プロフェッショナルマネジャー』という本から学んだもうひとつのことは、この「現実の延長線上にゴールを置いてはいけない」という教訓を導き出した言葉であり、そんなゴールにたどり着くための道筋の描き方だった。
それを端的に表現したのが、ジェニーンが唱える「三行の経営論」だ。

本を読む時は、初めから終わりへと読む
ビジネスの経営はそれとは逆だ
終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをするのだ

つまりは逆算思考だ。
そして柳井は、当時のユニクロにとって現実の延長線上にはない「終わり」を定めた。

世界一である。

黎明期にあたるこの頃のユニクロは日本の中だけで見てもまったくの無名だ。
関東はおろか関西でもまったく名が知られていない。
まだ30店舗にも満たない田舎町の中小企業である。
そんな会社の若旦那が、大真面目に世界一への道筋を描き始めたのだ。

ただし、柳井の突拍子もない思考法が、すんなりと世の中に受け入れられることはなかった。

真剣勝負 p146

こうして安本が宇部に飛ぶと、小さな到着ロビーには電話をかけてきた浦利治が出迎えに来ていた。
名刺を受け取ると取締役総務部長と書かれている。

浦がハンドルを握るクルマに乗って10分ほど。
中央銀天街という商店街のはずれにある4階建ての小さなビルに着いた。
社員たちから「ペンシルビル」と呼ばれているだけあって、小さく狭い。
エレベーターはあるにはあるが、どうにも使い勝手が悪く社員はみな階段を行き来している。
安本も社長室があるという最上階まで階段で上っていくと、目に飛び込んできた光景にあっけに取られた。

30坪ほどのフロアに置かれた大きな執務机を取り囲むように、壁いっぱいに本が並んでいた。
置かれているのは企業や経営に関する本ばかり。
それも、ウォルマートやIBMなど海外企業を扱ったものが目に付く。
単に飾ってあるのではなく、多くの本の表紙がボロボロにすり減っており、読み込まれていることが一目で分かった。
企業経営者のオフィスというより、どう見ても経営学かなにかを専門とする学者の研究室のように思える。

ワンマン経営 p156

ここから安本の宇部通いが始まる。
安本が最初に手掛けたのが、組織図の作成だった。
その理由を語るにはまず、当時の小郡商事の社風から触れるべきだろう。

小郡商事でよく行われたのが「ワンテーブルミーティング」だった。
柳井がその場にいる社員を集めてミーティングを開く。
ミーティングというよりトップダウンの命令の場という方が正確だった。
柳井が「こうしてください」と言ったことを、その場にいた社員が実行する。
小郡商事にとっての意思決定とは、柳井の命令を意味していた。

そんな柳井流の経営スタイルをまとめた文書があった。
17カ条からなる「小郡商事経営理念」だ。
そこには、古今東西の企業経営を研究してきた柳井が理想とする経営論を煎じ詰めたような文言が並んでいた。

例えば、第1条の「顧客の要望にこたえ、顧客を創造する経営」。
これは柳井が敬愛す世界的な経営学者、ピーター・ドラッカーが『現代の経営』で説いた「企業とは何かを理解するには、企業の目的から考えなければならない。(中略)企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である」という言葉がモチーフとなっている。

ちなみにこの1カ条の経営理念について、安本は「いくらなんでも多すぎますよ」と言い、4カ条に簡略化すべきだと苦言を呈したが、柳井は「ひとつずつに意味があるんです」と言って聞かなかった。
この17カ条は後にむしろ項目が増えて、現在は23カ条となっている。
ただ、その最初に記されている言葉は現在も変わらない。

「顧客の要望に応え、顧客を創造する経営」

「こたえ」が漢字になっただけだ。
パッと見ると、当たり前の理念のように見えるのではないだろうか。
だが、柳井はこの「当たり前」のことをどう実現すればいいか、その一点を、時代をへるごとにとことん深くまで追求していく。
後々の章で詳述するABC改革や、情報製造小売業への転換という柳井の経営者人生の総仕上げとも言うべき改革も、このひと言をかたちにするための取り組みといえる。

つまり、柳井にとってこの17カ条は経営者として譲ることのできない言葉なのだが、ここで注目したいのが第8条である。

「社長中心、全社員一致協力、全部門連動体制の経営」とある。
つまり、社長を頂点とすとことんトップダウン型の組織ということだ。
実はこの「社長中心」の部分だけが後に「全社最適」と書き換えられている。
あるいは「全員経営」という言葉を頻繁に使うようになる。
トップダウン型からボトムアップ型へと抜本的に見直したわけだ。
このあたりの経緯については次章で触れる。
やや後になってから柳井はユニクロの飛躍を期すためにワンマン経営からの脱却を模索し始めたのだった。

社名変更と危険な計画 p164

この年の9月1日。
柳井はペンシルビル4階にある執務机の周囲に、その場に居合わせた社員を集めて、こう宣言した。

「皆さん、これから社名を小郡商事からファーストリテイリングに変更します」

唐突な社名変更だが、「ファーストリテイリング」は以前から社内で柳井が使っていた言葉だ。
意味を聞かれると「速い小売りです」と直訳で答えたが、その真意はマクドナルドのように高度にシステム化された小売業の形を目指すということだ。

多くの社員が驚いたのは社名変更より、柳井が明らかにした新生ファーストリテイリングが描く計画だった。

「これから本格的にユニクロを全国にチェーン展開します。毎年30店ずつ新しく出店します。3年後には100店舗を超えますが、その時点で株式の公開を目指します」

この時、ユニクロはフランチャイズ店を含めても23店に過ぎない。
創業事業である紳士服店などをあわせても29店舗だ。

広島のうらぶくろにユニクロ1号店を出してからこの時点で7年余りが過ぎていた。
ロードサイドの郊外型店という「金の鉱脈」を発見し、カジュアルウェアの安売り店に飽きたらず、すぐさま中国本土から香港に逃れていた華僑たちとのネットワークを築いていった。
そうして1店舗ずつを積み重ねてようやく23店舗までたどり着いたというのが、その場に居合わせた多くの社員たちの実感だった。
その数字をはるかに超える30店舗をわずか1年で達成し、しかもそれを毎年続けていくというのだ。

「母体より大きな赤ん坊を産むということですね」

安本に指名される形で管理業務の一切を預かることになっていた菅剛久が柳井に言うと、柳井は「うん。それでいいんじゃないですか」と素っ気なく返した。
だからどうなのだと言わんばかりだ。

柳井はこの計画を忠実に実行に移し、きっちり3年後の1994年7月に広島証券取引所への上場に成功するのだが、これは危険な賭けでもあった。

ユニクロのような衣料品店では、店を開くと日々現金が入ってくる。
商品の仕入れ代金は3カ月後の手形で支払うのだが、その間にしっかりと売り上げが立てば回転差資金と呼ばれる資金余剰が発生する。

ところが現状の規模を超える年30店舗もの出店を続けるとどうなるか。
当然ながら回転差資金をはるかに上回る出店資金が必要になる。
これは銀行からの借り入れに頼ることになる。
店を作れば作るほど借金が増える。
ユニクロが順調に成長を続けているうちは問題ないが、もしひとたび成長が止まれば巨大な借金が残ることになる。

つまり、立ち止まったらそこで終わり。
そうならないためにはペダルをこぎ続けるしかない。
それも昨日より、強く、速く――。

銀行が融資する際に求める担保には、会社だけでなく柳井個人の財産が含まれる。
資金繰りが行き詰まれば、父の等が「お札を一枚一枚積め」と言って蓄えた資産もまるごと持っていかれるだろう。
柳井父子がすべてを失うだけでなく、100人ほどに増えていた社員たちの家族も路頭に迷うことになる。

柳井の宣言は、絶対に立ち止まることが許されないレースが始まることを意味した。
出口はただ一つ。
上場によってまとまった資金を市場から調達することだ。

「上場できなかったら潰れる。そういう瀬戸際に、僕は自らを追い込んだんです」

柳井は私の取材に対して、当時の危機感をこう振り返った。
偽らぬ本音だろう。

もしこの時、ユニクロを30店舗程度にとどめて地域のカジュアルチェーンとして生きていく道を選んでいれば、少なくとも当面は安泰だったはずだ。
手堅く回転差資金がプラスになることに集中すればいい。
では、なぜそんな危険を冒してまで、誰もが無謀と思うような急激な拡大を求めたのだろうか。

ひとつには「なるべく早くに寡占状態を作る」という柳井の戦略があった。
めぼしいライバルが出現する前に「カジュアルウエアのチェーンといえばユニクロ」と誰もが認知するような存在にならないと、いずれレッドオーシャンでの戦いに巻き込まれると考えたのだ。
柳井が予想したGAPの日本進出だけでなく、国内からもいずれ手ごわいライバルが現れるかもしれない。
その前に、一気にカタをつけようというわけだ。

その一方で、柳井はこうも語った。

「それまでも僕は努力してきた。でも、たいして成長がなかった。それはなぜか。行き先を決めていなかったからです」

柳井は自著でも、ユニクロ以前の自身について「あの頃、日本には何万軒かの紳士服店、洋品店があったと思うけれど、そのなかの誰よりも、私は真剣に商売に取り組んだと思っている」(『柳井正の希望を持とう』)と振り返ったことがある。
『一勝九敗』では「単なる商売好きから経営者に生まれ変わらなくては」という思いに駆られたと打ち明けている。
もはや寝太郎と呼ばれた頃の無気力青年の面影は、そこにはない。

ただし、それは目標なき努力だったというのだ。
まさに暗黒の10年である。
それに対して、この1991年のペンシルビルでの宣言では、社員たちには語らなかった秘めた野望があった。

「僕は行き先を決めた。どうせ行くなら行き着く先まで行こうと決めた。それは世界一になることです。世界一になるためにこの仕事をやろうと決めたんです」

これが柳井の行き先である。
安本に渡した一枚の紙に「1997年に日本を代表するフアッション企業になる」と書かれていたことは前述した通りだ。
日本一の座を手にしたなら、そこで一息つくことなく、そのまま一気に世界の頂点を目指して駆け上がろうと決めたという。
その理由を聞くと、「だって、国体で優勝すれば次はオリンピックで金メダルを目指すのが当然でしょう」と返ってきた。
日本一はあくまで金メダルへの中間目標に過ぎないとも言う。

これは決して成功を手にした今だから語れる後付けの説明ではないだろう。
それは小郡商事とユニクロの歩みの時間軸を見れば明らかだ。

柳井がプータロー生活を切り上げて小郡商事に入社したのが1972年のことだ。
そこから上場を経てアパレルの本場である東京に進出したのが1998年のことだから、四半世紀が過ぎた計算になる。
フリースという画期的な商品を武器に、この東京進出を大成功させたことで、柳井は「日本を代表するファッション企業」の座をつかんだ。

それから海外に打って出るまでに3年。
それも試しに店をひとつ作ってみるかという程度ではない。
ロンドンで一気に4店舗をオープンさせ中国、アメリカと一気呵成に進出した。
宇部から東京までたどり着くのにおよそ30年を要したのに対し、海外にはわずか3年で進出した。
それも予想外のフリースの大ヒットによって、国内の店舗運営にまったく人の手が足りないという悲鳴が社内から聞こえてくるただ中である。

それでも海外進出を推し進めたのは、この1991年の時点で柳井が世界一になるとい明確な行き先を決めていたからだ。

「そのための工程表を、僕は作ったんですよ。日本一になったら売上高は3000億円くらいになっている。その時にはもう海外に行く事業をやる上で大事なのは、そういう計画と準備です。度胸だけじゃ、絶対にダメなんです」

現実の延長線上にゴールを置くな p169

繰り返しになるが、この時点でユニクロはまだ23店舗だ。
それもエリアは西日本に限られ、東京どころか大阪にさえ至っていない。
誰が聞いても無謀と思える世界一奪取計画を大真面目に描くことになったきっかけは、前述したハロルド・ジェニーンの著書『プロフェッショナルマネジャー』との出会いである。

実はこの本の冒頭で、ジェニーンは「セオリーなんかで経営できるものではない」と断言している。
「われわれは常になにかの種類の妙薬、誇大なうたい文句とともに売り出される特効薬を求めてやまない。
ビジネスの世界ですら、この事情は変わらず、そこではそうした妙薬は新理論と呼ばれる」。
ジェニーンは世の中で跋扈する経営の法則のようなものを、まるで子どものころにサーカスで見たマジックのようなものだと喝破する。

成功するための秘密や方式、理論など存在しないと前置きした上で、自分なりに身につけた経営の秘訣として「三行の経営論」を紹介している。

本を読む時は、初めから終わりへと読む
ビジネスの経営はそれとは逆だ
終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをするのだ

言うまでもなく、ジェニーンが言う「終わり」を柳井はこの時、初めて明確に設定したのだ。
それが世界一だった。
そのためには「現実の延長線上にゴールを置いてはいけない」というのが、柳井がジェニーンから得た学びだった。

それまでは毎日の努力がいつか成果として表れると信じていた。
暗黒の10年の日々にも、コツコツと努力さえ積み重ねていけばきっといつか報われる日が来ると信じていたのだ。
ところがジェニーンは目先の努力の前にまず「終わり」を決めよという。
その上で「そのボトムラインに到達するためになさねばならぬあらゆること」をせよと迫る。

逆算思考である。
この言葉に出会い、柳井は自分の考えの甘さを痛感したという。
そして考え方を180度変えることになった。

7年間で23店舗を展開するのが精いっぱいだった小郡商事あらためファーストリテイリングが、中間目標として「3年で100店舗」を掲げ、その先に世界一を目指し始めた。
まさにこの頃のユニクロにとっては現実の延長線上にはなかった「終わり」である。

当時の心境を聞くと、柳井はこう答えた。

「実は30店舗くらい出して年間30億円くらい売れればいい、それくらいにしかならないだろうと思っていたんです。
でも、ひょっとしてすべてがうまくいけば世界一になれる可能性が0.01%くらいはあるかもしれないと考えるようになった。
僕はその覚悟を決めたんです」

ちなみに、ジェニーンはこの三行の経営論を披露した『プロフェッショナルマネジャー』の第2章の結びでこうも述べている。

「言うは易く、おこなうは難しだ。肝心なのはおこなうことである」

柳井はここから世界一に向かって行動を開始し、ユニクロは異次元の成長軌道を描き始める。
ただし、柳井が描く壮大な野望と工程表を理解する者は皆無と言ってよかった。

「おこなうは難し」

ジェニーンの予言を、柳井はいきなり痛感する事態に直面することになる。

p186

そして翌日。
早朝に柳井が宇部から駆けつけて安本や菅と合流した。
広島証券取引所の近くにある喫茶店に入るが、どうも落ち着かない。
柳井はコーヒーを飲み終わらないうちに「行きましょうか」と言って席を立った。

そういえば宇部のペンシルビルの向かいにある社員御用達の喫茶店「はと家」で昼食をともにしても、いつも先に食べ終わるのが柳井だった。
ゆっくりと箸を進める安本に「それじゃ商売人になれませんよ」と珍しく冗談を飛ばしたものだ。
ちなみに、柳井がせっかちなのは今も昔も変わらない。

p212

「スターバックスのハワードもそうなんですが、『俺はこんな会社にしたいんだ』と熱く語る。
その姿にかっこいいなと思ったんです。
伊藤忠では会ったことがなかった。
ファウンダーとサラリーマンの違いはこれだけあるんだと。
どっちが良いとか悪いとかじゃないけど、単純に俺はこういう人間になりたいと思ったんですよ」

澤田はスターバックスからの誘いを蹴って、この聞いたこともない片田舎の新興アパレル会社に賭けてみようと考えた。
入社にあたり、柳井に2つの条件を提示した。

ひとつは「店長をやらせてください」だった。
店長がユニクロの要というのは柳井の持論でもあるが、澤田もまた現場を知らなければトップには立てないと考えたのだ。

もうひとつは「1年だけでいいので伊藤忠時代の年収を保証してください」だった。
当時の澤田の年収は1650万円。
言うまでもなく商社マンの高給は、こんな田舎の山中に居を構える無名の会社には望むべくもない。
だが、澤田はこうも付け加えた。

「1年で自分がどれだけやれるかを証明してみせます。それでダメだと思ったら、その時はクビにしてください」

すると、柳井はすんなりと承諾した。
伊藤忠の高給どころか、澤田は入社後わずか半年で役員に昇格したため、すぐに年収は2倍に跳ね上がったのだが。

アメ村で見た現実 p214

こうしてユニクロにやってきた澤田。
希望通りに大阪・ミナミの繁華街「アメ村」にある店に派遣された。
そこで見たのは、柳井が熱く語った理想とはかけ離れた現実だった。

澤田にとって一番ショックだったのが、店の従業員が誰もユニクロの服を着ていないことだった。
理由を聞くと、辛辣な言葉が返ってきた。

「なんて言うか……、デザインがダサすぎますよね」

「これ、洗ったら色落ちするし、めっちゃ縮むんですよ。こんなん最低やないですか。そら、着たいって思いませんよ」

売り場の誰もがユニクロの服に誇りを持っていない。
それどころか口を開けば散々にこき下ろしている。

「安かろう、悪かろう」というイメージからの脱却はユニクロにとって以前からの課題だった。
この時から2年ほど前には「ユニクロの悪口言って、百万円」という広告を全国紙に掲載している。
お客からのクレームを服の出来栄えにつなげる取り組みをしてきたつもりだったが、現実にはそのお客に服を売る店員でさえ、いまだにユニクロの悪口を平気で口にしていた。

いきなり現実を見せつけられた気がした澤田は居ても立っても居られなくなり、ペンを取った。

「この商品はボタンが取れやすい」

「現場のスタッフが今のテレビCMは恥ずかしいと言っている」

「商品によってばらつきがあるのは中国の工場のレベルがマチマチだからじゃないか」

現場で見えてきたユニクロの改善点をびっしりと手書きでしたためたレポートを、宇部にいる柳井にFAXで送ったのだ。
それも、毎週のように続けた。

すると柳井から連絡が入った。

「君のFAXを読んだんだけど、その通りだと思う」

澤田の進言に耳を傾けただけではなかった。

「君が責任を持って解決してくれ。会社の経営全般を見てくれ」

こうして柳井は澤田を宇部に呼び寄せて経営企画室長に任命した。
その直後に澤田が商品の不備を指摘すると「だったら商品の責任も持ってください」と言って商品本部長も兼任することになった。

さらにその2ヵ月後には「次の株主総会で選任するから」と言って取締役常務に抜擢した。
澤田の起用はこれにとどまらず、それから1年後には副社長に任命する。
入社からわずか1年半で店長修業の身分から副社長にまで昇格したのだ。

異例のスピード出世だが、そもそも柳井は当初から澤田に大きな期待を持ち、自分を支える側近にしようと考えていたという。
それは自分の経営哲学を注入しようとしていたことからも明らかだった。

澤田が入社すると、柳井はすぐに1冊の本を手渡した。
柳井が人生を変えた本として挙げるハロルド・ジェニーンの『プロフェッショナルマネジャー』だ。

ボロボロになるまで読み込まれたその本を開くと、いたるところに線が引かれている。
柳井の思考を徹底的に学んでやろうと考えていた澤田は、線が引かれている箇所をすべてノートに書き写していった。

ABC改革 p216

澤田という新たな右腕を得て動き始めたユニクロ改革。

澤田が入社した翌年の1998年6月に「ABC改革」と名付けた取り組みがスタートした。
ABCは「オール・ベター・チェンジ」の略で、「すべてをよりよく変える」という意味だ。
広島袋町の本通りから少し離れた通称「うらぶくろ」で産声を上げてからこの時点ですでに1年がたっていたユニクロを刷新しようという意味が込められていた。

そのきっかけとなったのが、澤田が柳井に送り続けたFAXだった。
このABC改革こそが、1984年に生まれたユニクロにとっての第2幕といえるものだった。

当初は他社から買い付けた服を大量に並べる「カジュアルウエアの倉庫」からスタートした。
すぐにそれを香港でヒントを見つけた製造小売業(SPA)へと進化させた。
生まれたばかりのユニクロにいきなり国際分業のビジネスモデルを持ち込んだのだ。

ただし、ここまでならすでにSPAを確立していたアメリカのGAPなどの後追いでしかない。
日本では先行したSPAを自らの手でさらにどう前に進めればいいだろうか。
柳井が自問自答し続けていた「ユニクロの進化」へと着手したのが、1998年に始まったこのABC改革だった。

では、具体的にユニクロをどうつくりかえようというのか。
様々な改革のゴールをひと言で要約してしまえば、「つくった服をいかに売るかではなく、売れる服をいかにつくるか」への変革ということに尽きる。
そのために、柳井は「売れる理由を売り場で表現せよ」と言う。

つくったものを売る商売から、売れるものをつくる商売へ――。

まさに商売の理想とも言える言葉であり、多くの人が「言うは易し」と感じることだろう。
これは後の章でも触れるが、柳井は「最後の改革」として、SPAから「情報製造小売業」への転換を掲げる。
その本質は実はこのABC改革となんら変わらない。
売れるものを作るにはどうすればいいか。
その一点を追求し続けてたどりついたのが製造小売業とデジタル革命との融合だった。

情報製造小売業については第11章で詳しく触れるとして、この時に始まったABC改革こそが、初期のユニクロを、現在我々が知るユニクロへと進化させる転換点だった。
「売れるものをつくる」という理想形から逆算すれば、やるべきことが次々と浮かび上がった。
その範囲は服のデザインにとどまらない。
どうやってつくり、どう売るか。
改革は会社全体に及んだ。

以下に代表例を列挙しよう――。

まず急務だったのが、140社近くにまで増えた中国の生産委託先工場の集約だ。
1社あたりの生産量を増やすことで品質を安定させるのと同時にコストダウンにもつなげる。
さらに絞った委託先に「匠」と呼ぶ生産技術のプロを送り込んで品質の底上げを図る。

ワンマン経営からの脱却も課題に挙げた。
澤田をはじめ社外から才能を集めることで、小郡商事時代から続く古参幹部による古い経営体制を刷新することを目指していった。

柳井が「店長が主役」と標榜し始めたのもこの頃のことだ。
第4章で紹介した通り、柳井が自らの経営理念を煎じ詰めるようにして考案した「17カ条の経営理念」の第8条には当初、「社長中心」と明記されていた。
その限界に気づき、現場主導の店づくりに転換し始めたのがこの頃である。

ちなみに柳井はこの第8条の「社長中心」という文言を、この頃には「全社最適、全社員一致協力」と書き換えていた。
尊敬する松下幸之助が唱えた「全員経営」にならったものだ。
全員経営の推進力となるべきと考えたのが、現場を預かる店長たちだ。
この後、スター店長の育成に力を入れていくことになる。

p225

これも余談になるが、柳井が尊敬する経営者として名を挙げることが多い本田宗一郎も、著書『俺の考え』の中でこんな言葉を残している。

「私の過去などは、現在を成功というならまさに失敗の連続で、失敗の土台の上に現在がのっかっているようなものである。
研究所では現在こうやっているうちにも失敗している。
研究所なんていうのは、九九パーセントが失敗で、それが研究の成果である」

「人は坐ったり寝たりしている分には倒れることはないが、何かをやろうとして立って歩いたり、駆け出したりすれば、石につまずいてひっくり返ったり、並木に頭をぶつけることもある。
だが、たとえ頭にコブをつくっても、膝小僧をすりむいても、坐ったり寝転んだりしている連中よりも少なくとも前進がある」

本田宗一郎は「成功とは99%の失敗に支えられた1%である」という言葉を好んで使ったが、意図するところは柳井の失敗哲学と同じだろう。

場末のまんじゅう屋 p239

こうして柳井に玉塚をスカウトしようと持ちかけた澤田だが、柳井からはあっさりと断られてしまった。

「彼はダメだろ。あれは、おぼっちゃんじゃないか」

柳井が玉塚を評価していないことはなんとなく分かってはいた。
日本IBMの営業マンとしてのプレゼンが取るに足らなかったことが要因だろうが、柳井が却下した理由はそれだけではなかったようだ。

玉塚の祖父は玉塚証券という証券会社の創業者だ。
もっと遡れば曽祖父の代から両替商を営む金融一家の出だった。
この玉塚証券は合従連衡をへて現在はみずほ証券となっている。
当然、玉塚は恵まれた家庭に育った。
慶應大学ラグビー部の出身であることは前述したが、東京の“上流階層”の子弟が集まる慶應幼稚舎の出身である。

「彼はボンボンだろ。そういう苦労していない人間はうちではダメだよ」

柳井がこう言って切り捨てようとすると、澤田は食い下がった。

「そうですけど、あいつはああ見えていい奴なんです。
それに、僕は伊藤忠の頃からあいつのことはずっと知っていますけど勉強熱心で、できる男なんです。
絶対に採った方がいいですよ」

そう言われてみれば澤田と似て、いかにも直情径行な男に見える。

この時期はユニクロがいよいよ都心に攻めこもうという勝負の時だ。
優秀な人材は喉から手が出るほど欲しい。
そもそも人の手が足りていない。
攻めのタイミングではこういう男は、悪くない。

「まあ、君がそれほど言うんだったら……」

こうして玉塚の採用が決まった。
柳井はこの時、まさか後に玉塚を自身の後継者に指名するとは露ほども思わなかった。
そもそも意中の人物が他ならぬ澤田だったからだ。

p241

ところで、入社に先立ち玉塚は澤田だけでなく柳井からも「君は将来、どうなりたいんですか」と問われていた。

「僕は将来、起業するか経営者になりたいと思っています」

玉塚がこう答えると、柳井は「そうですか」と言って、こんなことを話した。

「いいですか。MBAで習うようなことも大事かもしれない。でも、商売なんていうのはMBAで習う理論だけでできるようなもんじゃないんですよ」

そう言って、柳井はこんな例え話を続けた。

「例えば、これは場末だなっていう場所にまんじゅう屋を開くじゃないですか。
どうすれば売れるだろうかと考えて一生懸命になって作ったまんじゅうを店に並べるんですよ。
ところが、待てど暮らせどお客は来ない」

「そうなると考えるわけです。
やっぱりもっと値段を下げるべきなのかな、看板が小さくて気づいてもらえないのかな……、ってね。
そこでチラシをまいてみたらポツポツとお客は来るようになった。
だけど、誰も買ってくれない。
お金を払ってくれない。
そうこうしている間にも従業員には給料を払わなくちゃならない。
お金はどんどん減っていく……」

「そうするとねぇ……、『このままじゃ倒産する』と思って胃がキリキリと痛むんですよ。
経営者というのは、それでも考え続けるんですよ」

玉塚が黙って耳を傾けていると、柳井が言葉をつないだ。

「いいですか。そういう経験をしないと絶対に経営者にはなれません」

この時の柳井の言葉を、玉塚は今も忘れることができない。
経営者として文字通りに胃が痛む思いを、この後にユニクロ社長となった玉塚は身をもって味わうことになるのだっだった。

ZARAを築いた男 p245

ここから少し、ユニクロにとっての後のライバルのことを説明したい。
オルテガは1936年に四人兄弟の末っ子として生まれ、フランス国境に近いバスク地方の山あいの街で育った。
ちょうどスペイン内戦が始まった年で、日本の元号では昭和11年にあたる。
柳井より13歳年上ということになる。

父は鉄道関係の仕事をしており、貧しい家庭だったという。
13歳の時に父の仕事の関係でラ・コルーニャという街に移ると、家計を助けるために中学校を中退して地元の紳士シャツ店で働き始めた。
ラ・コルーニャはスペインの地図を書けば、左上の角に位置する港町だ。

オルテガはこの後、兄と姉が働いていた服地の店に職を移す。
ここで知り合った後に妻となる縫い子の女性と一緒に、女性用のバスロープと下着の会社を立ち上げたことが起業家としての原点となる。
1963年のことで、この時、オルテガは27歳。
13歳から服飾の仕事をしているのですでにキャリアは10年を超える。

この時点では販売店に服を卸す女性向けアパレルのメーカーだったが、小売業に参入する理由は抜き差しならない緊急事態に直面したことにあった。
直接のきっかけはドイツの取引先が突然、大量のキャンセルを突きつけてきたことだった。
困り果てたオルテガはその商品を他社に売ろうとしたがまったく売れない。
ならば自分たちで売りさばくしかない。

もうひとつの理由は既存の流通システムへの疑念だったという。
スペインの大手百貨店に売り込みに行ってもバイヤーと話が合わない。
「女性たちがなにを求めているのか。
この人たちは本当にその声を聞いているのか……」。
そんな疑問がこみ上げてくる。
消費者に直接ヒアリングして流行を見極めようとするのは、後々までオルテガが大切にしてきた信念だという。
商品を納めていた百貨店などの売り手が商品のこともお客のこともまともに理解しようとしていないのなら、自分たちで売ればどうか――。

こうしてオルテガが立ち上げたブランドがZARAだった。
1975年なので、ちょうど柳井が宇部の銀天街で浦利治とたった二人で再出発していた時期と重なる。

ところで、オルテガは地元スペインのメディアにもほとんど登場しない謎多き人物として知られる。
柳井が家族とバルセロナを訪れた数年後に、インディテックスの広大な本社を訪れた和歌山の編み機メーカー、島精機製作所創業者の島正博は、初めてオルテガと会ったときのことを鮮明に覚えているという。

案内された会議室でZARAの幹部陣と商談していると突然、部屋の明かりが消えた。
部屋の入り口の方に視線を向けると使い込まれた作業着を着た老人がスイッチを押したことが分かった。

「まだ昼間だから電気はいらないだろ」と言っているという。
この老人こそがアマンシオ・オルテガだった。
その言葉を通訳から聞かされると、同じく戦後の焼け野原から現場でたたき上げてきた島はいたく感銘を受けたという。

「片手は工場に、もうひとつの手は顧客に」というのがオルテガの哲学という。
アメリカでZARAが破竹の勢いで進撃を始めると、ニューヨーク・タイムズが取材に訪れたが、オルテガの時間は取れないと言われた。
だが、工場現場を撮影していると、作業員に交じって仕事をしているオルテガその人を発見したという逸話も残る。

巨大企業となってからも階層主義を嫌い、長らく社長室を持たずに社員たちと同じエリアに机を構えていたという。

そんな現場主義に立脚した小売業を目指したオルテガが立ち上げたZARAは、地元ラ・コルーニャ近辺に持つ自社工場と連動して、女性たちに求められる服を次々と店頭に送り込むビジネスモデルを確立した。
入れ替わりのスピードは商品によって異なるが、後にその回転速度は平均して3週間となる。
スピード感を維持するためグローバル展開を始めてからも多くの工場はスペイン国内か、ジブラルタル海峡を隔てた隣国のモロッコに持ってきた。

紳士服を源流に持つユニクロに対して、女性向けランジェリーが始まりのZARA。

小売店から始まったユニクロに対して、メーカーを原点とするZARA。

誰にでも着てもらえるベーシックウエアのユニクロに対して、流行に迅速に対応して売れ筋商品を次々と取り替えるファストファッションのZARA。

生産の国際分業に乗り出したユニクロに対して、スピード重視の国内生産にこだわるZARA。

こうして列挙しただけでも互いのDNAがまったく異なることは理解できると思う。
共通点といえば、いずれもファッションの中心地からは遠く離れた小さな港町から出発したITHことと、現場からたたき上げながら常に外の世界にヒントを求め続ける創業者がいたことだろうか。
もちろん、どちらにも長所と短所があり、どちらが優れていると言いたいわけではない。

p254

森田が入社した際の肩書は管理本部副本部長だが、柳井から「ファイナンスのことはぜんぶ任せるから」と言われ、実質的に財務の責任者となる。
しばらくするとCFOと呼ばれるようになり、柳井からは決済に使うはんこを預かることになった。

印象的なのが職場の雰囲気だったという。
キャンパスには多くの社員が机を並べる大部屋がある。
そこで黙々と仕事をして、一日が終われば帰路につく。
キャンパスの周囲は森の緑に囲まれ、同僚と連れだって飲み歩くような店もない。
そもそも多くの社員がマイカーで通勤しており、社内での飲み会の習慣がほとんどない。

「まるで永平寺にでも入ったような感覚でした」

東京・青山の一等地に本社があり、取引先や同僚と銀座や赤坂に繰り出すことの多い商社マン時代と比べれば生活のサイクルががらりと変わってしまった。

「それに、なんと言っても柳井さんが修行僧のようなイメージです。趣味といえばゴルフくらいで、あとは仕事ですから」。
柳井は酒を飲むこともない。
早朝にキャンパスに来て夕方になる前に帰宅すると、自宅では読書に時間を割くことが多い。
その姿があたかも人里離れた福井県北部の山中で曹洞宗の開祖道元の教えを一心に学び実践する禅僧たちの姿に重なったのだという。

ただし、開山から800年近くの間、今も変わらず静かな日常が過ぎていく禅寺とは全く異質な空気感が、そこにはあった。

p260

偶然かもしれないが、ポートランドにあるW+Kのオフィスの一階には「Fail Harder」という言葉が掲げられている。
「もっと盛大に失敗してみろ」。
ダン・ワイデンがクリエイターたちに対して、失敗を恐れずに創造力を示してみろという意味の「挑戦状」だったのだという。

言わんとすることは柳井の失敗哲学と同じだろう。
失敗覚悟で攻めのクリエイティブを目指すのがダン・ワイデンの哲学であり、それを受け継いだのがジョン・ジェイだった。
そう考えれば柳井の価値観とシンクロするのは必然だったと言えるかもしれない。

「泳げない者は沈めばいい」 p266

こうしてユニクロの第2章は、柳井を取り囲むように続々と集い始めた新しい才能たちの手で動き始めた。
柳井が掲げる社長中心主義からプロ集団への脱却である。

その一方で、慌ただしいブームと急成長のただ中で居場所をなくしたのが古参幹部たちだった。

「岩村君。俺はもう辞めようと思うちょるんや」

ちょうどジョン・ジェイが「新しいユニクロ」を伝えるCMの作成に取り組んでいるただ中の1999年8月のことだ。
ユニクロにとって最古参となる浦利治が、やはり古くか柳井を支えてきた岩村清美にこう打ち明けた。

浦は柳井がまだ小学生だった頃から住み込みでメンズショップ小郡商事で働き始め、柳井が店を継ぐようになると、たった二人で出発した。
柳井にとっては社員というより兄弟のような存在で全幅の信頼を置いてきた人物だ。
その浦のことを「一番尊敬する人」と言うのが、やはり銀天街の紳士服店に飛び込み浦のしぐさを盗むようにして仕事を覚えてきた岩村だった。

尊敬する先輩からの唐突な告白だったが、岩村は意外に思うことはなかったという。
岩村も時を同じくして浦と同じ考えに至っていたからだ。
引き際を考えたきっかけは毎週、柳井が社員に配る業務連絡の紙だった。
そこに記されていた言葉に、思わず見入った。

「泳げない者は沈めばいい」

貪欲に成長を求め続けていたこの時期に、柳井が好んで使っていた言葉だった。
実は柳井のオリジナルではなく、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツがよく口にすることだと本を通じて知っていた。

ゲイツはインターネットという破壊的なイノベーションを社会に起きる「津波」だと言い、そこで生き残るにはどうすればいいのかを説いた。
それが「Sink or Swim」。
溺れたくなければ泳げという意味だが、慣用句的に「いちかばちか」や「のるかそるか」と訳されることが多い。

ユニクロもまた大変革期を迎え、服の民主主義という概念を世に問う新しい企業に生まれ変わろうとしている。
その波を泳ぎきるために社員も成長して欲しいという意味を込めたメッセージだった。

ただ、岩村はその言葉から目を背けられなかった。
私はその言葉を目にした時の心境を、ストレートに聞いた。
岩村からはこう返ってきた。

「それを読んで思いました。
『自分はもう戦力じゃないんだ。いらないんだ』と。
自分はもう沈まないといけん。
死なないといけん。
溺れかけている人間なんだと、そう思ったんです」

小郡商事を、柳井を、ユニクロを、ここまで支え続けてきた男の悲痛な思いが詰まった言葉だった。

「そう思っていた時に浦さんから辞めると聞かされた。それで、俺も辞めんといけんなと思いました」

浦にとっては意外だったようだ。

「いやいや、ガンちゃんは残らないけんよ。まだまだやることがあるから」

岩村はまだ47歳だ。
まだまだ働き盛りのまっただ中である。
だが、浦が退職を思いとどまるように諭しても、岩村は首を縦に振らない。

岩村には思うところがあった。
澤田たち新しい人材が自分たちにはない才能を持っていることは認める。
だが、どうにも受け入れられない。

彼ら新参者たちは柳井を囲む会議で足を組みながら話す。
柳井のことは「社長」ではなく「柳井さん」と呼ぶ。
それは間違いじゃないと思う。
柳井もそんなことは気にかけず、何も言わない。
柳井が形式ばったことより実力を問う考えの持ち主であることは重々承知している。
どの面々も自分よりずっと優秀で荒波を泳ぎ切る才覚を持った「回遊魚」である。
ただ、頭では理解できても、やはり受け入れられない。

一方の浦はなぜ辞任を申し出たのか。
これも本人に聞いた。

「やっぱり会社を変えていかないといけないと思ったんです。
ABC改革はオール・ベター・チェンジの略ですが、一番変えないといけないのは人だと思いました。
人を変えないとこれ以上成長はできないと。
それなら自分はもうお役御免です。
正直に言えば、ついていけなくなると思いました。
それは自分が一番よく分かっていましたから」

浦は岩村を連れて柳井の社長室に行き、辞意を伝えた。

「もう自分たちはついていけないと思います。商売は分かりますが、経営はできないので」

すると、柳井はきっぱりと告げた。

「僕もそう思います」

なんとも冷酷な物言いではないか――。
浦も岩村も、あの銀天街の零細紳士服店からついてきてくれた忠臣中の忠臣だ。
その時間が長いだけでなく、濃密な付き合いだ。

銀天街から抜け出そうともがき続けたあの暗黒の10年をともにし、香港で見つけたヒントを形にするため走り始めた柳井に黙ってついてきてくれたのが、この二人だった。
小郡商事がファーストリテイリングになってからも、浦は管理業務を取り仕切り、岩村はバイヤーや営業部長としてユニクロを支えてきた。

その二人のことだ。
考え抜いた上で進退を申し出たことは、柳井にもすぐに分かった。
だからこそ、偽りなく思ったことをストレートに伝える。
こういう点も実に柳井らしい。

ただ、いかんせん生来の口下手である。
言葉では伝えられないこともあった。
二人の退任が決まった9月のある日のことだ。

その日、キャンパスの広大な中庭ではタレントを呼んでちょっとしたファッションショーのように社員たちに向けて新商品を披露する会が催されていた。
その壇上に、柳井は二人を招いた。
居並ぶ社員たちの前で手作りの感謝状を手渡したのだ。

「浦さん。
あなたの優しさ、気配りのおかげで解決できた会社の危機、社員の不安、不満が多くありました。
この40年間、本当に会社に献身的に尽くされ、特にお客様への奉仕の精神。
お客様からの信頼は社員一同の模範とするところでした」

柳井が感謝状を読み上げると、キャンパスの裏山から花火が盛大に打ち上げられる。
続いて岩村にも、社長室では伝えられなかった思いを伝えた。

「20余年前、あなたが入社された時の記憶が今でも鮮明に目に浮かびます。
苦しかったこと、つらかったことの方が多く、楽しかったことが少なかったかもしれませんが、あなたの我が社のパートナーとしての努力のおかげで、日本一のカジュアル専門店に成長することができました」

確かに、二人の老兵は新しいユニクロの中で「泳げない者」になってしまったのかもしれない。
だが、沈めばいいなんて思ったことはない。
二人がいなければ今のユニクロはない。

この日、感謝状の文言に込めて柳井が伝えたかったのは、そういうことだったのだろこうして商店街から柳井を支え続けてきた忠臣たちは去った。
世界一というゴールに向かって走り始めた柳井とユニクロにとって、この別れもまた、避けては通れない道だった。

金太郎あめ方式の限界 p291

ユニクロの経営が1990年代半ばまでは自ら社長中心主義を掲げて運営されてきたことは、これまでに何度か指摘した通りだ。

店舗の運営も、柳井の命を受けたキャンパスからの指示が絶対視されてきた。
本部から毎週送りつけられるFAXに書かれている指示が絶対なのだ。
どの服を店の一番目立つ場所に置くか、どの色をどの色の隣に並べるか、地域に配るチラシで何をアピールするかなどが、事細かく決められている。

チェーンストア理論で言う「クッキーカッター」だ。
全国どこに行っても売り場のサイズが違うだけで、基本的には同じ店。
店で働くスタッフの仕事を画一化していくことで徹底的に無駄を排除していく考えだ。
平たく言えば、どこでも同じの金太郎あめ方式である。

ユニクロの社名を小郡商事からファーストリテイリングに変えたのが1991年のことだが、これはファストフード店のような高度にシステム化された効率的な店を手本にしたことが由来だ。
柳井の頭の中にあったのが日本マクドナルドを全国チェーンに育て上げ、日本人の食文化まで変えてしまった藤田田が築いたビジネスモデルだった。
だが、そこに矛盾が見え始めてきた。

2002年の当時には全国の店舗数が600に迫ろうとしていた。
すると隠せなくなってきたのが、中央集権型経営の限界だった。
その弊害を表すエピソードとして柳井が著書や講演などでたびたび語るのが、あるお客から届いた苦情の話だ。

その日、まだ小さい子供を連れた母親が「子供が急病になったので電話をお借りできないでしょうか」と、店のスタッフに願い出たという。
その日は雨が降り続いていた。
まだ現在のようにスマホがない時代のことだ。
店の外に出て子供の急患に対応してくれる病院を探し回ろうとすればかえって体調を崩しかねない。

ところがその店の店長は電話を貸すのを断ってしまった。
その母親には、「電話を貸せない決まりになっています」と言って譲らなかったという。
後日、この母親の夫から本部あてに電話がかかってきた。
「子供が急病になっていると知りながら電話を貸すことも断るとは、どういうことか」、と。

この報告を聞いた柳井は怒りを通り越してあきれてしまった。
そしてユニクロに蔓延し始めた病の存在を痛感させられた。

チェーンストアにとってマニュアルは絶対に必要なものであるという考えは今も変わらない。
マニュアルを暗唱することを、今もスタッフには求める。
ただし、それは「絶対」のルールではない。
マニュアルとは必要最低限の決まりが書かれたものに過ぎない。
優先すべきは目の前にいるお客である。

だが、実態はどうか。

マニュアルや社内ルールが、現場を預かるスタッフに考えることを放棄させて、いつの間にかユニクロは「形だけのチェーンストア」になってしまってはいまいか。
マニュアル通りに動くことが最優先となり、そこに書かれていることの意味について深く考えることをやめてしまってはいまいか。
さらに言えば、日々の仕事も本部からの指示待ちになってはいまいか……。

そんな疑問が湧き上がる。
疑問どころか、現実の問題として目の前に突きつけられているのだった。
問題の原因は、決して現場にあるわけではない。
中央集権型の経営スタイルが過ぎる余り、上意下達の官僚主義がはびこり始めていたことこそ、本当の問題なのだ。

p313

玉塚はユニクロを去ったが、柳井との縁が切れたわけではない。
2014年に玉塚がローソン社長に就任したばかりの頃のことだ。
東京・六本木のオフィスに柳井を訪ねた玉塚が、柳井に懇願した。

「今度、うちのマネジメントオーナーの会合があるので、そこで柳井さんに講演いただけないでしょうか」

マネジメントオーナーとは、かつて勤めたユニクロのスーパースター店長を模した制度だ。
玉塚がローソンの社長就任に先立ち2010年に顧問となった際に導入していた。
玉塚はローソンの目玉商品であるプレミアムロールケーキを机の上に並べ「これでお願いできませんか」と言う。

すると柳井は「そもそもローソンはもっと商売を絞ったらどうだ。ナチュラルローソンとか、あの100円の店(ローソンストア100)とかはやめてローソンに絞った方がいいんじゃないか」と話し始める。
商売の話になると、相変わらず熱弁を振るうのだった。
ただ柳井は最後に、こう言った。

「そんなの君に頼まれちゃ、断れるわけがないじゃないか」

こうして柳井を特別講師に招いて開かれたローソンのMO(マネジメントオーナー)会議。
柳井には、チェーンストア経営について話してもらうはずだったが、700人ほどが並ぶ会場の最前列の端に陣取っていた玉塚はその内容を全く覚えていない。

「皆さん、玉塚君をどうかよろしくお願いします」

そう言って柳井が頭を下げた時に涙腺が決壊してしまったからだ。

「ユニクロを飛び出した時には『あのオヤジを超えてみせる』なんて言っていたかもしれません。
でも、まだまだ俺は青いなと思わされる。
今思えば、ユニクロでの経験もすべてがつながっている。
柳井さんは商売の師ですから」

2005年8月に玉塚が退任して結局、ユニクロの経営は柳井が社長として全権を指揮する従来の形に戻った。
経営体制だけを見れば完全な逆戻りである。

だが、ユニクロは玉塚体制の雌伏の3年をへて新たな局面へと階段を上ることになる。
出足から躓いてしまったグローバル企業への脱皮である。

「なにが足りなかったのか」 p322

19歳で日本に渡ってから初めて経験した挫折。
日本に戻されてからも「このままでは会社に居場所がなくなる」という焦りがこみ上げてくる。

潘は事業開発という部署に回された。
M&Aを担当する部門なのだが、そこでもう一度、柳井の薫陶を受けることになったことが後々に生きることになる。
柳井とはほぼ毎日、ミーティングが設定されることになり、その中で敗因をじっくりと考え直すことになったからだ。

「あの時に柳井さんから厳しく経営の指導をしていただいた。
今振り返ってみると中国にいた時には市場をどう攻めるのか、自分の中で考えが定まっていなかったことを痛感させられました」

この時期に柳井の経営哲学を学び直そうと、柳井自身が社内で勧めていた本を手に取ったという。
その中でも繰り返し読んだのが、マクドナルド創業者であるレイ・クロックの『成功はゴミ箱の中に』だった。
柳井自身があの銀天街で過ごした「暗黒の10年」の時期に何度も読み返し、自らを鼓舞した本だ。
潘は「経営論だけでなく、逆境の中でどう生きるかを考えさせられました」と言う。

(自分たちには何が足りなかったのか。なぜ上海の店は失敗したのか)

そんなことに思いを巡らせ続ける雌伏の時を過ごしていた潘にチャンスが巡ってきた。
ユニクロが香港に小さな店を開くことになったのだ。
任されたのが潘だった。

それは決して恵まれた条件ではなかった。
九龍半島南端の商業地、尖沙咀にあるミラマショッピングセンター。
繁華街の一角にあるものの、周囲と比べて客の入りはいまいちな施設だった。
ユニクロ社内で開かれた会議でも「そんなところにお客さんが来るのか」と反対意見が相次いだという。

潘も追い詰められていた。

「ここで失敗したらもう、次はない。そういう思いでした」

生産管理を担当していた若手時代に上司だった辻本はこの頃に藩と再会して驚いたという。
「彼はもともと体格が良いのですが、この頃は激痩せしていました。本当にびっくりしました」。
この当時の低迷はユニクロ全体が経験する試練だったが、満を持して進出した上海から志半ばで送り返された潘にはひときわ捲土重来を期する思いがあった。

旗艦店戦略 p344

ソーホーにつくる店は床の総面積が4000平米。
「日本のユニクロ」を売り込んだあの上海・正大広場店と比べても2倍近くある。
こちらはショッピングモールの一角ではなく、目抜き通りのブロードウェイにたつ建物すべてがユニクロだ。
ユニクロにとって正真正銘の初のグローバル旗艦店である。

柳井も「これまでは(小さな店の)チェーン店戦略でしたが、これからは旗艦店戦略に変えます」と、佐藤に告げた。
繰り返しになるが、ここに至るまでにユニクロはその姿を変え続けてきた。

小郡商事時代にあの広島のうらぶくろに出店した時には「カジュアルウエアの倉庫」だった。
香港の華僑たちからSPAという国際分業のダイナミズムを学び、その倉庫を自社製の服で埋め尽くし、1990年代には郊外のロードサイド店を日本全国に展開していった。
1998年に原宿店をオープンさせて都心に攻め込む。
そしてその3年後にはロンドンを皮切りに悲願の海外進出を果たした。

この時点で、店舗の形は洋服店としては大型のものも多くは存在したが、柳井の言葉を借りれば「ユニクロここにあり」と世間に訴えかけるほどの超大型店ではない。
日本ではそれで十分な成功を手にすることができた。
「ユダヤの商法」で知られる伝説的な実業家の藤田田が築いた日本マクドナルドを手本にした、高度にシステム化されたチェーン店としてのユニクロで日本一の座を手に入れていた。

だが、その先に進むにはそれでは足りない。
柳井が銀天街の紳士服店で兄貴分の浦利治とたった二人で紳士服店を切り盛りし始めてからこの時点で30年余り。
あの暗黒の10年間を思えば、想像もしていなかったような成功をすでに手にしていたが、銀天街という世界へきちのファッション産業の中心から遠く離れた僻地で自ら定めた「世界一というゴール」にたどり着くためには、そんな成功体験も捨てなければならない。

そのために行き着いたのが「ユニクロとはなにか」を世界中に知らしめる旗艦店戦略への転換だった。

p352

こんな議論が延々と行われた中で佐藤が提案したのがロゴの見直しだった。
美意識が尊重されるソーホーの町中でケバケバしい電飾はご法度だ。
さりげなく通りにつるす旗が、道を行き交う人たちの目印となる。
ひと目で「日本から来たユニクロ」を示すアイコンが求められるのだ。

当時のユニクロのロゴはエンジの背景に白抜きで「UNIQLO」だった。

ちなみにユニクロはユニーク・クロージング・ウエアハウスの略だから正しくはUNICLOとすべきなのだが、「Q」となったのは偶然だった。

SPAへの転換を目指して下之園秀志が香港で工場探しに明け暮れたことは前述したが、1988年に香港で法人登記しようとした際に現地の合弁パートナーの担当者が誤って社名を「UNIQLO」と表記してしまった。
それまで日本では「UNI-CLO」の略語が使われていたから完全なミスなのだが柳井が「こっちの方がカッコいいじゃないか」と言ってそのままQを採用してしまった。

佐藤は色についてはエンジではなく目に飛び込む明るい赤と白をまずイメージした。
肝心なのはそこに描く文字である。
世界に「日本のユニクロ」を示すには、どんなフォントがふさわしいか。

佐藤が思いついたのがカタカナの「ユニクロ」だった。
これなら日本発であることが一目で分かる。
それになんと言ってもカタカナの印象がクールじゃないかと思えた。
日本のアニメがアメリカでもサブカルチャーとして受け入れられ始めていたことも念頭にあった。

ただ、佐藤にも迷いがあった。
果たしてカタカナのロゴがアメリカで受け入れられるだろうか。
「単純に、日本人以外には読めないから」。
そう考えて、柳井らユニクロ幹部陣の前で新しいロゴについてプレゼンした際には、カタカナのロゴは3番目の案として付け加えることにした。

すると柳井が一目見るなり「カタカナですか!これがいい!」と断言してしまった。
佐藤はその時の心境をこう振り返った。

「それを聞いた時に、僕はなんて失礼なことをしてしまったんだと思いました。
こちらがそんたく勝手に『これは採用できないよな』と忖度してしまっていた。
だけど、柳井さんにこちらの意図をズバッと見抜かれてしまった。
ショックだったけど感動しましたね。
あの時から、『この人には僕が本当に良いと思うことを言おう』と考えるようになりました」

ソーホーでは旗で店号を示すから裏表の両面が使える。
そこで佐藤は「ユニクロ」と「UNIQLO」を裏表で併記することにした。
この時に柳井に採用されたロゴは今でも世界のユニクロ店で掲げられている。

p360

すかさず柳井はダイエー再建のためのスポンサーに、イトーヨーカ堂とタッグを組んで名乗りを上げた。
これは失敗に終わったが、この時の交渉がきっかけとなってダイエーの店舗内に低価格の新ブランド店「GU」を出すことになった。
柳井がGUの社長に指名したのが、提案者である中嶋だった。

かつての流通の革命児であるダイエーの軒先を借りる形でのスタートだったが、これが思いのほか大外れした。
「ユニクロの7掛け」、つまりユニクロより3割安い超低価格を掲げたが、まったく売れない。
2006年10月に千葉県内のダイエーの中にGUの第1号店をオープンさせ、25店舗体制でアパレル業界にとってのかき入れ時である秋冬シーズンに備えたものの、当初半年間の売上高は目標の半分ほどにしか届かなかった。

「圧倒的にコンセプトが弱いと言わざるを得なかった」。
後に、中嶋はGUがいきなり直面した不振をこう振り返った。
すぐにダイエー以外の建物にも出店先を増やしたものの、状況は一向に改善されない。

もがき苦しむ「ユニクロの弟分」を立て直すために柳井が送り込んだのが、意外な人物だった。
柚木治。
ユニクロの中では「黒歴史」の張本人として知られた男だ。
誰より柚木自身がそう自認している。

「やっぱり中嶋君だけでは厳しい。一緒にやってくれ」

GUの副社長として中嶋を支えて欲しいと言う柳井に、柚木は「自分では無理です」と返した。
「僕には経営者は務まりません。その自信がないんです」

柚木は自嘲気味に、こう付け加えた。

「それに、僕みたいな疫病神が副社長として上に立つって、そんなの、社員が嫌だと思いますよ」

柳井は「じゃ、いいよ」とは言わなかった。
そのまま3カ月ほどが過ぎた。
柚木の携帯が鳴ったのは休日のことだった。
電話をかけてきたのはGU社長の中嶋だった。

「俺はどうしても柚木さんとやりたいと思ってる。一回失敗した?いいじゃない、そんなの。いきなりうまくいくわけがないんだしさ」

その言葉を聞いて、なぜか涙が止まらなかった。
「もう二度と仕事の世界で顔を上げては生きていけない」とまで思い詰めた柚木のどん底の日々を知る中嶋の言葉が響いたからだ。
柚木はこの時、GUという新天地でかつての失敗を取り返す決心がついた。

野菜にユニクロ方式 p361

柚木が柳井に突拍子もない新規事業を提案していたのが、その日から7年ほど前の2001年半ばのことだった。
当時はフリースブームで飛ぶ鳥を落とす勢いだったユニクロ。
柳井が香港で出会ったSPA方式を定着させるまで、この時点で10年余りが過ぎていた。
柚木はそれをまったくの畑違いである食品に生かせないものかと考えたのだった。

役員会では猛反発を食らったが、柳井が「会社としても新しいことにチャレンジすべきだ」と言って背中を押してくれた。
一方の柚木はというと、一斉に反論する役員の面々を見据えながら「チャレンジする度胸もないヤツらに言われたくないね」と内心で毒づいていた。
もっと言えば「そもそも優秀な俺が失敗なんてするわけがない」とすら考えていたとも話す。

この時、柚木は36歳。
現在の柔和な表情や腰の低い語り口からは想像しにくいが、確かに自信を裏付けるようにビジネスマンとしてエリート街道を歩んできた。
伊藤忠商事からGEキャピタルを経てユニクロに入社したのはこの少し前の1999年末のことだ。
伊藤忠ではプラント部門で油田開発のために世界を飛び回っていた。
古巣の先輩である「ABC改革四人組」の一角、森田政敏から誘われてユニクロに転じていたが、当初は聞いたこともない地方の服の会社のことを舐めていなかったといえば嘘になる。

柚木は食の新規事業発足にあたって惣菜や弁当をユニクロのようにチェーン展開しようと考えていたが、柳井から「野菜をやるなら」と言って紹介されたのが永田照喜治だった。
あえて痩せた土壌で水や肥料も最小限にとどめることで野菜本来の力を引き出す永田農法の考案者だ。

永田農法の実力を確かめようと各地の農園を食べ歩いた柚木にとっては驚きの連続だった。
秋田で食べた枝豆、静岡でかじった生のヘチマ、台湾でとれる「芯まで食べられるパイナップル」。
極め付きは北海道・余市のトマトだった。
あまりの甘みに「これって、なにか加えたりしていないですよね」と思わず聞いてしまったほどの衝撃だった。

永田農法が本物だと実感できたのは、柚木の生い立ちとも無縁ではない。
実家は阪神甲子園球場の近くにある昔ながらの商店街に軒を連ねる小さな八百屋だった。
新鮮な野菜だけでなく、売れ残ったバナナやりんごは腐ってしまう少し前に食べさせられたものだった。
「それがまた、おいしいんですよ」。
本物の味を幼少期からたたき込まれてきた柚木にとっても、永田農法で作られた野菜の味は驚きだったという。

「これで失敗するはずがない」

そう思って2002年9月に立ち上げたのが野菜を扱うSKIPだった。
ユニクロとは別に店を構えてネットでも野菜を売る。

実はこの頃、英スーパー最大手テスコとの提携話も持ち上がっていたのだが、永田農法のすごみを実感した柚木は野菜一本で勝負することにした。
世間では、フリースブームでアパレル業界に新風を吹き込んだユニクロが日本の食卓の変革に挑むと注目を集めた。

「野菜のロールスロイスをカローラの価格で提供します」

そんな表現で勇躍参入した農の世界。
しかし、結果は大失敗だった。
2年もしないうちに2億円の赤字を出して撤退に追い込まれたのだ。
このとき、柚木には妻からかけられたひと言が響いた。

「今まで100回くらい言ったよね。でも、あなたはまったく聞いてくれなかった」

確かに妻は何度もSKIPの盲点を指摘してくれていた。
アパレルのユニクロと比べて、SKIPには大きな弱点があるのだ、と。
それは天候などによって収穫が大きく左右されるということだ。

産地直送方式なので、その日に店にどんな野菜がどれだけ並ぶのかはその日にならないと分からない。
「そんなの買うわけがないじゃん」というのが、妻の指摘だった。
計画的な生産が可能な服との違いが意味するリスクを、柚木は過小評価していたのだ。
「主婦の財布のひもはそんなに甘くない」ということを思い知らされた。

公開処刑 p364

思い悩んだ末に柚木は事業撤退を申し出たが、柳井は「もう少し続けてみたらどうだ」といさめた。
柚木は「これ以上、農家さんに迷惑をかけることはできません」と言う。
もし続ければ600ほどの契約農家にまた次のシーズンのリスクを背負わせることになるからだ。

「始める時のアイデアがあまりに甘すぎました。私には続ける資格がありません」

そう言って柳井に頭を下げるしかなかった。

実際に撤退を決めて後始末が始まると、心が削られていく。
東京・上野毛の店舗でスタッフたちを前に閉鎖を告げると、若い主婦の店員から「意気地なしですね」と言われ、「柚木さんはもういいです。
私たちで他の方法を考えますから」と冷たくあしらわれた。
熱心に協力を仰いで回った農家から言われてこたえたのは、罵声やさげすみではない。
「ああ、やっぱりね」という投げやりな言葉だった。

勝負を投げ出し、自分からリングを降りると決めたはずだが、時間がたつごとに自分でも想像していなかったほど多くの人たちを巻き込み、苦しめてしまっていることが実感としてのしかかってくる。
事業を始める頃にはあれほど満ち満ちていたはずの自信が跡形もなく消し飛び、ぽっきりと心が折れてしまうのが、自分でも分かる。
仕事で大失敗を経験した者が大なり小なり味わうことだろう。

「もう、1秒も会社に居たくないと思いました。どのツラを下げてここにいればいいんだ……」

すべての撤収作業が終わった2004年春、柚木は柳井に辞表を提出した。
社長室で二人だけ。
「お前なんかさっさと辞めちまえ」と罵倒されるか、もしかしたら留意されるのか……。
どっちにしても、この会社にはもう居場所はないと思い詰めていた。

そんな柚木に、柳井は思いもしなかったことを告げた。

「26億円も損して、そんなに授業料を使って『お先に失礼します』ですか。そんなのないでしょ。お金を返してください」

柳井の意図が分からず、柚木は思考停止に陥ってしまった。
柳井の表情はいつものままだ。
特に気色ばむでもなく、いつも通りのぶっきらぼうな言い方だった。
それから何を言われたのかは覚えていない。
柚木は何も言い返せないまま。
どうやって社長室を退出したのかもよく覚えていないという。

柳井からはその直後に傷口に塩をすり込むような命令が下された。
なぜ野菜事業が失敗したのかを、幹部陣の前で説明せよというのだ。
課長級以上の幹部陣100人以上が東京・蒲田のオフィスにある大会議室に集まったその日。
柚木はA4用紙39枚の「SKIP事業レビュー」という自ら用意した資料に沿って、野菜事業の失敗を淡々と説明した。

落ちた者をさらに突き落とす、まさに公開処刑である。
出席した幹部陣からは「なんでそんなことも想定していなかったのか」と容赦のない意見が相次いだ。

赤裸々に自らの失敗をさらけ出した柚木。
もはやプライドも何もあったものではない。
ユニクロでのキャリアはもはやこれまでと思った。
かといって、「次」に思いが至ることもない。
とにかくその場から早く逃げ出したいとしか思えなかった。

ところが、翌日に出社すると不思議な心境の変化があったという。
「俺が失敗するわけがない」とタカをくくっていた少し前の自分が、小さく見えて仕方がない。
もう、ここで妙なプライドにしがみつく必要もない。
そう思うと、「1秒も居たくはない」と塞ぎ込んでいた負の感情が少しだけだが、違っていた。

(なんか、昨日よりはちょっとだけ気が楽になったかも……)

この「公開処刑」は柳井が柚木に与えた再出発のチャンスだったのだろう。
今では柚木はそう考えるようになったという。
「みそぎ」と言った方が正しいのかもしれない。

もちろん、これで完全に吹っ切れたわけではない。
柚木はその後もずっと、野菜事業の失敗を引きずってきたという。
経営なんて二度とやるまい、そもそも自分にはその資格がない。
その思いは変わらなかった。

そんな柚木に舞い込んだのが、不振のGUを再建させるという仕事だった。
ユニクロの弟分であるGUでは、野菜事業とは比較にならないほど大きな責任がのしかかってくる。
だが、あの失敗を知る中嶋から口説かれたことで、もう一度、打席に立ってみようと思えた。
挫折を知った男の再出発だ。

ただし、この後にも試練は続いた。

990円ジーンズ p367

不振のGUを立て直すために柳井が採ったのは、ある種のショック療法だった。
「ユニクロの7掛け」を標榜するGUは、文字通りにユニクロより3割ほど安い服を店頭にそろえていた。
これが、消費者にはまったく響かない。

そこで柳井が打ち出したのが「圧倒的な価格破壊」だった。
3割でダメならもっと安く、というわけだ。
当時、主力のジーンズではGUはすでにユニクロの2990円に対して1990円で販売していた。
ある日の会議で、これを思い切って1490円にしようという提案が出た。
そうなると採算ギリギリとなる。

それを聞きながら渋い表情を浮かべていたのが柳井だった。
「そんなのダメでしょ。どうせやるならキュッキュー(990円)にしたらどうですか」

ただでさえ安いジーンズをさらに半額にせよというのだ。

この頃は2008年9月にアメリカで起きたリーマン・ショックが世界を覆うただ中にあった。
「100年に一度の大不況」とも呼ばれる金融恐慌の底が見えない。
日本でも消費は一気に冷え込んでいた。

そんな世相で低価格を売りにするなら、よほどのインパクトがなければ消費者は振り向いてくれない。
そう考えての「990円ジーンズ」だった。

それを実現するには、従来のやり方では不可能だ。
ユニクロが中国を中心に築いてきたSPAも見直さなければならない。
当時のユニクロは日本製のデニムを中国で縫い上げていたが、GUでは中国製のデニムをカンボジアで縫製することで原価を切り下げることにした。

こうして2009年3月にGUが発売した990円ジーンズは、大不況の中で飛ぶように売れた。
発注量をすぐに当初計画の2倍にあたる100万本に上方修正したほどだった。

こうして一息ついたユニクロの弟分。

ただ、ショック療法はやはり、ショック療法でしかない。
「ユニクロより安いGU」は990円ジーンズのインパクトで浸透していったが、その効力も1年ほどしか続かなかった。
990円を打ち出してから1年後の2010年春夏物の販売がガクンと落ち込んだのだ。

「ああ、あれって単なるブームだったんだ」

副社長としてGUにやってきた柚木は、再び現実と向き合うことになった。

そんな矢先に中嶋がユニクロ本体へと呼び戻されることになった。
後任はどうするか。
GUでは副社長として中嶋にとっての「スーパーお手伝いさん」になろうと決めていたという柚木は、柳井に「誰かを送り込んでいただければ、引き続きその人を支え続けます」と伝えたが、柳井からは「いや、柚木君がやってくれ」と返ってきた。

「無理ですよ。僕は失敗もしています。それにユニクロで店長も経験していません。能力的に無理です」

この頃になってもまだ、柚木はあの野菜事業の失敗を引きずっていた。
ところが柳井は「他にいない」と突き返す。
柳井はこんなことも付け加えた。

「僕は失敗していない柚木君より、失敗したことがある柚木君の方が良いと思うな。失敗を生かして10倍返ししてください」

そこまで言われては引き下がれない。
野菜で失敗した時には「もう二度と仕事の世界で顔を上げては生きていけない」とまで思い詰めていた柚木が、再び経営のかじを握ることを決意した。

GU再生に3つの教訓 p370

再び苦境に陥ったGUをどう立て直すか。
そのヒントを探す旅が始まった。
柚木には野菜での失敗で得た3つの教訓がある。

「顧客を知る努力は永遠に続けなければならない」

「新しいことを始める時は、今ある常識を誰よりも勉強しなければならない」

「社内外を味方に付けて、その力を使い尽くさなければならない」

この3つだ。
これらを踏まえてユニクロにはない安くて誰にでも着てもらえる服を目指そうと考えていたのだが、ヒントはまたしても身近なところに存在していた。
主婦にとって使いづらい柚木の野菜事業がうまくいかないと喝破していた妻の言葉だった。

「そもそもユニクロよりGUの方が高いと思うよ」

「え、なんで?」

「だって、例えばフリースがユニクロは1900円でGUは1290円でしょ。
でも、ユニクロも週末とかには時々値下げして1290円くらいにはなるじゃん。
私ならそっちを買う。
GUはユニクロより品質が悪いからね。
だったら結局はユニクロより高くつくでしよ」

だからGUは買わないという。
どこまでも厳しい消費者の目線だが、そう言われれば反論できない。
つまり、「低価格をやめます」と宣言したユニクロの空いたスペースを埋めたように見せれば済むというほど、この商売は甘くはないということだ。

もはや「ユニクロの7掛け」という当初のもくろみは通用しない。
ならば、どこに別の解があるのか――。
そんな自問自答を繰り返していた柚木に、けんもほろろな意見を突きつけたのがあるGU店の女性スタッフだった。

「ホントは私、GUの服は嫌いなんですよ」

あまりにストレートな言葉に内心でたじろいだが、柚木は「じゃ、なんで着てるの?」と聞いた。

「店のルールだからですよ」

だから嫌々ながら自社の服を着ているという。
これには、ぐうの音もでない。

「じゃ、どうすればいいと思うかな」
柚木が聞くと、その女性店員は悪びれる様子もなくこう答えた。

「私が好きな服は全部、ルミネにあります」

「じゃ、君はルミネで働いたらいいじゃないか」と言いたくなるところかもしれないが、柚木には服の専門家であるという自覚もなければ、服を買い求める顧客のことをよく理解しているという自信もない。

「顧客のこと」、「今ある常識」。
それを自分は知らないという前提で虚心坦懐に学ばなければいけないというのが、あの失敗から得た教訓だ。
それに、自分よりこの店員の方がはるかに服のことをよく知っているはずだ……。

(うちの店員が欲しい服はGUじゃなくルミネにあると言っている。それってどういうことだ)

そんなことを考えるうちにたどり着いたのが「ファッションをやってみたらどうだ」というアイデアだった。

ユニクロの親会社であるファーストリテイリングは、マクドナルドに代表されるファストフードのような高度にシステム化された小売業を模範にすることから名付けられた。
その社名が、流行をいち早く服のデザインに採り入れるファストファッションとしばしば混同される原因にもなってきた。
次々と流行の商品を入れ替えるファストファッションと、流行に左右されないベーシックな服を少ない種類で大量供給するユニクロとでは、実は水と油ほどの違いがあるのだが……。

ユニクロにとってはファストファッションとの差別化は成長の源にもなってきた。
第8章でも触れた通り、自らつくりだす服を「部品」や「道具」と表現したほどだ。

それなら逆に、GUではファッションの領域に踏み込めば、おのずとユニクロと差別化できるのではないか――。

柚木はこう考えた。
ただし、単純にファストファッションを追求するだけなら欧米のブランドと変わらない。
そこで考えたのが、商品の種類を絞り込んで「トレンドのど真ん中だけをやる」という新機軸だった。
柚木はそのコンセプトを「その瞬間の最大公約数をつくる」という言葉に落とし込んでGUの服を刷新していくことを決めた。
2011年春夏物から「Be a Girl」と題して始めた「トレンドのど真ん中戦略」が、それだ。

それでも柚木には自信がない。
当初は店の入り口だけで始めたのだが、この新戦略が徐々に浸透してGUは反転攻勢の糸口をつかんでいった。

手本はマクドナルド p376

これまでに何度か触れた通り、ユニクロがチェーン展開でお手本にしたのがマクドナルドだ。
正確に言えば、アメリカの本家ではなく日本マクドナルドだ。
ベストセラーとなった著書『ユダヤの商法』でも有名な藤田田が「米と魚の国」の食文化を変えると豪語してマクドナルドを日本に持ち込み、大成功させたことについては、今更ここで述べる必要もあるまい。

藤田が日本マクドナルドを設立し、銀座三越に1号店をオープンさせたのは1971年7月だった。
ちょうど柳井が早稲田大学を卒業し、父・等に促されるままに四日市のジャスコに入社した直後のことだ。
結局、柳井はわずか9カ月でジャスコを後にして実家のメンズショップ小郡商事に入社している。
つまり日本マクドナルドと、商売人としての柳井正のスタートはほぼ同時期だった。

瞬く間にこの国の食文化さえも変えた藤田田は、当然ながら自分よりはるか先を行く商売人だ。
もはや伝説的とも言えるその手法は、今も語り草になっている。

文化というものは水のように高い所から低い所へと流れるという「文化流水理論」を論拠に、アメリカの本社が主張する郊外戦略にノーを突きつけて銀座三越内の一等地から始めたこと。
この頃にできた銀座の歩行者天国を、あたかもマクドナルドのためのフードコートのように利用してしまったこと。
ユダヤに伝わるという78対22の法則に390円のセットを取り入れたとささやかれること(日本マクドナルドの公式見解は「サンキュー」になぞらえたものということだが、この時期は500円硬貨が行き届いたタイミングと重なる。390円は500円のちょうど78%にあたる)。

ただ、柳井は常々『ユダヤの商法』や『勝てば官軍』といった著書で描かれたことは藤田の本音ではないと考えていたという。

ふたりの接点は2001年に柳井が孫正義から請われてソフトバンクの社外取締役に就任した際に遡る。
藤田が柳井の前任にあたる。
引き継ぎとして面会すると、藤田の独演会が始まった。
柳井は黙って聞くだけ。
最後に「柳井君、いいものをあげよう」と言ってフライドポテトの無料券を3枚手渡された。

柳井はこの機を逃さずマクドナルド流経営を学んだ。
日本マクドナルドで藤田田を支え続けた田中明に連絡し、レクチャーを依頼した。
田中は当時、日本マクドナルドの副社長だ。
藤田は田中に「柳井さんにはなんでも教えてよろしい」と太鼓判を押したという。
「その時に柳井さんが熱心に聞いたのは出店の方法と、スーパーバイザーの役割でした」と、田中は振り返る。

しばらくたって田中が日本マクドナルドを退職したと知ると、柳井はすかさず田中をスカウトしてユニクロの人材教育を託した。
マクドナルドは社員教育のために「ハンバーガー大学」を創ったことで知られるが、柳井はこれをまねて「ユニクロ大学」を設立した。
そこで教壇に立った田中が説いたのは基本の徹底だった。

「我々の商売は“ペニー・ビジネス”です。
1ペニーをいかに積み上げるか。
そのためにはマニュアルとトレーニングが第一になります。
働く人の力を大事にしないと成り立たないので」

1ペニー(セント)はおおむね1円ほどに相当する。
つまり、細かいことの積み重ねがマクドナルドという巨大ハンバーガーチェーンを作り上げたという意味だ。

この頃にユニクロ大学の部長だった桑原尚郎は「マニュアルというものをここまでやりきっているんだ、書き切っている、拾いきっていると思いました」と振り返る。
ただし、マニュアルがすべてではない。
マニュアルはあくまで現場の従業員が立ち返る原理原則にすぎない。

この頃のユニクロが「金太郎あめ方式」に陥っていたことは第7章で触れた。
そこでも指摘した通り、マニュアル優先の「形式だけのチェーンストア」に陥っていたことは否めない。
日本マクドナルドから学んだユニクロ式のチェーン展開に矛盾が見え始めたのは、2010年前後のことだった。
2008年9月に起きたリーマン・ショックの傷跡から、まだ日本経済が立ち直れていない頃のことで、格差という言葉がしきりに語られるようになった時代と重なる。

村上春樹が問うた「壁と卵」 p396

ここで少し話を変える。
柳井は作家の村上春樹と同い年だ。
ふたりとも1949年の早生まれ。
ふたりはともに早稲田大学に進学するが、村上が1年浪人しており、ふたりとも大学の授業には関心がなかったため学生時代には面識がない。

ともに早大を卒業し、柳井がまだ宇部の銀天街で悶々とした暗黒の日々を送っていた1979年に、村上は「風の歌を聴け」でさっそうとデビューして高い評価を受け始めた。
村上は1980年代後半には大ヒット作を連発してベストセラー作家の仲間入りを果たした。
その後の活躍については、ここで触れる必要はあるまい。

若い頃から読書家だった柳井は村上作品も手に取っていた。
ふたりはずっと後になって接点を持つことになった。
ちょうどユニクロが新疆綿問題の矢面に立たされていた2021年10月、早稲田大学のキャンパス内に「村上春樹ライブラリー」が開設された。
ふたりが学生だった頃に、学生運動で占拠されていたという建物が改装されたのだが、改装費の総額12億円を私財から提供したのが柳井だった。

柳井は『職業としての小説家』という村上の自伝的エッセイに感銘を受けたというが、深く感動したのが「壁と卵」で知られる村上の演説だった。

2009年に村上はエルサレム賞を受賞した。
その名前から分かる通り、イスラエルによる文学賞だ。
この時期、パレスチナ自治区ガザ地区への攻撃で世界的にイスラエル政府が糾弾されていた。
受賞を記念する講演で、村上はそのことにストレートに触れ、受賞を辞退すべきかどうか迷いに迷ったと述べた。
15分ほどの英語でのスピーチは、歴史に残すべき名演説だと思う。

「ひとりの作家としてエルサレムに来ました。
上手な嘘をつくことを職業とする者として。
嘘をつくのは小説家だけではありません。
皆さんも知っての通り、政治家も嘘をつきます。
外交官も軍人も嘘をつきます」

こんな言葉から始まった演説に、会場を埋める700人ほどの聴衆は凍りついた。
村上は淡々とした口調でお構いなしに続けた。

「でも、今日、私は嘘をつく予定はありません。できるだけ正直になろうと思います」

そこから授賞式に参加すべきか迷いに迷ったことを赤裸々に語る。
その中で「とても個人的なメッセージを届けることをお許しください。小説を書くときに紙には書かないものの常に心の中に秘めているものです」と言い、こう続けた。
淡々としていた口調に、熱がこもり始める。

「もし、ここに高く堅い壁があって、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら。
私は常に卵の側に立ちます。
どれほど壁が正しくて、卵が間違っていたとしても」

「このメタファーが何を意味するのか。
ある場合においてはとても単純で明快です。
爆撃機や戦車、ロケット弾、白リン弾がその高い壁です。
それらに潰され、焼かれ、撃たれる無辜の市民が卵なのです。
それがすべてではありません。
もっと深い意味において、こう考えてください。
我々は大なり小なり、そんな卵なのだと」

世界は不条理に満ちている。

イスラエルとパレスチナの問題は、とても根深い。
2023年にも悲劇は繰り返された。
ここで両者の歴史に安易に立ち戻ることは避けたい。
悲しみの連鎖の歴史は簡単な著述では許されない、とても根深いものなので。
この時の村上のスピーチに話を絞りたい。

不条理の数々に押しつぶされるちっぽけな卵に光を当てることこそが、「私が小説というものを書くただひとつの理由だ」と、村上は語りかけた。

この演説はインターネット上の動画サイトなどに今も残るので、ここまでこの本を手に取っていただいた皆さんには、ぜひ見ていただきたい。

話を本題に戻さなければなるまい。

柳井はある時、社員に向けてのスピーチで、この村上の言葉を引用したことがある。
「大衆側に立つべきだということです。
小説でも商売でも同じ。
壁という不条理。
そちらではない側に立つということ。
そうでなければいけないということです」

では果たして、ユニクロは本当に「卵」の側に立てているのだろうか。

あのスピーチで村上は壁のことを「システム」と言い換えた。
商売に置き換えるなら、膨大な人の意志が連動し自己増殖していく中で築き上げられていくビジネスの力学と言えるだろうか。

宇部の商店街でたった二人から始まったユニクロは、誰もが知る巨大アパレル企業となった。
世界中に網の目を行き届かせる巨大な「システム」となったユニクロは、はかない存在でしかない「卵」の側に立っているのだろうか――。

柳井とユニクロに突きつけられた問いは今も続く。
そこから目を背けることは許されない。

情報製造小売業への進化 p446

では、世界を覆う情報産業というイノベーションと、古くから人類が手掛ける「衣」をどう結びつけるのか。
その究極の形をひと言で表現すれば、次の言葉になる。

「つくったものを売るのではなく、売れるものをつくる」

服の商売を時系列で並べると、新しい服の企画やデザインから始まり、それを支えるサプライチェーンを築き、ユニクロの場合は海外の協力工場に作ってもらい、自社の店で売っていく。
そんなサイクルをこれまでに何度も何度も回し続けてきた。

情報との融合が意味するのは、このサイクルの流れを根本的に変えるということだ。
お客のニーズをリアルタイムで吸い上げることから始まり、それを即座に服づくりに生かし、必要とされる服だけをデザインし、必要とされる分だけを生産していく。
つまり、服の商売の時系列を「お客様」から始まるように作り替えるのだ。

これが実現できればお客が本当に必要とする服だけを常に提供することができ、無駄な服を作らずに済む。
環境にやさしく、工場や売り場にかける負荷も最小化することができる。
当然、売り時を逃す機会損失が減り売り上げと利益の増大にもつながるだろう。

もちろん、これは理想の話だ。
現実にはなかなか「必要な服を必要なだけ」とはいかないものだ。
だが、理想に近づけることは可能なはずだ。

こんな理想に基づいたビジネスモデルを、柳井は「情報製造小売業」と呼ぶことにした。
SPAに「情報」という概念を融合させることで生まれる新しいアパレルの形だ。

ユニクロはここまでいくつもの進化を経験してきた。
本書では何度か触れているが、もう一度簡単に振り返ろう。

第1形態は1984年に広島のうらぶくろで生まれた「カジュアルウエアの倉庫」だった。
世界中のアパレルからカジュアルウエアをかき集めた倉庫のような店がユニクロの原点だ。

第2形態はロードサイド店の誕生だろう。
それまでは駅前の一等地に競って出店していたアパレル店というものの常識を覆すものだった。

そして第3形態は香港で「発見」したSPA(製造小売業)への進化だ。
香港や中国本土、そして東南アジアで出会った華僑たちとの絆をもとに、柳井は服の国際分業サプライチェーン網を築いていった。
ユニクロは短い時間で進化を繰り返してきたわけだが、すべてが順調だったわけではない。
ハロルド・ジェニーンの著書『プロフェッショナルマネジャー』に触発されて世界一という「終わり」から逆算する野望を抱いたものの、メインバンクの広島銀行からは一笑に付された。

東京に進出した直後に見たフリースブームの天国と地獄。
そして海外の主要国に出るたびに経験してきた数々の挫折。
「ユニクロとはなにか」という根源的な問いに立ち戻ることによって突破口を開き、ついにはグローバルブランドへと駆け上がってきた。

その先に柳井が目指したのが、これまでに築き上げてきたすべての商売のサイクルを見直すような情報製造小売業という新しい形態への進化だった。
SPAはアメリカのGAPが1986年に掲げた言葉であり、柳井はその成功モデルを踏襲したわけだ。

だが、この先は違う。

情報製造小売業というユニクロ発の新しいビジネスモデルを世に問うのだ。
従って、その呼び名にもこだわりを込めた。
SPAは「Specialty store retailer of Private label Apparel」の略だが、情報製造小売業は「Digital Consumer Retail Company」と自ら定義した。

ただし、全く新しいアイデアかといえば、実はそうではない。
情報製造小売業によって目指す場所は、実は以前から視野の中にあったものなのだ。

「つくったものを売る商売から、売れるものをつくる商売へ」

この言葉を本書で最初に引用したのは第5章だ。
1998年に柳井が始めたABC改革の狙いが、それだ。
この当時、柳井はオール・ベター・チェンジつまり「すべてをより良く変える」を掲げてようやくできあがりつつあった「SPAによるユニクロ」を全面的に見直そうとしていた。

その時に掲げたABC改革の究極形が、この「つくったものを売る商売から、売れるものをつくる商売へ」という理想像だった。
この事実が意味するのは情報製造小売業への転換でも、その狙いは全く同じだということだ。
あの時に本当の意味で果たしきれなかったユニクロの完成形を、デジタル革命という産業革命以来のイノベーションの力を取り入れることによって成し遂げようというのが、柳井が掲げる情報製造小売業への転換の本質なのである。

私はこの見方をストレートに柳井にぶつけた。
すると次のような言葉が返ってきた。

「その通り。(ふたつの改革の狙いは)ほぼ同じです。
それはつまり、ビジネスの本質がほぼ同じだということです。
そのツールがハードからソフトやデジタルになったということ。
でも、経営の基本原則というのは古今東西、変わらないものなんです。
そこを正面突破していく。(情報製造小売業への転換とは)そういうことですよ」

あのちっぽけな銀天街の片隅のペンシルビルで「服を通じて世界を変えてやろう」と思い描いた野望は、その当時は誰にも理解してもらえなかった。
ABC改革で目指した「売れるものをつくる」という理想も、東京へ世界へと戦線を拡大する中でいつしか社員からも忘れられていった。

だが、数々の失敗を成功へと塗り替えることによって、ようやくユニクロはあの時に描いた理想を追求できる力を得たのだ。
柳井自身が「最後の改革」と呼ぶ大勝負である。

ただし、ここでも失敗と直面することになるのだった。

ヒントを求める旅 p453

日本にやって来た初代iPhoneを、柳井もソフトバンク取締役としていち早く手に入れることになった。
ソフトバンクの関係者が目の前で初期設定を済ませると、すぐに起動した。
少し触ってみると柳井は痛感したという。

「ああ、世界はこういうことになるんだな」

孫が常々口にしてきた新しいインターネットの時代の入り口が、いま手の中にある。
柳井はその出来栄えに感動した。
例えば、操作の仕方が分からなくなるとホームボタンを押せばスタートに戻る。
日本のケータイに一心同体のように付いてきた分厚い取扱説明書など存在しない。
触っているうちに誰でも操作の仕方が分かるような工夫がなされているからだ。

柳井の場合は、そもそも普段はケータイというものを使っていなかった分だけ、その完成度の高さをすんなりと理解できたのだろう。
この時に直感したのが、この小さなデバイスがやがて世界の産業の形を変えるディスラプター(破壊者)になる近未来だった。
その破壊の波が及ぶのは、ユニクロが存在するアパレル業界も例外ではないだろう。

「ああ、これは電話じゃない。
これは世界を変えるなと思いました。
これがお店になるんじゃないかなということです。
すべてがここにつながっていく」

この時に受けた衝撃が、情報製造小売業への転換を志す原点だったという。

ここまでに何度も触れてきた通り、柳井正という経営者は貪欲にヒントを「外」に求め続ける人だ。
紳士服店を切り盛りしていた時代には年長のルートセールスたちを自宅に招いてマージャンをしながらヒントを聞き出そうとした。

銀天街の社長室や自宅にうず高く積み上げた書籍から、広く古今東西の知恵を学ぼうとしてきた。
マクドナルド創業者のレイ・クロック、『プロフェッショナルマネジャー』のハロルド・ジェニーン、松下幸之助、本田宗一郎、経営学者のピーター・ドラッカー……。
影響を受けた人物を数え上げればキリがない。
読むだけでなく自分なりに解釈して実践に移してきた。

成功のヒントはなにも、書籍の中だけに存在したわけではない。

ユニクロのヒントもアメリカの大学で見た大学生協のような店だし、SPAの発見は香港の小さな店だった。
たまたま手に取った一枚1500円ほどのポロシャツを作ったジョルダーノという現地企業の創業者に直当たりして、SPAというビジネスモデルを学んだ。
それからもことあるごとに「外」にヒントを求めてきた。
その姿勢は貪欲そのものだ。
世界展開で苦戦が続いていた頃に旗艦店戦略の着想を得たのは、柳井が尊敬する商売人と言う米リミテッドの創業者からだった。

柳井が成長の糧としてきた「外の知恵」はアパレル業界に限ったことではない。
早くから関心を持ち続けてきたのが、シリコンバレーで勃興するデジタル革命だった。
まだ銀天街のペンシルビルにいた頃からコンピューター関連の本や雑誌をむさぼり読み、「これは」と思う人物を訪ねて回っていた。
ちなみに最も影響を受けたのが、日本では1994年に発売された『コンピュータ帝国の興亡』という本だった。

パソコンの「デルモデル」で一世を風靡したマイケル・デル、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズの後を受けてアップルを成長に導いたティム・クック、グーグルを傘下に持つアルファベットを率いるスンダー・ピチャイ、ツイッター創業者のジャック・ドーシー……。
まだ見ぬ知恵を求めて会いに行った起業家は数知れない。

孫との出会いもその中で巡ってきた。

ファーストリテイリングとソフトバンクは同じ時期に上場を果たしている。
上場企業に与えられる証券コードはファーストリテイリングが9983で、ソフトバンクが9984だ。
連番になったのも何かの縁と、柳井は野村証券に仲介をお願いして孫に会いに行った。

柳井が関心を持っていたのが、当時ソフトバンクが掲げていた日次決算システムという管理手法だった。
日々の売り上げはもちろん経費や在庫、人件費、社員一人当たりの利益率などを毎日計算してはじき出していく。
孫は当時よくジェット機がオートパイロットで空を飛ぶ様子を経営にたとえていた。
計器類を見ていれば安全に飛ぶことができるように、日次決算で上がってくる数値を見ていれば経営を間違えることはない、と。

このシステムを可能にしたのが社内LANとパソコンによる管理システムということで、孫は初対面の柳井にも「すぐにできますよ」と豪語したが、柳井によると「聞くのと実際にやってみるのとではかなりの違いだった」。
結局は1年ほどをかけて取り入れたのだという。

p458

そもそもユニクロのすべてを詰め込んだ売り場には、商売のすべてが存在するというのが柳井の哲学だ。

「売場とは小売業にとっての唯一の収益実現場所」

「売場とは社員全員の鏡。自分と自社の真の姿が映る」

「売場とは成績表」

「売場の基準とは一番厳しいお客様の基準」

「売場には『あなた』という人の姿勢が表れる」

柳井は日ごろから、こんな言葉でユニクロの販売現場のあるべき姿を社員たちにも伝えてきた。
そのDNAを現場でたたき込まれ、海外に伝えてきた経験のある日下と、売り場で汗を流した経験がなくまっさらな目でユニクロを見ることができる田中。
この二人の化学反応に柳井にとって最後の改革を託したのだが、そのもくろみは当初から大きくつまずくことになった。
有明プロジェクトの第一歩であるはずの物流が破綻したのだ。

これまでユニクロは進化を遂げようとするたびに、必ずと言っていいほど「引き算」に直面してきた。
この時もそんな経験則をそのまま踏襲してしまった。

物流崩壊 p459

「なんでこんなに現物欠品が出てくるんだ」

2016年春に有明の倉庫が動き始めてしばらくたつと、異常事態が頻発するようになっていた。
有明が全面稼働するのは1年後の2017年2月になるが、それに先立ち慣らし運転的に徐々に稼働したのだが、問題はそのさなかで起きた。

インターネット経由でお客が服を注文すると、サイトの上では在庫があるはずなのに実際の倉庫には存在しない。
すると自動でキャンセルが通知されてしまう。
毎年秋に行う感謝祭というユニクロにとって一年間のうちで最大の商戦を迎えると、この現物欠品問題が急増し、カスタマーセンターに苦情の電話が殺到するようになってしまった。

どれだけ在庫データを擦り合わせても実際に倉庫に存在する服の数字と一致しない。
出荷バースの数、入庫のキャパシティー、棚からの引き出し数、出庫バースに入る服の数……。
本来は一本の線のようにきれいにつながっていなければならないはずのデータが、どこかで狂ってしまっている。
せっかく有明で巨大倉庫を稼働させたにもかかわらず、余分に倉庫を確保するという本末転倒な事態に追い込まれた。

「IT部門とEコマース、倉庫の3つで毎日データを擦り合わせるけど、『なにかがどこかでずれている』の繰り返しです。
色々なところにバンドエイドを貼り付けるような。
それでも在庫の数字が合わない。
その結果、お客様に迷惑をかけてしまう。
もう、最悪ですね」

日下によると、原因は有明倉庫の稼働と同時期に掲げた「Eコマース本業化宣言」に間に合わせるための突貫工事にあったという。

ユニクロがインターネット販売を始めたのはフリースブームのただ中だった2000年に遡る。
日本の小売業としては早くから着手しながら依然として5%ほどにとどまっていた売上高におけるEコマースの比率を、早々に30%に高めようという目標を掲げたのが、この頃だった。
そのために必要なシステムの構築をインドのIT会社に外注してしまっていた。

ただし、本当の原因はこのインドの会社の技術力にあるわけではない。
ここも日下の反省の弁を引用しよう。

「そもそもベンダーに丸投げするところがダメなんです。
運営する側の我々がどういう指標を持ち、どんなことを実現したいのか。
それを具現化しないとシステムを作る方も作れないということです」

要は「仏作って魂入れず」、である。
現物欠品問題の原因はユニクロの姿勢そのものにあるというのが日下の結論だった。
それに、問題はシステムだけではなかった。
急ごしらえで有明倉庫のオペレーションを自動化したものの、ここでもやはり突貫工事の域を出なかったことも事実だ。

例えば、配送に使う服を詰める箱。
いくつかの大きさの箱があるのだが、一番大きな箱だけが自動化されていなかった。
感謝祭で秋冬物の発注が急増するとどうしてもかさばるアウターの取扱量が多くなるため、この一番大きなサイズの箱を使う頻度が跳ね上がる。
すると、ここの作業が全体のモノの流れを滞らせるボトルネックとなってしまう。
こんなところにも目配りが足りていないのが、この当時のユニクロの情報改革の現状だった。

「もう一度ぶち壊す」 p461

柳井にとってもショックは大きかった。
折しも、有明倉庫が稼働する直前の2015~16年の秋冬物商戦では暖冬の影響もあって業績の下方修正に追い込まれたばかりだった。
柳井は当時の記者会見で「点数をつけるとしたら不合格。30点です。会社の規模が大きくなって成長ではなく膨張している。組織のあり方や仕事のやり方を変えます」と宣言したばかりだった。
そのための秘策として水面下で進めていた情報改革が、出足からつまずいたのだ。

「あの時、(物流が)混乱し始めた時に報告と実際に起きていることが違うと気づいたんですよ」

柳井の目に、病巣は単なる物流の問題とは映らなかった。
そこにはユニクロが抱えるもっと大きな病が見え隠れしていたという。

「このままでは報告の文化になってしまう。
大企業になるとだんだんそうなってしまう。
それをぶち壊して(もう一度)実行の文化に治していかないといけない。
そのためにはもう一度ぶち壊して、新しいものを作っていく。
それをこの時に痛感しました」

つまり、情報製造小売業への転換という大改革がいきなりコケた本当の原因はシステム開発や倉庫の設計といった些末な問題ではなく、大企業病というもっと大きな問題だと捉えたのだ。

柳井はあわてて旧知のNTTデータ社長に電話を入れてシステムを一から作り直していったが、この時に「これが最後の改革になる」といよいよ腹を固めたのだという。

ただし、その危機感がピークに達したのは、実は2016年にユニクロを襲った物流の混乱ではなかった。
その翌年の2017年1月の感謝祭でてこ入れしたはずのシステムが停止する事態に追い込まれてしまった。
1年間で最も大切な時期に丸一日、ネット販売が停止してしまったのだ。

有明プロジェクトが始動し最初に物流が混乱してから1年ほど。
その間に自社の物流部を解体してしまい、物流大手ダイフクの力を借りていわゆる倉庫のマテハン(運搬作業)を全面的に見直していた。
ようやく倉庫の問題を乗り越えたと思っていた頃に再び、ユニクロはつまずいたのだ。

すると柳井は日下たちにこんなことを命じた。

「アリババに行って教えを請うてこい」

ジャック・マーへの疑念 p463

中国で最大のEコマース企業にのし上がったアリババ集団創業者のジャック・マー(馬雲)とは、ソフトバンクの社外取締役として旧知の仲だった。
孫正義は1999年にアリババを創業したばかりのマーと初めて出会い、5分で出資を即決した。
その後も大株主としてマーとは深いつながりを持ち、2007年にマーをソフトバンクの社外取締役に招いていた。

マーは中国のみならず世界的に見ても立志伝中の人と言っていいだろう。
幼い頃に生まれ育った杭州の名勝・西湖を訪れる欧米からの観光客に片っ端から話しかけてガイドを買って出て英語の腕を磨いた逸話は、中国では広く知られている。
大学や夜間学校で英語講師をしながら貯めた資金で起業したマーは、アリババを中国を代表する巨大企業へと育て上げていった。

ユニクロも2009年からアリババを通じて中国でネット販売を展開してきた。
2015年には新興勢力の京東集団(JD)への出店を決めながら、柳井の鶴の一声によってわずか3ヵ月で京東から撤退してアリババ一本に絞り直したこともあった。
このことから当時はユニクロとアリババの蜜月関係がさかんに報じられた。

ただし、ソフトバンクの取締役会を通じてマーの言動を間近で見てきた柳井は実は、マーのことを経営者としてまったくと言っていいほど評価していなかった。
孫にも「ジャック・マーとは縁を切るべきだ」と何度も助言したという。
マーへの疑念は柳井が私の取材で、初めて明らかにしたことだ。

「彼は自分の都合しか言わない。ソフトバンクの取締役会でもほとんど(意味のある)発言をしない。そんなのないよね」

マーへの疑念を深めたのが、2014年に設立されたアリババのフィンテック子会社、アントフィナンシャルの経営権を巡る問題だったという。
アントはアリババの金融部門として瞬く間に巨大フィンテック企業へと成長していったが、その株式の過半を握るのはマ一個人だった。
「個人の会社として自分の利益にしようとしたことに、僕は腹が立った」と柳井は振り返る。

実は京東集団への出品は中国事業を預かる潘寧が決めたのだが、柳井はそれでは先に商売を始めていたアリババに対して筋が通らないと言って撤回させたのだという。
たとえ認められない相手が率いる会社であっても、パートナーとしての筋を通さなければ商売人としての信義にもとると判断したのだ。

アリババが世界有数のEコマース企業として君臨していることは厳然とした事実だ。
事実には真正面から向き合う必要がある。
だから、個人的に認めない相手に対しても教えを請うたのだった。

アリババの教え p465

アリババの本社がある杭州に飛んだ日下は、ユニクロのEコマースの現状を率直に伝えた。
日下は私の取材に対しては「社外秘なので詳しくは言えないですが」と言い、詳細は明らかにしなかったが、中国の消費がピークに達することで知られる11月11日の「独身の日」に向けてどんな準備をしているのかを子細に学んだという。

「今、自分たちがシステムのどこにボトルネックを抱えているのか。
それを11月11日に向けてどう改善していくのか。
その可視化が徹底していました」

その学びをユニクロの現状と照らし合わせるとひとつの答えに達した。
「やはりプラットフォームは自分たちで作らないといけないということです。誰かに任せてしまうとブラックボックスができてしまう」。
こうしてユニクロはデジタル・プラットフォームを製化するところから情報製造小売業の仕切り直しに着手した。

プラットフォームを内製化することに決めたユニクロだが、情報革命というものは1社では成り立たない。
数多くの仲間を募りエコシステム(生態系)を築き上げることがデジタルという新しいフィールドで勝ち残る条件となる。

これはユニクロの情報革命のきっかけとなったiPhoneを例に取るのが最適だろう。
スティーブ・ジョブズが「電話を再発明する」と言って披露したiPhoneを初めて見たとき、多くの人々がマシーンとしての完成度の高さに目を奪われた。
パソコンで広まっていたインターネットの世界を手のひらに収めてみせたのだから、当然だろう。

だが、iPhoneの本当のすごみは機械そのものではなく、iPhoneという機械を中心にソフトウエアのエコシステムを意図して築き上げた点にある。
あたかもiTunesという強烈な引力を発するブラックホールに吸い込まれるかのように、世界中のソフトウェア会社が競ってiPhoneの上で動くアプリを作り、供給し始めたのだ。

ジョブズがその美しさにとことんこだわって完成させたiPhoneというマシーンは、最初からこのエコシステムを築く目的で世界にばらまかれたデバイスだと言っても過言ではないだろう。
つまり、ジョブズはiPhoneを中心とするアプリのエコシステムを築くための仕組みを作り上げたのだ。
そのためにiPhoneに先立ち、音楽デバイスのiPodからアプリ経済圏を創り上げていった。

つまり、iPhoneの本質はハードではなくソフトのエコシステムにあるということだ。
今となっては広く認知されていることだろうが、これをiPodの時代から何年もかけて周到に準備して築きあげていった過程こそが、ジョブズによる最大の発明だったと言えるだろう。
すさまじいビジョンの力と実行力である。

iPhoneの話が長くなってしまったが、ユニクロも情報革命のパートナーを「外」に求めていった。
例えば、情報製造小売業の起点となる「売れる服」を占う需要予測の技術では、この分野のAIでは世界の先端を走るグーグルと手を組んだ。

ソフトバンクというレンズを通じて情報産業を見つめていた柳井はグーグルが持つ「世界中の情報を扱おうという目標の高さ」を高く評価していたという。
「やっぱりこの会社と真っ先に組むべきだと思いました」。
シリコンバレーにあるグーグルの本社を訪れて自ら提携を持ちかけた。

究極の選択 p470

イノベーションの種を外部に求める一方で、有明プロジェクトが第一歩からつまずく原因ともなった物流の改革に全力をそそいだことは言うまでもない。
先述のダイフクをはじめとして数々のパートナーの協力を仰いだが、その中の1社であるMujinという産業ロボットスタートアップとのエピソードも、ここで紹介しておきたい。

Mujinはアメリカの大学を出てイスカルという世界的な超硬切削工具メーカーに勤めていた滝野一征と、アメリカ人学者のデアンコウ・ロセンが2011年に立ち上げた会社だ。
コンピューターサイエンスとAI、ロボティクスを専攻してきたロセンが構築した技術をもとに物流倉庫の無人化を実現するシステムを展開しようとしていた。

柳井との出会いは2018年秋のことだ。
有明倉庫で破綻した物流の立て直しのためのテクノロジーを求めていた柳井に、滝野とロセンはある知人を介してプレゼンする機会を得ることができた。

滝野たちの持ち時間は30分。
すでにMujinが手掛けていた中国・京東集団(JD)の倉庫を改善したビデオからスタートするプレゼンを始めてから5分ほどが過ぎたあたりで、それまで黙って聞いていた柳井がぶっきらぼうにこう言って遮ってきた。

「滝野さん。君はせっかくここまで会社を育ててきたのに、なぜその会社を売ってしまうんですか」

実はこの時、滝野はソフトバンクが運営する巨大ファンドからの出資を受け入れる交渉を進めていた。
どうやら柳井はその事実を知っているようだった。

「それでいくら株を売るんですか」

「既存株主の譲渡分も含めて4割です」

それを聞くと柳井は間髪入れずに詰めてきた。

「そんなのダメだろ」

「だいたい君は株の大事さというのを理解しているんですか」

敬語の丁寧な口調だが、ぶっきらぼうな物言いには独特の迫力が漂う。
柳井はこう吐き滝野がMujinのビジネスを加速させるためにはどうしても必要な資金だと説明すると、柳井は思いもしなかったことを提案してきた。

「じゃ、同じ金額を僕が貸すというならどうしますか。出資じゃなく融資です」

柳井は株を取らずに個人で資金を提供するという。
「あの……、何百億という話なんですが……」

ざっと300億円に相当するはずだ。
ただ、柳井は「そんなことは分かっていますよ」とつっけんどんに返した。
よくよく考えれば柳井にとって300億円などポケットマネーに過ぎないのかもしれない。
ただ、滝野にとっては唐突に突きつけられた選択だ。

日本の起業家にとってはある意味、究極の選択と言えるのではないだろうか。
言ってみれば、この国を代表する二人の経営者から「どちらを取るのだ」という選択を迫られているのである。

気づけば持ち時間の30分はとっくに超えている。
その日は答えを出せないままに終わったが、それからしばらくして滝野の携帯が鳴った。
電話をよこしてきたのは柳井の秘書だった。

「柳井がまたお会いしたいと申しています」

有明にある柳井のオフィスを訪問することになったのだが、なんとそこには孫正義の姿もあった。
日本を代表する二人の経営者に挟まれる格好となった滝野。
時間の流れが止まりそうな錯覚を覚えるが、ここで結論を出さなければならない。

「で、君の気持ちはどうなの」

孫がこう聞いかけてきた。

滝野はその問いを「あれは人生で一番きつい質問でした」と振り返る。
無理もない。
滝野はこの時、34歳。
起業家としてはまだまだこれからの身なのに、二人の巨頭の目の前で「今この場で踏み絵を踏め」と迫られているのだ。
滝野は意を決してこう答えた。

「正直に言って、柳井さんからいただいたオファーはすごくうれしいです。
でも、先に僕らのことを見つけてくれて高いバリュエーションで認めてくれたのは孫さんでした。
それなのに後からもっと良いオファーをいただいたからといって柳井さんに『お願いします』というのは違うと思います。
正直に言います。
それはないです。
僕は孫さんの側です」

こう言ったとき、柳井との縁は切れたと思った。

だが、目の前の二人の様子はやや違って見えた。
踏み絵を踏む思いだった滝野は気づかなかったのだが、どうやら二人の間ですでに話が付いていたようだ。
その証拠に、孫が真逆のことを滝野に語りかけた。

「投資家としては残念だけどね。僕も駆け出しの頃にこんな話があったらなぁ、と思うよ。だから僕は一個人として認めることができるから」

どうやら二人の間ではソフトバンクからの出資案を撤回して柳井から個人融資するということですでに話がついているようだ。
滝野にも徐々に状況が理解できてきた。
同時に、全身から力が抜けていった。

起業家に問う志 p474

結局、滝野とロセンに50億円ずつ柳井が融資した上で、残る200億円に関しては銀行から借りることになったのだが、その一部の目先の資金として75億円の借り入れにも、柳井が個人で保証してくれた。
こうして滝野らは合計300億円の資金を手にすることができた。

滝野らはこの資金で当時筆頭株主だった会社からMujinの株を買い戻すことになった。
いわゆるMBO(経営者による買収)だ。
こうして滝野はMujinの経営権を確立していった。

滝野にとって一連のやり取りを思い返してみてもキツネにつままれたような感覚であることは否めない。
「いったい、柳井さんになんのメリットがあったのだろうか」、と。

もちろんユニクロの物流立て直しを担う自動化技術を他社であるソフトバンクではなく手の届くところに置いておきたいという意図はあったのだろう。
ただ、それならソフトバンクに代わってユニクロが出資すればいいはずだ。
資本の論理で言えば、柳井になんの得もない。

知られざるこの騒動の意図を、私は柳井に聞いた。
するとこんな答えが返ってきた。

「彼の起業家としての精神にほれ込んだということです。
だからもっと当事者意識を持って経営してもらわないといけない。
彼には技術者で終わってもらいたくなかったんです。
滝野君には情熱がある。
『Mujinインサイド(Mujin入ってる)』を世界に広める理想がある。
それを最後までやりきる気力がある。
だから、『お前、そんなことでいいのか』ということですよ」

柳井にはほろ苦い過去がある。
あの銀天街のペンシルビルで「世界一」というゴールを決めた時、その野望は誰にも理解されなかった。
メインバンクの広島銀行からは取引停止をちらつかされながら薄氷を踏む思いで資金をつないできた。

柳井が語る未来図をかたくなに認めなかった広島銀行の支店長に対しては今も思うところはあるが、その一方で後にこう考えるようになったのも事実だ。
「あの時、僕には銀行から融資を受けるという選択肢しかなかったが、今のようにベンチャーキャピタルが存在していたらどうだっただろうか」

おそらく株を差し出すのと引き換えに資金を得ていただろう。
だが、それは経営権の一部を売り渡すことと同義だ。
それで果たしてあの時に描いた未来図を追い求めることができただろうか……。

柳井は常々、日本のスタートアップ起業家たちに対する苦言を口にする。

「他の者と同じ目線でモノを見るんじゃない」

「広く世界にヒントを求めて視野を広げろ」

「上場やバイアウトがゴール?そんな引退興行みたいなことで満足していていいのか」

人と比べて特に優れたものを持っていたとは思えない自分がなし得たことが、なぜ優秀なはずの若者たちにできないのか。

ダメ人間だった自分にさえできたことが、なぜ君たちにできない。

起業家は、若者は、もっと世界に目を向けろ。

もっと志を高く持て。

それは、誰にでもできるはずだ。

私が柳井正という経営者に接していていつもひしひしと感じるのは、こんな思いだ。
滝野にも同じような感情をぶつけたということだろう。

そして今、Mujinの自動化技術は世界のユニクロの倉庫で動いている。

柳井が「最後の改革」と位置づける情報製造小売業への転換。
その野望はまだまだ未完のままだ。
「つくった服を売る商売から売れる服をつくる商売へ」の進化はまだ成し遂げられていない。

テクノロジーの世界は常に予想を上回るような速度で動き続けている。
AIが社会全体を覆いつつある今、スマートフォンの全盛時代も過ぎようとしている。
インターネットの情報を手のひらに集めるスマホが「集中」の時代の象徴なら、これから始まるAIビッグバンは情報を駆使するデバイスが我々の身の回りに散らばる「分散」の時代を創り上げることだろう。

ユニクロが掲げる情報製造小売業も、そんな時代にあわせて進化しなければならない。
これからもその道中に「引き算」はついて回るだろう。
ユニクロが本当の意味で柳井正が追い求めつづけてきた世界一の座に向かうのなら、そんな引き算の数々を「足し算」に変えていかなければならない。

これまでもそうであったように、これからも。

p482

二人の息子が幼稚園や小学校に進む頃には、家でくつろぐ夫が「お父さんは東京に店を出したい。もしお父さんができなかったら、お前たちがやってくれよな」と語りかけていたことも覚えている。
ユニクロで「金の鉱脈を探り当てた」と社員たちを前にした時には言ってはいるものの、その野望を果たせる自信は、実はまだなかったのだろう。
そんな等身大の柳井正を間近で見てきた。

p482

遠い日に父が語る野望を幼い記憶に持っているはずの息子たちに、父は会社を継がせないと言う。
1994年に上場した時に決めたのだという。
実はそれまでは継いでもらいたいと思っていたが、上場して「パブリック・カンパニー」となった時点で、柳井は息子たちに会社を託すという選択肢を自ら断ち切っていた。

二人の息子にはファーストリテイリングの株式を相続し、大株主として経営を監督する立場についてもらおうと考えている。
同業で言えば、ウォルマート創業者のサム・ウォルトンが家族による経営の監督と、経営の執行を分けたように。

二人の息子に関して、社内外から聞こえてくる評価は決して悪くない。
むしろ評価は非常に高い。

「でも、そういう運命だと思って引き受けてもらわないと。まあ、難しいですよね」

柳井は今、こう話す。
カリスマ経営者の後を引き継ぐ立場の者は、親族であってもそうでなくとも創業の第1世代とはまた違った重圧にさらされるのだろう。
今やグローバル企業に成長したユニクロなら、その重圧はいかほどのものだろうか。
そもそも上場をへてパブリック・カンパニーとなったユニクロを親族にだけ委ねるというのはフェアではない。