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「限りある時間の使い方」を読んだ

投稿時刻2024年10月9日 18:34

限りある時間の使い方」を 2,024 年 10 月 09 日に読んだ。

目次

メモ

長い目で見れば、僕たちはみんな死んでいる p1

人の平均寿命は短い。
ものすごく、バカみたいに短い。

ちょっと考えてみてほしい。
人類が最初にアフリカ大陸に登場したのが今から20万年以上前。
そして科学者の見積もりによると、太陽の熱で地球上の生命が絶滅するのは今から15億年以上先の話だ。

それで、自分の人生は?

80歳くらいまで生きるとして、あなたの人生は、たった4000週間だ。

まあ運が良ければ90歳まで生きて、4700週間くらいになる可能性はある。

もっとめちゃくちゃ運が良くて、人類でもっとも長生きだったフランス人女性ジャンヌ・カルマンと同じ122歳まで生きたとしよう。
彼女は19世紀の画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに会ったことがあり(とにかく酒臭い男だったらしい)、クローン羊のドリーが生まれた1996年にもまだ生きていた。

科学が進歩すればそれくらいの寿命は一般的になるかもしれない。
だがそれでも、あなたの生きられる時間は、ほんの6400週間ほどだ。

そんなふうに考えてみれば、古代ギリシャから現代に至るまで、多くの哲学者が人生の短さを延々と論じてきたのもうなずける話だ。
人はどこまでも壮大な計画を考える頭脳を持ちながら、それを実行に移すだけの時間がない。
古代ローマの哲学者セネカは『人生の短さについて』という文章のなかで、こう語る。

「われわれに与えられたこの時間はあまりの速さで過ぎてゆくため、ようやく生きようかと思った頃には、人生が終わってしまうのが常である」

p8

アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールはかつて、現代社会の生活をベルトコンベアにたとえた。
古い仕事を片づければ、同じ速さで新しい仕事が運ばれてくる。
「より生産的に」行動すると、ベルトの速度がどんどん上がる。
あるいは加速しすぎて、壊れてしまう。

p10

何かがおかしい。
未来はこんなものじゃなかったはずだ。

1930年、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは「孫たちの経済的可能性(Economic Possibilities for Our Grandchildren)」と題したスピーチのなかで、ある有名な予言をした。
100年後には、富の増加と技術の進歩のおかげで、みんな週に15時間しか働かなくなるだろう。
人の悩みは忙しいことではなく、ありあまる余暇をいかにうまく過ごすかということになるだろう、という予言だ。

「創造以来初めて、人類は真の、永続的な問題に直面する。
経済の悩みから解き放たれた自由を、いかに使うかという問題である」とケインズは言った。

しかし残念ながら、ケインズはまちがっていた。

必要なだけのお金が手に入っても、人は満足しない。
欲しいものや真似したいライフスタイルがどんどん増えていくだけだ。
もっとお金を稼ごうと頑張り、忙しさを何かの勲章のように自慢する。

まったく不思議な現象だ。
そもそもお金持ちというのは、お金のためにあくせく働かなくてもいい立場ではなかったのか?

忙しいのは、もちろんお金持ちだけじゃない。
トップの人たちがさらにお金を稼ごうとするなら、手っ取り早い方法は所有する会社や業界のコストを削減することだ。
下々の労働者は効率化に追い立てられ、切り捨てられる不安におびえながら働いている。

ただ生き延びるためだけに、もっともっと働かなくてはならないのだ。

p31

産業革命は一般に、蒸気機関の発明によって起こったといわれる。
だがルイス・マンフォードは1934年の大著『技術と文明』で、おもしろいことを指摘している。
産業革命は、時計なしではけっして起こらなかったというのだ。

18世紀後半、イギリスの農民たちは都市部に移り住み、工場で働く労働者になった。
工場では数百人の労働者がいっせいに、決められた時間に働かなくてはならない。
バラバラな時間に働いていたら、作業の流れが止まってしまう。
だから工場のオーナーたちは、石炭や鉄などの原料と同じように、労働時間を効率的に管理しようと考えるようになった。

こうして、時間に値段がつけられた。
それまではみんな、もっと大まかに「1日働いたらいくら」とか、あるいは「豚の解体1頭につきいくら」という出来高払いで働いていた。
それがだんだん、1時間でいくらという時給制に変わったわけだ。

時間を有効活用して、労働者を効率よく働かせれば、より大きな利益を得ることができる。
そうなると資本家たちは、仕事の時間に別のことをしている労働者たちを、盗っ人だと考えるようになる。

働かないやつらは、時間という資源を盗んでいるのだ。

1790年代、イギリスの実業家アンブローズ・クロウリーは、「タバコを吸ったり、歌を歌ったり、新聞を読んだり、ケンカをしたり、何であれ仕事に関係のないこと」をした時間分を、すべて給料から差し引くという方針を発表した。
クロウリーにしてみれば、ダラダラしている労働者は、時間というベルトコンベアに乗った容器から不当に中身を盗んでいく悪者だったわけだ。

p37

気づきが訪れた日のことはよく覚えている。

2014年のある冬の朝だった。
ブルックリンの自宅近くの公園のベンチに座り、やり残したタスクの多さにいつも以上の不安を感じながら、ふいに気づいたのだ。

「いや、そもそもこんなの、絶対にうまくいくわけがない」

どんなに効率を上げて、どんなに自制心を駆使したところで、ゴールにはたどり着けない。
どんなに時間を管理しても、タスクがゼロになることはない。
何も心配事のない平穏な状態なんて、実現できるわけがない。

頑張っても無駄だと気づいた瞬間、気持ちがすっと楽になった。
ゴールが不可能だとわかれば、失敗した自分を責めなくてすむのだから。

でもこの時点で、僕はまだ、問題の本質を理解していなかった。

それは、なぜこれらの方法が必然的に失敗するのか、ということだ。

p41

しかし、現実を否定したところで、何もうまくいかない。

「いつかは完璧な世界がやってくる」という幻想にしがみついていれば、目先の安心感は得られるかもしれない。
ところがいつまでたっても、自分が充分にやっているという感覚――そして自分は充分であるという感覚――は得られない。
「充分」というのが、人間には不可能なレベルに設定されているからだ。

闘いは終わることがなく、人生はますます不安に、空虚になっていく。
「全部できるはず」という信念が強ければ強いほど、やるべきことは積み上がり、「本当にやるべきか?」と問う余裕がなくなってくる。
その結果、どうでもいいタスクばかりが増えていく。

急げば急ぐほど、時間のかかる仕事(あるいは幼児の世話)にイライラする。
計画を完璧にこなそうとすればするほど、小さな不確定要素への恐怖が高まる。
時間を自分の自由に使おうとすればするほど、人生は孤独になっていく。

これは「制約のパラドックス」と呼ばれるものだ。

時間をコントロールしようと思うと、時間のなさにいっそうストレスを感じる。
人間であることの制約から逃れようと思うと、人生はいっそう空虚で、不満だらけになる。
このままではどこにもたどり着けない。

それならば、制約に逆らうかわりに、制約を味方につけたらどうだろう?

自分には、限界がある。
その事実を直視して受け入れれば、人生はもっと生産的で、楽しいものになるはずだ。
もちろん、不安が完全になくなるわけではない。
限界を受け入れる能力にも限界はある。
だとしても、これだけは自信を持っていえる。

現実を直視することは、ほかの何よりも効果的な時間管理術だ。

p46

時間が限られているという事実を否定することなく、受け入れる。
そのほうが、僕たちの人生はずっと充実したものになる。

古代ギリシャや古代ローマの哲学者たちも、きっと賛成してくれると思う。
人間のもっとも崇高な目標は、神のようになることではなく、真摯に人間であろうとすることだ、と古代の哲学者たちは考えていた。
いずれにせよ、僕たちは限りある人間にしかなれない。
それをまっすぐに受け止めたとき、僕たちは本当の意味で、強くなれる。

1950年代、チャールズ・ガーフィールド・ロット・ドゥ・カンという偏屈なイギリス人作家が、『生きることを学べ(Teach Yourself To Live)』という本を書いた。
一言でいうと、自分の限界を受け入れろ、という内容だ。
「なんて暗い考え方なんだ」と批判されると、彼はこう言い返した。

「暗いだと?
まったくもってそんなことはない。
冷たいシャワーを浴びるのと同じくらい、目の覚める生き方だ。
あなた方はもう、多くの人のように、誤った幻想に目を曇らされて困惑する必要がないのだ」

時間の使い方という難間に立ち向かう僕たちにとって、これはとても勇気づけられる言葉だ。
無限の生産性やスピードを求める社会を、自分ひとりで覆すことは誰にもできない。
それでも、馬鹿げた理想を今すぐ放り捨てることならできる。

現実を直視するのだ。

さあ、シャワーを全開にして、きりっと冷えた水しぶきを全身に浴びよう。

p54

社会史研究者のルース・シュウォーツ・コーワンは、著書『お母さんは忙しくなるばかり』のなかで、洗濯機や掃除機といった「省力化」のための家電が、実際にはまったく家事を楽にしなかったと指摘する。
なぜかというと、家事のレベルに対する社会の期待値がぐんと上がり、家電による省力化のメリットを相殺してしまったからだ。

「仕事の量は、完成のために利用可能な時間をすべて満たすまで膨張する」という有名な法則がある。
1955年にシリル・ノースコート・パーキンソンが提唱した「パーキンソンの法則」だ。
これはただのジョークではないし、仕事に限った話でもない。

どんなタスクも、時間があればあるだけ勝手にふくらんでいくものなのだ。
正確には「やるべきこと」の定義がどんどん広がっていくといってもいい。

底なしのバケットリスト p57

やることが多すぎるという問題は、家事や仕事にかぎった話ではない。

多忙な生活をしているかどうかにかかわらず、ただ地球上で生きているだけでも、やることが多すぎるという感覚は深くつきまとう。
現代社会はやるべきことを無限に提供してくれるので、「やりたい」と「できる」のあいだに、けっして埋められない溝が生じるのだ。

ドイツの社会学者ハルトムート・ローザによると、近代以前の人たちには、そういう感覚があまりなかったらしい。
死後の世界を信じていたというのも理由のひとつだ。
時間は現世だけに限られたものではなく、そのため時間を「最大限に活用しなくては」というプレッシャーもなかった。

それに当時は、世界がどんどん発展するという歴史観がなかった。
世界はつねに変わらず、そこにあった。
あるいは一部の文化では、歴史は季節のように循環するものだった。
人はただ、淡々と自分の役目をこなしていればよかった。
自分の前にも数えきれない人が同じような人生を生き、自分の後に続く人たちも同じことを繰り返していく。
そう考えるなら、いちいち新しい可能性に飛びつかなくても、とくに損をした気分にはならないわけだ(世界は不変なのだから、新しい可能性なんてものはそもそもありえない)。

ところが、近代になって僕たちの世界観は一変した。

死後の世界を信じなくなり、一度きりの人生こそがすべてになった。
そして歴史が進歩するという考え方がやってきた。
世界はもっと完璧な未来に向かって進んでいるそう考えると、人生の短さはより痛切に感じられる。
どんなに頑張っても、素敵な未来のほとんどを、自分は見ることができないのだから。

そんな不安を解消するために、僕たちは人生を多彩な体験で満たそうとする。
ハルトムート・ローザの著書『加速する社会(Social Acceleration)』の訳者序文では、現代人の焦燥感が次のように説明される。

多様な場所を訪れ、新しいものを見て、新しい食べ物を試し、さまざまなスピリチュアリティを体験し、新しい活動を学び、官能的な喜びを他人と共有し(ダンスでもセックスでもいい)、多様なアートに触れる。
そうやって何でも体験できる可能性が加速すると、自分の人生で実現できる経験の可能性と、現在そして未来の人類が手に入れることのできる可能性の総体とのあいだの不調和が減少する。
すなわち、より「満たされた」人生に近づくことができる。
文字通りの意味で、人生を可能な限り多くの経験で満たしてしまおうということになる。

退職した人がバケットリスト(死ぬまでにやることリスト)の旅行先を制覇したり、快楽主義者が週末に遊びを詰め込んだりするのも、けっして楽な活動ではない。
疲弊したソーシャルワーカーや企業内弁護士と同じくらい、忙しくてストレスフルな活動なのだ。

もちろん表面的には、遊びのほうが楽しいだろう。
住まいを必要としているホームレス状態の人たちの長いリストや、校正しなければならない膨大な契約書の山よりも、これから訪れたいギリシャの島々のリストのほうが気楽なのは確かだ。
でも本質的には、そこに大きな違いはない。

自分ができる以上のことをやり遂げなければ、満ち足りていると思えない。
楽しい活動をいくら詰め込んでも、どこか満足感が得られないのはそのせいだ。

人は世界中のありったけの体験を味わい、人生を「生ききった」と感じたいと願う。
ところが世界が提供してくれる体験の数は実質的に無限なので、どんなに頑張っても、人生の可能性を味わいつくしたという感覚を得ることはできない。
むしろ、効率化の罠にどんどんハマってしまうのがオチだ。
すばらしい体験をすればするほど、「もっとすごい体験をしなければ」と思うようになり、結果的に無力感が増していく。

インターネットがそういう状況を悪化させるのはいうまでもない。
インターネットは時間を有効に使うためのツールだが、その一方で大量の情報を提示し、やりたいことを無限に増やそうとする厄介な代物でもある。
時間を有効活用するためのツールが、もっとやらなければという切迫感を悪化させるのだ。

たとえばフェイスブックを使うと、自分が参加したいイベントの情報を効率的に得られる。
しかし同時に、とても参加しきれない量のイベント情報に圧倒される結果にもなる。
マッチングアプリはデートする相手を効率的に見つけるツールだけれど、デートできるかもしれない魅力的な相手の数が多すぎて、あまりにも多くを失った気分になる。
電子メールは大量のメッセージに迅速に対応するための画期的なツールだけれど、そもそも受けとらずにすんだはずのメッセージまで大量に呼び寄せることになる。

すべてを完璧にやるためのテクノロジーは、結局のところ、やること「すべて」のサイズをどんどん大きくする。

だからそれは、つねに失敗する運命なのだ。

p66

ベンチャーキャピタリストで Reddit (レディット) 共同設立者のアレクシス・オハニアンは「誰かが解決法を示してくれるまで、人は何かが壊れていることに気づかない」と述べる。
でも、本当にそうだろうか。
日々のプロセスが壊れていることに気づかない理由は、そもそも壊れていないからではないか。

あるいは一見「壊れている」ようにも見える不便さに、人間であることの本質があるとはいえないだろうか?

p77

僕たちはいつも、人生の冷酷な現実に向き合うのを避けて、気晴らしを求めたり、日々の忙しさに没頭したりしている。
後戻りできない決断をするのが怖くて、自分ではなく世間に決めてもらおうとする。
「そろそろ結婚すべきだ」とか「嫌な仕事でも続けるべきだ」とみんなが言うから、まあ仕方ないさと受け入れている。
でもそれは、ただの責任回避だ。

何かを捨てて何かを選ぶという現実が重すぎて、選択肢がないふりをしているだけだ。

重い現実から目をそらしていたほうが、人生は快適かもしれない。
でも、その快適さは人を空っぽにして、人生を僕たちの手から奪ってしまう。

自分の有限性を直視して初めて、僕たちは本当の意味で、人生を生きはじめることができるのだ。

p85

このような視点から、あらためて「限られた時間で何をするか」という重要な問題を考えてみよう。

限りある人間はいつだって、厳しい選択を強いられる。
今日の午後、たとえば僕が執筆をすると決めたなら、必然的に他の重要なこと(たとえば息子と遊ぶこと)を諦めなくてはならない。

何かを諦めることはつらいから、何もかもを詰め込みたいと思うのも無理はない。
けれど、もしも存在していること自体が当たり前ではないとしたら――銃乱射事件のニュースを見てケインが悟ったように、「人生のすべては借り物の時間」なのだとしたら――何かを選択できるということ自体が、すでに奇跡的だと感じられないだろうか。

一つひとつの決断は、目移りするほど素敵な可能性のメニューから何かを選べるチャンスなのだ。
そう考えるなら、「選べなかった選択肢を奪われた」という被害者意識を持つ必要はまったくない。

メニューから何かひとつしか選べないことは、けっして敗北なんかじゃない。
決められた時間のなかで「あれ」ではなく「これ」をする、という前向きなコミットメントだ。
自分にとって大事なことを、主体的に選びとる行為だ。

「ほかにも価値のある何かを選べたかもしれない」という事実こそが、目の前の選択に意味を与えるのだ。
これは人生のあらゆる場面に当てはまる。
たとえば結婚に意味があるのは、その他の(ひょっとすると同じくらい魅力的な)相手をすべて断念して、目の前の相手にコミットするからだ。

この真実を理解したとき、人は不思議な爽快さを感じる。

「失う不安」のかわりに、「捨てる喜び」を手に入れることができる。

選べなかった選択肢を惜しむ必要はない。
そんなものは、もともと自分のものではなかったのだ。
あなたが何を選ぶとしても――家族を養うためにお金を稼ぐ、小説を書く、子どもをお風呂に入れる、ハイキングに出かけて地平線に沈む淡い冬の太陽を眺める――、それはけっしてまちがいではない。

本当はなかったかもしれない貴重な時間の過ごし方を、自分自身で選びとった結果なのだから。

完璧主義者は身動きできない p97

限りある人生という現実を受け入れ、それに応じて先延ばしをするのは、良いタイムマネジメントの極意だ。
逆に、人生の有限性から目をそらしていると、ダメな先延ばしに陥ってしまう。

良い先延ばしをする人は、すべてを片づけることはできないという事実を受け入れたうえで、何に集中して何を放置するかを賢明に判断する。
ダメな先延ばしをする人は、自分の限界を受け入れることができず、そのせいで動けなくなる。
自分が限りある人間だということを認められず、失望を避けるために先延ばしを利用しているのだ。

こういう有害な先延ばしは、時間内にできるタスクの量とはあまり関係がない。
そうではなく、自分に才能がないのではないか、みんなに評価してもらえないのではないか、という質的な不安が根底にある。
いつまでも結果を出さずにいれば、才能のなさに直面しなくてすむというわけだ。

哲学者コスティカ・ブラダタンは、昔のペルシャの建築家のエピソードを例にあげて、有害な先延ばしを説明している。
その建築家は、世界でもっとも美しいモスクの設計図を描いた。
クラシカルな構成でありながら目を見張るような独創性。
見る者を圧倒するほど壮大でありながら、余分なものを極限まで削ぎ落としたシンプルさ。
設計図を見た人はみんな、それをなんとか手に入れたいと思った。
有名な職人たちが押しかけて、ぜひモスクの建築を任せてほしいと懇願した。

ところが建築家は、三日三晩書斎に閉じこもって図面をじっと見ていたかと思うと、火をつけて図面を燃やしてしまった。

この建築家は天才だったかもしれないが、完璧主義者でもあった。
彼の想像するモスクは完璧だった。
でも実際に形にしようとすると、どうしても妥協が出てくる。
どんなに優れた職人でも、設計図を完全に忠実に再現することはできない。
それに年月が経てば、風雨で摩耗したり、戦争で傷つけられてしまうかもしれない。
実際にモスクを建ててしまうと、想像上の完璧さは、かならず現実の限界に突き当たる。
だから建築家は、燃やすことを選んだ。

限界やリスクに身をさらすよりも、完璧な空想に引きこもることを選んだのだ。

ブラダタンは、この建築家のような完璧主義こそが、大事なことを先延ばししてしまう原因だと説いた。
頭のなかの考えを実行に移そうとすると、どんなに優秀な人でも、やはりうまくいかない部分が出てくるものだ。
現実は空想と違って、完全にはコントロールできない。
才能が足りなかったり、時間がなかったり、予定外のことが起こったり、人が思うように動いてくれなかったりする。
だから完璧をめざしていたら、いつまでたっても実行できない。

僕たちのつくるものは、けっして完璧ではない。
これは一見、気の滅入る事実だ。
でもそこには、解放的なメッセージが含まれている。
めざすレベルに届かないのではないかという心配など、もう必要ないのだから。

頭のなかの完璧な基準に追いつくことは、どうしたって不可能だ。
完璧な仕事なんて誰にもできない。

だから、肩の力を抜いて、まず始めてみたほうがいい。

選択肢は少ないほうがいい p104

ここで、恋愛について僕が提供できる数少ないアドバイスを紹介したい。

適当なところに腰を落ち着ける方法だ。

自分の理想の人ではないけれど、今の相手と一緒にいていいのだろうか。
もっと自分にふさわしい人を探すべきじゃないのだろうか。
そんな不安を現代人の多くが抱えている。
雑誌やインスタグラムを見ていると、妥協するのはまるで罪であるかのような雰囲気だ。
本当の理想の人に出会うまで、いつまでも妥協なく追い求めるべきだとみんなが言う。

でも、だまされないでほしい。
本当は、妥協したほうがいいに決まっているからだ。

正確にいうなら、それ以外に選択肢はない。
誰だって、妥協するしかないのだ。

がっかりだと思うかもしれないけれど、そうではない。
政治理論家のロバート・グッディンは、妥協することの意味がそれほど単純ではないことを指摘する。

「もっといい人がいるはずだ」と密かに思いながら中途半端な相手と交際を始めるのは、明らかに妥協だと誰もが認めるだろう。
でも、決まった恋人をつくらないこと――たとえば理想の相手に出会うためにマッチングアプリで10年間相手を探しつづけること――も、やはり一種の妥協である。
つまり、オンラインでの出会いを求めることに時間を費やし、いつまでも先に進めないという残念な状況に甘んじているわけだ。

さらにグッディンに言わせれば、妥協する生き方と、最大限に努力する生き方と対比させるのは、そもそもまちがっている。
最大限に努力するためには、どこかで手を打つ必要があるからだ。

「高みをめざして努力するためには、努力の対象となる何かに、比較的永続的な方法で腰を据えなければならない」と彼は言う。
つまり超一流の弁護士や芸術家になるためには、まず他の可能性をすべて諦めて、法律や芸術を学ぶことに打ち込まなくてはならない。
やりたいことを全部追い求めていたら、どれも中途半端に終わってしまう。
だから、ほかにもっといいキャリアがあるかもしれないという誘惑を振りきって、法律や芸術で妥協するのだ。

恋愛についても同じだ。
少なくともしばらくのあいだは、相手の欠点が見えても妥協して、その関係を続けてみたほうがいい。
数々の誘惑や、理想と違うのではないかという疑間を振りきり、「この関係を続けよう」と覚悟を決めるのだ。
そうしなければ、いつまでたっても深い関係を築くことはできない。

もちろん、そんな覚悟を持って恋愛をする人は多くない。
たいていは何年もふらふらしながら、相手が真剣になってくるたびに口実を見つけて逃げだしたり、いろんな相手と中途半端な関係を続けたりする。
あるいは特定の人に決めてみたものの、年月が経つうちに相手の欠点が見えてきて、やっぱり相性が良くないな、などといって別れを考えはじめる。

なかには実際に別れたほうがいい場合もある。
恋愛に限らず、人は時々ひどくまちがった選択をしてしまうものだ。

でも多くの場合、本当の問題は、「相手がただの人間である」ということだ。
相手に特別な欠陥があるとか、2人の相性が悪いとかいうことではなく、相手が(必然的に)不完全であり、空想の世界みたいに完璧ではないということに失望してしまうのだ。

ベルクソンが未来について指摘したことは、恋愛にも当てはまる。
想像上の未来であらゆる希望を叶えることができるのと同じように、想像上の恋人はあらゆる特徴を兼ね備えることができるからだ。

たとえば、無限の安心感と無限の刺激を与えてほしい、という理想を持っていたとしよう。
相手が安心できるけれど刺激に足りなかったりすると、この人は理想の相手ではないと考えて、別の誰かを探しに行く。
でも現実には、無限の安心感と無限の刺激を両方与えてくれる相手なんかどこにもいない。
そもそも矛盾する資質だからだ。
その両方を一人の人間に求めるのは、身長170センチと180センチの両方を兼ね備えたパートナーを求めるのと同じくらい不合理なことだ。

そんなふうに不可能な理想を追いかけていたら、いつまでたっても持続的な関係は築けない。
だからどこかで妥協して、一人の相手に決めたほうがいい。
どうやっても後戻りできない状況をつくってしまったほうがいい。

皮肉なことに、人は後戻りできない状況に置かれたほうが、選択肢があるときよりも幸せになれるというデータがある。
手持ちのカードを多く残しておくよりも、「これしかない」という状況のほうが満足度が高まるのだ。

ハーバード大学の社会心理学者ダニエル・ギルバートらは、数百人の被験者にポスターを選んでもらう実験をおこなった。
いくつかのアート柄のなかから、好きなポスターを選んで持ち帰ってもらう。
参加者は2つのグループに分けられ、一方のグループには「1ヶ月以内に他のポスターと交換可能である」と伝えた。
もう一方のグループには「これが最終決定であり、一度選んだポスターはけっして交換できない」と伝えた。

その後の両者の満足度を調べたところ、後者のグループのほうがはるかにポスターを気に入っていることがわかった。
もっといい選択ができるかもしれないという可能性を残されたグループよりも、後戻りできない選択をしたグループのほうが、自分の選択に満足できたというわけだ。

世の中のさまざまな慣習も、実はこの洞察にもとづいてつくられていることが多い。
結婚だってそうだ。
「幸せなときも困難なときも一緒にいることを誓うのは、うまくいかなくても逃げださないと約束することで、より満足度の高い関係性を手に入れるためだ。
その他の無数の可能性(どこかにいる理想の人)をあえて捨てたほうが、目の前の相手にコミットできて、結果的に幸せな生活を送ることができるのだ。

思いきってひとつを選び、無限に広がっていた可能性を封印する。
これは前章で述べた「捨てる喜び」にも通じるやり方だ。
多数の選択肢を捨てるからこそ、選びとったものに価値が生まれる。

仕事を辞めるにしても、子どもを持つにしても、家を買うにしても同じだ。
迷っているうちは不安でいっぱいかもしれないが、思いきって決めてしまえば、不安は消えてなくなる。

進むべき方向はただひとつ、自分が選びとった未来に向かって前進するだけだ。

ユーザーの意識を乗っとる機械 p116

そのように考えれば、最近話題の「アテンション・エコノミー」がなぜ深刻な問題なのかも明らかになる。

アテンション・エコノミーとは、人々のアテンション(注意・関心)に値段がつけられ、SNSなどのコンテンツ提供者がそれを奪い合っている状態のことだ。
ネット上にあふれるコンテンツは、興味のないことに無理やり注意を引きつけ、僕たちの注意をまちがった方向に誘導する。

それは人々の関心を操作し、ひいては限りある人生の使い方までコントロールしようとする巨大な機械だ。
その誘惑はあまりに大きく、人の限りある注意力でそれを完全に跳ねのけることは難しい。

知っている人も多いと思うけれど、僕たちが利用している「無料」のソーシャルメディアは、実は無料ではない。
そこではあなたは顧客ではなく、商品だからだ。

テック企業はあの手この手でユーザーの注意を手に入れ、それを広告業者に売って儲けを出している。
さらに、みんな薄々気づいていると思うけれど、スマートフォンは僕たちの操作をすべて追跡している。
どこでどうスワイプし、クリックしたか。
どこにじっと目を留め、どこをさっさとスクロールしたか。
そんなすべてが記録され、収集される。
企業はそのデータを使って、僕たちをもっと夢中にさせるようなコンテンツを正確に表示する。

ユーザーの注意を引くのは多くの場合、怒りや恐怖をかき立てるコンテンツだ。
つまり、ソーシャルメディア上の論争やフェイクニュースや炎上は、プラットフォーム側から見れば欠点ではなく、ビジネスモデルに不可欠な要素だといえる。

ユーザーの注意を引くために、テック企業は説得的デザイン(またはパースエーシブデザイン)を活用する。
説得的デザインとは、カジノのスロットマシンの技法を転用したもので、依存症になるくらいユーザーをハマらせるための心理学的テクニックのことだ。

たとえばSNSなどの「スワイプで更新」するデザインは、「やってみるまで新しいコンテンツが現れるかどうかわからない」という不確実性を利用して、人をハマらせる。
次は何かおもしろいコンテンツが出てくるかもしれないと思うと、スロットマシンのように何度も何度もやってみたくなるわけだ。

こうしたアテンション・エコノミーが高度に進化すると、「ユーザーが商品である」という決まり文句さえも通用しない新たな状況がやってくる。

企業はふつう、自社の商品にいくらかの敬意を払うものだ。
でも現在の状況を見ると、一部の企業はユーザーを商品以下のどうでもいいものとして使い捨てている。
フェイスブックに早くから投資していたロジャー・マクナミーに言わせれば、僕たちはただの燃料であり、シリコンバレーの炎に投げ込まれた丸太だ。
僕たちの注意は個性を剥ぎ取られてデータの貯蔵庫に投げ込まれ、そこで企業に使いつくされる。

問題は他にもある。
本当に深刻なのは、アテンション・エコノミーが僕たちの注意力を叩き壊し、限りある時間を有意義に使おうという努力さえも徹底的に損なってしまうことだ。

フェイスブックでうっかり1時間を無駄にしたとき、被害はその1時間だけにとどまらない。
ハマることを何よりも優先し、その他の価値を無視してデザインされたアテンション・エコノミーは、僕たちの頭のなかの世界像をどんどん書き換えていく。

何が重要か、どんな危険に直面しているか、政敵がどれほど腐敗しているか。
そんなあらゆる認識が、ソーシャルメディアによって偏った方向に歪められる。
それはインターネットを見ていない時間の過ごし方にも大きく影響する。

たとえば「自分の住む街は暴力犯罪だらけだ」とSNSで信じ込まされたら、街を歩くのが怖くなって家に引きこもり、警察権力の強化を叫ぶ扇動的な政治家に投票してしまうかもしれない。
思想的に対立する人たちのひどい面ばかりをインターネットで見ていたら、政治的立場が違うという理由だけで、大事な友人や家族と疎遠になってしまうかもしれない。

スマホなどのデバイスは単に、気を散らして重要なことを見えにくくするだけではない。
そもそも「何が重要か」の定義さえ、簡単に書き換えられる。
哲学者ハリー・フランクファートの言葉を借りるなら、それは「自分の欲しいものを欲しがる能力」を壊してしまうのだ。

僕自身、典型的なツイッター廃人だった時期がある。
実際に画面を見ていたのは1日2時間程度だったと思うけれど、それよりもはるかに長い時間、僕の意識はツイッターに支配されていた。
アプリを閉じてジムで運動しているときも、料理をしているときも、ツイッターで見かけたムカつく発言への怒りがふつふつと湧いてきて、相手をどうやって論破してやろうかと考えてしまうのだ(もちろんそのムカつく意見を見かけたのは偶然ではなく、僕を怒らせようというアルゴリズムによって的確に計算された結果だ)。

それだけじゃない。
生まれたばかりの息子が何か可愛いことをしていると、どんなふうにツイートしようかと反射的に考えてしまっていた。
かけがえのない瞬間を経験することよりも、ツイッターにコンテンツを(無償で)提供することが優先だったのだ。

ある夕暮れどき、風の強いスコットランドのビーチを歩いていて、奇妙なねじれの感覚に襲われたのを覚えている。
プロの心理学者によって巧妙につくられた説得的デザインに慣れきっていた僕は、ありのままの自然をうまく体験することができなかった。
僕はもともと、海辺を歩くのが大好きだ。
夕暮れどきのスコットランドの海辺は、どんなSNSよりもはるかにすばらしいと確信している。
それなのに、海辺の景色には、僕の注意を引きつけてハマらせてくれる何かが欠けていた。

僕の心は無意識のうちに、もっとわかりやすい報酬を欲しがっていた。
つねにSNSの刺激にさらされている脳が、現実世界に物足りなさを感じていたわけだ。

それと同時に、インターネットの世界の絶望感が現実世界を侵食しはじめた。
ツイッターから流れ込んでくる怒りや苦悩は、目の前の世界を灰色に染めた。
非日常的だからこそ興味を引くはずのニュースや議論が、いつのまにか日常をのみ込み、世界はつねに最悪の事件や災害ばかりが起こる場所になっていた。

これでは日々を楽しむことなんてできない。
さらに困ったことに、そんなふうに世界の見え方が歪んでいるときには、歪んでいることに自分で気づけない。
気づくためには注意力が必要なのに、その注意力が完全に乗っとられているからだ。

アテンション・エコノミーにいったん注意を奪われると、それがきわめてまっとうな感覚としか思えなくなる。
T・S・エリオットの「惑いが惑いを惑わせる」という一節のように、インターネットのフィルターが幾重にも現実を覆いつくす。
もしもあなたがソーシャルメディアの影響から完全に自由だと思うなら、それはおそらく、完全に注意を乗っとられているせいだ。
自分が怒りっぽくなっていると気づくこともできないほどに。

人生の限られた時間は、気づかないうちに巧妙に盗まれつづけている。

こういう状況が政治的な危機であることは、以前から指摘されてきた。

ソーシャルメディアは過激な意見を増幅して僕たちの対立を煽り、他人を口汚く罵る投稿に「いいね」や「シェア」を集めさせ、まともな議論ができない環境をせっせとつくりだしてきた。
その一方で僕たちは、悪質な政治家が平然と嘘をつき、事実を歪曲し、そして実際に選挙で勝ってしまうことを身にしみて学んだ。

有名人の問題発言は、大勢の注意を引くための格好のエサだ。
スキャンダルがスキャンダルを上書きしていく。
そして正義感からその発言をリツイートする人たちは、たとえそれに反論する意図であっても、問題発言をどんどん拡散し、世間の注目を集める手助けをしてしまう。

テクノロジー評論家のトリスタン・ハリスは、ソーシャルメディアを開くたびに「画面の向こうで1000人があなたの注意を引こうと待機している」と指摘する。

企業はそのためにお金を払って人を雇っているのだ。

彼らの執拗な襲撃に、意志の力だけで対抗するのは現実的ではない。
政治的な危機には、政治的な解決策が必要だ。

ただ、もっと深いレベルで考えるなら、この問題の根底にある不都合な真実を認めざるをえない。
テック企業の襲撃は(けっしてそれを正当化するわけではないけれど)一方的なものではない。
僕たち自身もある意味で共犯なのだ。
たいていの場合、喜んで時間と注意を差しだしているのだから。

人の心のなかには、SNSに限らず、気をまぎらせてくれる何かを求める傾向があるようだ。

敵は内部にいる。
限りある人生をよりよく生きるためには、僕たち自身の内にひそむ厄介な敵のことを理解しなくてはならない。

なぜやりたいことをやりたくないのか p126

ヤングの試練は、人が注意力散漫になるときに、本当は何が起こっているのかを示唆している。

目の前の苦痛から逃れるために、気をまぎらせてくれる何かを探しているのだ。

裸で氷水を浴びたり、病院でインフルエンザの予防接種を受けたりするときには、それがわかりやすい形で現れる。
肉体的な苦痛を無視するために、わざと注意をそらす努力をするからだ。
一方、自分でも気づかないうちに、日々の暮らしのなかで気晴らしを求めていることもある。

たとえば、仕事中についSNSを見てしまうのも、そのためだ。

仕事に没頭しているときには、SNSの誘惑はやってこない。
ついSNSを開いてしまうのは、なんとなく退屈でやる気が出ないときだ。
ささやかな苦痛から目をそらすために、無意識のうちに、気をまぎらせてくれるものを探してしまう。
延々とツイッターを見たり芸能人のゴシップを読んだりすると、なんとなく気分がいいのはそのせいだ。

シリコンバレーは僕たちの注意力を盗みとる悪者だといわれるけれど、実際のところ、僕たち自身もその盗みに加担している。

メアリー・オリバーは、気を散らしたいという内なる欲求を「親密な邪魔者」と呼ぶ。
自分のなかの自分が、口笛を吹きながらそっと心のドアを叩く。
「ねえ、ブラウザのタブをひとつ開けば、目の前の重要で困難な仕事から逃れて、別のラクなことができるんだよ」

作家のグレッグ・クレックは、この欲求について奇妙な発見をした。

「不思議なのは、やらなければならないことのほとんどを、やる気になれないことだ。
別にトイレ掃除や確定申告だけではない。
心からやり遂げたいと思っていることでも、やらなければと思うと、なぜかやりたくなくなっているのだ」

これはいったい、どういうことなのか。
なぜ僕たちは、自分が本当にやりたいと思っていることに集中できないのだろう。
なぜやりたいことをやらずに、やりたくもない気晴らしに逃げ込んでしまうのだろう?

もちろん、ある種の活動は本当に嫌だったり、怖かったりする。
そこから逃げたいのは当然のことだ。
でも、それより一般的なのは、とくに理由もなく感じる退屈だ。
ものすごく重要でやりたいと思っていた活動が、なぜか急にひどく退屈に感じられて、一瞬も集中できなくなる。

この不可解な現象の答えは、何を隠そう、僕たちの有限性にある。

僕たちが気晴らしに屈するのは、自分の有限性に直面するのを避けるためだ。
つまり、時間が限られているという現実や、限られた時間をコントロールできないという不安を、できるだけ見ないようにしているのだ。

重要なことに取り組むとき、僕たちは自分の限界を痛感する。
思い入れが強いからこそ、完璧にできないことがもどかしい。

ペルシャの建築家はそのせいで、理想的なモスクの設計図を燃やしてしまった。
でも僕たちは、神になろうという幻想を捨てて、自分の限界に出会わなくてはならない。
自分には思っていたほど才能がないかもしれないし、人間関係は思わぬ泥沼にはまり込むかもしれない。
仮にすべてがうまくいくとしても、そうなることを事前に知ることは不可能だ。

だから、すべてをコントロールしたいという欲求を捨てて、とにかく進んでみるしかない。
心理療法家ブルース・ティフトの言葉を借りるなら「窮屈な現実に閉じ込められ、無力な囚われの身となる」リスクを受け入れるのだ。

デジタルデトックスが失敗する理由 p129

退屈がつらいのは、単に目の前のことに興味がないからではない。
退屈とは「ものごとがコントロールできない」という不快な真実に直面したときの強烈な忌避反応だ。

退屈はいろんな場面でやってくる。
困難なプロジェクトに取り組んでいるとき、日曜日の午後に何もやることがないとき、5時間ぶっ続けで2歳児の相手をしなくてはならないとき。
どんな場面にも共通しているのは、自分の有限性が目の前に突きつけられているという事実だ。

ものごとは理想的ではない形で展開していく。
僕たちにできるのは、その事実を受け入れ、現実に身を任せることだけだ。

そんな現実を見たくないから、僕たちはオンラインの世界に逃げ込んでニセモノの万能感を得ようとする。
完璧なプロフィールをでっち上げ、地球の反対側で起こっている出来事をリアルタイムで知り、無限のニュースフィードを永遠にスクロールしつづける。
評論家ジェームズ・ドゥスターバーグの言葉を借りるなら「空間が意味をなさず、時間が終わりなき現在として広がる領域」をふわふわと漂っているわけだ。

インターネットで時間をつぶすのはとくに楽しいわけではないけれど、楽しいかどうかは関係ない。
何ものにも束縛されないという幻想が、有限性の痛みをやわらげてくれれば充分だ。

そう考えれば、いわゆるデジタルデトックスとか、メールを決められた時間にだけチェックするという戦略がうまくいかない理由は明らかだろう。
気晴らしの対象を物理的に制限するのは、たしかにデジタル依存症の治療には役立つかもしれない。
でもデジタルデトックスをしたからといって、気晴らしへの欲求自体がなくなるわけではない。

SNSのアカウントを消して山小屋にこもったとしても、それで大事なことに集中できるかというと話は別だ。
たとえフェイスブックが見られなくても、何らかの形で気晴らしの誘惑はやってくる。
空想に逃げ込んだり、眠くないのに昼寝をしたり、あるいは(あなたが生産性オタクなら)やることリストを整理したり。
とにかく何でもいいから、大事なことに集中しないための方便を探しはじめるはずだ。

要するに、僕たちの邪魔をするのは気晴らしの対象ではない。
嫌な現実から逃れたいという、僕たち自身の欲求だ。

あなたがパートナーとの会話に集中できないのは、食卓の下でこっそりスマホをいじっているせいではない。
本当は順番が逆だ。
会話に集中したくないから、こっそりスマホをいじっているのだ。
話を聞くには努力と忍耐と献身が必要だし、話の内容によっては嫌な気持ちになるかもしれない。
それよりも、スマホを見ているほうが断然ラクだ。

仮にスマホを手の届かないところに置いたとしても、それで会話に集中できるわけじゃない。
きっと話を聞かずにすむ別の方法を探しはじめるだろう。
たとえば今、相手が何かを言い終わる前に、反論の方法を脳内でリハーサルしなかっただろうか?

気晴らしへの欲求をすっかり消滅させる方法があればいいのに、と思う。
不快に感じることなく重要なことに集中できる秘技を、今すぐ披露できたらどんなにいいだろう。
でも正直なところ、そんな方法がこの世に存在するとは思えない。

僕たちにできる最善のことは、不快感をそのまま受け入れることだ。

重要なことをやり遂げるためには、思い通りにならない現実に向き合うしかない。
その事実を受け入れ、覚悟を決めるのだ。
解決策がない、という事実こそが、ある意味で解決策だといえるかもしれない。

スティーブ・ヤングが高野山での修行で見いだしたのは、現実から逃げるのをやめれば苦痛がやわらぐという事実だった。
現実逃避をやめて、凍てつく水をしっかりとその身に受け止めたとき、それまでの苦痛は消え去った。
嫌だという気持ちよりも、今ここで起こっていることに注意を向けることができたからだ。

別に修行僧になる必要はない。
日々の生活でも同じだ。

難しいタスクを落ち着いてやり遂げるには、完璧に没頭できる状態を夢見るよりも、嫌な気持ちをそのまま認めたほうがいい。
苦痛や退屈を否定せず、今起こっていることをそのまま見つめたほうがいい。

禅の教えによると、人の苦しみはすべて、現実を認めたくないという気持ちから生じるのだという。
「こんなはずではなかった」「どうして思い通りにいかないんだ」という気持ちこそが、苦しみの根源なのだ。

自分は万能ではない。
ただの無力な人間で、それはどうしようもない。

その事実を受け入れたとき、苦しみはふいに軽くなり、地に足のついた解放感が得られるだろう。
「現実は思い通りにならない」ということを本当に理解したとき、現実のさまざまな制約は、いつのまにか苦にならなくなっているはずだ。

何が起こってもおかしくはなかった p140

ここまで「時間がない」という不愉快な現実を直視することの重要性を指摘してきた。
その一方で、そもそも時間を「ある」とか「ない」と捉えること自体に、何かおかしなところがあることも見えてきたはずだ。

財布にお金があるとか、素敵な靴を持っているというとき、僕たちは何か目に見えるものの話をしている。
でも「時間がある」というのはちょっと意味合いが違う。

「締め切りまで3時間ある、まだ3日ある、などというとき、私たちは自分が持っていない何かの話をしている」と作家デヴィッド・ケインは指摘する。
それはむしろ、予測や期待のようなものだ。
「3時間ある」と思っていても、実際には別の仕事が割り込んできて全然時間がなくなるかもしれないし、「3日ある」と思っているうちに、うっかり死ぬかもしれない。
たとえ予想通りに3時間が手に入ったとしても、それが事実となるのは3時間が過ぎ去ったあとの時点に限られている。

未来が確信に変わるのは、それがすでに過去になってからなのだ。

人生の4000週間の時間にしても、本当は誰も手に入れることはできない。
単に早死にする可能性があるだけでなく、ほんの1週間さえも「自分のもの」にはならないからだ。

目の前の1週間は、けっしてあなたの思い通りにはならない。
制約だらけの時と場所に放り込まれて、次に何が起こるかわからない不確実な瞬間瞬間をただ生きるしかない。

そう考えれば、「人の存在とは一瞬の時間の連続である」というハイデガーの考え方もしっくりくるのではないだろうか。

将来のことを考えたり、計画を立てたりするとき、僕たちは「時間を所有したり使ったりできる」という前提に立っている。
そしてその前提のせいで、いつもイライラしたり、不安になったりしている。
時間は自分のものではないし、自由に使うこともできないという確固とした現実が、つねに僕たちの期待を打ち砕くからだ。

計画を立てるのが悪いことだといっているわけではない。
老後のためにお金を貯めたり、期日までに投票に行くのは良いことだ。
未来を良くしようという努力には何の問題もない。

本当の問題は、その努力が成功するかどうかを、今この時点で確実に知りたいと思う心理にある。
それが不安を生むのだ。

愛するパートナーとずっと一緒にいたいと望むのは当然だし、そのために相手を幸せにするような行動をするのはもちろん良いことだ。
でも「絶対に相手を手放したくない」という考えに固執すると、人生はストレスの連続になる。

その不安から解放されるための秘訣は、直感に反するかもしれないけれど、「未来はけっして確実ではない」という事実を受け入れることにある。

どんなに必死で計画し、心配しても、どれだけ空港までの時間を確保しても、未来について安心できるわけがない。
すべてが確実にうまくいくことなんて不可能だ。
確かな未来を求める戦いに勝ち目はないし、そんな戦いは今すぐやめたほうがいい。
フランスの哲学者ブレーズ・パスカルもこう言っている。

「我々はあまりに無分別であるため、自分のものではない時のなかをさまよい……現在のために未来の助けを借りようとし、来るかどうかもわからない先々のために手に負えない事柄を手なずけようとする」

過去を振り返ってみれば、未来をコントロールしようとする奮闘がいかに無意味であるかに気づくはずだ。
未来が完璧に思い通りになったことなんて、今までに一度でもあっただろうか。
今ここにいる自分は、思わぬ偶然が積み重なった結果ではないのか。

人生の重要な出来事には、いつだって偶然の力がはたらいている。
配偶者と出会ったパーティーに招待されることはなかったかもしれないし、住んでいる場所が違えば子どもの頃に自分の才能を引きだしてくれた教師に出会えなかったかもしれない。
あるいは、ものすごい偶然が重ならなければ、自分は生まれていなかったかもしれない。

フランスの思想家シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、自伝『決算のとき』のなかで、気が遠くなるほど多くの偶然が自分を自分たらしめたのだと語る。

昼食のあとに仕事部屋で居眠りをすると、子どものような驚きで目を覚ますことがある。
なぜ、私は私なのか?
まるで幼い子どもが自分のアイデンティティに初めて気づくように、私は自分がここにいるという事実に驚く。
今この瞬間に、他の何ものでもなく私の人生を生きている。
これはいったい、どういった偶然の巡り合わせだろうか……
特定の卵子が特定の精子に侵入されたこと、それに先立つ両親の出会い、さらに両親の誕生と、そこに連なる先祖の誕生。
それらが起こる確率は何億にひとつもなかったはずだ。
そして現在の科学では予測のつかないある偶然が、私を女として生まれさせた。
それ以降のあらゆる行動は、幾千もの異なる可能性につながっていた。
病気になって学問をやめていたかもしれない。
サルトルに出会わなかったかもしれない。
何が起こってもおかしくはなかったのだ。

ボーヴォワールの言葉には、心を落ち着かせるものがある。
これらの出来事を何ひとつ選べなかったにもかかわらず、僕らはみんな人生をここまで生き延びてきたわけだ。

それができたのだから、この先コントロールできない未来がやってきても、うまく切り抜けることは不可能ではないと思う。
それどころか、多くのすばらしい出来事は自分の選択とはまったく関係のないところからやってきたのだから、未来がどうなるかを心配する必要など本当はないのかもしれない。

p147

アメリカの瞑想家ジョセフ・ゴールドスタインの言葉を借りるなら、計画とは「ただの考え」にすぎない。
それなのに、僕たちはそのことをすぐに忘れてしまう。
計画が何か確実な実体であるかのように思い込む。
計画という投げ縄で未来を捉え、無理やり自分の支配下に置こうとしている。

でも本当は、計画というのは、すべて現時点での意思表示にすぎない。
自分のささやかな影響力で未来にどう働きかけたいか、その考えを明らかにしているだけだ。

未来の側にはもちろん、それに応じる義務はない。

あらゆる瞬間は最後の瞬間だ p155

これは小さな子どもを持つ親だけに当てはまることではない。
たしかに、日々成長する赤ちゃんと一緒にいると、人生とはそれ自体がはかなく貴重な経験の連続なのだという事実を無視できなくなる。
でも作家サム・ハリスが言うように、本当はあらゆる人が人生の一回性を直視すべきなのだ。

人生は有限であり、だから必然的に、二度とない体験に満ちている。
息子のお迎えは、いつまでもできる体験ではない(そのことを考えると悲しいが、30歳になった息子のお迎えをしたくないのも事実だ)。
生まれ育った家を訪れたり、海で泳いだり、恋をしたり、親しい友人と深い話をすることにも、いつか終わりが来る。
そして僕たちはたいてい「これが最後」と気づかないまま、その時を過ごしてしまう。
だからどんな経験も、それが最後の機会であるかのように大切にするべきだ、とハリスは言う。

実際、人生のあらゆる瞬間はある意味で「最後の瞬間」だ。
時は訪れては去っていき、僕たちの残り時間はどんどん少なくなる。
この貴重な瞬間を、いつか先の時点のための踏み台としてぞんざいに扱うなんて、あまりにも愚かな行為ではないか。

限りある時間を未来のための道具にしてしまうのは、僕たち自身のせいばかりではない。
何もかもを単なる道具とみなす経済システムのなかで生きていれば、そうなるのも当然だ。

資本主義とは、あらゆるものを道具化する巨大な機械であるといっていい。
地球の資源、時間、あなたの能力。
すべては将来的な利益を生むための手段だ。
そう考えれば、資本主義社会の大金持ちがなぜ不幸であるのかも理解できる。

彼らは自分の時間を、利益を生むための道具として使うことに長けている。
それが資本主義社会での成功の定義だ。
ところが時間を有効活用することに躍起になるあまり、彼らは現在の生活を、将来の幸福に向かうための移動手段としか考えられない。
現在を楽しむことができないのだ。

経済的に貧しい国の人たちのほうがどこか幸せそうに見えるのも、きっとそのせいだ。
将来の利益のために人生を道具化しない人たちは、現在の喜びを充分に味わうことができる。
実際、メキシコはアメリカよりも貧しいけれど、幸福度の指標ではアメリカを上回ることが多い。

こんな小話を聞いたことがあるかもしれない。
メキシコの漁師が1日に2~3時間しか働かず、太陽の下でワインを飲んだり、友達と楽器を演奏したりして過ごしている。
それを見て愕然としたアメリカ人のビジネスマンは、漁師に勝手なアドバイスをする。

「もっとたくさん働きなさい、そうすれば利益で大きな漁船をたくさん買って、他人を雇って漁をさせ、何百万ドルも稼いで、さっさと引退することができる」

それを聞いた漁師は「引退して何をするっていうんだ?」と尋ねる。
ビジネスマンはそれに答えて言う。

「太陽の下でワインを飲んだり、友達と楽器を演奏したりできるじゃないか」

p159

経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、これらすべての根底にある真実を見抜いていた。

ケインズによると、人が未来の目的のために邁進するのは(現代風にいうなら「生産性向上」に躍起になるのは)、究極的には「死にたくない」という願望のためだ。

「目的志向の人間は、つねに自身の行動の利害を未来へと先送りすることによって、その行動の不死性という怪しげな幻想にしがみついている。
彼は猫を愛するのではなく、その猫が産む子猫を愛する。
いや実際には、その子猫よりも子猫の子猫を愛する、というふうに延々と先送りする。
彼にとって、ジャムとは明日のジャムであり、けっして今日のジャムではない。
ジャムをつねに未来へと押しやることで、彼はジャムをつくるという行動に不死性を与えようとするのである」

そうやって先送りしていれば、自分がやっていることの意味を今ここで「清算」する必要はなくなる。
まだ何も確定してはいないのだから、未来に無限の期待を抱くことができる。

けれども、その代償は大きい。
彼はけっして目の前にいる猫を愛することはできないし、甘いジャムを味わうこともできない。
時間を有効活用するあまりに、彼は人生を生きることができなくなるのだ。

楽しみにしていたことが楽しくない理由 p160

「今を生きる」のは、しかし、そう簡単なことではない。

マインドフルネスの師匠たちは、今を生きることこそ幸せへの近道だと口をそろえて主張する。
心理学の研究でも、目の前の小さな喜びを味わうことが幸福度アップにつながると指摘されている。

でもどうすれば、今を生きられるのだろう?
試してみたことのある人なら、その難しさを知っているはずだ。

作家ロバート・M・パーシグは、名著「禅とオートバイ修理技術」のなかで、幼い息子を連れてオレゴン州のクレーター湖を訪れたときのことを語っている。
先史時代の火山が崩壊してできたクレーター湖は、アメリカでもっとも深い湖として知られる。
パーシグはこの湖を訪れるのを心待ちにし、特別な瞬間を存分に味わいたいと思っていた。

ところが、いざ訪れてみると、期待していたような喜びは得られなかった。

「実際にクレーター湖を前にしてみて、『ああ、これね』という気持ちになった。
写真とそっくりなものがそこにある、それだけだ。
他の観光客もみんな、どことなく居心地悪そうな顔をしている。
別に不満があるわけではないが、現実味がないというか、評判が先行しすぎて湖のクオリティが覆い隠されているように感じた」

p164

今を生きるための最善のアプローチは、今に集中しようと努力することではない。

むしろ「自分は今ここにいる」という事実に気づいことだ。

好むと好まざるとにかかわらず、自分は今ここにしかいられない。
たとえ皿洗いに集中していなくても、セックスがあまり楽しくなくても、そう感じている自分はやはり今ここにいる。
だから本当は、「今ここにいよう」とわざわざ考える必要なんかない。

「今を生きよう」と言うとき、あなたは自分を「今」から切り離したうえで、今をうまく生きられたかどうかを判断しようとしている。
つまり、これもまた、今この瞬間を何らかの目的に従わせようとする道具化のアプローチだ。

癒し系のパッケージに包まれていても、時間をコントロールしようという試みであることに変わりはない。
そして他のアプローチと同じように、このやり方もうまくいかない。
「もっと今を生きよう」などと考えるのは、自分で自分の首根っこをつかんで持ち上げるようなものだ。
自分が今この瞬間に含まれているという本質的な事実を、すっかり忘れてしまっている。

「人生から何かを得ようなどと思うな」と作家のジェイ・ジェニファー・マシューズは言う。
「何かを取りだして持ち帰れるような外部など、存在しないのだから。
自分は今この瞬間に絡めとられていて、その外側には何もない」

今を生きるとは、今ここから逃れられないという事実を、ただ静かに受け入れることなのかもしれない。

生産性と永遠の救済 p173

ここで、ちょっと気まずい真実を語る必要がある。

僕たちは、休息の機会を奪う経済システムの単なる犠牲者ではない。
実をいうと、僕たち自身が、休息を避けようとする傾向にあるのだ。

仕事を中断させられると不愉快に感じ、自分の生産性が上がらないとイライラしてしまう。
ベストセラー作家のダニエル・スティールはその極端な例だろう。
彼女は年間7冊近いペースでコンスタントに作品を発表し、これまでに180冊以上の本を出している。

2019年のグラマー誌のインタビューで、72歳のスティールは多作の秘訣を語った。
その秘訣とは、1日20時間ぶっ通しで働き、月に何度かは徹夜で書きつづけ、休みは毎年1週間だけ。
そして睡眠はほぼ取らないというものだ(「疲れて床に倒れ込むまではベッドに入りません。4時間も眠れたらかなり贅沢ですね」)。
彼女の豪快な働きぶりは広く称賛されているが、そこには何か、この社会の深刻な問題が反映されているようにも思える。
つまり、理不尽なまでの生産性への執着だ。

スティール自身も、嫌な感情から逃れるために仕事に没頭する面があると認めている。
息子を薬物の過剰摂取で亡くしたり、5回も離婚を経験したりしている彼女にとって、仕事は心の避難所なのだ。

「私生活でどんなに嫌なことがあっても、仕事は変わらずそこにある。私にとって、仕事はいつでも逃げ込むことのできる安全な隠れ家です」

留まることで見えてくるもの p202

「忍耐」や「我慢」という言葉には、かなりネガティブな響きがある。

やりたくないことを我慢してやるのは単純に不愉快だし、何かに耐えるというのはあまりにも受動的な態度に思えるからだ。

たとえば夫が外で刺激的な生活をしているあいだ、家でじっと耐えるのが妻の美徳とされてきた。
非白人は公民権を得るまでに何十年も我慢させられてきた。
仕事ができても控えめで自己主張しない社員は、なかなか昇進できずに長い時間を耐えなくてはならなかった。

そういう場合、忍耐とは自分の無力さに甘んじる態度であり、いつか良い時代が来るのをじっと待つという受動的な生き方だったわけだ。
でも社会が加速するにつれて、事情が変わった。

忍耐が強みになる場面が増えたのだ。

誰もが急いでいる社会では、急がずに時間をかけることのできる人が得をする。
大事な仕事を成しとげることができるし、結果を未来に先送りすることなく、行動そのものに満足を感じることができる。

僕にこのことを教えてくれたのは、ハーバード大学で美術史を教えるジェニファー・ロバーツだった。

ロバーツは最初の講義で、いつも同じ課題を出す。
「美術館に行って絵画か彫刻をひとつ選び、3時間じっと見る」という課題だ。
これは学生を恐怖に陥れる。
なぜなら、そのあいだメールやSNSは一切禁止、スタバにコーヒーを買いに行くことさえ許されないからだ(さすがにトイレ休憩だけは最低限認めてくれるけれど)。

ハーバードに行ってロバーツの「3時間じっと見る」課題をやってみるつもりだ、と友人に話したとき、賞賛と不安の入り混じった顔をされた。
僕の精神状態がおかしくなるんじゃないかと心配していたようだ。
実際、その心配はまちがってはいなかった。

ハーバード美術館で3時間座り込んでいるあいだ、僕の頭には普段なら絶対にやりたくないことが次々と浮かんできた。
服を買いに行きたい、イケアの家具を組み立てたい、画鋲で自分の太ももを刺してやりたい。
とにかく何でもいいから、さっさとできることをやりたくて仕方がない。

これはロバーツの狙い通りだった。
彼女が3時間のエクササイズにこだわるのは、スピード重視の生活に慣れている人にとって、それがおそろしく長い時間であることを知っているからだ。

受講生たちは身をもって学ぶことになる。
その場から動けずに、ペースを速めることもできずに、じっと待つことがどれほど苦痛であるか。
それでも3時間耐えたとき、その先にどれほど価値のあるものが待っているか。

ロバーツがこの課題を思いついたのは、学生たちが「速くやれ」という強烈なプレッシャーにさらされているのを見てきたからだった。
デジタル技術のせいだけでなく、ハーバード大学という厳しい競争社会にいれば自然とそうなる。
そんな状況で普通の課題を与えても、みんな効率的に仕上げてくるだけだろう。

アートには時間がかかるという事実を教えることも、教師としての責任だ、と彼女は考えた。

「誰かが許可を与える必要があるんです。何をするときでも、じっくりと時間をかけていいのだということ。
日々みんながさらされている制約とは違うやり方があるのだということを、学生たちに見せてあげるのです」

アートの種類によっては、かかる時間が明確にわかるものもある。
たとえばオペラ『フィガロの結婚』や映画『アラビアのロレンス』を見るときには、かなり時間がかかることを覚悟して臨まなくてはならない。
でも絵画や彫刻の場合、何らかの制約がなければ時間をかけるのが難しい。
数秒ちらっと見ただけで、なんとなくわかった気になることも可能だ。
だからロバーツは、単に作品を見るのではなく、時間をかけて鑑賞することを学生に義務づけた。

ロバーツ自身も同じ課題に取り組んでみた。
アメリカの画家ジョン・シングルトン・コブリーの「少年とリス」を3時間じっと鑑賞した(文字通り、少年とリスが描いてある絵だ)。

「9分間経って初めて、少年の耳の形がリスのおなかの模様と正確に一致することに気づきました。
コプリーはリスと少年とのあいだに、何らかのつながりを見ていたんですね……そして45分経ったとき、ふいに見えてきたのが、背景のカーテンの皺です。
一見ランダムな皺が、実は少年の耳と目の形を完璧に再現していたのです」

焦りがちな気持ちを抑えるための忍耐は、けっして受動的なものではない。
むしろ積極的で、力強い態度だといっていい。
そして忍耐は、アート鑑賞にとどまらず、あらゆる場面で力を発揮する。

ただ、ここで正直にいっておくと、ハーバード美術館でエドガー・ドガの「ニューオーリンズの綿の商人」を3時間見つづけた経験は、次のようなものだった。

携帯電話やノートパソコンをすべてクロークに預けて、折り畳み式の小さな椅子に座る。
最初の40分間は「自分はいったい何をやっているんだ」という思いで悶々とする。
なんでこんなことをやろうと思ったんだろう。
そもそも美術館なんて嫌いだったじゃないか。
大勢の来場者がのろのろと足を引きずって歩くのを見ると、こっちまで脱力してしまいそうだ。

それからふと、自分は絵の選択をまちがえたんじゃないか、と思う。
こんな退屈な絵を選ぶんじゃなかった。
どう見ても退屈するに決まっている(3人の男が綿のかたまりをじっくり吟味しているだけの絵だ)。
あっちの地獄の絵のほうが、たくさんの人が拷問されていて退屈しなさそうだ。
でも絵を変えるということは、課題に失敗することを意味する。
そもそもここにやってきた目的は、自分の気の向くままに状況を変えたいという気持ちを手放すことだったはずだ。
だからぐっと抑えて、我慢する。
退屈が疲労に変わり、苛立ちに変わる。
時間は重く、進まない。
1時間過ぎたかと思って時計を見るが、たった17分しか経っていない。

やがて80分を過ぎた頃――正確にいつ、どのようにかはわからないけれど――変化が起こる。
じりじりと進まない時間から逃げようとする試みがようやく無駄だとわかり、同時に不快感が薄れていく。
そしてドガの絵が、それまで気づかなかったディテールをともなって立ち上がる。
3人の男の、注意深く、どこか悲しげな表情。
後ろの影は、4人目の誰かの存在を示唆しているのだろうか。
光の加減で、ある男はのっぺりと、まるで幽霊のようにも見える。
ほどなく、視覚だけでなく五感で、描かれた部屋の様子が感じられてくる。
狭苦しく蒸し暑い部屋、床板の軋み、埃っぽい空気の匂い。

心理学でいう二次的変化が起こったのだ。
時間を速めようという無駄な努力を放棄した瞬間から、本当の体験が始まった。
哲学者ロバート・グルーディンが忍耐を「形あるもの、ほとんど食べられるようなもの」と表現した意味も今なら理解できる。
現実の手応えは、まるで噛み締めることのできる何かのようにくっきりとしていた。

現実の速度をコントロールしようという幻想を捨てたとき、現実が本当の意味で自分のものになったのだ。
現実と自分が、ようやく一致したといってもいい。

忍耐を身につける3つのルール p210

日々の生活で忍耐力を発揮するには、いくつかのコツがある。
ここではとくに役立つ3つのルールを紹介したい。

1 「問題がある」状態を楽しむ p210

僕たちは何か問題があると、すぐに解決済みのチェックを入れたがる。
急いで問題を解決していけば、いつか「何の問題もない状態」に到達できるのではないかという幻想を抱いているからだ。

その結果、目の前の具体的な問題だけでなく、「問題がある」こと自体が問題であると感じられ、二重に苦しまなくてはならない。
でも、何ひとつ問題がない状態なんて、もちろん不可能だ。
なぜなら、問題のない人生にはやるべきことがなく、意味がないからだ。

そもそも「問題」とは何か?
一般化して定義するなら、それは自分が取り組むべき何かだ。
そして取り組むべきことが何もなくなったとしたら、人生はまったく味気ないものになるだろう。

「すべての問題を解決済みにする」という達成不可能な目標を諦めよう。
そうすれば、人生とは一つひとつの問題に取り組み、それぞれに必要な時間をかけるプロセスであるという事実に気づくはずだ。

2 小さな行動を着実に繰り返す p211

心理学者ロバート・ボイスは、学者たちの執筆習慣を長年研究してきた。
その結果、もっとも生産的で成功している人たちは、1日のうち執筆に割く時間が「少ない」という意外な事実が明らかになった。

ほんの少しの量を、毎日続けていたのだ。

彼らは成果を焦らない。
たとえ1日の成果が少なくても、毎日コツコツ取り組んでいけば、長期的には大きな成果が出せると知っているからだ。
1日の執筆時間は短ければ10分程度、長くても4時間を超えることはなく、週末はかならず休んでいた。

ボイスはこのやり方を博士課程の学生たちに教えようとしたが、みんなパニックに陥って最後まで話を聞こうともしなかった。
締め切りは次々と迫ってくるのに、そんな悠長なことを言っていられない。
とにかく早く論文を仕上げなくては、と。

その反応こそ、ボイスの主張を証明するものだった。
学生たちは早く仕上げようと焦るあまり、適切なペース配分ができていなかったのだ。
創造的な仕事には時間がかかるものだが、学生たちは実際よりも早く仕上げたいという欲求に駆られていた。
そして思い通りに進まない不快感から目を背けるために、ある日は書くのをサボり、ある日は焦って1日中ひたすら書きまくるという状態になっていた。

適切なペースをつかむためのコツは、1日に割り当てた時間が終わったら、すぐに手を止めて立ち上がることだ。

たとえエネルギーがあふれていて、もっとできると感じても、それ以上はやらない。
あるプロジェクトに50分間取り組むと決めたなら、絶対に51分やってはいけない。
もう少しだけやりたいという欲望は、ボイスに言わせれば、「終わらない状態への不満や、生産性が上がらないことへの焦り」を反映したものにほかならない。

途中で思いきってやめることで、忍耐の筋肉が鍛えられ、何度もプロジェクトに戻ってくることができる。
そのほうが長期的に見れば、ずっと高い生産性を維持できるのだ。

3 オリジナルは模倣から生まれる p213

フィンランド出身の写真家アルノ・ラファエル・ミンキネンは、ヘルシンキのバスターミナルのたとえ話を使って、忍耐の大切さを語る。

ヘルシンキのバスターミナルには20数個のプラットフォームがあり、それぞれのプラットフォームから複数の異なる路線が出発している。
そしてひとつのプラットフォームから出発するバスは、途中までまったく同じ道を走り、まったく同じバス停を経由する。

ミンキネンは写真を学ぶ学生たちに、それぞれの停留所を自分のキャリアの1年分と考えなさい、とアドバイスする。
たとえば自分のアートの方向性をプラチナ・プリントのヌード写真に決めたとしよう。
コツコツと写真を撮り、3年後(つまり3つめのバス停)に、自分のポートフォリオをギャラリーへ持ち込んでみる。
ところがギャラリーのオーナーは、「まるでアーヴィング・ペンの作品のコピーだね、独創性が足りないよ」と言って作品を突き返す。

「3年間を無駄にした」と落胆したあなたは、バスを降りてタクシーを拾い、もとのバスターミナルに戻る。
今度は別のバスに乗り、別のジャンルの写真を撮ることにする。
ところが、いくつか先の停留所で、同じことが起こる。
新しい作品もまた、誰かのコピーみたいだと言われるのだ。
またバスターミナルに戻ってみるが、いつまでたっても同じパターンの繰り返しで、自分のオリジナル作品がつくれない。
いったいどうすればいいのか?

「簡単なことだ」とミンキネンは言う。
「バスから降りるな。バスに乗りつづけるんだよ」

都市部をちょっと離れれば、ヘルシンキのバス路線は分岐して、それぞれのユニークな目的地へ向かう。
そこからが個性的な仕事の始まりだ。
でもそこにたどり着けるのは、人真似だと言われてもくじけずにつくりつづけ、粘り強く技術を磨き、経験を積むことのできる人だけだ。
初期の試行錯誤の段階で諦めてしまうようでは、けっしてオリジナルの作品はつくれない。

クリエイティブな仕事に限った話ではない。
人生のさまざまな局面で、僕たちは選択を迫られる。
結婚するかどうか。
子どもを産むかどうか。
地元に残るかどうか。
サラリーマンになるかどうか。
平凡な選択よりも、刺激的で独創的なことに挑戦すべきだというプレッシャーを感じることもあるだろう。
しかし、平凡な道が平凡に終わるわけではない。
辛抱強くみんなと同じ道を歩んできた人だけがたどり着ける、豊かで独創的な境地というものもある。

3時間じっと絵画を見るのと同じで、まずは立ち止まり、その場に留まってみることだ。
現実を速めようとするのをやめて、現在地をゆっくりと楽しもう。
長く連れ添った夫婦のように誰かを理解するには、目の前の相手と長年結婚生活を続けなくてはならない。
ひとつの土地やコミュニティに深く根づく体験をするには、動きまわることをやめなくてはならない。

かけがえのない成果を手に入れるには、たっぷりと時間をかけることが必要なのだ。

p223

数年前に仕事でスウェーデンを訪れたとき、そういう社会的な休みをミクロレベルで実践する「フィーカ」という慣習を体験した。
フィーカとは、職場のみんながいっせいに席を離れて、コーヒーと甘いお菓子を楽しむ毎日のイベントだ。

なんだ、ただのコーヒー休憩じゃないか、などと思ってはいけない。
そんなことを言えば、温厚で有名なスウェーデン人でさえ軽くイラッとするだろう。
フィーカには、もっと深い精神的な意味がある。
その30分ほどのあいだ、会社の上下関係はすっかり消え去る。
人々は年齢も役職も関係なく、気のおけない友人のようにいろんな話をする。
ヒエラルキーも官僚主義も意味を失い、コミュニケーションと社交が最優先になるのだ。
ある管理職のスウェーデン人は、フィーカこそ会社で起こっていることを知るのに最良の方法だ、と語った。

こういうコミュニケーションを可能にするためには、自分の時間にこだわらず、みんなの時間に参加するという姿勢が必要になる。
なかには頑なにフィーカを拒んで自分のペースを守り抜きたい人もいるかもしれないが、眉をひそめられることは覚悟したほうがいい。

個人主義的な自由の弊害 p229

問題は、僕たちが「自由な時間」と言うとき、どんな自由を求めているかということだ。

一方には、現代社会で称賛される個人主義的な自由がある。
自分でスケジュールを決め、自分でやることを選択し、他人の干渉を受けない自由だ。

他方には、みんなのリズムに合わせることで得られる深い意味での自由がある。
たとえ自分ですべてを決められなくても、価値のある共同作業に参加する自由だ。

前者の自由を手に入れる方法は、生産性向上のための自己啓発本にいくらでも書かれている。
朝の理想的なルーティンをつくる、自分のスケジュールを妥協しない、メールは決まった時間にだけ返信する、ノーと言うことを学ぶ、といったよくあるアドバイスだ。

他人との境界線をしっかりと引き、時間を他人の手から取り戻す。
これはもちろん有用なアドバイスで、厄介な上司や理不尽な雇用条件、自己中心的な配偶者、人の期待に応えようという強迫観念といったものから日々の生活を守ってくれる。

ただし、この種の個人主義的な自由には弊害もある。
カレンダーを書き換えたソ連の実験のように、人々の生活がバラバラになってしまうのだ。
現に僕たちは、同じ時間を共に過ごすことがどんどん少なくなっている。
市場経済に後押しされた個人主義精神は僕たちの生活を支配し、伝統的な時間のリズムを破壊し、休暇や仕事や社交の時間をバラバラに切り離してしまった。
家族そろって食事をしたり、友人をふらっと訪ねたり、みんなで集まって活動することは、かつてないほど難しくなっている。

社会の下層にいる人たちにとっては、個人主義的な自由とはつまり、自由がないことと同義になる。
単発でいつ仕事が来るかわからないギグワーク。
売上アルゴリズムにもとづいて、人手が必要なときだけ勝手に呼びだされるオンデマンド・スケジューリング。
そんな働き方では子育てなんかできないし、大事な通院の予約さえ入れられない。
友達と飲みに行くなんて論外だ。

働く時間をある程度自分でコントロールできる人にとっても、自由なはずだった時間のすみずみまで仕事が浸透してきて、やることリストが24時間を隙間なく埋めつくしている。

この傾向はコロナ禍でますます悪化したようだ。
自分も妻も友人も、まるで色分けされたソ連の作業グループに配属されたみたいにすれ違う。
1週間のうちに1時間でも真剣な話をする時間を見つけるのは難しい。

本当に「時間がない」わけではなく、時間はあるはずなのに、人と一緒に過ごせないのだ。
自分のスケジュールを自由に決められる一方で、仕事に縛られている僕たちは、お互いに切り離された生活を余儀なくされている。

これは政治的な問題でもある。
人々の時間がバラバラになれば、草の根の政治活動をおこなうことが難しくなるからだ。
みんなで政治の話をしたり、抗議活動や署名運動ができるのは、共同の時間があるからこそだ。
人々の時間が切り離されて、集団で政治の話をする機会が消えたとき、その空白に割り込んでくるのが独裁的な指導者である。
ひとりぼっちの家でテレビに向かい、番組が垂れ流す政権のプロパガンダに染まっていく大衆ほど支配しやすいものはない。

「全体主義運動とは、切り離され孤立した個人を寄せ集めて組織化したものである」と、ハンナ・アーレントは『全体主義の起原』で書いている。
人々を結びつける絆がなくなり、空虚なイデオロギーだけが彼らに帰属感を与えるとき、独裁者への支持は一気にふくれ上がる。

それを突き崩すことができるのは、孤立に対抗する連帯だ。

2020年にジョージ・フロイドがミネアポリスの白人警察官に殺され、黒人差別への抗議デモが世界各地でおこなわれた。
デモの参加者たちは、ウィリアム・マクニールの言う「自己が自分を超えて広がる」感覚に似たものを語っていた。
集団で声を上げるとき、時間の濃度と強度が増し、ある種のエクスタシーを帯びた感覚に包まれる。

共同の時間が奪われた状況を、自分だけの力で変えることは難しい(「毎週同じ日に仕事を休もう」と近所に住む全員を説得できるだろうか?)。
それでも、一人ひとりが、個人主義の支配に協力するか対抗するかを選ぶことはできる。

個人主義的な時間に対抗して、少しだけ共同の時間を取り戻してみてはどうだろう。
たとえば、自分のスケジュールをいくらか妥協して、地域のスポーツや音楽の集まりに参加する。
孤立しがちなデジタルの世界を離れて、フィジカルな世界で人との一体感を味わってみる。

もしもあなたが自分の時間をガチガチにコントロールしたい生産性オタクなら、スケジュールをいくらかゆるめて、自分がどう感じるかを実験してみるといい。
自分の朝のルーティンを少しだけ崩して、家族や友人、地域の人たちと一緒に行動してみよう。
すると、時間のコントロールを独占するのが最善の策ではないことに気づくかもしれない。

時間は自分のものになりすぎないくらいが、実はちょうどいいかもしれないのだ。

p235

あなたにも覚えがあるかもしれない。
自分の人生がこんなものでいいのだろうかという迷い。
自分はもっとやりがいのあることをしているべきではないのか、4000週間をもっと有意義に使うべきではなかったのかという葛藤。

たとえ傍目には大成功している人でも、そんな思いから逃れられるわけではない。

自然のなかでリフレッシュしたり、古い友人と楽しい時間を過ごしたりしたあと、日常に戻るときの名残り惜しい気持ちを思いだしてほしい。
なぜ毎日こんなふうに楽しく過ごせないのだろう。
人生はもっと素敵な経験に満ちているべきじゃないのか?

現代はそんな疑問に対する答えを欠いているように思える。
宗教はかつてのように普遍的な生きる意味を教えることができないし、消費主義は人生の意味とはかけ離れた方向に僕たちを誘導していく。
ただし、こういう感覚はとくに新しいものではない。
旧約聖書の「伝道の書」にも、ホリスの患者が感じたのとそっくりの記述がある。

「わたしは自分の手が為したあらゆることを顧み、そのために負った苦労を思った。だが見なさい、すべては空虚で、風を捕えようとするようなものだった。この世には得るものなど何ひとつないのだ」

自分の人生が無意味ではないかと疑うのは、とても不安なことだ。
でもそれは、必ずしも悪いことではない。
そう考えること自体、内面の変化が起こっている証拠だからだ。

そもそも人生の意味を疑うためには、前提として、人生に対する新たな視点を持っている必要がある。
つまり、何もかも片づいたあとの遠い未来に得られるかもしれない充実感ではなく、今ここにある人生をなんとかしなくてはならないという視点だ。

出張の途中で「自分の人生が嫌いだ」と気づいたとき、あなたはすでに、よりよい人生への第一歩を踏みだしている。
いま自分が生きているこの瞬間以外には、どこにも人生の意味など存在しないという事実を把握したのだから。

この現実に直面したとき、時間管理についての究極の問いかけが可能になる。

一度きりしかない時間を、本当に有意義に過ごすというのは、いったいどういうことなのだろう?

ほどほどに意味のある人生 p240

イギリスの哲学者ブライアン・マギーは、次のような鋭い指摘をしている。

人類の文明は約6000年前に誕生した。
僕たちはこれを途方もなく長い時間と考えがちだ。
数々の帝国が興亡し、「古代」や「中世」などにラベリングされた時代が、ゆっくりと、気が遠くなるほど長い時間をかけて移り変わってきた歴史。

さて、この問題を別の角度から考えてみよう。
平均寿命が今よりずっと短かった時代でも、100歳まで(つまり5200週間)生きた人が少なくとも数人はいた。
その人たちが生まれた瞬間にも、そのとき生きていた100歳の人が何人かいたはずだ。
つまり、歴史の移り変わりは、100年の人生が隙間なく連なっていく様子として思い描くことができる。
一人ひとりに名前があり、実際にこの地上で生きていた人たちの100年の人生だ。

この尺度で考えると、意外なことが見えてくる。
たった35人分の生涯をさかのぼるだけで、ファラオが統治していた古代エジプト文明の黄金期にたどり着くのだ。
イエスが生まれたのはだいたい20人分、ルネッサンスが起こったのは7人分、ヘンリー8世がイギリスを統治していた時代はわずか5人分の人生をさかのぼった頃である。

ブライアン・マギーは、文明全体を網羅するために必要な人生は60人分、つまり「パーティーで自宅のリビングに詰め込むことのできる友人の数と変わらない程度」だと指摘する。
このように考えるなら、人類の歴史などあっという間の出来事だ。

そしてもちろん、あなたの人生はそれよりもずっと短い。

宇宙の膨大な時間のなかで、気が遠くなるほど長い過去と未来に挟まれた、ほとんど無に近いほど小さな一点だ。

このような考えに恐怖を感じるのは当然のことだ。
元エディンバラ主教のリチャード・ホロウェイは、「宇宙の圧倒的な無関心」について考えると、「鬱蒼とした森の中で迷子になったような困惑や、船から海に落ちて誰にも気づいてもらえないような恐怖」を感じると書いている。

でも別の角度から見ると、それは奇妙に慰められる気づきでもある。

それを「宇宙的無意味療法」と呼ぼう。
やるべきことが大きすぎて圧倒されるとき、少しだけズームアウトしてみれば、すべてはちっぽけな問題に見えてくる。
ほとんど無だ。
日々の不安や悩み事――人間関係、出世競争、お金の心配――など、宇宙から見ればまったくどうでもいいことなのだ。

パンデミックが起ころうと、大統領選で誰が当選しようと、宇宙は平穏無事に進行している。
僕が以前読んだ本のタイトルを借用するなら、「宇宙はあんたのことなんかクソほども気にしていない」のだ。
宇宙規模で自分がいかにちっぽけかを実感したとき、自分が抱えているとも知らなかった重荷が急に消え去り、なんだか身軽になったような気がしないだろうか。

この安堵感をもう少し詳しく見てみると、おもしろいことが明らかになる。
それは、ほとんどの人が、自分のことを宇宙の中心的存在のように思っているという事実だ。

そうでなかったら、宇宙が自分のことを気にしていないと知って安心する理由がない。
これは誇大妄想者や病的なナルシストに限った現象ではなく、人間のもっと根源的な性質だ。

あらゆることを自分の視点から判断してしまう傾向は、人間なら誰にでもある。
自分の視点から見たとき、たまたま自分が存在している4000週間は、歴史のなかでもっとも重要なクライマックスのように感じられる。
このような自己中心的な見方は、心理学者が「自己中心性バイアス」と呼ぶもので、進化の観点からも理にかなっている。
「宇宙規模で見れば自分はどうでもいい存在だ」ということを日々実感していたら、生存や生殖のために必死で戦おうというモチベーションが消えてしまうからだ。

たとえ誇大妄想的であっても、重要なことに身を捧げるのは良いことではないかと思うかもしれない。
でも実際には、自分の存在を過大評価すると、「時間をうまく使う」ことのハードルがありえないほど高くなってしまう。

誰が見ても圧倒されるような業績や、後世に永続的な影響を与える成果を出すこと。
哲学者イッド・ランダウの言葉を借りるなら、「平凡さを超越したもの」を残さなければ、時間を無駄にした気がするのだ。
たしかに、あなたの人生が自分で思うほど重要なものであるならば、平凡な行動で満足できるわけがない。

こうやって人生のハードルを上げているのは、「宇宙をへこませてやろう」と豪語するシリコンバレーの大物や、自分はレフ・トルストイと並んで評価されるべきだと密かに考えている作家だけではない。
「人生なんて結局、何の意味もないのさ」と冷笑する人だって、実は同じくらい誇大妄想的だ。
「意味がある」ための基準を達成不可能なまでに引き上げた結果、厭世的にならざるをえないのだから。

「椅子でお湯を沸かせないからといって、椅子に失望する必要はない」とランダウは言う。
椅子はもともとお湯を沸かすようにつくられていないのであって、そんなことを期待するほうがおかしいのだ。
「自分がミケランジェロやモーツァルトやアインシュタインと同等の業績を残せると考えるなら、そもそも期待値の設定がまちがっている。人類の歴史でそれほどのことを為した人は、まだほんの数十人しかいないのだから」

あなたが宇宙をへこませることのできる可能性は、ゼロに近い。
「宇宙をへこませる」と言いだした本人のスティーブ・ジョブズでさえ、見方によっては宇宙に何の影響も与えていない。
もちろん iPhone は、僕やあなたのどんな業績よりも長く後世に伝わるだろう。
それでも、宇宙的視点から見れば、そんなものは現れては消えていく瑣末なものごとのひとつにすぎない。

自分が無価値であることに気づいたとき、ほっと安心するのも当たり前だ。

今までずっと、達成不可能な基準を自分に課してきたのだから。

非現実的なハードルから解放されたとき、限りある時間を有意義に使う方法は、今までよりもずっと多様な可能性に開かれる。
今やっていることのなかに、思ったよりもずっと意味のあることがたくさん見つかるかもしれない。
今までくだらないと思っていたことが、本当はとても価値のあることだと気づくかもしれない。

たとえ一流のシェフになれなくても、子どもたちに栄養バランスのいい食事を用意することは、何にも代えがたい重要な行為だ。
たとえトルストイのような名作が書けなくても、同世代のひと握りの人を楽しませることができれば、小説を書く価値は充分にあると思う。

どんな仕事であれ、それが誰かの状況を少しでも良くするのであれば、人生を費やす価値はある。
あるいはコロナ禍で隣人への配慮をほんの少し取り戻すことができたとしたら、たとえ社会を根本的に変革できなかったとしても、充分に価値のある学びだったといえるはずだ。

宇宙的無意味療法は、この壮大な世界における自分のちっぽけさを直視し、受け入れるための招待状だ(考えてみたら、自分の行動で宇宙を左右できるという考えのほうが、ずっとおかしな話に思えてこないだろうか)。

4000週間というすばらしい贈り物を堪能することは、偉業を成しとげることを意味しない。

むしろ、その逆だ。

並外れたことをやろうという抽象的で過剰な期待は、きっぱりと捨てよう。
そんなものにとらわれず、自分に与えられた時間をそのまま味わったほうがいい。
宇宙を動かすという神のような幻想から地面に降り立ち、具体的で有限な具体的で有限な――そして案外すばらしいこともある――人生を、ありのままに体験しよう。

人生を生きはじめるための5つの質問 p254

もっと具体的に理解するために、次の5つの質問について考えてみてほしい。
すぐに答えが出なくてもかまわない。
詩人リルケの有名な言葉を借りるなら、重要なのは「問いを生きる」ことだからだ。

真摯に自分に問いかけるだけでもいい。
そのときあなたは、すでに自分の置かれた現実に向き合い、限られた時間を精いっぱい生きはじめていることだろう。

質問1 生活や仕事のなかで、ちょっとした不快に耐えるのがいやで、楽なほうに逃げている部分はないか? p254

自分にとって重要なものごとに取り組むときには、不安がつきものだ。

目の前には厄介な現実が立ちはだかり、未来はどう転ぶかわからない。
挑戦は失敗に終わるかもしれない。
自分の才能のなさが露呈するかもしれない。
恥をかき、気まずい会話をし、せっかくの期待を裏切ってしまう可能性も高い。
誰かとの関係にコミットするなら、自分の心配だけでなく相手の心配まで降りかかってくる。
どこまでも負け戦だ。

そんな不安から逃げるために、人は現実逃避の道を選びがちになる。
先延ばしにする、気晴らしに時間を費やす、コミットメント恐怖症になる、急に片づけを始める、一度に大量のプロジェクトを引き受ける、といった具合だ。

これらはすべて、自分が主導権を握っているという幻想を維持するための手段である。
また、一見違うように見えるけれど、心配性もそれと大差はない。
考えてもどうにもならないことをあれこれ心配して、あたかも自分がものごとを決める立場にいるかのような幻想にしがみついているだけだ。

心理療法家ジェイムズ・ホリスは、人生の重要な決断をするとき、「この選択は自分を小さくするか、それとも大きくするか?」と問うことを勧める。
そのように問えば、不安を回避したいという欲求に流されて決断するかわりに、もっと深いところにある目的に触れることができるからだ。

たとえば、今の仕事を辞めるかどうかで悩んでいるとしよう。
そんなとき「どうするのが幸せだろうか」と考えると、楽な道に流される。
あるいは、決められずにずるずると引きずってしまう。

一方、その仕事を続けることが人間的成長につながるか(大きくなれるか)、それとも続けるほどに魂がしなびていくか(小さくなるか)と考えれば、答えは自然と明らかになるはずだ。
不可能だ。
できるなら、快適な衰退よりも不快な成長をめざしたほうがいい。

質問2 達成不可能なほど高い基準で自分の生産性やパフォーマンスを判断していないか? p256

いつの日か時間を自由自在にできるはず、という幻想を持っている人は、時間の使い方について達成不可能な目標を自分に課してしまいがちだ。

現実には、無限にやってくる要求にすべて対応できるほど効率的なやり方など存在しない。
仕事や家庭、社交、旅行、政治活動にそれぞれ「充分な」時間を費やすことは、まず不可能だ。

いつかそれが実現できると思って、つねにそのための準備をしていれば、ある種の安心感は得られるかもしれない。
でもそれは、偽りの安心感だ。

もしも救いがけっして来ないことを知っていたなら――つまり、あなたの基準は永遠に達成できず、充分な時間は永遠に手に入らないことが確かだとしたら――あなたは今日、自分の時間をどう使うだろうか?

自分の場合は仕方ないんだ、と反論する人もいるだろう。
不可能だとしても、とにかくやらなければ大惨事が起こるんだ、と。
たとえば、「不可能なほどの仕事をこなさなければ、クビになって収入源がなくなる」とあなたは言うかもしれない。
でも、本当にそうだろうか。

不可能な量の仕事は、どうやったって不可能なはずだ。
たとえ大惨事が起ころうと、できないことができるようになるわけではない。
それなら、できないという現実を見つめたほうがよほど健全なのではないだろうか。

誰も達成できない(そして多くの人が他人には要求しようと思わない)ような基準を自分に課すのは暴力的な行為だ、とイッド・ランダウは指摘する。
人道的見地からいっても、そんな努力は今すぐにやめたほうがいい。

無理な基準など、ぜんぶ地面に投げ捨ててしまおう。

その瓦礫のなかから重要なタスクだけをいくつか拾い上げ、今すぐに始めよう。

質問3 ありのままの自分ではなく「あるべき自分」に縛られているのは、どんな部分だろうか? p257

有限性に直面するのを避ける方法として、もうひとつありがちなのが、現在の生活を「いつかそうなるべき自分」への途中経過と捉える態度だ。
今が人生本番であるという気まずい真実から目をそらし、親や世の中の期待に応えられる自分になるまでは、準備段階のつもりでいるのだ。

いつか正しい自分になれたら、そのときこそ人生はもっと安心で確実なものになるだろう。

こういう態度は、一見わかりにくい形で現れることもある。
たとえば政治や地球環境の危機が解決するまでは、楽しみを先延ばしにしようという生き方だ。
地球の大問題と立ち向かう以外にやるべきことなど何もない。
それを放置して人生を楽しむなんて、利己的だしまちがっているじゃないか、と。

どちらも「あるべき自分」を想定し、それを誰かに認めてもらおうとしている点では大差ない。
しかし、いつまでも他人の承認を求めていていいのだろうか。
心理療法家のスティーブン・コープは言う。

「人はある年齢になると、衝撃的なことに、自分がどんな生き方をしようと誰も気にしていないことに気づく。
人の期待に応えることばかり考え、自分を後回しにしてきた人にとって、これは非常に恐ろしい発見だ。
自分のことを気にしているのは自分だけなのである」

安心するために誰かに認めてもらおうという試みは、はじめから無駄で、不要なものだったのだ。
なぜ無駄かというと、人生はつねに不確かで思い通りにならないからだ。
そしてなぜ不要かというと、誰かに認めてもらうまで生きはじめるのを待つ必要なんかどこにもないからだ。

心の安らぎと解放は、承認を得ることからではなく、「たとえ承認を得ても安心など手に入らない」という現実に屈することから得られる。

誰に認めてもらわなくても、自分はここにいていい。
なるかもしれない。

そう思えたときに、人は本当の意味で、善く生きられるのだと僕は思う。
「こうあるべき」というプレッシャーから自由になれば、今ここにいる自分と向き合うことができる。
自分の強みや弱み、才能や情熱を認め、その導きのままに進んでいくことができる。
危機的な世界を救いたいというあなたの情熱は、ひょっとすると政治や社会運動を通じてではなく、親戚のお年寄りの世話をしたり、作曲をしたり、お菓子を焼いたりすることを通じて実現できるかもしれない。

僕の義理の弟は、ラグビー選手みたいにたくましい南アフリカ人でありながら、バターと砂糖で繊細なフロスティングを施し、受けとる人に驚きと喜びを与えるようなパティシエとして働いている。
そんな些細な行動こそ、危機に直面した世界へのささやかな貢献になるかもしれない。

瞑想指導者スーザン・パイヴァーは、時間をどうやって過ごしたら「楽しいか」という不慣れな質問が、なんだか居心地の悪いものであることを指摘する。
けれど少なくとも、その答えを頭ごなしに否定しないでほしい。

自分が楽しいと思えることが、最善の時間の使い方かもしれないのだから。

質問4 まだ自信がないからと、尻込みしている分野は何か? p260

人生をただのリハーサルのように過ごしてしまうのはたやすい。

今はまだスキルを学び、経験を積む段階だ。
いつかもっと上達したら、そのときは主導権を握ろう。
そう思っているうちに、大事な時間はどんどん残り少なくなっていく。

僕は思うのだけれど、大人になるということは、「誰もがすべてを手探りでやっている」という事実を徐々に理解するプロセスではないだろうか。

どんなに立派な企業も個人も、すべてをわかっているわけではない。
子どもの頃、朝食のテーブルに置かれた新聞は、とても立派で自信に満ちた大人がつくったものなのだろうと思っていた。
やがて自分が新聞記者になると、そうではないことがわかった。
だから今度はその幻想をほかの人たちに押しつけた――たとえば、政治家に。

でも政治家の知り合いが何人かできると、彼らだっていつも自信満々でやっているわけではないことがわかってきた。
大問題が次から次へと出てきて、何がなんだかわからないまま、記者会見に向かう車の中でもっともらしい政策をひねりだしたりしている。

実際に飲み屋でそんな話を聞いたわけだが、それでも僕は半信半疑だった。
どうせイギリス人のひねくれたプライドで、自分を低く見せて楽しんでいるのだろうと思ったのだ。
ところがアメリカに移住し、現地でいろいろ見るうちに、アメリカでさえみんな手探りでやっていることがわかってきた。
政治のトップを見るにつけ、彼らは世の中のことなんか僕たち一般人ほどにもわかっていないんだという確信が深まっていく。

仕事も結婚も子育ても、この先ずっと手探りなのかと思うと、憂鬱な気分になるかもしれない。

でもそれはある意味で、解放的な気づきだ。

たとえ経験や自信がなくても、やるのを諦める理由はどこにもない。

どうせいつまでたっても手探りで、確信のないままやるしかないのだから、尻込みしていても仕方ない。
待つのはもう終わりだ。
今すぐに、やりたいことをやりはじめよう。
知識や技術が足りなくてもかまわない。

どうせ誰だって、あなたと同じようなものなのだから。

質問5 もしも行動の結果を気にしなくてよかったら、どんなふうに日々を過ごしたいか? p262

時間をうまく使おうと思うとき、第8章で述べた「因果のカタストロフィー」が暗黙の前提になっていることが多い。
つまり、「時間をうまく使ったかどうかは、つねに結果の良し悪しで判断される」という考え方だ。
そう考えるなら、短期的に成果の出る活動に時間を使いたいと思うのも無理はない。

デヴィッド・リカタがドキュメンタリー映画『ライフワーク(A Life's Work)』で描いたのは、そんな考え方とは無縁の人たちだった。

世界に残された原生林のあらゆる樹木のカタログ化を試みる父子のチーム。
カリフォルニア州のSETI研究所で、地球外生命体の兆候を求めてじっと電波を探りつづける研究者。
おそらく死ぬまで完成しないであろうプロジェクトに人生を捧げる人たちがそこには描かれている。
彼女たちの生き生きとした瞳は、自分が重要なことをしているという確信に満ちている。
生きているうちに結果を残さなくてもいい。
ただ貢献したい、という思いが、仕事の純粋な楽しみにつながっているのだ。

考えてみれば、子育てや地域づくりなど、多くのプロジェクトは自分の生きているうちには完結しない。
それらはもっと大きな時間的文脈に属していて、結果がわかるのは自分が死んだずっとあとだ(あるいは、永遠に最終的な結果などないかもしれない)。

だからこそ、こう問いかける価値がある。

もしも「結果を知りようがない」という事実を受け入れたなら、今日できる重要なことは、いったい何だろう。
遠い未来の誰かのために、世界を少しでも心地よい場所にするために、自分に何ができるだろう?

僕たちはみんな、中世の石工のようなものだ。
完成を見ることができないとわかっている大聖堂のために、いくつかの石をそっと追加する。

たとえ完成形が見られなくても、大聖堂を建てる価値があることに変わりはない。

「それしかできない」ことをする p263

1933年12月15日、カール・グスタフ・ユングは文通相手のV婦人に宛てて、「正しい生き方とは何か」という問いに答える返事を書いた。
その答えは、本書の最後を飾るにふさわしいものだと思う。

「どう生きるべきかという質問には、答えがありません」とユングは切りだした。
「人はただ、自分にできるように生きるだけです。
唯一の正しい生き方などありません。
お望みならカトリック教会に入るといいでしょう、彼らは正解を教えるのが好きですから」

ユングにいわせれば、個人の人生とは「みずから切り拓いていく道であり、誰も通ったことのない道」である。

「前もって知ることはできません。
あなたが一歩を踏みだしたとき、そこに道ができるのです。
……ただ静かに、目の前のやるべきことをやりなさい。
やるべきことがわからないなら、きっと余計なことを考えすぎるほどにお金がありあまっているせいでしょう。
しかし次にすべきこと、もっとも必要なことを確信を持って実行すれば、それはいつでも意味のあることであり、運命に意図された行動なのです」

ここから「次にすべきことをしよう(Do the next right thing)」という言葉が広まり、アルコール依存で先の見えない人たちが、それでもなんとか前に進むためのスローガンとなった。

依存症の人だけでなく、僕たちみんなが心に留めておくべき言葉だと思う。
「次にすべきこと」を実行するのが、いつだって、自分にできる唯一のことだからだ。

たとえ正解がわからなくても、とにかく次にすべきことをやるしかない。

「それしかできない」ということは、裏を返せば「それしかしなくていい」ということだ。

この真実を受け入れることができれば――つまり、自分が限りある人間であるという状況に潔く身を任せるならば――これまでになく大きな達成感を手に入れることができるだろう。

それは超人的な成果ではないかもしれない。
それでも、自分にできる最善のことだ。

そのとき、バックミラーのなかで徐々に形づくられていく人生は、たしかに「自分の時間をうまく使った」といえるものになっているはずだ。

どれだけ多くの人を助けたか、どれだけの偉業を成しとげたか、そんなことは問題ではない。
時間をうまく使ったといえる唯一の基準は、自分に与えられた時間をしっかりと生き、限られた時間と能力のなかで、やれることをやったかどうかだ。

どんなに壮大なプロジェクトだろうと、ちっぽけな趣味だろうと、関係ない。

大事なのは、あなただけの次の一歩を踏みだすことだ。

6 退屈で、機能の少ないデバイスを使う p281

スマホやタブレットなどのデジタルデバイスは魅力的だ。
人のちっぽけな限界を超えた領域へと僕たちを逃避させてくれる。

そこには退屈は存在せず、行動の自由も制限されない。
気分の乗らない仕事をしているとき、つい現実逃避の誘惑に駆られてしまうのも無理はない。

そんな気晴らしの誘惑に打ち勝つためには、デバイスをできるだけ退屈なものにするといい。

まず、SNSのアプリを削除する。
可能ならばメールアプリも削除しよう。
そして、画面表示設定をカラーからグレースケール(白黒)に変更する(iPhone なら、アクセシビリティの設定からカラーフィルターを追加することで変更できる)。
グレースケールの効果については、技術ジャーナリストのネリー・ボウルズも保証する。

「グレースケールにしてから、別人になったとまでは言いませんが、以前よりも携帯電話をコントロールできるようになったと感じます。おもちゃだったものが、使える道具になった感じです」

もうひとつ、機能がなるべく少ないデバイスを使うのも賢い選択だ。
可能なら単一機能のデバイスを選ぼう。

たとえば Kindle 電子書籍リーダーは、本を読むという目的に特化してつくられている。
ブラウザなども一応ついてはいるが、重くてとても楽しめるものではない。
もしも電子書籍リーダーで手軽にSNSが見られたり音楽ストリーミングが聴けたりしたら、読むのに飽きてきた瞬間にそちらへ逃避してしまうだろう。

不便だからこそ、集中が深まるのだ。

10 何もしない練習をする p286

「人間の不幸はすべて、一人で部屋でじっとしていられないことに由来する」と、哲学者ブレーズ・パスカルは言った。

自分の4000週間を有意義に過ごすためには、「何もしない」能力が欠かせない。
何もしないことに耐えられない場合、単に「何かしないと気がすまない」という理由で、まちがった時間の使い方を選んでしまいがちだ。

急ぐ必要のないことを急いでやろうとしてストレスを感じたり(第10章)、将来に役立つことをやらなければと思い込んで、楽しみや満足をいつまでも先送りにしてしまったりする(第8章)。

実際の話、生きているかぎり、何もしないというのはありえない。
いつだって呼吸をしたり、何らかの姿勢をとったりしているわけだ。
だから「何もしない」練習というのは、本当に何もしないのではなく、「周囲の人や出来事に干渉したい」という欲求を抑える練習だと思ってもらえばいい。

シンゼン・ヤングが勧めるのは「何もしない瞑想」だ。
まずタイマーをセットして、椅子に座る。
最初は5分か10分でいい。
そのまま何もしないように努める。
考えごともしないし、わざと呼吸に集中することもしない。
自分が何かをしているな、と気づいたら、落ち着いてそれをやめる。
反省したり、自己嫌悪に陥ることもしない。

そうやって、タイマーが鳴るまでただ座っているのだ。

作家でアーティストのジェニー・オデルが言うように、「何もしないでいることほど難しいことはない」。
それでも、やってみる価値はあると思う。

何もしないことができる人は、自分の時間を自分のために使える人だ。

現実逃避のために何かをするのは、もうやめよう。

心を落ち着かせ、自分だけの限られた時間を、じっくりと味わおう。