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「7つの習慣」を読んだ

投稿時刻2024年10月24日 19:16

7つの習慣」を 2,024 年 10 月 23 日に読んだ。

目次

メモ

恐れと不安 pXXII

昨今、多くの人は何がしかの恐れにとらわれている。
将来を恐れ、職場での自分の弱さを恐れ、職を失い家族を養えなくなるのではないかと恐れている。
このように気弱になっていると、安定した生活を望み、職場や家庭でお互いにもたれ合う共依存関係になりがちだ。
もたれ合いの共依存関係から抜け出すには、各々が自立する他ない。
現代社会では、このような問題に対する一般的な解決策は「自立」とされているからだ。
これは、「私は『自分自身と自分のもの』を大切にしよう。
自分の仕事をきちんとこなし、本当の喜びは仕事以外に見出そう」という態度である。

自立は重要だ。
それどころか不可欠であり、達成しなければならないものである。
しかし私たちの社会は相互依存で成り立っているのだから、自立という土台の上に、相互依存の能力を身につけなくてはならない。
何であれ重要な成果をあげるにはどのようなスキルにもまして、相互依存の能力が必要なのである。

非難と被害者意識 pXXIV

人は何か問題にぶつかると、他者に責任を押しつける傾向がある。
昨今は被害者ぶることが流行にでもなっているかのようだ。
「もし上司があんなに無能でなければ……、もし貧乏な家に生まれていなければ……、もしもっと良い場所に住んでいれば……、もし父親の短気が遺伝していなければ……、もし子どもがこんなに反抗的でなければ……、もし他の部署が受注の間違いを繰り返さなければ……、もしこんな斜陽業界にいなければ……、もし社員がこれほど怠け者でなければ……、もし妻がもっと自分を理解してくれれば……、もし……、もし……」

こんなふうに、自分の抱えている問題や困難を他人や状況のせいにすることが当然のようになってしまっている。
そうすれば一時的には痛みが和らぐかもしれない。
しかし実際には、自分とその問題をつなぐ鎖を強くするだけなのである。
謙虚な人は自分が置かれた状況を受け入れ、責任をとる。
勇気ある人は、主体的に困難に取り組み、創造的に克服していく。
こうした人たちは、自ら選択することによって大きな力を得るのである。

対立と相違 pXXVIII

人間には多くの共通点がある。
しかし同時に相違点も多い。
人それぞれに考え方は異なるし、価値観やモチベーション、目的が相反することもある。
こうした違いによって、自然と対立が引き起こされる。
競争社会においては、お互いの考え方の違いから生じる対立を解決するとなると、どうしても「可能な限りたくさん勝ちとる」ことにエネルギーが向けられてしまう。

妥協は、両者がそれぞれの立場を明確にし、お互いに受け入れられる中間点まで歩み寄るという巧みな解決策と言えるかもしれないが、それでも双方ともに満足する解決策ではない。
考え方が違うからといって、解決策を最低の共通点まで引き下げなければならないのは、何とももったいない話だ。
妥協せず、創造的協力という原則に従えば、双方が最初に持っていた考え方を上回る素晴らしい解決策を生み出せるのだ。

pXXX

最後に、私がいつもセミナーなどで尋ねる質問をここでも投げかけてみたい。
死の床で自分の人生を振り返ったとき、もっと多くの時間をオフィスで過ごせばよかった、あるいはテレビをもっと見ればよかったと悔やむ人は、果たしてどれくらいいるのだろうか。
答えは簡単だ。
一人としているわけがない。
死の床にあって思うのは、家族や愛する者のことである。
人は誰かのために生き、最期はその人たちのことを思うのだ。

偉大な心理学者のアブラハム・マズローも、人生を終えるとき、自分自身の自己実現欲求(マズローの説く「欲求の段階」の最終段階)よりも、子孫の幸福、達成、貢献を願ったという。
彼はそれを自己超越と呼んでいた。

それは私にとっても同じである。
「7つの習慣」に含まれている原則のもっとも大きな力、もっとも満足感を与えてくれる力は、自分の子や孫たちを思う気持ちから生まれるのである。

個性主義と人格主義 p8

私はその頃、ものの見方に関する研究と並行して、一七七六年のアメリカ合衆国独立宣言以来これまでに米国で出版された「成功に関する文献」の調査に夢中になっていた。
自己啓発、一般向けの心理学、自助努力などに関するそれこそ何百もの本、論文、随筆に目を通し、ものによっては熟読した。
自由にして民主的な国の人々が考える「成功の鍵」が書かれた文献を端から調べたのである。

成功をテーマにした書籍を二〇〇年さかのぼって調べていくうちに、はっきりとしたパターンが見えてきた。
最近の五〇年間に出版された「成功に関する文献」はどれも表面的なのだ。
それでは、私たち夫婦が息子のことで感じていた痛み、私自身がこれまでに経験してきた痛み、仕事で接してきた多くの人たちの痛みには、まるで効きそうにない。
そこに書かれているのは、社交的なイメージのつくり方やその場しのぎのテクニックばかりだ。
痛みに鎮痛剤や絆創膏で応急処置を施せば、たしかに痛みは消える。
問題は解決したかにみえるかもしれないが、根本にある慢性的な原因をほったらかしにしていたら、いずれ化膿して再発することに

これとはまるで対照的に、建国から約一五〇年間に書かれた「成功に関する文献」は、誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉、質素、節制、黄金律など、人間の内面にある人格的なことを成功の条件に挙げている。
私はこれを人格主義と名づけた。
中でもベンジャミン・フランクリンの自叙伝は圧巻で、特定の原則と習慣を深く内面化させる努力を続けた一人の人間の姿が綴られている。
この人格主義が説いているのは、実りのある人生には、それを支える基本的な原則があり、それらの原則を体得し、自分自身の人格に取り入れ内面化させて初めて、真の成功、永続的な幸福を得られるということである。

ところが、第一次世界大戦が終わるや人格主義は影をひそめ、成功をテーマにした書籍は、いわば個性主義一色になる。
成功は、個性、社会的イメージ、態度・行動、スキル、テクニックなどによって、人間関係を円滑にすることから生まれると考えられるようになった。
この個性主義のアプローチは大きく二つに分けられる。
一つは人間関係と自己PRのテクニック。
もう一つは積極的な心構えである。
こうした考えのいくつかは、「態度が成功を決める」「笑顔が友だちをつくる」「どんなことでも思い、信じれば達成できる」といった元気づける言葉やときには正当な格言となる。

しかし、個性をもてはやす数々の「成功に関する文献」では、人を操るテクニック、ひどいときには明らかに騙しのテクニックさえ紹介されていた。
相手が自分を好きになるように仕向けたり、自分が欲しいものを得るために、相手の趣味に興味があるかのようなふりをしたり、はたまた高圧的な態度で怖がらせ、人を利用するテクニックである。

もちろん、個性主義の文献も人格を成功の要因と認めてはいるが、切っても切り離せない必須要因とみなしてはおらず、添え物的に扱っている文献がほとんどである。
人格主義に触れるくだりがあったとしても、通り一遍である。
これらの文献が強調しているのはあくまで、即効性のある影響力のテクニック、力を発揮する戦略、コミュニケーションスキル、ポジティブな姿勢なのである。

p13

二面性や不誠実など人格に根本的な欠陥がありながら、人に影響を及ぼす戦術やテクニックを使って自分の思いどおりに人を動かしたり、もっと仕事の成績を上げさせたり、士気を高めたり、自分を好きにさせたりしようとして一時的にはうまくいったとしても、長続きするわけがない。
二面性はいずれ相手の不信感を招き、どれほど効果的な人間関係を築くテクニックを使ったところで、相手を操ろうとしているとしか見えないだろう。
どんなに巧みな言葉を使っても、たとえ善意からだとしても、効果は望めない。
信頼という土台がなければ、成功は長続きしないのだ。
基礎となる人格の良さがあって初めて、テクニックも生きてくる。

テクニックだけを考えるのは、一夜漬けの勉強と似ている。
一夜漬けで試験をうまく乗り切れることもあるだろうし、良い成績だってとれるかもしれない。
だが、日々の積み重ねを怠っていたら、教科をしっかりと習得することはできないし、教養ある人間にはなれない。

農場に一夜漬けは通用しない。
春に種蒔きを忘れ、夏は遊びたいだけ遊び、秋になってから収穫のために一夜漬けで頑張る。
そんなことはありえない。
農場は自然のシステムで動いている。
必要な務めを果たし、定まった手順を踏まねばならない。
種を蒔いたものしか刈り取れない。
そこに近道はないのだ。

この原則は人の行動や人間関係にも当てはまる。
人の行動も人間関係も、農場の法則が支配する自然のシステムなのである。
学校のように人工的な社会システムの中では、人間が定めた「ゲームのルール」を学べば、一時的にはうまくいくかもしれない。
一回限りの、あるいは短い期間だけの付き合いなら、個性主義のテクニックをうまく使い、相手の趣味に興味があるふりをし、魅力をふりまいて良い印象を与えられるかもしれない。
短期間だけ効き目のある手軽なテクニックなら、すぐにも身につけられるだろう。
しかしそうした二次的要素だけでは、長続きする関係は築けない。
真の誠実さや根本的な人格の強さがなければ、厳しい状況に直面したときに本当の動機が露わになり、関係が破綻し、結局のところ成功は短命に終わるのである。

第二の偉大さ(才能に対する社会的評価)に恵まれていても、第一の偉大さ(優れた人格を持つこと)を欠いている人は多いものである。
人格とそが第一の偉大さであり、社会的評価はその次にくる第二の偉大さである。
同僚や配偶者、友人、反抗期の子どもとの関係など、その場限りでは終わらない人間関係において第一の偉大さを欠いていれば、いずれ関係にヒビが入るのは避けられない。
「耳元で大声で言われたら、何が言いたいのかわからない」とエマーソン(訳注:米国の思想家)も言っているように、無言の人格こそ雄弁なのである。

もちろん、人格は素晴らしいのに口下手で、思うように人間関係が築けない人もいる。
しかしそうしたコミュニケーションスキル不足が及ぼす影響もまた、しょせん二次的なものにすぎない。
突き詰めれば、あるがままの自分、人格が、どんな言動よりもはるかに雄弁なのである。
誰にでも、人格をよく知っているからという理由で一〇〇%信頼している人がいるだろう。
雄弁であろうがなかろうが、人間関係のテクニックを知っていようがいまいが、信頼して一緒に仕事ができる人がいるはずだ。

ウィリアム・ジョージ・ジョーダン(訳注:米国のエッセイスト)は次のように述べている。
「すべての人の手に、または悪をなす巨大な力が委ねられている。
その力とは、その人の人生が周りに与える無言の、無意識の見えざる影響である。
見せかけではない真のあなた自身の影響が、常に周囲に放たれているのだ」

パラダイムの力 p15

「7つの習慣」は、効果的に生きるための基本的な原則を具体的なかたちにしたものである。
「7つの習慣」のどれもが基礎であり、第一の偉大さにつながるものである。
これらの習慣を身につけるのは、継続的な幸福と成功の土台となる正しい原則を自分の内面にしっかりと植えつけることに他ならない。

しかし、「7つの習慣」を本当に理解するためには、まず自分のパラダイムを理解し、パラダイムシフトの方法を知らなければならない。

人格主義も個性主義も社会的パラダイムの一例である。
パラダイムという言葉はギリシャ語に由来している。
もともとは科学用語だったが、昨今はモデルや理論、認識、既成概念、枠組みを意味する言葉として広く用いられている。
平たく言えば物事の見方」であり、物事をどう認識し、理解し、解釈しているかである。

パラダイムを理解するために、地図にたとえて考えてみよう。
言うまでもないが、地図と現実の場所は同一ではない。
地図は現実の場所のいくつかの要素を表したものである。
パラダイムも同じだ。
パラダイムとは、何らかの現実を表す理論、説明、あるいはモデルのことである。

p21

私はよく、講演やセミナーでの認知実験の話をする。
個人としての効果性、人間関係のあり方について多くのことを教えてくれるからである。
まず、経験による条件づけが、私たちのものの見方(パラダイム)に強い影響を与えていることがわかる。
わずか一〇秒の条件づけでさえ、見え方にあれほど影響するのだから、これまでの人生でたたきこまれてきた条件づけの影響たるや、どれほどだろうか。
家庭、学校、教会、職場、友人関係、職業団体、そして個性主義などの社会通念等々、私たちの生活には多くの影響力が作用している。
そのすべてが無意識のうちに私たちに影響を与え、私たちの頭の中の地図、ものの見方、すなわちパラダイムを形成しているのである。

p22

ここで個性主義の根本的な欠点の一つが浮かび上がる。
態度と行動の源泉である自分のパラダイムを詳しく観察し、理解しなければ、個性主義のテクニックで態度や行動を変えようとしても、長続きしないということである。

この認知実験から得られるもう一つの教訓は、他者との接し方もパラダイムの影響を強く受けていることを気づかせてくれることである。
自分は物事を客観的に、正確に見ていると思っていても、違う見方をしている相手もまた、話を聴けば同じように客観的に正確に見ていることがわかってくる。
「視点は立ち位置で変わる」のである。

誰しも、自分は物事をあるがままに、客観的に見ていると思いがちである。
だが実際はそうではない。
私たちは、世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままの世界を見ているのであり、自分自身が条件づけされた状態で世界を見ているのである。
何を見たか説明するとき、私たちが説明するのは、煎じ詰めれば自分自身のこと、自分のものの見方、自分のパラダイムなのである。
相手と意見が合わないと、相手のほうが間違っていると瞬間的に思う。
しかし例の認知実験でも、真面目で頭脳明晰な学生たちですら、自分自身の経験のレンズを通して見て、同じ絵に対して違う見方をする。

p23

自分の頭の中にある地図、思い込み、つまり基本的なパラダイムと、それによって受ける影響の程度を自覚し、理解するほど、自分のパラダイムに対して責任を持てるようになる。
自分のパラダイムを見つめ、現実に擦り合わせ、他の人の意見に耳を傾け、その人のパラダイムを受け入れる。
その結果、はるかに客観的で、より大きな絵が見えてくるのである。

パラダイムシフトのカ p23

認知実験から得られるもっとも重要な洞察は、パラダイムシフトに関するものだろう。
合成した絵がようやく違う絵(二〇ページ参照)に見え、「ああ、なるほど」と納得する瞬間、いわゆる「アハ体験」のことである。
最初のイメージに縛られている人ほど、アハ体験は強烈になる。
まるで頭の中に光が突然差し込んでくるような感じだ。

パラダイムシフトという言葉を初めて使ったのはトーマス・クーンという科学史家で、多大な影響を及ぼし画期的な著作『科学革命の構造』に出てくる。
同書の中でクーンは、科学の分野における重要なブレークスルーのほとんどは、それまでの伝統、古い考え方、古いパラダイムとの決別から始まっていると述べている。

古代エジプトの天文学者プトレマイオスにとって、宇宙の中心は地球だった。
しかしコペルニクスは、激しい抵抗と迫害に遭いながらも中心は太陽だと主張した。
このパラダイムシフトによって、それまでとは異なる視点からすべてが解釈されるようになる。

ニュートンの物理学モデルは正確なパラダイムであり、現在も工学の基礎である。
しかしそれは部分的で不完全なものだった。
後にアインシュタインは相対性理論を打ち出し、科学界に革命をもたらす。
アインシュタインのこのパラダイムは、自然現象の予測と説明の精度を飛躍的に高めたのである。

細菌論が確立されるまで、出産時の母子死亡率の異常な高さの理由は誰にもわからなかった。
戦場においても、前線で重傷を負った兵士より、小さな傷や病気で命を落とす兵士のほうが多かった。
まったく新しいパラダイムである細菌論の登場によって、これらの現象が正確に理解でき、医学は目覚ましい進歩を遂げた。

今日あるアメリカ合衆国もまた、パラダイムシフトの結果である。
何世紀にもわたり、国家統治の概念は絶対君主制、王権神授説だった。
そこに、新しいパラダイムが登場する。
「人民の、人民による、人民のための政治」である。
こうして誕生した立憲民主主義国家は、人々の持つ計り知れない潜在能力を解き放ち、歴史上類をみない水準の生活、自由、影響力、希望を創出した。

パラダイムシフトはプラスの方向だけに働くとは限らない。
前述したように、人格主義から個性主義へのパラダイムシフトは、真の成功と幸福を育む根っこを引き抜いてしまった。

しかし、パラダイムシフトがプラスに働こうがマイナスに働こうが、あるいは一瞬にして起ころうが徐々に進行していこうが、一つのものの見方から別の見方に移行することは大きな変化を生む。
正しくても間違っていても、私たちのパラダイムが態度と行動を決め、ひいては人間関係のあり方にも影響するのである。

p26

ソロー(訳注:米国の作家・思想家)は、「悪の葉っぱに斧を向ける人は千人いても、根っこに斧を向けるのは一人しかいない」と言っている。
行動や態度という「葉っぱ」だけに斧を向けるのをやめ、パラダイムという「根っこ」を何とかしなければ、生活を大きく改善することはできないのである。

p27

息子をそれまでと違う目で見るために、私も妻もあり方を変えなくてはならなかった。
こうして自分自身の人格の向上と形成に投資した結果、私たちの新しいパラダイムが生まれたのである。

パラダイムと人格を切り離すことはできない。
人間においては、あり方は見方に直結するのであり、どう見るかとどうあるかは強い相関関係で結ばれているからだ。
あり方を変えずに見方を変えることはできない。
その逆もまたしかりだ。

原則中心のパラダイム p28

人格主義の土台となる考え方は、人間の有意義なあり方を支配する原則が存在するということである。
自然界に存在する引力の法則などと同じように、人間社会にもまた、時間を超えて不変であり異論を挟む余地のない、普遍的にして絶対的な法則があるのだ。

p29

原則は灯台にたとえることができる。
それは破ることのできない自然の法則である。
映画監督セシル・B・デミルは、代表作『十戒』の中で原則について次のように表現している。
「神の律法(原則)を破ることはできない。それを破ろうとすれば自分自身が破れるだけだ」

誰でも、経験や条件づけから形成されたパラダイムや頭の中の地図を通して自分の生活や人間関係を見ているものである。
この頭の中の地図は、現実の場所ではない。
あくまで「主観的な現実」であって、現実の場所を表現しようとしているにすぎない。

p30

このような原則、あるいは自然の法則は、社会の歴史のサイクルを深く調べ、思索している人からすれば、今さら言うまでもない明白なものである。
これらの原則の正しさは、歴史の中で幾度となく証明されている。
ある社会の人々が原則をどこまで理解し、どこまで従うかによって、その社会が存続と安定へ向かうのか、逆に分裂と滅亡に至るのかが決まるのである。

私の言う原則は、難解なものでもなければ、謎めいたものでもない。
まして宗教的なものではない。
この本で述べている原則は、私自身の宗教も含めて特定の宗教や信仰に固有のものは一つとしてない。
これらの原則は、長く存続しているすべての主要な宗教、社会思想、倫理体系の一部に組み込まれている。
自明のものであり、誰でも日常生活の中で有効性を確認できるものばかりである。

これらの原則あるいは自然の法則は、人間の条件、良心、自覚の一部となっていると言ってもいいだろう。
社会的な条件づけが違っていても、すべての人間の内面に必ず存在している。
もちろん、これらの原則に対する忠実さの度合いは人それぞれであろうし、忠実さが低かったり、条件づけされていたりすると、原則が見えず、感じとれないこともあるだろう。
しかしそのような人でも、原則は内面のどこかに必ず潜んでいる。

たとえば、平等と正義という概念の土台となっているのは公正の原則である。
たとえ公正とはまるで正反対の経験をしても、人が公正さの感覚を生まれながらに持っていることは小さな子の行動を見ればわかる。
公正の定義や、公正さを実現するプロセスに大きな違いがあっても、時代や地域に関わらず、公正という概念そのものは誰もが理解できる。

誠実と正直も例として挙げることができる。
協力関係や長続きする人間関係、個人の成長に不可欠な信頼の土台となる原則だ。

人間の尊厳も原則である。
アメリカ独立宣言の基本的な考え方は、「我々は以下の事実を自明なものとみなす。すべての人間は創造主によって平等につくられ、生命、自由、幸福の追求など、不可侵の権利を授かっている」という一節からもわかるように、人間の尊厳という原則を土台としている。

奉仕や貢献、あるいは本質、美徳という原則もある。

可能性という原則は、私たちは常に成長することができ、潜在する能力を発見し、発揮し、さらに多くの才能を開発できるという原則である。
成長は可能性に関連する原則である。
成長とは、潜在能力を発揮し、才能を開発するプロセスであり、これには忍耐や養育、励ましといった原則が必要になる。

原則は手法ではない。
手法とは具体的な活動、行動である。
ある状況で使えた手法が、別の状況にも通用するとは限らない。
二番目の子を最初の子と同じように育てようとしたことのある親なら、よくわかると思う。

手法は個々の状況に応じて使い分けるものだが、原則は、あらゆる状況に普遍的に応用できる深い基本の真理である。
個人にも、夫婦や家族にも、あらゆる民間・公的組織にも当てはめることができる。
たとえば企業がこれらの真理を組織内に習慣として根づかせれば、社員は状況に応じて対処する多種多様な手法を自分で考え出すことができる。

原則は価値観とも異なる。
強盗団には強盗団なりの価値観がある。
しかしここで述べている基本の原則には明らかに反している。
価値観は地図であり、原則は現実の場所である。
正しい原則に価値を置けば、真理を手にし、物事のあるがままの姿を知ることができる。

原則は人間の行動を導く指針であり、永続的な価値を持っていることは歴史が証明している。
原則は基礎的なものであり、自明であるから議論の余地すらない。
原則に反する価値観に従って充実した人生を送ろうとすることの愚かしさを考えれば、原則が自明の理であることはすぐにわかる。
不正、詐欺、卑劣、無駄、凡庸、堕落が、長続きする幸福や成功の盤石な土台になると本気で思っている人などいないはずだ。
原則の定義、実行の方法については議論があるにしても、人は生まれながらにして原則の存在を知り、意識しているのである。

私たちの頭の中の地図またはパラダイムをこれらの原則、自然の法則に近づけるほど、地図は正確になり、機能的に使えるようになる。
正しい地図は、個人の効果性、人間関係の効果性に計り知れない影響を与える。
態度や行動を変える努力をいくらしても追いつかないほど、大きな変化を遂げられるのである。

p33

すべての生命に、成長と発達のしかるべき順序がある。
子どもはまず寝返りを覚えてから、座り、はいはいすることを学ぶ。
その次に、歩き、走ることができるようになる。
どの段階も重要であり、時間がかかる。
省略できる段階は一つもない。

人生のさまざまな段階で能力を開発するのも同じである。
ピアノが弾けるようになることも、同僚とうまくコミュニケーションをとれるようになることも、段階を踏まねばならない。
これは個人にも、夫婦や家族にも、組織にも当てはまる原則である。

誰でも物理的な現象であればこのプロセスの原則は知っているし、受け入れている。
しかし、感情や人間関係に当てはめるとなると簡単には腑に落ちない。
人格となればなおさらわかりにくいし、理解できている人は少ない。
たとえ理解できたとしても、それを受け入れ、実践するのはますます難しい。
だから近道を探したくなる。
プロセスの重要なステップを省略し、時間と労力を節約する個性主義のテクニックに引き寄せられてしまうのもわからなくはない。

しかし、成長と発達の自然のプロセスで近道をしようとしたらどうなるだろうか。
仮にあなたがテニスの初心者で、格好良く見せたいがために上級者のようにプレーしようとしたらどうなるだろう。
ポジティブ・シンキングだけでプロに太刀打ちできるだろうか。

ピアノを習い始めたばかりなのに、リサイタルを催せるほどの腕前だと友人たちに吹聴したらどうなるだろう。

答えは言うまでもない。
発達のプロセスを無視し、途中を省略することなどできるわけがない。
それは自然の理に反する行為であり、近道しようとして得られるのは失望とフラストレーションだけである。

どんな分野にせよ、現在の能力レベルが一〇段階の二であるなら、五に達するためにはまず三になる努力をしなければならない。
「千里の道も一歩から」始まる。
何事も一歩ずつしか進めないのだ。

わからないところを教師に質問しなければ、教師はあなたの現在のレベルを把握できないのだから、あなたは何も学べず、成長できない。
いつまでもごまかしきれるものではなく、いずれ馬脚を現すことになる。
学習の第一歩は、自分の無知を認めることである。
ソローの言葉を借りよう。
「自分の知識をひけらかしてばかりいたら、成長にとって必要な自分の無知を自覚することなど、どうしてできるだろうか」

p39

所有を経験しなければ、真の分かち合いを理解することはできない。
夫婦関係や家庭において、無意識に与えたり、分かち合ったり、あるいはそれらを拒んだりする人は少なくない。
こうした多くの人たちは、自分で何かを所有したと実感したことがないのだろう。
所有した実感を持つことが、アイデンティティの意識、自尊心の意識を芽生えさせるのだ。
わが子の成長を本当に願うなら、このような所有感を体験させ、分かち合うことの大切さを教え、そして自ら模範を示さなくてはならない。

p42

多くの人が、意識的にせよ無意識にせよ、個性主義の空約束の幻想から醒め始めている。
仕事でさまざまな企業を訪ねていて気づくのは、長期的展望を持つ経営者は皆、愉快なだけで中身のない話に終始する「モチベーションアップ」や「元気を出そう」式のセミナーに嫌気がさしていることだ。

彼らは本質を求めている。
鎮痛剤や絆創膏ではない長期的プロセスを求めているのだ。
慢性的な問題を解決し、永続的な成果をもたらす原則に取り組みたいのである。

新しいレベルの思考 p42

アルベルト・アインシュタインはこう言っている。
「我々の直面する重要な問題は、その問題をつくったとと同じ思考のレベルで解決することはできない」

自分自身の内面を見つめ、周囲を見まわしてみると、さまざまな問題は結局、個性主義に従って生き、人間関係を築いてきたからだと気づくはずだ。
これらの問題は深くて根本的な問題であり、問題をつくったときと同じ個性主義のレベルでは解決できないのだ。

新しいレベル、もっと深いレベルの思考が必要である。
これらの根深い悩みを解決するには、人間としての有意義なあり方、効果的な人間関係という現実の場所を正確に描いた地図、すなわち原則に基づいたパラダイムが必要なのである。

「7つの習慣」とは、この新しいレベルの思考である。
原則を中心に据え、人格を土台とし、インサイド・アウト(内から外へ)のアプローチによって、個人の成長、効果的な人間関係を実現しようという思考である。

インサイド・アウトとは、一言で言えば、自分自身の内面から始めるという意味である。
内面のもっとも奥深くにあるパラダイム、人格、動機を見つめることから始めるのである。

インサイド・アウトのアプローチでは、たとえばあなたが幸福な結婚生活を望むなら、まずはあなた自身が、ポジティブなエネルギーを生み出し、ネガティブなエネルギーを消し去るパートナーになる。
一〇代のわが子にもっと快活で協調性のある人間になってほしいと望むなら、まずはあなた自身が子どもを理解し、子どもの視点に立って考え、一貫した行動をとり、愛情あふれる親になる。
仕事でもっと自由な裁量がほしければ、もっと責任感が強く協力的で、会社に貢献できる社員になる。
信頼されたければ、信頼されるに足る人間になる。
才能を認められたければ(第二の偉大さ)、まずは人格(第一の偉大さ)を高めることから始めなければならない。

インサイド・アウトのアプローチでは、公的成功を果たすためには、まず自分自身を制する私的成功を果たさなくてはならない。
自分との約束を果たすことができて初めて、他者との約束を守ることができる。
人格より個性を優先させるのは無駄なことだ。
自分自身を高めずに他者との関係が良くなるわけがない。

インサイド・アウトは、人間の成長と発達をつかさどる自然の法則に基づいた継続的な再生のプロセスである。
また、上向きに成長する螺旋であり、責任ある自立と効果的な相互依存という高みに徐々に近づいていくことだ。

仕事柄、私は多くの人々に接する機会に恵まれている。
快活な人、才能ある人、幸福と成功を切望している人、何かを探し求めている人、心を痛めている人。
経営者、大学生、教会組織、市民団体、家族、夫婦。
そして、さまざまな体験を通してわかったことは、決定的な解決策、永続的な幸福と成功が外から内に(アウトサイド・イン)もたらされた例は一つとして知らない。

アウトサイド・インのパラダイムに従った人は、おしなべて幸福とは言い難い結果となっている。
被害者意識に凝り固まり、思うようにいかないわが身の状況を他の人や環境のせいにする。
夫婦ならば、お互いに相手だけが変わることを望み、相手の「罪」をあげつらい、相手の態度を改めさせようとする。
労働争議ならば、莫大な時間と労力を費やして上辺だけの法律を通し、あたかも信頼関係が築かれたかのように振る舞っている。

私の家族は一触即発の危険をはらんだ三つの国南アフリカ、イスラエル、アイルランドで暮らした経験があるが、これらの国が抱えている問題の根源は、アウトサイド・インという社会的パラダイムに支配されていることにあると私は確信している。
敵対するグループはそれぞれに問題は「外」にあるとし、「向こう」が態度を改めるか、あるいは「向こう」がいなくなりさえすれば、問題は解決すると思い込んでいる。

インサイド・アウトは現代社会の大半の人々にとって劇的なパラダイムとなる。
個性主義のパラダイムを持ち強烈な条件づけを受けている人は特にそうだ。

とはいえ、私の個人的経験、また何千という人々と接してきた経験、さらには成功を収めた歴史上の人物や社会を仔細に調べた結果から確信したことは、「7つの習慣」としてまとめた原則は、私たちの良心と常識にすでに深く根づいているものばかりだということである。
自分の内面にあるそれらの原則に気づき、引き出し、生かせば、どんなに困難な問題でも解決できる。
そのためには新しい、より深いレベルの考え方「インサイド・アウト」へとパラダイムシフトすることが必要である。

あなたがこれらの原則を真剣に理解しようとし、生活に根づかせる努力をするとき、T・S・エリオット(訳注:英国の詩人)の次の言葉の真実を幾度となく実感することだろう。

探究に終わりはない。
すべての探究の最後は初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである。

7つの習慣とは p47

人格は繰り返し行うことの集大成である。
それ故、秀でるためには、一度の行動ではなく習慣が必要である。
――アリストテレス

私たちの人格は、習慣の総体である。
「思いの種を蒔き、行動を刈り取る。行動の種を蒔き、習慣を刈り取る。習慣の種を蒔き、人格を刈り取る。人格の種を蒔き、運命を刈り取る」という格言もある。

習慣は私たちの人生に決定的な影響を及ぼす。
習慣とは一貫性であり、ときに無意識に行われる行動パターンであり、日々絶えず人格として現れる。
その結果、自分自身の効果性の程度が決まる。

偉大な教育者だったホーレス・マンは、「習慣は太い縄のようなものだ。毎日一本ずつ糸を撚り続けるうちに、断ち切れないほど強い縄になる」と言っている。
しかし私は、この言葉の最後の部分には同意できない。
習慣は断ち切れるものだからだ。
習慣は、身につけることも、断ち切ることもできる。
だがどちらにしても、応急処置的な手段は通用しない。
強い意志を持ち、正しいプロセスを踏まなくてはならない。

「習慣」の定義 p48

本書では、知識、スキル、意欲の三つが交わる部分を習慣と定義したい。

まず知識は、何をするのか、なぜそれをするのかという問いに答える理論的なパラダイムである。
スキルはどうやってするのかを示し、意欲は動機であり、それをしたいという気持ちを示す。
人生において効果的な習慣を身につけるには、これら三つすべてが必要である。

自分の意見を言うだけで人の話に耳を傾けなければ、同僚や家族など周りの人との関係はうまくいかないだろう。
人間関係の正しい原則の知識がなかったら、人の話を聴くことが必要だとは思いもしないかもしれない。

効果的な人間関係のためには相手の話を真剣に聴くことが大事だと知ってはいても、そのスキルを持っていないかもしれない。
人の話を深く聴くスキルがなければ、確かな人間関係は築けない。

しかし、話を聴く必要性を知り、聴くスキルを持っていたとしても、それだけでは足りない。
聴きたいと思わなければ、つまり意欲がなければ、習慣として身につくことはない。
習慣にするためには、知識、スキル、意欲の三つがすべて機能しなければならないのである。

自分のあり方/見方を変えることは、上向きのプロセスである。
あり方を変えることによって見方が変わり、見方が変われば、さらにあり方が変わる、というように螺旋を描きながら上へ上へと成長していく。
知識、スキル、意欲に働きかけることによって、長年寄りかかっていた古いパラダイムを断ち切り、個人としての効果性、人間関係の効果性の新しいレベルに到達できる。

このプロセスで痛みを感じることもあるだろう。
より高い目的を目指し、そのために目先の結果を我慢する意志がなければ、変化を遂げることはできないからだ。
しかし、このプロセスこそが、私たちの存在目的である幸福をつくり出すのである。
幸福とは、最終的に欲しい結果を手に入れるために、今すぐ欲しい結果を犠牲にすることによって得る果実に他ならない。

成長の連続体 p51

「7つの習慣」は、断片的な行動規範を寄せ集めたものではない。
成長という自然の法則に従い、連続する段階を踏んで、個人の効果性、人間関係の効果性を高めていく統合的なアプローチである。
依存から自立へ、そして相互依存へと至る「成長の連続体」を導くプロセスである。

誰しも、他者に一〇〇%依存しなければならない赤ん坊として人生を歩み出す。
最初は誰かに保護され、養われ、育てられる。
誰かに面倒をみてもらわなければ、数時間、長くても数日しか生きられない。

しかし年月とともに、肉体的、知的、感情的、経済的にだんだんと自立していく。
やがて完全に自立し、自分のことは自分で決められる独立した人間になる。

成長し、成熟していくと、社会を含め自然界(nature)のすべては生態系という相互依存で成り立っていることに気づく。
さらには、自分自身の本質(nature)も他者との関係で成り立っており、人間の生活そのものが相互に依存し合っていることを発見する。

新生児から成人へと成長していくプロセスは自然の法則に従っている。
そして成長にはさまざまな特徴がある。
たとえば、肉体的な成熟と同時に精神的あるいは知的な成熟が進むとは限らない。
逆に肉体的には他者に依存していても、精神的、知的には成熟している人もいる。

成長の連続体では、依存はあなたというパラダイムを意味する。
あなたに面倒をみてほしい、あなたに結果を出してほしい、あなたが結果を出さなかった、結果が出ないのはあなたのせいだ、というパラダイムである。

自立は私というパラダイムである。
私はそれができる、私の責任だ、私は自分で結果を出す、私は選択できる、ということである。

相互依存は私たちというパラダイムである。
私たちはそれができる、私たちは協力し合える、私たちがお互いの才能と能力を合わせれば、もっと素晴らしい結果を出せる、と考える。

依存状態にある人は、望む結果を得るために他者に頼らなくてはならない。
自立状態にある人は、自分の力で望む結果を得られる。
相互依存状態にある人は、自分の努力と他者の努力を合わせて、最大限の成功を手にする。

仮に私が身体に何らかの障害があり、肉体的に依存しているとしたら、あなたの助けが必要である。
感情的に依存しているなら、私の自尊心と心の安定は、あなたが私をどう見ているかで左右される。
あなたに嫌われたら、私はひどく傷つくだろう。
知的に依存しているとしたら、私の生活のさまざまな用事や問題はあなたに解決してもらわなくてはならない。

肉体的に自立していれば、私は自分で動ける。
知的に自立していれば、自分で考え、抽象的な思考を具体的なレベルに置き換えて考えることができる。
クリエイティブに、また分析的に思考し、自分の考えをまとめ、わかりやすく述べることができる。
感情的に自立していれば、自分の内面で自分自身を認め、心の安定を得られる。
人にどう思われようと、どう扱われようと、私の自尊心が揺らぐことはない。

自立した状態が依存よりもはるかに成熟していることは言うまでもない。
自立だけでも大きな成功なのである。
とはいえ、自立は最高のレベルではない。

にもかかわらず、現代社会のパラダイムは自立を王座に据えている。
多くの個人、社会全般は自立を目標に掲げている。
自己啓発本のほとんどが自立を最高位に置き、コミュニケーションやチームワーク、協力は自立よりも価値がないかのような扱いである。

現代社会でこれほどまでに自立が強調されるのは、今までの依存状態への反発とも言えるのではないだろうか。
他人にコントロールされ、他人に自分を定義され、他人に使われ、操られる状態から脱したいという気持ちの現れなのである。

しかし、依存状態にいる多くの人は、相互依存の考え方をほとんど理解していないように見受けられる。
自立の名のもとに自分勝手な理屈で離婚し、子どもを見捨て、社会的責任を放棄している人も少なくない。

依存状態への反発として、人々は「足かせを捨てる、解放される」「自分を主張する」「自分らしく生きる」ことを求めるわけだが、この反発は実は、もっと根深く、逃れることのできない依存状態の現れでもある。
他者の弱さに気持ちを振り回され、あるいは他者や物事が自分の思いどおりにならないからといって被害者意識を持つなど、内的な依存心ではなく、外的な要因に依存しているからだ。

もちろん、自分が置かれている状況を変えなければならないこともある。
しかし依存という問題は個人の成熟の問題であって、状況とはほとんど関係がない。
たとえ状況がよくなっても、未熟さと依存心は残るものである。

真に自立すれば、周りの状況に左右されず、自分から働きかけることができる。
状況や他者に対する依存から解放されるのだから、自立は自分を解き放つ価値ある目標と言えるだろう。
しかし有意義な人生を送ろうとするなら、自立は最終目標にはならない。

自立という考え方だけでは、相互依存で成り立つ現実に対応できないのである。
自立していても、相互依存的に考え行動できるまで成熟していなければ、個人としては有能であっても、良いリーダーやチームプレーヤーにはなれない。
夫婦、家族、組織という現実の中で成功するには、相互依存のパラダイムを持たなくてはならないからである。

人生とは、本質的にきわめて相互依存的である。
自立だけで最大限の効果を得ようとするのは、たとえるならゴルフクラブでテニスをするようなものだ。
道具が現実に適していないのである。

相互依存は自立よりもはるかに成熟した状態であり、高度な概念である。
肉体的に他者と力を合わせることができる人は、自分の力で結果を出せるのは言うまでもないが、他者と協力すれば、自分一人で出す最高の結果をはるかに上回る結果を出せることを知っている。
感情的に相互依存の状態にある人は、自分の内面で自分の価値を強く感じられると同時に、他者を愛し、与え、他者からの愛を受け止める必要性を認識している。
知的に相互依存の状態にあれば、他者の優れたアイデアと自分のアイデアを結びつけることができる。

相互依存の段階に達した人は、他者と深く有意義な関係を築き、他の人々が持つ莫大な能力と可能性を生かすことができる。

相互依存は、自立した人間になって初めて選択できる段階である。
依存状態からいきなり相互依存の段階に達しようとしても無理である。
相互依存できる人格ができていないからだ。
自己を十分に確立していないのだ。

そのため、以降の章で取り上げる第1、第2、第3の習慣は自制をテーマにしている。
これらは依存から自立へと成長するための習慣である。
人格の成長に不可欠な私的成功をもたらす習慣である。
まず私的成功が公的成功に先立つのだ。
種を蒔かなければ収穫できないのと同じで、私的成功と公的成功の順序を逆にすることはできない。
あくまでもインサイド・アウト、内から外へ、である。

真に自立した人間になれば、効果的な相互依存の土台ができる。
この人格の土台の上に、個々人の個性を生かしたチームワーク、協力、コミュニケーションの公的成功を築いていく。
これは第4、第5、第6の習慣になる。

第1、第2、第3の習慣を完璧に身につけなければ、第4、第5、第6の習慣に取り組めないわけではない。
順序がわかっていれば、自分なりに効果的に成長することができるのであり、なにも第1、第2、第3の習慣を完璧にするまで何年も山にこもって修行しなさいと言っているのではない。

人間は相互依存で成り立つ世界で生きている以上、世の中の人々や出来事と無関係ではいられない。
ところが、この世界のさまざまな急性の問題は、人格に関わる慢性的な問題を見えにくくする。
自分のあり方が相互依存の関係にどのような影響を与えているのかを理解すれば、成長という自然の法則に従って、人格を育てる努力を適切な順序で続けていけるだろう。

第7の習慣は、再新再生の習慣である。
人間を構成する四つの側面をバランスよく日常的に再生させるための習慣であり、他のすべての習慣を取り囲んでいる。
成長という上向きの螺旋を生み出す継続的改善であり、この螺旋を昇っていくにつれ、第1から第6までの習慣をより高い次元で理解し、実践できるようになる。

効果性の定義 p57

「7つの習慣」は、効果性を高めるための習慣である。
原則を基礎としているので、最大限の効果が長期にわたって得られる。
個人の人格の土台となる習慣であり、問題を効果的に解決し、機会を最大限に生かし、成長の螺旋を昇っていくプロセスで他の原則を継続的に学び、生活に取り入れていくための正しい地図(パラダイム)の中心点を与えてくれる。

これらが効果性を高める習慣であるのは、自然の法則に従った効果性のパラダイムに基づいているからでもある。
私はこれを「P/PCバランス」と呼んでいるが、多くの人が自然の法則に反して行動しているのではないだろうか。
自然の法則に反するとどうなるか、『ガチョウと黄金の卵』というイソップの寓話で考えてみよう。

貧しい農夫がある日、飼っていたガチョウの巣の中にキラキラと輝く黄金の卵を見つけた。
最初は誰かのいたずらに違いないと思い、捨てようとしたが、思い直して市場に持っていくことにした。

すると卵は本物の純金だった。
農夫はこの幸運が信じられなかった。
翌日も同じことが起き、ますます驚いた。
農夫は、来る日も来る日も目を覚ますと巣に走っていき、黄金の卵を見つけた。
彼は大金持ちになった。
まるで夢のようだった。

しかしそのうち欲が出て、せっかちになっていった。
一日一個しか手に入らないのがじれったく、ガチョウを殺して腹の中にある卵を全部一度に手に入れようとした。
ところが腹をさいてみると空っぽだった。
黄金の卵は一つもなかった。
しかも黄金の卵を生むガチョウを殺してしまったのだから、もう二度と卵は手に入ることはなかった。

この寓話は、一つの自然の法則、すなわち原則を教えている。
それは効果性とは何かということである。
ほとんどの人は黄金の卵のことだけを考え、より多くのことを生み出すことができるほど、自分を「効果的」、有能だと思ってしまう。

この寓話からもわかるように、真の効果性は二つの要素で成り立っている。
一つは成果(黄金の卵)、二つ目は、その成果を生み出すための資産あるいは能力(ガチョウ)である。

黄金の卵だけに目を向け、ガチョウを無視するような生活を送っていたら、黄金の卵を生む資産はたちまちなくなってしまう。
逆にガチョウの世話ばかりして黄金の卵のことなど眼中になければ、自分もガチョウも食い詰めることになる。

この二つのバランスがとれて初めて効果的なのである。
このバランスを私はP/PCバランスと名づけている。
Pは成果(Production)、すなわち望む結果を意味し、PCは成果を生み出す能力(Production Capability)を意味する。

三つの資産とは p59

資産は基本的に三種類ある。
物的資産、金銭的資産、人的資産である。
一つずつ詳しく考えてみよう。

数年前、私はある物的資産を購入した。
電動芝刈機である。
そして、手入れはまったくせずに何度も使用した。
最初の二年間は問題なく動いたが、その後たびたび故障するようになった。
そこで修理し、刃を研いでみたが、出力が元の半分になっていた。
価値はほとんどなくなっていたのである。

もし資産(PC)の保全に投資していたら、芝を刈るという成果(P)を今も達成できていただろう。
そうしなかったばっかりに、新しい芝刈機を買うはめになり、メンテナンスにかかる時間と金をはるかに上回るコストがかかる結果となった。

私たちは、目先の利益、すぐに得られる結果を求めるあまり、自動車やコンピューター、洗濯機、乾燥機等の価値ある物的資産を台無しにしてしまうことが少なくない。
自分の身体や自然環境を損なってしまうことすらある。
PとPCのバランスがとれていれば、物的資産の活用の効果性は著しく向上する。

P/PCバランスは、金銭的資産の活用にも大きく影響する。
元金と利息の関係を例にするなら、金の卵を増やして生活を豊かにしようとして元金に手をつければ、元金が減り、したがって利息も減る。
元金はだんだんと縮小していき、やがて生活の最小限のニーズさえ満たせなくなる。

私たちのもっとも重要な金銭的資産は、収入を得るための能力(PC)である。
自分のPCの向上に投資しなければ、収入を得る手段の選択肢はずいぶんと狭まってしまう。
クビになったら経済的に困るから、会社や上司に何を言われるかとびくびくして保身だけを考え、現状から出られずに生きるのは、とても効果的な生き方とは言えない。

人的資産においてもP/PCバランスは同じように基本だが、人間が物的資産と金銭的資産をコントロールするのだから、その意味ではもっともバランスが重要になる。

たとえば、夫婦がお互いの関係を維持するための努力はせず、相手にしてほしいこと(黄金の卵)ばかりを要求していたら、相手を思いやる気持ちはなくなり、深い人間関係に不可欠なさりげない親切や気配りをおろそかにすることになるだろう。
相手を操ろうとし、自分のニーズだけを優先し、自分の意見を正当化し、相手のあら探しをし始める。
愛情や豊かさ、優しさ、思いやり、相手のために何かしてあげようという気持ちは薄れていく。
ガチョウは日に日に弱っていくのである。

p66

効果性の鍵はバランスにある。
Pだけを追求したら、ガチョウの健康を害する。
機械がだめになり、資金が枯渇し、顧客や社員との関係が壊れる。
逆にPCに力を入れすぎるのは、寿命が一〇年延びるからといって毎日三~四時間もジョギングするようなもので、延びた寿命の一〇年間をジョギングに費やす計算になることには気づいていない。
あるいは延々と大学に通うような人もいる。
仕事はせず、他の人たちの黄金の卵で生活する永遠の学生シンドロームである。

P/PCバランスを維持するには、黄金の卵とガチョウの健康のバランスを見極める高い判断力が要る。
それこそが効果性の本質であると言いたい。
短期と長期のバランスをとることであり、良い成績をとろうという意欲とまじめに授業を受けるバランスをとることである。
部屋をきれいにしてほしいと思う気持ちと、言われなくとも進んで掃除できる自主性のある子どもに育つように親子関係を築くことのバランスをとることなのである。

この原則は、誰でも生活の中で実際に体験しているはずである。
黄金の卵をもっと手に入れようと朝から晩まで働きづめの日が続き、疲れ果てて体調を崩し、仕事を休むはめになることもあるだろう。
十分な睡眠をとれば、一日中元気よく働ける。

自分の意見をごり押しすれば、お互いの関係にヒビが入ったように感じるだろう。
しかし時間をかけて関係の改善に努めれば、協力し合おうという気持ちが生まれ、実際に協力し、コミュニケーションが円滑になり、関係が飛躍的に良くなるものである。

このようにP/PCバランスは、効果性に不可欠なものであり、生活のあらゆる場面で実証されている。
私たちはこのバランスに従うことも、反することもできる。
どちらにしても、原則は存在する。
それはまさに灯台である。
「7つの習慣」の土台となる効果性の定義とパラダイムなのである。

この本がもたらしてくれること p68

マリリン・ファーガソン(訳注:米国の社会心理学者)の次の言葉がすべてを言い表していると思う。
「説得されても人は変わるものではない。
誰もが変化の扉を固くガードしており、それは内側からしか開けられない。
説得によっても、感情に訴えても、他人の扉を外から開けることはできない」

あなたが自分の「変化の扉」を開き、「7つの習慣」に込められた原則を深く理解し、実践する決心をするならば、いくつかの素晴らしい成果を約束できる。

まず、あなたは段階を踏みながら進化的に成長していくが、その効果は飛躍的なものになる。
P/PCバランスの原則だけでも、それを実践すれば、個人にも組織にも大きな変化をもたらすことに疑問の余地はないはずだ。

第1、第2、第3の習慣(私的成功の習慣)に対して「変化の扉」を開くことによって、あなたの自信は目に見えて増すだろう。
自分自身を深く知り、自分の本質、内面の奥深くにある価値観、自分にしかできない貢献にはっきりと気づくだろう。
自分の価値観に従って生活すれば、あるべき自分を意識し、誠実、自制心、内面から導かれる感覚を得て、充実し平安な気持ちに満たされる。
他者の意見や他者との比較からではなく、自分の内面から自分自身を定義できる。
正しいか間違っているかは他者が決めるのではなく、自分で判断できるようになるのである。

逆説的だが、周りからどう見られているかが気にならなくなると、他者の考えや世界観、彼らとの関係を大切にできるようになる。
他者の弱さに感情を振り回されることがなくなる。
さらに、自分の心の奥底に揺るぎない核ができるからこそ、自分を変えようという意欲が生まれ、実際に変わることができるのである。

さらに第4、第5、第6の習慣(公的成功の習慣)に対して「変化の扉」を開けば、うまくいかなくなっていた大切な人間関係を癒し、築き直す意欲が生まれ、そのための力を解き放つことができるだろう。
うまくいっている人間関係はいっそう良くなり、さらに深く堅固で、創造的な関係に発展し、新たな冒険に満ちたものになるだろう。

そして最後の第7の習慣を身につけることによって、それまでの六つの習慣を再新再生して磨きをかけ、真の自立、効果的な相互依存を実現できるようになる。
第7の習慣は、自分自身を充電する習慣である。

あなたが今どんな状況に置かれていようと、習慣を変えることはできる。
それまでの自滅的な行動パターンを捨て、新しいパターン、効果性、幸福、信頼を土台とする関係を生み出す新たなパターンを身につけることができるのだ。

「7つの習慣」を学ぶとき、あなたの変化と成長の扉をぜひ開けてほしい。
忍耐強く取り組んでほしい。
自分を成長させるのは平たんな道のりではないが、それは至高に通じる道である。
これに優る投資が他にあるだろうか。

これは明らかに応急処置ではない。
だが、必ず成果を実感でき、日々励みになるような成果をも見ることができる。
ここでトーマス・ペイン(訳注:米国の社会哲学・政治哲学者)の言葉を引用しよう。
「なんなく手に入るものに人は価値を感じない。
あらゆるものの価値は愛着がもたらすものなのだ。
ものの適切な対価は、誰にもつけられないのだ」

p75

人間を人間たらしめているのは、感情でも、気分でもない。
思考ですらない。
自分の感情や気分や思考を切り離して考えられることが、人間と動物の決定的な違いである。
この自覚によって、人間は自分自身を見つめることができる。
自分をどう見ているか、自分に対する見方、いわば「セルフ・パラダイム」は、人が効果的に生きるための基盤となるパラダイムだが、私たちは自覚によって、このセルフ・パラダイムさえも客観的に考察できる。
セルフ・パラダイムはあなたの態度や行動を左右し、他者に対する見方にも影響を与えている。
セルフ・パラダイムは、人の基本的な性質を表す地図となるのだ。

そもそも、自分が自分自身をどう見ているか、他者をどう見ているかを自覚していなければ、他者が自分自身をどう見ているか、他者は世界をどう見ているかわからないだろう。
私たちは無意識に自分なりの見方で他者の行動を眺め、自分は客観的だと思い込んでいるにすぎない。

こうした思い込みは私たちが持つ可能性を制限し、他者と関係を築く能力も弱めてしまう。
しかし人間だけが持つ自覚という能力を働かせれば、私たちは自分のパラダイムを客観的に見つめ、それらが原則に基づいたパラダイムなのか、それとも自分が置かれた状況や条件づけの結果なのかを判断できるのである。

p76

人はよく他者をこんなふうに評するが、その人の本当の姿を言い当てているとは限らない。
ほとんどの場合は、相手がどういう人間なのかを客観的に述べているのではなく、自分の関心事や人格的な弱さを通して相手を見ている。
自分自身を相手に投影しているのである。

人は状況や条件づけによって決定されると現代社会では考えられている。
日々の生活における条件づけが大きな影響力を持つことは認めるにしても、だからといって、条件づけによってどのような人間になるかが決まるわけではないし、条件づけの影響力に人はまったくなすすべを持たないなどということはありえない。

ところが実際には、三つの社会的な地図決定論―が広く受け入れられている。
これらの地図を個別に使って、ときには組み合わせて、人間の本質を説明している。

一つ目の地図は、遺伝子的決定論である。
たとえば、「おまえがそんなふうなのはおじいさん譲りだ。
短気の家系だからおまえも短気なんだよ。
そのうえアイルランド人だ。
アイルランド人っていうのは短気だからね」などと言ったりする。
短気のDNAが何世代にもわたって受け継がれているというわけである。

二つ目は心理的決定論である。
育ちや子ども時代の体験があなたの性格や人格をつくっているという理論だ。
「人前に出るとあがってしまうのは、親の育て方のせいだ」というわけである。
大勢の人の前に出るとミスをするのではないかと強い恐怖心を持つのは、大人に依存しなければ生きられない幼児期に親からひどく叱られた体験を覚えているからだという理屈だ。
親の期待に応えられなかったとき、他の子どもと比較され親から突き放されたりした体験が心のどこかに残っていて、それが今のあなたをつくっていると言うのである。

三つ目は環境的決定論である。
ここでは、上司のせい、あるいは配偶者、子どものせい、あるいはまた経済情勢、国の政策のせい、となる。
あなたを取り巻く環境の中にいる誰かが、何かが、あなたの今の状態をつくっていることになる。
これら三つの地図はどれも、刺激/反応理論に基づいている。
パブロフの犬の実験で知られるように、特定の刺激に対して特定の反応を示すように条件づけられているというものだ。

しかしこれらの決定論的地図は、現実の場所を正確に、わかりやすく言い表しているだろうか。
これらの鏡は、人間の本質をそのまま映し出しているだろうか。
これらの決定論は、単なる自己達成予言ではないだろうか。
自分自身の中にある原則と一致しているだろうか。

刺激と反応の間 p78

これらの質問に答える前に、ヴィクトール・フランクル(訳注:オーストリアの精神科医・心理学者)という人物の衝撃的な体験を紹介したい。

心理学者のフランクルは、フロイト学派の伝統を受け継ぐ決定論者だった。
平たく言えば、幼児期の体験が人格と性格を形成し、その後の人生をほぼ決定づけるという学説である。
人生の限界も範囲も決まっているから、それに対して個人が自らできることはほとんどない、というものだ。

フランクルはまた精神科医でもありユダヤ人でもあった。
第二次世界大戦時にナチスドイツの強制収容所に送られ、筆舌に尽くし難い体験をした。

彼の両親、兄、妻は収容所で病死し、あるいはガス室に送られた。
妹以外の家族全員が亡くなった。
フランクル自身も拷問され、数知れない屈辱を受けた。
自分もガス室に送られるのか、それともガス室送りとなった人々の遺体を焼却炉に運び、灰を掃き出す運のよい役割に回るのか、それさえもわからない日々の連続だった。

ある日のこと、フランクルは裸にされ、小さな独房に入れられた。
ここで彼は、ナチスの兵士たちも決して奪うことのできない自由、後に「人間の最後の自由」と自ら名づける自由を発見する。
たしかに収容所の看守たちはフランクルが身を置く環境を支配し、彼の身体をどうにでもできた。
しかしフランクル自身は、どのような目にあっても、自分の状況を観察者として見ることができたのだ。
彼のアイデンティティは少しも傷ついていなかった。
何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。
自分の身に起こること、すなわち受ける刺激と、それに対する反応との間には、反応を選択する自由もしくは能力があった。

収容所の中で、フランクルは他の状況を思い描いていた。
たとえば、収容所から解放され大学で講義している場面だ。
拷問を受けている最中に学んだ教訓を学生たちに話している自分の姿を想像した。

知性、感情、道徳観、記憶と想像力を生かすことで、彼は小さな自由の芽を伸ばしていき、それはやがて、ナチスの看守たちが持っていた自由よりも大きな自由に成長する。
看守たちには行動の自由があったし、自由に選べる選択肢もはるかに多かった。
しかしフランクルが持つに至った自由は彼らの自由よりも大きかったのだ。
それは彼の内面にある能力、すなわち反応を選択する自由である。
彼は他の収容者たちに希望を与えた。
看守の中にさえ、彼に感化された者もいた。
彼がいたから、人々は苦難の中で生きる意味を見出し、収容所という過酷な環境にあっても尊厳を保つことができたのである。

想像を絶する過酷な状況の中で、フランクルは人間だけが授かった自覚という能力を働かせ、人間の本質を支える基本的な原則を発見した。
それは、刺激と反応の間には選択の自由がある、という原則である。

選択の自由の中にこそ、人間だけが授かり、人間を人間たらしめる四つの能力(自覚・想像・良心・意志)がある。
自覚は、自分自身を客観的に見つめる能力だ。
想像は、現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力である。
良心は、心の奥底で善悪を区別し、自分の行動を導く原則を意識し、自分の考えと行動がその原則と一致しているかどうかを判断する能力である。
そして意志は、他のさまざまな影響に縛られずに、自覚に基づいて行動する能力である。

動物は、たとえ知力の高い動物でも、これら四つの能力のどれ一つとして持っていない。
コンピューターにたとえて言うなら、動物は本能や調教でプログラムされているにすぎない。
何かの行動をとるように動物を調教することはできるが、教えられる行動を自分で選ぶことはできない。
動物自身がプログラミングを書き換えることはできないのだ。
そもそもプログラミングという概念を意識すらしていない。

しかし人間は、人間だけが授かっている四つの能力を使えば、本能や調教とは関係なく自分で新しいプログラムを書くことができる。
だから動物にできることには限界があり、人間の可能性は無限なのだ。
しかし私たち人間が動物のように本能や条件づけ、置かれた状況だけに反応して生きていたら、無限の可能性は眠ったままである。

「主体性」の定義 p81

人間の本質の基本的な原則である選択の自由を発見したフランクルは、自分自身の正確な地図を描き、その地図に従って、効果的な人生を営むための第1の習慣「主体的である」ことを身につけ始めた。

昨今は、組織経営に関する本にも主体性(proactivity)という言葉がよく出てくるが、その多くは定義を曖昧にしたまま使われている。
主体性とは、自発的に率先して行動することだけを意味するのではない。
人間として、自分の人生の責任を引き受けることも意味する。
私たちの行動は、周りの状況ではなく、自分自身の決定と選択の結果である。
私たち人間は、感情を抑えて自らの価値観を優先させることができる。
人間は誰しも、自発的に、かつ責任を持って行動しているのである。

責任は英語でレスポンシビリティ(responsibility)という。
レスポンス(response=反応)とアビリティ(ability=能力)という二つの言葉でできていることがわかるだろう。
主体性のある人は、このレスポンシビリティを認識している。
自分の行動に責任を持ち、状況や条件づけのせいにしない。
自分の行動は、状況から生まれる一時的な感情の結果ではなく、価値観に基づいた自分自身の選択の結果であることを知っている。

人間は本来、主体的な存在である。
だから、人生が条件づけや状況に支配されているとしたら、それは意識的にせよ無意識にせよ、支配されることを自分で選択したからに他ならない。

そのような選択をすると、人は反応的(reactive)になる。
反応的な人は、周りの物理的な環境に影響を受ける。
天気が良ければ、気分も良くなる。
ところが天気が悪いと気持ちがふさぎ、行動も鈍くなる。
主体的(proactive)な人は自分の中に自分の天気を持っている。
雨が降ろうが陽が照ろうが関係ない。
自分の価値観に基づいて行動している。
質の高い仕事をするという価値観を持っていれば、天気がどうであろうと仕事に集中できるのだ。

反応的な人は、社会的な環境にも左右される。
彼らは「社会的な天気」も気になってしまうのだ。
人にちやほやされると気分がいい。
そうでないと、殻をつくって身構える。
反応的な人の精神状態は他者の出方次第でころころ変わるのである。
自分をコントロールする力を他者に与えてしまっているのだ。

衝動を抑え、価値観に従って行動する能力こそが主体的な人の本質である。
反応的な人は、その時どきの感情や状況、条件づけ、自分を取り巻く環境に影響を受ける。
主体的な人は、深く考えて選択し、自分の内面にある価値観で自分をコントロールできるのである。

だからといって、主体的な人が、外から受ける物理的、社会的あるいは心理的な刺激に影響を受けないかというと、そんなことはない。
しかし、そうした刺激に対する彼らの反応は、意識的にせよ無意識にせよ、価値観に基づいた選択なのである。

エレノア・ルーズベルト(訳注:フランクリン・ルーズベルト大統領の夫人)は「あなたの許可なくして、誰もあなたを傷つけることはできない」という言葉を残している。
ガンジーは「自分から投げ捨てさえしなければ、誰も私たちの自尊心を奪うことはできない」と言っている。
私たちは、自分の身に起こったことで傷ついていると思っている。
しかし実際には、その出来事を受け入れ、容認する選択をしたことによって傷ついているのだ。

これがそう簡単に納得できる考え方でないことは百も承知している。
特に私たちがこれまで何年にもわたって、自分の不幸を状況や他者の行動のせいにしてきたのであればなおのことだ。
しかし、深く正直に「今日の私があるのは、過去の選択の結果だ」と言えなければ、「私は他の道を選択する」と言うことはできないのだ。

p84

私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。
その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである。
もちろん、肉体的に傷ついたり、経済的な損害を被ったりして、つらい思いをすることもあるだろう。
しかしその出来事が、私たちの人格、私たちの基礎をなすアイデンティティまでも傷つない。
むしろ、つらい体験によって人格を鍛え、内面の力を強くし、将来厳しい状況に直面してもしっかりと対応する自由を得られる。
そのような態度は他の人たちの手本となり、励ましを与えるだろう。

p86

ヴィクトール・フランクルによれば、人生には三つの中心となる価値観があると言う。
一つは「経験」、自分の身に起こることである。
二つ目は「創造」であり、自分でつくり出すものの価値だ。
そして三つ目は、「姿勢」である。
不治の病というような過酷な現実に直面したときの反応の仕方だ。

私の経験からも言えるが、フランクルはパラダイムの再構築において、この三つの価値のうちで一番大切なのは「姿勢」だと言っている。
つまり、人生で体験することにどう反応するかがもっとも大切なのである。

パラダイムシフトは、困難に直面したときにこそ起こる。
厳しい状況に置かれると、人はまったく新しい視点から世界を眺めるようになる。
その世界にいる自分自身と他者を意識し、人生が自分に何を求めているのか見えてくる。
視野が広がることによって価値観が変化し、それが態度にも表れて周囲の人々を鼓舞し、励ますのである。

率先力を発揮する p87

私たち人間に本来備わっている性質は、周りの状況に自ら影響を与えることであって、ただ漫然と影響を受けることではない。
自分が置かれた状況に対する反応を選べるだけでなく、状況そのものを創造することもできるのだ。

率先力を発揮するというのは、押しつけがましい態度をとるとか、自己中心的になるとか、強引に進めたりすることではない。
進んで行動を起こす責任を自覚することである。

私のところには、もっと良い仕事に就きたいという人が大勢相談に来る。
私は彼らに必ず、率先力を発揮しなさいとアドバイスする。
関心のある職業の適性試験を受け、その業界の動向を調べ、さらには入りたい会社の問題点を探って解決策を考え、その問題を解決する能力が自分にあることを効果的なプレゼンテーションで売り込む。
これはソリューション・セリングといい、ビジネスで成功するための重要なパラダイムである。

p88

わが家では、子どもたちが問題にぶつかったとき、自分からは何もせず、無責任にも誰かが解決してくれるのを待っているようなら、「RとIを使いなさい」(Rはresourcefulness=知恵、Iはinitiative=率先力)と言ってきた。
最近では、私に言われる前に「わかってる。RとIを使えばいいんでしょ」とぶつぶつ言う。

人に責任を持たせるのは、その人を突き放すことにはならない。
逆にその人の主体性を認めることである。
主体性は人間の本質の一部である。
主体性という筋肉は、たとえ使われずに眠っていても、必ず存在する。
多くの人は社会通念で歪んだ鏡に映る自分を見ている。
しかし私たちがその人の主体性を尊重すれば、少なくとも一つの本当の姿、歪んでいない姿をその人自身に見せてあげることができるのである。

もちろん、精神的な成熟の度合いは人それぞれであり、精神的に他者にどっぷりと頼っている人に創造的な協力を期待することはできない。
しかし、相手の成熟度に関わらず、人間の基本的な性質である主体性だけは認めることができる。
その人が自分で機会をつかみ、自信を持って問題を解決できる環境を整えることはできるのである。

自分から動くのか、動かされるのか p88

率先力を発揮する人としない人の違いは、天と地ほどの開きがある。
効果性において二五%とか五〇%どころの違いではない。
率先力を発揮でき、そのうえ賢く感受性豊かで、周りを気遣える人なら、そうでない人との効果性の差はそれこそ天文学的な数字になる。

人生の中で効果性の原則であるP/PCバランスを生み出すには率先力が必要だ。
「7つの習慣」を身につけるにも率先力が要る。
第1の習慣「主体的である」の後に続く六つの習慣を勉強していくと、主体性という筋肉が他の六つの習慣の土台となることがわかるはずだ。
どの習慣でも、行動を起こすのはあなたの責任である。
周りが動くのを待っていたら、あなたは周りから動かされるだけの人間になってしまう。
自ら責任を引き受けて行動を起こすのか、それとも周りから動かされるのか、どちらの道を選ぶかによって、成長や成功の機会も大きく変わるのである。

p94

反応的な言葉の厄介なところは、それが自己達成予言になってしまうことだ。
決定論のパラダイムに縛られている人は、自分はこういう人間だという思い込みを強くし、その思い込みを裏づける証拠を自分でつくり上げてしまう。
こうして被害者意識が増していき、感情をコントロールできず、自分の人生や運命を自分で切り開くことができなくなる。
自分の不幸を他者や状況のせいにする。
星のせいだとまで言い出しかねない。

あるセミナーで主体性について講義していたとき、一人の男性が前に出てきてこう言った。
「先生のおっしゃっていることはよくわかるんですが、人によって状況は違うんです。たとえば私たち夫婦のことです。不安でたまりません。妻と私は昔のような気持ちがもう持てないんです。私は妻をもう愛していないと思うし、妻も私を愛していないでしょうね。どうしたらいいでしょう?」
「愛する気持ちがもうなくなったというのですね?」私は聞いた。
「そうです」と彼はきっぱり答える。
「子どもが三人もいるので、不安なんです。アドバイスをお願いします」
「奥さんを愛してください」と私は答えた。
「ですから、もうそんな気持ちはないんです」
「だから、奥さんを愛してください」
「先生はわかっていません。私にはもう、愛という気持ちはないんです」
「だから、奥さんを愛するのです。そうした気持ちがないのなら、奥さんを愛する理由になるじゃないですか」
「でも、愛(Love)を感じないのに、どうやって愛するんです?」
「いいですか、愛(Love)は動詞なのです。愛という気持ちは、愛するという行動から得られる果実です。ですから奥さんを愛する。奥さんに奉仕する。犠牲を払う。奥さんの話を聴いて、共感し、理解する。感謝の気持ちを表す。奥さんを認める。そうしてみてはいかがです?」

古今東西の文学では、「愛」は動詞として使われている。
反応的な人は、愛を感情としかとらえない。
彼らは感情に流されるからだ。
人はその時どきの感情で動くのであって、その責任はとりようがないというような筋書の映画も少なくない。
しかし映画は現実を描いているわけではない。
もし行動が感情に支配されているとしたら、それは自分の責任を放棄し、行動を支配する力を感情に与えてしまったからなのだ。

主体的な人にとって、愛は動詞である。
愛は具体的な行動である。
犠牲を払うことである。
母親が新しい命この世に送り出すのと同じように、自分自身を捧げることである。
愛を学びたいなら、他者のために、たとえ反抗的な相手でも、何の見返りも期待できない相手であっても、犠牲を払う人たちを見てみればいい。
あなたが親であるなら、子どものためならどんな犠牲も辞さないはずだ。
愛とは、愛するという行為によって実現される価値である。
主体的な人は、気分を価値観に従わせる。
愛、その気持ちは取り戻せるのである。

直接的、間接的にコントロールできること、そしてコントロールできないこと p100

私たちが直面する問題は、次の三つのどれかである。
・直接的にコントロールできる問題(自分の行動に関わる問題)
・間接的にコントロールできる問題(他者の行動に関わる問題)
・コントロールできない問題(過去の出来事や動かせない現実)

主体的なアプローチをとることで、この三種類の問題のどれでも、影響の輪の中で一歩を踏み出して解決することができる。

自分が直接的にコントロールできる問題は、習慣を改めれば解決できる。
これは明らかに自分の影響の輪の中にある問題であり、これらの問題を解決できれば、第1、第2、第3の習慣の「私的成功」に関わることができる。

間接的にコントロールできる問題は、影響を及ぼす方法を考えることで解決できる。
こちらのほうは、第4、第5、第6の習慣の「公的成功」に結びつく。
私は、影響を及ぼす方法を三〇種類以上は知っているつもりだ。
相手の立場に身を置いて考える、それとは反対に相手とは違う自分の主張をはっきりさせる、あるいは自分が模範となる、説得する。
他にもいろいろある。
しかしほとんどの人は、三つか四つのレパートリーしか持ち合わせていない。
たいていは自分の行動の理を説き、それがうまくいかないとなると、「逃避」か「対立」かのどちらかになる。
これまでやってきて効果のなかった方法を捨て、影響を与える新しい方法を学び受け入れれば、どれだけ解放的な想いになることができるだろうか。

自分ではコントロールできない問題の場合には、その問題に対する態度を根本的に改める必要がある。
どんなに気に入らなくとも、自分の力ではどうにもできない問題なら、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれらを受け入れて生きるすべを身につける。
こうすれば、そのような問題に振り回されることはなくなる。
アルコール依存症の更生団体、アルコホーリクス・アノニマスのメンバーが唱える祈りは、まさに的を射ている――
「主よ、私に与えたまえ。変えるべきことを変える勇気を、変えられないことを受け入れる心の平和を、そしてこれら二つを見分ける賢さを」。

直接的にコントロールできる問題、間接的にコントロールできる問題、コントロールできない問題、どんな問題でも、それを解決する第一歩は私たち自身が踏み出さなくてはならない。
自分の習慣を変える。
影響を及ぼす方法を変える。
コントロールできない問題ならば、自分の態度を変える。
解決策はすべて、自分の影響の輪の中にあるのだ。

「持つ」と「ある」 p105

自分の意識が関心の輪に向いているのか、影響の輪に向いているのかを判断するには、自分の考え方が持つ(have)とある(be)のどちらなのかを考えてみればいい。
関心の輪は、持つという所有の概念であふれている。
「家さえ持てれば幸せになった……」
「もっと部下思いの上司を持っていたら……」
「もっと忍耐強い夫を持っていたら……」
「もっと素直な子どもを持っていたら……」
「学歴さえ持っていたら……」
「自由になる時間を持っていたら……」

これに対して影響の輪は、あることで満ちている。
「私はもっと忍耐強くあるぞ」
「もっと賢くある」
「もっと愛情深くある」

影響の輪にフォーカスすることは、人格を磨くことに他ならない。

問題は自分の外にあると考えるならば、その考えこそが問題である。
そのような考え方は、自分の外にあるものに支配されるのを許していることだ。
だから、変化のパラダイムは「アウトサイド・イン(外から内へ)」になる。
自分が変わるためには、まず外にあるものが変わらなければならないと考えるのだ。

それに対して主体的な人の変化のパラダイムは、「インサイド・アウト(内から外へ)」である。
自分自身が変わる、自分の内面にあるものを変えることで、外にあるものを良くしていくという考え方だ。
主体的な人は、もっと才能豊かになれる、もっと勤勉になれる、もっとクリエイティブになれる、もっと人に対して協力的になれる、というように考える。

旧約聖書に私の好きな物語がある。
この物語が教える価値観は、ユダヤ教とキリスト教の伝統に深く織り込まれている。
一七歳のときに兄弟に奴隷としてエジプトに売られたヨセフという青年の話だ。
ヨセフは、ポテパルというエジプトの有力者の下僕となったわが身を哀れみ、自分を売りとばした兄弟を恨んだに違いないと誰もが思うだろう。
しかしヨセフは主体的な人間だった。
彼は自分の内面に働きかけた。
そしてたちまち、ポテパルの家を切り盛りするようになる。
やがて信頼を得て、ポテパルの財産を管理するまでになった。

ところがある日、ヨセフはまたも窮地に陥る。
自分の良心に沿わない行動を拒否したために、一三年間も投獄されることになったのだ。
それでも彼は主体的であり続けた。
自分の影響の輪(持つことよりあること)に働きかけ、その牢獄をも統率する立場になる。
そしてついに、その影響力はエジプト全土に及び、ファラオに次ぐ実力者となったのである。

この物語は、多くの人にとって劇的なパラダイムシフトになるはずだ。
自分の身の上を他者や周りの状況のせいにするほうがはるかに簡単である。
しかし私たちは自分の行動に責任がある。
前に述べたように、責任(responsibility)とは、反応(response)を選べる能力(ability)である。
自分の人生をコントロールし、「ある」ことに、自分のあり方に意識を向け、働きかけることで、周りの状況に強い影響を与えられるのである。

もし私が結婚生活に問題を抱えているとしたら、妻の欠点をあげつらって何の得があるだろう。
自分には何の責任もないのだと言って、無力な被害者となり、身動きできずにいるだけだ。
こちらから妻に働きかけることもできない。
妻の短所に腹を立て、なじってばかりいたら、私の批判的な態度は、自分の短所を正当化するだけである。
相手に改めてほしい短所より、それを責めてばかりいる私の態度のほうが問題なのだ。
そんな態度でいたら、状況を好転させる力はみるみるしぼんでいく。

私が本当に状況を良くしたいのであれば、自分が直接コントロールできること自分自身に働きかけるしかない。
妻を正そうとするのをやめて、自分の欠点を正す。
最高の夫になり、無条件に妻を愛し、支えることだけを考える。
妻が私の主体的な力を感じとり、同じような反応を選んでくれればうれしいが、妻がそうしようとしまいと、状況を改善するもっとも効果的な手段は、自分自身に、自分が「ある」ことに働きかけることである。

影響の輪の中でできることはいくらでもある。
より良い聴き手であること、もっと愛情深い配偶者であること、もっとより良い生徒であること、もっと協調性があり献身的なスタッフであること。
場合によっては、心から笑って幸福であることがもっとも主体的な態度になる。
不幸になる選択ができるように、幸福な気持ちであることは主体的な選択である。
影響の輪に絶対に入らないものもある。
たとえば天気がそうだ。
しかし主体的な人は心身の両面において自分の天気を持っている。
自分の天気には自分で影響を及ぼすことができる。
私たちは幸せであることができる。
そして、自分にはコントロールできないことは受け入れ、直接的か間接的にコントロールできることに努力を傾けるのだ。

棒の反対側 p108

人生の焦点を影響の輪にすべて移す前に、関心の輪の中にある二つのことについて考える必要がある。
それは結果と過ちである。

私たちには行動を選択する自由がある。
しかしその行動の結果を選択する自由はない。
結果は自然の法則に支配されている。
結果は関心の輪の外にある。
たとえば、走ってくる電車の前に飛び込むのを選択することはできるが、電車にはねられてどういう結果になるかは、自分で決めることはできない。

それと同じように、商取引で不正を働くのを選択することはできる。
この場合、発覚するかどうかで社会的結果は違ってくるだろうが、この選択が人格に及ぼす自然の結果はすでに決まっている。

私たちの行動は、原則に支配されている。
原則に沿って生きればポジティブな結果につながり、原則に反すればネガティブな結果になる。
私たちはどんな状況においても自分の反応を選択できるが、反応を選択することで、その結果も選択しているのである。
「棒の端を持ち上げれば、反対側の端も持ち上がる」のである。

誰でもそれぞれの人生の中で、後になって後悔するような棒を拾ったことがあるはずだ。
その選択は、経験したくなかった結果をもたらしたに違いない。
やり直せるものならば、別の選択をするだろう。
これは「過ち」と呼んでいるが、一方では深い気づきを与えてくれる。

過去の出来事を悔いてばかりいる人にとって、主体的であるために必要なのは、過去の間違いは影響の輪の外にあることに気づくことだ。
過ぎてしまったことを呼び戻すことはできないし、やり直すこともできない。
また、生じた結果をコントロールすることなどできない。

私の息子の一人は、大学でアメリカンフットボールの選手をしていたとき、ミスがあったら必ずリストバンドを引っ張り、気合を入れ直して次のプレーに影響しないようにしていた。

主体的なアプローチは、間違いをすぐに認めて正し、そこから教訓を学ぶ。
だから失敗が成功につながる。
IBMの創立者T・J・ワトソンはかつて、「成功は失敗の彼方にある」と語った。

しかし過ちを認めず、行動を正さず、そこから何も学ぼうとしなければ、失敗はまったく異なる様相を帯びてくる。
過ちをごまかし、正当化し、もっともらしい言い訳をして自分にも他者にも嘘をつくことになる。
一度目の過ちを取り繕うという二度目の過ちは、さらに、一度目の失敗を増幅させ、必要以上に重大なものになり、自分自身にさらに深い傷を負わせることになる。

私たちを深く傷つけるのは他者の行動ではないし、自分の過ちでもない。
重要なのは、過ちを犯したときにどういう反応を選択するかである。
自分を咬んだ毒蛇を追いかけたら、毒を身体中に回してしまうようなものだ。
すぐに毒を取り除くほうがよほど大切なのだ。

過ちを犯したときにどう反応するかが、次の機会に影響する。
過ちをすぐに認めて正すことはとても大切なことであり、悪影響を残さず、より一層の力を得ることができるのである。

決意を守る p110

影響の輪のもっとも中心にあるのは、決意し、約束をしてそれを守る能力である。
自分自身や他者に約束をし、その約束に対して誠実な態度をとることが、私たちの主体性の本質であり、そこにもっとも明確に現れるのである。

それは私たちの成長の本質でもある。
人間だけに授けられた自覚と良心という能力を使えば、自分の弱点、改善すべき点、伸ばすことのできる才能、変えるべき行動、やめなければならないことを意識することができる。
そして、これらの自覚に実際に取り組むためには、やはり想像と意志を働かせ、自分に約束し、目標を立それを必ず守る。
こうして強い人格や人としての強さを築き、人生のすべてをポジティブにするのだ。

ことで、あなたが今すぐにでも自分の人生の主導権を握るための方法を二つ提案しよう。
一つは何かを約束して、それを守ること。
もう一つは、目標を立て、それを達成するために努力することだ。
どんなに小さな約束や目標であっても、それを実行することで、自分の内面に誠実さが芽生え、育ち、自制心を自覚できるようになる。
そして自分自身の人生に対する責任を引き受ける勇気と強さを得られる。
自分に、あるいは他者に約束をし、それを守ることによって、少しずつ、その場の気分よりも自尊心のほうが重みを増していく。

自分自身に約束し、それを守る能力は、人の効果性を高める基本の習慣を身につけるために不可欠である。
知識・スキル・意欲は、私たち自身が直接コントロールできるものである。
バランスを取るために、三つのうちどこからでも取り組むことができる。
そしてこの三つが重なる部分が大きくなっていけば、習慣の土台となっている原則を自分の内面に深く根づかせ、バランスのとれた効果的な生き方ができるような強い人格を築くことができる。

主体性:三〇日間テスト p111

自分の主体性を認識し、育てるために、なにもヴィクトール・フランクルのように過酷な体験をする必要はない。
日常の平凡な出来事の中でも、人生の大きなプレッシャーに主体的に取り組む力をつけることはできる。
どのような約束をして、どのようにそれを守るか、交通渋滞にどう対処するか、怒っている顧客や言うととを聞かない子どもにどのような反応を選択するか、問題をどうとらえるか、何に自分の努力を傾けるか、どのような言葉遣いをするか。

三〇日間、自分の主体性を試すテストに挑戦してみてほしい。
実際にやってみて、どういう結果になるか見るだけでいい。
三〇日間毎日、影響の輪の中のことだけに取り組むのである。
小さな約束をして、それを守る。
裁く人ではなく、光を照らす人になる。
批判するのではなく、模範になる。
問題をつくり出すのではなく、自らが問題を解決する一助となる。

これを夫婦関係において、家庭で、職場でやってみる。
他者の欠点を責めない。
自分の欠点を正当化しない。
間違いを犯したら、すぐに認め、正し、そこから教訓を得る。
間違いを他者のせいにしない。
自分がコントロールできることに取り組む。
自分自身に働きかけ、「ある(be)」ことに取り組む。

他者の弱点や欠点を批判的な目で見るのをやめ、慈しみ深い目で見る。
問題はその人の弱点や欠点ではなく、それに対してあなた自身がどんな反応を選択し、何をすべきかである。
問題は「外」にある、そんな考えが芽生えたら、すぐに摘み取ってほしい。
そう考えることこそが問題なのである。

自分の自由の芽を日々伸ばす努力を続けていると、少しずつ自由が広がっていく。
逆にそうしないと、自由の範囲がだんだんと狭まっていき、自分の人生を主体的に生きるのではなく、「生かされている」だけの人生になる。
親や同僚、社会に押しつけられた脚本に従って生きることになるのだ。

自分の効果性に責任を持つのは自分以外にはいない。
幸せになるのも自分の責任である。
突き詰めて言えば、自分がどういう状況に置かれるかは、自分自身の責任なのである。

サミュエル・ジョンソン(訳注:英国の文学者)の言葉を借りよう。
「満足は心の中に湧き出るものでなければならない。
人間の本質を知らない者は、自分自身の人格以外の何かを変えて幸福を求めようとするが、そのような努力が実を結ぶはずはなく、逃れたいと思う悲しみを大きくするだけである」

自分は責任ある(反応を選択する能力)人間であると自覚することが、自分自身の効果性の土台となる。
そして、これから取り上げる習慣の土台となるのだ。

p118

第2の習慣「終わりを思い描くことから始める」は生活のさまざまな場面やライフステージに当てはまる習慣だが、もっとも基本的なレベルで言うなら、人生におけるすべての行動を測る尺度、基準として、自分の人生の最後を思い描き、それを念頭に置いて今日という一日を始めることである。
そうすれば、あなたにとって本当に大切なことに沿って、今日の生き方を、明日の生き方を、来週の生き方を、来月の生き方を計画することができる。
人生が終わるときをありありと思い描き、意識することによって、あなたにとってもっとも重要な基準に反しない行動をとり、あなたの人生のビジョンを有意義なかたちで実現できるようになる。

終わりを思い描くことから始めるというのは、目的地をはっきりさせてから一歩を踏み出すことである。
目的地がわかれば、現在いる場所のこともわかるから、正しい方向へ進んでいくことができる。

すべてのものは二度つくられる p120

「終わりを思い描くことから始める」習慣は、すべてのものは二度つくられるという原則に基づいている。
すべてのものは、まず頭の中で創造され、次に実際にかたちあるものとして創造される。
第一の創造は知的創造、そして第二の創造は物的創造である。

家を建てることを考えてみよう。
家の設計図が隅々まで決まっていなければ、釘一本すら打つことはできない。
あなたはどんな家を建てたいか頭の中で具体的にイメージするはずだ。
家族を中心にした住まいにしたいなら、家族全員が自然と集まるリビングを設計するだろうし、子どもたちには元気よく外で遊んでほしいなら、中庭をつくり、庭に面した扉はスライド式にしようと思うかもしれない。
ほしい家をはっきりと思い描けるまで、頭の中で創造を続けるだろう。

次に、思い描いた家を設計図にし、建築計画を立てる。
これらの作業が完了してようやく工事が始まる。
そうでなければ、実際に物的につくる第二の創造の段階で次から次へと変更が出て、建設費用が二倍に膨れ上がることにもなりかねない。

「二度測って一度で切る」が大工の鉄則だ。
あなたが隅々まで思い描いていた本当に欲しい家が、第一の創造である設計図に正確に描けているかどうか、よくよく確認しなければならない。
そうして初めて、レンガやモルタルでかたちを創造していくことができる。
毎日建設現場に足を運び、設計図を見て、その日の作業を始める。
終わりを思い描くことから始めなければならないのである。

ビジネスも同じだ。
ビジネスを成功させたいなら、何を達成したいのかを明確にしなければならない。
ターゲットとする市場に投入する製品やサービスを吟味する。
次は、その目的を達成するために必要な資金、研究開発、生産、マーケティング、人事、設備などのリソースを組織する。
最初の段階で終わりをどこまで思い描けるかが、ビジネスの成功と失敗の分かれ道になる。
失敗する企業のほとんどは、資金不足、市場の読み違い、事業計画の甘さなど、第一の創造でつまずいているのである。

同じことが子育てにも言える。
自分に責任を持てる子に育てたいなら、そのことを頭に置いて毎日子どもと接する。
そうすれば、子どもの自制心を損なったり、自尊心を傷つけたりすることはないはずだ。

程度の差こそあれ、この原則は生活のさまざまな場面で働いている。
旅行に出るときには、行先を決めて最適なルートを計画する。
庭をつくるなら、植物をどのように配置するか頭の中で想像を巡らすだろうし、紙にスケッチする人もいるだろう。
スピーチをするなら、事前に原稿を書く。
都市の景観を整備するなら、どんな景観にするか青写真をつくる。
服をつくるときは、針に糸を通す前にデザインは決まっている。

すべてのものは二度つくられるという原則を理解し、第二の創造だけでなく第一の創造にも責任を果たすことによって、私たちは影響の輪の中で行動し、影響の輪を広げていくことができる。
この原則に反して、頭の中で思い描く第一の創造を怠ったなら、影響の輪は縮んでいく。

描くか委ねるか p122

すべてのものは二度つくられる。
これは原則である。
しかし第一の創造が常に意識的に行われているとは限らない。
日々の生活の中で自覚を育て責任を持って第一の創造を行えるようにならなければ、自分の人生の行方を影響の輪の外にある状況や他の人たちに委ねてしまうことになる。
家族や同僚から押しつけられる脚本どおりに生き、他者の思惑に従い、幼い頃に教え込まれた価値観、あるいは訓練や条件づけによってできあがった脚本を演じるという、周りのプレッシャーに反応するだけの生き方になる。

これらの脚本は他者が書いているのであって、原則から生まれたものではない。
私たちの内面の奥深くにある弱さと依存心、愛されたい、どこかに属していたい、ひとかどの人物と見られたいという欲求に負けて、他者が押しつける脚本を受け入れてしまうのだ。

自分で気づいていようといまいと、また、意識的にコントロールしていようといまいと、人生のすべてのことに第一の創造は存在する。
第一の創造によって自分の人生を自分の手で描く。
それができれば、第二の創造で主体的なあなたができる。
しかし第一の創造を他者に委ねてしまったら、あなたは他者によってつくられることになる。

人間だけに授けられている自覚、想像、良心という能力を働かせれば、第一の創造を自分で行い、自分の人生の脚本を自分で書くことができる。
言い換えれば、第1の習慣が言っているのは「あなたは創造主である」であり、第2の習慣は「第一の創造をする」習慣なのである。

リーダーシップとマネジメント:二つの創造 p123

第2の習慣は、自分の人生に自らがリーダーシップを発揮すること、つまりパーソナル・リーダーシップの原則に基づいている。
リーダーシップは第一の創造である。
リーダーシップとマネジメントは違う。
マネジメントは第二の創造であり、これについては第3の習慣で取り上げる。
まずは、リーダーシップがなくてはならない。

マネジメントはボトムライン(最終的な結果)にフォーカスし、目標を達成するための手段を考える。
それに対してリーダーシップはトップライン(目標)にフォーカスし、何を達成したいのかを考える。
ピーター・ドラッカー(訳注:米国の経営学者)とウォーレン・ベニス(訳注:米国の経営学者)の言葉を借りるなら、「マネジメントは正しく行うことであり、リーダーシップは正しいことを行う」となる。
成功の梯子を効率的にうまく登れるようにするのがマネジメントであり、梯子が正しい壁に掛かっているかどうかを判断するのがリーダーシップである。

脚本を書き直す:あなた自身の第一の創造者となる p126

前に述べたように、主体性の土台は「自覚」である。
主体性を広げ、自分を導くリーダーシップを発揮できるようにするのが、想像と良心である。

想像力を働かせると、まだ眠っている自分の潜在能力を頭の中で開花させられる。
良心を働かせれば、普遍の法則や原則を理解し、それらを身につけ実践するための自分自身のガイドラインを引ける。
自覚という土台に想像と良心を乗せれば、自分自身の脚本を書く力が得られるのである。

私たちは他者から与えられた多くの脚本に従って生活しているから、それらの脚本を「書き直す」よりもむしろ「書き起こす」プロセスが必要であり、あるいはすでに持っている基本のパラダイムの一部を根本的に変える、つまりパラダイムシフトしなければならないのだ。
自分の内面にあるパラダイムは不正確だ、あるいは不完全だと気づき、今持っている脚本に効果がないことがわかれば、自分から主体的に書き直すことができるのだ。

p129

自覚を育てていくと、多くの人は自分が手にしている脚本の欠点に気づく。
まったく無意味な習慣、人生における真の価値とは相容れない習慣が深く根づいていたことを思い知らされる。
第2の習慣が教えるのは、そのような脚本を持ち続ける必要はないということだ。
効果的な脚本とは、正しい原則から生まれる自分自身の価値観と一致する脚本である。
私たち人間は、自分自身の想像力と創造力を使って、効果的な生き方の脚本を書くことができる。

p130

しかし私には自覚がある。
想像力と良心もある。
だから、自分の心の奥底の価値観を見つめることができる。
自分の生き方の脚本がその価値観と一致していなければ、それに気づくことができるのだ。
第一の創造を自分が置かれた環境や他者に委ね、自分が主体的になって自分の人生を設計していなかったなら、それを自覚できるのだ。
私は変わることができる。
過去の記憶に頼って生きるのではなく、想像力を働かせて生きることができる。
過去ではなく、自分の無限の可能性を意識して生きることができる。
私は、自分自身の第一の創造者になることができるのだ。

終わりを思い描くことから始めるというのは、親としての役割、その他にも日々の生活でさまざまな役割を果たすときに、自分の価値観を明確にし、方向をはっきりと定めて行動することである。
第一の創造を自分で行う責任があるのであり、行動と態度の源となるパラダイムが自分のもっとも深い価値観と一致し、正しい原則と調和するように、自分で脚本を書き直すことである。

また、その価値観をしっかりと頭に置いて、一日を始めることでもある。
そうすればどんな試練にぶつかっても、どんな問題が起きても、私はその価値観に従って行動することができる。
私は誠実な行動をとることができる。
私は感情に流されず、起こった状況にうろたえることもない。
私の価値観が明確なのだから、本当の意味で主体的で価値観に沿った人間になれるのである。

個人のミッションステートメント p131

終わりを思い描くことから始める習慣を身につけるには、個人のミッションステートメントを書くのがもっとも効果的だ。
ミッションステートメントとは、信条あるいは理念を表明したものである。
個人のミッション・ステートメントには、どのような人間になりたいのか(人格)、何をしたいのか(貢献、功績)、そしてそれらの土台となる価値観と原則を書く。

p134

個人のミッション・ステートメントは、その人の憲法と言える。
合衆国憲法と同じように、それは基本的に不変である。
合衆国憲法の制定からおよそ二〇〇年余の間に、修正・追補はわずか二七箇条(訳注:二〇一三年七月現在)、そのうち修正第一条から第一〇条は制定直後の権利章典である。

合衆国憲法は、国のすべての法律を評価する基準である。
大統領は、憲法を守り、支持することの証として、忠誠の誓いをする。
合衆国市民の資格審査も憲法が基準となる。
南北戦争、ベトナム戦争、あるいはウォーターゲート事件、困難な時期を克服することができたのも、合衆国憲法という土台と中心があったからだ。
それは、あらゆるものの価値を判断し、方向を決めるもっとも重要な尺度なのである。

合衆国憲法は、独立宣言に述べられている正しい原則と自明の真理に基づいて制定されているから、今日に至るも、その重要な機能を失わずにいる。
独立宣言の原則があるからこそ、米国社会が先行きの見えない変革の時期にあっても、憲法はその強さ失わなかったのである。
「わが国の安心は、成文憲法を有していることにある」とトマス・ジェファーソン(訳注:米国第三代大統領)は述べている。

個人のミッション・ステートメントも、正しい原則を土台としていれば、その人にとって揺るぎない基準となる。
その人の憲法となり、人生の重要な決断を下すときの基礎となる。
変化の渦中にあっても、感情に流されずに日々の生活を営むよりどころとなる。
それは、不変の強さを与えてくれるのだ。

内面に変わることのない中心を持っていなければ、人は変化に耐えられない。
自分は何者なのか、何を目指しているのか、何を信じているのかを明確に意識し、それが変わらざるものとして内面にあってこそ、どんな変化にも耐えられるのである。

ミッションステートメントがあれば、変化に適応しながら生活できる。
予断や偏見を持たずに現実を直視できる。
周りの人々や出来事を型にはめずに、現実をありのままに受け止めることができるようになる。

私たち一人ひとりを取り巻く環境は常に変化し、しかも変化のスピードはかつてないほど増す一方だ。
多くの人は変化の速さに圧倒され、とてもついていけないと感じている。
自分の身に良いことが起きるようにとひたすら祈りながら受身の姿勢になっており、適応するのを諦めている。

しかし、そんなふうに簡単に諦める必要はない。
ヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所での過酷な体験から、人間の主体性に気づき、人生において目的を持つこと、人生の意味を見出すことの大切さを身をもって学んだ。
フランクルが後に開発し、教えたロゴセラピー(生きる意味を見出すことによって心の病を癒す心理療法)の本質は、自分の人生は無意味(空虚)だと思うことが心の病の根本にあるとする考え方に成り立った心理療法で、自分にとっての人生の意味、独自のミッション(使命)を発見できるよう手助けし、患者の内面に巣食う虚しさを取り除こうとするものである。

あなたが自分の人生におけるミッションを見出し、意識できれば、あなたの内面に主体性の本質ができる。
人生を方向づけるビジョンと価値観ができ、それに従って長期的・短期的な目標を立てることができる。
個人のミッションステートメントは、正しい原則を土台とした個人の成文憲法である。
この憲法に照らして、自分の時間、才能、労力を効果的に活用できているかどうかを判断することができるのだ。

内面の中心にあるもの p136

個人のミッション・ステートメントを書くときは、まず自分の影響の輪の中心から始めなければならない。
影響の輪の中心にあるのはあなたのもっとも基本的なパラダイムである。
それは世界を見るときのレンズであり、あなたの世界観を形成しているからだ。

私たちは影響の輪の中心で自分のビジョンと価値観に働きかける。
影響の輪の中心で「自覚」を働かせ、自分の内面にある地図を見つめる。
正しい原則を大切にしていれば、自分の地図が実際の場所を正確に表しているか、自分の持っているパラダイムが原則と現実に基づいているか、自覚を働かせて確かめることができる。

影響の輪の中心では、「良心」をコンパスにして、自分の独自の才能や貢献できる分野を発見できる。
ここでは「想像」することもできる。
自分が望む終わりを思い描き、どの方向に、どんな目的で第一歩を踏み出せばよいのかを知り、ミッションステートメントという自分の成文憲法に息を吹き込むことができる。
影響の輪の中心に自分の努力を傾けることによって、輪は広がっていき、大きな成果を達成できる。
影響の輪の中心に努力を集中させることが、PC(成果を生み出す能力)の向上につながり、私たちの生活のあらゆる面の効果性を高める。

自分の人生の中心に置くものが何であれ、それは安定、指針、知恵、力の源になる。

安定(security)とは、あなたの存在価値、アイデンティティ、心のよりどころ、自尊心、人格的な強さ、安心感のことである。

指針(guidance)は、人生の方向性を決める根源である。
あなたの内面にある地図の中心にあり、目の前で起こっていることを解釈するときの基準である。
生活の中でのあらゆる意志決定、行動基準、原則、暗黙の規範である。

知恵(wisdom)は、あなたの人生観、生活を送るうえでのバランス感覚である。
原則をどう実践するか、個々の原則がどのように関連しているのかを理解する知力である。

力(power)は、行動する力、物事を成し遂げる強みと潜在的な能力のことである。
選択し、決断を下すために不可欠なエネルギーである。
深く根づいた習慣を克服し、より良い、より効果的な習慣を身につけるための力も含まれる。

この四つの要素(安定、指針、知恵、力)は、相互に依存し合っている。
心の安定と明確な指針は正しい知恵をもたらし、知恵は火花となって、力を正しい方向に解き放つ。
この四つが一つにまとまり、調和がとれ、個々の要素が互いを高める状態になっていれば、気高く、バランスがとれ、揺るぎない見事な人格ができる。

これら人生を支える四つの要素は、生活のあらゆる面を盤石にする。
第一部で取りあげた成長の連続体と同じように、どの要素も成長の度合いは〇%~一〇〇%までの幅がある。
四つの要素が一番下のレベルだと、自分では何もコントロールできず、他者や状況に依存している状態だ。
レベルが上がっていくにつれ、自分の人生を自分でコントロールできるようになり、自立した強さが生まれ、豊かな相互依存関係の土台が築かれる。

あなたの「安定」は、この連続体のどこかに位置している。
一番下にあるとしたら、あなたの人生はあらゆる変化の波に揺り動かされてしまう。
一番上にあれば、自分の存在価値を自覚し、心が安定している。
「指針」が連続体の一番下にある人は、絶えず変化する社会の鏡を見て、不安定な外的要因に振り回されて生きてい一番上にあれば、自分の内面に確かな方向感覚を持っている。
「知恵」が連続体の一番下にあると、内面の地図は間違いだらけで、すべての原則のピースが歪み、どうやってもかみ合わない状態だ。
一番上に達すれば、すべての原則のピースが納まるべきところに納まり、正しく機能する。
そして「力」もまた、自分からは動かず他者から操られている状態から、他者や状況に左右されず自分の価値観に従って主体的に動ける状態までのどこかに位置にしている。

この四つの要素が成長の連続体のどこに位置するのか、調和やバランスがどれだけとれているのか、人生のあらゆる場面でポジティブな影響を与えるかは、あなたの内面の中心にある基本のパラダイムの働きによって決まるのだ。

さまざまな中心 p139

人は誰でも自分の中心を持っている。
普段はその中心を意識していないし、その中心が人生のすべての側面に大きな影響を及ぼしていることにも気づいていない。

ここで、人が一般的に持つ中心、基本のパラダイムを見てみよう。
内面の中心とパラダイムが四つの要素にどう影響するのか、ひいては、それらの要素によって形成される人生全体にどう影響するのか理解できるだろう。

配偶者中心 p139

結婚はもっとも親密で満足感を得られ、永続的成長をもたらす人間関係である。
だから、夫あるいは妻を中心に置くことは自然で当たり前のことに思えるかもしれない。

ところが、経験や観察によると、そうとも言えないようである。
私は長年、問題を抱えている多くの夫婦の相談にのってきたが、配偶者を人生の中心に置いている人のほぼ全員に織り込まれた課題が見られる。
それは強い依存心だ。

感情的な安定のほとんどを夫婦関係から得ているとしたら、夫婦関係に強く依存していることになる。
相手の気分や感情、行動、自分に対する態度にひどく敏感になる。
あるいは子どもの誕生や親戚との付き合い、経済的な問題、相手の社会的成功など、夫婦関係に入り込んでくる出来事に影響を受けやすくなる。

夫婦としての責任が増し、それに伴ってストレスを感じるようになると、夫も妻も、それぞれの成長過程に持っていた脚本に逆戻りする傾向がある。
それぞれが成長の過程で与えられていた脚本は、相容れないことが多い。
金銭的な問題、子育て、親戚付き合いなど、何かにつけて相手との違いが見えてくる。
深く根づいてい自分の性向に加え、感情的な依存心も絡んで、夫婦関係がぎくしゃくしてくるわけである。

配偶者に依存していると、相手と衝突したときに自分の要求が増幅し、対立の度が増す。
愛情が憎しみに転じ、対立か逃避かの二者択一しかないと思い込み、自分の殻に閉じこもるか、攻撃的な態度に出たり、相手を恨み、苦々しく思い、家庭内で冷戦が繰り広げられることになる。
こうした状態になると、自分がかつて持っていたパラダイムや習慣に逆戻りし、それを根拠に自分の行いを正当化し、相手の行いを責めるのだ。

夫あるいは妻への依存心があまりに強いと、さらなる痛手を負うのを恐れて自分を守ろうとする。
だから嫌味を言ったり、相手の弱みをあげつらったり、批判したりする。
どれもこれも、自分の内面の弱さを押し隠すためだ。
どちらも、相手が先に愛情を示してくれるのを待っている。
しかし二人とも頑として譲らなければ、お互いに失望し、相手に対する自分の批判は正しかったのだと納得してしまう。

配偶者中心の関係は、表面的にはうまくいっているように見えても、安定は幻にすぎない。
指針はその時どきの感情で右に左に揺れ動き、知恵と力も、依存する相手との関係が悪くなれば消え失せてしまう。

仕事中心 p143

仕事中心の人は、自分の健康や人間関係など人生において大切なことを犠牲にしてまで仕事に向かう。
いわゆるワーカホリックだ。
私は医者だ、作家だ、俳優だ、というように、基本的なアイデンティティが職業にある。

彼らのアイデンティティと存在価値は仕事にすっぽりと包みこまれているから、その包みを剥がされるような事態になると、心の安定はあえなく崩れる。
彼らの指針は仕事の有無で変動する。
知恵と力は仕事の中でしか発揮されない。
仕事以外の場ではほとんど役に立たない。

所有物中心 p143

多くの人にとって、何かを所有することは生きる原動力になる。
所有物には、流行の服や住宅、車、ボート、宝飾品などかたちのあるものだけでなく、名声、栄誉、社会的地位など無形のものも含まれる。
ほとんどの人は、自分自身の体験を通して、ものを所有することに汲々として生きるのは愚かなことだとわかっている。
何かを所有してもすぐに失ってしまうのはよくあることだし、あまりにも多くの外的要因に影響を受けるからである。

仮に私が自分の評判や所有物で心の安定を得ているとしたら、それを失いはしまいか、盗まれはしないか、あるいは価値が下がりはしないかと不安で、心の休まる間もないだろう。
私よりも社会的地位の高い人や資産を多く持っている人の前では劣等感を覚え、逆に私よりも社会的地位が低く、資産も持っていない人の前では優越感に浸る。

自尊心は揺らぎっぱなしである。
しっかりとした自我、確固とした自分というものがない。

何よりも自分の資産、地位、評判を守ることに必死だ。
株の暴落で全財産を失い、あるいは仕事の失敗で名声を失い、自ら命を絶った人の例は枚挙にいとまがない。

娯楽中心 p144

所有中心から派生するものとして、楽しみや遊び中心の生き方もよく見受けられる。
今の世の中はすぐに欲求を満たせるし、そうするように仕向けられてもいる。
他人の楽しそうな生活、しゃれた持ち物をテレビや映画でこれでもかというほど見せられ、私たちの期待や欲求は増すばかりである。

しかし、娯楽中心の安楽な日々は目もくらむばかりに描かれても、そのような生活が個人の内面や生産性、人間関係に当然及ぼす影響が正確に描かれることはほとんどない。

適度な娯楽は心身をリラックスさせ、家族で楽しめるし、他の人間関係の潤滑剤にもなる。
しかし遊びそのものから長続きする深い満足感や充実感を得られるわけがない。
娯楽中心の人は、今味わっている楽しさにすぐ飽きてしまい、もっと楽しみたくなる。
欲求はとどまるところを知らないから、次の楽しみはもっと大きく、もっと刺激的にと、より大きな「ハイ」を求める。
ほとんど自己陶酔の状態にあり、人生は今この瞬間が楽しいかどうかだけだと考える。

頻繁に長期休暇をとる、映画を見すぎる、テレビの前から動かない、ゲームにふけるなど、無節制に遊びたいだけ遊んでいたら、人生を無駄にするのは目に見えている。
このような人の潜在能力はいつまでも眠ったままであり、才能は開発されず、頭も心も鈍り、充実感は得られない。
はかなく消える一瞬の楽しさだけを追い求めている人の安定、指針、知恵、力が成長の連続体の一番下にあるのは言うまでもない。

マルコム・マゲリッジ(訳注:米国の作家)は著書『A Twentieth-Century Testimony(二〇世紀の証)』の中で次のように書いている。

最近になって人生を振り返ることがよくあるのだが、今は何の価値も置いていないことが以前は有意義に思え、魅力を感じていたことに衝撃を覚える。
たとえば、あらゆる見せかけの成功。
名を知られ評価されること。
金を稼いだり女性を口説いたりして得る快楽。
まるで悪魔のように世界のあちこちに出没し、虚栄の市で繰り広げられるような体験をすること。

今から考えれば、これらはすべて自己満足以外の何ものでもなく、単なる幻想にすぎないのではないか。
パスカルの言葉を借りれば『土をなめる』ように味気ないものである。

自己中心 p149

現代は自己中心的な生き方が際立っている時代のようである。
自己中心の顕著な現れはわがままである。
わがままは、ほとんどの人の価値観に反する態度だ。
にもかかわらず、個人の成長や自己実現の方法と謳うアプローチには、自己中心的なものが多いことがわかる。

自己という限定された中心からは、安定、指針、知恵、力はほとんど生まれない。
イスラエルの死海のように、自己中心は、受け入れるだけで与えることはしない。
だから自己中心の生き方は淀み沈滞してしまう。

それとは逆に、他者のためになることをし、有意義なかたちで価値を生み出し、社会に貢献し、自分の能力を高めることに視野を広げれば、安定、指針、知恵、力の四要素を劇的に向上させることができる。

原則中心 p155

人生の中心に正しい原則を据えれば、人生を支える四つの要素を伸ばしていく堅固な土台ができる。
その事実がわかっていれば人生は安定する。
ころころと変わる人やものに中心を置いた人生は、ぐらつきやすい。
正しい原則は変わらない。
私たちは原則に依存しているのだ。

原則はどんなものにも影響されない。
突然怒り出すこともなければ、あなたに対する態度が日によって変わることもない。
別れてほしいと言い出すこともないし、あなたの親友と逃げるなどということもない。
私たちの隙につけることもない。
原則は、近道でも、その場しのぎの応急処置でもない。
他者の行動、周りの状況、その時代の流行に頼ることもない。
原則は不変だ。
ここにあったと思ったらいつの間にかなくなっていた、というようなことはない。
火災や地震で壊れることもなければ盗まれることもない。

原則は、人類共通の根本的な真理である。
人生という布地に美しく、強く、正確に織り込まれる糸である。

人間や環境が原則を無視しているように見えても、原則はそうした人間や環境よりも大きなものであることをわかっていれば、そして人間の何千年もの歴史を通して原則が何度も勝利を収めていることを知れば、私たちは大きな安定を得られる。
もっと大切なのは、原則は私たち自身の人生と経験においても有効に働いていることを知れば、大きな安定を得ることができるのである。

もちろん、誰もがすべてのことを知っているわけではない。
本質に対する自覚が欠けていたり、原則と調和しない流行の理論や思想によって、正しい原則の理解が制限されてしまったりする。
しかし、原則に基づいていない上辺だけの理論や思想は、一時的に支持されても、多くのことがそうであったようにすぐに消え去る運命にある。
間違った土台の上に築かれているから、持続するはずがない。

私たち人間には限界がある。
しかし限界を押し広げることはできる。
人間の成長をつかさどる原則を理解すれば、他にも正しい原則を自信を持って探し求め、学ぶことができる。
そして学べば学ぶほど、世界を見るレンズの焦点を合わせられるようになる。
原則は変化しない。
私たち自身が変化し、原則を深く理解できるようになるのだ。

原則中心の生き方から生まれる知恵と指針は、物事の現在、過去、未来を正しくとらえた地図に基づいている。
正しい地図があれば、行きたい場所がはっきりと見え、どうすればそこに行けるのかもわかる。
正しいデータに基づいて決断し、決めたことを確実に有意義に実行できるのである。

原則中心の生き方をする人の力は、個人の自覚の力、知識の力、主体性の力である。
この力は他者の態度や行動に制限されない。
他の人たちなら力を抑え込まれるような状況であっても、影響を受けはしない。

力が及ばないのは、原則そのものがもたらす自然の結果に対してだけである。
正しい原則を知っていれば、誰でもそれに基づいて自分の行動を自由に選べる。
しかし、その行動の結果は選べない。
覚えておいてほしい「棒の端を持ち上げれば、反対側の端も上がる」のだ。

原則には必ず自然の結果がついてくる。
原則と調和して生きていれば、良い結果になる。
原則を無視した生き方をしていたら、悪い結果になる。
しかし、これらの原則は、本人が意識していようといまいと誰にでも関わるものであるから、この限界も万人に平等に働く。
正しい原則を知れば知るほど、賢明に行動する自由の幅が広がるのである。

時代を超えた不変の原則を人生の中心にすると、効果的に生きるための基本的なパラダイムを得ることができる。
それは、他のすべての中心を正すことができる原則中心のパラダイムなのだ。

p163

あなたが原則中心の生き方をしているなら、その場の感情のように、あなたに影響するさまざまな要因から一歩離れ、いくつかの選択肢を客観的に検討するだろう。
仕事上のニーズ、家族のニーズ、その状況に関わっている他のニーズ、さまざまな代替案の可能性、すべてを考え合わせ、全体をバランスよく眺めて最善の解決策を見出す努力をする。

コンサートに行くか、残業するかは、効果的な解決策のほんの一部でしかない。
もし選択肢がこの二つしかないとしたら、どんなに多くの中心を持っていても、同じ選択をするだろう。
しかし、あなたが原則中心のパラダイムに基づいて態度を決めるのであれば、どちらを選んだにしても、その選択の意味合いは大きく違ってくる。

第一に、あなたは他者や状況の影響を受けて決断するのではないということだ。
自分が一番良いと思うことを主体的に選択するのである。
意識的にさまざまな要素を考慮したうえで、意識的に決断を下すのだ。

第二に、長期的な結果を予測できる原則に従って決めるのだから、自分の決断はもっとも効果的だと確信できる。

第三に、あなたが選択したことは、人生においてあなたがもっとも大切にしている価値観をさらに深める利点もある。
職場のライバルに勝ちたいから残業するのと、上司が置かれている状況を考え純粋に会社のためを思って残業するのとでは、天と地ほどの違いがある。
自分で考えて下した決断を実行するのだから、その残業で経験することはあなたの人生全体に質と意味をもたらしてくれる。

第四に、相互依存の人間関係の中で培ってきた強いネットワークにおいて、奥さんや上司とコミュニケーションをとることができることだ。
あなたは自立した人間なのだから、相互依存の関係も効果的に生かせる。
誰かに頼めることは頼み、明日の朝早く出社して残りを仕上げることだってできるだろう。

最後に、あなたは自分の決断に納得している。
どちらを選んだとしても、そのことに意識を集中し満足できはずだ。

原則中心の人は物事を見る目が違うのだ。
違った見方ができるから、考え方も違ってくるし、行動も違う。
揺るぎない不変の中心から生まれる心の安定、指針、知恵、力を持っているから、主体性にあふれきわめて効果的な人生の土台ができるのである。

p165

ヴィクトール・フランクルは、「私たちは人生における使命をつくるのではなく見出すのである」と言っている。
私はこの表現が好きだ。
私たち一人ひとりの内面に良心というモニターがあるのだと思う。
良心があるからこそ、自分がかけがえのない存在であることを自覚し、自分にしかできない貢献を発見できるのだ。
フランクルの言葉を続けよう。
「すべての人が、人生における独自の類い稀な力と使命を持っている……。
その点において、人は誰でもかけがえのない存在であるし、その人生を繰り返すことはできない。
したがって、すべての人の使命、そしてその使命を果たす機会は、一人ひとり独自のものなのである」

このようにして独自性というものを言葉で表現してみると、主体性の大切さと自分の「影響の輪」の中で努力することの根本的な重要さを思い起こすことができるだろう。
「影響の輪」の外に人生の意味を探し求めるのは、主体的な人間としての責任を放棄し、自分の人生の脚本を書くという第一の創造を自分が置かれた環境や他者に任せてしまうことである。

私たち人間が生きる意味は、自分自身の内面から生まれる。
ここでもう一度ヴィクトール・フランクルの言葉を借りよう。
「究極的に、我々が人生の意味を問うのではなくて、我々自身が人生に問われているのだと理解すべきである。
一言で言えば、すべての人は人生に問われている。
自分の人生に答えることで答えを見出し、人生の責任を引き受けることで責任を果たすことしかできない」

p166

私たちは、主体性を持つことによって初めて、どんな人間になりたいのか、人生で何をしたいのかを表現できるようになる。
個人のミッション・ステートメント、自分自身の憲法を書くことができるのだ。

ミッションステートメントは、一晩で書けるものではない。
深く内省し、緻密に分析し、表現を吟味する。
そして何度も書き直して、最終的な文面に仕上げる。
自分の内面の奥底にある価値観と方向性を簡潔に、かつ余すところなく書き上げ、心から納得できるまでには、数週間、ことによれば数ヵ月かかるかもしれない。
完成してからも定期的に見直し、状況の変化によって、物事に対する理解や洞察も深まっていくから、細かな修正を加えたくなるだろう。

しかし基本的には、あなたのミッションステートメントはあなたの憲法であり、あなたのビジョンと価値観を明確に表現したものである。
あなたの人生におけるあらゆる物事を測る基準となる。

私も自分のミッションステートメントを定期的に見直している。
最近も見直しをした。
自転車で海岸に行き、一人で砂浜に座って、手帳を取り出し、書き直してみた。
数時間かかったけれども、明確な意識と内面の統一感、さらなる決意、高揚感、そして自由を感じた。

このプロセスは、書き上がったものと同じくらいに重要だと思う。
ミッションステートメントを書く、あるいは見直すプロセスの中で、あなたは自分にとっての優先事項を深く、丹念に考え、自分の行動を自分の信念に照らし合わせることになる。
それをするに従って、あなたの周りの人たちは、もはや自分の身に起こることに影響されない主体的な人間になっていくあなたを感じとるだろう。
あなたは、自分がしようと思うことに熱意を持って取り組める使命感を得るのである。

p173

チャールズ・ガーフィールド博士は、スポーツやビジネスの世界のトップパフォーマーたちを詳しく調べている。
NASA(米国航空宇宙局)での仕事に携わっていたとき、宇宙飛行士たちが実際に宇宙に行く前に、地球上のシミュレーション装置であらゆる状況を想定して訓練を繰り返しているのを見て、最高度のパフォーマンスを発揮できる能力に関心を持った。
博士の専門は数学だったが、このシミュレーションの効果を研究しようと、大学に入り直して心理学の博士号を取り、トップパフォーマーの特徴を研究し始めたのである。

博士の研究の結果、世界のトップアスリート、そしてスポーツ以外の分野のトップパフォーマーのほとんどが、イメージトレーニングをしていることがわかった。
実際にやってみる前に、それを頭の中で見て、感じて、経験しているのである。
彼らはまさに、「終わりを思い描くことから始める」習慣を身につけていたのだ。

あなたも、この方法を人生のあらゆる場面で使うことができる。
舞台に立つ前に、セールス・プレゼンテーションの前に、誰かと厳しい交渉をする前に、あるいは日常生活の中で何か目標を立てて実行に移す前に、その場面をありありと思い描く。
それを何度も、しつこいくらいに繰り返す。
緊張せず落ち着いていられる「安心領域」を想像の世界の中で広げておく。
そうすれば、実際にその場面になったとき、異和感なく平常心でいられる。

p174

イメージ化と自己宣誓のプロセスを扱う本や教材もたくさんある。
最近では、サブリミナル・プログラミング、神経言語プログラミング、新しいタイプのリラクゼーション、セルフトークのプロセスなどいろいろな手法が開発されている。
どれも第一の創造の基本原則を説明し、発展させ、さまざまに組み合わせている。

私は、膨大な量の成功に関する文献を調べていたとき、このテーマを取り上げている何百冊もの本に目を通した。
大げさに書き立てたり、科学的根拠よりも特定の事例に基づく本も中にはあるが、ほとんどの本の内容は基本的には健全であり、その多くは個人的な聖書研究を基にしていると思われる。

個人の効果的なパーソナル・リーダーシップにおいて、イメージ化と宣誓の技術は、人生の中心となる目的と原則を通して熟考された土台から自然に生まれてくる。
それは脚本とプログラムを書き直すときに絶大な効果を発揮し、目的と原則を自分の心と頭に深く根づかせることができる。
古くから続いている歴史ある宗教はどれも、その中心にあるのは、言葉は違っていても同じ原則だと思う。
瞑想、祈り、誓約、儀式、聖典研究、共感、思いやりなど、良心と想像力をさまざまなかたちで用いる原則、あるいは実践である。

だが世に出回っているイメージトレーニングのテクニックが人格と原則を無視した、個性主義の一部であったら、使い方を間違えたり乱用につながり、自己中心など原則以外の中心を助長することになりかねない。

自己宣誓とイメージ化は一種のプログラミングにすぎず、自分の中心と相容れないプログラミングや、金儲けや利己主義など正しい原則とはまるで無縁のプログラミングに身を委ねてしまってはいけない。

物を手に入れることや自分が得することしか考えない人が、想像力を使って束の間の成功を得ることもあるだろう。
しかし、想像力は良心を伴ったときにこそ高い次元で効果を生むのであって、自らの目的に適い、相互依存の現実を支配する正しい原則に従うことで、自分を超えて広い社会に貢献できる人生を送れると私は確信する。

p177

自分の人生での大切な役割を念頭に置いてミッションを書くと、生活にバランスと調和が生まれる。
それぞれの役割をいつでも明確に意識することができる。
ミッション・ステートメントを折に触れて目にすれば、一つの役割だけに注意が向いていないか、同じように大切な役割、あるいはもっと大切な役割をないがしろにしていないか、確かめることができるのだ。

自分の役割を全部書き出したら、次はそれぞれの役割で達成したい長期的な目標を立ててみる。
ここでまた右脳の出番だ。
想像力と創造力、良心、インスピレーションを働かせよう。
正しい原則を土台にしたミッション・ステートメントの延長線上に目標があるのなら、何となく立てる目標とは根本的に違うものになるはずだ。
正しい原則や自然の法則と調和しているのだから、それらが目標達成の力を与えてくれる。
この目標は誰かから借りてきたのではない。
あなただけの目標である。
あなたの深い価値観、独自の才能、使命感を反映した目標である。
あなたが自分の人生で選んだ役割から芽生えた目標なのである。

効果的な目標は、行為よりも結果に重点を置く。
行きたい場所をはっきりと示し、そこにたどり着くまでの間、自分の現在位置を知る基準になる。
たどり着くための方法と手段を教えてくれるし、たどり着いたら、そのことを教えてくれる。
あなたの努力とエネルギーを一つにまとめる。
目標があればこそ、自分のやることに意味と目的ができる。
そしてやがて目標に従って日常の生活を送れるようになったら、あなたは主体的な人間であり、自分の人生の責任を引き受け、人生のミッションステートメントどおりの生き方が日々できるようになるはずだ。

役割と目標は、人生のミッション・ステートメントに枠組みや指針を与える。
あなたがまだミッション・ステートメントを持っていないなら、これを機会に今から取り組んでみよう。
あなたの人生で果たすべき役割を明確にし、それぞれの役割で達成したいと思う結果をいくつか書いておくだけでも、人生全体を俯瞰でき、人生の方向性が見えてくるはずだ。

組織のミッション・ステートメント p181

ミッションステートメントは、組織の成功にとっても重要なものになる。
私はこれまで多くの組織のコンサルティングをしてきたが、どの組織にも、効果的なミッション・ステートメントを作成するよう強く勧めている。
組織のミッション・ステートメントが効果的であるためには、その組織の内側から生まれたものでなければならない。
経営幹部だけでなく、組織の全員が意味のあるかたちで作成のプロセスに参加する。
繰り返すが、組織のミッション・ステートメントもまた、できあがったものと同じようにプロセスが重要であり、全員が参加することが、ミッション・ステートメントを実践できるかどうかの鍵を握っている。

p187

最初に泊まったホテルの支配人にも言ったように、立派なミッション・ステートメントを持っている組織ならいくらでもある。
しかしそこで働く人たち全員で作成したミッションステートメントと、高級な応接セットに座って数人の幹部が作成したミッションステートメントとでは、その効果に雲泥の差がある。

家族も含めて、あらゆる組織に共通する根本的な問題の一つは、自分の働き方、あるいは生き方を他の人から決められるとしたら、本気で取り組むのは無理だということだ。

私は、企業のコンサルティングをするたびに、自分の会社の目標とはまるで異なる個人の目標を立てて働いている人を大勢見かける。
企業が掲げている価値体系と給与体系がまったくかみ合っていない例も多い。

ミッションステートメントのようなものをすでに持っている企業のコンサルティングをするとき、私はまず「ミッションステートメントがあることを知っている社員は何人くらいですか?
内容を知っている人はどのくらいいるのでしょう?
作成に関わったのは何人ですか?
心から受け入れて意志決定の基準として使っている人はどれくらいいますか?」と尋ねることにしている。

自分が参加していないことに打ち込む決意をする人などいない。
参加なければ決意なしと紙に書いて、星印をつけ、丸で囲み、アンダーラインを引いてほしい。
関わらなければ、決意はできないのだ。

初期の段階にいる人、たとえば入社したばかりの新人や家族の中の幼い子どもが相手なら、目標を与えても素直に受け入れるものである。
信頼関係ができ、こちらの指導が適切ならば、しばらくはうまくいくだろう。

しかし、新入社員が会社の仕事に慣れてくれば、あるいは子どもがだんだんと成長し自分なりの生き方ができてくると、言われるだけでなく、自分のほうからも意見を言いたいと思うようになる。
その機会が持てなければ、本気で身を入れられるわけがない。
問題が生じたときと同じレベルでは解決できない、深刻なやる気の問題を抱えることになる。

だから、組織のミッションステートメントをつくるときは、時間、忍耐、参加、能力、共感が必要とされる。
これも応急処置で何とかなるものではない。
全員が共有するビジョンと価値観に合わせて会社のシステムや組織構造、経営スタイルを整えるには、時間、正直、誠実、勇気、正しい原則が必要とされる。
しかし、正しい原則に基づいているミッション・ステートメントなら、必ず効果を発揮する。

組織の全員が本心から共感できるビジョンと価値観を反映したミッションステートメントは、組織の結束と決意を生み出す。
そのようなミッションステートメントを持つ組織では、一人ひとりが自分の役割に打ち込める。
一人ひとりの心と頭の中に、自分の行動を導く基準、ガイドラインができているから、他人からの管理、指示も要らなくなる。
アメとムチを使わなくとも、全員が自発的に行動する。
組織がもっとも大切にする不変の中心を、全員が自分のものとしているからである。

p192

第3の習慣は、第1の習慣と第2の習慣で身につけたことを実践し、個人的な結果を得る習慣である。

第1の習慣が言わんとしているのは、人間だけに授けられた四つの能力(想像・良心・意志・自覚)に従って、「あなたは自分の人生の創造主である。あなたには責任がある」ということである。
第1の習慣を身につければ、「子どものときに与えられたプログラムは間違っている。社会通念の鏡に映るプログラムも間違っている。このような効果のない脚本は好まない。自分で書き直すことができる」と言えるようになる。

第2の習慣は、第一の創造、すなわち知的創造を行う習慣である。
この習慣の土台となっているのは、想像と良心だ。
想像は、頭の中で思い描く能力、あなたの内面に潜在する能力を見抜き、目の前にないものを頭の中に描写する能力である。
良心は、自分にしかできないことを発見し、それを自ら喜んで成し遂げるための個人的、道徳的かつ倫理的なガイドラインを定める能力である。
第2の習慣は、あなたの内面の奥深くにある基本のパラダイムと価値観を見つめ、自分の将来のビジョンに触れることである。

そして第3の習慣は、第二の創造、すなわち知的創造で思い描いたビジョンをかたちあるものにする物的創造の習慣である。
第1の習慣と第2の習慣を日々の生活で実践する習慣であり、この最初の二つの習慣から自然と導き出される結果である。
原則中心の生き方をするために意志を発揮し、一日の始まりから終わりまで、その瞬間瞬間たゆまず実行していく習慣である。

第3の習慣を身につけるには、第1と第2の習慣の土台が不可欠である。
自分の主体性を意識し、それを育てていかなければ、原則中心の生き方はできない。
自分のパラダイムを自覚し、それをどのように変えれば原則に合わせられるかを理解して初めて、原則中心の人生を生きられる。
あなた独特の貢献をありありと思い描フォーカスすることができなければ、原則中心の人間にはなれない。

しかし、これらの土台を築けたなら、自分自身を効果的にマネジメントする第3の習慣を実践することによって、あなたは毎日、原則中心の生き方ができるようになる。

マネジメントとリーダーシップはまるで違うものであることを思い出してほしい。
リーダーシップは基本的には右脳の精力的な活動である。
技術というより芸術であり、哲学を土台としたものである。
あなたが自分の人生でリーダーシップを発揮するには、自分の人生はどうあるべきか、自分自身に向かって究極の問いかけをしなければならない。

その問いかけを真正面からとらえ、真剣に考え、答えを見出したなら、次は、その答えにふさわしい生き方ができるように、自分自身を効果的にマネジメントすることが必要なのだ。
もちろん、「正しいジャングル」にいなければ、どんなにマネジメントがうまくできても何の意味もない。
しかし「正しいジャングル」にいれば、マネジメントの能力の違いで大きな差がつく。
マネジメント能力次第で第二の創造の質、現実に生み出されるものの質が決まる。
うまくマネジメントできなければ、第二の創造そのものができなくなることもある。
マネジメントとは、左脳にある効果的な自己管理の側面を使い、作業を細かい部分に分け、分析し、順序だて、具体的に応用し、時系列で物事を取り扱っていく。
私自身の効果性を最大化するために右脳でリーダーシップ、左脳でマネジメントと考えている。

意志の力 p194

セルフ・マネジメントに真の効果性をもたらすには、人間だけに授けられた四つの能力の四番目、意志を活用することだ。
意志とは、決断し選択する能力であり、決めたことに従って行動する能力である。
他者や周りの状況の影響に動かされるのではなく、自分の考えで行動し、自覚、想像、良心を使って書いたプログラムを実行する能力である。

人の意志の力は驚くべきものである。
人間は、信じられない困難も意志の力で乗り越えられる。
世界中に大勢いるヘレン・ケラーのような人たちは、意志の力の驚くべき価値を証明している。

しかし、効果的なセルフ・マネジメントを行うということは、一念発起してとてつもない努力をし、生涯に一度だけ何か華やかで大きなことを成し遂げればよいというものではない。
そのような成功は長続きしない。
日々のあらゆる決断と意志によって、自分をマネジメントする力が徐々についてくるのである。

毎日の生活の中で意志をどのくらい発揮できているかは、誠実さの度合いで測ることができる。
誠実さとは、基本的には自分自身にどれだけ価値を置いているかということだ。
自分に約束し、それを守る能力、「言行一致」のことである。
自分を大切にし、自分を裏切らないことである。
誠実さは人格主義の根本をなし、主体的な人間として成長するために欠かせないものである。

効果的なマネジメントとは、最優先事項を優先することである。
リーダーシップの仕事は、「優先すべきこと」は何かを決めることであり、マネジメントは、その大切にすべきことを日々の生活の中で優先して行えるようにすることだ。
自分を律して実行することがマネジメントである。

規律とは、自分を律することだ。
自分を律するというのは、哲学に従い、正しい原則、自分の価値観、もっとも重要な目的、より上位の目標に従って、あるいはその目標を象徴する人物を手本にして行動することだ。

要するに、自分を効果的にマネジメントできている人は、自分の内面にある規律に従い、意志を働かせて行動している。
内面の奥深くにある価値観とその源に従い、自分を律している。
感情や衝動、気分に流されず、自分の価値観を優先できる意志と誠実さを持っているのである。

E・N・グレーの『The Common Denominator of Success(成功の共通点)』は、私の好きな本の一つである。
彼は成功者に共通する要素の探究をライフワークにし、努力や幸運、人間関係のテクニックは重要ではあるが決定的な成功要因ではなく、これらの要因を超越する一つの要因があると結論づけている。
それはまさに、この第3の習慣「最優先事項を優先する」のエッセンスである。
グレーは次のように書いている。

「成功者たちの共通点は、成功していない人たちの嫌がることを実行に移す習慣を身につけているということである。
彼らにしてみても、必ずしも好きでそれを行なっているわけではないが、自らの嫌だという感情をその目的意識の強さに服従させているのだ」

感情を抑え、最優先事項を優先するには、目的意識と使命感が要る。
第2の習慣で身につけた明確な方向感覚と価値観が要る。
そして、優先する必要のない物事に「ノー」とはっきり言えるためには、あなたの中に燃えるような「イエス」がなければならない。
何よりも大切にすべきことを自覚していなければならないのだ。
さらに、やりたくないと思っても実行する意志の力、その時どきの衝動や欲望ではなく、自分の価値観に従って行動する力も必要だ。
それは、あなたが主体的な人間として行う第一の創造を誠実に実行し、かたちにしていく力なのである。

時間管理の四つの世代 p197

第3の習慣では、人生と時間管理に関わる問題を多く取り上げる。
私自身これまで長い間時間管理という興味深いテーマを探究してきたが、時間管理の本質を一言で言うなら「優先順位をつけ、それを実行する」に尽きると思う。
そしてこの一言は、時間管理のこれまで三つの世代の進化過程を言い表している。
時間管理には多種多様なアプローチやツールがあるが、そのどれもが、優先すべきことをどのようにして実行するかをポイントにしているのである。

パーソナル・マネジメントの理論も、他の多くの分野と同じようなパターンをたどって進化してきた。
画期的な進歩(アルビン・トフラーの言葉を借りれば「波」)は順々に起こり、そのたびに前の進歩に新しい重要な要素が加わるというパターンである。
社会の進歩を例にとるなら、まず農業革命があり、その次に産業革命が起こり、そして情報革命が続いた。
一つの波が押し寄せるたびに、社会も人間も大きく進歩してきたのである。

時間管理の分野も同じである。
一つの世代の上に次の世代が重なり、そのたびに人間が自分の生活を管理できる範囲が広がってきた。

時間管理の第一の波もしくは世代は、メモやチェックリストが特徴だ。
私たちの時間と労力を必要とする多くの物事を確認し、忘れずにいるための工夫だ。

第二世代は、予定表やカレンダーが特徴だ。
この波は先を見て、将来の出来事や活動の予定を立てようという試みである。

時間管理の第三世代が今の世代である。
前の二つの世代に「優先順位づけ」と「価値観の明確化」が加わっている。
明確にした自分の価値観に照らして活動の重要度を測り、優先順位を決めようという考え方である。
さらにこの第三世代は、目標設定も重要視する。
長期、中期、短期の目標を具体的に立て、自分の価値観に照らし合わせ、その目標の達成に時間と労力をかける。
もっとも重要であると判断した目標や仕事を達成するために、毎日の具体的なスケジュールを計画することも第三世代の考え方だ。

第三世代の波は時間管理の分野を飛躍的に進歩させた。
しかし、効率的なスケジュールを組んで時間を管理する方法が、むしろ非生産的になっていることに私たちは気づき始めている。
効率性だけを追求していたら、豊かな人間関係を築いたり、人間本来のニーズを満たしたり、毎日の生活の中で自然と生まれる豊かな時間を素直に楽しんだりする機会が奪われてしまうのだ。

その結果、多くの人は、一分の隙もないスケジュールに縛られるような時間管理のツールやシステムに嫌気がさしてしまった。
そして彼らは、人間関係や自分の自然なニーズ、充実感の得られる人生を選ぼうと、第三世代の長所も短所も全部放り出し、第一世代か第二世代の時間管理テクニックに逆戻りしたのである。

しかし今、これまでの三つの世代とは根本的に異なる第四世代が生まれている。
この新しい波は、「時間管「理」という言葉そのものが間違っているという考え方だ。
問題は時間を管理することではなく、自分自身を管理することだからだ。
人が満足できるのは、自分が期待したことを、期待どおりに達成できたときである。
そして、何を期待するかも満足感を左右する。
その期待(満足)は、影響の輪の中にあるのだ。

第四世代は、モノや時間には重点を置かない。
この新しい波が目指すのは、人間関係を維持し、強くしながら、結果を出すことである。
簡単に言えば、P/PCバランスを維持することである。

p217

週単位で計画を立てると、一日単位で計画するよりもはるかにバランスがよくなり、流れもスムーズになる。
人間の社会はおおむね、一週間は一まとまりの完結した時間として認識されているようである。
会社や学校など社会の多くの活動が一週間を単位にしており、一週間の何日か集中して活動したら休むといリズムで社会は動いている。
ユダヤ・キリスト教文化では七日のうち一日を安息日とし、自分を高めるための日と理解している。

ほとんどの人は週単位でものを考えている。
だが第三世代のツールはたいてい一日単位で区切られている。
これでは毎日の活動の優先順位はつけられるかもしれないが、基本的には緊急の用事と雑事の処理のスケジュールを立てているにすぎない。
大切なことは、スケジュールに優先順位をつけることではなく、優先すべきことをスケジュールにすることなのである。
そのためには一週間単位で計画するやり方が最適である。

p225

とはいえ、人間は全能ではないのだから、本当に優先すべきことがすべて事前にわかるとは限らない。
どんなに吟味して一週間の計画を立てていても、正しい原則に照らしてみて、スケジュールを曲げてでも優先しなければならないさらに価値あることが発生することはある。
原則中心の生き方をしていれば、そのような突発的な事態になっても、心穏やかに、スケジュールを変更できるのである。

p228

繰り返して言うが、人との関係を効率で考えることはできない。
モノは効率で考えられるが、人に対しては効果の観点から考えなければならない。
私自身のこれまでの経験からしても、自分と違う意見の人に効率的に意見の違いを説明しようとしてうまくいったためしはない。
わが子や会社の社員が何か問題を抱えたとき、一〇分間の「質の高い時間」を使って解決しようとしたこともあったが、そのような効率優先の態度は新たな問題を生むだけで、根本的な問題の解決にはならないことも思い知らされた。

多くの親は、とりわけ小さな子どものいる母親は、やりたいことがいろいろとあるのに、一日中子どもに手がかかり、何もできないと感じてイライラを募らせることがよくある。
だが思い出してほしい。
イライラするのは、期待どおりにいかないからであり、そして期待というのはたいてい社会通念の鏡に映っていることであって、自分自身の価値観や優先するべきことから生まれるものではない。

デリゲーション:PとPCを高めるために p231

すべてのことを達成するには、自分の時間を使って実行するか、人に任せるか、どちらかしかない。
ここで大事なのは、自分の時間を使うときは効率性を考え、人に任せるときは効果性を考えることである。

人に頼むとかえって時間がかかるし労力も使うからと、デリゲーションを嫌がる人は多い。
自分でやったほうがうまくできるからと思うかもしれないが、人に効果的に任せることができれば、自分の能力を何倍にも生かせるのである。

確かな技術や知識を持っている人に仕事を任せれば、その間にあなたは自分にとってもっと重要な活動にエネルギーを注ぐことができる。
個人であれ組織であれ、デリゲーションこそが成長をもたらすと言っていい。
故J・C・ペニー(訳注:アメリカの実業家)は、「生涯で最良の英断は、自分一人の力ではもうすべてを切り盛りすることはできないと悟ったときに、手放したことだ」と言っている。
彼のこの決断があったからこそ、J・C・ペニーは何百もの店舗と何千人ものスタッフを擁して展開する大手デパートチェーンに成長したのである。

デリゲーションは他者が関わることだから、「公的成功」の分野に入る。
だから第4の習慣で取り上げるべきテーマだが、この章ではパーソナル・マネジメントの原則に焦点を当てているので、パーソナル・マネジメントのスキルという観点から、ここで取り上げようと思う。
デリゲーションできる能力の有無が、マネージャーとして働くか、もしくは一スタッフとして働くかを区別する決定的な違いなのである。

一スタッフは、望む結果(黄金の卵)を得るために必要なことは何でも自分の手で行う。
皿を洗う親も、図面を引く建築家も、手紙を書く秘書も皆、一スタッフとして仕事しているわけである。

しかし、人やシステムを使って生産体制をつくり黄金の卵を生産する人は、相互依存の意味でマネージャーということになる。
親が皿洗いを子どもに任せデリゲーションの支点出力支点→入力スタッフれば、親はマネージャーであり、何人もの建築士のチームをとりまとめてプロジェクトを進める建築家はマネージャーである。
他の秘書や事務職員を監督する立場の秘書もマネージャーである。

スタッフは、効率を落とさずに仕事を続けられると仮定して、一時間働いて一単位の結果を生産する。

それに対してマネージャーは、うまくデリゲーションできれば、同じ一時間の労力で一〇単位、五〇単位、あるいは一〇〇単位の結果を生産できる。

マネジメントとは基本的に、テコの支点をずらすことだ。
つまり、効果的なマネジメントの鍵を握っているのは、デリゲーションなのである。

使い走りのデリゲーション p233

デリゲーションには基本的に二種類ある。
使い走りのデリゲーションと全面的なデリゲーションである。
使い走りのデリゲーションは、「これを取ってこい、あれを取ってこい、これをやれ、あれもしろ、終わったら私を呼べ」というやり方だ。
スタッフのほとんどは、使い走りのデリゲーションのパラダイムで仕事をしている。
ジャングルで手斧を使い、下草を刈っていた男たちのたとえ話を思い出してほしい。
彼らはスタッフである。
袖をまくりあげ、せっせと作業を進める。
彼らのようなタイプは、たとえマネージャーに昇進しても、スタッフのパラダイムから抜け出せず、使い走りのデリゲーションしかできない。
他者が結果に対して決意できるような全面的なデリゲーションの仕方を知らないからだ。
仕事のやり方をいちいち指定して管理しようとするから、結果に対する責任も自分で全部背負うことになる。

全面的なデリゲーション p235

全面的なデリゲーションは、手段ではなく結果を重視する。
手段は自由に選ばせ、結果に責任を持たせる。
初めは時間がかかるが、その時間は決して無駄にはならない。
全面的なデリゲーションを続けていれば、テコの支点が向こうにずれていく。
テコの作用が増し、大きな力になる。

全面的なデリゲーションを行うには、次の五つを明確にし、何が期待されているのかをお互いに理解し、納得しなければならない。

・望む成果――何を達成しなければならないのかをお互いにはっきりと理解する。
何を達成するかであって、どうやって達成するかではない。
手段ではなく結果について、時間をかけて納得するまで話し合う。
望む結果をお互いに思い描く。
相手がその成果をイメージし、明確にできるように、成果がどのように見えるか具体的な文章で表現し、いつまでに成し遂げる必要があるのか期限も決めておく。

・ガイドライン――守るべき基準やルールがあれば、明確にしておく。
手段を細かく指示することにならないように、ガイドラインはできるだけ少ないほうがよいが、絶対に守らなければならない制約があるならば伝える。
目的を達成できれば何をしてもいいのだと誤解させてしまったら、長年の決まりごとまで破ってしまうことにもなりかねない。
そうなってしまったら、相手は率先力を失い、「どうしたらいいのか指示してください。そのとおりにやりますから」と使い走りのマインドに戻ってしまう。

失敗する可能性の高いところがわかっているなら、最初に教えておく。
どこでつまずきやすいか、どこに落とし穴があるか、率直に全部話す。
車輪を毎日ゼロからつくり直すようなことは避けたい。
これまで自分や他の人間がした失敗を無駄にせず、学習できるようにすることが大事だ。
失敗しそうなところ、してはいけないことを指摘するのであって、すべきことを指示するのは控える。
任せる相手に責任を持って最後までやらせたいなら、ガイドラインの範囲内で必要なことを自由にやらせることが大切だ。

・リソース――望む結果を達成するために使える人員、資金、技術、組織、リソースを明確にしておく。

・アカウンタビリティ――成果を評価する基準を定め、仕事の進捗の報告を求める時期、評価を行う時期を具体的に決めておく。

・評価の結果――評価の結果として、良いことも悪いことも具体的に話しておく。
金銭的、精神的報酬が期待できるのか、仕事が拡大するチャンスがあるのか、組織全体のミッションに影響する結果なのかどうかを明確にする。

p243

信頼ほど人にやる気を起こさせるものはない。
信頼されていると思えば、人は自分の最高の力を発揮する。
だが、それには時間と忍耐が要る。
信頼に応えられるレベルまで能力を引き上げる訓練も必要だ。

全面的なデリゲーションが正しくできれば、任せたほうにも任されたほうにも収穫があるし、はるかに少ない時間ではるかに多くのことができる。
家族の中でも、まずは一対一で仕事を教え、うまく分担して任せることができれば、一人一日一時間くらいの労力ですべての家事を片づけられるはずだ。
しかしそうするには、自分で行うだけでなく、マネジメントとして内面の能力を身につけなければならない。
デリゲーションにおいては、効率ではなく効果を考えなくてはならないのだ。

たしかに、部屋の掃除はあなたのほうが子どもよりもうまいし、早くできる。
しかし大切なのは、子どもが自分から部屋を掃除するようになることだ。
その力を引き出すには時間が要る。
掃除の仕方を教えなければならない。
しかしここでどんなに時間がかかっても、先々ではどれほど価値あることだろう!
長い目でみれば、非常に大きな助けになることだろう。

このようなアプローチは、デリゲーションの完全に新しいパラダイムとなる。
人間関係の本質を変えるほどのパラダイムシフトになる。
任された人は自分が自分のボスになり、お互いに合意した「望む成果」を達成することを決意し、良心に従って行動する。
それだけでなく、正しい原則に調和しながら、成果を出すために必要なことをいろいろと工夫する創造力も引き出される。

全面的なデリゲーションの根底には原則が存在する。
だから、誰にでも、どんな状況にも応用できる。
任せる相手の能力が未熟なら、望む結果のレベルを下げ、ガイドラインを増やし、リソースを多めに用意し、進捗の報告を受ける機会を頻繁に設け、結果がすぐにわかるようにする。
能力の高い者であれば、より高い能力が試されるレベルにし、ガイドラインを少なくし、報告の頻度も減らしてなるべく干渉しないようにし、数値の基準よりも出来栄えの基準を増やせばよい。

効果的なデリゲーションは、恐らく効果的なマネジメントのもっとも適切な先行指標となる。
それは、個人および組織の成長に欠かすことのできない基礎となるものである。

相互依存のパラダイム p253

信頼なくして友情はない。誠実さなくして信頼はない。
――サミュエル・ジョンソン

ここからは公的成功の領域に入っていく。
だがその前に、本当の意味での「自立」という土台があって初めて効果的な「相互依存」が築けるということを、心に留めておいてほしい。
私的成功は、公的成功に先立つ。
代数を学んでからでなければ、微積分は理解できないのと同じである。

ここまでの道を振り返り、最後に到達したい場所に続く道のりのどこまで進んだのか、どのあたりにいるのかを確かめてみれば、今ここに来るまでは、この道しかなかったことがはっきりとわかるだろう。
これ以外の道はないし、近道もない。
今のこの地点にパラシュートで舞い降りることもできないのだ。
前方に広がる風景を見れば、近道をしようとして無残にも壊れた人間関係の破片が散乱している。
自分の内面を成熟させる努力をせず、人格を磨かず、手っ取り早く人間関係を築こうとした人たちの失敗の跡である。

実りある人間関係をそんなに安易に築けるわけがない。
一歩一歩進んでいく以外に方法はないのだ。
まずは自分に打ち克って成功していなければ、他者との関係において、公的成功を収めることはできない。

p255

私たちがこれから取り組むのは、これまでの考え方を根底からくつがえすパラダイムシフトである。
自分自身をさておいて個性主義のテクニックやスキルで人間関係を円滑にすることだけに汲々としていたら、もっとも大切な人格という土台を崩してしまいかねない。
根のない木に実はつかない。
これは原則であり、ものには順序がある。
私的成功は、公的成功に先立つ。
自分を律し、自制することが、他者との良好な関係を築く土台になる。

自分を好きにならなくては他者を好きにはなれない、と言う人もいる。
たしかに一理あると思う。
しかしまず自分自身を知り、自分を律し、コントロールできなければ、自分を好きになることはとても難しい。
好きになれたとしても、短期間で消えてしまう上辺だけの思い込みに過ぎない。

自分をコントロールできている人、本当の意味で自立している人だけが、真の自尊心を持つことができる。
それは、第1、第2、第3の習慣の領域である。
相互依存は、自立を達成した人間にしかできない選択である。
本当の意味で自立した人間になる努力をせずに、人間関係のスキルだけを磨くのは愚かなことだ。
そういったスキルを使い試してみることはできるだろう。
環境や条件が良ければ、ある程度はうまくいくかもしれない。
しかし、困難なことは必ず起こる。
そうしたとき、すべての土台が崩れてしまい、保つことができなくなるだろう。

人間関係を築くときにもっとも大切なのは、あなたが何を言うか、どう行動するかではない。
あなたがどういう人間かということだ。
言葉や行動が、あなたの内面の中心(人格主義)からではなく、表面だけの人間関係のテクニック(個性主義)から生まれていたら、相手はすぐにその二面性を感じとる。
安易なテクニックでは、効果的な相互依存に必要な土台を築き維持することなど絶対にできないのである。

人間関係を深めるテクニックやスキルがあるとすれば、それは真に自立した人間から自然と出てくるものである。
だから、どんな人間関係でも、まずは自分の内面に土台を築かなければならない。
影響の輪の中心を揺るぎないものにし、自分の人格を磨かなくてはならない。
人は自立するにつれて、主体的になり、原則を中心に置き、自分の価値観に従って行動し、人生において最優先事項を誠実に計画し実行できる。
自立した人間になって初めて、相互依存の人間関係を選択できる。
そして豊かで、永続的な実り多い人間関係を築くことができるのである。

これから入っていく相互依存の世界は、まったく新しい次元の領域である。
深く豊かで、意味のある人間関係を築き、私たちの生産性を飛躍的に伸ばす機会に満ち、奉仕し、貢献し、学び、成長する喜びを与えてくれる世界である。
しかし同時に、とてつもなく強い痛みやフラストレーションを感じ、幸福と成功を阻む大きな障害にぶつかる世界でもある。
それは急性の痛みであり、誰でもすでに経験している痛みだ。

ビジョンもなく、自分を導くことも律することもなく日々を送っていると、誰でも慢性の痛みを感じる。
何となく不安や不満を覚え、少しの間だけでも、そんな痛みを和らげようと何がしかの処置を講じることもあるだろう。
しかし、痛みといっても慢性であるため、知らず知らずのうちに慣れてしまい、その痛みを受け入れて生きていくすべを身につけてしまう。

ところが人間関係で問題が生じると、慢性の痛みは急性の痛みに転じる。
強烈な痛みだから、一刻も早く鎮めたくなる。

そういうとき、私たちは応急処置で治療しようとする。
個性主義という名のテクニックを絆創膏のように患部に貼りつけるのだ。
しかし、急性の痛みの根源は慢性的な問題にあるのだ。
表に出てきた症状だけを治療するのではなく病根を取り除かなければ、応急処置はむしろ逆効果になる。
慢性の痛みにますます慣れていくだけなのである。

ここでは効果的な人間関係について考えていくが、その前にもう一度、効果性の定義を確認しておこう。
ガチョウと黄金の卵の話を思い出してほしい。
あの物語から引き出せるように、効果性とは、P(黄金の卵=成果)とPC(ガチョウ=成果を生み出す能力)のバランスである。

相互依存の関係で言えば、黄金の卵は、人と人が心を開き、前向きに力を合わせたときに発揮される素晴らしいシナジーのことである。
この黄金の卵を毎日手に入れたいと思うなら、ガチョウの面倒をよくみなければならない。
実りある人生を生きようとするなら、人間関係を大切に育てていく努力を惜しんではいけない。

p261

人間関係において応急処置は幻想にすぎないことを肝に銘じてほしい。
人間関係は、築くにも修復するにも、時間がかかる。
息子がまるで反応をみせず、感謝の気持ちを微塵も示さないからといって忍耐をなくしたりしたら、それまでに積み立てた信頼を一気に取り崩すことになり、せっかくの努力も水の泡になってしまう。
「こんなにしてあげているのに、おまえのためにこんなに犠牲を払ってやっているのに、ありがとうの一言も言えないなんて。親の心子知らずとはこのことね。信じられない」。

辛抱強く待つのは簡単なことではない。
主体的になり、自分の影響の輪の中で努力するには高い人格が要る。
根が土中にしっかりついているかどうか見たいからといって花を引っこ抜くようなまねをせず、相手が成長するのをじっと待たなくてはならないのだ。

くどいようだが、人間関係に応急処置は効かない。
関係を築くこと、修復することは、長い時間をかけて人間関係に投資することなのだ。

p264

私たちは、自分の体験や考え方から、相手はこういうことを望んでいるのだと勝手に判断する傾向にある。
相手の態度から解釈してしまうのだ。
だから、今現在、あるいは相手と同じくらいの年齢だった頃の自分のニーズや欲求に照らし合わせて、相手もこういう預け入れを望むだろうと思い込む。
そうした努力が受け入れられないと、せっかくの善意が拒絶されたと感じて、預け入れをやめてしまうのである。

「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(『マタイによる福音書』七章一二節)という黄金律がある。
文言をそのまま解釈すれば、自分が他の人からしてもらいたいと思うことを他の人にしてあげる、という意味だが、もっと掘り下げて考えてみると、この黄金律の本質が見えてくる。
自分はこう理解してほしいと思うように相手を一人の人間として深く理解し、その理解に従って相手に接する、ということではないだろうか。
素晴らしい親子関係を築いているある人物が、「一人ひとりの子どもに対してそれぞれ違接し方をしてこそ、公平に接していることになる」と話していた。

約束を守る p266

約束を守ることは、大きな預け入れになる。
逆に約束を破れば、大きな引き出しになる。
相手にとって大切なことを約束しておきながら、それを守らないことほど信頼を裏切る行為はない。
次の機会に約束をしても、信じてもらえなくなる。
一つ何かを約束すれば、相手はその約束にいろいろな期待を抱くものである。
自分の生活に直接関わる問題の約束となれば、期待はなおさら強くなるだろう。

私は親として、守れない約束はしないという方針を貫いてきた。
約束は注意深く慎重にする。
事情が変わって約束を守れないことになっては信頼に関わるから、不測の事態をできる限り想定する。

とはいえ、これほど慎重にしていても、予期していなかったことが起こり、どうしても約束を守れなくなることがある。
状況によっては約束を守るほうが賢明ではない場合もある。
それでも、約束は約束である。
だから、事情がどうあれ約束を果たすか、相手によく説明して、約束を撤回させてほしいと頼む。

親と子の意見が食い違い、溝ができているなら、約束を守る習慣を身につけることによって、その溝に信頼という橋を架けられる。
子どもがやろうとしていることが親からすれば好ましくなく、必ず悪い結果になることは大人の目には明らかなのに、子どもには見えていないとき、「それをしたらこういう結果になるんだよ。約束してもいい」とはっきり言える。
子どもが親の言葉と約束に深い信頼を置いているなら、親の忠告に必ず従うはずだ。

p269

役割や目標に対して期待することが曖昧だったり、認識が食い違っていたりすると、たいていは人間関係に支障をきたすものである。
職場で誰が何を担当するのかを決めるときでも、娘に部屋を掃除しなさいと言うときでも、金魚の餌やりやゴミ出しの係を決めるときでも、何を期待するのかを明確にしておかないと、必ず誤解を生み、相手を失望させ、信頼を引き出してしまうことになる。

しかし多くの場合、期待がはっきりと語られることはない。
そして、明確な言葉で説明していないにもかかわらず、具体的な期待を胸に抱いているものだ。
たとえば夫婦なら、口には出さなくても、結婚生活における男女それぞれの役割をお互いに期待している。
そのことを二人できちんと話し合うわけでもないし、そもそも自分が相手に何を期待しているのかはっきりと意識していないこともある。
しかし夫であれ妻であれ、相手の期待に応えれば大きな預け入れになり、期待を裏切れば引き出しになる。

だから、新しい状況になったときには、最初に当事者全員の期待を洗いざらい出すことが重要なのだ。
知らない者同士がお互いに相手がどういう人間か判断しようとするときには、まず自分が抱いている期待を判断基準にする。
そして、自分の期待が裏切られたと感じた瞬間、引き出しになる。
こちらが期待していることは相手にもよくわかっているはずだ、相手もそれを受け入れているはずだと勝手に思い込んでいることで、多くのネガティブな状況をつくり出している。

だから、最初に期待を明確にすれば、預け入れになる。
これができるようになるまでには時間と労力がかかる。
しかし、長い目で見れば時間も労力も大幅に節約できる。
期待の内容をお互いにはっきりと了解していないと、人は感情的になり、ほんの小さな誤解が積もり積もって激しい対立に発展し、コミュニケーションが決裂してしまうこともある。

期待の内容をはっきりと伝えるのは、勇気が要ることもある。
意見の違いを目の前に出して、お互いに納得のいく期待事項を話し合って決めるよりも、あたかも意見の違いなどないかのように振る舞い、きっとうまくいくだろうと思っているほうがよっぽど気楽だからである。

誠実さを示す p270

誠実な人は信頼される。
誠実さは、さまざまな預け入れの基礎になる。

信頼残高を増やすためにいくら努力しても、誠実さがなければ残高はたちまちゼロになりかねない。
相手を理解しようとし、小さな気配りも怠らず、約束を守り、期待することを明確に伝え、期待に応えたとしても、心に二面性を持っていたら、信頼残高を増やすことはできない。

正直は誠実さの一部であって、誠実であることは正直以上のものである。
正直とは真実を語ることであり、言い換えれば、現実に自分の言葉を合わせることだ。
これに対して誠実さとは、自分の言葉に現実を合わせることである。
約束を守ること、相手の期待に応えることが、誠実な態度である。
誠実であるためには、裏表のない統一された人格がなくてはならない。
自分自身のあり方にも、自分の生き方にも。

誠実な人間となるもっとも大切なことは、その場にいない人に対して忠実になることである。
その場にいない人に誠実な態度をとれば、その場にいる人たちの信頼を得られる。
いない人を擁護して守ろうとするあなたの態度を見れば、居合わせた人たちは、あなたを信頼する。

あなたと私が二人きりで話をしているときに、私が上司の悪口を言ったとしよう。
本人がいたらとても面と向かっては言えない調子で批判するのである。
それからしばらくして、あなたと私が仲たがいしたらどうなるだろうか。
あなたは、私があなたの欠点を誰かに話しているのではないかと思うはずだ。
以前、私が上司の陰口を言っているのをあなたは知っているからだ。
あなたは私という人間の本性を知っている。
本人と面と向かっているときは調子よく話を合わせ、陰で悪口を言う。
あなたはそれを実際に目にしているのである。

二面性、裏表があるというのはこういうことである。
このような人が信頼口座の残高を増やすことができるだろうか。

反対に、あなたが上司批判を始めたとき、私が「君の批判はもっともだ。
これから上司のところに行って、こういうふうに改善してはどうかと提案しよう」と持ちかけたらどうだろう。
誰かが陰であなたの悪口を言うようなことがあっても、その場に私がいたらどうするか、あなたにはわかるはずだ。

あるいはこういう例はどうだろう。
私はあなたと良い関係を築きたいと思っている。
だからあなたの気を引こうと、誰かの秘密をあなたに漏らすのだ。
「本当は言っちゃいけないんだけど、君とぼくの間だから……」というように、人を裏切る私の行為を見て、あなたは私を信頼するだろうか。
ひょっとしたら、自分がいつか打ち明けた秘密もこんな調子で話してまわっているのではないかと、逆に不信感が生まれるのではないだろうか。

二面性は、相手への預け入れに見えるかもしれない。
しかし、自分の不誠実さをさらけ出しているのだから、実際は引き出しになってしまう。
その場にいない人を見下したり、秘密を漏らしたりして、いっときの楽しみという黄金の卵を手にするのと引き換えに、ガチョウの首を絞めることになる。
信頼関係に傷がつき、長く続く人間関係から得られるはずの喜びを犠牲にすることになるのだ。

現実社会において相互依存をもたらす誠実さとは、一言で言えば誰に対しても同じ原則を基準にして接することである。
そうすれば、周りの人たちから信頼されるようになる。
誠実であろうとすれば、相手の考えと相容れないことでも率直に言わなければならない場面がある。
だから最初のうちは誠実な態度が快く受け入れられないかもしれない。
面と向かって正直にものを言うのは、相当な勇気の要ることだ。
たいていの人は、なるべくなら摩擦を避けたいから、その場にいない人の噂話になれば自分も加わり一緒になって陰口を言い、秘密を漏らす。
しかし長い目で見れば、裏表なく正直で、親切な人こそが信頼され、尊敬される。
相手を大切に思っているからこそ、その人の耳に痛いこともあえて率直に話すのだ。
信頼されるのは愛されるよりも素晴らしいことである。
そして信頼されることは、ゆくゆくは愛されることにもつながるのだと、私は思う。

p273

私は、教師として、また親として確信していることがある。
それは、「九九人の心をつかむ鍵を握っているのは、一人に対する接し方だ」ということだ。
多くのにこやかな人たちの中で、一人忍耐を強いられている場合は特にそうだ。
一人の子どもに示す愛情や態度が、他の生徒や子どもたち対する愛情や態度となる。
あなたが一人の人間にどう接しているかを見れば、他の人たちも一人の人間として、自分に対するあなたの態度を感じとるのである。

誠実さとはまた、人をだましたり、裏をかいたり、人の尊厳を踏みにじるような言動をつつしむことでもある。
ある人の定義に従えば、「嘘とは人をあざむく意図のある言動のすべて」である。
誠実な人間であれば、言葉にも行動にも人をあざむく意図は微塵もないのである。

p274

相手が気の毒だから謝るのではなく、誠意を持って、すぐに謝る。
よほど強い人格でなければ、そうそうできるものではない。
本心から謝るには、自分をしっかりと持ち、基本の原則と自分の価値観からくる深い内的な安定性がなければならない。

自分に自信がなく、内面が安定していない人にはとてもできないことだ。
謝るのがこわいのである。
謝ったりしたら自分が弱腰に見え、弱みにつけこまれるかもしれないと心配になる。
彼らは周りの人たちの評価が心の安定のよりどころとなっているから、どう思われるかが気になって仕方がないのである。
しかもこういう人たちに限って、自分の過ちを他者のせいにし、自分の言動を正当化する。
たとえ謝ったとしても口先だけでしかない。

「こうべを垂れるならば、深く垂れよ」という東洋の格言がある。
キリスト教には「最後の一文まで払え」という言葉がある。
失った信頼を埋め合わせる預け入れにするには、本気で謝らなければならないし、相手にもこちらの誠意が伝わらなければならない。

レオ・ロスキンはこう教えた。
「弱き人こそ薄情である。優しさは強き人にしか望めない」

p275

心からの謝罪は預け入れになるが、懲りずに同じ過ちを繰り返していたら、いくら謝っても預け入れにはならない。
預け入れは人間関係の質に反映される。

間違いを犯すのは問題だが、間違いを認めないのはそれ以上の問題である。
間違いは許してもらえる。
たいていの間違いは判断ミスが原因であり、いわば頭で起こした間違いだからだ。
しかし、悪意や不純な動機、最初の間違いをごまかして正当化しようとする傲慢さは心で起こした間違いだ。
心の間違いは、簡単には許してもらえない。

愛の法則と人生の法則 p276

私たちは、無条件の愛という預け入れをするとき、人生のもっとも基本的な法則に従って生きることを相手に促している。
別の言い方をすれば、何の見返りも求めず本心から無条件で愛することによって、相手は安心感を得、心が安定する。
自分自身の本質的な価値、アイデンティティ、誠実さが肯定され、認められたと感じるのだ。
無条件の愛を受けることによって自然な成長が促され、人生の法則(協力・貢献・自制・誠実)に従って生き、自分の中に潜在する大きな可能性を発見し、それを発揮できるようになる。
人を無条件で愛するというのは、相手がこちらの状況や制限に反応するのではなく、自分の内面から沸き起こる意欲に従って行動する自由を相手に与えることだ。
しかしここで勘違いしてはいけない。
無条件の愛は、すべきではない行動を大目に見たり、甘やかしたりすることではない。
そのような態度はかえって引き出しとなる。
私たちがすべきことは、相談役になり、弁護し、相手を守り、期待値を明確にする。
そして何より相手を無条件に愛することである。

あなたが愛の法則にそむき、愛することに条件をつけたら、人生の基本的な法則にそむいて生きることを相手に勧めていることになる。
すると相手は反応的、防衛的な立場に追い込まれ、「自分が自立した価値ある人間であること」を証明しなければならないと感じるのだ。
このようにして証明しようとする「自立」は、自立ではない。
「反依存」の状態である。
依存の違った形であり、成長の連続体で言えば一番低いところにある状態であり、他者に反抗する態度そのものが他者に依存している状態に他ならないのである。
まるで敵中心の生き方になる。
人の話を主体的に聴き、自分の内面の価値観に従うことよりも、自己主張と自分の「権利」を守ることだけを考えて生きるようになる。

反抗は、頭で起こした問題ではなく心で起こした問題である。
心の問題を解決する鍵は、無条件の愛を預け入れ続けることである。

p279

国連事務総長だった故ダグ・ハマーショルドは、とても意味深い言葉を残している。
「大勢の人を救おうと一生懸命に働くよりも、一人の人のために自分のすべてを捧げるほうが尊い」
ハマーショルド氏が言わんとしているのは、たとえば私が一日八時間、一〇時間ことによると一二時間、一週間に五日、六日、もしくはまる一週間ろくに休みもとらずに働いたとしても、妻や難しい年頃の息子、あるいは職場の親しい同僚との間に血のかよった関係が築けなければ、何の意味もないということだろう。
仕事に身を入れるあまり、身近な人たちとの関係がぎくしゃくしてしまい、その関係を元に戻そうと思ったら、謙虚さ、勇気、精神力に満ちた高潔な人格が要る。
世の中の人たちや大義のために働くよりもずっと難しいことなのである。

私はコンサルタントとして二五年間働いてきて、多くの組織と関わったが、その間、この言葉の重みを何度かみしめたことだろうか。
組織が抱える問題の多くは、二人の共同経営者、オーナーと社長、社長と副社長の対立など人間関係に端を発している。
人間関係の問題に正面から取り組み、解決するには、まずは自分の内面を見つめなくてはならない。
だから、自分の「外」にあるプロジェクトや人々に労力をかけるよりも、はるかに人格の強さが求められるのである。

p282

企業であれ、あるいは家庭や結婚生活であれ、効果的に運営するためには人と人とが結束しなければならない。
そしてその結束を生むためには、一人ひとりの人格の強さと勇気が要る。
大勢の人々のためになる仕事をどれほど効率的にできたとしても、一人の人間との関係を築けるしっかりした人格が育っていなければ、何の意味もない。
個人対個人の関係、人間関係のもっとも基本的なレベルにおいてこそ、愛と人生の法則を実践しなければならないのである。

相互依存の習慣 p283

信頼口座のパラダイムを理解すれば、人と人とが力を合わせて結果を出す「公的成功」の領域に入っていくことができる。
これから公的成功のための習慣を一つずつ見ていくが、これらの習慣が身につくと、相互依存の関係を効果的に築いていけることがわかるだろう。
私たちがどれだけ強烈に他のパターンの考えや行動に脚本づけされているかもわかるだろう。

さらに、本当の意味で自立した人間でなければ、他者との効果的な相互依存関係は築けないことを、もっと深いレベルで理解できるようになるはずだ。
世間一般で言う「Win-Winの交渉術」や「傾聴法」「クリエイティブな問題解決テクニック」をいくら学んでも、しっかりした人格の土台がなければ、公的成功はありえないのである。

人間関係の六つのパラダイム p288

Win-Winとは、決してテクニックではない。
人間関係の総合的な哲学である。
人間関係の六つのパラダイムの一つである。
そしてWin-Winの他に、「Win-Lose」「Lose-Win」「Lose-Lose」「Win」「Win-Win or No Deal」のパラダイムがある。

・Win-Win 自分も勝ち、相手も勝つ
・Win-Lose 自分が勝ち、相手は負ける
・Lose-Win 自分が負けて、相手が勝つ
・Lose-Lose 自分も負けて、相手も負ける
・Win 自分が勝つ
・Win-Win or No Deal 自分も勝ち相手も勝つ、それが無理なら取引しないことに合意する

Win-Win p289

Win-Winは、すべての人間関係において、必ずお互いの利益になる結果を見つけようとする考え方と姿勢である。
何かを決めるときも、問題を解決するときも、お互いの利益になり、お互いに満足できる結果を目指すことである。
Win-Winの姿勢で到達したソリューション、当事者全員が納得し満足し、合意した行動計画には必ず実行する決心をするものである。
Win-Winのパラダイムは、人生を競争の場ではなく協力の場ととらえる。
私たちはえてして、強いか弱いか、厳しいか甘いか、勝つか負けるか、物事を「二者択一」で考えがちだ。
しかし、このような考え方には根本的な欠陥がある。
原則に基づいておらず、自分の権力や地位にものを言わせる態度だからだ。
Win-Winの根本には、全員が満足できる方法は十分にあるという考え方がある。
誰かが勝者になったからといって、そのために他者が犠牲になって敗者になる必要などない、全員が勝者になれると考えるのである。

Win-Winは、第3の案の存在を信じることである。
あなたのやり方でもなければ、私のやり方でもない、もっとよい方法、もっとレベルの高い方法だ。

Win-Lose p290

Win-Winの別の選択肢としてWin-Loseがある。
例の「バミューダ行きレース」のパラダイムだ。
私が勝てば、あなたが負ける。

リーダーシップのスタイルで言えば、Win-Loseは「私のやり方を通す。君の意見は聞くまでもない」という権威主義的なアプローチになる。
Win-Loseの考え方の人は、自分の地位、権力、学歴、所有物、あるいは個性の力を借りて、自分のやり方を押し通そうとする。

ほとんどの人は生まれたときからずっと、勝ち負けの脚本で育っているから、Win-Loseのメンタリティが深く染みついている。
親が子どもたちを比較していたら、たとえば兄ばかりに理解や愛情を注いでいたら、弟は「自分が勝ち、相手が負ける」というWin-Loseを考えるようになる。
条件つきの愛を受け入れた子は、愛は努力しなければ得られないものだと考えるようになり、その裏返しとして、自分はもともと価値のない人間だ、愛されるに値する人間ではないのだと思ってしまう。
だから自分の価値を内面ではなく外側に求めるようになり、人と比べて勝っていること、誰かの期待に応えられることが自分の価値になる。

親を頼らなければ生きられず、無条件の愛を受けてしかるべき幼い時分に、条件つきの愛で育てられる子どもはどうなるだろうか。
弱く傷つきやすい子どもの心は、Win-Loseの型にはめられ脚本づけされてしまう。
「ぼくがお兄ちゃんよりいい子になれば、お父さんもお母さんももっとぼくを愛してくれる」「パパとママが私よりお姉ちゃんを好きなのは、私が駄目な人間だからなんだ」と思うようになるのだ。

親子関係の他に、仲間同士の関係も強い影響力を持つ脚本になる。
子どもは、まず親に受け入れられ、認めてもらおうとする。
そして次に、友人などの「仲間」に受け入れられたいと思う。
そして誰もが知っているとおり、仲間というのはときに極端なことになる。
仲間うちのルールに従って行動できるかどうか、グループの期待に応えられるかどうかで、全面的に受け入れるか、徹底的に排除するかの二つに一つなのである。
こうし子どもはますます、Win-Loseの脚本に染まっていく。

学校に上がれば、そこにもWin-Loseの脚本が待ち受けている。
学業成績の指標である偏差値は相対的なものであり、誰かがAをとれば誰かがCになる仕組みである。
個人の価値を人との比較で測っているのである。
学校という世界では内面の価値はまったく考慮されず、外に表れる点数だけで全員の価値が判定されてしまうのだ。

「本日はPTA総会にお越しいただきましてありがとうございます。今回の試験、お嬢さんはすごいですよ。上位一〇%に入りました」
「ありがとうございます」
「ところが、弟のジョニー君のほうはちょっと問題ですね。下から四分の一のところです」
「本当ですか?困ったわ。どうしたらいいでしょう?」

しかし本当のところは、弟は下から四分の一とはいえ全力で頑張ったのであり、姉は好成績でも能力の半分しか出していないのかもしれない。
相対評価では、このような事実は少しもわからないのである。
生徒は潜在能力で評価されるわけではないし、本来持っている能力を存分に発揮したかどうかで評価されるのでもない。
他の生徒との比較で成績が決まるのである。
しかも学校の成績は社会に出るときも価値を持ち、チャンスの扉が開くか閉じられるかは成績次第だ。
協力ではなく競争が教育の根幹をなしているのである。
実際、生徒同士の協力といってすぐに思い浮かぶのは、試験の不正ぐらいではないだろうか。

もう一つの強烈なWin-Loseの脚本で動いているのがスポーツである。
特に高校や大学のスポーツはそうである。
試合で「勝つ」というのは「相手を負かす」ことだ。
だから多くの若者は、人生は勝者と敗者しかいないゼロサムゲームという考え方を内面に根づかせてしまうことになる。

法律もWin-Loseのパラダイムだ。
現代は訴訟社会である。
何かトラブルが起きると裁判に持ち込んで白黒はっきりさせ、相手を負かして自分が勝とうとする。
しかし、裁判沙汰になれば、当事者はどちらも自分の立場を守ることしか考えられなくなる。
人が防衛的になれば、創造的にも、協力的にもならないのだ。

たしかに法律は必要だし、法律がなければ社会の秩序は保てない。
しかし秩序は保てても、法律にシナジーを創り出す力はない。
よくて妥協点が見つかる程度である。
そもそも法律は敵対という概念に基づいている。
最近になってようやく、法律家もロースクールも裁判所に頼らず話し合いで解決するWin-Winのテクニックに目を向け始めている。
これですべてが解決できるわけではないが、Win-Winを考えた調停や交渉に対する関心は高まっている。

もちろん、本当に食うか食われるかの事態だったら、お互いの立場を尊重してW-Winを目指そう、Lose-Winなどと呑気なことは言っていられない。
しかし人生の大半は競争ではない。
あなたは毎日、パートナーと競争して暮らしているわけではないし、子ども、同僚、隣人、友人たちといつも競争しているわけではない。
「お宅では夫婦のどちらが勝ってます?」などという質問は馬鹿げている。
夫婦が二人とも勝者でなければ、二人とも敗者なのである。

人生のほとんどは、一人で自立して生きるのではない。
他者とともに、お互いに依存しながら生きていく。
それが現実である。
あなたが望む事柄のほとんどは、周りの人たちと協力できるかどうかにかかっている。
Win-Loseの考え方でいたら、人と力を合わせて結果を出すことはできない。

Lose-Win p293

Win-Loseとは反対のプログラムが組み込まれている人もいる。
Lose-Winである。

「ぼくの負けだ。君の勝ちだよ」
「私のことなんか気にしなくていいわよ。あなたの好きなようにすればいい」
「あなたも私を踏みつけにしたらいい。みんなそうするから」
「俺は負け犬。いつだってそうなんだ」
「私は平和主義者よ。波風を立てずにすむなら何でもするわ」

Lose-WinはWin-Loseよりもたちが悪い。
Lose-Winには基準というものがないからだ。
Lose-Winを考える人は、相手に対して何も主張せず、何も期待せず、何の見通しも持たずに、ただ相手を喜ばせたり、なだめたりすることしか考えない。
人に受け入れられ、好かれることに自分の強みを求める。
自分の気持ちや信念をはっきりと言う勇気がなく、相手の我の強さにすぐ萎縮してしまう。

交渉の場でLose-Winの態度をとることは降参であり、譲歩するか、諦めるかしかない。
リーダーシップのスタイルなら、放任主義か部下の意のままになることだ。
要するに、Lose-Winのパラダイムを持つことで「いい人」と思われたいのである。
たとえ「いい人」が最後は負けるとわかっていても、「いい人」と思われたいのだ。

Win-Loseの人は、Lose-Win思考の人が好きである。
弱さにつけこみ、餌食にして、自分の思いどおりにできるからだ。
Win-Loseの強気がLose-Winの弱気とぴったりとかみ合うわけである。

しかし問題は、Lose-Winタイプの人はさまざまな感情を胸の奥底に押し隠していることである。
口に出さないからといって、負けて悔しい感情が消えてなくなるわけではない。
ずっとくすぶり続け、時間が経ってからもっとひどいかたちで表に出てくる。
特に呼吸器系や神経系、循環器系に症状の出る心身症の多くは、Lose-Winの生き方を続けたことによって抑圧され、積もり積もった恨み、深い失望、幻滅が病気に姿を変えて表に噴出したのである。
過度な怒り、些細な挑発への過剰反応、あるいは世をすねるような態度感情を押し殺してきたせいなのである。

より高い目的に到達するために自分の気持ちを乗り越えようとせず、ひたすら感情を抑えることだけを考えていたら、自尊心を失い、しまいには人間関係にも影響が及んでしまう。

Win-Loseタイプの人もLose-Winタイプの人も、内面が安定していないから、自分の立場がぐらぐらと揺らぐのである。
短いスパンで見れば、Win-Loseのほうが結果は出せるだろう。
WWin-Loseタイプは地位があり、力や才能に恵まれた人が多いから、そういう自分の強みを力にして、相手を負かすことができる。
一方のLose-Winタイプの人は、初めから弱気だから、自分が何を手にしたいのかもわからなくなる。

多くの経営者や管理職、親はWin-LoseとLose-Winの間を振り子のように行ったり来たりしている。
秩序が乱れ、方向がずれて期待どおりに進まず、規律のない混乱した状態に耐えられなくなるとWin-Loseになり、そのうち自分の高飛車な態度に良心が痛んでくると、Lose-Winになって、怒りやイライラが募ってWin-Loseに逆戻りするわけである。

Lose-Win p295

Win-Loseタイプの人間が、角を突き合わせることもある。
気が強く頑固で、我を通そうとする者同士がぶつかると、結果はLose-Loseになる。
二人とも負けるのだ。
そして二人とも「仕返ししてやる」「この借りは絶対に返すぞ」と復讐心に燃えることになる。
相手を憎むあまり、相手を殺すことは自分も殺すこと、復讐は両刃の剣であることが見えなくなる。

ある夫婦が離婚したとき、裁判所は夫側に、資産を売却して半額を前妻に渡すよう命じた。
前夫はその命令に従い、一万ドルの価値のある車を五〇ドルで売り飛ばし、前妻に二五ドル渡した。
妻側の申し立てを受けて裁判所が調べてみると、前夫はすべての財産を同じように二束三文で売却していた。

敵を自分の人生の中心に置き、敵とみなす人物の一挙手一投足が気に障ってどうしようもなくなると、その人が失敗すればいい、たとえ自らを見失ってもとひたすら念じ、他には何も見えなくなる。
Lose-Loseは敵対の思想、戦争の思想なのである。

Lose-Loseタイプの人は、自分の目指すべき方向がまったく見えず、他者に極度に依存して生きてい自分が惨めでならず、いっそのことみんな惨めになればいいと思ったりもする。
早い話、「勝者がいなければ、自分が敗者であることが悪いことではないと思う」わけである。

Win p296

他者は関係なくただ自分が勝つことだけを考えるパラダイムもある。
Winタイプの人は、他の誰かが負けることを望んでいるわけではない。
他人の勝ち負けはどうでもよく、自分の欲しいものを手に入れることだけが大切なのである。

競争や争いの意識がない日々のやりとりの中では、Winはもっとも一般的なアプローチだろう。
Winタイプの人は、自分の目標が達成できるかどうかしか頭にないから、他人の目標がどうなろうと自分には関係ないと考える。

どのパラダイムがベストか? p297

ここまで紹介した五つのパラダイム――Win-Win、Win-Lose、Lose-Win、Lose-Lose、Win――のうち、一番効果的なパラダイムはどれだろうか。
答えは「ケース・バイ・ケース」である。
サッカーの試合なら、どちらかのチームが勝ち、もう一方のチームは負ける。
あるいは、あなたが勤める支店が他の支店と遠く離れていて、支店間の連携がなく、支店同士で業績を競う刺激が足りないなら、業績を上げるためにWin-Loseのパラダイムで他社の支店と競うかもしれない。
しかし、会社の中で他のグループと協力して最大限の成果を出さなければならない状況では、例の「バミューダ行きレース」のようなWin-Loseを持ち込むことはしたくはないだろう。

あなたと誰かとの間に問題が起き、その問題が些細なことで、お互いの関係のほうがよっぽど大切なら、あなたが譲歩して相手の要求を丸ごと受け入れ、Lose-Winで対処するほうがよい場合もある。
「私が欲しいものより、あなたとの関係のほうが大切です。
今回はあなたの言うとおりにしましょう」という態度である。
あるいは、今あるWinを選択することで、さらに大きな価値を損ねてしまうのであれば、Lose-Winを選択するだろう。
そこに時間と労力をかけてまで選択する価値はない。

どうしても勝たなくてはならない、そのWinを自分が手にすることで、他人にどんな影響が及ぼうとかまわない、そんな状況もあるだろう。
たとえばあなたの子どもの命が危険にさらされていたら、他人のことや周囲の状況など露ほども考えず、あなたの頭の中はわが子を救うことだけでいっぱいなはずだ。

だから、状況次第でどのパラダイムも一番になりうるのである。
肝心なのは、状況を正しく読みとって使い分けることである。
Win-Loseであれ、それ以外のパラダイムであれ、一つのパラダイムをどんな状況にも当てはめてはいけない。

そうはいっても、現実の人間社会においては、ほとんどが相互依存関係なのであり、五つのパラダイムの中でWin-Winが唯一の実行可能な選択肢になるのだ。

Win-Loseでは、その場では自分が勝ったように見えても、相手の感情や自分に対する態度が相手の心にわだかまりを残し、お互いの関係に悪影響を与えないとも限らない。
たとえば、私があなたの会社に商品を卸すとしよう。
あるときの商談で私が自分の条件を通したとしたら、とりあえず私は自分の目的を達したことになる。
しかしあなたは次も私と取引してくれるだろうか。
一回限りの取引で終わってしまったら、今回は勝ちでも長い目で見れば負けである。
だから相互依存の現実社会におけるWin-Loseは、実はどちらも負けるLose-Loseなのである。

逆に私がLose-Winの結果で妥協したとしたら、その場はあなたの希望どおりになるだろう。
しかし今後、あなたに対する私の態度、契約を履行するときの私の態度にどんな影響があるだろうか。
あなたに喜んでもらいたいから契約をしっかり履行しようという気持ちは薄れるだろうし、次回からの商談の席でも、このときに受けた心の傷を引きずっているかもしれない。
同じ業界の他の会社と商談するときに、あなた個人とあなたの会社に対する反感をつい口にするかもしれない。
これまた結局は双方敗者のLose-Loseである。
どんな場合でもLose-Loseが望ましい選択肢になりえないのは言うまでもないことだ。

あるいは私が自分の勝ちしか考えないWinの態度で商談を進め、あなたの立場をまったく考えなかったら、この場合もやはり、生産的な関係を築く土台はできない。

先々のことを考えれば、どちらも勝者になれなければ、結局はどちらも負けなのである。
だから、相互依存の現実社会の中で採れる案はWin-Winだけなのである。

p300

今まで自分がWin-Winと思っていたことが、実はLose-Winだったことに気づいて、彼はショックを受けたようだった。
そしてそのLose-Winは、自分の感情を抑えつけ、価値観を踏みにじる。
恨みがくすぶり、お互いの関係に影に落とすのであるから、結局のところLose-Loseになることを彼も悟ったのである。

この小売チェーンの社長が本当の意味でWin-Winのパラダイムを持っていたなら、コミュニケーションの時間をもっととり、オーナーの話をもっとよく聴いてから、勇気を出して自分の立場を説明していただろう。
お互いに満足できる解決策を見つけるまで、Win-Winの精神で話し合いを続けたはずだ。
双方が満足できる解決策となる第3の案は、お互いに一人では考えつかない素晴らしい解決策になっていたはずだ。

Win-Win or No Deal p301

お互いに満足でき、合意できる解決策を見つけられなかったら、Win-Winをさらに一歩進めたパラダイム、「Win-Win or No Deal」という選択肢がある。

No Deal(取引しない)とは、簡単に言えば、双方にメリットのある解決策が見つからなければ、お互いの意見の違いを認めて、「合意しないことに合意する」ことである。
お互いに相手に何の期待も持たせず、何の契約も交わさない。
私とあなたとでは、価値観も目的も明らかに正反対だから、私はあなたを雇わない、あるいは今回の仕事は一緒にはしないということだ。
双方が勝手な期待を抱き、後々になって幻滅するよりは、最初からお互いの違いをはっきりさせ、認め合うほうがよっぽどいい。

No Dealを選択肢の一つとして持っていれば、余裕を持つことができる。
相手を操ったり、こちらの思惑どおりに話を進めたりする必要はないのだし、何がなんでも目的を達しなければならないと必死にならずともすむ。
心を開いて話せるし、感情の裏に潜む根本的な問題をわかろうとする余裕も生まれる。

No Dealの選択肢があれば、正直にこう話せる。
「お互いに満足できるWin-Win以外の結論は出したくないんです。
私も勝って、あなたにも勝ってほしい。
だから、私のやり方を通しても、あなたに不満が残るのは嫌なんです。
後々不満が噴き出さないとも限りません。
それでは信頼関係が崩れます。
逆に、私が我慢して、あなたの思いどおりになったとしても、あなたはあなたで後味が悪いでしょう。
だからWin-Winの道を探しましょう。
一緒に本気で考えましょう。
それでも見つからなければ、この話はなしということでどうでしょうか。
お互いに納得のいかない決定で我慢するよりは、今回は取引しないほうがいいと思います。
また別の機会もあるでしょうから」

p303

相互依存で成り立つ社会で人間関係を長く続けようと思ったら、Win-Win以外のパラダイムは次善の策にするにしても問題がある。
必ずネガティブな影響を残すからだ。
どのくらいの代償を払うことになるのか、よくよく考えてみなければならない。
本当のWin-Winに達しないのであれば、ほとんどの場合はNo Deal、「今回は取引しない」としたほうが得策である。

Win-Win or No Dealは、家族同士の関係においても精神的に大きな自由をもたらす。
家族でビデオを観ようというとき、全員が楽しめるビデオがどうしても決まらなければ、誰かが我慢してまでビデオを観るよりは、その夜はビデオ鑑賞はせずに(No Deal)、全員で他のことをすればいいのである。

p304

Win-Win or No Dealのアプローチが特に効果を発揮するのは、新しく事業を興したり、新しい取引先と契約を結んだりするときである。
すでに続いている取引関係では、No Deal(取引しない)が現実的な選択肢にはならない場合もある。
家族経営の会社や友人同士で始めたビジネスなら特に、深刻な問題に発展しないとも限らない。

関係が壊れるのを恐れ、何年もだらだらと妥協に妥協を重ねる場合もある。
口ではWin-Winと言いながらも、Win-LoseやLose-Winを考えている。
これではライバル会社がWin-Winの考え方でシナジーの力を発揮している場合には、なおさら人間関係にもビジネスにも深刻な問題を生む。

No Dealというオプションを使わないばっかりに、業績を悪化させ、ついには倒産に追い込まれるか、外部の経営者に実権を委ねざるをえない事態に陥る企業は少なくない。
過去の例を見ても、家族や友人同士で会社を興す場合は、将来何かの案件を巡って意見が割れ、それについてはNo Dealとなる可能性があることを最初から考慮に入れ、その場合の処理の仕方を決めておくほうが賢明である。
そうしておけば、人間関係に亀裂が入らずにビジネスを続けて成功することができる。

もちろん、No Dealのオプションを使えない場合もある。
たとえば自分の子どもや妻・夫との関係にNo Dealを選び、なかったことにするわけにはいかない。
必要ならば妥協を選んだほうがよいこともある。
この場合の妥協は、低いレベルでのWin-Winになる。
しかしたいていの場合は、Win-Win or No Dealの姿勢で交渉を進めることができる。
そうすれば、お互いに腹の探り合いをせずに、自由に最善の案を探すことができるのである。

Win-Winの五つの側面 p306

「Win-Winを考える」は、人間関係におけるリーダーシップの習慣である。
人間だけに授けられた四つの能力(自覚・想像・良心・意志)すべて発揮して、お互いに学び合い、お互いに影響し合い、お互いに得るところのある人間関係を育てていくための習慣である。

お互いのためになる関係を築くには、大きな思いやりと勇気が必要である。
特にWin-Loseのパラダイムに脚本づけられた相手ならばなおさらだ。

この習慣は人間関係におけるリーダーシップの原則が重要になる。
人間関係でリーダーシップを発揮するには、ビジョンと主体的な率先力、そして原則中心の主体的な生き方から得られる四つの要素(安定・指針・知恵・力)が必要である。

Win-Winの原則は、あらゆる人間関係の成功を築くための基礎であり、互いに関連し合う五つの側面でできている。
まず人格があって、それによって人間関係が築かれ、そこで協定ができる。
合意に至るまでの流れを円滑に進めるためには、Win-Winに基づく構造とシステムが要る。
さらに、プロセスも重要だ。
Win-Loseや、Lose-Winのプロセスでは、Win-Winの結果に到達することはできない。

五つの側面の相関関係を図に表すと、このようになる。

1 Win-Win 人格
2 Win-Win 人間関係
3 Win-Win 協定
4 Win-Win システム
5 Win-Win プロセス

では、五つの側面を順番に見ていこう。

人格 p307

人格はWin-Winの土台である。
すべてがこの土台の上に築かれる。
そしてWin-Winのパラダイムを身につけるには、人格の三つの特徴を育てなければならない。

・誠実――前に定義したように、誠実さとは「自分自身に価値を置くこと」である。
第1、第2、第3の習慣を身につけることで、誠実さを開発し維持する。
自分の価値観を明確にし、その価値観に従って主体的に計画を実行するにつれて私たちは自覚を持って意義ある約束を決意し、守り続ける意志を育てていくことができるのだ。

そもそも、本当の意味で自分にとってのWinは何なのか、自分の内面の奥底にある価値観と一致するWinが何かを知らずにいたら、日々の生活でWinを求めるといっても無理な話である。
そして、自分と約束したことも他者と約束したことも守れなければ、私たちの約束は無意味になる。
そのような自分の本性は自分でもわかっているし、他の人たちも見抜いている。
裏表のある人だな、と思う相手には、誰でも身構えるものである。
それでは信頼関係ができるわけがない。
Win-Winと口では言っても、非効果的な表面上のテクニックにしかならない。
誠実さは、人格という基礎の要石なのである。

・成熟――成熟とは、勇気と思いやりのバランスがとれていることである。
私は一九五五年の秋、ハーバード・ビジネス・スクールのフランド・サクセニアン教授からこの成熟の定義を教わった。
教授は、「相手の考え方や感情に配慮しながら、自分の気持ちや信念を言えること」が成熟だと教えていた。
これ以上にシンプルで、しかも奥深く、本質をついた成熟の定義が他にあるだろうか。
サクセニアン教授は、自身の研究を進める中で長年にわたり実地調査を積み重ね、歴史を紐解いて、この定義に到達し、後に研究の成果をハーバード・ビジネス・レビュー誌(一九五八年一、二月号)に掲載した。
裏づけとなる資料、実践のアドバイスも含めた詳細な論文になっている。
サクセニアン教授の言う「成熟」は人格を補完するものであり、段階的に発達していくものとされているが、「7つの習慣」は人間的な成長と発達に重点を置いており、成熟についても、依存から自立、そして相互依存へと至る「成長の連続体」の中でとらえている。

採用試験や昇進審査、あるいは能力開発の研修などで行われる心理テストも、基本的には成熟の度合いを測るようにつくられている。
「自我/共感バランス」や「自信/他者尊重バランス」「人間志向/仕事志向バランス」、交流分析で言う「I'm OK, You're OK(私はOK、あなたもOK)」(訳注:米国の精神科医トマス・アンソニー・ハリスによる交流分析の考え方)、あるいはマネジリアル・グリッド論(訳注:一九六四年にブレイクとムートンによって提唱された行動理論。リーダーシップの行動スタイルを「人への関心」と「業績への関心」という二つの側面からとらえた九つの類型に分類した)の9・1型、1・9型、5・5型、9・9型など、呼び名はいろいろあるが、煎じ詰めれば、どのテストでも勇気と思いやりのバランスを問題にしている。

人間関係論やマネジメント論、リーダーシップ論のどれをとっても、根底には勇気と思いやりのバランスをとる大切さがある。
それはP/PCバランスの具体的なかたちである。
結果(黄金の卵)を出すには勇気が要るが、その一方で、自分以外の関係者(ガチョウ)の幸福を長い目で見て思いやる気持ちもなくてはならない。
すべての関係者が充実した人生を生きられるようにすることが、リーダーの基本的な役割なのである。

人は物事を「あれかこれか」の二者択一でとらえがちである。
答えは二つに一つしかないと思ってしまう。
たとえば、優しい人なら厳しくはないはずだと決め込む。
しかし、Win-Winを目指す人は、優しさと同時に厳しさを持ち合わせている。
Win-Loseタイプの人よりも二倍も厳しいのである。
優しさだけでWin-Winの結果に到達することはできない。
勇気も必要だ。
相手の身になって考えるだけでなく、自信を持って自分の考えを述べなくてはならないのだ。
思いやりを持ち、相手の気持ちを敏感に察することも大事だが、勇敢であることも求められるのである。
勇気と思いやりのバランスをとることが本当の意味での成熟であり、Win-Winの前提条件なのである。

もし私が、勇気はあるけれども思いやりにかける人間だったら、どのような考え方をするだろうか。
Win-Loseである。
我が強く、相手を負かそうとする。
自分の信念を貫く勇気はあるが、相手の信念を思いやることはできない。

このような内面的な未熟さや精神的な脆さを補うために、私はおそらく、自分の社会的地位や権力、学歴、年齢を笠に着て、相手を圧倒しようとするだろう。

逆に、思いやりは深いけれども、勇気がない人間だったら、Lose-Winを考えてしまう。
相手の立場や要望に気を遣うあまり、自分の立場を一言も口に出さずに終わってしまう。

高いレベルの勇気と思いやりの両方が、Win-Winに不可欠なものである。
勇気と思いやりのバランスこそが、成熟した人間かどうかを測る基準になる。
バランスがとれていれば、相手の身になって話を聴き、理解することもできるし、勇気を持って自分の立場を主張することもできるのである。

・豊かさマインド――Win-Winに不可欠な人格の三番目の特徴は、豊かさマインドというものである。
この世にはすべての人に行きわたるだけのものがたっぷりあるという考え方だ。

ほとんどの人は、欠乏マインドに深く脚本づけられている。
パイはたった一個しかなく、誰かがひと切れ食べてしまったら、自分の取り分が減ってしまうと考える。
物事はすべて限りがあると思い、人生をゼロサム・ゲームととらえる考え方である。

欠乏マインドのままでは、手柄を独り占めし、名誉や評判、権力もしくは、利益をサポートしてくれた人とさえ分かち合おうとしない。
だから、自分以外の人間の成功は喜べない。
同僚や親しい友人、家族の成功さえも素直に祝福できない。
誰かが褒められたり、思いがけない利益を得たり、大きな成果を出したりすると、まるで自分が損をしたような気分になるのだ。

他者の成功に口では「おめでとう」と言いながら、胸の内は嫉妬に食い尽くされている。
周りの人間と比較して自分はどうなのかといつも気にしているから、程度の差こそあれ、人の成功は自分の失敗を意味するのである。
成績表に「A」がつく生徒はたくさんいても、「一番」になれるのは一人しかいないと考えてしまうのだ。
欠乏マインドの人にとって、勝つことは、人を負かすことに他ならない。

欠乏マインドに染まっている人はえてして、他人の不幸をひそかに望んでいる。
もちろん、そんなにひどい不幸を望んでいるわけではないが、自分に影響が及ばない範囲で不幸に遭えばいいと思っている。
他人が成功せずにいてくれれば、それでいいのである。
彼らは、いつも誰かと自分を比較し、競争している。
自尊心を持ちたいがために、モノを所有したり、他者を抑えつけたりすることにひたすら労力を費やしているのである。

こういう人は、他人を自分の思いどおりにしたがる。
自分のクローンをつくりたがり、イエスマンやご機嫌とりで自分の周りを固め、自分よりも強い人間は遠ざける。

欠乏マインドの人が、相互を補完するチームの一員になることは難しい。
彼らは自分との違いを不服従や反抗ととらえてしまうからだ。

それに対して豊かさマインドは、内面の奥深くにある自尊心と心の安定から湧き出るものである。
この世にはすべてのものが全員に行きわたってもなお余りあるほどたっぷりとある、と考えるパラダイムである。
だから、名誉も評判も、利益も、何かを決定するプロセスも、人と分かち合うことができる。
こうして可能性、選択、創造力の扉が開かれるのだ。

豊かさマインドを持つには、まずは第1、第2、第3の習慣を身につけ、個人としての喜び、満足感、充足感を得ていなければならない。
それがあって初めて、他者の個性、望み、主体性を認めることができる。
前向きに人と接することが自分の成長にとって無限の可能性をもたらすとわかっているから、それまで考えてもいなかった新しい第3の案を生み出せるのだ。

公的成功は、他者を打ち負かして手にする勝利のことではない。
関わった全員のためになる結果に達するように効果的な人間関係を築くこと、それが公的成功である。
協力し、コミュニケーションをとりながら、一緒にことを成し遂げることである。
各自がばらばらにやっていたらできないことを、力を合わせて成し遂げる関係を築くことが公的成功なのだ。
公的成功とはつまり、豊かさマインドのパラダイムから自然と生まれる結果なのである。

「誠実」「成熟」「豊かさマインド」を高いレベルで備えた人格は、あらゆる人間関係において、個性主義のテクニックにはとうてい及ばない本物の力を発揮する。

Win-Loseタイプの人がWin-Winの人格を備えようとするときに、私が見出したことの一つは、Win-Winタイプの人と接してモデルやメンターにするのが一番効果的だということである。
深くWin-Loseのパラダイムに脚本づけられた人々が、同じようなWin-Loseタイプの人とばかり付き合っていたら、Win-Winの態度を実際に見て学ぶ機会はそうない。
それゆえ、私は文学を読むことを勧めたい。
たとえば、アンワル・サダトの自伝『エジプトの夜明けを』を読んだり、映画『炎のランナー』や演劇『レ・ミゼラブル』を観たりすることも、Win-Winを知るきっかけになるだろう。

しかし覚えておいてほしい。
誰でも自分の内面の奥深くを見つめれば、これまで従っていた脚本、これまでに身につけた態度や行動を乗り越え、他のすべての原則と同じように、Win-Winの本当の価値を自分の生き方で証明できるのである。

人間関係 p314

人格の土台ができたら、その上にWin-Winの人間関係を築いていくことができる。
Win-Winの人間関係の本質は信頼である。
信頼がなければ、できるのは妥協だ。
心を開いてお互いに学ぶことも、気持ちを理解し合うことも、本当の創造力を発揮することもできない。

しかし、信頼口座にたっぷり預け入れしてあれば、お互いに相手を信頼し、尊重しているから、相手がどんな人間か探る必要もないし、相手の性格や立場にとらわれず、すぐに目の前の問題そのものに意識を向けることができる。

協定 p318

人間関係を築ければ、Win-Winの中身を明確にし、そこに至るまでの道筋を示した協定を結ぶことができる。
業務契約やパートナーシップ協定などと呼ばれ、人間関係のパラダイムは、上下関係から対等な立場で成功を目指すパートナーシップの関係に変わる。
監督が歩きまわって目を光らせるのではなく、自分が自分のボスになり、自分を管理して行動するのである。

Win-Win実行協定は、相互依存の人間関係に幅広く応用できる。
第3の習慣のところでデリゲーションの例として「グリーン・アンド・クリーン(緑色できれい)」のエピソード(二三七ページ)を紹介したが、とれもWin-Win実行協定の例である。
そこで取り上げた全面的なデリゲーションのための五つの要素は、Win-Win実行協定においても基本の枠組みになる。
労使間の協定でも、プロジェクトチーム内の協定でも、共通の目的に向かって協力するグループ同士の協定でも、会社と仕入れ先の協定でも、いずれにせよ、何かを成し遂げようとする人々の間では五つの要素が満たされれば、お互いに期待することが明確になり、相互依存への努力に向けて、効果的な方法を見出すことができる。

Win-Win実行協定では、次の五つの要素をはっきりと決めることが大切である。

・望む成果――いつまでに、何を達成するのか(手段を決めるのではない)
・ガイドライン――望む結果を達成するときに守るべき基準(規則、方針など)
・リソース――望む結果を達成するために使える人員、資金、技術、組織のサポート
・アカウンタビリティ(報告義務)――結果を評価する基準、評価する時期
・評価の結果――達成度合い、貢献度合い、評価の結果としてどうなるのか

この五つの要素が満たされれば、Win-Winの協定は現実のものとなり、正式な「実行協定」となる。
これらの基準を明確にし、関係者全員が了解して同意していれば、自分の仕事の結果が成功かどうなのかを一人ひとりが自分で判断できる。

典型的な管理者は、Win-Loseのパラダイムである。
信頼口座がマイナスになっている証拠でもある。
相手を信頼していないから、あるいは望む成果をはっきりと伝えていないから、細かく監視してチェックし、指図したくなる。
信頼関係ができていないと、いつも見張って管理しなくてはならないと思ってしまうのである。

しかし信頼口座の残高がたくさんあったらどうするだろうか。
相手を信頼して、あなたはなるべく手出ししないだろう。
Win-Win実行協定ができており、相手も何を期待されているかはっきりとわかっていれば、あなたの役割は、必要なときに手助けしてやり、仕事の進捗の報告を聞くだけである。

本人が本人を評価するほうが、他人が本人を評価するよりもずっと人間性を尊重しているし、本人も精神的に成長する。
信頼関係さえできていれば、自分で評価するほうがはるかに正確でもある。
多くの場合、仕事がどんなふうに進んでいるかは、報告書に書かれている記録などより、本人が強く実感している。
外から観察したり、測定したりするよりも、自分自身の認識のほうがはるかに正確なのである。

p324

経営学者のピーター・ドラッカーは、管理職と部下との間で業務の合意事項を明確にするために「マネジメント・レター」というものを活用するとよいと勧めている。
組織の目標に沿って、望む成果、ガイドライン、リソースを具体的に話し合って決めたら、部下はその内容を手紙にまとめ、次回の業務計画の話し合い、あるいは評価面談の時期も明記して上司に出す。

このようなWin-Win実行協定を確立することがマネージャーのもっとも重要な仕事である。
実行協定ができていれば、スタッフはその取り決めの範囲内で自分の仕事を自分で管理できる。
マネージャーはカーレースのペースカーのようなもので、レースが動き出したら、自分はコースから外れる。
その後は、路面に漏れ落ちたオイルをふき取るだけでいいのである。

システム p327

組織の中にWin-Winを支えるシステムがなければ、Win-Winの精神を定着させることはできないいくらWin-Winと口では言っても、給与や報奨の仕組みがWin-Loseになっていたら、うまく機能しない。

社員にしてみたら、会社が報いようとする行動をとるのは当然のことである。
会社のミッション・ステートメントに書いてある目標と価値観を実現し、組織に根づかせたいなら、報奨などのシステムもその目標と価値観に合うものにしなければならない。
システムと食い違っていたら、言動不一致になってしまう。
社員一丸となって頑張ろうと言いながら、「バミューダ行きレース」で競争をあおる例の社長と同じになってしまう。

p329

むろん、市場では競争原理が働いているし、売上の前年比も前年との競争である。
特別な相互依存関係がなく、協力する必要のない別の会社や個人だったら、競い合ってもいいだろう。
しかし企業にとって、社内の協力は市場での競争と同じように大切である。
Win-Winの精神は、勝ち負けの環境では絶対に育たない。

Win-Winが機能するには、それを支えるシステムが必要である。
社員教育、事業計画策定ケーション、予算、情報管理、給与体系すべてのシステムがWin-Winの原則に基づいていなければ、コミュニケーション、予算、情報管理、給与体系――すべてのシステムがWin-Winの原則に基づいていなければならない。

p331

多くの場合、問題があるのは人ではなくシステムのほうである。
いくら優秀な人材でも、悪いシステムに入れたら悪い結果しか出てこない。
育ってほしい花には水をやらなくてはならないのだ。

Win-Winの考え方をしっかりと身につければ、それを支えるシステムをつくり、組織に定着させることができる。
無意味な競争を排除して協力的な環境を育むことで、PとPCの両方を高めることができ、大きな効果を組織全体に波及させることができる。

企業の場合なら、経営陣がWin-Winの精神を持てば、有能な社員たちが一丸となって同業他社と競えるようにシステムを整えることができる。
学校なら、生徒一人ひとりが教師と相談して決めた個人目標の達成度合いで成績をつけるシステムにすれば、生徒同士が助け合って勉強し、皆で目標達成に向かって頑張る環境ができる。
家庭の場合であれば、親は子ども同士が競争するのではなく、協力するような環境をつくることができる。
たとえば家族でボウリングに行くこと一つをとっても、家族全員のスコアの合計が前回を超えることを目標にして楽しめるだろう。
Win-Win実行協定で家事を分担すれば、親は子どもにいちいち指図する精神的ストレスから解放されるし、自分にしかできないことをする時間もできる。

プロセス p333

Win-LoseやLose-Winの姿勢のままで、Win-Winの結果に到達することはできない。
「なんだっていいからWin-Winでやってくれよ」と丸投げできるわけがない。
どうすればWin-Winの解決策までたどりつけるのだろうか。

ハーバード・ロー・スクールのロジャー・フィッシャー教授とウィリアム・ユーリー教授は、『ハーバード流交渉術』という洞察にあふれた本を著している。
同書の中で両教授は、彼らのいう「原則立脚型」と「立場駆け引き型」のアプローチを対比させ、鋭い指摘をしている。
Win-Winという言葉こそ使われていないが、この本の根底にある考え方はまさにWin-Winのアプローチである。

両教授は、人と問題を切り離して考え、相手の立場ではなく課題に焦点を絞り、お互いの利益になる選択肢を考え出し、双方とも納得できる客観的な基準や原則を強調することが原則立脚型の本質だと言っている。

私の場合、Win-Winの解決策を求める人や組織にアドバイスするときは、次の四つのステップを踏むプロセスを勧めている。

一、問題を相手の視点に立って眺めてみる。相手のニーズや関心事を当の本人と同程度に、あるいはそれ以上に理解しようとし、言葉にしてみる。
二、対処すべき本当の問題点や関心事(立場ではなく)を見極める。
三、どんな結果であれば双方が完全に受け入れられるのかを明確にする。
四、その結果に到達するための方法として新しい選択肢を見つける。

このプロセスの二つのステップについては第5の習慣と第6の習慣の章でそれぞれ詳しく取り上げるが、ここで理解しておいてほしいのは、Win-Winの本質はそのプロセスと強い相関関係にあるということだ。
つまり、Win-Winのプロセスを踏まなければ、Win-Winの結果に到達することはできないのである。
目標がWin-Winならば、手段もWin-Winでなければならない。

Win-Winは個性主義の表面的なテクニックではない。
人と人との関係を総合的にとらえるパラダイムである。
このパラダイムは、誠実で成熟し、豊かさマインドを持った人格から生まれ、信頼に満ちた人間関係の中で育っていく。
それは、期待することを明確にし、効果的に管理する実行協定になり、Win-Winを支えるシステムによってさらに力強いパラダイムになっていく。
そしてこのパラダイムは、次の第5と第6の習慣で詳しく説明するプロセスを経て完成するのである。

p340

私がこれまでに人間関係について学んだもっとも重要な原則を一言で言うなら、「まず理解に徹し、そして理解される」ということだ。
この原則が効果的な人間関係におけるコミュニケーションの鍵なのである。

人格とコミュニケーション p340

あなたは今、私が書いた本を読んでいる。
読むことも書くこともコミュニケーションの手段である。
話すことも聴くこともそうである。
読む、書く、話す、聴く、これらはコミュニケーションの四つの基本である。
あなたはこれら四つのうち、どれにどのくらいの時間を費やしているだろうか。
効果的な人生を生きるためには、コミュニケーションの四つの基本をうまく行える能力が不可欠なのである。

コミュニケーションは人生においてもっとも重要なスキルである。
私たちは、起きている時間のほとんどをコミュニケーションに使っている。
しかし、ここで考えてみてほしい。
あなたは学校で何年も読み書きを習い、話し方を学んできたはずだ。
だが聴くことはどうだろう。
あなたは相手の立場になって、その人を深く理解できる聴き方を身につけるために、これまでにどのような訓練や教育を受けただろうか。

聴き方のトレーニングを受けたことのある人は、そう多くはいないはずだ。
たとえ訓練を受けたことがあっても、ほとんどは個性主義のテクニックであり、それらのテクニックは相手を本当に理解するために不可欠な人格と人間関係を土台としているものではない。

あなたが、配偶者、子ども、隣人、上司、同僚、友人、誰とでも他者とうまく付き合い、影響を与えたいと思うなら、まずその人を理解しなければならない。
しかし、それはテクニックだけでは絶対にできない。
あなたがテクニックを使っていると感じたら、相手はあなたの二面性、操ろうとする気持ちをかぎとるだろう。
「何でそんなことをするのだろう、動機は何だろう」と詮索するだろう。
そして、あなたには心を開いて話をしないほうがいい、と身構えることになる。

相手に自分をわかってもらえるかどうかは、あなたの日頃の行い次第である。
あなた自身が模範になっているかどうかだ。
常日頃の行いは、あなたが本当はどのような人間なのか、つまりあなたの人格から自然と流れ出てくるものである。
他の人たちがあなたをこういう人間だと言っているとか、あなたが人にこう見られたいと思っているといったものではない。
実際にあなたと接して相手がどう感じるか、それがすべてである。

あなたの人格は、たえず周囲に放たれ、あなたがどのような人間であるかを伝えている。
それをある程度感じていれば、長期的にあなたが信頼できる人間かどうか、その人に対する態度が本心からなのかどうか、相手は直観的にわかるようになる。

あなたが熱しやすく冷めやすい人だったら、激怒したかと思うと優しくなるような人だったら、とりわけ人が見ているときと見ていないときとではまるで態度の違う人だったら、相手はあなたに心を開いて話をする気にはなれないだろう。
どんなにあなたの愛情が欲しくとも、あなたの助けが必要でも、自分の意見や体験したこと、心の機微を安心して打ち明けることはできない。
その後どんなことになるか、わからないからだ。

私があなたに心を開かない限り、あなたが私という人間のことも、私が置かれた状況や私の気持ちも理解できない限り、私の相談に乗ることもアドバイスしようにも無理だということである。
あなたの言うことがいくら立派でも、私の悩みとは関係ないアドバイスになってしまう。

あなたは私のことを大切に思っていると言うかもしれない。
私のことを気にかけ、価値を認めていると言うかもしれない。
私だってその言葉をぜひ信じたい。
でも、私のことがわかってもいないのに、どうしてそんなことが言えるのだろうか。
それは単に言葉だけにすぎないのだから、信じるわけにはいかない。

私はあなたの影響を受けることに対し怒りを覚え身構える。
もしかすると罪悪感や恐怖感かもしれない。
たと心の中ではあなたに力になってほしいと思っていてもだ。

私の独自性をあなたが深く理解し、心を動かされない限り、私があなたのアドバイスに心を動かされ、素直に受け止めて従うことはないだろう。
だから、人と人とのコミュニケーションの習慣を本当の意味で身につけたいなら、テクニックだけではだめなのだ。
相手が心を開き信頼してくれるような人格を土台にして、相手に共感して話を聴くスキルを積み上げていかなくてはならない。
心と心の交流を始めるために、まずは信頼口座を開き、そこにたっぷりと預け入れをしなければならないのである。

共感による傾聴 p343

「まず理解に徹する」ためには、大きなパラダイムシフトが必要である。
私たちはたいていまず自分を理解してもらおうとする。
ほとんどの人は、相手の話を聴くときも、理解しようとして聴いているわけではない。
次に自分が何を話そうか考えながら聞いている。
話しているか、話す準備をしているかのどちらかなのである。
すべての物事を自分のパラダイムのフィルターに通し、自分のそれまでの経験、いわば自叙伝(自分の経験に照らし合わせ)を相手の経験に重ね合わせて理解したつもりになっている。

「そうそう、その気持ち、よくわかるわ!」とか「ぼくも同じ経験をしたんだ、それはね……」

これでは、自分のホームビデオを相手の行動に投影しているだけである。
自分がかけている眼鏡を誰にでもかけさせようとするのと同じだ。

こういう人たちは、息子や娘、配偶者、同僚など身近な人との関係に問題が起きると必ず、「向こうが理解していない」と思うものである。

p344

相手が話しているとき、私たちの「聞く」姿勢はたいてい次の四つのレベルのどれかである。
一番低いレベルは、相手を無視して話をまったく聞かない。
次のレベルは、聞くふりをすること。
「うん、うん」とあいづちは打つが、話の中身はまったく耳に入っていない。
三番目のレベルは、選択的に聞く態度である。
話の部分部分だけを耳に入れる。
三~四歳くらいの子どものとりとめもなく続くおしゃべりには、大人はたいていこんなふうにして付き合う。
四番目のレベルは、注意して聞く。
神経を集中して、相手が話すことに注意を払う。
ほとんどの人は四番目のレベルが最高なのだが、実はもう一段上、五番目のレベルがある。
これができる人はそういないのだが、相手の身になって聴く、共感による傾聴である。

ここでいう共感による傾聴とは、「積極的傾聴」とか「振り返りの傾聴」といったテクニックではない。
これらのテクニックは、単に相手の言葉をオウム返しにするだけで、人格や人間関係の土台から切り離された小手先のテクニックにすぎない。
テクニックを駆使して人の話を聞くのは、相手を侮辱することにもなる。
それに、テクニックを使ったところで、相手の立場ではなく自分の立場で聞き、自分の自叙伝を押しつけようとすることに変わりはない。
実際に自分の経験は話さないまでも、話を聞こうとする動機がどうしても自叙伝になってしまうからである。
神経を集中して熱心に聞いているかもしれないが、頭の中は、次はどう返事しようか、どう言えば相手をコントロールできるかと考えを巡らせているのである。

共感による傾聴とは、まず相手を理解しようと聴くことであり、相手の身になって聴くことである。
相手を理解しよう、本当に理解したいという気持ちで聴くことである。
パラダイムがまったく違うのだ。
共感とは、相手の視点に立ってみることである。
相手の目で物事を眺め、相手の見ている世界を見ることである。
それによって、相手のパラダイム、相手の気持ちを理解することである。

p351

この原則はセールスにも当てはまる。
有能なセールス・パーソンは、まず顧客のニーズと関心事を突きとめ、顧客の立場を理解しようとする。
素人のセールス・パーソンは商品を売り、プロはニーズを満たし問題点を解決する方法を売るのである。
アプローチの仕方がまったく異なるのだ。
プロは、どうすれば診断できるか、どうすれば理解できるかを知っている。
顧客のニーズを商品とサービスに結びつける方る。
しかしそれに加えて本物のプロなら、ニーズに合わなければ「私どもの商品(サービス)は、お客様のご要望にはそぐわないのではないでしょうか」と正直に言う誠実さも持っている。

p371

古代ギリシャには素晴らしい哲学があった。
それは、エトス、パトス、ロゴスという三つの言葉のまとまりで表される哲学である。
この三つの言葉には、まず理解に徹し、それから自分を理解してもらうこと、効果的に自分を表現することの本質が含まれていると私は思う。

エトスは個人の信頼性を意味する。
他者があなたという個人の誠実さと能力をどれだけ信頼しているか、つまりあなたが与える信頼であり、信頼残高である。
パトスは感情、気持ちのことである。
相手の身になってコミュニケーションをとることだ。
ロゴスは論理を意味し、自分のことを筋道立てて表現し、相手にプレゼンテーションすることである。

エトス、パトス、ロゴス。
この順番に注意してほしい。
まず人格があり、次に人間関係があり、それから自分の言いたいことを表現する。
これもまた大きなパラダイムシフトである。
自分の考えを相手に伝えようとするとき、ほとんどの人は真っ先にロゴスに飛びつき、左脳を使っていきなり理屈で攻めようとする。
エトスとパトスには見向きもせずに、自分の論理がいかに正しいかを述べ立てるのである。

一対一 p375

第5の習慣の効果が大きいのは、あなたが自分の「影響の輪」の中心に働きかけるからである。
他者と関わり合いを持つ相互依存の状況では、自分の力では解決できない問題や対立、自分には変えることのできない事情や他人の行動など、影響の輪の外のことが多くなる。
輪の外にエネルギーを注いでいても、ほとんど何の成果もあげられず、ただ消耗するだけである。

しかし、まず相手を理解する努力なら、いつでもできる。
これならば、あなたの力でどうにかできる。
自分の影響の輪にエネルギーを注いでいれば、だんだんと他者を深く理解できるようになる。
相手の正確な情報に基づいて問題の核心を素早くつかめる。
信頼口座の残高を増やし、相手の心に心理的な空気を送り込める。
そうして、一緒に問題を効果的に解決できる。

これはまさにインサイド・アウトのアプローチである。
内から外への努力を続けていくと、影響の輪にどのような変化が起こるのだろうか。
相手を本気で理解しようと思って聴くから、あなた自身も相手から影響を受ける。
しかし、自分も心を開いて他者から影響を受けるからこそ、他者に影響を与えることもできるのである。
こうしてあなたの影響の輪は広がり、やがて関心の輪の中にあるさまざまなことにまで影響を及ぼすようになっていく。

あなた自身に起こる変化にも注目してほしい。
周りの人たちへの理解が深まるにつれ、その人たちの人間的価値が見え、敬虔な気持ちを抱くようになる。
他者を理解し、その人の魂に触れることは、神聖な場所に足を踏み入れるのと同じなのである。

第5の習慣は、今すぐにでも実行に移すことができる。
今度誰かと話をするとき、自分の自叙伝を持ち出すのはやめて、その人を本気で理解する努力をしてみる。
その人が心を開いて悩みを打ち明けなくとも、その人の身になり、共感することはできる。
その人の気持ちを察し、心の痛みを感じとって、「今日は元気がないね」と言ってあげる。
その人は何も言わないかもしれない。
それでもいい。
あなたのほうから、その人を理解しようとし、その人を思いやる気持ちを表したのだから。

無理強いしてはいけない。
辛抱強く、相手を尊重する気持ちを忘れずに。
その人が口を開かなくとも、共感することはできる。
表情やしぐさを見ることによって相手に共感することができる。
その人の胸のうちを敏感に察してあげられれば、自分の経験談を話さずとも、寄り添うことはできるのだ。

主体性の高い人なら、問題が起こる前に手立てを講じる機会をつくるだろう。
息子や娘が学校で大きな問題にぶつかるまで手をこまねいている必要はないのだ。
あるいは、商談が行き詰まってから手を打つのではなく、次の商談からすぐにでも、まず相手を理解する努力をしてみる。

p377

ビジネスにおいても、部下と一対一で向かい合う時間をつくり、話を聴いて、理解しようと努力する。
人事関係の問題に対処する窓口やステークホルダーから情報を集めるシステムを確立して、顧客や仕入れ先、スタッフから率直で正確なフィードバックを受ける仕組みを社内に設置するこもできる。
資金や技術と同じくらい、それ以上に人を大切にする。
会社のあらゆるレベルの人の力を引き出すことができれば、時間もエネルギーも資金も大幅に節約できるだろう。
自分の部下や同僚の話を真剣に聴き、彼らから学び、そして彼らの心に心理的な空気を送り込む。
そのような会社であれば、九時から五時までの勤務時間の枠を超えて一生懸命に働く忠誠心も育つのである。

まず理解に徹する。
問題が起こる前に、評価したり処方したりする前に、自分の考えを主張する前に、まず理解するよう努力する。
それは、人と人とが力を合わせる相互依存に必要不可欠な習慣である。

お互いに本当に深く理解し合えたとき、創造的な解決策、第3の案に通じる扉が開かれる。
私たちの相違点が、コミュニケーションや進歩を妨げることはなくなる。
それどころか、違いが踏み台になって、シナジーを創り出すことができるのである。

創造的協力の原則 p382

私は、聖人の願いを己の指針としたい。
危機的な問題においては結束を、
重要な問題においては多様性を、
あらゆる問題においては寛容を。
――大統領就任演説ジョージ・H・W・ブッシュ

ウィンストン・チャーチル卿は、第二次世界大戦時下にイギリス首相に任命されたとき、「私のこれまでの人生は、まさにこのときのためにあった」と語った。
同じ意味で、ここまで学んできた習慣はすべて、シナジーを創り出す習慣の準備だったと言える。

シナジーを正しく理解するなら、シナジーは、あらゆる人の人生においてもっとも崇高な活動であり、他のすべての習慣を実践しているかどうかの真価を問うものであり、またその目的である。

どんなに困難な試練に直面しても、人間だけに授けられた四つの能力(自覚・想像・良心・意志)、Win-Winの精神、共感の傾聴のスキル、これらを総動員すれば、最高のシナジーを創り出すことができる。
そうすると、奇跡としか言いようのない結果に到達できる。
それまで考えてもみなかった新しい道が拓けるのである。

シナジーは、原則中心のリーダーシップの神髄である。
原則中心の子育ての神髄である。
人間の内面にある最高の力を引き出し、一つにまとめ、解き放つ。
ここまで学んできたすべての習慣は、シナジーの奇跡を創り出すための準備だったのである。

シナジーとは、簡単に言えば、全体の合計は個々の部分の総和よりも大きくなるということである。
各部分の関係自体が一つの「部分」として存在するからである。
しかもそれは単なる部分ではなく、触媒の役割を果たす。
人に力を与え、人々の力を一つにまとめるうえで、もっとも重要な働きをするのである。

しかし創造のプロセスに歩み出すときは、とてつもない不安を感じるものだ。
これから何が起こるのか、どこに行き着くのか、まったく見当がつかず、しかもどんな危険や試練が待ち受けているのかもわからないからだ。
冒険心、発見しようとする精神、創造しようとする精神を持ち、一歩を踏み出すには、確固とした内面の安定性が必要となる。
居心地のよい自分の住処を離れて、未知なる荒野に分け入って行くとき、あなたは開拓者となり、先駆者となる。
新しい可能性、新しい領土、新しい大地を発見し、後に続く者たちのために道を拓くのである。

自然界はシナジーの宝庫だ。
たとえば二種類の植物を隣り合わせて植えると、根が土中で入り組み、土壌を肥やし、一種類だけを植えた場合よりもよく育つ。
二本の木材を重ねれば、一本ずつで支えられる重量の和よりもはるかに重いものを支えられる。
全体は各部分の総和よりも大きくなるのである。
一プラス一が三にも、それ以上にもなる。

シナジーを創り出すコミュニケーション p384

他者とのコミュニケーションが相乗効果的に展開すると、頭と心が開放されて新しい可能性や選択肢を受け入れ、自分のほうからも新しい自由な発想が出てくるようになる。
それは第2の習慣(終わりを思い描くことから始める)に反するのではないかと思うかもしれないが、実際にはその正反対であり、第2の習慣を実践していることに他ならない。
たしかに、シナジーを創り出すコミュニケーションのプロセスでは、先行きがどうなるか、最後がどのようなものになるのかわからない。
しかし内面に意欲がみなぎり、心が安定し、冒険心が満ちてきて、前に考えていたことよりもはるかに良い結果になると信じることができるはずだ。
それこそが最初に描く「終わり」なのである。

そのコミュニケーションに参加している人たち全員が洞察を得られるという。
そして、お互いの考えを知ることで得られる興奮がさらに洞察力を深め、新しいことを学び成長していけるという確信を持って、コミュニケーションを始めるのである。

家庭でもその他の場面でも、ささやかなシナジーさえ体験したことのない人は大勢いる。
このような人たちは、自分の周りに殻をつくり、防衛的なコミュニケーションの仕方や人生も他人も信用できないと教わり、脚本づけられているからである。
だから、第6の習慣を受け入れられず、創造的協力の原則を信じようとしない。
これは人生の大きな悲劇だ。
人生を無駄に生きてしまうことにもなりかねない。
持って生まれた潜在能力のほとんどが手つかずのまま、生かされることもなく人生が過ぎていってしまうからである。
効果的でない人生を送る人は、自分の潜在能力を発揮することなく日々を過ごしている。
たとえ人生の中でシナジーを経験することがあったとしても、些細なことであり継続もしない。

あるいは記憶を手繰りよせれば、信じられないほど創造力を発揮した体験が呼び起されるかもしれない。
若い頃の一時期に何かのスポーツで本物のチームスピリットを体験した記憶かもしれない。
あるいは何か緊急事態に遭遇し、自分のわがままやプライドを捨て、居合わせた人たちと結束して人命を救ったり、危機的状況を解決する方法を考え出したりした記憶かもしれない。

多くの人は、これほどのシナジーは自分の人生には起こるはずもない奇跡のようなものだと思っていることだろう。
だが、そうではない。
このようなシナジーを創り出す経験は日常的に生み出せるのであり、毎日の生活で経験できるのだ。
しかし、そのためには、内面がしっかりと安定し、心を開いて物事を受け入れ、冒険に心躍らせる必要がある。

創造的な活動のほとんどは、予測のつかない出来事がつきものである。
先が見えず、当たるのか外れるのかもわからず、試行錯誤の連続である。
だから、こうした曖昧な状況に耐えることができる安定性、原則と内なる価値観による誠実性がなければ、創造的な活動に参加しても不安を感じるだけで、楽しくもないだろう。
こういう人たちは、枠組み、確実性、予測を過度に求めるのだ。

教室でのシナジー p386

本当に優れた授業はカオスのほんの手前で行われるこれは教師としての長年の経験から私自身が実感していることである。
「全体は各部分の総和よりも大きくなる」という原則を教師も生徒も本当に受け入れているかどうかが、シナジーを生むための試金石になる。

教師も生徒も、授業がどのように展開していくのかわからない局面がある。
そのためにはまず、誰もが自分の意見を安心して述べ、全員が他者の意見に耳を傾け、受け入れ、学び合う環境をつくることが大切だ。
それがブレーンストーミングに発展する。
ここでは人の意見を「評価」したい気持ちを創造力と想像力、活発な意見交換によって抑える。
すると、普通では考えられないようなことが起こる。
新しい発想や考え方、方向性に教室全体が湧きたち、興奮の渦と化すのだ。
この雰囲気を言い表すぴったりの言葉は見つからないが、そこにいる全員が興奮を感じとることができる。

シナジーとは、グループの全員が古い脚本を捨て、新しい脚本を書き始めることだと言ってもいい。

ビジネスでのシナジー p391

同僚たちと会社のミッションステートメントを作ったとき、とても印象深いシナジーを体験した。
社員のほぼ全員で山に登り、雄大な自然の中で最高のミッション・ステートメントに仕上げようと、まず第一稿を書くために話し合いを始めた。

最初はお互い尊敬し合い、ありきたりな言葉で慎重に話していた。
しかし、会社の将来についてさまざまな案や可能性、ビジネスチャンスを話し合ううちに、だんだんと打ち解け、自分の本当の考えをはっきりと率直に話せるようになってきた。
ミッション・ステートメントを書くという目的が、いつの間にか全員が自由にイマジネーションを働かせ、一つのアイデアが別のアイデアに自然とつながっていく活発なディスカッションの場となっていた。
全員がお互いに共感しながら話を聴き、それと同時に勇気を持って自分の考えを述べた。
お互いを尊重し、理解しながら、シナジーを生む創造的なコミュニケーションをしていたのだ。

そのエキサイティングな雰囲気を誰もが肌で感じていた。
そして機が熟したところで、全員で共有できるビジョンを言葉にする作業に戻った。
言葉の一つひとつが私たち全員にとって具体的な意味を持っていた。
一人ひとりが決意できる言葉に凝縮されていた。

p395

もっとも低いレベルのコミュニケーションは低い信頼関係から生じる。
自分の立場を守ることしか考えず、揚げ足をとられないように用心深く言葉を選び、話がこじれて問題が起きたときの用心のためとばかりに予防線を張り、逃げ道をつくっておく。
このようなコミュニケーションでは、結果はWin-LoseかLose-Winのどちらかしかない。
P/PCバランスがとれていないから、コミュニケーションの効果はまったく期待できず、さらに強く自分の立場を防衛しなければならない状況をつくり出すという悪循環に陥ってしまう。

中間のレベルはお互いを尊重するコミュニケーションである。
それなりに成熟した人間同士のやりとりである。
相手に敬意は払うけれども、面と向かって反対意見を述べて対立することを避け、そうならないように注意して話を進める。
だから、相手の身になって共感するところまでは踏み込めない。
知的レベルでは相互理解が得られるかもしれないが、お互いの立場の土台となっているパラダイムを深く見つめることなく、新しい可能性を受け入れることはできない。

一人ひとりが別々に何かをする自立状態においては、、お互いを尊重するコミュニケーションのレベルでもうまくいく。
複数の人間が協力し合う相互依存の状況でも、ある程度まではやっていけるだろう。
しかしこのレベルでは、創造的な可能性が開かれることはない。
相互依存の状況でお互いを尊重するコミュニケーションをとると、たいていは妥協点を見つけて終わりである。
妥協とは、一プラス一が一・五にしかならないことである。
どちらも二を求めていたけれども、お互いに〇・五ずつ諦めて一・五で手を打つことだ。
たしかにこのレベルのコミュニケーションでは、それぞれが自分の立場を守ろうとするかたくなな態度はないし、相手に腹を立てることもなく、自分のいいように相手を操ろうという魂胆もなく、正直で誠意あるやりとりができる。
しかし、個々人のクリエイティブなエネルギーが解き放たれず、シナジーも創り出せない。
低いレベルのWin-Winに落ち着くのがやっとだ。

シナジーとは、一プラス一が八にも、一六にも、あるいは一六〇〇にもなることである。
強い信頼関係から生まれるシナジーによって、最初に示されていた案をはるかに上回る結果に到達できる。
しかも全員がそう実感でき、その創造的なプロセスを本心から楽しめる。
そこには小さいながらも完結した一つの文化が花開く。
その場限りで終わってしまうかもしれないが、P/PCのバランスがとれた完璧な文化なのである。

シナジーに到達できず、かといってNo Deal(取引きしない)を選択することもできない、そんな状況になることもあるだろう。
しかしそのような状況であっても、真剣にシナジーを目指していれば、妥協するにしでも、より高い妥協点が見つかるものである。

ネガティブなシナジー p402

白か黒かの二者択一でしか物事を考えられない人にしてみれば、第3の案を探すのはそれこそ途方もないパラダイムシフトだろう。
しかし、その結果の違いは驚くほどである。

人間同士の相互依存で成り立つ現実の世界で生きているにもかかわらず、それに気づかずに問題を解決したり、何かを決定したりするとき、人はどれほど多くのエネルギーを無駄に使っていることだろう。
他人の間違いを責める。
政治的な工作に奔走する。
ライバル心を燃やして対立する。
保身に神経をとがらせる。
陰で人を操ろうとする。
人の言動の裏を読もうとする。
こうしたことにどれだけの時間を浪費しているだろうか。
まるで右足でアクセルを踏みながら左足でブレーキを踏んでいるようなものである。

しかし多くの人はブレーキから足を離そうとせず、さらに強くアクセスを踏み込む。
もっとプレッシャーをかけ、自分の主張を声高に叫び、理屈を並べて自分の立場をより正当化しようとするのだ。

こんなことになるのは、依存心の強い人が相互依存の社会で成功しようとするからである。
依存状態から抜け出ていない人たちにとっては、自分の地位の力を借りて相手を負かそうとするWin-Lose、あるいは相手に好かれたいがために迎合するLose-Winの二つに一つしか選択肢がないのである。
Win-Winのテクニックを使ってみたりはするものの、本当に相手の話を聴きたいわけではなく、相手をうまく操りたいだけなのだ。
このような状況でシナジーが創り出される可能性はゼロである。

内面が安定していない人は、どんな現実でも自分のパラダイムに当てはめられると思っている。
自分の考え方の枠に他者を押しとめ、自分のクローンに改造しようとする。
自分とは違うものの見方、考え方を知ることこそ人間関係がもたらす利点であるのに、その事実に気づかないのだ。
同一と一致は違うのである。
本当の意味での一致というのは、補い合って一つにまとまることであって、同一になることではない。
同一になることはクリエイティブではないし、つまらないものである。
自分と他者の違いに価値を置くことがシナジーの本質なのである。

シナジーに関して、私は一つの確信を持つに至っている。
それは、人間関係からシナジーを創り出すには、まず自分の中でシナジーを創り出さなければならないということだ。
そして自分の内面でシナジーを起こすには、第1、第2、第3の習慣が身についていなければならない。
これらの習慣の原則を理解し実践できている人なら、心を開き、自分の脆い部分をさらけ出すリスクを負っても、内面がぐらつくことはないし、Win-Winを考える豊かさマインドを育て、第5の習慣の本質を体現できるのである。

原則中心の生き方によって得られる非常に現実的な成果の一つは、過不足なく統合された個人になれることである。
論理と言語をつかさどる左脳だけに深く脚本づけられた人は、高度な創造力がなければ解決できない問題にぶつかったとき、自分の思考スタイルの物足りなさを痛感することだろう。
そして、右脳の中で新しい脚本を書き始めるのである。
そもそも、右脳がなかったわけではない。
ただ眠っていただけなのだ。
右脳の筋肉がまだできていなかったのかもしれないし、あるいは子どもの頃には右脳の筋肉をよく使って鍛えていたのに、左脳を重視する学校教育や社会のせいで、すっかり萎縮していたのかもしれない。
直観的、創造的、視覚的な右脳、論理的、言語的な左脳、この両方を使いこなせれば、脳全体をフルに働かせることができる。
つまり、自分の頭の中で心理的なシナジーを創り出せるのだ。
そして左脳と右脳の両方を使うことが、現実の人生にもっとも適したやり方なのである。
人生は論理だけで成り立つものではない。
半分は感情によって成り立っているのだ。

違いを尊重する p407

違いを尊重することがシナジーの本質である。
人間は一人ひとり、知的、感情的、心理的にも違っている。
そして違いを尊重できるようになるためには、誰もが世の中をあるがままに見ているのではなく、「自分のあるがまま」を見ているのだということに気づかなくてはならない。

もし私が世の中をあるがままに見ていると思い込んでいたら、自分との違いを尊重しようと思うだろうか。
「間違っている人」の話など聴くだけ無駄だと切り捨ててしまうだろう。
「私は客観的だ、世の中をあるがままに見ている」というのが私のパラダイムなのだ。
「他の人間は皆些末なことにとらわれているけれども、私はもっと広い視野で世の中を見渡している。
私は立派な視野を持っている。
だから私は上に立つ者としてふさわしい人間なのだ」と自負しているのである。

私がそういうパラダイムを持っていたら、他者と効果的に協力し合う相互依存の関係は築けない。
それどころか、自立した人間になることさえおぼつかないだろう。
自分の思い込みで勝手に条件づけしたパラダイムに縛られているからである。

本当の意味で効果的な人生を生きられる人は、自分のものの見方には限界があることを認められる謙虚さを持ち、心と知性の交流によって得られる豊かな資源を大切にする。
そういう人が個々人の違いを尊重できるのは、自分とは違うものを持つ他者と接することで、自分の知識が深まり、現実をもっと正確に理解できるようになるとわかっているからなのである。
自分の経験したことしか手元になければ、データ不足であることは明らかである。

二人の人間が違う意見を主張し、二人とも正しいということはありうるだろうか。
論理的にはありえないが、心理的にはありえる。
そしてそれは、現実にはよくあることなのである。
一枚の絵を見て、あなたは若い女性に見えると言い、私は老婆に見えると言う。
私たちは同じ白地に同じ黒線で描かれた同じ絵を見ているのだが、解釈の仕方が私とあなたとでは違うのである。
この絵を見る前に、違う見方をするように条件づけられていたからである。

お互いのものの見方の違いを尊重しなければ、また、お互いを尊重し合い、どちらの見方も正しいのかもしれないと思わなければ、自分の条件づけの中にずっととどまることになる。
人生は「あれかこれか」の二者択一で決められるわけではない、答えは白か黒のどちらかだけではない、必ず第3の案があるはずだと思えない限り、自分だけの解釈の限界を超えることはできないのである。

私にはどうしても老婆にしか見えないかもしれない。
しかし私は、その同じ絵があなたの目には違う何かに映っていることはわかる。
私はあなたのその見方を尊重する。
そして私は、あなたの見方を理解したいと思う。

だから、あなたが私とは違うものの見方をしているなら、私は「よかった。
あなたは違うふうに見えるんだね。
あなたに見えているものを私にも見せてほしい」と言えるのである。

二人の人間の意見がまったく同じなら、一人は不要である。
私と同じように老婆にしか見えない人と話をしても、得るものはまったくない。
私とまったく同じ意見を持つ人とは、話す興味は湧いてこない。
あなたは私とは違う意見だからこそ、あなたと話してみたいのだ。
私にとっては、その違いこそが大切なのである。

違いを尊重することによって、私自身の視野が広くなるだけでなく、あなたという人間を認めることにもなる。
私はあなたに心理的な空気を送り込むのである。
私がブレーキから足を離せば、あなたが自分の立場を守ろうとして使っていたネガティブなエネルギーも弱まる。
こうして、シナジーを創り出す環境ができていく。

力の場の分析 p411

相互依存の状況では、成長と変化を妨げるネガティブな力に対抗するときにこそ、シナジーが特に強力になる。

社会心理学者のクルト・レヴィンは、「力の場の分析」というモデルを構築した。
それによると、現在の能力や状態は、上向きの推進力とそれを妨げようとする抑止力とが釣り合ったレベルを表しているという。

一般的に推進力はポジティブな力である。
合理的、論理的、意識的、経済的な力が働くわけである。
それに対して抑止力はネガティブな力であり、感情的、非論理的、無意識、社会的・心理的な力が働く。
自分だけでなく周りの人たちを見ても、両方の力が働いていることはよくわかる。
変化に対応するときには、推進力と抑止力の両方を考慮しなければならない。

たとえば、どんな家庭にも「場の雰囲気」というものがある。
あなたの家庭の「場の雰囲気」を考えてみよう。
ポジティブな力とネガティブな力のかかり具合で、家族同士で気持ちや心配事をどこまで安心して話せるか、どこまでお互いを尊重して話ができるかがおおよそ決まり、家庭の雰囲気を作っている。

あなたは今、その力関係のレベルを変えたいと思っているとしよう。
もっとポジティブな力が働き、家族がお互いをもっと尊重し、もっとオープンに話ができ、信頼感に満ちた雰囲気をつくりたいとしよう。
そうしたいと思う理由、論理的な理由そのものが、釣り合いのレベルを押し上げる推進力になる。

しかし推進力を高めるだけでは足りない。
あなたの努力を抑え込もうとする抑止力があるからだ。
それは兄弟同士の競争心かもしれないし、夫と妻の家庭観の違いかもしれない。
あるいは家族の生活習慣かもしれないし、あなたの時間や労力をかけなければならない仕事やさまざまな用事も抑止力になるだろう。

推進力を強めれば、しばらくは結果が出るかもしれない。
しかし、抑止力がある限り、徐々に推進力を強めることは難しくなっていく。
バネを押すようなもので、強く押せば押すほど強い力が必要になり、そのうちバネの力に負けてしまい、元のレベルに突然跳ね返ってしまうのである。

ヨーヨーのように上がったり下がったりを繰り返しているうちに、「しょせんこんなもの。
そう簡単には変われない」と諦めムードになっていく。

しかし、ここで諦めずにシナジーを創り出すのである。
Win-Winを考える動機(第4の習慣)、まず相手を理解することに徹し、それから自分を理解してもらえるようにするためのスキル(第5の習慣)、他者と力を合わせてシナジーを創り出す相互作用(第6の習慣)、これらを総動員して抑止力に直接ぶつしけるのだ。
抑止力となっている問題について、心を開いて話し合える雰囲気をつくる。
するとがちがちに固まっていた抑止力が溶け始め、ほぐれていき、抑止力が推進力に一変するような新しい視野が開けてくる。
人々を問題の解決に巻き込み、真剣に取り組ませる。
すると誰もが問題に集中し、自分のものとしてとらえ、問題解決の一助となる。

そうすることで、全員が共有できる新しい目標ができ、誰も予想していなかった方向へ話が進んでいき、上向きの力が働き始める。
その力が興奮の渦を抑止力もたらし、新しい文化が生まれる。
興奮の渦の中にいた全員がお互いの人間性を知り、新しい考え方、創造的で斬新な選択肢や機会を発見して、大きな力を得るのである。

自然界のすべてはシナジーである p417

生態系という言葉は、基本的には自然界のシナジーを表している。
すべてのものが他のすべてのものと関係し合っている。
この関係の中で、創造の力は最大化する。
「7つの習慣」も同じである。
一つひとつの習慣が持つ力は、相互に関係し合ったときに最大の力を発揮するのである。

部分と部分の関係は、家庭や組織にシナジーの文化を育む力でもある。
問題の分析と解決に積極的に関わり、自分のものとして真剣に取り組むほど、一人ひとりの創造力が大きく解き放たれ、自分たちが生み出した解決策に責任を持ち、実行できるようになる。
そしてこれはまさに、世界市場を変革した日本企業の力の神髄であると断言できる。

シナジーの力は実際に存在する。
それは正しい原則である。
シナジーは、ここまで紹介してきたすべての習慣の最終目的であり、相互依存で成り立つ現実を効果的に生きるための原則なのである。
チームワーク、チームビルディング、人々が結束して創造力を発揮すること、それがシナジーである。

相互依存の人間関係においては、他者のパラダイムをコントロールすることはできないし、シナジーのプロセスそのものも自分ではコントロールできない。
しかし、あなたの影響の輪の中には、シナジーを創り出すための多くの要素がある。

あなたが自分の内面でシナジーを創り出すとき、その努力は影響の輪の中で完全になされる。
自分自身の分析的な側面と創造的な側面の両方を意識して尊重し、その二つの側面の違いを生かせば、あなたの内面で、創造的なエネルギーが解き放たれるのだ。

敵対心を向けられるような厳しい状況にあっても、自分の内面であればシナジーを創り出すことはできる。
侮辱を真に受ける必要はないし、他者が発するネガティブなエネルギーは身をかわしてよければいい。
他者の良い面を探し出し、それが自分とはまるで異なっていればなおさら、そこから学んで視野を広げていくことができる。

相互依存の状況の中で、あなたは勇気を出して心を開き、自分の考え、気持ち、体験を率直に話すことができる。
そうすれば、他の人たちもあなたに触発されて心を開くだろう。

あなたは他者との違いを尊重することができる。
誰かがあなたの意見に反対しても、「なるほど。
君は違う見方をしているんだね」と言えるのだ。
相手の意見に迎合する必要はない。
相手の意見を認め、理解しようとすることが大切なのである。

自分の考えと「間違った考え」の二つしか見えないときは、あなたの内面でシナジーを創り出して、第3の案を探すことができる。
ほとんどどんな場合でも、シナジーにあふれた第3の案は見つかる。
Win-Winの精神を発揮し、本気で相手を理解しようとすれば、当事者全員にとってより良い解決策が見つかるはずだ。

バランスのとれた再新再生の原則 p424

ときに小さなことから大きな結果が生み出されるのを目にするとき、こう考えてしまう。小さなことなど一つもないのだ。
――ブルース・バートン

森の中で、必死で木を切り倒そうとしている人に出会ったとしよう。

「何をしているんです?」とあなたは聞く。
すると男は投げやりに答える。
「見ればわかるだろう。この木を切っているんだ」
「疲れているみたいですね。いつからやっているんですか?」あなたは大声で尋ねる。
「もう五時間だ。くたくただよ。大変な仕事だ」
「それなら、少し休んで、ノコギリの刃を研いだらどうです?そうすれば、もっとはかどりますよ」とあなたは助言する。
すると男ははき出すように言う。
「切るのに忙しくて、刃を研ぐ時間なんかあるもんか!」

第7の習慣は、刃を研ぐ時間をとることである。
成長の連続体の図では、第7の習慣が第1から第6までの習慣を取り囲んでいる。
第7の習慣が身につけば、他のすべての習慣を実現可能にする。

再新再生の四つの側面 p425

第7の習慣は個人のPC(成果を生み出す能力)である。
あなたの最大の資産、つまりあなた自身の価値を維持し高めていくための習慣である。
あなたという人間をつくっている四つの側面(肉体、精神、知性、社会・情緒)の刃を研ぎ、再新再生させるための習慣である。

表現の仕方は違っていても、人生を巡る哲学のほとんどは、何らかのかたちでこれら四つの側面を取り上げている。
哲学者のハーブ・シェパードは、バランスのとれた健全な生活を送るための基本価値として、観点(精神)、自律性(知性)、つながり(社会)、体調(肉体)の四つを挙げている。
「走る哲学者」と呼ばれたジョージ・シーハンは、人には四つの役割――よき動物(肉体)、よき職人(知性)、よき友人(社会・情緒)、よき聖人(精神)――があると説いている。
組織論や動機づけの理論の多くも、経済性(肉体)、処遇(社会・情緒)、育成や登用(知性)、社会に対する組織の貢献・奉仕(精神)のかたちで四つの側面を取り上げている。

「刃を研ぐ」というのは、基本的に四つの側面すべての動機を意味している。
人間を形成する四つの側面のすべてを日頃から鍛え、バランスを考えて磨いていくことである。

そのためには、私たちは主体的であらねばならない。
刃を研ぐのは第II領域に入る活動であり、第II領域は、あなたが主体的に行うべき活動の領域である。
第I領域の活動は緊急であるから、自分から主体的に動かなくとも、活動のほうからあなたに働きかけてくる。
しかしあなたのPC(成果を生み出す能力)は、自分から働きかけなくてはならない。
習慣として身について意識せずともできるようになるまで、いわば「健康的な依存症」の域に達するまで、自分から主体的に実践しなければならないのだ。
その努力はあなたの影響の輪の中心にあるから、他の誰かに代わりにやってもらうことはできない。
自分のために、自分でしなければならないのである。

「刃を研ぐ」ことは、自分の人生に対してできる最大の投資である。
自分自身に投資することだ。
人生に立ち向かうとき、あるいは何かに貢献しようとするときに使える道具は、自分自身しかない。
自分という道具に投資することが「刃を研ぐ」習慣なのである。
自分自身を道具にして成果を出し、効果的な人生を生きるためには、定期的に四つの側面すべての刃を研ぐ時間をつくらなければならない。

肉体的側面 p427

肉体的側面の刃を研ぐというのは、自分の肉体に効果的に気を配り、大切にすることである。
身体によいものを食べ、十分な休養をとってリラックスし、定期的に運動する。

運動は第II領域に入る波及効果の大きい活動だが、緊急の用事ではないから、続けようと思ってもそう簡単にはいかない。
しかし運動を怠っていると、そのうち体調を崩したり病気になったりして、第I領域の緊急事態を招くことになりかねない。

多くの人は、「運動する時間なんかない」と思っている。
しかしこれは大きく歪んだパラダイムだ。
「運動せずにいてもよい時間などない!」と思うべきなのである。
せいぜい週に三時間から六時間程度、一日おきに三〇分くらい身体を動かせばいいのである。
週の残り一六二時間から一六五時間を万全の体調で過ごせるのだから、たったこれだけの時間を惜しむ理由などないだろう。

特別な器具を使わなくとも運動はできる。
ジムに通ってトレーニングマシンで肉体を鍛えたり、テニスやラケットボールなどのスポーツを楽しむこともいいだろう。
しかし、肉体的側面で刃を研ぐのに、そこまでの必要性はない。

理想的なのは、自宅でできて、持久力、柔軟性、筋力の三つを伸ばせる運動プログラムである。

持久力をつけるには、心臓血管の機能を高める有酸素運動が適している。
心臓が肉体に血液を送り出す機能を強化するわけである。

心臓は筋肉でできているが、心筋を直接鍛えることはできない。
脚の筋肉など大きな筋肉群を動かす運動をして鍛えるしかない。
だから、早歩きやランニング、自転車、水泳、クロスカントリースキー、ジョギングなどの運動が非常に効果的なのである。

一分間の心拍数が一〇〇を超える運動を三〇分続けると、最低限の体調を維持できると言われている。

少なくとも自分の最大心拍数の六〇%になれば理想的だ。
最大心拍数というのは、一般的には、二二〇から年齢を差し引いた数値だと言われ、心臓が全身に血液を送り出すときのトップスピードのことである。
たとえば四〇歳の人なら、最大心拍数は二二〇-四〇=一八〇だから、一八〇×〇・六=一〇八まで心拍数を上げる運動が理想的である。
最大心拍数の七二~八七%になる運動であれば、「トレーニング効果」が表れるとされている。

柔軟性にはストレッチが最適である。
ほとんどの専門家は、有酸素運動の前にウォーミングアップ、後にクールダウンとしてストレッチを行うよう勧めている。
運動の前にストレッチすると、筋肉がほぐれて温まり、激しい運動をする準備ができる。
運動の後のストレッチは、筋肉にたまった乳酸を散らすので、筋肉の痛みや張りを防ぐ効果がある。

筋力をつけるには、筋肉に負荷をかける運動がよい。
シンプルな体操、腕立て伏せや懸垂、腹筋運動、あるいはウェイトを使った運動などである。
どのくらいの負荷をかけるかは人それぞれである。
肉体労働者やスポーツ選手であるなら、筋力をつけることがそのままスキルアップにつながるが、デスクワークが主体で、それほど強い筋力は必要ないのなら、有酸素運動やストレッチのついでに、筋肉に負荷をかける運動を少しやる程度で十分だろう。

p431

あなたがこれまで運動をしていなかったのであれば、甘やかし、衰えていた肉体は、突然の変化に明らかに抵抗するはずだ。
最初のうちは、運動を楽しめないだろう。
むしろ嫌で嫌でたまらないかもしれない。
しかし、そこで主体的になろう。
とにかく実行する。
ジョギングする日の朝に雨が降っていても、決行する。
「雨か。よし、肉体だけでなく精神も鍛えるぞ!」と張り切って外へ出よう。

運動は応急処置ではない。
長い目で見て大きな成果をもたらす第II領域の活動である。
コンスタントに運動している人に尋ねてみるといい。
少しずつ地道に続けていれば、心臓と酸素処理系統の機能が向上し、休息時心拍数が徐々に下がっていく。
肉体の耐えられる負荷が大きくなり、普通の活動もはるかに快適にこなせるようになる。
午後になっても体力が落ちず、新たなエネルギーが肉体を活性化し、それまではきついと感じていた運動も楽にできるようになる。

運動を継続することで得られる最大のメリットは、第1の習慣の主体的な筋肉も鍛えられることだろう。
運動を行うことを妨げるすべての要因に反応せずに、健康を大切にする価値観に基づいて行動すると、自信がつき、自分に対する評価や自尊心、誠実さが大きく変わっていくはずである。

精神的側面 p431

精神的側面の再新再生を行うことは、あなたの人生に対してリーダーシップを与える。
これは第2の習慣と深く関係している。

精神的側面はあなたの核であり、中心であり、価値観を守り抜こうとする意志である。
きわめて個人的な部分であり、生きていくうえで非常に大切なものである。
精神的側面の刃を研ぐことは、あなたを鼓舞し高揚させ、人間の普遍的真理にあなたを結びつけてくれる源泉を引き出す。
それを人はそれぞれまったく異った方法で行う。

私の場合は毎日聖書を読み、祈り、瞑想することが精神の再新再生になっている。
聖書が私の価値観をなしているからである。
聖書を読んで瞑想していると、精神が再生され、強くなり、自分の中心を取り戻し、人に仕える新たな決意が湧いてくる。

偉大な文学や音楽に没入して精神の再新再生を感じる人もいるだろう。
雄大な自然との対話から再新再生を見出す人もいるだろう。
自然に抱かれると、自然の恵みがひしひしと伝わってくるものである。
都会の喧騒から逃れて、自然の調和とリズムに身を任せると、生まれ変わったような気持ちになる。
やがてまた都会の喧騒に心の平和を乱されるにしても、しばらくは何事にも動じることのない平穏な心でいられる。

p432

アーサー・ゴードンは、『The Turn of the Tide(潮の変わり目)』という小説の中で、彼自身の精神の再新再生を語っている。

彼はある時期、人生に行き詰まり、何もかもがつまらなく無意味に思えた。
熱意は失せ、執筆にも身が入らず、何も書けない日々が続いた。
状況はましに悪くなるばかりだった。

彼はついに意を決し、医者の診察を受ける。
診察してみてどこにも悪いところはないと判断した医者は、「一日だけ私の指示に従えるかね」とゴードンに聞いた。

ゴードンが「できます」と答えると、こう指示した。
「明日、あなたが子どもの頃一番幸せを感じた場所に行って過ごしなさい。食べ物は持って行ってもいいですよ。しかし誰とも話してはいけない。本を読んでもいけないし、文章を書くこともだめだ。ラジオを聞くのもだめ」
医者は四枚の処方箋を書いて彼に手渡し、それを一つずつ九時、一二時、三時、六時に開くように言った。

「先生、これは何かの冗談ですか?」とゴードンは言った。

「そのうち請求書を送りますよ。それを見れば、とても冗談とは思わないでしょうな」と医者は答えた。

次の日の朝、ゴードンは海岸に行った。
九時、一枚目の処方箋を読む。
「耳を澄まして聴きなさい」と書いてある。
あの医者のほうこそおかしいんじゃないか、と彼は思った。
いったい三時間も何を聴けばいいんだ?
しかし指示に従うと約束した手前、とにかく聴くことにした。
ごく普通の海の音、鳥の鳴き声しか聴こえない。
だがしばらくすると、最初は気づかなかったさまざまな音が耳に入ってくる。
聴きながら、子どもの頃に海が教えてくれたいろいろなことに思いを巡らせた。
忍耐、尊敬、あらゆるものは相互に依存しつながり合っていること。
それらの音を聴き、そして音と音の間の静寂を聴くうちに、穏やかな気持ちに満たされてきた。

正午、二枚目の処方箋を開く。
「振り返ってみなさい」としか書いていない。
何を振り返るんだ?
子どもの頃のことだろうか、幸せだった日々のことだろうか。
彼は昔のことを思い出してみた。
小さな喜びの瞬間が次々と蘇る。
それらを正確に思い出そうとした。
思い出しているうちに、心の中に温もりが広がった。

三時、三枚目の処方箋を開く。
一枚目と二枚目の処方箋は簡単だったが、これは違った。
「自分の動機を見つめなさい」と書いてある。
彼は思わず身構えた。
成功、名声、生活の安定……今まで追い求めてきたものを一つずつ思い返し、自分の動機に間違いはなかったと自分に言い聞かせた。
しかし、そこではたと気づく。
これらの動機では足りないのかもしれない。
自分が今行き詰っている原因もそこにあるのかもしれない。

ゴードンは自分の動機を深く見つめた。
昔の幸福だった日々に思いをはせた。
そしてついに、答えが見つかった。

「一瞬のひらめきで確信した」と彼は書いている。
「動機が間違っていたら、何をやっても、どれも正しくはない。
どんな仕事でも同じだ。
郵便配達人だろうと、美容師だろうと、保険の外交員だろうと、主婦であろうと関係ない。
自分が人のためになっていると思える限り、仕事はうまくいく。
自分のことしか考えずにやっていると、うまくいかなくなる。
これは万有引力と同じくらいに確かな法則なのだ」

六時になった。
最後の処方箋を開く。
この指示を実行するのに時間はさほどかからなかった。
「悩み事を砂の上に書きなさい」ゴードンは貝殻を拾い、しゃがんで、いくつかの言葉を足元の砂の上に書きとめた。
そして立ち上がって、きびすを返して歩いていった。
後ろは振り返らなかった。
そのうち潮が満ちて、すべてを消し去るだろう。

p434

精神の再新再生には、時間を投資しなければならない。
これは決して無駄にすることのできない第II領域の活動である。

偉大な宗教改革者マルティン・ルターは、「今日はあまりにもすべきことが多いから、一時間ほど余分に祈りの時間をとらなければならない」と言ったという。
ルターにとって、祈りは単なる義務ではなかった。
自らのうちに活力を蓄え、そしてそれを解き放つために必要な源だったのである。

どんなに大きなプレッシャーにさらされても動じず、平静でいられる禅僧に、「どうしたらあなたのように平静心を保てるのですか?」と誰かが尋ねた。
禅僧は「私は座禅の場を離れない」と答えたという。
禅僧は朝早く座禅を組み、そのときの平静な精神を一日中、どこにいても頭と心の中に置いているのである。

自分の人生を自分で導くために、リーダーシップを生活の中心に置き、人生の方向、人生の究極の目的を見つめる時間をとると、その効果は傘のように大きく広がり、他のあらゆるものすべてに影響を与える。
それによって私たちの精神は再新再生され、新たな気持ちになれるのである。

私が人生のミッション・ステートメントを大切にしている理由もここにある。
自分の中心と目的を明確にし、ステートメントにしておけば、たびたびそれを見直し、決意を新たにできる。
精神を再新再生する毎日の活動の中で、ミッションステートメントに記された価値観に沿ってその日行うことを思い描き、頭の中で「予行演習」することができるのである。

宗教家のデビッド・O・マッケイは「人生の最大の闘いは、日々自らの魂の静けさの中で闘われるものである」と教えている。
あなたがこの闘いに勝ち、心の中の葛藤を解決できれば、平穏な気持ちになり、自分が目指すものを見出せる。
そうすれば公的成功は自然とついてくる。
自分の力を生かせると思う分野で他者の幸福のために貢献し、他者の成功を心から喜べるようになるのである。

知的側面 p436

ほとんどの人は、正規の学校教育で知性を伸ばし、勉学する姿勢を身につける。
しかし学校を卒業するなり、知性を磨く努力をぱったりとやめてしまう人が少なくない。
真剣に本を読まなくなり、自分の専門外の分野を探求し知識を広げようとせず、分析的に考えることもしなくなる。
文章を書くこともしない。
少なくとも、自分の考えをわかりやすく簡潔な言葉で表現する能力を試そうともしないのだ。
その代わりにテレビを見ることに時間を使っているのである。

ある調査によれば、ほとんどの家庭で週に三五時間~四五時間もテレビがついているという。
これは一般的な週の労働時間とほぼ同じであり、子どもたちが学校で勉強する時間よりも長いのである。
テレビほど社会的影響力の強いものはない。
テレビを見ると、そこから流れてくる価値観にいとも簡単に引き寄せられる。
実に巧妙に、知らず知らずのうちに、私たちを強烈に感化しているのである。

テレビを賢く見るには、第3の習慣に従ってセルフ・マネジメントをしっかりと行う必要がある。
自分の目的のためになり、自分の価値観に合う番組、適切な情報を得られ、楽しめて、インスピレーションを刺激してくれる番組を選ぶようにする。

わが家では、テレビの時間は週に約七時間までと決めている。
一日平均一時間ほどである。
あるとき家族会議を開き、テレビが家庭に及ぼしている弊害を示すデータを見ながら話し合った。
家族全員が素直に、かたくなにならずに話し合うことができ、連続ドラマにはまったり、テレビをつけっぱなしにしたりする「テレビ中毒」は依存症の一種だということを、家族の一人ひとりが自覚できるようになった。

ただし、私はテレビの存在に感謝しているし、質の高い教育番組や娯楽番組を楽しんでもいる。
そういう番組は生活を豊かにしてくれるし、自分の目的や目標に役立つこともある。
しかしその一方で、時間と知性の浪費にしかならない番組、ただ漫然と見ていたら悪い影響しか及ぼさないような番組もたくさんある。
自分の肉体がそうであるように、テレビはよい下僕にはなっても、よい主人になることはない。
自分の人生のミッションを果たすために使える資源を最大限効果的に活用するには、第3の習慣を実践し、自分自身をきちんとマネジメントできなければいけない。

継続的に学ぶこと、知性を磨き広げていく努力をすることは、知的側面の再新再生には不可欠である。
学校に通うとか、体系的な学習プログラムを受講するなど、外からの強制的な教育が必要な場合もあるだろうが、たいていはそのようなものは不要である。
主体的である人なら、自分の知性を磨く方法をいくらでも見つけられるだろう。

知性を鍛え、自分の頭の中のプログラムを客観的に見つめることはとても大切である。
より大局的な問題や目的、他者のパラダイムに照らして、自分の人生のプログラムを見直す能力を伸ばすことこそ、教育の定義だと私は考えている。
このような教育もなく、ただ訓練を重ねるだけでは視野が狭くなり、その訓練をどのような目的で行うのか考えることができなくなる。
だから、いろいろな本を読み、偉人の言葉に接することが大切なのだ。

日頃から知識を吸収して知性を広げていこうと思ったら、優れた文学を読む習慣を身につけることにまさる方法はない。
これもまた波及効果の大きい第II領域の活動である。
読書を通じて、古今東西の偉大な知性に触れることができる。
ぜひ一ヵ月に一冊のペースで読書を始めてみてほしい。
それから二週間に一冊、一週間に一冊というようにペースを上げていくとよいだろう。
「本を読まない人は、読めない人と何ら変わらない」のである。

優れた古典文学や自伝、文化的な視野を広げてくれる良質の雑誌、現代の多様な分野の書籍を読むことによって、自分のパラダイムが広がり、知性の刃を研ぐことができる。
本を読むときにも第5の習慣を実践しよう。
まず理解に徹しようと思いながら読めば、知性の刃はいっそう鋭くなる。
著者が言わんとしていることを理解しないうちに、自分の経験に照らして内容を判断してしまったら、せっかくの読書の価値も半減してしまう。

文章を書くことも、知性の刃を研ぐ効果的な手段である。
考えたことや体験したこと、ひらめき、学んだことを日記につけることは、明確に考え、論理的に説明し、効果的に理解できる能力に影響を与える。
手紙を書くときも、ただ出来事を書きならべて表面的な話に終始するのではなく、自分の内面の奥底にある考えや思い文章で伝える努力をすることも、自分の考えを明確にし、相手からわかってもらえるように論理的に述べる訓練になる。

スケジュールを立てたり、何かを企画したりすることも、第2、第3の習慣に関わる知性の再新再生になる。
計画を立てるのは、終わりを思い描くことから始めることであり、その終わりに至るまでのプロセスを頭の中で組み立ててみることである。
知力を働かせ、始めから終わりまでのプロセスを思い描き、想像してみる。
一つひとつのステップを事細かく思い描くことまでしなくとも、全体の道筋を見渡してみればいい。

「戦争の勝敗は将軍の天幕の中で決まる」と言われる。
最初の三つの側面肉体、精神、知性の刃を研ぐ努力を、私は「毎日の私的成功」と呼んでいる。
あなたの内面を磨く時間を毎日一時間とることを勧めたい。
これから一生、毎日一時間でよいから、ぜひそうしてほしい。

一日のうちわずか一時間を自分の内面を磨くことに使うだけで、私的成功という大きな価値と結果が得られるのである。
あなたが下すすべての決断、あらゆる人間関係に影響を与えるだろう。
一日の残り二三時間の質と効果が向上する。
睡眠の質までよくなり、ぐっすりと眠って肉体を休ませられる。
長期的に肉体、精神、知性を日々鍛え、強くし、人生の難局に立ち向かい乗り越えられるようになるのだ。

フィリップス・ブルックス(訳注:米国の宗教家)は次のように言っている。

これから何年か先、君が大きな誘惑と格闘しなければならない日がくるだろう。
あるいは人生の深い悲しみを背負い、その重さにうちふるえる日がくるだろう。
しかし本当の闘いは、今ここですでに始まっている。
大きな悲しみや誘惑にぶつかったとき、惨めな敗北を喫するか、栄光の勝利を手にするか、それは今決まりつつある。
人格をつくるには、こつこつと努力を重ねていく以外に方法はないのだ。

社会・情緒的側面 p439

肉体、精神、知性の側面は、パーソナル・ビジョン、パーソナル・リーダーシップ、パーソナル・マネジメントの原則を中心とした第1、第2、第3の習慣と密接に関わっている。
それに対して社会・情緒的側面は、人間関係におけるリーダーシップ、共感による相互理解、創造的協力の原則を中心とした第4、第5、第6の習慣と関係するものである。

社会的側面と情緒的側面は結びついている。
私たちの情緒は主に人との関係によって育まれ、表に出てくるからである。

肉体、精神、知性の再新再生には時間がかかるが、社会・情緒的側面については、それほど時間をかけなくとも再新再生できる。
普段の生活で人と接する中で十分にできるからだ。
しかし、訓練は必要となる。
他者との関係を築く第4、第5、第6の習慣を実行する私的成功のレベルを獲得し、さらに公的成功のスキルを身につけていなければならない。

たとえば、あなたが私の人生で重要な位置を占める人物だとしよう。
上司、部下、同僚、友人、隣人、配偶者、子ども、親類など、どうしても接しなければならない人物、無視することのできない人物で、あなたと私は、何かの目的を達成するか、重要な問題を解決するために、あるいは難局を切り抜けるために、話し合い協力しなければならない状況にあるとしよう。
しかし私たちはものの見方が違っている。
あなたと私は違う眼鏡をかけている。
あなたには若い女性に見える絵が、私には老婆に見えるのだ。

そこで私は第4の習慣を実践して、あなたにこう提案する。
「あなたと私とでは、この問題に対する見方が違うようですね。よく話し合って、お互いに満足できる道を探しませんか?どうでしょう?」こう言われれば、ほとんどの人は「やってみましょう」と答えるはずである。

次に私は第5の習慣に移り、「最初にあなたの考えを聴かせてください」と言う。
次に何と答えようかと考えながら聞くのではなく、あなたの身になって共感しながら聴く。
あなたのパラダイムを深く、隅々まで理解するつもりで聴く。
あなたの主張をあなたと同じくらい正確に説明できるようになったら、今度はあなたにわかってもらえるように自分の考えを述べる。

私とあなたがお互いに満足できる解決策を求めようという決意を持ち、お互いの観点を深く理解できれば、私たちは第6の習慣に進むことができる。
認め合った意見の違いを踏まえたうえで、あなたと私がそれぞれ最初に提示していた案よりも優れた第3の案を見つけるために力を合わせるのである。

第4、第5、そして第6の習慣において成果を出すには、基本的に知性の問題ではなく感情の問題である。
心の安定と密接に関係しているのである。

心の安定を自分の内面にあるものから得ている人は、公的成功の習慣を実践できる強さを持っている。
内面が安定していない人は、知力がどれほど高くとも、人生の難しい問題で自分とは違う考えを持つ相手に対して、第4、第5、第6の習慣を実践してみたところで、自分との違いを脅威に感じて尻込みしてしまうだろう。

心の安定の源はどこにあるのだろうか。
他の人たちにどう見られているかとか、自分がどんな扱いを受けるかというようなことから得られるのではない。
他者から渡された脚本から得られるのでもない。
周りの環境や自分の地位も心の安定を与えてはくれない。

心の安定は自分自身の内側から生まれる。
頭と心に深く根づいた正確なパラダイムと正しい原則から生まれる。
心の奥深くにある価値観と一致する習慣を日々実践する誠実な生き方、内から外へ、インサイド・アウトの生き方から生まれるのである。

自分の価値観に誠実に生きることが、自尊心を呼び起こす源だと私は確信している。
昨今売れている本の中には、自尊心は気の持ちようだとか、考え方や態度次第でどうにでもなるとか、その気になれば心の平和は得られるといったようなことが書いてあるものも多いが、それは違うと思う。

心の平和は、自分の生き方が正しい原則と価値観に一致していて初めて得られるものであり、それ以外はないのである。

他者との相互依存の関係から得られる心の平和もある。
Win-Winの解決策がきっとある、人生は白か黒かの二つの一つではない、お互いのためになる第3の案が必ず見つかるはずだ。
そう思えば内面は安定していられる。
自分の考え方を否定しなくとも、そこから一歩出れば相手を理解できるのだと思えば、心は安定する。
本当の自分を見せて、他者と創造的に協力し、相互依存の習慣を実践して新しいものを見つける体験をすれば、心は少しもぐらつかず、しっかりと安定していられるのである。

人に奉仕し、人の役に立つことも心の安定をもたらす。
その意味からすれば、あなたの仕事も心の安定を与える源になる。
創造力を発揮して仕事に取り組み、世の中に貢献していると思えるとき、あなたは心の安定を得られるはずだ。
人知れず奉仕活動をすることも同じである。
誰もそのことを知らないし、誰かに知らせる必要もない。
人に褒めてもらうことではなく、他の人たちの人生が豊かにになるように奉仕することが大切なのである。
目的は人に働きかけ、良い影響を与えることであって、認められることではない。

ヴィクトール・フランクルも、人生に意味と目的を見出すことがいかに重要であるか力説している。
それによって自分の人生を超越し、自分の内面にある最高の力を発揮できるのである。
ストレスの研究で名高い故ンス・セリエ博士は、健康で幸せに長生きする鍵は、世の中に貢献し、人のためになり、自分の気持ちも高揚する有意義な活動に身を捧げ、人の生活に喜びをもたらすことだと述べている。
博士の座右の銘は、「汝の隣人に愛されるように努めよ」であった。

ジョージ・バーナード・ショー(訳注:英国の劇作家)は次のように語っている。

これこそ人生の真の喜びである自らが大切だと信じる目的のために働くことである。
それは自然の力と一体になることであって、世界が自分を幸せにしてくれないと嘆いたり、不平を言ってばかりいる利己的な愚か者になることではない。
私は自分の人生がコミュニティ全体に属するものであると考える。
したがって、命ある限りコミュニティのために尽くすことは私の名誉なのだ。
死ぬときには自分のすべてを使い果たしていたい。
なぜなら働けば働くほど、より生きているということだからだ。
私は生きることにこの上ない歓びを感じる。
私にとって人生とは短いろうそくではない。
それは私に手渡され、私が今このときに掲げている松明のようなものだ。
だからそれを次の世代に手渡すまで、できる限り赤々と燃やし続けたいのである。

同じように、N・エルドン・タナー(訳注:米国の宗教家)はこう言っている。
「奉仕とは、この地球に住む特権を得るための家賃である」人に奉仕する方法はいくらでもある。
教会や奉仕団体に属していようがいまいが関係ない。
多くの人のためになる仕事に就いているかどうかも関係ない。
少なくとも一人の誰かに無条件の愛を注ぐ機会なしに一日が終わることはないはずだ。

他者への脚本づけ p444

ほとんどの人は、自分の周りの人たちの意見やものの見方、パラダイムに脚本づけされている。
そのような社会通念の鏡に映った自分の姿が本当の自分だと思っている。
しかし、相互依存の状態にいる人は、他者にとっては自分自身も社会通念の鏡の一部であることを自覚している。

私たちは、その鏡に歪みのない鮮明な他者の姿を映してあげることができる。
相手の主体性を認め、責任ある個人として接すれば、その人の本来の姿を映し出すことができる。
その人が、原則を中心に置き、自分の価値観を大切にして自立し、世の中のためになる人間として生きていく脚本を書く手助けができる。
豊かさマインドを持っている人なら、相手のポジティブな部分を映し出してあげても何も損なうものはない。
それどころか、あなたの手助けによって本来の主体性が引き出された人と接する機会が増えるのだから、あなたにとってもプラスになるのである。

あなたのこれまでの人生を振り返ってみてほしい。
すっかり自信をなくしていたとき、あなたを信じていてくれた人がいたはずだ。
その人はあなたに良い脚本を与えてくれた。
それがあなたの人生にどれだけ大きな影響を及ぼしただろうか。

もし、あなたが他者の良いところを認め、その人に良い脚本を与えることができるとしたらどうだろう。
社会通念の鏡に映った自分が本当の自分だと思い込み、人生の坂道を転げ落ちようとしている人がいたら、あなたはその人の可能性を信じて、坂道を登っていけるように上を向かせることができる。
その人の話に耳を傾け、その人の身になって共感する。
その人の責任を肩代わりしてやるのではなく、その人が主体的な人間になって責任を果たせるように励ますのである。

p447

私たちは他者に対して、そこにどんな姿を映してあげているだろうか。
そして、それらは彼らの人生にどれだけの影響を及ぼしているだろうか。
他者の姿は、その人の人生に計り知れない影響を及ぼしているのである。
ものの見方を変えれば、他の人たちの信頼口座に大きな預け入れができる。
配偶者、子ども、同僚、部下と接するとき、相手の内面に眠っている潜在能力が見える人は、記憶よりも想像力を使う。
相手にレッテルを貼ろうとせず、会うたびに新鮮な目でその人を見ることができる。
そうしてその人自身が自立し、深い満足感を持ち、豊かで生産的な人間関係を育てていけるように手助けするのである。

ゲーテは次のような言葉を残している。
「現在の姿を見て接すれば、人は現在のままだろう。人のあるべき姿を見て接すれば、あるべき姿に成長していくだろう」

再新再生のバランス p447

自分を再新再生するプロセスを行うためには、肉体、精神、知性、社会・情緒の四つの側面すべてにわたってバランスよく刃を研がなくてはならない。

四つの側面はそれぞれに大切だが、四つのバランスを考えて磨くことによって最大の効果が得られる。
どれか一つでもおろそかにしたら、他の三つの側面に必ず悪影響が及ぶ。

これは個人に限らず組織でも同じである。
組織の場合で言えば、肉体的側面は経済性である。
知的側面は、人材を発掘して能力を開発し、有効に活用することだ。
社会・情緒的側面は、人間関係やスタッフの処遇である。
そして精神的側面は、組織の目的や貢献、組織としての一貫した姿勢を通して存在意義を見出すことである。

これら四つのうちどれか一つでも刃が鈍っていたら、組織全体に悪影響が波及していく。
大きくポジティブなシナジーを創り出すはずの創造的なエネルギーが、組織の成長と生産性を妨げる抑止力になってしまうのだ。
経済的側面の刃しか研がない組織は少なくない。
金儲けだけを考えている組織だ。
もちろん、その本音をおおっぴらには言わない。
表向きには聞こえのよい目的を掲げている場合もある。
しかし一皮むけば、金を儲けることしか眼中にない。

このような企業では必ず、ネガティブなシナジーが創り出されている。
部門間の争い、保身優先で建前だけのコミュニケーション、政治的な駆け引き、策略などが横行している。
たしかに利益がなければ組織は効果性を発揮できなくなるが、組織の存在意義はそれだけではない。
人は食べなければ生きてはいけないが、食べるために生きているわけではないのだ。

これと対極にあるのが、社会・情緒的側面の刃だけをせっせと研いでいる組織である。
このような組織は、組織の価値基準から経済性を排除したらどうなるかという社会的実験を行っているようなものである。
組織の効果性を測る基準を設定していないから、あらゆる活動の効率が落ち、非生産的になって、しまいには市場から追い出されるのである。

四つの側面のうち三つまでなら刃を研いでいるが、四つ全部まで手がまわらない組織が多いのではないだろうか。
たとえば、組織としてのサービス水準(精神的側面)、高い経済性(肉体的側面)、良い人間関係(社会・情緒的側面)はうまく再新再生できていても、才能を見出し、能力を伸ばして有効に活用し、認める知的側面は手薄になっているというようなケースだ。
この知的側面の刃が鈍っている組織のマネジメント・スタイルは、見た目は穏やかだが内実は独裁で、その結果、組織内の反発や抗争、高い離職率など深刻で慢性的な文化の問題を抱えることになる。

個人だけでなく組織においても効果的に力を発揮するためには、四つの側面すべてをバランスよく伸ばし、再新再生する努力が必要である。
どれか一つでも刃が鈍っていたら、それが組織の効果性と成長を妨げる抑止力として働く。
組織でも個人でも、四つの側面のすべてをミッション・ステートメントに盛り込めば、バランスのとれた再新再生の枠組みになるだろう。

このような継続的改善のプロセスがTQC(Total Quality Control)の核をなすものであり、日本経済の発展を支えているのである。

再新再生のシナジー p449

バランスのとれた再新再生そのものが、シナジーを創り出す。
四つの側面は密接な相関関係にあるから、どれか一つの側面の刃を研げば、他の側面に良い影響を与える。
肉体の健康は精神の健康に影響し、精神の強さは社会・情緒的な強さに影響する。
一つの側面の刃が鋭くなれば、他の三つの側面の刃も鋭くなる。

「7つの習慣」によって四つの側面のシナジーが創り出される。
四つの側面のどれか一つの刃を研ぐと、「7つの習慣」のうち少なくとも一つを実践する能力が高まる。
習慣には順番があるとはいえ、どれか一つの習慣が改善されると、シナジー的に他の六つの習慣を実践する力も高まっていくのである。

たとえば、あなたが主体的に行動するほど(第1の習慣)、自分の人生を自分で導くパーソナル・リーダーシップ(第2の習慣)と自分を律するパーソナル・マネジメント(第3の習慣)の能力が向上する。
パーソナル・マネジメントの能力が高まれば、第II領域に属する再新再生の活動(第7の習慣)を実行できるようになる。
そして、まず相手を理解する努力をするほど(第5の習慣)、お互いの間にシナジーが創り出され、Win-Winの結果を効果的に見出せるようになる(第4、第6の習慣)。
自立に至る習慣(第1、第2、第3の習慣)のどれか一つでもしっかり身につけば、相互依存の関係を育む習慣(第4、第5、第6の習慣)を効果的に実践できるようになる。
そして再新再生(第7の習慣)は、他の六つの習慣すべてを再新再生させるプロセスなのである。

肉体的側面を再新再生する活動は、あなたの自信を強くし、自覚と意志、主体性を向上させる(第1の習慣)。
周りの環境から影響を受けるのではなく、自分から働きかけること、どんな刺激に対しても反応を自分で選択することで、主体的に行動できるようになるのだ。
おそらくはこれが、定期的に運動して肉体的側面の刃を研ぐ最大のメリットだろう。
毎日の私的成功の一つひとつが、心の安定口座への預け入れになるのである。

精神的側面を再新再生する活動は、あなたのパーソナル・リーダーシップを育てる(第2の習慣)。
記憶だけに頼らず、想像力を働かせ、良心に従って生きる能力が向上するのである。
あなたの内面の奥底にあるパラダイムと価値観を深く理解し、正しい原則を内面の中心に据え、自分の人生のミッションを明らかにし、正しい原則と一致した生活を送れるように人生の脚本を書き直し、内面の強さの根源を生かして生きていけるようになる。
精神の再新再生によって私生活が豊かになることも、心の安定口座への預け入れになる。

知的側面を再新再生する活動は、あなたのパーソナル・マネジメント能力を高める(第3の習慣)。
一週間なり一日なりの計画を立てることで、波及効果の高い第II領域の活動に意識が向き、優先すべき目標、自分の時間と労力を投じるべき活動をはっきりと認識し、優先順位に従って活動を計画し実行できるようになる。
継続的に自己研鑽を行うことによって、知識が豊かになり、選択肢が広がっていく。
個人の経済的安定は仕事や社会からもたらされるのではなく、自らの生産能力――自分で考え、学び、創造し、変化に対応する力――から得られる。
それが本当の意味での経済的自立である。
経済的自立とは富を持つことではなく、富を生み出す能力を持つことであり、その能力は自分自身の内面で育てるべきものなのだ。

毎日の私的成功は、「7つの習慣」を身につけ実践する鍵である。
毎日少なくとも一時間、肉体、精神、知性の刃を研ぎ、日々私的成功を重ねていくことは、あなたの影響の輪の中でできる努力である。
この毎日の一時間は、「7つの習慣」を生活に根づかせ、原則中心の生き方をするために必要な第II領域の活動に投資する時間なのである。

また、毎日の私的成功は「毎日の公的成功」の土台にもなる。
内面がぐらつかず安定していてこそ、社会・情緒的側面の刃を研ぐことができるからである。
毎日の私的成功の土台があれば、相互依存の社会において自分の影響の輪に力を注ぐことができ、豊かさマインドのパラダイムを通して他者を見られるようになり、自分と他者の違いを尊重し、他者の成功を心から喜べるようになり、他者を本気で理解してシナジーを創り出し、Win-Winの解決策を見つける努力ができるようになり、相互依存の現実の中で第4、第5、第6の習慣を実践する土台ができるのである。

上向きの螺旋 p452

再新再生は、成長と変化を繰り返しながら、螺旋階段を登るようにして自分自身を継続的に高めていく原則である。

この螺旋階段を確実かつ継続的に登っていくためには、再新再生に関するもう一つの側面について考える必要があり、それによって人は螺旋階段を降りるのではなく、上へ上へと登っていけるのである。
それは人間だけに授けられた能力の一つ、良心である。
フランスの小説家スタール夫人の言葉を借りよう。
「良心の声はいかにもか細く、もみ消すことは簡単である。しかしその声はあまりにも明解で、聞き間違えることはない」

良心とは、心の声が聞こえる限り私たちが正しい原則に従っているかどうかを感じとり、正しい原則に近づかせてくれる持って生まれた才能なのだ。

スポーツ選手にとっては運動神経と肉体を鍛えることが不可欠であり、学者にとっては知力を鍛えることが不可欠であるように、真に主体的で非常に効果的な人間になるためには良心を鍛えなければならない。
しかし良心を鍛えるには、より高い集中力、バランスのとれた自制心が必要であり、良心に誠実であることを常に心がけなければならない。
精神を鼓舞するような書物を定期的に読み、崇高な思いを巡らせ、そして何より、小さく、か細い良心の声に従って生きなければならないのである。

ジャンクフードばかり食べ、運動しない生活を続けていれば肉体の調子がおかしくなるのは当然である。
それと同じように、下品なもの、猥褻なもの、卑劣なものばかりに接していたら、心に邪悪がはびこって感受性が鈍り、善悪を判断する人間本来の自然な良心が追いやられ、「バレなければかまわない」という社会的な良心が植えつけられてしまう。

ダグ・ハマーショルドは次のように語っている。

己の中の野性が暴れるとき、人は完全に動物になっている。
嘘をつくとき、人は真理を知る権利を放棄している。
残酷な行為を働くとき、人は知性の感覚を失っている。
きれいな庭をつくりたい者は、雑草の生える場所を残しておきはしないのだ。

私たち人間は、いったん自覚を持ったなら、自分の人生を方向づける目的と原則を選択しなければならない。
その努力を怠ったら、刺激と反応の間にあるスペースは閉ざされ、自覚を失い、生存することと子孫を残すことだけを目的に生きる下等動物と同じになってしまう。
このレベルで存在している人は、生きているとは言えない。
ただ「生かされている」だけである。

人間だけに授けられた能力は自分の中でただ眠っていて、それらを意識することもなく、動物のように刺激に反応して生きているにすぎないのである。
人間だけに授けられた能力を引き出し、発揮するのに近道はない。
収穫の法則はここでも働いている。
種を蒔いたものしか刈り取れないのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
正義の法則は時代を超えて不変であり、自分の生き方を正しい原則に近づけるほど、判断力が研ぎ澄まされ、世の中の仕組みがよく見えてくるし、私たちのパラダイム――私たちが生きる領域を示す地図――も正確になっていくのである。

上向きの螺旋を登るように成長していくためには、良心を鍛え、良心に従って再新再生のプロセスを一歩ずつ進んでいく努力をしなければならない。
良心が鍛えられれば、私たちは自由、内面の安定、知恵、力を得て、正しい道を歩んでいくことができる。

上向きの螺旋階段を登るには、より高い次元で学び、決意し、実行することが求められる。
このうちのどれか一つだけで十分だと思ったならば、それは自分を欺いていることになってしまう。
たえず上を目指して登っていくには、学び、決意し、実行し、さらにまた学び、決意し、実行していかなくてはならないのである。

再び、インサイド・アウト p457

主は心の内側から外側に向けて働きかけるが、革命この世は外側から内側に向けて働きかける。
この世は貧民窟から人々を連れ出そうとするが、主は人々から邪悪や汚れた面を取り去り、自分自身で貧民窟から抜け出られるようにする。
この世は環境を変えることにとって人間を形成しようとするが、主は人間自体を変え、それによって人間が自らの手で環境を変えられるようにする。
この世は人の行動を変えようとするが、主は人の性質を変えることができる。
――エズラ・タフト・ベンソン