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「道をひらく」を読んだ

投稿時刻2024年10月26日 16:05

道をひらく」を 2,024 年 10 月 25 日に読んだ。

目次

メモ

p8

雨がふれば 人はなにげなく 傘をひらく
この 自然な心の働きに その素直さに
私たちは日ごろ あまり気づいてはいない
だが この素直な心 自然な心のなかにこそ
物事のありのままの姿 真実をつかむ
偉大な力があることを 学びたい
何ものにもとらわれない 伸びやかな心で
この世の姿と 自分の仕事をかえりみるとき
人間としてなすべきこと 国としてとるべき道が
そこに おのずから明らかになるであろう

道 p10

自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。
せまい時もある。
のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけする時もある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。

素直に生きる p12

逆境――それはその人に与えられた尊い試練であり、この境涯にきたえられてきた人はまことに強靭である。
古来、偉大なる人は、逆境にもまれながらも、不屈の精神で生き抜いた経験を数多く持っている。

まことに逆境は尊い。
だが、これを尊ぶあまりに、これにとらわれ、逆境でなければ人間が完成しないと思いこむことは、一種の偏見ではなかろうか。

逆境は尊い。
しかしまた順境も尊い。
要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることである。
謙虚の心を忘れぬことである。

素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚を生む。
逆境、順境そのいずれをも問わぬ。
それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。
ただその境涯に素直に生きるがよい。

素直さは人を強く正しく聡明にする。
逆境に素直に生き抜いてきた人、順境に素直に伸びてきた人、その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ。

おたがいに、とらわれることなく、甘えることなく、素直にその境涯に生きてゆきたいものである。

志を立てよう p14

志を立てよう。
本気になって、真剣に志を立てよう。
生命をかけるほどの思いで志を立てよう。
志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。

志を立てるのに、老いも若きもない。
そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。

今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、いくたびか道を見失い、また挫折したこともあったであろう。
しかし道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。
つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではなかろうか。

過ぎ去ったことは、もはや言うまい。
かえらぬ月日にグチはもらすたよまい。
そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、いさぎよくこれを払拭しよう。
大事なことは、みずからの志である。
みずからの態度である。
千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。
実行力である。

志を立てよう。
自分のためにも、他人のためにも、そしておたがいの国、日本のためにも。

手さぐりの人生 p16

目の見えない人は、なかなかケガをしない。
むしろ目の見える人のほうが、石につまずいたり、ものに突き当たったりしてよくケガをする。
なまじっか目が見えるがために、油断をするのである。
乱暴になるのである。

目の見えない人は手さぐりで歩む。
一歩一歩が慎重である。
謙虚である。
そして一足歩むために全神経を集中する。
これほど真剣な歩み方は、目の見える人にはちょっとあるまい。

人生で思わぬケガをしたくなければ、そして世の中でつまずきたくなければ、この歩み方を見習うがいい。
「一寸先は闇の世の中」といいながら、おたがいにずいぶん乱暴な歩み方をしているのではなかろうか。

いくつになってもわからないのが人生というものである。
世の中というものである。
それなら手さぐりで歩むほか道はあるまい。
わからない人生を、わかったようなつもりで歩むことほど危険なことはない。
わからない世の中を、みんなに教えられ、みんなに手を引かれつつ、一歩一歩踏みしめて行くことである。
謙虚に、そして真剣に。
おたがいに人生を手さぐりのつもりで歩んでゆきたいものである。

自然とともに p18

春になれば花が咲き、秋になれば葉は枯れる。
草も木も野菜も果物も、芽を出すときには芽を出し、実のなるときには実をむすぶ。
枯れるべきときには枯れてゆく。
自然に従った素直な態度である。
そこには何の私心もなく、何の野心もない。
無心である。
虚心である。
だから自然は美しく、秩序正しい。

困ったことに、人間はこうはいかない。
素直になれないし、虚心になれない。
ともすれば野心が起こり、私心に走る。
だから人びとは落着きを失い、自然の理を見失う。
そして出処を誤り、進退を誤る。
秩序も乱れる。

時節はずれに花が咲けば、これを狂い咲きという。
出処を誤ったからである。
それでも花ならばまだ珍しくてよいけれど、人間では処置がない。
花ならば狂い咲きですまされもするが、進退を誤った人間は、笑っただけですまされそうもない。
自分も傷つき、人にも迷惑をかけるからである。

人間にとって、出処進退その時を誤らぬことほどむつかしいものはない。
それだけに、ときには花をながめ、野草を手に取って、静かに自然の理を案じ、己の身の処し方を考えてみたいものである。

是非善悪以前 p26

この大自然は、山あり川あり海ありだが、すべてはチャンと何ものかの力によって設営されている。
そして、その中に住む生物は、鳥は鳥、犬は犬、人間は人間と、これまたいわば運命的に設定されてしまっている。

これは是非善悪以前の問題で、よいわるいを越えて、そのように運命づけられているのである。
その人間のなかでも、個々に見れば、また一人ひとり、みなちがった形において運命づけられている。
生まれつき声のいい人もあれば、算数に明るい人もある。
手先の器用な人もあれば、生来不器用な人もある。
身体の丈夫な人もあれば、生まれつき弱い人もいる。
いってみれば、その人の人生は、九〇パーセントまでが、いわゆる人知を越えた運命の力によって、すでに設定されているのであって、残りの一〇パーセントぐらいが、人間の知恵、才覚によって左右されるといえるのではなかろうか。

これもまた是非善悪以前の問題であるが、こういうものの見方考え方に立てば、得意におごらず失意に落胆せず、平々淡々、素直に謙虚にわが道をひらいてゆけるのではなかろうか。
考え方はいろいろあろうが、時にこうした心境にも思いをひそめてみたい。

病を味わう p28

病気になってそれがなおって、なおって息災を喜ぶうちにまた病気になって、ともかくも一切病気なしの人生というものは、なかなか望みえない。
軽重のちがいはあれ、人はその一生に何回か病の床に臥すのである。

五回の人もあろう。
十回の人もあろう。
あるいは二十回、三十回の人もあるかもしれない。
親の心配に包まれた幼い時の病から、不安と焦燥に悶々とする明け暮れに至るまで、人はいくたびか病の峠を越えてゆく。

だがしかし、人間にとって所詮死は一回。
あとにも先にも一回きり。
とすれば、何回病気をしようとも、死につながる病というのも一回きり。
あとの何回かは、これもまた人生の一つの試練と観じられようか。

いつの時の病が死につながるのか、それは寿命にまかすとして、こんどの病もまた人生の一つの試練なりと観ずれば、そこにまたおのずから心もひらけ、医薬の効果も、さらにこれが生かされて、回復への道も早まるであろう。

病を味わう心を養いたいのである。
そして病を大事に大切に養いたいのである。

生と死 p30

人生とは、一日一日が、いわば死への旅路であると言えよう。
生あるものがいつかは死に至るというのが自然の理法であるかぎり、ものみなすべて、この旅路に変更はない。

ただ人間だけは、これが自然の理法であることを知って、この旅路に対処することができる。
いつ死に至るかわからないにしても、生命のある間に、これだけのことをやっておきたいなどと、いろいろに思いをめぐらすのである。
これは別に老人だけにかぎらない。
青春に胸ふくらます若人が、来るべき人生に備えていろいろと計画するのも、これもまた死への準備にほかならないと言える。
生と死とは表裏一体。
だから、生の準備はすなわち死の準備である。

死を恐れるのは人間の本能である。
だが、死を恐れるよりも、死の準備のないことを恐れた方がいい。
人はいつも死に直面している。
それだけに生は尊い。
そしてそれだけに、与えられている生命を最大に生かさなければならないのである。
それを考えるのがすなわち死の準備である。
そしてそれが生の準備となるのである。

おたがいに、生あるものに与えられたこのきびしい宿命を直視し、これに対処する道を厳粛に、しかも楽しみつつ考えたいものである。

日々是新 p34

年があらたまれば心もあらたまる。
心があらたまればおめでたい。
正月だけがめでたいのではない。
心があらたまったとき、それはいつでもおめでたい。

きのうもきょうも、自然の動きには何ら変わりはない。
照る腸、吹く風、みな同じ。
それでも心があらたまれば、見るもの聞くものが、みな新しい。

年の始めは元日で、一日の始めは朝起きたとき。
年の始めがおめでたければ、朝起きたときも同じこと。
毎朝、心があらたまれば、毎日がお正月。
あらたまった心には、すべてのものが新しく、すべてのものがおめでたい。

きのうはきのう、きょうはきょう。
きのうの苦労をきょうまで持ち越すことはない。
「一日の苦労は一日にて足れり」というように、きょうはまたきょうの運命がひらける。
きのうの分まで背負ってはいられない。
毎日が新しく、毎日が門出である。

日々是新なれば、すなわち日々是好日。
素直で謙虚で、しかも創意に富む人は、毎日が明るく、毎日が元気。

さあ、みんな元気で、新しい日々を迎えよう。

人事をつくして p40

「人事をつくして天命を待つ」ということばがある。
まことに味わい深いことばである。
私心にとらわれることなく、人としてなしうるかぎりの力をつくして、そのうえで、静かに起こってくる事態を待つ。
それは期待どおりのことであるかもしれないし、期待にそむくことであるかもしれない。
しかしいずれにしても、それはわが力を越えたものであり、人事をつくしたかぎりにおいては、うろたえず、あわてず、心静かにその事態を迎えねばならない。
そのなかからまた次の新しい道がひらけてくるであろう。

こうした心境の尊さを人みなが知り、その境地をかみしめつつ、それぞれの人が、それぞれのつとめをつくしたならば、この世の中は、もっと静かになるかもしれない。

天命とは、これだけのことをつくしたから、これだけの結果があたえられるという、そんな計算の成り立つものではない。
まして、私心多くなすべき人事もつくさずに、いたずらに都合よき成果のみを期待するのは、天命を知らざることはなはだしいといわねばなるまい。
めまぐるしい利害の波の日々の中ではあるけれども、時におたがいに三省してみたいものである。

雨が降れば p42

雨が降れば傘をさす。
傘がなければ風呂敷でもかぶる。
それもなければぬれるしか仕方がない。

雨の日に傘がないのは、天気のときに油断して、その用意をしなかったからだ。
雨にぬれて、はじめて傘の必要を知る。
そして次の雨にはぬれないように考える。
雨があがれば、何をおいても傘の用意をしようと決意する。
これもやはり、人生の一つの教えである。

わかりきったことながら、世の中にはそして人生には、晴れの日もあれば雨の日もある。
好調の時もあれば、不調の時もある。
にもかかわらず、晴れの日が少しつづくと、つい雨の日を忘れがちになる。
好調の波がつづくと、ついゆきすぎる。
油断する。
これも、人間の一つの姿であろうか。

このことをいましめて昔の人は「治にいて乱を忘れず」と教えた。
仕事にしても何にしても、この道理はやはり一つである。

雨が降れば傘をさそう。
傘がなければ、一度はぬれるのもしかたがない。
ただ、雨があがるのを待って、二度と再び雨にぬれない用意だけは心がけたい。
雨の傘、仕事の傘、人生の傘、いずれにしても傘は大事なものである。

日に三転す p44

こくこくこの宇宙に存在するものは、すべて刻々に動いている。
万物流転、きのうの姿は、もはやそのままではきょう存在しないし、一瞬一瞬にその姿を変えつつある。
いいかえれば、これはすなわち日に新たということで、日に新たな生成発展ということが、この宇宙の大原理であるといえよう。

人間もまたこの大原理のなかに生かされている。
きのうの姿はきょうはない。
刻々に移り変わって、刻々に新たな姿が生み出されてくる。
そこにまた人間社会の生成発展がある。

人の考えもまた同じ。
古人は「君子は日に三転す」と教えた。
一日に三度も考えが変わるということは、すなわちそれだけ新たなものを見いだし、生み出しているからこそで、これこそ君子なりというわけである。
日に一転もしないようではいけないというのである。

おたがいにともすれば、変わることにおそれを持ち、変えることに不安を持つ。
これも人間の一面であろうが、しかしそれはすでに何かにとらわれた姿ではあるまいか。
一転二転は進歩の姿、さらに日に三転よし、四転よし、そこにこそ生成発展があると観ずるのも一つの見方ではなかろうか。

本領を生かす p50

完全無欠をのぞむのは、人間の一つの理想でもあり、またねがいでもある。
だからおたがいにそれを求め合うのもやむを得ないけれども、求めてなお求め得られぬままに、知らず知らずのうちに、他をも苦しめ、みずからも悩むことがしばしばある。
だがしかし、人間に完全無欠ということが本来あるのであろうか。

松の木に桜の花を求めるのはムリ。
牛に馬のいななきを求めるのもムリ。
松は松、桜は桜。
牛は牛であり馬は馬である。
つまりこの大自然はすべて、個々には完全無欠でなくとも、それぞれの適性のなかでその本領を生かし、たがいに与え与えられつつ、大きな調和のなかに美とゆたかさを生み出しているのである。

人もまた同じ。
おたがいそれぞれに完全無欠でなくとも、それぞれの適性のなかで、精いっぱいその本領を生かすことを心がければ、大きな調和のもとに自他ともの幸福が生み出されてくる。
この素直な理解があれば、おのずから謙虚な気持ちも生まれてくるし、人をゆるす心も生まれてくる。
そして、たがいに足らざるを補い合うという協力の姿も生まれてくるであろう。
男は男、女は女。
牛はモーで馬はヒヒン。
繁栄の原理はきわめて素直である。

くふうする生活 p52

とにかく考えてみること、くふうしてみること、そしてやってみること。
失敗すればやりなおせばいい。
やりなおしてダメなら、もう一くふうし、もう一度やりなおせばいい。

同じことを同じままにいくら繰り返しても、そこには何の進歩もない。
先例におとなしく従うのもいいが、先例を破る新しい方法をくふうすることの方が大切である。
やってみれば、そこに新しいくふうの道もつく。
失敗することを恐れるよりも、生活にくふうのないことを恐れた方がいい。

われわれの祖先が、一つ一つくふうを重ねてくれたおかげで、わらわれの今日の生活が生まれた。
何気なしに見のがしている暮らしの断片にも、尊いくふうの跡がある。
茶わん一つ、ペン一本も、これをつくづくと眺めてみれば、何というすばらしいくふうであろう。
まさに無から有を生み出すほどの創造である。

おたがいにもう一度考え直そう。
きのうと同じことをきょうは繰り返すまい。
どんな小さなことでもいい。
どんなわずかなことでもいい。
きのうと同じことをきょうは繰り返すまい。
多くの人びとの、このわずかなくふうの累積が、大きな繁栄を生み出すのである。

サービスする心 p60

与え与えられるのが、この世の理法である。
すなわち、自分の持てるものを他に与えることによって、それにふさわしいものを他から受けるのである。
これで世の中は成り立っている。

だから、多く受けたいと思えば多く与えればよいのであって、充分に与えもしないで、多く受けたいと思うのが、虫のいい考えというもので、こんな人ばかりだと、世の中は繁栄しない。

与えるというのは、わかりやすくいえば、サービスするということである。
自分の持っているもので、世の中の人びとに精いっぱいのサービスをすることである。
頭のいい人は頭で、力のある人は力で、腕のいい人は腕で、優しい人は優しさで、そして学者は学問で、商人は商売で……。

どんな人にでも、探し出してくれば、その人だけに与えられている尊い天分というものがある。
その天分で、世の中にサービスをすればよいのである。
サービスのいい社会は、みんなが多く与え合っている社会で、だからみんなが身も心もゆたかになる。

おたがいに繁栄の社会を生み出すために、自分の持てるもので、精いっぱいのサービスをしあいたいものである。

縁あって p56

おたがいに、縁あってこの世に生まれてきた。
そして、縁あっていろいろの人とつながりを持っている。

縁あって――何だか古めかしいことばのようだけれど、そこにはまた一つの深い味わいがひそんでいるように思える。

人と人とのつながりというものは、とかく人間の個人的な意志でできたと思いやすいもので、だからまたこのつながりは、自分ひとりの考えで、いつでも断てるかのように無造作に考えやすい。

だがほんとうはそうでない。
人と人とのつながりには、実は人間のいわゆる個人的な意志や希望を越えた、一つの深い縁の力が働いているのである。
男女の縁もまた同じ。

そうとすれば、おたがいにこの世における人と人とのつながりを、もうすこし大事にしてみたい。
もうすこしありがたく考えたい。
不平や不満で心を暗くする前に、縁のあったことを謙虚に喜びあい、その喜びの心で、誠意と熱意をもって、おたがいのつながりをさらに強めてゆきたい。

そこから、暗黒をも光明に変えるぐらいの、力強い働きが生まれてくるであろう。

長所と短所 p62

この世の中は持ちつ持たれつ、人と人との協同生活によって、仕事が成り立っている。
暮らしが成り立っている。

この協同生活を円滑に進めるためには、いろいろの心くばりが必要だけれども、なかでも大事なことは、おたがいにまわりの人の長所と欠点とを、素直な心でよく理解しておくということである。
そしてその長所を、できるかぎり発揮させてあげるように、またその短所をできるかぎり補ってあげるように、暖かい心で最善の心くばりをするということである。

神さまではないのだから、全知全能を人間に求めるのは愚の限りである。
人に求めるほうも愚なら、いささかのうぬぼれにみずから心おごる姿も、また愚である。
人を助けて己の仕事が成り立ち、また人に助けられて己の仕事が円滑に運んでいるのである。
この理解と心くばりがなければ、百万の人も単につのつき合わした烏合の衆にすぎないであろう。

長所と短所と――それは人間のいわば一つの宿命である。
その宿命を繁栄に結びつけるのも貧困に結びつけるのも、つまりはおたがいの心くばり一つにかかっているのではなかろうか。

生かし合う p66

人間の生命は尊い。
尊いものは誰もが尊重しなければならぬ。
ところが、自分の生命の尊いことはわかっても、他人の生命もまた尊いことは忘れがちである。
ともすれば私心に走り私利私欲が先に立つ。
つまり、自分にとらわれるということで、これも人情としてやむをえないことかもしれない。

しかし、これではほんとうに、おたがい相互の繁栄は生まれないであろう。
人間本来の姿は生かされないであろう。

やはり、ある場合には自己を没却して、まず相手を立てる。
自己を去って相手を生かす。
そうした考えにも立ってみなければならない。
そこに相手も生き、自己も生きる力強い繁栄の姿がある。
尊い人間の姿がある。

自己を捨てることによってまず相手が生きる。
その相手が生きて、自己もまたおのずから生きるようになる。
これはいわば双方の生かし合いではなかろうか。
そこから繁栄が生まれ、ゆたかな平和と幸福が生まれてくる。

おたがいに、ひろく社会の繁栄に寄与するため、おたがいを生かし合う謙虚なものの考え方を養いたい。

責任を知る p68

自分に全く関係ないところで、自分に全く関係ないと思う事が起こって、だから自分には全く責任がないと思うことでも、よくよく考えてみれば、はたして自分に全く責任がないと自信をもっていうことができるであろうか。

人と人とが、かぎりないまでにつながりあっているこの世の中に、自分とは全然関係ないといえることが、本当はあるとは思われないのである。

キリストは、その時代の見も知らぬ人びとの責任も、すべてわが身に負い、そのうえに、後の世につづく数知れぬ人びとの責任をも、その気高いまでの魂で、一身に引きうけた。

おたがいに、そこまで求めるのはとてもムリ。
キリストなればこそである。
しかしせめて、自分に責任あると思うことまでも、他人のせいにすることだけはやめにしたい。
犬や猫は、自分が悪くても、自分の気に入らなければ、平気で同類にかみつき、傷つける。

人間と動物とは、天地自然の理によって、ハッキリちがっている。
そのちがっていることの尊さを、みずからけがすことだけはやめにしたいと思うのである。

心を通わす p76

古人曰く、人生はあざなえる縄の如し。
まことにこの世の中、長い人の歩みのなかには、よいこともあればわるいこともある。
うれしいこともあれば悲しいこともある。
そして、よいと思ったことが実はわるくて、わるいと思ったことが実はよくて、つまりはあれこれと思いまどうことは何もなくて、はじめから素直に謙虚に歩んでおればそれでよかったと、人の知恵の浅はかさに、いまさらのように胸打たれることがしばしばある。

はじめからしまいまで徹底的にわるいということもなければ、また徹底的によいということもないのである。
それでもなお人は、わるいと思うときには自分で自分の心を閉ざし、よいと思うときにはまたおごりの心で人をへだてる。

心を閉ざし、人をへだて、心と心が通い合わぬ姿からは、おたがいに協力も助け合いも生まれてはこない。
心ひらかぬ孤独の人びとばかりになるであろう。

有為転変のこの世の中、よいときにもわるいときにも、いかなるときにも素直に謙虚に、おたがいに心を通わし、思いを相通じて、協力し合ってゆきたいものである。

風が吹けば p84

風が吹けば波が立つ。
波が立てば船も揺れる。
揺れるよりも揺れないほうがよいけれど、風が強く波が大きければ、何万トンの船でも、ちょっと揺れないわけにはゆくまい。
これを強いて止めようとすればかえってムリを生じる。
ムリを通せば船がこわれる。
揺れねばならぬときには揺れてもよかろう。
これも一つの考え方。

大切なことは、うろたえないことである。
あわてないことである。
うろたえては、かえって針路を誤る。
そして、沈めなくてよい船でも、沈めてしまう結果になりかねない。
すべての人が冷静に、そして忠実にそれぞれの職務を果たせばよい。
ここに全員の力強い協力が生まれてくるのである。

嵐のときほど、協力が尊ばれるときはない。
うろたえては、この協力がこわされる。
だから、揺れることを恐れるよりも、協力がこわされることを恐れたほうがいい。

人生は運不運の背中合わせといえる。
いつ突如として嵐がおとずれるか、だれしも予測することはできない。

つねに自分のまわりを冷静にながめ、それぞれの心がまえを、しっかりと確かめておきたいものである。

眼前の小利 p88

一匹狂えば千匹狂うというが、これは何も、馬だけにかぎったことではない。
人間でも、一人がちょっとした心得ちがいをしたならば、それに引きずられてまた多くの人が道を誤る。
ことに、それが利欲にかかわった問題となると、とかく人の判断は狂いやすい。
そして眼前の小利にとらわれる。

眼前の小利にとらわれるな、とは昔からのことわざであるが、小利にとらわれては、結局は損をする。
その損も、単に自分だけで終わるならまだ罪は軽いが、今日の世の中のように、人と人と、仕事と仕事とがたがいに密接につながっているときには、一人の損がみんなの損となり、その心得ちがいは大へんな結果を生む。

こんなことは、いまさら事新しくいう必要もないのだが、この世の中、やっぱり一部の人のちょっとした心得ちがいからいろいろの問題がひき起こされていることを思えば、眼前の小利にとらわれるなと、何度も何度もくりかえしていいたくもなってくる。

別にむつかしいことをいうつもりはない。
またいっても詮ないことだと考えてもいない。
こんなことは結局、人の良識に訴えるのが根本で、だから何度も何度もあきずにいいたいのである。

止めを刺す p92

昔は、いわゆる止めを刺すのに、一つのきびしい心得と作法があったらしい。
だから武士たちは、もう一息というところをいいかげんにし、心をゆるめ、止めを刺すのを怠って、その作法にのっとらないことをたいへんな恥とした。

ものごとをしっかりとたしかめ、最後の最後まで見きわめて、キチンと徹底した処理をすること、それが昔の武士たちのいちばん大事な心がけとされたのである。
その心がけは、小さいころから、日常茶飯しつ事、箸の上げ下げ、あいさつ一つに至るまで、きびしく躾けられ、養われていたのであった。

こんな心がけから、今日のおたがいの働きをふりかえってみたら、止めを刺さないあいまいな仕事のしぶりの何と多いことか。
せっかくの九九パーセントの貴重な成果も、残りの一パーセントの止めがしっかりと刺されていなかったら、それは始めから無きに等しい。
もうちょっと念を入れておいたら、もうすこしの心くばりがあったなら――あとから後悔することばかりである。

おたがいに、昔の武士が深く恥じたように、止めを刺さない仕事ぶりを、大いに恥とするきびしい心がけを持ちたいものである。

世の宝 p96

明智左馬之介光春が、堀監物に城を完全に包囲され、今はこれまでと観念したとき、城内にあった数々の秘蔵の名器を城外におろし出し、「あたら灰となすに忍びぬ品々、貴公の手を経て世にお戻しいたしたい。お受けとりあれや」といったことは、『太閤記』にもある有名な話である。

「それがしの思う所、かかる重器は、命あって持つべき人が持つ間こそその人の物なれ、決して私人の物でなく、天下の物、世の宝と信じ申す。
人一代に持つ間は短く、名器名宝の命は世にかけて長くあれかしと祈るのでござる。
これが火中に滅するは国の損失。
武門の者の心なき業と後の世に嘆ぜらるるも口惜しと、かくはお託し申す次第」

私心にとらわれることなく、いまわの際まで公の立場に立って判断つちかし、処置を誤らなかったこの光春の態度には、長い歴史に培われた日本人本来の真価がうかがえると思う。

世の宝は何も秘蔵の名器だけではない。
おたがいに与えられている日々の仕事は、これすべて世の宝である。
世の宝と観じて、私心にとらわれることのない働きをすすめてゆくために、光春のふるまいを今日もなお、大いに範としたいものである。

自問自答 p98

自分のしたことを、他の人びとが評価する。
ほめられる場合もあろうし、けなされる場合もある。
冷やかに無視されることもあろうし、過分の評価にびっくりすることもあろう。
さまざまの見方があって、さまざまの評価である。

だから、うれしくなって心おどる時もあれば、理解の乏しさに心を暗くする時もある。
一喜一憂は人の世の習い。
賛否いずれも、ありがたいわが身の戒めと受け取りたい。

だがしかし、やっぱり大事なことは、他人の評価もさることながら、まず自分で自分を評価するということである。
自分のしたことが、本当に正しかったかどうか、その考え、そのふるまいにほんとうに誤りがなかったかどうか、素直に正しく自己評価するということである。

そのためには、素直な自問自答を、くりかえし行なわねばならない。
みずからに問いつつ、みずから答える。
これは決して容易でない。
安易な心がまえで、できることではないのである。
しかし、そこから真の勇気がわく。
真の知恵もわいてくる。

もう一度、自問自答してみたい。
もう一度、みずからに問い、みずからに答えたい。

根気よく p100

どんなによいことでも、一挙に事が成るということはまずあり得ない。
また一挙に事を決するということを行なえば、必ずどこかにムリを生じてくる。
すべて事は、一歩一歩成就するということが望ましいのである。

だから、それがよいことであればあるほど、そしてそれが正しいと思えば思うほど、まず何よりも辛抱強く、根気よく事をつづけてゆく心がまえが必要であろう。

「徳、孤ならず」ということばがあるけれども、これは正しいことはいつかは必ず人びとに理解してもらえるという意味にも通じる。
しかし、これとても、一ぺんにというわけではない。
徐々にということである。
だから、いかに正しいと思うことでも、その正しさにとらわれて、いたずらに事をいそぎ、他を誹謗するに急であってはならない。
みずからの正誤を世に問うためにも、まずは辛抱強く、根気よく事をすすめてゆくという謙虚な姿がほしいのである。

あわただしいこの人の世、ともすれば浮足立って、辛抱の美徳、根気の美徳が失われがちであるが、おたがいに謙虚に二省、三省してみたいものである。

思い悩む p102

人間は神さまではないのだから、何もかもが見通しで、何もかもがれぐあい思いのままで、悩みもなければ憂いもない、そんな具合にはゆかないのである。

悩みもすれば憂いもする。
迷いもする。
わからん、わからん、どうにも判断がつかん、どうにも決心がつかん、そんなことが日常しばしば起こってくる。

碁ならば、わからんままに石を打っても、別に人に迷惑をかけるわけではないけれど、人と人とがたがいに密接なつながりを持つこの世の中で、わからんわからんと思い悩んだままで仕事をすすめたら、とんでもない迷惑を人に与えてしまう。

わからなければ、人に聞くことである。
己のカラにとじこもらないで、素直に謙虚に人の教えに耳を傾けることである。
それがどんな意見であっても、求める心が切ならば、そのなかから、おのずから得るものがあるはずである。

おたがいに、思い悩み、迷い憂えることを恥じるよりも、いつまでも己のカラにとじこもって、人の教えを乞わないことを恥じたいと思うのである。

p104

ながい一生のうちに人は いくたびか
自分の将来を左右する岐路に
血のにじむ思いで 立たねばならない
ながい歴史のうちに 国もまた いくたびか
みずからの行くすえを鋭く見きわめるべき
意義深い時期にみまわれる――
緑ゆたかな国土 香り高い伝統と歴史
そこに培われた 民族のすぐれた素質
この日本の未来を いま静かに 見きわめたい

心配またよし p106

何の心配もなく、何の憂いもなく、何の恐れもないということになれば、この世の中はまことに安泰、きわめて結構なことであるが、実際はそうは問屋が卸さない。
人生つねに何かの心配があり、憂いがあり、恐れがある。

しかし本当は、それらのいわば人生の脅威ともいうべきものを懸命にそしてひたすらに乗り切って、刻々と事なきを得てゆくというところに、人間としての大きな生きがいをおぼえ、人生の深い味わいを感じるということが大事なのである。
この心がまえがなければ、この世の中はまことに呪わしく、人生はただいたずらに暗黒ということになってしまう。

憂事に直面しても、これを恐れてはならない。
しりごみしてはならない。
“心配またよし”である。
心配や憂いは新しくものを考え出す一つの転機ではないか、そう思い直して、正々堂々とこれと取り組む。
力をしぼる。
知恵をしぼる。
するとそこから必ず、思いもかけぬ新しいものが生み出されてくるのである。
新しい道がひらけてくるのである。
まことに不思議なことだが、この不思議さがあればこそ、人の世の味わいは限りもなく深いといえよう。

時を待つ心 p108

何ごとをなすにも時というものがある。
時――それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。
いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。
いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就せぬ。
冬が来れば春はま近い。
桜は静かにその春を待つ。
それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。

わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。
おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るを待つ。
あせらずあわてず、静かに時の来るを待つ。
時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。
だが何もせずに待つことは僥倖を待つに等しい。
静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。
たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。

時を得ぬ人は静かに待つがよい。
大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、着々とわが力をたくわえるがよい。
着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。
時期は必ず来る。

待てといわれればなおあせるのが人情である。
だが、自然の理はわがままな人情には流されない。
冷たいのではない。
静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。
おたがいに時を待つ心を養いたい。

岐路にたちつつ p110

動物園の動物は、食べる不安は何もない。
他の動物から危害を加えられる心配も何もない。
きまった時間に、いろいろと栄養ある食べ物が与えられ、保護されたオリのなかで、ねそべり、アクビをし、ゆうゆうたるものである。

しかしそれで彼らは喜んでいるだろうか。
その心はわからないけれども、それでも彼らが、身の危険にさらされながらも、果てしない原野をかけめぐっているときのしあわせを、時に心に浮かべているような気もするのである。

おたがいに、いっさい何の不安もなく、危険もなければ心配もなく、したがって苦心する必要もなければ努力する必要もない、そんな境遇にあこがれることがしばしばある。
しかしはたしてその境遇から力強い生きがいが生まれるだろうか。

やはり次々と困難に直面し、右すべきか左すべきかの不安な岐路にいのちたちつつも、あらゆる力を傾け、生命をかけてそれを切りぬけてゆく――そこにこそ人間としていちばん充実した張りのある生活があるともいえよう。

困難に心が弱くなったとき、こういうこともまた考えたい。

世間というもの p114

世間というものは、きびしくもあるし、また暖かくもある。
そのこと、昔の人は「目明き千人めくら千人」ということばであらわした。
いい得て妙である。

世間にはめくらの面もたくさんある。
だから、いいかげんな仕事をやって、いいかげんにすごすことも、時には見のがされてすぎてしまうこともある。
つまりひろい世間には、それだけの包容力があるというわけだが、しかしこれになれて世間をあまく見、馬鹿にしたならば、やがては目明きの面にゆき当たって、身のしまるようなきびしい思いをしなければならなくなる。

また、いい考えを持ち、真剣な努力を重ねても、なかなかにこれが世間に認められないときがある。
そんなときには、ともすると世間が冷たく感じられ、自分は孤独だと考え、希望を失いがちとなる。
だが悲観することはない。
めくらが千人いれば、目明きもまた千人いるのである。
そこに、世間の思わぬ暖かさがひそんでいる。

いずれにしても、世間はきびしくもあり、暖かくもある。
だから、世間にたいしては、いつも謙虚さを忘れず、また希望を失わず、着実に力強く自分の道を歩むよう心がけたいものである。

忍耐の徳 p118

何ごとにおいても辛抱強さというものが大事だが、近ごろはどうもこの忍耐の美徳というものがおろそかにされがちで、ちょっとした困難にもすぐ参って悲鳴をあげがちである。
そして、事志とちがった時には、それをこらえてさらに精進をし、さらに力を蓄えるという気迫がまるで乏しくなり、そのことの責任はすべて他にありとして、もっぱら人をののしり、社会を責める。

これは例えば、商売で品物が売れないのは、すべて世間が悪いからだと言うのと同じことで、これでは世間は誰も相手にしてくれないであろう。
買うに足る品物であり、買って気持ちのよいサービスでなければ、人は誰も買わないのである。

だから売れなければまずみずからを反省し、じっと辛抱をしてさらに精進努力をつづけ、人びとに喜んで買っていただけるだけの実力というものを、養わなければならないのである。

車の心棒が弱ければ、すぐに折れてガタガタになる。
人間も辛抱がなければ、すぐに悲鳴をあげてグラグラになる。

おたがいに忍耐を一つの美徳として、辛抱強い働きをつづけてゆきたいものである。

窮屈はいけない p134

窮屈な場所に窮屈にすわっていると、血のめぐりも悪くなって脚もしびれる。
身体が固くなって自由な動作がとれないのである。
無作法は困るけれど、窮屈はなおいけない。
やっぱり伸び伸びとした自由自在な姿が欲しいものである。

どんな場合でも、窮屈はいけない。
身体を窮屈にするのもいけないが、心が窮屈になるのはなおいけない。
心の働きが鈍くなって、よい知恵が出てこないのである。

ものには見方がいろいろあって、一つの見方がいつも必ずしもいちばん正しいとはかぎらない。
時と場合に応じて自在に変えねばならぬ。
心が窮屈ではこの自由自在を失う。
だからいつまでも一つに執して、われとわが身をしばってしまう。
身動きならない。
そんなところに発展が生まれようはずはない。

万物は日に新たである。
刻々と変わってゆく。
きょうは、もはやきのうの姿ではない。
だからわれわれも、きょうの新しいものの見方を生み出してゆかねばならない。

おたがいに窮屈を避け、伸び伸びとした心で、ものを見、考えてゆきたいものである。

ものの道理 p136

人間おたがいに落着きを失ってくると、他人の庭の花が何となく赤く見えてきて、コツコツまじめにやっているのは自分だけ、人はみなぬれ手でアワ、ラクをしながら何かボロイことをやっているように思えてならなくなる。
だから自分も何か一つと思いがちだが、そうは世間はゆるさない。

人情として、ときにこんな迷いを持つのもムリはないけれど、この世の中に、決してボロイことはないのである。
ラクなことはないのである。
あるように見えるのは、それはこちらの心の迷いで、本当は、どなたさまも、やはり一歩一歩地道につみ重ねてきた着実な成果をあらわしておられるのである。

だから、努力もせずにぬれ手でアワみたいなことをやってみても、それは虫がよすぎるというもの。
一時はそれですごせても、決して長つづきはしない。
結局は失敗ということになる。
これが、ものの道理であって、この道理をはずれた望みを持つというのは、それこそ欲が深いというものである。

欲が深いは失敗のもと。
やはり、ものの道理に適した道を、一歩一歩あゆんでゆきたい。

一人の知恵 p138

おたがいに神さまではないのだから、一人の知恵には限りがある。
それがどんなに偉い人であっても、やっぱりその人一人の知恵には限りがある。
こんな限りのある知恵で長い人生を歩み、広い世の中を渡ろうとするのだから、ともすればあちらで迷い、こちらでつまずく。
自分一人ですむことならそれでもまたよいかもしれないが、この世の中に住む限り、人びとはみなつながっているから、自分がつまずけば、他人も迷惑をする。
他人に迷惑をかけるくらいなら、一人の知恵で歩まぬほうがいい。

わからないことは聞くことである。
知らないことはたずねることである。
たとえわかっていると思うことでも、もう一度、人にきいてみることである。

「見ること博ければ迷わず。聴くこと聡ければ惑わず」という古言がある。
相手がどんな人であろうと、こちらに謙虚な気持ちがあるならば、思わぬ知恵が与えられる。
つまり一人の知恵が二人の知恵になるのである。
二人が三人、三人が四人。
多ければ多いほどいい。
衆知を集めるとは、こんな姿をいうのである。

おたがいに、一人の知恵で歩まぬよう心がけたいものである。

一陽来復 p140

ひろい世の中、長い人生、いつも心楽しいことばかりではない。
何の苦労もなく何の心配もなく、ただ凡々と泰平を楽しめれば、これはこれでまことに結構なことであるけれど、なかなかそうは事が運ばない。
ときには悲嘆にくれ、絶体絶命、思案にあまる窮境に立つこともしばしばあるであろう。

しかし、それもまたよし。
悲嘆のなかから、人ははじめて人生の深さを知り、窮境に立って、はじめて世間の味わいを学びとることができるのである。

頭で知ることも大事だが、身をもって知るということが何よりも大事。
塩の辛さはなめてみてはじめてわかる。
知るということにも、いろいろあるのである。

窮境に立つということは、身をもって知る尊いチャンスではあるまいか。
得難い体得の機会ではあるまいか。
そう考えれば、苦しいなかにも勇気が出る。
元気が出る。
思い直した心のなかに新しい知恵がわざわわいて出る。
そして、禍いを転じて福となす、つまり一陽来復、暗雲に一すじの陽がさしこんで、再び春を迎える力強い再出発への道がひらけてくると思うのである。

自分の仕事 p144

どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているのでなければ、その仕事は成り立つものではまちみがない。
人びとが街で手軽に靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないであろう。

だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。
ここに仕事の意義がある。

自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。

仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。
世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。

大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。
世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。
おたがいに、自分の仕事の意義を忘れたくないものである。

働き方のくふう p146

額に汗して働く姿は尊い。
だがいつまでも額に汗して働くのは知恵のない話である。
それは東海道を、汽車にも乗らず、やはり昔と同じようにテクテク歩いている姿に等しい。
東海道五十三次も徒歩から駕籠へ、駕籠から汽車へ、そして汽車から飛行機へと、日を追って進みつつある。
それは、日とともに、人の額の汗が少なくなる姿である。
そしてそこに、人間生活の進歩の跡が見られるのではあるまいか。

人より一時間、よけいに働くことは尊い。
努力である。
勤勉である。
だが、今までよりも一時間少なく働いて、今まで以上の成果をあげることも、また尊い。
そこに人間の働き方の進歩があるのではなかろうか。

それは創意がなくてはできない。
くふうがなくてはできない。
働くことは尊いが、その働きにくふうがほしいのである。
創意がほしいのである。
額に汗することを称えるのもいいが、額に汗のない涼しい姿も称えるべきであろう。
怠けろというのではない。
楽をするくふうをしろというのである。
楽々と働いて、なおすばらしい成果があげられる働き方を、おたがいにもっとくふうしたいというのである。
そこから社会の繁栄も生まれてくるであろう。

しかも早く p148

ものごとを、ていねいに、念入りに、点検しつくしたうえにもさらに点検して、万全のスキなく仕上げるということは、これはいかなる場合にも大事である。
小事をおろそかにして、大事はなしとげられない。
どんな小事にでも、いつも綿密にして念入りな心くばりが求められるのである。

しかし、ものごとを念入りにやったがために、それだけよけいに時間がかかったというのでは、これはほんとうに事を成したとはいえないであろう。
むかしの名人芸では、時は二の次、それよりも万全のスキなき仕上げを誇ったのである。

徳川時代の悠長な時代ならば、それも心のこもったものとして、人から喜ばれもしようが、今日は、時は金なりの時代である。
一刻一秒が尊いのである。
だから念入りな心くばりがあって、しかもそれが今までよりもさらに早くできるというのでなければ、ほんとうに事を成したとはいえないし、またほんとうに人に喜ばれもしないのである。

早いけれども雑だというのもいけないし、ていねいだがおそいというのもいけない。
念入りに、しかも早くというのが、今日の名人芸なのである。

旗を見る p152

射場に行って射撃の練習をすると、遠い標的の下に監視の人がい発射のたびに旗を振ってくれる。
その旗の振りぐあいで、ねらいが的を射たか、はずれたか、また右にそれたか左にずれたかが、一目でわかり、次のねらいを修正する。

こんなことをくりかえして、しだいしだいに上達するわけで、もしこの旗を見なかったら、たとえ百万発の射撃をしたところで、それはいわば闇夜の盲射ちにも等しくて、ねらいの効果もわからず、何の上達もないであろう。

考えてみれば、おたがいの毎日の働きについても、実はこんな旗がたくさん振られているのである。
その中には、たとえば数字という形で、目に見えてくるものもある。
しかし、目に見えない旗のほうがはるかに多いであろう。

その見えない旗を見きわめて、毎日の成果を慎重に検討してゆくところに、仕事の真の成長があり、毎日の尊い累積がある。
おたがいに忙しい日々ではあるけれど、目に見える旗はもちろんのこと、目に見えない旗をも、よく見きわめるだけの心がけを、つねにきびしく養っておきたいものである。

引きつける p156

磁石は鉄を引きつける。
何にも目には見えないけれども、見えない力が引きつける。
しぜんに鉄を引き寄せる。

人が仕事をする。
その仕事をする心がけとして、大事なことはいろいろあろうけれども、やっぱりいちばん大事なことは、誠実あふれる熱意ではあるまいか。

知識も大事、才能も大事。
しかし、それがなければ、ほんとうに仕事ができないというものでもない。
たとえ知識乏しく、才能が劣っていても、なんとかしてこの仕事をやりとげよう、なんとしてでもこの仕事をやりとげたい、そういう誠実な熱意にあふれていたならば、そこから必ずよい仕事が生まれてくる。

その人の手によって直接にできなくとも、その人の誠実な熱意が目に見えない力となって、自然に周囲の人を引きつける。
磁石が鉄を引きつけるように、思わぬ加勢を引き寄せる。
そこから仕事ができてくる。
人の助けで、できてくる。

熱意なき人は描ける餅の如し。
知識も才能も、熱意がなければ無に等しいのである。
おたがいに一生懸命、精魂こめて毎日の仕事に打ち込みたい。

力をつくして p158

どんな仕事でも、一生懸命、根かぎりに努力したときには、何となく自分で自分をいたわりたいような気持ちが起こってくる。
自分で自分の頭をなでたいような気持ちになる。

きょう一日、本当によく働いた、よくつとめた、そう思うときには、疲れていながらも食事もおいしくいただけるし、気分もやわらぐ。
ホっとしたような、思いかえしても何となく満足したような、そして最後には「人事をつくして天命を待つ」というような、心のやすらぎすらおぼえるものである。

力及ばずという面は多々あるにしても、及ばずながらも力をつくしたということは、おたがいにやはり慰めであり喜びであり、そしていたわりでもあろう。

この気持ちは何ものにもかえられない。
金銭にもかえられない。
金銭にかえられると思う人は、ほんとうの仕事の喜びというものがわからない人である。
仕事の喜びを味わえない人である。
喜びを味わえない人は不幸と言えよう。

事の成否も大事だけれど、その成否を越えてなお大事なことは、力をつくすというみずからの心のうちにあるのである。

大事なこと p170

いかに強い力士でも、その勝ち方が正々堂々としていなかったら、ファンは失望するし、人気も去る。
つまり、勝負であるからには勝たなければならないが、どんなきたないやり方でも勝ちさえすればいいんだということでは、ほんとうの勝負とはいえないし、立派な力士ともいえない。
勝負というものには、勝ち負けのほかに、勝ち方、負け方というその内容が大きな問題となるのである。

事業の経営においても、これと全く同じこと。
その事業が、どんなに大きくとも、また小さくとも、それが事業であるかぎり何らかの成果をあげなければならず、そのためにみんなが懸命な努力をつづけるわけであるけれども、ただ成果をあげさえすればいいんだというわけで、他の迷惑もかえりみず、しゃにむに進むということであれば、その事業は社会的に何らの存在意義も持たないことになる。
だから、事業の場合も、やっぱりその成果の内容――つまり、いかに正しい方法で成果をあげるかということが、大きな問題になるわけである。

むつかしいことかもしれないが、世の中の人びとが、みんなともどもに繁栄してゆくためには、このむつかしいことに、やはり成功しなければならないと思うのである。

何でもないこと p176

何事においても反省検討の必要なことは、今さらいうまでもないが、商売においては、特にこれが大事である。

焼芋屋のような簡単な商売でも、一日の商いが終われば、いくらの売上げがあったのか、やっぱりキチンと計算し、売れれば売れたでその成果を、売れなければなぜ売れないかを、いろいろと検討してみる。
そして、仕入れを吟味し、焼き方をくふうし、サービスの欠陥を反省して、あすへの新しい意欲を盛り上げる。
これが焼芋屋繁昌の秘訣というものであろう。

まして、たくさんの商品を扱い、たくさんのお客に接する商売においては、こうした一日のケジメをおろそかにし、焼芋屋ででも行なわれるような毎日の反省と検討を怠って、どうしてきょうよりあすへの発展向上が望まれよう。

何でもないことだが、この何でもないことが何でもなくやるには、やはりかなりの修練が要るのである。

平凡が非凡に通ずるというのも、この何でもないと思われることを、何でもなく平凡に積み重ねてゆくところから、生まれてくるのではなかろうか。

敵に教えられる p178

己が正しいと思いこめば、それに異を唱える人は万事正しくないことになる。
己が正義で、相手は不正義なのである。
いわば敵なのである。
だから憎くなる。
倒したくなる。
絶滅したくなる。

人間の情として、これもまたやむを得ないかもしれないけれど、われわれは、わがさまたげとばかり思いこんでいるその相手からも、実はいろいろの益を得ているのである。

相手がこうするから、自分はこうしよう、こうやってくるなら、こう対抗しようと、あれこれ知恵をしぼって考える。
そしてしだいに進歩する。
自分が自分で考えているようだけれど、実は相手に教えられているのである。
相手の刺激で、わが知恵をしぼっているのである。
敵に教えられるとでもいうのであろうか。

倒すだけが能ではない。
敵がなければ教えもない。
従って進歩もない。
だからむしろその対立は対立のままにみとめて、たがいに教え教えられつつ、進歩向上する道を求めたいのである。
つまり対立しつつ調和する道を求めたいのである。

それが自然の理というものである。
共存の理というものである。
そしてそれが繁栄の理なのである。

あぶない話 p180

失敗するよりも成功したほうがよい。
これはあたりまえの話。
だが、三べん事を画して、三べんとも成功したら、これはちょっと危険である。
そこからその人に自信が生まれ確信が生じて、それがやがては「俺にまかせておけ」と胸をたたくようになったら、もう手のつけようがない。
謙虚さがなくなって他人の意見も耳にはいらぬ。
こんな危険なことはない。

もちろん自信は必要である。
自信がなくて事を画するようなら、はじめからやらないほうがよい。
しかしこの自信も、みな一応のもので、絶対のものではない。
世の中に絶対の確信なんぞ、ありうるはずがないし、持ちうるはずもない。
みな一応のものである。
みな仮のものである。
これさえ忘れなければ、いつも謙虚さが失われないし、人の意見も素直に聞ける。
だが、人間というものは、なかなかそうはゆかない。
ちょっとの成功にも、たやすく絶対の確信を持ちたがる。

だから、どんなえらい人でも、三度に一度は失敗したほうが身のためになりそうである。
そしてその失敗を、謙虚さに生まれかわらせたほうが、人間が伸びる。

失敗の連続もかなわないが、成功の連続もあぶない話である。

同じ金でも p186

同じ金でも、他人からポンともらった金ならば、ついつい気軽に使ってしまって、いつのまにか雲散霧消。
金が生きない。
金の値打ちも光らない。

同じ金でも、アセ水たらして得た金ならば、そうたやすくは使えない。
使うにしても真剣である。
慎重である。
だから金の値打ちがそのまま光る。

金は天下のまわりもの。
自分の金といっても、たまたまその時、自分が持っているというだけで、所詮は天下国家の金である。
その金を値打ちもなしに使うということは、いわば天下国家の財宝を意義なく失ったに等しい。

金の値打ちを生かして使うということは、国家社会にたいするおたがい社会人の一つの大きな責任である。
義務である。
そのためには、金はやはり、自分のアセ水をたらして、自分の働きでもうけねばならぬ。
自分のヒタイのアセがにじみ出ていないような金は、もらってはならぬ。
借りてはならぬ。

個人の生活然り。
事業の経営然り。
そして国家の運営の上にも、この心がまえが大事であろう。

虫のいいこと p194

人間はとかく虫のいいことを考えがちで、雨が降っても自分だけはぬれないようなことを、日常平気で考えている場合が多い。
別に虫のいいことを考えるのがいけないというのではないが、虫のいいことを考えるためには、それ相応の心がまえが必要なのである。

雨が降ったらだれでもぬれる。
これは自然の理である。
しかし傘をさせばぬれないでもおられる。
これは自然の理に順応した姿である。
素直な姿である。

だから、自然の理をよく見きわめて、これに順応する心がまえを持ったうえならば、どんなに虫のいいことを考えてもかまわないけれど、傘も持たないで自分だけはぬれないような虫のいいことを考えているならば、やがてはどこかでつまずく。
つまずいてもかまわないというのなら何もいうことはないけれど、人はとかく、つまずいたその原因を、他人に押し付けて自分も他人も不愉快になる場合が多いから、やはり虫のいいことは、なるべく考えないほうがいい。

おたがいに忙しい。
忙しいけれど、ときには静かに、自分の言動を自然の理に照らして、はたして虫のいいことを考えていないかどうかを反省してみたいものである。

こわさを知る p198

こどもは親がこわい。
店員は主人がこわい。
社員は社長がこわい。
社長は世間がこわい。
また、神がこわい。
仏がこわい。
人によっていろいろある。

こわいものがあるということは、ありがたいことである。
これがあればこそ、かろうじて自分の身も保てるのである。

自分の身体は自分のものであるし、自分の心も自分のものである。
だから、自分で自分を御すことは、そうむつかしいことでもないように思われるのに、それが馬や牛を御すようには、なかなかうまくゆかないのが人間というもので、古の賢人も、そのむつかしさには長嘆息の体である。

ましてわれわれ凡人にとっては、これは難事中の難事ともいうべきであろう。

せめて何かのこわいものによって、これを恐れ、これにしかられながら、自分で自分を律することを心がけたい。

こわいもの知らずということほど危険なことはない。
時には、なければよいと思うようなこわいものにも、見方によっては、やはり一利があり一得があるのである。

乱を忘れず p202

景気がよくて、生活も豊かで、こんな姿がいつまでもつづけば、まことに結構である。
しかし、おたがい人生には、雨の日もあれば、風の日もある。

景気にしても好況のときもあれば、不況のときもある。
いつも平和な、いつも豊かなときばかりとは限らない。
それが人生である。
世の中である。

ところが、世の中が落ちついて、ある程度景気もよくなり、生活も向上して、いわゆる安穏な毎日がつづくようになると、いつしか、この世の中の実体を忘れ、人生のあり方を忘れて、日を送る。

それですむなら、それでもよかろう。
しかしいつかは台風が来、あるいは不景気の波が立つ。
そのときになっても、はたしてきのうに変わらぬ泰然の心境でいられるか、どうか。

いついかなる変事にあおうとも、つねにそれに対処してゆけるように、かねて平時から備えておく心がまえがほしいもの。
「治にいて乱を忘れず」である。

それがわかっていながら、しかもおたがいに今ひとつ充分でないのも、これも人間の一つの弱点であろうか。

後生大事 p204

賢い人が、賢いがゆえに失敗する、そんな例が世間にはたいへん多い。

賢い人は、ともすれば批判が先に立って仕事に没入しきれないことが多い。
だから、せっかくの知恵も生かされず、簡単な仕事もつい満足にできないで、世と人の信用を失ってしまう。

ところが、一方に「バカの一つ覚え」といわれるぐらい仕事に熱心な人もいる。
こういう人は、やはり仕事に一心不乱である。
つまらないと見える仕事も、この人にとっては、いわば後生大事な仕事、それに全身全霊を打ちこんで精進する。
しぜん、その人の持てる知恵は最上の形で働いて、それが仕事のうえに生きてくる。
成功は、そこから生まれるという場合が非常に多い。

仕事が成功するかしないかは第二のこと。
要は仕事に没入することである。
一心不乱になることである。
そして後生大事にこの仕事に打ち込むことである。
そこから、ものが生まれずして、いったい、どこから生まれよう。

おたがいに、力及ばぬことを嘆くより先に、まず、後生大事に仕事に取り組んでいるかどうかを反省したい。

わが身につながる p212

何でもかんでも、わるいことはすべて他人のせいにしてしまったら、これほど気楽なことはないだろう。
すべて責任は相手にあり、都合のわるいことは知らぬ存ぜぬである。
だがしかし、みんながみんなこんな態度で、責任の押しつけ合いをしていたならば、この世の中、はたしてどうなることか。

理屈はどうにでもたてられる。
責任をのがれる理屈は無数にあろう。
また法律上は、無関係、責任なしということもあり得ることである。
しかしこれは理屈や法律だけのこと。
人と人とが相寄って暮らしているこの世の中、どんなことに対しても、自分は全く無関係、自分は全く無責任――そんなことはあり得ない。
一見何の関係もなさそうなことでも、まわりまわってわが身につながる。
つながるかぎり、それぞれに深い自己反省と強い責任感が生まれなければならないであろう。

すべてを他人のせいにしてしまいたいのは、人情の常ではあろうけれども、それは実は勇気なき姿である。
心弱き姿である。
そんな人びとばかりの社会には、自他ともの真の繁栄も真の平和も生まれない。
おたがいに一人前の社会人として、責任を知る深い反省心と大きな勇気を持ちたい。

敬う心 p220

学校の先生を軽んじ、師と仰ぐ気持ちがなかったら、先生も教える張合いがないし、生徒も学びが身につかない。
社会にとっても大きな損失である。

やはり聖職の師として先生を敬い、謙虚に師事する姿から、一言一句が身につき成長する。

親を大事にし、上司に敬意をはらう。
先輩に礼をつくし、師匠に懸命に仕える。
親や師にたいするだけではない。
よき仕事をする人を心から尊敬し、一隅を照らす人にも頭を下げる。

天地自然、この世の中、敬う心があれば、敬うに値するものは無数にある。

犬や猫には敬う心の働きはない。
だが人間には、ものみな、人みなのなかに敬うべき価値を見いだす能力が与えられている。
本質として与えられている。
その本質を生かしつつ、敬うべきものを敬うことによって自他ともの心をゆたかにし、高めることのできるのは人間だけではなかろうか。

その人間の特性を素直に生かしたい。
敬う心を高めて、おたがいのゆたかさをはかりたい。

真実を知る p226

人間は、ものの見方一つで、どんなことにも堪えることができる。
どんなつらいことでも辛抱できる。
のみならず、いやなことでも明るくすることができるし、つらいことでも楽しいものにすることができる。
みな心持ち一つ、ものの見方一つである。
同じ人間でも、鬼ともなれば仏ともなるのも、この心持ち一つにあると思う。

そうとすれば、人生において、絶望することなど一つもないのではあるまいか。

ただ、この、ものの見方を正しく持つためには、人間は真実を知らねばならないし、また真実を教えなければならない。
つまり、ものごとの実相を知らねばならないのである。

もちろん情愛は大切である。
だがかわいそうとか、つらかろうとか考えて、情愛に流され真実をいわないのは、本当の情愛ではあるまい。
不幸とは、実相を知らないことである。
真実を知らないことである。

人間はほんとうは偉大なものである。
真実に直面すれば、かえって大悟徹底し、落ちついた心境になるものである。
だからおたがいに、正しいものの見方を持つために、素直な心で、いつも真実を語り、真実を教え合いたいものである。

自分の非 p232

人間は神さまではないのだから、一点非のうちどころのない振舞などとうてい望めないことで、ときにあやまち、ときに失敗する。
それはそれでいいのだが、大切なことは、いついかなるときでも、その自分の非を素直に自覚し、これにいつでも殉ずるだけの、強い覚悟を持っているということである。

昔の武士がいさぎよかったというのも、自分の非をいたずらに抗弁することなく、非を非として認め、素直にわが身の出処進退をはかったからで、ここに、修業のできた一人前の人間としての立派さが、うかがえるのである。

むつかしいといえばむつかしいことかもしれないが、それにしても、近ごろの人間はあまりにも脆すぎる。
修練が足りないというのか、戦ができていないというのか、素直に自分の非を認めないどころか、逆に何かと抗弁をしたがる。
そして出処進退を誤り、身のおきどころを失う。
とどのつまりが自暴自棄になって、自分も傷つき他人も傷つけることになる。
これでは繁栄も平和も幸福も望めるはずがない。

自分の非を素直に認め、いつでもこれに殉ずる――この心がまえを、つねひごろからおたがいに充分に養っておきたいものである。

勤勉の徳 p234

天災地変をまつまでもなく、粒々辛苦の巨万の富も、事あらば一朝にして失われてしまうことがしばしばある。
形あるものはいつかは滅びるにしても、まことにはかない姿であるといえよう。
だがしかし、身についた技とか習性とかは、これは生あるかぎり失われはしない。
たよりになるのは、やはり自分の身についた技、身についた習性。

だから、何か一つでもいいから、よき技、よき習性を身につけたいものであるが、なかでもいわゆる勤勉の習性は、何にもまして尊いものに思われる。

勤勉は喜びを生み、信用を生み、そして富を生む。
人間のいわば一つの大事な徳である。
徳であるかぎり、これを積むには不断の努力がいる。

相撲に強くなるためには、不断に真剣なけいこを積まねばならないように、勤勉の習性を身につけるためには、まず日々を勤勉につとめる努力がいるのである。
その努力が重なって勤勉の習性が身につき、その習性からはじめて徳が生まれてくる。

おたがいに勤勉の徳を積みたいものである。

心を高める p240

禅の修業はなかなかきびしい。
ちょっと身じろぎでもすれば、たちまちパンパンと警策がお見舞いする。
痛いとも言えないし、苦しいとも言えない。
きびしい戒律にとりかこまれて、箸の上げ下げすらも自由でないのである。
自堕落になれた人間には、瞬時もがまんがならないであろう。

しかしこのきびしい戒律も、回を重ね、時を経るに従って、それがしだいに苦痛でなくなってくる。
戒律を戒律と思う間は苦痛である。

しかし、その戒律がいつしか身につき、日常坐臥に自然のふるまいとなってあらわれる時、もはやそれは苦痛ではない。
そして、このきびしさを苦痛と感じなくなったとき、そこからきたえぬかれた人間の美しさがにじみ出てくるのである。

人間は本来偉大なものである。
みごとなものである。
しかしそのみごとさは、放っておいてはあらわれない。
易きにつくのが人間の情であるとしても、易きがままの日々をくりかえすだけならば、そこにはただ、人間としての弱さが露呈されるだけであろう。

おたがいに与えられた人間としての美しさをみがきあげるために、きびしさを苦痛と感じないまでに心を高めたいものである。

信念のもとに p252

昔の商人は“店とのれん”というものを、ずいぶん大事にした。
ときには、自分の生命よりもこれを大事にした。
伝来の店是とのれんを守ることに、商人としての生命をかけて、これに強い信念を置き、誇りを感じていたのである。
そのことのよしあしは別として、“武士道とは死ぬことと見つけたり”といったあの葉隠武士の信念に一脈相通ずるようなものがある。
そしてそこに土性骨といわれるものの源泉があったのである。

時代は変わった。
人の考えも変わった。
しかし信念に生きることの尊さには、すこしも変わりはない。
いや今日ほど、事をなす上において信念を持つことの尊さが痛感されるときはない。
為政者に信念がなければ国はつぶれる。
経営者に信念がなければ事業はつぶれる。
そして店主に信念がなければ店はつぶれる。
誇りを失い、フラフラしているときではない。

正しい国是を定め、誇りある社是を定め、力強い店是をきめて、強い信念のもとに、自他ともに確固たる歩みをすすめたい。
そこから国家の、事業の、お店の、そしておたがい個々人の真の繁栄が生み出されてくると思うのである。

ダムの心得 p268

雨が降る。
山に降る。
降った雨は地にしみこみ、谷水となり、川となり、平野をうるおして海に流れる。
この流れがうまくゆけばよいけれど、ちょっと狂えば洪水となり、また反対にかんばつとなる。
流しっ放し、使いっ放しの結果である。

そこでダムを考える。
流しっ放しをせきとめて、せきとめ溜めたその水を有効に使う。
ゆとりをもって適時適切に放出する。
人間の知恵の進歩であろう。

川にダムが必要なように、暮らしにもダムがほしい。
物心ともにダムがほしい。
ダラダラと流れっ放し、使いっ放しの暮らしでは、まことに知恵のない話。

大河は大河なりに、小川は小川なりに、それぞれに応じたダムができるように、人それぞれに、さまざまの知恵を働かせれば、さまざまのダムができあがるはずである。

個人の暮らしの上だけではない。
商売の上にも、事業の経営の上にこころえも、このダムの心得がぜひほしい。
そしてさらに大事なことは、国家の運営にあたっても、このダムをぜひつくりたい。
国家と国民の安定した真の繁栄のために。

日本よい国 p270

花が散って、若葉が萌えて、目のさめるような緑の山野に、目のさめるような青空がつづいている。
身軽な装いに、薫風が心地よく吹きぬけ、かわいい子供の喜びの声の彼方に、鯉のぼりがハタハタと泳いでいる。

五月である。
初夏である。
そして、この季節にもまた、日本の自然のよさが生き生きと脈っている。

春があって夏があって、秋があって冬があって、日本はよい国である。
自然だけではない。
風土だけではない。
長い歴史に育まれた数多くの精神的遺産がある。
その上に、天与のすぐれた国民的素質。
勤勉にして誠実な国民性。

日本はよい国である。
こんなよい国は、世界にもあまりない。
だから、このよい国をさらによくして、みんなが仲よく、身も心もゆたかに暮らしたい。

よいものがあっても、そのよさを知らなければ、それは無きに等しい。

もう一度この国のよさを見直してみたい。
そして、日本人としての誇りを、おたがいに持ち直してみたい。
考え直してみたい。