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「誰のためのデザイン?」を読んだ

誰のためのデザイン?」を2025年07月11日に読んだ。

目次

メモ

pii

居間を見てみましょう。
日本では多くの家庭の居間にオーディオセットとビデオセットが置いてあります。
とてもすばらしいものです。
でも、このすばらしさの大部分がまったく使われていません。
そしてこのような装置が家庭の中にのさばっていて、狭い日本の家庭の居間で大きなスペースを取っています。
こうした機器はますます複雑化しています。
それぞれにリモコンが付き、そのリモコンは他のリモコンとは異なるのです。
なんという混乱でしょう。

もう事態を変えるべきときです。
消費者は反乱を起こすべきときです。
私たちの暮らしがこんなに複雑である必要はありません。
この問題はあなたのせいではありません。
このひどい製品を作ったデザイナーとメーカーのせいです。
とはいえ、あなたのせいでもあります。
こんなにいらいらさせるような製品をなぜ買いつづけたのでしょう。

p6

このドアの話は、デザインの最も重要な原則の一つである可視性(visibility)の例である。
操作するときに重要な部分は、目に見えなくてはならない。
また、それは適切なメッセージを伝えなくてはならない押して開けるドアならば、どこを押したらいいのかを自然に伝えるシグナルをデザイナーは提供しなくてはならない。
そのシグナルは必ずしも美しさを損なうとは限らないだろう。
ドアの押す側に縦長の板をつけて、反対側には何もつけない。
あるいは、支軸を見えるようにする。
これらの縦長の板や支軸は自然なシグナルであり、特別意識しなくても自然に解釈されるだろう。
このような自然なシグナルを使うことを私は自然なデザインと呼び、この本を通してこのアプローチを詳細に説明していきたいと思う。

可視性の問題は、さまざまな形で現われてくる。
ガラスのドアとドアの間に閉じ込められてしまった友人の場合は、どの部分を操作すべきかを示す手がかりがドアになかったので苦労したのだった。
したいこととできそうなことの対応づけ(mapping)に関わる問題もある。
対応づけは、この本を通して考察されるもう一つの課題である。
こんなスライドプロジェクターがあると考えてほしい。
このプロジェクターには、スライドトレーを前進させたり後退させたりするためのボタンが一つしかない。
一つのボタンで二つのことをする?
対応づけはどうなっているんだ?

p12

ユーザは手助けを必要としている。
どの部分がどのように機能するか、そして、ユーザがその装置とどのようにやりとりをしたらよいかをはっきりさせるためには、適切なものがちゃんと見えていさえすればいい。
可視性は、しようとしている行為と実際の操作の間の対応づけを示している。
可視性によって、たとえば、塩入れとこしょう入れといった重要な違いを知ることができる。
操作の結果が見えること(可視性)によって電灯がちゃんと点灯したかどうか、映写幕が適切なところまで降りたかどうか、冷蔵庫の温度が正しく調節されているかどうかを知ることができるのである。
コンピュータによって制御された装置の多くが使いにくいのは、この可視性がないためだろう。
また、ごちゃごちゃと機能がついたオーディオセットや、ビデオテープレコーダがユーザを威嚇せんばかりなのは、この可視性の過剰のせいだろう。

毎日使う道具の心理学 p13

この本は毎日使う道具の心理学(Psychology Of Everyday Things)に関する本である。
私は、本書で、毎日使うもの、ドアのノブとかダイヤルとかがついているもの、調節装置やスイッチのあるもの、ライトやメーター付きの道具などに対する理解が重要であると強調したい。
今ここで検討したような例は、たとえば、可視性や適切な手がかり、人が行なった結果のフィードバックが重要であるという原則を示している。
人が物とどのようにかかわるかについての一種の心理学は、これらの原則からなりたっている。
あるイギリスの設計家は、旅客待合所に落書きをしたり、それを壊したりする人たちの行動は、待合所をどのような材料で作るかによって変わると述べたことがある。
これは、建築材料の心理学というのがあり得ることを示唆したわけである。

アフォーダンス p14

「一つの例ですが、英国国有鉄道によって建てられた旅客待合所のパネルに使われた強化ガラスは、新しく入れ換えられるととたんに壊されてしまいました。
しかし、その強化ガラスをベニヤの板に変えたところ、別にベニヤがガラスより丈夫だったわけでもないのに、それ以上の損害は生じなくなりました。
このように国鉄は、いたずら書きをしやすくすることによって破壊への衝動をそちらに集中させ、限定することができたのでした。
これまで誰も、建築材料の心理学などというものがありうると考えたことがなかったのですが、この例に見るように、それは可能なのです。」²

材料の心理学・道具の心理学の出発点となる研究は、もうすでにある。
事物のアフォーダンスに関する研究である。
ここで、アフォーダンス(affordance)という言葉は、事物の知覚された特徴あるいは現実の特徴、とりわけ、そのものをどのように使うことができるかを決定する最も基礎的な特徴の意味で使われている(図1-5、1-6参照)。
椅子は、支えることをアフォードする(支えるためのもの)で、それゆえすわることを可能にする(すわることをアフォードする)。
椅子は運ぶこともできる。
ガラスは透き通して見たり、壊したりするためのものである。
木は普通、堅さや不透明さが必要なとき、支えるとき、彫刻するときに使われる。
平らで水分を通して、なめらかな表面はその上に書き込むのによい。
それゆえ、木は書き込むためのものである。
英国国有鉄道の話に戻ってみよう。
待合所がガラスだったときには、割られていた。
それがベニア合板になると、いたずら書きされたりナイフで削られたりするようになったのである。
待合所をデザインした人たちは、その材質のアフォーダンスの落し穴にひっかかってしまったのである³。

アフォーダンスは物をどう取り扱ったらよいかについての強力な手がかりを提供してくれる。
ドアの押し板は押すためのもので、ノブは回すためのものだった。
スロットは、そこに何かを挿入するためにある。
ボールは投げたりはずませたりするためのものだ。
アフォーダンスの特徴がうまく使われていれば、何をしたらよいかはちょっと見るだけでわかる。
絵やラベルや説明の文章も必要ない。
複雑なものには説明がいるかもしれないが、簡単なものには必要であってはならない。
単純なものに絵やラベルや説明が必要であるとしたら、そのデザインは失敗なのだ。

毎日の道具を使う際に、因果性の心理学が使われている。
ある行為のすぐ後に起きたことは、その行為によって引き起こされたように見える。
もしも、誰かがコンピュータの端末にさわったそのときにコンピュータがうまく動かなくなってしまったら、かりにそれが偶然の一致にすぎなかったとしても、その人は自分のせいで動かなくなったのだと信じてしまうだろう。
そのような誤った因果性の認識がたくさんの迷信のもとになっている。
人はコンピュータシステムや複雑な家電製品を使うときにいろいろと奇妙な行動をしがちだが、その多くはこの偶然の一致を誤解したせいといえよう。
あることをしたのに一見なんの結果も起こらないと、その行為がなんの効果ももたなかったかのように結論しがちだ。
そこで、もう一度やってしまう。
ごく初期のワープロでは、なんらかの操作をしても必ずしもその結果を表示しなかった。
それを使っている人は原稿の一部を変更しようとして何かをしても、一つひとつの行為に対して目で見える結果が返ってこないと、コマンドが実行されなかったと思い込んでしまい、その同じコマンドを何度も何度も繰り返してしまったものだった。
そして、後になって見て驚いたり、しまったと思うのである。
そんな類の誤った因果性認識を起こしてしまうのは、デザインが悪いのだ。

概念モデル p19

ちょっと変わった自転車が図1-7にある。
この自転車では走れないということはすぐ見て取れると思うが、それはあなたがこの機械の概念モデルをもっていて、その動きを心の中でシミュレートしてみたからである。
このようなシミュレーションができるのは、部分が目に見え、その意味するところが明白だからだ。

ものがどのように機能するかについてのこれ以上の手がかりは、目に見える構造から得られる。
とりわけ、アフォーダンスと制約と対応づけからだ。
はさみを見てほしい。
かりに、これまでにはさみを見たことも使ったこともなかったとしても、はさみを使ってできることは限られていることがわかるだろう。
穴は明らかに何かを差し込むためのもので、論理的に考えればそこに入るのは指しかない。
この穴がアフォーダンスで、指を差し込むことをアフォードしている(許している)。
その穴の大きさは、どの指を使うかを限定するための制約を示している。
その穴が大きければ何本かの指が入るし、小さければ1本だけしか入らない。
可能な操作の集合である穴と指の対応づけは、その穴によって情報を与えられるし、制約されもする。
さらに言えば、その操作は指をどのように置くかにもあまり関係しない。
指の使い方を間違えたとしても、はさみは使える。
それは、はさみの機能する部分が目に見え、その意味するところが明らかなので、はさみがどんなものかわかるからだ。
概念モデルは明らかで、アフォーダンスや制約は有効に使われているのである。

この逆の例もある。
二個ないし四個の押しボタンが表とか側面についているデジタル式腕時計を考えてみてほしい。
この押しボタンは何のためのものなのだろう。
どうしたら、時刻を合わせられるだろうか。
わかるはずがない。
腕時計をコントロールするための操作手順とその機能の間には、はっきりとした関係はないし、制約も対応づけもない。
はさみだったら、取っ手を動かせば刃の部分が動いた。
この腕時計やライツ社のスライドプロジェクターの場合には、ボタンとそこで可能な行為の間に何の目に見える関係もないし、その行為とその結果生じることの間によくわかる対応関係もないのである。

理解しやすさと使いやすさのためのデザインの原則 p20

ここまでに、利用者のためのデザインのもっとも基礎的な原則が二つでてきている。
それは、(1)よい概念モデルを提供するということと、(2)ものを見えるようにするということである。

よい概念モデルを提供すること p21

よい概念モデルがあると、私たちは自分の行為の結果を予測できるようになる。
良いモデルが無いときには、機械的にやみくもに操作しなくてはならなくなる。
言われた通りにしかできない。
たとえば、なぜそうなるのかを十分に説明できないし、どういう結果が生じるのかもわからない。
なにか問題が生じたときどうしたらいいのかもわからない。
ものごとがうまくいっているときのみ、どうにかやっていけるのである。
でも、なにかまずいことが生じたり新しい状況に直面したときなどには、より深い理解、すなわち良いモデルが必要になる。

p24

概念モデルの話はこの本ではまた出てくる。
概念モデルはデザインにおいて重要な概念であるメンタルモデルの一部である。
メンタルモデルは、自分自身や他者や環境、そしてその人が関わりをもつものなどに対して人がもつモデルのことである。
人はこのメンタルモデルを、経験や訓練、教示などを通して身につけるようになる。
道具に対するメンタルモデルの多くは、道具のふるまい方と目に見える道具の構造を解釈することによって形成される。
私は、道具のうち、目に見える構造の部分をさして、システムイメージと呼んでいる(図1-10)。
前述の冷蔵庫のように、システムイメージが一貫性を欠いていたり、不適切であったりすれば、ユーザはその道具を簡単には使えない。
不完全であったり、相互に矛盾していたりしたら、トラブルが生じるだろう。

p33

この問題を考えるにあたって、電話機と同じかそれ以上に複雑なのに、もっと簡単に使えるものと比較するとわかりやすいのではないかと思った。
こんな複雑な電話システムなどは少し忘れて、私の自動車を見ていただきたい。
私はヨーロッパで車を買った。
私がその車を受け取りに工場に行くと、その会社の人は私と一緒に車に乗り込んで、一つひとつの操作スイッチ類の機能と使い方を説明してくれた。
すべてのスイッチの説明が一通り終わると私は、「わかりました。どうもありがとう」と言って、車を発進させた。
必要な教示はそれだけだった。
その車には一一二個ものコントロールすべきスイッチ類がある。
そう言うとたいへんそうに聞こえるが、それほどでもない。
そのうちの二五個がラジオ関係、七個が温度調節関係で、一一個が窓とサンルーフを使うためのものである。
トリップコンピュータには一四個のボタンがあり、一つひとつが特定の機能に対応している。
そこで、ラジオと温度調節と窓とトリップコンピュータの四つの道具で、全体の五〇%以上の五七個のスイッチ類を占めていることになる。

こんなにたくさんの機能と数え切れないほどのスイッチをもっている自動車の方が、もっと少ない機能とスイッチしかもっていない電話システムよりも、なぜ学習が簡単で使いやすいのだろうか。
車のデザインのよいところはどこにあるのだろうか。
それは、ものが見えるということである。
コントロールスイッチとそれでコントロールされるものとの間にはよい対応づけや自然な関係がある。
一つのコントロールスイッチはたいてい一つの機能だけをもっている。
フィードバックは良好である。
そして、システムは理解しやすくできている。
全般的に、ユーザの意図とその実現に必要な操作、そしてその結果の間には、恣意的でないわかりやすくて意味のある関係が存在している。

それでは、電話機のデザインのどこが悪いのだろうか。
まず、構造が可視的でない。
対応づけは恣意的で、ユーザが行なわなくてはならない操作と得られる結果の間の対応には、なんらの合理的な関係も存在しない。
一つのコントロール操作が複数の機能を果たしている。
フィードバックは良くなくて、本当に欲する結果が得られたのかどうかユーザには確信がもてない。
一般的にシステムは理解しづらく、なにができるのかがはっきりしない。
全般的にユーザの意図とその実現に必要な操作、そしてその結果の間の関係がきまぐれなのである。

可能な操作の数が、そのコントロール手段の数よりも多いときは問題が起こりやすい。
例の電話システムには、二四の機能があったが、コントロールスイッチは一五個しかなく、そのどれにも、特定の操作のためのラベルなどは貼ってなかった。
それに対して、私の車のトリップコンピュータの場合、一四個の操作スイッチで一七の機能を制御している。
少しの例外はあるが、一つの機能には、一つのスイッチが対応している。
実際、一つのコントロールスイッチに二つ以上の機能が割り当てられると、覚えるのも使うのもたいへんである。
スイッチの数と機能の数が同じならば、一つのスイッチはその特定の用途向けにできるし、それにラベルを貼ることもできる。
一つのコントロールスイッチが一つの機能に対応づけられているので、どんな機能を実行できるのかを見ることもできる。
その機能を忘れてしまったら、スイッチが思い出す手がかりになる。
電話機のように、スイッチ類の数よりも機能の数の方が多ければ、ラベルを貼ることはできないし、ユーザに機能を思い出させることもできない。
そこで、機能は見えないところに隠れてしまうことになる。
操作が神秘的で難しいものになるのも当然だろう。
車のスイッチの場合は可視的で、どこにそのスイッチが設置されているか、どのような操作モードのときにどのスイッチを使うかがはっきりしているので、スイッチとそれが司る行為の関係は分かりやすい。
可視性のおかげで、なにができるかを思いだすよいきっかけとなるし、その行為をどのように実行するかをスイッチ類で示すこともできる。
コントロールスイッチがどこにあるかということと、それが何をするものであるかということがうまく結びついていれば、あることをする際にどんなコントロール操作をしたらいいかは簡単にわかる。
そうなれば、記憶しなくてはならないことはほとんどなくなるのである。

対応づけの原則 p35

対応づけ(mapping)とは二つのものの間の関係を意味する専門用語で、ここでは、コントロール手段とその動きと、それが実際の世界に及ぼす結果の間の関係を表わしている。
自動車のハンドルにおける対応づけの関係を考えてみよう。
車を右に回すためには、ハンドルを時計回りに(すなわち、ハンドルの上部を右に)動かす。
ここで、人は二つの対応づけをわかっていなくてはならない。
その一つは、一一二個もあるコントロール手段の一つが車の方向転換に関係するということであり、もう一つは、ハンドルの二つの可能な動きのうちの一つの方向に動かさなくてはならないということである。
両方とも、恣意的と言えなくはない。
しかし、輪と時計回りの方向が選ばれているのは自然といえよう。
目に見えるし、望みの結果にきわめて強く結びついている。
そして、即時のフィードバックを与えてくれる。
この対応関係は簡単に学ぶことができ、いつでも思い出せるだろう。

物理的なアナロジーやある文化内での標準的な決まりをうまく生かした自然な対応づけを利用すると、すぐに理解できるようになる。
たとえば、デザイナーは、ものを上に移動させるためにスイッチを上にあげるというような空間的なアナロジーを使うことができる。
たくさんの電灯をコントロールするためには、その電灯の配置と同じパターンのスイッチを並べればよい。
線の上昇が増加を表わし、線の下降が減少を表わすことが全世界的な標準として決まっているのと同じように、自然な対応づけのうちのいくつかは、文化的あるいは生物学的に規定されている。
量とか音の強さ(そして、重さ、線分の長さ、明るさ)は、次元として加算的である。
少し増えたことを表わすためには、少し足せばよい。
ここで、音の高さと量の間の対応関係は、論理的にみればあってもよさそうだが、成立しないことに注意していただきたい。
高い音は、何かが少ないことを表わすのだろうか、それとも多いことを表わすのだろうか。
音の高さ(味、色、場所)は、次元として置換的である。
変更するためには、あるものを他のものに置き換えなければならないのである。
異なった音の高さや色合いや味わいなどを比較する際に、多いとか少ないという自然な概念は存在しないのである。
また、知覚の原則によって作り出される自然な対応づけもあり、それによってコントロール手段とフィードバックの間での自然なグループ分けやパターン化がなされている(図1-13)。

p41

現実には、車にも電話機にも簡単な機能と難しい機能がある。
車には簡単なものが多くあり、電話機には難しいものが多くあるようだ。
さらに言えば、車の場合には、大部分のスイッチがあつかいやすいもので、やりたいと思うことのほとんどをすることができた。
電話の場合はこれと異なり、特殊機能のうちのどの一つも容易には使えなかった。

電話でも車でも容易な部分は共通している。
また、困難な部分も共通している。
関係するものが目に見えるときは、見えないときよりも簡単になる。
さらに、コントロールスイッチとそれが果たす機能の間には、緊密で自然な対応関係である自然な対応づけ(natural mapping)がなくてはならない。

フィードバックの原則 p41

フィードバックとは、どのような行為が実際に遂行され、どのような結果が得られたかに関する情報をユーザに送り返すことで、制御・情報理論の分野ではよく知られた概念である。
自分の声さえも聞こえない場面で誰かに話をするとか、描いても跡を残さない鉛筆を使って絵を描こうとすることとかを考えてみれば、フィードバックのない状態がどういうものかわかる。

あわれなデザイナー p43

よいデザインをすることは容易なことではない。
メーカーは安上がりに作れるものを欲している。
販売店は、お客を引きつけることができるようなものを欲している。
実際に買う人はいくつかの欲求をもっている。
店にいるときには、お客は、品物の値段と外見、そしてたぶん、見栄を気にかけている。
家に戻ればその同じ人が、機能性と使いやすさに注意を払うようになる。
修理部門の人は、製品を分解したり、故障を診断したり、修理したりするのが簡単かどうかという保守のしやすさに注目している。
これらの人々の欲求はさまざまで、しばしば相矛盾する。
それにもかかわらず、デザイナーはすべての人を満足させることもできるかもしれないのである。

p45

この世の中には、ちょっとしたものではあるが、それがあるかないかで私たちの生活が大きく異なるような驚くほどすばらしい細かな工夫のあるよいデザインの例がいっぱいある。
このような工夫が製品に付加されているのは、誰かが、ということはすなわちデザイナーということだが、この道具がどのように使われるか、人がどう誤って使うか、どういうエラーが起こりそうか、人がこれでどんなことをやろうとするかをよく考えたからこそなのである。

そうだとしたら、なぜこれほどたくさんのよいデザイン案が市場に出回る製品に反映されてこないのだろうか。
それとも、よいものというのは短い期間だけ現われて、そしてただ忘れ去られてしまうものなのだろうか。
かつて私は、最良の製品を作り出すことができないといううっぷんについて、あるデザイナーと次のような話をしたことがある。

「本当によいものを作るには普通、五回か六回試みる必要があります。
もうすでに評価の確立している製品ならばそれでも許されるかもしれませんが、新しいものを作ることを考えてみて下さい。
たぶん、本当にこれまでとは違ったものをある会社が作ろうとしたとしましょう。
問題は、もしもそれが本当にそれほどまでに革命的なものであるとしたら、誰だって最初はどうデザインしたらよいかわかるはずがないということです。
何回かやってみることが必要です。
それで、その製品が市場に投入されて失敗したら、どうでしょう。
それでおしまいとなります。
もう一度、あるいは三回くらいまではやり直せるかもしれません。
でも、その後はもうその製品は終わりです。
誰もが、あれは失敗だったと思うのです。」

「でも、よいものを作るには五回か六回やってみる必要があると言わなかったっけ?」と私は説明を求めた。

「ええ、少なくともそのくらいは必要です。」

「それに、新しい製品が最初の二、三回で市場に受け入れられなければ、それは終わりだとも言ったよね?」

「その通りです。」

「じゃ、新しい製品というのはそれがどんなによいアイディアであったとしても、失敗すると決まっているわけだ。」

「おわかりになられたようですね。
カメラとかソフトドリンクの自動販売機などのような複雑な機械に音声メッセージを使おうとした試みの例を考えて下さい。
あれは失敗でした。
もう誰もやろうと考えてさえいません。
ひどい話です。
本当はよいアイディアだったと思いますけど。
手がふさがっていたり、他を見ているときなんかにはとても便利ですから。
でも、最初のいくつかの例がひどすぎて、世間の物笑いの種になってしまいました。
まあ、そうなったのも当然ですけど。
今となっては、音声が本当に必要なところでさえも、誰も音声メッセージをもう一度試してみようなどと考えさえしなくなってしまったんですよ。」

技術の逆説 p47

技術は私たちの生活をより気楽で、楽しいものにしてくれる可能性を提供してくれる。
新しい技術はどれも、これまでのより豊かな恩恵を与えてくれる。
しかし、同時に、複雑さも増大するために、困難さと欲求不満も増えてしまっている。
技術の進歩は、複雑さに関していえばU字型のカーブを描くようだ。
最初の複雑さは大きく、次に複雑さの小さい快適なレベルになり、そして、また複雑さは上昇する。
新しい種類の道具は複雑で使うのが困難である。
技術者たちがだんだん有能になり、その分野が産業として成熟してくると、その道具はより簡単で信頼できるようになり、強力になる。
しかし、その後になって分野が安定してくると、新たな参入者がもっと強力でいろいろできるものを作り出そうとしてさまざまに試み始める。
その際には、複雑になり、場合によっては信頼性まで低くなるのも省みない。
この複雑さのカーブは、時計やラジオ、電話、テレビなどの歴史にあてはまる。
ラジオの例を見てみよう。
初期の頃、ラジオはとても複雑だった。
ある放送局に合わせるには、アンテナの調整や周波数の調整、そして、中間周波数の調整をして、さらに感度と音量の調節をするなど、さまざまな調整が必要だった。
その後、ラジオは簡単なものになり、電源をいれて、放送局を選び、音量を調整するためのつまみだけが付くようになった。
しかし、最近のラジオはまた複雑化している。
もしかしたら、初期のものより複雑かもしれない。
いまやラジオはチューナーと呼ばれ、数限りない操作つまみやスイッチやスライドスイッチやライトやディスプレイやメーターなどでごちゃごちゃしている。
最近のラジオは技術的には優れていて音質もよく、受信性能も向上していて、いろいろできる。
でも、複雑すぎて使えないのだとしたら、この技術はなんの役にたつのだろうか。

技術の進歩のおかげで、デザインの方に降り掛かってきた問題は非常に大きい。
腕時計を例にとってみよう。
二、三〇年前、腕時計は単純なものだった。
時間を合わせて、ネジを巻くだけでよかったのだから。
そのためには普通、時計の側面についている竜頭という突起を使った。
竜頭をまわせば腕時計を動かすゼンマイが巻け、竜頭を引っ張り出して回転させれば腕時計の針が動かせた。
これらの操作は簡単に学べ、簡単に行なえた。
竜頭を回すことと時計の針が回転することの間にはもっともと思われる関係があった。
このデザインは、人がエラーをおかす可能性さえ考慮に入れていたのである。
というのは、竜頭は普通の状態ではゼンマイを巻くために使えるだけで、その状態ではちょっとした拍子に回しても針は動かないようになっていた。

最近のデジタル式の腕時計ではゼンマイはなくなり、モーターと長寿命の電池に置き換えられた。
残った作業は、時を合わせることである。
そのために竜頭を使うというのは、もっともな解といえよう。
合わせたい時間になるまで自由に速く回したりゆっくりまわしたりできるし、進めることも遅らせることもできる。
しかし、竜頭は普通のプッシュボタンスイッチよりも複雑な(それゆえ高価な)ものである。
もしも、ゼンマイで動くアナログ式から電池で動くデジタル式に腕時計が変わったことによる違いが時間の合わせ方だけだったら、話はそんなに難しくなかったことだろう。
問題は、新しい技術のおかげで腕時計にこれまで以上のさまざまな機能を持たせることができるようになったところにあるのだ。
今の時計は、年月日、曜日も教えてくれるし、ストップウォッチとしても使えるし(その中でもまたさまざまな機能がある)、逆算タイマーとしても使えるし、目覚し時計としても時刻を一つか二つ設定できるし、時間帯の異なる外国の時間も教えてくれるし、計数器としても使えるし、計算機としても使えるものさえある。
しかし、この付加機能が問題を起こすのである。
大きさも大きくなりすぎないようにし、コストも押え、複雑にもしすぎないという制約を守りながら、どうしてそんなにたくさんの機能を腕時計に盛り込めるのだろうか?
何個くらいのボタンを付けたら、腕時計は十分使え、覚えやすく、そして値段も高くなりすぎないものになるのだろう。
この間にはそんなに簡単な答はない。
機能とそれを使うのに必要な操作の数がスイッチの数を越えてしまうと、デザインは恣意的なものとなり、不自然で複雑なものとなってしまう。
道具にさまざまな機能を付け加えて、私たちの暮らしを簡単にしてくれるはずのその技術が、道具の使い方を覚えにくく使いにくくしてしまい、暮らしを複雑怪奇なものとしてしまう。
これが技術の逆説である。
この技術の逆説をひどいデザインの言い訳にしてはならない。
たしかに、ある道具の選択可能な機能の数や性能が増加するにつれて、コントロール操作の複雑さも増大する。
しかし、よいデザインの原則に従っていれば、その複雑さも手に負えないものとはならないはずだ。

説明好きな存在としての人間 p60

メンタルモデルはものがどのように機能し、できごとがどのように起こり、人がどのようにふるまうかについての概念モデルである。
このメンタルモデルは、ものごとの説明を作り上げようという人のもつ傾向から生まれるものである。
私たちが経験を理解したり、自分の行動の結果を予測したり、予期せぬできごとに対処したりするときの手助けとして、これらのメンタルモデルは必須である。
現実あるいは、想像上のものに関する知識であろうと、素朴あるいは洗練された知識であろうと、私たちのもつその知識を基にして、メンタルモデルが作られる。

p63

先に私は、人が技術を使うときに困ったことがあると自分を責めがちであると述べた。
実を言うと、話はもう少し複雑である。
確かに人はできごとの原因を見つけたがるのだが、その原因として何を選ぶかは場合によって異なるのである。
一つには、人には、二つのできごとが引き続き起これば、その間に因果的な関係を見てしまうという傾向が存在する。
前述の例のように、ある結果Rを得る直前に私がある行為Aをしていれば、かりにその二つの間になんの関係も存在しないとしても、AがRを引き起こしたに違いないと結論するだろう。
この話がもっと複雑になるのは、何か欲する結果を得ようとして行為を試みて失敗したような場合である。
間に何かのメカニズムが介在しているときなどに問題が生じる。

いったい、私たちは失敗の責任をどこに求めるのだろうか?
その答はあまりはっきりしていない。
「責任追求」の心理(正確には、「帰属(attribution)」の心理と呼ばれるが)は複雑で、まだ完全にはわかっていない。
そのわかっていることの一部には、責任を帰せられることがらと結果の間には、なんらかの知覚された因果的関係が存在していなければならないということがある。
ここで、知覚された(perceived)ということばが重要である。
因果的関係は実際に存在している必要はなく、単に人がそれが存在していると考えるだけでいいのである。
その行為と全くなんの関わりもないことがらに原因があるとすることもある。
また、ときには本当に責任のあるものを無視してしまうこともある。

どこに責任があるかを考える際に重要なのは、私たちは判断をすべき対象に対してほとんど情報をもっていないということがよくあり、またもっているその数少ない情報も誤っているかもしれないということである。
その結果として、何かの責任であるとか何かのおかげであるというようなことは、ほとんど現実がどうであるかとは無関係に判断される。
このため、日頃よく使っている一見単純な道具が問題を起こすのだ。
毎日使っている道具を使おうと思って、うまく使えなかったとしよう。
何が悪いのだろう?
私の使い方だろうか。
それともその道具が悪いのだろうか?
私たちは自分自身を責めがちである。
他の人はその道具を使えるものと思い込んでいて、さらにその道具自体そんなに複雑でないはずだと思い込んでいるとすれば、何か困難があれば自分が悪いと結論してしまう。
しかし、悪いのは本当はその道具で、他の人の多くも同じ問題を抱えているとしたらどうだろう?
誰もがその問題は自分自身の失敗だと思っているので、誰も何か問題があるということを認めたがらないとしたらどうだろう。
このようにしてユーザー人ひとりは黙り込み、その結果全体として沈黙するという雰囲気が生まれ、罪の意識と無力感が蔓延するのだ。

興味深いことに、この日常の事物に関する失敗に際して自分自身を責めるというよくある傾向は、人が普通行なう原因帰属の仕方とは逆の傾向となっている。
一般的には、人は自分に問題があればその原因を環境に求め、他人に問題があればその人の性格に原因を求めるということが知られている。

学習された無力感 p67

自分を責めるということは、学習された無力感(learned helplessness)と呼ばれる現象で説明できるかもしれない。
学習された無力感とは、ある作業でしばしば数え切れないほどの失敗の経験を繰り返すような状況のことを指している。
その結果として、その人は、その作業は少なくとも自分ではできないものと思い込み、無力感をもつ。
そして、ついには試みることをやめてしまうのである。
この感覚が他の作業に対して広がってしまえば、結果として生活を続けていくのがひどく大変になる。
極端な例では、このような学習された無力感のせいで欝病になったり、日常生活に全く適応できないという思い込みをもつようになったりする。
この学習された無力感をもつためには、偶然うまくいかないという経験を何回かするだけで十分であることもある。
この現象は、欝病という臨床問題の前兆としてもっともよく研究されているが、日常の道具を使う際に何回かまずい経験をするだけでも容易に生じるかもしれない。

教えられた無力感 p68

技術嫌いの人や数学嫌いの人はずいぶんいるが、その人たちはある種の学習された無力感の結果生まれてきたのだろうか?
それ自体ではなんということもないと思われる場面で何回か失敗することが、技術を使うこと一般や数学の問題すべてに般化してしまうのだろうか?
おそらくは、そうなのだろう。
実際、毎日使う道具(そして、数学の授業計画)は、確実にそのような無力感を生み出すために作られているかのように見える。
この現象を教えられた無力感(taught helplessness)と呼んでもいいのではないだろうか。

あたかも誤解を生み出すために作られているかのようなひどいデザインのものや誤ったメンタルモデル、そして貧弱なフィードバックのもとでは、あるものを使ったときに何か問題があれば、自分が悪いと思ってしまうのも無理もない。
他の人はそんなもので困っていないと思っているときは(実際にはそうでもなくても)、なおさらである。
あるいは、普通の数学のカリキュラムを考えてみてほしい。
そこでは、容赦なく授業は進められ、新しい単元に入るときには、それまでに学んだことのすべてを学生が理解していることを前提にしているのである。
一つひとつは簡単だったとしても、一度落後したら追いつくのは大変だろう。
そして、その結果数学嫌いが一人誕生する。
それは、教えられる題材が難しいためではなくて、ある段階において困難が生じると、それ以降の進歩をはばんでしまうようなやり方で教えられるためなのだ。
いったん失敗すると、自分を責めるということによって数学一般にすぐ般化してしまうことが問題なのである。
同じようなプロセスが技術の分野でもよく見られる。
悪循環は次のように始まる。
何かで失敗したとき、それは自分のせいであると考える。
そのため、その作業は達成できないと思う。
その結果として、次にその作業をしなければならなくなっても、できないと思うのでやってみることさえしなくなる。
その結果、あなたが思った通り、できない。
こうして、あなたは、自分が予想した通りのことが、まさに予想したことによって実現してしまうという自己成就予言のわなに落ちてしまうのだ。

p74

映写機にフィルムを通すような作業を難しくしているのはいったい何だろう?
この問題は、この本の中心的な課題のひとつだが、これに答えるためには、人が何かをするときに何が起きているのかを知らなくてはならない。
すなわち、行為の構造を検討する必要がある。

基本となる考えは単純なものだ。
何かをするためには、何をしたいかということについての何らかの考えがなくてはならない。
それが遂行されるべきゴールである。
次に、あなたは外界に対して何かをしなければならない。
すなわち、何か行為をして、自分自身を動かすか、他のものあるいは他の人を操作するのである。
最後に、あなたがゴールとしたものが得られているかどうかをチェックしなければならない。
したがって、次の四つの異なることを考えなくてはいけない。
ゴール・外界に何をするか・外界そのもの外界のチェックである。
行為そのものは、何かをするということと、それをチェックするという二つの主たる側面をもっている。
この二つを実行(execution)と評価(evaluation)と呼ぶことにする(図2-2)。

もちろん、実際の課題はこんなに単純ではない。
当初のゴールは、「何か食べよう」、「仕事をしよう」、「身仕度をしよう」、「テレビでも見るか」のように、はっきりとは特定されていないものであることもある。
何をするかということ、すなわち、どこにどのように行くか、何を手に取るかなどについては、ゴールにはあまりはっきりと記述されない。
行為につなげるためには、ゴールは、すべきことに関する特定の表現に変換されなくてはならない。
この表現を意図と呼ぶことにしよう。
ゴールは達成されるべきものであって、しばしばあいまいな形で言及される。
意図はゴールを達成するための特定の行為である。
ただ、意図でさえも実際の行為をコントロールするためには、十分に特定化されているとは言えないだろう。

p76

やりたいと心に思ったこと(ゴールと意図)と実際に行ない得る身体動作の間を結びつけてくれるのが、この具体的な行為である。
どの行為をするかを特定した後で、それを実際に行なう。
これが、実行の段階である。
大まかにいえば、ゴールの次の段階として、意図、行為系列、実行の三つの段階がある(図2-3)。

何が起こったかをチェックするという評価側には、三つの段階がある。
最初に、外界に何が起こったかを知覚し、次にその意味を理解しようとし(解釈し)、最後に、欲していたものと実際に起こったことを較する(図2-4)。

p78

これで、すべての用意ができた。
ゴールで一段階、実行過程で三段階、評価過程で三段階、あわせて七つの行為の段階がある。

・ゴールの形成
・意図の形成
・行為の詳細化
・行為の実行
・外界の状況の知覚
・外界の状況の解釈
・結果の評価

この七段階は、近似的モデル(approximate model)であって、完璧な心理学理論とはいえない。
とりわけ、それぞれの段階ははっきりと分離されるものではないことは確実である。
たいていの行動はこの七段階すべてを経由する必要はないだろうし、また、たいていの活動は一つの行為で完成するようなものでもない。
数え切れないほどの行為系列があるだろうし、全部を完了するには何時間、さらには何日もかかるかもしれない。
絶え間なく続くフィードバックループが存在していて、ある活動の結果がそれに引き続く活動をよび起こしたり、ゴールは副次的なゴールを、意図は副次的な意図を生み出したりもする。
活動しているうちに、ゴールが忘れられてしまったり、捨てられたり、組立て直されたりすることもある⁷。

デザインの手助けとしての行為の七段階理論 p85

この行為の七段階の構造は、デザインの貴重な手助けとなるものであって、評価と実行におけるへだたりに橋をかけることができているかどうかを確認するためのチェックリスト用の質問として利用することができる(図2-7)。

一般的に言って、それぞれの段階のためにそれぞれ特別のデザインの方略が必要とされるだろう。
その一方でそれぞれの段階は失敗を引き起こすようなきっかけともなるだろう。
世の中を見回して、いろいろな欠陥を楽しみつつ分析できたら、きっと面白いことだろう。
その作業が同時に欲求不満をもたらすものでなければもっといいのだが。
全体として、図2-7に示したように、それぞれの段階に関する質問はわりと単純である。
そして、これらの一つひとつが結局、第1章で述べたよいデザインの原則に相当することになる。

・可視性
目でみることによって、ユーザは装置の状態とそこでどんな行為をとりうるかを知ることができる。

・よい概念モデル
デザイナーは、ユーザにとってのよい概念モデルを提供すること。
そのモデルは、操作とその結果の表現に整合性があり、一貫的かつ整合的なシステムイメージを生むものでなくてはならない。

・よい対応づけ
行為と結果、操作とその効果、システムの状態と目に見えるものの間の対応関係を確定することができること。

・フィードバック
ユーザは、行為の結果に関する完全なフィードバックを常に受け取ることができる。

このそれぞれの指摘は、行為の七段階のうちの一つあるいはそれ以上の段階を支持するものとなっている。
この次にあなたがホテルに泊まったとき、シャワーの使い方がすぐにわからなかったり、見慣れないテレビやコンロで苦労したならば、悪いのはデザインの方だということを心に留めておくべきだろう。
そしてまた、この次にあなたが何かよく知らないものを手に取ったとき、初めてなのにすらすらと苦労なく使えたとしたら、ちょっと立ち止まってそれをよく調べてほしい。
その使いやすさは偶然の産物ではないのだ。
誰かがそれを注意深く上手にデザインしているのである。

p127

使いやすさというのは、そのものを買おうとしている段階では判断の基準として考えられないことが多い。
さらに、それを本当に使うような環境で、典型的な作業をしてみるというテストを何種類もの対象にたいしてやってみない限り、使いやすいか使いにくいかということはよくわからない。
何でもちょっと見ただけで十分に思えるし、満載した機能一覧を見れば、素晴らしいと思う。
この機能をそもそもどう使ったらいいかがわからないかも知れないなどということは、普通は露ほども思わない。
そこで、なにか製品を買う前にはテストしてみることを強く薦めたい。
料理をする真似をしてみたり、ビデオのチャンネルの設定をしたり、録画予約をしてみるというので十分である。
お店の中でやってみるのがいい。
間違いをしたり、ばからしいと思えるような質問をすることを恐れてはいけない。
これを心に留めておいて欲しい。
なにか問題があるとしたら、それはあなたのせいではなく、おそらくはデザインの問題なのだ。

p131

ビデオテープレコーダー(VTR)は、使い慣れていない人にとっては、恐怖を引き起こすしろものといえる。
実際、たくさんの付加機能、ボタン、スイッチ、表示画面、そして何通りにものぼるさまざまな使い方は恐怖をそそるに足る。
しかし、VTRを使うときに何か面倒があるとしたら、少なくともどこかにその原因があるはずだ。
それは、VTRが外観からして戸惑わせるものであることと、何ができるのか、そしてどのように使うのかということを示すほんのちょっとした手がかりさえもVTRにはついていないということである。
さらにいらいらさせられるのは、本来単純であるはずと思っている道具が使ってみると難しいということである。

新たな場面に対処することがどれくらい困難であるかは、その場面で可能な選択肢がどれくらいあるかということに直接かかわってくる。
ユーザはその場でざっと見て、どの箇所が操作可能で、どういう操作をすることができるかということを見いだそうとする。
問題が生じるのはいつも選択肢が一つ以上あるときである。
たとえば、操作できる箇所がひとつしかなく、そこで、ただ一つの行為しかできないのであれば全然難しくない。
もちろん、デザイナーが賢すぎて目に見える手がかりのすべてを隠してしまえば、ユーザは一つも取るべき選択肢がないと思ってしまって、どうやりはじめたらいいのかさえもわからないだろうけれども。

まったく目新しいものにであったとき、それをどう扱ったらよいかは、どのようにしたらわかるのだろうか。
過去に似たようなものを扱っていれば、その過去の知識を新しいものに転用することもあるし、そうでなければ使い方を教えてもらう。
このどちらの場合も私たちが必要とする情報は頭の中にある。
もう一つのやり方は、外界にある情報を使うという方法で、これはとりわけ、その新しいもののデザインに、私たちが解釈できる情報が含まれているときに有効である。

どのようにして、デザインが適切な行為の手がかりになるのだろうか。
この問に答えるためには、第3章で議論した原則に立ち帰る必要がある。
どのような操作ができるかについての物理的な制約などの対象そのものがもっている自然な制約が、その適切な行為のきっかけとして重要なものといえる。
他にも、対象物のアフォーダンスは重要であり、それはどのように使え、行為でき、機能しうるかに関するメッセージを伝える。
平らな板は押すことを支持するし(アフォードし)、空の箱は中に満たすことを支持する(アフォードする)、などなど。
アフォーダンスは、そのものをどのように動かせるかとか、そのものは何を支えられるかとか、なにが溝にぴったりはまるか、あるいはその上か下におさまるかなどについての手がかりを与えてくれる。
どこをつかんだらいいのか、どこが可動部分で、どこが固定部分なのか?
アフォーダンスは、どのような可能性があるかということを教えてくれ、制約は、選択肢の数を制限してくれる。
アフォーダンスと制約の両者をよく考えてデザインに利用すれば、全く目新しい場面でもユーザが直ちに適切な行為を行なえるようにすることができるのである。

p135

レゴという組み立て玩具のオートバイ(図4-1)は、単純なおもちゃで、それぞれ特別の役割を果たす一三の部品からできている。
一三の部品のうち、似ているのはPOLICEという文字が表面に書かれた二つの長方形の板だけである。
さらに、文字が何も書かれていない同じサイズの板も一枚ある。
他にも同じ大きさと形をした部品が三つあるが、こちらはみな色が異なっている。
したがって、三つ一組の相互に交換可能な部品が二組あると言うことができる。
けれども、組み上げた結果の意味的あるいは文化的な解釈からすると交換可能ではない。
実際に組み立ててみると、オートバイの一つひとつの部品は形の上から、また意味の上から、そして文化的にもさまざまな制約にはっきりと規定されているということがわかる。
ということは、このオートバイを組み立てるには、かりに完成品を見たことがなくても、何の教示や援助も必要でないということである。
この例では組み立てる人がオートバイを知っていて、なおかつ部品と部品の位置関係についての文化的な制約を知ってさえいれば、制約はまったくもって自然なものである。

部品のアフォーダンスは、部品をどのように組み合わせるかを決定する上で重要な役割を果たしている。
レゴでは、その特徴となっている円柱状の突起と穴が組み立ての主なルールとなっている。
部品の大きさや形によってその機能がわかる。
どの部分とどの部分が組み合わせられるかは外形によって制約されている。
他のタイプの制約も使われている。
結局、ここには、物理的・意味的・文化的・論理的という四つの異なった種類の制約が存在している。
これらの種類は、明らかに普遍的なもので、さまざまな状況で表われてくるものであり、またこの四つですべてを尽くしている。

物理的な制約 p136

物理的な制約(physical constraints)は可能な操作の幅をせばめる。
たとえば、大きな突起は小さな穴にさしめない。
オートバイの風よけは、ひとつのところにそれも一定の向きにしかとりつけられない。
物理的な制約に価値があるのは、外界の物理的な特徴に依存して、その制約が効果を発揮しているということである。
特別な勉強の必要もない。
物理的制約をうまく用いれば、ある場面で可能な操作はせいぜいいくつかしか残らないようにできる。
少なくとも特別に目だつようにすることによって、その場面でやってほしい行為を分かりやすくすることはできるはずだ。

物理的制約は、見やすく理解しやすくなっているとき、より効果的で利用しやすい。
それは、試してみる前に、可能な操作の集合に制約がつくからである。
そうなっていないとしたならば、物理的な制約といえども、試してみて間違ったことをし続けるのを防止する効果くらいしかない。
たとえば、レゴの風よけは、最初間違った向きにとりつけられることが多かった。
もっとデザインがよければ、正しいとりつけ位置を目で見てすぐわかるようにすることができただろう。
ごく普通のドアの鍵穴には垂直方向の穴があいているので、鍵を垂直に差入れないと入らない。
しかし、その場合鍵には二通りの入れ方がありうる。
よくデザインされた鍵ならば、どちら向きに入れても大丈夫であるか、どちら向きに入れたらいいかを示す形の上での明確なしるしがあるだろう。
よくできた車の鍵は、向きはどうでもいいようにできている。
鍵だってデザインが悪ければ、日々の生活の中でのちょっとした不満の原因になりうる。
いや、嵐のなかで両手に荷物を抱えて車の外にいるときのことを考えてみたら、ちょっとしたではすまないかもしれない。

意味的な制約 p137

意味的な制約(semantic constraints)は、その状況の意味にもとづいて可能な行為の集合を制約する。
オートバイの例では、オートバイの乗り手として意味のある向きというのは一つしかなく、それは前向きということである。
風よけの役目は乗り手の顔を風から守ることであるから、乗り手の前になければならない。
意味的な制約は私たちのもつ状況や外界に関する知識に依存している。
そのような知識は強力で重要な手がかりとなりうる。

文化的な制約 p137

ある道具を使う際に、物理的あるいは意味的には制約されなくても、そこで受け入れられている文化的な慣習にもとづく制約(cultural constraints)が存在することがある。
たとえば、文字表示は読むためにあるという文化的慣習がある。
そこで、例のオートバイの場合には、POLICEという文字は正しく読めるような向きにとりつけられなければならない。
三つあるライトのとりつけ位置も文化的制約によって決まるのであって、外形だけから見れば交換可能である。
赤いライトは普通停止灯と決められていて、後部につけられる。
白あるいは黄色(ヨーロッパの場合)のライトは、ヘッドライトであるのが普通で、正面につく。
さらに警察の車両には点滅する青いライトがついていることがよくある。

どの文化においても、ある社会的状況で許容される行為の集合というものがある。
そのおかげで、初めて行ったレストランでもどう行動したらよいかがわかるし、よく知らないパーティの場でよく知らない人とよく知らない部屋に残されてしまったときでもどうにか対応できるのである。
また、この同じ理由から、よく知らない外国料理のレストランに行ったときとか、よく知らない文化をもつ国からのお客さんに会ったりしたときに、普通だったら問題ない行動でも明らかに不適切に思えたり、苦虫をかみつぶしたような顔でにらまれたりして、いらいらしたりどうにも行動できなくなってしまったりすることがあるのである。
新しい機械を使うときに直面する問題の多くの根底には、この文化的な問題がある。
まだその取り扱いに関して、すでに受け入れられた慣習や決まりもなんら存在していないからだ。

以上のようなことを研究している研究者は、文化的な行動に関するガイドラインは、状況を解釈し行動を方向づけるための一般的なルールと情報を含んだ知識構造(スキーマと呼ばれる)という形で頭の中に表現されていると信じている。
レストランのようなきわめてありふれた状況では、このスキーマは非常に特殊化されているかもしれない。
認知科学者であるロジャー・シャンク(Roger Shank)と、ボブ・エイベルソン(Bob Ableson)は、そのような場面では人は一連の行動を手引してくれる「スクリプト(script:台本)」に従っているのであると提案した。
社会学者のアーヴィング・ゴフマン(Erving Goffman)は、受け入れられる行動に関する社会的制約をフレーム(frame:枠組み)と呼び、人が初めて直面する状況や新奇な文化において、そのフレームがどのようにして行動を左右するかを示している。
ある文化におけるフレームをわざと無視する人の前には危険がころがっている³。

この次にエレベーターに乗る機会があったら、内側の方を向くように立つといい。
そして、エレベーターの中にいる他人を見つめて微笑んでみる。
にらみつけてみるのでもよいし、こんにちはというのでもいい。
あるいは、「お元気ですか。あまり調子がよくなさそうですね」と言ってみるのもいい。
近くを歩いている人の誰かを適当に選んでお金をあげてみる。
「あなたを見かけて気分がよくなったので、お金をあげます」と言いながら。
また、バスや市街電車の中でスポーツが大好きそうな若者を見かけたら席を譲ってみるといい。
これは、あなたが年をとっているか妊娠しているか、身体障害者であるならばとりわけ効果的だろう。

論理的な制約 p139

オートバイの例では、すべての部品を使わなくてはならないということと、完成品の部品の間に隙間がないということが論理的に要請されていた。
多くの人にとってレゴのオートバイの三つのライトはちょっと難問だったようだ。
文化的な制約を使えば、赤が停止灯で後ろにとりつけられ、黄色がヘッドライトで前に付けられることはわかる。
そうすると青いのはどうなるんだろう?
多くの人は、青いライトをとりつける場所を見つけるために手助けになる文化的あるいは意味的な制約をもっていなかった。
そういう人たちには論理が答を与えてくれた。
要するに、部品が一つ残ってとりつけるべき場所も一つしかない。
青いライトは論理的に制約されていたといえよう。

論理的な制約(logical constraints)によって自然な対応づけは機能するようになる。
自然な対応づけといった場合、そこには別に物理的な原則とか文化的な原則があるわけではない。
むしろ、ある部品の空間的機能的な配置と、その部品が影響を及ぼしたり、及ぼされたりする対象との間の論理的な関係が存在するのだ。
もしも、二つの電灯と二つのスイッチがあるのならば、左のスイッチが左の電灯を、右のスイッチが右の電灯をつけるべきだろう。
電灯がある並び方をしているのに、スイッチが別の並び方をしているとしたら、自然な対応づけは破壊されている。
あるシステムの二つの部分の状態を表示する二つの計器があるとすれば、その位置と計器の働き方はシステムの空間的機能的な配置と自然な関係をもっていなくてはならない。
ところが、なんと残念なことに自然な対応づけが十分には生かされていないということがよくあるのだ。

p147

不幸なことに、最悪のドアは、私たちが過ごす時間がいちばん長いところ、すなわち家庭とオフィスにある。
どのような造りのものを使うかということは、多くの場合特に方針があるわけでなく、手近にあったから(とか、値段の安さとかの理由で)選ばれているように見える。
建築家やインテリアデザイナーは、目でみて洗練されているものとか賞をとるようなデザインがお好みらしい。
そのせいで、しばしばドアやその仕組みはインテリアにマッチするようにデザインされるのである。
ドアはほとんど目だたないように、仕組みはドアにとけ込むようになっている。
ところが開け方といえば全くあいまいなのである。
私の経験では、いちばんの困りものはガラスの飾り棚の扉だ。
これは、開けるのに、すべらせるのか持ち上げるのか押すのか引くのかがわからない。
またそうするとしてもどこを操作したらいいのかもわからない。
さらに、一体全体どこに扉があるのかさえわからないこともある。
見た目の美しさを気にするあまり使いやすさが無視されていることには、デザイナーは(そして、買う人も)まったく気づいていないように思われる。

p170

エラーにはさまざまな形態のものがある。
もっとも基本的なカテゴリーはスリップ(slip)とミステーク(mistake)である。
スリップは自動化された行動から生じるもので、なんらかのゴールを達成しようとしてあまり意識せずに行なった行為が途中でわき道に入ってしまうといったものである。
ミステークは、意識的によく考えることによって生じる。
私たちがエラーに陥ってしまうのは、一見関係がないようなものの間に関係を見つけだすプロセスのせいである。
そのプロセスは本来だったら私たちを創造的で洞察力のあるものとしてくれたり、部分的だったり場合によっては間違っているような情報からでも正しい結論に一足飛びに行かせてくれるはずのものなのである。
私たちはきわめて少ない情報からでも一般化できるとい能力をもっている。
それは新しい環境では非常に役にたつ。
しかし、ときには早まって一般化しすぎて、過去の状況と今の状況の間に重要な食い違いがあるのに、それを同じものであるとして分類してしまうこともある。
誤った一般化は見つけ出しにくい。
ましてや誤った一般化をしないようにするなどというのはもっと大変である。

スリップとミステークの間の違いは、行為の七段階分析にもとづけば、すぐにはっきりする。
適切なゴールを形成できたのに実行するときにめちゃくちゃになってしまったのならばスリップに陥ったのだ。
スリップはほとんどの場合ささいなことである。
たとえば、なにかをするタイミングを間違えるとか、思っていたものと違うものを動かしてしまうとか、やろうと思ったことをやらなかったなどである。
さらに、このようなスリップは見ていたり監視していたりするだけで結構簡単にみつけることができる。
もし、間違ったゴールを立ててしまったのなら、それはミステークだろう。
ミステークはそれ自体、大きなできごととなりうるもので、見つけだすのも困難だし、場合によっては見つけられないこともある。
というのは、間違ったものとは言え、そのゴールについていえば適切に実行されているからである。

人の思考のいくつかのモデル p186

心理学者は、思考の誤りや現実の行動において人がどれほど非合理的であるかを示す数々のデータを蓄積してきた。
普通ならばもっと賢いはずの人々でも単純な課題に混乱することがある。
合理性の原則は遵守されることもあるが、それと同じくらい守られないこともあるようだ。
しかし、私たちとしてはやはり人の思考は合理的で論理的で秩序だっているものだという考えに立ちたい。
法律の多くも合理的な思考や合理的な行動という概念にもとづいている。
経済理論もほとんどのものは、個人的な利益、効用、快を最適化しようとする合理的な人間のモデルにもとづいて作られている。
人工知能の研究を行なう科学者たちもたくさんいて、思考をシミュレートするための主要な道具として形式論理、すなわち述語計算などの数学的な理論を利用している。

しかし、人間の思考(そして、思考にきわめて近い親類である問題解決とプランニング)は、論理的な演繹よりももっと過去の経験に基盤をもっているように思える。
人が思考しながら生活していくというのは、きちんとしたものでもないし、秩序だったものでもない。
きちんと論理的な形で優雅にすいすい進むといったものではないのだ。
というよりは、ある考えから別の考えに飛び移ったり、省略したり、あちこち動きながら、それまで関係のなかったものを結びつけて、新しい創造的な飛躍を生み出したり、新たな洞察や概念を作り出したりするのである。
人の思考というものは論理とは似ても似つかないものであって、その種類も考え方も根底から異なっている。
その違いが別に何か悪いわけでも良いわけでもない。
しかし、この違いこそが創造的な発見を生んだり行動の安定性を生んだりしているのである。

思考と経験は緊密に結びついている。
それは思考が生活経験に強く依存しているからである。
実際、問題解決や意思決定は当面の問題の参考になるような過去の経験を思い出すことによってなされることが多い。
人間の記憶についてはたくさんの理論がある。
たとえば、ものを整理するための方法というのは、みんなどこかで人の記憶のモデルと平行している。
あなたは、写真をスクラップブックにきれいに整理しているだろうか?
ある記憶の理論は、人が自分の経験を写真のアルバムを整理するようにきちんとコード化し、組織化していると仮定する。
しかし、この理論は間違いである。
人間の記憶というものは、どう考えても写真の束とかテープの録音とは似ても似つかないものである。
記憶は、たくさんのものをごちゃまぜにしたり、あるできごとと他のできごとを混同させたり、異なったできごとを一つのものにしたり、個々のできごとの一部分だけを残しておいたりするのである。

ファイルキャビネットのモデルにもとづく記憶の理論もある。
このモデルでは、ある記憶項目から他の記憶項目に対してたくさんの相互参照やポインターがあるとされる。
この理論にはかなりの妥当性があり、現在もっとも著名な記憶研究のアプローチを適切に特徴づけているということができるかもしれない。
もちろん、それはファイルキャビネット理論と呼ばれているわけではなく、スキーマ理論とか、フレーム理論、またときには、意味ネットワークとか命題的コード化と呼ばれている。
個々のファイルフォルダーはスキーマとかフレームなどの一定の形式をもった構造として定義されており、その個々の記憶項目の間の接触や連合関係が全体の構造を巨大で複雑なネットワークとしている。
この理論の本質は次の三つの考え方によっている。
この三つとももっともなものであり、多くのデータで裏づけされている。

(1)個々の構造には論理と秩序がある(「スキーマ」とか「フレーム」というのはこのことである)
(2)人間の記憶は連想的である。それぞれのスキーマは関連していたり、その構成要素を定義する手助けとなるような他の複数のスキーマを指し示したり参照したりしている(それゆえ、「ネットワーク」といわれる)
(3)私たちの演繹的な思考能力の多くの部分は、あるスキーマの中にある情報を使って他のスキーマの特徴を演繹することからきている(それゆえ、「命題的コード化」といわれる)。

三番目をもう少し詳しく説明するとこうなる。
私が一度「すべての生き物は息をする」ということを学んだとしたら、「私がこれから出会うすべての生き物は息をする」ということを知るということである。
なにもすべての生き物の一つひとつについてこの知識を知る必要はない。
これは「既定値(デフォールト値)」と呼ばれる。
そうでないと言われない限り、ある一般概念に関して学んだことはその具体例のすべてに既定のものとして(デフォールトで)あてはまるということである。
既定値はすべてのものに適用できなくてもかまわない。
というのは、「ペンギンと駝鳥をのぞくすべての鳥は飛ぶ」のような例外を学ぶことができるからである。
しかし、そのような例外条件の存在によってあてはまらないとされない限りは既定値で正しいとされる。
この演繹というのは、人間の記憶の中でももっとも便利な強力な特徴である。

p191

私たちの知識の多くの部分は心の奥底の方に隠れていて、意識的に明らかにすることはできない。
その知識を明らかにできるのは、主として行為を通してである。
あるいはまた、記憶の中から例を見つけだす(自分で生成した例であるが)など、自分自身を調べることによっても明らかにできる。
何か例を考え、ま他の例を考えてみる。
次に、それらを説明する話を考えつく。
そして、私たちはその話をもっともらしいと思い、それを自分の行動の原因であるとか説明であるとか呼ぶわけである。
問題は、その話は私たちがどの例を選ぶかによって劇的に変わってしまうところにある。
さらには、選ばれる例というものもたくさんの要因に依存しており、その要因には私たちがコントロールできるものもあればできないものもある。

p215

誰かがエラーをするとしたら、普通それ相応の理由がある。
もし、それがミステークならばたぶん与えられた情報が不完全であるか誤りを引き起こしやすいものだったのだろう。
その時点では判断はたぶんもっともだったと言えよう。
もし、エラーがスリップであるとしたら、それはたぶん、デザインの貧弱さのせいか、ユーザが注意散漫だったせいだろう。
どうしてそのエラーが起こったのか原因を考えてみれば、普通エラーは理解可能であり、また論理的なものと言える。
エラーを犯した人を罰するべきではないだろう。
攻撃してもいけない。
しかし、いちばんいけないのは無視することである。
エラーを見越してシステムをデザインしてみるべきだろう。
人が普通行なっている行動が常に正確とは言えないことをわからなくてはいけない。
エラーを発見しやすく訂正可能なようにデザインすべきだろう。

デザインの自然な進化 p230

よいデザインの多くは進化するものである。
あるデザインが試され問題が見つかり修正される。
試されては再び修正されるという繰り返しが、時間とエネルギーと資源が尽きてしまわない限り続くのである。
この自然なデザインの過程は、職人によって作られる品物、とりわけ伝統品などによく見られるものである。
敷物や陶器、手作業に使う道具や家具などの手作りの品の場合、新しいものは前の製品にあった小さな問題点をなくし、少し改善したり新しい趣向を組み込んだりして作られている。
時間の経過につれて、このプロセスの結果として機能的で視覚的にも美しいものができあがってくるのである。

このような自然な進化による改良が行なわれるのは、前の版のデザインが十分に検討されるとともに、職人が素直に変更に応じる場合である。
まずい点は見つけ出さなくてはならない。
工芸家たちは、よい点は残したまま悪い点を変えるのである。
変更したせいで前よりも悪くなってしまうなどということもある。
その場合には、次のサイクルでまた変更されるだけである。
このようにして悪い点は修正されてよいものとなり、同時によいものはそのまま残される。
このようなやり方を専門用語では、暗闇の中で丘に登る方法の類推から「丘登り法(hill-climbing)」と呼んでいる。
まず、足を一歩踏み出す。
もしもそちらが下りだったら、違う方向を選ぶ。
もしも、そちらが上りだったら、もう一歩進む。
どちらに足を踏み出しても下りになる地点にくるまでこれを続けていれば、丘の頂上に到達することができるはずである。
場合によっては、本当の頂上ではなくてちょっと小高い部分にすぎないのかもしれないけれど²。

デザインの進化に逆らう力 p231

自然なデザインがどんな場面でも有効というわけではない。
その過程が進行するためには時間が十分なければならないし、その対象になる個々のものは単純でなければならない。
現代のデザイナーは、そのような何十年も何世代にもわたるゆっくりとした注意深い職人仕事を行なうことを許さないさまざまな力に従わざるをえないのだ。
このようにゆっくりとした改良のふるいをかけるためには、現代のものは複雑すぎ、たくさんの変数がありすぎる。
しかし、ちょっとした改善ならできるはずだ。
自動車や家電製品やコンピュータなどは、定期的に新しい型の製品が発売されるのだから、前の型での経験を生かすことができそうなものだ。
しかし、残念なことに、競争原理にもとづく市場においては複数の力が働いているので、そんなやり方は許されないようなのだ。

そのような自然な進化に逆らう力の一つが時間の切迫である。
新しいモデルがデザインの工程に入るのは、その前の型の製品が販売されるよりも前であるという場合がある。
さらに、その製品を使ったお客さんの体験を集めてフィードバックするための仕組みはめったに存在しない。
もう一つの力として、特色あるものを作ろうとか、目立とうとか、それ以前に発売された製品とは異なるものをつくろうという志向がある。
ただ一つのよい製品に固執したり、自然な進化がゆっくりと完成の域に達するのに満足しているような企業はほとんどない。
やはり「最新の改良型」モデルが出てきてくれなくては困るのであって、普通、それ以前のモデルを出発点としていないような新しい特徴を組み込んだものとなるのである。
たいていの場合、この結果は消費者にとっての大迷惑ということになる。

まだ問題はある。
個性の主張というやっかいなものである。
デザイナーは、自分がそれにかかわったという証拠とか印とかサインとでもいうものを残さなければならない。
さらに、もしもいくつかのメーカーが同じ製品を作るとしたら、そのどれもが他のものとははっきり違うように作らないといけない。
デザイナーとメーカー共通にかけられている呪いとでもいうものがこの個性の主張である。
このおかげでよいアイディアや技術革新が生まれることもある。
しかし、セールスの世界では別である。
もしもあるメーカーが完璧な製品を作ったとしても、それ以外のメーカーはわざわざ自分のところでも技術革新を進めたり、他社の製品との違いをきわだたせるためにその完璧な製品を変更――たいていは、改悪になるのだが――しなくてはならない。
現状がこうだとしたら、どうして自然なデザインなどが働く余地があるだろうか?
あるわけがない。

電話機を考えてみよう。
初期の頃の電話機はゆっくりと何世代かにわたって進化した。
最初の電話機は受話器とマイクをそれぞれの手に持たなければならないという非常に使いにくいしろものだった。
使うときには、クランクをぐるっと回して信号を発生させ、それで相手側のベルをならすのだった。
伝わる音声は貧弱だった。
その後何年もかかってゆっくりと電話機の大きさや形は改良され、信頼性は向上し、機能も改善され使いやすくなった。
電話機は重く頑丈だった。
かりに床に落としたとしても壊れはしなかったし、話中に落としてもめったに切れはしなかった。
回転ダイヤルやプッシュボタンの配置は実験室で注意深く実験した結果決められている。
ボタンの大きさや間隔は、小さな子供から年とった人までの幅広い層にあうように注意深く決められた。
電話の音もまた、フィードバックがあるように注意深く設定されていた。
プッシュボタンを押せば、その音は受話器に響く。
送話器に向かって話せば、話者自身の声が受話器の方にフィードバックされるが、その比率は慎重に決められている。
そのおかげで、話者はどれくらいの音量で話せばいいかを自分で調節しやすくなっていた。
また、電話が相手につながるまでカチャカチャという音やブーッという音やそれ以外のノイズが聞こえていた。
そのノイズがあるおかげで電話がつながっていくことがよくわかった。

このような電話機のちょっとした特徴は、ほとんどの電話会社が独占状態に守られていた何年もの発展期間にゆっくりと形作られてきたものであった。
野蛮ともいえるほど競争状態の激しい現代においては、多くの人にアピールするとともに、目立っていて他とは一線を画すような製品を作り出そうとする強烈な要求がある。
市場は、スピードと目新しさを要求しているのである。
非常に便利だった改善点の多くは失われつつある。
プッシュボタンはめちゃくちゃに配置されがちだし、ボタンときたら大きすぎたり小さすぎたりする。
音もなくなった。
ボタンを押しても何のフィードバックも返らないことすらある。
新しい技術者たちは、本当に必要かどうかも考えることなしに、軽率にも最新の電子的な仕掛に飛びついてしまった。
そして、デザインの世界に民間伝承のように伝わっていたデザインのやり方のすべては失われてしまった。

単純な例をひとつ詳しく説明すれば、私の言うことが正しいとわかるだろう。
それは、電話のフックの両側にあるリッジとよばれるプラスチックの突起のことである。
フックとは受話器置きにあるボタンのことで、それが押されると電話が切れる。
あなたは、これまでに電話をしていて電話機をテーブルから床に落としてしまったことはないだろうか?
そのとき電話が切れなければめでたしめでたしで、切れたときにはいらいらしたことだろう。
独占時代のベル電話会社のデザイナーはこのことがよくわかっていて、デザインするときにはこれを配慮していた。
そこで、電話機は落ちても大丈夫なように重く頑丈につくられた。
さらに、床に落ちたときにも大切なフックボタンが押されてしまわないように、保護するためのものをつけた。
図6-1を注意深くみていただきたい。
この電話機のフックボタンは床に接触することはなく、それゆえ押されてしまうことはない。
これは小さな特徴とはいえ、重要なものである。
経済的な圧力のせいで最近の電話機は軽く安価で頑丈でなく作られるようになり、使い捨て電話と呼ばれることも多い。
フック保護の突起は?
そんなものはついていないことが多い。
それは、コストのせいというよりは、近ごろのデザイナーはそんなことを考えたこともなく、たぶん、それが果たしている役割がわからなかったからだろう。
その結果どうなったか?
ありとあらゆるオフィスで次のようなことが繰り返されるのである。

電話がなったとき、マークは自分の机に座っていた。
「もしもし」と答える。
「もちろん、わかりますよ。マニュアルを見ますから、少し待ってください。」といってマークはマニュアルに手を伸ばすと同時に電話も引っ張ってしまい、……がしゃん。
電話機は床に落ちて切れてしまった。
そして、マークは、「くそ。いったい誰だったかも聞いてないや」とつぶやくのである。

p237

キーボードのデザインには一風変わった長い歴史がある。
初期のタイプライターではさまざまなキーの配列が実験されている。
基本となったのは次の三つだった。
一つは、文字がアルファベット順に配列されている円形のものである。
タイプする人は適切な文字のある場所を見つけてレバーを押すとか、棒を持ち上げるとかのなんらかの必要な機械的な操作をしたのだった。
やはり一般的だったもう一つの配列は、ピアノの鍵盤のような形をしていて、文字は横に長く一列に配列されていた。
ショールズの初期のものも含めて、初期のキーボードは黒鍵と白鍵のあるものすらあった。
この円形キーボードとピアノ型キーボードはどちらも使いにくいことがわかった。
結局、三番目に長方形のキー配列がすべてのタイプライターで採用されることになった。
しかし、その配置はアルファベット順だった。
キーにつながっているレバーは大きく不格好だった。
この大きさや間隔や並べ方などは機構上の制約によって決められていたのであって、人の手の特徴を反映したものではなかった。

p243

デザインをする際に重要なことを、このタイプライターの歴史は教えてくれる。
いったん満足のいく製品ができてしまえば、それ以上の変更は生産的ではない。
その製品がうまく世の中に受容されているときにはとくにそうである。
どこで改良をやめるかを知ることは必要である。

p245

日常のデザインが美しさ第一主義によって支配されているとしたら、毎日の生活は目には楽しいかもしれないが、あまり快適ではなさそうだ。
使いやすさ第一で支配されているとしたら、過ごしやすいかもしれないが、見栄えはよくないだろう。
生産コストとか作りやすさが優先すれば、製品はあまり魅力的でなく、機能的でもなく、長持ちもしないだろう。
明らかにそれぞれの配慮にはそれぞれの長所があるのだ。
一つのものが他をすべて差し置いて優先されるとき、問題が起こるのである。

デザイナーが考え違いをしてしまうのにはいくつかの理由がある。
まず第一に、デザイン界の中の褒賞のシステムが美を第一にしがちなことである。
デザインの展覧会で受賞作品の時計が呼び物となる。
しかし、いったい今何時なのかは読み取れないし、目覚しは時刻を簡単には設定できないし、缶切りときたら使い方もわからない。
第二に、デザイナーは典型的なユーザではないということだ。
自分がデザインしたものを使っているうちにその専門家になってしまい、誰かが使用時に困難を覚えるなどということは想像もできなくなってしまう。
デザインをしている間中ずっと、実際のユーザと行き来しながら、テストを繰り変えすことによってだけ、この問題に前もって対処できる。
第三に、デザイナーは自分の顧客を喜ばせなくてはならないけれども、その顧客は実際のユーザと同一でないこともあるのである。

p251

デザインのプロセスの主要な部分は、デザインの対象がどのように使われるかを検討することであるはずだ。
ロンドンデザインセンターのカフェテリアの場合ならば、デザイナーはたくさんの人が列を作ることと、その列がどこからどこまで続くかということを頭に思い浮かべた上で、その列が博物館の他の部分にどういう影響を及ぼすかを検討すべきだろう。
カフェテリアの従業員が客からの注文に答えてどのような動きのパターンを示すかを検討すべきだ。
どこに動かなくてはならないか。
どんなものに手を伸ばさなくてはならないか。
何人か従業員がいたら、お互い同士ぶつかりあわないか。
それから、客のことも考えなくてはならない。
老夫婦が重いコートとかさと荷物を持ち、おまけに三人の小さな子供も連れていたとしたら、どのように料金を支払おうとするだろうか。
荷物をおいて財布やハンドバックをあけてお金を取り出すための場所はあるだろうか。
それも、次に並んでいる人をできるかぎりじゃましないようにできて、料金係のスピードと効率もよくできるだろうか。
そして、客がテーブルについているときのことも考えなくてはならない。
彼らは高い椅子に苦労してよじ登って小さなテーブルで食事をしているのである。
もちろん、考えるだけでは駄目だ。
現在のデザインがどうなっているかをよく見て、他のカフェテリアがどうかを見なければならない。
客になりそうな人にインタビューするとともに、カフェテリアの従業員にもインタビューをしなくてはならない。

p254

デザイナーが習熟するということと、ユーザが習熟することの間には大きな違いがある。
デザイナーはデザインしている間に自分で設計している道具に習熟してしまうことが多い。
一方、ユーザが習熟しているのはその道具を使って行なおうとしている作業なのである。

スティーブ・ウォズニアックは自分と似た人、すなわち電子機器のリモコンが家の中にたくさんありすぎるんじゃないかと文句をいうような人のために道具を作っているのである。
そのために、彼はたくさんのリモコンの代わりとなる一つのコントローラーを作った。
しかし、その作業自体複雑なものだから、利用手引書は厚くなってしまう。
そして、「それはたいした問題ではない、なぜなら初期のユーザは『メカ好き』だから」というのだ。
たぶん、ウォズニアックみたいな人を想定しているのだろう。
しかし、そのようなユーザを想定するのはどれくらい正しいのだろうか。
技術に関して自身満々の「メカ好き」ならば本当にこの道具を理解して使えるだろうか。
それを確かめるための唯一の方法は、この製品を買うことになる人とできるかぎり似ているユーザで試してみることだ。
さらに、デザイナーがユーザになりそうな人たちとやりとりしてみるのは、デザインをするごく初期の頃でなくてはならない。
というのは、少しでも遅れると基本的な部分を変更するのは不可能になってしまうからだ。

p255

デザイナーはその製品にとてもよく慣れてしまうので、問題が起こりがちな部分を見つけたり理解することはもうできなくなってしまう。
デザイナーは、自分がデザインしている道具に対して深い理解をもっているし、それに非常によく接してもいるので、自分がユーザの立場にたったときでさえ、その道具を使うときにはほとんどの場合、頭の中にある知識を活用しているのである。
ユーザにとってみれば、とりわけ初めて使うときや、ときたまにしか使わないときは、ほとんどすべての情報を外界の知識に依存しなくてはならない。
これはデザインにとってみれば基本的ともいえる大きな違いである。

一度失われてしまった初心は、簡単には取り戻せない。
デザイナーの立場からでは、ユーザが陥りがちな問題や、起こしがちな思い違いや、生じがちなエラーなどを予測するのはほとんどできない相談である。
そして、もしデザイナーがこのエラーを予期できないとしたら、いくらそのデザイナーのデザインにっていてもそのエラーやそのエラーから引き起こされる悪影響を少なくすることはできないだろう。

デザインのプロセスの複雑さ p259

デザインというのは、他とは異なったユニークな製品ができるまで制約を繰り返し適用することである¹⁷。

水道の蛇口なら簡単にデザインできると思うだろう。
結局のところやりたいことは、水を流したり止めたりするだけのことなのだから。
しかし難しい点もある。
たとえば、その蛇口が公共の場で使われるものだとしたら、締め忘れる人もいるかもしれない。
バネを組み込んで、ハンドルを手で抑えているときだけ水が流れる蛇口を考えてみてもよい。
そうすれば蛇口は自動的に締まることになるだろう。
でも、手を水につけながらハンドルを抑えているのは難しい。
よろしい。
それならばタイマーを付けて、蛇口のハンドルを押すと五秒か一〇秒だけ水が流れるようにすればよい。
しかし、そのように蛇口のデザインを余計複雑にしてしまうと、コストを上げ信頼性を低めてしまう。
おまけに、どのくらいの時間水を流していたらいいかを決めるのも難しい。
どういうわけか、ユーザにとってみると常に時間が長すぎるということはないようなのだ。

p267

六十歳になるまでに、たくさんの浮遊物が目の中にちらばるようになり、視覚のコントラストが失われるようになる。
この年齢の飛行機のパイロットが引退を迫られる主たる理由の一つとしては十分である。
普通は六十歳になっても、人は精神・身体ともに良好で、それまでに蓄積してきた知恵のおかげでさまざまな課題をうまくこなすことができる。
しかし、力の強さは失われつつあり、体の機敏さも衰え、作業のスピードも失われることもあるだろう。
平均年齢がしだいに高くなってきている社会では、六十歳といえば比較的若い方である。
たいていの六十歳の人はあと二〇年は生きられるし、あと四〇年生きる人だって珍しくない。
こういう人たちを頭においてデザインをする必要があるだろう。
すなわち、未来の自分自身を念頭に置いてデザインするということだ。

簡単な解決策などないし、一つのサイズでみんなに合うはずもない。
しかし、柔軟性を考えてデザインすることは役に立つ。
コンピュータの画面上の文字や図形の大きさ、あるいはテーブルや椅子の大きさ、高さ、角度などを柔軟に変えられるようにするのである。
高速道路に柔軟性をもたせるというのは、おそらく、最高速度制限がいろいろ異なったさまざまな道路を作っておくことだろう。
解決策に全く柔軟性がなければ、ある種の人々にはその解は決して役に立たない。
解に柔軟性をもたせておけば、少なくともそういう特殊な必要をもっている人をも満足させる可能性がある。

p282

ある装置を使ってできる機能の数をどんどん追加していって、ついには、どう考えても異常だと思えるくらいにまでしてしまうのが、このなしくずしの機能追加主義(creeping featurism)である。
さまざまな特殊な用途のための機能をすべて一つのプログラムで利用可能にしようとしたら、どうしたってそれは使いにくく理解しにくいものになってしまう。
私が自宅で使っているワープロには三四〇ページのリファレンスマニュアルと、初めて使うユーザのための二五〇ページの導入マニュアルがついてきた。(初めてのユーザは、まずその学習用のマニュアルを読んでみてからでないとリファレンスマニュアルは理解もできないだろう。)
私は、大学でEMACSというエディタを使っている。
それには三五〇ページのマニュアルがある。
もしもユーザがEMACSのすみからすみまでの専門家にでもなろうというのでない限り、これは長すぎる。

ユーザはどうしたらよいのだろう。
自分たちで招いた事態からどう身を守ったらよいのだろう。
このデその例でよくわかるように、つまるところ、その機能を要求したのはユーザで、デザイナーは単にそれに応えたにすぎないのだ。
しかし、その新たな機能の一つひとつがシステムの大きさや複雑さを計り知れないほどに増大させている。
ますます多くのものを目に見えないようにせざるを得なくなるが、それはデザインの原則のすべてに違反しているのである。
制約はなく、アフォーダンスもない。
対応づけは可視的でなく恣意的である。
そしてこれらのすべてのことはユーザがより多くの機能を要求したから起こったのである。

なしくずしの機能追加主義は一種の病気であり、すばやく対処しなければ致命的になる。
対処法は、他の病気と同じで予防法を実践することである。
この場合問題となるのは、この病気はきわめて自然に、また悪意なしに現われてくるということである。
作業を十分分析しさえすれば、どのようにしたら簡単にすることができるかが見えてくるはずだ。
そうはいっても、機能を追加するのはよいことだし、毎日の生活が誰にとっても簡単になるようにするというまさに本書の目的にかなっていることをしているだけだと考える人もいるだろう。
しかし、機能が増えれば複雑さも増えるのである。
機能が増えればコントロールスイッチも、表示画面も、ボタンも、使用法の説明も増えてしまう。
おそらく、複雑さは機能の数の自乗に比例して増えるだろう。
機能の数が二倍になれば複雑さは四倍になるのである。
これまでのものよりも一〇倍多くの機能をつけるとしたら、複雑さは一〇〇倍になると思わなければならない。

なしくずしの機能追加主義に対するには二通りのやり方がある。
一つは、機能の追加を避けることである。
すくなくともきわめて慎重に追加することにする。
そう、本当に必要と思われる機能だけを追加するようにし、それもきわめて厳格に、強い覚悟をもって限定することにするのである。
ある装置が複数の機能をもつことになれば、どうしたって複数のコントロール手段や操作方法、そして何ページものマニュアルが必要になる。
そうなれば難しさや混乱にも輪をかけることになるのは避けがたい。

もう一つのやり方は体系化することである。
体系化しモジュール化するという「分割して統治せよ」という方略を用いればよい。
ひとまとまりの機能を集めて、他のまとまりとは別のところに置き、望むらくはその間に仕切りをつけておくのはどうだろうか。
これを専門用語ではモジュール化と呼んでいる。
それぞれの機能モジュールをつくり、その中には限定された数のコントロールしかなく、それぞれが作業のある側面のみ専用ということにするのである。
このやり方のよい点は、それぞれのモジュールは限られた特徴と限られた機能しかもっていないということである。
しかし、そのすべてのモジュールをあわせれば機能総体としては変わらない。
複雑なコントロールスイッチでも、適切に分割してモジュールにすることができれば、複雑さにうまく対処することができる(図6-9のリモコンのように)。

p288

オーディオやビデオ機器に関する問題の一つは、それぞれのコンポーネントが十分注意深くデザインされていたとしても、コンポーネント間の相互関係が問題をおこしてしまうというところにある。
チューナーやカセットデッキやテレビやVTRやCDプレーヤーなどなど、どれもがお互い同士をあまり考えずに別々に設計されているようなのだ。
全部を一緒につないでみたら、出現したのは混乱した世界というわけである。
驚くほどのコントロールスイッチとライトとメーターと装置間の接続。
こういうことにかなりの才能がある人でさえも手に余るしろものである。

この例における誤ったイメージとは、技術的優秀さというみせかけである。
このあやまちのせいで私たちが使っている電話やテレビに始まって皿洗い機や洗濯機、あるいは、自動車のダッシュボードからAV機器に至るまでの道具に過度の複雑さが付加されるのである。
これに対する治療法としては教育以外のものはない。
しかし、「このあやまちには一人も被害者がいないではないか、そんなものを使おうとする人が困るだけなのだから」という人もいるかもしれない。
しかし、それは事実に反する。
メーカーやデザイナーは彼らの視点から、市場が要求していると思われるものを作り出している。
だから、もしもある程度多くの人がこのあやまちを犯すとしたら、その人たちの楽しみのために残りのほとんどの人がつけを払わなければならないのである。
そのつけとして私たちが支払っているものはといえば、見た目はすてきで彩り鮮やかではあるけれども、ほとんど使いこなすこともできないような道具なのである。

p298

アップル社のマッキントッシュコンピュータはディスプレイ装置をフルに使っている。
そのおかげで空白の画面というものはなくなり、ユーザはどんな選択肢があるのかを見て取ることができるようになった。
さらにマッキントッシュは操作を比較的簡単なものとし、手続きを標準化したので、あるプログラムで学んだやりかたは、ほとんどの他のプログラムでも適応可能になった。
フィードバックは良好で、多くの操作はマウスを動かすことによって行なえる。
マウスとは、手で持つ小さな指示装置(ポインティングデバイス)で、それを動かすと画面上の小さな矢印(マーカー)が移動するようになっているものである。
このマウスのおかげで、行為と結果の対応づけがよくなり、メニュー(画面上に書かれた選択肢)のおかげで操作は簡単になった。
実行のへだたりと評価のへだたりの両方がしっかりと橋渡しされたわけである。

p299

マッキントッシュはコンピュータシステムがどうありうるかを考える際の例を提供してくれている。
そのデザインでは可視性とフィードバックが強調されている。
マッキントッシュ用のプログラムを作るプログラマーたちのために、「ヒューマンインターフェースの指針」というプログラムの書き方の約束ごとと「ツールボックス」というマッキントッシュ自身が内蔵しているインターフェース用のサブルーチンプログラムが公開されていて、それが標準となっている。
ユーザを配慮することが強調されているのだ。
もちろん、マッキントッシュにも重大な欠点があり、完全と言うにはほど遠い。
また、それが唯一のものというわけでもない。
しかし、使いやすさと理解しやすさをデザインの主要な目的とすることに比較的成功したという点で、私はマッキントッシュに賞を授与したいところだ。
賞なんかよりもっといいものを思いつけたらよいのだが。

p308

本書(POET)が強調しているのはユーザ中心のデザインをしようということである。
これは、ユーザが何を必要としていて何に興味をもっているかということを基本におく考え方で、製品を使いやすく理解しやすいものにするという点に重点がある。
本章では、これまでに述べてきた原則のうち主なものを要約するとともに、その意味するところについて議論し、同時に毎日使う道具のデザインに対していくつかの提案をする。

まず、デザインは次のようでなくてはならない。

・いついかなるときにも、その時点でどんな行為をすることができるのかを簡単にわかるようにしておくこと。(制約を利用する)
・対象を目に見えるようにすること。システムの概念モデルや、他にはどんな行為を行なうことができるか、そして、行為の結果なども目に見えるようにすること。
・システムの現在の状態を評価しやすくしておくこと。
・意図とその実現に必要な行為の対応関係、行為とその結果起こることとの対応関係、目に見える情報とシステムの状態の解釈の対応関係などにおいて、自然な対応づけを尊重し、それに従うこと。

別の言い方をすれば、(1)ユーザが何をしたらよいかわかるようにしておくこと、(2)何が起きているのかをユーザにわかるようにしておくこと、この二つを確実に守るということである。

デザインにおいては、人や外界が自然に備えている特徴を利用するべきである。
そのためには、自然な関係や自然な制約を活用しなければならない。
できれば、教示やラベルがなくても使えるようでなければならない。
かりに教示や訓練が必要だとしても一度で済むようにすべきで、それも相手が「もちろんそうします」とか「よくわかりました」と言えるような説明であるべきだろう。
もしそのデザインに理由があり、すべてのものが適切な場所にあり、それ自身が果たすべき機能を果たしていて、行為の結果が目に見えるものであるならば、簡単な説明をするだけで十分なはずだ。
説明してみたのに相手が考え込んでしまったり「そんなの覚えられませんよ」と答えるようならば、そのデザインは失敗なのだ。

難しい作業を単純なものにするための七つの原則 p309

デザイナーはこの課題にどう取り組んだらよいだろうか。
本書でこれまで述べてきたように、デザインの原則ははっきりしている。

1 外界にある知識と頭の中にある知識の両者を利用する。
2 作業の構造を単純化する。
3 対象を目に見えるようにして、実行のへだたりと評価のへだたりに橋をかける。
4 対応づけを正しくする。
5 自然の制約や人工的な制約などの制約の力を活用する。
6 エラーに備えたデザインをする。
7 以上のすべてがうまくいかないときには標準化をする。

p314

新しい技術の主たる役割は作業を単純にすることであるはずだ。
技術を利用することによって作業を組み直すことができるし、技術がユーザの精神的な負荷をへらす手助けをしてくれる可能性もある。
技術を使った手助けは、ある行為には他のやり方もあるのだということを示してくれたり、作業がどんな意味をもっているのかをわかりやすくしたりする。
また、どんな結果になるのかをもっと完全に、また理解しやすいように示してくれたりもする。
これらの手助けによって対応づけを目に見えやすくしたりすることができる。
うまくいけば、対応づけをより自然なものにすることもできる。
技術を使った次のような四つの方法がありうる。

・作業は以前と同じままで、メンタルエイド(思考・記憶上の手助け)を利用できるようにする
・技術を使ってこれまで目に見えなかったものを目に見えるようにし、その結果としてフィードバックや対象をコントロールする能力を向上させる
・作業は以前と同じままで自動化を進める
・作業の性質自体を変更する

作業は以前と同じままで自動化を進める p319

単純化には危険もある。
よほど注意しない限り自動化は助けにもなるが害にもなる。
自動化には次のような影響もあることに注意したい。
作業は以前の通りで本質的には変わらなくても、作業の細かな部分は消え去ってしまう。
そんな変更が誰からもよろこばれることもある。
自動車の手動のスパーク調整スイッチがなくなったことを悲しんだり、始動時のクランク回しが不要になったことをさびしがっている人なんて聞いたことがない。
自動車のチョークが手動でなくなったことをさびしがっている人ならば何人かいるようだけれども。
全体的にみてこの種の自動化は便利な進歩にあたるのであって、退屈で不必要な作業を肩がわりしたり、見張らなければならない部分を減らしてくれている。
船や飛行機の自動操縦や自動的な機器類は重要な改善と言えるだろう。
しかし、そうとも言い切れない自動化もある。
たとえば、自動車のシフトギアのオートマチック化である。
このおかげで私たちはコントロールを失ったのだろうか、それとも車の運転に際する心的な負荷を軽減したのだろうか。
結局のところ、車を運転するのは目的地に行くためなのだから、エンジンの回転速度やシフトレバーの位置を気にするというのはまったく目的とは関連ない作業のはずだ。
しかし、まさにその作業を楽しんで行なう人たちもいる。
彼らにとってみれば、エンジンをうまく使うということが運転の一部に入っているのであって、自分はオートマチック車よりも効率的に運転できると信じているのである。

コントロールをなくしてはならない p324

自動化(オートメーション)にはよい点もある。
しかし、その自動化がユーザからコントロールを奪いすぎてしまうとしたら危険である。
自動化の行き過ぎを表わす「自動化過多(overautomation)」という言葉は航空機や工場の自動化の研究分野では専門用語となっている。
その一つの問題は、自動化された装置に頼りすぎると、その装置なしでは何もできなくなってしまったり、高度に自動化された飛行機の装置の一つが突如不調になったりしたときにどう対処したらよいかわからなくなってしまう可能性である。
もう一つの問題は、システムは必ずしも私たちの欲している通りには動作してくれないことがあるということである。
しかし、操作を変更するのが難しい(あるいは不可能である)がゆえに、その結果を受け入れざるを得なくなってしまう。
三番目の問題は、人がシステムに使われる立場になってしまって、いま起きていることをコントロールしたり、それに影響を与えたりすることができなくなるということである。
流れ作業の本質がここにある。
仕事から人間性を奪いさり、コントロールをなくし、せいぜい受動的な第三人称的な経験しか与えてくれないということになるのである。

どんな作業にもいくつかのコントロールの階層がある。
最も低レベルなものは、裁縫をしたりピアノを弾いたりするときのすばやい指先の動きとか、頭の中で行なう速やかな計算などの具体的な操作の詳細な記述である。
より高次なコントロールは作業全体に影響を及ぼし、どちらの方向に作業が向かうかに関わってくる。
私たちは、このレベルで全体的な作業の構造やゴールを選んだり監視したり、コントロールしたりするのである。
これらのどのレベルでも自動化は可能である。
低次のレベルに対するコントロールをもち続けたいと思うときも確かにある。
人によってはそのようなすみやかな指の動きや頭の回転が重要なのである。
音楽を演奏するときには、すぐれた技術を駆使したいと思う人もいる。
工具が木にあたるその感触が好きな人もいる。
絵筆を使うのも楽しい。
このような場合には、自動化はよけいなものとなる。
しかし、場合によってはもっと高次なことに注意を集中したいこともある。
音楽を鑑賞するというのが目的ならば、ピアノを弾くよりラジオの方がよいことだってある。
芸術的な技能の点でも、自分でやるよりコンピュータプログラムにまかせた方がいいこともあるだろう。

エラーに備えたデザインをする p330

エラーが起こる可能性があるとしたら、そのエラーは実際に起こると考えた方がよい。
そしてそれに備えるべきである。
ユーザが行なうすべての行為は正しい方向に向かう一歩として見るべきで、エラーというのは単にある行為の指定の仕方が不完全あるいは不適切だったときに起こると考えるのである。
ユーザの行為はユーザとシステムの自然で建設的な対話の一部であると考えるとよい。
ユーザの反応を援助するようにすべきで、それと闘おうとしてはならない。
ユーザがエラーから抜け出したり、何をしたら何が起こったかを理解したり、望ましくない結果を元に戻したりできるようにすべきである。
なんらかの操作をしても元に戻すことが容易であるようにしておくべきだ。
元に戻せない行為はやりにくくしておくようにするとよい。
強制選択機能も活用すべきだ。

以上のすべてがうまくいかないときには、標準化する p330

デザインをする際に、どうしても恣意的な対応づけをしなくてはならなかったり、問題が残ってしまうようなときには、最後の手段として標準化という方法がある。
ユーザの行為や結果やシステムの配置や表示を標準化するのである。
関連のある行為は同じように機能するようにする。
システムやその問題を標準化し、国際的な標準を作成するのである。
標準化のすばらしいところは、標準となった仕組みがどんなに恣意的なものであったとしても、一度学べばそれですむというところにある。
人はそれを学んで、効率的に利用することができる。
タイプライターのキーボード、交通標識や信号、測定の単位、カレンダー、これらすべてがそのようにできている。
一貫してその決まりが守られている限り、標準化はうまく機能する。

難しい点もある。
それは、合意に達するまでが大変だということだ。
またどの時点で標準化するというタイミングも難しい。
みんなが困ってしまわないようにできる限り早く標準化することが重要だが、同時に、新しい技術や手続きも取り入れることができるくらいの時間も必要である。
しかし、この早すぎる標準化の欠点は、使いやすさの向上で十分に埋め合わされることが多い³。

標準を学ぶようにユーザを訓練しなければならない。
本当に標準化が必要な場面では訓練は必須である。
場合によっては、その訓練はかなりきついものであることもある。(それは別にかまわない。アルファベットを学んだりタイプしたり車を運転するのを学ぶのには何カ月もかかるのだから。)
ここで注意しなければならないのは、標準化が本当に必要なのは、必要な情報のすべてを外界に置くことができない場合や自然な対応づけを活用することができないときに限るということである。
訓練とか練習は、対応づけやューザが行なうべきことをユーザに覚えやすくさせるためにある。
そうしてデザインの欠点をカバーし、ユーザが使う際にプランを立てたり問題解決をしたりする必要を最小にしているのである。

ごく普通の時計を見てみよう。
時計は標準化されている。
針が逆回転する時計があったら、いま何時かを知るのがどれだけ大変かを考えてみてほしい。
実際、そのような時計はある(図7-3)。
これは話の種にはもってこいであるが、時間を知るには便利とは言えない。
なぜなのだろうか。
時計の針が逆向きに回転したとしてもなんら論理的におかしいところはないはずだ。
私たちがそのような時計を気に入らないのは、論理とは異なる次元で、すなわち、まさに「時計回り」という言葉の定義において標準化してしまっているからである。
そのような標準化がなかったら、いま何時かを知るのはもっと困難なことになっていただろう。
いつも対応づけを気にしていなくてはならないからだ。

標準化と技術 p332

技術の進歩の歴史を振り返ってみると、どの領域においても、その改善のうちのあるものは当然のことながら技術によるものだが、標準化による改善もあることがわかる。
自動車のごく初期の歴史がそのいい例であろう。
いちばん最初の自動車は、操作するのがとても難しかった。
運転するためには力と技術が必要で、それはたいていの人の能力を越えるものだった。
その問題のいくつかは、チョークやスパーク調整装置やスターターなどの自動化によって解決された。

自動車やその運転に関する恣意的なものは、標準化することが必要だった。

・車が走るのは道路のどちら側か
・車のどちらにドライバーが座るか
・どこに重要な部品を配置するか。ハンドル・ブレーキ・クラッチ・アクセル(初期の車にはアクセルが手で操作するレバーだったものもある。)

標準化は文化的な制約のもう一つの側面にすぎない。
この標準化のおかげで、一台の車の運転の仕方を覚えたら、世界のどこに行ったとしても、どんな車であろうとも運転することができると自信をもっていい。

現在、コンピュータは少なくともユーザの視点から見てまだデザインが貧弱であると言わざるをえない。
問題の一つは、コンピュータの技術がまだ一九〇六年の頃の自動車のように初歩的な段階で、標準化もなされていないということにある。
標準化は最後の手段であり、その問題はほかに解決のしようがないということを認めることである。
そして、私たちは少なくともみんながある一つの共通のやり方に同意しなければならない。
キーボードの配置・入出力の形式・オペレーティングシステム・テキストエディタやワープロ・プログラムを操作する基本的なやり方に関する標準化が達成された暁には、使いやすさに関する新たな世界が開けることだろう⁴。

デザインと社会 p345

道具は単に私たちが何かをするのを簡単にしてくれるというだけではなく、私たちが自分自身や社会や世界を見る見方に多大な影響を及ぼしている。
紙と鉛筆、活版印刷の書物、タイプライター、自動車、電話、ラジオ、テレビなどの毎日使っている道具の発明がどれくらい大きな変化を社会に及ぼしたかは、いちいち指摘するまでもないだろう。
一見したところ、ほんのちょっとした発明にすぎないように思えるものでも、劇的ともいえるくらいの変化をもたらすことがありえて、しかもそれは予測できないことがほとんどなのである。
たとえば、電話がそのいい例で、ずいぶん誤解されていた(「どうしてそんなものを使いたがるんだね?誰と話そうっていうんだい?」)。
コンピュータもそうである(アメリカのコンピュータの需要に応えるには、コンピュータは全部で一〇台もあれば十分だと考えられていた)⁸。
都市が将来どのようになるかに関する予測はひどく的外れなものだった。
原子力の技術がすすめば、原子力自動車や原子力飛行機ができるものだと思われていたこともあった。
また、空を飛ぶという交通手段が自動車と同じくらい一人ひとりに広まると思っていた人もいた。
どの家のガレージにもヘリコプターが一台というわけである。

文章を書く方法が文章のスタイルにどう影響するか p346

技術の歴史を振り返ってみれば、私たちはどうやら予測には長けていないようだ。
だからといってどんな変化が起こりうるかについて鈍感であっていいというわけではない。
新しい概念が現われればよい方向へあるいは悪い方向へ社会を変革する。
ここでは、簡単な例をあげて検討してみよう。
すなわち、文章作成の道具がだんだんと自動化していったことが書き方のスタイルにどう影響したかということについての検討である。

羽ペンとインクからキーボードとマイクへ p347

はるか昔、羊皮紙の上に羽ペンとインクで文字を書いていた頃には、一度書いたものを訂正するのは面倒で困難な作業だった。
文章を書く人は注意深くなくてはならなかった。
文章は紙の上に書く前に十分に練り上げなくてはならなかった。
その結果、できあがった文章は長くて装飾の多いものとなり、その優美な修辞の粋を尽くした文章のスタイルが昔の文献の特徴となった。
書くための道具がより簡単なものになるにつれて、間違いの訂正はずっと容易になった。
そこで、文章作成もずっと手早くなされるようになった。
同時にそれは十分に注意深く考えた上のものではなくなり、日常の会話により近いものになった。
このようにして文章上の上品さが失われたことを激しく攻撃した評論家もいた。
しかし、このようにコミュニケーションをしているのが実態なのだと主張する評論家もいた。
いずれにせよ、こちらの文章の方が理解しやすかったのである。

文章作成の道具が変化するにつれて、文章を書くスピードも増してきた。
手書きの場合には、頭の方が先走りしてしまうので、記憶によけいな負荷がかかることになり、人はもっとゆっくり考えて書いた。
タイプライターの場合には、タイプに熟練した人ならば思考の早さにほぼ追いついていくことができる。
口述という手段を使った場合には、口述されたものと頭で考えたことはかなりよく対応しているようである。

口述筆記が広く使われるようになるにつれて、さらに大きな変化が生じるようになった。
道具がここでは劇的とも言える効果を及ぼしたのである。
というのは、何を話したかについての記録が外部に残らないので、語り手である著者はすべてを頭の中に覚えておかなくてはならなくなったのである。
その結果として、口述された手紙のスタイルはしばしば長くとりとめのないものとなった。
文章はより口語的になり、構造は失われてきた。
口語的になったのは、それが話し言葉にもとづいていたからで、構造がなくなってきたのは、書き手の方も何を喋ったか簡単には覚えていられなくなったからである。
かりに話した通りのものがページに打ち出される音声タイプライターが実用になったら、文章のスタイルはもっと変わることだろう。
音声タイプライターがあれば、記憶の負荷は楽になる。
文章が口語的であるという点では変わらず、場合によればもっと口語的になるかもしれない。
しかし、話したことがすぐ印刷されて目に見えるようになるので、おそらく文章の構造はよりよいものとなるだろう。

コンピュータのテキストエディタが広く使われるようになるにつれて、文章の書き方には上のものとは違う変化も生ずるようになってきた。
ささいな誤植や綴り間違いを心配せずに自分の考えをタイプできるようになった一方で、考えたりプランを立てたりすることにはあまり時間を使わなくなったようである。
コンピュータのテキストエディタの場合には、文章を表示できる広さが限定されているということが文章の構造に影響をあたえている。
紙の上に文章を書く場合には、そのページを机の上やら寝椅子の上やら壁やら床やらに拡げることができる。
文章の多くの部分を同時に見ることができ、そうして再び構造を組み直したり、整えたりすることができる。
コンピュータしか使わなければ、作業領域(いわば所有地ともいえる)は画面に表示されたものだけである。
普通の画面には二四行が表示されている。
今現在、手に入る最大の画面でも印刷されたページにして二ページ分だけを表示することしかできない。
その結果、訂正は目に見える小さい範囲の中だけで局所的になされることが多くなるのである。
大規模な構造の見直しは難しくなり、めったになされなくなった。
同じ文章が一つの文書に何回も現われることもあるのに筆者がそれに気づかないということさえあるのである(筆者にとってみれば、どの文も見慣れたものだというのがその理由だろう)。