コンテンツにスキップする

「配色の教科書」を読んだ

投稿時刻2025年3月20日 19:15

配色の教科書」を2025年03月19日に読んだ。

目次

メモ

アリストテレスから始まる色彩研究――光の変容説 p12

古代ギリシアで提唱された視覚や色に関する考察は、たどれば色彩学の起源ともいえる。
師であるプラトンがイデアリズム(イデア主義、理想主義)を掲げたのに対し、アリストテレスは自然現象の観察に基づいたリアリズムの姿勢から、独自の色彩論を展開した。
彼とその弟子たちは、人間の視覚や聴覚など感覚器官の働き、色や音の成り立ちから人に与える影響に至るまで、興味深い考察を述べている。
光と色の生起に関する考察は、『デ・アニマ(魂について)』『感覚と感覚されるものについて』『色について』『気象論』に記されている。
その内容は、表層的な色彩のあらわれにとどまらず、染色技術から動植物に至るまで幅広く、鋭い観察眼に驚かされる。
アリストテレスは、色は光のなかで見られるものであり、光がないと色は存在しないとし、『色について』の冒頭で次のように述べている。

「色のうち単純な色は、火とか空気とか水とか土とかの要素につき従うものである。
すなわち空気と水はそれ自体としては本性上白であり、火と太陽は黄である。
そして土は本性上は白であるが、染色されるために多色であるようにみえる。(中略)
闇が色ではなくして光の欠如であることを、ひとは他の多くのことから容易に学ぶことができる」*2

アリストテレスは、「すべての色は光と闇、白と黒の間から生じる」と考えた。
彼の色彩論は、混じり気のない純粋な白色光(白)と、光の欠如によって生まれる闇(黒)を基本とし、色は白色光が空気などの媒質を通過することによって暗くなるときに発生するとしている。
多彩な色の世界は、光と影の混合によるものと説明し、基本の色は白・黄・赤・紫・緑・青・黒の7色であり、色の序列は明るさの順で組み立てられている。

アリストテレスが提唱した色彩論は「光の変容説」や「明暗混合説」と呼ばれ、色の生起現象に対する根源的な意味づけとして、中世からルネサンスへと受け継がれた。
19世紀に至っても、ゲーテがアリストテレス説を順守してニュートン説を論破しようと試みた。
後にドイツの博物学者アタナシウス・キルヒャー(1601-80)により描かれた「色のアリストテレス説」では白・黄・赤・青黒とその混合によって生じる色の関係性が図解されている。
彼は『光と影の大いなる術』で「光の変容説」の考え方をもとに、色の多様性を説明した。
*2
『アリストテレス全集10 小作品集』副島民雄・福島保夫訳〈岩波書店〉1969年より

反対色調和、色彩対比に関するレオナルドの手稿 p18

レオナルドは、建築家・画家のレオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』(1435年)に大きな示唆を受けたという。
アルベルティはアリストテレスなどの古典の流れをくみ、古来の四原色、赤(火)、空色(大気)、緑(水)、褐色/灰色(土)の混色から他の色がつくられ、そこに白と黒が加えられて色種がつくり出されるという考えや、色彩は光によって見えに変化を受けることから光の重要性を説いた。

レオナルドは、手稿のなかで、白、黄、緑、青、赤、黒を6つの単純色(基本色)とし、それぞれを光の色、大地の色、水の色、大気の色、火の色、そして火の圏の上にある暗闇の色であるとしている。
そして彼は、白と黒、緑と赤、青と黄や金色のような反対色同士の配色では、色同士が互いに相手の色に優美さをもたらし、お互いを引き立たせる、と述べた。
これは反対色調和についての最初の説といわれている。

また、彼は「同じ明るさのものであっても、より白い背景の中で眺められたものほど暗く見え、より暗い空間の中に置かれたものほど白く見えるだろう。
赤い背景の中に置かれた肌の色は、青白く見え、黄色い背景の中で眺められた青白い色は赤みがかって見えるだろう。
このように、色はそれをとり巻く背景によって、自分と違う色と判断されるだろう」*2と、背景色の影響で色の見えに変化が生じる対比現象についても述べている。
*2~6
『レオナルド・ダ・ヴィンチ 絵画の書』斎藤泰弘訳〈岩波書店〉2014年より

レオナルドの造形美の集大成 p22

レオナルドの造形美の集大成ともいわれている《洗礼者ヨハネ》では、暗闇のなかで照らされた洗礼者ヨハネが人差し指で天をさすポーズをしながら、不思議な笑みを浮かべている。
宗教に懐疑的であったというレオナルドは物体のすべての色を減衰させ、神である「中世の光」と、光によって一層増幅する「闇」を対比的に描いている。
ヨハネの不思議な笑みは、その懐疑の隠喩であろう。
また光学の実験者であったレオナルドは、この光と闇の強い明暗を対比させて描くことにより、色彩には固有色がないこと、物体には輪郭線がないことを明らかにして、物体の丸みを周囲の空間から浮き上がらせることに成功している。
この明暗技法はイタリア語で「キアロスクーロ」(キアロは明、スクーロは暗)といい、後のバロック絵画において、カラヴァッジオ、レンブラントへと受け継がれていく。

本格的調和論を導いた色覚の科学 p28

19世紀、ヨーロッパの時代的関心は主に人間の視覚に向けられ、1802年医学物理学者トーマス・ヤングは、ヒトの色覚系には赤、緑、青に感度を有する3種の光受容体があるという三原色仮説を発表した。
それを発展させた生理・物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらによって、ヒトの色覚特性が明らかにされ、それが現代の測色と色再現技術の基礎へとつながっていく。
1870年代には生理学者エヴァルト・ヘリングが、ヒトの網膜には赤-緑、青-黄、白-黒の3対の光受容体があるという心理四原色説(反対色説)4を唱えた。
*4
心理四原色説(反対色説)…無数の色のうち、赤、黄、緑、青の4色は混じりけのない純粋な基本的な色感覚で心理四原色という。
これらのうち、赤と緑、黄と青は同時に知覚することができない(「赤緑」や「黄青」という色は存在しない)ので反対色と呼ぶ。
ヘリングはこれら4色に明暗である白と黒を加えた3対の反対色による色知覚メカニズムを唱えた。

色相環の可視化から色立体へ p28

この頃までにさまざまな色体系があらわれたが、色相環の考え方を見ると、ニュートンの色相環はスペクトルの7色を円周に配し、混合すると白になることを示すとともに、音階とも対応させている。
版画家で昆虫学者のモーゼス・ハリスは色料の三原色(赤・青・黄)の混色で18色相環(下左図)を構成している。
ニュートンの『光学』に対する批判から色彩論を展開したヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの色彩環は6色であり、色の心理作用と関連付けた残像による3組の補色で構成されている。

そして、画家フィリップ・オットー・ルンゲは、はじめて3次元的な色立体モデル「色彩球」(P.28右図)を発表している。

1839年にミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対比の法則』が発表され、半球体の底面に色相環を配する色立体が考案された。
1879年にはオグデン・ニコラス・ルードの『近代色彩学』が発刊され、これらの著書に印象派の画家たちは大きな影響を受けた。

色彩科学の諸分野における研究の発展 p29

18世紀から19世紀にかけて、次々と新しい合成無機顔料が発見、製造され、フィンセント・ファン・ゴッホが愛用したクロームイエローも登場する。
そして、1856年には化学者ウィリアム・ヘンリー・パーキンにより世界初の合成化学染料モーブが発見され、マゼンタ、アリザリン、合成インディゴの製法も完成した。

19世紀後半は、生理学や心理学が飛躍的発展をとげた時代であった。
生理学者エルンスト・ハインリヒ・ウェーバーやグスタフ・テオドル・フェヒナーは科学的心理学の礎を築き、彼らが提案した精神物理学は色彩科学においても、測色、表色などの分野の進展に貢献した。

19世紀末には、色彩科学の諸分野における研究成果が出そろい、その後の色彩研究へとつながっていく。

知性の対象としての調和論の発展 p29

20世紀に入るとアルバート・ヘンリー・マンセル、フリードリッヒ・ウィルへム・オストワルトなどによる色空間が提案され、個々の色の座標が数字や記号で記述され、色同士の関係が正確に把握されるようになった。
本来、感性の対象であるはずの色彩の調和美を、西洋の知識人は知性の対象として客観的、合理的に認識し、その分析を志した。
このように、染料や顔料工業の発達、色覚の科学や心理学の発展に加え、色彩の幾何学的関係による記述、客観的で合理的な色空間の発明が欧米での色彩調和論の発展を促したのだ。

呼び求めあう色の色彩環 p42

ゲーテは色彩の「呼び求めあい」によって得られる色の組み合わせを色彩調和の1つの典型とみなした。
これに基づき、黄は紫を、青は橙を、赤(真紅)は緑を呼び求め、その逆も成り立つとして、3組の残像補色対による6基本色の色彩環を考案した。
色彩環上で直径の両端に位置する色が呼び求めあう関係にあり、その配列にも調和的な全体性が備わるとした。
黄が呼び求める紫は赤と青からなり、青が呼び求める橙は黄と赤からなり、赤が呼び求める緑は黄と青からなる。
このことは、黄・青・赤の三原色とそこから派生する色の秩序を示し、眼がそれ自体のなかで色彩環を完結していることのあらわれであると考えた。

ゲーテの考えた色の組み合わせと調和 p44

ゲーテは色彩環上の位置関係によって次のような色の組み合わせを挙げ、調和について述べている。
1|呼び求めあう色彩
対向位置にある色同士で、眼のなかで相互に呼び求めあう関係にある2色による配色。
黄-紫、青-橙、赤-緑の組み合わせ。
完全に調和がとれており、全体性を備える。
2|特異な組み合わせ
1色を飛び越すような関係にある2色による配色。
黄-青、青-赤、赤-黄、紫-橙、橙-緑、緑-紫の組み合わせ。
恣意的に選ばれた配色で、その印象は、意味深い感じがあって見る者に迫りはするものの、充足感はなく全体性に欠ける。
例えば、黄と青の配色では赤の気配を欠き、眼が並置された黄と青を見て緑を生じさせる努力をしても実現できないため、全体性を引き起こすことができない。
3|特異さのない組み合わせ
隣り合う2色による配色。
黄-橙、橙-赤、赤-紫、紫-青、青-緑、緑-黄の組み合わせ。
近接しすぎているため印象がはっきりしないが、何らかの前進を暗示し、それなりの存在意義がある。
黄-橙、橙-赤、青-紫、紫-赤は色彩環を高昇する段階を表しており、量的な均衡がとれれば悪い効果にはならない。

色彩の同時対比――2色が人間の眼によって同時に知覚されるとき、現実とは異なった錯覚を与える p48

『色彩の同時対比の法則』の序文で、シュヴルールは2色を同時に知覚するときの見え方について、あくまで人間の知覚の次元で生じる変化(変様 modifications)であると明言している。
そして同時対比を次のように定義している。

「色相が同じで明暗(濃淡)が異なる2つの領域、または色相が異なり明暗(濃淡)が同じ2つの領域を隣接させ同時に見るとき、すなわち、一方の領域の縁と他方の領域の縁を隣り合わせて同時に見るとき、領域の面積が大きすぎない限りにおいて、目は色の変化を感じる。
前者は色の強さ(色の濃さ)における変化であり、後者は光学的組成(物理的組成に同じ、分光スペクトルのこと)における変化である。
さて、2つの領域を同時に見たときに現れる、実際とは異なる上のような色の変化を〈色の同時対比〉と呼ぶ。
色の強さに関する変化を〈色調対比〉と呼び、色の光学的組成に関する変化を〈色相対比〉と呼ぶ」(§8)*2-3

シュヴルールは眼による観察を手段とした。
色調対比や色相対比をはじめとする数多くの実験を重ね、あらゆる状況下での色の並置とその効果を分析して、色彩は視覚現象であることを例証した。
1|明度対比
今日では明度対比と呼ばれる現象で、隣接する2色を同時に見るとき、周囲を明るい色に囲まれた灰色は本来の色より暗く見え、周囲を暗い色に囲まれた灰色は本来の色より明るく見える。
2|縁辺対比
色調(明暗、濃淡、強弱などの性質)の異なる10色の帯を次第に暗くなるように並べると、それぞれの帯の隣接部分で変化が生じる。
暗い灰色に接した部分は明るく見え、明るい灰色に接した部分は暗く見える。
変化の度合いは隣接部分から離れるにつれ次第に弱まる。
明暗が隣接部分で強調されるため、距離をおいて観察すると平面ではなく窪んだ縦溝のように見え、階段状に変化していく。
これは、シュヴルール錯視ともいわれる。
3|色相対比
青に囲まれた緑は黄みを帯び、黄色に囲まれた緑は青みを帯びて見える。
これは、背景色の心理補色(負の残像)があらわれることが要因で、囲まれた中央の緑が背景色の心理補色の方向へ変化して見えるためである。
4|補色対比
緑に囲まれた赤は、緑の補色残像が加味されて強さを増している。
補色同士の配色は、非常に強烈な対比の効果を発揮する。
シュヴルールはこれらの結論を次のように示した。

「色調対比は、無彩色に対してはもちろんのこと、有彩色に対しても起こる」(§12)

「並置する2つの色を同時に見るときには、2種類の変化、すなわち、2つの色の色調の高さ(明暗)に関する変化、および2つの色の物理的組成(色相)に関する変化が観察される」(§15)

「隣接する2色を同時に見るときには、光学的組成(色相)および色調の高さ(明暗)に関して、可能な限り異なるように見る」(§16)

「並置した色の見えには、色相の同時対比と色調の同時対比が存在する」(§19)

「並置された色の変化は、隣接する色の補色がそれぞれの色に加わることにより生じる」(§20)

「補色同士が並置されると、2色が自身の補色を互いに与えあうことから、2色は互いに純度を高めあい、その強さを増す」(§38-42)

続いてシュヴルールは、同時対比、継時対比、混合対比の区別に論を進めた。
そして、色彩の同時対比の法則は、生理学的色彩研究の歴史上に位置づけられた。

「色彩の同時対比とは、種々の有色物体を同時に見るとき、物理的組成(色相)または色調の高さ(暗さ)において生じるすべての変化である」(§78)

「色彩の時対比とは、目が一定時間、1つないし多数の有色物体を見つめた後に、物体の像が実際の色の補色で知覚されるすべての現象を含む」(§79)

「混合対比は、網膜がある時間ある色を見たとき、その後この色の補色を見る能力と、さらに、外部の物体により提供される新しい色から生じる。
このとき知覚される感覚は、この新しい色と最初に見た色の補色との合成である」(§81)

さらには、対比が生じる条件の1つとして色彩の分量の重要性を指摘し、帯の幅についても言及した。
また「補色を密集させて並置すると遠くからは灰色に見える。色糸の多さに従って2色は互いに溶けあい同化しあう傾向を持つ」など、隣りあう糸の色は網膜上で混色されることを述べた。
これは織物が身近な環境にあった彼ならではの発見であろう。
画家の色使いには「対象物を忠実に模倣するには見えるままに模倣してはいけない」と注意を促している。
*2
「M.E. シュヴルール著色彩の同時対比の法則とその応用」(1)~(10) 小林光夫著 『日本色彩学会誌』Vol.35-2~Vol.37-5 2011年~2013年より(以下『色彩の同時対比の法則』の引用文献はすべて同)

*3
本書の構成はページではなく段落(パラグラフ)表記のため、以下、§記号を用いる。

シュヴルールの考えた「調和する」色の規則 p50

シュヴルールは「調和とは視覚が感じる心地よさである」と定義した。
視覚器官を介し色の絶対的感覚を通じて得られる喜びは、味覚を介し心地よい風味の絶対的感覚を通じて得る喜びと全く同じであると述べている。
そして、私たちが心地よいと感じる色彩のさまざまな状況を提示した。
これを踏まえて6種の形式原理を導き出し、対比の大小によって、色彩調和を「類似の調和」と「対比の調和」に大別した。
際限なくある配色形式を限られた類型に分類し、記述することを可能にしたのは、紛れもなくシュヴルールの功績といえるであろう。
1|類似の調和
①色階における調和(同一色相、比較的近いトーンの配色)*4
同じ色階(同一色相の色調の変化全体)に属する色のなかから、比較的近い色調の色を同時に見るときに生じる調和。

②ニュアンス(近隣色階)における調和(類似色相、同一または類似トーンの配色)
近隣色階(類似の色相の色調の変化全体)に属する色のなかから、暗さが同じ色か、近い色調の色を同時に見るときに生じる調和。

③ドミナントな色光による調和(ドミナント効果といわれる支配色による配色)
対比の法則に従って組み合わされた種々の色を、わずかに色のついたガラスを通して見るときのように、1つの色が優勢(ドミナント)なときに生じる調和。
2|対比の調和
①色階における対比の調和(同一色相、かなり離れたトーン差のある配色)
同じ色階のかなり離れた色調の2色を同時に見るときに生じる調和。

②ニュアンス(近畿色階)における対比の調和(類似色相、トーン差のある配色)
近隣の色に属し、暗さの異なる2色を同時に見るときに生じる調和。

③色相の対比の鍋和(対照的な色相、かなり離れたトーン差のある配色)
対比の法則に従って組み合わされ、かなり離れた色階に属する色を同時に見るときに生じる調和。
色調の暗さの違いは、対比をさらに増すことがある。
*4
シュヴルールが本文献を執筆した当時は色彩用語の確立していない時期であり、原義ではわかりづらい点も多いため、カッコ内に現代の色彩用語に置き換えて付記する。

シュヴルールの色彩体系 nuance(色相) とton(色調)という概念の誕生 p54

シュヴルールは、これまでにほとんど定義されることのなかった体系の基本語彙を定め、nuance(色相)とton(色調)の概念によって色彩体系を構成した。
いわゆるヒュー=トーン・システムによるカラーシステムを実現したといえる*5。

シュヴルールの考える色調は、明暗もしくは濃淡の度合いを表す*6。
最大純度をもつ色が、白あるいは黒から受けるさまざまな変化を区別するときにだけ使う。
色階(gamme)は、白と黒が加えられて変化した1つの色の色調の変化全体を表す。
色みが最も強い色が色階の基準色調*7である。
そして個々の色を番号で指定し、白から次第に色が濃くにってなって純色に至り、そこから次第に黒が強くなって黒に至るまでの連続的変化を尺度化した。
白と黒の間に20色調からなる色階を構成している。

ニュアンスは、1つの色(色相)に他の色を少量加えたときに生じる微細な変化にのみ使われる。
色彩環は72色の純色から構成される(上図)。
まず赤、黄、青を1次色板上に並べた。
3色の間を等分し、1次色を混色してできる2次色の橙、緑紫を設定する。
この6色の間を等分して、赤橙、橙黄、黄緑緑青、青紫、紫赤を挿入すると12色相になる(右下図)。
さらに、それぞれの色を6等分することで、最終的に色相環は72色相となる。
円面上で直径の両端に位置する色は互いに補色となる。

これらの定義を十分理解してもらうために、シュヴルールは、関係性を色彩半球で提示した。
色立体は、色相環を底面円とする半球型である。
中心の白から外周までの半径はその方向に応じて、それぞれの色の色階となる。
底面円の半径を立ち上げた四分円は、色階が底面から離れるほど色が濁っていく。
中心から垂直に立ち上がった軸は白から黒までの無彩色である。
*5
マンセル体系や、PCCSのヒュー=トーンの色調の概念と対応するものではない。

*6
シュヴルールの基本語彙は独自の用語であるため、ここでいう「色調は厳密にはシュヴルールトーンといえる。
1839年版ではマンセル明度に近い概念であり、暗度と称している。
1861年版/1864年版ではオストワルトやNCSの色み、黒み差のような色濃度に近い概念に変わる。

*7
清色列中の基準色調は、1839年版と、1861年版/1864年版とでは定義が変わっていると指摘されている。
1839年版ではそれぞれの色相の明度の違いによって基準色調は異なる値をとる。
必ずしも白と黒の中央ではなく、黄は中心点の白に近く、紫は外周の黒に近く配置されていた。
しかし、1861年版以降では、色相によらず、すべて暗度範囲(色階)の中央においている。
言い換えれば、当初は暗度に近い概念であり、マンセルのように純色の明度が考慮されていたが、後に色濃度に近い概念となり、オストワルトと同じく純色を等価値色とみなしている。

アリストテレス説に求めた色彩の起源 p59

フィールドは、「色は明と暗(光と闇)の、つまりは白と黒の間に生じる」というギリシア的色彩観から色の構成を論じた。
白と黒の間は灰色であるが、白に接する黄と黒に接する青のほどよい混合によって赤が生じ、これら黄・青・赤の混合結果として灰色が生まれる、というものである。
フィールドには、万物は3つの要素とその「類比(アナロジー)」により関係づけられながら発展するという色彩哲学があった。
色は赤・黄・青の三原色とその混合から、音楽はド・ミ・ソの3音とその和音から発展するというものである。
彼は化学者であったが、色のアリストテレス説を支持する反ニュートン主義者であったのだ。
彼が1835年に著した『クロマトグラフィー』の口絵には、上段にアリストテレス説を模す図「実験」が、中段に「等価色彩」と称する色相環が、下段に色は白と黒の狭間に生じることを示す「色彩列」が載っている(右図)。

色料の三原色による混色 p60

フィールドは染色家であったため、色の混色理論は色料の三原色から発展させた。
彼は三原色の赤・黄・青を1次色と呼び、1次色の2つの混合から紫・オレンジ・緑の2次色が生まれ、2次色である紫と緑の混合から3次色のオリーブ、緑とオレンジからシトロン(緑褐色)、紫とオレンジからラセット(小豆色)が生まれるとした。
そして、1次色と2次色、2次色と3次色のうち2つの色が混合すると「中和化(neutralization)」(無彩色化)が生じるとした。
1817年の著作『クロマチックス色の類比と調和に関する試論』では、正三角形は色彩の相関関係を説明するのに最も適したかたちであるという考えをもとに、中心に無彩色を置き、その周りに三原色の正三角形、さらにその周りに2次色、3次色が組み合わされた図を示している(左図)。
彼は三原色の混色による中和化を調和の根本原理と考えたのだ。

フィールドの考えた「調和する」色の規則 p60

フィールドは、配色における三原色の調和関係を、「赤5、黄3、青8」に定量化した。
この数値の科学的根拠は、独自の実験装置「メトロクローム(metrochrome)」による実験から求めている。
その器具は3つのクサビ型容器で、厚みに従い目盛りが刻みこまれている。
そこに三原色の溶液を入れ、重ねて小窓から透過色を眺めると、「赤5:黄3:青8」の割合で「中和化」(無彩色)が得られた。
それを配色では面積比とすることで調和配色が得られるとしたのである。

1935年の著作『クロマトグラフィー』では、三原色とその混色関係を花びらが重なり合うような6つの円からなる色相環で図表化している(下図)。
そこには各割合の数値とメトロクロームの溶液層の目盛りが対応して記され、中央は無彩色となっている。
また、対角線上にある2色、例えば黄を進出色・紫を後退色、オレンジを暖色・青を寒色というように、色彩の心理効果についても付記している。

この色相環は明治初期の日本の「色図」教育(P.147)でも参考にされた。

三原色とド・ミ・ソ3要素との「類比」 p62

フィールドは「音楽や美術、詩は、ともに自然と同じ法則に従う」という観点から色彩と音楽の類比関係も説いている。
彼は、三原色の青・赤・黄は、音楽におけるド・ミ・ソ(C・E・G)の和音と類比関係によって結ばれているとし、その根拠として次の3点を挙げている。

①「調和」の構造は、色彩は三原色、音楽は三和音のそれぞれ3種の組み合わせからなる点で一致する。
②色相や色の濃淡は音階や旋律と類比しており、「色彩の旋律」と呼ぶことができる。
③2つの色彩の「和合(accordance)」は、音楽では「協和音(concord)」に相当する。

デザインに関わる3要素との「類比」 p62

「類比」の概念はフィールド理論の特色であり、彼は、音楽・絵画との類比に基づく「美学的色彩論」も展開している。
グラフィックアートおよびデザインに関わる形態と色彩の類比では、三原色に対応する3つの原型を「直線、折れ線、曲線」とした。
形態をかたちづくる3要素は「線、面、立体」であるから、原型も3段階を経て変化する。
1次の原型は2つが組み合わされると、色彩の2次色と同じように、2次形態を生じる。
よって直線は四角から立方体へ、折れ線は正三角形から正三角錐が形成される。
同様に、直線と曲線から円筒形が、折れ線と曲線から円錐が生まれる。
この3次形態が球を一番なかにして内接された場合、その底面積比は三原色が調和する割合と同じになるので、色とかたちは「類比関係」にあるとしている。

多くの外国語に翻訳され、現代でも色褪せない名著『近代色彩学』 p65

19世紀後半、それまでの光と視覚の研究(ニュートン『光学』、ゲーテ『色彩論』、シュヴルール『色彩の同時対比の法則』、ヘルムホルツ『生理光学』など)を通じて、色の感じ方、見え方、現れ方などが総合的に明らかとなり、色彩学は1つの学術的領域として成立する。
1879年に出版されたルードの著書『近代色彩学』は、19世紀における最新の色彩学の解説書として、また芸術と産業の両方に役立つ手引書として重要な意味をもつ1冊となった。
『近代色彩学』は1880年に早くも独語版が、1881年には仏語版と英語再版が刊行された。
これによってルードの名は国際的に知られるようになる。
ルードは、色彩の理論を具体的な例を提示してわかりやすく解説し、科学者だけでなく、芸術家たちの色彩理論と制作技法に多くの示唆を与えた。
ビレン(P.120)は、「過去に出版された色彩学の本で、これほど多くの外国語に翻訳され、広範囲の読者を獲得した例は他になかっただろう」と述べている。

色相の自然連鎖の法則の発見 p66

自然のなかに見られる色彩には、私たちが知らず知らずのうちに慣れ親しんでいる色の法則性がある。
それは、太陽光のもとで色を見たときの色相と明度の関係についての法則性である。

この色相と明度の関係について、ルードは次のような観察記録を残している。
「兵士の緋色のコートは、陰になっているときに赤く見え、日なたの部分では黄みの赤である。
日光を浴びた草の葉は、黄みの緑の色相を得る。
日陰ではそれはもっと青みの緑である」*1また、「隣接する二つの色相は、必ず自然界の法則に合致するように順序づけられたそれぞれの明暗をもつ」*2と述べ、色相の明暗関係を示す「比較一覧表」を作成した。
Table of Small Intervals.
DarkerLighter
RedOrange-red
Orange-redOrange
OrangeOrange-yellow
Orange-yellowYellow
Yellowish-greenGreenish-yellow
GreenYellowish-green
Cyan-blueGreen
BlueCyan-blue
Ultramarine-blueBlue
VioletPurple
PurpleRed
比較一覧表…『近代色彩学』のテキスト表記に色票を加えたもの
この表の黄緑から緑にかけての明暗関係は、「陽光に輝く生い茂った木立の緑と木陰の色調」青緑、青、青紫は「天頂から地平に至る大空」、表の上と下に示された橙、赤、紫の明暗関係は「輝かしい日没」の色彩現象で説明される。
*1~2
『色彩調和論』福田邦夫著〈朝倉書店〉1996年より

自然な調和(ナチュラル・ハーモニー) p67

ルードは、「色相間隔の小さな配色、またはそのグラデーションは、色相環のなかの黄色相に近い色を明るく、黄色相から遠い色を暗くするような明度の関係にする」ことによって、自然界の色の見え方を人工的な配色に当てはめることができるとした。
現在、この明暗関係は「色相の自然連鎖(natural sequence of hues)」、その配色は「自然な調和(natural harmony)」と呼ばれている。

例えば、「赤系の隣接色相で、黄に近い方の赤系統の色を明るく、もう一方の赤系統の色をそれよりも少し紫よりの暗い色にした配色は、赤の同一色相の濃淡よりも自然なグラデーションが得られる」
「青紫はそれよりも明るい青側と紫側のどちらの色も選ぶことができる。
ただし、青紫の場合は青側の隣接色相へのグラデーションの方が自然界の例が多い」。
それは、澄んだ青空や晴れた日の大海原などの色の変化だからである。
ルードは、色相の自然な明暗関係のグラデーションの最も優れた実例として、ターナーの作品を称賛している。

ルードが色彩研究において残した多くの遺産のなかで、後続の研究者に最も影響を与えたのは、この「色相の自然な明暗関係の理論」であったといえる。

光の三原色と色材(絵具や顔料)の三原色の違い p68

ルードは『近代色彩学』のなかで、光の三原色と顔料の三原色の違いについて、図説している。
加法混色
光は色を重ねると光量が増し明るくなり、光の三原色をバランスよく混ぜると白色光になる。
同時加法混色(複数の光を同時に重ねる)、継時加法混色(複数の色に塗り分けた円板を高速で回転させると、混色して新しい1つの色に見えるように、時間がずれて色が混ざって見える)、併置加法混色(敷き詰められた小さな色点を、個々の点がはっきりわからない程度に離れて見ると、混色して見える)などがある。
減法混色
絵具や顔料は光とは反対に、色を混ぜるほど暗くなる。

ルードの考えた「よい効果」を生む色の組み合わせ

自然のなかの美しい風景を模倣し、キャンバスにその美しさを再現することが簡単ではない場面がたびたびある。
例えば、生い茂った森の緑は空よりも暗く灰みがかって見える。
そのため、前述のナチュラル・ハーモニーの観点によれば、この緑と空の青は好ましいとはいえない組み合わせであり、キャンバスへの再現が難しい例といえる。
しかし、このような風景が自然の光のなかでは、美しい形をした葉に透過する光や明暗のコントラストなどが助けとなり、大抵の場合は美しいと感じられる。
自然物だけでなく、ガラスの反射やシルクの光沢などの人工物も同様である。
素材やかたち、陰影、全体の構成などによって美しいと感じられる配色が、その色だけを取り出してみたときによい効果が得られないことがある。

ルードは、配色の効果に影響を与えるそれらの要因をできるだけ取り除いた状態で色を観察し、よい効果をもたらす色の組み合わせとそうでない組み合わせについて検証した。

効果的な補色配色 p69

ルードは補色同士のコントラストが生み出す配色の効果を示すために、画家たちのパレットで実際に使用される色を正確な角度(P.74)で配置したコントラストダイアグラムを作成した。

そして2色配色(ペア)3色配色(トライアド)の具体的な配色例を示し、色相や明度、彩度の調整、あるいは光沢の効果などによって得られる調和について解説している。
そのなかでルードは、自身の経験から得られた結果に加えて、ブリュッケとシュヴルールの功績に敬意を表し、彼らの見解も紹介している。
1|2色配色(ペア)
ルードは、悪い効果をもたらす配色は、「対比効果に傷つけられて、鈍く、あるいは貧弱に見えた対比効果が過剰になって激しく荒々しく見えたりする」と指摘する。
「コントラスト・ダイアグラム」において、2色のつくる角度が80度から90度より少ない場合は、お互いに色を傷つけあう対比になり、80度前後ではまだ曖昧さが残ると述べている。

ルードは最上の配色は補色同士としている。
「しかし、赤と青緑、紫と緑のように、コントラストが強すぎて荒々しく感じられることもある」と断りを入れ、次のように注釈を加えた。
「芸術家が暗い、鈍い、あるいは薄い色で描く場合、補色配色は非常に効果的である。
明度や彩度を落としても、補色配色では、やはり強く輝かしい効果を得ることが期待できる」
有害な対比効果を緩和するための一般的な方法についてルードは、「片方の色を暗くすること」「対立的な色に、より小さな面積を割り当てること」と記している。
ルードはさらに、有害な対比効果を緩和するために「色相環のなかでどちらの色からも離れた位置にある第3の色を加える方法もある」として、次の例をあげた。
「イエローとイエローニッシュグリーンの配色は、バイオレットかパープリッシュ・バイオレットを、グリーンとシアンブルーの配色には紫かオレンジを少し加えることによって改善される」
2|3色配色(トライアド)
トライアドは、コントラスト・ダイアグラム内で色相間隔が等距離にある、あるいは120度の角度配色になるように選ばれた3色がよい。
最も広く用いられたものとして、彼は次の4組を挙げている。
②のトライアドでは、色はほぼ正確に120度離れているが、①はイエローとスペクトラル・レッドの間は90度未満である。
①はブルーの存在によって救われる配色といえる。
③(④)では、オレンジとバイオレット(パープル・バイオレット)は約90度離れているが、グリーンからもほぼ等しい距離にありよい組み合わせである。

p73

スーラはルードの混色理論に影響を受け、色彩をより明るく鮮やかに見せるため、パレット上ではなく、点描によって網膜上で色を混合する視覚混合を試みた。

配色の根拠と基本的教訓 p73

ベツォルト(P.63*2)、ブリュッケ(P.63*3),ルードらは、伝統的美術作品の色彩調和を尊重しながらも、それ以上に自然の観察から得られた色彩連鎖の現象を色彩調和の根拠として重視した。
また、配色調和の問題は実験室で行った方法や厳密な論理では答えを出すことはできないとし、曖昧な部分があることを強調している。

ルードは配色形式の説明の最後に、配色の基本的教訓について次のように記した。
「もっとも印象的で美しい配色は、けっしてたくさんの色を含むものではない。
もっとも明るい色からもっとも暗い色にいたるまでの、さまざまな色調の中から適切に選択され変化させられ、繰り返されるような、ごくわずかな色の使用によって達成される場合の方がずっと多い」*3
*3
『色彩調和の成立事情』福田邦夫著〈青娥書房〉1985年より

まとめ|後世に託された研究 p75

ルードは『近代色彩学』において、色に関する光学的理論、補色や色覚の原理、混色の法則など、最先端の色彩知識を解説した。
当時の色彩関係者の間ではまだ研究や技術が進んでいない分野が多かったため、色は一般的に色名によって表記され、ルードが記した純度(purity)、輝度(luminosity)、色相(hue)の3つの属性も尺度値で表示するまでに至らなかった。
彼は、科学的な色彩体系の完成を強く願っていたという。

後に、その科学的な色彩体系を具現化したのは、『近代色彩学』に触発されたマンセルであった。
マンセルは晩年のルードの研究室を何度か訪れ、ルードは、色の測定や体系に関する助言を与えた。
しかしマンセルの記念碑的著作である『色彩の表記(A Color Notation)』(1905年)が発表されたとき、残念ながらルードは既にこの世を去っていた。

絵画の才でパリ・ローマ留学 p76

国際的表色系の1つである「マンセル・カラーシステム」(以下、マンセルシステムと表記)の創案者アルバート・ヘンリー・マンセルは、マサチューセッツ州ボストンにピアノ製造業者を父として生まれた。
幼い頃から絵の才能に恵まれ、カラーのセンスも秀でていたと伝えられ、美術系の教員養成を目的とするマサチューセッツ州立美術師範学校に入学し、抜群の成績を収めた。
卒業後は母校の教員に就任し、修士を得た後に海外留学の資格を得、パリの私立画塾アカデミー・ジュリアンで学ぶことになった。
この画塾ではマティス、ボナール、ミュシャらも画学生として学んだことがあり、日本からは画家の安井曽太郎、梅原龍三郎らが学んでいる。
翌年、国立美術学校エコール・デ・ボザールに入学し、ここでも彼は精彩を放ち、コンペで2等賞を獲得、さらにカトリーヌ・メディチ奨学生の資格も得て、ローマに1年留学して研鑽を積んだ。

1888年に帰国した後は、ボストンの母校で美術教師をしつつ、スタジオをもつ肖像画家としても活躍した。
画家としてのマンセルについては、わが国ではほとんど知られていないが、緒方康二の研究ではマンセルの作品が11点確認されている。

1894年にニューヨークの実業家の娘と結婚し、後に科学者であり色彩研究の後継者となる長男アレクサンダーと3女をもうけた。

マンセルの代表的著作は4冊がある。
『色彩の表記(A Color Notation)』『マンセル色図表(Atlas of the Munsell Color System)』『色彩の文法(A Grammar of Color)』『マンセル色票集(Munsell Book of Color)』である。
前2者は生前の刊行であるが、後2者は子息アレクサンダー編集による没後の刊行である。

1905年に発表の『色彩の表記』で示された物体色の表記方法が1915年に『マンセル色図表』によって色票化された。
1929年にはさらに充実させた『マンセル色票集』いわゆるマンセルブックを刊行し社会的評価を確立した。
そしてこれをベースに光の体系であるXYZ表色系との互換性が工夫されて1943年に修正マンセルシステムとなり、ここに顕色系の世界標準が生まれたのである。
わが国においても「JIS Z 8721 色の表示方法――3属性による表示」として規格化され、これに準拠した『JIS標準色票』も広く普及している。

マンセルは自らのこのような色彩界への貢献を知ることなく、1918年に生涯を閉じた。
*1
顕色系…物体色を感覚的に順序よく配列し、その配列の秩序に従ってつけた記号で個々の色を表した体系。

マンセルシステムの色空間 p78

マンセルが色を体系的に整理・分類するために考案した色の体系は、マンセルシステムと呼ばれ、現在も国際的に容認された主要なカラーシステムとなっており、教育、環境調査、インテリア、工業、景観条例、薬学、安全色彩など幅広い分野に用いられている。
これは、マンセル没後間もなく、マンセルカラー社がアメリカ国家標準局(NBS)にマンセル色票の測色を依頼して測色学的検討が加えられた結果、1943年に修正マンセルシステムとして発表されたもので、現在通用しているマンセルシステムといえばこの修正マンセルシステムのことをいう。
マンセルの色立体
マンセルの色立体では、円周が色相、中央の垂直軸が明度、中央から同心円上が彩度となる。
色相ごとに最高彩度や最高明度が異なるのでいびつなかたちをしている。
色相環
色相(Hue:略号H)とは色みのことで、マンセルの色相は、R(赤)Y(黄)、G(緑)、B(青)P(紫)の5つを基本色相とし、それぞれの中間色相である黄赤(YR)、黄緑(GY)青緑(BG)、青紫(PB)、赤紫(RP)を加えた10色相とした。
各色相の中央値を5とし、向かい合う色同士は補色の関係にある。
等色相面
色立体を縦に切った断面で、縦軸は明度、横軸は彩度を表す。
この面上にある色はすべて色相が同じになる。
図は色相5PBの等色相面。
5PB 4/10
例えばこの色は
色相5PBの
明度4
彩度10を表す。
明度 (Value・略号V)
明度は明るさを示し、最も明るい白を10最も暗い黒を0として、その間の間隔を数値化している。
彩度 (Chroma・略号C)
彩度は色の鮮やかさの度合いを示し、無彩色を0として色が鮮やかになるほど数値が高くなる。

バランスを重視したマンセルの色彩調和論 p79

マンセルは『色彩の表記』初版で、「心地よいと感じる配色はバランスの結果である」と述べ、色彩調和において「バランス」が最も重要であると論じている。
色の面積比では、強い色(高彩度色)の面積は小さく、灰色がかった弱い色(低彩度色)を大きな面積にすると釣り合う、としている。

しかし、彼はすべての配色を調和配色(真にバランスのとれた状態)にすべきである、とまでは唱えていない。
例えば、「精神的にも肉体的にも長期間にわたってアンバランスな状態が続くと病気になってしまうが、短期間のアンバランスな状態はバランスを回復するという前向きな意味でよい刺激になる。
ある程度のアンバランスな配色は刺激的配色となり、調和配色に変化を与え、全体的なバランスをさらに引き立てることもある」と述べている。

マンセル没後にまとめられた色彩調和論 p79

『色彩の表記』はマンセル没後も再版を重ねロングセラーとなったが、社会的評価の高まりとともに子供の色彩教育から専門的解説へとその内容が変化していった。
編集は子息や関係者によるが、色彩調和論も同様で、初版では原理の説明だけであったものが、やがて計算式が加えられるなどした。
以下は主に没後の解説による。
1|バランスの中心は中間の灰色
色立体におけるバランスの中心点は明度5のグレイ(N5。NはNeutralの略号で無彩色を表す)であり、2色を選定する場合、これを結ぶ直線がこの中心点を通れば調和する。
構成する色をその比率に合わせて回転板にのせて回転したときに明度5のグレイ(N5)になるとき、それらは調和している。

下図はT.M.クレランドが解説した『色彩の文法』(1921年)に掲載されたH.ドライデンによるイラストである。
使用されている色の比率を回転混色させ、左はグレイにならないので不調和であり、右は中明度のグレイになるので調和する、としている。
しかしこの手法に対しては異論も多い。
2|面積によるバランス
色の面積比は明度と彩度の積の逆数とする。
これにより、高明度・高彩度色は小面積となり、低明度・低彩度色は大面積となってバランスがとれる。

より具体的には、
「A色の明度×彩度/B色の明度×彩度=B色の面積/A色の面積」
という計算方法を紹介している。
例えば①B4/6と②YR4/4の補色対では、明度と彩度の値を掛け合わせるとBは4×6=24、YRは4×4=16となるから、面積比は①:②=16:24==2:3がよい、ということになる。
3|リズミカルな色の選定の例
色立体のなかでどのような方向(系列)においても規則的に一定の間隔で選ばれた色は調和する。
以下に『色彩の文法』から主要部分を紹介する。

1.等色相面の調和
①色相と彩度は等しく、明度が異なる場合
②色相と明度は等しく、彩度が異なる場合
③色相は等しく、明度・彩度とも異なる場合
つまり等色相面上の色同士はどの組み合わせも調和することになる。

2.色彩球上の調和
①明度・彩度が等しく色相だけが変化する場合
②彩度が等しく色相と明度が変化する場合
いろいろな色を選ぶことができるという可能性を挙げているが、具体的にどの色を選ぶべきかは示していない。

3.補色色相の調和
①明度も彩度も等しい場合
②明度は等しいが、彩度が異なる場合
③明度も彩度も異なる場合、2色を結ぶ線がN5を通る場合に調和する。

4.スプリット・コンプリメンタリーの調和
スプリット・コンプリメンタリー(分裂補色)とは、ある色とその補色の両隣にある色との3色配色のこと。

5.楕円形の調和
色立体のなかに楕円軌道を通すことによって複雑だが美しいグラデーション配色をつくることができる。

発想は子供の色彩教育のためのシステム p85

マンセルの色彩調和論は、初等教育の生徒に色の仕組みを教えるために彼が考案したシステムに基づいて進められている。
そのシステムとは心理的属性としての色相、明度、彩度の3属性によって組み立てられている。

まとめ|マンセルの色彩調和論の影響 p88

マンセルの色彩調和論について、フェイバービレンは「マンセルの原理によって調和配色なるものには到達できるかもしれない。
ただし不運なことにそれらの配色の多くは、色みを抑制したグレイッシュな組み合わせに帰する傾向がある。
そして現代的な審美観や、輝かしい色彩群への嗜好を反映させることはかなりむずかしい」と、その著書『Color & Human Response』(佐藤邦夫訳)*2で述べている。
また、限定された配色例についてのみ言及しているという批判もある。

しかし、それまでは配色を解説するに際して色名という不確かな言葉で示していた曖昧さに対し、マンセルは色空間における客観的、合理的な色の指定方法を創案し、計量的な分析を可能にしたことで大きな功績を残した。

比例と均衡を重視したマンセルの調和観は、いかにも全体性を重んずる西欧的な考え方を継承しており、この後に登場するムーン&スペンサーの調和論に大きな示唆を与えた。
*2
『ビレン色彩心理学と色彩療法』フェイバービレン著、佐藤邦夫訳〈青娥書房〉2009年より

オストワルトの色彩研究 p91

1905年、オストワルトはアメリカに渡った際A.H.マンセルに会い、アメリカにおける色彩理論や色立体などについて語り合ったという。
しかし当時はまだ彼自身のカラーシステムは実現していなかったので、その後両者はそれぞれ全く異なる色彩体系を完成させることになった。

1914年のヨーロッパ大戦の勃発により、それまで開拓してきた研究分野の継続が困難になったとき、彼は新たに「色彩の研究」を見出した。
この晩年の研究は彼自身「自己の最高の業績」と強調するほど自信に満ちたものになり、その中核をなすのが色彩調和論であった。
彼は物体色の規格表示などで「ドイツ工作連盟」*1に積極的に参加し、その色彩理論はバウハウス*2の若い世代の芸術家たちや建築家たちに大きな啓示を与えた。

1916年に自らが創案した色空間に基づく色彩論『色彩入門』を発表し、その中で「調和は秩序に等しい」と定義した。
1918年の『色彩の調和』に始まる色彩関連著作では、物体色を純色と白色と黒色との混合と規定し、その混合比率に従った色彩秩序を生み出した。
*1
ドイツ工作連盟…1907年ミュンヘンで結成されたドイツの総合的デザイン運動組織。
国家的な規模で手工業の品質向上、工業規格、流通の整備を図ることを目的とした芸術家や実業家の団体。

*2
バウハウス…1919年ドイツのワイマールに建築家グロピウスによって創設された、新しい建築術と建築家の育成を目指す総合造形学校で、近代デザインに大きな影響を与えた。
ヨハネスイッテン、クレー、カンディンスキーなども教員として参加した。

オストワルトの考えた「調和する」色の規則 p93

彼はその著書『色彩入門』のなかで、「ある種の配色が、快適であったり、不快であったり、場合によっては全然何も感じさせなかったりするのはなぜか?」と問い、「ある色と他の色との間に何か規則的な、つまり秩序のある関係が生ずるような色彩群、それが快感を生ずるのである」「調和=秩序という根本原理である」と述べている。

以下に、オストワルトが展開した「調和は秩序に等しい」という色彩論について少し詳しく紹介する。
1|無彩色の調和
無彩色の明度段階において等間隔に選び出した3色以上の組み合わせは調和する。
2|等色相三角形の調和
①等白系列(isotints)の調和p~paに平行する列上の色の組み合わせは調和する。
白色量(色記号の前の文字)が等しい配色となる。
②等黒系列(isotones)の調和a~paに平行する列上の色の組み合わせは調和する。
黒色量(色記号の後の文字)が等しい配色となる。
③等純系列(isochromes)の調和a~pの無彩色軸に平行な縦系列の色の組み合わせは調和する。
純色量と白色量の比が等しい配色となる。
この比を「オストワルト純度」といい、この系列からは自然界の明暗の階調に似た美しさが得られるのでシャドウ・シリーズとも呼ぶ。
これは、レオナルドダヴィンチやレンブラントのキアロスクーロ(明暗法)の素晴らしさに啓発されたものだったともいわれている。
オストワルトは「シャドウシリーズには格別な美しさがあり、そのなかの色には、いわゆる影のなかの陰影の調和が生じる」と述べている。
3|等価値色環(isovalents)の調和
色立体を水平な平面で切断すると白色量、黒色量、純色量がすべて等しく(これを等価値という)色相だけが違う28個の円環が同心円状にあらわれる。
この円環上にある色の組み合わせは調和するが、24色相環上の色相間隔のとり方の違いにより①~③のように分類される。

①類似色の調和:色相差が2、3、4に当たる色の組み合わせ。
②異色の調和:色相差が6、8に当たる色の組み合わせ。
③反対色の調和:色相差12の色(補色)の組み合わせ。
4|補色対菱形の調和
色立体の中心軸(無彩色軸)を含む縦断面は図のように補色対の等色相三角形を合わせた菱形となり、①②の調和が得られる。
①等価値色補色対の調和これは、等価値色環における反対の調和に等しい。
②斜横断補色対の調和一方の色の前の記号がもう一方の後の記号になる。
この組み合わせでは明暗の対比をもつ配色となる。
5|非補色対菱形の調和
補色以外の等色相三角形を2つ合わせて180度に開いた菱形上の調和である。
例として①②がある。
①等価値色非補色対の調和(緑線)等価値色環上の配色である。
②斜横断非補色対の調和(赤線)一方の色の前の記号がもう一方の色の後の記号になる。
この組み合わせでは明暗の対比をもつ配色が得られる。
6|輪星(Ring stars)の調和
多色配色の調和に関するもので、オストワルト色立体の1つの色から等白系列等黒系列、等純系列と3方向に調和系列を選択することができる。
これを水平断面(等価値色環)上の色と組み合わせたものを輪星といい、彼は輪星こそが与えられた色の調和の可能性を最も直感的に表現しているとした。

オストワルトの無彩色段階 p98

無彩色について、彼は、まず反射率100%の「理想的な白」、反射率0%の「理想的な黒」を定義した。
無彩色段階の白と黒の混合比率は「刺激量が等比級数的に変化するとき感覚量は等差級数的に変化する」というウェーバー=フェヒナーの法則に従って配列し、知覚的に等間隔になる数値を用いた(下記の表を参照)。
等比級数の数列から無彩色段階の各反射率を求め、それぞれの無彩色段階をa~pまで、jを除く15段階の記号で表したが、通常は1つおきの8段階の色票で表される。

オストワルトの24色相環の成り立ち p98

色相環の基本にはドイツの生理学者ヘリングの反対色説に基づき、赤、黄、緑、青の4色を選んだ。
この4色は混じりけのない純粋で基本的な色感覚を生じさせ、これらのうち、赤と緑黄と青は同時に知覚されることがないので反対色という。

まず、色相環をこの2組の反対色である赤-緑、黄-青で4等分し、それぞれに中間の色を挿入して8基本色相とした。
さらにこの8色相をそれぞれ3分割して計24色相とし、各基本色相の中央の色をその色名の代表色とする。
色相の表示法は、色相番号(1~24)の場合と、色相略号の前に番号を付す(Redの例:1R、2R、3R)場合とがある。

まとめ|オストワルトの調和論の評価 p100

オストワルトの調和論は、秩序ある色空間から整然とした規則で選ばれた色の組み合わせは美しいという大変明快な理論であり、構成色相互が何らかの共通項をもつ配色調和が得られる。
この原理には、調和には明瞭な序が表現されるべきという古代ギリシア以来の伝統的理念、欧米人の美学のようなものが流れているといえるだろう。

しかし、この調和論に対しては、以下のようないくつかの問題点が指摘されている。

①物体色のなかには色票と色票の間に位置する色や等色相三角形からはみ出す色があり、その色を含む配色については考えることができない。
②純色として選定された色の彩度が一致していないため、等記号で表された色が等価値色に見えない。
③明度について考慮されていないため、色彩調和では重要な要素とされている明度に基づく配色が検討できない。
④色相環の対向位置に物理補色を配置しているため、色相の間隔が等しく見えない。

画家パウル・クレーは、オストワルトが絵画と科学的色彩論を同じ次元で語ることに疑問を呈し、「美でしかないものは味気なさに等しい」とか「明暗調が等価なら調和が生まれるという1つの可能性を、そのまま普遍的な規範にまつりあげてしまう姿勢はわれわれの感情を無視するに等しい」と批判している。

ただし、多くの芸術家がオストワルト理論へ関心をよせており、アメリカの物理学者、色彩学者ディーン・ブルースター・ジャッド(P.130)は欧米のさまざまな色彩調和論の中で最も高く評価されてきた原理は「調和は秩序に等しい」だと述べている。
そして、オストワルトシステムは1955年にドイツ標準局(DIN)の手で改訂され、DIN表色系として受け継がれ、1979年にはスウェーデンで同様なシステムをもつNCS(P.138)が開発されている。

対立する調和論2 オストワルトvsクレー p101

オストワルトは、色彩を科学的な定量化によって秩序づけ、白と黒の混合比から生じる明暗の階調に調和の根拠をおいた。
そして、色彩が調和的に作用しあうとき、色立体内における色同士の位置関係に法則性が存在すると考え、「調和は秩序に等しい」と述べた。

このオストワルトの姿勢を、ドイツ工作連盟の会報(1920年)のなかで、クレーは芸術への越権であると批判した。
クレーは音響学と音楽の関係を例に引き、不協和音のない音を音楽的だと語るのが滑稽であるのと同様に、不協和のない色彩は調和的といえるのかと疑問を呈した。
そして「美でしかないものは味気ない」と述べた。
また、オストワルト色彩論の核心である「明暗の色調が等しければ調和する」との考え方には、調和が生まれる1つの可能性を普遍化することは精神の豊かさを損なうも同じだと反発した。

従来の調和観では、色彩環で直径の両端に位置する補色の対比、円周上での近似といった色相の関係が重視されてきた。
明暗の階調に秩序の大前提を求めたオストワルトは、調和の法則に一石を投じたのであった。
クレーの講義手稿や作品からは、オストワルトを批判しながらも関心をよせていたことが読み取れる。

マンセルシステム上に示した調和の範囲 p103

1944年、彼らはアメリカ光学会の学会誌(JOSA)に、今日ムーン&スペンサーの色彩調和論とされる3つの論文*1を発表した。
そのなかでまず、色の3属性に関して彼らなりの知覚的等歩度性を求め、マンセルシステムに明度軸をやや上下に引き伸ばす独自のひずみをかけた「オメガ空間」という色空間を考案した。
そして、そこにゲーテ以来の伝統的色彩調和の主要原理を幾何学的図式として表現しようと試みた。
実際の色の記述にはマンセルシステムの色表示法を用いている。
*1
1944年にムーンとスペンサーは、第1報「古典的色彩調和の幾何学的形式」、第2報「色彩調和における面積」、第3報「色彩調和に適用される美的尺度」の3つの論文をJOSAに発表した。

まとめ|ムーン&スペンサーの調和論の評価 p109

彼らの論文は経験科学的な態度で色彩調和を定量的に表現する、つまり美しさを数値で評価するという意外性により当時の色彩界に衝撃を与えた。
類似と対比、面積の効果、美度などの先人の調和論に大胆に数字を当てはめて根拠を与えようというものであった。
D.B.ジャッドも、「予備実験の結果は、この労作が準拠した古典的色彩調和の概念を完全に裏づけることにはならなかったが、色彩調和の試験的性質を際立たせるのに役立った。今後の計量的研究を力づけるだろう」*2と高く評価している。

しかし、さまざまな異論もあり、特にアメリカ光学会誌の誌上で述べられたハーバード大学の教授アーサー・ポープによる美学的見地からの批判が有名である。
それは、「複雑な因子が沢山に存在する色彩調和を科学者があまりに単純に割切って考えているきらいがある。たとえば対比を秩序の要素としているが、秩序とは類似性や一様性によって統一をはかることであり、対比は秩序に変化を与えるものだ」*3というものである。
また、面倒な計算を時間をかけて行った上で配色を決めるというやり方は現実的ではないという指摘もある。

日本では1950年代に細野尚志らにより、また、1960年代には納谷嘉信らにより大規模な妥当性の検証が行われたが、実験的研究の結果、ムーン&スペンサーの調和論は、ほとんど否定されてしまった(P.151参照)。
特に東洋や日本の伝統的配色には曖昧の範囲に入るものが多く、異論や疑問が提出されている。
*2
『新編色彩科学ハンドブック〔第3版〕』日本色彩学会編〈東京大学出版会〉2011年より

*3
『色彩の美学』塚田敢著〈紀伊國屋書店〉1978年より

イッテンの色彩と音楽 p111

「色の本質は、変幻きわまりない共鳴者であり、光は音楽を奏でる」*1のように、イッテンはしばしば色彩理論のなかで色彩と音楽との関係に言及している。
イッテンは同時代の音楽家たちと親しい交流をもち、ゲーテの『色彩論』の影響を受けた作曲家ヨーゼフマティアス・ハウアー(1883-1959年)とは色彩と音楽の類似性をテーマに共同研究を行った。
イッテンの絵画とハウアーの楽曲に通底する要素を探り、色と音との結びつきを論理的に捉えようとしたのだった。
2人は互いに影響しあったことから、イッテンの12色相環と配色類型がハウアーの考案した12音展開図に近似しているとの指摘がある。
*1~4
『ヨハネス・イッテン色彩論』ヨハネスイッテン著、大智浩訳〈美術出版社〉1971年より

イッテン色彩学への入口――色相環 p112

イッテンは色材の混色に基づく12色相環を提案している。
その成り立ちをたどると、まず偏りのない純粋なイエロー、レッド、ブルーの三原色を1次色として正三角形に配置する。
このとき、頂点にはイエロー、右下にはレッド、左下にはブルーがくる。
次に2次色のオレンジ、バイオレット、グリーンを外側の3辺に配置し、計6色による正六角形とする。
この6色それぞれを混色することで3次色を得て、合計12色相が生まれる。
これを外周に円形で組み立ててイッテンの12色相環が完成する。

色相の数については、「100色の色環の第83番目を、何の助けも借りないで思いおこせる人がはたしているであろうか?」*2と述べ、正確に思い浮かべられる12色相で十分と考えた。
色彩の名称が正確な色彩概念と一致しなければ色彩を議論することは不可能であるとして、「われわれは、音楽家が12の音階を聞きわけるように、12色の色調を正確に見分けなければならない」とも述べている。

[イッテンの考えた「調和する」色の規則1] 色彩の和音――響きあうハーモニー p113

イッテンは、色彩調和の意味を「色彩構成の土台として役だちうる体系的な色彩関係から主題を発展させる技術」*4と捉えていた。
色相環や色立体から色を幾何学的に選択することで、整合性の高い調和配色が得られると考えたのである。
その分類を挙げる際、音楽との類推により、12色相環上から選んだ2色、3色、4色もしくはそれ以上の色数による組み合わせは響きあってハーモニーを奏でるとし、これを「色彩の和音」と呼んだ。
1|2色配色――ダイアード(dyads)
色相環の直径の両端にあたる補色関係の2色は調和する。
同様に、色立体において中心を中点に対向位置となる色同士を組み合わせることで、調和のとれた2色が無限に得られるとした。
2|3色配色――トライアド(triads)
色相環に内接する正三角形の各頂点に位置する3色は調和する。
また、調和する2色配色(ダイアード)のうちの1色をその両隣の色におき換えた3色つまり12色相環に内接する二等辺三角形の各頂点に位置する3色も調和的な性質をもつとした。

色立体の内部に接する正三角形と二等辺三角形がそのなかで自由に回転するとき、球の中心とこれらの三角形の各辺の垂直二等分線の交点が一致する場合、各頂点が示す3色は調和する。
頂点の1つが白か黒の場合は、明暗対比が目立った役割を演じる配色となる。
3|4色配色――テトラード(tetrads)
色相環に内接する正方形や2対の補色による長方形、台形の各頂点に位置する4色は調和する。
色立体の中心を通って形成される正方形や長方形が球体内を旋回する場合も、各頂点の4色は調和する。
4|6色配色――ヘクサード(hexads)
色相環に内接する正六角形の各頂点に位置する6色は調和する。
この正六角形の重心(対角線交点)が色立体の中心にあり、その内部で回転しても6色配色をつくるが、その結果生じる明色と暗色は興味深い配色を生む。
また、白と黒を4色の純色と結びつける方法でも6色配色が得られる。
色立体で純色がめぐる赤道に内接する正方形の各頂点と白、黒を結ぶと球体に内接する正八面体となるが、この各頂点の6色は調和する。
このとき、正方形の代わりに長方形を用いてもよい。
4|5色配色――ペンタード(pentads)
同様に、色立体の赤道に内接する正三角形の各頂点と白、黒を結ぶと、球体に内接する正六面体となるが、この各頂点の5色は調和する。

[イッテンの考えた「調和する」色の規則2] 色彩の対比効果と色彩調和 p116

「人間は感覚器官の助けを借りて、現象界を認識する。
眼前にある具体的な形態が知覚認識されるとき、それは必ず感覚器官という門を通る。
そして感覚のはたらきは、コントラスト効果の法則と結び付いている。
つまり、われわれが明るさを見るのは暗さが対置されているからであり、大きいと感じるのは小ささとのコントラストによってなのだ。[……]
形態と色彩の領域ではこの事実は大きな意味をもっている」*5。
イッテンはこのように述べ、対象の比較によって作用する眼の働きに着目し、色彩の7つの対比効果を挙げた。
これらは独自の性質と芸術的な価値をもち、視覚的な面でも、表現や象の面でも特異な効果がある。
イッテンはデザインに役立つと考え、その配色や混色の例を引いているが、ここにも色彩調和の考えが垣間見える。
1|色相対比
7つのうち最も単純な対比で、明瞭に区分された3つ以上の色相による組み合わせ。
力強く明快な効果があり、イエロー/レッド/ブルーは最も強烈な表現となる。
配色に用いられる色がこの3色から遠ざかるほど対比の効果は弱まる。
2|明暗対比
白・グレイ・黒や各色相の明度変化によってつくり出される効果。
イッテンは、造形の基礎的な技術のなかで、表現力を豊かにする最も重要な技法の1つに明暗対比を挙げている。
3|寒暖対比
寒暖感に着目した色の組み合わせから得られる効果で、レッド・オレンジ/ブルー・グリーンの2色はその両極をなす。
寒暖対比は遠近を暗示する要素を含み、また、高度に絵画的な効果や音楽的で非現実的な雰囲気を生む。
4|補色対比
2色を混色したとき、色料の場合は灰黒色色光の場合は白となる関係が補色であり、ある色に対する補色は常に1色である。
また、ある色を見たとき、眼が均衡を保とうとして生じさせる色も補色となる。
補色同士を隣接させると引き立て合って最高の効果を発揮するが、混合すると相殺して無彩色となる。
イッテンは補色関係を重視し、次に挙げる同時対比同様、色彩調和の基盤と考えていた。
5|同時対比
ある色を知覚するとき、眼が同時にその補色を求めることから生じる効果で、イッテンはこれを色彩調和の基本原則が補色にあることの証明だと考えた。
この対比はどのような2色の間でも起こり、相手の色を自らの補色へ引きよせようと作用する。
色の見え方から安定性が失われるため、非実在的な効果が生じる。
6|彩度対比
色の純度に着目した対比で、鮮やかな色と鈍い色との組み合わせで生じる。
彩度を弱めるには、純色に①白、②黒、③グレイ、④対応する補色、のいずれかを混ぜる方法があり、それぞれ効果が異なる。
7|面積対比
イッテンは色同士の力のバランスがとれた状態を調和とみなし、ゲーテの影響か視覚の生理的な均衡にその原則を求めた。
純色同士では明度比の逆数を色面の面積比に適用すれば調和が得られるとして、ゲーテがつくったという明度比に準じて面積比を割り出している。
ゲーテの明度比は次の通りである。
イエローオレンジレッドバイオレットブルーグリーン
986346
イエロー:バイオレットの明度比 9:3=3:1
イエローはバイオレットの3倍明るいため、バイオレットの1/3の面積を用いれば調和する。
オレンジ:ブルーの明度 8:4=2:1
オレンジはブルーの2倍明るいため、ブルーの1/2の面積を用いれば調和する。
レッド:グリーンの明度比 6:6=1:1
レッドとグリーンは同程度の明るさであるため、同じ面積で調和する。
*5
『ヨハネス・イッテン造形芸術への道』ドロレス・デナーロ・向井周太郎・石川潤・山野英嗣・山野てるひ著、石川潤・西村美絵子山野英嗣訳〈京都国立近代美術館〉2003年より

ii/II ビレンの色彩調和論 p120

「美しい色とは“よく売れる”色のことだ」
「社会を助け、商品を売る」
色彩コンサルタントの先駆者

色彩調節の権威者 p121

ビレンは、アメリカにおける色彩調節の第一人者であった。
色彩調節とは、色彩の生理的・心理的効果を積極的に活用し、建物や室内に合理的な彩色をすることにより、安全で効率的な作業環境や快適な生活環境をつくり出すことをいう。
もとはデュポン社の登録名称の「color conditioning」の訳語で、他にも同様な意味で「color dynamics」、「color control」などがあるが、日本では「色彩調節」が標準的な用語となっている。

この色彩調節の始まりは、1920年代半ばにニューヨークの病院のある外科医が、手術中、手術室の白い壁に青緑の幻を見るという苦痛を訴えたことによる。
調査の結果、それは医師が長時間血の赤を凝視した後、壁に目を転じたときに生じる陰性残像*1であることがわかった。
そこで壁の白を淡い青緑に変えたところ、その障害は消え、医師の疲労は軽減されたことから、それ以降、手術室の壁や医師の手術着の多くは青緑が採用された。

また、第二次世界大戦中のアメリカの軍需工場でも、ビレンの色彩調節の研究が活用された。
婦女子などの未熟練工に対し、危険な箇所を黄赤で明示し、立ち入りの自由な範囲を白線で区切り、文字盤やハンドルを見やすい色彩にすることにより、事故や災害を減少させ、生産性の向上、不良品の減少などの成果を上げた。
また、色彩調和を感じさせる快い配色により、出勤率の上昇、勤労意欲の高揚などの効果を上げた。

そして、戦後はカラリストと呼ばれる専門家が登場し、その技術を工場、病院、学校、商店などの建築物に対して応用した。
やがて、1950年代にはこのような活動が日本にも及ぶようになった。
*1
陰性残像…視野から色の刺激を取り除いた後、その刺激と反対の性質の色の像が感覚に残る現象。
補色残像の観察などで知ることができる。
負の残像ともいう。

ビレンの考えた「調和する」色の規則 p122

1|色相環による調和
色相環については、オストワルトがエヴァルト・ヘリングの心理四原色から発展させた24色相を使ったのに対し、ビレンはヨハネス・イッテンと同様色料の三原色の1次色(赤・黄・青)、その混色の2次色(オレンジ、緑、紫)、さら3次色を加えた12色の色相環とし、これを用いて次の①から④の色彩調和の形式を提示している。

①隣接色相の調和(the harmony of adjacents)
色相環の隣にある色同士の配色の調和。

②対照(補色)色相の調和(the harmony of opposites)
色相環の対向位置にある色(補色)同士の配色。
補色同士を並置すると、お互いの残像色の影響でより色の強さが高まる効果がある。

③分裂補色の調和(the harmony of split-complements)
ある色とその補色の両隣にある色との3色配色を分裂補色という。
この配色は単なる補色色相配色よりも変化と美しさがある。

④三角配色(トライアド)の調和(the harmony of triads)
色相環を3分割する位置にある色同士の配色である。
1次色同士、2次色同士、3次色同士などが選択される。
2|カラー・トライアングルによる調和
ビレンの等色相面は、オストワルトの等色相三角形のように、純色(color)・白(white)・黒(black)を頂点においている。
これらからつくられる灰色(gray)、明清色(tint)、暗清色(shade)、濁色(tone)と合わせて7つの色領域に分け、カラー・トライアングルと命名した。
純色とは各色相で最も鮮やかな色で、明清色とは純色に白を混ぜてできる澄んだ感じの色系列、暗清色は純色に黒を混ぜできる澄んだ感じの色系列である。
濁色は、純色に灰色(白と黒)を混ぜてできる濁った感じの色域である。
ビレンは濁色領域を英語のtoneで表すが、日本で一般に使われているトーンとは意味が異なることに注意が必要である(P.235)。

①白・灰色・黒の調和
無彩色の調和。

②純色・明清色・白の調和
カラー・トライアングルのなかで最も淡白かつ最も魅力的な配色といえる。
印象派や新印象派の画家たちはこの配色を好んで用いた。

③純色・暗清色・黒の調和
この配色には白やパステルカラーは使われておらず、色に深みがあり豊かさがある。
レンブラントのような巨匠たちがこの配色を用い、ハイライトに白や淡いゴールドを加えている。

④明清色・濁色・暗色の調和
この配色はレオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ、多くの画家たちが採用した「キアロスクーロ(明暗法)」に他ならない。
オストワルトの等純系列(シャドウ・シリーズ、P.94)に相当する。

⑤明清色濁色・黒(灰色)の調和
色彩空間は純色と白と黒から成り立っているが、純色の反対側(対照)は白や黒ではなく灰色である。
イギリスのターナーはこの配色を使い、光を浴びて美しく輝く幻想的な世界を描いている。

⑥暗清色濁色白の調和
明清色・濁色・黒(灰色)とはちょうど対照的な位置の配色となり、見慣れない配色効果が得られる。
スペインのエル・グレコが用いた配色。
彼は宗教画を多く描いたが、その人物像は引き伸ばされていて、色使いとあわせて独特の世界を演出している。

⑦純色・白・黒の調和
3つの基本的な要素である純色・白・黒の配色は調和感があり、特に純色として色相が赤、黄、青、オレンジ(橙)、緑、紫のような1次色、2次色を使うとダイナミックな表現となる。

⑧明清色・暗清色・濁色・灰色の調和
この配色は明清色、暗清色、濁色そして灰色による調和的な配色となり、より洗練され、落ち着いた雰囲気となる。
3|寒暖感によるまとまりの調和
色相を暖色系と寒色系とに分ける一般の分類とは別に、彼は各色相のなかにも暖かく感じる色と冷たく感じる色があると主張し、前者をウォーム・シェイド、後者をクール・シェイドと名づけた。
オレンジと青を両極として、どの色相においてもオレンジの方によった色相は暖かく感じ、青によった色相は冷たく感じる。
したがって、黄みの赤、赤みの黄、黄みの緑、紫みの青、赤みの紫はそれぞれの中心色相よりも暖かみがあり、反対に紫みの赤、緑み黄、青みの緑緑みの青、青みの紫は冷たさがある。
このように、イメージで共通性をもつ色同士の組み合わせはまとまり感をもつとしている。
このようなイメージの共通性でまとめる配色手法は、現在ではファッション関連や商品デザインなどの分野で広く応用されている。

ジャッドがまとめた「調和する」色の「4つの原理」 p131

色彩調和は複雑な要素が絡みあって成り立つ。
そのため、多くの研究者や芸術家が明らかにしようと試みてきたその原理には、共通する考え方も矛盾する考え方も混在する。
ジャッドは、カラーハーモニーの原理に関する多数の文献を熟読し、どの流派にも偏ることのない公平な視点を保ちながら、共通する色彩調和の原理を導き出そうと試みた。
そして大きく、次の4つに集約した。
1|原理I「秩序の原理」(principle of order)
「等間隔に目盛りをつけた色空間から、規則的に選ばれた色同士は調和する」。
秩序の原理では「カラーハーモニーは、認知でき、情緒的にもすぐにその秩序が理解できる、秩序立ったプランに従って選ばれた色の併置によってもたらされる」というオストワルトの見解が最初に紹介されている。
「秩序立ったプランに従って選ばれた色」とは、色立体のなかの直線や曲線、円、楕円などからある規則に従って選ばれた色を意味している。
例えば、オストワルトシステムの等価値色系列や等黒系列、等白系列、等純系列、また、マンセルシステムの色相環等色相面などから規則的に一定の間隔で色を選ぶとき、これらは秩序の原理に従った配色となる。

ジャッドは、「調和は秩序に等しい」という基本的な考え方は、欧米の色彩調和論において最も高く評価されてきたと述べている。
2|原理II「なじみの原理」(principle of familiarity)
「2つの同様な色の連鎖の中では、観測者にとって最もなじみのあるものが、最も調和的であろう。
言い換えれば、われわれは慣れ親しんだものを好む」。
この原理についてジャッドは、自然を色彩調和の真の指標とするかなり有力な学派がある、と述べている。
その学派とは、ベツォルト、ブリュッケ、ルードなどであり、彼らのカラーハーモニーの考え方に沿った原理である。

ジャッドは、オストワルトシステムの等純系列または等価値色系列から選ばれた色の組み合わせを、重要な意味をもつ組み合わせとして取り上げ、次のように説明した。
等純系列(シャドウ系列、P.94)から色を選ぶ場合、「任意のシャドウ系列から二つまたは三つの色を取り出して組み合わせると、それらは単に調和した色であるばかりでなく、非常に好かれる組み合わせでもある。というのは、われわれは終始そうした色の組み合わせを見ているからである」*2。
また、等価値色系列の組み合わせは、「第一に、この色相系列中の各成員は決して他の成員たる色を、対比によって損なう(灰色みがからせる)ことがない。
そして第二に、各色の明度は色相が変わるにつれて、いわゆる自然の序列に応じて変化する。
すなわち黄色はもっとも明るく、紫み*3の青がもっとも暗く、赤および緑は中間である」。
3|原理III「類似性の原理」(principle of similarity)
「共通の側面または特質をもっている色の集団は、その共通性の範囲内で調和する」。
この原理の筆頭に挙げられるのは、同一色相による調和である。
同一色相は共通性が知覚されやすく、配色の意図が容易に理解されるため共感を得やすいからである。
ジャッドは「色立体における等色相面は色彩調和に優れているということになる。
また、彩度が同じとなる色立体の同心円上の色同士、等明度面上の色同士も共通な性質があり調和する」と説明している。
鮮やかさや明暗のコントラストが減少する「水に映った木々や建物」、橙色が主調色となる「夕日に染められた風景」はこの原理に当てはまる。

そして、調和を生むわかりやすい方法として次の例を挙げている。
「もし、2つの塗料の色が不調和と感じられる場合、それぞれの色を少しずつ他の色に入れればよい。
それによって2つの色の差異が減少して、かなりの共通性があると感じられるならば、それらはもはや不調和には見えない」。
ただし類似性の原理は、やり過ぎるとその結果は単調さをもたらす、とも述べている。
4|原理IV「明瞭性の原理」(principle of unambiguity)
「カラーハーモニーは、その選択プランに曖昧さがなく明確である色の配合によってのみ達成できる」。
これは「選択プランが認知され、情緒的にもすぐにその秩序が理解される」という秩序の原理から導かれる原理である。
「曖昧さ」についてジャッドは、「色相の差が少なすぎて色の選択プランが認識しにくい場合、その配色がデザインの誤りであるかのような印象を受けることがある」
「黄色や橙色の紙に黒いインキで印刷する場合、インキが黒に見えている間はよい調和となる。
しかし、デザインを2、3秒見つめた後では、黒インキは黄色の補色が影響して青みがかって見える。
このような配色は、その曖昧さのために美しく見えない」などの例を挙げて解説している。

アメリカ光学会(OSA)ではこの原理に敬意を表し、機関誌の黄表紙に黒インキの代わりに茶色インキを使用した。
茶色インキは、ほとんど黒に見えるが決して青みがかって見えることはない。
そのため、色相は一定となり快い効果を生む配色となる。
*1
『産業とビジネスのための応用色彩学』D.B.ジャッド・G.ヴィスツェッキ著、本明寛監訳(ダイヤモンド社)1964年より

*2~3
『カラーハーモニー』福田邦夫著〈青娥書房〉2011年より

カラーハーモニーの専門家の見解が互いに矛盾する理由 p134

ジャッドは、専門家の見解が互いに矛盾する理由について、5つの視点から説明している。
最初に、「色彩調和は、好き嫌いの問題であり、情緒反応は、人によって異なり、また、同一人でもときによって異なる、われわれは、古い配合にあきて、どんな変化でも好ましく思うことがよくある。
また一方、もともとは無関心であった色配合をたびたび見ているうちに、好ましく思うこともある」*4と述べ、続いて次の4つを挙げた。
色彩調和は「それを見る距離や面積比によって左右される」「領域の相対的な大きさによって左右される」「デザインの諸要素のかたちに左右される」「デザインの意味や解釈によって左右される」。

色彩調和が距離や面積比に左右されることについてジャッドは、「美しいデザインのモザイクのパターンを10倍に拡大してみれば、けばけばしい、不快な効果を生み出すのが普通である。
個々の色は、彩度が高く、大いに異なって知覚される」*5と述べている。
また、領域の相対的な大きさによる影響については、次のような説明を加えた。
「鮮明な赤の背景のなかの小さな灰みの赤の斑点は、不快な効果を生む。
最初に見たときは、それは灰みの赤または灰色に見えるが、2、3秒後には、デザインのどの部分を最後に見たかによって、対比によって灰色、または、灰みの青緑に見える。
しかし、デザインの2つの色を入れ替えて、灰みの赤の背景のなかに、鮮明な赤の斑点を見るならば、色彩効果ははるかに快い。
その中心斑点は常に鮮やかな赤と知覚される」

配色の評価を左右する要因としては、その他にも材質、光沢、透明度、周囲の色、照明の条件、さらには地域や文化の違い、時代背景など、さまざまな要素が考えられる。
そのため、デザインにおける配色の統計的処理に複雑なデザインやさまざまに解釈される表現を試料とすることは困難であり、カラーハーモニーに関する研究には制約と限界があることが前提となる。
これについてジャッドは、「これらの原理は科学的に証明されてはいない。それは単に、色の快い配合を選ぶための最善の指標であり、これまでになされてきた試行錯誤の不完全な記録と部分的研究から生まれてきたものである」と述べている。
*4~6
『産業とビジネスのための応用色彩学』D.B.ジャッド・G.ヴィスツェッキー著、本明寛監訳〈ダイヤモンド社〉1964年より

NCSの構成 p138

NCSは、現象学的心理生理学者エヴァルト・ヘリング(1834-1918年:ドイツ)が提唱する色知覚の理論をもとにスウェーデンで開発され、1979年にスウェーデン規格協会(SIS:Swedish Standard Institute)による国家の工業規格として採用された色彩体系である。
この体系は、測光量や測色値に基づく物体からの反射光の表記ではなく、色がどのように見えるかといった人間の知覚量の記述を目的としている。
そのため、照明光などの観察条件にかかわらずすべての知覚色を表すことができ、その表記からどんな色かを容易に思い描くことができる。

ヘリングは、レオナルド・ダ・ヴィンチが「主要な色」として言及した6色と同じ、赤、緑、黄、青、白、黒を原色と考え、これらの6つの色感覚の合成によってすべての色知覚が生まれると説明した。
その理論は、感覚体験に基づく心理的、生理的な現象としての色彩を重視し、色と色との対立関係に注目したゲーテの色彩論の伝統に従っており、色覚が成立する物理的条件を問題とするニュートンやヘルムホルツ(1821-94)とは全く異なる立場である。

まとめ|色彩の新しい技術と応用の始まり p136

ジャッドは、「色彩調和は非常に複雑な問題である。
しかし、産業のある部分にとっては、色彩計画の全真理よりも、色彩調和の半分の真理の方がおそらくいっそう興味があろう。
というのは、色彩調和は、他の色彩管理のすべてよりも、商品が売れるかどうかに関係があることがしばしばあるからである」*6と述べている。
この時代に、色が商業的価値と関連づけて考えられるようになったことは、F.ビレンが、「美しい色とはよく売れる色のことだ」と定義したことからも見てとることができる。

『産業とビジネスのための応用色彩学』においてジャッドがまとめたカラーハーモニーの「4つの原理」は、多くの人が共感できる視点が示されていてわかりやすい。
また、マンセルシステムやオストワルトシステムなどの色立体と関連づけて説明されているため、科学的な視点からも説得力がある。
この著書は、色彩の技術と応用に関する手引きであり、アメリカから始まった色彩をめぐる新しい流れの象徴ともいえる。
そのなかに言及されたカラーハーモニーに関する1節は、ジャッドが残した重要な功績の1つである。

西洋の調和観と日本の調和観 p137

色彩の組み合わせには調和するものと調和しないものがあるということを、多くの人は経験的に知っている。
そこに何らかの普遍的法則を見出そうと、古代ギリシア時代から西洋ではさまざまな色彩調和論が提唱されている。
第二次世界大戦後、それらの諸原理は日本にも伝わったが、日本人対象の検証ではそのほとんどが否定された。
この結果は西洋文化と日本文化との本質的な相違から生じたと考えられている。
西洋文化を育んだ土台とは何かを考えるなら、ギリシア文明とキリスト教に代表される一神教の影響が大きいだろう。
ギリシアの賢人たちは物事の本質を追究し、観察と分析を試みた。
遊牧民である彼らは自然の脅威と戦い、理性を絶対視し、自然の制御にも挑んだ。
その結果彼らは個々の色を見極め、その色の本質が際立つように調和は反対色の選択から始め、そして、「調和は秩序である」という原理を最も高く評価し、明瞭な秩序を求め、曖昧な配色は不調和と考えたのだ。
これに対して日本文化を育んだ要因は、温暖湿潤な気候と外来勢力に侵略されることなく固有の文化が継続したことにあろう。
古来の稲作農耕は共同作業を必要としたことから強固な共生感が生まれた。
その結果、平安時代のかさねの色目のように四季折々の微妙な変化を反映しまた独自の色使いが発達し、移りゆく自然を崇拝する心が、曖昧や変化、消えゆくものに美を感じる感性を培った。
それが類似や対比の調和だけでなく、西洋では曖昧として否定される配色にも美を見出すことになったといえる。

視覚言語の文法としての配色理論 p139

NCSの配色理論は、色の選び方が正しいか間違っているか、美しいか醜いかについての法則や秘訣などを提供すべきではないという考え方を前提としている。
「視覚言語」としての色が複数並ぶとき、その構成を説明する「文法」の役割を果たすのがNCSの配色理論である。
個々の知覚色を整理し、色と色の位置関係を示し、色の組み合わせを数種類のカテゴリーに分類するその理論は、配色調和に関する指針を与え、さまざまな分野のコミュニケーションの促進にも役立てることができる。
また、色や配色に関する知覚や評価などの科学的研究の参考にもなる。

戦後に伝わってきた戦勝国の色彩調和論 p151

第二次世界大戦が重大な局面を迎えていた1943(昭和18)年、アメリカ光学(OSA)から修正マンセルシステムが報告されている。
その翌年にはムーン&スペンサーのカラーハーモニーの3つの研究論文がアメリカ光学会誌に発表されている。
連日のように日本本土爆撃が始まり、日本民族存亡の危機にあったこの時期に、アメリカではカラーハーモニーの研究が発表され論争が行われていたこの事実を、戦後知った日本人研究者の驚きと衝撃は大きかったという。
彼らの論文は、当時日本人研究者の間で評判になり、カラーハーモニーという主題に対する注目も集まった。

欧米との違いを示す日本の実験的研究 p151

ムーン&スペンサーの論文に対して、この原理が日本人にも通用するかどうか試してみる実験的研究が2つ行われた。
1つは、1954(昭和29)年から1958(昭和33)年にかけての、細野尚志を中心とする日本色彩研究所の研究である。
被験者群は、美術家など色彩調和という評価があることを知っている人々から選び、その数はアメリカのものよりはるかに多かった。
しかし結果は、期待されたほどの一致がみられなかった上、ムーン&スペンサーがよりどころとした欧米の古典的原理ともあまり合致しなかった。
色相差による調和では、どの色相を起点とするか、色相環の右回りか左回りかでも調和判定に違いが出た。
そして、第2の曖昧に属する中差色相でも、基点となる色相によっては多くの調和配色が得られるという結果となった。
わずかに明度差が大きい配色は調和と判断されやすいという、明瞭性の原理の一部だけが日本人にも当てはまることが確認された。

もう1つは、1965(昭和40)年から1970(昭和45)年にかけての、納谷嘉信ら電気試験所を中心としたグループによる調和研究である。
これは前例がないほど緻密に計画され、詳細な分析が行われた。
まず、2色配色の見本を2点1組にして被験者に提示し、どちらの調和程度がよいかを5段階で判定求めた。
見本は102組、延べ被験者数207名、判断回数は1万302回に上る。
得られたデータから複雑な方程式を経て調和判断の回帰式がつくられた。
さらに、彼らは3色配色についても精密な手続きによって実験と分析を行い、構成色の3属性の値および色空間内での距離から人々の調和感を予測する式を作成した。

しかし、どちらの調査でも日本人の調和感との比較はほとんど無相関であった。
色相差、明度差、彩度差ごとの調和傾向を調べても、わずかに明度差の増加とともに評価値が増加する傾向がみられた程度であった。
この2つの実験的研究の結論として、ムーン&スペンサーの色彩調和論は少なくとも一般の日本人の色彩調和の判断には全く当てはめられないことが実証された。

日本独自の色彩体系PCCS p152

前述の細野尚志が始めた実証的な研究と、その後連続して行われた色体系の構成に関する諸研究から日本独自の色彩体系が生まれた。
1964(昭和39)年に日本色彩研究所が発表したPCCS(日本色研配色体系)である。
当研究所は1951(昭和26)年にマンセルシステムを基本としたわが国初の総合標準色票『色の標準』を刊行しているが、PCCSはその構成を基礎にしている。

PCCSは色相・明度・彩度の3属性をもつが、明度と彩度を合わせた概念であるトーン(色の調子)を導入している。
色相は心理四原色とそれらの心理補色に、色光の三原色と色料の三原色を加え、各色相の間隔がなるべく等しく見えるように他の色を配置し合計24色相で構成されている。
オストワルトシステムと同じ24という数には約数がたくさんあり、秩序の原理に従った配色を選びやすい。
明度の知覚的等歩度性は修正マンセルValueを基準としている。
彩度は顔料で実現できる最もさえた色を純色(9s)とし、感覚的には等しい強さと純粋さをもつとみなして尺度化している。
トーンの配列はホワイト、ブラックおよびビビッドトーンを頂点とする三角形になっており、オストワルト系の考え方が取り入れられている(PCCSの詳細についてはp.232参照)。

結果としてあらわれたPCCSの色立体は、中心に無彩色軸をもち、純色の明度はマンセルシステムのように色相によって異なるが、純色の彩度はオストワルトシステムのようにどの色をとっても一定という、マンセルとオストワルトの折衷案的外観を呈している。

色彩調和の問題を検討しやすいシステム p153

PCCSは、Practical(実用性)+Co-ordinate(コーディネート)という名称にあらわれているように、高い実用性を目指して開発された。
色相とトーンを用いて配色タイプの分類をし、色彩調和の問題を検討するには大変便利なシステムである。
この点を開発の中心となった細野は、「3属性より2属性の方が扱いやすい。色相とトーンなら類似性と対照性を選びやすい。色数もあまり多くならない。その方が配色を考えやすいし、配色調和の教育にも適している」という主旨を述べていたという。

PCCSそのものには、配色の調和域、不調和域という分類はないが、配色調和に関して先人たちが記述してきた原理を系統的に把握しやすく、配色分類や類型別の特徴または配色の技法について使いやすいシステムになっている。
実用的なカラーチャートやカラーカードの市販もあり、配色、調和を考える上で使いやすい色体系として、日本では色彩教育やカラーデザインのツールとして大いに活用されている。

色彩調和論の今後の課題 p154

配色の美しさは、古今東西にわたり多くの人々の普遍的関心事であったが、欧米で発展してきた色彩調和論は、調和する色の組み合わせの探究の歴史であった。
しかし、近年ではどのような配色であっても、目的に応じてそのイメージを活用していこうとする考え方が浸透しているように思われる。
PCCSによる配色形式もこの傾向を反映したものであり、全色域を系統的に組み合わせ、それぞれの形式の特徴についてイメージや配色技法の観点から、その全貌を把握しようとするものである。

1973(昭和48)年に日本色彩研究所で行われた研究では、色彩調和は配色を構成するそれぞれの色に対する好き嫌いのような感情的評価に依存するという仮説の実験が行われ、ある程度の相関が認められた。
その後も色彩調和の課題は配色の形式にあるのではなく、人間の感情評価の問題ではないか、という実験的研究が多く行われるようになっている。

また、研究のなかには面積効果について触れているものもあるが、ほとんどは単純な2色配色か3色配色についての研究である。
実際のデザインや絵画では、配色数だけでなく、大きさ、形、配置、材料、あるいは機能、用途など、さまざまな要素が複雑に絡まりあっており、今後の多次元的な解析の発展が望まれる。

「個性美」の美学 p160

当時、政府の機関であったアカデミーは、万人に共通する唯一絶対の美「理想美」をキャンバスの上に実現すべきであるという新古典主義の立場をとっていた。
これに対し、ドラクロワは、「万人にはなくて自己にのみ秘められているものを追求し、発掘することが、芸術の目的」*4とする「個性美」を主張した。
優れた文筆家でもあった彼は、雑誌の論文や日記書簡のなかで繰り返しこの考えを説き、その結果、激しい非難や攻撃を受けることとなった。
19世紀前半において、アングルと並ぶ巨匠であったドラクロワが、アカデミーへの入会を許されたのは死のわずか5年前であった。

その後、芸術活動の流れは、「個性美」の世界に傾いていった。
ドラクロワの考えは、詩人のボードレールに受け継がれ、近代芸術の出発点となった。
そして、彼が追求し続けた「色彩」は、モネ、スーラ、シニャック、ゴッホ、セザンヌなど、印象派、新印象派、後期印象派などの画家たちの彩色の美学の指針となった。
*4
『名画を見る眼』高階秀爾著〈岩波書店〉1969年より

ゲーテの『色彩論』への書き込み p165

1840年、イギリスでゲーテ著『色彩論』の英訳版が出版された。
画家の手引書として紹介され、ニュートンへの批判色が薄い内容だった。
ターナーは、ゲーテの所説について不適切と感じた箇所には、その余白に疑問や批判を書き込んでいる。
例えば、高昇や混合、呼び求めあいといった色の変化や消失においてどの過程が最も持続するのかと問い、黄と青が赤へと高昇するくだりでは黄と青のどちらがより早く赤みを帯びるのか疑問をもった。
ゲーテの「もし眼が太陽のようでなかったら、われわれはどうやって光を理解できるだろうか」との言葉には「眼が太陽のようであったならば、われわれは闇を知ることはできないだろう」と反発した。
光は闇から創造され、光と闇は等しく色彩の生成に関わるとの考えから、闇を肯定的に捉えていたためである。
ゲーテが光と闇を対立関係と考えて「光と光ならざるもの」といいかえ、闇を光の不在と特徴づけたことを、ターナーは影やシェイド(陰)について何もわかっていないと断じた。
そして、ゲーテの理論を「そう、これは真実を射ている。しかし、鳥に翼をつけるほどではない」と総括した。

一方、黄は光に近い色で明朗快活、心地よい魅惑的な特性をもつとの記述に、黄を好んで使ったターナーは喜んだという。
そして、ゲーテの理論のなかでターナーが最も強く共感したのは、分極性の考えだった。
黄と青、能動と受動、光と影などプラスとマイナスの対立項を支持し、余白には「光とシェイド」とだけ記している。
旧約聖書の大洪水を主題にした《影と闇―─洪水の日の夕べ》(1843年)と《光と色彩(ゲーテの理論)――洪水の翌朝》(1843年)は、前者がゲーテのいうマイナスの色、後者がプラスの色を中心に描かれており、ゲーテの理論を解明しようとした姿勢がうかがわれる。

「太陽は神である」ターナーの愛した色 p167

ゴッホの黄と青の対比、ピカソの青の時代とバラ色の時代、藤田嗣治の乳白色の肌など、絵画を見ていると、画家たちの色に対する思い入れや深い愛着が伝わってくることがある。

まばゆい陽光の輝き、暮れなずむ夕日の残照、水面を乱舞する反射光のきらめきさまざまな光の様態を表現するために、ターナーは黄系の絵具を好んで用いた。
その極端な使用を揶揄され、黄色の絵具を入れたバケツとモップとともにキャンバスへ向かう姿を風刺画に描かれたこともある。
黄を光の象徴としたターナーが、息を引き取る前に残した言葉は、「太陽は神である」だったという。

スーラの盟友シニャックの果たした役割 p179

スーラは穏やかな人柄で常に寡黙であった。
しかも独自の表現手法を他人に明かそうとしなかったと伝えられ、早世で去ったことから作品以外で残された記録は多くない。

だが幸い、スーラの信奉者で後継者となる画家ポール・シニャック(1863-1935年)が詳細な記録と解説を残し、既述のような美的原理と手法とが今日では明らかにされている。
彼はスーラの4歳年少、保守派に対抗するアンデパンダン(独立美術家)協会結成に際して1884年にスーラと知り合い、師と仰いで隣の家に移り住んで誠実に尽くした。
彼はスーラとは対照的で陽気な話し好き、もともとカレッジで数学を専攻したこともあって理論派であった。
彼の傑作《尺度と角度、トーンと色相のリズミカルな地のエマイユ上のフェリックス・フェネオンの肖像》(1890年)では、アンリの理論を応用している。
スーラ亡き後に、点描法を理論的に体系づけた評論『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』(1899年)を刊行している。
ここで「分割とは調和についての複雑な体系であり、1つの技法というより1つの美学である」と論じている。

点描法に倣った絵画制作は、スーラやシニャックの影響を受けたゴッホとマティスも行ったが、いずれも想念が一致せず、試みに終わっている。
20世紀にも点描画家が各国で輩出するが、点描画はスーラに始まりシニャックに終わった、というべきか、スーラこそは美術と科学の融合に成功した美術史上屈指の俊才であった。

闇に魅せられた色彩観 p185

かつて光のメカニズムのみに焦点を当てたニュートンに反発したゲーテは、光だけでなく闇の重要性を強調した。
文学者や画家たちが色彩に思いを馳せた時代には、ときに色彩への考察に付随して、対象や魂を照らす光とともに、物理的な闇や精神的な闇について語られた。
明暗の美しい作品を手がけた画家たちは、それぞれに闇を強く意識し、独自の捉え方をしていたようである。
「光と闇は、色彩の創造において等価である。
光は闇から生まれ、光のうちにある対立するものが衝突し融合するこどから色彩が生まれる。
つまりきっかけは闇であり、光は結果である」
J.M.ウィリアム・ターナー
「最も本質的な色である黒を尊重せねばならない。
黒は何ものにも汚されず、眼を喜ばせることも官能を呼び起こすこともない。
だが、パレットやプリズムの美しい色彩よりも遥かに優れた精神の代理人なのだ」
オディロン・ルドン

p189

「彩色するにつれてデッサンも進むのだ。
色彩が調和すればするほど、デッサンはそれだけより正確なものとなる。
色彩が豊かになればなるほど、形もそれだけ完全に近づく。
色調の対照と関係、これが形態のデッサンの秘訣だ」*3――セザンヌにとって、色とかたちは不可分であった。
セザンヌは色彩によって形態を巧みに造形し、過去の絵画では二元的な原理に分離されてきた色彩とデッサンを1つに結合させた。
*2.3
『カンヴァス世界の名画8セザンヌ』井上靖・高階秀爾編集委員、三浦朱門・黒江光彦・高階秀爾著〈中央公論社〉1974年より。

幾何学的抽象の革命 p216

直線と均一な色面のみで構成された曖昧さのない画面は、見る者に「これならば自分でも描けそうだ」と思わせるかもしれない。
しかしモンドリアン以前、このような絵を描いた者は誰もいなかった。
高度に純化された思考と表現は、過去の芸術にはない理性的で観念的なもので、絵画の歴史を変える革命的なものでもあった。

ピエト・モンドリアンはオランダで生まれ、教育者であり厳格なカルヴァン教徒である父親のもとで育った。
父親との葛藤は、制作への姿勢や神智学への傾倒となってあらわれる。
40歳間近でパリへ出ると、フォーヴィスム、キュビスムを経て自然の形態を分解、徹底して対象を単純化することにより独自の平面性を獲得して幾何学的抽象へと進んだ。

画家で建築家のテオ・ファン・ドゥースブルフとともに創刊した芸術雑誌『デ・ステイル』(1917年)において「新造形主義」を提唱、芸術のみならず生活全般へ、自然に依存しない普遍的な調和と均衡の美を浸透させるべきだと主張した。
1921年には《大きな赤の色面と黄、黒、灰色、青のコンポジション》のような、水平線、垂直線、無彩色と黄、赤、青で構成される一連の《コンポジション》のスタイルを確立した。

変革者モンドリアンの作品とその思想は、建築や工業デザインなどさまざまな分野に波及し、大画面を覆う色彩や均一な平面に特徴のある抽象表現主義、色彩や形態などの造形要素を最小限にとどめたミニマリズムの誕生にもつながった。
セザンヌ以降、自然から解放された絵画は、モンドリアンに至って自己表現からも自由になった。

配色調和のための表色系 p232

財団法人日本色彩研究所から1964年に発表された色彩体系PCCS(Practical Color Co-ordinate System)は、日本の美術デザイン教育や色彩計画、色彩伝達において普及している表色系である(開発の歴史についてはP.152参照)。
このシステムは色が与える感情効果を、色の3属性(色相、明度、彩度)の色相と、明度・彩度をまとめた概念であるトーン(色の調子・色調)の2系列で整理し、システマティックに組織化したヒュー=トーン・システムが特徴となっている。
PCCSは調和域・不調和域という設定はしていないが、色相とトーンを用いて、配色調和を検討するのに適した表色系である。
最初のヒュー=トーン・システムを発表したシュヴルール(P.46)のカラーシステム他、その後美術教育用に開発されたイッテン(P.110)、ビレン(P.120)などのカラーシステムとも、それぞれ違いはあるが、色相と色の調子(色調)の2系列で配色を検討できる点で共通している。

慣用的に用いられる配色用語と技法 p248

配色は、色の組み合わせによって数えきれないほどあるが、ここでは慣用的に用いられる配色技法について、PCCSの色相およびトーンを使ってその効果や特徴を整理し紹介する。

※各項目に掲載している配色例は、その上に提示した色相環とトーン図で示した色を使用した場合の一例である。
また色相環は、基準となる純色のビビッドトーンを用いて表記している。
なお配色用語の解釈には幅があるため、ここに示した以外の配色もある。
1|ドミナントカラー配色(Color Dominant)
ドミナントとは「支配的な」「優勢な」という意味である。
ドミナントカラー配色の「カラー」という言葉はここでは色相を意味し、赤み、黄み、青みなど、基本的には1つの支配的な色相で全体が統一される配色である。
一般的には同一色相で行うのが最もまとまりやすいが(右上図)、隣接色相(色相差1)~類似色相(色相差2~3)までの色相範囲でまとめてもよい。
色数に制限はなく、選ぶトーンも自由である(右下図)。
色相にまとまりがあるので、色相そのもののもつイメージが前面に打ち出される。
2|ドミナントトーン配色(Tone Dominant)
ドミナントトーン配色は、配色全体のトーンを統一することにより配色のイメージに共通性を与え統一感を出す配色技法である。
例えばさえたイメージは高彩度のビビッドトーンで、優しいイメージはペールトーン、大人っぽいイメージはダークトーンというようにイメージが共通したトーンを用いる。
色相を自由に選択した配色である。
3|トーン・オン・トーン配色(Tone on Tone)
「トーンを重ねる」という意味で、基本的には、同一色相で明度差を比較的大きくとった配色をいう。
同系色相の濃淡配色ともいわれ、欧米ではフランス語で「トン・シュル・トン」(Ton sur Ton)とも呼ばれている。
基本的には色相をそろえてトーンに変化をもたせる配色である。
隣接色相や類似色相にする場合は、図のように「ナチュラル・ハーモニー」(P.252)にするとなじみ感や親近感を表現できる。
トーン・オン・トーン配色は、色相に統一感があるので明度で変化をつけバランスをとるのが一般的である。
4|トーン・イン・トーン配色(Tone in Tone)
トーン・イン・トーン配色は、近似したトーンによる色の組み合わせである。
基本的にはトーンを統一して色相は自由に選択する。
図のようにペールトーンで統一し、優しいイメージを表現するなど、トーンの持つイメージを前面に出すことができる。
日本ではファッションの配色用語として使われることが多く、英語表現ではあるが和製英語的な用語である。
5|トーナル配色(Tonal)
トーナルとは本来は音楽用語で「音色(調整)の」を意味するが、配色用語では「色合いの」「色調の」「純色に灰色を加えた色の」という意味である。
濁色のダルトーンを中心に、ソフトトーン、ライトグレイッシュトーン、グレイッシュトーンの4つのトーンから選んだ中明度、中~低彩度領域の中間色調の配色である。
穏やかで落ち着いた印象を表現できる。

※英語圏で「tone」(トーン)とは、「pure color mixed with gray」(純色に灰色を加えたもの)という意味でも使われている(P.124参照)。
6|カマイユ配色(Camaïeu)
カマイユとは、「単色画法」を意味するフランス語である。
単色画法とは、単一色で明度と彩度の色調に微妙な変化をつける絵画技法のことで、18世紀のヨーロッパで流行した。
カマイユ配色は、基本的に色相を同一色相(色相差0)または隣接色相(色相差1)とし、同一トーンや類似トーンで組み合わせる。

※カマイユ配色の例として、カメオ細工のような色使いが挙げられる。
7|フォカマイユ配色(Faux Camaïeu)
フォ(faux)は、「偽りの」「まがいもの」という意味のフランス語である。
カマイユ配色がほぼ同一色相であるのに対して、フォカマイユ配色は類似色相程度(色相差2~3)のわずかに差がある色相を使いながら、トーンはカマイユ配色同様、明度や彩度に微妙な差をつけ同一トーンや類似トーンでまとめる。
カマイユ配色よりも色相、明度、彩度に差のある色を用いる。
8|コントラスト配色
コントラスト(対比)を強調した配色。

①色相コントラスト配色
トーンを統一して色相差をとり、対比を強調した配色。
ビビッドトーンではダイナミックで明快な配色となる。

②トーンコントラスト配色
色相を統一してトーン差をとり、対比を強調した配色。
高彩度色と低彩度色の組み合わせや、高明度色と低明度色の組み合わせは、メリハリの利いた明快さを表現できる。
9|自然の見え方に倣った配色技法

ナチュラル・ハーモニー
(Natural Harmony)

ルードが唱えた色相の自然連鎖の法則に従った配色の技法である(P.66参照)。
色相は隣接色相配色(色相差1)から類似色相配色(色相差2~3)までの組み合わせにし、明度は黄みに近い方の色相を明るく、青葉に近い方の色相を暗くする。
この配色は私たちになじみの深い配色であることから、見る人に安心感や安定感のある印象を与え、多くの人に違和感なく受け入れられる配色である。
私たちが美しいと感じる配色の多くは色彩の自然序列に従っているので、心地よい配色にするためには自然界の色相と明度の関係に逆らっていないことが大切である。
10|自然の色の見え方に反した配色技法

コンプレックス・ハーモニー
(Complex Harmony)

コンプレックスとは「複合の」「複雑な」という意味である。
ナチュラル・ハーモニーとは色相と明度の関係が逆で、配色のなかで黄みよりの色の明度を低くし、青紫よりの色の明度を高くした配色である。
色相は同一色相(色相差0)以外なら、色相差に関係なく組み合わせることができる。
自然界で見慣れない配色となるため、一見するとなじみにくくみえることがあるが、目的や用途によっては人工的、都会的で新鮮なイメージを表現できる。
11|色数をもとにした配色技法

①ビコロール配色(Bicolore)
ビコロールとは、「2色の」という意味のフランス語である。
ビコロール配色とは、高彩度色と無彩色高彩度色同士、白と黒など、コントラストのある2色の明快な配色である。
英語ではバイカラー(Bicolor)配色という。

②トリコロール配色(Tricolore)
トリ(tri)とは「3」、コロール(colore)とは「色」という意味のフランス語で、コントラストのある明快な「3色配色」をトリコロール配色という。
国旗に多い配色であり、特に代表的なのはフランス国旗青・白・赤(自由・平等・博愛の意)である。
ドイツ国旗やイタリア国旗も、トリコロール配色といえる。
英語では、「トライカラー(tricolor)」配色という。
12|色を段階的に変化させた配色技法
グラデーション(Gradation)グラデーションとは「段階的な変化」という意味で、何らかのルールに従って色を徐々に変化させていく多色配色である。
この配色は、隣り合う色を段階的に変化させるため、配色に類似性やリズムが生まれる。

①色相グラデーション
色相グラデーションは、トーンはできるだけ統一し、色相を段階的に変化させた配色である。
色相を等間隔に選び、トーンを統一することで心地よい配色効果が生まれ、美しい調和が得られる。

②明度グラデーション
明度グラデーションは、色相はできるだけ統一し、明度を段階的に変化させた配色である。
トーンの選び方は、下図のように彩度を統一し明度が段階的に変化するように選択する。

③明度と彩度のグラデーション(トーングラデーション)
色相はできるだけ統一し、明度と彩度を段階的に少しずつ変化させた配色である。
この配置には、純色に白を混ぜてできるティントトーン(明清色調)を使用したグラデーション、純色に黒を混ぜてきるシェイドトーン(暗清色調)を使用したグラデーションがある。

④モデレートトーンによるグラデーション
PCCSの近似トーンを使う場合、明度を統一させることは難しいが、モデレートトーンによグラデーションでは、鮮やかさが変化するグラデーションになる。
色相はできるだけ統一する。
13|色の面積比による配色
実際の配色では、色の配分比率をどのようにするかで見る人に与える印象が大きく変わる。
主題に使われた色や背景色、アクセントに使用された色などは、右図のような配色構成の用語で分類できる。

ベースカラー(Base Color)
ベースカラーは配色全体の土台となる基調色である。
主題やモチーフの背景色として大きな面積で使われる。

アソートカラー(Assort Color)
アソートとは「調和させる」や「組み合わせる」等の意味で、アソートカラーは他の色とのバランスをとる配合色(従属色)である。
ベースカラーとともにカラーイメージを補う色で、ベースカラーと調和させるか、対比させるのかにより、配色の印象が変わる。
デザイン界では同様の意味でサブカラーという用語も使われる。
サブカラーという意味の英語ではサボーディネートカラー(subordinate color:下位色)が一般的である。

アクセントカラー(Accsent Color)
アクセントカラーは強調色といわれる色である。
ベースカラーやアソートカラーの対照色相や補色色相の色を、配色全体のイメージを引き締めるために少量用いるのが一般的である。

セパレーション(Separation)
セパレーションとは、2つの要素を「分離させる」「引き離す」という意味である。
配色が曖昧であったり強すぎたりした場合に、色と色との境界部分にわずかな面積のセパレーションカラー(分離色)を挿入することによって、配色をバランスよく調和させる配色技法である。
セパレーションカラーは他の色を引き立たせるための補助色なので主に無彩色の白、灰色、黒、または低彩度色を用いるが、金属色(メタリックカラー)を用いる場合もある。

白くて四角い箱 p266

週末を過ごす別荘として依頼された《サヴォワ邸》(1931年)は、時間とともに移り変わる日の光が、生活空間に明るさと変化を与える。
ル・コルビュジエ(本名シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ=グリ)(1887-1965年)は、「白が喜びの輝きを示すようにするには、それを囲んで色彩のざわめきが必要と悟った(中略)
極彩色は人生の開花に適している」*4と語った。
彼は、白の隣の壁には低彩度の色、陰になる部分には赤茶やこげ茶木や芝生に続く部分には緑、水回りに青、他の部屋にはブルーやピンクを施している。
《サヴォワ邸》に代表される「白くて四角い箱」は、モダニズム建築の規範となった。
南地中海の海岸線にある中庭つきの白い漆喰塗りの住居群が、このような彼の作品と精神に深い影響を与えたという。

第二次世界大戦後は、軽快さと白さは影を潜め、重いコンクリートでできた彫塑的な造形が登場する。
ル・コルビュジエの作品のなかでも、特に重要なものとされる《ユニテ・ダビタシオン》(1952年)は、1950年代以降のブルータリズムに影響を与えた。
コンクリートの粗さを隠すために行ったというこの建物の彩色は、印象的で豊かな表情を演出している。
ブルータリズムはbrute(野獣)を語源とした、打ち放しコンクリートなどによる荒々しい表現を特徴とする建築スタイルである。

ル・コルビュジェは「住宅は住むための機械」と宣言し、その機械は「宮殿」となり得るといった。
量産家屋の提言のなかで、「それは道徳的にも健全で、またわれわれの生活の伴侶である仕事の道具類の造形の美しさを持ったものとなろう」*5「それはまたこの厳密で純粋な道具に芸術家の感覚を加えられる美しいものとなろう」*6と記している。
*4
『もっと知りたいル・コルビュジェ生涯と作品』林美佐著〈東京美術〉2015年より

*5~6
『建築を目指して』ル・コルビュジェ著、吉阪隆正訳〈鹿島出版会〉1967年より

形態と色彩を単純化した均質な空間 p267

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)は、華美な装飾を避け、形態と色彩を単純化した、均質な空間によって構成される建築を目指した。
「Less is More(少ないことは豊かなこと)」「神は細部に宿る」という言葉を具現化する彼の建築は洗練を極めている。

インターナショナル・スタイルの象徴とされる《ファンズワース邸》(1951年)は、凹凸のない鉄筋コンクリートの建物本体、フラットルーフ、ガラスのカーテンウォールなどを用いた直線的な表現を特徴とする。
ワンルームで構成されるこの建物の8本のI型鋼は、組み立て後に研磨されて白く塗装されている。
インターナショナルスタイルとは、土着性からの解放と国際的な統一を目指した、合理主義かつ機能主義的な建築様式である。

ファンズワース邸は、床、天井、壁と最小限の柱で構成され、どのような用途にも対応できる空間となっている。
「ユニバーサル・スペース」と呼ばれるこの空間構成は、現在のオフィスビルのモデルとなった《シーグラムビル》(フィリップ・ジョンソンとの共同設計、1958年)でも実現された。
《シーグラムビル》のカーテンウォールにはグレイの着色ガラス、ブロンズ製パネル、I字型断面のブロンズ製マリオン(カーテンウォールの垂直部材)が使用されている。
「ブロンズと大理石が好きなのです」といった施主の言葉に、ミースは「それは私にとっても好都合です」と答えこの素材が採用された。

スーパーグラフィックスの流行 p269

1960年代、スーパーグラフィックスが世界中で流行した。
その多くは、拡大された2次元(平面)の、色鮮やかなグラフィック作品が建物を覆うような手法であった。
これに対し、ジャン・フィリップ・ラクロ(1938年-)は、立体のための色彩表現を行った。
彼が色彩設計を行った《リナンデュの集合住宅》は、少しずつかたちを変えながら敷地内に配置された、彫刻的なフォルムの住棟が特徴的である。
ランクロはその住棟ごと、あるいは部位ごとに暖色系の多くの色彩を使って塗り分けをした。
純色の赤やピンクなどのアクセントカラーも用いて、形態がより明確に浮かび上がるようまた、リズミカルに彩色した。
同系色相は、この大きな空間全体に統一感を生み、形態の陰影を生かした部位ごとの塗り分けは、心地よい変化を与えている。

象徴性と装飾性の再評価 p269

1960年代中頃、優れた近代建築の理念を拡大解釈した、稚拙で無計画な新建築があふれ始めた。
このような新建築に対し、象徴性、歴史性、装飾性などを見直す動きは、ポストモダン建築として展開された。
その中心人物となったのが、ロバート・ヴェンチューリ(1925年-)である。
彼は、「単純性がうまく取り入れられなければ、ただ単調になるだけだ」と述べ、行きすぎた単純化による味気ない建築に疑問を投げかけた。
ヴェンチューリはミースの「Less is More」を揶揄して「Less is Bore(より少なことは退屈だ)」と表現した。
そして、多様化する建築の目的や機能に関する課題に向き合い、「排除することで得られる安易な統一よりは、受け入れることで得られる複雑な統一」*7を実現しようとした。

《母の家(ヴァンナ・ヴェンチューリ邸)》(1964年)は彼の母親のための家であり、彼が設計した最初の作品である。
切妻のファサード、煙突、ドア、窓などは、彼自身「子供が描い「た家の絵のよう」と述べた、住宅の象徴的なかたちである。
彼はこの家を「大きなスケールを備えた小さな家」*8と呼んだ。

1964年、母の家は「1つの点だけを除いてようやく完成した」といわれている。
その1つの点とは外壁の色であった。
1967年、暗灰色に塗られた壁は淡い緑に塗り替えられた。
木々に囲まれた姉外の風景になじむように選ばれた色である。
ヴェンチューリは、ある有名な建築家が「緑は自然の色であり、私は自分の設計した家に緑色を使うことは決してしない。
誰もそんなことはすべきではない」*9といったのを聞き、緑に塗ることを思いついたのだという。
この家の彩色について彼は、壁面以外の「表面の材料はその材質と構造を表現するために自然のまま残さなくてはいけないのだった」*10と述べている。
*7
『建築の多様性と対立性』R.ヴェンチューリ著、伊藤公文訳〈鹿島出版会〉1982年より

*8~10
『母の家―ヴェンチューリのデザインの進化を追跡する―』フレデリック・シュワルツ編著、三上祐三訳〈鹿島出版会〉1994年より

強調される色彩と装飾性 p270

1970年代、近代的な科学技術による要素を建築の美としてデザインするハイテク建築が出現した。
レンゾ・ピアノ(1937年-)、リチャード・ロジャース(1933年-)が設計した《ジョルジュ・ポンピドゥー国立美術文化センター》(1977年)はその代表的な例といえる。
近代工業による建築の構造物を鮮やかな色彩で演出した、新しい造形美の試みである。
彼らは工業色彩規格を採用し、建物外部に露出したパイプ類をそれぞれの機能に合わせて彩色した。
空気調整装置は青、水道設備は緑、エレベーター装置は赤に塗られている。
モダニズム建築の機能主義から脱却したこの様式は、ポストモダン建築のもう1つの流れとして捉えられている。

また、デザインにおけるポストモダンの流れをくむニューデザインの代表的な人物、フランスのフィリップ・スタルク(1949年-)は、東京・墨田区の《スーパードライホール》(1989年)を設計した。
その屋上にある黄金のオブジェ、「フラムドール」(金の炎)は、アサヒビールの燃える心の象徴としてデザインされたという。

ウィリアム・モリスの色彩 p275

「美しいものをつくり出したいという欲求を別にすれば、私を突き動かす情熱は、現代文明に対する嫌悪である」。
モダンデザインの父といわれるウィリアム・モリス(1834-96年)の言葉である。
モリスの創作と活動は、工業化によって失われていく生活の質(日用品、環境、労働など)を取り戻すためのものであり、彼のデザインは、19世紀から現在に至るまで美術・工芸、インテリアなどの幅広い分野に影響を与えている。
現在も19世紀に劣らない人気を誇る壁紙やテキスタイルのパターンは、そのインスピレーションの多くを自然界に求め、自然界の優しさと華やかさが品のよい中間色によって表現されている。

モリス・マーシャル・フォークナー商会創設(1861年)の翌年から、モリスは壁紙のデザインに着手した。
彼は壁面の重要性について、「部屋に何を置くにせよ、まず壁をどうするか考えよ。(中略)
何を犠牲にしても壁を優先させなければ、いかに高価で見映えのする家具を置いても、その部屋は間に合わせの下宿屋のようになってしまうから」*1といった。
また、色彩について次のように述べている。
「壁紙の色彩は控えめにして彩度の高い色は避け、もし使うなら明度を上げること。
……色は間違っても濁った色や黒ずんだ色は避けること」*2。
1862年にデザインした1作目の《格子垣(トレリス)》(鳥のモチーフはフィリップ・ウェッブが描いた)や《ひなぎく》《果実》などの初期の壁紙は、今も高い人気を誇っている。

モリスは8歳のときに、エピングの森の狩猟小屋で緑樹のタペストリーを見た。
それに触ったときの鮮明な記憶が、彼のテキスタイルデザインの始まりだという。
彼は植物性染料にこだわった。
自然界の色はおのずと調和し、自然と色褪せる。
色の範囲は限られるが、デザインの質を高めることができるからである。
染めの実験の際にモリスは、とりわけ藍染めに感激していた。
知人への手紙には「藍桶につけた糸を引き上げる瞬間は緑だが、それが空気に触れ、瞬くまに青に変わっていく」*3と記し、1882年5月から1885年9月に意匠登録したパターン19種のうちの17種は、インディゴ抜染を念頭において制作している。

青系の染料にはインド藍と大青、赤系は茜と臙脂、黄色系はウェルド(野生の黄花もくせいから採れたもの)、茶色系は胡桃の殻と根から採れたものなどが使われた。
そうしてつくられたインディゴとオレレンジや赤との対比が美しい更紗模様は、《いちご泥棒》と名づけられた。

また、機械織の心得については次のように記している。
「色数も普通4~5色に限られます。(中略)
快い地色を選び、その地色より明るい同色か、地色と強いコントラストにならない色でパターンを上にのせていくのが最善の方法です。
もし、数色使っているのなら、はっきりした輪郭線か、あるいは注意深く配置された強い色の点で全体の構成を鮮明にします」*4
*1
『モリス商会装飾における革命』マイケル・パリー著、藤田治彦監訳〈東京美術〉2013年より

*2~4
『図説ウィリアム・モリスヴィクトリア朝を越えた巨人』D.ブルース・D.常田益代著〈河出書房新社〉2008年より

インダストリアルデザインの始まり p280

工業製品が「人に買われるためには、人の気をひく優美、装飾、色彩などをもっていなければならない(中略)
一連の商品が他の点で同じであるとすれば、そのうちのもっとも『美術的』なものが、市場の競争で勝利を占めるにちがいない」*1。
この明白な真理に目を付けたのは、政治家であり、結績機械によって巨大な勢力と富を築いたロバート・ピール卿であった。
合理化に傾いていた工業製品は造形美を必要とし、その造形活動はインダストリアルデザインという分野によって効果的に機能していった。
職業としてインダストリアル・デザインが社会的に認められるようになったのは、1920年代末から1930年代であった。

近代工業と造形 p280

1919年、ロマン主義的、表現主義的な思想を基調としていたバウハウスは、「芸術と手工業――新たなる統合」というスローガンを掲げた。
当初のバウハウスは、アーツ・アンド・クラフツ運動の精神を引き継ぎ、改革の道を中世への回帰に求めていた。
しかし、そのスローガンは、1922年に「芸術と工業技術、新たなる統合」と改められ、産業化を前提としたデザイン活動の推進が図られるようになる。
グロピウスは、「バウハウスは、機械を、造形のための本質的に近代的な媒体として受けいれ、われわれが機械と協調してゆける道を探求した」*2と述べている。
この新しい理念は、1923年のバウハウス初の公開展において明確に打ち出された。

1923年のイッテンの退任と前後して、教師として迎えられたラースロー・モホリ=ナギは、次々と新しい実験を展開しデザインの新たな局面を切り開いていった。
デッサウに移転後は、機械工業生産の方式に適合した原型(プロトタイプ)製作を行い、生産実験工房としての成果を上げた。

1925年から1926年、ユニット構造のキッチン用の家具やメタルパイプ椅子が、マルセル・ブロイヤーによって考案された。
軽くて分解可能、価格が安く、衛生的で耐久性のある経済的な椅子が宣伝の謳い文句となった。
この椅子は、カンディンスキーの名前にちなんで《ワシリーチェア》と呼ばれている。
また、壁紙の製品化においては、控えめな模様に艶消し加工を施し、同色の濃淡を中心とした幅広いカラーバリエーションを展開した。
部屋が広く見えると好評を得て、バウハウスで最も成功した製品となった。
バウハウスの活動は、キッチン用品や家具、照明器具、テキスタイル、印刷、団地など多方面に恒久的な影響を与えている。
基本形と基本色を造形の出発点として製作されたさまざまな製品によって、工業化への道が開かれていった。
*1~2
『インダストリアルデザイン』H.リード著、勝見勝前田泰次訳〈みすず書房〉1957年より

T型フォードの黒とゼネラル・モータースのスタイルデザイン p282

「大衆のための実用機械としての車(中略)ほんとうに役に立つ車を作れば必ず売れる」*3という信念に基づき、1908年に《T型フォード(フォード・モデルT)》は開発された。
フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォード(1863-1947年)は、フレーム、エンジン、ボディなどからなるサブユニットを組み立て445355る方法を確立し、自動車の生産に流れ作業を導入した。
生産性向上のため、1910年に3種類あったボディカラーも1912年には1色に絞り込まれた。
その結果フォード・モーターは生産コストを大幅に下げ、1914年には近代的量産システムを確立した。
塗料には、通常の自動車用塗料よりも乾燥の早いものが使われた。
漆と質感が似ていることから「ジャパン・エナメル」と呼ばれたその塗料の色は、黒だけであった。
黒はフォードの代名詞となり、機能主義のシンボルとして人気を博した。
そして、1908年の発売から1927年の生産終了までに、1500万7033台のT型フォードが生産された。

一方、1923年にゼネラル・モータースの社長に就任したアルフレッド・スローン(1875-1966年)は、スタイルデザインやカラーを重視した戦略をとり、スタイルに関心が向けられていく消費者のニーズに応えた。
ゼネラルモータースの「アート・アンド・カラーセクション」は、大企業内に設けられたはじめてのデザイン組織といわれている。
スローンは後に、「パリのファッションの法則が自動車産業の要素にもたらされ、それを知らない企業への脅威になったことはいうまでもない」*4と指摘した。
フォードもこれを認め、14年ぶり(1926年)に黒以外のモデルTが登場する。
基本のブラックにブルー、グレイ、ブラウンの3種をオプションで加え、ボディカラーは4種類となった。
1927年末には1903年以来2度目のモデルAを発表し、毎年のモデルチェンジを行った。
当時アメリカでは、色彩を駆使した商品開発が脚光を浴びていた。
大量生産、大量消費の基盤に立った耐久消費財とサービスが普及した時期に、色彩の検討は需要喚起のための重要な役割を担っていた。

アメリカの消費生活を快適にしたフランス人のデザイナー p282

レイモンド・ローウィ(1893-1986年)は、「インダストリアル・デザインはお客を幸せにし、クライアントを黒字にし、デザイナーを繁昌させる」*5といった。
彼が「コンテンポラリー・アメリカン」「コロニアル・「モダン」と呼んだそのデザインは、20世紀の消費者文化に大きな影響を与えた。
パリ出身のローウィは、アメリカの消費者を理解し、デザインによってアメリカ的な生活のイメージをつくり出し、アメリカ人の消費生活を快適で便利なものにした。
伝統的スタイルにストリームライン(流線形)とヨーロッパのモダニズムを折衷したその方法は、MAYA原理(Most Advanced Yet Acceptable:最も先端的で、しかも許容できる)の表現だったという。
彼は生活用品の幅広い分野においてデザインの重要性を示し、『口紅から機関車まで』という書を著した。

ジャーナリストのジョン・コブラーは、1949年の記事でローウィについて次のように述べている。
「スタイリスト、エンジニア、世論調査員のミックスであるデザイナーは、大衆の趣味と偏見の不思議な領域を操作する。
彼の道具は色彩、形、テクスチュアである」*6

ローウィのキャリアは、1934年にデザインしたシアーズ社の1935年型の冷蔵庫《コールドスポット》によって大きく飛躍した。
彼は、機能的であるが角ばっていて、いかにも機械然としていた冷蔵庫の角や隅を丸くした。
拭き掃除しやすい表面の、さわやかさと清潔さを感じさせる白い、一目でモダンとわかる冷蔵庫が誕生し、その売上は劇的に上昇した。
《ドール・デラックス・コカ・コーラ・ファウンテン・ディスペンサー》は、第二次世界大戦中につくられ1947年から使われた。
刺激が強く活気を感じさせる赤は、コカ・コーラがティーンエイジャー向けの飲み物であり、カフェインを含むピリッとした味であることを表現している。

1962年、ローウィは《エアフォース・ワン(大統領専用旅客機)》のデザインのために、ホワイトハウスで2度ジョン・F.ケネディ大統領に面会した。
彼は、機体のグラフィックや荒々しい色彩(赤)の変更を提案し、ケネディの補佐官を説得した。
そして、エアフォース・ワンは、新しいレタリングとケネディの指示したブルーによる新しいデザインとなった。
現在もこのときの配色に使われた「マリンブル一、スカイブルー、白」が受け継がれている。

情報化社会のカラフルな色彩 p284

タイプライターの製造販売で世界的な成功を収めたオリベッティは、1960年代にデザイン開発に力を入れていた。
ポータブルタイプライター《ヴァレンタイン》は、同社の顧問デザイナーであったエットーレ・ソットサス(1917-2007年)のデザインである。
この赤は、「ロッソ・オリベッティ(オリベッティの赤)」として人気を博し、シリーズの大ヒットにつながった。

そして色鮮やかで自由なフォルムのデザインが展開された1980年代に、ソットサスを中心とするデザイン集団「メンフィス」が誕生する。
彼らは、物と使用者との自発的なコミュニケーションを刺激するためのデザインを目指し、色彩やフォルムにメッセージを伝える記号としての役割を求めた。
材料には、アルミニウムや鋼、産業用ブリキなども使用され、表面には原色や蛍光色、パステルカラーなどが施された。
メンフィスが生み出すデザインは無国籍で、高級素材と安価な素材、機能性と遊び心などの分裂的な組み合わせを特徴としている。

ソットサスの代表的な作品の1つであるルームディバイダー《カールトン》は、軽快な色づかいと斬新なフォルムが印象深い。
また、ノルより発売された《ウエストサイドラウンジ(アームチェア)》は、クッション、ボディ、アームレストとそれぞれカラーが異なっている。
対比的な色使いや丸型と四角形などの組み合わせは、ソットサスの得意とするスタイルである。

革命を起こしたシャネルの黒 p288

20世紀前半、第一次世界大戦を契機に経済社会や生活、文化における価値観が大きく変容した。
女性はコルセットを脱ぎ捨ててファッションに機能性を求めるようになり、自由で解放された装い方が加速した。
その当時、スタイル、デザインのみならず、デザイナー自身が新しい理想像として人々から注目を浴びたのがガブリエル・ボヌール・シャネル(1883-1971年)である。
シャネルが発表した黒の膝丈のシンプルなデザインの「リトル・ブラック・ドレス」は、小粋で美しく瞬く間にお洒落な女性たちを魅了した。
第一次世界大戦中、多くの人々にとって追悼と悲しみの象徴とされた喪服の黒を、シャネルがお洒落な色に変えたのである。
それ以降、黒は力と創造性を表す色となった。
1926年にアメリカの『ヴォーグ』誌に掲載され、「シャネル旋風。このワンピースは全世界の女性たちが着ることになるだろう。シャネルとサインされたフォード車」と評された。
シャネルは「私は、黒を主張することにした。黒はモード界で王座を誇っている。というのも、黒は大地から生まれた色だから」と語った。
シャネルはこの黒のドレスに、パールなどの宝石とコスチュームジュエリーをミックスさせて身に着けることを好んだ。

サン=ローランの革新的なスタイル p291

イヴ・サン=ローラン(1936-2008年)は、モンドリアンの垂直線と水平線による構図の抽象画を模し、黒の輪郭線に赤、黄、青の三原色を組み合わせた革新的なスタイルを発表した。
《モンドリアン・ドレス》(1965年)は、オートクチュールに、ストリートファッションを融合させた新しいスタイルとなった。
アートをファッションに取り入れた斬新な試みと、黒のセパレーションカラーが高彩度色を引き立たせたモダンな配色は、その後のファッション界やクリエイターたちに多大な影響を与えた。