「たのしごとデザイン論 完全版」を 2,024 年 9 月 20 日に読んだ。
目次
メモ
p19
グラフィックデザイナーという仕事を正確に説明することは、この仕事をそこそこ長くやっている僕自身でも難しいと感じます。
この業種ではない人に自分のやった仕事(たとえば広告など)を見せながらのこんなやりとり。
「あ、この写真を撮ってるんだ」
「いや、撮ってないです、これはフォトグラファーが撮ったんです」「じゃあ、このイラストを描いたの?」
「いや、イラストはイラストレーターに描いてもらいました」
「じゃあ、文章を書いたんですか?」
「文章はコピーライターが書きました」。
そのうち相手がしびれを切らします。
「結局、いったいあなたは何をやっているの!?」。
写真も撮ってない、イラストも描いてない、文章も書いてない。
やっていることをなんとか伝えようとすると「それらを一枚の画面に並べて…」という話になるとは思うのですが、デザイナーの仕事は一つの作業だけで説明できるようなものでもなく、単純にそういった答えを返すのは危険です。
「ヘー、並べるだけの仕事だったら楽だよね」なんてキツい一言をもらうかもしれません。
コピーライター、編集者、フォトグラファー、イラストレーター、ヘアメイク、スタイリスト、オペレーター、印刷ディレクター……。
数多くの職業の人たちが活躍する制作の現場で、デザイナーはいったい何をやっているんでしょうか?
この本のスタートはまず「グラフィックデザイナーの仕事とは何か?」を考えてみることからはじめましょう。
僕はデザイナーの仕事、舞台の「演出家」にたとえています。
冒頭で例に出てきたような、写真、イラストレーション、文章などは、デザインを構成する要素そのものです。
これは舞台でいう「役者」にたとえられるでしょう。
役者さんはその人自身の性質(性別や年齢、容姿、演技力など)があります。
その範囲の中で役が決められますが、どのような役を演じられるか、その可能性には幅があります。
役者さんのイメージどおりの役もあるし、思ってもみなかったような意外な役回りもあるでしょう。
そして、一つの舞台には、実にさまざまな役者が登場します。
主役やヒロインなど、物語の軸となってくるようなメインキャストや、うまく主役を盛り立ててサポートする脇役など、舞台をよりわかりやすくするための序列関係が出てくるはずです。
そんな中で、良い舞台をつくるために、役者どうしをきっちりと采配するのがデザイナーの役割なのです。
デザインの舞台は版面です。
名刺のような小さい舞台から、ポスターのような大きな舞台まで、デザイナーはきまざまな舞台演出を行います。
それがより効果的なものになるように、誰が主役で誰か考え、版面という舞台に大きさを決めて並べていきます。
興行主(クライアント)があれもこれも目立たせたい、主役にしたいなんて言いだしたら、きっとその舞台は混乱することでしょう。
そうならないためにも、家が「どんな舞台にまとめたいか」について、しっかりとしたビジョンをもっておくことがとても大切です。
そしてそれは単なる好みであってはいけなくて、その舞台がきちんと上演されることを目的にするべきなのです。
幅広い役を演じ分けられる役者さんもいれば、役の幅は狭いけど、ある役を演じたらものすごく強い力を発揮するタイプもいます。
デザインの世界でいえば、文字(タイポグラフィ)は直接的、具体的な情報を伝えるのが得意で、かつ書体や並べ方などによっては、それを情緒的な芝居に変えていくこともできる二面性をもった役者でしょうか。
イラストレーションは「タッチ」というものがあるので、目的にはまれば、ものすごく力のある、心をつかむ演技をしてくれます。
舞台の演出家という役割を、デザイナーの仕事の定義として捉え直すと、デザイナーは「要素どうしの関係性を決める」という仕事をしていることになります。
写真、イラスト、文字の要素を効果的につなぐという大仕事。
そして、デザインの成功の大部分は、この「つなぎ方」、つまりあなたがやっている(やろうとしている)ことにかかってくるのです。
大げさな話でもなんでもなく、あなたの考え方がデザインという世界を定義しているのです。
演出家にはいろいろなタイプがあります。
ときには、演出しながら自ら出演までしちゃうような演出家や監督さんがいますよね。
デザインの世界にもそういう人たちがけっこういます。
あなたはどんな演出家になりたいですか?
もう少しこの本を読み進めていけば、その答えを見つけられるかもしれません。
p27
さて、第一段階として、「自動車」という対象を「普通乗用車のイメージ」にまで抽象化させました。
今度は実際に「自動車(普通乗用車)」のピクトグラムをデザインする気持ちで、その姿を想像してみてください。
普通乗用車の車体のフォルム、車輪、窓、といった部分がまず頭に浮かぶのではないでしょうか?
ドアの取っ手やヘッドランプ、ハンドルやシートなども思いつきますが、優先順位としてはやはり低い。
優先順位の高いいくつかを残して、他を省略してしまった図を考えていくこと、それが、自動車のピクトグラムを作るための「抽象化」の過程です。
抽象化をつきつめれば、車輪だけになったり、車体だけになったりするのかもしれません。
ただ、やりすぎると、その目的にかなう(ピクトグラムなら「自動車を意味していることがわかる」)のが難しくなります。
p31
街を歩けば、看板、ポスター、パンフレット、スマホやPCで見る画面にも、さまざまな会社やお店、サービスのマークやロゴがあふれています。
会社などの「マーク(標章)」のことをロゴという人も多いですが、本来の言葉の意味としてはイコールではありません。
ロゴというのは「ロゴタイプ」を略したもので、図案化や象徴化された文字列のことです。
文字を含まない絵記号はロゴではありません。
古くからある活版印刷では、一文字ずつの活字を組み合わせることで文章を印刷しますが、固有名詞や定型の言い回しなど、何度も使用する単語をまとめて一つの活字にしたものを「連字」といいます。
それが元となって、ロゴ(言葉)で一つのタイプ(活字)を作ることから、ロゴタイプと称されるようになりました。
一方のマークは、企業の理念や社風などを象徴的に表した絵や図形の記号ということになります。
某企業のりんごとか、某SNSの小鳥とかが有名ですね。
シンボルという言葉もありますが、ほぼ同じ意味で使われます。
「シンボルマーク」という言い回しもありますが、これは和製英語で、日本以外ではほぼ聞かれないようです。
和製英語といえば「ロゴマーク」もそうです。
これには解釈が二つあって、一つ目は「マークとロゴの組み合わせ」という意味、二つ目は「(マークがなくて)ロゴをマークの代わりに使っているもの」という意味です。
前者のマークとロゴの組み合わせは「シグネチャー」という呼び方があるので、僕としては後者の、マーク代わりのロゴという意味を推したいです。
マークもロゴも「VI(ビジュアル・アイデンティティ)」の代表的な道具です。
VIとは「企業や団体のイメージを視覚的に伝えやすい形にして、その「自己同一性」を保つ活動」です。
自己同一性って難しい言葉ですよね。
簡単にいうと、商品を見ても、パンフレットを見ても、会社のビルを見ても、「同じ会社って感じがするなあ、この会社らしいなあ」と多くの人が感じるようにすることです。
p34
僕は「ルームコンポジット」という名前の小さなデザイン会社を経営していますが、ルームコンポジットにはマークもロゴもありません。
デザインする側は柔軟でなければならないから、定まったマークやロゴは掲げない……、というもっともらしい理由はさておき、本当は「作ったところでたいして機能しない」と考えているからかもしれません。
ときどき、マークやロゴのデザインを頼んでくれたお客さんに、逆に「マークが欲しい理由は何ですか?」と質問してみます。
「え?マークってふつう作るもんじゃないんですか?」と驚いて返されたりします。
どう機能するかわからないものを、お金を出してまで買うって不思議ですよね。
p40
レイアウトを作っていく上で、同化させたくない要素を切り離して距離(空間)を空けたり、関連する部分や重要な部分をつなぎ合わせて強調していく作業は、まるで、彫刻の塑像のようでもあります。
必要のない部分を空間からそぎ落としたり、必要なところに粘土を付け足していくような作業に似ていると思っています。
デザイナーは基本的には平面的なものを作る仕事なので、その要素が木材や金属、粘土ではなく、文字(タイポグラフィ)や写真、イラストレーションだったりするわけですが、その上でどのようなカタチを組み立てていくかということ、つまり「造形性」は無視できない大事な要素になります。
このデザインにおける造形性を考えることこそが、より強いビジュアルを生み出す鍵であり、デザインを単純作業ではなく、楽しい表現行為に変える工程でもあると思っています。
デザイナーはまるで平面の世界で抽象彫刻を行う、彫刻家のような存在です。
同じ芸術分野でも絵画ではなく、彫刻にグラフィックデザインの残像を見てしまうのは、この造形性の話もありますが、足し算よりも引き算を軸足にする共通性があるのかもしれません。
よりシンプルに、強く、美しく正しいカタチを導くことの大事さを忘れてはいけません。
p58
「崩す」デザインは刺激的で、つい多用したくなります。
続けていると、なんだか、個性的なアーティストになったような気分にもなります。
しかし、なんでも崩すところから始めるようなやり方はおすすめできません。
なぜなら、揃えることではじめて崩す部分が際立つのであって、崩しだけでできているデザインは、どこを崩したいのか、そもそも何をしたいのかがはっきりしなくなるからです。
「揃えてから崩す」、この順番でレイアウトをすることは基本中の基本です。
崩すという楽しい作業は、真面目に揃え作業をやってきた人へのご褒美みたいなものだと思えばよいでしょう。
揃えたものについて、最後に一つだけ崩すのはとても気持ちがいいですよ。
最後に揃えるということについて少し補足を。
コンピューターでデザインをすると、ガイドや数値に従って要素を配置できたり移動できたりと、とても便利ですが、最後は人間、つまりあなたの目を信じるべきです。
「錯視」という現象があります。
正常な人の視覚は、ものを数字どおりに正確に見ておらず、偏った見方をしているのです。
より適切に「揃える」という作業ができるように、錯視を考慮しつつ、自分が「視る」ということについての精度も磨いていきましょう。
p235
発注を受けて、最初に臨むのがオリエンテーション。
具体的な依頼内容を聞き取っていくなかで、大切なのが「与件」、つまり「仕事を進めるにあたり守らなければいけない条件」です。
まず考えられるのは、商業デザインをする上では避けては通れない「予算」と、予算によって制限される「仕様」です。
そして、それらをクリアした上で達成する目標や、クライアントによるもの(トーン&マナー、競合との差別化、環境に対する配慮)など、量的質的問わず多くの条件がデザイナーに与えられるでしょう。
なにもデザインだけの話ではありません。
すべての仕事の前提として、働く人はこの「与件」に従って動いています。
たくさんの超えるべきハードルを置かれて、日々ストレスを感じている方もいらっしゃると思います。
「もっと自由に作れたらなあ……」。
表現者として羽根を伸ばしたい気持ちはよくわかります。
しかし、私たちは与件を達成するからこそ、付加価値を作っていると言えるのであって、それを切り捨てるわけにはいきません。
だったら、むしろそのハードルを心強い味方にしてほしいなと思っています。
p259
「感度」という言葉があります。
医療や科学の分野では「刺激に対しての応答の度合い」を示す指標として使われますが、マーケティングの世界ではもっと緩やかな意味合いで、消費者が「情報にどの程度アンテナを張っているか」や「どのくらい目利きであるか」などといった使われ方をします。
情報を受け取り、選別する能力が高い人を「感度が高い」と評するわけです。
デザインでも「感度」という言葉を使いますが、このマーケティング用語に紐づいています。
「感度の高いデザイン(高感度なデザイン)」というのは「デザインや美術などの表現に対して感度の高い人が好む」デザインのことです。
芸術、デザイン、映画、ファッション、写真など、表現に興味がある人の多くは、デザインの品質の良し悪しを見分ける目をもっています。
また、今まで見たことがないような、ほかとは差別化された独創的な表現に関心を示します。
そんな人たちの支持を集めるには、デザインをより「感度の高い」ものに仕上げないといけません。
広告表現などで、企業やブランドのイメージを保つために、デザインの雰囲気に一貫性をもたせることを「トーン&マナー」と呼びますが、「感度が高い」ということもトーン&マナーの一つといえます。
特定のトーン&マナーに従ってデザインできるようになるためには、学習が必要です。
類似の制作事例を見て、どのような手法(配色、文字、レイアウト、写真の撮り方など)でそのデザインが構成されているかを分析し、自分も真似て作ってみる。
そういう学習の繰り返しにより、作るべきトーンのデザインができるようになります。
感度が高いデザインはさらに、これまでにない新しいものを作り出す実験的な試みも必要とされます。
表現に目が肥えている人に対して、満足してもらうものを作らないといけないのです。
もちろん、感度が高いデザインは常に求められるわけではありません。
駄菓子やインスタント食品のパッケージが超高感度でデザインされていても、食指がわかないでしょう。
「チープに見えること」が魅力だったり、「余白がなくゴテゴテしていること」が好きなターゲットもいます。
むしろ、感度が高いデザインは、ごく一部の狭い世界でしか必要とされない表現とも考えられます。
また、単純に感度が高い、低いという二択ではありません。
たとえば、芸術やデザインの分野と、音楽や映画などのエンターテインメントの業界では、どちらかというとエンタメ系のほうが、より多くの共感を得るために感度を落とす傾向にあると感じますし、同じ音楽でも、アーティストによって求められるトーンには違いがあります。
提供されるデザインの感度にアーティストのファンがついていけない、ということがあってはいけないのです。
感度の高いデザインを作る力については、短期的な学習だけで獲得するのは難しく、常にトライアルを繰り返して、それに対応できるように腕を磨いていく必要があります。
高感度のものが作れる人が、感度を落としてデザインすることは難しくないと思いますが、自分が作れる感度以上のものを提供するのは至難の技です。
誤解がないよう言っておきたいのですが、感度が高いデザインが偉いわけではありません。
理想は、相手が必要としているトーン&マナーをつかみ取り、それを満たすデザイン感度のコントロールができるようになることです。
たとえば、同じ美術展のポスターを作るのでも、現代美術館で行われるメディアアート展のポスターと、商業施設で行われる西洋陶磁器展のポスターでは、客層もまったく異なり、求められるトーン&マナーも違うことは想像しやすいでしょう。
同じレストランのメニューデザインでも、客単価が3万円のフランス料理店と、1,500円のファミリーレストランでは異なる表現が求められるはずです。
高感度なデザインを作ることができる技術を身につけつつ、クライアントやターゲットに合わせ、自分が作れる最高感度からどのくらい落として作れば良いかを判断して着地させる。
そうすることで相手が本当に喜んでくれる仕事につながっていくはずです。
時代が進むと、従来と同じことを繰り返していては、古びて飽きられるデザインになります。
そのためにも、デザイナー自身が周囲の流行に敏感になり、高い感度のものを作れるようになっておくことが大切です。
しかし、それをすべてのクライアントに押しつけない。
高感度のカードをもっておいて、その時々で相手にどのくらい出すのが適正なのか、これを客観的に判断できるようになることが、柔軟性のあるデザイナーの一つの理想の姿なのだと思います。
p285
グラフィックデザインのコンペの優秀作品を集めた、いわゆる年鑑などを見る機会はあるでしょうか。
ぱっと見た感じアート性が高い、不思議な作品が多いと感じたことはありませんか?
また、その出品作品がポスターなど広告媒体だったとしても、街中で見かけた記憶がなかったりしませんか?
そんな作品を見てみると、かなりの数が「デザイン系の展覧会の広告」などのいわゆる「DtoD(Design to Designer: デザイナーに向けたデザイン)」だったり、芸術系の広報物だったり、デザイナーが自主的に作った作品だったりします。
そういったコンペで高く評価される軸の一つに「新規性」があります。
従来のデザイン手法にはない、新しい効果的なスタイルを確立できたか、既視感をいかに克服したかということです。
これに対して「デザインの成功はいかに効果を上げたかだから、ただ作品性だけで判断したり、ほとんど世の中に影響を与えていない自主制作のたぐいを評価するのはおかしい」と考える人もいるでしょう。
経済的な効果が大きかったとか、消費者のニーズに応えたなど、評価するポイントは他にもたくさんあるはずです。
もちろんこれらは正論です。
そこで提案です。
これだけ多様化、また広域化したデザインの世界においては、デザインを「基礎研究」と「応用研究」に分けて、評価するべきではないでしょうか。
基礎研究と応用研究という言葉は、科学研究の分野でよく使われます。
基礎研究はものごとの原理原則を研究する分野。
そして、応用研究は基礎研究を展開して、より実用的なものを開発する分野です。
たとえば青色LEDの発明は、世界中の信号機を省エネルギーなものに変えましたが、この青色LEDの誕生の背景には、その材料である窒化ガリウムという物質についての研究が欠かせなかったそうです。
ざっくりいうと、青色LEDを製品化するための研究が応用研究、窒化ガリウムの研究が基礎研究ということになりますね。
これをデザインで考えると、新しい表現技法や考え方を作っていくことが基礎研究で、それを実際の広告やパッケージなどに反映していくことが応用研究といえるでしょう。
科学と同じようにその二つにはタイムラグがあります。
またデザインでは、それを受け取る人、広告を見たり、製品を買ったりする人の受容感度の問題もあります。
つまり、新規性が高すぎるデザインは、それに興味がない人にとっては新しすぎてわからない、違和感を感じて好きになれない、という可能性もあるのです。
みんなに共感してもらえるものを作るのがデザインなんだから、応用研究だけで十分じゃないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、僕はこの基礎研究がとても重要な領域だと考えています。
たとえば今、20年ほど前の商業的なデザインを見て、すごく古さを感じませんか?
当たり前ですが、デザインにも流行があり、時代とともに古びていくのです。
しかし今、20年前のデザイン年鑑を見ると、今でも通用するような要素をたくさん発見できます。
これが、デザインのタイムラグです。
10~20年のスパンで基礎研究のデザインの多くの要素が、応用研究に移植されています。
なにもグラフィックだけに限らず、ファッション業界でもオートクチュール(仕立て服)のショーなどを見ると、普通に見たらとても街を着て歩けないような斬新な服が紹介されています。
これも基礎研究の一つと考えられるでしょう。
自動車メーカーが発表するコンセプトモデルなども同じ考え方ですね。
その歴史や社会的な意義が認められ、グラフィックデザインは今や商業的活用という枠を超え、絵画や写真などのように、独立した表現分野としても評価されるようになりました。
ある目的のための「手段としての表現」から、表現そのものが主体になるのは一般的にあることで、初期の絵画は宗教上の道具として、また、肖像画としての活用が重要でしたし、写真も記録や報道という目的を前提とした技術から、芸術表現としても認められるようになったのです。
新しい表現分野を開拓する基礎研究と、多くの人にその価値を伝える応用研究がつながりあって、社会に常に新鮮な空気が流れるのです。
しかし、基礎研究はデザイナーの金銭的な収益につながりにくいので、続けるためには強い意志が必要です。
基礎研究に近い作業だけで収入を得られている人はごく一部のデザイナーに限られていて、基礎研究にとりくむ多くのデザイナーは応用研究で報酬を得ることでバランスをとっています。
日々、新しい表現を開拓するという仕事には多くのエネルギーが必要でしょう。
その熱量こそが次の時代への入り口となるのだと思います。
p292
書道に「臨書」という様式があります。
他人の書(名書とされている先人の書)を見ながらそっくりに書くことで、書の学習手段としてはじまりましたが、独立した一つの芸術表現として認められています。
それは、ただ表層にある文字の形をそのまま写し取るということではなく、その文字を表現した先人の筆運びや、息づかいなどの身体性にどこまで迫れるかという「挑戦の要素」が含まれているからではないかと思います。
書道だけでなく華道、茶道などの「道」と呼ばれる芸術表現には、模倣を通じて先人の考え方や精神を継承する行為が少なからず含まれています。
また、ヨーロッパの芸術・工芸における創造性のスタートは、唯一の創造主であった神を模倣するということでした。
ものを一から作って良いのは神だけで、人間は神の真似をすることで神に少しでも近づこうという図式がありました。
創造と模倣は対義語ではなく、強い結びつきをもった行為なのです。
p339
とくに若いデザイナーや学生さんは、周囲から評価を受ける機会がまだ少ないこともあって、自分の存在が社会でどんな価値をもつのか、はっきりと自覚することができないかもしれません。
だから性急に「自分の個性」を見つけることに囚われてしまいがちです。
最近ではSNSで作品を発信している作家やデザイナーも多く、同世代のタイムラインを日々追いかけるうちに、自分の実力や個性の無さにへこむ毎日を送っている人もいるかもしれません。
僕もデザイン年鑑などを一冊読み終えると、ページごとに展開される個性の熱に浮かされて、どっと疲れるときがあります。
デザイナーという職業における個性というものを考えてみると、僕は人からの依頼で作ったデザインを「自分の作品」と呼ぶことに少し抵抗があり、「制作物」といったあえて冷めた(距離をおいた)呼び方をすることがあります。
この冷たい呼び方には多様な要求に応えるデザイナーにとって、個性を押し出すことは良いことではないという考えが含まれています。
矛盾するようですが、デザインにおける個性や作品性、作家性を完全に否定しているわけではありません。
「4-14 ラーメンを出してから餃子を出そう。」でも述べたように、リクエスト通りのものだけを作る姿勢もまた消極的なことだと思っているからです。
では、デザイナーにとってより良い個性の表現とはどういったものでしょうか。
「5-1 基礎研究と応用研究。」でも述べたように、表現の可能性を開拓しながら(基礎研究)、それを仕事で展開させる(応用研究)ことを両立できるのが理想だとは思いますが、実際にその二つを連結させるのは多くの人にとって難しいことです。
よほど恵まれた立場にない限り、自分がやりたい表現が、すぐ社会に必要とされるとは考えにくいからです。
自分の創造性を進んで開拓しようとするなら、多くの人にとって基礎研究と応用研究を分けて考えたほうがやりやすいかもしれません。
利益にはならなかったとしても、自主制作として基礎研究に取り組んでみるのです。
「プロは学生のときのような自主制作ではなく、実際の仕事で技を磨いていくべきだ」という人もいるかもしれません。
しかし、僕は先輩からこんなふうに言われたことがあります。
「多くのデザイナーは練習をしていないスポーツ選手のようなものだ。バッターボックスに立った本番の試合だけを練習にしようとしている」。
この言葉を聞いてはっとしました。
それは依頼された案件に対して、その表現や技法がそぐわないにもかかわらず、無理やり自分のやりたいことを埋め込もうとしていたことが過去に何度かあったからです。
練習や実験という自分の欲求を満たすために提案したそれらの仕事は、ほとんどはクライアントから認められることはありませんでした。
それ以来、僕は仕事とは別に自分の時間を少しずつ使って、ときにはポケットマネーを費やしてデザインや印刷の実験をするようになりました(この実験も自分の大切な仕事の一部だと考えました)。
最初はまるで子どもが家でプラモデルを作るような、遊びの延長としての実験的なデザインや印刷でした。
この紙にこのインキで印刷したらどんな効果が出るだろう?
線数の違う二つの写真版を組み合わせたらどんな効果が出るだろう?
ハレーションを意図的に表現に組み込んでみたら?
実験のうちのいくつかは、期待以上の思ってもみない効果を生み出しました。
有効なレイアウト術、効果的な用紙・インキ・加工の組み合わせなど、実験から多くのことを学びました。
クライアントに迷惑をかけることはないし、何より好きなことができる。
やがて、依頼された仕事でこれらの経験を活かす機会が巡ってきたときに、自信をもって提案できるようになりました。
なぜなら僕はすでに「それを経験済み」なのですから。
こうした基礎研究の繰り返しと仕事へのフィードバックを続けることで、徐々に自分が獲得した方向性をデザインに組み込めるようになってきました。
はじめは分けて行っていた基礎研究と応用研究が、幾度ものフィードバックによって結果的に連携するようになったのです。
このような実験を長期にわたって繰り返すことで、僕は自分の専門家としての立ち位置をはっきりさせていきました。
ここまでそれなりに時間がかかりましたし、今もまだまだ未熟な身であると思っています。
個性や作家性は見つけようとして慌ててもすぐに見つかるものではなく、長期的に自然とつむがれていくものです。
長く続けるためには、自身がモチベーションを失わないで作り続けられる環境、つまり「持続可能性」のマネジメントを意識的に行う必要があります。
自主制作もそのひとつの手段で、ときには仕事の欲求不満をぶつけられるオアシス、メンタルバランスを整える場所だと考えてもよいでしょう。