「グラフィックデザインにおける秩序と構築」を2025年03月19日に読んだ。
目次
- メモ
- p4
- Preface p4
- 創造行為を支えるもの 日本語版特別寄稿 中野豪雄 p6
- p14
- p16
- 小説におけるグリッド A-2 p16
- p22
- p60
- 雑誌におけるグリッド A-5 p60
- p81
- p88
- Webデザインにおけるグリッド A-7 p88
- p116
- p117
- p126
- 人は秩序を求める C-1 p126
- p128
- p130
- p132
- p134
- p141
- p142
- デザインにおける直感と手順 C-3 p142
- p143
- p144
- p144
- p145
- p147
- p148
- p150
- 読書予測 p157
- ビジュアルレトリック p158
- フィボナッチ数列 p159
- 文字サイズ p160
- リーダビリティ p160
- リニアリーディング p161
- レジビリティ p161
メモ
p4
コミュニケーションデザインの誤った解釈として有名なものがふたつある。
ひとつ目は、デザイナーがどんな形の電話機やスマートフォンにしようかと頭を悩ませて考えるのがコミュニケーションデザインである、という誤りだ。
こうなるとまるで小話で、もう笑うしかない。
しかしふたつ目は、間違っているだけでなく、世間一般に広まってしまっている。
多くの人びとは、見た目に魅力的なものをつくり出すことが私たちデザイナーの使命と考えている。
ひとつ目よりは真実に近づいたけれど、まだまだ正解とはいえない。
私たちデザイナーに要求されるものはもっと大きく、当然のことながらずっと複雑だ。
そしてやることなすこと、すべてがビジュアルコミュニケーションの「構築」につながる。
Preface p4
言葉を使わずに何かを伝えたい人たちがいる。
だから「ビジュアルコミュニケーション」がある。
その人たちが言いたいことは何か、それを誰にどんな方法で伝えるべきなのか。
そういったことに私たちデザイナーは取り組む。
確かに、魅力的な外見をつくり出すことが大事なときもある。
だがそれは、最優先ではない。
何が大切かは、コミュニケーションの意図、媒体の種類、誰が何に魅力を感じるかにかかっている。
先ほど、ビジュアルコミュニケーションの「構築」と言った。
では、ビジュアルコミュニケーションの「構築」とは、どういう意味だろうか?
これは、媒体特有の法則の枠組みのなかで、要素の配置や体系化、ヒエラルキーづけをすることいってみれば「演出」を行うことだ。
また、媒体がそうした特有の法則をもつおかげで、本は遠くからでも本に見えるし、雑誌は離れていても雑誌にしか見えない。
こうしたことから、デザイナーが何に注意を払うべきかが見えてくる。
「構築」には「グリッド」が何よりも役に立つ。
そのグリッドの働きと使い方を本書では取り上げる。
さらにデザインの舞台裏すなわちデザインが考え出され、実現される場面も紹介したい。
きっとグリッドのような技法だけでなく、文化的な慣習や秩序、コミュニケーションのタイプ、技術的なイノベーション、実績ある戦略がつくる未知の世界が開けていることに気づくだろう。
ビジュアルコミュニケーションのありとあらゆる側面がつくり出す世界といえるかもしれない。
そうした原則を明らかにしながら、どんなデザインもコミュニケーションのプロセスに織り込まれるということ、さらにそのコミュニケーションのプロセスは幅広い分析や理論的な検討を重ねて成り立っていることを示していきたい。
創造行為を支えるもの 日本語版特別寄稿 中野豪雄 p6
なぜグリッドがデザインにおいて欠かせないのかは、本書のなかで十分に述べられているが、あえてその必要性を大まかに捉えるとしたら、それは個々の視覚要素間における関係性の構築と関係性の在り方そのものに一貫性をもたらすことだと考えられる。
さまざまな性質を持った情報を同一平面状に構成しようとするとき、つくり手には、読む(視る)行為にかかる負荷を可能な限り抑制することが求められてくる。
読書は多くのページを捲りながら視線移動を膨大に行うが、その際に、視線移動が一定のパターンによってコントロールされることでその負荷は軽減される。
そのためにレイアウトには何らかの一貫性と秩序、またはルールが必要になってくる。
ルールによってコントロールされたデザインであれば、読者は読書を進めるうちに視線移動がパターン化され、次第にどこから読みはじめればいいか、図版の大きさは何を意味するのか、その誌面は何を伝えようとしているのかが伝わり、読者は読書行為そのものに集中することができるだろう。
こうした読者の視線移動や読書行為を支える技術として、秩序に基づいた方法論の構築は、歴史的に見てもつくり手の大きな関心事とされてきた。
黄金比に基づいたフォーマットやメディアごとに有する情報の性質に特化された誌面構造は、情報をより多くの人たちに正確かつ合理的に伝えることを目的に、長い時間をかけて探究されてきたものである。
そこには、見る側が意識せずとも知覚しうる構成の原理が存在している。
たとえば、構成要素を上下または左右に揃えて配置することによって、それらはひとつのまとまりとして群化されることになり、関連したものとして捉えられる可能性が高まっていく。
一方で要素間の配置が「ずらされた」状態となれば、その関係性は途切れたことになり、異なる意味性を持った情報として認識される。
「揃える」「ずらす」といった、レイアウトにおいて日常的に行われている素朴な操作でさえ、そこには諸要素の関係に意味が生ずることになる。
好むと好ざるとにかかわらず、配置された要素は誌面という空間の状態によって視る側にさまざまなことを語りかけている。
このように視覚要素を配置するという行為には、常に関係性の強弱や階層的な上下関係、または包含といった意味性が伴うことになる。
また、誘目性や可読性、可視性といった要素も絡み合い、情報の性質と知覚の問題とが交叉するところに、構造、秩序の必要性が浮かび上がるのである。
グリッドの構築は、あらゆる条件が調和する状態を見出し、視覚的な統合を目指す極めて複雑な行為であるが、さらに複雑なのは、デザインの対象は当然ながら毎回異なるうえ、メディアも決して同一条件下で扱われないことである。
より厳密にいえば、扱う文字(言葉)や図版(イメージ)、またはそれらの関連性も内容ごとに変化するため、あらゆるコンテンツに対して万能に機能するグリッドは存在しない。
むしろ、グリッドを構築するという行為は、デザイナー自身がその都度内容を十分に理解し、階層構造を見出し、伝えるべき優先順位を明確にするための基盤をつくり上げるプロセスと捉えるべきだろう。
内容を視覚造形へと発展させるために構想する段階において、グリッドの構築は極めて重要なフェーズといえる。
もうひとつの重要な点は、これらのプロセスを経て構築されたグリッドをどのように扱うかというデザイナー自身の身体感覚の問題である。
グリッドがデザインの「構想」であるとしたら、視覚要素の配置や操作によってその構想は「具現化」される。
自ら定めた基準に即しながらも、自身の身体感覚と一致するまで繊細で緻密な造形操作を繰り返すことが求められ、細部の操作が全体の構造にどのような影響を及ぼすのか、もしくはその逆の影響関係はいかなるものかを反復していくことになる。
同じ内容、同じグリッドであったとしても、生ずる誌面のコンポジションがデザイナーによって異ったものになるのは、つくり手の視感覚や空間観が異なるからである。
つくり手の個々の感覚によって生じる差を肯定的にデザインに取り込むための方法として、本書ではコンピュータプログラムを用いた生成的なデザインを提案している。
秩序によって構築されたアルゴリズムにさまざまなパラメータの変化を加えることで、偶発的に生成された誌面を個人の直感によって自由に選択するという方法論、あるいは、調和を目指した静的なものではなく、新たな創作の意欲を掻き立てるための、変化を生み出す秩序の可能性である。
この提案が示唆するものとは、秩序(全体性・客観性再現性)と感覚(個別性恣意性一回性)が相反するものではなく補完し合うものであり、デザインは常にこの二項を関係づける創造行為であるということを伝えている。
本書は主にグラフィックデザイン、特にグリッドシステムをベースにした誌面構成やタイポグラフィを主軸として、デザインを支える秩序や構造の意味と役割について述べられているが、秩序とはそもそも私たちの生活を支えるうえで欠かせないものであり、秩序が存在することによってむしろ自由を獲得できるという視点が根底にある。
秩序は自由を奪うものではない。
むしろ、自由な創作とコミュニケーションを活性化させるための、動的でゆるやかで、変化を常に受け入れる秩序(システム)とは何かが求められているのである。
p14
ここではケースごとのグリッドの働きを紹介するだけでなく、グリッドがデザインにどんな影響を与えるのか、またグリッドを適用する前に何を検討すべきかも考えなければならない。
さて、媒体の話に入る前に、これから取り上げるどの媒体を読む際にも共通するいくつかの基本的事項(決まりごと)に触れておこう。
まず、ひとつの行は左か右に、本文の段内は左上から右下へと読み進み、出版物のページは(通常は)左側を表紙にして右側の裏表紙へとめくっていく。
この方法に私たち〔著者はドイツ人である〕は慣れている。
あまりにわかりきったことで、こんな決まりごとを改めていわれる意味はないと思っただろう。
でも世界中を見ると、地域によってこうした決まりごとは多種多様だ。
たとえば日本では、テキストを左から右にだけではなく、上から下にも読める。
アラビア語圏やイスラエルでは右から左だ。
ただ本書は、ヨーロッパの大部分で一般的に用いられる決まりごとに基づいている。
他には、文字サイズが大きいほど大声で重要なことを伝えているように感じ、小さいフォントは静かで重要性が低いように感じられる。
また、短いテキストほど手軽に読めるので、注意を要する長文に比べてより大胆にデザインできる、といったこともその一例だ。
タイポグラフィが、そうした繊細な問題や、極めて細かな慣習にまでかかわってくるものであることはよく知られている。
そして本書で論じる事例はどれも、そうした点にまで通ずるものだ。
より詳細な情報、特にマイクロ・タイポグラフィについては「改訂版ディテール・イン・タイポグラフィ読みやすい欧文組版のための基礎知識と考え方』*が詳しい。
*『改訂版 ディテール・イン・タイポグラフィ 読みやすい欧文組版のための基礎知識と考え方』、ヨースト・ホフリ
→参考文献 p.162
p16
それでは、例に挙げた媒体ごとのグリッドについて見ていこう。
まずは理解を深めるために、テキストだけを扱うグリッドで考慮すべきことを説明したい。
それには「書籍」を例に考えるのが最適だろう。
書籍にもいろいろな形式があるが、グリッドの観点から見て、もっともシンプルな形式をとるのは小説だ。
小説は、何ページにもわたり、本文のテキストが同じ形で構築される1段組のグリッドをもつ。
そのようなデザインをとることで、小説のもつ読書予測に対応しているのだ。
読み手の「リニアリーディング」を行いたいという欲求はとても高い。
完全に理解するためには、テキスト全体を頭かリニアら終わりまで(言い換えれば直線的に)読まなければならないと知っているからだ。
小説におけるグリッド A-2 p16
小説のデザインでまず問題になるのは、製本タイプや用紙、そして、フォーマットだ。
一般的には縦長のフォーマットが選ばれる。
これは、たとえば本棚への収まりだとか、読むときに持ちやすいといったような、実践的な検討をいくつも重ねてきた結果である。
また、本を開いたときにどんな印象を受けるか、どんな役割を果たすのかも重要だ。
読み手の目は見えるもの全体を捉えるので、本のデザインは見開き2ページにまたがるものになる。
これまで、いくつも縦長フォーマットの本の縦横比が考案されてきた。
この100年間、ヤン・チヒョルト〔モダン・タイポグラフィを代表するドイツのタイポグラファー。当初は新たなタイポグラフィを提唱したが、ナチスの弾圧を逃れスイスに移ってからは伝統を守ろうとした〕からヨースト・ホフリ〔スイスのタイポグラファー、グラフィックデザイナー。特に書籍デザイナーとして世界的に名高い〕まで、何人もの名高いタイポグラファーが調和のとれた関係性をもつ比率について検討してきた結果だ。
p22
小説の版面の基本的なデザインは、版面の「内側」と「外側」両方の条件で決まる。
版面の「内側」の条件といえるのが、書体、文字サイズ、行長、行間の決定だ。
英語の場合、中程度の長さの単語10単語程度が快適に読める1行の長さだとされている₇〔日本語で書かれた和文横組みの場合は、長くても30字から40字程度が読みやすいとされている〕。
書籍サイズによって、要件を満たす理想的な版面の幅はさまざまだ。
その版面の幅は、読みやすい文字サイズ(通常は8-12ポイントのものを字体と行間に応じて使い分ける)を選ぶことで調整できる。
一方「外側」の条件には、フォーマット上への版面の配置がある。
そこでは、用紙の縁から版面までの距離が影響する。
小説の見開き両面のページを完成させるには、「ページ番号」と、章タイトルなどさまざまな情報を表示する「柱」を配置する必要がある。
どちらも上部か下部もしくは小口側のマージンといった版面の外側に置かれるのが一般的だ。
「内側」と「外側」の条件を両方をあわせて検討し、開いた両ページにわたって左右の版面がバランスよく配置され、本文が読みやすく(できたら両端揃えで)見せられていれば、小説のレイアウトは成功だ。
コンテンツへの対応と読書予測、さらに「リニアリーディング」という読書プロセスが、理想的な形で呼応し合っているといえるだろう。
p60
これが雑誌のデザインだ、と一般化して話すのは簡単なことではないというのも、その雑誌が何を伝えようとしているか、そしてどんな役割を担うべきかによって、デザインは大きく異なるからだ。
サッカー雑誌かファッション雑誌か、ライフスタイル系かアングラ系か、あるいは時事系雑誌か、はたまた扇情的で低俗な雑誌か。
その種類は多様だ。
しかしそうした雑誌のほとんどには、定期的に発行される点、駅の売店や書店の棚で存在感を発揮しなければならない点、そして一般的に「インフォマティブ・リーディング(知識獲得のための読書)」という読書予測に対応するものである点など共通点も多い。
雑誌におけるグリッド A-5 p60
まず、「インフォマティブ・リーディング」が、雑誌の編集上の構成に影響を与えている。
その一例が、読者にとってわかりやすく適応しゃすい構成にするために「カバーストーリー」「レポート」「人生相談」「動向調査」といった定番の編集フォームを繰り返し用いている点だ。
そうしたフォームは毎号毎号テキストの長さが同じで、図版も同じようなサイズや配置になっている。
これは、作り手にとっても役に立つ。
筆者は、その雑誌のグリッドで決められたテキストの長さがベースの「行に合わせて書く」ようにすればいい。
どの程度のスペースが与えられるか、またそれに応じて内容をどの程度詳しく、あるいは簡略化すればいいかがわかっているからだ(これは新聞と雑誌との類似点のひとつでもある)。
一方「インフォマティブリーディング」では、デザインにはふたつのことが求められる。
まず、デザインは読み手を確実に誘導できるものであること。
そのため、見出しや小見出し、本文、傍注、さらに図版や表も、たとえば特集記事なのか、役に立つヒント集なのか、レポートなのかが見分けられるように、そして一目瞭然に全体が見てとれるように配置する₁。
ふたつ目に、そのデザインは、多様なフォームがつくり出せる小さなモジュールから構成されたグリッドに基づいていること。
構成や美学的な特徴を毎号繰り返すのには、出版業界で愛読者と出版物の忠実な関係」と呼ばれるものを獲得したいという狙いがある。
だから、表紙はその狙いに応じて定型的なデザインにする必要がある。
要するに、読者はコンテンツがまったく新しい場合でも見慣れたものを期待するのだ。
たとえば『Spiegel(シュピーゲル)』〔ドイツのニュース週刊誌徹底した調査報道に定評が高く、発行部数も多い〕なら、同誌と聞いた読者の脳裏に浮かぶあらゆる視覚的な、またコンテンツに関する予想を満たしていることが期待される。
『form(フォルム)』〔ドイツのプロダクトデザイン誌〕や『11 Freunde(11 フロインデ)〕〔ドイツのスポーツ雑誌]、『The Gentle woman(ザ・ジェントルウーマン)』〔イギリスの女性向けカルチャー誌〕といった雑誌でも同じだ。
1
「インフォマティブ(知識獲得)」に読もうとするとき、読者は限られた範囲にしか目を向けようとしない。
そこで必ず知っておくべきことがある。
読者が雑誌をぱらぱらとめくるときにまず目を留めるのは図版で、次に見出しを読む(このふたつは順番が逆になる場合もある)。
続いて、おそらくキャプションも読むだろう。
そして最後に、記事を読み続けるか、他のページの拾い読みを続けるかを決める。
レイアウトの際にはそうした読み方を念頭におくことが必要だ。
p81
新聞からは、テキストの囲い込みや図版の配置に使えるさまざまな手法だけではなく、優れたマイクロタイポグラフィの実例(文字サイズ、行間、紙面のグレー濃度〔密度〕など)を学ぶことができる。
高級紙に見られるように、リーダビリティ〔テキストの読みやすさ〕とレジビリティ〔文字の判別しやすさ〕に最大限の配慮がなされているからだ。
ただ、大衆紙の荒っぽいタイポグラフィにもそれなりの意義がある。
遠目からでも、俗っぽい内容であること請け合いだと伝わるからだ。
「新聞」という印刷形式の媒体がやや時代遅れに感じられるとしても、世界中で日々発行されている新聞はビジュアルコミュニケーションの巨大な一要素であり、またインスピレーションの源としても役に立つ。
新聞が詳細なレポートを提供することは言うまでもないが、加えてインターネット上では情報が過剰に溢れかえってしまうときもあることを思えば、今でも新聞は重要な見識や評価を提供しているといえる。
p88
Webデザインのアプローチは、媒体の基盤となる技術的要件から多くの点が決まる。
そうした技術はユーザー行動と同じく絶え間なく変化していて、なおかつそのスピードは非常に早い。
そうした状況は、デジタルの可能性の広がりとそれに伴う習慣の変化からも見えてくる。
Webデザインにおけるグリッド A-7 p88
ほんの少し前まで、Webデザインの表示オプションはそれほど大差なモニターサイズに対応していればよかったというのも、その一例だろう。
Webサイトはフレキシブルではなかったので、画面サイズが小さいときには隠れてしまったコンテンツが見えるように端まで横スクロールする必要があった₁。
しかし間もなく、その不便な状態は解消される。
グリッドの関係性を保ちつつさまざまなサイズに適応できるように、「リキッド(フルード)レイアウト」が用いられるようになったのだ。
これで、表示画面が狭くなるにつれてレイアウト中の段組も(一定のサイズまでであるが)狭められるようになった₂。
だがその一方で、Webサイトにアクセスできるデバイスの種類はどんどん増えている。
スマートフォンのポートレートモード(縦向き)にランドスケープモード(横向き)、タブレット端末のポートレートモードにランドスケープモード、ノートパソコン、固定モニターなどさまざまな環境で、情報が欠けることなく快適に表示されなければならない。
その要求に応えるには、レイアウトは「リキッド」なだけでは不十分だ。
あわせてレイアウトの幅の変化に対して、「ブレークポイント」(すなわちソースコードに設定された表示幅)をもつ「アダプティブ」なデザインが用いられるようになった。
デバイス自体の大きさや、縮小したウィンドウの幅が、ブレークポイントを超えたり下回ったりしたときには、ソースコードに書かれた表示形式へと変化する₃。
さらに、「リキッド」デザインによって幅を縮めた後に、ある幅を境に3段組のレイアウトから2段組へ、さらには1段組へというように、大きくレイアウトを変化させられるものもできた。
この「リキッド」と「アダプティブ」の調整メカニズムを合わせ持つフレキシブルな構造は「レスポンシブWebデザイン」と呼ばれる。
現在では、「レスポンシブWebデザイン」が究極の形態とされている。
コンテンツをそれぞれのデバイスで最適な形で見せることができるからだ₄。
デザインの観点から見ると、まったく新しい仕組みでもある。
レイアウトの重要性は薄れ、グリッドがいくつも必要になるため、唯一の配列原則というグリッドの意味合いは失われつつある。
これは当然のようにも思える。
固定フォーマットがなければ、グリッドは目には見えない構造の生成装置という地位を失う。
Webサイトのデザインとはテンプレート(もしくは「ページタイプ」ともいえる)のデザインだといえる。
思いつく限りのデバイスを対象として考慮すあるならば、テンプレートの数は膨大にならざるを得ない。
そしてWebサイトが読み込まれるときには、そうしたテンプレートのどれが用いられるかが決定される。
簡単にいえば、コードが読み手のブラウザに問いかけ」て答えを得る。
たとえばウィンドウを縮小しようとちょうどドラッグしているところであるなど、データがまだ不明な場合には、アルゴリズムが最適な幅を決定する。
さまざまなフォーマットすべてに対応するために、コンテンツは多数の小さな「情報のまとまり」へと分割されることになる。
そのまとまりとはグループ化されたテキスト、見出し、図版や、グループ化された図版、色面であり、また絵や図表の場合もあるだろう。
そうした「モジュールとなる情報のまとまり」同士の関係性は、フレキシブルだ。
だから読み手によってふたつのまとまりが隣同士になることも、いくつつも横並びになることもあり、必要性とプログラマーの設定によっては上や下に並ぶこともある。
これはフォーマットと版面、グリッドの決定からはじめる「外側から内へ」のデザインに対して、「内側から外へ」のデザインといえる。
レイアウトを決めてしまわず「情報のまとまり」に基づくこの手法には、明らかに利点がある。
この手法以上に、多種多様なデバイスにフレキシブルに適応することはできないからだ。
このとき、Webサイトの識別、つまりブランディング」の基盤となるのは、書体の使い方と特徴、図版の見せ方、色づかいなどである。
レイアウト用のグリッドからフレキシブルな情報のまとまりへの進化は、単に異なる表示形式に応えるだけの進化ではない。
ブラウザに実装されたWebアプリケーション、デスクトップアプリ、さらには印刷物まで、さまざまなオペレーションシステムのアプリケーションを実行可能にする進化だ。
その好例が、印刷レイアウトがCMS(コンテンツマネジメントシステム)から生成されるT3N誌のWebマガジン版だろう。
このWebマガジン作成に用いられているのはTYPO3〔オープンソースCMSのひとつ〕だ。
制作者によると「TYPO3の助けと、XML、XSLT、XSL-FOを基盤としたWebペースの出版インフラによって、T3Nはワンクリックで動的に原稿として組み上がり、完成する」という。
Webデザインの技術的なフレームワークによって、デザインの進め方を根本から変えてしまうかつてない方法と新たな見方が生み出された。
有形のフォーマットの重要性は薄れつつあり、モニターのフォーマットにすら必ずしも意味はない。
もはや最終的なレイアウトは存在しないので、それをWebデザイナーがコントロールするのも不可能だ。
代わりに、バラエティーに富んだ可能性を(たとえば膨大な数の「ページタイプ」の形で)提示することが、デザインにとっては必須となる。
またWebデザインの進め方は複雑で、ゴールへ向かう道は一方通行ではない。
デザインからプロトタイプづくりへ、さらにプログラミングへと進み、また引き返す。
テストをして、その結果またデザインへと立ち戻るといった具合だ。
Webサイトの可能性がどのように見えるかは、デザイナーとプログラマーの共同責任になる。
重点が置かれるのは、多種多様なコンテンツが収まる大量のフォームをもつフレキシビリティだ。
またどのプログラム言語を使うべきかといった技術的な問題によっても、画面表示時のデザインの違いは大きくなる。
加えて、送り手と受け手とのコミュニケーションが直接評価されるのもこれまでになかった点だ。
その送り手と受け手の関係性の変化は「ユーザーエクスペリエンス」「インタラクションスタイル」「ユーザビリティ」「エンゲージメントタイム」「ペルソナ」という用語にも現れている。
ユーザーの行動がデザインにかつてない直接的な影響を及ぼす。
逆もまた祭りだ₅。
このA-7は、Webデザインの導入部だと見なしてほしい。
具体的なヒントや技術的手順の解説はほぼ意味がないだろうし、本書で扱う範囲を超えている。
そのうえ、すでに触れたようにWeb技術の進化スピードは、あまりに早い。
本書が出版される頃には、新発見や新しい技術的な可能性、新たな要求事項、新たなユーザー行動がもう出現していることだろう。
最新状況についていくためには、エキスパートたちのWebサイト(smashing magazine、T3N、960.gs、ia.net、praegnanz.deなど)を定期的にチェックしておくことだ。
1
固定レイアウトのWebデザイン:90年代によく見られたWebサイトは「ハードコード」されていた。
つまり、あるサイズをこれが一般的な画面サイズだと決めて、それに対して最適化していたのだ。
表示するデバイスのフォーマットや解像度が変わればWebサイトの一部が見えなくなるので、全体を見るには横スクロールしなければならなかった。
2
リキッドデザイン:レイアウトはさまざまなスクリーン幅に対応する。
縦の距離はそのまま。
3
「リキッド」が「アダプティブ」Webデザインと合体した。
図から、情報の構造が大きく動き、段組の数が変わる様子がわかるだろう。
「ブレークポイント」が効力を発揮したときにこうした変化が生じる。
4
多様なフォーマットでグリッドが使用されるため、対応方法としてこれと決まったものはない。
レイアウトや求められるものによって、さまざまな方法がある。
できる限り多様な選択肢を用いるという点に関しては、「レスポンシブWebデザイン」がもっともフレキシブルなシステムだ。
図版や表、テキストの情報のまとまりを、表示デバイスそれぞれに最適なサイズ、すなわち利用可能なスペースに応じて再グループ化することができる。
5
アルテ〔ARTEドイツ語およびフランス語で放送される独仏共同出資のテレビ局〕のメディアライブラリーでは、コンテンツはいくつかの情報のグループに分割され、模範的な見え方になっている。
たとえばデスクトップPCのモニターサイズが変わると、グリッドが「リキッド」式にそれに追従する。
スマートフォンのブラウザ表示がポートレートモードになる場合など、幅がブレークポイントを下回ると、グリッドは「アダプティブ」に対応する。
モバイル端末のアプリでは、スマートフォン用に特化したデザインになる。
「ネイティブ表示」と呼ばれるものだ。
p116
私たちデザイナーは、段階を追ってプロセスを進めていく。
まず送り手が何を言いたいのかを理解しなければならない*。
送り手と相談して、コンテンツが独自の魅力として備えておくべきものを決める。
続いて、受け手を詳しく見て、彼ら自身とそれを取り巻く社会文化的環境、たとえば視覚的環境はどんな特徴をもっているか、どんな価値観で暮らしているか、どんな好みをもっているかについて分析する。
こうした先行作業から、コミュニケーションについての送り手の意向と、受け手の狙い通りの反応を引き出すためにはどんな視覚的なシグナルと刺激が必要かがわかる。
そして、デザイナーはこのコミュニケーションのプロセスに不可欠となるビジュアルアナロジーを生み出す手順に着手する。
「ビジュアルアナロジーを生み出す」とは、共有された意図や用語に適したグラフィックの形態を見つけ出すことにほかならない。
あるデザインで与えたい印象はいくつもあり、そうした印象を示す典型的な言葉が「深刻な」「有益な」「派手な」「魅力的な」などだ。
こうした概念に対してどういった手法を用いるかは、そのメッセージを向ける相手によって変わる。
23歳女性の法学生と27歳の配管工、35歳の失業者、54歳の経営者では「深刻」の意味するものはみんな違う。
国や文化ごとに「深刻」の解釈がすべて異なるのも言うまでもないだろう。
ターゲットグループについて深く知るほど、デザインは妥当なものになる。
デザインの第一歩にはさまざまな方法があるのだ。
*もちろん、デザイナー自身が立案者の場合もある。
その際には、送り手であると同時にデザイナーの役割を担う。
それによってコミュニケーションの構造が変わることはない。
p117
レイアウトデザインを考えるとき、ほとんどの人がすぐにコンピュータの前に座るだろう。
確かにいい方法だが、落とし穴もある。
考えはじめに、レイアウト用のプログラムを使おうとすると、いくつかのパラメータを設定する必要がある点だ。
フォーマットや書体など、この時点ではまだ未定としておくべきものも含まれている。
だから、私はいくつかスケッチしてみるところからスタートする。
アイデアをすぐに取り消したり変更したり、具体化したりできるのが利点だ。
さらに、論理的な分析だけでなく、スケッチしながら具現化できる直感的なアイデアもデザインの基盤となる。
p126
A章とB章では、デザインの実践の場でグリッドが果たしている役割を説明してきた。
しかし、デザイナーのちょっとした気まぐれで、そうした秩序化の傾向が生まれているわけではない。
ただ必要なことをしているだけだ。
正直なところ、さまざまな秩序化システム(グラフィックにおけるグリッドもそのひとつだ)の力を借りない私たちの生活などほとんど想像できない。
極めて型破りだ、あるいは奔放だと思っているものすら、実はその例に漏れない。
私たちはみんな、道しるべとなるパターンや構造、手法が必要なのだ。
また私たちが日々触れたり、評価したりしなければならない衝撃やニュース、刺激、シグナルがあまりに多いことを考慮しても、やはりなんらかの指針が不可欠だ。
人は秩序を求める C-1 p126
私たちは、最初に情報をちらっと見ただけで、それが発するシグナルから、反応すべきか無視すべきかを判断したいと思っている。
だから、環境は予想可能であることが望ましい。
信頼のおける構造は、毎日の生活を暮らしやすくする。
それを達成するために、この世界は数え切れないほどの秩序化システムと、他人と共有する慣習からできている。
そして私たちは、それに気づかないどころか当然の状況だと考えている。
そうした慣習の存在は、未知の文化での自分とは違う慣習(たとえば握手をする習慣はあるか、別れの言葉はどう伝えるか、車は道のどちら側を走るか、本は右開きか左開きか、契約を結ぶには手を握り合うだけで十分か、どのように礼儀正しさを示すかなど)に遭遇してみて、はじめて完全に認識するようになる。
外国を訪れたり、外国からの客人を迎えたりしたときによく起こる状況だ。
しかしよく観察すれば、自分たちの世界がもつ秩序のシステムやしきたりを見つけ出すのも難しくはない。
その秩序は基盤構造や素材によって、あるいは文化的、知的な観点からできていることもある。
辺りにある例を見渡してみよう₁。
靴下とシャツは別々に片付けられる。
それを収納する棚が置かれているのは、マンションのとある住戸のなかで、その住戸は用途の違ういくつかの部屋に分かれている。
その住戸の入るマンションは、全体像がよくわかるようにそれぞれ番号を振られた家々の並びの一部だ。
その家々が面する通りにも、識別できるように名前がついている。
そしてその家々と通りが街や村を形成し、それがさらに他の街や村と通りで結ばれる。
その通りが畑や森林、牧草地を貫いて区分された区画がそれぞれの目的に使用されるようになる。
輸送手段とコミュニケーションシステムが街や都市をつなぐ。
1
私たちが日常生活のなかにある秩序のシステムを意識することはまずないが、実際にはその恩恵を大きく受けている。
整理された衣類、本棚にきれいに並んだ本、さらには不人気ではあるが交通規則のおかげで、私たちは本当に重要なものに集中できる。
p128
その基礎となる計画は、教育制度によって必要な知識を身につけた専門家によって描かれる。
さらに、その教育制度は、データベースや書籍に収録、構成される。
あるいは、教育のために準備されている情報に基づくもので、ある決まった社会システムによってつくられた条件をもつ政治的構造の一部である。
……と、このように関係性はどんどん続いていく。
秩序を見出したいあるいは学び、生み出したいという人間の欲求は、古来より連綿と続いてきたと考えられる₂。
アドリアン・フルティガー〔スイスの書体デザイナーおよびグラフィックデザイナーで、「Univers(ユニバース)」「Frutiger(フルティガー)」をはじめ数多くの書体を生み出した〕は、その根源的な欲求を解明しようと、ちょっとしたモデル実験を試みた。
「空っぽ」つまり真っ白な正方形が描かれているのを思い浮かべてみてほしい。
そこに、なんの秩序にも基づかない、ランダムな方法で16個の点を描き加える。
フルティガーは著書『図説サインとシンボル』*において「十六個の要素を何気なく偶然のように置くことが相互に関連をもたせず、またいかなる特定の構造も、イメージも、幾何学的または形象的表現も連想させずに置くことがどれほど困難であるかがわかるだろう。
こうしたランダムな配置とは対照的に、同じ十六個の点を用いて種々の形象や配列を思い描き、形づくることは実に簡単である。
この事実を認識することから、ひとつの逆説的な結論が得られる。
すなわち、秩序をもった形を作ることは、無秩序、無形(形をもたない形)を作ることよりも易しいのである」(『図説サインとシンボル』、アドリアン・フルティガー著、越朋彦訳、2015年、研究社より)
フルティガーは、この「つくること」に関する例に加えて、もうひとつの例で「見ること」についても検証した。
サイコロの各面上にある点の位置を通常の場所から動かし(たとえば1のときの点を面の中央ではなく端におくなど)、その変化が引き起こす不快感について記している。
つまりサイコロの目の数(点の個数)だけではなく、見た目のイメージ(表面にある点の並び方)も、私たちに情報をもたらしているのだ。
本来の情報(目の数)自体は何も変わっていないのに、既存の決まりごとから少し変えただけで不確実なものに感じられてしまう₃。
人間は全体の印象からディテールへと順に認識していくため、情報の性質と信頼性についての大切な第一印象はその「イメージ」からもたらされる。
*『図説サインとシンボル』、アドリアン・フルティガー
→参考文献 p.162
2
世界を眺めるのに距離をおけばおくほど、秩序に満ちた生活の様相はますます魅力的になる。
この灌漑システムの写真には、契約や建築許可、年間バランスシート、家族構成、所有権は示されていない。
地球上には「無造作」なものなどないのだ。
3
このサイコロは見た感じおもしろそうだ。
でも、これで賭け事をしようと誘われても乗ろうとは思わないだろう?
p130
新聞や取扱説明書と同じように、小説は離れた場所からでも小説のように見えなければならない。
その内容を読みはじめるよりも前に、レイアウトが特性について語りかけてくる。
それを確実にするのが、グリッドという形で現れるデザインだ。
デザインに取りかかるのに先だって、デザイナーは視覚化できるようにコンテンツを読み解く必要がある。
デザインに着手できるのは、その後だ。
そしてコンテンツを流し込む先は、媒体特有のレイアウトを備えた適切なフォームであり、書籍でも雑誌でもその媒体だとすぐに見分けることができる必要がある。
なかには、デザインにかなりきびしい制約を与えるコンテンツもある。
たとえば、詩をデザインしようするとそれがよくわかる。
もし、作者の決めた文字の並びを無視してしまったら、文学的な意図が読み手にまったく伝わらない。
詩が、詩らしい配列でページ上に配置されていない場合にも同じことがいえる₄。
視覚情報を構造化してその内側に配置することは、ただ人間の誘導に対する欲求に合致しているだけでない。
「実行する」(さらにいうなら「送る」。デザイナーの観点から)という面、そして「見る」(より正確にいえば「受け取る」。受け手の観点から)という面、その両面において根本的に不可欠な要件だ。
そのため、秩序を形づくるマクロ・タイポグラフィの一構成要素となるグリッドは、単純化と独自性のいずれの面からもコミュニケーションの構成要素として不可欠といえる。
「送る」あるいは「受け取る」は、人と人のコミュニケーションの基本要素だ。
人類の歴史を振り返ってみると、視覚情報を「送る」、そして「受け取る」ことは、人類の文明のはじまりを象徴している。
シュメール人〔人類最古の文明のひとつである高度なメソポタミア文明を築いた民族〕の楔形文字からですら、その内容を構造化しようとしていたことが見てとれる₅。
世界中のあらゆる書記体系の歴史のなかで、それがシンボルか、絵図、文字であるかにかかわらず、視覚コンテンツの秩序化は極めて重要な役割を果たしてきた。
結局のところ、言語の固定(書くことはまさにそれにほかならない)の本質をつくり上げているのは、直線性と繰り返しに適した明確な特性だ。
先史時代には、動物を狩る様子をピクトグラムへと置き換えることで、それをシンボルとして繰り返すことができた。
そして、シンボルが学ばれ、伝えられ、使われるなかで、書くという形のコミュニケーションが出現したのだ。
4
この詩がどのように読まれるべきかがはっきり示されている。
この配列を妨げるようないかなる干渉も許されない。
5
シュメール人は農作業をし、動物を飼い、取引をし、対価を支払う手段までもっていた。
つまり、すでに秩序ある社会に暮らしていた。
だが、それは(ビジュアル)コミュニケーションなしには不可能なことだった。
p132
現在、私たちがビジュアルコミュニケーションにおいて文字を使用するときにも、原則としては同じことが起こっている。
つまり、抽象的な文字コードを学び利用することで、そこに内在する秩序の原則を自動的に受け入れている。
そのごく基本的なものが、読むときに必要な字間の距離、行と行を分ける距離、書くときの方向だ。
そういったことを直感的に行っているが、これはただ、視覚的に記憶に残っている記号や記号の構成(ピクトグラムから文章、レイアウトまで)と常に比較しているに過ぎない。
フルティガーは、すでに紹介した本『図説サインとシンボル』のなかで、いかに人々はグラフィックの記号の形状やパターンに自分の見慣れたものを求め、解釈するかを形態学的に示している₆。
しかし、こうした解釈のしかたに影響を受けるのは記号だけでない。
紙面、さらにはレイアウトも同じように影響を受ける。
たとえば、ある記号(文字でも図版でも)が真っ白な紙面の上部に置かれていたら不安定な印象を受け、同じものが下部にあれば安定感を覚える。
これは、私たちがさまざまな形で視覚的に習慣づけられている事実を示唆している。
この例の場合は、重力のことが頭にあり、それに誘導されて、上部に浮かんでいるものは支えがないように、対して下部にあるものは「確固とした地盤」上にあるように感じているわけだ。
そしてあらゆる解釈はそれぞれの文化がもつしきたりに影響され、なかにはその影響を他よりも大きく受ける解釈もある。
そこから、たとえば文章を左から右へと読み書きする人たちは、左から右へ向かうときに「動き」も感じると仮定できるだろう。
実際、その「動き」をどれほど細かなバランスで(それも無意識のうちに)私たちが感じ取っているかは、マイクロ・タイポグラフィの例を見てみてもわかる。
ヒューマニスト・セリフは、カーブや接続部の細さ、セリフ〔文字の端部にある小さな飾り〕の緩やかなカーブ、右への傾きから手書きスタイルを残し「動的」と見なされている一方で、ラショナル・セリフは縦線が強調されていることから「静的」に感じられる₇*。
しかし無意識に眺めている、グラフィックのとある要素も、私たちの知覚に影響を与えている。
それは、空白部分だ。
テキストのかたまりの合間や周囲、行と行、語句と語句、文字と文字の間、いずれの空白にもそれは当てはまる。
*『図解で知る欧文フォント100』、スティーブン・コールズ
→参考文献 p.163
6
ヨーロッパ文化圏で育った人なら誰でも、同じようにこう解釈するだろう。
a) 閉じた空間、b) 守られた場所、c) 容器、d) 入口を思わせる開口、e) 出口を思わせる開口。
こうした解釈は学習してきたパターンに基づくもので、上と下の関係性、あるいは左から右への動きによるものだ。
なかでも後者は、私たちの読み書きの方向がベースになっている。
7
Garamond(ギャラモン)は、(読み進める方向に一致した)ヒューマニストの手書きに近い書体に分類され、流れのある特徴から「動的」なオールドスタイルのセリフ体と見なされている。
Bodoni(ボドニ)は、その成立から縦の線がより強調されていて、「静的」と見なされる。
p134
中国の思想家老子は、ひとつの車輪は何本もの幅で構成されているが、実は車輪をつくっているのはその幅だけではなく、その巧みな組み立て方である、と言ったとされている₈。
この指摘は、創作活動の基本原則にも当てはまる。
残すものと省くもの、白と黒、あるいはものと空白との相互作用から構築されるからだ。
これを念頭においたうえで、これまでに魅力を感じたデザインの作品について思い返してみると、そうした作品で空白のまま残された面がどれほど大きな効果を発揮しているかがわかるだろう。
よく観察すれば、印刷されている部分とそれ以外の部分のバランスは、決して自由に決まっているわけではないことが見えてくる。
そして、最初に紙面を正確に分割するグリッドが、後には美学的な面でも役立つことが明らかになる。
グラフィックの「見えない」部分は、正確さと連携によってはじめて効果を発揮するからだ。
まとめるとこのようにいえるだろう。
秩序は、反感をもっていようが必要としていようが、あるいは無視したいと考えていようが、間違いなく生活の基本的な一要素である。
なぜか。
それは混沌とした複雑な世界において、私たちがよりどころとする道しるべだからだ。
私たちデザイナーは、視覚コードの効果と視覚的な秩序のつくり方を知っている。
そして視覚情報を補助するものとしてグリッドを用いるとき、見る人をわかりやすく誘導することを考えている。
というのも、媒体の典型的な特性として、グリッドによって階層を明確につくり出すことができるからだ。
ということは、デザイナーはデザインの目に見える要素に対してだけでなく、見えないもの、いわゆる構成に対しても責任を負う。
そして、デザインされた全体の印象がコンテンツの内容を伝えるものかどうか、またどのように伝えるかを決める権利はデザイナーの手中にある。
私たちの専門性の基盤には、デザイナーとしての知識、結果的に手にする権利、そしてそれにかかわる責任があるといえるだろう。
8
「幅の巧みな組み立て」の例。
車輪を形成するための基盤になっているこの考えは、さまざまな分野に持ち込むことができ、デザインに関すること(グリッド、書体、レイアウト)も、あらゆる種類の物質的、非物質的な構造もすべてその対象になる。
そしてどんな場合でも、目に見えないものが常に役割を果たしている。
p141
本書ですでに何度か触れてきたとおり、認識とはコントロールできるものだ。
たとえば、ターゲットグループの視覚的な慣習を研究しておけば、彼らの「言葉」を話しはじめることができる。
ターゲットグループの習慣を前もって確かめるという意味ではなく、いってしまえば、コピーすることだ。
コンテンツによっては、慣習を破ることが正当化できる理由もあるかもしれない。
だが、そのように慣習が破られていること自体が、受け手にもわからねばならない。
受け手自身が、届いた視覚的な「言葉」を読み解くことができなければならないからだ。
視覚的な「言葉」は、それぞれのコミュニケーションがもつシチュエーションに由来する視覚的な文法をもつ。
そうした文法は、その基本構造として媒体とグリッド、書体、図版という4つの構成要素をもつ。
p142
ここまで、「デザインの秩序」というトピックについて、さまざまな技巧的な面に焦点を絞って見てきた。
そのなかで、ほとんど注目してこなかった点にも疑問はある。
デザインのプロセスのうち、何割くらいを直感的なものが占めるのだろうか?
ただ計画的に進めればデザイン(と「構成」)は可能なのか?
あるいは、いいデザインに欠かせない非合理な構成要素というものがあるのか?
違いを生み出すのは秩序か、それとも直感なのか?
ここでは、この両極にあるものの関係性を明らかにしたい。
この問題には長きにわたる歴史があり、そのはじまりは、人々が「科学」と「芸術」を相反する分野として考えはじめた頃にさかのぼる。
デザインにおける直感と手順 C-3 p142
科学と芸術はルネサンス期には近しい関係にあり*、啓蒙思想の時代までそれが続いたが、19世紀中頃には新しいものの見方が出現する。
芸術家には断固として「主観的」な観点が期待される一方で、科学は極限まで「客観的」になることを目指すようになったのだ。
この科学と芸術を対立的な概念に二分した見方は、現在まで連綿と続いている。
とはいえ、いくつかの分野ではたびたび歩み寄ることもあった。
19世紀から20世紀初頭にかけて両分野が歩み寄った理由の根底には、工業化の進展と政治的な大変革があった。
そこに出現した「応用芸術」という新たなコミュニケーションの形態のうちのひとつがグラフィックデザインだ。
商品の広告のことを指す場合もあれば、政治姿勢の広報や、一般的な公共スペースでのコミュニケーションの場合もあった。
いずれにせよ、植字工と印刷業者(当時はまだ現在でいうところのデザイナーはいなかった)は次第にデザイナーや制作者のようなものになっていった。
そして彼らと協働するなかで、当時の前衛芸術の提唱者たちの多くがビジュアルコミュニケーションの力を発見していく。
再び芸術と知識のギャップを埋めることを可能にしたのは、まさにそうした芸術家たちだった。
*
ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチ、アルブレヒト・デューラーといった芸術家たちは、芸術、解剖学、技術的な発明にも取り組んでいた。
ルネサンスには、ヒューマニズムによって芸術の解釈が変化しはじめる。
中世での神を中心とする観点とは対照的に、個々の人生と事物の世界の価値を重視する人間の「新しい」イメージが生み出された。
p143
これは、科学と技術、芸術の融合を掲げて設立された芸術学校バウハウス*の提唱者の姿勢にも見られる。
彼らが目指していたのは社会のために倫理的かつ美的な規範をつくり上げることだった。
技術と芸術の融合は、20世紀初期に典型的な特徴となった。
計画があってはじめて、今や誰にでも手に入れられる商品の大量生産が促進される。
計画があってはじめて、そうした商品をターゲットグループに与える影響を予測して宣伝でき、また計画があってはじめて、啓蒙やプロパガンダといった形で政治姿勢を広報できるようになる。
こうした要求の結果として登場したのが、計算された計画と人為的なデザインのハイブリッドとしてのグラフィックデザインという役割だった。
しかしながら、こうしたすべてのものの上に漂う理性の力も、科学によって目指したデザインの「客観性」もやはり両面的に分析されるという事実を覆い隠すことはできなかった**。
この点を、ワシリー・カンディンスキー(後にバウハウスで教鞭をとる)は、1912年の論文「Überdie Formfrage(フォルムの問題について)」で次のように指摘している。
「……つまり、真のフォルムは感覚と科学の組み合わせから生まれる」
その一方でパウル・クレー(同じくバウハウスの教官)は、1928年に「Exakte Versuche in der Kunst(芸術領域における厳密な実験)」において、科学的アプローチの限界についてこう述べた。
「……人は証明し、正当化し、構築し、ひとつにまとめる。
いいことだ。
しかし、完全な状態には至らない」
カンディンスキーとクレーによると、「直感」の役割はデザインプロセスの基本的な構成要素であり、アーティストやデザイナーの主観的な認識によってもたらされるものだという。
この主張を試してみたければ、ちょっとした実験をするといい。
送り手、コンテンツ、ターゲットグループ、求める効果について同じ情報を伝えて、何人かのデザイナーにデザインしてもらう。
その結果出来上がるものは、驚くほどばらばらだろう。
この実験は、顧客がいくつかの代理店に同じ説明をして「売り込み」を求める行為、つまりもっとも説得力のある創造的なソリューションはどれか競い合うような、日常のデザインの一部であるといえる。
*
ここでは、社会的文脈のなかでの芸術とデザインの役割に取り組んだ同時代の数々の潮流を代表するものとしてバウハウスを挙げている。
他には、アール・ヌーヴォー、フューチャリズム、ダダイズム、構成主義、デ・スタイルなどがある。
**
「Experimente zu einer Theorie der Praxis.Historische Etappen der Designforschung in der Nachfolge des Bauhauses.(実践理論の研究。バウハウスの継承におけるデザインの歴史)」
Claudia Mareis, kunsttexte.de
p144
ここまで見てきたような理由から、デザインプロセスには予測のつかない部分がある。
いわゆるデザイナーの個性だ。
経験、社会性、メンタリティー、一般的な社会情勢といった、あらゆる種類の要件から形づくられるものでもある。
言い換えれば、デザイナーの個性は、主観的な感覚と、直感的な行動の要素から構築される。
一方で、デザインは「偶然の産物」でもない。
効果を見込む場合には、ビジュアルコミュニケーションのもつ課題への秩序だったアプローチが必須であり、それを行うのが一般的だ。
前章ですでにコミュニケーション心理学について考察したが、それは秩序だったアプローチを可能にするパターンに基づいている。
p144
こうしたパターンを見て気づくもっとも重要な点は、それが創造的な決断に影響を及ぼす予測可能な要因ということだ。
デザイナーの個性は、社会に対する態度に表れる。
だからバウハウスで、信頼に足る個性を育てるため、芸術、分析、秩序にかかわる内容の入り混じった教育が行われていたこともなんら意外ではない。
この考え方は、戦後ドイツで1950年代から60年代にかけて継続された。
ウルム造形大学*ではホリスティック教育〔ものごとを細分化せず全体的に捉え、つながりを重視する観点に立った教育〕の継続を進め、主要科目であるビジュアルコミュニケーションに加え、ビジュアルレトリック、記号論、社会学といった科目も教えられた。
しかし、オトル・アイヒャー〔20世紀のドイツを代表するグラフィックデザイナー。ルフトハンザ航空のロゴデザインなどでも知られる〕、トマス・マルドナード〔アルゼンチン生まれのデザイナーであり思想家〕、ホルスト・リッテル〔デザインの問題を「Wicked Problem(意地悪な問題)」と示したことで知られるデザイン理論研究社〕といった教官たちは、バウハウスの時代に広まっていたデザイン思想を、予測可能な効果に関する主張へと置き換えた。
そうしてバウハウス志向ではじまった(初代学長のマックスビルの影響があった)同学は「科学とデザイン」を組み合わせ、予測のつかなさを抱える芸術はできる限り排除したものを目指すようになった。
*
ウルム造形大学(1953~68)は、プロダクトデザインとビジュアルコミュニケーションの教育における実際的な応用をより確固としたものとし、理論と実践のつながりを強化することを目指していた。
同学はその目標のためバウハウスのモデルからは離れ、芸術に頼らないデザインを標榜した。
p145
この時期に、アメリカではデザイン・メソッド・ムーブメント(DMM)が生まれた。
このムーブメントの基本的な主張は、その構造を建築、経済学、テクノロジーといった幅広い分野に転用できるデザインプロセスがあるというものだった。
デザインは予測が可能、つまり合理的なプロセスであって、個々の直感の影響を受けない。
このアイデアは、同じく1960年代にはじまり1970年代以降も続いたポップカルチャーの思考とすぐに衝突した。
続く1980年代になって、ついにモダニズムの地位に取って代わったのが、「何でもあり」のポストモダニズムだ。
そこでは「確実性」や「必要性」に対する信頼が弱まった。
そして90年代に入ると、デザインはかつての状況にほとんど逆戻りする。
つまり、デザイナーの個性(直感にかかわる部分)とその主観的な見方が重視され、逆に記号論の知識や戦略的な計画は軽視されるようになった。
その流れで見られるようになった、いわゆる「ヒップスター」のデザインも、2000年代にはじまった後、世界中(少なくとも西洋の資本主義の国々はすべて)のデザインの方向性を決めた。
ただ、ここ数年は、豪華なデザインは次第に姿を消しつつあり、本物志向のより落ち着いたデザインが好まれるようになっている。
「持続可能性」や「信頼性」といった概念をつくり出した社会の時代精神に呼応した形だ。
このように、秩序だったアプローチと直感的/芸術的なアプローチは、時代の変化のなかのその時々でまったく異なる役割を担ってきた。
しかし、その関係性に紆余曲折はあっても、コミュニケーションの問題を解決しようというデザイナーならではのアプローチがデザイン分野の外で見過ごされることはなかった。
1960年代、デザイン・メソッド・ムーブメントの時代にはじめて大まかな考えが出され、ウルム造形大学で最初に組み立てられたアイデア、すなわち、ビジュアルコミュニケーションにおける問題を解決する秩序立てて構造化されたアプローチ**が、いくつかの経済部門に取り入れられた。
このアプローチは、何年もかかって、「デザインシンキング(デザイン思考)」という専門用語のもとで機能し、デザインプロセスの「DNA」を読み解くものして定着した。
このアプローチは、さまざまなスキルや専門分野をもつ人々が協働することで、課題や問題がよりよい形で解決できるという仮定に基づき、幅広いフィールドにまたがっている。
そして、創造的な余地をもたらすものでなければならない。
狙いは、数段階の品質保証のプロセスを経たうえで成果品を生み出すことだ。
そのプロセスには、たとえば次のような手順がある。
定義(指示)、調査(背景)、アイデアの発見(解決)、プロトタイプ作成(仕上げ)、選択(調整)、完成(引き渡し)、学習(フィードバック)『Design Thinking(デザインシンキング)』*では、このように書かれている。
「デザインにおいては創造性が重要だ。
だがその一方で、デザインは経済的さらには創造的なゴール達成のための行為でもある。
そうした考慮事項のすべてをデザインで確実に満足させるのに役立つのが、デザインプロセスだ。
またこのプロセスは、いくつもの解決策をつくり出そうとし、また創造的あるいは革新的な解決策を追求する型にはまらない考え方を奨励するさまざまな技術やメカニズムを利用する」
構造化されていない方法よりも、そうした相乗効果の方が実際に優れた解決策へと導くことができるというのは大いにあり得ることだ。
そうした秩序だったアプローチもまた、計算できて堕落することのないデザインプロセスの基礎があるというアイデアに誘導される。
最高のケースでは、デザイナーは明確に定義されたプロセスを行動指示書のように読んで活用することができる。
だが、最悪の場合には、秩序はただ効率を生み出すだけで、定義した方法では十分な創造性を求める余地がもたらされるのかどうか、疑問が生じることだろう。
十分でないことだってある。
なぜなら、デザインが応じなければならない問題がもうひとつあるからだ。
それが「新しいもの」をつくり上げるという問題だ。
これは何を意味するのだろうか?
デザインについては門外漢の一般の人(あるいは依頼者)も、芸術、建築、音楽、コミュニケーションなどの、あらゆる文化的表現を経験している。
だが、こうした日常の経験はデザイナーの経験とはまるで別物だ。
デザイナーの経験は、一般の人の想像を超えた領域に広がっている。
一般の人は、自分たちが知っている規範や、いつも潜在意識下で認識しているものを参照するだけだ。
「新しいもの」を想像するのは難しい。
*
1962年、ロンドンでデザイン方法会議が開催され、デザイン・メソッド・ムーブメント(DMM)が確立された。
DMMは、デザインプロセスの体系化を進め、「邪魔になる」直感や制御できない影響は排除しようというものだった。
**
「デザイニングプログラム」、
カール・ゲルストナー
→参考文献 p.163
「typographie(タイポグラフィ)」、
オトル・アイヒャー
→参考文献 p.162
*
『Design Thinking(デザイン・シンキング)』、ギャヴィン・アンブローズ、ポール・ハリス
→参考文献 p.163
p147
その規範にコミュニケーションや外観の新しい形を加えられるかどうかは、私たちデザイナーにかかっている。
そして実際のところ、そうすることが必要だ。
というのも、世のなかの発展によって、慣習的な方法では対応できない難問がしばしば投げかけられるからだ。
あるいは、単純に既存のものと自分とを差別化したいという思いからかもしれない。
「新しい」ものは、合理的な分析だけではなく、直感とチャンスがあってはじめて生まれる。
ここに新しい手法の出番があり、その要素として偶然の一致が歓迎して取り入れられることも多い。
デザインにはさまざまな可能性がある。
その一例が生成能力のあるデザインだ。
たとえば、レイアウトを「偶然」によって生み出すプログラム*もある。
創造的な開発によって実現されたものだ。
見てのとおり、秩序(ここではコンピュータプログラム)と直感(ここでは無作為に基づく決定)は、互いに助け合う。
こうしたことをふまえると、芸術に目を向けることにも意味がある。
直感的な行為が創作活動のプロセスの中心を占める作品が山のようにあるからだ。
ここでは任意に選んだ3つの作品を例として紹介する。
アメリカの画家ジャクソン・ポロックはドリッピングと呼ばれる手法で作品を描いた。
有名な作品のひとつに「ナンバー32」がある。
1
「ナンバー32」、ジャクソン・ポロック、1950
*
そうしたプログラムのひとつが、デニス・クラインとレイモンド・フェッターが開発したAdobe InDesign(アドビインデザイン)用のプラグイン「Evolving Layout(エヴォルヴィング・レイアウト)」だ。
このプラグインを使えば、ページ上のデザイン要素は何度も何度もグループ化され、サイズ変更される。
「ランダム」なレイアウトは予想のつかない解決策をもたらし、インスピレーションの源になる。
http://www.evolvinglayout.com/
p148
黒いラインとドロップ(飛沫)が抽象的にもつれ合う姿は、偶然から生まれている。
棒などからカンバスへと顔料を落として描く手法では、限定的なコントロールしかできないからだ₁。
フランスの芸術家ニキ・ド・サンファルは絵の具と石膏で制作済みのカンバスを銃で撃った。
そして、貫かれた絵と破壊された石膏のかけらが「ランダムな」絵をつくり上げている₂。
オランダ出身のヘルマン・デフリースは自ら「ランダムな客観化(random objectivations)」と呼ぶ一連の絵画シリーズを制作した。
1967年の作品「collage V67-30 randomised distribution(コラージュ V67-30 ランダムな分布)」は、92個の同一の小さな白い長方形が黒い画面上に散らばる。
白い長方形はランダムに(このケースでは乱数プログラムが使用されている)配置されている₃。
私が『Kunst + Zufall(芸術+偶然)』*を読んでいるときに見つけた例を詳しく見ると、計画が可能なもの(一見、芸術的に創造された「フリースペース」)とよく似た秩序が、思いがけず重要な役割を果たしているのがわかる。
もし例示した作品に、ベースとしているパラメータ(制作済みのカンバス、色を運ぶ道具としての棒など、同じサイズの白い長方形の選択など)がなければ、このような形で作品を実現することは不可能だったろう。
「パラメータの設定」が意味するものは、直線的あるいは非直線的な行為の決定、素材の選定、フォーマットの決定にほかならない。
言い換えれば、直感的な行為からなる実験的な作品のフレームワークを形づくる数々の決定を下している。
新しいものを生み出すには、構成要素も違うものにする必要がある。
それによって、独創性が確保される。
心理学者ピーター・クルーゼは、創造性の条件を語る際に「可能性の間接的な余地(indirect spaces of possibility)」という言葉を用いた。
クリエイティブになろうとすればなれるわけではない(「クリエイティブになれ!」という要求は自己矛盾を起こしている)。
創造性が生み出される場は、体系的な枠組みの条件の範囲内だけだ。
そしてその条件のひとつが「多様性」だ。
クルーゼは、知的なシステムが違いと相まって内部に緊張をつくり出し、それが不安定な状態を生み出すという。
そこからプロセスのパターンに変化が引き起こされる。
クルーゼが創造性と呼ぶのは、そうした新たなパターンへの推移の可能性だ。
彼の結論はこうだ。
新しいものは、調和からではなく、矛盾から発生する。
*
『Kunst + Zufall(芸術+偶然)』、クリスチャン・ヤネッケ
→参考文献 p.163
2
「La mort du patriarche(家長の死)」、ニキ・ド・サンファル、1972
3
「collage V67-30 randomised distribution(コラージュ V67-30 ランダムな分布)」、ヘルマン・デフリース、1967
p150
この議論をさらに押し進め、クルーゼは3つのキャラクターをつくり「上げた。
それぞれ単独では大きな効力は見込めないが、合わさると創造性を生み出すことができる。
クルーゼは、第1のキャラクターを「クリエイター」と名付けている。
奇人でトラブルメーカー、新しいアイデアをいつも思いつく。
そして第2のキャラクターは「オーナー」豊富な知識の持ち手で、問題に深く精通している。
そして最後の第3のキャラクターをクルーゼは「ブローカー」と呼ぶ。
仲介役で人脈が多く、オーナあの人ならこれを知っていると把握しているキャラクターだ。
こうした3つのキャラクターは私たちの脳を象徴的に表している。
クルーゼは、2007年のインタビューでこう語った*。
「……クリエイターとオーナーが一緒になると、私にはアイデアが浮かび、知識と不安定さからアイデアのプールが出現します。
これは大脳皮質にあたります。
オーナーとブローカーを一緒にすると、評価者が2人いることになります。
いずれも評価をすることができ、これは大脳辺縁系に相当します。
ブローカーとクリエイターを組み合わせたら、網様体の活動が増大し、私を何度も何度も興奮させる。
この興奮と解決策、評価の3つが揃えば、そのとき、脳を手にしているのです……」
同じインタビューで、クルーゼは創造性の他の部分についてこう指摘する。
「……新しいネットワークをつくろう。
ネットワークをつくる瞬間、非直線的なフィードバック効果が安定状態の消滅を繰り返しもたらす状況がつくり出されています。
これが何を意味するかというと、フィードバックのメカニズムと多様性は創造性にとってこのうえなくプラスになるということです……」
もしクルーゼの主張がここで考察する直感と秩序の緊張関係に当てはまるなら、創造性が発現しうるのは、直感と秩序がまったく同じデザインプロセスの一部であるときだけということになる。
しかしこれは、創造性の可能性を完全に手にするには、両要素が同じ価値をもっていなければならないという意味ではない。
直感のような「ソフトな」要因は計算が難しく時間的に制限がある。
それが、秩序のほうが好まれる理由でもある。
しかしそのことが、親愛なる読者の皆さんの、創造的な制作活動に内在する二極性を邪魔するようなことがあってはならない。
だから、秩序だった知識を養い、直感的な自信を育ててほしい。
自分の行動とものごとの受け止め方のパターンについて絶えず問いかけること、自身の文化圏の外側にあるデザインのモデルを探求すること、考え方やデザインでときには「かなり思いきったこと」をしてみること、そういったことが役に立つ。
つまり、ふつうなら決してやらないことに、もっとチャレンジしてみることだ。
秩序のなかで冒険を追い求めよう。
*
https://www.youtube.com/watch?v=oyo_oGUEH-I(ドイツ語)
読書予測 p157
読書予測は、媒体を見たときの印象に対する反応である。
書籍のレイアウトを見たときには、リニア(直線的)に読むべき長い本文に向き合う準備をする。
ここで「リニア」に読むべきとは、その文章は読み終えてはじめて、つまり最初から最後まで(リニアに)読んではじめて内容が把握できることを意味する。
雑誌は、いくつものパートから構成され、さまざまなテキストと図版を含むため、一部を参照する方法で読めるという印象を与える。
この場合の読書予測は、テキストや図版、表などが独立してレイアウト中に配置され、情報から情報へと「ジャンプ」しながら読めるというものだ。
また、辞書に関する読書予測は、参考にしながら読む行為に対応する。
→p.16、p.60
ビジュアルレトリック p158
この用語は、ビジュアルコミュニケーションにおいて中心的な意味を持つとともに、その機能を説明する。
「送り手――コンテンツ――受け手」というコミュニケーションの秩序のなかで、デザイナーは適切に視覚化された、ターゲットグループにふさわしい方法でコンテンツを提示しなければならない。
そのためにさまざまなレトリックの手法が利用できる。
もっともよく知られているのがビジュアルアナロジーだ。
コンテンツが得られる効果についていえば、言葉を概念化することで、対応する視覚的な表現が見つけられることを指す。
→p.146
フィボナッチ数列 p159
フィボナッチ数列(イタリア、ピサ出身の、中世でもっとも高名な数学者フィボナッチの名から名付けられた)は、0、1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144、233……と続く無限の数列である。
この数列は、各数字が直前の連続する二つの数の計(0+1=1、1+1=2、1+2=3、2+3=5、3+5=8、5+8=13、8+13=21……)なのが特徴だ。
1202年、フィボナッチはウサギの頭数の増加の観測結果をこの数列を用いて説明した。
実際、花びらの配列や果物の模様といった、自然界のある種の基本パターンをフィボナッチ数列が示すと考えられることが、調査や観測で示されている。
この種の研究は古代より行われていたが、著書『算盤の書』を出版したことで、フィボナッチの名がこの数列に冠される権利を得た。
→p.83
フィボナッチ数列は、黄金比と深い関係性を示す。
→黄金比
文字サイズ p160
文字サイズは行間(行間の項を参照)と組み合わせて、テキストの読みやすさを左右する要素だ。
文字サイズは、読む距離によって、そして媒体の種類によって決まる。
また、読み方(読書予測の項を参照)も決定要因のひとつだ。
たとえば、小説は直線的に読まれる長い本文をもつため、辞書のように参照用として読まれ、いくつもの短いテキストから成るものとは異なる(そしてより読みやすい)文字サイズを選ぶ必要がある。
辞書の場合には、短い文章を参照するだけなので、読み手が小さな文字サイズを許容すると考えられる。
また、見出しと小見出しは、全体像をとらえるマクロ・タイポグラフィに基づき、読み手を明確に誘導できるよう十分に大きくする必要がある。
同じサイズでも書体ごとに異なって見える点には注意が必要だ。
そのため、異なる読み方を縛るような推奨サイズを提示することは不可能だ。
ただ、実際に手にとって媒体のテキストを読む経験(書籍や雑誌)から、書体や行間の選び方次第ではあるが、8~11ポイントが本文には適している。
キャプションや傍注といった参考情報は5~8ポイントだ。
なお、本文と、そうした参考情報のサイズの違いは、はっきりわかるようにする(少なくとも2ポイントの差をつける)必要がある。
→p.22→傍注
リーダビリティ p160
テキストのリーダビリティを確保するには、純粋なレジビリティの基準以上のタイポグラフィ上の処理、すなわちフォントの選択、文字サイズ、行長と行間のバランスのとれた関係性などが必要だ。
さらに、ページ内でのテキストの構成など、マクロ・タイポグラフィに関する決定もリーダビリティの程度を左右する。
→p.81
リニアリーディング p161
→p.16→読書予測
レジビリティ p161
レジビリティについては、文章のレジビリティとタイポグラフィ上のレジビリティに分けられる。
文章のレジビリティは、書かれたテキストがわかりやすい形で意図する読者に届けられるときにもたらされる。
タイポグラフィ上のレジビリティは、デザインによって、テキストの内容がたやすく捉えられるときにもたらされる。
→p.81