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「渋谷ではたらく社長の告白」を読んだ

投稿時刻2024年10月26日 16:05

渋谷ではたらく社長の告白」を 2,024 年 10 月 25 日に読んだ。

目次

メモ

p10

1973年5月。
私は福井県鯖江市で生まれました。

日本海側特有の曇りがちな気候で、頭上にはいつも灰色がかった空がありました。
ぶ厚い雲が低く垂れ込め、どことなく翳りを帯びた土地柄だったような気がします。

福井県は全国でもっとも曇りの日が多いと言われています。
自殺者も多いと聞きます。

歌舞伎や浄瑠璃の作者の近松門左衛門は、物心ついたころから多感な少年時代までを鯖江で過ごしました。
義理人情に悩み苦しむ人間の愚かさや優しさを描いた近松の世界は、そんな鯖江の自然や人情が育んだのかもしれません。

メガネの生産量で全国の90%のシェアを持ち、福井県の中では4番目に人口の多い市という微妙な田舎町です。
クラスの多くの友人の親はメガネ会社を営んでいました。

私の父親はメガネ業ではありませんでした。
当事の名門企業だったカネボウの鯖江工場に勤めていたのです。
父親は会社に対する忠誠心が大変強い人で、実家の身の回りのものはほとんどカネボウの関連商品を使っていました。

ある雷が鳴り響く夜のこと、すさまじい雷雨が北陸地方を襲いました。
激しい雨が窓ガラスをたたいています。
父はカーテンをめくって工場の煙突のほうを見ていました。

「まずいな。ちょっと、見てくる」

そう言うと、父は一人、闇夜に飛び出して行くのです。

「まずいなって、お父さんに何かあったらどうするの?」

レインコートを羽織り、ドアの向こうに消えて行く父の背中を見送る子供の私は心配していました。

同時に、父親がそこまで会社に尽くす理由が理解できませんでした。

今でこそ、カネボウは産業再生機構の手によって再建中の企業ですが、当時の私たち家族にとって、父親の勤めている会社はお役所に勤めているような安心感があったのです。

終身雇用の時代です。
父の会社は従業員の将来を保証してくれていました。
その代償として、父親は身を粉にして、体を張って仕事をしていたのです。

でも何年か先の人生は、既に見えています。

安定を手に入れることと引き換えに、夢を追いかけることはできなかったのです。

私は仕事一筋に命をかける父を誇らしく思う反面、心から共感することができませんでした。

カネボウの3DKのこぢんまりとした社宅の中で、私は考えました。

この壁の向こうにも、同じ間取りの似たような空間が広がっている。
その隣にも、上にも下にもそれは続いている。
朝になれば子供たちは同じ学校に向かい、同じような時間に似たような背広姿の父親たちが出て行き、母親は洗濯物を干しにベランダへ出る。
そんな繰り返しの中に取り込まれそうな気がして、私は自分が言いようのない不安に包まれるのを感じていました。

テレビや雑誌から垣間見る華やかな世界と自分の目の前の現実とのギャップを、いつの頃からか強く意識するようになりました。

p13

平凡な日々、平凡な人生。
私の父も本当はもっと波瀾万丈な人生に対する憧れがあったのかも知れません。
父の父、つまり私の祖父は、事業に失敗し、裕福な暮らしから一変して家族に苦労をかけたことがあるそうです。
そんなこともあり、父親は安定した暮らしを求め当時名門だったカネボウに就職し、家族を立派に養う道を選んだのでしょう。

私はいつの頃からか、こう考えるようになっていました。

父親のように普通のサラリーマンになって、平凡な一生を終えるのは嫌だ――。

p16

自分の夢を起業家に変更しましたが、どうやったらそうなれるのか、そもそもそれでいいのか、何もかもがわかりませんでした。

でも、もうミュージシャンにはなれない。
今からスポーツ選手になれる訳ではない。
自分の考えていたたった一度の人生を平凡に終わらせないための目標に設定できる職業は、選択肢が既に限られていました。

くよくよ考えても仕方ない。
前に進もう。

まず大学に進学しなければ……。
高校3年生の8月から、私は狂ったように受験勉強をし始めました。

偏差値40からの大学受験です。

勉強方法は全部丸暗記。

世界史や英単語だけでなく、数学や国語までもすべて丸暗記しました。

最初は馬鹿にしていた先生も急激に成績が良くなる私を見て、苦々しい顔をしていました。
授業は寝ていて、まったく聞いていない生徒だったからです。

私は東京にある大学で、自分でそれなりだと思う大学を選び、その中で、もっとも偏差値の低い学部、つまり受かりやすそうな学部を選んで受けました。
その中でたったひとつ、青山学院大学経営学部に受かったのです。

「やった、やったっ!」

合格通知を受け取った私はカネボウの社宅の家の中を転がりまわって喜びました。

ついに東京に出られる――。

さらば、福井県。

p34

ある日、オックスプランニングセンターの社長と偶然帰りの電車で一緒になりました。
将来社長になりたいと思っていた私は、社長が手に持っていた本が気になりました。

「社長、その本最近いつも読んでますけど、面白いんですか?」

「これか?この本は凄いよ。でもお前はまだ読むな。頭でっかちになったらいけないからな」

その本は「ビジョナリー・カンパニー」。

読むなと言われればどうしても読みたくなるのが人の心情。
私は次の日には国連ビルの裏手にあった青山ブックセンターに行って購入してきました。

一気に読み、衝撃を受けました。
私も将来、ビジョナリー・カンパニーをつくろうと考えました。

この本には、時を超えて生存しつづける企業とは何か、ということが書き記されています。

経営者のカリスマ性が重要なのではなく、企業そのものが究極の作品であることが書かれています。

社長という仕事には憧れない。
でもソニーやホンダのような会社は、人々の生活や社会に大きな影響を与えている偉大な会社です。

就職活動をする若者にとっても憧れの存在です。

そんな会社を自らの手でつくり上げよう。

右肩上がりの経済成長は終わりを迎え、就職氷河期とかリストラとか元気のない社会になっている。
そんな世相を吹き飛ばすような、希望の星となるような会社をつくり上げよう。

過去の栄光にすがるのではなく、自分たちの手で新しい時代に新しい会社をつくり上げよう。

自分の夢であり目標がはっきり設定された瞬間でした。
〈おれは「21世紀を代表する会社をつくる」〉

これは現在に至るまで、そしてこれからも、変わらぬ私の人生における目標となりました。

p39

「将来経営者になりたいんだったら、感性を磨け。本を読んで、映画や演劇などをたくさん観ろ」

「どういうのがいいですか?」

「本だったら、カーネギーの『人を動かす』。これは必読だ」

「はい」

この時期読んだ「人を動かす」に、私はその後の営業活動、マネジメント、リーダーシップにおいて多大な影響を受けました。

「映画だったら、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』。『ニューシネマ・パラダイス』もいいぞ」

私は必死にメモを取り、薦められたものは片っ端からビデオ屋に行って借りてきて観ました。

もちろん映画は私も好きです。
でもこの時は映画に興味があったというよりも、それ以上に後で専務とその映画について語り合いたかったのです。

p76

しかし、重要な問題がひとつ残されたままです。

〈最初の事業はどうしよう?〉

いちばん簡単なのは、インテリジェンスでの仕事の延長である人材関連ビジネスでしょう。
人材業界に身を置いていた私にはいくつも事業プランがありました。

でも、インテリジェンスと同じような事業をやっていたら、いくら宇野社長が経営に口を出さないと約束してくれたとはいえ、取り込まれてしまう恐れがある。
私はそう考えていました。
それ以外の、新しい分野に踏み出さなければならない、と思ったのです。

ビジネススクールの販売会社、バーター取引の仲介所、いろんな事業を考える中でいつも頭を離れないことがありました。
それは“インターネット”です。
インターネットビジネスは96年頃から脚光を浴びはじめ、ベッコアメインターネット、リムネットなどの会社が注目を集めていました。
私もそういった会社に関心を持ち、営業時代に積極的に訪問するなどしていました。

ところが奇しくも私が起業を決意した1997年12月25日。
クリスマスの日、インターネット関連企業で最も注目を浴びていたハイパーネットが破産宣告を受けていたのです。
私がいちばん最初に就職活動で入社を考えた会社でした。

それからインターネットビジネスに対する見方は急速に冷え込んでいました。
渡辺専務たちと事業について話していたときにも、よくこんな議論が交わされたものでした。

「インターネットビジネスはどうでしょう?」

「インターネットはもともと学術的な目的でつくられたんだ。商売には向かないと思うなあ」

今では考えられないことですが、そういう風に言われたものなのです。
しかし、それでもなお、私はインターネットという新しいフィールドには無限の可能性があるように思えて仕方ありませんでした。
当時の私は、コンピュータやインターネットについて、特別な知識を持ち合わせていたわけではありません。
それでもインターネットの魅力は私を強力に惹きつけていました。

ある日、宇野社長に、私はこう切り出しました。

「宇野社長、やっぱりインターネットビジネスをやってみようと思うんです」

「そう、おれも今さっきトイレでな、インターネット関連でいいこと思いついたんだ」

「なんでしょう」

「藤田は営業が強みだろ。それも活かせる」

「コンピュータはちんぷんかんぷんですけどね」

「そうなんだ。営業が強い人間はコンピュータが苦手だからインターネット業界には少ないんだ。そこに目をつけたらどうだろう」

「なるほど、私も営業をしていて、採用のホームページ製作だけでなく、いろんな相談を受けます。営業マンが少ないからですね」

宇野社長は白い歯を見せて微笑みました。

「若いやつが来ても、逆に信頼がおけるってのもあるよ。インターネットは若い人たちのほうが詳しいっていうイメージがあるからな」

「インターネットの営業を専門にやる会社をつくります」

反射的に、私はそう答えていました。

「よしっ。じゃあ、今度役員会で藤田の会社に出資する決議を取るから、事業計画書を適当に作ってもってきてくれ」

私は興奮していました。
インターネット業界は営業が弱いから、営業の専門会社をつくる――。
言うなればただそれだけの、ごくシンプルな事業計画が決まった瞬間でした。

p92

3月中頃、会社のスタートを2週間後に控えたときのことです。
宇野社長がある人物を紹介してくれました。

「おれの知り合いで高津さんって人がいるんだけどな。ちょうど新しい事業の立ち上げで営業力を必要としているみたいなんだ。一度会ってみるか?」

「ぜひ!ぜひお願いします」

目黒のオフィスにお伺いして、初めてウェブマネーの高津祐一社長に会いました。
高津社長も30代半ばの若い社長です。
一度若い頃に事業で失敗した経験があるものの、再び新しい事業をたったひとりで立ち上げていました。

就職活動のときに宇野社長と初めて会ったときと同様、ひと目で魅力的な人物だと思いました。

「ウェブマネーはインターネットでの小額決済を可能にするプリペイドカードなんだよ」

「どうしてプリペイドなんですか?」

「クレジットカード決済ができない人も多いんだ」

話を聞けば聞くほど魅力的な事業でした。
ただし、書店やコンビニなど購入できる販売網の拡大、カードの知名度を上げるための広告活動、ネット上での使用できる店舗の開拓など、やらなければいけない要素の多い、大掛かりな事業です。

「インターネット上で使えるショップが増えると普及が促進されるんだけど……」

「ぜひ、当社と提携してください。当社は営業を専門に行う会社です。必ずやウェブマネーを導入してくれるインターネットの店舗を増やしてきます」

「わかった。うちもまだ営業に手が回らない。よろしく頼むよ」

創業の苦労を自身で何度も味わっている高津社長は私たちに対し、優しすぎるほどの内容の取引条件を快諾してくれました。

営業の請負金として固定で毎月100万円。
1店舗決定する毎に10万円。
後は実際にその店舗で決済されたときの手数料を一定パーセントもらえる契約でした。

サイバーエージェントの当初の月にかかるコストは約200万円です。
固定の100万円に、月に10件決めればプラスで100万円もらえて、それだけで収支トントンになる計算です。

この契約が決まって、ずいぶん気持ちが楽になりました。
とはいえウェブマネー自体もまだ立ち上げたばかりでそんなに余裕があったわけではありません。
高津社長の私たちを応援してくれた優しい気持ちに感謝で胸がいっぱいになりました。

必ずや、期待にこたえてみせる――。
私は、決意を新たにしました。

p97

4月2日以降、徐々にアポイントが入り始め、1週間後には一日のほとんどを3人とも外出するようになり、電話番の女の子を採用していなければ会社はも抜けの殻という状況でした。

「いいか。
余計なことを話すな。
相手がわからないことを言っていたら、黙ってうなずいて、時折相手が話してることを繰り返して、『――ですよね?』とか、それはつまり『という意味ですね』とか言うんだ。
あとはメモして持って帰って来い。
いいな」

さらに、私はこう言いました。

「ウェブマネー以外にも、我々の事業のネタになることがあるかも知れない。
何を聞かれても『できない』って即答しちゃだめだ。
持ち帰ってできるようになればいいんだよ」

こうも言いました。

「難しいコンピュータに関する言葉が出てきたらできるだけメモとってきて。帰ったらみんなで勉強しよう」

現場の営業部長のような立場になった私は、毎日のように日高と石川にそんな話をしていました。

私も日高も石川も、それぞれが必死でした。

p109

バイトふたりに辞められた私は、急いで新しい人材を採用することにしました。

できればバイトではなく、社員で採用したい。
でも普通に採用募集をしても、いい人材は採れそうにありません。
インテリジェンス時代、採用コンサルティングの仕事をしていた私はそれがよくわかっていました。

まずは私の友人、日高の友人に思いつく限りに会って口説きました。

みんな面白がって話を聞くものの、いざ転職となると顔色が変わります。

「それでさ、一緒にやらないか?」

「ははは……冗談だろ?」

少しでも面識があって可能性のありそうな友人には片っ端から連絡をしてみましたが、脈がありそうな人すら見つかりませんでした。

途中から社員で採用は無理だと気がついて、方針を変えました。

「石川君みたいな学生を取れば社員と変わらないじゃん」

石川は創業以来、バイトでありながら、私や日高と変わらぬ気持ちで仕事をしてくれていました。
平日は一日も家に帰らず、学校がある日もノートパソコンを持って出かけ、大学の公衆電話から営業のアポ取り電話をかけていました。

「石川君みたいな学生ってどこにいるんだろうな?」

私はインターネット検索エンジンを使って採用サイトを探していた時に、たまたま Find Job! というサービスを発見しました。

〈企業の求人広告無料!〉と書いてあります。

どうやって収益を上げるつもりなんだろう……?

求人広告を販売していた私は不思議に思いながらも、早速求人内容を登録しました。

〈当社は原宿にあるインターネット関連企業です。平均年齢24歳。設立間もないオフィスは活気に満ちています。学生バイト大歓迎!営業・技術……他。日給8000円〉

たった3人しかいないのに、活気も平均年齢もあったものではありません。
私の前職の仕事は採用コンサルティング。
魅力的に採用広告を作るのは、お手のものだったのです。

Find Job! からは、想像以上に高学歴の学生が次々と応募してきました。

学歴だけで言えば、東大、早稲田、慶応、東工大、明治などなど、ぜひ正式に採用したいと思えるような学生が次々と面接を受けに来ました。

私はいいと思った人材は片っ端から採用しました。

「すごいね」
「一気に人が増えたよ」

求人広告に適当に書いた、若い人の活気にあふれているという言葉は本当になりました。
なんだかんだで10名近いバイトを採用しました。

そして、学生バイトの名刺には大げさな部署名をつけました。

〈第2インターネット総合企画グループ〉

〈第3営業企画グループシニアアカウントマネージャー〉

営業先で、さも大きな組織があるように見せるためです。

営業が増えて、これで業績をもっと伸ばせる――。

自分たちの会社に人が増えて、ようやく社長や常務らしい立場になれた私も日高も浮かれていました。

ところがある日、新しいバイトたちを集めて、当然のように夜遅くにミーティングをやろうとしたときのことです。

「すいません、残業代もらえないと、日給に見合いません」

「……今うちの会社がみんなに残業代払ってたら、潰れちゃうよ」

同じバイトの石川からはそんな言葉は一度も聞いたことがありませんでした。

当時の私の月給は30万円。
日高は25万円。
石川は20万円程度でした。

それで週110時間。
月に440時間以上働いていたのです。

時給に直すと社長の私も田舎のファーストフード並です。

創業の辛い思いを学生にも共有して欲しいと考えた私の期待が過剰だったのでした。

「卒業したら、うちの会社はいれよ」
そう私が言った学生からは、「あはは……それだけは無いです」と言われたこともありました。

彼らも結局はアルバイト。
本業は学生です。
冷やかし半分でベンチャー企業に来ても、結局皆、実際の就職となると、名だたる大企業に入社していきます。

石川や学生時代の私のように、腹を括って仕事をするような学生はひとりもいませんでした。
それが、現実というものだったのです。

p113

会社が始まってしばらくすると、私は週に110時間労働を目標に掲げ、日高にもそれを伝えました。

「週110時間ということは、9時に出社するだろ、そして深夜2時まで仕事する。それ平日5日間。あとは土日に12時間ずつ働くと110時間だ」と私。

「オッケー。どうせ今もそのくらい働いているからな」

日高は明るい声でそう答えました。

傍で聞いていた、石川が言いました。

「ぼくもやります」

「石川君はいいよ。学校があるんだから」

「じゃ、学校の時間以外はやります」

「ありがとう」

その目標を立てたとき、ある先輩から言われました。

「長時間働けばいいってもんじゃないだろう」

もちろんそんなことは百も承知です。
それでも何故こんな目標を立てたのかと言えば、私なりの成功セオリーを持っていたのです。

この作戦は成功でした。

始めたばかりの会社は取引もまだ少なく、はっきり言って、意外とやることが無くて暇なのです。
ところが、長時間働くことが決まっているので、あまった時間に顧客見込みリストを作成したり、新規事業プランコンテストを行ったり、苦手な技術や経理に関する勉強をすることになります。

それらをすべてこなしているうちに、業績が伸び、新規事業が生まれ、やがて時間を決めなくても本当に忙しくなっていったのです。

これは、インテリジェンスの1年目のとき、ハードに長時間働くのを決めていたら、好循環が生まれたときと同じでした。

p126

会社の経理処理には限界が来ていました。

売上が伸びる一方で、会社の資金が底をつき始めていたのです。

インテリジェンス時代、経理部門をカンカンに怒らせた経験を持つ私はもともと細かい経理や財務が苦手でした。

「おれより営業できないんだから、経理は日高がやってよ」

「……わかりました」

日高も元は営業マン。
そもそも経理が得意なわけではありませんでした。

当時のサイバーエージェントは資金計画などほとんどなく、行き当たりばったりのどんぶり勘定でした。

〈えぇ……と、今月入金が300万あるはずで、出て行く費用は250万くらいだから大丈夫か……〉

ある日、既に深夜2時を過ぎ、みんな帰り始めた頃でした。
石川も夜食を買いにコンビニに出かけ、二人きりになったときを見計らったように、日高が小声で私に話しかけてきました。

「……社長、通帳にもう20万円しか残ってないよ」

「え!?なんでだろ?」

「いや……だってそうなんだから」

「売上増えてるのに?」

「お金が入ってくるのは2ヶ月先なんだってば」

「……まずいな」

そのとき私は宇野社長にもらったアドバイスを思い出しました。

「社長が出る資金にだけ注意しておけば、会社が潰れることはないよ」

私は、社員やアルバイトの給料と電気などの光熱費以外、考えられるものすべての支払いをストップさせました。
私が30万円、日高が25万円だった当時の自分たちの給料もらせました。
それでも資金繰りがうまくいくのか不安でした。
インテリジェンスに泣きつきたくはありませんでした。

数日後――。

「社長、大変だ!」

日高からの電話でした。

「どうした!!」

「まじで?」

「会社の電話が止められてるよ!
今、おれのお客さんから携帯に電話がかかってきたんだ!」

私も外出先から慌てて会社に電話しました。

「……ピンポンパンポーン。
お客さまのおかけになった電話番号は、お客さまの都合により、現在通話ができなくなっております」

お客さまの都合――。

そのアナウンスを聞いて愕然となりました。

お客様の都合=お客がカネを払っていないから。

自分の家の電話は支払いが滞って止められたことは過去に何度か経験がありました。
私の友人もだらしない奴が多く、このアナウンスはおなじみでした。
でも、支払いが滞って電話を止められた会社の話なんて聞いたことがありません……。

〈もう限界だ。経理担当者を採用しなければ〉

私が勉強していたのでは間に合いません。

私は思い当たるひとりの人物に電話をかけました。

宮川園子(現・サイバーエージェント広報IR担当マネージャー)は、オックスプランニングセンター時代の同い年の同僚でした。
当時はまだオックスプランニングセンターでばりばり経理をこなしていた彼女に声をかけたのです。

「………という訳で大変なんだ。頼む!入社してくれないか」

「でも、サイバーってインテリの影響が大きいんでしょ?」

「なんも関係ないって。資本比率も変わる約束してるし」

「でもなぁ……」

当時オックスプランニングセンターで働いていた彼女はご多分に洩れず、ライバルであるインテリジェンスに対して良いイメージを持っていませんでした。
それに学生だった頃から知っている私が社長では不安だったのかも知れません。

「ちょっと無理ね」

結局その日は断られました。

――数日後。今度は宮川のほうから電話がかかってきました。

「やっぱ転職するわ。なんか嫌になっちゃって……」

「ほんと?嬉しいよ!!」

職場で何かあったのでしょう。
その内容まではわかりません。
とにかく優秀な経理担当者をついに採用することができたのです。
サイバーエージェントにとって3人目の正社員が決まった瞬間でした。

p136

次の日から、私の話どおりサイバークリックを皆が先行発売し始めました。
「今度、新しいサービスを開始します。内容はバリュークリックと同じですが、オープン記念に少し値段が安く、日本発の商品です」

「そうか。サイバーさんがやるんだったら、うちも発注させてもらうよ」

「ありがとうございます」

「で、いつできるの?」

「2週間後を予定しています」

受注は想像以上に順調でした。
日高も石川も、他の学生バイトも受注してきて瞬く間に受注残が積みあがっていきます。

新宿都庁近くに営業に行った帰りの車でのことでした。
ひとりで自分のジープチェロキーを運転していたときに、私の携帯が鳴りました。

「はい。藤田です」

「バリュークリックのジョナサン・ヘンドリックセンですが――」

ジョナサン・ヘンドリックセンは当時のバリュークリック日本支社の社長でした。

以前会った時、堪能な日本語を操り、巧みなプレゼンテーションでバリュークリックのビジネスモデルを私に魅力的に説明してくれたことがありました。

「どうしました?」

しかし、今日は声が穏やかではありません。
私は運転していた車を道路の脇につけ、止めました。

「サイバーエージェントがサイバークリックという名前でうちと同じ商品を売り歩いているって噂を聞いたんですが」

「……そのとおりです。今度自社で立ち上げることにしたんです」

「御社はうちの中でも大きな代理店になりつつある。どうしてそんなことするんですか?」

「代理店では儲からなくて、うちはやっていけないんですよ」

「じゃあ、マージンをアップしてもいい」

「いくらですか」

「サイバークリックを止めることを条件に、20%でどうですか」

「20%……」

20%でもやはりまだ規模的に小さいバリュークリックの商材では話になりません。
彼らもまだ小さなベンチャー企業でした。
それでも無理して好条件を出してくれたのでしょう。

「……申し訳ありません。もう新商品の開発を決めましたので……」

私は自分の心を奮い立たせて、そう伝えました。

道義的に言えば、代理店をしていたサービスをそっくり真似して自分たちで立ち上げるなんてありえないでしょう。
今のサイバーエージェントならそれは考えられません。

でも当時は必死でした。
私を信じて投資した株主のため、自分の未来を私に託した社員のため、そして自分の夢を達成するため、悪魔に魂を売ってでも、できることはすべてやろうと、そう考えていました。

p149

「いやー、堀江さんのお陰で助かりました」

「あんなの楽勝ですよ。他にもあったら言ってください」

「サイバークリックは、ホームページに貼る広告でしょ?あれのメール版があったらまた売れますよ」

「そんなの作れますよ」

「作れますか!」

「まぐまぐとかと提携したらいいかも知れない」

「まぐまぐ……」

結局まぐまぐとの提携は叶わず、サイバーエージェント&オン・ザ・エッヂの共同事業として「クリックインカム」(現・メルマ)を続けて立ち上げることになりました。

堀江さんもホームページ製作事業ばかりやっていても会社が大きくなれないと感じていました。

そんなときに出会った私とのタッグは息がぴったりでした。

営業やマーケティングに強い私が、「こういうのがあれば売れますよ。流行りますよ」と言えば、

技術やデザインに強い堀江さんが、「そんなの作れますよ」と答える。

言わば、「売れますよ」「作れますよ」の関係でした。

かくして、絶妙のコンビであった両社は二人三脚で成長を遂げ、ともに上場し、お互い資金力をつけて提携関係を解消するまでパートナーシップが続いたのでした。

p213

幾多の苦難を乗り越え、上場の日が近づいていました。
私はその頃、原宿のワンルームマンションをそのまま放っておき、ホテル暮らしに切り替えていました。

テレビで私の自宅も映り、上場すれば若き億万長者と言われていたこともあり、「いま社長に何かあったら大変ですので……」

社員もそう薦めたのです。
私はホテルニューオータニやキャピトル東急ホテルなどを転々と移り住んでいたのです。

上場も間近に迫ったある日、私は証券会社の引受担当者と話していました。

「株価はいくらにしましょうか」

「同業のインターネット会社があれだけ高いんだから、それに見合ったものにして欲しいです」

「今のネット企業の株価は説明できないところまで来てますからねぇ……」

いくらで上場しようが、将来的に目指す会社像はまだまだ大きい。
やりたい事業は山のようにある。

軍資金を十分に調達もできないで、株価だけ上がれば大変不利になると考えていました。

結局、会社の株価は1500万円に決まりました。

時価総額で850億円。
調達金額は225億円に上ります。

2000年3月24日。
当社の設立が1998年3月18日なので、ちょうど丸2年が経っていました。

上場当日。
26歳の社長である私は新規上場の晴れ舞台に立とうとしていました。

その日を撮ろうと私には3台ものテレビカメラが朝から密着取材でついて回っていました。
表参道のオフィスを出た瞬間、カメラに回りを囲まれ、街行く人が私を覗き込んでいました。

「誰だろう?芸能人?」

残念ながら私で申し訳ないです。

そんな注目を浴びながら、私はテレビカメラを引き連れて、タクシーに乗り込みました。

「どんなお気持ちですか?」

会う人会う人が興味深げに私に聞いてきます。

「別に……どうってことはないです」

正直に答えて、そうでした。
浮き足立った周囲とは裏腹に、私は冷静でした。

会社を始めてわずか2年。
創業何十年の悲願の上場とは訳が違います。

これからが大変なんだ……そう自分を戒めていたのです。

朝9時、証券会社の普通の会議室で、上場のニュースを聞きました。

初値で1520万円がつき、実に225億円の資金調達にも成功しました。

私個人の保有している株式も値上がりし、26歳にして300億円を超える資産を抱えることになりました。

〈26歳の史上最年少の上場企業社長の誕生〉

〈若き億万長者の誕生〉

報道ではそんな文字が飛び交いました。
26歳。
クレイフィッシュに先を越されましたが、独立系企業としては史上最年少と言えます。

私はまさに人生の晴れ舞台に立っていたのです。

当時の新規上場は、いつも公募価格の何倍にも初値が跳ね上がるのが常でした。
しかし、1500万円で上場した株価は1520万円で初値がつき、それから大きく跳ね上がることはありませんでした。

〈あれ?なんか変だな……?〉

膨らみに膨らんだインターネットバブルは変調をきたし始めていました。

上場企業の社長となった26歳の私は、その当時、株式市場について何もわかっていませんでした。
そもそも自分で株の売買をしたこともなかったのです。

〈まぁ、またそのうち上がるだろう〉

当時はそう思っていました。

しかし、ネットバブルの崩壊が既に始まっていたのです――。

p219

26歳の社長がつくって2年目の会社が調達した額、225億円。

ある投資家との面談のときに言われました。

「225億円資金を集めたということは、ベンチャーだから利回り10%として、22億5000万円くらいは利益だしてほしいね」

「……22億5000万……利益で……」

直近の決算での売上高は4億5千万円でした。
どう考えても今の規模では利益で22億も出るはずがありません。

〈早く会社をもっと拡大させなければ……〉

私は上場して、資金を調達して、初めて事の重大さに気がついたのでした。

とにかく売上高をもっと伸ばすこと。
そして高収益の事業を育てること。

このふたつが私の当面のミッションになりました。
しかし、そんな悠長なことは言っていられない状況に瞬く間に変わり始めたのです。

p221

その頃、ネットバブルの絶頂期です。
サイバーエージェントには大企業の若手エリートたちの転職希望者が殺到していました。

若くして活躍したいと思った人、インターネットの将来性を確信した人、バブルに踊らされてきた人……いろんな人がいました。

この頃入社した人材の多くが、現在もサイバーエージェントの幹部クラスで活躍しています。
またその一方で、多くの人が辞めていきました。

私はその頃、インターネットの成長と資金調達を見越して、いいと思った人材は何の仕事をしてもらうか想定もしないで、片っ端から内定を出していました。

資金調達同様、人材調達においても、この時期を逃す手はないと思っていたのです。

軍資金を調達し、インターネットでやりたい事業は山ほどあります。
後は人材を揃えてやるだけ――。

その考えは何も間違っていないように思えていました。

とりあえず良い人材を確保するために、中身もないのにいろんな部署や肩書を作ってポジションを用意しました。

執行役員、事業戦略室、社長室、マーケティング室、新規事業室、経営企画本部。

取締役の数も増やしました。
30代の社員を外から直接マネジメント層に入社させることもありました。

2000年4月。
そんな風に、何の仕事をやってもらうのかも決めずに、とりあえず採用した人たちが大半になった社内は大混乱を起こしていました。

外資系金融に勤めていて前職では破格の年収だった人を、当時、当社の最高年収で採用したときは、〈こんなに給料をもらっている人だから、たぶん何かが凄いんだろう……。225億円の資金の財務的な面で役に立つかも〉

そんな風に考えて内定を出しました。

彼の初出社の日、「社長、私は何をすればよろしいんでしょう?」

「えぇ……と、財務部門と相談してください」

数日後、「社長、私にいったい何を期待しているのでしょうか?」

「えぇ……と、何ができるんでしたっけ?」

大企業から転職してきた中にはこういう人がたくさんいました。
ベンチャー企業で育ってきた私は仕事は与えられるものではなく、自分で作っていくことが常識でした。

その方は1ヶ月も経たずに退社していきました。

法務の担当者は履歴書の経歴上、十分なキャリアを持っている人を採用できました。
当時のサイバーエージェントでは最高年齢の30代後半です。

「社長、お住まいはどちらですか?」

「いま、代々木上原です」

「不動産会社はどちらで?」

「えぇ……と、何とか建設だったと思いますが……?」

「だめです!三井か三菱でないと防犯上安心できません」

「え?ほんとですか?」

ボディガードが必要だと、業者を紹介されたこともありました。

「万一のことがあったら大変ですから」

「……上場企業の社長はみんなそうなんですか?」

「だいたいそうです」

未だにボディガードを引き連れて歩いている上場企業の社長は見たことがありません。

その頃何もかもわからなかった私は、ほとんど鵜呑みで聞いていました。

「社長、これは法務的なリスクを回避するためです。これまでの社長の女性関係、女性とのトラブルにまつわることを全部お話しください」

「……はい」

私はこれまでの女性遍歴を、何故かこの法務担当者に赤裸々に話しました。
それは今思い出しても恥ずかしい経験です。

この法務担当者もほどなくして辞めていきました……。

マーケティング担当として採用した、戦略系コンサルティング会社出身の人もいました。
この人も履歴書は負けず劣らず魅力的に書かれていました。

〈うちの会社も仕事をレベルアップさせないとな……〉

そんな風に私は考えて内定を出しました。

彼は当社の営業のレベルアップのために、厳しい指導を施してくれました。

毎週定例の勉強会。
ゴールデンウィークにはポーター著『競争の戦略』という難しい本を読破させ、後日テストを行っていました。

営業マンには広告主企業の有価証券報告書を読ませていました。

素直で上昇志向の強い当社社員たちは、愚直に学ぼうとしていました。

〈……でも、今の当社に何のプラスになるんだろう?〉

広告主が望んでいるのは、経営指導ではなくて、インターネットの知識や情報です。

経験もない若造が営業にやってきて、経営指導なんてされたら不愉快になるだけでしょう。

私は2ヶ月ほどで、その研修をやめさせました。

その彼も、実務のほうでは成果が上がらず、やがて会社を去っていきました。

華やかな経歴の持ち主が次々会社を去っていったのには他にも理由がありました。

ネットバブルが崩壊し始めていたのですもありました――。

p256

同じ時期、『日経新聞』にある記事が掲載されました。
〈村上氏が第4位株主サイバーエージェントに減資求める公算〉

昭栄という会社に対する敵対的買収で知られていたM&Aコンサルティング社長・村上世彰氏がサイバーエージェントの株を市場で10%程度まで買い占めていたのです。
最近、フジテレビジョンとライブドアによるニッポン放送株式の争奪戦で動向が注目されている、通称「村上ファンド」を率いる方です。

モノを言う株主がついに日本にも登場したということで、当時からいつもマスコミから注目されている人物でした。

私は村上氏と親交のあった宇野社長から紹介いただき、会いに行くことにしました。

現在も村上さんとはプライベートで親しくお付き合いさせて頂いていますが、当時はいろんな人から根拠のない忠告を受けました。

「村上氏は新手の総会屋だよ」

「気をつけないと会社を乗っ取られるよ」

「はい」

でも、そういう根拠の無い噂話は、自分自身が身をもって苦しんでいたので、気になりませんでした。
むしろ逆に、このとき私は嬉しく思っていました。

〈どんな株主であろうと、当社の株をこんなにも買ってくれている。最大限に誠意を尽くそう〉

現在は六本木ヒルズに本社を構えるM&Aコンサルティング社ですが、当時はまだ駆け出しの投資会社で、広尾ガーデンヒルズのマンションの一室にオフィスを構えていました。

「はじめまして、藤田です」

「よく来てくれたね。村上です」

旧通産省出身の村上氏は、メガネをかけた色白の、どこにもスキのない人物という印象でした。

「当社の株主になっていただき、ありがとうございました」

私は、まずそう言いました。

「それでね、単刀直入に言えば、150億円以上の現金を持ってるでしょ?」

「はい」

「それを使う計画が無いんなら、一度株主に返したらどうかと思うんですよ」

「はぁ……」

「ネットバブルのときに調達したのは仕方ないから、一度清算してやり直してはどうですか。というのがぼくの提案です」

私は意地になって、ネットバブルのときについた株価にふさわしい会社に成長させようとしている最中でした。
会社にある多額の現金も、今後成長していく過程では使う可能性があります。

私は誠意をもって説明させてもらった後、「社に戻って、考えてみます」

そう言い残してオフィスを後にしました。

p260

この年の春頃から、GMO熊谷社長との会食が増えていました。

会社設立後、すぐの投資はお断りしたものの、上場直前に少し株を持ってもらい、上場後は、インテリジェンスの売却分などを買い集め、GMO社は20%を超える株主になっていたのです。

事業上の取引も拡大の一途を辿っていました。

「藤田君、一緒にやろうよ」

熊谷社長が当社に買収話を持ちかけるのは必然でした。

GMOはインターネット広告事業を強化していて、サイバーエージェントは競合でもあり絶好の買収対象でもあったのです。

買収しただけで保有する現金で利益が出る。
しかも同業者であり、事業の価値も十分理解できていたはずです。

連日連夜、熊谷社長に口説かれました。

「合併したら藤田君が社長になってくれればいいよ。だから一緒にやろう」

実際の当時の株価から言えば、合併ではなく買収される形でした。

熊谷社長は非常に優秀な経営者です。

昔から親しくしている私であろうと、こんな案件が目の前にあれば買収に乗り出すのは、経営者として至極真っ当です。
情に流されて行動を起こさない経営者がいたとすれば、それは株主に対する背任行為だと思います。

しかしながら、紳士的な熊谷社長は私の許可を得ずに、知らないうちに株式を集めることはしませんでした。
仮にそうしたとしたら、今ごろサイバーエージェントはGMOの子会社になっていたでしょう。

熊谷社長は粘り強く、私の説得を続けたのです。

私は声には出さず、自分自身に言い続けました。
〈10月1日。10月1日まで粘るんだ……〉

p262

7月。
宇野社長に会いに行きました。
宇野社長はインテリジェンスの経営から身を引き、父親の亡き後を継いだ有線ブロードネットワークス社を劇的に変えて、上場を果たしたばかりでした。

「……このような状況で困っているんです」

宇野社長は相変わらず正直で、そしてストレートでした。

「そうだな……うちも上場したばっかりで、もし第3者から市場価格の倍出してサイバーエージェント株を買うという提示をされたら売らなければならないかも知れない」

その言葉を聞いて、私の危機感はさらに募りました。

「藤田も本当に自分が社長でなければいけないと思っているのか?」

「……はい」

「なんか最近、変だぞ」

そんなことは言われなくてもわかってる、と私は思ったものです。

8月。
再度M&Aコンサルティング社長の村上氏に会いに行きました。

「御社のコアのビジネスはなんですか?」

そう聞かれました。

「広告代理業とメディア事業です」

「メディア事業なんてたいしたことないんじゃないの?」

「それを今強化しているところなんです」

「強みのある代理店事業に特化したらどうなんだ」

「……でも」

次に熊谷社長に会いに行きました。

「藤田君、一応株主なんだから言わせてもらうけど、もっと事業シナジーを生まないとぼくだって株主から怒られるんだ」

シナジー(synergy)というのは、共同作用、相乗作用という意味です。
経営戦略で、販売・操業・投資管理などの機能を重層的に活用し利益を生みだす効果のことを意味します。
1+1が2ではなく、3にも4にもならなければ優れた事業とは言えない訳です。

このときの熊谷社長の言葉は、大株主として当然の要求でした。

「……はい」

そう答えるのが、私には精いっぱいでした。

「この会議は定例にするから」

「……はい」

そして私は、また宇野社長に会いに行きました。

「藤田、お前がしっかりしなくてどうするんだ」

「なんだ、自信なさそうな顔して」

「……村上さんも熊谷さんもどう考えても、自分より何枚も上手なんです」

この時期、宇野社長、村上氏、熊谷社長と3人の間を行ったり来たりしていました。

当時の私は28歳になったばかりでした。
人並み以上の経験を積んできたとはいえ、経営者としてはまだ未熟者です。

交渉相手は皆、私より10歳以上年上で、しかも百戦錬磨のつわものでした。

〈自分も成長して、後10年以内に追いつけばいい〉

私はそんな風に考えていました。

クレイフィッシュの松島社長の教訓もあって、プライドを傷つけられようが、理不尽なことを言われようが、謙虚に、忍耐強く、何があっても絶対にキレないこと、それを胸に誓っていたのです。

p271

数日後のことです。

「三木谷さんが興味を持っているよ」

ある人からの紹介を頼りに、私は中目黒にある楽天のオフィスに向かっていました。

なんとしてでも会社を買収ゲームから守らねばならない、と決意した私は孤軍奮闘していました。
交渉の相手は、主に宇野社長と熊谷社長と村上氏、そして楽天の三木谷社長だったのです。

三木谷浩史社長に会うのは上場前のベンチャーオブザイヤーの表彰式以来でした。
私としては、非常に不名誉な形での再会となってしまいました。

私はサイバーエージェントの現況を説明しました。
あちこちから買収の話がきていること、楽天とサイバーエージェントには事業内容にシナジー効果があるということ……。

私はこんなふうに言いました。

「私はこれからEC(電子商取引)と、ネット広告はもの凄く成長すると思っています。楽天とは良いシナジー効果が生まれると思うんです」

「そうか……話は聞いてるよ。おれは出資するつもりだ」

三木谷社長は10億円を投資して、サイバーエージェント株の10%を買い取ってくれると言うのです。
楽天もネットバブル崩壊の影響でご多分に洩れず株価低迷に喘いでいました。
その当時、10億円もの金を投資できる会社はほとんど皆無に近かったのです。

それでも三木谷社長は投資を決断してくれました。

「ベンチャーが叩かれてるから、助けないとね」

プロ野球新球団設立のときに、堀江貴文社長との比較であたかも守勢派のような印象を持っている人もいるかも知れませんが、三木谷社長はそもそもベンチャー精神溢れる革新派の人でした。

GMOの持ち株の半数を楽天の三木谷社長が買い取る方向で話は進んでいきました。
こうして三木谷社長に助けてもらうような形で、私が筆頭株主のまま10月1日を迎えました。

その後、無事にワラントを行使して、現在も私が約30%の筆頭株主になっています。

静かに、危機は去っていったのです。

薄氷を踏むようなその数カ月を、今後も私が忘れることはないでしょう。

後になって考えれば、あのとき宇野社長が私から株を買わない理由は何ひとつありませんでした。
宇野社長が「わかった」と言えば、独立系サイバーエージェントの歴史は終わっていました。
当時、サイバーエージェントにはまだ現金が160億円以上ありました。
対して、買収にかかる金額は80億円足らずです。
買収してすぐに組織を解散すれば、単純に80億円の利益になるという状況にあったのです。
サイバーエージェントを喉から手が出るほどほしいと思っていた企業は星の数ほどありました。
倫理的にどうなのか、という点を除けば、これはおいしすぎる儲け話だったのです。
宇野社長ほどの人がそのことに気付いていなかったわけがありません。

宇野社長は、合理的で時に冷徹な判断もできる経営者です。

しかし、その一方で仲間をとても大切にする人です。

「弱音はいてるんじゃねぇよ」

私の兄貴分ともいえる宇野社長の、そんな優しいメッセージだったのだと思います。