「センスは知識からはじまる」を 2,024 年 12 月 06 日に読んだ。
目次
- メモ
- p2
- p18
- まず「普通を知ること」が必要である p19
- p46
- p56
- 日本企業に必要なのはクリエイティブディレクター p60
- p66
- どんな職種にもセンスが必要不可欠になっている p68
- すべての仕事において“知らない”は不利 p74
- ひらめきを待たずに知識を蓄える p77
- p83
- センスとは、知識にもとづく予測である p86
- 客観情報の集積がその人のセンスを決定する p91
- 「流行っている」=「センスがいい」ではない p98
- 効率よく知識を増やす三つのコツ p102
- もし、チョコレートの商品開発担当者になったのなら? p115
- 知識のクオリティが精度の高いアウトプットをつくり出す p119
- 知識をセンスで測ってアウトプットを決定する p137
- センスアップはスキルアップにつながる p142
- 「好き嫌い」でなく例を挙げてセンスを磨く p153
- 「せまいセンス」でも、それを軸に仕事をすることはできる p156
- 日常の工夫で、思い込みの枠を外す p159
- p168
メモ
p2
僕は慶應義塾大学の環境情報学部で特別招聘准教授として教鞭を執っています。
あるとき学生に、『アウトプットのスイッチ』(朝日新聞出版)にも書いた「〜っぽい分類」の話をしました。
これは、「売れる商品のつくり方」として僕が導き出した方法。
売れる商品はどれも、その製品らしさ(シズル)を内包しているものであり、そのシズルが人々の心を掴んでいる。
売れるための的確なシズルを見つけ出すためには、その製品が「何っぽい」のかを分類しながら絞り込んでいく作業が有効である――という内容です。
p18
「センスのよさ」とは、数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力である。
これが僕のセンスについての定義です。
おしゃれもかっこよさもかわいらしさも、数値化できません。
しかしそのシーン、そのとき一緒にいる人、自分の個性に合わせて服装のよし悪しを判断し、最適化することはできます。
それを「かっこいい、センスがいい」と言うのです。
「日本で一番売れている服」はデータを取ればある程度数値化できますが、それを着ればセンスがよくなるわけではありません。
ハイエンドのブランド品を着ればセンスがよくなれるかといえば、明らかに違うことはおわかりでしょう。
数字で測れないために、センスというのは非常にわかりにくいものだと思われています。
それでも確実にセンスのよい/悪いは存在し、それはどのような環境のもとにあるかにも左右されます。
まず「普通を知ること」が必要である p19
センスとはわかりにくいもの。
特別な人にだけ生まれつき備わっているもの。
天から降ってくるひらめきのようなもの。
このような誤解を招く理由の一つは、センスが数字で測れないものだからでしょう。
それゆえに「斬新なアウトプットをするには、いまだかつて誰も考えなかったとんでもないことを、センスをもってひらめかなければいけない」と思い詰めてしまう人もいます。
いざ商品開発となると、「普通じゃないアイデア」を追い求めてしまうこともあります。
しかし、センスがいい商品をつくるには、「普通」という感覚がことのほか大切です。
それどころか、普通こそ、「センスのいい/悪い」を測ることができる唯一の道具なのです。
では、普通とは何でしょう?
大多数の意見を知っていることでも、常識的であることとも違います。
普通とは、「いいもの」がわかるということ。
普通とは、「悪いもの」もわかるということ。
その両方を知った上で、「一番真ん中」がわかるということ。
「センスがよくなりたいのなら、まず普通を知るほうがいい」と僕は思います。
これは「普通のものをつくる」ということではありません。
「普通」を知っていれば、ありとあらゆるものがつくれるということです。
普通よりちょっといいもの、普通よりすごくいいもの、普通よりとんでもなくいいものというように、普通という「定規」であらゆる事象を測っていくことによって、さまざまなものをつくり出すことができるのです。
たとえとして「定規」という言葉を使いましたが、数字であらわせない抽象的なものを測るのですから、「スイスアーミーナイフのような多機能ナイフを持つ」とイメージしてもいいでしょう。
小さなナイフ、ワインのコルク抜き、はさみも爪切りも、すべてがコンパクトにまとまっている道具です。
スイスアーミーナイフのナイフと庖丁を比べたら、庖丁のほうがよく切れるに決まっているし、爪切りも単体の爪切りのほうが使いやすいのです。
しかしスイスアーミーナイフを一つ持っていることで、「いざとなれば何かはできる」という安心感が芽生えます。
普通を知るとは、これに似ています。
「ありとあらゆる資格を持っていればいいという、資格マニアのようなものなのか?」と思うかもしれませんが、僕の意味することは、ちょっと違います。
「たくさんの道具を持っているから何でもできる」のではなく、「あれもできて、これもできるから、その真ん中がわかる」という状態になるのではないかと考えているのです。
たとえばビートルズについて聞かれた時に、僕が「すごいんだよ」と言うのと、坂本龍一さんが「すごいんだよ」と言うのとでは、説得力が違います。
音楽のプロである彼は音楽についての豊富な知識をもっていて、ありとあらゆる角度でビートルズを測ることができます。
その結果の「すごいんだよ」だからこそ、説得力があります。
人はそれを察知して、「坂本さんが言うことの精度は高いだろう」と感じると思うのです。
坂本さんはおそらく、古今東西のあらゆるミュージシャンを知悉した上で、「ビートルズはすごい」と定義するでしょう。
しかし、ビートルズだけが熱狂的に好きな人にとっては、ビートルズがすべてです。
ローリングストーンズと比べることも、Bzと比べることもできません。
「ビートルズ以外は、関係ない」と凝り固まってしまいます。
これは別に悪いことではありませんし、「ものごとを深く見ている」とも言えます。
しかし、とても狭く偏ったものの見方であることは間違いなく、その人が言う「すごいんだよ」には、説得力がありません。
数値化できない事象には、ありとあらゆるものがあります。
ましてそれを最適化するとなれば、多角的・多面的にものごとを測った上で「普通」を見つけ出し、設定する能力が必要です。
数値化できない事象を測る方法をたくさん知っていればいるほど、センスがよくなります。
自分が認識している「普通」の基準と、あらゆる人にとっての「普通」を、イコールに近づけられるようになればなるほど、最適化しやすくなるのではないでしょうか。
普通という定規でいろいろな年齢を測れば、いろいろな年齢の消費者の欲しいものがつくれます。
つくり手が男性だろうと女性だろうと、異性が好きなものもつくることができるのです。
普通を知るということは、ありとあらゆるものをつくり出せる可能性がたくさんあるということです。
p46
時計の針を進めて近代に目を向けても、同様の現象が見られます。
一八世紀半ばにイギリスで起きた産業革命で、世の中は劇的に変わりました。
ものづくりに工業という概念が持ち込まれ、機械化が進み、大量生産が可能になりました。
職人がコツコツつくっていた時代とは比べものにならない生産量でしょう。
さらに、蒸気機関車というかつてなかった移動手段が生まれました。
これらは素晴らしい技術の発展であり、進化なのですが、安かろう悪かろうの品が大量にあふれるというマイナス面も伴います。
それに異を唱えたのが詩人でデザイナーのウイリアム・モリス。
今でもそのデザインは美しい壁紙やプリントとして残っています。
一八三四年生まれの彼は、「工場の大量生産品を使うのではなく、もう一度手仕事に戻ろう。暮らしのなかに美しいものを取り入れよう」と提唱し、さまざまなセンスある商品を生み出しました。
これは「アーツ・アンド・クラフツ運動」と呼ばれます。
モリスによる“センス革命”が起きたと言っていいでしょう。
手仕事というなつかしさをフックにしたセンスの時代への変換です。
もちろん、ヨーロッパには伝統的に、装飾をこらした芸術作品と呼べるような調度品がありますが、王族や貴族、大富豪など、限られた人のためのものでした。
今日鑑賞される名画も、特権階級や教会のために描かれたものがほとんどです。
一方、当時の庶民の暮らしの道具は機能優先でした。
手仕事でつくられていた頃は意図せず職人の個性が加わっていたかもしれませんが、工場の道具となればセンスやデザインなど求められませんでした。
丈夫で使いやすいものをたくさんつくる」という、技術の追求が最優先事項だったのです。
しかし、技術力はやがて頭打ちになります。
進化が止まるわけではありませんが、あまりに急激にピークを迎えたので、いったん停滞するのです。
同時に、大量生産が当たり前になると、人々の意識が変わります。
ここで起きたのがやはり「技術からセンスへの揺り戻し」です。
アーツ・アンド・クラフツ運動がきっかけとなり、アートは、日本語でいう「美術」と「デザイン」に分かれていきました。
工芸品や民芸品という庶民のための「もの」にも美しさを求める――これが今日のデザインという概念につながっていったのです。
「アーツ・アンド・クラフツ運動」は世界各地に伝播し、日本でも一九二六年に、日用品のなかに美を見出そうという民芸運動が起こりました。
p56
食品でも化粧品でも、新しい商品をつくろうというとき、圧倒的多数の日本企業はまず、市場調査を始めます。
僕は、これが大問題だと思っています。
日本企業を弱体化させたのは、市場調査を中心としたマーケティング依存ではないでしょうか。
通常の市場調査では、対象者を集め、六人ほどのグループにして聞いてみます。
「あなたのいいと思う商品のサイズはどれですか。A、B、Cから選んでください」
並んだ試作品を手にとり、触ってみても、対象者の答えは好みでしかありません。
彼らは消費者であり、開発者ではないのですから、今あるものと比べて何かを言うことしかできなくて当然です。
この手の市場調査には、二つの落とし穴があります。
ひとつは、悪目立ちするものに目が行きがちであるということ。
なにかを選ばなければならない「特殊な状態」に置かれている調査対象者は、普段の自分だったら毎日の生活の中に取り入れたいとは思わないような、変に目立つものを、気負って選んでしまいがちです。
もうひとつは、新しい可能性を潰してしまいがちなこと。
自分が見たこともない、聞いたこともない、触ったこともないものをいいと言う人は、実はほとんどいません。
発売前のiPodを市場調査にかけていたら、「再生や巻き戻しのボタンがないなんて」と非難ごうごうだったかもしれません。
一〇〇が二〇〇になったものは欲しくない。
一〇〇が一〇一になったもの、せいぜい一一〇ぐらいになったものを見た時、多くの人が「新鮮だ、新しい、欲しい!」と思うものなのです。
ここから、新しい価値は生まれません。
一〇〇が一〇一になれば進化しているとは言えますが、この程度の歩みのスピードだと、スティーブ・ジョブズが生きていた頃のアップルのような会社には、到底追いつくことができません。
それなのに旧態依然として「まず市場調査ありき」という日本企業は、あえて新しいものを生まないように努力しているかのようです。
グループインタビューの多くは調査会社によって行われ、メーカーの人たちはマジックミラー越しに、別室で様子を見ています。
僕も一緒に見せてもらうことがありますが、「あまり意味がないんじゃないでしょうか」とはっきり言ってしまいます。
するとメーカーの人たちは、こんな答えを口にします。
「いや、市場調査は商品開発の儀式みたいなものですから」
それなら、いらないと思うのは僕だけでしょうか?
たった一つ、僕がやってみてもいいと考えている市場調査は、どの商品がいいか一秒で選ぶというやり方。
非常に感覚的な作業で、論理的思考が一切入りません。
つまり、僕たちが普段、店頭などでものを選ぶときにものから感じ取る時間とまったく同じ条件下で調査をするということです。
何も置いてない部屋に新商品のパッケージのA、B、Cを置いておいて、どれがいいかを、入室して一秒で決めてもらう。
その際には必ず一人。
一秒で決めて出ていく。
この作業を、一〇人ではなく、一〇〇人、一〇〇〇人という規模で行う市場調査であれば、参考程度にしてもいいと思っています。
日本企業に必要なのはクリエイティブディレクター p60
亡くなってしまったスティーブ・ジョブズという人は、経営者であり、クリエイティブディレクターでした。
彼は市場調査を重要視せず、自分の本当に欲しいもの、「みんなも本当は欲しいだろう」と自分が思うものを生み出す努力を続けてきました。
彼の能力の高さはアップル成功の重要なファクターです。
日本にもきっと、ジョブズのような人はいるはずです。
しかし、市場調査に頼るというシステムが、そうした能力の高い人を生かすことができない一因になっているのではないでしょうか。
「市場調査は社内説得の道具」として使われているという説もあります。
真偽のほどは僕にはわかりませんが、市場調査が、人材育成の面でも危険な行為だというのは確かでしょう。
危険である理由は二つ。
第一に、調査だけに頼っていると、自分は何がいいと思い、何がつくりたいのか、自分の頭で考えなくなります。
この他力本願な姿勢が、クリエイティビティの低い頭脳構造を生み出してしまいます。
第二に、「調査結果で決めた」となると、責任の所在が曖昧になります。
ただでさえ、総意でものごとを決定しがちな日本企業でそれをやれば、「この新商品が駄目だったら、クビになるかもしれない」という緊張感はなくなります。
緊張感のなさは、「もっとよくしよう、もっと面白いことをやろう」という向上心を弱めてしまう危険があります。
向上心のないところから、いい商品は生まれないのではないでしょうか。
p66
僕は、どんな人でもクリエイティブディレクターになれる可能性を持っていると思っています。
失敗を恐れず、縦割り構造の会社組織に横串を刺せる人こそクリエイティブディレクターであり、それには三パターンあります。
一つ目のパターンは経営者もしくは経営陣がクリエイティブディレクターになること。
スティーブ・ジョブズはこのパターンです。
二つ目のパターンは、外部の人間がクリエイティブディレクターになること。
佐藤可士和さんや僕はここに当てはまります。
三つ目のパターンは、企業の中に特区をつくり、そこで働く人たちがクリエイティブディレクター的な役割を果たすこと。
サムスンはまさにこのパターンですし、デザイン部が力を持っている資生堂も近いことが行われているようです。
数は少ないと思いますが、場合によっては社員でもクリエイティブディレクターになれます。
たとえば、社内の小さなチームにおいて、リーダーがクリエイティビティにあふれていることもあるでしょう。
外部の人間であれ内部の人間であれ、多くの企業がクリエイティブディレクターを持てば、閉塞感はなくなっていくのではないでしょうか。
どんな職種にもセンスが必要不可欠になっている p68
先日、五歳になる僕の息子が、「ダンゴムシパン」というのをつくりました。
おばあちゃんが趣味のパン作りをしているときに、ときどき一緒にやらせてもらうようで、今までは動物のパンやウルトラマンのパンをつくっていました。
それらは形が不格好でも、なんともほほえましいものでした。
ところが、最近虫に凝りだした息子がつくったパンは、ダンゴムシパン。
かなり上手にダンゴムシの形を再現できたのが逆効果となり、積極的に食べたいとは到底思えない代物に仕上がっていました。
僕は写メで送られてきた画像を眺めながら、「人間は視覚が何割とかいうけれど、やっぱり瞬間的にものを見て判断しているんだな」と改めて感じました。
商品というアウトプットは「もの」であり、視覚に左右されます。
社内環境とは室内のインテリアであり、机の整理整頓であり、働く人たちの服装というアウトプットとして表れます。
すべての仕事がアウトプットであるのなら、センスのよいアウトプットをしなければいけないと僕は思います。
あなたが仮にパン屋さんを開いて、最高の小麦、最高の水、最高の天然酵母を使って、最高の窯で最高の技術でつくったとします。
しかしそれがどこにでもあるような凡庸な花柄のお盆に載っていたらどうでしょう?
そのパンの形がダンゴムシみたいにひどい形をしていなくても、ぞんざいにつくられたと思われかねない、不格好なものだったら?
買ってもらったパンを、薄いビニール袋に入れただけでお客さまに渡したら?
それは売れるでしょうか。
本当においしいと思ってもらえるでしょうか。
これは、職場においても同様です。
会議資料をまとめる作業や企画書の作成は、多くのビジネスパーソンが日々直面するシーンです。
しかし、読みづらい書類ばかりを提出する人が、仕事がデキるように見えるでしょうか。
あなたが仮に経理部に所属していたら、資料に最適な書体、グラフ、まとめ方があるはずです。
情報を的確に整理し、大切なポイントを一番見えやすくすることができる人とできない人で、どちらが優秀かは明白です。
机に書類が山積みになっていて、「あの年の帳簿が見たいんですけど」と頼んだら出てくるまでに二時間くらい待たされる、そんな経理を、人は信用するでしょうか?
仮にその帳簿がなんら瑕疵のないものでも、「きっちりしていて安心だ」とは思ってもらえないでしょう。
センスが数値化できないものである以上、その解を導き出すプロセスが難しい事例もあります。
たとえば最近、とてもきれいで真っ白なカフェのようなラーメン屋さんができています。
内装も丼も非常におしゃれという店です。
女性向けにパスタのようなラーメンを出すならいいでしょう。
しかし、本格派のラーメン好きの男性に食べてほしい店なら、それは果たして正解でしょうか?
僕はスープが甘いような印象を受けて、食べにいきたいとはあまり思いません。
どんなにいい仕事をしていても、どんなに便利なものを生み出していたとしても、見え方のコントロールができていなければ、その商品はまったく人の心に響きません。
見え方のコントロールこそ、企業なり人なり商品なりのブランド力を高めることにつながっていく。
そのブランド力を高められるのが、センスのよさなのです。
センスにはやはり、「最適化」が非常に大切だということでしょう。
センスを磨くには、あらゆることに気がつく几帳面さ、人が見ていないところに気がつける観察力が必要です。
よいセンスを身につけることも、維持することも、向上することも、研鑽が必要です。
能力がある限られた人しかできないことだから、難しいのではありません。
本当に簡単なことを、「これが重要だ」と認識し、日々実践していくこと。
その繰り返しを続けることが難しいのです。
やればできるけれど、やらないとできない。
次章は、そんなセンスの磨き方についてお伝えしたいと思います。
すべての仕事において“知らない”は不利 p74
センスとは何か、センスがいかに必要な時代かがわかったところで、「どうやってセンスを身につければいいか?」という本題に入りましょう。
「センスがよくなりたいのなら、普通を知るほうがいい」と述べました。
そして、普通を知る唯一の方法は、知識を得ることです。
センスとは知識の集積である。
これが僕の考えです。
文章を書くことをイメージしてみましょう。
「あいうえお」しか知らない人間と「あ」から「ん」まで五十音を知っている人間とでは、どちらがわかりやすい文章を書けるでしょう?
どちらが人を喜ばせる文章を書けるでしょうか?
ひねくれた人は「あいうえおだけで素晴らしい文章を書ける人こそ、センスがある」と言うかもしれません。
「あいうえお」だけ使ってハッとするフレーズを生み出せる人もいるでしょう。
しかし、五十音を全部知っている人と勝負をしたらどちらが勝つかは明らかであり、そこを否定する余地はないと僕は考えています。
仮に一発勝負であれば、あいうえおしか知らない人が勝つかもしれませんが、何回にも及ぶ勝負であれば、最後に勝つのは五十音全部を知っている人でしょう。
さらに、あいうえおだけで素晴らしいフレーズをつくれる人は、言葉の知識が非常に豊富であり、五十音も知っているはずなのです。
センスがいい文章を書くには、言葉をたくさん知っていたほうが圧倒的に有利である。
これは事実です。
文章というたとえを使いましたが、これは仕事や生きるということにおいても同様だと思います。
知識があればあるだけ、その可能性を広げることができるのです。
ひらめきを待たずに知識を蓄える p77
「他とは全然違うもの」
実はここに、大きな落とし穴があることに、みなさんは気づけるでしょうか?
プロローグでも触れましたが、企画を考えるとき、特に学生は「誰も見たことのない企画にしたい」と言います。
そうやってひらめきを待つのです。
しかし僕は、手始めに、「誰でも見たことのあるもの」という知識を蓄えることが大切だと思っています。
世の中に、「誰も見たことのない、あっと驚く企画」というのは実はゴロゴロころがっています。
しかし、「あっと驚く企画」には二種類あります。
世の中で一番少ないのは、「誰も見たことのない、あっと驚くヒット企画」。
僕のイメージとしては二%程度だと思います。
次に少ないのが、「あまり驚かない、売れない企画」というものでイメージとしては一五%くらいあります。
次は「あまり驚かないけれど、売れる企画」。
これは意外に多くて、イメージとしては二〇%。
そして一番多いのは、「あっと驚く売れない企画」。
イメージとしては残る六三%、半分以上を占めています。
つまり、「誰も見たことがないような、あっと驚く企画をつくりたい」と思っている人は、たった二%の「あっと驚くヒット企画」にばかり目がいき、全体の六三%を占める「あっと驚く売れない企画」には目をつぶっているのです。
まずは「あっと驚く売れない企画」の多さに、目を向けましょう。
「あっと驚く売れない企画」は、コアなターゲットに向けたもの以外、社会に求められないことがほとんどです。
そうして現実の厳しさを知ったところで、「あまり驚かないけれど売れる企画」に注目するといいでしょう。
たとえばiPhoneは、かつてなかった商品とされますが、固定電話、携帯電話という流れに沿ったものです。
AKB48はおニャン子クラブ、モーニング娘。の流れを汲むものでしょう。
インターネットにしても、飛脚、郵便、電報、テレックス、ファクスという通信手段の流れのなかにあります。
つまり、過去に存在していたあらゆるものを知識として蓄えておくことが、新たに売れるものを生み出すには必要不可欠だということです。
まずは知識をつけましょう。
過去の蓄積、すなわち「あっと驚かないもの」を知っていればいるほど、クリエイティブの土壌は広がります。
そのうえで、あっと驚くアウトプットを目指すべきなのです。
たとえ話をすれば、「わくわくする冒険の旅がしたい」という時、天から「南へ行け!」というひらめきが来るのを待って目的地を決める人はいないのと同じようなものです。
たいていの人は、「ヨーロッパはこういうところ、見たこともない秘境はこのあたり」という知識をもった上で、「じゃあ、ネパールへ行こう」と目的地を決めます。
雑誌やテレビでネパールを見たことも聞いたこともない人はほとんどいませんが、ネパールで新鮮な旅をすることは十分に可能です。
もちろん、僕が言いたいのは、「あっと驚かないものをつくれ」ということではありません。
「新しいひらめきなんて無理だからあきらめろ」と言っているのでもありません。
方向性を決めたあと、企画をブラッシュアップしていくときは、あっと驚くものを目指すべきですし、最終的なアウトプットは、新しく、美しく、尖ったものであるべき。
しかし、アウトプットの前段階においては、知識にもとづいた方向性の決定が大切だということです。
p83
僕たちはまた、未来と過去が引っ張り合いをしている世界に存在しています。
人が未来に引っ張られる進化だけの生き物であれば、骨董好きな人などいないし、一定のサイクルで、古いファッションがリバイバルで流行することもないでしょう。
古いものに慈しみをもち、古いものに対して「美しい」と思う感情が、未来へ、新しいものへと進もうとする力に拮抗して、バランスを取っているのだと僕はとらえています。
このバランスを加味した上で企画を考えないと、あまりにも先進的で攻撃的な、誰もついてこられない独りよがりの企画になってしまいます。
エンジンと電気モーターの力によりガソリン代の軽減とエコを実現したハイブリッドカー。
既存の照明器具で使えるのに寿命は遥かに長いLED電球。
メール、チャット、SNS、電話などが一体化した機能を備えながら、はるかに手軽なLINE……。
みんなが「へぇー」と思うものは、ある程度知っているものの延長線上にありながら、画期的に異なっているもの。
「ありそうでなかったもの」です。
従来の考え方を遠ざけ、独創性ばかりにこだわりすぎると、文字通り「独りよがりのクリエイティブ」になってしまいます。
ものをつくる人間は、新しさを追い求めながら、過去へのリスペクトも忘れないことが大切なのではないでしょうか。
過去から学ぶ際には、何を手がかりにするかを見極めることが肝要です。
新たなアウトプットの見本やヒントとなるのは何か?
それを知る糸口となるのが、知識に他ならないと僕は感じているのです。
豊富な知識があるということは、センスを磨くためのよき師をたくさん持っているようなものです。
たった一人の師ではなく、より多くの、しかも優れた師に学んだほうが、力が伸びていくことはいうまでもないでしょう。
センスとは、知識にもとづく予測である p86
よきセンスをもつには、知識を蓄え、過去に学ぶことが大切です。
同時にセンスとは、時代の一歩先を読む能力も指します。
はるか遠い未来に飛んでしまっては、消費者は未知のものへの恐怖や違和感を覚え、ついてきてくれないと述べました。
アウトプットそのものは時代の半歩先であるべきです。
しかし、半歩先のアウトプットをつくり出すためには、一歩先、二歩先を読むセンスがなければならないのです。
過去を知って知識を蓄えることと、未来を読んで予測することは、一見すると矛盾しているように感じます。
しかし、僕の中でこの二つは明確につながっています。
知識にもとづいて予測することが、センスだと考えているのです。
一例として、経営センスについて考えてみましょう。
「先々の事業計画のために、このベンチャー企業を買収しよう」などと、先を読む能力に長けた経営者がいます。
彼らは優れた経営センスがあり、非常に感覚的だと評されることが多いようです。
実際に、「社長はどうして市場の先行きが予測できるのですか?」というインタビューに対して「長年の勘です」と答える経営者もいます。
しかし僕の見たところ、こうした社長はおそらく、市場についての膨大な知識と経験を蓄えており、それをもとに自分なりの予測を生み出して、経営判断をしています。
一連の思考プロセスを言語化するのが難しいために「勘です」と答えているだけのような気がします。
もう一つの例として、占いを考えてみましょう。
非常によく当たる有名な占い師は、「超能力がある」などとされます。
しかし、彼らの言動を見ていると、「自分の持てる知識を総動員して説得にかかっているな」と感じることも少なくありません。
さらに占いにはいろいろあり、統計学のように思えるものもあります。
僕はあるとき風水に興味を持ち、一〇冊ほど本を読んでみて、はっとしました。
「風水って占いに見えるけど、実は気の流れにまつわる知識の集大成なんだな」
気功の気、霊気の気ではなく、大気の気。
風水とは、文字通り水と風、そして湿度や温度といった天候や地質の知識にもとづいて打ち出された未来への指針なのです。
いつの間にか「玄関に黄色い置物を」というミニマムな話としてとらえられるようになってしまいましたが、もともとの風水とは、都市計画だったようです。
「どうしたら人が病気にならず、戦で攻められたときに守りやすく、水の流れと風の流れに沿った美しい都ができるか」と考えたとき、過去の例、湿度、風の向き、土地の構造といった知識を参考にした上で導きだされたものなのです。
単純に言えば「風通しが悪くてカビが生える環境に都をつくったら、疫病が流行する。
病人や死者が多い都は栄えない」というのは合理的かつもっともな話。
そうならないための都市計画を立て、人々にわかりやすく説明するために「東や北に龍を置け」というイメージを用いたのではないかと僕は感じています。
そして、よく当たる占い師というのは、センスがよい人であったと想像するのです。
客観情報の集積がその人のセンスを決定する p91
センスが知識で成り立つことは、もうお伝えし尽くしたように思えます。
ただし一点だけ付け加えたいのは、知識ならなんでもかまわない、というわけではないこと。
わかりやすい例としてファッションを考えてみましょう。
学生時代から、「なんということのないセーターを着ているけど、すごくセンスがよくておしゃれだな」と感じさせるAくんがいるとします。
彼は何も考えずに「なんということのないセーター」を選んでいるのに、不思議とセンスがいい――洋服に興味がない人たちはそんなふうに思っていますが、明らかに違います。
Aくんは実はファッションについてとても勉強していて、洋服やそのときの流行をよく知っています。
さらに、自分の体型、個性、雰囲気など客観的な情報もきちんと集積しており、その二つの知識を合わせて服選びをしているのです。
一方、「いつも流行のど真ん中の服装をしていて、ファッションが好きなのはわかるけれど、センスはなさそうだし、おしゃれにも見えない」というBさんもいます。
BさんもAくん同様に、ファッションについてとてもよく勉強しているでしょう。
しかし、彼女の知識は非常に偏っており、「今、何が流行っているか」という点に絞られています。
もしかしたら「モテ服はこれ!」という情報も入手しているかもしれませんが、自分の体型、個性、雰囲気といった客観的情報は持っていません。
その結果、自分に何が似合うかという目的にかなわない服装をしてしまうので、センスがよくも見えず、おしゃれにも見えないのです。
この例からおわかりいただけるとおり、センスをよくするためには、単に流行の情報を集積するだけではいけません。
数値化できない事象を最適化するためには、客観情報ほど大切なものはありません。
センスの最大の敵は思い込みであり、主観性です。
思い込みと主観による情報をいくら集めても、センスはよくならないのです。
僕たちはみなそれぞれ、自分なりの思い込みを持っています。
考え方、これまでの生き方がその人の一〇〇%をつくり出しています。
ファッションに限らず、ビジネスにおけるプランや企画においても、僕たちはなかなか主観性の枠から自由になれません。
なかなか自由になれないからこそ、意識して思い込みを外すべきだと僕は感じます。
思い込みを捨てて客観情報を集めることこそ、センスをよくする大切な方法です。
僕は半ば冗談、半ば本気で「学校にセンスを教える授業があればいいのに」と言いますが、これは学校教育こそ客観情報の集め方を教える効率的な仕組みだと考えているからです。
歴史の知識、数学の知識は客観情報として与えられるのに、美意識にまつわる知識はすべて自己学習として放置されており、その結果、客観情報を集められるAくんと集められないBさんという差が生じてしまう気がしています。
二歳の男の子がものすごくセンスのいい服装を選べるかといえば、無理でしょう。
もちろん子どもにも多少の差はあると思いますが、Aくんのような子どもも、Bさんのような子どももほとんどいないはずです。
先天性のセンスというものが仮にあったとしても、それはわずか数パーセントであり、後天的要素が非常に強いのです。
ピンクが好きだからピンク色の服を買う、アウトドアが好きだからアウトドア用品を買う、機能性が高いものが好きだからスポーツメーカーの服を買う、とにかく安いものが好きだから安い服を買う。
どんな理由にしても、人は好き嫌いでものを選んでいます。
好き嫌いというのは主観にほかなりません。
そこに「どの服が自分にふさわしいのか」という客観性を加えれば、数値化されない事象を最適化するセンスの力が発揮されることでしょう。
あなたが幸いにAくんのタイプであれば、客観情報を引き続き集積することです。
残念ながらセンスに自信のないBさんのタイプであれば、「好き」という主観を外して客観情報を集めてみましょう。
AくんともBさんとも違い、「好きなものもないし、知識もない」というのなら、真っ白なキャンバスのようなものですから、客観情報はそれだけ集めやすいと言えます。
ただ、知識獲得の努力をこれまでにしていないことは自覚しておいたほうがいいと思います。
「センスのいい家具を選びたいのに、選べない」という人は、もともとインテリアについてさほど知識がありません。
それなのに何軒かインテリアショップを見て、せいぜい五~六冊の雑誌を眺めたくらいで「私にはわからない」と言ってしまいます。
しかし、パッと見ただけでセンスのいい家具を選べる人は、おそらくインテリア雑誌の一〇〇冊や二〇〇冊には軽く目を通しています。
あるいは、お店を回ったり、詳しい人に話を聞いて、それに匹敵するような情報を得ているはずです。
勉強のような辛い努力ではなく、趣味として楽しんでいたかもしれませんが、結果、膨大な知識の集積が行われているはずなのです。
さらに、「自分の部屋」について客観的に見る目も持っているので、ふさわしい家具が選べるのです。
センスに自信がない人は、自分が、実はいかに情報を集めていないか、自分が持っている客観情報がいかに少ないかを、まず自覚しましょう。
いくら瞬時に物事を最適化できる人がいたとしても、その人のセンスは感覚ではなく、膨大な知識の集積なのです。
センスとはつまり、研鑽によって誰でも手にできる能力と言えます。
決して生まれつきの才能ではないのです。
「流行っている」=「センスがいい」ではない p98
「センスには知識が大切だ、あらゆる知識を得なさい」
いきなりこう言われたとしたら、戸惑う人も多いでしょう。
「どこから手を付けてよいかわからない」
「一から学ぶなんて、そんな時間はないから、効率のいい方法を知りたい」
こうした人のために、この章では、センスを養うための知識を増やし、仕事を最適化するコツを整理しておきます。
本題に入る前の前提として、「流行っているもの=センスがいいもの」ではないことを理解していただきたいと思います。
ここを間違えている人は、意外と多いものです。
ファッションでいえば、流行のものばかり身につけても、自分の体型や個性に合っていなければ素敵には見えません。
商品開発も同じです。
「流行っている商品」のパッケージデザインの雰囲気だけを真似ても、消費者から「いいな」とは思ってもらえないのです。
「そんなのは当たり前だろう」と思うかもしれませんが、この落とし穴に落ちている商品開発者は意外に多いのではないでしょうか。
流行った商品のうわべだけを真似た結果、中途半端に変わったものになってしまい、結局、消費者から受け入れてもらえず長続きしない……こんな商品は多いように思います。
数年前のこと。
新発売直後に店頭で見るなり、なるほどと唸った商品がありました。
アサヒビールの新ジャンル「クリアアサヒ」。
それまで新ジャンルといえば他社製品が独走状態でしたが、このパッケージを見た瞬間、「これは売れる!」と確信しました。
思わず「すごくいいデザインの商品を見つけたよ!」とスタッフのために買って帰ってしまったほどです。
プロローグでも触れましたが、売れるものには必ず、「シズル」が存在します。
シズルとは本来、「肉がジュージュー焼けるさま」を表す英語(sizzle)。
転じて広告業界では、おいしそうに見せる演出を指します。
僕は更に広く捉えて、「そのものらしさ」をシズルと表現しています。
「クリアアサヒ」は、まさに「シズル」そのものでした。
いまにも缶から溢れ出しそうな泡の表現は、「ビールらしさ」に満ちていました。
それでいて、上質感のあるデザイン。
実際にはこの商品はビールではなく、第三のビールと呼ばれる新ジャンルです。
しかしそれこそがこのパッケージの肝。
「本当はビールが飲みたいんだけど、仕方なく新ジャンルで手を打つか……」と思っている人々の心に、刺さるだろうと感じました。
「クリアアサヒ」は、事実、みるみる売れ行きを伸ばしていきました。
売れた理由には、味、広告などさまざまな要因があると思います。
でも一番の理由は、あの素晴らしいパッケージではないかと僕は思っています。
それからほどなくして。
僕はスーパーで、あっと驚きました。
「クリアアサヒ」にあまりにも似たパッケージの商品が、他社から発売されていたからです。
しかし、この商品が大ヒットしたという話は聞きません。
消費者は、敏感です。
二匹目のドジョウは一匹目には敵わず、多くの消費者に受け入れられることはなかったのでしょう。
流行っている商品のうわべだけを真似ても、競合商品にはなり得ないという一例だと感じます。
ですが、こうした例はいくつも散見されます。
もうひとつ気をつけておきたいのは、センスには「賞味期限」がある場合もあり得る、ということ。
あらゆるお店を席巻し、多くの人を魅了していた商品が、ある日ぱたりと見向きもされなくなり、店頭から消えていくことは珍しくありません。
そのタイミングを測り損ねて、引き潮になっているときに真似た商品をつくり出しても、世に出たときにはすでにセンスがないものになってしまっていることがあります。
常に、自分のセンスの更新をしていくことも大事なのです。
効率よく知識を増やす三つのコツ p102
王道から解いていく知識を増やしていく際は、三段階のアプローチがあります。
順に説明していきましょう。
①王道から解いていく
最初に「王道のもの」は何か、というところから紐解いていきましょう。
「王道のもの」とは、製品によっては、「定番のもの」「一番いいとされているもの」「ロングセラーになっているもの」と言い換えることができるかもしれません。
たとえば、ジーンズならリーバイス501。
一二〇年以上の歴史を持ちながらいまだ多くの人に愛される、定番中の定番です。
王道のものには、その製品らしいシズルが必ず含まれています。
王道としての地位を確立するまでに、改良され、洗練されて、「そのものらしさ」が磨かれているからです。
逆に、シズルが含まれているからこそ多くの人に愛され、定番化していったとも言えるでしょう。
言い換えれば、王道のものはすでに「最適化されている」と言えます。
本書で定義づけているセンスのよさとは、「数値化できない事象のよし悪しを判断し最適化する能力」。
王道のものは必ず、その最適化のプロセスを経た上でいまに存在しています。
ゆえに、王道のものを知ることで、そのジャンルの製品を最適化する際の指標ができるのです。
とはいえ、このような声が上がるかもしれません。
「王道のものとはなにか、そこを知るのが難しい」
おっしゃる通り。
しかも実は、思いのほか難しいのです。
僕は、クリエイティブディレクターとして企業のコンサルティングに携わる傍ら、これこそがこのプロダクトの定番、と言える商品を開発する「THE」というブランドも共同運営しています。
デザインは装飾デザインと機能デザインで成り立っていますが、世の中にはあまりに装飾に偏った商品が多い。
その現状を打破するには自分たちがメーカーになるしかないというのがスタートで、すでにさまざまなメーカーとのコラボ商品も開発し、いずれは「THE車」や「THEマンション」も手がけてみたいという構想を持っています。
丸の内の商業施設「KITTE」に構えた店舗「THE SHOP」には、オリジナル品だけでなく、文具、衣類、雑貨、玩具、お菓子、調理器具から自転車まであらゆるジャンルの「定番」を揃えていますが、商品のセレクト会議は毎回、侃々諤々。
一番盛り上がる瞬間でもあります。
たとえば、これぞ定番と呼べるボールペンとは何か。
文具店に行けば、あらゆる製品が並んでいます。
複数のお店を回ればおおよその売れ筋は見えてくるでしょう。
インターネットで「ボールペン定番」「ボールペン人気」などと検索すれば、更に大量の情報が出てきます。
では、定番のボールペンとは何でしょうか。
いま一番売れ筋の商品?
あるいは、過去に世界で最も売れた商品?
いやいや、なめらかな書き心地に定評のある商品でしょうか?
それとも、老舗文具ブランドから出ている最高級品?
どれも、あながち間違いではありません。
結局THEで選んだのは、摩擦熱によって書いた文字が消せるボールペン「フリクション」。
古くからあるスタンダード商品ではありませんが、消せるという特筆すべき機能は、未来の定番になっていくと考えたからです。
スポーツブランドであるPUMAと組んでオリジナルのフットサルシューズを開発したときも、悩みました。
定番たり得るフットサルシューズとは何なのか。
機能なのか、素材なのか、形状なのか……。
ふと思い至ったのが、サッカーシューズの定番中の定番である、PUMAの「パラメヒコ」でした。
一九八六年の発売以来、超ロングセラーを続けるこのスパイクは、三浦知良さんが履いていたことでも知られていました。
ちょうど、三浦知良さんがフットサルの日本代表メンバーに選ばれたというニュースが、世間を賑わせていた時期でもありました。
そこで、「パラメヒコ」のアッパーはそのまま使い、ソールには最新のテクノロジーがつまったフットサル用ソールを装備することに。
完成した『THE FUTSAL SHOES』は、数量限定だったこともあり、またたく間に完売しました。
インターネットがこれだけ普及した時代、たいていのことは調べられます。
しかし、どれが「王道のもの」かを見極めようとすると、情報の波に溺れそうになります。
数多の情報の中から自分なりに納得のいく「王道」を探し出す過程で、あなたは実はもうひとつ、別の作業も行っています。
それは、センスアップに不可欠な「知識」の獲得。
その商品が王道たり得る根拠を求め、調べるプロセスにおいて、いくつもの取捨選択をします。
「王道」が見つかるまでには、数多くの「王道とは認定できないと判断したもの」との出会いがあるはずなのです。
手頃な価格のもの。
とても高いもの。
最も多く売れているもの。
品質がとてもいいもの。
特別な機能を兼ね備えているもの…。
結果、「王道」を見つけたときには、そのジャンルにまつわる幅広い知識も得ており、その商品を王道とした理由だけでなく、「なぜ別のBという商品を王道と認定しなかったのか」についても語れるようになっているはずです。
製品によっては、「大衆的という条件ならこれ。高くてもいいなら、老舗ハイブランドの最高級品であるこれ」と、どうしてもひとつに絞りきれないこともあるかもしれません。
それはそれで、今後知識を増やしていくときの判断基準になるでしょう。
大切なのは、王道のものを「ひとつに決めること」ではなく、それを見つけ出す「プロセス」にあります。
そして、ひとたび「王道」を見つけてしまえば、このあとの知識の獲得、センスの獲得も容易になります。
「王道」を基準に、もっと高品質のもの、もっと手軽なもの、もっと機能に特化したもの……と、知識の幅を広げていきやすくなるからです。
基準があるおかげで、獲得した知識も整理されやすくなります。
②今、流行しているものを知る
王道をおさえたら、流行のものについての知識収集に着手しましょう。
王道の真逆です。
流行しているものの多くはたいてい、一過性のもの。
しかし、王道と流行のものの両方を知っておくことで、知識の幅を一気に広げられます。
流行を知る手立てとして最も効率がいいのは、雑誌。
それもできれば、コンビニの棚に並ぶありとあらゆる雑誌を手にとってみることをおすすめします。
僕は普段から、女性誌、男性誌、ライフスタイル誌に経済誌と、月に何十冊もの雑誌に目を通しており、ここから得た知識はとても役立っています。
インターネットは速報性はありますが、流行に関する情報は整理されきってはいません。
しかし雑誌なら、精査された情報が載っています。
複数読むうちに流行の流れが見えてくるのです。
時代は常に変化しています。
数カ月前に出た新製品によって、それまで不動の地位を得ていた定番商品が大きく揺らいでいることもあり得ます。
知識を定期的に更新しておくことは、センスアップにつながるのです。
このあとは、自分なりにいろいろな方法で知識を集めていけばいいのですが、ある程度知識が増えてきたところで、三つ目の段階に入ります。
③「共通項」や「一定のルール」がないかを考えてみる
これは知識を集めるというより、分析したり解釈したりすることで、自分なりの知識に精製するというプロセスです。
たとえば、僕はショップなどのインテリアデザインも手掛けています。
キャリアをスタートした頃にメインとしていたのはロゴなどのグラフィックデザインでしたから、インテリアデザインを始めた頃は、当然ながらショップインテリアに関する知識はほとんどありませんでした。
そこで、知識のインプットから始めました。
第一にしたのは、和風洋風を問わず、長く愛される老舗の内装をたくさん見て回ること。
すなわち、「ショップインテリアにおける王道・定番は何か」という知識を蓄えることでした。
同時に、多くの人が通い、一定の基準が設けられているコンビニなども、注意して歩いてみました。
第二にしたのは、流行のお店にたくさん足を運ぶこと。
第三にしたのは、王道と流行以外にもいろいろなお店を注意して見てみながら、「共通項は何だろう?」と考えてみることでした。
そこから、自分なりに見つけた「入りやすいお店(=繁盛するお店)」に共通するルールを挙げていきました。
これはかなり具体的で、「床が暗い色」「入口が高すぎない」「雑貨店の場合は、他のお客さんとの距離が近く少しごちゃごちゃしているくらいのほうが来客が多い」など。
「床が暗い色」というのは意外に感じるかもしれません。
「おしゃれ、きれい」=明るい色の床の方がいいのではと思う人もいるでしょう。
しかし僕なりの分析は、「日本人は靴を脱ぐ文化があるので、真っ白やベージュなどあまりにきれいな色の床だと、汚してしまうことに心理的なためらいを感じるのではないか?」というものでした。
入口で、「シミひとつない真っ白い床だ。汚してしまいそうだから、この靴でフラッと入るのは申し訳ない」と躊躇する気持ちが生まれては、顧客はスタートでくじけてしまいます。
「雑貨店はごちゃごちゃしているほうがいい」というのも、雑貨という商品の特性を知った上での分析です。
雑貨店に、明確な目的を持って買い物に来る人は稀です。
大抵の人は、「かわいい店だから入ってみよう」あるいは「プレゼントに何かいいものはないか」という漠然とした動機で店を訪れます。
そういうお客さんにとっては、ごちゃごちゃした中から面白いものを見つけだす」のが楽しみ。
それを味わえる空間づくりこそ雑貨店に必要不可欠なのだというのが、僕の分析です。
あまりに整然とした見通しのいい空間だと、自分が見ているものが他人から見えてしまう感じがして、落ち着いて選べないとも言えるでしょう。
人一人が歩ける通路の幅は、どんなに狭くても六〇〇mmと言われています。
九〇〇mmあれば譲り合うことで人とすれ違うことができ、一二〇〇mmあれば支障なく相互通行できるとされます。
しかし僕が見た中では、最低とされる六〇〇mmを下回る五〇〇mmの通路幅の雑貨店もありました。
確かに狭かったのですが、個人経営の小さな雑貨店だったので、その窮屈さがまた「小さな雑貨屋さんらしいシズル」を醸し出しており、こういうやり方もあるのだなと学びました。
逆に、僕がとあるオフィスのインテリアデザインを手掛けたときは、通路幅をあえて広くとったこともあります。
相互通行が十分可能とされる一二〇〇mmより更に広い一四〇〇mmにしたことで、広がりのある空間が生まれました。
ここで述べたとおり、僕は空間の床の色も商品棚の配置も、天から与えられたひらめきによって決めている訳ではなく、知識にもとづいて決めています。
これらの知識やルールはあくまで僕なりに見つけた共通項であり、インテリアの専門家がなんと言うかはわかりません。
ただ、少なくとも僕はこのルールにもとづいて多数のショップやオフィスのデザインを行い、今のところ成功しています。
知識の集積によってできたお店が、「センスがいいお店」と言われるものに仕上がっているのです。
もし、チョコレートの商品開発担当者になったのなら? p115
基本をお伝えしたところで、具体的なケースを想定してシミュレーションしてみましょう。
あなたは突然チョコレートの新商品の開発担当者に任命され、パッケージデザインの決定を任されたとします。
次のステップを踏めば、センスある仕事をしていくことができます。
①まずは王道のチョコレートに関する知識を紐解いてみる。
ひとつは、ベルギーやフランスなどの高級チョコレートの味と雰囲気。
もうひとつは、昔から長く愛され続けているロングセラーの板チョコなどの味と雰囲気。
②次に、流行りのチョコレートを知る。
最近発売された、競合他社の人気商品を調べる。
最近話題の、ヨーロッパの新しいショコラティエの挑戦的なショコラを入手する。
それらを観察し、味わい、パッケージにどのような特徴があるかをつぶさに知る。
③いろいろなチョコレートを知った上で、「そこに共通項はないだろうか?」と考える。
そこからまず、疑問を見つけ、「チョコレートのパッケージってたいてい茶色か赤。なぜだろう?」と考える。
「暖色系の相性がいいのは、チョコレートにはあったかいイメージがあるからだろうか?」
「とろけるチョコレートというイメージが喚起され、おいしそうと感じるからだろうか?」
④次に、疑問から仮説を導き出す。
「パッケージは暖色系、できれば茶色や赤やオレンジがいいのかな」
⑤最後に仮説を検証し、結論に結びつける。
「でも、それじゃありがちだ。茶色の補色にあたる青も併せて使ってみるのはどうだろう。今回の製品はベルギーチョコレートのイメージだから、ベルギー辺りで生まれた書体を選んでみよう」
このようなプロセスを踏んでいくだけで、ある程度のラインまではいけます。
少なくとも、まるでセンスのないパッケージにはならないはずです。
プラスαとして、デザインに関するちょっとした知識を知っておいてもいいでしょう。
たとえば、文字や写真をレイアウトするときは見えない矩形をイメージして、まずはスクエアに要素を置いてみること。
これが一番基本のレイアウトで、そこから崩していくことで面白さや躍動感が生まれていくこと。
ビジュアルの上下左右に余白があるなら、そのサイズは統一されていたほうが美しいこと。
文章が並んでいるときは、各行の両端が、どこかの行だけ飛び出ることなく上から下まできちんと揃っていないと汚く見えること。
ひとつのビジュアルの中に使う書体はせいぜい二、三種類にしたほうがいいこと。
実は、文字を普通に入力しただけだと文字間の余白は一定ではないこと。
一つひとつの文字の間の余白が均一に見えるように微調整する「文字詰め」という作業を丁寧にやると、ぐんと読みやすく美しいレイアウトになること……などなど。
どれもデザインの基本中の基本ですが、当たり前のルールをおさえるだけで、見た目の美しい「センスある」ビジュアルに変わります。
集中し、自分の世界に入り込んで作業しているデザイナーが、うっかり基本を見失うこともあり得ます。
選ぶ側であっても基本知識を知っておくことが、センスの時代にはより大切になってくるでしょう。
ここから先は「精度」です。
僕は、現代は「精度の時代」だと思っており、積み重ねた知識による検証を、あらゆる角度から繰り返していくことで、精度とクオリティを上げていくことができると考えています。
知識のクオリティが精度の高いアウトプットをつくり出す p119
ロゴでも商品でもキャラクターデザインでも、僕はプレゼンをするときに絶対に使わないと決めている言葉があります。
「感覚的に、これがいいと思うんです」は禁句。
かっこいいから、かわいいからといった漠然とした表現も一切しません。
クリエイティブディレクターやデザイナーの「感覚」もしくは「センス」を信じて仕事を依頼している、という風潮は、多くのクライアントの中にあります。
「僕の感覚では、この案がいいですよ」と言っても、通用するかもしれません。
現に、これを多用するデザイナーやものづくりをする人も存在します。
しかし、センスが知識の集積である以上、言葉で説明できないアウトプットはあり得ません。
自分のセンスでつくりあげたアイデアについて、きちんと言葉で説明し、クライアントなり消費者なりの心の奥底に眠っている知識と共鳴させる。
これがクリエイティブディレクターの仕事であり、ものをつくるということだと僕は考えています。
そのためには、知識の精度を高め、アウトプットの精度を高めなければなりません。
そうした時、はじめて成り立つのがセンスだと思っています。
僕はまた、このところ折にふれて「精度の時代だ」という発言をしています。
精度とは言葉を変えればクオリティのこと。
どんなものでも、クオリティが高くなければ選ばれない時代が来ていると感じます。
たとえば福澤諭吉について三人の人が肯定的な評価をしたとします。
Aさんは「福澤諭吉って、スゴイよね」と言います。
Bさんは「福澤諭吉って慶應義塾大学をつくった人で、スゴイよね」と言います。
Cさんは「福澤諭吉は『日本を変えてやる』と中岡慎太郎たちが騒いでいた頃、『次の時代には学問というものが必要になるだろう』と考えて慶應義塾をつくったところがスゴイよね」と言います。
三人の意見は同じですが、その信用度とクオリティは格段に違います。
彼らは自分の意見を述べていますが、その意見は「福澤諭吉についての知識」という土台からなる見識です。
センスのある発言をするには、正確でハイクオリティな「精度の高い知識」が欠かせないということです。
これは商品やアイデア、企画も同じだと僕は考えています。
最終的なアウトプットとは、土台となる知識がいかに優れているか、いかに豊富かで、かなりの部分が決まってくると思うのです。
センスがよい人は豊富かつ良質な知識を材料に発想しているはずだと。
こうした話をすると、またしても反論が出ます。
「センスがいい、悪いは感覚的なものだから、知識プラスαがあるはずだ」というわけです。
しかし、「あっ、この商品はセンスがいいな」と消費者が思う時、感覚で判断しているようで、実はその根っこに知識があります。
「いいな」と思った根拠を言葉にするのがとても難しく、なかなか言語化できないので、「なんかいい」「いいものは、いいんだ」と片づけてしまいますが、実は説明可能です。
知識をセンスで測ってアウトプットを決定する p137
もしもアリタリア航空からロゴをつくってくれという依頼が来たら、僕だったら絶対に使わない書体があります。
それは「ヘルベチカ(Helvetica)」という書体。
これでイタリアの会社のロゴをつくったら非常におかしくなると考えるからです。
なぜならヘルベチカとは「Confoederatio Helvetica」という、スイス連邦をあらわすラテン語からきているから。
スイス人とアメリカ人の書体デザイナーが生み出した書体なので、そう名付けられたのでしょう。
その意味でスイス航空の書体が実際にヘルベチカであるのは理にかなっています。
もちろん、ヘルベチカは日本を含めて世界中のさまざまな国のブランドや企業のロゴとしてよく使われていますが、国を象徴する航空会社となれば話が別です。
「あえてイタリアの会社がヘルベチカを使う」という理由をきちんとプレゼンテーションできなければ、使うべきではないでしょう。
アリタリアの社長が誰かに「あれ?何でスイスの書体を使っているんですか」と言われたときに、正々堂々説明できる理由を用意できなければ、クリエイティブディレクターとしての仕事は完結していないのです。
でも、世の中には似たようなことが横行しています。
デザインする側も、そのデザインを選ぶ側も、知識の集積なしでは危険な時代とも言えるでしょう。
もしもあなたが仕事でデザイナーとかかわることがあるビジネスパーソンであれば、デザイナーに何か提案されたとき、鵜呑みにするのではなく、「これはどうしてこういうデザインなんですか?」と質問をすることです。
それはアウトプットの精度を高めること、売れる商品をつくることにつながっていきます。
もしもあなたがデザインを生業とするならば、自分が何を根拠にそのデザインを決定しているかを「感覚」という言葉に逃げずに説明しなくてはなりません。
それができてこそ精度の高いアウトプットであり、商品を売れるものへと育てる最良の道です。
僕は自分の感覚というものを基本的に信用していないので、「この感覚はどこからやってきているんだろう?」という確認作業をすることにしています。
たとえば、僕が手がけている「THE」というブランドは、前述の通り、「THEジーンズといえばリーバイス501」というような、そのプロダクトの定番となるものをつくり出そうというブランド。
「THE」というブランドのマークを作る時には、「まさしくザ・書体という書体がいいな」と思いました。
「ザ・書体とは何だろう?」と考えたとき、世界で一番多く流通している書体という考え方が一つ。
本当に書体のオリジン、源流みたいなものを探し出すという考え方が一つ。
他にもいろいろ切り口はあると思いますが、僕は書体のオリジンに着眼し、トラジャン(trajan)という書体をベースにロゴをつくることにしました。
世の中に活字というものが生まれた当時は、どんな文字にしていいかという基準がありませんでした。
そこで、昔から「ものすごく美しい」と言われ続けていた、ローマ遺跡に描かれている石碑の文字を使うことにしたのです。
トラヤヌス(Trajanus)帝の碑文に刻まれていた文字だから、トラジャン。
「これこそ、THEにふさわしいし、THEのコンセプトそのものじゃないか」と思い、決定しました。
僕がこの一連の作業で使っているのは、知識ばかりです。
ただし、自分の感覚を使っていないかと言えば、感覚も確かに使っています。
しかし、感覚とは知識の集合体です。
その書体を「美しいな」と感じる背景には、これまで僕が美しいと思ってきた、ありとあらゆるものたちがあります。
美しいと感じた体験の集積が、僕の中の「普通」という定規になっているのです。
それは僕個人のものであると同時に、社会知でもあります。
何を美しいと感じるかは、人種、時代、性別など、自分の属性でかなりの部分が決定されているのですから。
僕は社会知の引き出しを開け、感覚を取り出します。
それを自分が知らなかったゆえに、調べ上げた知識とミックスし、最終的なアウトプットを選んでいるということです。
このように、「知識を重ね合わせてつくっていくと、正しい答えにたどり着ける」というのが、僕に言える「誰もが身につけられる、売れるものづくりのヒント」です。
今の時代にあったものを作るには、なおさらこのやり方がふさわしい気がしています。
センスアップはスキルアップにつながる p142
センスについて述べてきた本書の最終章では、ビジネスパーソンがどのようにセンスを身につけるか、すぐにできる簡単なヒントをまとめておきましょう。
現代社会において、センスとはマナーです。
「美術大学などで特別な訓練を受けたわけでもないのに、“センスがいい”と呼ばれる人」とは、知識が豊富な人であり、知識が豊富な人とは仕事ができる人です。
知識が豊富な人であれば、上司やクライアントとの会話の際に相手の専門性を感じ取ったり、自分の普通に照らし合わせたり、「チューニング」がうまくできることは多々あります。
チューニングがうまくいけば、理解の度合いは深まるでしょう。
知識とは不思議なもので、集めれば集めるほど、いい情報が速く集まってくるようになります。
知らないことがあるとき、上司なり同僚なり部下なりの知識を吸収しようとする人は、「知ろうという姿勢」が習慣としてあるので、ますます知識が増えていきます。
逆に、知らないことがあるときそのままにする人は、どこまでいってもそのままです。
さらに、相手の知識を得ようとするとき、人はおのずと聞き役に回ることになりますが、これにもはかり知れないメリットがあります。
「聞く」というコミュニケーションが上手になるためです。
「コミュニケーション」というと、いかに伝えるか、いかに自己表現するかに意識を向ける人が多いようですが、その真髄は、「話すこと」だけではありません。
コミュニケーションにおいて話すことと同様に、もしくはそれ以上に大切なことは、「聞くこと」です。
相手の専門性に合わせて自分をチューニングし、話を深く聞き取りましょう。
このような専門性はすべて、キャリアアップにつながっていく要素でもあります。
僕に言わせれば、センスがいい人がスキルアップしていかないほうがむしろ不自然です。
センスがいい人は、ビジネスパーソンとしても自然に成長していくと思っています。
何度となく書いていますが、非常に重要であり、また、根深く誤解されていることなので何度でも繰り返しましょう。
センスとは、研鑽によって身につくものです。
グッドデザインカンパニーのプロデューサーであり、僕の妻でもある由紀子は、「センスがないのは生まれつきだから仕方がない」という思い込みに囚われていた一人です。
かつて彼女はテレビ局でディレクターをしていましたが、「新番組にはどのロゴがいい?」「番組のセット、どの案がいい?」と聞かれるたびに、「センスがないからわからない」と言って、そうしたことに長けた先輩にお任せしていたそうです。
おそらく「センスというのは先天的なものなので、努力しても仕方がない」と思い込んでおり、当時はそれが許される環境だったのでしょう。
しかし、時代は変わりました。
ほんの一〇年で、センスの必要性は変化しています。
テレビ局であろうと、メーカーであろうと、これからは「センスがない」と言って許される仕事は減っていくでしょう。
「わからないのはセンスがないせい」ではなく、「わからないのはセンスを磨く努力をしていないせい」です。
もしもロゴの判断を求められたら、数冊でいいから書体やロゴについての本を眺め、インターネットで情報をとれば、なにがしかの方向性は見えてくるでしょう。
デザインの本を見れば、字間や行間、特殊書体についての説明がわかりやすく書かれています。
知識を得ることで、センスについてのコンプレックスも消えていきます。
たとえば由紀子は、結婚して僕の会社を手伝おうかと考えたとき、「美術コンプレックスのかたまりの自分がデザイン会社で務まるのか」と非常に悩んだそうです。
ところが入社してから三ヶ月もすると、いつのまにかデザイナーに指示を出すまでに変わっていました。
仕事のプロセスも専門用語もまるで門外漢だった彼女は、最初のうち、社内でのやりとりをひたすら注意深く聞いていたそうです。
僕がデザイナーにするアドバイス、デザイナーが自分のデザイン案の中でこれがいいと思った理由、デザイナー同士で修正の指示を出し合っているときに言っている内容……。
そのうちに彼女は「よいデザインをつくるには、満たさなければならない最低限のルールがある」ということに気付いたそうです。
Part4で述べたような「デザインの基礎知識」が、彼女の中にも蓄積されていったのでしょう。
やがて由紀子は、世間から見るとデザイナーが「センス」で決めていると思われそうな部分にまで積極的に意見を出してくるようになりました。
「だったらこういうビジュアルはどう?」
「○○さんの○○の写真集にあったようなトーンの写真がいいのでは?」
「もっとダイナミックなレイアウトもやってみたほうがいいんじゃないかな」
それらはいちいち的を射ています。
彼女の中に、デザインの具体的なアウトプットにまつわる知識も集積され、次々にアイデアが出てくるようになったのです。
グッドデザインカンパニーにはもうひとりプロデューサーがいますが、彼女はかつて航空会社で働いていました。
やはりまるで畑違いの職種からやってきたわけですが、みるみるうちにデザインセンスがアップし、いまではアートディレクターと呼んでいいほどの活躍ぶりです。
デザイナーに的確にディレクションをしてくれるので、僕は彼女の「センス」を全面的に信頼しています。
なぜ、デザインセンスが上がったのか?
その理由について、二人は口を揃えて言っていました。
「毎日、いいデザインか悪いデザインかの判断が目の前で大量に下されていく環境の中にいたら、自分の中にデザインの知識が蓄まってきて、自然とわかるようになってきた」
これはあくまで一例ですが、わからないことがあればつぶさに見て、知るべきことを知る努力をしましょう。
仕事のセンスは、日々、自ら磨いていくものなのです。
「好き嫌い」でなく例を挙げてセンスを磨く p153
センスを磨く上で、好き嫌いでものを見るのは禁物です。
好き嫌いとは、客観情報と対極にあるものなのですから。
ところがプロジェクトを遂行するにあたって、大抵の人はまず、好き嫌いでものを言い始めます。
新しいグラスを発売するとして、サンプル品が届いた時、みんな口々に主観的な意見を言います。
「このグラスのここが好き。すごくかわいい」
「このグラスの手触りが嫌い」
このように好き嫌いで話し始めると、その人のセンス、すなわちその人の知識の範囲でしか会話が成立しなくなります。
同じ会社の同じプロジェクトチームであっても、全員が同じ知識量ということはあり得ません。
にもかかわらず趣味嗜好で打ち合わせをしては、結論が全くでない上に時間ばかりかかってしまいます。
大企業の場合、このプロセスの次に控えるのは、お決まりの「市場調査」。
しかし、ただやみくもにアンケートをとったところで思うような答えは得られません。
自分の好き嫌いを外して、まずそのグラスを、「誰が、どんなときに、どんな場所で使うのか」を設定しましょう。
そのうえで、この三つを掘り下げていきます。
「誰が」を掘り下げる場合は、仮に「誰」を二五歳の女性と設定したとして、「二五歳の女性」で考えはじめてはいけません。
年齢が同じでもさまざまな人がいるわけで、その中でどんなことを考え、どんな商品を好み、どんなライフスタイルを送っている人がそのグラスを買ってくれる二五歳の女性なのか、検証しなければなりません。
彼女はどんな職場で働いていて、職場の昼休みはどんな話をしていて、昼休みに話題となったドラマはどんな内容で、そのドラマに出てきた登場人物はどんな映画に出ているのか。
彼女は映画というものをどう捉えているか。
このあたりまで徹底的にやると膨大なデータになると思います。
マーケティング用語でいえば「ペルソナ」ですが、データからこれを導こうとした場合、大変な労力を要します。
それを「知識として持っている人」が、「センスがある人」と呼ばれます。
対象を具体的に、リアリティをもってイメージできるようになるためにも、「雑誌」は効果的です。
僕がいろいろな年代向けの複数の女性誌を毎月読み込んでいるのは、このためでもあります。
「二五歳のフェミニンな女性だったら、あの雑誌を読んでいるような層だな。
ということは、デートのときには特集されていたあの映画を観に行こうと思うようなタイプで、あこがれの芸能人はこういう人たちで、好んで着ているブランドは……」。
ある程度の人物設定なら、即座にできるようになるからです。
また、「どんなときに、どんな場所で」が「立食パーティのとき、パーティ会場で」であるなら、会場の雰囲気に合った飾りが必要かもしれないし、重すぎるグラスは困るなど、最低限の情報の収集ができます。
ここで述べたことは基本的なことばかりです。
それなのに、実行されていないビジネスシーンがあまりにも多すぎる気がします。
「誰が、どんなときに、どんな場所で使うのか」、対象物を具体的に思い浮かべることは、センスを最適化するためにもっとも必要な三原則であると覚えておきましょう。
「せまいセンス」でも、それを軸に仕事をすることはできる p156
本書で述べてきた話と矛盾するようですが、ものすごく狭い分野で豊富な知識を持っている人のなかにも、センスがいい人は存在します。
「鉄道にものすごく詳しい」「海の生物ならなんでも知っている」という人たちです。
このタイプの人はしばしば、「センスがない」と見なされますし、自分でもセンスがあると自覚していないことがほとんどです。
僕に言わせると、これは実にもったいないことです。
狭い分野で豊富な知識を持っている人は、すべての事象を自分の得意分野と結びつけることができる、そんな特異なセンスの持ち主なのですから。
たとえば、海の生物にとてつもなく詳しい人がお菓子メーカーに勤めているとしたら、彼もしくは彼女は、なんでも海の生物に結びつけて発想できるはずです。
「『ギンビスたべっ子どうぶつ』は動物のかたちをしたクッキーで、それぞれ英語で『LION』『SHEEP』といった動物名が英語で刻印されています。
海の生物のチョコがいっぱい入っているチョコを発売したらどうでしょう?」
こんな提案ができるかもしれません。
「海の生物の物語といえば『スイミー』が有名ですが、小さなつぶつぶのチョコがいっぱい入っている「チョコベビー」に一個だけ赤いチョコを入れたものを売り出して、『スイミー』と名づけたらどうでしょう?」
こんな、「その人でないとできない発想」がたくさんできるはずです。
多くの人はセンスがないのではなく、センスが活用できていないだけです。
センスを磨くには、センスを活用する技術を持つことも大切なのではないでしょうか。
狭い分野で豊富な知識を持っている人は特に、この傾向が顕著だと僕は感じます。
その商品なり企業のセンスアップをはかっていくとき、自分がとても好きなこと、すなわち自分が持っている最大の武器を使うということも、センスで仕事力を向上させる手法の一つです。
得意分野があるなら、何でも自分の得意分野に持っていってみましょう。
「お前、またそれか」と言われても、自分の土俵に持っていくのです。
「大学受験のときにどんな課題が出ても全部ビートルズに結びつける人がいた」という話を聞いたことがありますが、その人は方向性がはっきりしているので、迷っている時間が少なくてすみ、いい成績を残せたことでしょう。
これをビジネスシーンに引き寄せて考えることもできます。
「いい企画を出してやろう」と悩みすぎて時間ばかり食っているなら、自分が得意な分野から考えてみることをおすすめします。
圧倒的に仕事が楽しくなるし、効率もかなりよくなるはずです。
専門性が非常に高い企画は採用されにくいかもしれませんが、仮に駄目だったとしても、次回、何かのきっかけで引き出され、活用される可能性も大いにあると思います。
日常の工夫で、思い込みの枠を外す p159
センスを磨く方法は、知識を集積することと客観的になること。
逆に言うと、不勉強と思い込みはセンスアップの敵です。
「知識は得ようと努力するか/しないか」というものですが、思い込みは無意識なのでいささかやっかいです。
そんな思い込みを外す方法とは、いつもと違うことをしてみること。
大それたことでなくてかまいません。
小さいことで試してみましょう。
いつも手にとらない雑誌を手にとってみる、いつも見ないテレビ番組を見てみる、いつもしゃべらない会社の部下なり、上司なりとしゃべってみる。
自分という人間の枠組みを決めているのは自分自身です。
しかし、自分というものをつくっている要素はまわりの環境です。
そこでまわりの環境を変えてみると、自分の枠組みも変わります。
ここからセンスの多様性が育まれていくのです。
p168
知識の集積に懸命になりすぎると、人は時として自由な発想を失ってしまいます。
センスを磨くには知識が必要ですが、知識を吸収し自分のものとしていくには、感受性と好奇心が必要なのです。
幼児性が創造力や発想につながっていく大きな理由は、感受性と好奇心が並外れて大きいからです。
そして、この「感じる力」が強くないと、知識というのはなかなか蓄積されていかないものです。
テスト前、一夜漬けの勉強で得た知識を、あっという間に忘れてしまったのと同じように。
「感受性+知識=知的好奇心」
大人になったら、この公式をもつといいのではないでしょうか。
大人になれば、知識は努力で身につきます。
しかし、幼い子どものような感受性を保てば、努力せずとも知識が自然と入ってくるとも言えます。
幼児性が素晴らしいもうひとつの理由は、発想の制限がないことです。
人は年齢を重ねると、知らず知らずのうちに鎧を着ていくかのごとく、自分というものをガチガチに固めてしまいます。
その結果、発想の幅を自ら制限してしまうのです。
だからこそ、大人の知性をもって幼児性を高めれば、知識と発想の両方が豊かになります。
これもまた、自分の枠を外すヒントのひとつです。
時にはむき出しの子どもになりましょう。
何も知らない自分、何もかもを知りたくてたまらない自分になりましょう。