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「発達障害サバイバルガイド」を再読した

投稿時刻2024年5月3日 17:20

発達障害サバイバルガイド 「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47」を 2,024 年 05 月 03 日に読んだ。
2 年ぐらい前に読んだみたいだが、本棚から取り出して再読した。

目次

メモ

p4

誰かより高い生産性を出したり、あるいはとびぬけた能力を身につけたりといった意識の高い目標は一切掲げません。
たくさんのお金を儲ける方法も、有用な人脈をつくり上げるテクニックも、人生で転ばない処世術も、一切書かれていません。
この本には「いかに生き延びるか」、すなわち何度転んでも、何度落とし穴に落ちても、どうにか立ち直るための再起の方法以外、何ひとつ記載されていないのです。

生活とは、人生の基盤そのものです。
仕事もプライベートも、あるいは成功も失敗も、すべては「生活」の上にしか成り立ちません。
この世界に生きる限り、誰一人として「生活」することから逃れることはできません。

p11

「きちんと生活をしよう」は「快適な生活をしよう」と同義でなければいけないと僕は思います。
しかし、なぜか人は「不便で快適ではない生活」を志向してしまうところがあります。
「自分はまともな生活ができていない」と感じている人ほど、まるで自分に快適な生活をする権利はないとでもいうようなある種の自罰性――贅沢は敵だ!――を持っているように僕は思えてならないのです。
この本は、そういった方向を一切目指しません。
ストイックさは、むしろ悪徳とさえ考えます。

人類が井戸を掘るのはなぜか。
つまるところ、川まで水を汲みにいくのがめんどくさいからです。
人類がカマドをつくるのはなぜか、ラクに炊事をしたいからですね。
この「ラクに」というのは非常に重要な概念だといえます。
具体的な工夫やノウハウで労力と時間を削減し、生活を快適にした分だけ、人類は発展してきたのです。
僕らの人生も同じです。

みんなでうまいこと生き延びて、幸せになりましょう。
やっていきましょう。

p21

貧乏な生活をしていると、同じくらいの経済水準の仲間がたくさんできます。
しかし、この同じ程度の収入しかない極貧仲間であっても生活の水準はそれぞれ全く別ものでした。
少ない収入でそれなりに快適な生活を送っている者もいれば、その逆にある程度の収入はあっても荒れ果てた不便極まる生活を送る人もいたのです。

その差はどこにあるのか?
僕はあるとき、その両者を分けるひとつの指標が「家に洗濯機があるかどうか」だと気づきました。

洗濯機というのはそう高いものではありません。
中古で2万円も出せば手に入ります。
極貧とはいえ、手に入れることは可能です。
しかし、ある種の人々はその2万円を出費せず、コインランドリーで数百円を支払うか、あるいはクリーニング屋を使ってしまうのです。

コインランドリーまで出向いて洗濯をする。
そこにはコストだけでなく、時間もかかります。
それはまるで「井戸を掘らず、毎回川まで水を汲みに行く」行動様式です。
洗濯機は大げさな例ではありますが、多くの人の生活の中にこのような「不合理で不経済な、まるで何かの修業のような行動様式」が見受けられるのは確かな事実です。

これを僕は「設備投資できない病」と名づけました。

現代社会において、生活の利便性を手に入れるための「設備」はたいていの場合購入するものです。
そこにはもちろんコストがかかります。
この支出を無自覚に拒否してしまう悪癖を、多くの人が有しています。
それは、まるで「自分は貧乏なんだから、身の丈にあった暮らしをしなければいけない」というある種の自罰ですらあるように、僕には思えるのです。

人生をよくするのは「努力」ではなく「設備投資」 p22

世界で一番「設備投資」をするべき人は誰か。
それは、最も持たざる人、何もない原野でサバイバルをしている人に他なりません。
ひいては、貧しく不便な生活をしている人ほど、設備投資によって生活は簡単に、大きく快適になるのです。

p23

発達障害者だって貧乏人だって、豊かで快適な生活をしていいに決まっています。
あなたの中にある、「自分はダメな人間なんだから、ラクをしてはいけない」のようなある種の自罰感情をまずは捨て去りましょう。
そして、あなたの能力を最大限発揮できる、ゆとりあるよい暮らしを手に入れましょう。

あなたは幸せになっていいに決まっているじゃないですか。

食洗機で「悪い思考ルーチン」を断ち切る p25

食洗機、持っていますか?
今すぐ買ってください、以上。
これが本書の最初に伝えたいメッセージです。

「ラクをする」のは意外と難しいことです。
普段我々は、自分が「めんどくさいことをしている」という感覚をあまり持つことができません。
「自分が怠惰だからこんなことになるのだ」と自罰感情は湧いても、「どうすればラクになるかな?」という工夫の方向性へ思考が向かわないのです。
この悪い思考ルーチンを解除するには、一度「設備投資をしてみたら劇的にラクになった」という体験をしてみるしかありません。

いくら字面で理解できても、実感が伴っていなければ無意味なのです。

p27

実は、この「本来の作業を行うための準備作業」が曲者なのです。
「勉強を始めたいのに机の上に物が大量にのっかっている」という状態を想像してもらえばわかりやすいでしょう。
「勉強を始める」だけでも大変な意思の力を要するのに、「それを始める前にまず片づけ」となったら、それはもう永久に勉強ができなくなってしまってもしょうがない。

この難関の連続を「皿を突っ込む」の一手に圧縮してくれる最高の道具が、食洗機です。
最悪でも「食洗機の中からきれいな皿を取り出して」「汚れた皿を突っ込む」たった二手です。
このラクさは劇的なものです。

p28

彼はむしろ努力家だったのだと思います。
収納グッズを買って片づけようと努力した。
塩を買って、自炊をしようと努力した。
しかし、彼が購入したアイテムは、「仕事を任せる」というよりは、「何かをする手助けをする」ものばかりでした。
そして、それを買っても実際に手を動かせなかった。
収納グッズを購入してもそこに物を入れることはできなかった。
塩と胡椒を買っても野菜炒めをつくる台所を準備できなかったのです。

食洗機は、僕らに努力を求めません。
とにかくどんなときでも皿を突っ込んでボタンを押せば、あとは勝手にピカピカにしてくれます。
手で洗うよりずっと仕上がりもいいですし、あの一番面倒な食器拭きの手間もありません。

まずはこの「ラクになった!」という喜びを手に入れましょう。
人生をよくするのは「頑張るぞ」という苦みではなく、「ラクになった!」という喜びです。

毎日薪を探すのがめんどくさくなって薪の貯蔵小屋をつくった原始人の気持ちになってみてください。
そうやってあなたはよくなっていくのです。

ベッドがないと人はマジで死ぬ p31

お金がない。
今月の家賃も不安だ――僕も長年そういう時期を生きてきました。
お金がないと、いわゆる高級品というのはなんとなく腹立たしいものに見えます。
ブランド品が視界に入ると腹が立ってきます。
自分は安いアイテムでいい生活も仕事もするんだ、そういったアイデンティティはかつての僕にもありました。

その結果として、働きすぎた僕は肩、腰、ひざ、手首に至るまでの全身をまんべんなく壊し、その治療費には軽々数十万円が必要になりました。
動けなかった日の機会損失まで考えると、本当に想像したくもない額の損をしていると思います。

病院、接骨院、マッサージ、ボルタレン、ロキソニン、貼り薬、コルセット……あらゆる対症療法の末に僕がたどり着いたのは「いい布団で寝ると健康になる」というとてもシンプルな結論でした。

p32

翻ってみなさま、どんな布団で眠っておられるでしょうか。
その長年しきっぱなしのペラペラの煎餅布団、もしかすると古代人のベッドより寝心地が悪くありませんか?
十分にあなたの身体を支え、同時に適切な保温をしてくれていますか?

あらゆるものは、壊れる前にケアしたほうが安上がりです。
あなたの身体も例外ではありません。
どれほどお金がなくてもまずは寝床にお金をかけるというのは、サバイバルの知恵としての圧倒的な必然性を持っています。
毎日の身体のしんどさ、寝起きの悪さ。
それを「根性が足りない」と片づける前に、あなたの寝床について考えてみてください。

マットレスを最優先する p33

なお、僕は健康や快適さに課金するとき「身体接触の多さ×使用時間の長さ」という基準で優先順位を決めています。
最も身体に触れ、最も長く使うものを最初に買うべきだと。

この理屈でも、寝床は優先順位の1位になってきます。
次にくるのは、スマートフォン、文筆業の僕にとってはキーボードとイス、あるいは肌触りのよい肌着、などでしょうか。
多くの人に納得いただける考え方だと思います。

寝具の中でいえば、(ベッドであれ布団であれ)マットレスが最も重要だと僕は考えています。
腰痛持ちの方は絶対に必要なアイテムだとさえいえるでしょう。
特に、体重のある方はできれば体圧分散機能のついたものを使うことを心からおすすめします。

寝具選びはその人の身体に合わせて行うべきなので確定的にこれがいい、とはいえませんが、それなりのお値段のする良質な寝具は、投資以上の価値をもたらすことを約束させていただきます。
反対に、中価格帯は「すべてが中途半端」という事態が頻発しがちなので、思い切ってよいものを買う価値はあります。

「健康とかそんなことより、お金がないんだよ!」

その意見はよくわかります。
僕も同じように考えていました。
でも、身体を壊すと仕事ができなくなるばかりか、生活ができなくなります。
そして、生活ができないと何ができなくなるかというと――全部です。
お気をつけください。

あなたの身体の修繕費は、たいていの寝具よりは高くついてしまいます。

p38

現代において、何かをつくり出すための根源的なツールとは「知識」だと考えて、まず間違いはないでしょう。
学校や受験といったいわゆる「お勉強」に限らず、この社会で自立して生きていくためには、「知識を手に入れ、まとめ、行動する」必要があります。
僕の金融機関時代の先輩が「どんな問題も、A4用紙1枚に書き表すことができれば、8割解決している」と教えてくれましたが、この能力が必要とされるのは仕事だけではありません。
10歳でも34歳でも60歳でも、年齢や職業、業種などにかかわらず、(働いていなかったとしても)誰にでも求められます。

たとえば、インターネットの通販サイトを見比べてお買い得なパソコンをひとつ買う。
生活保護を受けたいので、国や自治体のウェブサイトから情報を集める。
これも知識を手に入れ、まとめ、行動することで実現します。
この能力の差が人間の人生にどれだけ大きな違いをもたらすかは、想像に難くないでしょう。

ちゃぶ台だと人は勉強しない p39

知識を手に入れること、訓練することは自宅に机やイスがなくても十分可能だ。
そう考える人は多いかもしれません。
それが、大きな落とし穴なのです。

僕はかつて補習塾の講師をしていたことがあります。
いわゆる、学校の学習についていけない子どもたちをメインの顧客とした学習塾です。
学生起業でしたので、学費は極めて安く設定されており(今思うと若気の至りというもので、そのせいでこの事業はのちに継続不能になってしまったのですが)通常学習塾にはあまり来ないであろう階層の子どもたちがそれなりの人数でお客さんになってくれました。
そこで気づいたことは、学校の学習についていくことに苦戦している子どもたちの多くは、「学習のための机とイス」を持っていないという事実でした。
彼らは、ご飯を食べるためのちゃぶ台(こたつ)しかない家に住んでいたのです。

どれだけ課題を出してもやってこない子どもたちに、塾が休みの日に「自習室」を開放してあげると、これまで課題をほとんど出さなかった生徒がやってきて、自習を始めることがよくありました。

社会人の一人暮らし、それも部屋があまり広くない場合、学習用の机とイスはなおざりにされやすいものだと思います。
しかし、「自宅で机に向かって学習する」やり方は、誰もが最も集中でき、効率のいい学習の形であると僕には強く感じられます(ちゃぶ台に変な体勢で座ったまま過集中に入ると身体を壊しますし、気が散りやすく過敏な発達障害傾向の方がカフェの雑音に負けずノマドワークできるとは思えません)。

まずは6畳間の片隅に、「これが俺の知的生産拠点だ」と思える、使いやすく居心地のいい机とイスを置いてみてください。
それはあなたの人生に、必ずよい影響を与えてくれます。

p72

発達障害サバイバルにおける貯金の定義。
それは「毎日生活していたら、自然に積み上がる余剰」です。
決して、貧しい生活をさらに切り詰めて「ひねり出す」ものではありません。

p75

生活が「積み上がっていく」。
これは人類最古の喜びのひとつだったのではないでしょうか。
食うや食わずで生き延びていた狩猟採集の民が、安らかな眠りや温かな住処、便利なカマドや井戸、森まで毎度拾いに行かなくてすむ薪小屋を手に入れ、そこから生まれる余暇が人間を幸せにしてきたのだと思います。
あなたの人生にも、このとても旧くしかし永遠に色あせない幸福を、取り入れてみてください。

「この一手を減らせないかな?」と常に考える p89

試行錯誤の末に僕がたどり着いたのが、「外部環境によって、スタートコストを極限まで下げる」ための工夫でした。

具体的な方法は次の3つです。
・一元化:必要なモノが分散せず、手が届くところにある
・常時一覧化:毎日やらなければいけないことを「目に入るように」セットする
・省エネ:「やるぞ」という意思決定コストを普段から節約する

スタートコストの削減はお金を使って設備を整える、いわゆる「投資」が必要な場合もありますが、その一方でほんの些細なことで削減できるものも少なくありません。
毎日の生活の中で常に「この一手を減らせないかな?」と考えるクセをつけてみてください。

やることは「箱をのぞきこむだけ」 p93

「毎日やりたいこと、続けたいこと」が、誰しもあると思います。
たとえば、資格試験の勉強だったり、ちょっとしたストレッチだったり、サプリメントを飲むことだったり……そういった小さな習慣を固定していくのは案外簡単なことではありません。
僕も気づいたらサプリメントを1週間飲み忘れていたり、もう20日もジムに通っていなかったりします。
最後に参考書を開いたのはいつだったか思い出せないなんて、人生には本当によくあることですよね。
ないに越したことはないのですが。

そこで、僕がおすすめしたいライフハックが「エブリデイボックス」です。
これは、毎日の習慣のために必要なアイテムを、ひとつの箱に入れておくというもの。
この上なく単純な方法ですが、非常に高い効果があります。

習慣が固定しない原因。
それは、やるべきことが明確に1カ所にまとまっていない、分散してしまっていることにあるのです。
反対にいえば「あなたの今日やるべきことはひとつの箱に全部収まっているし、その箱はあなたの部屋のいつでも見える場所にある。
あなたがやるべきは、箱の中をのぞき込むことだけだ」という状況をつくれば、習慣の継続はとても容易になります(冒頭で述べた「一元化、常時一覧化、省エネ」ですね)。

請求書も仕事も薬も全部ぶっこむ p94

エブリデイボックスはもともと、僕が毎日ちゃんと服薬するためのハックとして開発したものです。
僕の家では、うつの薬は戸棚に、マルチビタミンは机の横に、喘息の薬はかばんの中に……と、飲むべき薬が方々に点在していました。
結果、習慣が固定化せず、「毎日ひとつか2つの思い出した薬だけは飲んで、それ以外は忘却」の状態が続いていたのです。

持病が悪化して困った僕は、ひとつの大きな箱に薬やサプリメントをまとめてぶっこんでみました。
こうしておけば複数のタスクを「毎日一度エブリデイボックスを見る」の一手に減らすことが可能です。

こうして毎日すべての薬を服薬する習慣を手に入れた僕は、ある日思い立ってそこに読みかけの本を放り込むようにしました。
その結果、僕は毎日薬を飲むついでに本を箱から引っ張り出して読むようになりました。
さらに調子に乗った僕は、フィットネスジムの会員証や勉強中の参考書、払うべき公共料金の請求書、返送するべき書類などもその箱の中に放り込むようになりました。
結果、支払い忘れややるべき事務仕事の漏れが劇的に減りました。

「後回しになりがちだけど重要なこと」こそ入れておく p96

このハックで最も効果的だったのは、「ネタ帳」を毎日開くようになったことです。
僕がやっている文章を書く仕事では「原稿を書く」工程よりも「ネタを考える」工程がとても重要です。
でも、アイデアを出す作業は、日々に忙殺されてどうしても後回しになってしまいます。
僕は毎度〆切前になってからワードに向き合って「何を書けばいいだろう…」と悩む日々を送っていました。

それが、箱にネタ帳を放りこんでからというもの、毎日服薬をするついでにネタ帳が目に入り「そうだ仕事のネタ出しをしなければ……」と意識できるようになったのです。

こういう「ほんとはやりたいし重要なんだが、後回しになりがちなこと」を箱に入れておくと、知らず知らずのうちに習慣化できるようになります。

あなたが1日にやれる習慣は箱ひとつです。
しかし、そのたったひとつの箱はあなたの人生を確実に変えます。
エブリデイボックス、ぜひ試してみてください。

p100

人生というのは「つまらない用事をいかに効率よくこなすか」が大きな問題になってきます。
楽しくもなければ未来の足しにもならないけれど、やらなければ大きな問題が発生してしまう。
税金関係の手続きなんかもそうですし、これが仕事となれば「ちょっとした雑用」すらこなせない人間に大きな仕事が回ってくることはまずないでしょう。

「自分でタスクを整理するタスク」ができない人へ p100

この解決方法は実のところそう難しくありません。
タスクを紙でもなんでもいいから書き出して整理する。
やってみると「あれ?書き出してみるとこんなものか」となることのほうが多いくらいでしょう。
しかし、これを読んでいるみなさんの多くは「タスクを書き出すというタスクを処理できるのであれば、最初からこんなことにはなっていない」という気分になっているかと思います。
「たくさん」あってどうしょうもないタスクに、さらに「タスクを書き出して整理する」というタスクをもうひとつ積み上げればさらなるパニックが襲ってくる。
残念ながら、そういうことはよくあります。

そこで、僕が提唱する対策は「週に1回、誰かに現在抱えたタスクをひと通り聞いてもらって、書き出して整理してもらう」というものです。
人間というのは不思議なもので、自分のことであればパニックになってしまう話でも、「他人ごと」であれば冷静に聞いて整理することができます。

・今抱えたタスクを全部いって
・それらの〆切はそれぞれいつ?
・それぞれはどれくらいの時間がかかるの?
・今入っている予定は?

こういったシンプルな質問でひとつずつ問われれば、たいていの人はすらすらと自分の抱えたタスクを洗い出すことができます。
聞いているほうはそれをただ書き留めていくだけです。

このライフハックは不思議なことに、バリバリのADHD同士でも有効に機能します。
「他人ごと」ならできるのです。
だから僕は、同じくADHDの友人とよく「夕スク整理」をZoomやDiscordなどのビデオ・音声通話アプリでやっています。

頼る人への「お礼」を忘れずに p102

この話の最大の教訓は「他人ごとは素晴らしい」ということです。
自分のことであれば焦燥に支配されてしまうが、他人ごとであればシビアで冷徹な分析と整理ができる。
誰しも経験があることでしょう。
他人の脳は、人類が持ち得る最も優れたツールなのです。
何をやるときにも「自分でできないときは他人の脳を使う」。
その選択肢を、ぜひ覚えておいてください。

なお、そういった親切をしてくれる人にはきちんとそれに見合ったお礼や報酬を忘れないようにしましょう。
「本当にありがとう、助かりました」という感謝の言葉も毎回しっかり添えて。
これは、本当に大切なことなのでくれぐれも忘れないようにご注意ください。
何度もお世話になるうちに感謝の気持ちが失せて「あたりまえ」になってしまうのは、最悪です。
誰かに「頼る」ことは素晴らしいことですが、「頼り方」というのは常に気を配るべきことなのです。

決断で「へとへと」になっていないか p105

生活は、果てしなく続く決断の連続です。
毎日着る服から食べる食事、限られた時間で何をするか、そういったことを逐一決めていく必要があります。
決定の連続は間違いなくあなたを消耗させているのです。

僕はうつがひどくなると、この意思決定リソースが枯渇してスーパーで総菜を選ぶことすらできなくなってしまいます。
笑われてしまいそうな話ですが、「晩飯が決められない」とスーパーの総菜コーナーで涙ぐんでしまった経験が僕にはあります。

僕の友人には、このコストを極限まで節約して経営判断に向き合っている極めてASD性向の強い経営者がいます。
僕は彼を「カンペキ社長」と呼んでいます。

たとえば毎日の食事。
彼は昼食を1週間単位のルーチンにしています。
月曜日はラーメン、火曜日はサバ味噌定食、水曜日はうどんとメニューはすべて固定し、自炊は一切しない。
服は、スーツを繰り回すルーチンを完全に固定して、毎週決まった日にクリーニング業者が引き取りに来るそうです。
さらに「買い物が大嫌いだから買い物はすべて行きつけのお店のおすすめを選ぶ、車もマンションも現物を見ないで買った」強者です。
しかし、実はこのカンペキ社長、かつては破壊的な汚部屋に住んでいたそうです。
そして、彼も僕同様に「生活習慣という概念がそもそもなかった」とのこと。
まさに何もできないところから組み立てた「やりすぎ」ハックには大変学ぶところがあります。

まずは週1回、月1回のルーチンを決める p107

カンペキ社長のやり方を全部真似するのは無理でも、考え方は大いに参考になります。
僕が実践しているのは、週1、月1のルーチンを決めるというもの。
具体的には
・毎週、金曜日にはカレーを食べる
・毎月、第1日曜日には野外に遊びに行く(だいたいは釣りかツーリングです)
の2つを実践しています。
この「週に1回カレー」は旧日本海軍が曜日感覚を失わないために行っていたハックですが、現代の我々にも極めて有効です。

こうして生活にルーチンを定めていくと、必然的にそのルーチンを守るためには他で調整をしなければならなくなります。
日曜日に遊ぶためには、その日程を空けるべく仕事を進めなければなりません。
金曜日にカレーを食べるためには、カレー屋さんがやっている時間に夕食を食べなければいけません。
すると、ルーチンを起点にして生活にリズムというものが生まれてきます。
結果として、「これから何をするかいつも決めなければいけない」状態が減り、決断コストが削減できるのです。

あなたにはやるべきことがたくさんあります。
「よし、勉強をするぞ」とか「よし、この仕事を片づけるぞ」みたいな決断にもこのコストは使われています。
日常の中でそれを温存していく努力は少しでもするに越したことはありません。
毎日毎時何をするか決めるのではなく、「リズム」で過ごせる日をつくっていきましょう。
それが「いい習慣」というものです。

p131

しかし、あえて僕はいいたい。
身体と心に鞭を打って最高の生産性を出す「意識の高さ」ではなく、限られた現状の中で、なんとかよき日常をつくり出すことを最優先する「意識の低さ」を大切にするべきだと。
人生はいつだってサバイバルです。
自分を取り巻く環境をよくしていくことは、絶え間なく続けるべき前進です。

どんな状況にあっても、あなたの日常は幸福なものであるべきなのです。
あなたは日常の中から幸福を受け取る権利があるのです。
状況が厳しくなると、人はつい自罰的になってしまいます。
しかし、あなたがあなたの日常を苦痛に満ちたものとしたところで、誰も救われたりはしません。
どうか、それだけは忘れないでください。

発達障害の問題に完全対応した執務環境 p137

こちらが、僕の執務環境になります。
営業マンと文章の仕事を掛け持ちするようになって以来、とにかく環境を整えなければどうにもならないと確信し、2年ほどかけてつくりこんできました。
この環境は
・ほぼすべての必要なものに「一手」で手が届く
・「作業スペース」を極力広くとる
・「身体の負荷」を可能な限り小さくする
・チェックを怠ってはいけないものが常に「視界」に入るようにする
という4つの考え方で構成されています。

①机
まず、一番重要なのは作業スペースの広さです。
もちろん、小さいスペースを上手に工夫して使えるなら、それは素晴らしいスキルだと思います。
しかし、僕にそれはできません。
僕にとって、作業スペースの大きさはそのまま「脳のメモリ」の大きさに直結します。
なので、机は2つをL字型に組み合わせて使っています。
パソコンを使う机と紙ベースの事務を行う机、この2つは絶対に別でなければ、僕は仕事ができないのです。
また、座高が高めなので、最もフィットする15センチの高さのものをひとつ。
さらに、それに合わせて高さを昇降調整できるものを組み合わせています。

②モニタ
モニタが2台あるのも机と全く同様「作業スペースを広くする」ためです。
短期記憶が極端に弱いので、タブを切り替えながら作業をすることが僕にはできません。
一度画面から消えたものは完全に記憶から消滅してしまうのです。
かつて会社で仕事をしていたころは、私物のモニタをもちこんで無理やりデュアルモニタにしていました。

③イス
ずっと座り作業をする以上身体的なダメージを軽減する必要があります。
僕は腰が悪いので、イスはポスチャーフィットのついたアーロンチェアを愛用しています。
このイスは友人からのもらい物なのですが、かつて非常に安いイス(旧共産圏の刑務所にありそうな)を使っていた頃にずっと悩まされていた腰痛から解放されたのは本当に驚きました。
なにがアーロンチェアじゃこちとら借金玉じゃ、という気持ちが長年あったのだけれど、座ってみたらモリモリ腰痛が改善したのでもう何もいえない。

④キーボードまわり
キーボードは真ん中から2つに割れた分割型のキーボードを使っています。
あまりなじみがないかもしれませんが、使ってみるとキーボードに向かって脇を締めるという動作がいかに背中や肩に負担をかけていたのか実感できます。

当然ながら、キーボードを打つときやトラックボールを使うときに腕を預けるリストレストは必需品になります。
僕はキーボードをおそらく年間200万字以上打つのですが、このキーボードまわりの工夫をしていなかったため、かつてはひどい腱鞘炎に悩まされ痛み止めを飲みながら仕事を続ける羽目になりました。
その結果どうなったかといえば、胃まで壊れました。

サボりたい気持ちを、手洗いで「溶かす」 p145

僕は家で仕事をやり始める前に、
「顔と手を洗う→ジャケットを着こむ→机の上をひと通り片づける」
この一連の動作をルーチンとして必ず行うようにしています。

もともと手を洗い始めたのは延々キーボードを打っているとものすごく手汗をかき、ひどい手水虫に悩まされたという大変恥ずかしいきっかけなのですが、それでも無心に手を洗っているとあれほど強固だった「仕事したくない」気持ちが少しずつ溶けていくのを感じます。
できれば、しっかりと手洗いソープを使ってじっくり時間をかけてひじまで洗ってやるのがベストです。
チャチャっとやってしまってはあまり効果が出ません。
儀式とはそういうものですね。
そして、ジャケットを着こむ頃には(もちろん、運がよければという前置きはあります。儀式の効果が出ない日だってもちろんたくさんある)「よし、やるぞ」と前向きな気持ちになっています。

在宅ワークでない場合、あなたが会社にたどり着いて仕事を始めるまでには、実にたくさんのマインドセットとなる動作が存在しています。

朝、目を覚ましたあなたはまず顔を洗うし歯も磨くでしょう。
朝風呂派はシャワーも浴びるでしょう。
そして、今日着ていくシャツを選びネクタイを締め、スーツを羽織って職場に向かうはずです。
在宅ワークによる「だらだら」の一番の原因は、こうした動作が自分でも気づかないうちに失われてしまっているためなのです。

「茶番」の効果を見直してみよう p146

あなたは元日に初詣はしますか?
あれは年の初めに神社まで出向き、一年の無事を祈る極めて儀礼的な行為です。
そして、同時に「今年も頑張ろう」という強力なマインドセットとして働きます。
この感覚はたいていの人にあると思います。
気持ちを新しく入れ替える儀式にはバカにできない効果があります。
発達障害を持つ人は、こういった儀式的動作を「茶番」として受け取ってしまう傾向があるように僕は思います。
「初詣なんか行って何の意味があるんだ」というやつです。
しかし、儀式にはそれなりの意味がある。
僕は最近強くそう思います。
そして、儀式の効果を日常生活に取り入れることは非常に重要だと断せざるを得ません。

僕も本音をいえば「茶番」は好きではありません。
誰も見てないところでジャケットを着るなんてムダだろ。
家で仕事するならパジャマでいいだろ。
たいしたツラじゃないんだから毎日洗うこともないだろ。
生来のものぐさも加わって、僕にはそういう気持ちが大変強くあります。

それでも、残念ながら会社の朝礼にはそれなりの現実的効果がある。
学生時代あれほど「無意味」と蔑んでいた始業式にはかなりの具体的効用がある。
ひとつの敗北宣言ですが、生活に「儀礼」を取り込むようになって以来僕はそれを認めざるを得ません。
それでも校長とか社長の長話は必要ないと思いますけどね。

メモ帳が「時空の裂け目に吸い込まれる」問題 p153

メモはしたんだ、メモを失くしてしまっただけで……。

よくわかります。
痛いほどわかります。
メモ帳が何冊時空の裂け目に吸い込まれていったのか、もはや僕にも数え切れないくらいです。
家で誰かから電話を受けてメモをその辺に落ちていた紙っぺらに書きつけて、そのままなくす。
机に貼っておいたはずの付箋が気づいたら消滅している。
ポケットに入っていたはずの手帳が気づいたら消滅している。
そういう悩みって本当によくありますよね。
最近は「スマートフォンにメモ」もひとつの手ですが、パスワードを開けてメモアプリを起動してフリックで打ち込むのは作業があまりに多すぎる。
そもそも、電話をしながらスマホにメモはできないという問題もあります。

そこで僕は、「絶対に紛失しない最強のメモ帳」を手に入れることにしました。
それは、ホワイトボードです。
自宅にホワイトボードがないみなさんは、今すぐ購入しましょう。
なるべくデカいのがいいでしょう。
発達障害のみなさんは、こまめに不必要な情報をボードから消去することはおそらくできないと思います。
なので、どんなときでも書き込めるスペースの残っているデカいホワイトボードこそが、あなたの問題を解決します。
もちろん、ペンとマグネットは大量に買い込んでおきましょう。

リモートの人間関係は難易度が高い p161

在宅ワークで一番難しいのは「人間関係を維持すること」だと僕は思います。
なかでも「用事がなければ連絡しないゆるい関係の人」といかにつながっておけるか。
これが、その後の仕事に大きく影響します。

発達障害、とくにASD傾向のある方は、ただでさえ人との距離感を掴むのが苦手です。
「関係を維持するための、押しつけがましくない顔つなぎの連絡」って、なかなか難しいですよね。
コロナ以前なら力技で「とりあえず呑みに行きましょう」もアリといえばアリでしたし、あるいは誰かが会食の場を設けてくれたりで済んでいたものが、自粛ムードもあり、やりづらくなってしまいました。

僕自身、「定例の会合」で集まっていた人たち、あるいは「同じ趣味を共有している」理由で仲よくしていた人、釣りや外食を一緒にする人たちと徐々に人間関係の距離が離れていくのを感じます。
僕たちの人間関係は思った以上に「場所」というものによって規定されていたようです。
これからは「能動的に」働きかけないと、人間関係が維持できない時代になってしまうのでは、と危惧しています。

ゆるい人間関係を維持するためにおすすめしたいのが、「贈答」の習慣です。
これのいいところは、たった数千円を投資するだけで誰でもできて、空気を読んだりする必要もないところです。
「Zoom 飲み会」のような高度なコミュニケーション能力は求められない割に、相手からは「気の利いた人だな」という印象を持ってもらえます。

僕もコロナ禍で自粛中にある社長さんからすごくおいしいチーズケーキが送られてきて、さすがだなと思いました。
「最近あなたと会えてないけれど、私はあなたのことをちゃんと気にかけているし、今後ともよろしく」とスマートに伝えてくれる、素晴らしいノウハウです。

賄賂と思われないために必要なこと p162

贈答で気をつける点は、次の通りです。

【贈答品のルール】
・嫌いな人はいない定番のお菓子を選ぶ(僕はひたすら虎屋の羊羹をリピートしてます)
・相手の会社・家庭で無理なく消費できる量、価格帯
・金額は1万円を上限に、相手によって調整

早速、もらった相手の負担になりすぎない贈り物を「最近連絡を取っていないな……元気かな」という相手に贈ってみましょう。

「安全な贈答」とは、「今後ともよろしくお願いします。私はあなたを覚えていて、大切なつながりだと思っています」だけが伝わるもの。
贈賄とは違います。
「たいした価値ではないけれど、もらうとうれしい」ラインが適正と考えてください。

気合いが入りすぎて20万円くらいのワインを贈ってしまうと、それは相手に「○○をやってくれ」と要求するメッセージになってしまいます。
もちろん、狙ってやっているプロもいますが、僕らとはゴールが違うので注意してください。
ASDのみなさん、「感謝の気持ちを表すために100グラム5000円の肉を5キロ送りつける」みたいなことをしがちなので注意してください(僕の友人の実話です)。

不動産業界に生息する「ツーブロックゴリラ」部族 p187

「社会的コード」という点から見たとき、最も汎用性の高い服は「ビジネスカジュアルスタイル」である。
これを知っておくことは、身だしなみサバイバルにおいて、最低限かつ最大の武器になります。
ここまでで終わりにしてもいいのですが、みなさんの職場は千差万別。
例外にぶち当たったときに「要するに正解はなんなんだよ!」という怒りが発生するかもしれません。
その対応策についても補足しておきます。

会社とは、同質的な人々が集まって協働している集団、すなわち部族です。
部族には、その部族にしかわからない掟があり、それに沿った「部族のユニフォーム」があります。

パリっとした安物を堂々と着る p199

ただしこういった「手入れ」がどうしても苦手であるなら――というより苦手な人が多いと思いますので――この際アイテムはみな一定期間使ったら気兼ねなく処分できる安物で固めるというのももちろんアリです。
手入れのされてない高級品より、新しい安物のほうが社会的フォーマットとしてはよっぽど適切です(もちろん、あなたが高級マンションを売る営業マンだったりする場合はちょっと話が別になるかもしれませんけれど)。

ちなみに僕は、みなさんご存じの通り「手入れ」はあまり得意ではないので、常時手入れが必要な靴などはあまり持ちすぎないように心がけています。
パリっとした安物を堂々と着る。
これもまた、とてもいいやり方なのです。
本当は僕も本革のブーツとか欲しいんですけどね……。

p205

料理には、基本原則があります。
このように調理すれば、このように味つけすれば、おいしいというどんなジャンルの料理でも共通する根底的な原則は間違いなく存在します。
原則を理解すれば、「だいたいこれくらい」という分量もつかめてきますし(僕は日常的な料理において、大さじや小さじを使うことはほとんどありません)、味見で微調整をすることが可能になります。

もちろん、原則から外れる例外もゼロではありませんが、「おいしい料理」を構成する理屈は、実はそれほど難しいものではありません。
これを知れば、レシピをひとつひとつ調べなくても、自分で料理を「組み立てる」ことが可能になります。
冷蔵庫にある材料に合わせて、自分のオリジナル料理をつくっていくことさえできるのです。

p208

古代の大金持ちがたくさんの奴隷を使役する上で「食事がまずすぎると暴動が起きる」という教訓を残したと何かの本で読んだことがありますが、現代を生きる我々にとってもその事情はあまり変わりません。
長引く会議にピザが届いたら一気に場の空気が和やかになった、そんな体験をしたことがある人は少なくないでしょう。

つまり、自炊においては「最低限娯楽として機能する程度においしい」というのが絶対にクリアしなければいけない壁になるということです。

p209

①麦
まず、ベースの最初におすすめなのが「麦」です。
お米はどうしても糖質に偏りますが、ここに麦を加えて炊くことで食物繊維が加わり、今流行りの糖質を気にする(GI値がどうとかこうとか)健康法にも対応できます。
この「麦」、昔は押し麦などでお世辞にもうまいとはいえない食べ物だったのですが、最近よく見かける「もち麦」は大変においしい。
米びつのお米に味覚的許容量の限界まで(僕は5割くらい入っててもおいしいと思います)混ぜてしまうだけで一気に栄養が改善します。
究極を目指せばここに玄米を加えることで、これだけ食べていてもそれなりに長期間は生き残れるのではないかというくらいの健康食になってしまうのですが、玄米は風味で好みが分かれるのと、浸水の時間を長くとらなければならないので「米を炊くだけで辛い」みなさまにはおすすめしません。

p211

⑤ずばら野菜ベスト
とりあえず常備の野菜は「じゃがいも」「にんじん」「玉ねぎ」「キャベツ」に絞るのがおすすめです。
というのも、この4つは保存性が非常に高いからです。
キャベツはちょっと劣りますが、それでも葉物の中では最高クラスの性能です。
反対に、最も扱いにくい野菜は生トマトです。
「トマト缶」で代替しましょう。

おいしい料理 = 十分なうまみ + 適切な塩 p215

長々説明してきましたが、「おいしい料理というのは十分な量のうまみに適切な塩味がついているもののこと」。
これが結論です(※ちなみに先ほどの例の場合は、カツオのイノシン酸、そして味の素のグルタミン酸という2つのうまみ成分が相乗しておいしくなったわけです。これは和食における基本のだしの構成そのものです。グルタミン酸は昆布のうまみ成分ですね)。

あなたの料理がおいしくない理由はおおよその場合、うまみが足りないのです。
塩が足りないという場合もありますが、これはたいていの人が気づくでしょう。
「とにかくかつおぶしと味の素を入れればうまいのか」という極めて乱暴な理解でも、実をいえば問題ありません。

たとえば、なんだかみそ汁が水っぽくてうまくない、あるいはホウレンソウのおひたしがなんだか味気ない。
こういうときにかつおぶしと味の素を足せば、安直においしくなってしまいます。

あなたの焼く卵焼きがなんだか油っぽくて味気ないと思うなら、とりあえず溶き卵にかつおぶしと味の素を入れてみましょう。
「これ、だし巻き卵じゃん」と気づくはずです。
もちろん、プロの料理人がつくるしっかりとだしを引いただし巻きと同じとはいきませんが、それでも格段においしくなるのが体感できるはずです。
何も入れない卵を焼いてしょうゆをかけていたのとは雲泥の差がそこには生まれてきます。

うまみは入れすぎても大丈夫 p216

素晴らしいことに、「うまみ」というのは濃すぎる分にはまずくならない特質を持っています。

たとえばラーメン。
あれはうまみ濃度の極限に挑むようなエクストリーム料理ですが、「うまみが強すぎてまずい」と感じたことがある人はただの一人もいないはずです。

家系ラーメン、おいしいですよね。
僕も大好きです。
あれ、実はとんでもない量のトンコツを煮込んだうまみ爆弾みたいな料理なんですよ。
だからこそ、ラーメンを食べながらさらにご飯を食べてもおいしいのです。
おまけに、ご飯で塩気が薄くなった分を補う豆板醤(実はあれ、ものすごくしょっぱいのです。だから常温でも腐りません)やニンニクが置いてあるのですから理に適っていますよね。
家系ラーメンでライス、最高です。

うまみの材料はたくさん揃えておくに越したことはありません。
スーパーに行けば実にさまざまなだし材が売っていますので、ぜひ眺めてみてください。
お湯に放り込むだけでだし汁が取れるだしパック、あるいはお湯に溶くだけでだし汁のできる顆粒だしも便利です。
かつおぶしでだしを取るのもやってみたら結構簡単です。

なぜ、「台無し」になったのか? p220

「十分なうまみ + 適切な塩 = おいしい」。
この「味つけ」の大原則に加えて覚えておくといいのが「風味」という概念です。

料理というのはさまざまな素材や調味料の風味がバランスよく組み合わさっています。
肉じゃがは、いもの土の香り、にんじんや玉ねぎの甘さ、だしのうまみこれらが非常に淡いところで溶け合っている繊細な組み立ての料理です。
ここに、しょうゆを入れすぎることで、一発で致死水準に達してしまう。

しょうゆは「塩味をつける」ものではなく「風味をつける」ものなのです。
ほんの少し加えてしょうゆの風味を与え、あとは塩で味の最終調整をする(料理人の専門用語では「塩を決める」といいます)のが、正しい使い方です。

調味料は風味をつけるもの。
入れすぎてはいけない。
これが正解です。

ちなみに「カレールー」や「みそ」は風味がとても強く、「ほんの少しでも入れたらその味にすべてを支配される」核爆弾のような存在です。
カレー味、みそ味はそれなりにおいしいので、初心者にはラクなのですが(カレーライスは肉じゃがよりも圧倒的に成功しやすいですよね)、これしかできないと、つくれる料理が圧倒的に少なくなりますし、何をつくっても同じ味になるのでいずれは飽きます。
やはり、自分で味を調整するやり方を覚えたほうがいいと僕は思います。

もうひとつの基本「カットと火入れ」 p223

これでおいしい肉じゃががつくれるようになりましたね、といいたいところなのですが、実はここまでの話はすべて「味つけ」に限定した話です。
もうひとつ、料理には大切な要素があります。
飲食界隈の言葉でいえば、「カットと火入れ」です。

カットとは、文字通り「食材を切る」こと。
火入れとは、「加熱」を意味する料理用語。

あなたが覚えておくべきは「どんな料理でも食材はほぼ均等に切り、弱火でコトコト煮る」ということ。
これは炒め物にも煮込み料理にも共通の原則です。
均等に切る理由は、同じ鍋で調理する食材の大きさが2倍も3倍も違えば、ひとつは煮えすぎでもうひとつは生煮えという事態が起きてしまうからです。

カレーにじゃがいもを入れたことがあれば、小さなじゃがいもが煮溶けて消滅してしまった思い出が誰しもあると思います。
カレーならじゃがいもが多少溶けてもなんの問題もありませんが、肉じゃがの場合は大惨事になる。
「ゲルじゃが」です。
逆にいえば、プラスマイナス2~3割の範囲でカットのサイズが揃っていれば、何の問題もありません。

弱火にする理由は、火が強いと鍋の中で強力な対流が起きて食材同士がぶつかりあい砕けていってしまうからです。
これがいわゆる「煮崩れる」という現象の正体です。

間違った信仰を捨てよ p224

実は料理というのはわりと信仰の世界で「ぶっちゃけ省略してもうまい」「実はそれをやるとまずくなる」調理工程がかなり存在しています。
ちまたで出回っている料理の常識は「非本質の塊」といっても過言ではありません。
特に多いのが、この「カットと火入れ」の工程です。
代表的な「間違った信仰の例」を挙げておきますので、今すぐ改宗してください。

・皮むき信仰
僕が最優先で「省く」ことをおすすめしたいのが、「皮をむく」工程です。
じゃがいも、にんじん、かぼちゃ、大根、かぶ……。
僕は野菜の皮なんてほとんどむきません。
皮つきのじゃがいもでつくった肉じゃが、うまいですよ。

・強火信仰
「おいしい料理には強力な火が必要」という信仰は根強くあります。
これは、中華料理の料理人が吹き上がる巨大な火の中で鍋を振っているところから生まれたものでしょう。
しかし、前述した原則の通り、プロの料理において圧倒的に用いられるのは、「弱火」です。
しかも、とろとろに弱く一定した温度であれば申し分ありません。

中華料理において猛烈な火を使う理由は一にも二にも効率のためです。
あの燃え上がる火の上で中華鍋を振っている局面は、実は「加熱」ではなく「味つけ」のパートなのです。
一瞬で調味液と具を馴染ませ、大量の料理を冷まさずに味つけしながらかき混ぜるためには巨大な火が必要ということにすぎません。

・面取り信仰
肉じゃが、おでん、里芋の煮っころがし。
こういう料理は「きれいに面取りしましょう」っていう人がいますよね。
だけど、自炊でやってらんないでしょうそんなの。
まずは強火で鍋をボコボコと煮立たせない、そしてもうひとつ重要な「混ぜすぎない」。
この2つさえ守れば肉じゃがが煮崩れることはありません。

僕は、飲食の世界で働いていましたが、プロの世界であればあるほど
・本質的な工程=味に直結する
・非本質的な工程=味に直結しない
は明確に分けられ、後者は徹底的に省略されます。

プロは忙しいのです。
無意味な工程などやってられません。
つまり、料理の原理原則「だけ」をメタ的に覚えるという本書のずぼら自炊術は、結果的にプロの料理と重なる部分が多くなるのです。
最近のおでん屋さん、面取りをしないところ増えてきていますね。

さあ、これであなたは味つけ、カット、火入れという料理の基本要素をすべて理解しました。
今回は肉じゃがをテーマにとってやりましたが、炒め物であれ焼きものであれ基本は全く変わりません。
ここまでの知識があれば、あなたは必ずおいしい料理をつくれます。
ぜひ、試してみてください。

分量は量るな p232

ここまで読んで塩が何グラムであるとかしょうゆを小さじ1といった計量の話が一切出てこなかったことに違和感を持った方もいらっしゃると思います。
でも、思い出してください。
たらこのソースを2倍に伸ばすとき、あなたは調味料の計量なんて一切しなかったですよね。
味見をしながらジャストな味を探すという一番難しいスキルは、既にあなたの手の内にあるはずです。

実際問題、料理における調味料の量というのは極めて変動的なものです。
野菜の大さも味の濃さもひとつとして同じものはありませんし、肉だってそれこそ豚の一頭一頭の個体差もあれば、部位によっても味は違います。
パックの豚肉は常に同じ味ではありません。
食材に合わせた微調整は、味見をすればいいだけの話です。

今ある皿を全部捨てて、白か黒の四角い皿を買え p241

あなたの台所のお皿の収納を見てみてください。
狭いスペースにさまざまな形の皿が無理やり詰め込まれているし、全部は収納に入りきらない。
そんな人も多いのではないかと思います。
あなたの食器棚で恒常的に起きているあの「皿テトリス」は、もう終わりにしましょう。

まず、今ある皿は全部捨ててしまいましょう。
購入するべきは、理想をいえばシンプルな白か黒のスクエアの皿です。
これを大と小の2種類3枚ずつも持てば、二人暮らしの皿需要は十分に満たします。
四角い皿をおすすめする理由は、丸よりもスペースに収まりがよいからです。
茶碗とお椀も大きさを揃えて積み重ねることが可能なもの、可能であれば大きさを揃えてスタックできるように必要不可欠なものを購入するのが理想です。

とにかく種類を増やしすぎない、形を統一することが重要です。

「調理ケトル」を購入してください p236

狭小ワンルームにおける調理効率のボトルネックはどこにあるのか。
それはまず「熱源の数にあります。
料理にはたいていの場合「加熱」という工程がありますが、一般的な独り暮らしのワンルームにはガスであれ電気であれ熱源はひとつしかありません。
野菜を炒めて、どて焼き、それからみそ汁をつくる。
こんなことをしていてはとんでもなく時間がかかってしまいますし、みそ汁ができ上がる頃に野菜炒めはすっかり冷めきってしまうでしょう。
そこでまずは熱源を増やさなければいけません。

この「追加熱源」の中で最も便利なものは炊飯器です。
あまりに一般化しているので気づきにくいですが、あれも実は「熱源を増やして調理の効率を上げる」ための道具といえます。
ガスで米を炊いていたら効率が悪すぎる、だから炊飯器があるのです。
しかもどこでも売っています。

そういうわけで、僕は炊飯器を炊飯用以外にもうひとつ購入して煮込み料理に非常によく使っていたのですが、最近メーカーさんから「調理に使うのは推奨してないよ」みたいな話も出てきてしまいました。
実際、僕は長年飯器で豚の角煮もイワシの梅煮もパキスタンカレーも調理してきたし、問題が起きたことは一度もないのですが、偉大なる日本の調理器具メーカーがいうことを無下にもできません。

そこで、まずは調理用炊飯器の代わりに「調理ケトル」というものを購入しましょう。
せいぜい数千円、これはコンセントにつなぐと加熱できる電力鍋みたいなものですが、ガスより火力が一定していてしかも保温機能もあるという非常に優れた調理器具です。
これさえあれば、勉強机の上でも煮込み料理ができます。
しかも、ガススより熱の当たりがやわらかいので煮込みがうまいこと仕上がります。

さらにもうひとつ何かを買うなら僕は「BRUNO」というメーカーのコンパクトホットプレートを推奨します。
焼いたり炒めたりもできるし、アタッチメントをつければそのまま電気で加熱できる大鍋になります。
これと調理ケトルがあるワンルームの台所であれば、よくこなれた料理人なら8人くらいのお客さんをもてなすことが可能になってきます。
あなたの夕食くらい、楽勝です。

「自炊はめんどくさい!」というあの感覚は、熱源不足で作業が並行できず時間がかかりすぎる問題であることが非常に多いです。

まずは熱源を増やし、作業を並行できるようになりましょう。
調理ケトルをひとつ増やしてペペロンチーノスパゲティを1回つくってみるだけで、その劇的な効率に気づくはずです。
ニンニクとオリーブオイルのソースをつくりながらパスタをゆでられる。
たったこれだけで効率は2倍なのですから。
二口コンロがある方も、ぜひ火力調整しなくても吹きこぼれない調理ケトルやコンパクトホットプレートを試してみてください。
二人分以上の食事をつくるなら、二口コンロでも熱源は足りないと僕は思います。
そしてこの作業を並行する「効率化」の感覚をつかんでください。
一気にすべてがラクになります。

食洗機のサイズから「何を買うか」を考える p242

このライフハックが真の価値を発揮するのは、食洗機と組み合わせたときです。
皿のサイズが揃っていれば、食洗機で一度に洗える枚数は最大化します。
ファストフードのお店で大量の同じ形をした皿がものすごい効率で洗われているのを見たことがある人も多いでしょう。
あの便利さを自宅に取り込んだとき、台所は本当に使いやすくなります。
これは、狂気のような狭いスペースで料理をつくって提供する飲食店の知恵ですので、狭いキッチンほど効果を発揮します。

もし、あなたが便利なキッチンを手に入れたいと考えるならば、まずやるべきは食洗機を購入し、サイズを把握することです。
そして、それに合わせて皿や道具を購入していけば、最高の効率でキッチンを使うことができます。

このお話はひとつのハックであると同時に、もうひとつ極めて重要な概念を含んでいます。
それは、何かを便利にしようと思ったら「根底からつくり替える」のが多くの場合一番手っ取り早いということです。

人は、「毎日なんとか頑張って皿テトリスをクリアした状態」を問題の解決と認識してしまうところがあります。
しかし、それはただ単に問題が見えなくなっただけです。
形のそろわない皿をテトリスみたいに食器棚に詰め込んでも、それは問題を一度見えなくしただけで苦しみはまた襲ってきます。
皿テトリスをしなくていい状況こそが問題の解決だということを、ぜひ覚えておいてください。
これは、キッチンの話だけではなくあらゆる場所に応用できる考え方です。

あなたの生活はあなたが変えられますし、あなたの人生はあなたが変えられます。
その手ごたえをあなたが手に入れるささやかな手助けになれば、それは僕にとって本当に幸せなことです。

p247

僕がこれまで何度も何度も述べてきたことですが、「人生において最も重要なスケジュールは休息である」これは絶対に揺らがないひとつの事実です。
僕らは「1カ月のうちどの日を休養にあてるのか」を決めるところから始めるべきなのです。

働かなくても人間は休むことができますが、休まなければ働くことはできません。
つまり、休む技術というのは働く技術に先立って必要な、人生における最重要要素のひとつだということです。

しかし、僕も含めた多くの人が「休日」を「休息の日」ではなく、「日常のさまざまな帳尻を合わす日」として運用してしまっているのは事実でしょう。
やり残した仕事、雑多な家事、些細な頼まれごと。
そういったものは、油断すると梅雨時の水虫のように我々の休日にとりついて、侵食してしまう。

僕の経験上、純度100%の休養日は1カ月に最低2日は必要です。
可能なら4日くらい取れると人生がだいぶラクになります。
そして、純度100%の休養日を確保するためには必然的にスケジュールの調整が必要になってくることにあなたは気づくはずです。

人は娯楽がない生活に耐えられない p248

そしてもうひとつ。
「休息」とは全く別の概念としてあなたに必要なものがあります。
それは「娯楽」です。
意識していない人が多いのですが、「娯楽」もまたサバイバルにおける必需品のひとつです。
いくら十分な「休息」がとれたとしても、楽しいことが何ひとつない生活に人は耐えられないのです。
むかし、大きな地震があって長期間人々が避難所に閉じ込められたとき、食料や水の次に大事だったものとして「ボードゲーム」が挙げられていました。

「人生に楽しいことが全然ないのに生きる意味はあるのか?」のようなうっ屈した感覚を感じたことは誰しもあると思います。
しかし、これは実は順序が違う。
人生に楽しいことが用意できていないから、娯楽を適切に確保できていないから、抑うつ状態が発生してしまうのです。

しかし、この「娯楽」も「休息」同様に一筋縄ではいかない存在です。
というのも、人生をひどく悪い方向に持って行きやすいタイプの娯楽も存在しているからです。
そのひとつの顕著な例がドラッグであり、ギャンブルでしょう。
もちろんお酒を嗜むことや賭け事を楽しむことを全否定するわけではありません。
かつては僕自身もお酒を売る仕事をしていたし、麻雀を楽しむこともあります。

しかし、こういった「娯楽」が人生を滅ぼしてしまった例を、僕はいくつも見てきました。
あなたは自分の人生を滅ぼすのではなく、「豊かにする」娯楽を手に入れなければいけません。

「休息」と「娯楽」。
いずれも、仕事至上主義の世の中で、本当に軽視されているものです。
しかし、人生というサバイバルを生き残るためにこれは実のところ最も大切なものだといえるでしょう。
それは、井戸のように、薪のように、屋根のように、寝床のように必要なものなのです。

p253

「休む」は意志の賜物で、「頑張る」はむしろ情性なのです。

家の外でできることひとつ、自宅でできること2つ p257

日常の気がかりや不安から完全に離れて、完全に心を休める。
そんな1日を、僕は「完全な休日」と呼んでいます。
これを過ごすためには「何をするか(しないか)」の選別が非常に重要です。
そうしないと、「休みは取ったけど、結局いつもより疲れた」という最悪の結果になりかねません。
休むのが苦手な僕らですから、なおさら注意が必要です。

ひと言でいえば、完全な休日に必要なのは、「良質な現実逃避」です。
つまり、「自分は何もせず、ほーっとしているだけで楽しめる」コンテンツを、できるだけたくさん用意しましょう。
数は多ければ多いほどいいです。
その日の気分や疲れ具合に対応できるよう、「家の外でできることひとつ」「自宅でできること2つ」は最低限必要です。

ヨガ、筋トレ、創作などはNG p260

一方で、現実逃避に向いていないのが、ヨガ、筋トレ、創作、キャンプなどの「脳や身体を能動的に使う行動」です。
これは、基本的に休息ではないと考えたほうがいいでしょう。
もちろん、能動的かつ活動的な趣味でリフレッシュすることもときに必要ですが、それは休養とは別物ととらえなければいけません。

小説の筆がまるで進まないまま焦燥感に焼かれて過ごした休日が、かつて新人賞に落選しまくっていた時期の僕にもありました。
「有意義な休日」というとつい意識が高くなってしまいますが、ここはぐっと意識を下げて、完全な休日を実現してください。

前段でしつこいほど述べた通り、休息というのは意志の賜物です。
あなたの人生を善く生きるために、あなたはあなたを苦しめることをまずやめるべきなのです。

教養とは、お金がなくても楽しく暮らせること p264

「メキシコ人の漁師とハーバード大卒のコンサルタント」というインターネットでよく見かける寓話があります。
出典は何なのか全くわかりませんが、要するにコンサルタントがのんびりと暮らしている漁師に「もっと働けば、あなたは大金持ちになって人生を早期リタイアできる。
遅くまで寝て、魚を少しばかり獲って、子どもと遊び、妻のマリアさんと一緒にゆっくり昼寝をして、夕方頃には村に散歩に出て仲間たちとワイン片手にギターを弾いて楽しんだりできる」と教えたところ、「俺の今の生活と何が違うの?」と切り返されるというなかなか味のある寓話です。

しかし、このお話では大きなことがひとつ無視されています。
少しのお金を稼ぎ、子どもと遊び、村に散歩に出てワイン片手にギターを弾いて人生を満喫できるスキルというのは、実のところとんでもなく大きな価値を持ったものです。

多くの人は、この生活に憧れることはあっても、この生活に心から満足することはそうそうできません。
村はずれにパチンコ屋ができればたちまち大盛況になるでしょうし、いずれアルコール依存症の治療が必要な人が増えてくるでしょう。
世界のあちらこちらで今日も起きている、つまらないお話です。

楽しさのための技術的習熟というものは、一般的に「教養」と表現されるものとだいたいのところで共通してきます。
あるいは、最近はやりの言葉でいえば「文化資本」といってしまってもいいかもしれません。
これがないと、享受できる「娯楽」の選択肢が著しく減少してしまうのです。

たとえば、ギターを上手に弾ける人はギターをかき鳴らしていればとても楽しいでしょう。
しかし、それが楽しくなるまでどれほどの練習を必要とするか考えてみてください。
僕自身も下手くそながらギターを弾きますが、演奏そのものが楽しいと感じ るようになったのは弾き始めて数年も経ってからです。
最初はコードを押さえるにも 指がまともに動かず、鳴る音は汚らしくて聞きたくもない。
そんな状況が続いていました。

多くの楽しさは、技術的習熟の先にしかないのです。
それは、料理にしても釣りにしても、あるいは読書にしたってそうです。
本を普段から読み慣れている人が軽い物語をひとつ楽しむのは「娯楽」であり「休息」であっても、普段ほとんど本を読まない人にとっては「訓練」であり「練習」になります。
そして、一般的傾向としてお金のかからない趣味ほどこの技術的習熟がより多く要求されるというのは間違いのないことでしょう。

「お金がなくても楽しく暮らす」というのは、ひとつの教養的到達点であると僕は考えています。
もちろん、到達点は遥か彼方ですが、それでも少しずつお金のかからない娯楽、「エントリーコストの高い」娯楽を手に入れていきましょう。

それはお金と違ってあなたのもとを去りません、誰にも差し押さえられません。
事業をコカして一度何もかも失った僕がいうとちょっと説得力が出ると思いますが、それは間違いなく最高の資産なのです。

34歳で「コンビニバイトの楽しさ」に気づいた p269

僕は今年34歳になりまして、おっさんというには青臭く、かといって若者というには年を取りすぎたというナイーブな年齢なのですが、「人生、悪くないな」と感じることが増えました。
それは、うまく表現することができないのですが、「楽しめることが増えてきた」ということのような気がします。

かつて、僕はコンビニエンスストアのアルバイトが全くできなくて、数カ月勤めて逃げ出しました。
あの頃は、とにかく作業が苦痛で苦痛で仕方がなく、時間がまるで過ぎないと時計ばかり眺めていたことを覚えています。
しかし、最近になってコンビニを経営する友人ができまして、十数年ぶりにコンビニエンスストアの内部を取材ということで見せてもらったのですが、これが実に面白かったんです。

あの商品の陳列やアルバイトでも回せるようにつくり上げられた業務オペレーション、レジのシステムに洗練の極みともいうべき商品開発力。
一度会社を経営した今見ると、あれはまさしく驚異という他ありませんでした。
もっと見せてもっと見せてと盛り上がって煙たがられてしまう始末でした。

しかし、当時17歳か18歳の僕に、この「面白さ」はまるで見えませんでした。
そこにあったのは、ただ単に苦痛で面倒な時給のための作業だけだったと思います。
それが1年と少しが過ぎるとまるで見えてくるものが違うのだから驚いてしまいます。

かつて、人生が本当につまらないと感じていたころを覚えています。
睡眠薬依存症で病院に担ぎ込まれた理由の大きい部分は「楽しいことがなかった」ということにあると、今では強く感じます。
とにかく薬物で酩酊してわけがわからなくなれば楽しいような気が、あの頃はしていました。

世の中には、実は楽しいことがたくさんある。
それが見えていないのはとてももったいないことなのだと思います。
もちろん、10代の僕に34歳になった僕が「おいおい、コンビニは歩くだけで面白いぞ?もっとよく見ろよ、すごいだろあのシステム」なんて説教をしても「うるせえおっさん」と殴り掛かってくるでしょうが、それでもやはり34歳の僕としては「コンビニバイトから見える景色は面白い」といいたいのです。

これは、僕が自分の会社を潰して零細企業の営業マンになったときも感じたことでした。
かつてはまるで見えなかったものが見えるようになり、上司の苦労や会社の経営状態や、あるいは上司たちの真似できない技能が見えてくると、急に仕事が面白くなりました。
もちろん、仕事ですから面白いことばかりとはいきませんが、一度面白みが見えてくると技能の習得や理解が一気に加速するというのもまた事実ではあります。
学校の授業の中に「面白い」教科がひとつでもあった人ならこの感覚は理解していただけるでしょう。

人生は、少しずつ楽しくなる p271

もちろん、たとえば「受験勉強がゲームとして面白い」みたいな感覚を持てる人は一種のギフテッドです。
多くの人はそんな感覚は持てませんし、仕事も受験もそうそう楽しいものではありません。
でも、社会人になってふと勉強がしたくなる人が案外たくさんいる通り、そこにも「面白さ」は隠れているのです。

「世界から楽しさを見出そう」なんて偉そうなことはいいません。
毎日反吐を吐きそうになりながら通う仕事に「楽しさを見出せ」なんていうやつはクソです。
しかし、僕がいいたいのはこういうことです。
世界は、見る角度や解像度によって、楽しいことがたくさん潜んでいます。

あなたの経験が増え、さまざまな物事への理解が増すにつれ、ある意味では加齢に従って人生は、少しずつ楽しくできます、楽しくなります。
そして、発達障害を抱える人にとってそれはきっと「発達」というものなのではないかと僕は思うのです。

僕たちは発達します。

手に入れるべきは「受け身を取る技術」 p277

つまり、何より重要なのは人生の谷に差しかかったとき、人生を転げ落ちたとき、そういうときに死なないように上手な受け身を取り、そしてその谷の底からもう一度歩き出すことなのではないかと僕は思うのです。
そして、このどん底からの再起というのはかなりテクニック性がある。
何度かの底を経験してきて、僕はそういった確信を強くしました。

「うつになったから見える景色があった」とか「障害に感謝している」みたいな言説が僕は大嫌いです。
普通に考えてうつじゃないほうがいいし、健常者のほうがいいに決まってる。
ある日突然巨大なうつがやってきて、何もかも吹き飛ばしてしまう恐怖を抱えて生きたくなんかない。
でも、それはそこにあるのだから仕方がない。
僕はそういう風に考えています。
そして、これは社会的成功で不安を塗りつぶすことを目論むことより、ずっと大切なことだとも。
どれほど絶望的な状況に陥っても、残念ながら明日はやってきます。
それでも生き残っていきましょう。

「難関資格で一発逆転してやろう」は危ない p279

うつになり、職も失った。
そんな状況からの「再起」に最も重要なものとは何か。

それは「一発逆転マインド」を可能な限り排除することです。

いや、痛いほどわかります。
僕も30歳を過ぎて借金を抱えて無職でうつだったので、「マトモなやり方でこのどん底から出られるのか?」という感覚、もっとハイリスクな一か八かをやらなければいけないのではないかという焦燥感は本当に強かったです。

大変にお恥ずかしい話をさせていただきますが、当時僕が最初に考えた「再起プラン」は準備運動がてら宅建士資格を取り、その後税理士や弁護士といった難関資格に挑むというものでした。
今思うと恐ろしいことを考えたな、という感じがします。
本当にやらなくてよかったとしかいいようがありません。
そもそも借金を抱えてそんな挑戦をする余裕なんてあるわけもなく、当時自分がなぜそんなことを考えたのか今でも全く思い出せません。
ただひたすらに憔悴していた記憶があるばかりです。

でも、僕は残ったわずかな気力をかき集めて宅建の勉強を始めました。
一応それなりの大学も出ているのだし、宅建士資格くらいちょっと勉強すれば取れるだろうと思ったんです。
「うつで動けないときにもせめてそれくらいはしたい」。
あなたにもこの気持ちは伝わるんじゃないでしょうか。

その結果は、本当に惨憺たるものでした。
しばらく勉強から離れていたこともあるけれど、うつという病気は猛烈に人間の思考力を低下させるところがあります。
あのときほど自分は「もうダメだ」と感じたことはありませんでした。

今思うと、税理士や弁護士などの難関資格を取ろうという僕の判断にはプライドを守りたいという心の働きが強く影響していました。
要するに、難しい資格に挑戦している「ガワ」さえつくればプライドは守られるというやつです。
僕は、地道な再起の最初の一歩を間違いなく「やりたくなかった」のです。

結局、僕は宅建の参考書を投げ出して、非正規雇用の不動産営業マンとして人生の再起をスタートすることになりました。
しかも、その理由は自発的なものではなく、お世話になっていた人から「そろそろ仕事をしろ、見つけてきたから行け」といわれたから、というなんとも情けない代物です。

下っ端でも働いてみる p281

人生の再起においては、ゴールの見えない道に向かって歩き出すことがまずは必要になります。
具体的には、「アルバイト、または中小企業の非正規社員、あるいは正社員の新人、つまり一番下っ端の立場から働けるところでもう一度働く」ということです。

僕自身、非正規雇用の営業マンという立場からもう一度出直すというのは、なかなか辛い決断ではありました。
本当に恥ずかしいお話ですが、これは正直にいわなければいけないことです。
新卒で働いた職場の1000分の1の規模もない小さい会社の、そのまた一番下っ端から働くというのはやはり精神的にラクなことではありませんでした。

今思えば、あの職場で働いた日々こそが僕を再起させてくれたことは間違いありません。
それでも当時は、新卒で入った会社や、その後の会社経営の日々で培われたある種の傲りのようなもの、そして「この仕事をして自分に未来はあるのか」という無力感はやはり避けがたく発生しました。
仕事に貴賤はないし、雇ってもらえるだけありがたいと思え。
それは大正論です。
しかし、人生を転げ落ちてやり直すときに、もう一度一番下から山を登り始めるとき、この感情が胸に去来しない人など一人もいないのではないかとさえ思います。

でも、その一方で発達障害者としての僕はこうも思います。
どんな職場でどんな立場であれ、「普通に働ける」ってものすごいことなんだよ、と。
僕のような「普通に働く」ことすらずっとできなかった人間にとって、それは無限の可能性のとば口ですらあります。
なんであれ働くことができれば、お金をもらいながら「知識」「経験」「関係性」を得られます。
そして、人生のチャンスというのは往々にしてそういう場所か生まれてくるのだと僕は思うのです。

1ミリの階段こそがゴールへの最短距離 p282

世界には結構たくさん成功者がいます。
そういう人たちの中で目立つのは、まるでひたすら上昇カーブを描くグラフを飛び上がっていくような人です。
でも、不動産営業みたいな泥臭い商売の世界や、中小零細企業経営者の中で生きていると「階段を昇るように順を踏んで成功していく人」なんて実はほとんどいやしないことがわかってきます。

高さ1ミリの階段を1000段昇ったら、不意に上昇気流が吹いてきて1000メートルの崖を飛び上がった。
そんな話はいくらでもあります。
もちろん、逆のパターンもあります。
ずっと続くなだらかな階段を昇るような人生を生きてきた人が、突然1000メートルの崖を転げ落ちる。
そういったものを、僕はたくさん見てきました。

では、高さ1ミリ、1000段の階段に意味はないのか。
それは単なる無為な待機期間に過ぎないのか。
そんなことは決してありません。
非現実的な一発逆転マインドを排除し、日々を地道に積み上げるチャンスを探す精神を失わない。
ゴールの見えない道をそれでも次のチャンスを求めて歩く。
これは、一見迂遠なようでいて「再起」への最短の道のりなのです。

この世の職業はざっくり4つに分類できる p286

人の苦手なことできないことというのは細分化していけば多岐にわたります。
一人一人が自分自身と向き合った上で理解するしかありませんが、この判断を助ける大まかな指針はあります。
とてもシンプルなので覚えておいて損はありません。

世界には数多の職種がありますが、そのほとんどすべての仕事が次の4つのでグラデーションになっています。

①「成果」評価型業務
仕事のプロセスよりも成果だけが問われる。
いわゆる数字で評価される営業職や企画職など。
細かいミスを成果で挽回することが可能。
たいていの場合は一人単位で評価される。
評価は主に加点法。
協調性に乏しいが、独力で成果を追うことを好むタイプに向く。
ADHD特性の強い人間が多く就労している業態でもある。

②「成果物」評価型業務
たいていの場合は専門技能を生かした、何かをつくる業務。
プログラマーやデザイナーなど。
成果物の出来や完成速度などが評価基準となる。
評価はチーム単位の場合も個人単位の場合もある。
評価は加点法と減点法が入り混じる。
専門技能の高さを生かしてそれ以外の問題をカバーできる場合がある。
ASD特性の強い人間が就労していることの多い業態。

③「作業」評価型業務
企業のバックオフィスなど、数字を上げるのではなくシステムの維持管理を主とする業務。
事務職のほぼすべてはこれにあたる。
当然ながら評価は減点法。
逆転の機会は極めて少ない。
たいていの場合はチーム単位で業務を行い、個人単位での成果ではなくチームでの成果が問題になる。
個人で大きな成果を上げることがほぼ不可能な業務形態のため、チーム内での協調力が重要になる。
いわゆる、「ホワイト事務職」はこの業務形態の場合が多い。

④マネジメント型業務
進捗管理やマネジメントの業務。
いわゆる管理職や経営者もこの枠に含まれる。
評価は上司と部下両方から受けることになるため、加点法・減点法どちらかで考えるのは難しい。
また自分ではない人間の働きによって評価が定まるため、他人を動かす能力が必要になる。
下請け会社に依頼して業務を行っていく場合などもこの業種に含まれる。
複数の人間の間に立ち、折衝や調整を行う能力が必要。

もちろん、プログラマーの中にも客先でお客様に折衝や提案をするような人もいらっしゃるでしょうし、工程管理やあるいは調整といった事務・管理職にまたがる色合いの仕事の人もいらっしゃるでしょう。
この4つはあくまで目安なので、自分が転職しようとしている職業にどんな特徴があるかを、個別に見極める必要はあります。

「僕は働けない」は自己分析の解像度が低い p289

ここで重要なのは自分の鬼門がどこにあるのかを、「解像度高く」知ることです。
・自分が圧倒的に苦手なこと
・努力で克服できそうなこと
をまずは洗い出してみてください。

よくあるパターンとして「全部ダメだ。僕は働けない」となってしまう人がいるのですが(僕ももちろんそう思いました)、これはある種の思考停止です。
自分が過去にできなかったことに向かい合い、理解するのは大きな苦痛を伴う作業です。
それなら「自分は何もかもダメだ」に逃げ込んだほうがラクだという気持ちは痛いほどわかります。

しかし、それでは再起者のせっかくのメリットを活かせません。
ここはあえて自分の経験の中からソリッドに「これは確定的に自分にはできないことだ」と思えるものを絞りこんでください。

僕の場合、金融機関でマルチタスクの事務が破滅的にやれなかったという経験と、日常業務の中でどうしてもミスが多くなるという自己理解から、③が確定的に向いてない、という判断で仕事を探しました。
減点法の職場をとにかく避けるということですね。

仕事を失うと、人はどんどん孤立していく p293

人間関係というのはあらゆる可能性の発生源です。
仕事が回ってきたり、案件が紹介されたり、誰かを紹介されたり世界は関係性で回っているといっても過言ではありません。

うつで仕事を失い、どん底状態に陥ると、友達がいなくなります。
それはそうです。
飲み会の5000円すら出せないような状態ですべての交友関係を今まで通り保つなんてことはほとんど不可能です。
人生を転げ落ちたとき、周囲から人がどんどんいなくなるあの現象は避けがたく起こるものだと思う他ありません。
実際、あなただって明らかに金に困っている友人を遠巻きにしたことがあるのではないでしょうか。
それはそれで仕方がない、責められるべきことかといえばそうではありません。
人も金も触れるときには離れていくものです。

その一方で自分がどん底状態にいると、「成功している友人と顔を合わせにくい」という心の働きもあるのではないでしょうか。
もちろん、その気持ちが僕には痛いほどわかります。
ぱりっとしたスーツを着て洒落たデザインの指が切れそうな名刺を持った友達と、人生のどん底にいるときに顔を合わせるのはとても辛いものです。
このようにして、人は関係性という大きな可能性の根源を失っていくのです。
お金がない。
それだけのことが、人を孤立に向かわせる力場を避けがたく発生させる。
人と人の関係性を断ち切ってしまう力をとても強く持っていることは、まず理解する必要があります。

勝率の低い「バクチ」でも、やる価値はある p294

では、このどん底状態に陥ったときに人間関係を失わないためには、どうすればいいのか。
対策は2つあります。

ひとつめは、「お金がない自分と呑んでくれ」と勇気を出して相手を誘うことです。
「ちょっと商売がうまくいってなくて、安いとこにしたいんだけど……構わない?」
こう率直に聞いて、離れる人は離れる、残った人を大切にする。
それしかありません。
これは勝率の低いバクチを打つようなものですが、これで残った人間関係はその後のあなたを助けてくれるはずです。

ここで見栄を張って、あるいは関係性を失いたくなくて借金を重ねてしまう人がいかに多いか、僕はよく知っています。
人は、自分が所属する経済的階層から追い出されたくないのです。
それは心の働きとしては極めて自然なことですが、そこにい続けるために人生を破綻させてしまうのは、本当にもったいないことです。

金持ちと背伸びして呑む。貧乏人を疎んじない p295

2つめは、普段からひとつの経済的階層に付き合いを絞らないことです。
明らかに自分より経済階層の高い友人とも、もちろん予算を考えれば頻度は低くなるでしょうがたまには背伸びして呑みに行く。
もちろん、自分より経済的階層の低い人を疎んじないことも、とても大切です。

僕はこんな人生を生きているので、あまりホームパーティーとか同窓会とかに呼んでもらえない人間ですが、その代わり人生に難所が訪れた友人からはよく相談の電話を受けます。
長いこと、とても安定した職場でキャリアを積んできた友人から「実は、うつにかかってしまったようなんだ」と相談されたことは一度や二度ではありません。

何年も会ってなかった大学時代の同期、それもエリート街道を邁進していたやつが急に誘ってきて、「実は仕事辞めたんだ」なんて話をするとか、自分の有責で離婚した、慰謝料も財産分与もしっかり取られた……とかそんなのもありましたね。

僕は彼らがとても賢い人たちだと思います。
自分の経済的状況に合わせて、彼らは人間関係を使い分けているのです。
もちろん少々人間性の問題としてひっかかりを感じる人もいらっしゃるでしょうが(僕もホームパーティーには呼んでほしいです)、経済的破綻を避けるための行動としてこれはとても有益であることは間違いありません。
でも、さらにいえばどん底に陥る前の普段から経済的階層にとらわれない人付き合いをしていればもっとベストだと思いませんか。

20代から30代にかけて、残念ながらかつては同じ安居酒屋で楽しめた連中の経済格差はどんどん開いていきます。
同じ階層の人とばかり付き合うのがむしろ自然であるといえるでしょう。
それでも、たまには懐かしい思い出を肴にして安い店で集まってみるのはとてもいいことです。

階層にとらわれない人付き合いというのは、かなり難しい技能です。
普段から意識的に心がけなければ、人は社会的階層にとらわれてしまう。
でも、だからこそぜひ意識してみてください。
人生が必ず少しよくなるはずです。
そして、どん底からあなたがはい出すとき、誰かが手を差し伸べてくれる可能性が高くなります。

治せないからこそ「今より悪化させない」 p299

うつや障害を抱えて生きるということは、自分がいつ生産性の全くない、平たくいって働けない状態に陥るかわからないということでもあります。
この治らない障害とともに生きるためには「無理をしない」そして「今より悪化させない」ことが何よりも大事です。

もちろん、仕事を休んだりあるいは諦めたりすることは人生にダメージをもたらします。
仕事を病気で退職、なんてことを考えたら怖気が走るという気持ちは僕もよくわかります。
しかし、これは本当に厳しい話になるのですが、精神疾患を悪化させた場合、人生へのダメージはその比ではなくなってしまう。
新しい仕事を見つける前に、まずは働けるようになるところまで治療するという巨大なフェイズが立ちふさがってしまうのです。

そこで、僕はあなたに「セルフモニタリング」という概念を覚えておいてほしいと思います。
これは自分の行動を記録し、観察することです。

「睡眠時間」はうつ状態を知る強いシグナル p300

僕は、1冊のノートに
・睡眠時間
・仕事量
・食事
の3つを毎日記録しています。
この3つは、特にうつ(躁うつ)の状態を知るための、強いシグナルになります。

注意点としては、必ず「数字」で記録すること。
睡眠時間は「○○時間」、仕事量や食事も「アポイント○○件獲得」「かつ丼定食1600キロカロリー」と、必ず定量化してください。
実践してみると、「全然頑張れていない」「今週は睡眠が結構確保できた」などの感覚的な判断は、一切役に立たないということに気づくと思います。

僕は、死ねずに「見苦しい30代」になった p305

いきなり変な話をしますが、僕は自分に30代があると思ったことがありませんでした。
自分は20代で死ぬだろうと、何の根拠もなく思い込んでいたので、会社を潰してうつのどん底にいながらにして30歳の誕生日を迎えたとき、とてつもない不安に襲われました。

「死ねばいいや」――これは20代の僕における基本的な姿勢でした。
会社を始めたとき、銀行から(返す目算なんて何ひとつないまま!)大きな額の借り入れをしたとき、睡眠薬と酒をザパザパ胃に流し込んでいたとき、そういったとき僕のそばには常にこの最終的な解決策としての死が存在したような気がします。

人生は恐ろしいです。
ある日働けなくなるかもしれない。
突然災厄が降ってきて何もかも失われるかもしれない。
そして、とても残念なことにそういうことは起きるときには起きます。
こういったどこまでも拭えない不安に対して、「死ねばいいや」以外の答えを出さなければいけなくなったのが、僕の30代の始まりだったように思います。

僕は34歳になりますが、もうこの年になると若い頃はあれほど便利だった「死ねばいいや」の魔法が使えません。
いざとなれば死ねばいいと思っている人間を30代の人たちは信用しないし、そもそも「死ねばいいや」というのは「いざとなれば全部投げだせばいい」という話にしか過ぎません。
その投げだすための手段として「死」が有力候補にあるだけです。
不安に立ち向かうレトリックとしても、あまり出来がいいものとはいえません。
何せ、死ねばいいやと思っている人は、結構死んでしまうから。

同病相憐れむという言葉がありますが、やはり僕の友人にも病んだ人間は多く、そして結構たくさんのやつらが死んでしまいました。
アルコール依存症だったり、覚醒剤で逮捕されて帰ってくるなり首吊ったり、突然いなくなったまま住民票がもう10年も動いてなかったり。
若くして死んだやつはいつまでも若く、僕はどんどん歳をとっていきます。

「いざとなれば死ねばいい」というのは、非常に強力な麻薬みたいなものです。
これは、基本的には生きていきたいという欲求に突き動かされているのですが、その一方でどこか死んでラクになりたいという感情も混ざっている。
コカインとヘロインみたいに生と死の欲求が混ざり合ったスピードボールです。
これに突き動かされて人生を転げ落ちたのが僕です。
最も、生き残ったんだから僕のキメ方はまだまだ甘かったという他ありません。
キッチリ死んだ連中に比べると、僕はなんとも見苦しい生き物です。

どん底から何度でも「登ろうとする」ことはできる p307

でも、その一方で僕はこういうことも感じています。
不安が的中して、僕がまた人生を転げ落ちても、僕はもう一度そのどん底から「登ろうとする」ことができるだろうな、ということです。
もう一度「登れる」かはちょっとわかりませんけどね。
やってみないことには。

それは、服薬しながら回復を待ち続けるということかもしれないし、また別の商売をすることかもしれないし、突き詰めてしまえば日本国民の権利たる生活保護を受けることかもしれません。
でも、きっとそういうことができると僕は思います。

人生が成功の上昇気流に吹き上げられているとき、人は確かに不安を忘れることができます。
でも、それは単に成功に酔っているだけです。
上昇角度がわずかに傾けば、すぐに不安はまた顔を出します。

人生に、確かな進歩を感じられる日なんて1日もないのではないかと僕は思います。
あらゆる努力はバクチです。
成果が出るかなんてわかりません。
あらゆる挑戦はバクチです。
結果が出るかなんてわかりません。
いつあなたの足元にどん底行きの落とし穴が開くかなんて誰にもわかりません。
そして、それは開くときには開くといった性質のものです。

だから、もうしょうがない。
やれることをやって、不安を感じながら日々を生き延ばしていく。
それしか残らないんです。

あなたが今、うつの治療をしているなら日々はまるで無為なものに感じるでしょう。
あなたが職のない生活をしているなら、今日1日はあまりに無駄だったと感じることもあるかもしれません。
僕も、今日はTwitterしかしなかったという日を随分たくさん過ごしたものです。
でも、その日々の中にあなたの「再起」への意志が、人生を少しでもよくしていこうという何かがあれば、それはそれでいいのです。

不安は、未来への意志がそこにあることを示すものです。
不安であることは正しいのです。
「死ねばいいや」で勢いよく不安を忘れる精神的ヤク中より、不安を背負って生きているあなたがずっと前向きなのです。

どうか忘れないでください。
未来は長く続きます、どこまでも不安です。
だからこそ、あなたは未だ敗れ去っていません。
やっていきましょう。

「吹雪のお供」は甘い紅茶の入った魔法びん p312

この本には「やったほうがいいこと」がたくさん書いてあります。
でも、それはうつの底という状況でやらなければいけないことではありません。
うつ状態というのは、人間の思考力を驚くほどに奪います。
この本1冊すら読み通せないというようなこともあたりまえに起きてきます。
僕もかつては、うつの底で「せめて勉強くらいしなければ」「せめて本くらい読まなければ」とあがいて、より一層苦しむ悪循環をくりかえした時期がありました。

もし、どうしても具体的な工夫を何かしたいのであれば、Amazonで魔法びんをひとつ買いましょう。
そして、砂糖をたっぷり加えた甘い紅茶を詰めて枕元においておくんです。
次に目を覚ましたときにそれを飲みましょう。
そして、魔法びんが空になったときに、紅茶をまた詰める気力があればそれを補充しましょう。
吹雪の日を耐えるお供にはこれが一番です。
前作でも同じことを書きましたが、とても大事なことなのでもう一度お話しさせていただきました。

すべては、吹雪がやんで青い空が見えてから。
うつの底を抜け出してからです。
そして、そしていつかどこかで、それはきっと暖かな昼下がりで、いろいろあったけどなんとかなった、そんな話をしましょう。

おわりに 本当のあなたを「ハックするな」 p314

僕のライフハックのテーマは「自分を変える」のではなく、「やり方を変える」「環境を変える」「道具を変える」など、パーソナリティの外部にあるものを工夫することで変化を起こすことをモットーにしています。
本書も、その考えを貫いて書かせていただきました。

そこで、みなさんにひとつだけ気をつけていただきたいことがあります。
この本はあくまで「生きていく」という目的のためにあるということです。
だから、いつも心のどこかで「こんなことやりたくないけど、まあ、仕方がないから試してみるか」という斜に構えた気持ちを持ち続けていただきたいのです。
「正しいハックを実践して正しい人生を生きるぞ!」みたいな気持ちには、絶対になってほしくありません。

あなたが工夫をするのは素晴らしいことですが、工夫があなたになってしまうのは恐ろしいことです。
それは手段と目的が入れ替わってしまっています。
僕の文章は、あなたが幸せに生きてほしいという気持ちで書かれています。
幸せがあなたを生きるなんて冗談じゃありません。
あなたがあなたである、ということには最大の価値を置くべきだと僕は心から思っています。

僕が親と距離をおき続ける理由 p315

具体的に、僕が絶対にハックしてはいけないと思っているのがプライベートの人間関係や、個人のパーソナリティそのものです。

たとえば僕は、肉親との距離を大きくおいています。
関係性については「色々ある」としかいいようがないですし、もちろん「親に対してそんな振る舞いはひどい」というご批判があるだろうことも承知しています。

もちろん、親という存在に対して共感的に振る舞い上手に相槌を打ち、相手が気分よく過ごせるように発話内容をチューンする。
そうすればきっと関係はよくなるだろうと思います。
そして、僕も営業マンですから技術的にそれは可能ではあるでしょう。
しかし、それはハックが僕のパーソナリティを侵襲してしまうということに直結しかねません。

同様に、距離の近い友人関係などをハックするのもあまりおすすめはできません。
もちろん、関係を多少快適にするための工夫というのは必ずしも悪ではありませんが、友達付き合いが技術論の問題になってしまうのは、あまり素敵なことではありません。

SNSで自分を偽るのも、おすすめできません。
僕もSNSから名前が売れた物書きなのでそういう人をたくさん見てきましたが、あまり幸福な結末を見たことはありません。
あなたはプライベートな領域において、あなたのままでいるべきです。
そこは、守るべき一線です。

あなた自身が変わる必要はない p316

人間には、「極めて非合理的かつ何の利益にもならないがどうしても譲れない行動」みたいなものがあります。
それは信念とかポリシーとかそういう言葉で表されます。
僕はそういうものが人間にとってとても大事なものだと考えています。

もちろん、社会と折り合っていくためには信念を曲げなければいけないこともあるでしょう。
悔しい思いをしながら適応的に振る舞わなければならないこともあるでしょう。

しかし、それはあくまでもパブリックな場における技術にとどまるべきものです。
あなたはプライベートな領域において、あなたであり続けるべきです。
生きる力の源泉というのは「社会に上手に適応すること」ではありません。
それは手段であって目的ではないのです。

このサバイバルガイドは、あなたを鋳型にはめて、社会に適応できる形に成型しなおすためにあるのではありません。
この本に書いてあるのは、ただの「こうやったら便利だよ」程度の意識の低いノウハウだけです。
僕は長い間、発達障害を治したいと滝に打たれたり、哲学書を読んだり、怪しい漢方薬を飲んでみたり……。
ありとあらゆる自己変革を試みてきました。
残念ながらすべて失敗して、今ここにいます。

本当にありふれた安い言葉ですが、それでもあなたはあなたのままでいいと僕は思います。
あなたが変わるべきだと、僕は決して思いません。

あなたのやり方やあなたの道具、あなたの環境を変えるべきなのです。
人生がうまくいかないとどうしても発生してくる自罰的感情、「自分が悪いのだ、自分が根本的に変わらなければならないのだ」というあれは、あなたを救いません。

あなたが幸せになってほしいと僕は心から思っています。
そして僕も、幸せになりたいです。
みんなで幸せになりましょう。
そして人生を、生活を、やっていきましょう。