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「アイデアのつくり方」を再読した

投稿時刻2024年5月2日 17:25

アイデアのつくり方」を 2,024 年 05 月 02 日に読んだ。
10 年以上前に何度か読んだ記憶があり、ふと思い立って本棚から取り出して再読した。

目次

メモ

p18

私がいまから諸君に提唱しようと思っていることは、これらの疑間について長い間考えぬき、これまでに私が親交を結んだアイデア作成家たちの仕事ぶりを詳細に観察して得た結論なのである。

私はこう結論した。
つまり、アイデアの作成はフォード車の製造と同じように一定の明確な過程であるということ、アイデアの製造過程も一つの流れ作業であること、その作成に当って私たちの心理は、習得したり制御したりできる操作技術によってはたらくものであること、そして、なんであれ道具を効果的に使う場合と同じように、この技術を修練することがこれを有効に使いこなす秘訣である、ということである。

自分でみつけだしたこの貴重な公式をなぜ私が惜しげもなく公表するのかとおたずねになるなら、この公式について私が経験から学んだ二つのことを諸君にうち明けよう。

第一は、この公式は、説明すればごく簡単なので、これを聞いたところで実際に信用する人はまず僅かしかいないということ。
第二は、説明は簡単至極だが実際にこれを実行するとなると最も困難な種類の知能労働が必要なので、この公式を手に入れたといっても、誰もがこれを使いこなすというわけにはいかないということである。

だからこの公式は、大いに吹聴したからといって私がくらしをたてている市場にアイデアマンの供給過多が起こるというような実際上の危惧はまずない。

心を訓練すること p25

さて私たちには生来アイデアを作りだす才能があるとする。
ここで私たちはつぎに、それではこの才能を伸ばすにはどんな方法があるだろうか、という実際的な疑問にぶつかる。

どんな技術を習得する場合にも、学ぶべき大切なことはまず第一に原理であり第二に方法である。
これはアイデアを作りだす技術についても同じことである。

p27

アイデアの作成についてもこの通りである。
知っておくべき一番大切なことは、ある特定のアイデアをどこから探し出してくるかということでなく、すべてのアイデアが作りだされる方法に心を訓練する仕方であり、すべてのアイデアの源泉にある原理を把握する方法なのである。

既存の要素を組み合わせること p27

アイデア作成の基礎となる一般的原理については大切なことが二つあるように思われる。

そのうちの一つには既にパレートの引用のところで触れておいた。
即ち、アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないということである。

これはおそらくアイデア作成に関する最も大切な事実である。
しかしあとで方法について考える時までしばらく私はこの問題に深入りしないことにする。
その時になった方が、この原理の適用を通じて、一層はっきりとこの事実の重要性を理解することができるからである。

関連する第二の大切な原理というのは、既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。
アイデアを作成する際に私たちの心のはたらき方が最も甚だしく異なるのはこの点であると思う。
個々の事実がそれぞれ分離した知識の一片にすぎないという人もいる。
そうかと思うと、一つの事実が一連の知識の鎖の中の一つの環であるという人もある。
この場合一つの事実は他の事実と関連性と類似性をもち、一つの事実というよりはむしろ事実の全シリーズに適用される総合的原理からの一つの引例といった方がよさそうである。

p31

だから事実と事実の間の関連性を探ろうとする心の習性がアイデア作成には最も大切なものとなるのである。
ところで、この心の習性は練磨することが可能であるということは疑いのないところである。
広告マンがこの習性を修練する最も良い方法の一つは社会科学の勉強をやることだと私は言いたい。
例えばヴェブレンの『有閑階級の理論』、リースマンの『孤独な群衆』のような本の方が広告について書かれた大概の書物より良い本だということになるのである。

アイデアは新しい組み合わせである p32

さて前章に述べた二つの原理――アイデアは一つの新しい組み合わせであるという原理と、新しい組み合わせを作りだす才能は事物の関連性をみつけだす才能によって高められるという原理を心にとめて、いよいよこれからアイデアを作る実際的な方法あるいは手順といったものをみていくことにしよう。

先にもいったように私がここで主張したい点は、アイデアの作成に当って私たちの心は例えばフォードの車が製造される方法と全く同じ一定の明確な方法に従うものだということである。

別の言葉でいえば、この目的のために心を使うには一つの技術があるということ、アイデア作成にはつねにこの技術が意識的あるいは無意識的に用いられているということ、またこの技術は意識して修練でき、それによってアイデアを作りだす能力は高められる、ということである。

さて、この心の技術は五つの段階を経過してはたらく。
おそらく諸君は自身でそれぞれこれらの段階を経験されているにちがいない。
だが、大切なことはこれら五つの段階の関連性を認め、この五つの段階を私たちの心は一定の順序で通りぬけるという事実――本当にアイデアを作成したいのなら、この五つのどの段階にもそれに先行する段階が完了するまでは入っていけないという事実――を把握することである。

五つの中の第一の段階は資料を収集することである。

これは至極単純明瞭な真理にすぎないと諸君は驚かれるにちがいない。
にもかかわらず実際にはこの第一段階がどんなに無視されているか、これまた驚くばかりである。

この資料を実際に収集する作業は実はそうなま易しいものではない。
これはひどい雑仕事であって、私たちはいつでもこれをいいかげんでごまかしてしまおうとする。
原料を集めるために使うべき時間をぼんやりと過ごしてしまったり、体系的に原料集めをやる代わりに霊感が訪れてきてくれるのを期待して漫然と坐りこんでいたりする。
こういうやり方は先行する段階をさけて通って、いきなり第四段階に私たちの心をとりかからせようと試みていることになる。

集めてこなければならない資料には二種類ある。
特殊資料と一般的資料とである。

広告で特殊資料というのは、製品と、それを諸君が売りたいと想定する人々についての資料である。
私たちは製品と消費者について身近な知識をもつことの重要性をたえず口にするけれども実際にはめったにこの仕事をやっていない。

p36

製品とその消費者についての身近な知識を手に入れることについてこれまで何度も言い古されてきた話の真意とはこのことである。
私たちは大抵この知識を収得する過程であまりに早く中止してしまう。
表面的な相違がほとんど目立たないような場合、そこには何ら相違点がないとすぐきめてしまう。
しかし、十分深く、あるいは遠くまで掘り下げていけばほとんどあらゆる場合、すべての製品とある種の消費者との間に、アイデアを生むかも知れない関係の特殊性が見つかるものなのだ。

p37

一般的資料を集めるという継続的過程もまたこの特殊資料を集めるのと同じように大切である。

私がこれまでに知り合った真にすぐれた創造的広告マンはみんなきまって二つの顕著な特徴をもっている。
第一は、例えばエジプトの埋葬習慣からモダン・アートに至るまで、彼らが容易に興味を感じることのできないテーマはこの太陽の下には一つも存在しないということ。
人生のすべての面が彼には魅力的なのである。
第二に彼らはあらゆる方面のどんな知識でもむさぼり食う人間であったこと。
広告マンはその点、牛と同じである。
食べなければミルクは出ない。

さて、この一般的資料を収集するのが大切であるというわけは、私が先にいった原理つまりアイデアとは要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないという原理がここへ入りこんでくるからである。
広告のアイデアは、製品と消費者に関する特殊知識と、人生とこの世の種々様々な出来事についての一般的知識との新しい組み合わせから生まれてくるものなのである。

心の消化過程 p43

さて、諸君がこの資料集めという職人的な仕事、つまり第一段階での仕事を実際にやりとげたと仮定して、次に諸君の心が通りぬけねばならない段階は何か。
それは、これらの資料を咀嚼する段階である。
ちょうど諸君が消化しようとする食物をまず咀嚼するように。

この段階は徹頭徹尾諸君の頭脳の中で進行するので、これを具体的な言葉で説明するのは前の段階より一層むずかしい。

諸君がここでやることは集めてきた個々の資料をそれぞれ手にとって心の触角とでもいうべきもので一つ一つ触ってみることである。
一つの事実をとりあげてみる。
それをあっちに向けてみたりこっちに向けてみたり、ちがった光のもとで眺めてみたりしてその意味を探し求める。
また、二つの事実を一緒に並べてみてどうすればこの二つが噛み合うかを調べる。

諸君がいま探しているのは関係であり、ジグソーパズルのようにすべてがきちんと組み合わされてまとまるような組み立てなのである。

ここで一つ奇妙な要素が入りこんでくる。
それは、事実というものは、あまりまともに直視したり、字義通り解釈しない方が一層早くその意味を啓示することがままあるということである。
横目で眺めた時だけその翼が見えるというあの羽根を持ったメッセンジャーのことを覚えておられないだろうか。
それに似たものである。
事実、これは意味を探すというのではなく、意味の声に耳をかたむけるというようなものである。
創造力に富んだ人々がこの段階になると放心状態になることはよく知られている。

諸君がこの段階を通りぬける時、次のような二つのことが起こる。
まずちょっとした、仮の、あるいは部分的なアイデアが諸君を訪れてくる。
それらを紙に記入しておくことである。
どんなにとっぴに、あるいは不完全なものに思えても一切気にとめないで書きとめておきたまえ。
これはこれから生まれてくる本当のアイデアの前兆なのであり、それらを言葉に書きあらわしておくことによってアイデア作成過程が前進する。
ここでもまた三インチ×五インチのカードが 役に立つ。

もう一つは、諸君が段々このパズルを組み合わせるのに疲れて嫌気がさしてくることである。
が、どうかあまり早く嫌気をおこさないようにしてほしい。
心にも息切れから回復した正常気息というものがある。
少なくともこの過程における心的エネルギーの第二の層までは追及して頂きたい。
一つあるいはそれ以上の部分的思考を諸君の小さいカードの中に次々と書きこんでいってほしい。

しかしやがて諸君は絶望状態に立ち至る。
何もかもが諸君の心の中でごっちゃになって、どこからもはっきりした明察は生まれてこない。
ここまでやってきた時、つまりまずパズルを組み合わせる努力を実際にやりとげた時、諸君は第二段階を完了して第三段階に移る準備ができたことになる。

この第三の段階にやってくれば諸君はもはや直接的にはなんの努力もしないことになる。
諸君は問題を全く放棄する。
そしてできるだけ完全にこの問題を心の外にほうり出してしまうことである。

大切なことは、この段階もまた前の二つの段階と同じように決定的な、不可欠の段階であるということを体得することである。
ここですべきことは、問題を無意識の心に移し諸君が眠っている間にそれが勝手にはたらくのにまかせておくということのようである。

この段階において問題を意識の外に移し、無意識の創造過程を刺激するのに役立つことで諸君にできることが一つだけある。

諸君はシャーロック・ホームズがいつも一つの事件の最中に捜査を中止し、ワトソンを音楽会にひっぱりだしたやり方を記憶されているにちがいない。
実際家で融通のきかないワトソンにとってはこれはひどくいらだたしい手順であった。
しかしコナン・ドイルはすぐれた創作家で創造過程というものがどんなものかをよく知っていたのである。

だから、アイデア作成のこの第三段階に達したら、問題を完全に放棄して何でもいいから自分の想像力や感情を刺激するものに諸君の心を移すこと。
音楽を聴いたり、劇場や映画に出かけたり、詩や探偵小説を読んだりすることである。

第一の段階で諸君は食料をあつめた。
第二の段階ではそれを十分咀嚼した。
いまや消化過程がはじまったわけである。
そのままにしておくこと。
ただし胃液の分泌を刺激することである。

つねにそれを考えていること p49

諸君が実際にこれら三つの段階で諸君のすべきことをやりとげたら、第四の段階を経験することはまず確実である。

どこからもアイデアは現われてこない。

それは、諸君がその到来を最も期待していない時ひげを剃っている時とか風呂に入っている時、あるいはもっと多く、朝まだ眼がすっかりさめきっていないうちに諸君を訪れてくる。
それはまた真夜中に諸君の眼をさますかも知れない。

最後の段階 p52

アイデア作成過程を完結するために通りすぎねばならないもう一つの段階、翌朝の冷えびえとした灰色の夜明けとも名づくべき段階である。

この段階において諸君は生まれたばかりの可愛いアイデアをこの現実の世界の中に連れ出さねばならない。
そうすると、この子供が、諸君が当初産み落した時に思っていたようなすばらしい子供ではまるでないということに気づくのがつねである。
ほとんどすべてのアイデアがそうだが、そのアイデアを、それが実際に力を発揮しなければならない場である現実の過酷な条件とかせちがらさといったものに適合させるためには忍耐づよく種々たくさんな手をそれに加える必要がある。

多くの良いアイデアが陽の目を見ずに失われてゆくのはここにおいてである。
発明家と同じように、アイデアマンもこの適用段階を通過するのに必要な忍耐や実際性に欠けている場合が多々ある。
しかしアイデアをこのあくせく忙しい世の中で生かしたいのなら、これは絶対にしなければならないことなのである。

この段階までやってきて自分のアイデアを胸の底にしまいこんでしまうような誤は犯さないようにして頂きたい。
理解ある人々の批判を仰ぐことである。

そうすれば驚くことが起こってくる。
良いアイデアというのはいってみれば自分で成長する性質を持っているということに諸君は気づく。
良いアイデアはそれをみる人々を刺激するので、その人々がこのアイデアに手をかしてくれるのだ。
諸君が自分では見落していたそのアイデアのもつ種々の可能性がこうして明るみに出てくる。

以上がアイデアの作られる全過程ないし方法である。

第一
資料集め諸君の当面の課題のための資料と一般的知識の貯蔵をたえず豊富にすることから生まれる資料と。

第二
諸君の心の中でこれらの資料に手を加えること。

第三
孵化段階。
そこでは諸君は意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる。

第四
アイデアの実際上の誕生。
〈ユーレカ!分かった!みつけた!〉という段階。
そして

第五
現実の有用性に合致させるために最終的にアイデアを具体化し、展開させる段階。

p61

さらにもう一つ私がもう少し詳細に説明すべきだったことは言葉である。
私たちは言葉がそれ自身アイデアであるということを忘れがちである。
言葉は人事不省に陥っているアイデアだといってもいいと思う。
言葉をマスターするとアイデアはよく息を吹きかえしてくるものである。

〈言語意味論〉という言葉を例にとってみよう。
諸君がこの言葉を広告の中で使うという可能性はまずない。
ところがこの言葉を諸君の語彙の中に持っていると諸君は実際的価値の高いシンボルとしての言葉の使用について数々のアイデアを手に入れることになる。
(このセマンティックスという言葉をご存じない方は、ハヤカワ氏著『思考と行動における言語』をお読みになられるとよい。)

このように言葉はアイデアのシンボルなので、言葉を集めることによってアイデアを集めることもできるのである。
辞書を読んでみたがストーリーらしきものなど気づかなかったというような方は辞書が短篇小説集であるという点を見落しているにすぎないのである。

p71

「種の起源」の中でダーウィンが進化の証拠としてあげている他の事実のほとんどすべてについても同様なことが言える。
この場合にもまた、これらの既存の要素を組み合わせて「生物進化論」をうちだすことだけが、天才ダーウィンの出現を待って初めてなされたのである。
これらのすばらしい証拠によっても、「アイデアは既存の要素の新しい組み合わせである」ことは疑うべくもない。

ヤングは「アイデアのつくり方」を五つの段階に分けている。
①データ(資料)集め、②データの咀嚼、③データの組み合わせ、④ユーレカ(発見した!)の瞬間、⑤アイデアのチェックの五段階である。
③のデータの組み合わせは無意識のうちになされることが多い。
このへんのヤングの考えは、先に述べたポアンカレの「科学と方法」の内容をわかりやすい言葉に翻訳したものと言ってよい。
ポアンカレは、③および④を無意識的活動、これに先だつ①および②とこれに続く⑤を意識的活動の時期と呼んだ。

先ずもって重要なのは、インスピレーションが天から降ってくる感じの③および④の時期に前後するこの意識的活動の時期である。
無意識的活動の時期とは違って、この意識的活動の時期は凡人であるわれわれにもコントロール可能な時期だからである。
資料を集めて咀嚼する①および②の期間中の意識的活動については、データをできるだけ独立ないくつかの断片に分け、それらをそれぞれ一枚のカードに記入することをヤングはすすめている。
これもまた「アイデアのつくり方」の重要なポイントの一つである。
このようなカードを作っておけば、それを上下・左右に配列することによって、アイデアの組み合わせのシミュレーションができるからである。

ヤングも言っているように、アイデアを生む組み合わせの要素となるデータの数は多いほどよい。
また「このデータとこのアイデアとは無関係である」といった奇妙な先入観にこだわり、せっかくのデータを退けてはならない。
退けたデータの中に、後に豊かなアイデアの要素となりえるものがあるかも知れないからである。
「アイデアのつくり方」の中にブレーンストーミング(頭脳の嵐)と呼ばれる熱狂的なミーティングがある。
この種のミーティングでも、この段階でデータを退けることが厳禁される。

②のデータの咀嚼では、お互いに関係のありそうなデータを一箇所に集め、これらのデータを一箇所に集めた理由を記した一枚のカードを作る。
たとえばソビエトの化学者ドミトリ・メンデレーフ(一八三四―一九〇七)は、そのころ知られていた約六五個の元素について知られている情報を、どんな小さいものをも見逃さないで集めた。
彼はそれぞれの元素に一枚の長方形のカードをあて、それぞれの元素の原子量・性質・化合物などを記した。
このようにして作ったカードを研究室の壁にピンでとめた。
そしてこれらのカードをあれこれと並びかえて、考えを練るための助けとした。
試みにそれらを原子量の順に並べると、七つ目の元素ごとにその性質が似ていることがわかり、ここから周期律表の考えが生まれた。
これはこの段階でのデータ整理のすばらしい見本例である。

このような咀嚼の操作をデータのグルーピングあるいは組み合わせと呼んでもよいだろう。
小さいグルーピングから中くらいのグルーピングに進み、さらには大きいグルーピングをする。
やがてもうこれ以上のグルーピングができない状態がくる。
後はただインスピレーションが天から降ってくるのを待つだけである。

ここまでくると、読者は気づかれるはずである。
③のデータの組み合わせを、ヤングは無意識的活動の時期にしているのに対して、ここではそれを意識的活動の時期に含めている。
今まではインスピレーションを得るのは、天才だけに許されることとされた。
それをここでは凡人にもおよびえることとしたと言ってよい。
「アイデアのつくり方」におけるこの大きい飛躍の可能性を最初に指摘したのは、わが国の川喜田二郎であり、彼のこの考えは今では古典的な著作とよんでよいものになった「発想法」および「続発想法」(中公新書、一九六七および七〇)にまとめられている。

先に述べた「方法序説」の中で、デカルトは知的な仕事をする場合に守るべき規則として、「明証」、「分析」、「総合」、「枚挙」の四つを数えあげている。
第一の「明証」は注意して即断と偏見をさけることである。
彼によれば、第二の「分析」、第三の「総合」、第四の「枚挙」はそれぞれ次のようなものである。
「第二に、自分の研究しようとする問題を、できる限り多くのしかもその問題を最もよく解決するのに必要なだけの数の小さい部分に分ける」。
「第三に、自分の思想をある順序にしたがって導くのがよい。
最も単純でもっとも容易なものから始めて、次々と階段をのぼるようにして、複雑なものの認識へとすすむがよい。
それ自体としてはお互いに何の順序もないものでも、ある考えにもとづいて順序正しく配列するがよい」。
「最後に、何の見落しもなかったと確信できるくらいに完全な枚挙と、全体にわたる再吟味をしなければならない」。
デカルトの第二、第三および第四の規則がそれぞれヤングの①、②・③および⑤の段階に対応することは明らかであろう。

「アイデアのつくり方」における⑤アイデアのチェックもまた重要である。
自然科学においては、それは観察によってアイデアをチェックする実証の段階である。
「これは」と考えたアイデアが、実証を得ないままに空しく消えていくのはこの段階においてである。
現実の過酷な条件やせちがらさに適合できず、ほとんどすべてのアイデアがこの段階で消え去っていく悲しさを、この本の中でヤングはしみじみと語っている。
しかしくじけてはいけない。
トマス・アルバ・エジソン(一八四七―一九三一)も言っているように、「天才は九九パーセントの汗(パースピレーション)と一パーセントのインスピレーションからなる」のだから。
すなわち豊かな実を結ぶアイデアは一〇〇に一つもないのである。

先に述べた「科学と方法」の中でポアンカレは豊かなアイデアにたどり着くのに必要なのは美的直観であると述べている。
その美的直観をさらに分析して、ポアンカレは「これまでは無関係と思われていたものの間に関係があることを発見することが美的直観である」と言っている。
これはパレートやヤングの「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせである」という考えをさらに具体化したものと言ってよい。

豊かなアイデアを得るには天才の美的直観が必要である。
これをもたない凡人が天才にせまる方法の一つが、KJ法に代表されるカードを使うデータの組み合わせである。
こういう場合に役立つもう一つの法則があり、「パレートの法則」と呼ばれる。
このパレートは先に出てきたイタリアの社会学者・経済学者のパレートである。
この法則はまた「二〇パーセント・八〇パーセント法則」とも呼ばれる。

その実例はさまざまである。
たとえばある問題に関係して読まなければならない本が一〇〇冊あったとして、その上位二〇パーセントにあたる本を読めば、その問題全体の八〇パーセントを理解したことになる。
ある機械の故障の原因が一〇あったとして、その上位二〇パーセントにあたる二つの原因をとり除けば、全体の八〇パーセントにあたる故障が起こらなくなる。
ある会社のセールスマンの中で成績のよい上位二〇パーセントが、会社全体のセールスの八〇パーセントを行なっている。
ミーティングでは出席者の二〇パーセントにあたる人が、全体の八〇パーセントを占める発言をするといったぐあいである。

この二〇パーセント・八〇パーセントといった数は問題ごとに違っているだろう。
しかしこの「パレートの法則」のポイントは「大事なことを先にやれ」ということである。
上位二〇パーセントにあたることを適確につかめれば、「パレートの法則」によって仕事の能率が今までの四倍にもなる。
こうなると問題は「何が大事なことか」を見抜くことである。

話が少し横へそれるけれども、昔から中庸が美徳とされ、紀元前五世紀前後の聖人である釈尊も孔子もそれを力説された。
中庸を中年のずるい処世術と考えていた若いころの私には、そこのところがいまひとつ理解できなかった。
中庸が美徳であることをはっきりと私に教えてくれたのは、くりかえし述べたデカルトの「方法序説」である。

デカルトによれば、人々はそれぞれの人生の大目標をもっており、その実現に全力をそそいでいる。
しかしその一方で、人々は日常的な生活を生きなければならない。
この場合に、その日常的なことがらの一つ一つについて熟考するのは面倒なことであり、頭脳と時間の浪費でもある。
こういう場合には、最も常識的で最も穏健な意見にしたがうのがよい。
どうでもよいことについては中庸の道を選ぶことによって、われわれは自分自身の人生の大目標に全力を集中しえる。
このように考えると、中庸はいい加減な人生を生きる中年の処世術といったものではなくて、積極的な徳目である。