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「99%の人が気づいていないお金の正体」を読んだ

99%の人が気づいていないお金の正体」を2025年07月15日に読んだ。

目次

メモ

どうして「お金」が必要になったのか? p15

僕たちの遠い祖先が狩猟採集によって暮らしていた時代には、お金なんて必要なかった。
コミュニティ内で自給自足の生活が完結していたのだ。
村落丸ごと、現代人が考える「家族」という感覚に近かったと思う。
親密なコミュニティでは、価値の交換なんていう面倒なことをしなくても、助け合いによってみんなが生きのびることができる。

しかし、コミュニティ同士がつながろうとするときにはお金が必要になる。
よその共同体の人の顔は見えない。
つまり他人に対して信用がないから、信用のしるしをいったんお金に置き換える必要が出てくるのだ。

世界最古の貨幣は、紀元前7世紀にリディア王国(現在のトルコ)で生まれたそうだ。
諸説あるのだが、日本で一番古い貨幣は、7世紀後半の飛鳥時代につくられた「富本銭」だといわれている。
8世紀に入ると、教科書でもおなじみの「和同開珎」が登場しているが、どちらも全国的に流通することはなかった。
理由は単純で、そんなお金にはちっとも信用が置けなかったからだ。

お金の歴史は意外に長いのだが、人々が手放しでお金を信用するようになったのは、ごく最近のことだ。
それまではごく当たり前に、経済の営みは物々交換メインで行なわれていた。

「物品貨幣」という裏ワザの登場 p16

コミュニティの規模が大きくなり、インフラが整備されると、人やモノはダイナミックに移動を始める。
交換したいモノやサービスのジャンルが増えてくると、「顔が見えない人」との取引のニーズは高まるが、物々交換のマッチングは難しくなる。

たとえば、釣ったイワナをタケノコと交換したい、という人がいたとする。
しかし、タケノコを持て余していて、なおかつイワナを欲しがっている人を見つけるのはかなりハードだ。

そこで頭のいい人たちが登場し、「物品貨幣」という裏ワザを生み出した。
売りに出したいものをいったん米や塩、織物や宝飾品など、腐ったり劣化したりしにくく、値打ちのあるものと交換しておいて、手元に保管する。
欲しいモノやサービスが出てきたときには、これらの物品貨幣を売りに出せばいい。

また、何度も同じ相手と取引していると、「こいつは信用できる奴だ」という信頼感が生まれることもある。
「お前のことは信用しているから、あと払いでも構わないぜ。借用書だけ一筆書いといてくれや」なんていうディールが成り立てば、その場でリアルな品物を交換しなくても、約束で取引が成立するのだ。
実は、現代社会でいう「信用取引」「レバレッジ取引」の原点がここにある。

仮想通貨のビットコインを「胡散くさい」「詐欺の匂いがする」などと色眼鏡で見る人に、僕は質問したい。
「ところで君たちは、1万円札に永遠の価値があると本気で信じているのか?」と。
国家が力を失って信用をなくせば、紙幣なんて一晩で紙切れと化す。
株式投資の世界だって同じだ。
JALが破綻したときには株券が紙切れ同然になったではないか。

一方で、信用さえシェアされていれば、仮想通貨だって1万円札や500円玉と同等の価値をもつ。
Tポイントや航空会社のマイルだってそうだ。
ユーザーの間で、「お金と同じ価値がある」という信用がシェアされているから、Tポイントもマイルも、円に劣らぬ価値をもって買い物に使うことができるのだ。

「売りたい人」と「買いたい人」が、上下関係のない対等な関係をもって水平につながる。
モノやサービスを交換しながら、お互いがともに発展していく。
売り手と買い手を「ピア・トゥ・ピア」(peer to peer)、つまり対等な個人として直接マッチングするビットコインやメルカリ、クラウドファンディングは、21世紀版の「かたちを変えた物々交換」といえるだろう。

コミュニティにおける信用さえあれば、国家が価値を保障するお金ばかりにとらわれる必要はない。
社会の変化に応じてかたちを変え進化していった仮想通貨やポイントを使い、自由に取引していけばいい。

お金とは時代に応じて、まるで生き物のように進化していくものなのだ。

なぜ、中国の銅貨が江戸時代まで日本で流通していたのか p20

物々交換の取引をするとき、何俵もの米をいちいち運ぶのは面倒だ。
米1俵は4斗(15キログラム×4)だから、10俵を運ぶともなれば600キログラムもの荷物を取引場所まで運ばなければならない。
そこでお金が誕生した。
持ち運びがラクチン、そして誰もが簡単には入手できない珍しい貝殻や貴金属が「商品」の代わり、つまりお金として利用されるようになったのだ。

やがて、オフィシャルなお金(=貨幣)をつくろうとするリーダーたちも現れる。
前項でも触れたが、7世紀終わりごろには「富本銭」という銅貨がつくられ、708年には同じく銅貨の「和同開珎」が登場。
だがこれらは民衆に受け入れられなかった。

米ドルなみに支持されていた、中国の「永楽通宝」 p21

どうして富本銭や和同開珎は、「銭」や「円」のように流通しなかったのだろう?
それは、お金を製造したリーダーたちの影響力が小さすぎたからだ。

15世紀初めには、中国の明で「永楽通宝」という銅貨が鋳造された。
このコインは日本に輸入され、なんと江戸時代初期まで広く日本で使われている。
永楽通宝が日本で流通した理由は単純明快。
当時の中国王朝「明」の国力が圧倒的だったからだ。
強国の明で実際に使われているお金のほうが断然、信用度が高かったというわけである。

同じことは現代にも当てはまる。
ずいぶん前に、モンゴルへ出かけたことがある。
興味深いことに、当時、現地では誰もモンゴル政府の公式通貨(トゥグルグ)なんて使っておらず、みんな米ドルを使っていた。
僕も米ドルで支払いを済ませたら地元の人にとても喜ばれたことを覚えている。

また、2007〜09年にかけて、ジンバブエではすさまじいハイパーインフレが猛威を振るった。
インフレは前月比800億パーセントまで悪化した。
北朝鮮でも、金日成の肖像画などが印刷されたウォン札にたいした価値はなく、闇市で絶大な信頼を得ているのは米ドルであり日本円だという。

人々の間で「信用」が共有されていないお金は流通しない。
ジンバブエドルなんてまったく価値がないし、もっていても邪魔になるだけだから、たき火の燃料として使われていたくらいだ。
政府に対する信用が少ないときには、オフィシャルな通貨以外のものがお金の代用品として使われるのは、ごく当たり前のことなのだ。

「米=お金」だった江戸時代 p23

日本のリーダーが広く使われる貨幣(寛永通宝)を初めて純国産化したのは、徳川家光の時代の1636年。
このころになっても人々の貨幣に対する信用度はまだ低く、江戸時代に厳然たる力をもっていたのは、貨幣ではなく米だった。
その証拠として、税金は米で徴収されており(年貢)、武士(役人)の給料は米で支払われていた。
物品貨幣として、米がお金の代わりを務めていたわけだ。

経済力(一種のGDP)も、お金ではなく米の生産高で示した。
北陸地方の加賀藩(加賀・能登・越中)は「加賀百万石」として知られる。
「1石」とは、だいたい「1人の大人が1年間に消費する米の量」だ。
つまり「加賀百万石」とは、加賀藩が人口約100万人を飢え死にさせることのない豊かな経済力をもつ自治体だったことを意味する。

1730年には、大坂・堂島に「米会所」が設立された。
ここでは蔵屋敷が発行した「米切手」(米札)という証券が売買されている。
リアルな米がない状態でも、信用に基づいて取引がなされることもあった。
世界初の先物取引のはしりだ。
大金融市場「シカゴ・マーカンタイル取引所」の前身がオープンしたのは1898年のことだから、大坂はシカゴより100年以上も早く先物取引を始めていたことになる。

江戸時代には、ズッシリ重たい大判小判や銀貨を預かって「預り証」を発行する両替というビジネスも生まれた。
預り証とは、信用に基づく「仮想紙幣」のようなものだ。
「この紙切れはいつでも金貨や銀貨に交換できるんだ」という信用に裏打ちされ、両替商は人々のくらしに定着した。

その後、明治政府が発足すると、1871年に「円」が誕生する。
そして1932年からは、「円」は本物の金と交換できなくなった。
20世紀前半になってようやく、民衆は貨幣というバーチャルな存在を受け入れるようになったのだ。

その日本が戦争で負けると、円の信用は失墜する。
食糧難に苦しむ都市部の人々は、はるばる農村部へ出向いて野菜や米を買い求めたが、日本政府発行のお金なんて、農家の人には見向きもされなかった。

1万円札はしょせん、ただの紙切れだ。
ひとたび金融危機やハイパーインフレの嵐に巻きこまれれば、その価値は暴落する。

通貨の歴史を振り返り、その本質を知れば、電子マネーや仮想通貨を毛嫌いするのはおかしいことだと気づくだろう。
信用さえ担保されていれば、ビットコインだって1万円札と同じ、いやそれ以上の価値をもつ可能性もあるのだ。

信用さえあれば全財産を失ってもノーダメージ p26

まるで学校のお勉強のようではあるが、一般的にお金が「果たしている」とされる、3つの役割についてまとめよう。

①価値の交換ができる
「お金でモノを買う」という行為は、すごくシンプルにいえば「お金とモノの交換」だ。
実質的には物々交換と変わらない。
日本の多くのサラリーマンは労働の対価をいったん「円」で受け取り、その円で買い物、つまり「〇〇円」という値札のついた商品と交換しているのだ。

②価値の保存ができる
最高級A5ランクの和牛や最上級品とされる丹波のマツタケにいくらズバ抜けた価値があるといっても、何年、何十年もの間、そのおいしさをキープしながら保存しておくことは難しいだろう。
高級食材を売って、いったんお金に交換しておけば、いつまでも価値の保存ができるわけだ。

③モノやサービスの価値の尺度になる
モノやサービスに値段をつけることによって(その価格が適正かどうかはさておき)、価値を数値化できる。
お金という共通のモノサシがあるおかげで、みんながわかりやすく客観的に、モノやサービスの価値を計れるようになる。

①~③はいずれも、世の中の大多数の人が「お金=価値があるもの」と認めていることを大前提として成り立っていることだ。
つまりお金の本質は「信用」にある。
すでに説明したように、この信用さえあれば価値を交換するときに利用する「しるし」は、コインやお札でなくとも一向に構わない。

「通貨には価値がある」という共同幻想 p36

仮想通貨は、リアルな物体としてのかたちをもたない。
しかも非中央集権的で無国籍(ボーダーレス)だから、世界中の誰もが使うことができる。
ここが面白いところだ。
人類史において、通貨発行権は国家が握る最大の権力の一つであり続けたが、この一大権力は、ビットコインの登場によって今後は必要なくなるかもしれない。

「国家が発行した通貨は信用できる」といった思い込みは、もはや共同幻想だ。
みんなが信用しているうちはこれらの通貨も安全かもしれないが、民衆からそっぽを向かれた瞬間、その価値はガタ落ちする。
今は安定しているように見える円やドルだって、その信用が永遠に保たれる保証なんてない。

だからこそ「1万円札は怖くないけど、ビットコインは怖い」と考える人は、あまりに短絡的だ。
たとえ日本経済が破綻して円の価値が大暴落しても、ビットコインの信用度は1ミリたりとも揺らぐことはないかもしれない。

お金のかたちがどんどん進化している現実を、思考を柔軟にして受け止めるべきなのだ。

ゼロレバレッジで世界経済がここまで発展したわけがない p52

「レバレッジ」という言葉を聞いた瞬間、「投機に夢中になっている人たちやデイトレーダーがよく口にする言葉だ」と敬遠する読者も多いだろう。
「自分とは縁のない世界の話だ」と嫌がらずに、まずは次のエピソードを読んでみてほしい。

大岡越前守というと、引っ捕らえた「罪人」をお白州(裁判所)に引っ張ってきて「大岡裁き」を下す時代劇で有名だ。
江戸の行政・司法官として知られる彼は、実は幕府の経済顧問としても非常に先進的な手腕を振るっていた。

借金トラブル急増に焦った大岡越前守 p53

当時の武家社会は金本位制ではなく米本位制が主流だった。
公務員的な立場にあった武士の給料は、米で現物支給されていた。
需要と供給のバランスのもと、自然災害で田んぼが潰されたり冷夏で不作になったりすると、その年は米の値段が上がる。
反対に豊作だった年は、米の値段が下がって食うのに困る。
米の価値は、年ごとに変動していたわけだ。

だから、米が豊作の年には多くの武士が生活に困窮し、金貸しのところへ出かけていってお金を借りた。
しかし、金貸しが借金の取り立てに行こうと思っても、武士のなかには気が短い奴も多く、しかも腰には刀を差しているものだから怖くて仕方ない。
そこで金貸しは別の武士に「お前の借金を帳消しにしてやるから、あいつの借金を取り立ててこい」と交渉して集金係を委託した。

すると、斬り合いに発展するケースなども多発。
「御用」になった武士がお白州に連れてこられる。
借金のトラブルをめぐる裁判が急増したことに「ヤバい」と危機感をもった大岡越前守は、米価を安定させることが急務だと考え、そのために公設の米取引相場をつくった。
これが大坂の堂島につくられた、世界初の公設先物取引市場だ。

さらに驚くべきことに、大岡越前守は米相場で「日計り取引」を推奨していた。
これはまさに、現代でいうところのデイトレードだ。
「売り」と「買い」がその日ごとに行なわれるというのは、市場の流動性がアップするということだ。
結果として経済は活性化する。
その点についても、大岡越前守はよく理解していた。

当時、政治の中心は幕府の置かれた江戸にあったが、商売の中心地は大坂だった。
堂島「日計り取引」で決まった金額を誰よりも早く伝達した人間は、主要都市のマーケットを支配して大儲けできる。
金儲けをしたい一心で、堂島の米相場に毎日ベッタリ張りついている商売人はウヨウヨいた。

ここからは余談だが、いち早く大坂から各地に情報を伝達するために、商売人は狼煙や手旗信号を使った。
江戸版のアナログな「光通信」だ。
手旗信号を次々と順番に伝えていくスポットは、今でも全国各地に「旗振山」として残されている。

飛脚を使って陸路で情報を伝達していた幕府は、規制をかけて手旗信号を禁止する。
すたかると商売人は伝書鳩を飛ばし始める。
幕府は鷹やハヤブサを使って伝書鳩を皆殺しにする。
まるで、仮想通貨をめぐって規制に乗り出そうとする国と、抜け道を模索する業者の間で繰り広げられるイタチごっこのようである。

レバレッジをきかせた先物取引は、昨日今日出てきた胡散くさい経済ゲームではない。
その淵源は、江戸の殿様の時代にはすでに存在していたのだ。

日本人は投資リテラシーが低すぎる p55

レバレッジ(leverage)とは「てこの原理」という意味の英語だ。
自己資金だけを原資にしていては、挑戦できることに限りがある。
クラファンを利用したり、友達や知人からお金を借り入れて投資に積み増せば、てこの原理を利用するかのように、自分のもっている力の数倍以上のパワーを発揮して勝負に打って出ることもできる。

先物取引やFX(外国為替証拠金取引)、仮想通貨の取引では、レバレッジをきかせることによって利益の幅を大きく増す。
その代わり、ハイリスク・ハイリターンだから大損することもある。

高齢者を中心に、日本では投資リテラシーのない人が多すぎる。
「投資はギャンブル性が高すぎる。老後のためにコツコツ貯金するのが一番だ」と言って、ゼロレバレッジのつまらない生き方を強いるのだ。
こういう人に限って自分の主張を道徳的だと思っているのだが、経済の発展を妨げる害悪でしかない。
そもそも、ゼロレバレッジだったら世界経済はここまで発展しえなかった。

100万~500万円のお金が手元にあるのなら、誰かに投資するのではなく自分に投資し、起業してみるのもいい。
僕は面白いビジネスを妄想している、がっついた若手起業家に自己資金をぶっこむ。
有能そうな子に「張る」のである。
ベンチャー企業への投資がもっと活性化すれば、若い世代が起業する機会は飛躍的に増えるだろう。
そこにはイノベーションと雇用が生まれ、若者が夢を抱ける社会に変わる。
若者が元気な社会には、決まって未来がある。

「レバレッジ」と聞いた瞬間、「リスクが怖い!」とアレルギー反応を起こすのではなく、江戸時代の先人の知恵に学び、新たな一歩を踏み出してみたらいい。

保険料を支払う君たちは思いっきりボッタクられている p58

マルチ商法や情報商材にポジティブなイメージをもつ人は非常に少ない。
今時ネズミ講にハマっていたり、勧誘系ビジネスに夢中になって知り合いに電話をかけまくっている人がいようものなら、「あーあ、騙されちゃった残念な人だ」と誰しも心の中で思うだろう。
それなのにどういうわけか、生命保険に加入したり何十年もの住宅ローンを組んだりすることについては、誰も気に留めない。

保険はギャンブル以外の何ものでもない p59

僕に言わせてみれば、生命保険も住宅ローンも「情弱(情報弱者)向けビジネス」以外の何ものでもない。
数カ月後に確実に死ぬというのなら、高額の保険料を毎月支払って生命保険に入る意味はあるだろう。
ハンドル操作を誤ったフリをして、ガードレールを突き抜けて崖下に車ごと落っこちる。
これだけのことで数千万円ものお金が手に入るのならば、リターンはムチャクチャ大きい、と考える人もいるかもしれない(ただしそのお金を受け取るのは君自身ではないが)。

人生の幸不幸なんて誰にも予測できない。
大きな病気や事故はいっさい経験せず、「ピンピンコロリ」で誰にも迷惑をかけず死んでいく老人もいる。
かたや何一つ悪いことはしていないのに、凶悪犯罪に巻きこまれることだってある。
予想もつかない未来にお金を投じるという意味で、生命保険とギャンブルはよく似ている。

保険のルーツは、17世紀終わりのロンドンにさかのぼる。
エドワード・ロイドという男が経営するカフェに、船乗りや荷主が出入りしていた。
当時イギリスは、遠いアジアへ向けて香辛料貿易を手がけていた。
途中で嵐に巻きこまれて沈没すれば、船に積みこんだ荷物は水の泡となる。
はたして船が無事に帰ってくるかどうか、カフェの客たちが賭け事を始めた。
こうして世界最大の保険業者ロイズ(Lloyd's)は、300年以上にわたって発展してきた。

つまり、生命保険の本質とは他人の不幸に賭けるギャンブルなのだ。
当たるか当たらないか予測がつかないものに、毎月お金(保険料)を支払うのはバカバカしい。

2018年9月の台風21号は、関西国際空港が水没して使用不能になるなど、甚大な被害をもたらした。
この台風により、損害保険会社からは史上最大の1兆678億円の保険料が支払われている。
19年10月の台風19号は被害が広範囲に及び、損害保険会社が支払う保険料は4000億円を超えた。

これだけの金額を契約者にリターンしても、保険会社が潰れることなどなく、経営難に陥ったというニュースさえ出てこない。
損害保険にしても生命保険にしても、地殻変動が起きて日本が沈没でもしない限り、経営破綻することなどない「超」手堅い商売なのだ。
保険料を支払っている君たちは、実は思いきりボッタクられているのである。

「宝くじは愚者の税金」 p61

保険会社がこの「不都合な真実」をひた隠しにしているように、日本にはほかにも巧妙に設計された情報弱者向けビジネスがある。
宝くじなどのギャンブルだ。

日本の刑法では賭博行為が禁じられているものの、競馬は「競馬法」、ボートレースは「モーターボート競走法」、宝くじについては「当せん金付証票法」という特別立法によって例外的に認められている。
これらはどう見てもギャンブルだし、ボートレース場や競馬場に来ている客は完全に鉄火場(賭場)に来ている感覚なのに、お目こぼしにあずかっているのだ。

パチンコ・パチスロの控除率(寺銭。胴元の取り分のこと)は15~20%といわれている。
公営ギャンブルの控除率は半端ではなく、競輪・競艇は25%、競馬は20~30%、toto(サッカーくじ)は50%、宝くじに至っては控除率が50%以上だという。

もちろん、純粋な「遊び」としてギャンブルを楽しんでいる人たちのことを悪く言うつもりはまったくない。
が、アメリカのカジノは控除率5%ほどである。
国際社会の基準から見て、日本の公営ギャンブルは異常なまでに歩留まりが悪い。
なにしろ300円の宝くじのうち、胴元が150円以上を手数料としてボッタクったうえで、残りのお金を当選金として客に分配しているのだ。
こんなボロいビジネスが失敗するはずはない。
「宝くじは愚者の税金」なんていう言葉まであるくらいだ。

生命保険や宝くじにお金を払っている人は、算数の基本に立ち返ってビジネスのカラクリを冷静に読み解いたほうがいい。

住宅ローンにしても同様だ。
「借家に住んで月々家賃を支払うよりも、持ち家を買ったほうが得だ」という不動産屋やら分譲会社やらの触れ込みを真に受けて、数十年ものローンを組んだりすることも恐ろしい。
そもそも日本は地震大国だし、ご近所トラブルや転職で別の土地に引っ越す必要だって出てくるかもしれない。

生命保険や住宅ローン、宝くじといった歩留まりが悪い金融商品に手を出す。
これではいつまで経ってもお金を稼ぐことなんてできやしない。
いわゆる「情弱」はあとからいくらでも挽回することができる。

重要なのは世間的な「常識」に振り回されないこと、自分でいちいち事実について調べる癖をつけることである。

p68

そもそも格差というと、是正しなければいけない悪いもののように聞こえるが、はたして本当にそうだろうか。
自分と他人を比べてみること、そこに差異があると認識すること自体はけっして悪いことではない。
他人との比較は自分が変わるきっかけになる。
一歩前へ足を踏み出すためのモチベーションではないかと、僕は思うのだ。

僕は二度と社長にならないし、会社を上場させようなどとも思わない p82

株式会社のルーツは、1602年にオランダが設立した東インド会社だ。
政府主導のもと、ジャワ島を中心にインドや東南アジアで香辛料の貿易を営んだ。
船が嵐や時化で沈めば、積み荷はオジャンになって甚大な損害が出る。
どうあがいても難破船は一定の確率で必ず出てしまうので、そのリスクヘッジをするために船主たちはめいめい資金を出し合ってそのお金を「ストック(stock)」した。

お金を集め、ビジネスにレバレッジをきかせる p83

船が無事積み荷を届けて本国に帰ってくれば、大きな利益が出る。
お金が儲かったときは、手持ち金を出してくれたみんなに配当金を支払う。
これが株主配当のルーツだ。

実はこれまでにも株式会社はあったのだが、「無限責任」が当たり前だった。
つまり、事業がコケたときに負債が残れば、経営者だけでなく株主たちも借金を背負わされたのだ。
東インド会社がイノベーティブだったのは、これを「有限責任」とした点にある。
どんな損害が出たとしても、株主は出資した金額をまるまる失うだけ。
それ以上のリスクはなかった。

無限責任の株式では、誰もが簡単に株を売ったり買ったりすることはできなかった。
「コイツは借金を踏み倒さないだろうか?」と支払い能力についてじっくり審査されたらしい。

しかし、有限責任になったことで、庶民も気軽に株を買えるようになりオープンな市場が生まれた。
一人ひとりが出す金額は小さくても、たくさんの人が参加してくれれば大金が集まり、大きなビジネスにもチャレンジできる。
株式会社というシステムを使って、ビジネスにレバレッジ(てこの原理)をきかせるのだ。

株でゲットできる利益には2種類ある。

一つめは先ほど説明したばかりの、株主配当による利益だ。
1000万円投資した会社が10年連続で黒字経営になり、毎年100万円の株主配当があったとしよう。
そうすれば10年で元金を回収でき、以後の配当は純益として懐に入る。

ところ二つめはキャピタル・ゲインだ。
1000万円で買った株を、2000万円まで値が上がったところで売却すれば、差額の1000万円はまるまる利益になる。

1人でも多くの投資家から資金を集めるため、証券取引所へ株式を上場することもできる。
上場とは何かというと、アメリカでいえばニューヨーク証券取引所やNASDAQ、日本でいえば東京証券取引所(東証)で投資家が株を買えるようにするのだ。
東証の中には、ベンチャー企業向けのマザーズやJASDAQといった市場もある。

「東証一部上場=日本経済をリードする一流企業への仲間入り」と思うかもしれないが、上場そのものはゴールではない。
あくまでも企業が成長するための手段(道具)だ。
上場によって会社の知名度が上がれば、取引先や金融機関からの信用度もアップする。
これを足がかりにして、証券取引所からさらにたくさんの資金を集めることも可能だろう。

株式上場によって資金調達のレバレッジをきかせることができるのだ。

生涯現役で死ぬまで働ければハッピーだ p99

そもそも10年後、20年後に、今と同じだけの年金(厚生年金だと夫婦合わせて月額平均27万円)が必要なのだろうか。

そのころまでには、生身の人間が嫌々やっている単純労働はAI(人工知能)とロボットが代行してくれるようになるだろう。
生活の質はそのままに、現代よりお金をかけずに暮らすことのできる未来が訪れるのだ。

今時、65歳、70歳、などという定年制度できっちり人生を区切るなんて、愚の骨頂だ。
今までバリバリ仕事をしてきた人が、なぜ65歳を境にいっせいにリタイアしなければならないのか。
図書館や喫茶店の片隅で、つまらなそうに新聞を広げているリタイア世代を見かけることがあるが、なんだかとても寂しい気持ちになる。

僕は、誰もが「一生涯、働き続ける」世の中になるべきだと考えている。
これに対して反射的に「嫌だなぁ」と感じた人がいたら、今日から生き方を変えたほうがいい。
君は今、1ミリも面白いと思えないような仕事を嫌々続けているに違いないからだ。

政治家や実業家なんて、70歳だろうが80歳だろうが第一線で働きまくっている。
いや、生涯現役だからこそ、いつまでもピンピンしているのである。

p176

ネットという技術革新によって、顔の見えない者同士が直接つながる「ピア・トゥ・ピア」が実現した。
クラファンで1000万円単位の資金が集まるとなると、上場企業や投資ファンドの存在意義は遅かれ早かれ消えてなくなる。

ネットの本質の一つには「中抜きを省く」というものがある。
なるほど、ネットが個人と個人をダイレクトに結びつけてくれたおかげで、お金も手間も省けるようになった。

そして、この風景にはどこか既視感がある。
そう、僕たちは「物々交換」という商取引の原点に再び立ち返っているのだ。

コミュカを駆使してリピーターをゲット p185

ネットがなかった時代、寿司職人になりたければ寿司屋の大将に弟子入りするしかなでっちかった。
何年も丁稚としてこき使われ、卵焼きのつくり方一つ教えてもらえなかった。
ネタやシャリに触らせてもらえるようになるまでには、さらに数年かかる。
今ではクックパッドに万単位のレシピが載っているし、モンゴル料理だろうがギリシャ料理だろうが、材料の詳細や動画はあふれている。

つまり丁稚として3年も4年も下働きしなくても、いきなりプロの料理人の領域にアクセスできるようになった。
となると、現代の飲食店はたんに料理人の腕がいいだけではほかの店と差別化できない。
店の看板に等しいウェブサイトやSNSを利用してPR効果を高めること、リアル店舗においては客との親密なコミュニケーションをとれることがマストになってくる。

2005年に出版されて累計100万部超のベストセラーになった『人は見た目が9割』(竹内一郎著)という本を読むと、服装や髪型に気を配ること、そして何よりも内面からジワッとにじみ出るコミュ力がものすごく重要だとわかる。

営業マンのセールストークは、顔を合わせてから30秒で決まる。
30秒以内に話の核心を簡潔に説明できなければ、そこで勝負ありだ。
もっと言うと、コミュニケーションは出合い頭の第一印象で決まる。
会った瞬間「こいつ、なかなかいいヤツそうだな」「面白そうだな」と思ってもらえれば、その瞬間から相手は胸襟を開いてくれる。

対人コミュニケーションの能力と人間性、そして火花がスパークするような情熱こそが、ネット時代には強力な武器となるのだ。

自分の判断でわからないことは信頼できるプロの知恵を借りていい p190

キュレーション(curation)という言葉は、もともと美術館や博物館の展示内容をチョイスする目利きに使われていた。
キュレーターと呼ばれる専門職が膨大な史料、骨董やアート作品の中から取捨選択をし、客を喜ばせる展示会の企画を考えるのだ。

ネット時代の幕開けとともに、世の中には情報があふれるようになった。
その情報量たるや、ネット以前の何万倍、何十万倍という規模だと思う。
ユーザーは時として途方に暮れ、情報の洪水の中で溺れてしまう。

そこでネット社会でも「キュレーションによる目利き」が注目を集めているのだ。

p194

いまや新聞よりも、SNSのほうがよほどキュレーターとしての役割を果たしている。
たとえば僕は、インスタグラムでおすすめの商品をよく紹介している。
まだ実験段階ではあるのだが、インスタグラムは「チェックアウト」というショッピング機能を導入した。
紹介した商品をクリックすると、決済までインスタグラム上で完結できるシステムだ。
これを使えば、僕のアカウントを「ホリエモン商店」として活用し、アフィリエイト収入を得ることもできる。
ユーザーにとっては、信頼できるキュレーターの目利きがありがたい。
「これってステルス・マーケティングかな」「これってもしかしたらフェイクニュースかも」と不安になったとき、信頼できるキュレーターのSNSをのぞいてみる。
自分の判断ではわからないことは「オレにはわからない」と認める勇気をもち、恥ずかしがらずに他人の知恵を借りていい。

新聞やテレビといったオールドメディアがキュレーターの役割をほとんど果たしていない今、SNS上で発信を続けるキュレーターが、君のメンターになってくれるはずだ。

とんでもない額の「消費者余剰」が隠れている p209

経済学の世界では「消費者余剰」という考え方がある。
消費者が「マツタケ1本にギリギリ4000円までなら払ってもいい」と見積もったとしよう。
マツタケを3000円で買えたら、「差し引き1000円分、得をした」という顧客満足度が消費者余剰として残る。
この数字は消費者の心の中に隠れているものなので、GDPにはカウントされない。

だが野村総合研究所によると、この数字をきちんとカウントすれば、GDPは0.7%という微々たる成長ではなく3.8%増にのぼるというのだ(2016年)。
スマホのメッセンジャーアプリ、LINEのユーザーの消費者余剰だけで年間6.9兆円にもなるというから驚く。

昔はファミコンのカセットが1本5000円もしたのに、今はスマホゲームを無料で楽しめる。
YouTubeだってグーグルマップだってタダだ。
恋人が海外留学していたり遠距離恋愛だったりすると電話代が月に何万円もかかって死にそうだった、なんていう時代が懐かしい。

スマホとネットの技術革新によって、「娯楽にお金がかからない」いい世の中になった。
以前はVHSやDVDのレンタル代が1本350円とか400円だったが、アマゾンプライム・ビデオやネットフリックスにアクセスすれば、月額数百円で映画やアニメをいくらでも「見放題」だ。
タダないしタダ同然の値段で享受できるこれらのサービスを消費者余剰だと考えれば、今はそんなに悪い時代じゃない。

ユニクロのヒートテックなんてあんなに安いのにメチャクチャ高性能だし、そのほかのファストファッションも充実しているから、手軽に今風のコーディネートを取り入れられる。
Wi-Fiさえあれば仕事はオンラインでできる。
ド田舎に引っ越せば家賃はタダ同然だし、満員電車に乗る必要もない。
QOL(クオリティ・オブ・ライフ)は下がらないどころか、むしろ上がる。

ひょっとすると、これからの時代はお金すら必要なくなるかもしれない。
古代の人々は、お金はおろか、儲けとか貯金といった概念すらもたず、コミュニティ内のみんなで助け合って生きていた。
コミュニティ外でも、お金なんて媒介することなしに物々交換で必要なモノやサービス、医療や介護まで融通し合うことができた。

お金には換算できないプライスレスな消費者余剰が、右肩上がりで増えていく。
そんな近未来が待ち受けているかもしれないのだ。