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「お金のむこうに人がいる」を読んだ

投稿時刻2024年1月28日 11:23

お金のむこうに人がいる 元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門」を 2,024 年 01 月 28 日に読んだ。

目次

メモ

p7

実はこの「ざるそばの謎」も「政府の借金の謎」も、根っこは同じだ。
金融・経済のプロであるはずのヘッジファンドが「政府の借金の謎」を解けなかったのは、「働く人」の存在を無視して、お金だけを見ていたからだった。

経済の主役は、言うまでもなく人だ。
誰が働いているのか、そして誰が幸せになっているのか。
人を中心に経済を考えれば、経済を直感的に捉えることができる。

p25

社会は、あなたの財布の外側に広がっている。
僕たち一人ひとりは助け合っている社会の一員だ。
ところが、自分の財布の中のお金だけを見て暮らしていると、登場人物が自分だけになる。
社会の話が、自分と切り離された話になる。
だから「お金さえあれば生きていける」と錯覚してしまうのだ。

老後の生活の不安をなくすためには、お金さえ蓄えておければ大丈夫だと多くの人が信じている。
それは、お金だけ握りしめて樹海の中を1人でさまよっているようなものだ。
しかしそのままでは、幸せな未来にはたどり着けない。

僕たちが樹海で迷っているのは、手元にある「経済の羅針盤」が正確ではないからだ。
その羅針盤には今、「お金には価値がある」としか書かれていない。

p53

歴史好きな人はもう気づいているだろう。
当時のエジプトにはまだ貨幣が存在していなかった。
金をもらって働く人もいなかった。

エジプトの王は、お金を払ってピラミッドを作らせたわけではない。
王の命令のもと、莫大な数の労働者を働かせて作り上げたのだ。

ただし、労働者たちは「ただ働き」をさせられたのではない。
報酬として食料や衣服などを受け取ったし、ビールも振る舞われたという記録もある。
支給されたその食料や衣服やビールもまた、大勢の労働者によって作られている。
ピラミッドの建設に、お金はまったくかかっていない。

必要なのは、予算を確保することではなく、労働を確保することだったのだ。

p55

100g500円という価格は、レストラン目線での原価だ。
その肉をレストランに卸した肉屋の視点では、原価はもっと安い。
肉屋にとってのステーキ肉は完成品であり、原材料は食肉工場から買ってきた大きな肉の塊だ。
たとえば原価が100g 300円の肉なら、そこに肉屋で働く人の人件費や利益などを200円上乗せしている。

肉屋の仕入れ先である食肉工場でも、同様に働いている人がいて、原価が存在している。
その先までどんどんさかのぼっていくと、生まれたての子牛に行き着く。
自然界で生み出された子牛の原価はゼロだ。
生まれたての子牛がステーキ肉になるまでに、人件費や利益以外の費用も発生している。
牛の飼料の購入費用や、輸送費用、食肉工場の設備費用や電気料金など、挙げればキリがない。
しかし、このすべての費用を一つひとつ分解していくと、人件費と利益以外は何も残らない。

輸送に使われるガソリンも、原材料となる石油は地下から汲み上げていて原価はゼロ。
食肉工場が使う冷凍庫や牛を輸送するトラックのような複雑な工業製品も、部品やさらにその部品までさかのぼっていくと、自然の中にある鉄鉱石などの原材料にたどり着く。
それもやはり原価はゼロだ。

100g 500円のステーキ肉の元をすべてたどると、0円の自然資源と、合計500円の人件費や利益に行き着く。
つまり、元を取るの「元」とは、価格の存在しない自然界にある資源だ。
ステーキを800g以上食べても、ただ目の前のレストランに儲けさせないことに成功するだけであって、「元が取れた」と思うのは幻想なのだ。

もし、そのレストランが牧場直営だったら、ステーキ肉の原価は存在しなくなる。
生まれたばかりの子牛から育てている牧場では、原価はゼロだからだ。
そうなると、どんなに肉を食べても目の前のレストランに損をさせることすらできない。

話を戻そう。
食べ放題の元が取れない話をしたいのではない。
確認したかったのは、「すべてのモノは労働によって作られる」という生産活動の大原則についてだ。

この大原則は、古代エジプトから現在に至るまで変わっていない。
貨幣が発明されても、お金からモノが作られるようになったわけではないのだ。

「黄金のマスク」というものすごい「労働の浪費」 p61

お金のおかげで社会は広がったが、その弊害がある。
コミュニケーションをお金に任せると、働く人が徐々に見えなくなるのだ。

p63

僕たちはつい、お金を使ってモノが手に入ると感じてしまう。
しかし、このときの「使う」は、「消費」ではない。
自分の財布の外を見れば、お金は他の財布へ流れていることに気づく。

あなたが消費しているのは、お金ではなく、誰かの労働だ。

お金のむこうには必ず「人」がいる。
あなたのために働く人がいる。

個人にとってのお金の価値とは、将来お金を使ったときに、誰かに働いてもらえることなのだ。

そして、その反対側には働かされる人が必ず存在する。
社会全体にとって、お金(紙幣)を増やしても、価値が増えないのはそのためだ。
そして、モノが手に入るのは、誰かが働いているからだ。
お金は交渉に使われるだけで、必要不可欠ではない。
家の外では必要なことも多いが、家の中では普通は必要ない。

p66

技術革新などの生産の効率化によって僕たちが受けている恩恵は、材料費や原価が安くなることではなく、「労働が節約できること」だ。

少人数で多くのものを生産できれば、多くの人に行き渡らせることができる。
節約できた労働を、他のモノの生産に使うことが可能になる。
200年前まで米を生産することで精一杯だった僕たちが、今ではさまざまなものを生産して利用しているのは、効率化のおかげだ。

そして、「労働がもったいない」と思わないと、自分たちを苦しめることになる。
僕たちは自分の労働を提供してお金をもらい、そのお金を使って誰かの労働を消費している。

「働き方改革」が叫ばれているが、悪いのは会社だけではない。
仕事を増やす原因を作っているのは、消費者でもある。
会社だけでなく、僕たち消費者の意識を変えないと、自分自身のクビを締めることになってしまう。

しかし、一方で消費者の僕たちは、生産者の僕たちに文句がある。

「たしかに労働がモノを作っている。
でも、払った金額が労働の量を表すわけじゃないだろう。
その金額には利益も入っているんだから。
利益を払いすぎて損をさせられているかもしれないじゃないか」

その通りだ。
生産者の僕たちも、たくさん儲けようとして消費者の僕たちのクビを締めている。
お互いクビを締め合っているのだ。

しかし、これは生産者だけが悪いわけではない。
実は、価値判断に自信を持てなくなった消費者のせいでもある。

自分にとっての価値がわかれば、損することもないし、損していると感じることもなくなる。
僕たちは、自分にとっての価値、つまり自分の幸せに向き合わないといけない。

p71

このジャケットは、あなたにとって本当に価値のあるものだろうか?
それを判断するためには、2つの価値に気づく必要がある。

「使うときの価値」と「売るときの価値」 p71

僕たちは、2種類の価値を使い分けて暮らしている。

p72

僕たちが感じる価値の1つは、この「効用」と呼ばれる「使うときの価値」だ。
言い換えれば、自分がどれだけ満足したかということだ。

p74

あなたの怒りが急におさまる。
1万円で買ったワインを3万円で買い取ってもらえば、2万円得することになるからだ。
このとき、あなたのワインへの評価は「おいしくないワイン」から「3万円のワイン」に変わる。

これがもう1つの価値である、モノを「売るときの価値」。
つまり「価格」だ。

モノを売る人にとっては、味がおいしいかまずいかなどの効用は関係ない。
受け取るお金のことだけ考えればいいのだから、重要なのは価格になる。

つまり、価格とは、商売人にとっての価値だ。

そういう意味では、1万円の福袋のジャケットが気に入らなくても、誰かに高く売ることができれば、得することはありえる。
もし、D「ジャケットがいくらで売れるかによる」という選択肢があれば、それも正解になりうる。

このように「効用」と「価格」という2種類の価値の存在が僕たちを惑わせる。

価格に潜む罠 p75

生活を直接的に豊かにするのは、「使うときの価値」である効用だ。
効用を増やせば、生活は豊かになる。
問題は、この効用を測るのが難しいことだ。

今日はカレーライスを無性に食べたいと思っていても、明日にはカレーライスより天ぷらそばを食べたいと思う。
自分の中ですら変化する効用を、他人と共有することは困難だ。

それに比べて価格はわかりやすい。
数字だけでモノの価値を表してくれる。
だからこそ、社会全体の価値について考えるときなどの客観的な評価が必要な場合は、価格を価値として考える。
「経済的価値」とか「資産価値」などは、すべて「価格」を意味している。

生活を豊かにするのは効用のはずだけど、効用を測定することができないから、価格というモノサシでとりあえず代用しているのだ。

しかし、この客観的で便利なモノサシに慣れると、自分が感じる効用を見失ってしまう。
1万円の価格のモノには、1万円に相当する効用があるような気がしてくる。

ここから、生産者と消費者のクビの締め合いが始まる。

テレビでも雑誌でもインターネットでも、会社の広告を見ない日はない。
会社は、商品の良さを説明したり、有名人に商品を使ってもらったり、会社の良さをアピールしたりして、なるべく多くのお客さんに買ってもらうための宣伝活動をする。

隣の家で美味しいパンが売られていても、看板がなければ売られていることに気づけない。
誰も買ってくれなければ、どんなにおいしいパンでも誰も幸せにすることができない。
生活を豊かにする商品を幅広い人々に知ってもらうことは、社会全体の効用を増やすことにもつながる。
宣伝活動は、悪いことであるはずがない。

ところが、マーケティングやブランディングという名の元に「価値の水増し」を行う人たちも存在する。
商品の効用を高める努力をすることなく、高い価格を提示することで、それと相応の「価値」があることを消費者に信じ込ませるのだ。
「価格のモノサシで価値を測っている消費者たちは、価格が高ければ高いほど価値があると思ってくれる」と彼らは踏んでいる。

p77

価格のことばかり気にしていると、自分にとっての効用が二の次になる。
「お買い得」の意味が、効用の高い商品を安く買うことではなく、価格の高い商品を安く買うことだけになる。

家電量販店の大型テレビの値札に「大特価129,000円!(定価:20万円)」と書いてあればお買い得だと感じるだろう。
一方、「大特価129,000円!(定価:オープンプライス)」と定価が書いていないと、お買い得かどうか不安になる。

大事なのは、元の価格ではないのに。
その商品によって自分の生活がどれだけ豊かになるか、なのに。

これは非常に困った事態だ。

消費者である僕たちが「定価が価値だ」と信じていると、生産者である僕たちがどんなに効用の高いモノを作っても「お買い得」だと思ってもらえない。

そうなると、生産者である僕たちが選ぶ道は2つしかない。
作ることをやめるか、定価を上げて消費者をダマそうとするかだ。
いずれにしても、効用の高い商品を作ろうとする意欲が削がれていく。

一人ひとりの消費者が、価格のモノサシを捨てて、自分にとっての効用を増やそうとしないと、生産者も消費者も幸せになれない。

そもそも、価格と効用はほとんど関係ないのだ。

価格は「好意」に反比例する p79

お金が持っている力の1つは「交渉力」だった。
エジプトの王のように権力を持たない僕たちは、お金を払うことでみんなに働いてもらっている。
価格が存在する理由はそこにある。

コンビニのおにぎりが100円で、家族が作るおにぎりがタダなのは、効用の差ではない。
家族が作るおにぎりは、まずいからタダなのではなく、お金を払わなくても働いてくれるからタダなのだ。
知り合いのおばちゃんの弁当屋がいつもあなたに値引きしてくれるのは、あなたに作った弁当だけおいしくないからではない。
あなたに好意的だからだ。

喜んで働いてくれる人には、お金による交渉は必要ない。
働きたくない人に働いてもらうときほど、強い交渉が必要になる。
その結果として価格が高くなる。
極端な話をすると、みんなが他の人のために喜んで働くなら、価格は存在しなくなる。

つまり、価格の高さは、「どれだけ働きたくないか」を表している。

価値を決めるのは自分自身 p82

さて、ここまでの話で、「お金を払って働いてもらう場合にだけ価格が存在する」ということがわかった。
価値があっても、僕たちが自由に使えるものや、お金を払わなくても働いてもらえる場合は、価格が存在しない。
存在する必要がないのだ(これ以降、特に説明なく「価値」と書く場合は、「価格」ではなく「効用」を指す)。

空気、海の見える風景、自然の中にあるものすべて、治安の良さ、医療制度、手作りのマフラー。
そういうものには価格は存在しない。
しかし、大いなる価値が存在している。
価格と価値はまったく別の軸で測られるのだ。

p83

1万円のワインでもいいし、20万円のジャケットでもいい。
価格に価値を感じる必要はない。
それは売る人が勝手に押し付けている数字でしかない。

価値を決めるのは、あなた自身だ。
道ばたの石だって、あなたにとっては価値のあるものかもしれないし、テレビはあなたにとって価値のないものかもしれない。

一人ひとりが自分だけのモノサシを持っていればいいのだ。

p86

僕たちは、お金が存在してもしなくても、みんなでモノを生産して、それをみんなで分かち合って生きてきた。
お金がなかった時代は、みんなで何を生産するかは権力者が決定していた。
お金のある現代では、お金を使う人それぞれが決定しているのだ。
多くの人が買うものは生産され続け、誰も買わないものは生産されなくなる。

もし、僕たちが価格の高いものに価値があると信じるなら、ただ価格の高いものが生産され続ける。
価格の存在しない自然が壊されても、気づくことすらできない。

一人ひとりが自分だけのモノサシを持てば、自分の幸せに直結するお金の使い方ができる。
そして、価値あるものが生産され続けることにもつながる。
自然に価値があると感じる人が多ければ、自然が壊されることも減っていく。

お金という「糸」と「壁」 p87

第2話で、消費者である僕たちがモノを買うときに使っているのは、お金ではなく誰かの労働であることがわかった。
そして、この第3話で考えてきたように、モノの価値は、価格ではなく効用だ。
効用が僕たちの生活を豊かにしてくれる。

つまり、みんなが働くことで、みんなが幸せになる。
家の中でも外でも変わらない。
これこそ本来の「経済」の目的なのだ。

僕たちの使うお金は、「みんなが働くことで、みんなが幸せになる」という経済の目的を果たすための1つの道具でしかない。

経済の羅針盤では、「誰かが働いて、モノが作られる」「モノの効用が、誰かを幸せにする」の2つが何より重要だ。
お金の話は道具の説明でしかない。
家庭内のようなお金を使わない経済では役に立たない。
そのため、先ほど更新した羅針盤では、この2つの項目とお金の話を◎と○で区別した。

p91

僕たちは異なる2つの軸から経済を眺めている。
それは空間軸と時間軸だ。

自分の財布の外には、社会が広がっていた。
社会という空間で経済を眺めると、誰かが働くことで誰かが幸せになっていることがわかった。

p92

自分の財布の中に意識を向けているとき、同じ空間にいる働く人たちの存在は見えなくなる。
その代わり、僕たちは何を見ているのか。
それは「時間」なのだ。

財布の外に空間が広がっていたように、財布の中には自分の時間が広がっている。

財布の中に広がる自分だけの時間 p92

お金が存在しない時代は、「今」を生きるのに精一杯だった。
それは「労働を蓄積すること」が困難だったからだ。

たくさん狩猟しても、肉や魚は数日で腐ってしまう。
農耕するようになっても、穀物を蓄えておけるのはせいぜい数年。
労働を長期的に蓄積することができず、自分が働けなくなったら家族や友達や周りの人に食べさせてもらうしかなかった。

ところが、お金が発明されて状況は一変する。
自分の「未来」を考えられるようになった。
元気に働けるときに労働を提供してお金を貯めておく。
将来、働けなくなったときは、そのお金を使って食料を買えばいい。
「今」だけを考えて暮らす生活から抜け出し、「未来」を手に入れることができるようになった。

p94

もし1時間後に死ぬことがわかっていたら、お金をもらうことよりも、おいしいものを食べることを選ぶだろう。
自分の将来がなくなると、自分にとってのお金の価値は消える。
お金自体に効用はないが、お金を使うことで得られる将来の効用を想像して、お金に価値を感じているのだ。

お金を借りれば、未来の自分にも働いてもらうことができる。
他の人に助けてもらわなくても、過去や未来の自分に助けてもらえばいい。
時間軸上にいる自分同士で助け合って生きていける。
そう考える。

この経済の捉え方には、問題が1つある。
自分とお金以外登場しないのだ。
その結果、「自分ひとりの世界を生きている」と感じてしまう。

p96

財布の中だけを見ていて、「自分ひとりの世界を生きている」と感じていると、みんなが別々の世界を生きているものと思ってしまう。
でも当然、この世界には他の人たちもいて、一人ひとりが働いてお金を貯め、貯めたお金を使って生活をしている。
日曜日にあなたがお金を使うためには、もちろんお金を貯めておくことも必要だが、日曜日にお金をもらって働く人の存在が不可欠だ。
「すべての人」がお金を使うとき、働く人がいなくなる。
コンビニもレストランも稼働しない。
映画館も開いてなければ電車にも乗れない。
働く人がいなければ、お金の力は消えるのだ。

p97

みんながお金を握り締めて老後を迎えても、働く人がいなければどうすることもできない。
みんなが上手に資産運用してお金を増やしたとしても、年金問題は解決しない。
働く人が減ってしまうからだ。

財布の中だけを見ていると、身の回りの問題から社会問題に至るまで、お金が問題を解決していると信じて疑わなくなる。

p99

しかし、この数十年で社会は大きく変わり、家庭や地域でタダの労働は激減した。
家庭内に残っていた家事も、家電を使うようになって負担は減り、裁縫やクリーニングなど、お金を払って解決する家事も増えた。

小さい子どもの面倒を見てもらうときも、家族や親戚や近所の人にお願いするのではなく、お金を払って託児所に預ける。
おせち料理も、自分たちの労働ではなくお金によって解決する問題に変わった。
多くの労働をお金で買うようになったのだ。

さらに、金融の発達によって、お金で自分自身を助ける手段が増えた。
保険に入っておけば将来困ったときに自分を助けられる。
ローンを組めば将来の自分に助けてもらって家を建てられる。
お金を上手に運用すれば50年先の将来設計だってできる。

時代とともに、労働とお金に対する見方は大きく変わった。
価格のない労働によって地域の人が助けてくれた時代なら、労働がもったいないという発想が存在した。

しかし現代では、自分を助けるのはお金だ。
もったいないものは労働からお金に変わった。
さらに、1クリックでモノが買えるようになり、労働の存在がどんどん見えなくなりつつある。

そして、自分がタダの労働を提供する時代なら、その目的はお金ではなく相手の幸せだった。
しかし、ほとんどの労働に価格がつくようになると、労働の目的は、お金と切り離せなくなる。
相手の幸せを考えるよりも、相手に多くのお金を払わせることが目的になっている人たちもいる。

p102

経済について考えるとき、この羅針盤さえあれば他に予備知識は必要ない。
「お金」に惑わされず、「誰が働いて、誰が幸せになるのか」を考えればいいだけだ。
大事なのは、みんなが生きている空間を意識して経済を捉えることだ。

経済と道徳が相入れない水と油のように感じたり、直感的に経済を捉えるのが難しかったりするのは、空間を意識して経済を捉えていないからだ。

p130

僕たちが保有する資産の中には、「金融資産」と呼ばれる資産が存在する。
国債や社債などの債券や、会社の株などが代表的な金融資産だ。
生命保険などもこれに該当する。

ゴールドマン・サックスのような証券会社は錬金術を持っていて、空中から金融資産を生み出していると言われる。
これは、半分正しい。
残りの半分は、同時に金融負債を生み出していることだ。
合わせればゼロになるから、錬金術でもなんでもない。

金融資産の正体は、日本銀行券や肩たたき券と同じく、将来の約束だ。
「金融」、つまり資金を融通してもらうことと引き換えに、将来のお返しを約束している。

国債や社債など、債券の約束は、元金に利息をつけて返すことだ。
株であれば、会社の利益の一部を払い続ける約束だし、生命保険であれば、死んだときに保険金を支払うという約束だ。
こうした約束は券の保有者には資産だが、証券を発行した人から見れば負債になる。
発行した側からすれば、消えて無くなってほしいものだ。
金融資産が増えているとき、必ず金融負債が増えている。
これもまた貸し借りと同じだ。

105ページの第2部冒頭の問いでは「お金」の定義を明確にしなかったが、定義が何であれ、社会全体ではお金という形で何らかの価値を増やすことはできない。

会社の成長に1%も使われないお金 p136

株式の転売は、コンサートチケットの転売に似ている。
たとえばあなたの大好きな歌手がコンサートを開き、全席指定の1万円の前売り券が明日発売される。

あなたがチケットを買えば、そのお金はコンサートの主催者に流れていく。
このお金があるから、コンサートに必要な機材や会場を確保することができる。
あなたの応援する歌手にも支払われるし、所属する会社の成長にもお金が使われる。

チケット発売当日、人気のチケットは5分で完売した。
残念ながらあなたはチケットを買えなかった。
意気消沈のあなたの元に「3万円でチケットを譲るよ」と、チケットの転売を持ちかける人が現れる。
どうしてもコンサートに行きたいあなたは、3万円支払ってチケットを手に入れた。

正規に販売されたチケットと転売チケットの違いは、価格だけではない。
決定的に違うのは、お金が流れていく先だ。
あなたの支払った3万円は、応援している歌手や会社には流れていかない。
チケットを転売した人に流れ、その人の生活に使われる。

株に投資するときも同じことが起きている。
ほとんどの人は転売されているチケットを買う。

つまり、ほとんどのお金は応援したい会社には流れていないのだ。
2020年の証券取引所(日本取引所グループ傘下の証券取引所)での日本株の年間売買高は744兆円。
一方で、証券取引所を通して、会社が株を発行して調達した資金は2兆円にも満たない。
コンサートの例に当てはめると、主催者が売ったチケットはたったの2兆円で、742兆円は転売されたチケットの取引量というわけだ。

株が会社から新たに発行されるときに、株を購入する人がいる。
その人のお金だけが会社に流れて、その会社の成長に使われる。
それ以外の取引はすべてが転売だ。

コンサートチケットの転売はコンサート当日までが勝負だが、株というチケットは、会社がつぶれるまで転売され続ける。

もちろん、株式市場が無意味だと言いたいわけではない。
もし株式市場で株を転売できなかったら、会社が株を発行しても購入しようと思う人が減ってしまう。
売ることができるから、会社が株を発行しやすくなっている。

でも、あなたが会社に投資したと思っているそのお金は、株を転売してくれた人の生活に使われ、会社の成長に1円も使われていないのは事実だ。
そして、この転売はただのギャンブルでしかない。

勝利条件は「他人に高く買わせること」 p138

僕たちが投資だと信じているものの多くは、転売を目的にしている「投機」と呼ばれるものだ。
株にしても為替にしても、安く買ったものを高く売って、転売で儲けることを目的にすることが多い。
転売を目的にワインやコンサートチケットを買うのも投機だ。

投機で購入する人は、価格の値上がりによって儲ける。
価格が値上がりするのは、樹木に果実が育つように何かが成長しているわけではない。
コンサートチケットが1万円から3万円に値上がりしても、コンサートの質は良くならない。

「値上がりした」とは、「チケットを高く買ってくれる人を見つけた」という意味に過ぎなくて、コンサートの質が良かろうと悪かろうと、高く買わせることができれば儲けられる。

あなたがコンサートチケットに3万円を払わされたように、高く売って儲けた人の反対側には、高い価格で買わされた人が存在する。
安く買うときにも、反対側には安く売らされた人がいる。
投機という転売がギャンブルだというのは、そういう意味だ。
果実を実らせて分け合うのではなく、増えることのないお金を参加者の間で奪い合っているのだ。

「日経平均株価が上がっている。経済が成長している」と喜ぶ人たちがいる。
彼らが株価だけを見て喜んでいるなら、チケットを高く売って喜んでいる人と大差ない。
人気のコンサートチケットが転売市場で高騰するように、株を買いたがる人が増えると株価が上昇する。
別に、みんなの生活が豊かになっているわけではない。
株を高く売れた人が喜ぶだけだ。
たとえば、鉄道会社は鉄道を運行することで僕たちに効用をもたらす。
この効用を高めているのは、鉄道会社で働く人たちに他ならない。
決して、鉄道会社の株をたくさん買って、株価を上げた人ではない。
彼らはただ株券を握りしめて座っていただけだ。 (※)

僕たちの生活にとって重要なのは、会社のもたらす効用だ。
効用が増えれば、会社が儲かり、株主への配当が増える。
その結果として株価が上がることがある。
それは喜ばしい株価の上昇だ。
しかしそれは結果であって、経済の目的ではない。

株に限らず、投機が加熱すると価格が上昇する。
その価格上昇は、他人に高く買わせられるということでしかない。
効用を増やしてはいないのだ。
(※) ある程度の株式を取得した上で会社に積極的な提言を行う投資家や、大部分の株を購入して、会社ごと買収する投資家も存在する。
彼らは、もちろんただ座っているとは言えず、会社がもたらす効用を変えようとしている。

資産価格の上昇と「コロナ禍マスク問題」の共通点 p141

不動産もまた投資や投機の対象になる。
東京の新築マンションの坪単価は、この10年で40%近く上がっている。
10年前なら5000万円で買えたマンションが今では7000万円だ。

「資産価格が上がった」と喜んでいる人も多い。
資産価格とは、お金に換えることができる資産の売却価格だ。

マンションを所有して住んでいる人にとっては、喜ばしいことに思える。
この場合、効用は増えているのだろうか?

これもまた、先ほどの株価と同じだ。

交通網が発達したり町が発展したりすることで利便性が高まり、その結果としてマンションの価格が上がっているのであれば喜ばしいことだ。
だけど、この10年で東京の利便性が4パーセントも増えたか。
利便性と不釣り合いに価格が上がったように感じる。

マンションを売れば値上がりした分だけ儲けられるが、東京に住み続けるのであれば売ることができない。
マンションの資産価格が上がっても儲けられないのだ。

資産価格が上がって喜べるのは、「自分が使っていないもの」を転売目的で保有している人たちだ。
使いたい人に高く売れば、儲けることができる。
だから、投機をする人は、自分が住まないマンションを買う。

しかし、自分が使わないものを持つことで、誰かが使えなくなっているのだ。
これは、コロナ禍でのマスクの転売問題と本質的に同じだ。

2020年、新型コロナウィルスが流行し始めたとき、マスクが手に入らないという事態が日本全国で起きた。
転売目的で大量のマスクを買い占める人が出てマスクの価格は高騰し、通常の100倍以上の価格で取引された例もあった。

どこかにマスクが大量に存在しているはずなのに、利用したい人にマスクが行き渡らず、社会問題に発展した。
この件で責められるべきはマスクを買い占めていた人たちだ。
このとき、マスクの高騰によって、彼らが大量に保有するマスクの資産価格は増えたが、多くの人がマスクを使えなかった。
多くの人から効用を奪ったのだ。

この件は、被害者の存在も加害者の存在もはっきりわかるし、その因果関係もわかりやすいから、転売する人たちが悪さをしていることが明るみに出た。
マンションの転売も、本質的には同じことだ。
自分が使わないものを買っておいて、本当に使いたい人に高く売る。
直接見えないだけで、マンション投資の加熱による価格上昇で、住みたいところに住めなくなった人が存在している。

どうしても住みたい人は、高いお金を払わないといけない。
そのお金こそが、マンション投資で儲けた人が手にしているお金だ。
決して、社会全体の価値が増えて生活が豊かになっているわけではなく、ギャンブルの勝者と敗者が生まれているだけだ。
そして、敗者はギャンブルに強制的に巻き込まれている。

投機というギャンブルをするくらいなら、そのお金を銀行に眠らせておいたほうがまだいい。
「銀行にお金を眠らせたままにしているのはもったいない」というアドバイスは、かなり無責任なセリフだ。

p145

消費でも投資でも、僕たちがお金を流すときには2つのことを比べている。
消費であれば、商品がもたらす「効用」と「価格」を比べて購入するかどうか決定する。

投資をする場合は、その事業の「収益」と「費用」を比較する。
事業の収益とは将来のお客さんが払ってくれるお金だ。
お客さんが満足しなければ、お金は払ってもらえない。
その事業で提供するものがどれだけの効用をもたらすのかを考える。

費用とは、事業を始めるためや事業を運営するために必要なお金だ。
どれだけの人を雇い、どれだけの資材や設備を他の会社から買うか。
投資のために流したお金は、新たに雇った従業員の賃金や、他の会社からの購入費用に使われる。
食べ放題の話で出てきたように、すべての費用は何らかの労働に対して支払われている。

つまり、収益と費用を比べるということは、その事業が将来もたらす効用とその事業に現在費やされる労働を比べることでもある。
投資することが決定すると、投資されたお金は事業主を通して流れ、多くの労働がつながり、事業を始めることができる。
そして、その事業の成功が、僕たちの将来の生活を豊かにする。
新たなモノやサービスを利用できるようになる。

さて、今回の問いは「投資とギャンブルは何が違うのか?」だった。
多くの人が想像する投資は、投機と呼ばれるギャンブルであることが多い。
しかし、本当の意味で投資されたお金は、多くの人に働いてもらうことに使われる。
その人たちが働くことで、新たな価値(効用)を生み出すことができる。
お金を奪い合うギャンブルとは真逆の、生産的な活動だ。

ヘタな投資の罪 p147

投機だろうと投資だろうと、誰もが儲けたいと思っている。
損をしたくはない。
だけど、投資では「損」の意味が違う。

ヘタな投機はただの恥だが、ヘタな投資は大いなる罪だ。

投機はお金の奪い合いだから、誰かが損をしても反対側で誰かが儲けている。
損はあくまでも個人の問題であって、社会から何かが失われるわけではない。

もちろん、投資で損をしても、お金が消えるわけではない。
その事業のために働いてくれた人々に流れるだけで、全体のお金の量は変わらない。

ただし、投資の損は、事業の失敗を意味する。
その事業に費やされた労働に対して、お客さんが感じた効用が少な過ぎたということだ。
多くの労働がムダになった。
その労働が他のことに使われていたら、僕たちの生活はもっと便利になっていたのかもしれない。

近年、不動産投資が加熱している。
多くの個人や会社がアパート経営を始め、数多くの新築アパートが建設されてきた。
しかし、日本の人口は増えていないから空室率は上がり、赤字のアパート経営が増える。

これはまさに、労働が無駄に使われた失敗事業の一例だ。
他の事業への貸し付けよりも不動産事業への貸し付けを優先した投資家、つまり銀行の責任に他ならない。
彼らの投資のせいで、効用の少ないアパート建設に多くの労働を使ってしまったのだ。

「銀行にお金を眠らせたままにしているのはもったいない」という発言が、「銀行に任せていては、労働が無駄に使われてしまう」という意味なのであれば、まったくもってその通りだ。
投資には、労働を使うことに対しての責任が伴っている。

p151

もうひとつは、その17世紀のオランダは、チューリップバブルに沸いた。
当時のチューリップはまだ珍しく、その球根は贅沢品だった。
縞模様の入った多色のチューリップは鮮やかで美しく、より高価で取引されていたらしい。

球根の生産量以上に球根を欲しがる人が増えると、価格は上昇していく。
欲しがる人は、実需(実際の需要=本当に欲しい人)だけではない。
値上がりが続くと、投機目的の購入者が現れて、球根相場の上昇はさらに続く。

人々がチューリップの美しさから感じる効用に比べて価格が高くなると、実需は減り、実需で保有している人たちは球根を売り始める。

一方で、値上がりし続ける球根の投機で一儲けできるという話が街中でささやかれ、自分も球根を買おうとする人が続出する。
実の保有者が球根を売っても、それ以上に投機目的の購入希望者が増えているから、価格はどんどん上昇する。

購入希望者の中には、買いたくても決断できない人たちもいる。
「球根の価格はすでに高すぎる。
これ以上、価格は上がらないだろう」と懐疑的に見ている。

しかし、投機目的で買う人が増えている間は、価格の上昇は止まらない。
そして、ついに実需の購入は存在しなくなり、投機目的の購入ばかりになっていく。

次第に、懐疑的に見ていた人たちの態度も変わってくる。
「ここで買わないと自分だけ乗り遅れる」と思い、ついに球根を買ってしまう。
当時、球根一個は家一軒が買えるくらいまで上昇したそうだ。

こうして球根が最高値で取引されて、球根の投機で大儲けをたくらむ人たち全員が球根を保有することができた。
みんなが、幸せの絶頂を感じている。

このとき、投機している全員が儲けていると感じている。
最後に取引された価格こそが球根の価値だと信じているからだ。
そして、その価格ならいつでも売れるものだと疑っていない。

しかし、儲けを確定するためには、誰かに高い価格で買わせないといけないのだ。
だけど、すでに買う人は存在しない。
投機で買いたい人はすでに保有しているからだ。

買う人がいなくなった今、残された道は暴落だけだ。
値下がりが始まってから売ろうとしても後の祭りだ。
売りたくても、買う人が存在しなければどうしようもない。
暴落をただ見守るしかないのだ。

後から振り返れば、効用に見合わないほどの高い価格で球根を購入するのは馬鹿げているように映る。
しかし、当の本人たちは信じ切っていた。

「取引されている価格こそが価値だ。価値があるから価格が高いんだ。その価格で買う人はいくらでもいるはずだ」

こうしたバブルは毎度同じような経路をたどり、現在に至るまで繰り返されている。
取引されている価格が上がれば、みんなが儲かっている気がしてしまう。
しかし、誰かに高く買わせないと、儲けることはできない。
効用をまったく考えない取引はただのギャンブルだ。

バブルがはじけたときに、「多くの富が失われた」という言葉が決まり文句のように使われる。
しかし、そもそも富が膨らんでいたわけではない。
妄想だけが膨らんでいたのだ。

GDPは「テストの点数」 p164

お金という水の流し方次第で、何に労働や自然資源を投入するのかが決まり、どれだけ生活が豊かになるかが決まる。
しかし、生活の豊かさは客観的に数値化できない。

だから、僕たちはGDP(国内総生産)を増やすことを目的にしている。
僕たちというのは、僕たち全体の意思決定を行っている政府だ。

GDPとは、1年間に国内で新たに作られたモノの価格の総額を表している。
これは、みんなが支払ったお金の総額であり、モノの生産のために流れたお金の量でもある。
国全体の「生活の豊かさ」を測ることができないから、とりあえず「モノの価格の総額」を表わすGDPで代用しているのだ。

「日本経済はこの1年でほとんど成長していない」とか「2%の経済成長を遂げた」というときの経済成長は、このGDPの1年間での伸び率を指す(厳密には価格調整などを行っている)。
このGDPをどれだけ増やせたかで政府は評価される。
GDPが増えていれば、生活は豊かになっているはずだと考える。

これは僕たちが学校で受ける期末テストに似ている。
学力を客観的に数値化できないから、とりあえずテストの点数が学力を表していると考える。
僕たちが勉強する目的は、学力を上げることであって、テストの点数を上げることではない。

しかし、点数で評価されるうちに、徐々に目的がねじ曲げられる。
テストの点数を上げることが目的になってしまい、一夜漬けの勉強を頑張るのだ。
テストさえ終われば、すべて忘れてしまっても問題ないと考える。

僕たちの社会の目的はどうだろう。
みんなの生活を豊かにすることではなく、GDPを増やすことになってはいないだろうか。

人によって異なる効用を数値化することはできないから、いわゆる「経済」の話においては価格を価値だとみなしている。
「経済的価値」と呼ばれたりもする。

家族が握るおにぎりには経済的価値がなくて、コンビニのおにぎりには経済的価値がある。
100億円かけて建設した空港の経済的価値は100億円になる。

経済的価値で考えることがあたりまえになってしまうと、経済的価値こそがモノの価値だと思い始める。
たとえ空港を利用する人がいなくても、100億円で作られる空港には100億円の価値があると信じ始める。
お金だけを見るようになって、人々の幸せは置き去りにされる。

「誰のためになるのか」「どれだけの効用を増やすのか」を気にする人はいなくなり、GDPを増やすために経済効果だけが強調された政策を優先する。
僕たち自身もGDPが増えていないと生活が豊かになっていないのではないかと不安に感じてしまう。
でも、心配には及ばない。

僕たちの生活は確実に向上しているのだ。

p167

GDPではなく、この「効率」が生活を豊かにしている。
そして、「蓄積」もまた生活を豊かにしてくれる。
僕たちの生活はたった1年間の労働の上に成り立っているわけではない。

「効率」と「蓄積」が生活を豊かにする p166

2000年当時、30インチのテレビは20万円で売られていた。
2020年には薄型の50インチのテレビが10万円もしない。

生産技術の向上によって、安くても効用の高いものを買えるようになった。
しかし、経済的価値だけを見ていると、そのことに気づけない。
GDPが下がってしまったと否定的に捉える。

p168

医療施設にしても、教育施設にしても、過去の労働によって多くのモノが蓄積されて、現在に効用をもたらしている。

技術も、過去からの蓄積だ。
僕たちが手にするスマートフォンには多くの技術が蓄積されている。
電話、カメラ、テレビ、オーディオ、パソコンなど、ひと昔前であればそれぞれ10万円以上していた家電製品を買わなくても、スマートフォン1台でその機能を利用することができる。
GDPは下がっても、効用は増えている。

そして制度やしくみも、過去からの蓄積だ。
過去の人たちが考えた医療制度によって、全員が保険に加入し、小さい子どもは無料で医療を受けることができる。
SNSなどのしくみによって、不正を暴いたり、「アラブの春」のように国を民主化させたりした例もある。

僕たちの暮らしは過去の労働の上に成り立っている。
1年間のGDPが表す生活の豊かさは、ごく一部でしかない。

p170

しかし、効用をほとんど生み出さない生産活動を無理やり作っても、流れるお金の多くは利権をもつ一部の人たちの懐に入るだけだ。
そんなことをするくらいなら、困っている人に直接お金を配ったほうがよほど効果的だ。
それよりも、労働や自然資源を有効利用することを考えたほうがいい。
過去の人たちが現在の生活の土台を作ってきたように、僕たちもまた、未来の土台を作っているのだから。

p175

社会が抱える問題の中で、お金で解決できるのは、それが分配の問題のときだけだ。

貧困で、必要な物資が買えない人がいれば、生活保護という名前のお金を配ればいい。
そのお金を使えば、モノの分配が変わる。
保育園が足りなければ、保育対策の予算をつけることで社会の中の労働の分配が変わる。
社会の一部で労働やモノが足りないときは、お金によってその分配を変えて、解決を図ることができる。

しかし、社会全体で労働やモノが不足しているときは、お金ではどうすることもできない。
江戸時代に幾度となく起きた飢饉では、国中の米が不足し、多くの人が餓死した。
お金をどんなに配っても問題解決は不可能だ。
年金問題や政府の借金の問題などは、社会全体の問題だ。
分配で解決する問題ではない。
社会全体の問題はお金では解決できないのだ。
しかし、僕たちはつい、社会全体の問題も、お金で解決できると思いがちになる。

僕たちは、何かを錯覚している。
お金ではない解決方法を探さないといけないのかもしれないし、問題は別のところにあるのかもしれないし、そもそも問題を抱えていないのかもしれない。

これらの問題を難しくする一番の原因は、お金を中心に経済を考えていることだ。
人を中心に考えると、ずっとシンプルに、直感的になる。
「誰が働いて、誰が幸せになるのか」に注目するだけだからだ。

もう一つ厄介なのは、社会=国ではないことだ。
僕たちの生きている社会全体とは、日本という国ではない。
鎖国していた江戸時代であれば社会=国でよかったが、現代を生きている僕たちは、他の国と依存しあって生きている。
僕たちの社会は、地球全体に広がった。

つまり、社会全体の財布には外側が存在しないのは確かだが、国の財布には外側は存在しているのだ。

p185

では、日本の立場だとどうだろう。

アメリカに工業製品を輸出しているから、大量のドルが手に入る。
日本の生活を豊かにするには、ドルを使ってアメリカの人たちに働いてもらえばいい。
でも、僕たちは使わずに貯めている。
日本が大幅な貿易黒字ということは、日本の輸出よりも輸入のほうがずっと少ないことを意味する。
僕たちはアメリカの人たちにそんなに働いてもらっていない。

だから、いまの生活をより豊かにしているのは、日本ではなく、アメリカになる。
問題の正解はAなのだ。

その代わり、貿易黒字によって貯めた外貨を使えば、将来、アメリカに働いてもらえる。
貿易黒字とは、今の生活を豊かにすることではなく、将来のために「労働の貸し」を作ることなのだ。

より正確には、「労働と資源の貸し」と言える。
また、いつも公正で公平な貿易が行われているわけではなく、立場の弱い国の労働が不当に安く買われる場合もあれば、資源国など立場の強い国が、労働以上に不当に儲ける場合もあることには留意しないといけない。

お金にできるのは「困る人を変えること」だけ p207

ドイツや日本の例のように、ハイパーインフレが起きる前に、すでに国内の生産力は落ちている。
少ない生産力に困った政府が、お金を増やすことに頼ってしまった結果がハイパーインフレだ。

国債の発行や紙幣の印刷でお金を増やしたところで、労働力の不足が埋まるはずがない。
増やしたお金が使われるときに、労働力が奪われる。
ただでさえ足りない労働力が生活に必要な物資の生産以外に使われたから、モノ不足が激しくなった。

お金にできることは、労働の分配とモノの分配でしかない。
お金を増やしても、労働不足もモノ不足も解決できない。

僕たちが直面している年金問題も、労働不足、モノ不足の問題が絡んでいる。

根本的な原因は、高齢者が増加し、現役世代と呼ばれる働く人の割合が減少することにある。
現役世代が減少していくと、生産力も減っていく。
必要なモノが手に入らず、生活できなくて困る人が出てくる。

このとき、高齢者が受け取る年金が不足しているとしよう。
必要なモノが手に入らなくて困っているのは、お金が不足している高齢者だ。
では、政府にお金を出してもらえばいいのだろうか。
残念ながら、政府ができるのは「困る人を変えること」でしかないのだ。

たとえば、現役世代に重い税負担を課して、高齢者に十分な年金を支払う。
高齢者は生活できるが、現役世代が生活できなくなる。
困る人が現役世代に変わるだけだ。

国債の発行などで、現役世代も高齢者も十分なお金を手にすることができたらどうか。
やはり、国全体のモノ不足は解消されない。
お金が増えてもモノが生産されるわけではないからだ。
物の価格が上がり、みんなに十分な物が行き渡らなくなり、全員が少しずつ我慢することになる。

国全体の生産力が落ちてから気づいても、年金問題は解決できなさそうだ。
未来を変えるために、今の僕たちにできることを考えないといけない。

p220

政府が借金をして使う1500億円はただ移動するだけだ。
工事に関係するあらゆる会社や働く人々が受け取っている。
受注した会社やその下請けの従業員たちだけではない。
工事現場に配達されたお弁当の中の米を作る農家だって、受け取っている。
この国立競技場を作ったのは、お金ではなく工事に関わった人々の労働だ。
そして国立競技場の価値は、1500億円ではなく、国立競技場から得られる効用だ。

さて、将来の世界はどうなっているか。
もちろん政府の1500億円の借金は将来の国民に受け継がれる(※1)。
それと同時に1500億円の預金も受け継いでいる。

工事関係者に配られた1500億円のお金は、使われるたびに誰かの財布から誰かの財布へ移動はするが、消えはしない。
財布の所有者が亡くなっても、誰かが相続している。
政府の借金と同様、政府が使ったお金も未来の国民が受け継いでいる。

国立競技場が建設されて20年経っても、まだまだ使うことができる。
そこには効用が存在している。
将来の国民は、働かずして競技場を利用できる。
その効用の分だけ得をしている(※2)。
昔の国民の「おかげ」なのだ。
借金を増やし続ける家庭はいつか破産してしまうが、現在の日本政府の借金は1000兆円を超えているのに、まだ破産していない。
「誰が働いているのか」を考えれば、これは不思議なことではない。

家の借金の場合、借金したお金で家の外の人たちに働いてもらう。
外の人に働いてもらうのだから、いつかは働いて返さないといけない。
あたりまえのことだ。

日本政府の借金については、そのお金で働いてくれた人が国の中の人である限り、働いて返さなくてもいい。
国の中にある財布から財布へ移動しているだけだからだ。

格差は、世代間ではなく「同世代」の中にある p222

日本という国の財布」の中には、3つの大きな財布が入っている。
「政府の財布」と「個人の財布」と「企業の財布」だ。
個人の財布には、国民それぞれの持つ財布が入っている。
企業の財布には、国内にあるそれぞれの企業の財布が入っている。

使ったお金は消えてなくなるのではなく、どこかに移動している。
政府の借金した10兆円も、個人の財布と企業の財布に移動しただけだ。
公務員や、病院で働く医師や看護師、新国立競技場を作るために働く人たち。
彼らはみんなのために働いた正当な報酬として政府からお金を受け取り、そのお金で食料を買ったり、洋服を買ったりしている。
政府が借金して使ったお金が、みんなの財布へと流れていく。

政府が借金をした分だけ、個人や企業の財布のお金は増えている。
どれだけ時間が経っても、そのお金はどこかに存在していて誰かが相続している。
政府が借金を返すために個人や企業から税金を徴収すれば、いつでも1000兆円を集めることができるのだ。

p224

逆にいうと、政府が借金を返さない限り、みんなのお金が減ることはない。
僕たちがどんなにお金を使っても、個人と企業の財布の中で移動するだけだからだ。
使っているのはお金ではなく労働だ。

世代が変わっても、政府、個人、企業の3つの財布に入っているお金の合計は変わらない。
借金が増えていても同じ額の預金が増えている。
だから、世代間の格差は存在していないのだ。 (※)

そう言われても納得いかないかもしれない。
1000兆円の借金を日本の人口の1億2000万人で割ると、一人当たり800万円になる。
そんな預金もないし、相続もしていないと思うかもしれない。
格差が存在しているのは確かだが、それは同じ時代を生きる人々の中に存在している。

政府が使ったお金をみんなが均等に受け取るわけではないし、均等に働いているわけでもないし、前の世代から均等に相続しているわけでもない。
それらは、何らかの格差を生んでいる。

しかし、それらの格差すべてが悪いとは言えない。
自分の労働の結果として、お金を貯めている人は数多くいる。
問題があるとすれば、政府が使うお金で誰かが不当に儲けていることだ。
また、一度生じた格差が相続によって受け継がれることに問題があるという見方もできる。

こうした格差問題について議論の余地は大いにあるが、少なくとも「世代間の格差」でないことは理解できるのではないだろうか。

p231

経済は社会全体の話だと思いながらも、実際には自分の財布の中だけを見てしまいがちになる。
ここまで、現代社会で人々を個人主義に走らせている「お金への誤解」を解いてきたつもりだ。
その誤解が、人々を、空間的にも時間的にも分断しているのではないかと僕は思っている。

年金問題というイス取りゲーム p236

お正月、NHKで中継されるウィーンフィルのニューイヤーコンサート。
90カ国以上で中継され世界中の関心を集める一大イベントだ。

そのチケットは、高い席で1枚15万円近くする。
その上、お金さえ払えばチケットが手に入るわけでもない。
2000にも満たない座席を求めて世界中の人々が殺到する。
世界有数に厳しいイス取りゲームだろう。

希望者よりもイスの数が少なければ、お金を払ってもイスには座れない。
たとえば保育園の待機児童問題も同じだ。
このイス取りゲームに負けると「待機児童」として席が空くのを待つしかない。
問題を解決するには、定員の数を増やすしかないのは誰の目にも明らかだ。

p244

僕たちが生活できるのは、「働く人」がいるからだ。
働く人がいて初めてお金が価値を持つ。
2020年時点で、1.9人が働いて1人の高齢者を支えているという事実は、年金保険料や税金が減っても変わらない。
労働という視点では、社会全体の負担は何も変わらないのだ。

親を直接介護するときでも、昔であれば4、5人の兄弟姉妹で分担できたが、今では1人か2人の子供が面倒を見ないといけなくなっている。
高齢化社会で困るのは、一人当たりの労働の負担が増えることだ。

p244

改めて、経済とは何かを考えないといけない。
僕たちが社会の運営に対して負担しているのは「働くこと」だ。
働くことで何かを生産し、その成果を社会全体で分かち合う。
その結果、僕たち一人ひとりの生活が豊かになる。
これこそが経済だ。

コンビニのおにぎりも、家の食卓に並ぶおにぎりも、被災地の炊き出しで出されるおにぎりもすべて誰かが働くことで作られる。
モノの生産にお金は必ずしも必要ではない。
無償で働くこともある。
でも、働く人がいなければ、モノは生産されない。
お金を支払ってふんぞり返る人たちだけがいても、何も生産されない。

「お金を支払うこと」が社会に対しての負担になるのではなく、「支払うお金を稼ぐために働くこと」が、社会に対しての負担になるのだ。