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「NO HARD WORK! 無駄ゼロで結果を出すぼくらの働き方」を読んだ

投稿時刻2024年7月22日 18:00

NO HARD WORK! 無駄ゼロで結果を出すぼくらの働き方」を 2,024 年 07 月 22 日に読んだ。

目次

メモ

p15

多くの人びとが一週間に六〇時間から八〇時間を仕事に費やしている。
だが、そのうち、どれほどの時間を本来の仕事に使えているだろう?
そのうちの何時間が会議で潰れ、メールや電話応対や同僚との会話などで消えていき、朝礼などのたいして役に立たない会社の習慣に費やされているだろう?
そりゃもう、たっぷりの時間だ。

これを解決する方法は、もっと長く働くことじゃない。
つまらない用事を減らすことだ。
生産性を上げるのではなく、無駄をなくすことだ。
邪魔が減れば、ずっと抱えていた不安が消え、ストレスを減らすことができる。

ストレスは組織から社員へ、社員から顧客へと伝わるものだ。
それに、ストレスは仕事の場だけにとどまらない。
あなたの生活に入りこみ、友人や家族や子どもとの関係に影響を及ぼす。

p17

僕らの会社の労働時間は、一年を通してだいたい一週あたり約四〇時間、夏は週たった三二時間だ。
メンバーは三年に一回は一ヵ月の休暇が取れる。
僕らはその期間を有給休暇にしているだけでなく、休暇中の旅行費用も会社で持っている。

p18

僕らは自分たちの会社を独自にデザインした。
この本では、僕らがどういう決断を下したのか、なぜその選択肢を選んだのかを説明している。
同じような選択をしたいと考える会社にとって、ためになる方法を示そうと思う。
あなたはきっと、それらの選択肢を選びたくなるはずだ。
そしてそれらを実践してみると、思っていたよりはるかにいい方法だと気づくだろう。
あなたの会社もカーム・カンパニーになれる。

現代の職場は異常だ。
混沌を職場の日常にしてはいけない。
不安は進歩の必須条件じゃない。
成功に必要なのは、一日じゅう会議室にすわって過ごすことでもない。
むしろ、それらはどちらも、あなたを本来の仕事から遠ざける障害物だ。
不具合を抱えたモデルのありがたくない副産物であり、崖から飛び降りて死んだリーダーに続いて次々に飛び降りるレミングの群れみたいな最悪の習慣だ。
そんな習慣はするりとかわして、ゴマすりたちに崖からジャンプさせておけばいい。

カームとは、人びとの時間と集中力を守ること。
カームとは、一週間あたりの労働時間を約四〇時間におさめること。
カームとは、現実的な見込みを立てること。
カームとは、充分な休日があること。
カームは、比較的小さい。
カームは、くっきりみえる境界線。
カームは、会議を最後の手段とする。
カームは、まずはメールなどの受動的なコミュニケーションツールで、その次にリアルタイムでコミュニケーションを取ること。
カームとは、みんなが独立していて、相互依存が少ないこと。
カームとは、息の長い持続可能な営み。
カームは、採算性が高い。

僕らのことを少し p20

僕ら、ジェイソンとデイヴィッドは、二〇〇三年からベースキャンプという会社を共同経営している。
ジェイソンはCEO(最高経営責任者)でデイヴィッドはCTO(最高技術責任者)。
経営幹部はこのふたりだけだ。

会社は製品 p22

こう考えることからはじめよう。
「会社はひとつの製品だ」

たしかに、あなたがつくっているものこそが製品(やサービス)なのだけれど、それらをつくっているのはあなたの会社だ。
だからこそ、会社はもっとも優れた製品であるべきだ。

この本では、その考えかたを中心に話を進めている。
製品の開発と同じく、会社もバージョンを重ねて進歩する。
製品をよくしたいと思うなら、マイナーチェンジや修正、バージョンアップをしつづけなければならない。
会社でもそれは同じだ。

だが、会社に関していうと、多くの企業が変化しないままでいる。
製造している製品には変更を加えるのに、会社はどうにかして現状を保とうとする。
一度働きかたを決めたら、その方法にしがみつく。
はじめたときは大流行だった職場の習慣が、流行が終わっても染みついたまま長年続いている。
方針がセメントみたいにカチカチに固まっているのだ。
会社は会社そのものにがんじがらめに縛られている。

けれども、会社をひとつの製品と考えると、次のようなさまざまな疑問がわいてくるのではないだろうか。
「この会社で働く人びとは会社の運用方法を知っているだろうか?その方法はシンプルか?複雑か?動かしかたは明確か?長所はどこか?短所は?バグはあるか?すぐに直せる不具合がどれで、修正に時間がかかる不具合はどれか?」

会社はソフトウェアみたいなものだ。
使いやすくて、有用なものでなければならない。
もしかするとバグもあるだろう。
会社が潰れるのは、組織デザインがマズかったり、企業文化に手抜かりがあるせいだ。

会社をひとつの製品として考えることができれば、改善のためのさまざまな可能性が生まれる。
働きかたは変えられると気づいたら、新たによりよいモデルをつくることができる。

p25

僕らは製品に打ちこむのと同じくらいの熱意で、会社もつくってきた。
ソフトウェアの名前の後ろには「iOS10・1、10・2、10・5、11」などのようにバージョン番号がよくつけられている。
僕らは会社も同じように考えている。
現在のベースキャンプ社は、ベースキャンプ LLC バージョン 50・3 というように。
僕らは目的を持って取り組み、試行錯誤を繰りかえし、どの方法がもっとも有効かを探しながらいまの形にたどり着いた。

p33

起業家には、生き残りをかけた勇壮な話は必要ない。
大半の時間はそれよりもっと退屈だ。
爆発している車を飛びこえてワイルド・チェイスするような心の躍る時間はほとんどなくて、レンガを積み、ペンキを塗りつけるような地味な作業が多い。

だから、がんばることをやめる許可を、ここであなたに与える。
毎日毎日きちんと働くけれど、長く働きすぎないこと。
子どもと遊ぶ時間を取っても、起業家として成功できる。
趣味を楽しんでもいい。
自分の身体を大切にしてもいい。
本を読んでもいい。
パートナーとバカげた映画を見たっていい。
時間をかけてちゃんとした食事を料理してもいい。
長い散歩に出かけてもいい。
ときどきまったく普通の人になってもいいのだ。

ハッピーな不戦主義者 p34

ビジネスの世界は、戦いや勝利、支配と破壊に満ちている。
この風潮が、ビジネス・リーダをちっちゃなナポレオンに変える。
世界に爪痕を残すくらいでは物足りない。
世界を征服しなければ気がすまないのだ。

勝つか負けるか、ふたつにひとつしかない世界に生きている会社は、競争相手より「市場のシェアを広げる」のではなく、「市場を独占」しようとする。
顧客にサービスを提供するだけでなく、顧客を「捕まえる」。
顧客を「標的」として、営業「戦力」を雇い、ときには新たな才能を探す「ヘッドハンター」を採用し、「戦い」を挑み、「勝利」する。

このような戦争用語で描かれる世界は、殺伐としている。
あなたが軍の司令官で、敵(競争相手)を倒さねばならない状況にあるとしたら、ずる賢い手やモラルもへったくれもない方法を使うのもしかたがないと自分を納得させやすくなる。
そして、戦いが大きくなればなるほど、卑怯な策を弄するようになる。

「愛と争いに手段は選ばない」といわれている。
けれども、いま話題にしているのは、愛でもなければ争いでもない。
ビジネスだ。

残念ながら、戦いや征服といったビジネス用語を避けるのは簡単なことじゃない。
報道機関には、競合会社を敵対勢力として描きだすためのテンプレートでもあるにちがいない。
セックスや戦争を売り物にするように、ビジネスバトルを金融欄のスキャンダルとして提供している。

けれどもこれらの考えかたは、僕らの会社ではなんの意味もない。

僕らは平和にやっている。
僕らには帝国主義的な大志はない。
業界や市場を独占しようとも思っていない。
みんながいい思いをすればいいと願っている。
自分たちが幸せになるために、誰かの幸せを奪う必要はない。

僕らの会社の市場でのシェアはどれほどだろうか?
知らないし、知りたいとも思わない。
それは重要なことじゃない。
僕らが費やしたコストを埋め合わせ、儲けを生みだすのに充分なお金を支払ってくれる顧客がいるか?
ああ、いるとも。
毎年その顧客の数が増えているか?
ああ、増えている。
それで充分だ。
市場の二パーセントだろうと、四パーセントだろうと、七五パーセントだろうとどうでもいい。
大事なのは、健全なビジネスを行なって、僕らにとって良好な経済発展ができているかどうかだ。
コストが適切にコントロールされ、利益のあるセールスが行なわれているかどうかだ。

もう少しいわせてもらうと、市場のシェアに対し、正確に自分の会社のシェアを割りだすなら、まずは市場のサイズを明確にしなければならない。
この本が出版される時点で、僕らは毎月一〇万社以上の企業から「ベースキャンプ」というソフトの使用料を月単位で受けとっている。
これが何千万ドルもの年間利益を生みだしている。
市場全体でみればほんのささいな額だということはわかっているけれど、僕らはそれで満足している。
僕らは顧客にいい影響を及ぼし、顧客も僕らにいい影響を及ぼす。
それが大切だ。
市場のシェアを二倍や三倍、四倍にすることは重要じゃない。

多くの会社は一般的に比較ばかりしている。
業界一位か、二位か、三位かということだけでなく、自分たちの製品がいちばん近いライバルの特徴と比べてどれほど優れているかも気にしている。
誰がどんな賞を得たか?
自分たちより金を稼いでいるのはどこか?
どこがマスコミから注目されたか?
なぜ彼らがあのカンファレンスのスポンサーになったのに、自分たちはなれなかったのか?

マーク・トウェインは「比較は喜びを半減させる」という核心を衝いた言葉を遺している。
僕らもマークに賛成だ。

僕らは比べない。
ほかの会社がしていることは、僕らができることや、僕らがしたいこと、僕らが選択したことに、なんの影響も及ぼさない。
ベースキャンプでは競争はない。
追いかけなくちゃいけないウサギはいない。
僕らが幸せかどうか?顧客が購入してくれるかどうか?を尺度に、ベストを尽くして働くことで深い満足を得ている。

僕らが唯一そうとしているのは、時代遅れのアイデアだけ。

市場独占の反対語は、撤退じゃなくて、参加だ。
市場に多くある選択肢のひとつになることは、顧客の現実的な選択肢を広げられるという価値がある。
あなたがそこを受けいれれば、ビジネスの世界から戦争用語があっというまに消えていき、あるべき姿に戻るだろう。

一日の終わりに、競争相手の顔に砂を投げつけて競争に勝つのと、競争相手のことなど忘れて、自分のやりかたで、最高にクールなものをつくるのとどちらがいいだろう?

僕らの目標=目標はつくらない p39

一般的な会社には、四半期目標や年間目標があり、ときには「BHAG(ビーハグ)」と呼ばれる「壮大かつ困難で大胆な目標」なんてものもある。

「前期で我々は一四パーセントの成長を達成した。だから今期の目標は二五パーセントにしよう」

「今年は一〇〇番目の社員を雇おう」

「いっぱしの企業と認めてもらえるように、あの雑誌で特集を組んでもらえるようになろう」

ビジネスの目標は、たいていさらに大きく、さらによくなるよう奮闘するためのもので、それを設定するという概念はすっかり当たり前になっている。
だから議論するとしたら、その目標が充分野心的なものかどうか、くらいしかないように思える。

だから、僕らが目標を定めていないといったときの人びとの反応は、たやすく想像できるだろう。
僕らには目標は何もない。
顧客の獲得目標もないし、売上目標もないし、保有利益や年間売上、(利益があること以外に)特定の利益目標もない。
本当だ。

この目標を立てないというマインドセットのおかげで、ベースキャンプはビジネスの世界で異端児扱いされている。
そして、僕らみたいな少数派のなかには、「目標がなんの役に立つのか」単にわかっていない人もいる。

けれども僕らは、目標が役に立つことは理解している。
ただ、その効果に関心がないだけだ。
僕らは取りこぼしたお金があっても気にしないし、レモンを最後の一滴まで絞りだす必要も感じていない。
いずれにしろ、最後の数滴はたいてい苦みが混じる。

利益を増やすことに興味はあるか?
ある。
収入額に関心は?
ある。
もっと効率をよくすることに対しては?
ある。
製品をよりわかりやすく、速く、便利にすることに興味は?
ある。
顧客や従業員をもっと幸せにすることには?
もちろん関心ありだ。
バージョンを重ねて改善していくのは好きか?
大好きだ。

よりよいものをつくりたいか?
いつもそう思っている。
けれども、「よりよさ」を極めるためにつねに目標を追いかけたいかというと?
それはいらない。

だから、ベースキャンプでは目標を立てていない。
会社をはじめたときも目標を立てなかったし、あれから二〇年近くたったいまも立てていない。
僕らは日々、できるかぎりベストを尽くすだけだ。

けれども、少しのあいだ、気が変わった時期があった。
九桁の壮大な売上目標を立てたときだ。
「目標を立ててもいいんじゃないか?」と僕らは考えた。
「僕らならできる!」と。
ところが、しばらくその目標を追いかけたあと、もう一度考えなおした。
そして「目標を立てる必要はないんじゃないか?」と思える、とても明確な理由を見つけた。
それは、「(1)掲げた数字を気にしているふりをするのは不誠実だし、(2)目標に到達するために会社の文化をダメにする気はない」ということだ。

ぶっちゃけていうと、目標なんてフェイクにすぎない。
ほぼすべての目標は、目標を立てなければならないという理由で無理に設定されたものだ。
それらの根拠のない数字が、達成するか打ち捨てられるかするまで、不要なストレスの根源として機能する。
そしてうっかり達成しようものなら、また新たな目標が立てられ、それに向かってさらにプレッシャーがかけられる。
第1四半期に勝利したからといって、それで終わりじゃない。
四半期は年に四回ある。
一〇年なら四〇回だ。
しかも毎回掲げられる目標は、期待に応え、うわまわり、ときに裏切るものでなければならない。

なぜ自分自身や自分の仕事にそんな目標を課すのだろう?
いい仕事、創造的な仕事をするだけで充分キツイじゃないか。
だから、ずっと続けられる息の長いビジネスを、楽しんで仕事をしている従業員たちとつくりあげよう。
わざわざ、仕事や給料やボーナスや子どもの大学の積立金に暗い影を落とす、独断的な数字を課す必要はないだろう?

それに、目標の設定には、さらに暗い側面がある。
目標を追いかけ、デタラメな数字に到達しようとしているうちに、モラルや誠実さや健全性が損なわれてしまうことが多い。
目標に届いていないときは良心が忘れられてしまう。
利益を数ポイント改善する必要があるって?
なら、しばらく品質については目をつぶろう。
目標の数字に達するには、この四半期に八〇万ドル必要?
では顧客からの返金請求をもっとむずかしくしよう。

携帯電話を解約しようとしたことはあるだろうか?
契約の解除自体は本質的には複雑な行為ではない。
けれども、電話会社の多くがわざと解約しにくくしている。
会社が到達すべき目標をつねに掲げているせいだ。
自分たちが目標の数字を達成できるよう、簡単には解約できないようにしているのだ。

僕らは壮大な九桁の目標に到達しようと試した数カ月のあいだ、いくつかのプロジェクトを市場に出したが、目標に達するプレッシャーに免疫がなかった僕らでさえ、よくても不安を感じていたし、最悪な場合は少しズルをした気分を味わった。
登録者数を増やすためにフェイスブックやツイッターやグーグルに大金をはたいたみたいな気がした。
プライバシーの侵害と集中力の分断を助長させるツールに小切手を切るのはおもしろくなかったけれど、僕らはしばらく目をつぶることにした。
なぜなら、そう、目標の数字に届きそうだったから。
まったく、どうかしていた。

もっと大胆なことをしてみたらどうだろう?
ターゲットも目標もナシにしてみては?

目標などなくてもすばらしいビジネスを継続することはできる。
本物の仕事をするためにデタラメなものは必要ない。
目標がどうしても必要だというなら、ビジネスを維持することだけを目標にしたらどうだろう?
あるいは、顧客の役に立つこととか?
仕事場を快適な場所にすることとか?
これらの目標は測定がむずかしいが、だからといって重要でないわけじゃない。

世界を変えるな p46

ビジネスの世界は、バブル化した野心に憑りつかれている。
もはや、ただいい製品をつくったり、すばらしいサービスを提供したりというだけではすまない。
いまや、新製品がいかに世界を一変させるかが問題なのだ。
一度に千もの製品が「革命的」という宣伝文句で売りだされている。
やれやれ、冗談じゃない。

どうやってもこのバブル野心はおさまりそうにない。
それは破壊への偏愛にも似ている。
このごろは誰もが、いわゆる“創造的破壊者”になりたがる。
「すべてのルール(といくつかの法律)をぶっ壊せ」、「既存の業界をひっくり返せ」という具合に。
だけど、自分で仕事の成果に「革命」というラベルをつけたら、おそらくそれは革命ではない。

「ベースキャンプ」は世界を変えたりしない。
ただ、企業やチームでのコミュニケーションや共同作業が簡単にできるようにするだけだ。
これはとても価値があることだし、すばらしいビジネスが生まれる。
とはいえ、世界の歴史を書きかえられるわけじゃない。
けど、それでいい。

世界を変えなくては、と考えるのをやめたら、自分だけでなく周りの人びとの肩の荷も軽くすることができる。
いつも仕事モードでいなくちゃならない便利な言い訳がなくなる。
残業せずに家に帰ったとしても、翌日になればまた、丸一日働ける。

そうなれば、夜九時の会議や週末の仕事を正当化するのはずっとむずかしくなる。
それに、おまけのボーナスとして、家族や親戚一同の集まりで近況を伝えるときに、こんなふうなイタい自慢話をしなくてすむ。
「どうしてるかって?ペットの絵文字をつくっているところさ。ペットの医療保険分野に殴り込みをかけて世界を一変させるんだ」……ね?

いい仕事をしよう。
顧客や従業員や現実の世界とフェアに関わろう。
つきあう人びとに長続きする印象を残し、世界を変えることはあまり(というかまったく)気にしないでいよう。
世界を変えようとしなければ、世界を変えられるチャンスはあるけれど、変えると口に出してしまったが最後、世界は変わらない。

進みながら決める p48

ベースキャンプに基本計画はない。
会社についての計画も製品についての計画もない。
五年計画もない。
三年計画もない。
一年計画もない。
なんにもない。

僕らは計画を立ててビジネスを立ちあげたわけじゃないし、計画に基づいてビジネスを進めているわけでもない。
二〇年近いあいだ、仕事を進めながら次にどうすべきか決めてきた。
計画するのはせいぜい数週間先のことだ。

目先のことしか考えていないじゃないかと思う人もいるだろう。
そのとおり。
僕らは文字どおり、目の前にあることだけをみて、その先のさまざまなことには目を向けていない。

短期計画はなにかと非難されてきたが、それは不当な評価だと思う。
僕らは、約六週間ごとに次に何をするかを決める。
それが唯一の計画だ。
それより先のことはなんであれ、「あとで検討」案件とみなす。

近い将来のことだけを計画することにしておけば、気が変わったときにも決定を変更しやすい。
これでかなり気が楽になる。
完璧な計画をつくらねばというプレッシャーから解放されるし、それに伴うストレスをずいぶん減らすことができる。
僕らは、船の進めかたとして、事前に決めた基本的ないくつかのおおまかな動きだけで操縦するより、航行中にさまざまな細かい情報をインプットしながら舵を切るほうがいいと考えている。

さらにいうと、長期計画は偽の安心感を植えつける。
五年後、三年後、一年後に世界がどうなっているかなんてわからない。
そう認めるのが早ければ早いほど、あやふやな将来に向けて大きな決定を何年もまえに下さねばならない恐怖を感じずに前に進むことができる。
予測を立てなければ、予測に押しつぶされることもない。

組織にいるからこそ抱える悩みのひとつは、会社がまちがった方向に進んでいるのに、「計画」のせいでいまさら方向転換できず、「最後までやり通すしかない!」と悟ったときに生まれる。
ある時点でいいアイデアだと思えたとしても、けっきょくはマズいアイデアだったのなら、最後までそれを押し通すのはエネルギーと能力の無駄づかいだ。

なんであれ、遠く離れるほどあいまいになる。
未来はひどくぼんやりしていて、コントロールできない数百万もの不安定な要素に満ちている。
ある計画に関するもっとも有用な情報は、その計画を実行するときに得られる情報だ。
僕らはそのときが来てから計画を立てる。

p52

基本的に、次のレベルに到達するために何かを突破しなければならないという考えは、僕らの考えとは一致していない。
たいていは、突破するというより、不思議の国のアリスみたいにウサギの穴に飛びこんで、奥へ奥へと掘りすすみ、そこで過ごしているうちに大きな利益が得られるものだ。
手を広げるより、深く掘りさげるほうが解決の糸口が見つかりやすい。

どこか落ち着かない気分のときは、たいがい何かがまちがっている。
不快感は、たとえば終わりがみえないまま長時間働くことであれ、投資家に印象づけるために売上額を誇張することであれ、広告主にユーザーの個人データを売ることであれ、不確かな状況や不正なことに対する人間の反応だ。
不快感をすべて我慢することに慣れてしまったら、あなたらしさや、あなたの流儀やモラルがどんどん失われてしまうだろう。

いっぽう、自分の不快感に耳をかたむけ、原因になっていることから手を引けば、正しい道を見つけられる可能性が高くなる。
ベースキャンプでは何年ものあいだ、何度もその状況をくぐり抜けてきた。

保護主義 p60

会社は何かを守りたがる。

会社は商標権や訴訟で自分たちのブランドを守り、ルールや方針や守秘義務契約で、自分たちのデータや取引上の秘密を守る。
予算や最高財務責任者(CFO)や投資で自分たちの金を守る。

会社は多くのものを守っているけれど、たいていは、いちばん価値があっていちばん大切なものを守れていない。
それは従業員の時間と集中力だ。

会社は、従業員の時間と集中力が無限にあるみたいに、その両方を浪費している。
それらにコストがかからないとでもいうように。
けれども、従業員の時間と集中力は、なによりも貴重なリソースだ。

僕らの会社ベースキャンプでは、会社が責任を持って、従業員の時間と集中力を最優先で守るべきだと考えている。
従業員が仕事に一日じゅう集中できるようにしてこそ、すばらしい仕事が期待できる。
とぎれとぎれの時間に自分の仕事に戻るというやりかたでは、ほとんど集中できない。

たとえば、ベースキャンプでは定例会議がない。
僕らはみな、そういう会議がどういうものか知っている。
ひとりが少し話していくつかの計画を共有し、次の人がまた同じことを繰りかえす例のあれだ。
あれは時間の無駄でしかない。
なぜかって?
同じ時間にみんなが集まるのは効率がいいようにみえるが、そんなことはない。
費用もかさむ。
一部屋に八人集まって一時間会議したとすると、そのコストは一時間ではなく八時間になる。

僕らは定例会議のかわりに、一日一回か週一回、それぞれ時間ができたときに読めるよう、「ベースキャンプ」に各自が最新情報を書き込むことにしている。
こうすることで、一週間に何十時間も節約できるし、従業員は邪魔のはいらない時間をより長く確保できる。
会議はその「まえ」と「あと」に一日の時間を分割してしまいがちだ。
それらの会議をなくせば、たちどころに時間がひとつにつながり、自分の仕事に没頭できるようになる。

時間と集中力は、小銭を貯めるみたいにこまごま集めるより、高額紙幣みたいに、ひとかたまりで費やすほうがいい。
大きなひとまとまりの時間が得られれば、期待されているとおりのすばらしい仕事を心ゆくまで進められる。
その時間が得られないなら、不要なのに義務づけられている毎日の雑用のあいまの時間を寄せあつめて、プロジェクトの仕事をなんとか押しこむしかなくなる。

そうなると、思ったとおりに仕事が進まず、それを埋め合わせるために長く、遅くまで働いたり、休日働いたりすることになる。
それ以外に邪魔されない時間が見つからないからだ。
あえて通勤を望む人がいるが、その理由が、自分の唯一の時間を確保するためだというのは悲しすぎる。

そんなわけで、保護主義者になるのはいいけれど、お忘れなく。
大事なのは、何を守るかだ。

生産性より効率 p67

このごろは、誰もが生産性を上げるライフハックを話題にしている。
生産性を上げるのに役立つ手法やツールがひっきりなしに紹介されている。
けれども、そもそもいったいなんの生産性を上げるのだろうか?

生産性というのは機械に使う言葉で、人に対して使う言葉じゃない。
いくつかの作業をある時間内につめこんだり、できるだけ多くの仕事をできるだけ短い時間にすませたりすることに意味などない。

機械は二四時間、週七日ぶっとおしで動かせるけれど、人間はそんなことはできないからだ。

生産性に焦点を絞ると、忙しく作業することに焦点が絞られる。
ちょっとした時間も何か作業をして埋めようとする。
いつだって、できる量よりすべきことのほうが多いのだ!

ベースキャンプでは、忙しくしていることがいいとは考えていない。
それより、効率が大事だと思っている。
いかに作業を少なくできるか?
どれだけ省略することができるか?
僕らすべきでないことは、 to-dos リストではなく、 to-don'ts リストをつくる。

生産性を上げるというのは、時間を埋めることだ。
たとえば、びっしりスケジュールをつめこみ、できるだけ仕事をこなすことだ。
効率を上げるというのは、予定のないあき時間や、仕事以外のことに使える時間を増やすことだ。
レジャーのための時間、家族や友人と過ごす時間。
あるいは、本当になんにもしない時間。

そう、なんにもしない時間があってもぜんぜんかまわない。
というよりむしろ、何もしないことに価値がある。
その日のうちにすべき仕事が三時間で終わったのなら、そこで仕事は終わりにしよう。
ただ忙しくしたり、生産的な気分になるためだけにあと五時間を埋める必要はない。
する価値がないことはしないで過ごすというのは、すばらしい時間の過ごしかただ。

開講時間 p75

ベースキャンプにはさまざまなエキスパートがいる。
統計に関する質問に答えられる人、 JavaScript (ジャバスクリプト) の問題処理や、データベースの問題、ネットワーク診断が得意な人、ややこしい原稿の校閲作業がうまい人など。
僕らの会社で働いているときに答えが必要になれば、エキスパートに訊けばいいだけだ。

それはすばらしいことだ。

でも、問題もある。
適切な回答からヒントを得たり、大幅に仕事が進んだりするのはとても助かる。
でも、質問を受ける人が、一日にいろんな人からさまざまな質問を五つ受け、それに対応しているだけでその日の仕事が終わったりするのは困る。

疑問を抱えている人は、求めている答えを得た。
けれども答えを持っている人は別の仕事をしていたのに、その仕事を中断しなければならなかった。
これはフェアじゃない。

問題は、質問するのが簡単で、いつも答えてもらえるので、心に浮かんだらすぐにどんな質間でもしてしまうことだ。
大半の質問は急いで回答が必要なものではないのに、エキスパートにすぐ質問したいという衝動が抑えられない。

その人の働いている理由が、質問に答えることだけで、ほかの人のために一日じゅう待機しているのだとしたら、それでいいだろう。
でも、僕らの会社のエキスパートは、それぞれ自分の仕事を抱えている。
仕事をしながら疑問にも答えることなどできない。

ほかの人からの質問で仕事がたびたび中断させられる、あるエキスパートの一日を想像してみてほしい。
一日で質問をさばける量は、ひとつもないかもしれないし、片手ほどかもしれないし、十数件かもしれない。
それは誰にもわからない。
なお悪いことに、そういう質問がいつ来るか予想できないのだ。
ランダムに送られる、ほかの人びとからの質問を律儀に受けていた一日のプランなど立てられない。

だから、僕らは大学のアイデアを借りた。
つまり開講時間(オフィス・アワー)をつくった。
ベースキャンプのそれぞれ分野の異なるエキスパートは、いまでは開講時間を掲げている。
たとえば、ある人は毎週木曜の午後が開講時間だし、一日一時間開講している人もいる。
各エキスパートが自分の都合に合わせて決めているのだ。

でも、月曜日に疑問が生じて、訊きたい相手の開講時間が木曜だったら?
そのときは待つのだ。
木曜までほかの仕事をするか木曜までに自分で答えを見つけるかだ。
大学で教授と話をしたいなら講義の日まで待たねばならないのと同じだ。

これは一見効率が悪そうにみえるかもしれない。
お役所仕事みたいだとさえ思われるかもしれない。
けれども、僕らはこれ以外の方法も試したことがある。
開講時間はベースキャンプでは大人気のシステムだ。

ふたをあけてみると、多くの場合、待つのはたいした問題ではなかった。
いっぽう、エキスパートたちが自分たちの時間を取りもどし、スケジュールの管理ができるようになったのは大きな収穫だった。
穏やかな日々と、邪魔のはいらないひとつづきの時間のおかげで仕事に集中できるようになったし、計画的に疑問に答える時間を設けたことで、エキスパートらはその時間になるとプロフェッショナルなモードに切り替えて、ほかの人に助言したり、手助けしたり、情報をシェアしたりできるようになった。

楽しみに待つべきものと忘れていいものがある。
これは誰にでも当てはまる。

だから、オフィスのドアは大きくあけておこう(ただし、火曜日の九時から正午までにかぎる)。

FOMO?JOMO! p89

FOMOとは、取り残される恐怖や不安感だ(Fear of Missing Out)。
ツイッターのフィードや、フェイスブックの更新、インスタグラムのストーリー、ワッツアップ〔ラインのようなリアルタイムのメッセンジャーアプリ〕のグループや新たなアプリを確認しなければという強迫観念を引き起こす、やっかいな感情だ。
日に何十回も、情報更新の通知音がするたびにスマートフォンを手に取る人は珍しくない。
だって、その情報がめちゃくちゃ重要だったらどうする?(そんなことはけっしてないのだが。)

その風潮はソーシャル・メディアだけなく、会社にも浸透している。
FOMOを養うにはメールだけでは足りないとでもいうように、いまでは、チャットなどのリアルタイム・ツールの新たな世代が、FOMOをさらにかきたてる。
さらにまた別のツールが、一日じゅう見逃せない情報としてニュースを垂れ流して気を引こうとする。

もうたくさんだ。
そんな情報は見逃せばいい!
大半の人が大半の時間は大半のことを見逃している。
ベースキャンプでは、それを奨励している。
JOMO!見逃す喜びだ(Joy of Missing Out)。

集中して仕事を進めるために、おしゃべりやそのほかのこまごました情報が流れでてくるホースを遮断するのがJOMOだ。
しずくみたいにひっきりなしにボトボトとしたたる情報ではなく、今日起こったことは朝に要約したメールで知らせるのがJOMOだ。
みんなのみんなのJOMO。

僕らの会社で起こっていることをすべて、社員全員が知っておかねばならない理由などまったくない。
しかもリアルタイムで知る必要はぜんぜんない!
重要なことだと思ったら、自分で情報を取りにいけばいいが、大半の情報はあなたにとって重要なことではない。
会社の壁の内側で行なわれる日々の作業の多くは平凡な作業だ。
それがまっとうな仕事というものだ。
僕らがしているのは仕事であって、ニュースをつくっているわけじゃない。
会社で起こるささいな出来事を電光掲示板に映される大ニュースみたいに扱うのは、もうやめにしよう。

これに対抗するひとつの方法として、ベースキャンプでは、毎月「ハートビーツ」を書くことにしている。
これは、仕事の内容とこれまでの進捗をチームのリーダーが社内全体に向けて書く要約だ。
こまごました情報をほかの人が知りたいと思うポイントまで煎じつめたものだ。
それらの人びとには、重要でない数十もの詳細を手取り足取り教える必要はなく、最新情報を追いかけるのに必要なポイントだけで充分だ。

このところ多くの会社の人びとが、仕事上のさまざまな細かい情報を、抜き打ちテストでもあるみたいに頭につめこんでいる。
すべての事実、すべての数値、すべての名前、すべてのイベントを知っていなければならない。
これは脳の無駄づかいで、集中力の浪費だ。

目の前の仕事に集中しよう。
僕らが願うのはそれだけだ。
僕らが求めているのはそれだけだ。
あなたが聞いておくべきことがあれば、耳にはいるようにすると約束する。
もし興味を引かれ、おもしろいと思ったら、なんであれその情報を追いかけるのはかまわない。
でも僕らとしては、何かを逃すのではないかと極度に恐れるより、自分の仕事に集中できるという、うっかり忘れられがちな喜びを感じてほしい。
いずれにしろ、逃した情報はきっとたいして重要ではないだろう。

僕らは家族じゃない p95

会社は「我々はみんな家族だ」と宣言するのが好きだ。
でも、会社全体が家族なんてことはない。
僕らの会社ベースキャンプも家族じゃない。
僕らは仕事仲間だ。
だからって、お互いを気にかけていないとか、手を貸さないというわけじゃない。
僕らは互いを思いやっているし助けあってもいる。
けれども、家族というと、ちょっとちがう。
あなただってそうだろう?

さらにいえば、ソフトウェアのほうの「ベースキャンプ」も「我が子」じゃない。
「ベースキャンプ」は僕らの製品だ。
いいものにしようと努力はするが、自分の命と引き換えに守るようなことはしない。
それはやっぱり、あなただってそうだろう?

僕らは、自分たち自身やほかの人にデタラメを吹きこむ必要はない。
僕らはある製品をつくるために一緒に仕事をしていて、そのことを誇りに思っている。
それで充分だ。

会社の役員たちが、自分の会社は大きな家族みたいなものだという話をしはじめたら、用心したほうがいい。
彼らは、会社は何がなんでもあなたを守るとか、無条件にあなたを愛するというような、健全な家族ならいいそうなことはまず口にしない。
彼らが求めているのは、一方通行の献身だ。
もちろんあなたからの。

家族というイメージがかきたてられると、どれほど犠牲を払ってでも任務を果たそうという勇気がひとりでにわいてくるものだ。
夜遅くまで働き、休暇も返上するのは、収益を増やすためだけじゃない。
これは家族のためにしているんだ。
そんなふうに感情に直接訴えかけてくるのは、本来あって当然の利己心を、誰かが忘れさせようとしているときだけだ。

わざわざ家族のふりをしなくたって、仕事仲間に思いやりを持つことはできる。
親切にしたり、助けあったりだってできる。
思いやりや助けあいの大切さはいずれも信条や方針であらわせるし、なにより重要なのは行動で示すことだ。

それに、あなたにはすでに家族があって、血のつながりさえ感じられるような友達もいるのでは?
現代の会社は、タフな世界で一旗あげようとしている孤児たちが集まったストリート・ギャングとはちがう。
あなたがすでに持っているだろう家族のかわりになろうとするのは、本当の家族のニーズよりも会社のニーズを優先させるための策略にすぎない。
こういう小ズルい企みにはうんざりさせられる。

いい会社は、家族になろうとはしない。
家族のサポーターで、家族の味方であろうとする。
そういう会社は健全で充実した仕事環境を提供するので、そこで働いている人びとは、まともな時間にラップトップを閉じて、それぞれの家族のいい夫や妻、親やきょうだいや子どもに戻ることができる。

部下は上司のマネをする p98

たとえばあなたが上司として、部下には、働きすぎずに充分な休養を取り、健康な生活習慣を身につけてほしいと考えているとする。
でもあなた自身がそれと正反対の生活を送っているかぎり、部下がそんな生活を送ることはない。
イヌの群れと同じく、リーダーがとんでもない時間の使いかたをしていると、残りの群れはそれをみならう。
何をいうかは問題ではない。
何をするかが問題なのだ。

社内にいくつか階層があると、事態はいっそう悪くなる。
マネジャーのマネジャーが悪例をつくると、その影響はヒエラルキーを下っていき、雪玉のようにはずみがつく。

毎晩四時間しか寝ないCEOというどこかで聞いたことがありそうな話を考えてみよう。
まっさきに駐車場に着き、朝食まえに三つの会議に出て、真夜中すぎにオフィスの電灯を消す。
なんというヒーロー!
会社一筋の見上げた人物!

いやいや、ヒーローなんかじゃない。
群れの気持ちを奮起させるには、疲れた身体を休ませるしか方法はない。
そろそろ、みんなの心のもっと深い部分に何があるか探ってみてもいいころだ。
人びとの心の奥にあるのは、称賛よりも不安や恐れだろう。
自己犠牲の手本を示すリーダーは、どうしたって、ほかの人にも自己犠牲を求めてしまうものだ。

こういう人は、おそらく戦場ではヒーローと呼ばれるだろうけれど、あいにく会社ではヒーローになれない。
会社の命運は、どこかいちばん安い電話会議を行なえるか?や、もっと厳しい納期を設定できるか?という過酷度コンテストで決まるわけじゃない。

もしあなたが上司として、部下を取らせたかったら、あなたが休暇を取るといい。
病気のときは家で身体を休めてほしいのなら、自分が鼻水を垂らしながら会社に来てはいけない。
週末に子どもとレゴランドに行ってほしいのなら、あなたが我が子とそこに出かけたときの写真を、デスクに飾っておくといい。

仕事中毒は伝染病だ。
あなたがそれを会社に持ちこんだ張本人なら、広がるのを阻止するのはむずかしい。
そっちじゃなく、穏やかさを伝染させよう。

信頼の電池 p101

ある人のほんのささいな言動が、いちいちしゃくにさわるという経験があるだろうか?
ひとつひとつの行為は、客観的にみてそれほど目くじらを立てるほどのことではない。
けれども、こういう場合、根本的な問題がささいなことだったためしはない。
何かが起こっているのだ。

会社でも同じことが起こりうる。
誰かが何かいったり、何かしたりすると、ほかの誰かがカンカンになる。
はたでみている人は過剰反応ではないかと感じる。
何がそれほど問題なのかあなたにはわからない。
でも、何かが起こっているのだ。

では何が起こっているのだろうか?
信頼の電池が切れているのだ。

ShopifyのCEOのトビアス・リュトケがこの言葉をつくった。
《ニューヨーク・タイムズ》のインタビューで、彼は次のように説明している「私たちがよく話をするもうひとつの概念が、“トラスト・バッテリー”です。
ある会社で働きはじめた人びとは、このバッテリーが五〇パーセントチャージされています。
そして、その会社のほかの誰かと一緒に働くたびに、両者のトラスト・バッテリーのチャージ量が、たとえば約束を守られたかどうかなどによって、増えたり減ったりします」

ベースキャンプではこの言葉を使うことで、仕事上の関係性をより明確に評価できるようになった。
ある人に対する別の人の感情が「正しい」かどうかを直感で判断するのをやめた(そもそも、そんな評価方法はナンセンスだ)。
トラスト・バッテリーのチャージ量を測ることで、衝突が起きた背景がわかるようになった。

実際のところ、トラスト・バッテリーは、それまでに起こったあらゆる相互作用の縮図だ。
バッテリーを再チャージしたければ、いままでとはちがうことをしなければならない。
新たな行動と新たな態度だけがチャージにカウントされる。

また、トラスト・バッテリーのチャージは個人同士でやりとりされる。
たとえば、アリスとボブのあいだのトラスト・バッテリーは、キャロルとボブのあいだのトラスト・バッテリーとはちがう。
アリスとボブとのバッテリーは八五パーセントだが、キャロルとボブとのトラスト・バッテリーはたった一〇パーセントだ。
ボブがアリスに対して行動を変えても、キャロルとのトラスト・バッテリーのチャージは増えない。
要は、一対一の関係でしかチャージは増えないわけだ。
だからこそ、自分と仲のいい友人がほかの誰かとうまくやれていないとき、それがなぜなのか理解できない。

社員同士のトラスト・バッテリーが低いとき、それが火種となって多くの個人的な争いが起こる。
またときには、ストレスに満ちた関係を悪化させ、不安をあおる。
バッテリーが切れると、何もかもが噛みあわなくなり、何をやっても悪く取られる。
チャージが一〇パーセントというのは、相互作用が泥沼化する可能性が九〇パーセントという意味だ。

仕事上で良好な人間関係を築くのは、ええと、そう、ひと仕事だ。
最初から正直でいなければ、人間関係を築く土台さえつくれない。
最悪なのは、個人間の感情など重要でないというふりをすることだ。
職場で築いた人間関係を「ただの仕事上の」関係だからと軽視することだ。
そんなわけはない。
職場であれ家庭であれ、人間は人間だ。

熟れた果実は高い枝に p110

周りの人がこんなことをいっているのを聞いたことや、自分でいったことはないだろうか?

「我が社はこれまで営業開発に力を入れてこなかった。だから、営業経験のある彼女がちょっとがんばれば、山ほど顧客が増えるだろう」

「うちはこれまでソーシャル・メディアに手を出していなかった。だから、ツイッターをはじめたら、新たな取引がバンバン生まれるにちがいない」

「今回から、取引がキャンセルされた理由を知るためにフォローアップを行なうことになった。きっとすぐに成果が出てくるはずだ」

簡単に得られる成果は、「熟して低く垂れさがっている果実」、つまり、すぐに手に取りやすい果実にたとえられる。
けれども、うまい話はそうそう転がっているものじゃない。
なのに、僕らはついつい甘い考えを抱く。
「イージーなチャンスは捕らえられるのを待っている」とか「ちょっとの努力でがっぽり稼ごう!」とか。

でも、何年もたつうちに僕らにもわかってきたのだけれど、問題は、遠く離れている果実ほど、低く垂れさがっているようにみえることだ。
近寄ってみると、熟れた果実は思ったよりかなり高い枝に生っていることがわかる。
簡単にもぎ取れると勘違いするのは、それまで試したことがないからだ。

足を踏みいれたことのない仕事で簡単に成果を得られると軽はずみにいいきるのは、その仕事のことを何も知らないと告白しているのと同じだ。
しかも、それをするのにかかる手間がどれほどかという見積もりは、たいてい大きくはずれる。

最悪なのは、新しく雇った人に期待しすぎて、すぐに期待に応えてくれるだろうと思いこむことだ。
それではハードルが高すぎて、誰だって失敗してしまう。

最近僕らは、まさにこの状況におちいった。
ベースキャンプで初めて事業開発の経験者を幾人か雇ったとき、僕らはたかをくくっていた。
この人たちがちょいちょいっと電話をかければ、ところが、黄金をすぐにいろんな会社と提携を結ぶことができて、みるまに成果があらわれるだろうと。
これまで、この分野を専門とする人を雇ったことがなかったから、お宝の山が地面のすぐ下に埋まっているものと思いこんでいた。
そんなにむずかしいことじゃないだろ?
見つけるには思っていたよりずっと深く掘らねばならず、けっきょく僕らはこの宝探しをあきらめた。

またあるとき、ソフトウェア「ベースキャンプ」の有料ユーザーがもっと増えるように、無料サービスを使った人びとに送るフォローアップ・メールの頻度を増やそうと決めたときにも、同じことが起こった。
以前は、サイン・アップした人に一度メールを送ったら、あとはほったらかしにしていた。
だから、時間をおいて追加でメールを送るようにすれば、有料ユーザーの数はすぐに増えるだろうと期待したのだ。

けれども、そううまくはいかなかった。
簡単に手にはいると思った果実は、熟してもいなければ、手に届くところに生ってもいなかったのだ。

それまで手つかずだった領域を開拓するのだから、すぐに成果が出るはずという考えは幻だ。
ときには、幸運なめぐりあわせで、予想どおりの結果が得られることもあるかもしれないけれど、それはめったにない。
大半の移行作業や、事業開発、営業活動は骨が折れる仕事で、労が多い割に少しずつしか前に進まない。
小さな一歩を積みかさねてようやく大きく飛躍できるが、その果実は木のいちばん高いところにある。

だから次に、低く垂れさがっている果実を取ろうといいたくなったら、立ちどまってよく考えてみよう。
これまでしたことがない仕事やほかの人がしている仕事を尊重し、簡単にはできないはずだと自分にいい聞かせよう。
努力せずに手にはいる成果などほとんどない。
経験がないからこそ大胆になれることもあるし、本当は困難なことなのに簡単そうにみえることもある。
けれども、力を入れてこなかった領域に踏みだすからといって、楽に成果が出るわけではないことを忘れちゃいけない。
たいてい、初めてすることはむずかしいものだ。
組織文化を育てることがないからだ。

履歴書ではなく仕事をみよう p121

会社を経営していて、もっともストレスを感じるのは、雇った人が会社に合っていないと気づいたときだ。
気づいたら、それで終わりではない。
さて、どうする?
お引き取り願うか(自分にとってもその人にとってもキツイ状況だ)、それとも、合っていないと感じつつそのまま雇いつづけるか(あなたにとっても、その人にとっても、そしてチームのほかのみんなにとってもキツイ状況だ)。
そうなると、ひとつのストレスが別のストレスを生むことになる。

もっと微妙な状況のときもある。
仕事自体には合っているかもしれないが、チームとの相性が悪い場合だ。
誰かがあるチームに参加した(あるいは去った)とき、古いチームは消え、新たなチームが生まれる。
どんなグループでも、メンバーがひとり替われば、チームの力学が変わる。

ではどうするのか?
完璧な人を雇うことはむずかしいとしても、候補者の評価方法を考えなおせば、安全なオッズを高めることはできる。

僕らの方法は次のとおりだ。

まず、ベースキャンプでは、履歴書で候補者の判断はしない。
履歴書や経歴書はゴミ箱に放りこむ。
あなたがどこの学校に行ったとか、どの分野で何年働いたとか、ここに来るまえはどこで働いていたかさえも、僕らはあまり興味がない。
僕らが気になるのは、あなたがどういう人で、何ができるかだ。

だからあなたは、いい人でなければならない。
チームのみんなが一緒に働いてもいいと思うだけでは充分ではない。
一緒に働きたいと思える人でないとダメなのだ。
いくら仕事ができても、嫌なヤツはお断りだ。
何をしたってその部分を埋め合わせることはできない。

必要な要素はそれだけじゃない。
僕らはすでに雇っている人とはちがった、おもしろい人を求めている。
文化的な背景がまったく同じ二十代のパーカーを着たクローンが五〇人いたってしかたがない。
僕らの顧客にはさまざまな人や企業がそろっているから、その多様性にあわせてチームもバラエティに富んでいるほうが、より広くより深い仕事ができる。
「いまいる人たちとちょっとちがう」というのは、それだけで強みになる。

候補者がそれらのハードルをクリアしていれば、つまり一緒に働きたいと思える相手で、チームに新たな風を入れてくれる人であれば、残る問題は仕事だけだ。
ただし、履歴書は仕事の成果とはちがう。
履歴書は、それまでの仕事の一覧を示しているかもしれないけれど、誇張されているし、デタラメばかりだ。
そんなことは誰でも知っている。
たとえ、履歴書にウソがなかったとしても、経歴は仕事そのものではない。
言葉どおりに受けとることはできない。
実際の仕事ぶりをみるべきだ。

たとえば、あなたがナイキ社の公式ウェブサイトのデザイン変更を担当したデザイナーのひとりだったとする。
でも、あなたがどういうパートを受け持ったのかは、履歴書ではわからない。
過去の仕事で人びとが果たした仕事の多くは、その会社の所有物なので、その人の仕事を突きとめるのはむずかしいし、チームで仕事をしているから、はっきり何をしたのかはわからない。
だから、僕らの会社では、候補者に本物のプロジェクトに参加してもらうことにしている。
そうすれば候補者自身の実際の仕事ぶりをみることができる。

たとえば、新しいデザイナーを選ぶとき、僕らは最終候補者をひとりずつ一週間だけ雇う。
その期間の給料として一五〇〇ドル払い、サンプルプロジェクトで実際にデザインをしてくれと指示する。
そうすれば、プロジェクトの終わりには、その人自身がつくりだしたデザインを評価することができる。

僕らはなぞなぞや、黒板に書いた問題解決法や、架空の「すぐに答えを考えつく」つまらないシナリオも使わない。
僕らは一日じゅうクイズを解いているのではない。
リアルな仕事をしているのだ。
だからリアルな仕事とそれを行なうのに充分な時間を提供する。
雇ったあとに依頼するのと同じ種類の仕事だ。

僕らはこう考えている。
人柄と仕事ぶりに焦点を絞ることで、想像上の人物を雇わずにすむ。
誰かが巧妙につくりあげた話に、うっかり引っかからずにすむ。
すばらしい経歴に輝かしい学歴、過去に勤めていた会社は一流どころばかり。
そんな人は、誰にだって気に入られるだろう?
こんなふうにして、会社はしょっちゅうまちがった人を採用する。
現在の能力ではなく、過去の経歴に基づいて人を雇うからだ。

過去の栄光ではなく、人柄と仕事ぶりだけに注目することができれば、あなたはもっと多くの人びとにチャンスを与えることもできる。
GPA(成績平均値)などの学校の成績というフィルターをかけると、学校の勉強にあまり関心がなかった人を切り捨てることになる。
経歴でふるい分けると、独学で腕を磨いた人がこぼれ落ちる。
経験年数で足切りをすると、学ぶのが速い人が上級の職につけなくなる。
そういうフィルターや足かせはいらない。

いい仕事をしたいという熱意を持っている優秀な人は、想像もつかないような見た目で見知らぬ土地からやってくるものだ。
そういう人を見つけだしたいのなら、人柄と仕事ぶりだけに注目するのがいちばんだ。

人材争奪戦は無視しよう p129

才能豊かな人を戦って奪う必要はない。
あなたがいまその貴重な人材を雇っていようといまいと、その能力はその人に固定されたものではないからだ。
たとえ優秀な人材を引き抜いてきたとしても、うまくいくことなどめったにない。
ある会社でカリスマ社員だった人が、別の会社ではただの人になってしまうことはよくある。
だから、人材をめぐって戦争をおっぱじめるのはよそう。

むしろ、「人材争奪戦」というメタファー自体を捨ててしまうほうがいい。
人材は争奪すべきものと考えるのをやめ、蒔いて育てる種と考えよう。
働く意欲に満ちた種たちは世界のあちこちですぐに手に入れることができる。

その種が育つかどうかはおおよそ環境で決まる。
庭にとても貴重なランを植えたとしても、ちゃんと世話をしなければすぐに枯れてしまう。
逆に、丁寧に最高の環境を整えれば、自分で美しいランを一から育てることだってできるはず。
ご近所の庭から盗んでくることはない!

ベースキャンプでは、ほかの会社から引き抜いてきた注目のスーパースターはいない。
けれども、才能豊かな人びとはたくさんいるし、その大半は僕らの会社に何年も勤めていて、なかには一〇年以上働いている人もいる。

僕らの会社には、この業界で長年続いている争奪戦の激戦区、たとえばサンフランシスコをはじめとするベイエリアに住んでいる人はいないし、シアトルやニューヨークに住んでいる人さえほとんどいない。
そこに優秀な人があまりいないからというわけではなく、どこにでも優秀な人はたくさんいるからだ。

たとえば、僕らはある新聞社の仕事をしていたオクラホマのすばらしいデザイナーを見つけたし、小さなウェブデザインの店で働いていたトロント郊外のすごいプログラマーや、テネシーの惣菜店で働いていた優秀なカスタマー・サービス担当者に出会った。
僕らは出身地や住んでいる場所にこだわらないだけでなく、学歴も気にしない。
僕らは卒業証書や学位ではなく、実際の仕事で人をみる。

僕らは、すでにピークを迎えている人を見つけるより、未知の可能性を秘めた人を育てるほうがずっと刺激的だと気づいた。
いま在籍しているたくさんの優れた人びとは、優れていたからというより、将来優れた人になるだろうという理由で雇った人たちだ。

自分で人材を育てるには根気がいる。
でも、穏やかな文化という土を大事に耕しながら、
人材を育成していく作業は、みんなのためになるよう会社を改善していく作業と同じだ。
さあ、やってみよう。

p136

僕らはベースキャンプを売るつもりはまったくないので、自社株が買えるストックオプション制度はない。
ストックオプションが報酬の大部分を占めている会社で働いたことのある人なら知っているだろうけど、この制度は市場の変動によってストレスが生じる。
これでは、穏やかさが感じられない。

だから、僕らは次のように取り決めた。
もし万一会社を売ることになったら、全社員に収益の五パーセントを分配すると約束したのだ。
これなら、いつも株価を追う必要はないし、市場評価を気にする必要もない。
何かが起こったら分配する。
何もなければ、そのことについて考える必要はない。
うれしい驚きはあるが、報酬ではない。

僕らは最近、収益の増加を分配する新しい方式を採用したところだ。
前年に比べて総利益が増加したら、その年の増加分の二五パーセントを社員に分配することにした。
これは、職種や個人の能力に応じたものではない。
僕らの会社には販売員がいないので、歩合でもない。
みんなで分けるか、誰も受けとれないかだ。

p138

もちろん、会社を離れる理由は給料だけではない。
ベースキャンプでも、さまざまな理由で辞める人がいる。
たとえば、シリコンバレーの宝くじ方式を試したい人や、まったくちがうキャリアを求める人もいた。
それは健全な状態だ。
ある程度の入れ替わりがあるのはいいことだけれど、給料の額が多くの転職の主な原因になるのはよくない。

新たに人を雇ってその人を訓練していくのは、高くつくだけでなく、エネルギーを使うことでもある。
給料や手当を公平にして透明化することで、従業員が長くハッピーな気分で働いてくれれば、エネルギーをすべて、よりよい製品をつくることに注ぐことができる。
長く勤めている人の給料を低く抑えているせいでたびたび人が入れ替わると、業績にも響くように思える。

幸せと生産性の源泉は、安定した仲間と働くことだ。
僕らの会社が少ない人数で多くのことを成しとげられる鍵は、まさにここにある。
この重要な強みが、ほかの会社ではあまり追求されていないことが、僕らには不思議でならない。

p156

チャールズ・ディケンズは、毎日5時間、静かにものを書き、そのあと3時間散歩するという日をきっちり守りつづけた。

p161

チャットに関していうと、僕らには経験で知ったふたつの重要なルールがある。
ひとつめは、「たいていはメールを使い、リアルタイムのチャットの使用は“ときどき”くらいに留めること」と、もうひとつは「重要なことは、即断せずにゆっくり決めること」。

重要なトピックには時間やすりあわせが必要で、ほかのチャットと切り離さなければならない。
チャット・ルームで議論しはじめたものの、重要なトピックだったために一行ずつの会話では話が進まないとき、僕らは「ちゃんとした文章にしてくれ」という。
これは「みんなが読むべき事柄はチャットですませるべからず」というルールとあわせて使われる。
こういう議論には、さっと五分でスクロールできるチャットではなく、それ専用の永続的なウェブサイトを用意している。

条件反射はやめよう p167

多くの会社では一斉に予定を押さえ、会議室を予約し、会議を開いて新たなアイデアが発表される。
運がよければ、発表を邪魔されることはない(けれども、たいていは二分後くらいに誰かがはいってきて、発表を中断させられる)。
発表が終わったら、人びとはその発表について意見を出す。
ここが問題だ。

アイデアを発表する人は、聞き手にはっきり伝わるように、エネルギーと時間をかけて、考えを練り、まとめる。
けれども、会議室にいる残りの人びとは即座に意見を求められる。
そのアイデアを吸収し、じっくり考えたり検討したりするのではなく、その場でどう思ったか意見をいうだけだ。
条件反射みたいにとっさに反応するだけ。
こんなやりかたで、まだ芽吹いたばかりで固まりきっていないアイデアを扱うのはおかしい。

ベースキャンプでは、まず文章で説明する。

僕らが自分の仕事について発表するときは、たいてい先に文章を書く。
きちんと構成が配慮された複数ページのフォーマットに自分のアイデアを記載し、可能なら図解する。
そしてそれを「ベースキャンプ」上にアップする。
すると、関係者全員に、検討を待つアイデアがアップされたことが知らされる。

そう、検討だ!

僕らは場当たり的な意見など望んでいない。
第一印象を聞きたいわけじゃない。
条件反射もけっこう。
僕らが欲しいのはフィードバックだ。
全部読んで、もう一回読み、なんならもう一回読んでほしい。
そして数日考える。
そうやって時間をかけて考えをまとめてから意見を出すのだ。
最初のアイデアを投げた人が、時間をかけて考えをまとめて発表したのと同じように。

そうやってこそ、自分のアイデアにたどり着ける。

ベースキャンプでは誰かのアイデアが公開されたら、数日間はぷっつりと通信が途絶え、そのあとフィードバックがあふれ出てくることがある。
それでいいし、そうなるのは当然だ。
物理的に人が集まる会議でのプレゼンテーションのあとに、会議室がしんと静まりかえったらどうなる?
かなり気まずいだろう。
だからこそ、僕らは人前で直接発表するのではなく、間接的な発表方法のほうが望ましいと考えている。
不安を生む沈黙ではなく、自由に考えてもらうための静寂と熟考の時間を用意すべきだ。

この方法でアイデアを発表すると、効率よく「発言権を独り占め」することもできる。
発表者はその場にいないから、発表を中断させる邪魔者もいない。
アイデアは全体にシェアされ、発表を止められたり、流れが断たれたりする機会もない。
発言権は発表者にあり、それを奪われることはない。
そのあと、あなたがフィードバックを発表する準備を整えたとき、発言権はあなたに移る。

いつか試してみてほしい。
会議室に集まるのではなく、書いて知らせるやりかたを。
その場で意見を出すのではなく、じっくり検討する方法を。

新たな常識 p174

非常識が常識になるのはあっというまだ。

たとえば、あるふるまいが行なわれたとき、最初は非常識だとみなされる。
あなたはそのふるまいが気に入らないが、我慢する。
そのうち誰かが同じことをしだすが、あなたはそれも見逃すか放置する。
そのふるまいをやめさせようとする人がいなければ、別の人たちも次々と同じことをしはじめる。

そのときにはもう手遅れだ。
それはすでに文化になってしまったのだ。
つまり新たな常識に。

組織ではいつもこの現象が起こっている。
ちょっとした火の粉から山火事がはじまるように、ひとりの不機嫌な物言いから、組織全体に不機嫌な嵐が吹きすさぶことになる。
起こったことをほうっておくと、暗黙のうちに、それは起こってもかまわないことになるのだ。
野放しにされたふるまいは、やってもいいふるまいとして認められるようになる。

ベースキャンプでは、この道を何度も通ってきた。
ややこしい顧客を相手にややこしいケースを扱っている誰かが、会社のチャットルームで愚痴をぶちまけてガス抜きをしたとき、誰も何もいわなかったことがある。
あるいは、「ガラスの家の住人は石を投げてはいけない〔人の批判をすると自分に返ってくるという意〕」という格言を忘れて、ミスを犯したある会社を全員でこきおろしたこともある。

そういうのはよくないことだとわかっていたけれど、誰も止めようとはしなかった。
しばらくして、もうたくさんだと思ったときには、ときすでに遅し。
そのころには、やめさせるのがずっとむずかしくなっていた。

新たな常識をなかったことにするのは、その新常識が生まれないよう防ぐよりずっと大変だ。
あなたの文化にねじれた根っこをはびこらせたくなければ、種が落ちないように気をつけておかねばならない。

何かが放置されて、新たな常識になるのに長くはかからない。
文化は勝手に繁殖するものだ。
育てようとして簡単に根づくものではない。
あなたの願いや望みが文化になるのではない。
あなたの行動が文化になるのだ。
だから、いい行ないをすること。

悪癖は善良な心掛けを打ち負かす p177

重箱の隅をつつくのが好きなマネジャーは、いつまでも重箱の隅をつつきつづける。

仕事中毒は仕事中毒をやめられない。

詐欺師はいつまでたっても詐欺師。

繰りかえしやっていることはいつしか習慣になる。
長く続けていることほど変えるのはむずかしい。
「あとで」正そうと心掛けても、習慣の力には太刀打ちできない。

それでも、人はいつも自分を誤解している。
何年ものあいだ長い時間を費やしてきたことを、「そのうち、しなくてもよくなるかもしれない」と考える。
たしかにそれをしなくてもよくなるかもしれないが、あなたはおそらくそれをしてしまう。
なぜなら、それが習慣だからだ。

ベースキャンプを立ちあげた当初から、僕らは妥当と思える週間労働時間を主張していた。
僕らは徹夜してありえない納期に間にあわせるようなことはしないし、昼間にきちんと働けば定時におさまるように仕事の範囲を決め、夜は穏やかにプライベートを楽しむ。
それは魔法でも幸運でもなく、そうなるよう選択した結果だ。

必要もないのに多くの人を最初から雇っていたら、いまでも無駄に多くの人を雇いつづけていただろう。
僕らはキツくてどうしようもなくなったときに人を雇った。
「もしかして必要かも」と予想したときではなく、絶対に必要だということを時間をかけて確認したあとで。
会社をつくった当初に、雇った人を全員オフィスに通勤させていたら、チームで働くには毎日顔をあわせなくちゃと思っていたことだろう。
でも現在、フルタイムで僕らの会社で働いている人が暮らしているのは、世界中の数十もの町だ。
社員たちはそれぞれの場所でそれぞれのペースで働いている。

早いうちに穏やかな働きかたをしていれば、それは習慣になる。
けれども、クレイジーな状態でスタートしたら、それが当たり前になる。
自分自身に繰りかえし問いかけてみよう。
いまの働きかたは、一〇年、二〇年、三〇年後にしていたい働きかただろうか?
そうでないなら、「あとで」ではなく、いますぐ変えるべきだ。

「あとで」は言い訳が住む場所だ。
「あとで」はいい心掛けが死ぬ場所だ。
「あとで」は曲がった背骨と折れた心だ。
後回しにする人は「徹夜は、この問題の解決策が見つかるまでの一時泣きだ」という。
けれども、きっと一時凌ぎで終わりはしない。
さあ、いますぐ変化を起こそう。

依存を断ち切れ p180

会社ではいつも足並みをそろえて行動すべきだ、という前提を疑問に思う人はほとんどいない。
チームAはチームBが欲しいと思ったちょうどそのときに、必要なものを提供する。
勢ぞろいして美しい振り付けで踊る、息ぴったりのダンスのように動きがそろっている。
けれども僕らとしてはむしろ、そのような相互依存のバレエは敬遠したい演目だ。

チームのメンバーには、足が絡まりそうなくらい密集して行進するのではなく、それぞれが独立してグライダーで飛べるようになってほしい。
べったりくっつきあうより、パズルみたいに組みあわさるほうがいい。

依存というのは、もつれあいからみあって、それぞれ独立して動けないチームやグループや個人の状態をいう。
誰かが誰かを待っているときはいつも、依存が道をふさいでいる。

あなたが飛行機を組み立てていたり、何かの組み立てラインで働いていたりするなら、それでいい。
それらの仕事ではおそらく、足並みをそろえることが大切だ。
けれども、最近の大半の会社では、もうそんな働きかたは必要とされていないのに、いまだに同じことをしている。

僕らも何度か依存のワナにはまったことがある。
たとえば以前は、ウェブ版とモバイル版のアプリケーションを同時に発売するスケジュールを組んでいた。
ウェブアプリで何か新しい機能を追加したら、iPhoneやアンドロイド用のアプリにもその機能を追加するまでは、どれもリリースできなかった。
そのせいで、アプリのリリースが複雑になって遅れ、結果として自分で招いたストレスに押しつぶされそうになった。
そうやって苦心したところで、アンドロイドのユーザーは、自分の使っているアプリがiPhoneのとまったく同じデザインかどうかなんて、ちっとも気にしちゃいないものだ。

また以前は、改善の用意が整ったものからひとつひとつリリースするのではなく、五、六個の新たな機能を一気にまとめてリリースする方法をとっていた。
この方法だと評判になって注目を集めるが、一斉リリースは各要素に伴うリスクもまとまったものになるので、ひとつ遅れが出ると、すべてのリリースが棚上げになる。
しかも、そういう遅れはしょっちゅう起こる。
だから、リリースがかなり遅れるリスクが単独リリースのときよりずっと高くなり、最悪の場合、すべてがおじゃんになってしまうこともあった。

やりかたひとつで、それまでやってきた膨大な作業が無駄になってしまうのは、かなりやる気をそがれるものだ。
けれども、あなたの仕事が依存状態におちいっていると、こういうことが充分起こりうる。

僕らはいま、全体の調整がついたときではなく、準備ができたものからひとつずつリリースしている。
ウェブ版の準備が整ったら、リリースだ!
iOS版も準備が整いしだい追いかける。
あるいは、iOS版のほうが先で、アンドロイド版があとになることもある。
ウェブ版も同じだ。
顧客は、すべての端末用アプリの準備ができたときではなく、準備が整ったものから順に新しいバージョンを使うことができる。

だから、どんどん結んでつなげていくのではなく、どんどん結び目を切っていこう。
依存的なつながりは少なければ少ないほどいい。

p188

すべてのディテールに無限の努力を注ぐより、僕らは、本当に重要なことと、まったく重要ではないこと、どちらかといえば重要なことの分類に多くの労力を使う。
分類するという行為にこそ最高の質の努力を注ぐべきだ。
「すべてが優れたものでなければならない」というのは簡単だけれど、そんなことができる人なんているだろうか?
問題は、ある程度の出来でいいとき、あるいはかなり貧弱なものでかまわないときはいつかを把握することだ。

こんなふうに考えてみてほしい。
あることを一〇〇パーセントで行なうとき、そのひとつのことを完了するためにあなたは一〇〇パーセントの力を費やさねばならない。
五つのことをするのにそれぞれ二〇パーセントを費やすと、完成度八〇パーセントだけれど、ほら、五つともできた!
僕らはほとんどいつも、このやりかたで仕事をしている。

きわめて高い質が必要なものは何か、そこそこの質でまったく問題がないものは何かを明確にしておくと、あなたは穏やかに仕事ができるようになる。
これはすばらしい方法だ。
不安が減り、もっと多くを受けいれられる。
「それで問題ない」という質で仕事をすれば、リラックスしながら大半の仕事ができる。
細かい吟味は、本当に重要なもののディテールを確認するときのためにとっておこう。

ベストプラクティスは幻 p200

成熟した産業はどれも、ベストプラクティスにあふれかえっている。
製品価格のつけかた、従業員の見直しやコンテンツ・マーケティング、ウェブサイトのデザインのしかた、ユーザーが数百万に広がるアプリケーションのつくりかたなど、さまざまな方法やものにさまざまなべストプラクティスがある。
ベストだと主張する助言も腐るほどある。

けれども、それらの多くはガラクタにすぎず、なかにはあなたにとって最悪の方法になりうるものもある。
一万人規模の会社でベストプラクティスとされたことが、従業員が一〇人しかいない小さな会社で同じように通用することはめったにない。

残念ながら、ベースキャンプ内で独自に設定したベストプラクティスでさえ、社員がまだ七人しかいなかったころは大活躍だったのに、三〇人に増えると使えなくなった。
そんなふうに、以前はうまく機能していたものが使えなくなって、身動きが取れなくなる経験も僕らは何度も経てきた。

問題は会社の大きさだけじゃない。
あらゆる面でちがいがある。
あなたが売っているのは、買い取りの商品か?
それとも使用料を繰りかえし徴収するサービスか?
あなたがデザインしているのは、iPhone専用のアプリケーションか?
アンドロイド版やウェブ版やメール版もつくるのか?
永続的な会社をつくるのか?
出口戦略を頭において会社をはじめるのか?
長年一緒にやってきた仲間と仕事をしているのか?
それとも一から新たなチームをつくるのか?
これらのさまざまな条件によってベストプラクティスは異なる。

ベストプラクティスに懐疑的になる理由はたくさんあるが、いちばんよくみられる不可解な現象は、ある会社がどんな方法を使っているかを誰かが外側から観察してベストプラクティスを説明している例だ。
たとえば、「アップルの製品開発法を知るためのベストプラクティス・トップ一〇」など。
これを書いた人はアップルの製品開発チームで働いていた人か?
ちがう。
著者は単に、自分で推測した仕組みに基づいて結論を下しているにすぎない。
実際の仕事をしている人でないかぎり、その仕事のベストプラクティスを語る資格はない。

さらにいうと、多くのベストプラクティスは単なる民間伝承だ。
由来や、なぜはじめたのか、なぜそれに従いつづけているのか誰も知らない。
でも、ベストプラクティスという強力なラベルによって、人びとはみな疑問を投げかけることすら忘れがちだ。
「僕らよりずっと賢い誰かがつくったんでしょ?」、「これどおりにしている人はみな大成功しているんだろう?」、「これでうまくいかないときは、きっと僕らのせいだろう?」
いや、これらの疑問の答えはいずれもおそらく「ノー」だ。

もうひとついうと、あなたは、ベストプラクティスが示されることによって、直面している問題がなんであれ、答えはたったひとつしかないと思いこんでしまう。
ベストプラクティスは、その問題には選択の余地がないと匂わせる。
このほのめかしに負けてはいけない。
あなたには、つねに複数の選択肢があるのだ。

とはいえ、ベストプラクティスにもそれなりに価値はある。
ベストプラクティスは自転車の補助輪みたいなものだ。
バランスのとりかたやペダルをこぐスピードがわからないときに、前へ進むのを手助けしてくれる。
けれども、ベストプラクティスにはもれなく、「もう一度検討せよ」という注意書きをつけておかねばならない。

ベストプラクティスとはどういうものか?
自分たちはその基準に達しているか?
それともかなり下回っているか?
などと心配ばかりしていたら、穏やかな文化を育むことはできない。
自分にとって最適な方法や手順を見つけ、それを実行すべきだ。
自分なりのやりかたやパターンをつくろう。
ほかの誰かにとっていちばんいいものなんて、気にしたってしょうがない。

to do リストは捨てよう p208

タイム・マネジメント・ハッカー、ライフ・ハッカー、スリープ・ハッカー、ワーク・ハッカーなどの言葉はみな、一日の時間をなんとか絞りだそうという強迫観念を示している。
でも問題は、日常生活のパターンを変えて仕事の時間をさらに増やすことじゃない。
すべきことが多すぎるのが問題なのだ。

より多くのことをやりとげるには、すべきことを減らすしかない。

時間を取りもどすには「ノー」というのが唯一の方法だ。
一二個の仕事をシャッフルして別の順番で並べ替えても意味はない。
タイマーをかけてこっちの仕事をしたり、あっちの仕事をしたりしてはいけない。
一二個のうち七個をなくせば、五個の仕事のための時間ができる。
必要なのはタイムマネジメントではなく、強迫観念の排除だ。
ほかはどれもまやかしだ。

そもそも、時間はマネジメントできるものではない。
時間は時間だ。
どれほど抗おうとしても同じペースで進んでいく。
コントロールできるのは、時間をなんのために使うかという部分だけだ。

マネジメントという言葉を広めたピーター・ドラッカーが、数十年まえに書いた文章はまさに核心を衝いている。
「いくら効率よくしても、する必要のないことをしていたら意味がない」そのとおり!

三人のチーム p211

ベースキャンプの製品開発はほぼすべて、三人のチームで行なわれる。
三は僕らにとって特別な数字だ。
三人のチームは通常、ふたりのプログラマーとひとりのデザイナーからなる。
三人でないときは、四、五人よりも、ひとりかふたりになることが多い。
問題に対応する人を増やすのではなく、問題を小さく分解していき、三人のチームでゴールテープを切れるようにする。

ベースキャンプではめったに会議を開かないけれど、数少ない会議をするとき、テーブルを囲んでいる人数が三人を超えることはめったにない。
電話会議でも、ビデオ・チャットでも同じだ。
四人以上になると人が多すぎて会話がスムーズに進まないからだ。

ひとつのプロジェクトや決定に関わっている部署が五つあるときはどうするのかって?
それはない。
僕らはそのようなプロジェクトにはあえて取り組んでいない。

三人のチームとはどういうものだろう?
三つの点でV字形の楔ができる。
楔は便利だ。
鋭く打ちこむこともできる。
三は奇数だからべったりくっつかない。
ちょっとした影響を与えるには充分な強さがあるけれど、弱くもあるので、壊れていないものを壊してしまったりすることはない。
大きなチームは、軽く磨きをかけるだけですむものに力をかけすぎて、台無しにしてしまうことがある。

四人のチームは、調整するのにほぼいつも五人目が必要になる。
かといって五人になると、人が多すぎて二派に分かれてしまいがちだ。
チームに六人、七人、八人もいると、単純なことが必要以上にややこしくなる。
使える時間を埋めるために仕事を増やすみたいに、動けるメンバーを働かせようとして仕事が増える。
取り組む人が多くなりすぎると、小さな短期プロジェクトがまたたくまに大きな長期プロジェクトに変わる。

小さな複数のチームで大きなことはできるけれど、大きなチームで小さなことを行なうのはずっとずっとむずかしい。
それに、小さなことというのは、大事なことだけにそぎ落とされた結果だ。
大きなことのなかにも重要なものはあるが、多くの改善は小さなステップが積み重なって成しとげられる。
大きなチームは、それらの小さなステップを踏み越えてしまいがちだ。

三人のチームではみな誠実になる。
三人のチームはあなたの野心をとことんまっとうな方法で和らげてくれる。
三人のチームでは歩み寄りが生まれる。
なにより重要なのは、三人ならコミュニケーションでの誤解が減り、協調性が高まる。
三人ならまた聞きではなく、直接話しあうことができる。
それに、四人以上の場合より、スケジュールの調整がずっと簡単だ。

僕らは三が気に入っている。

季節のあいさつ p226

変化はしばしば緊張に満ちているが、その対極にある単調さが、さらにひどい状態を生むこともある。
同じ方法、同じペース、同じ内容で長く仕事を続けることはできるだろうが、そのうち単調さに毒されてしまう。

社会人になるまでは、季節によって生活のリズムが変わる。
暮らしている場所によっては気候が変わらないこともあるが、学校の授業がはじまる時期や夏休みなど、一年間のなかにリズムが変わる節目がある。
季節が変われば、起こることも変わる。

けれども、季節に左右されるビジネスでもないかぎり、仕事は、三月でも五月でもたいして変わらない。
六月の仕事は一月と同じ。
一二月の仕事と二月の仕事のちがいを述べるのはむずかしい。
だけど、ベースキャンプはそうじゃない。

僕らは労働日数を減らして、(少なくとも北半球では)夏の月間を楽しんでいる。
五月から九月まで、仕事は週四日、三二時間になる。
このアイデアの目的は、少ない時間により多くの仕事をつめこむことではない。
むしろ僕らは仕事への熱意もそれに適応させる。
冬は本腰をいれて、より大きくむずかしいプロジェクトに取り組む。
夏になると、週四日労働に合わせて、単純で軽めのプロジェクトに取り組む。

僕らは、仕事以外でも季節の移り変わりを楽しんでいる。
毎週、各地域で支援されている農産物シェア・サービスの費用を負担して、すべての社員の家庭に野菜や果物を配布している。
社員は地元で採れるみずみずしい季節の果物や野菜を、家族とともに味わえるのだ。
これは年間を通じた福利厚生で、配布される野菜や果物は季節によって変わる。
おいしく健康に、季節の変化を楽しんでもらっている。

仕事の時間やプロジェクトの難易度、または季節感あふれる特別な福利厚生などで、仕事の単調さを軽減する方法を探してみよう。
人はあまりに長く同じブランコに乗りつづけると、退屈するし凝り固まってしまう。

市場で真実を知ろう p236

あなたがつくったものについて真実を知りたければ、世に出すしかない。
テストしたり、ブレインストーミングしたり、議論したり、調査したりもできるけれど、船が進むか沈むかは、実際に海に出てみなければわからない。

本当に何かの役に立つのか?
現実の問題を解決できるか?
もっといいものをつくれなかったか?
顧客が欲しがっているものをつくっているか?
誰か買ってくれそうな人はいるか?
適切な価格になっているか?

どれもいい疑問だ!

けれども、こういう疑問は、社内で延々と議論していてもキリがない。
多くの会社がそうしているが、答えを探したところで、見つかるのは不安だけだ。
疑念や恐れ、優柔不断な態度が世界中のオフィスの廊下に満ちあふれている。

だが、心配ばかりしていてなんになる?
ベストを尽くしてつくった製品を信じ、世に出せばいい。
そうすれば、確実なことがわかる。

大ヒットするかもしれない。
大コケするかもしれない。
あるいはその中間かもしれない。
けれども、知りたければ、市場に出すしかない。
真実を知るにはリアルなマーケットで売るしかない。

仕様に沿うことはできる。
永遠にテストしつづけることもできる。
将来顧客になる可能性のある人びとと話をして、製作中の製品を買いたいと思うか尋ねることもできる。
調査を実施して、こんなことやあんなことができるとしたら、その製品を買うかと尋ねることもできる。

けど、それがなんだ?
そんなものはみなシミュレーションに対する答えで、リアルな声ではない。

リアルな答えは、誰かが自分の意思であなたの製品を買い、その人自身の自然な環境で自主的に製品を使ったときにこそ、明らかになる。
それ以外はすべてシミュレーションであり、シミュレートされた環境からはシミュレートされた答えしか出てこない。
だが、リアルな製品を世に出せば、リアルな答えを手に入れることができる。

ベースキャンプでは、極端なまでにこの哲学を実践している。
僕らはすべての顧客の前に提示するまで、どの顧客にも何もみせない。
顧客に対して製品完成まえのベータ・テストは行なわないし、何かの機能のためにお金を払うかどうかも尋ねない。
その機能についてどう思うかも尋ねない。
僕らはやりかたを心得ている仕事にベストを尽くし、製品を市場に出す。
そうすれば市場が真実を知らせてくれる。

事前に一定数の人に試してもらうことで見つかる問題を見逃しているのではないか?
もちろん、その可能性はある。
でも、そうするのにどれほどの代償を払わねばならないのか?
つくった製品を事前に顧客の前に差しだしていると、時間と費用がかかるし、その結果、ふるいにかけ、検討し、議論し、決定を下さなければならないフィードバックが、製品を世に出すまえに山のように集まるにちがいない。
しかも、それらはみな単なる推測でしかないときている!
推測にエネルギーを費やすのはもうたくさんだ。

だから、ベストを尽くしたら市場に出そう。
そうすれば、あなたの製品を本当に必要としている、リアルな顧客からもらったリアルなヒントとリアルな答えに基づいて、何度も修正を加えていくことができる。

約束はしないという約束 p240

ベースキャンプを立ちあげて以来、僕らは将来の製品改善の約束はしないようにしてきた。
僕らはつねに、将来できるかもしれない想像上のバージョンではなく、いま使える製品の良し悪しを顧客に判断してほしいと思っている。

だからこそ、僕らは製品計画のロードマップづくりに力を注いだことがなかった。
薄暗い部屋の奥で人に知られないようこっそり計画を立てている、なんてことはなくて、元から計画などないのだ。
この先一年でどんな仕事をするのか自分たちにもわかっていないのに、わかっているふりをしてどうする?

けれども、最近、「ベースキャンプ」のすっかり新しくなったバージョンをリリースしたとき、僕らもとうとう将来の機能についての約束をしてしまった。
あーあ。

いきさつはこうだ。
新しいバージョンには当初、顧客が求めていたプロジェクト・テンプレートという機能がなかった。
すると、要望が山のように来て、メールもどっさり送られてきた。
僕らはその機能を追加するつもりでいたけれど、いつ追加できるかはわからなかった。
それで「年末までに」と話した。
そのときはまだ、年末まで八ヵ月あったので、充分余裕があると思っていたのだ。
けれども、完成までに必要なすべての作業にかかる時間と、同時にこなさなければならないほかの仕事を考慮に入れていなかった。

三月が過ぎ、四月が過ぎ、五月が過ぎ、六月、七月、八月が過ぎた。
僕らはまだプロジェクト・テンプレート機能の作業を開始していなかった。
九月になり、一〇月がやってきた。
とうとう、約束どおりにその年の末までにプロジェクト・テンプレートを配布するには、やろうとしていたほかのさまざまなことを諦めなければならなくなった。
完成したテンプレートはいい出来で、最終的に顧客には気に入ってもらえたけれど、そのために僕らは大急ぎで仕上げる必要があった。
これこそ、約束の行きつく先だ。
ほかの仕事を中断して、慌てふためきながら急いで仕上げて、安易に交わした約束をちょっぴり後悔する。

約束は借金みたいに膨れあがり、利子もつく。
約束を果たすのに時間がかかるほど、支払う代償が大きくなり、後悔の念も強くなる。
その仕事にとりかかるときになって、イエスといったことがどれほど高くついたか気づくのだ。

相手に取りいろうとして交わした約束は、のちに会社の重荷になる。
取引を成立させるために営業の人が提案した約束。
プロジェクト・マネジャーがクライアントと交わした約束。
オーナーが従業員と結んだ約束。
ひとつの部署が別の部署とした約束。

「あとでする」というのは簡単だが、多くの約束は先延ばしにすぎず、けっきょくはあとでエネルギーを使いはたすことになる。
約束を交わすのは簡単で気安いが、実際の作業はむずかしくて高くつく。
そうでなければ、「あとで」と約束するよりその場でやってのけるだろう。

変化をコントロールする p247

人は変化を嫌うものだとよくいわれるけれど、それは半分しか当たっていない。
自分が望んだ変化なら喜んで受けいれるからだ。
人が嫌う変化は、強制的な変化、つまり自分で望んだわけでもないのに誰かが決めたスケジュールで強行される変化だ。
あなたにとっては「真新しい改善された」ものでも、ふいにそれを投げつけられた人は、「いったいなんなんだ?」という気持ちになりがちだ。

僕らは「ベースキャンプ」をつくっているときに何度もそれを経験し、身をもって教訓を得た。
新たなデザインを思いつき、いろんな部分を動かしてそのデザインを組み入れたとしても、その結果聞こえてくるのはこんな意見だ。
「僕のアプリになんてことしてくれたんだ!まえのが気に入ってたんだぞ!元に戻してくれ!」

ソフトウェアに関する標準的なルールブックには、そんなユーザーは相手にするな、とある。
「おいおい、そんなのは進歩の代償だろ。進歩はいつだっていいもの、いつだってよりよいものなんだから」というわけだ。
けれどもそれは近視眼的で、上から目線の言い分だ。
多くの顧客にとっては、新たな付加価値よりも、これまで使ってきたものの心地よさや一貫性や親しみやすさがうわまわっているかぎり、機能が改善されたかどうかは問題ではない。

あなたの新たな製品がダメだといっているんじゃない。
ただ通常は、変化が起きたとき、顧客は仕事をしている最中で、その仕事は顧客にとって、あなたの製品に加わった変化よりも重要だ。
彼らはすでにすべきことに投資をして、現行品の使いかたに慣れ親しんでいる。
そこにあなたから変化を投げつけられ、彼らの生活はふいに少しばかり複雑になる。
従来のものを使って作業をしている最中に、新しいものがあらわれて何かを学ばねばならなくなったのだ。

僕らは長い時間をかけ、たくさんのまちがいもして、ようやく、ものを売ることについての大事な真実を学んだ。
それは、新しいものは新しい顧客に売り、これまでの顧客にはすでに使っているものを使いつづけられるようにすることだ。
こうすることで、平和を保ち、穏やかさを維持することができる。

そんなわけで、僕らは「ベースキャンプ」のまったく異なるバージョン三つをいまだに提供している。
オリジナル・バージョンは二〇〇四年から二〇一二年まで販売したもの。
ふたつめのバージョンは二〇一二年から二〇一五年までのもので、三番目のバージョンは二〇一五年から販売している。
新しいバージョンになるほど機能は向上しているが、新しいバージョンにアップグレードするように顧客に無理強いはしない。
あなたが二〇〇七年にオリジナル・バージョンで契約したのなら、永遠にそれを使いつづけることができる。
かなり多くの顧客がいまだにそうしている(ありがたいことだ!)。

それなら、なぜ新たな開発などやめて、オリジナル・バージョンにこだわって売りつづけないのか?
それは、開発の最中に新たなアイデアが浮かんでくるからだ。
技術とデザインは変化する。
僕らも自分たちのペースで進化しつづけている。
それに、現在の新しい顧客は、十年まえの新しい顧客とはまたちがった機能を期待する。
だからって、いちばん初期からの顧客に僕らの進化のペースについてくるように強要するつもりはない。

顧客に最新バージョンを紹介するなといっているわけじゃない。
ただ、強制ではなく、あくまで紹介であるべきだ。
強く推しすぎると、当然抵抗する人もいるから、気づいたらいざこざに巻きこまれているなんてことになりかねない。
そうなると、穏やかどころではなくなる。

古い契約を守り、旧バージョンの製品を維持するのは無料ではできない。
それはいわば遺産の維持費だ。
あなたが成功しているのは、最新のものをつくるまえに、あなたのことを気に入ってくれた顧客がいたからだ。
それを喜ぼう!
自分の遺産を誇りにしよう。

はじめるのは簡単、維持するのは困難 p251

多くの起業家は、持っているものをすべてつぎこんで、ビジネスを開始する。
長い夜、集中力、そしてあふれるほどの愛情も。
そして商品を世に出したら、スタートダッシュのせいでヘトヘト。
ああ、やっと終わった、なんて考える。
だけど残念ながら、これで終わりじゃない。

何かを軌道に乗せるのはとてもむずかしいから、ここからは楽になると考えるのは自然な流れだ。
けれども、そうはならない。
前進すればするほど道は険しくなり、ちっとも平坦にならない。
一日目がいちばん簡単だ。
これは、知ったところで嬉しくもないビジネスの秘密だ。

事業が大きくなってきたら、あなたは人を雇うだろう。
雇った人びとにはいろいろな個性がある。
いろいろな性格の人が集まると力関係が生まれ、そのほかにも、多くの人間関係の問題が生まれる。

顧客があなたに気づきはじめると、競合相手もあなたに気づく。
誰かがあなたに照準を定める。
あなたが製品をリリースすると、一斉攻撃がかかる。
そうなると、守備を固めることも考えなければならなくなる。

コストは知らないうちに膨れあがる。
仕事を続けるほどコストは増加する。
成長し拡大するにつれ、利益ははるか遠くにあるように思える。

憂鬱で気持ちが暗くなる話だって?
とんでもない。
すごくワクワクすることだってたくさんある。
でも現実は現実。
ビジネスははじまったあとのほうが大変なのだ。

だから、製品をリリースしたあと何が起こるか、心の準備をしておくことには、とても意味がある。
太陽は輝き、人生はバラ色だと油断していたら、ふいを衝かれることになる。
将来どうなるか理解していれば、予測を立てて、雨がやまないときに備えられる。
心構えをしておくことが大切だ。

はじめるのは簡単だが、維持するのは困難だ。
長期間ショーを開きつづけるのは、初舞台を踏むことよりずっとむずかしい。
一日目は世界中のスタートアップ企業がビジネスをしている。
けれども一〇〇〇日目にビジネスを続けているのはほんのひとにぎりだ。
それが現実ってやつだ。
だから、ほどほどに。
早くに燃えつきてしまわないように、険しい道はまだまだ続くと心に留めておこう。