「無(最高の状態)」を 2,025 年 01 月 07 日に読んだ。
目次
- メモ
- 人類はみな“生まれつきネガティブ”である p20
- 真の苦しみは“二の矢”が刺さるか否かで決まる p40
- あなたの“怒り”は6秒しか持続しない p44
- すべての苦しみは「自己」の問題に行き着く p50
- ヒトの心などなくしたほうが良いのでは? p54
- やはり自己は消せるのではないか? p62
- p83
- p88
- エビデンスベースドな結界を張る p98
- なぜアフリカ人は幻聴に苦しまないのか? p101
- 薬のサイズが大きくなるほど効き目は強くなる p104
- 手法② 内受容感覚トレーニング p115
- 「自己をならう」にはどうすれば良いのか? p138
- p171
- 苦しみ=痛み×抵抗 p177
- いまは降伏と洒落込もう p207
- 禅問答はなぜ難しいのか? p212
- 思考を止めれば「ミー・センター」も止まる p216
- 観察の能力には抗鬱剤に匹敵する効果が p220
- ④縁起性 p240
- 慈経行(じきんひん) p242
- ⑤超越性 p243
- 畏経行(いきんひん) p245
- 自己が鎮まったあなたはひとつの「場」になる p247
- それではいま生きている自分とは何者か? p250
- 無我に至った者が得る“智慧”の境地 p254
- ①幸福度の上昇 p259
- 無我とはあらゆる欲望を捨て去ることではない p265
- 無我がもたらす3つの世界観の変化 p268
- ③深刻な問題からはすぐ逃げる p275
- ④幸福にも降伏する p275
- ⑤悟後の修行を続ける p277
- あなたが無くなったのは、いまに始まったことではない p278
メモ
人類はみな“生まれつきネガティブ”である p20
「人生は苦である」
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダは、2500年前にそう言い切りました。
この世のすべては苦しい体験ばかりであり、最後にはみな命を落として塵に帰る。
これこそが人生の真実なのだ、という考え方です。
思わず抵抗を覚えた人は多いでしょう。
私の人生は最高に幸せだとまでは言えないが、日々の暮らしが苦痛だけに彩られているわけでもない――。
そう考えるほうが普通のはずです。
が、ブッダはあなたの人生をみだりに不幸扱いしたわけではありません。
古代インドにおける「苦(dukkha)」とは、虚しさ、不快さ、思い通りにいかないことへの苛立ちなどを含む幅広い概念であり、人生の絶望や苦悩のように大げさな状態だけを意味しないからです。
どんなに好きな仕事をしていても、その過程で地味な作業に退屈感を抱き、計画通りに物事が進まず怒りを感じることは誰にでもあるでしょう。
いつもの暮らしのなかで物足りなさを感じたり、ふと過去の嫌な思い出にとらわれて悲しみを覚えたこともあるでしょう。
夏目漱石の言葉にもあるように、「のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする」ものです。
人生を不満や不快の連続だと捉えるぐらいなら、さほど実感から外れた考え方でもないでしょう。
簡単に言えば、ブッダは「生きづらさは人間のデフォルト設定だ」と説いたわけです。
真の苦しみは“二の矢”が刺さるか否かで決まる p40
原始仏教の教典「雑阿含経」に、こんな話があります。
いまから2500年前、古代インド・マガダ国の竹林精舎にて、ゴータマ・ブッダが弟子たちに問題を出しました。
「一般の人も仏弟子も、同じ人間であることに変わりはない。
それゆえに、仏弟子とて喜びを感じるし、ときには不快を感じ、憂いを覚えることもある。
それでは、一般の人と仏弟子は何が違うのだろう?」
悟りを開いた人間といえば、何事にも心が動じないようなイメージがあります。
しかし、実際には喜怒哀楽の感情を持つ点では常人と変わらず、本当に重要な違いは他にあると指摘したのです。
困惑して黙り込む弟子たちに、ゴータマ・ブッダは答えました。
「一般の人と仏弟子の違いとは、“二の矢”が刺さるか否かだ」
生物が生き抜く過程では、ある程度の苦しみは避けられません。
捕食者の襲撃、天候不順による飢え、予期せぬ病気など、さまざまな苦境は誰にも等しく訪れます。
あらゆる苦しみはランダムに発生し、いかなる知性でも予測は不可能でしょう。
これが“一の矢”です。
すべての生物は生存にともなう根本の苦難からは逃れられず、最初の苦しみだけは受け入れるしかありません。
この絶対的な事実を、「雑阿含経」は一本目の矢が刺さった状態にたとえたのです。
ところが、ここで多くの人は“二の矢”を放ちます。
たとえば、あなたがチンパンジーのレオと同じように半身不随になったとしましょう。
意識ははっきりしているのに首から下は動かせず、寝たきりのまま介護を受けるしかありません。
このケースにおける“一の矢”は、もちろん半身不随による苦痛そのものです。
身体が満足に動かせない最初の苦しみだけは、どうしても動かせません。
そして、あなたは続けて思うでしょう。
なぜ自分だけがこんな目に遭うのだ、身体が動かなくなったら家族はどうすれば良いのか、介護ばかり受けて申し訳ない、もう人生は終わりだ……。
これが“二の矢”です。
「半身不随」という最初の矢に反応した脳がさまざまな思考を生み、そこに付随して表れた新たな怒り、不安、悲しみが次々とあなたを貫き、いよいよ苦しみは深まっていきます。
しかし、「半身不随」の極限状態まではいかずとも、“二の矢”は誰もが経験する心理でしょう。
・上司が理不尽な文句をつけてきたことに対し(一の矢)、「自分が悪かったのか、それともあの男がリーダー失格なのか」などと思い悩む(二の矢)
・同僚が昇進したことに対し(一の矢)、定期的に「私の能力が低いのか……」など自分を責める(二の矢)
・貯金が少なくなったことに対し(一の矢)、「このままでは将来の生活はどうなるのか……」と不安を募らせる(二の矢)
特に現代の環境では矢の数が二本で済めば良いほうで、三の矢、四の矢と続けざまに自分を刺し貫く人が少なくありません。
「貯金もなくて将来の生活がどうなるのか……(二の矢)。
すべて自分に計画性と忍耐力がないのがダメなのだ(三の矢)。
こないだ仕事で上司から怒られたのも、段取りの悪さが原因だったな……(四の矢)」
このように、最初の悩みがまた別の悩みを呼び込み、同じ悩みが脳内で反復される状態を、心理学では「反芻思考」と呼びます。
牛が食物を胃から口に戻して噛み直すように、いったん忘れ過去の失敗や未来の不安を何度も頭のなかで繰り返す心理のことです。
反芻思考のダメージは計り知れず、複数のメタ分析で鬱病や不安障害との強い相関が出ているほか、反芻思考が多い人ほど心臓病や脳卒中にかかるリスクが高く、早期の死亡率が高まる傾向も報告されています(4)。
いつも頭の中で否定的な思考やイメージが渦巻いていたら、ほどなく心を病んでしまうのは当然でしょう。
あなたの“怒り”は6秒しか持続しない p44
何とも辛い状況ですが、もしここで“一の矢”だけで苦しみを終えることができたらどうでしょうか?
病気が引き起こす最初の苦痛こそ避けられないものの、そこから自分に“二の矢”を放たなければ、苦しみが苦しみを呼ぶ負のスパイラルに陥らずに済みます。
結果として苦しみはすぐに消え去り、残ったエネルギーをもっと前向きに使えるようになるはずです。
突飛な話のように思われそうですが、決して絵空事ではありません。
それが証拠に、近年の研究では、“一の矢”の脅威が思ったより長く続かないことがわかってきました。
あなたが誰かから暴言を浴びせかけられたとしましょう。
このとき、あなたの脳内では大脳辺緑系がアドレナリンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質を吐き出し、心と身体を戦闘状態に変えます。
怒りで身体が熱くなり、全身の筋肉が硬くなるのはこれら神経伝達物質の働きによるもので、そのまま何も対策しなければ、あなたは瞬時に相手へ暴言を吐いたり殴りかかったりといった反応を起こすでしょう。
しかし、ここで少しだけ待つと、人間の理性をつかさどる前頭葉が大脳辺縁系を抑えにかかり、少しずつ神経伝達物質の影響を無効化していきます。
前頭葉が起動するまでの時間は平均で4~6秒で、そこから10~15分も経てばアドレナリンやノルアドレナリンの影響力はほとんど消えてあなたの怒りは鎮まります。
つまり、暴言を受けてから6秒だけやりすごせれば、“一の矢”の痛みは過ぎ去るわけです。
同じ戦略は、目の前の誘惑に耐えたいときも使うことができます。
プリマス大学の実験では、まず被験者に「いま最も食べたいものについて考えてください」と指示し、好きなお菓子やコーヒー、ニコチンなど、好きなものを自由に思い浮かべさせて欲望をかき立てました(5)。
続いて被験者の半分に「テトリス」を3分間だけプレイさせたところ、おもしろい変化が起きます。
ゲームで遊んだグループは、そうでない被験者に比べて渇望のレベルが24%も下がり、カフェインやニコチンにさほどの魅力を感じなくなったのです。
このような現象が起きた理由は、先のアドレナリンと同じく神経伝達物質の影響力が下がったのが理由です。
通常、何か欲しいものを前にした人間の脳内にはドーパミンというホルモンが分泌され、あなたの欲望をかき立てる方向に働きます。
ドーパミンは人間のモチベーションを駆動する物質であり、いったんその影響下に置かれたら逃れられる人はほぼいません。
ところが、欲望を抱いた直後に「テトリス」で脳の注意を一時的にそらしてやると、ほどなくドーパミンによる支配力は薄れ、前頭葉の自己コントロール能力が戻り始めます。
ドーパミンの持続時間は平均10分前後で、その時間さえしのげばあなたは渇望に流されず、“一の矢”だけで苦しみを終えられるわけです。
すべての苦しみは「自己」の問題に行き着く p50
話をおさらいしましょう。
まず重要なのが、人間が抱くネガティブな感情はニーズが満たされないサインだという点です。
怒り、不安、悲しみなどの感情はすべて、あなたにとって何か重要なものが欠けた可能性を知らせる機能を持ちます。
そしてもうひとつ、人間が苦しみをこじらせるのは、私たちが目の前の世界だけを生きられないからでした。
恐怖や不安の感情は未来に起きるかもしれない脅威の可能性によって生まれ、怒りや悲しみは過去に起きた負の記憶によって起動します。
過去と未来を思い描ける能力のおかげで人類は他を圧倒する力を持ちましたが、これが同時に苦悩の火種に油をそそぐ元凶にもなりました。
以上をふまえて言えるのは、これらの問題を煎じ詰めれば、すべて「自己」の困難に行き着くという点です。
どういうことでしょうか?
前提として、ここでは自己を「自分が他者とは異なる存在であり、常に同じ人間であるという実感」と定義します。
当たり前ですが、もし見た目が瓜二つな人がいても、その人とあなたは別人です。
日本にいてもアメリカにいてもあなたは常に同じ人物ですし、幼少期と現在でどれだけ見た目が変わったとしても、やはりあなたは自分を同じ人物だと認識するでしょう。
どんな場所にあっても、どんな時間軸にあっても、「私は一貫した存在である」との感覚をあなたにもたらすものが自己です。
自己の捉え方については科学の世界でもまだ議論が多く、認知的自己対話的自己、埋没的自己、経験的自己など、数十種類におよぶパターンが存在します。
しかし、「私は常に同じ人間だという感覚」という点においては、認知科学でも心の哲学でもおおよそのコンセンサスがあるため、まずはこの定義を起点にしましょう。
「私は私である」という感覚が人類の苦しみに関わるのは、自己が感情と時間の基準点として働くのが原因です。
たとえば、あなたが上司にいわれのない理由で怒られたとします。
ここで怒りを覚えるか悲しみを抱くかは人それぞれですが、「怒鳴られた」体験はすぐに大脳辺縁系を刺激し、全身をネガティブな感情で包み込みます。
この警報システムは数秒とかからず発動し、私たちには為す術がありません。
さらに、ここであなたの自己が話をややこしくします。
「“私”が怒られるのは理不尽だ」
「“私”が何かミスをしたのか?」
「“私”は悪くない。悪いのはあいつだ」
ネガティブな思考は自己をベースに広がり始め、放っておけば鎮まるはずだった嫌な感情を増大させます。
それだけならまだしも、続いて自己を中心に思考が過去と未来に向かって広がれば、さらに事態は悪化するでしょう。
「“私”は1カ月前も似たようなことで怒られた」
「“私”の未来はいったいどうなるのか……」
このように、私たちの苦しみが長引く場面には必ず自己が関わり、目の前に存在しない過去と未来の脳内イメージが、あなたを“二の矢”で貫いています。
私たちは自己を中心にネガティブな思考とイメージを増大させ、最後に苦しみをこじらせる生き物なのです。
事実、多くの先行研究では、自己にこだわる人ほどメンタルを壊しやすい傾向が何度も報告されてきました。
専門的には「自己注目」と呼ばれる状態で、「私はダメな人間だ」や「私は失敗ばかりだ」などの否定的な思考が良くないのは当然として、「私はどんな人間なのだろう?」や「本当の自分らしく生きることができているだろうか?」といったように、理想の自己を思う時間が長い人も不安や抑鬱の症状を起こしやすいことがわかっています(6)。
「自己注目」でメンタルを病むのは、自己にまつわる思考がネガティブな方向に向かいやすいからです。
「同年代よりも私は年収が低い」と落ち込んだり、「1年前に私が起こした失敗さえなければ」と過去を悔やんだり、「私ばかり損をしている」と他人を恨んだりといった経験は誰にでもあるでしょう。
ときには「私はよくやっている」と思うこともあるでしょうが、先にも見た通り、人間は生まれつきネガティブな思考システムを内蔵した生き物です。
多かれ少なかれ自己に関する思考はマイナスの方向へ向かい、あなたに“二の矢”を放ち始める回数のほうが多くなります。
ヒトの心などなくしたほうが良いのでは? p54
自己を苦しみの原因に置く発想は、古来より存在します。
ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』ではクリシュナ神が「自己こそ自己の敵である」と語り、老子は「無為自然」の言葉で自意識による作為を批判。
古代ギリシアで活躍したストア派の哲学者たちも、自己を理性で制御せよと口を揃えました。
なかでも雄弁なのは、中島敦の代表作『山月記』です。
本作の主人公である李徴は、詩人として名を挙げるべく官僚の職を辞するも失敗。
再び旧職に戻ったはいいが、プライドと恥ずかしさで人と交わることができず、やがて理由なき力で虎の姿に変えられてしまいました。
物語の後半、李徴はかつての友人に語りかけます。
「獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。
初めはそれを覚えているが、次第に忘れてしまい、初めからいまの形のものだったと思い込んでいるのではないか?
いや、そんなことはどうでもいい。
己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう」
自分に向けて“二の矢”を撃ち続けた主人公は、やがて獣になったほうが幸せだとの結論に至りました。
確かに自己が失せれば苦を受ける主体もなくなり、未来と過去は消えてすべてが現在に収束します。
すべての元凶が自己にあるのなら、ヒトの心などなくしたほうが良いと思うのは当然でしょう。
ただし、ここで多くの人はいぶかしむはずです。
「自己など消しようがないのでは?」
私が私であるのはどうあっても変わらない事実。
人間は生まれてから死ぬまで「自分」でしかあり得ず、私が私を消すというならば、その消した私とは何だったのか?
自意識過剰や自己顕示欲を抑えるぐらいなら話はわかるが、「自己を消す」という発想には根本的な矛盾があるのではないか?
もっともな疑問であり、過去にも多くの哲学者や宗教家が「自己をどう考えるか?」との疑問と格闘してきました。
その答えは論者によって異なり、自己を自我の支配者だとみなしたニーチェ、心と肉体の関係を強調したキルケゴール、主我と客我の関係性に重きを置いたミードなど、無数の考え方が存在します。
いずれも難解な理論ばかりで、理解の端緒に着くだけでも容易ではありません。
しかし、幸いにもここ数年の認知科学や脳科学の発達により、自己についてわかりやすい考え方が生まれてきました。
それは、自己とは、あなたの内面に常駐する絶対的な感覚ではなく、あなたの感情を支配する上位の存在でもなく、特定の機能の集合体にすぎないというアイデアです。
アーミーナイフについて考えてみてください。
アーミーナイフは単にナイフとして使えるだけでなく、他にも栓抜き、はさみ、ドライバー、ヤスリといった多様な機能がひとつにまとまっています。
「自己=機能の集合体」の考え方も同じで、どれだけ自己が単一の存在のように思えても、実際には様々なツールのパッケージだとみなすのです。
突飛な発想ではないでしょう。
先にも見たように、私たちの「感情」もまた人類の進化によって生まれ、生存に必要なメッセージをあなたに送る機能を受け持ってきました。
同じように、「私は私であり、あなたではない」という感覚もまた、何らかの役割を果たすべく進化してきたと考えるわけです。
北イリノイ大学の認知科学者ジョン・スコウロンスキは、人類に自己が備わったのは25万年前から5万年前頃だと推定しています(7)。
人類の祖先であるホモ・エレクトスが、それまでの30~50人単位の暮らしをやめて150~200人の集団で暮らすようになったのはおよそ40万年前のことです。
そのおかげで彼らは仲間と助け合って外敵から身を守れるようになり、日々の暮らしは格段に安全になりました。
しかし、グループでの生活は、同時に複数の課題も生みます。
食料へのアクセスと分配をめぐる争いの増大、生殖の相手探しにともなうトラブルの激化、資源を独占しようと狙う裏切り者の出現といったように、現代にも存在する社会的な問題が起き始めたのです(8)。
このような変化を生き抜くには、次の能力を要求されます。
・他者とうまくコミュニケーションし、自分が裏切られないかどうかを予測する
・他者からどのように見られているかを予想し、期待された通りに振る舞う
潜在的な裏切り者を検知するには「『私がこう考えているだろう』と相手は考えているのではないか?」といった込み入った予測を必要とし、他人の期待に沿うためには「『あの人はこう思っているだろう』と私が自覚している」という複雑な認識を求められます。
どちらにも高度な知性が必要なのはあきらかでしょう。
この需要に応えて、進化の圧力は人類の大脳皮質を肥大化させ、集団の中で自分のポションを抽象的に考える能力を発達させました。
これが、いま私たちが持つ自己の起源になります。
やはり自己は消せるのではないか? p62
私たちの自己は人類の生存ツールとして進化してきたシステムであり、外界の脅威に応じて機能を発動させる。
この事実から、私たちは2つの要点を得ることができます。
①自己が消えるのは珍しいことではない
②自己が消えてもあなたは作動する
ひとつめはわかりやすいでしょう。
自己はそもそもが架空の存在ですし、あくまで生存用のツールなので不要不急の場面では起動しません。
何の脅威もない安全な状況では、わざわざ自分を守る意味はないはずです。
事実、自己が消えるシーンはいくらでも存在します。
代表的なのは極度の集中状態に入ったときで、ゲームにのめり込んで時間が瞬く間に過ぎたり、小説の世界に没入してただ文字を追ったり、気の合う仲間との会話が盛り上がったりといった体験を思い返せばわかりやすいでしょう。
そこには自己の感覚などなく、あたかも目の前の出来事と一体化したような感覚だけがあったはずです。
同じように、リラックス状態でも自己はほとんど発生しません。
温かいお風呂に入ったときや、美しいビーチでのんびりしたとき、就寝前にゆったりした音楽を聴いたときなど、どの体験にもやはり「わたし」はなく、あなたはただ環境のなかに存在しているような心持ちを味わうでしょう。
意識が完全に現在へ向かった状況では、ただ目の前の世界で起きる情報を処理すれば良く、過去や未来に思いをはせる必要がありません。
そのおかげで、わざわざ自己を起動させずに済むのです。
もうひとつ大事なのが、これらのシチュエーションにおいては、自己が消えたところで私たちの行動には問題がない点です。
あなたが朝起きてコップ一杯の水を飲み、いつものように身支度を始めたシーンを思い描いてください。
そこにはあなたを導くような「わたし」は存在せず、水を飲む経験を代表するオーナーやディレクターがいるわけでもないでしょう。
そのときどきに「私は昼に何を食べようか?」などの思考は発生しつつも、適切な知覚と動作が無意識のうちに生じています。
この状態は、CPUやメモリの挙動がわからなくても、バックグラウンドでPCの処理が行われるのに似ています。
私たちは「わたし」の力を借りなくても多くの処理をこなせますし、何となれば自己が関わらないほうが物事がうまく進むケースも多いでしょう。
「いまの自分のフォームは正しいのか?」と疑念を抱いたテニスプレイヤーが、そこから急に調子を崩し始めるような話はよく聞くところです。
煎じ詰めれば、本章のポイントは大きく2つあります。
①自己は日常的に生成と消滅をくり返し、「わたし」がなくても問題ない状況が多く存在する
②自己は人間が持つ多くの生存ツールのひとつであり、感情や思考といった他の機能と変わりはない
この2点を合わせて考えれば、自然と次の疑問が導き出されるでしょう。
「やはり、自己は消せるのではないか?」
私たちの感情や思考が、ある程度までトレーニングでコントロールできるのは周知の事実。
腹式呼吸を使ったり、ネガティブな気持ちを紙に書き出したりと、臨床試験で効果が認められた手法はいくつも存在します。
それならば、感情や思考と似たように、自己もまた鍛錬による操作が可能ではないのでしょうか?
p83
そして、さらにめんどうなことに、私たちの脳が外部の情報だけをもとに苦しみを生み出すわけではありません。
目や耳から入った映像や音声データだけでなく、あなたの肉体が内側から発する情報もまた物語作りのリソースに使われます。
この事実を理解するために、まずホメオスタシスについて説明しましょう。
これはすべての生命が持つ自動修復システムを意味し、外部の変化に対応して身体を常に同じ状態に保つ働きを持ちます。
たとえば、人間の体温が常に37℃前後に保たれるのは、暑い日には発汗で熱を逃がし、寒い日には身体を震わせて熱を生むメカニズムが働くのが原因です。
タバコを吸って咳が出るのは毒素を外に吐き出すためですし、食べ過ぎて基礎代謝が上がるのは、体内のエネルギー量を一定に保とうとする機能が起動したからに他なりません。
これらの機能を働かせるべく、人体には高性能のセンサーが備わりました。
代表的なのは耳奥の三半規管で、身体が動く度に内部の液体が上下左右に移動し、その流れが脳に伝わることで私たちは自分の姿勢を把握できます。
他にも、あなたの皮膚に詰め込まれた感覚器や細胞の表面に配置されたホルモンの検知器が、それぞれ心臓や胃腸などの変化をモニタリングし、休みなく脳ヘレポートを送ります。
すべてはホメオスタシスを正常に働かせるための装置です。
しかし、もし身体の感覚に異変が起きると、私たちの脳は即座に物語を作り始めます。
たとえば、あなたが上司から大事なスピーチを命じられたとしましょう。
本番の日を思うだけでも心拍数は上がり、筋肉がこわばってしまうような状況です。
このとき、あなたの脳は「外部情報」と「内部情報」という2種類のデータをもとに、ネガテイブな物語を生み出します。
ひとつめの「外部情報」は、もちろん「スピーチをしなければならない」という事実そのものです。
外部からの情報を受け取った脳は、瞬時に「これは“私”にとって脅威か?」を判断し、それからあなたに不安や焦りの感情を知覚させます。
ふたつめの「内部情報」は、人体の高性能センサーが検知した肉体の変化です。
心拍の上昇や筋肉の萎縮といった異変は自律神経を通って脳に伝わり、「いま“私”が味わうべき感情の強さはどれぐらいか?」を判断する材料に使われます。
当然ながら、心拍や筋肉の変化が激しいほどネガティブな感情も強くなるわけです。
ここで悩ましいのは、本人では意識できないような身体の異変もまた、あなたの感情に影響を与える点でしょう。
食事の乱れによる栄養不足やカロリーの摂りすぎ、肥満が引き起こす高血圧とコレステロールの上昇など、自分自身では明確に知覚できなくとも、人間の脳はすべてのデータを生存の危機として処理しています。
その結果、「いつも身体が脅威にさらされているのは、“私”の何かがおかしいに違いない」との物語を生み出し続け、これを私たちは謎の不快や得体のしれない不安として認識するのです。
心身一如の言葉もあるように、苦しみから逃れるには、心理技法にこだわる前に「身体」という土台を固めておく必要があります。
脳の情報処理という観点からすれば、精神と肉体に明確な違いはないからです。
p88
混乱を防ぐために、用語の整理もしておきましょう。
自己に似た用語はいくつかありますが、本章で説明した脳の働きに準じると、それぞれ次のように表現できます。
・自己=脳が作り出す物語から生まれ、「私は私である」との感覚を生む機能
・自意識=物語から生まれた自己に注意を強く向けている状態
・アイデンティティ=自己をもとに「私はこういう人間だ」と規定した状態
・自我(エゴ)=物語が形成する自己の輪郭をもとに、自分と他人を明確に分けた状態
いずれも「わたし」を構成するパーツの一部ですが、どれも行き過ぎればトラブルにつながります。
自己の物語ばかりを考える人は自意識過剰と呼ばれ、アイデンティティへのこだわりが大きな人はセルフイメージの崩壊に弱く、「自分は他人と違う」との思いが強過ぎればエゴの肥大が起きるでしょう。
それもこれも、自己という虚構を絶対視する態度が原因です。
こう考えると、「ありのままの自分でいよう」や「自分らしく生きよう」といった当世風なアドバイスの困難さがわかるでしょう。
いかに本当の自分を追い求めようが、私たちがどのような人間かは周囲の物語によってコンスタントに変わりますし、そもそも自己の感覚そのものが物語と物語の間に生まれる架空の概念でしかありません。
ドーナツの穴を食べることができないように、ありのままの自分を探すのもまた不可能なのです。
エビデンスベースドな結界を張る p98
「けっかい【結界】①〔仏〕修行や修法のために一定区域を限ること。
また、その区域に仏道修行の障害となるものの入ることを許さないこと。
②寺院の内陣と外陣との間、または外陣中に僧俗の座席を分かつために設けた木柵。――広辞苑 第七版」
古来より、日本人が何事かをなす際には、いつも“結界”が重んじられてきました。
仏道に入った者が寺で暮らすのも、葬儀の場に鯨幕を巡らせるのも、神社の入り口にしめ縄や鳥居を置くのもみな結界の一形態。
何らかの象徴で聖なる空間を設定し、参加者を穢れた存在から守るための処置です。
その発想は日本人の日常に浸透しており、たとえば由緒ある商家では、帳場を囲う衝立や店前に下げる暖簾のことを、いまも結界と呼びます。
茶道にも似た発想は見られ、師範が立ち入り禁止区域に止め石を置き、茶室のにじり口をわざと狭くあしらうのも結界の一種です。
結界の効能をひとことで言えば、それは「安心感の演出」となります。
寺の門をくぐれば、煩悩の対象など存在しない。
神社の鳥居より内は、穢れのない清浄な区域である。
茶室のにじり口の向こうでは、ただ喫茶だけが許される。
いずれも事前に独自のルールを決めることで「安心感」が生まれ、そのおかげで参加者は気を散らさずゴールだけに集中できます。
俗世で仏道や茶道を修めるのが不可能とは言わないものの、「私はいま守られている」という安心感のあるなしで、修行の難易度が格段に変わるのは当たり前の話でしょう。
なぜアフリカ人は幻聴に苦しまないのか? p101
結界の重要性を理解すべく、まずは統合失調症の事例を見てみましょう。
言うまでもなく、統合失調症は過酷な疾患であり、「お前には居場所がない」「この嘘つき野郎」「本当にダメな人間だ」のような声がいきなり耳もとに響き、そのリアルさは実際に他人から罵倒されるのと変わりません。
いくら幻聴だと言い聞かせても声は止まず、何時間も嘲笑の言葉が続くケースもあります。
この疾患が生活の障害になるのは言うまでもないでしょう。
幻覚と幻聴で日常の会話と仕事がままならず、悪くすれば自分と他人の感情が理解できなくなってしまうことも珍しくありません。
統合失調症の有病率はおよそ100人に1人の割合で、日本における患者数は約100万人。
いまだ明確な原因はわからず、現在はおもにドーパミン神経の活動を抑える薬と心理療法を組み合わせた治療が行われています。
そんな状況下、2014年にスタンフォード大学の人類学者ターニャ・ラーマンが、興味深い研究を発表しました。
統合失調を発症したあとでも、症状に苦しまない人たちが存在するというのです(1)。
ラーマンはアメリカ、ガーナ、インドで統合失調症の患者にインタビューを行い、「頭の“声”は何を言ってくるか?」や「話しかけてくるのは誰か?」などを確認。
すべての回答をまとめ、国ごとによる幻聴の差を明らかにしました。
まずアメリカ人を襲う幻聴は、日本と同じくネガティブな言葉がほとんどです。
「死ね」「殺す」「最悪の人間だ」のように、暴力と憎しみに溢れたフレーズが大半を占めていました。
一方、ガーナやインドの農村部に住む者が聞く幻聴は、「正しく生きよ」や「良い日が来る」といったポジティブな内容が混ざり、声の調子もおだやかなものがほとんどだったそうです。
おかげで患者たちは統合失調症でもQOLを損ないにくく、症状の寛解スピードも早い傾向がありました。
この結果について、ラーマンは「アメリカ人にとって外からの声は「狂気」を意味する」と言います。
先進国では大半が幻聴を「異常なもの」「病気のひとつ」とみなし、修正しなければならない問題のひとつだと考えます。
これに対して、アフリカやインドの田舎町では幻聴を神の言葉や先祖の伝言として解釈することが多く、おかげで幻聴がポジティブに変換されるわけです。
幻聴の内容がときと場所によって変わる事実は、昔からよく知られていました。
1980年代に複数の人類学者が行ったフィールドワークによれば、メキシコ系のアメリカ人は幻聴を「先祖の言葉」と捉え、まわりの人たちも統合失調症に寛容と同情の態度を抱きます。
おかげで患者は幻聴を「良いもの」として捉えることができ、日常生活に支障をきたしづらい傾向がありました。
かたやヨーロッパ系のアメリカ人は、幻聴に苦しむ患者に「怖い」や「異常」のレッテルを貼りやすく、症状がさらに進んでしまうケースが広く確認されたのです(2)。
また別の研究では、1930年代には「他人を愛せ」や「主に寄り添え」などと優しい幻聴の報告が多かったのが、1980年代からは「自殺しろ」や「皆が軽蔑している」といった敵対的な内容が激増したとのこと(3)。
その理由はまだ定かではないものの、30年代はまだ共同体のつながりが濃かったのが、80年代にかけて先進国で個人主義的な思想が強まったのが原因と考えられています。
住む場所さえ変えれば万事解決といった単純な話ではありませんが、幻聴の内容が周囲の環境に左右されるのは間違いありません。
いわばガーナ人とインド人にとっては、各国の文化が「結界」として働いているのです。
薬のサイズが大きくなるほど効き目は強くなる p104
統合失調症の事例からわかるのは、私たちのメンタルにおいて、「セット」と「セッティング」がいかに重要かというポイントです。
両者とも薬物治療の世界で使われる言葉で、おおよそ次の意味になります(4)。
・セット=個人の性格、感情、期待、意図などの状態
・セッティング=物理的、社会的、文化的な環境の状態
あなたが医師から抗鬱剤を処方されたとしましょう。
このときに「この薬は最新の成分だから効くだろう」と期待したり、「薬に頼るのはなんだか怖い」という感情を抱いた場合は、どちらも「セット」の問題に分類されます。
他方で、もしあなたが「薬を家で飲むか、病院で飲むか?」という環境の違いや、「両親が投薬治療に反対している」といった周囲の意見に悩んだなら、それは「セッティング」の問題です。
どちらも違法薬物の研究から生まれた言葉ですが、その後の調査により、抗鬱薬・向精神薬・かぜ薬などの一般薬の効果も左右することがわかってきました。
セットとセッティングがポジテイブであるほど薬の効き目は上がり、もし本人が「こんな成分が効くわけない」と思ったり、周囲の同意が得られないままであれば、そのメリットは20~100%の範囲で下がってしまうのです(5)。
類似の研究は多く、薬のサイズが大きくなるほど効き目は強くなり、同じ成分量でも1錠より2錠を飲んだほうが薬効は高まり、白衣を着た療法士のほうが私服のセラピストよりも心の病をすみやかに癒してくれます。
いずれの要素も、私たちのセットとセッティングを整えてくれるからです。
ハーバード大学医学部のテッド・カプチュクは、次のように指摘します(6)。
「薬物や心理療法の効果を比べた研究を見ると、そこには儀式的な要素が働いていることが多い。
薬の効果を得るためには、一定の時間に診療所に行き、白衣を着た専門家の診察を受け、奇妙な処置を受けなければならない」
病院が私たちの不調を癒してくれるのは、たんに化学物質を処方されたからだけではありません。
国や専門家が認めた機関にわざわざ出向き(セッティング)、その結果として「私は適切なケアを受けた」との期待(セット)が生まれたのも、病院で不調が治る原因のひとつだというわけです。
もちろんセットとセッティングは魔法の薬ではなく、悪性の腫瘍を消すことはできませんし、目の見えない人に視力を与える効果もありません。
治療には化学物質や外科手術の力が絶対に必要です。
しかし、それと同時に、セットとセッティングが統合失調症のような難しい症状をやわらげるのもまた事実。
哲学者のヴォルテールも言うように、「医の技法とは患者を楽しませることにある」のです。
手法② 内受容感覚トレーニング p115
「内受容感覚」は、さきほど説明した「臓器の感覚」を感知する能力のことです。
もしあなたが呼吸のペースや心拍数、体温の変化を正確につかめないようであれば、内受容感覚は低いと判断されます(8)。
いわば内臓の脅威センサーが満足に働いていない状態です。
身体の状態が感情に影響するのは先述のとおりですが、内受容感覚の不調もまた私たちの精神にマイナスの効果をおよぼします。
「心拍や呼吸の変化など簡単にわかる」と思われそうですが、実は現代社会においては、肉体の変化を正しく察知できない人は意外なほど多いものなのです(9)。
一例としてエクスター大学の研究では、重い抑鬱に悩む参加者を調べたところ、精神の不調が大きな人ほど自分の心拍数を正しくカウントできない傾向がありました(10)。
その他にも不安や抑鬱に苦しみやすい人ほど、自分の体温や空腹感、脈拍といった情報をうまく察知できないという報告は多く、内受容感覚とメンタルに大きな相関があるのは間違いありません(11)。
内受容感覚の混乱で「苦」が生まれるのは、感情をうまく扱えなくなるのが原因です。
繰り返しになりますが、人間のネガティブ感情は、変化への適応をうながす「生存ツール」として進化してきました。
「怒り」は私たちに行動する勇気を与え、「不安」はトラブル処理に必要な集中力を高め、「悲しみ」は共同体を結びつける働きを持ちます。
ネガティブな感情なしで、あなたは外界の脅威にうまく対応できません。
しかし、私たちの脳は身体が伝える感覚情報をもとに「感情の強さ」を判断しているため、内臓の感覚をつかめないと自分が抱いた感情の強さがうまく測れません。
「この気持ちは快か不快か?」ぐらいの判断はつくものの、緊張、恐れ、怒り、動揺といった感情の区別がつかなくなってしまうのです。
ノースイースタン大学のリサ・フェルドマン・バレットらの研究によれば、内受容感覚が低い人ほど感情の強度が識別できず、「怒りと悲しみ」や「動揺と抑鬱」などの異なる気分を、ほぼ同じものとして扱ったと言います(12)。
その結果、彼らの脳は感情の多様性が判断できなくなり、目の前の問題について正確な判断を下す能力が下がったとのこと。
要するに、身体感覚の把握は脳のストレスを減らすための一里塚なのです。
「自己をならう」にはどうすれば良いのか? p138
日本に禅の思想を広めた18世紀の僧・道元は、『正法眼蔵』にこんな言葉を残しました。
「仏道をならうというは、自己をならうなり
自己をならうというは、自己をわするるなり」
精神をトレーニングするには、ただ自己を学ぶことが重要であり、他のことに手を出す必要はない。
自己について学び続けさえすれば、やがて自己は消えていくものなのだと道元は言ったのです(1)。
この発想がどこまで正しいかにはまだ議論が残りますが、自己分析の重要性を疑う人は少ないでしょう。
「そもそも私とはどのような存在か?」がわかっていなければ、自己が生み出す問題への対策を立てようがありません。
数式の読み方もわからないのに、いきなり方程式を解くのと同じ状態に陥ってしまうはずです。
p171
「悪法も法なり」とは言うものの、あなたを破滅に導くルールの言いなりになる必要はありません。
そもそも悪法とは生まれ育った環境や体験に植え付けられたものであり、自分の力ではどうすることもできない存在です。
何の責任もないものに振り回されるほど、馬鹿らしいことはないでしょう。
今後何かネガティブな感情に襲われたり、周囲を不幸にする行動を取ったりしたときは、「私はいま悪法に動かされていないか?」「悪法に従う以外の反応はできないか?」と考えてみてください。
そのくり返しにより、あなたは少しずつ「自己をならう」ようになっていきます。
苦しみ=痛み×抵抗 p177
抵抗が問題を生む。
この発想は古くから存在し、中国の老子は紀元前300年ごろに「人生は自然に起こる変化と自ら起こす変化のくり返しである。それに抵抗すれば不幸を生むだけだ」と指摘。
インドのヨガ指導者シュリ・チンモイは「降伏とは混乱から平和への旅だ」と語り、自己の感情に抵抗しない態度を強調しました。
西洋でも事情は変わらず、マーク・トウェインは「人は自らの承諾なしに快適ではいられない」と記し、神話学者のジョーゼフ・キャンベルも「私たちは計画した人生をあきらめる意志を持たねばならない」との言葉を残しています。
もっとも、心理学の世界で「抵抗」の問題が取りざたされるようになったのは、ごく最近のことです。
2014年、ブリティッシュコロンビア大学などのチームが、興味深い実験を行いました。
これは健康な女性を対象にしたテストで、チームは全員に高負荷のサイクルトレーニングを指示。
その際に半分の参加者にだけ「不快な感情をできるだけ受け入れるようにしてください」とアドバイスしました(2)。
トレーニング中の辛さに「この痛みがなくなれば良いのに」と願ったり、「思ったよりも苦しくない」と自分を偽ったりするのではなく、「運動の不快感は避けられないものだ」と認め、ネガティブな感情を迎え入れさせたわけです。
結果、不快を受け入れた参加者は「苦しみ」の認知が大きく変わり、運動の辛さに抵抗したグループと比べて主観的な辛さが55%も低下し、疲れて動けなくなるまでの時間が15%増加しました。
この結果をもとに、チームは「不快を受け入れること」の効果を強調しています。
近年も複数の研究が抵抗の問題点を主張しており、苦しみに歯向かった者ほど心拍数や不整脈が起きやすい事例や、電気ショックのストレスに弱くなったケースが報告されており、その重要性はますます高まりつつあります(3、4)。
抵抗が苦しみを生む事例は、日常にいくらでも存在します。
たとえば、山に登れば誰でも足や背中の痛みを経験しますが、「苦しみ」まで抱く人はほとんどいません。
登山者はみな「この困難を選んだのは自分だ」との認識があるため、山歩きの痛みに抵抗しないからです。
一方で誰かに登山を強制されたら事態は変わり、「なぜ自分がこんな辛い目……」といった現状否定の思考が頭をめぐり始めるでしょう。
予防接種にも似たメカニズムが働いており、大人が注射をさほど苦にしないのは、私たちがワクチンの重要性を認めているのが原因です。
「この痛みは受け入れるしかない」という認識が脳の抵抗をやわらげるため、それ以上の苦痛は生まれません。
ところがワクチンの価値を理解しない子どもにとって注射は理不尽な痛みでしかなく、自ずと抵抗の姿勢が生まれます。
その結果、いよいよ注射への「苦しみ」は深まっていくのです。
さらに多くの人が陥りやすい「抵抗」の典型例には、次のようなものがあります。
・怒り狂う:自己イメージの崩壊や失敗の恥を認められず、否定の感情が外部への怒りに変わるパターンです。
他者からの批判に過度に攻撃的になり、周囲に怒鳴り散らしたり、嘲笑したりといった人の存在には誰でも心当たりがあるでしょう。
・引きこもる:こちらの恥ずかしい姿を知る相手との関係を避け、自分の部屋に引きこもるタイプの抵抗です。
しかし、いくら外部との関わりを絶っても、今度は脳に浮かぶ他者のイメージに悩まされるため、いつまでも問題は解決されません。
・メタに身を置く:内面の焦りと不安を押し殺し、あたかもトラブルの一段上にいるかのように振る舞うケースもよくあります。
自分のミスでプレゼンに失敗したのに、「みんなに問題意識の共有がなかったね」と他人事のようなコメントをするのが典型的な反応です。
・見栄を張る:心の中のネガティブ感情を見せたくないあまり、他人に過去の成功を自慢したり、金や権力を誇示したりといった反応を見せるのもありがちな抵抗の例です。
・頑張りすぎる:「自分は無価値だ」や「私は何もできない」という感覚を押さえつけるために、限界を超えたハードワークを続けるパターンです。
このタイプの人は、成果を上げても内面が焦りと疲労に支配されており、周囲からは成功者に見えても本人は充実感を得られません。
・刺激に頼る:脳内のネガティブ思考から逃げようとして、酒やタバコなどの嗜好品に依存したり、ジャンクフードで気持ちを紛らわせたり、激しい運動で気分を高めたりと、何らかの刺激でごまかそうとするのも抵抗の一種です。
その結果、アルコール依存、過食、拒食、燃え尽き症候群などにはまりやすくなります。
どのパターンでも不幸を紛らわせる効果は長続きせず、それどころか事態の悪化をまねきます。
いずれの抵抗も現実から目を背け続けている点は変わらず、それゆえに本質的な問題が解決されないからです。
この苦しみのメカニズムを、仏教研究者のシンゼン・ヤングは次の式で表しました(5)。
・苦しみ=痛み×抵抗
第1章でも見た通り、私たちが人生で出くわす“一の矢”(痛み)は誰にも避けられません。
そこに「現実への抵抗」という行為が加わることで、“二の矢”(苦しみ)が生まれるわけです。
ならば私たちが取れる対策はひとつしかありません。
すなわち、現実に対して積極的に「降伏」するのです。
いまは降伏と洒落込もう p207
痛みへの降伏には、多大な困難がともないます。
ヒトの痛みは人体に備わったデフォルトシステムであり、その機能の克服を試みる行為は、600万年におよぶ進化の流れに逆らう一大事に他なりません。
そのため、どうしても抵抗の誘惑に負けてしまう事態は必ず訪れるでしょう。
とはいえ、困難に挑む意味はあります。
糖尿や腰痛などの現代病、不安定な雇用、経済への不安、ワンオペ育児、引きこもり、老々介護――。
私たちの祖先が体験しなかった悩みや苦しみに満ちた現代では、もはや進化が用意してくれた生存機能だけでは足りません。
PCと違ってOSのアップデートが効かない人類には、既存のシステムでやりくりしていくしかないからです。
江戸後期の軍学者・大鳥圭介は、箱館戦争において五稜郭を落城寸前まで追い詰められた際、新政府軍への徹底抗戦を主張する仲間に向かって言いました。
「死のうと思えば、いつでも死ねる。いまは降伏と洒落込もうではないか」
人生の痛みに立ち向かうのはいつでもできます。
しかし、そこで降伏と洒落込む余裕ができたとき、私たちは「まっすぐな民」への一歩を踏み出すことができるはずです。
禅問答はなぜ難しいのか? p212
ひとつめの「停止」とは、脳のリソースを何かほかのことに使い、物語の製造機能そのものを止めてしまう方法です。
その方法はいくつもありますが、まずは「停止」の考え方を理解するために、ある疑問について考えてみましょう。
それは、「禅問答はなぜ難しいのか?」というものです。
中国南宋時代の禅書『無門関』に、こんな話があります(1)。
その昔、中国に倶胝という有名な僧がいました。
倶胝和尚は誰から何を聞かれても、ただ人差し指を一本立てて答えるのみ。
それ以外のことは何もせず、何も言わないことで知られた人物でした。
ある日、倶胝の寺を訪れた客が、修行中の小僧に尋ねます。
「お宅の和尚は、どのような説法をしているのですか?」
そこで小僧は、倶胝をまねて人差し指を立て、何も答えませんでした。
すると、この話を知った倶胝は小僧を呼びつけ、驚きの行動に出ます。
おもむろに刃物を取り出すや、小僧の人差し指を切り落としたのです。
痛みと恐怖のあまり泣いて逃げ出す小僧を呼び止めた倶胝は、彼に指を一本立てて見せました。
その瞬間、小僧はすべてを理解したのです。
――わけがわからない話です。
なぜ和尚は普段から人差し指だけを立て続けたのか?
なぜ小僧は指を切り落とされ、何を理解できたのか?
禅問答といえば「意味不明な対話」の代名詞ですが、確かに頭から尻まで謎だらけです。
禅問答には類似の話が多く、「仏とは何ですか」と尋ねられて「麻三斤だ」と答えた洞山和尚、同じく仏の正体を訊かれて「乾いた糞の塊りだ」と答えた雲門和尚など、謎に満ちたエピソードには事欠きません。
いったい過去の高僧たちは、いかなる理由でこのように意味不明な話を重んじたのでしょうか?
この疑問に興味を抱いた碩学は多く、世界中で研究が行われてきました。
いまだ定説と呼ぶべき見解はないものの、多くの支持を集めるのが、ドイツの社会学者ペーター・フックスとニクラス・ルーマンによる次の見立てです(2)。
「パラドックスの枠内で頭を悩ませ、文字通り頭を悩殺させることが禅問答の出口であり、解決策なのだと気づくまで悩み続けねばならない。
(禅問答の役割とは)あらゆる恣意的な情報において解釈を拒み、自分自身を抹消することにある」
禅問答は明確な答えがあるクイズではなく、そもそも唯一の解を持たぬよう意図的にデザインされています。
意味不明な逸話についてあえて考え抜き、思考回路を麻痺させて自己を消すのが禅問答の目的なのだ、というわけです。
たとえば、「あなたがいま読んでいる文は絶対に間違っている」という自己言及のパラドックスについて考えてみると、多くの人は焦りや苛立ちに似た感情を抱きます。
「この文が正しいとすれば、この文は間違いであるとの意味になり、この文は正しくないことになる。
しかし、この文を間違いだとすると、この文は正しいことになり、今度はこの文は間違っていることになり……」
パラドックスのせいで頭の中を矛盾した思考が駆けめぐり、答えの出ない問いから意識をそらすべく、脳がネガティブな感情を発動させるのです。
しかし、ここからさらに無理やり悩み続けると、妙に爽快な気分を感じる人が必ず一定数だけ存在します。
解けない謎に対して脳の回路が停止し、結果として頭の中を巡る思考から解き放たれるからです。
思考を止めれば「ミー・センター」も止まる p216
禅問答を実践中の脳を調べるのは難しいため、フックスとルーマンの解釈がどこまで正しいかは判然としません。
ただし、何らかの作業に意識を集中させることで“物語”が停止する現象は、すでに複数の実験で確認されています。
その代表的な手法として、もっとも有名なのは「詠唱」です。
ご存じの通り、礼拝の祈祷文を一定のリズムと節に乗せて歌う宗教儀式のひとつで、短い聖句を何度もリピートするパターンや、聖歌のような複雑な構成の楽曲まで、いくつものバリエーションが存在します。
日本の祝詞や念仏も詠唱の一種です。
詠唱と「停止」の関係があきらかになったのは2000年代後半のこと。
たとえば、ワイツマン科学研究所の研究では、健康な男女に「ONE」という単語を何度も繰り返させたところ、安静時のベースラインと比べてDMN(デフォルトモード・ネットワーク)の活動量が下がり、自己にまつわる物語の量も有意に減る傾向が認められました(3)。
香港大学のチームによる実験も結果は似ており、浄土教の念仏を15分ほど唱えた被験者の後部帯状皮質に変化が起き、リラクゼーション反応も大きく増えた上に、やはりDMNの活動低下が見られました。
DMNはあなたが何もしていないときに活動を始める神経回路で、内側前頭前野(MPFC)や前部帯状皮質(ACC)といった幅広いエリアから構成されます。
ぼんやりと空想をしているときや、風呂に入ってとりとめもない思考に身を任せているときなど、脳が意識的な活動を行わない状況で活動を始め、いろいろな情報をまとめて新たな発想を生むのに役立つネットワークです。
シャワー中に良いアイデアを思いつく人が多いのは、DMNの働きが大きく関わっています。
その点でDMNは大事な回路ではあるものの、近年では、私たちの苦しみを生む原因になることもわかってきました。
というのもDMNは、自分に関する情報を処理する回路でもあるからです(4)。
将来のことを考える、過去を振り返る、誰かとコミュニケーションをする――。
そのような場面ではDMNの活動が激しくなり、「この人に嫌われていないか……」や「あの失敗はまずかった……」などと自分にまつわるネガティブな物語を生み出すため、一部には「ミー・センター(Me center)」と呼ぶ専門家もいるほどです(5)。
事実、14件のfMRI研究をまとめた2020年のメタ分析でも、「鬱病の患者はDMNの活動量が大きい」と結論づけており、この回路がメンタルの悪化に一役買っているのは間違いありません(6)。
また、詠唱と似た事例として、音楽もまた同じような働きを持ちます。
同じ音階や歌詞のくり返しが、やはり詠唱に似た効果をおよぼし、DMNがもたらす自己の感覚を消すからです。
心理学者のエリザベス・ヘルムス・マーグリスは、音楽の魅力を次のように説明しています(7)。
「決まったコーラスのくり返しによって単語やフレーズは飽和して意味を失い、あなたは歌詞を新たな感覚で聴くことになる。
言葉が感覚的なものに変わり、より直感的に楽曲と向き合えるようになるのだ」。
音を聞きながら「この歌詞の意味は?」や「いまのコード進行にはジャズの影響があるのでは?」などと考えていたら、その曲を楽しめないのは容易に想像がつきます。
しかし、同じ歌詞やフレーズの繰り返しに身を任せることで思考の麻痺が起き、その曲を万全に楽しめるようになるわけです。
グレゴリオ聖歌の響きに心が落ち着いたり、読経や祝詞の調べに荘厳な気分になったり、といった経験を持つ人は少なくないでしょう。
そんなとき、あなたの脳内ではDMNが鎮まり、本来は自動的に動き出すはずの物語が機能を止めています。
先にも見たように、私たちは“物語”の自動発生をピンポイントで止めることができず、それならば、自己に関わる機能を丸ごと止めてしまうしか手はないでしょう。
これが、本章で「停止」を重んじる理由です。
観察の能力には抗鬱剤に匹敵する効果が p220
ふたつめの対策である「観察」は、文字通り、あなたの脳内に浮かぶ物語をじっくりと見つめる作業を意味します。
人前で失敗した過去のイメージ、嘘がバレたあとの恥ずかしい感情、「貯金が尽きたらどうする……」という思考など、すべてのネガティブな物語を科学者になったような気持ちで観察し続けるのが基本です。
何やら難しそうな印象があるでしょうが、「観察」の感覚そのものは誰でもすぐに味わうことができます。
試しに本書を手にしつつリラックスして座り、次の単語を声に出さずに読んでみてください。
リンゴ 誕生日 海岸 自転車 バラ 猫
単語を読む間、あなたの心にどんな変化が起きたでしょうか?
リンゴや猫のイメージがそのまま浮かんだかもしれませんし、誕生日の思い出が心をよぎったかもしれません。
もちろん何の変化も起きないこともあるものの、それはそれで構いません。
この実験のポイントは、ごく平凡な単語に対して、あなたの内面がどう反応したかに気づくことです。
何度か単語を読み返してみて、脳裡になんらかのイメージや思考が浮かぶかどうかを眺めてください。
この感覚こそが「観察」です。
そんな作業に意味があるのかと思う人も多いかもしれません。
しかし、「観察」そのものは紀元前から世界各地で使われてきた精神修養のひとつであり、禅系で使われる坐禅、原始仏教のヴィパッサナー瞑想、キリスト教の黙想、古代インドのヨーガ、ヒンズー教のディヤーナなど、どのような宗派にも「観察」の原理を使ったメソッドが受け継がれているのは有名でしょう。
あらゆる宗教儀式が同じ特徴を持つとは言いませんが、多くの宗派にとって「ただ観察する」というメソッドの存在は普遍的なものです。
ここ数年は「観察」の科学的な研究も進み、ジョンズ・ホプキンス大学などのチームによるメタ分析では、座禅や瞑想に関する過去の研究から3515人分のデータをまとめ、「自分の思考や感情を観察するトレーニングを8週間続けると、不安と抑鬱症状には0.3、痛みには0.33の効果量を持つ」と報告しました(7)。
効果量は観察のメリットを数値に換算したもので、0.3ポイントという数字は一般的な薬物治療に相当するレベルです。
薬剤を使わずに同等の効果を得られるなら、試す価値は十分にあるでしょう。
さらに近年は、観察のトレーニングで脳の構造が変わるとの報告も増えてきました。
ローマ大学などが行なったメタ分析では、53の脳機能イメージング研究を調べた上で、こう結論づけています(8)。
「観察のトレーニングにより、脳の機能的・構造的な変化が起きるようだ。
特に自己認識や自己制御を含む自己言及プロセスに関わる領域や、注意、実行機能、記憶形成に関わる領域が変化する」。
どうやら観察のトレーニングには、脳の「わたし」に関わる領域に変化を起こし、最後にはメンタルの改善や集中力と記憶力の向上が見込めるようです。
まだ研究の日が浅い分野なので追試が必要ではあるものの、複数のデータが観察のメリットを指摘している点は間違いありません。
④縁起性 p240
縁起性とは、この世には独立した存在などなく、あらゆるものが因果関係のネットワークによって成り立つという世界観を意味します。
一例として、筆者がいま着ているTシャツは、この世に突然現れたものではありません。
遡ってみると、流通業者が服屋にTシャツを卸し、その前は中国の紡績工場で生産された商品です。
その原料である綿の出どころをたどれば、今度はアメリカはテキサスの畑に行きつき、その綿花を育てるためには種や肥料が必要となり、その種が育つには良質な土壌、水、日光が欠かせず……といったように、Tシャツ一枚をとっても、そこには数えきれない因果のネットワークがからみあっています。
これが縁起性です。
自己の問題においても事情は変わらず、そもそも「わたし」という存在は、他人との関係がなければ成立しません。
家では子どもに厳格な親として振る舞うが、会社では陽気な上司として慕われる「わたし」。
学校では何の発言もせず周囲から目立たないが、一部の友人の前でだけリーダー役を務める「わたし」。
誰もがさまざまな人との関係や記憶の中で自己を定義し、いまの「わたし」を形作っているでしょう。
このような縁起性の考え方をベースにしないと、観察は副作用を起こしやすくなります。
「私は周囲から独立した存在である」といった思考や感情に意識が向かうせいで自己の輪郭が際立ち、逆に自意識がふくれあがってしまうからです。
バッファロー大学のチームは、325人の男女を集めたテストでこの事実を確認しました。
実験では参加者の半分に「人間はみな独立した存在だ」と考えさせ、残り半分には「人間はみな相互に依存し合う存在だ」と考えるように指示。
そのうえで自己観察のトレーニングを行わせたところ、人間を独立したイメージで捉えたグループはボランティア活動の参加意志が33%も低下したのに対し、人間を縁起性のイメージで捉えたグループは、同じ数値が40%も増加しました。
要するに、縁起性の有無によって観察の効果が真逆に振れたわけです。
日々のトレーニングに縁起性を取り込むには、以下の手法を使うと良いでしょう。
慈経行(じきんひん) p242
慈経行は原始仏教の世界で使われてきた手法で、ひとことでまとめれば「歩きながら他人の幸せを願う訓練」のようになります。
数あるトレーニングのなかでも心を落ち着かせる効果が高いとされ、たとえばアイオワ州立大学のテストでは、496人の学生に「大学の構内を歩きつつ、すれ違った人たちの幸せを願ってみてください」と指示したところ、12分の実践で不安とストレスの大幅な減少が認められました(24)。
普段は何とも思わない通行人の幸福を願うことで、縁起性の感覚が高まったからだと思われます。
慈経行の実践は簡単で、通勤途中や買い物中に見知らぬ人とすれ違ったら、「この人が健康で元気に暮らせますように……」や「この人が楽しい人生を送れますように……」と心の中で考える作業を一日10分ずつ続けてください。
最初のうちは恥ずかしさを覚えるかもしれませんが、だいたい1~2週間で他人の幸せを願う気持ちに真実味が生まれ、やがてあなたの中に縁起性の感覚が宿りはじめます。
気持ちを落ち着ける効果があるため、観想のように難易度が高いトレーニングを行う前にやっておくのもおすすめです。
外出できないときは、部屋でひとり友人や知人の幸福を考えてみても構いません。
⑤超越性 p243
超越性とは、自分の理解を超えた素晴らしい物事に接することを意味します。
たとえば、大自然の中で震えるような感動を得たり、宇宙の大きさを想像して鳥肌が立ったり、名画に触れて言葉を失ったりといった経験は誰にでもあるはず。
このとき、あなたは超越性を体験しています。
この感覚が、自己のあり方を左右するのはわかりやすいでしょう。
そもそも超越性は“我を忘れるような体験”を意味するため、自然やアートの崇高さに心を奪われているあいだは自己も発生しようがありません。
雄大な景色や良質な絵画のすばらしさは言葉で説明できず、それゆえに脳が物語を生み出すこともないからです。
近年は超越性の研究も多く、2078人を対象にしたカリフォルニア大学の調査では、参加者の半分に「ユーカリの木を見ながら感動や驚きのポイントを探してください」と指示。
「葉脈の流れがなんとも言えず美しい」や「樹皮のうねりに生命力を感じる」といったように、心を動かされるようなポイントを意識して探させたところ、参加者の行動に変化が見られました。
何も考えずに大学の校舎を見たグループに比べて、超越を意識しつつユーカリを見たグループは寛大な気持ちが増し、他人の手助けを積極的に行うようになったのです(25)。
超越の体験によって自己を超えた感覚が生まれ、そのおかげでエゴイズムが和らいだのでしょう。
注目すべきは、ユーカリを見るだけの日常的な体験でも、参加者のナルシシズムが低下した点です。
“超越”といってもおおげさな体験は必要なく、その気になれば、世界のあらゆる物事が自己を超えた感覚の発生源になり得ます。
自意識過剰やエゴイズムの問題に悩んでいる人は、この超越性を一番に意識しつつ、次のトレーニングを実践してください。
畏経行(いきんひん) p245
畏経行は日常の中に超越性を探すために開発されたトレーニングです。
禅の世界で使われてきた手法を応用したもので、8週間の実践により参加者の自己本位な行動の量が減り、日常の幸福度が大きく改善したと報告されています(26)。
具体的なステップを見てみましょう。
①6秒で息を吸って6秒で吐くペースで深呼吸を行いつつ、いつものように街中を歩く。
②「見慣れた光景の中に、いままで気づかなかったような新たな驚きや感動はないか?」と自問しつつウォーキングを続ける。ただし、意識して特定のものに集中するのではなく、周囲の音、映像、匂いなどが感覚に入ってくるままに任せる。
③ウォーキングの最中に考えごとを始めたら、いったん呼吸に注意を戻して6秒の深呼吸をくり返し、また驚きや感動を探す作業に戻る。
畏経行のプロセスは以上です。
最初の頃は苦労するでしょうが、いったん感覚をつかめば超越性はどこでも見つけられます。
人によっては川の流れに神秘を感じるケースもあるでしょうし、またある人にとっては缶ジュースのプルタブを発明した人の頭脳に驚嘆するかもしれません。
どのポイントに反応するかは人それぞれですが、どんなに見慣れた光景にも必ず「超越性の種」は眠っているものです。
何度やっても超越性を感じられない場合は、試しに「物理的な広大さ」か「新規性」に注目してトレーニングを行ってください。
先に見たカリフォルニア大学の研究でも、この2つの要素を兼ね備えた場所ほど超越性が発生しやすいと報告されています。
具体的には、「高い木々が立ち並ぶ小道」や「巨大な湖」といった自然環境や、「高層ビルが並ぶ大通り」や「歴史的なモニュメントがある広場」のような都市環境などが典型的な例です。
これら2つのガイドラインに意識を向けつつ、ぜひ日常の中に超越性を探してみてください。
自己が鎮まったあなたはひとつの「場」になる p247
大量の技法を取り上げてきましたが、すべてに共通するのは、第1・2章で見た自己の発生メカニズムを実感としてつかまねばならない点です。
どのようなトレーニングを実践した場合でも、経験を積むにつれてあなたは以下の事実を体感するでしょう。
①自己、思考、感情のいっさいは、どこからともなく現れる
②自己、思考、感情のいっさいは、放置すればやがて消えていく
この認識が少しずつ脳に染み込むと、やがてミー・センターと扁桃体の結びつきが弱まり、私たちは脳が生み出す物語に巻き込まれにくくなります。
ネガティブな感情や思考は生体の維持機能のひとつであり、いずれも世の移り変わりの一部に過ぎないという事実を心から実感できたのが原因です。
この時点で、人生の悩みから解放された気分になる人も少なくないでしょう。
しかし、ここからさらに精神機能を観察し続けると、再び興味深い変化が起きます。
あなたの自己を構成してきた人生のあらゆる要素が、まるで最初から自分とは無関係だったかのような感覚が現れるのです。
仕事の成果、他人からほめられた思い出、銀行の預金残高、腹の周りに溜まった脂肪、性格、肩書き、恥の記憶――。
それがポジティブなものかネガティブなものかを問わず、これまでの人生であなたを形作ってきた記憶や概念の虚構性に脳が気づき、もはや「わたし」を規定する必要がなくなった結果として、すべてが少しずつ強度を失い始めます。
いったんこうなれば、“二の矢”も継がれようがありません。
誤解なきように申し添えておくと、無我にいたった後も、あなたの中には相変わらず自己が現れ続けます。
もともと自己は生存ツールとして生まれた存在なので、その発生そのものは止めようがありません。
ただし、いったん観察スキルを身につけたあなたは、もはや自己に悩まされなくなります。
かつては確たる存在だった自己が、ただの「複数の物語のひとつ」に変わったからです。
理屈だけではわかりにくい感覚なので、ここでもメタファーを使いましょう。
自分のことを大きな山だと想像してください。
山の天気は変わりやすく、あるときは快晴に恵まれ、またあるときは雷雨に見舞われます。
火事が起きるかもしれませんし、植物が盛大に花を咲かせるかもしれません。
しかし、どんなことが起きても山が山であることに変わりはなし。
どれだけ天候が荒れようが、山そのものはただの「場」でしかないでしょう。
ここで言う天候や災害は、もちろん自己が生み出す困難の比喩です。
自己が鎮まったあなたもまたひとつの「場」となり、思考と感情がどれだけ荒れ狂おうが、あなたはすべてと無関係に存在を続けます。
それではいま生きている自分とは何者か? p250
しかし、ここにいたっても疑問を抱く人はいるでしょう。
「自己をなくすなど、死んだも同じではないのか?」
「場」と化した私が不安や悲しみに動じなくなるのは良いが、それはすなわち喜びや情熱の喪失にもつながるはず。
それは廃人も同然ではないのか?
太宰治が『人間失格』で描いた「自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」との感慨に似た、虚無の心しか生まないのではないか?
同じような疑問を抱く人は少なくないようで、古来より日本ではこんな説話が語り継がれてきました(27)。
ある夜、ひとりの旅人が荒屋に寝泊まりしていると、そこに人間の死体をかついだ二体の鬼が現れ、「このしかばねは我が物だ」と言い争いを始めました。
議論は平行線のまま決着がつかず、鬼たちは旅人に死体の持ち主を決めるよう命じます。
当然、どちらが持ち主かなど判断のつけようもありません。
困り果てた旅人が「それはあなたのものです」と当てずっぽうに右の鬼を指さすと、予想だにせぬ展開が待っていました。
怒った左の鬼が旅人の両腕をねじ切ったかと思うや、それを見た右の鬼が同じように死体の腕をもぎ取り、代わりに旅人にくっつけたのです。
これに火のついた鬼たちは、同じことをくり返します。
左の鬼が足をもげば、右の鬼が死体の足をつける。
胴を切れば胸がつく。
首を刈れば首がつく。
目玉を抜けば目玉が入る。
やがて旅人の身体と死体が完全に入れ代わると、争いをやめた鬼たちは死体を半分ずつ食べ、どこかへ立ち去ってしまいました。
残された旅人は思います。
「自分の身体は鬼に喰われてしまった。それではいま生きている自分とは何者か?」
ただの「場」となったあなたは、身体を喰われた男と大差ありません。
過去の記憶、現在の地位、未来への期待など、あらゆる物語から切り離されたあなたは、いったい何者なのでしょうか?
無我に至った者が得る“智慧”の境地 p254
無我に至った人間は何者になるのか?
いかなる心持ちを抱き、どのように行動するのか?
この疑問については、過去に多くの賢人が体験談を残してきました。
仏典翻訳家の大竹晋は、無我に関する最古の証言として、5世紀の禅僧・菩提達磨が残した言葉を取り上げています(1)。
「迷いにあるうちは心が景色に包まれている。見性してからは心が景色を包んでいる」
あるいは、禅問答を大成させた12世紀の僧・無門慧開はこう言います(2)。
「この無を、決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。(中略)
時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分と世界の区別がなくなって一つになるだろう」
さらに、円覚寺派管長を勤めた明治の禅僧・朝比奈宗源の証言はこうです(3)。
「山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること、しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしている」
解釈の難しい表現ばかりですが、いずれも無我に至ったあとで自分と世界をへだてる境界が消え、精神が拡大した感覚と強い幸福感を抱く点が共通しています。
西洋にも同じような証言は多く、イギリスの思想家アラン・ワッツは、LSDという幻覚剤を摂取した後に自己の消失と大いなる幸福感を味わい、「すべての差異がなくなったようだ」と報告しました。
ハーバード医学校の脳科学者ジル・ボルト・テイラーは、37歳のころに脳卒中で自己認識に関わる脳機能を失った直後から「あたり一面が平穏な幸福感に包まれているような感じ」を体感。
この状態を、「脳のおしゃべりが止まった」と表現しています(4)。
似た証言はほかにも無数に存在し、たいていは自己が消えたあとで独特の一体感や安心感が生まれ、人生の悩みが消えて強い幸福感を得たと報告するのが定番のパターンです。
本書のタームで言えば、自己を定義してきた物語がはがれ落ち、そのおかげで精神機能が広がった状態と言えるかもしれません。
が、そう言われても納得しづらい人が大半でしょう。
いかに無我のレポートが多くても、結局すべては主観的な証言でしかなく、それぞれの本当の胸の内を外部から知るのは無理な話です。
この問題ばかりは、いくら科学の測定法が進んでも解決できないでしょう。
そこで本章では、無我によって起きる変化をよりよく理解するために、彼らの“行動”にフォーカスします。
無我のスキルを身につけた者は、果たしていかなる行動をとるのか?
どんなトラブルにも動じぬ泰然自若の態度を保つのか、それともすべての欲望から解き放たれた隠者のごとく、何の反応も示さないのか?
そんな疑問について考えていきましょう。
そんなことがわかるのかと思われそうですが、実はここ十数年で興味深い研究が増えてきました。
代表的なのは、シカゴ大学やウォータールー大学などのチームが積極的に行っている「智慧」の研究です。
学問の世界で言う「智慧」は、IQや知識の量などを意味しません。
その定義はまだ明確でない部分もありますが、複数の専門家の意見をまとめると、次のようなスキルの集合体だと考えられます(5)。
①人生経験から得た知識を正しく利用できる
②困難に直面しても不安が少ないまま行動できる
③自分や他人の精神状態を注意深く考察できる
要するに、智慧を持つ者は、人生の経験を実践的な知識に変えるのがうまく、トラブルにもあわてずに対処し、他人の心理を読むのも得意な人だと言えます。
英語で言うストリート・スマートに近い状態で、確かに智慧と呼ぶにふさわしい能力ばかりでしょう。
①幸福度の上昇 p259
観察の訓練が不安の改善に役立つのは前章で見た通りですが、ダービー大学などの試験では幸福度の上昇も確認されています(7)。
これは、日本、タイ、ネパールなどから平均で25年間をかけて毎日のように瞑想を続けてきた僧侶を招いた調査で、当然ながら、実験前の段階ですでに全員が高い幸福度と智慧のレベルを維持していたそうです。
研究チームは、すべての参加者に「縁起性」(240~242ページ)にまつわる瞑想を行うように指示し、実験前に測ったベースラインとの比較を行いました。
すると、もとから高かった参加者の幸福度がさらに上昇し、ポジティブな感情と他者への慈悲心がそれぞれ10%と16%ずつ上昇、逆にネガティブな感情は24%低下し、物事への執着心も10%減ったのです。
筆頭著者のウィリアム・ヴァン・ゴードンは、こう指摘します。
「主観的な幸福の向上という観点から見ると、瞑想によって存在論的な依存が弱まり、感情や概念などの精神的な重荷が蓄積する基盤が取り除かれたようだ」。
“存在論的な依存”とは、「自己は確固たる存在だ」という考え方への執着のことです。
精神の動きを観察することで自己の縁起性が実感され、ネガティブな思考や感情を生み出すバックボーンが消えた結果として、幸福度が高まったわけです。
無我とはあらゆる欲望を捨て去ることではない p265
他者に寛容で物事の判断がうまく、高い幸福感を保ち続ける。
こうして見ると、無我が決して特殊な人間のあり方ではないことがわかります。
自己が消えたからといって、あらゆる物事から超然とした仙人になるわけではなく、すべての問題をたちどころに解決する超人に生まれ変われるわけでもありません。
この事実を象徴するのが、中国南宋代の禅書『五灯会元』にある有名な公案です。
昔、ある老婆がひとりの僧侶を自宅の離れに住まわせ、仏道修行の手伝いを始めました。
僧侶が衣食住に困らぬようにと、老婆が何くれとなくめんどうを見てやること20年。
ある日、僧侶がどのような境地に至ったかを知りたくなった老婆は、給仕の若い娘に「離れの坊主に抱きついて誘惑しなさい」と指示を出しました。
すると、言われたとおりに抱きつく娘に対し、僧侶は動揺せずに答えます。
「枯木寒巌に倚って、三冬暖気なし(寒い岩の上に枯木が立ったようなもので、何も感じない)」
これを聞いた老婆は、「さすがは長い修行を耐え抜いた清僧ならではの境地」とほめ称えるのかと思いきやさにあらず。
「かような生臭坊主に20年も費やしてしまった」と激怒し、その場で僧侶をたたき出したどころか、離れすら焼き捨ててしまったのです。
この話が示唆するのは、真に無我に至った者とは、あらゆる欲望を捨て去った世捨て人めいた存在ではないという点です。
ウォータールー大学のイゴール・グロスマンは、一般的な男女160人の「智慧」を調べた研究の中で、次のように報告しました(15)。
・どんな人でも必ず「智慧」に満ちた行動を取る場面は存在する
・ある場面では「智慧」に溢れた人でも、別の場面では誤った行動をとる
予想外の結論ではありません。
たとえば、自分の身に起きたトラブルには何もできないのに、友人の悩みには最適解を思いつけるような人はいくらでもいます。
プライベートでは問題ばかり起こすのに、会社では的確な指示を出せるという人も多いでしょう。
人によって自己が起動しやすい条件は大きく異なるため、智慧の発動率に差が出るのは仕方がないことです。
要するに、無我によって起きる変化とは、高僧や仙人だけが得られる特別な境地ではなく、すべての人間が生まれながらに持つ“善の力”が高まったものだと言えます。
自己が消えたことで歪んだ思考と感情のくびきから外れ、理性・共感・判断などの能力が存分に発揮できるようになった状態です。
無我がもたらす3つの世界観の変化 p268
最後に、無我に至った者が持つ世界観の変化を、筆者なりにまとめておきましょう。
ポイントは3つです。
第一に、無我はあなたを永遠の初心者に変えます。
私たちが過去の経験や他人の意見を脳に溜め込み、これらの情報をもとに日常生活を送っているのは「悪法」の章で見た通りです。
このシステムのおかげで私たちは効率的に日々のタスクをこなせますが、一方では多くの人を苦しめる呪いにもなります。
「現実はこうなるだろう」という予断や「現実はかくあるべき」という思い込みのせいで、新しい視点や斬新なアイデアなどの重要な情報を見落としてしまうからです。
ところが、自己が鎮まったあとは、脳内に現れる思考と感情から距離を取れるため、予断と思い込みには簡単に流されませんし、誰かの裏切りに失望したり失敗の挫折感に打ちのめされることもありません。
それどころか、知識と経験の呪縛にとらわれなくなった結果として、見慣れた物事にも好奇心と驚きを持つマインドが生まれ、物事を新鮮な目で見つめる視点が備わります。
もちろん、過去の経験にもとづく未来の予想が無意味だとか、失敗を反省しないのが正しいと言いたいわけではありません。
無我が生む初心者の感覚は、あらゆる可能性に対してあなたをオープンにし、日常の些事にも無上の甘露味を感じられるメンタリティを育てます。
過去の経験や他人の意見を十分に吟味した上で、それが正しければ素直に採用し、それが間違いならば別の道を探す。
そんな柔軟な態度が身につくわけです。
第二に、無我は変化への限りない受容力を生みます。
万物はあまねく常ならぬが世の習い。
気心の知れた友人でもいつ仲違いするかわかりませんし、いくら健康を心がけても病に襲われる可能性は残り、どれだけ注意しても仕事や学習に失敗はつきものです。
すべての物事はランダムに移ろい、どんな秩序もほどなく崩壊します。
そのため人間の脳には、変化を嫌う心理が備わりました。
変化から得られるメリットがよほど大きくない限り、私たちの脳は不安や恐怖を発生させて好奇心を押さえつけ、同じ状態を保とうとするのです。
が、そうは言っても、未知の情報を受け入れずに見知らぬ他人におびえてばかりでは、成長が止まってしまいます。
現実が常に変わり続ける中で、ずっと同じ地点にとどまり続ければ現状維持すらおぼつかないでしょう。
その点で無我の精神は、あなたに変化を恐れぬメンタリティを与えてくれます。
無我に至るプロセスで育んだ降伏のスキル(197ページ)が、世の中の不確実性、複雑性、曖昧さを心から受け入れさせ、眼前の変化は本当に避けるべきかを熟考する余裕を呼び起こしてくれるからです。
限りない受容力を身につけたあなたは、変化にともなって起きる不安・恐れ・怒りにはただ降伏の態度でのぞみ、ネガティブな感情を放置しながらも複数の経験を積み、さらに多彩な他者と交わりを持つことができます。
そして、世界の変化は、可能性の源泉に変わるのです。
第三に、無我はあなたに圧倒的な自由をもたらします。
第5章で説明した通り、人間の精神とは、さまざまな自己・感情・思考がどこからともなく現れては消える「場」のような存在です。
にもかかわらず、私たちは自己を絶対に必要な存在と捉えてしまい、脳が生み出すネガティブな物語にも疑いをはさもうとしません。
これがヒトの苦しみの起源でした。
考えるまでもなく、ここに本当の自由はありません。
あなたが友人から言われのない非難を受け、すぐに怒鳴り返したとしましょう。
悪口に言い返すのが良いことか悪いことかは状況によって異なりますが、いずれにしてもその行動が相手の行為への反射で起きたところは変わりません。
言い換えれば、あなたの反応は相手の言葉によってコントロールされただけであり、まったく違う行動を選ぶことができた可能性を自らの手で放棄したことになります。
ネガティブな思考と感情によって行動を決められてしまう状態は、不自由と呼ぶほかないでしょう。
その点、無我に至った者は、不快な思考や感情からいったん距離を置けるため、衝動的な反応が正当なものなのかを見極める時間を持てます。
それゆえに外部からのコントロールに巻き込まれず、行動の選択肢を自らせばめてしまうこともありません。
すなわち本当の自由は、あなたと自己の間に生まれるのです。
③深刻な問題からはすぐ逃げる p275
もしいまあなたが深刻な問題に悩んでいるなら、精神のトレーニングなどやっている場合ではないでしょう。
たとえば、「ブラック企業に勤めている」「詐欺にあった」「誰かに脅されている」「性的な被害にあった」「身内から暴力をふるわれている」といったケースに巻き込まれたなら、すぐに現状から逃げ出して、信頼できる機関や友人の助けを求めてください。
何より大事なのは、最初にあなたの身の安全を確保することです。
精神修養はそれからでも遅くありません。
④幸福にも降伏する p275
「幸福にも降伏する」というのも重要なポイントです。
どのようなトレーニングを行う際にも、「幸福感があがるはず」や「意思決定力を高めよう」などと考えず、ただ淡々とすべきことに取り組みましょう。
逆説的なことを言い出したように思われそうですが、近年の研究では、幸福を追い求めるほど実際には幸福度が下がってしまう現象が何度も確認されています。
たとえば、デンバー大学などの2011年の研究では、参加者に「普段どれぐらい幸福を大事に考えているか?」をたずねたうえで、過去18カ月に体験したストレスと比べました。
すると、幸福を重視する者ほど人生の満足度が低く、逆にストレスも高い傾向が見られたのです(16)。
また別の研究でも、320人の男女に数週間にわたって日記をつけさせた結果、やはり幸福感を重視する者ほど孤独感に襲われやすく、鬱病になる確率も高い傾向が見られました(177)。
このような現象が起きるのは、19世紀の哲学者J・S・ミルが指摘した「幸福を直接の目的にしない場合に、かえってその目的が達成される」ようなメカニズムが、人間の中に存在するからです。
それもそのはずで、いつも幸せのことばかりを気にしていたら、「私は理想よりも幸せだろうか?」や「私は昔より不幸になったのではないか?」などの気持ちが浮かび、常に意識が自己に向かってしまうでしょう。
幸福を求める気持ちが、あなたを「自己注目」(53ページ)の罠に誘い込むわけです。
ただし、勘違いしていただきたくないのは、決して幸福の追求が悪だと言っているわけではない点です。
人生に満足したい気持ちは生体にとって自然なものであり、それ自体は善でも悪でもありません。
もしトレーニング中に自分の幸福へ意識が向いたら、220ページで見た「観察」の感覚を思い出して、その気持ちも観察の対象にしましょう。
「また幸福を求める気持ちが出ている」といった具合に、幸福の探究心もただの“物語”として扱ってください。
⑤悟後の修行を続ける p277
「悟後の修行」は禅の世界で使われる言葉で、生涯にわたって精神の修養を続ける姿勢のことです。
本書のトレーニングで何らかの改善を実感したとしても、そこで止まらずにただ同じ作業を続ける意識が重要になります。
この姿勢が修行に欠かせないのは、ホメオスタシス機能のせいです。
第2章でも見たように、ホメオスタシスとは心と身体を常に一定の状態に保つメカニズムを意味し、人間が生き延びるために欠かせない働きのひとつ。
この機能のおかげで、私たちは外界の変化に対応できます。
しかし、ホメオスタシスが問題なのは、このような生命の安定を保つ働きが、私たちの精神を先祖返りさせてしまうところです。
あなたが世界の変化を知覚するたび人体は脅威を覚え、ホメオスタシスを起動させて慣れ親しんだ物語にしがみつこうとします。
これは遺伝子に組み込まれた生体の維持機能なので発現自体を止めることはできず、それゆえに私たちは常に過去に戻ろうと働く脳をなだめ続けねばならないのです。
あなたが無くなったのは、いまに始まったことではない p278
修行が一生続くと聞いて落胆した人もいるかもしれません。
めんどうな精神修養を延々と続けるのではなく、電源のスイッチを切り替えるかのように、自己を自由にオンオフできればと思うのが普通の反応でしょう。
とはいえ、この世界における唯一の不変は「常にすべてが変化する」という事実のみですから、精神の先祖返りはどうしても避けられません。
いまの私たちにできるのは、世の移り変わりに抵抗するのではなく、だからといって変化に服従するのでもなく、停止と観察を繰り返すことだけです。
「無我」の章で取り上げた、鬼に身体を喰われた男の話をご記憶でしょうか?
実はこの話には続きがあり、自分の肉体が死骸と入れ替わってしまった旅人は、あわてて僧侶のもとを訪れこう尋ねました。
「いま生きている自分とは、ほんとうの自分なのでしょうか?」
対して、僧侶は答えます。
「あなたが無くなったのは、いまに始まったことではない」
もっとも大事なのは、物語が苦を生むメカニズムを理解した上で、「“わたし”とは生命の維持機能がもたらす明滅である」という感覚を養い続けることです。
この点さえ違わなければ、あなたは道に迷わずに済むでしょう。