「図解 90分でわかる経済のしくみ」を2025年07月22日に読んだ。
目次
- メモ
- p11
- 価格は需要と供給が一致するところに決まる p13
- 「均衡価格」は効率的 p14
- 消費者余剰と生産者余剰 p15
- 金利差と物価上昇率が影響する p23
- 売れれば一個のコストは減る p26
- 宣伝費をかけても売れれば一個あたりのコストは減る p27
- 相対的な効率性を考える p51
- 「中間搾取」ではない p58
- もし、流通業がないと… p59
- 独占・寡占を防ぐ役割 p62
- 小売の新規参入を容易に p63
- 「神の見えざる手」 p70
- 公正な競争が不可欠 p71
- 本当に儲かるなら自分でやる p74
- 正直な業者は偽装のとばっちりを受ける p78
- 「シグナリング」とは p79
- 同一労働には同一賃金 p86
- p91
- 本人が決めればいいこと p91
- 金融で通貨が増える p107
- デフレは静かに経済をむしばむ p110
- 景気の悪循環 p111
- 倒産は悪ではない p121
- p125
- なぜ原子力発電が推進されたのか? p130
- インフレ目標は達成されていない p155
- 円で国債を発行している限り返済不能にはならない p160
- 借金を有効に使えばいい p163
- 軽減税率で低所得者へのダメージは減らせるか? p165
- 黒字を喜ぶのは昔の「重商主義」 p172
- なぜか先進国になりづらい産油国 p176
- 産油国ならではの特徴が発展を妨げている p177
- 貿易を自由化しつつ農業保護を p183
- GDPでわかること p192
- 経済的な豊かさが生活の豊かさとは限らない p195
メモ
p11
自由競争のもとでは、市場において、売り手と買い手の数が等しくなるところに価格は決定する。
また、それが最も合理的で無駄がない、というのが経済学の教えだ。
価格は需要と供給が一致するところに決まる p13
経済の話には、よく「需要」と「供給」という用語が出てくる。
需要はその価格で買いたいという数の合計、供給はその価格で売りたいという数の合計と考えるといいだろう。
さきほどの結論を言い換えるなら、価格は需要と供給が一致するところに決定するということになる。
もちろん、現実の世界では需要と供給が一致していないこともしばしばだ。
先ほどの例はあくまで「モデル」であって、理想的な状況だったらこうなるはずだということを示している。
モノの価格の決まり方の原則はこうだということをまずは覚えてほしい。
「均衡価格」は効率的 p14
市場というのは、たいへん効率のいい取引システムとして完成されている。
これは、先ほど述べた需要と供給が一致するところで売買が成立するため、売り手も買い手も余らないという状態が生まれるからだ。
市場を通すことによって、資源が効率的に配分される。
前項で述べたように、自由競争では、価格は需要と供給の一致したところに決まる。
この価格を「均衡価格」または「市場価格」という。
均衡価格では、商品はその価格で買いたい人全員に行き渡るし、その価格で売りたい人全員が売り切ることができる。
これより高くては買い手より売り手のほうが多いので、売り手が余ってしまう。
逆に均衡価格より低いと、買い手が余ってしまう。
売り手にも買い手にも余りを出さない点で、均衡価格による取引は効率的なのだ。
消費者余剰と生産者余剰 p15
また、均衡価格が一〇〇円だとして、現実的には買い手の中には、たとえ一五〇円出してもその商品が買いたかったという人もいるだろう。
そういう人が一〇〇円で買えた場合、その人は五〇円の得をしたのだと経済学は考える。
この買い手が得したとされる分を「消費者余剰」という。
いっぽう、売り手の側にも、七〇円で売ってもよかったという人がいるだろう。
それが一〇〇円で売れるのだから、こういう人にとっても一〇〇円という均衡価格は三〇円の得になる。
買い手の得と同様に、売り手が得した分を「生産者余剰」という。
市場で取引しているすべての消費者の消費者余剰と市場で取引しているすべての生産者の生産者余剰を足し合わせると、その合計は均衡価格のときに最大となる。
つまり、市場の参加者全員の「得」の合計がいちばん多くなる。
その意味で、市場取引は効率的なのだ。
ただし、その効率性は放っておけば勝手に実現するものではない。
たとえば売り手が独占業者の場合は売り手の側で競争がないので、買い手が高い価格を押しつけられることがある。
そうなると消費者の手に残るべき余剰が生産者の懐に入ってしまい、公正な分配が損なわれる。
そんなときは、自由で公正な競争を確保するために政府が規制する必要がある。
かといって政府の介入を大幅に許すと、こんどは政府の役人や政治家がそれを隠れ蓑にして私腹を肥やすこともある。
効率性の実現は一筋縄ではいかないのだ。
そのあたりの具体的な話は以下でいくつかとり上げる。
金利差と物価上昇率が影響する p23
貿易関係者の需要と供給以外にも円相場に影響を与える要因がある。
ひとつは各国の金利差だ。
お金を運用しようとする企業や人にとっては国で運用したほうが得なので、金利の高い国の通貨は高くなる。
もうひとつ、各国の物価上昇率も影響する。
物価が上昇しているインフレの国の通貨を持っていると、その通貨はどんどん目減りして損をする。
だからインフレの国の通貨は売られて安くなりやすい。
二〇一二年には一ドル八〇円ぐらいだったが、二〇一三年から日本銀行が「異次元」と名付けるほどの強力な金融緩和を始めた。
つまり金利を引き下げたのだ。
二〇一六年にはさらに進んで銀行が日銀に預けるお金の一部にマイナス金利をつけるようになった。
その影響か、二〇一三年以降は一ドル一〇〇円を超えて安くなっている。
売れれば一個のコストは減る p26
あなたは街で、こんな宣伝文句を聞いたことはないだろうか?
「有名メーカーの製品の価格には広告宣伝費が含まれているから高いのです。
わが社は宣伝費を省いているから、お安く提供することができます」
そんなことを言われてしまうと、広告宣伝費をかけなければモノが安く売れると考えてしまうが、ことはそう単純ではない。
メーカーが広告宣伝費をかければ、その製品のコストが押し上げられる。
ここまでは正しいが、それだけで製品の価格が高くなるとは限らない。
そもそもひとつの製品には、開発費や原材料費はもちろんのこと、それを作る人たちのための人件費、流通させるための輸送費など、いろいろなコストがかかっている。
しかし、それだけのコストがかかっても、製品の値段は高くなる一方とは限らない。
というのも、製品が売れれば売れるほど、コストは安くなっていくからだ。
たとえば、自動車の新車の開発費が五〇〇億円かかったとする。
この新車が五万台しか売れなければ、一台あたりのコストは一〇〇万円という計算になる。
しかしもし五〇〇万台売れたならば、一台あたりのコストは一万円ですむことになる。
宣伝費をかけても売れれば一個あたりのコストは減る p27
もし広告宣伝に一〇億円投じたとしても、それで売れ行きが飛躍的に上がれば、一台あたりのコストは全体として下がることもありえる。
その分を値下げに回せば、広告したことで、むしろ製品の値段を安くすることができるわけだ。
一方で広告宣伝費をかけないメーカーは、広告宣伝のコストは浮くが、その存在自体が消費者の目に届きにくい。
市場で認知されないせいで数が売れなければ、結果的に製品一個あたりのコストが高くなってしまう。
たいていの無名メーカーの製品が安いのは、広告宣伝費うんぬんというよりは、単に安くしないと売れないからだ。
逆に有名メーカーの製品は、高くても売れるから高いのだ。
モノの価格は、コストがいくらかかっているかどうかではなく、やはり需要と供給で決まるのだということを覚えておこう。
相対的な効率性を考える p51
比較生産費という考え方がある。
A国で鉛筆と消しゴムの価格をくらべると、30:90=1:3だ。
B国では50:100=1:2だ。
消しゴムはA国では鉛筆の三倍の価格が付くが、B国では二倍にとどまっている。
A国ではB国にくらべて相対的に消しゴムの価値が高いといえる。
言い換えれば、相対的に鉛筆が安く作れるのだ。
その裏返しで、B国ではA国にくらべて相対的に鉛筆の価値が高く、消しゴムが安く作れる。
こういう場合はA国は鉛筆だけを生産し、B国は消しゴムだけを生産する。
そして互いに貿易をすれば、両国民とも貿易をしない場合よりも豊かになることができるというわけだ。
絶対的な得手不得手ではなく、相対的な得手不得手をもとに国際分業をして自由貿易をすれば双方の利益になる、という考えを比較生産費説という。
「中間搾取」ではない p58
流通業を指して「中間搾取」と言う人がいる。
農業や工業は具体的な商品を生み出しているが、流通業は何も生産しておらず、商品右から左に持っていく間に利益をとってしまう。
本来の生産者や消費者の取り分をかすめとっている、不届きな存在だというわけだ。
江戸時代の身分制でも、商人の身分は低く位置づけられていたようだ。
しかし、流通業が中間搾取だというのはとんでもない間違いだ。
流通業者は安く買えるところで買って、高く売れるところで売る、それは確かだ。
たとえば、漁村で魚を買って山村に持っていって売る、農村で米を買って都会で売る、フランスでワインを買って日本で売る、日本で中古車を買って中東で売る、など。
もし、流通業がないと… p59
では、もし流通業者がいなければどうなるか。
内陸に住む人が海の魚を食べたければ、自分ではるばる海のそばまで足を運ばなければならない。
海の近くの町は魚が安いといっても、長い時間をかけて行き来すると、時間や費用がかさむ。
それよりも、流通業者が運んでくる魚を買ったほうが結局は安上がりということは少なくない。
時間をかけても遠くの安い店で買うか、価格が高くても近くの店で買うか、それは消費者が決めることだ。
また、漁というものは、大漁の時もあれば、さっぱりということもある。
魚は腐りやすいので、獲れすぎるとただで地域住民に配ることもある。
住民(=消費者)は大喜びだが、漁師(=生産者)はたまったものではない。
そんなときに流通業者がいれば、たくさん買い付けてあちこちに売りさばいてくれる。
漁師にすれば、自分のいる小さな町の需要だけでなく、町の外の大きな需要まで取り込むことができるのだ。
流通業が存在しないときに比べて、流通業者が山村と漁村との間で商品を流通させているときは、漁村では魚の価格が上がり、山村では魚の価格が下がる。
そして、全体としては、そうして大きなひとつの市場にまとまったほうが、公正な価格が形成され、社会の厚生も高まるのだ。
独占・寡占を防ぐ役割 p62
日本の流通業界は、アメリカなどに比べて複雑に入り組んでいる。
たとえば、アメリカではメーカーと小売店が直接取引をするが、日本ではメーカーと小売店との間に問屋が介在することが多い。
問屋も一次問屋、二次問屋と多段階にわたることもある。
そのために商品が割高になることもないとは言えない。
ただし、流通が何段階もあるからといって、必ず価格が高くなるとは限らない。
要は効率性の問題だ。
メーカーから小売店まで商品を運ぶことはどうしても必要であって、誰かがそれを担う必要がある。
大企業のメーカーなら自前で全国に商品を届ける物流網を構築できるかもしれないが、中小のメーカーでは難しい。
そもそもモノを作るのが仕事のメーカーが流通もうまくできるとは限らない。
メーカーと小売店の直接取引しか方法がなければ、中小のメーカーや小売店は商売を成り立たせること自体が厳しいということになる。
しかし、問屋があれば、全国の中小のメーカーと小売店をつなぐことができる。
これは大手のメーカーや小売店への競争圧力にもつながるので、大手のメーカーが市場を独占したり寡占したりする状態を防止できるのだ。
小売の新規参入を容易に p63
直接的な競争圧力のほかに、潜在的な圧力もある。
アメリカの地方では、大規模な小売店が出店して、圧倒的な安値で販売することで地元の伝統的な小売業者を駆逐してしまうことがある。
そしてその後に価格を上げにかかるのだ。
もはや地元に競争相手はなく、独占に近い形で商売ができてしまう。
ならばと新規参入してもっと安い価格で売ろうとしても、メーカーと直接取引できるだけの規模がある小売店でなければなかなか困難だ。
一方で日本では問屋が発達しているので、小売店の新規参入は比較的容易だ。
いくつかの問屋に話をつければ商売が始められるからだ。
問屋があると既存の小売店は潜在的な競争にさらされることになる。
いま競争相手がいないからといって、安易に高く売ることはできないのだ。
何十年も前から日本の流通は遅れているとか暗黒大陸だとか批判されてきたが、見えないところで効用もあるということだ。
「神の見えざる手」 p70
オスカー・ワイルドが子供向けに書いた『幸福の王子』という短編小説がある。
子供のころに読んで涙した記憶のある人も多いことだろう。
ある町に王子の像があった。
両目は青いサファイヤでできていて、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれている美しい像だ。
その王子はとても優しい心を持っていて、町の不幸な人たちを見て心を痛め、渡りの途中にやってきたツバメに頼んで自分のサファイヤの目やルビーや金箔など、すべてを施してしまう。
自分の命が果てるまで他人を助ける王子とツバメの崇高な行為に感動せずにはいられない。
しかし、残念ながら、このような行為が経済学の分析対象となることはあまりない。
経済学について、誤解を恐れずに言ってしまえば、人間が思いっきり利己的にふるまったらどうなるかを考える学問だからである。
みんなが利己的だったら経済は混乱してしまうのではないかと心配になるが、経済学のすごいところは、市場の参加者(売り手と買い手)の利己的な行動が市場全体としてはうまく資源を配分するということを理論的に明らかにしたことにある。
経済学の始祖であるアダム・スミスはこれを「神の見えざる手」と表現したが、たしかに神様を持ち出して説明したくなるほど不思議な現象である。
公正な競争が不可欠 p71
流通業者がいるおかげで生産者も消費者も得をすることは先ほど説明したが、流通業者は、別に世のため人のために商売をする必要はない。
「安いところで買って別のところで高く売って、ひともうけしてやろう」という動機でもかまわない。
生産者は「なるべく高く売れるように良い商品を作ろう」と励むし、消費者も「なるべく良い商品をなるべく安く買おう」と血眼になる。
これこそが効率的な資源配分をもたらすのだ。
ただしそれは無条件にとはいかない。
生産者も消費者も流通業者も、公正な競争にさらされていることが条件である。
競争があれば、だれも暴利をむさぼることはできない。
どこかの売り手が特別に高く売ろうとすると、もっと安く売る業者が出てきて(なにしろそれでも採算がとれるのだから)、そちらに顧客をさらわれてしまう。
競争下では、だれも楽をして儲けることはできないのだ。
しかしここに問題がある。
利己的な人間は、できれば楽をして儲けたいと思っている。
生まれつき競争が好きで好きでたまらないという人はめったにいない。
公正な競争は辛く苦しいものだから、うまく競争を回避して楽に儲けようと悪知恵を絞る人や企業はあとを絶たない。
だから、まったくの自由放任ではやはり経済はうまくいかない。
「神の見えざる手」を実現するためには、人間の手が必要なのだ。
本当に儲かるなら自分でやる p74
人間は利己心だけで動くわけではないけれども、利己心は人間が行動するための強力な動機であることは間違いない。
経済学はその利己心に焦点を当てる。
人間の目の前にいくつかの選択肢があれば、普通はその中で最も自分に得になる選択肢を選ぶだろう。
何か儲かることを知っていて、それが自分にできることなら、誰だって自分でやるに決まっている。
自分でやらないでわざわざ他人に教えるはずがない。
つまり「確実に儲かる」というふれこみで投資を誘うビジネスは、まったく経済原則に反しているのだ。
それは悪徳商法とか詐欺のたぐいである。
たとえばマンション投資が確実に儲かるなら、人を勧誘せず、借金してでも自分で買えばいい。
そうしないのはそれが確実な儲け話ではないからだ。
正直な業者は偽装のとばっちりを受ける p78
公正な取引がおこなわれるためには、売り手と買い手がその商品やサービスについて十分な情報を共有していることが必要だ。
しかし、実際には、売買される商品について売り手はたくさん情報を持っているが、買い手はごく限られた情報しか持っていないのが普通だ。
これを経済学では「情報の非対称性」という。
悪徳販売業者はそれを利用して消費者をだまそうとする。
同じ肉でもブランド肉であれば高い値がつくが、そうでないものはずっと安く売買される。
しかし消費者は必ずしもきちんとブランド肉とそうでない肉を見分けられないので、悪徳販売業者は安く仕入れた肉の産地や品質を偽装してブランド肉と見せかけて売りに出す。
まがい物を売りつけられる消費者はたまったものではないが、正直な販売業者もとばっちりを受ける。
なぜなら、消費者は悪徳販売業者と正直販売業者の区別が必ずしもつかないので、全部の販売業者を疑いの目で見るしかない。
その結果、正直販売業者の売上も落ち込んでしまうからだ。
こんな時は政府の出番であって、きちんと取り締まってもらわなくてはいけないが、実際はいたちごっことなってしまい、根絶は難しい。
そこで正直な業者は自衛を迫られる。
よくあるのが産地や生産者やブランドを表示するシールを商品に貼ることだが、このようなシールもまた偽造されたり、正規のシールが横流しされたりする。
シールの偽造は安上がりなので、歯止めが利きにくいのだ。
「シグナリング」とは p79
中古車販売業界をみてみよう。
中古車は新車と違って品質にばらつきがあるが、素人の消費者がそれを見極めるのは難しい。
それをいいことに、悪徳中古車販売業者は悪い中古車を「これはいい中古車ですよ」と偽って高い(不当な)価格で売ろうとする。
一方で良心的な中古車販売業者は、本当にいい中古車を「これはいい中古車ですよ」と高い(適正な)価格で売ろうとする。
困ったことに、消費者からみると、悪徳業者も正直業者も同じことを言っていて区別がつかないので、不良品をつかまされるリスクを負ってまで高い中古車を買おうという気にはならない。
その結果、よい中古車を適正な価格で売るというビジネスは成り立たなくなってしまう。
そこで、正直業者がとるのが「保証をつける」という販売方法だ。
たとえば販売後の一年間は無料で修理することを約束する。
この方法が効果的なのは、正直業者の中古車は故障しにくいので保証をつけてもコストがあまりかからないけれど、悪徳業者の中古車は故障が多いので保証をつけたらコストがかさんでしまうため、シールと違って簡単に真似ができないことだ。
正直業者の保証のように、自分が売ろうとしている商品の品質に間違いがないことや、相手をだますつもりがないことを証明し、なおかつ悪徳業者が簡単には真似ができない行為を「シグナリング」という。
同一労働には同一賃金 p86
労働者の賃金は労働の対価である。
平たく表現すれば、勤め人は自分の労働を勤め先(企業など)に売って、その代金として給料を受け取っているわけだ。
自由業や自営業でも、自分の労働を売っていることに変わりはない。
だからここにも、基本的には需要と供給の関係が当てはまる。
同じ商品なら価格は同じ、というのが経済の原則だ。
したがって、同一労働に対しては同一賃金が支払われなければならない。
ところが、同じ会社で同じ仕事を同じだけこなしているのに給料に差がある場合がある。
日本企業では一般に男性よりも女性の給料が低い傾向がある。
これは明らかに男女間賃金差別で、アメリカなら訴訟を起こされて高額の懲罰的賠償金を支払わされるところだ。
近年増えているのが、正規社員と非正規社員との給料格差だ。
今は雇用が多様化していて、同じ職場に正規社員だけでなく契約社員、派遣社員、パートタイマーなど雇用形態が違う非正規社員がいることが珍しくなく、給料もそれぞれ異なっている。
仕事の違いに応じて給料が違うならともかく、ほとんど同じ仕事をしているのに給料に格差があるなら問題だ。
もっとも企業が非正規社員を雇うのにはそれなりの事情もある。
たとえば仕事の量が季節によって変動する場合は、仕事が多い季節だけ大勢雇いたい。
しかし正社員として雇ってしまうと仕事の少ない季節でも給料を払い続けなければならないから、期間を限定しやすい非正規社員に頼るのも仕方がない面がある。
しかし、賃金に関しては平等の観点から同一労働であるかぎりは同一賃金が望ましい。
パートにも正社員並みの仕事をさせておきながら正社員より低い給料しか払わないとしたらそれは差別に当たるだろう。
p91
ではどうすればいいのかという話になるが、そもそも定年という制度は、万国共通ではない。
たとえばアメリカでは、日本流の定年制度は「年齢による雇用差別」であるとして訴えられる恐れが大だ。
アメリカという国は雇用についても差別に敏感で、性別や人種による差別はもちろんのこと、年齢が高いというだけで強制的に辞めさせることも差別に当たるという認識が一般的となっている(ただし、ヨーロッパでは年金支給開始年齢に合わせて定年制を敷いている国が多い)。
本人が決めればいいこと p91
考えてみれば、年齢が高いからといって仕事の能力が低いとは限らない。
年をとっても元気で、仕事をする意欲も能力もある人が意に反して辞めさせられるのは、差別的な制度であると批判されてもしかたがない。
何歳で仕事から引退するかは、本人が決めればいいことだ。
仕事が好きで、「生涯現役」を貫きたい人もいるだろうし、早めに引退して悠々自適の日々を楽しみたい人もいるだろう。
その人の健康状態によっても違ってくる。
アメリカ人には、「自分は何歳でリタイア(引退)しよう」と人生を計画し、リタイアの日を楽しみにしている人が多いようだ。
周囲も「ハッピー・リタイアメント(引退おめでとう)」と祝福する。
しかし、一律の定年制では、そんな個人的な希望や事情はいっさいお構いなしだ。
どちらかといえば、個人の人生設計に応じてリタイアの時期を決められるシステムのほうが望ましいといえるだろう。
金融で通貨が増える p107
AさんがX銀行に一〇〇万円を預金したとする。
銀行はそのうち九〇万円をBさんに貸し付けて、Bさんはそれで自動車を買ったとしよう。
九〇万円はBさんに自動車を売ったディーラーに支払われる。
ディーラーは取引しているY銀行にその九〇万円を預金する。
この時点で、最初のAさんの一〇〇万円の預金がもとになって合計一九〇万円が銀行(X銀行とY銀行)に預金されていることになる。
さらにY銀行はその九〇万円を元手にしてどこかに貸し付けることができるから、預金の合計はさらに増えていく可能性がある。
このように、銀行の金融によって、市場で流通する通貨が増えることを「信用創造」という。
信用創造が活発におこなわれているときは、景気がいいといえる。
銀行がどこかにお金を貸すときは、きちんと返してもらえるかどうかを慎重に審査する。
そして普通は、たとえば五〇〇〇万円の土地を担保にして銀行からお金を借りようとしても、五〇〇〇万円よりずっと少ない金額しか借りられない。
土地は値下がりすることもあるからだ。
ところがバブル経済の時は、土地の値段がうなぎ登りだったので、銀行もつい調子に乗って、将来の値上がりを見越して五〇〇〇万円の土地に六〇〇〇万円を貸すようなことをしていた。
だからバブルがはじけた後、貸したお金を返してもらえなくなって銀行は不良債権の山を抱えてしまった。
大銀行が一時国有化されたり合併に追い込まれたりしたのはそのためだ。
銀行の経営が苦しくなると、あまりお金を貸せなくなるので、経済全体も落ち込んでしまう。
銀行には堅実経営をしてもらわなくてはならない。
デフレは静かに経済をむしばむ p110
物価が全般的に上昇している状態をインフレーション(インフレ)、下降している状態をデフレーション(デフレ)という。
年配の日本人は、敗戦直後や石油危機のときのインフレを覚えているだろう。
一九八〇年代後半のバブル経済のときは土地や株価などは激しく値上がりしたが、普通のモノの値段はあまり変化がなかった。
そしてバブルが去った一九九〇年代半ばあたりからずっと、日本はデフレ傾向にある。
インフレとデフレのどちらが経済にとって好ましいだろうか。
インフレを経験した人は「二度とごめんだ」と感じている人が多い。
たしかに、モノの値段がみるみるうちに上がっていくと、貯めたお金の価値がどんどん目減りしていくので、将来への不安に駆られてしまうだろう。
それにくらべてデフレは「物価が下がるのだから結構なことではないか」と思う人が少なくないようだ。
しかし、「インフレは陽気な悪魔、デフレは陰気な悪魔」と言われるように、デフレは派手ではないが静かに経済をむしばんでいく。
景気の悪循環 p111
労働者の賃金はデフレになってもしばらくは下がらないのが普通だ。
なぜなら、賃金が下がることには労働者が抵抗するので、経営者がなかなかそれを押し切れないからだ。
物価が下がるのに賃金が下がらないということは、実質的に賃金は上昇していることになるので、最初のうちは労働者は嬉しい思いをするかもしれない。
しかし、たいていの企業は銀行からお金を借りて事業をしているが、その金利はデフレだからといって簡単に切り下げてはもらえない。
企業が持っている土地の価値もデフレで目減りしていく。
企業は、自社製品の価格が下がっていくのに、賃金も借金の金利も下げられず、経営が苦しくなる。
そこで企業は、あの手この手で人を減らす。
社員をやめさせる、いわゆる「リストラ」に走ったり、新入社員の採用を抑制したりなどする。
その結果、失業者が増えるのだ。
金利を考えるときには、名目金利ではなく実質金利で考えるほうがいい。
名目金利とは表示されている金利そのままだ。
銀行の店舗に預金金利が年率三パーセントと書かれていたら、あるいは借金の証文に金利が五パーセントと書かれていたらそれが名目金利だ。
実質金利は名目金利からインフレ率(物価上昇率)を引いたものだ。
預金金利が三パーセントでもインフレ率が二パーセントなら差し引き一パーセントが実質金利だ。
名目金利が低くても、デフレで物価が下がると実質金利は高くなる。
だから銀行から借金している企業はできるだけ借金を返そうとする。
その結果、工場を建てたり新製品を開発したりという、景気を上向かせることにお金が回らなくなる。
失業者が増え、投資が行われないのでは、お金を使う人がいなくなって、景気はますます悪くなる。
だから、デフレという陰気な悪魔は何とかして退治しなくてはならないのである。
倒産は悪ではない p121
二一世紀に生き残った社会主義国の中国やベトナムは、経済では資本主義的な制度を採り入れることによって改革を図っている。
そこで真っ先に取りかかったことのひとつが、国営企業が倒産できるための法制度を整えることだ。
企業の倒産というのは自然現象ではなく法律上の事態なので「こうなったら倒産ですよ」と法律に定めていないと倒産できないのだ。
その定めがないと、国営企業はどんなに莫大な借金を背負っても決して倒産することはない。
あたかもゾンビのようなものだ。
ビジネスが立ちゆかなくなった企業が倒産すれば、その企業の借金は清算される。
いくらか残った資産を権利のある人に分配してしまえば、残りの借金からは解放されるのだ。
経営者や従業員も再出発できる。
またお金を貸していた側も、返済のあてがない以上は、さっさと損金として会計処理できた方がいい。
ちなみに日本では地方自治体には倒産の定めがないので、負債を抱えた自治体は何十年かかっても返していかなくてはならない。
自己責任とはいえ、これからその自治体に生まれてくる子供たちにはまったく責任がないのに、借金を背負わすのは酷というものだ。
企業と同じように清算して再出発できる制度をつくるべきではないだろうか。
p125
大型家電量販店で、表示価格はそれほど安くないけれど「他店でもっと安い価格のところがあれば同じ価格まで値引きします」と付記されていることがある。
競争心が満々で結構に見えるが、これには競争相手に向けた暗黙のメッセージがこめられているかもしれない。
「うちからは価格競争は仕掛けない。
でもおたくが価格競争を仕掛けてきたらうちも対抗するよ。
お互い価格競争はほどほどにしておこうよ」というわけである。
人間の利己心や競争が効率的な資源配分をもたらすという経済学の法則は、まったくの自由放任で簡単に実現するものではない。
競争を阻害する要因を取り払うための法制度や政府の介入が不可欠なのだ。
なぜ原子力発電が推進されたのか? p130
東京電力福島第一原子力発電所の事故では甚大な被害がもたらされた。
周辺地域の旧住民の多くが今でも帰宅できずに困難な生活を送っている。
こんなことになってあらためて「国土が狭くて地震や津波がしばしば襲ってくる日本で、なぜこんなにたくさんの原子力発電所が建設されてきたのだろう」と疑問を抱いた人も多いだろう。
電力会社は、「火力や水力などに比べて原発はコストが安い」と繰り返してきたが、「核廃棄物の処理費用を加えればむしろコストは高い」とか、「大事故が起こったら計り知れない損害が出る」という批判は昔からあった。
そんな批判を無視してここまでやみくもに原子力発電を推進してきたのはなぜだろう。
世の中の動きを考えるときに経済学的な思考が役立つことは多いが、特に効果的なのは、「これで誰が儲かるのか」を考えることだ。
電力会社が強力に原発を推進したのは、それがたいへん儲かったからだ。
日本の電力会社は地域独占が認められていた。
競争がないし、電気の代わりはなかなかないから、電力料金はかなり高く設定できる。
日本の電力料金は「総括原価方式」といって、発電や送電にかかったコストに一定の比率で利益を上乗せして、その総額を回収できるだけの料金を設定していいことになっていた。
市場で競争している企業なら、できるだけコストを切り詰めようとするものだが、総括原価方式ではコストをかければかけるほど利益が増えるのだ。
だから、建設などに莫大なコストがかかる原子力発電は電力会社には好都合だったのだ。
市場で競争して正当に儲けたのなら文句を言うべき筋合いのものではないが、独占のおかげで莫大な利益をあげるのはいかがなものだろうか。
インフレ目標は達成されていない p155
アベノミクスの効果があったかどうかだが、首相官邸のウェブサイトでは、実質GDPや株価、有効求人倍率などの経済指標が軒並み上昇しているので成果はあがっているとある(二〇一八年二月時点)。
しかし、国民にはそれほど景気がよくなった実感がない。
確かに株価は上昇してきたし、円安が進んで輸出企業は儲かったかもしれないが、賃金は期待したほどは伸びていない。
ドルで計れば日本の賃金はむしろ下がっている。
また、日本貿易振興機構(ジェトロ)の資料によれば、二〇〇七年から二〇一六年までの一〇年間で、日本の工場労働者の賃金はドル建てで三〇パーセント近く減っているのだ。
当初は二〇一五年の四月に達成するはずだった二%のインフレは達成できず、目標期限は先に延ばされた。
もともと政府による金融政策や財政政策は景気回復の呼び水であって、民間企業や個人の投資や消費が活発にならなくては景気は上向かない。
国民が将来を楽観してお金を使うようになる仕掛けがもっと必要だろう。
円で国債を発行している限り返済不能にはならない p160
政府の収入(おもに税収)よりも支出(国家公務員の人件費、社会保障費、防衛費など)が上回っているのが財政赤字だ。
そのぶん政府は借金をしていて、その証文が国債というわけだ。
財務省の資料によれば、二〇一七年度末の日本政府の借金である公債残高は約八六五兆円と見込まれていて、国民ひとり当たり約六八八万円になる(このほかに地方自治体の借金もある)。
このような巨額の財政赤字はたいへんな問題なのかというと、実はそうとも言い切れない。
経済学的には赤字は必ずしも悪ではないのだ。
そもそも、これは政府の借金であって、あなたの借金ではない。
よく「国の借金」というが、その言い方は国民と政府を同一視するようで好ましくない。
極端な話、あなたが外国籍を取得して外国に移住してしまえば、日本政府の借金とは関係が無くなる。
政府の財政赤字が問題になるのは、第一に、政府が借りた金を返せなくなる恐れがあるのではないかというものだ。
歴史上、いくつかの国が返済不能(デフォルト)に陥っている。
しかし、それは外国通貨で国債を発行している場合であって、日本政府が円で国債を発行している限り、返済不能に陥ることは原則的にありえない。
政府は国債償還に必要な分だけ、いつでも増税できるのだから。
もし増税がままならなければ、最後の手段だが、円紙幣をどんどん印刷して、返済にあてることも不可能ではない。
もちろん、円の価値が下落し日本がインフレに見舞われ危険と引き替えではある。
政府の借金がかさむと、国全体が貧乏になったような錯覚にとらわれるかもしれない。
しかし、今のところは日本国債を買っているのは主に日本人だから、政府の借金分だけ国民の金融資産が増えていることになる。
政府の赤字と民間の黒字を突き合わせれば、だいたいトントンになるのだ。
借金を有効に使えばいい p163
二つめの批判は世代間の負担分担の問題だ。
国債の償還のために将来増税がおこなわれたとすると、現在の世代が借金して豊かに暮らしたツケを、将来の世代に負わせることになるのではないか。
現世代が借金を無駄に使って次世代に何も残せなかったとしたら、そういう可能性がないとはいえない。
しかし、借金を有効に使って次世代に豊かで暮らしやすい社会を残すことができれば、必ずしも恨まれることはないだろう。
ただし、ここまでは経済学の原則論だ。
国債の発行によって得たお金を日本政府が将来の日本のために有効に使ってきたかというと、お世辞にもそうとはいえない。
人気取りのためにばらまいて今後に生かされない支出がいろいろある。
その場しのぎで借金を重ねてきたツケを将来世代に負わせるのはやはり酷というものだ。
軽減税率で低所得者へのダメージは減らせるか? p165
一〇パーセントへの引き上げに関連して議論されているのが軽減税率の問題だ。
もともと消費税は低所得者のほうが所得に占める負担が大きい。
高所得者は収入の一部しか消費に回さなくても済むのに対して、低所得者は所得の多くを消費に回さなくてはならないからだ。
消費税の増税は特に低所得者へのダメージを減らすために生活必需品などの消費税率を低くするのが軽減税率だ。
実際に、生鮮食料品などの税率を低くしている国は少なくない。
しかし、ここにはやっかいな問題がある。
軽減税率の対象とする商品とそうでない商品の線引きによって不公平感が出てきてしまうのだ。
たとえば「生鮮食品は軽減税率、加工食品は通常税率」とした場合、金持ちしか買わない一個一万円の高級メロンが軽減税率、庶民が買う一個一〇〇円のカップ麺が通常税率となる。
これは釈然としないのではないだろうか。
また、線引きは役人や政治家が決めるので、自分の扱う商品を軽減税率の対象にしてもらおうと役人や政治家に頭を下げたり取り入ったりする人がでてくるし、政治家や役人にとってはそれがうまみとなる。
いっそ軽減税率をやめてしまって、消費税の負担がきつい低所得者に対しては別途お金を給付するほうがシンプルである。
もうひとつ見過ごせないのは、日本の消費税にはインボイスがないことだ。
インボイスとは店が商品を仕入れたときについてくる伝票で、これに消費税額が記載される。
インボイスがあると商店は脱税しにくいし、徴税の手間も軽くて済む。
世界的に消費税にはインボイスが付きものなのだが、日本では導入される気配がない。
消費税を脱税したい業者に配慮しているのではないかと勘ぐりたくなるというものだ。
黒字を喜ぶのは昔の「重商主義」 p172
財政赤字が嫌われて黒字が好まれるのと同じように、たいていの人は貿易赤字を嫌い、貿易黒字を好む。
自分の国に黒字がたまったり金の準備高が増えたりすると、国力が増したような気がするのだろう。
しかし、貿易黒字や金の準備高が国力をあらわすというのは「重商主義」といって、主流派経済学がはるか昔に捨て去った考え方だ。
一六世紀の中ごろ、スペインはインカ帝国を滅亡させるなどして中南米から大量の金を略奪してはせっせと国内に持ち込んだ。
すると何が起こったか。
インフレ(物価上昇)だ。
モノやサービスの供給が増えないのに貨幣(この場合は金)が増えると、起こるのはインフレと相場が決まっている。
むしろ当時は小国とみられていたイギリスのほうが、その間、生産力の増大に励み、のちにスペインをうちまかして世界の覇者へとのし上がって行った。
国富とは貨幣や金ではなく、人間によって生み出されるモノやサービスなのだ(もちろん自然環境も人類にとってかけがえのない宝だが)。
なぜか先進国になりづらい産油国 p176
経済的に豊かで生活水準が高い国を先進国という。
いま世界の先進国というと、イギリスやドイツなど西ヨーロッパの国々、アメリカ大陸のアメリカとカナダ、オセアニアのオーストラリアとニュージーランド、そしてアジアでは日本などだが、これらの国は昔から先進国だったわけではないヨーロッパの中世時代はイスラム世界や中国の方が学問も技術も進んでいた。
ヨーロッパの中でもイギリスではなくスペインやポルトガルが覇権を握った時代があった。
現代は資金移動や技術移転が容易になっているので、中進国や発展途上国が経済発展を遂げていけば、いずれは先進国の仲間入りをするように思われる。
ところが現実には、過去数十年では先進国がどんどん増えてきたわけではない。
何か経済発展を妨げる要因があるのだろうか。
産油国ならではの特徴が発展を妨げている p177
「中所得国の罠」と呼ばれる現象がある。
ひとりあたり国民所得が一万ドルくらいまでは順調に成長を遂げたのに、いざ一万ドルを超えようというあたりになると失速し、なかなか這い上がれないことが多いというのだ(例外は日本やシンガポール、香港、韓国など)。
そもそも途上国は賃金の安さを武器にして輸出で稼ぐなどして中進国入りを果たすというパターンが多い。
しかし中進国になると賃金が高くなり、かつての競争力が失われてしまう。
先進国にのし上がるには技術の高度化など別のステップが必要で、それに成功するかどうかが鍵になるのだ。
中東には石油産出によって莫大なお金が入ってくる国がある。
王族の金満ぶりは日本の金持ちとは桁違いだ。
とはいえ石油はいつか枯渇するので、今のうちに先進国入りしておきたいところである。
お金はたくさんあるので、それを使ってせっせと国づくりをしているのだが、先進国というにはほど遠い。
これが「石油の呪い」と呼ばれる現象である。
その原因はひとつには石油の輸出により自国の通貨が高くなり、他の輸出産業が育ちにくいことである。
また産油国は中東諸国にしてもロシアにしても強権国家が多い。
権力者が石油による利権をしっかりと押さえて、権力の維持のために国民を抑圧し、民主主義が育たない。
経済活動の自由度も低いので、経済成長の芽が摘まれてしまう。
日本には石油などの地下資源が乏しいので、つい産油国などの資源国をうらやましく思ってしまうのだが、国民が勤勉に働くことが先進国への道であり、日本はそれを成し遂げた。
もし日本で石油がとれたとしたらどうなっていただろう。
貿易を自由化しつつ農業保護を p183
農業の保護と農家の保護はイコールではない。
厳しいようだが、農業は保護すべきだとしても、すべての農家を保護することは望ましくない。
これまで日本では、普段は勤め人をしながら余暇で農業をするような兼業農家のほうが保護の恩恵に浴してきた面がある。
また、莫大な予算で農家よりも土木業者を保護するかのような農政が進められた。
そんな農政はやめて、十分な規模の主業農家が存分に創意と工夫を発揮できるような施策が必要だ。
ただし、先進国が途上国に対して、工業やサービス業よりも農業が比較優位を持つことはありえない。
つまり、先進国の農家がどんなに頑張っても他の産業と同等の所得を得られる見込みは薄い。
今まで日本では農産物の輸入制限などで価格を高くすることで保護してきたが、貿易はなるべく自由化して競争を促進し、きちんとした主業農家に所得補償をするという方法もある。
そのほうが農業保護のために支出しているコストが透明になるというメリットがある。
GDPでわかること p192
経済学では基本的に、経済活動(お金のやりとり)が増えることが豊かになることだと考える。
国の豊かさの指標として、一般的に使われるのはGDP(国内総生産)だ。
GDPとは国内で生み出された価値の合計だが、集計されるのは、お金の出入りのあったものだけだ。
はたしてGDPは、本当に豊かさを示していると言えるのだろうか?
経済学の世界では、あるよく知られた寓話がある。
隣り合った二つの国、A国とB国の人口は同じくらいで、GDPも似たり寄ったりだった。
またどちらの国にも蚊がいなくて、夏の夜に悩まされることはなかった。
ところがある年、A国政府は外国から蚊を輸入して国中にばらまいたのだ。
するとA国の国民はたまらず蚊取り線香を買いに走った。
おかげでA国には蚊取り線香産業が繁栄し、GDPはB国をはるかにしのぐようになった。
さて、現在のA国の国民とB国の国民はどちらが豊かな生活をしているだろうか?
こんな話もある。
南国の島の海辺で、現地の人が昼間からのんびり昼寝をしていた。
よその国から来た金持ち観光客がそれを見て「休んでないでもっと働くべきだ」と言った。
現地の人は「どうして働かなくてはいけないんだい?」と尋ねた。
「働けばお金が手に入るぞ」と、明るく答える金持ち観光客だったが、現地の人はすかさず「お金が入るとどうなる?」と尋ね返した。
「そしたら私みたいに休暇を取って南国にバカンスに来られるのさ」
すると現地の人は「なんだ、それなら今の生活と同じだ」と、笑ったという。
経済的な豊かさが生活の豊かさとは限らない p195
寓話ではなく現実の話としては、たとえば自転車が故障したときに自分で直せば付加価値はゼロなのでGDPにはカウントされないが、自転車屋に持ち込んでお金を払って直してもらえばGDPを押し上げる。
古い服を大事に着てもGDPには関係ないが、古い服をどんどん捨てて新しいのを買えば経済は成長する。
悩み事があるときに相談に乗ってもらえる友だちがいるのと、友だちがいなくて有料のカウンセラーに通うのと、どちらの生活が豊かだろうか。
何でもお金で解決する国のほうがGDPが高くなるが、だからといってその国の生活が豊かだとは限らない。