『食いしん坊のお悩み相談』を2025年10月10日に読んだ。
目次
メモ
納豆を混ぜない p15
納豆を散々掻き回すとウマい。
が世間の定説ですが、私は混ざっていないゴロッとした部分が残っている方がおいしいと思っているんです。
少しでもご理解いただけませんか?
わかります。
すごくわかります。
混ぜない納豆にはパルミジャーノみたいなジョリッと感もありそこも素敵です。
糸や粘りは時として食べるのに邪魔です。
それがわかっていたはずなのに、僕自身、「混ぜねばならぬ」の呪縛に囚われていつも必ず混ぜてました。
これからは、混ぜない勇気も大事にしていきたいと思います。
素材そのまま? p16
例えば、いちごに砂糖と牛乳をかけようとすると「甘いいちごなんだからそのまま食べないともったいない!」というような意見が出る場面が時々あると思います。
この「素材はそのまま食べないと損」みたいな考え方についてどう思われますか?
ちなみに私はそのままでもかけてもどちらも試したい派ですが、その、そのままじゃないともったいないと言う気持ちもなんとなくわかるような気がしています。
だからこそ、このことについて長年モヤモヤとしたものがあります。(笑)
食材にはなるべく手をかけず、味付けは塩のみで、みたいな価値観はもちろんとてもよく理解できるんですが、個人的には世の中でそれがちょっと幅をきかせ過ぎているのでは、と感じなくもありません。
焼肉でも焼き鳥でも、あるいは豆腐なんかでも「塩」が通っぽい、みたいなあの感覚。
だいたい本当に塩が一番おいしいのであれば、なぜ人間はその歴史の中でひたすら様々な料理や調味料を発明し続けてきたのか、という問いに答えが出せなくなるじゃないですか。
だから、というわけでもないのですが、僕自身は「塩かタレ」みたいな選択肢がある時はだいたい「タレ」を選びます。
特に外食では、営々とした人類の営みの果てにその店が到達した、よりおいしくするための「人為的な工夫」を楽しみたいと思うのです。
なんてことを言いながら、自分の中にそういうのと全く相反する部分もあるのも確かです。
家で料理するものは徹底的にミニマル指向だったり、マックでハンバーガーを食べる時はソースやケチャップを抜いてもらいがちだったり。
なんなんでしょうね、この矛盾。
僕はなんとなく「人はひたすらおいしいものを求める一方でおいしすぎないものを求める心もある」という解釈をしています。
おいしいものを求める心が料理や調味料の複雑化を推進するけど、おいしすぎないものを求める心が引き算を促す、みたいな相反するベクトルが常に人間に内在しているイメージ。
であれば、日頃おいしいもので満たされてる人ほどおいしすぎないものに対する希求が高まるのも納得ですし、「塩だけで食べる」おいしすぎない味を高く評価することが「俺は普段からうまいものばっか食べてるからな」というマウンティングにも悪用されているという一部の現象にも説明が付く。
何にせよ、素材を「生かして」シンプルに食べるべきであってごちゃごちゃ手を加えるべきではない、という主張に対しては個人的には違和感を抱いてしまいます。
「素材の味がわからなくなる」というのは自らの感度の低さを認めてるようなものです。
調味料でも副材料でもスパイスやハーブでも、複雑にそれを加えるほど素材そのものの良さがより引き出されるという実例はどれだけでもあります。
というかそっちの方がむしろ料理の本質なので。
苺に牛乳と砂糖、最近ではやる人が少ない気もしますがめちゃくちゃおいしいですよね。
苺に練乳もそうですが、文明の極みって感じの味だと思います。
むしろ、苺ミルク専用の酸っぱい苺が世に出回って欲しいです。
ジャムとかにしてもその方がおいしそうだし。
食べ方が汚い人 p23
食べ方が汚い人が気になる性分なのですが、潔癖症とかそういう私自身の問題なんでしょうか?
食事作法というのは、マナーにぎちぎちに縛られるものではなく、食べやすくするためのものと考えています。
しかし、いちいち指摘すると口煩い小姑みたいになってしまいます(特に彼氏の食べ方が少し雑で気になってしまいます……)。
どういう「汚さ」かにもよりますが、それが本当に「汚い」のか、自分の主観に過ぎないのではないか、というのは一度疑ってみてもいいのかもしれませんね。
そして相談者さんは、それに既にお気づきのようにも見えます。
例えば和食で煮物の汁や酢の物の酢を飲み干すのは正しいマナーですが、それに対して「ちょっとぉ、恥ずかしいからやめてよ」なんて言うシーンは実際に目撃したことがあります。
カレーとライスをぐちゃぐちゃに混ぜて食べるのに眉を顰める人も多いですが、日本以外では混ぜるのが当たり前です。
皿のソースをパンで拭うのも茶碗の飯に汁やおかずをぶっかけるのも、正式な場では推奨されませんが、日常においては問題ないとされています。
そういうふうに、OKラインの範囲を広げれば広げるほど、「そうしたくてしている」食べ方のほとんどはOKとなりそうな気がするんです。
逆にマナーを間違えて解釈してそれに囚われてる方がみっともなかったり。
もちろん「理屈の上では正しい」と「自分の感覚だと汚く思える」には常に乖離があるでしょうが、その乖離を理性で乗り越えるのが人間だと思います。
とはいえ、「譲れないライン」は出てくるんでしょうね。
これからの人生で何度も食事を共にする予定のある相手であれば、優先順位を決めて、「最低限これだけはやめてほしい」を伝えるのもぜんぜんアリだと思います。
そしてその時は、「間違った食べ方だからやめるべき」ではなく、「おいしそうに食べてていいなとは思うけど、自分はどうしてもそれを直視できない」みたいなニュアンスで伝える必要があると思うんです。
つまり、食べ方は常に個人の自由である前提だけど、同時に、人には人それぞれ見たくない光景もある。
言い換えると、ここにおいて個人と個人の価値観が「対等に」ぶつかっているわけだけど、「コレとコレに関してだけは自分のエゴの方を優先してもらえないか」という交渉をスタートさせる、という形です。
「コレが正しいから」と言われてもカチンとくるだけですが、「エゴだが認めろ」なら、わかった協力してやろうじゃないか、という気になるものなんじゃないでしょうか。
p31
かつて自分はクォーターパウンダーを最もおいしく食べる方法として「ケチャップ抜き」に至りました。
今はクォーターパウンダーが消失してしまったので仕方なくダブチでそれを楽しんでいます。
僕がマックに行く動機は「いかにも牛肉らしいおいしい牛肉料理を食べに行く」というものです。
ハンバーガーはサンドイッチの一種ですが、サンドイッチを食べに行くという感覚はありません。
パンはあくまで付属物であり手を汚さずに肉を食べるための防護壁です。
ここにおいて、ケチャップの「肉の臭みをマスキングしてさっぱりとさせつつ、そこに別の味を乗せる」という優秀な機能は完全に邪魔になります。
肉の肉らしい風味、それはある種のクセや臭みとも言えるのかもしれませんが、そのフレイヴァーまるごと受け入れて楽しむためにはそれが不要ということです。
p38
ただしこの点においてひとつ、とても重要な話があります。
全てをマヨネーズ味に染めてしまうマヨネーズとは、実は国産の市販マヨネーズにほぼ限られている、という事実がそれです。
普段マヨネーズを手作りしている方はよくご存じだと思いますが、ベーシックな手作りマヨネーズには、全ての料理をマヨネーズ味に染めてしまうようなパワーは実はありません。
外国産のマヨネーズでおそらく最も入手しやすいのがアメリカ産のベストフーズのリアルマヨネーズという商品ですが、こちらもまた少なくとも国産品ほどの染め上げパワーはありません。
僕自身は、国産メーカーのマヨネーズももちろん好きですが、こういった手作りマヨネーズやアメリカ産マヨネーズの方がもっと好きです。
今回も結論らしい結論は出せませんでした。
マヨネーズっておいしいですよね。
半熟卵問題 p40
料理をその味で染めてしまうものといえば、温泉卵・半熟卵トッピングというものもあるかと思います。
イナダさん的に温泉卵・半熟卵はどういう位置づけにしていますか?
半熟卵も温泉卵も大好きなんですよ。
一度、卵を一パック一〇個全部温泉卵にして一度に食べてみたいとすら思ってます。
四個はやったことがあります。
最後まで全く飽きることもなく、それは至福の連続でした。
だから一〇個も余裕だと思います。
ただ本当にそれを実行するには、理性をかなぐり捨てて、途方もない罪悪感に打ち克つ必要がありそうです。
しかし「半熟卵がのった料理」は話が別です。
あえて乱暴に言ってしまうと、「半熟卵には何の恨みもないが、何にでもそれをのせるお前のその態度が気に食わない」という感じです。
あとついでに言うと「温玉のせ」と書いてあるのにそれは温泉卵ではなく半熟卵であるケースも異常に多い。
これは更に悲しみが強い。
もちろん半熟卵がのる必然性のあるおいしい料理は世に存在するのも確かですが、それはいったん置いときます。
僕がそれを嫌なのは、相談者さんの言う「味を染める」という要素よりむしろ「味を薄める」という理由であることが多いです。
典型的なのがシーザーサラダやカルボナーラ。
どちらもチーズの濃厚な味わいを楽しむための料理でしょうに。
卵がそれを全力で薄めにかかるのは悲しいです。
そして同時に、そうやって出てくるタイプのシーザーサラダやカルボナーラは、卵を取り除いてもやっぱりチーズの味わいが薄いことがほとんどです。
つまりこれは、作り手がその手の料理に込めるコンセプトや狙う着地点そのものが、そもそも僕の好みから大きく乖離しているということでもあります。
これはおそらく僕が「サイテキカイ問題」と呼んでいる現象の一端です。
料理を、その場に居合わせる最大多数の人々から嫌われないように調整する、という最適化の営み、その功罪については語り始めるとキリがないのでやめておきます。
しかし少なくとも温泉卵や半熟卵は、その料理をサイテキカイに至らしめる目的で、少々安易に使われすぎなのではないかと思っています。
今これを書いているのは早朝です。
夜も白み始め、朝ご飯にエッグベネディクトが食べたくなってきました。
エッグベネディクトは、半熟卵(正確にはポーチドエッグですが)を最もおいしく食べる料理のひとつだと思います。
エッグベネディクトを超える自信のある者だけが料理に半熟卵をのせよ。
弁当の下の白いスパゲティ p56
弁当の下に敷いてある白いスパゲティ、あれはなんの為に存在しているのでしょうか?
あんまり味がしないし、大抵メインの下にあるから最後の方に仕方なく食べる感じになってしまうので、私にとってはあのスパゲティはテンションが下がる存在です。
いっそ付けないでくれた方がいいとさえ思うのですが、何故か大紙の庶民的な弁当にはあのスパゲティが入っている気がします。
イナダさんはあの白いスパゲティに対してどのような印象をお持ちですか?
そして私達はあの白いスパゲティとどうやって向き合うべきなのでしょうか?
あれはおかずを固定する目的があると聞いたことがあります。
あれが無いとちょっとした振動でおかずが端に寄ってしまいみっともなくなるそうで。
コンビニのから揚げ弁当はいつの間にか副菜らしい副菜がほぼ無くなって「から揚げと飯」のミニマル構成に傾いていますが、それでも白いスパゲティだけは残っているのがなんだかシュールにも見えます。
しかし、ほとんど味付けのされていない麺はそれはそれで良いものだと僕は思っています。
しみじみとそれを食べるひと時もいいですし、メイン料理の油脂やソースがそこはかとなく移ったあの感じもまた悪くない。
弁当とは少し意味合いが異なりますが、僕が好きなある洋食屋さんの付け合わせが白いスパゲティです。
茹でおきの麺をラードで炒め、ごくほんのりの塩コショウで仕上げます。
これがいつもしみじみおいしいのですが、ある時その店のコックさんも「コレ、アブラで炒めてるだけなのに何でこんなにおいしいんだろうね」と言ってました。
プロの作り手もこの「ほとんど味のしないスパゲティ」の価値に十分自覚的だったということです。
話が少し飛びますが、僕は蕎麦はもちろん、つけ麺も少なくとも前半三分の二は麺をつけ汁に半分くらいしか浸さずに食べます。
最初から全部どっぷり浸してる人を見ると、「もったいない……それは最終段階までとっておけばいいのに……」と思ってしまいます。
完全に余計なお世話ですね。
何が言いたいかというと、味のあまりしない麺には、味のあまりしない麺だからこその喜びがあるということです。
洋食屋の白スパゲティや蕎麦屋やつけ麺屋の麺に比べれば、弁当の白スパは確かにその系譜の最底辺に位置するかもしれませんが、それでも何らかの(滑り止め機能以外の)価値はあるはずです。
相談者さんもぜひこれを楽しむモードに自分を切り替えてみてください。
塩コショウ p59
「塩コショウで味をととのえる」とよく聞きますが、なぜコショウなんでしょうか?
これ!
僕も前々から気になってたことです。
なぜ「塩コショウ」なのか。
なぜ「塩クローブ」や「塩カルダモン」じゃないのか。
もしかしたら「塩ナツメグ」だった世界線もあるかもしれない。
確かに、コショウが一番何にでも合うような感覚はあります。
しかしその感覚は、単に生まれた時から「塩コショウ文化」で育ってきたが故の刷り込みでしかないような気もしているんです。
だってインドでは殊更コショウだけが特別扱いされてるわけではないですもんね。
どちらかと言うと「その他大勢」のひとりに過ぎません。
ただコショウが持つ重要な特性として「辛味」があります。
五味の内のひとつでも持ってるスパイスはコショウと、あとはチリくらいです。
そうやって考えると、確かに「塩コショウ」と並んで「塩チリ」の文化圏も結構広い気がします。
インドも強いて言えばそれかもしれません。
東南アジア、アフリカ、南米もそうかな。
ヨーロッパがチリじゃなくてコショウを選択したのは、体質的にチリでは辛すぎたとか、肉との相性が最優先されたとか、あとは経済的に豊かだったからという理由もあるのでしょうか。
チリの方が遥かに簡単に栽培できて低コストですから、そっちが選択されてもおかしくなかった。
そこでコショウだったのは「たまたま」だったのではないかとも思います。
だから、「塩クローブ」の世界線はあり得なかったかもしれないけど、ヨーロッパが「塩チリ」文化圏になった世界線はあり得たかもしれません。
もしそうだったら欧米の料理や日本の洋食がどのようなものになっていたか。
想像するとめちゃくちゃ楽しいですね。
でもやっぱり僕は、あえて比較するならば「塩コショウ」の方が好きですね。
南インド料理に惹かれたのも、インドの他の地域に比べてコショウの重要度が高いからってのはある気がしています。
最近の料理界では、闇雲にコショウを使うことが疑問視される流れもあるようです。
本当に必要な場面でのみ使うべき、みたいな。
リクツの上ではそれは圧倒的に正しい考え方だとは思うんですが、個人的にはやっぱりコショウの魅力には抗えないですね。
和食以外ではやっぱり何にでも闇雲に使ってしまいます。
カレーの定義 p62
カレーとはなんなんでしょうか?
肉をスパイスで炒めたものは肉のスパイス炒めですよね?
つい最近ランプライスを食べて、訳がわからなくなりました。
単品自体は、肉や野菜のスパイス炒めなのですが、渾然一体で食べるとそれはカレーでした。
カレーとはなんなのでしょうか?
なにかイナダさんの中でカレーの定義はありますか?
「カレーとは、唐辛子を含む二種類以上の香辛料を使用する加熱調理が施された副食物の内で、おおよそ等量の米飯と共に喫食した際にそれぞれを単独で食べた場合よりもおいしくなる料理の総称である」
これが今のところ、僕が辿り着いたカレーの定義です。
ちなみにこの定義を提示すると、必ずと言っていいくらい「米だけではなくナンやチャパティもあるのでは?」という疑問が呈されます。
しかしそこはもう少しよく考えていただきたい。
それは「必要条件」と「十分条件」を混同しています。
この定義からあえてナンやチャパティなどのパン類を外したのには、明確な理由があります。
ここでパン類まで含めてしまうと、スパイス入りのジャムやチョコレートスプレッドまでもがカレーの定義を満たしてしまうことになってしまう。
逆にパン類と一緒に食べておいしいカレーは、米と食べてもおいしい。
なのでここではこれが必要十分条件なのです。
この定義は一見シンプルですが、このように徹底的に例外を排除しつつ慎重に組み立てられたものです。
なので正直、完璧さには自信があります。
かつて僕はブログで、この定義に至るまでの思考の過程を全て文章にしたことがあります。
それは一万字にも及ぶものでした。
ご興味がありましたら探して読んでみてください。
ただしそれは、どう考えても人生の時間の無駄遣い以外の何ものでもないので、あえておすすめはしません。
というわけで、この定義に即して言えば「肉をスパイスで炒めたもの」は、そのスパイスの内容によっては充分カレーと言えますし、ランプライスはほぼカレーのみで構成されていると言えます。
世界はカレーで溢れているのです。
薬味と具材の境目 p67
薬味と具材の違いってなんでしょうか?
友人が「複数の食材が口の中で混ざる」ということが嫌いなのですが、薬味を添えるのは好きだと言います(ex.唐揚げに大根おろし、ラーメンに葱)。
具材とも薬味とも見做される食材もあると思うのですが、その違いをイナダさんはどうお考えでしょうか。
ぜひ教えていただきたいです。
【おいしさ=純粋美味+マズ味】という公式を以前から提唱しています。
ここでの純粋美味とは誰もがおいしいと感じる要素のことを指します。
糖分の甘みとか、ダシなどのうま味とか、油脂のコクとか、あるいはそういう味覚の要素だけではなく、柔らかさやなめらかさなどのテクスチャーの要素も含みます。
マズ味は言うなればそれ以外。
酸味や苦味やエグ味、独特の香りや食感など、それ単体では決して好ましくない要素です。
純粋美味は確かに文字通りおいしいけど、食べ物のおいしさは、それだけで成り立つわけではない。
「おいしさ」というものは、この純粋美味とマズ味のバランスで成り立っているのです。
あらゆる食べ物は、何も手を加えない食材の時点で、何らかの純粋美味とマズ味を併せ持っています。
それで言うと「薬味」とは、その中でも比較的「マズ味」の比率が高い食材と言えます。
ちなみにスパイスは更に比率が高く、「高濃度なマズ味の塊」とも言えるでしょう。
料理とは複数の食材を組み合わせつつ、様々な手法で純粋美味の絶対値を高めたり、マズ味を別のマズ味に置き換えたりして、人の力、文明の力で「おいしさ」という名のバランスを整える営みであると考えています。
そのご友人の価値観をこれに即して翻訳すると、「複数の純粋美味が重なり合うことは好まないが、適切なマズ味が加わることはその限りではない」ということになり、(一般的な価値観とは少し異なるとはいえ)これ自体は全く矛盾なく成立していると思います。
そして、食材そのものが持つ純粋美味とマズ味の比率という観点で、薬味と野菜の中間的な食材って確かにありますね。
クレソンとかセルバチコとか、あるいは大根おろしやネギも意外とボーダーだと思います。
逆にそのご友人がどのあたりに線を引いているのか、うかがってみたいものです。
殻付きザリガニの謎 p73
中華のザリガニ炒めのことをどう思いますか?
一定程度はうまいのですが、その一方で「なぜ殻付きで炒めたのか」と思ってしまいます。
味がしみてないし、アツアツのヌルヌルって剥きづらいので……。
でも中国人が剥かないということは剥かないほうがいい相応の理由があるんだろうなとも思うんです。
見栄えの問題なのか、殻から出るダシの問題なのか……。
ザリガニもエビもカニも、殻付きのまま調理する方が身も縮まず旨味も逃さないというメリットがあると思います。
味は染みにくくなりますが、調味料が殻にまとわりついてたら必然的にそれをしゃぶりつつ口中調味に至るのでさしたる問題なし、というところでしょうか。
実は枝豆も同じことですよね。
料理人が殻をひとつひとつ剥くと、それだけで製造コストが跳ね上がり、売価が上がりすぎてしまうということもあるかもしれません。
そして重要なのは見た目!
剥き身なった瞬間、海老はまだしもザリガニはめっちゃしょぼくなりそうですよね。
ビストロでバケツで出てくるムール貝も、剥き身だったら味は一緒でもどんなに寂しくなることでしょう。
以上が、殻付きで調理する「合理的な」理由だと思います。
しかしですね、これは実はそんな単純な話でもないような気もするんです。
どういうことか。
人間という生き物は、基本的には常に食べやすさを求めます。
だから調理器具やカトラリーが発明されてきた。
しかしその反面、(もしかしたらそれは深層心理的な何かなのかもしれませんが)同時に食べにくさも魅力として感じているのではないかと思うことがよくあるんです。
まさに野生に帰る喜びといいますか。
骨付き肉にかぶりつくのがおいしい理由としてよく「骨のキワがおいしい」「骨の髄から出る旨味がある」みたいなことが言われたりしますが、あまり科学的ではない気がします。
あれは食べにくいからおいしいのです。
骨なしケンタッキーはこれまで何度もリリースされて来ましたが、毎回スベってます。
骨周りをしゃぶるめんどくささこそがおいしさの本質。
焼き鳥なんてのも、わざわざ一度骨から外した上で擬似骨付き肉を再構築しているようなものです。
ある意味退廃的ですらある、文化の極みを感じます。
「食べやすい/食べづらい」「クセがない/クセがある」「旨味/マズ味」、そういうコントラストのバランスがおいしさの大事な要素ではないかと僕はずっと思っていて、それをsmooth/roughという統一概念で説明できないかとずっと思いつつ、まだなかなかうまく言語化できていません。
いつかやり遂げたいミッションのひとつです。
僕はだいたい常に、こういった世の中の何の役にも立たないミッションを勝手に抱えながら生きています。
ザリガニの殻のように、これにも何らかの隠れた役割があると良いのですが。
調味料に凝る塩 p91
自炊をするようになり、調味料の選び方について悩むようになりました。
塩だけでも何種類もあるわけで、好みを探すとなると、はてしなく長い坂を上り始めたなと途方にくれてしまいます。
長年かけてベストを見つけていくつもりではいるのですが、先達としてアドバイスのようなものがあればお聞かせください。
調味料に凝る(凝りすぎる)のは、料理とはまた別の趣味と考えた方が良いと思います。
特に初心者のうちは、まずはベーシックなものを使っておいしい料理の「型」を身に付けた方がいいと思います。
塩:精製塩
砂糖:上白糖
醤油:ヤマサ/ヒガシマル
酢:米酢
みたいな感じで、とにかく「原材料」も「能書き」も一番シンプルなものを選ぶと良いです。
で、ある程度料理に慣れ始めたら、そこで徐々にプレミアムなものを取り入れて、違いを楽しんでいけばいい。
違いがわかりやすいものもわかりにくいものもあるし、プレミアム品を使ったことでかえっておいしくなくなるケースだっていくらでもあります。
塩に凝るのはあんまり意味がないかもしれません。
とにかくサラサラであることが重要。
醤油や味噌は、これは完全に好みの世界であり、なおかつ普通に売ってる高くはないラインの中にいくらでも誠実なものがあるので、その中で好みのものを見つけられればラッキーです。
酢は一番お金や気持ちのかけがいがあるかもしれません。
僕は米酢の他に玄米黒酢やシェリービネガーをよく使います。
どっちもバカ高いですが、高い意味はわかりやすいと思います。
砂糖は、僕はある時から上白糖メインからきび砂糖に切り替えました。
少量でコクが出るからです。
ただしこれは僕が料理に使う砂糖の量が少ないから成立します。
きび砂糖は使い方によっては単にクドいだけの妙な味になります。
とにかく、おいしいはずの料理が変な調味料を使うことでおいしくなくなることはあっても、マズい料理が高価な調味料でおいしくなることはありません。
まずはベーシックを追求し、その後、調味料に凝った(凝りすぎた)時の微妙な差を楽しむことだと思います。
ちなみにその際は「気持ちの問題」も含めて素直に楽しむのがコツです。
「ヒマラヤ岩塩」の味が普通の精製塩とちっとも変わらない味だったとしても、「なんだか少しまろやかで深みがある気がする」と思い込んでそれを楽しむのは、それはそれで決して間違ってはいません。
出来立て原理主義 p115
酒を飲むと食事のスピードが大きく落ちるのと出来立て原理主義的な思想があって、旅館会席や団体でのコース料理などで一気に料理を出されるのが苦手です。
提供後時間がたった料理でもおいしく食べるための考え方、あるいは逆懐石的に熱いものから順に食べていく戦略をとるなど、なにか知見をいただきたいです。
出来立て熱々の料理は尊いものです。
それは間違いない。
しかし僕はある時から出来立て原理主義的な考えを自らの意思で捨てました。
その根拠は以下の通りです。
①出来立てから少し間を置いて少し冷めたくらいの方がおいしい料理もたくさんある
②出来立ての方がおいしいにしても、冷めてもまだ充分おいしい料理もいくらでもある
③出来立てじゃないとおいしくない料理もあるので、それだけは出来立てを食べればいい
そのことに気づくことができたきっかけとして特に大きかったものが、幕の内弁当や仕出し弁当です。
基本①と②で構成されているので、冷めきっていても充分おいしいというだけでなく、慌てることなく心安らかにゆっくり楽しめるというメリットもあります。
その特徴は、お酒を飲むのにも適していると言えます。
フレンチの肉料理も、インドのカレーも、冷めきってはいませんが少なくとも熱々ではありません。
しかしべらぼうにおいしいです。
古いスタイルの定食屋でガラスケースに並ぶおかずは、お願いすれば電子レンジで温めてもくれますが、むしろそうしない方がおいしいものが多々あります。
レンチン前提のコンビニ弁当より、駅弁の方を好ましく感じます。
団体向けの旅館会席は、確かにガッカリさせられるものも多い。
しかしこれも結局は料理の内容次第というところもあります。
冷めきった鮎の塩焼きが置かれていたら「おいこら」と思いますが、それが鰆の幽庵焼きだったら特に問題はありません。
大半の料理は冷めきっていても、序盤で熱々の茶碗蒸しが配られ、中盤では固形燃料の小鍋が完成し、終盤で天ぷらが登場し、最後はほかほかご飯と味噌汁が支給される、みたいな流れがかえって楽しかったりもします。
これなんてまさに、「仕出し弁当に何品かのあたたかい料理がオプション追加されるもの」と捉えると、途端にありがたみが増します。
家メシはそもそも、最初に全ての料理を食卓に並べます。
一五分くらいでパパッと食べ切るならともかく、時間をかけてゆっくり楽しむなら、否が応でも出来立て原理主義を捨てる以外の選択肢はありません。
もちろんこれに対して、一品ずつがタイミング良く提供されるのが外食の価値でもありますが、それは限られた店におけるたまのラッキーチャンス、くらいに捉えておけば良いのではないでしょうか。
昔の味が恋しい p141
おいしいものが食べたいと思うのに、昔の味よりおいしくなるとしょんぼりしてしまう食べ物が一定数あります。
このしょっぱい、オシャレじゃない感じがいいんだよ!みたいな。
これって思い出補正なんでしょうか。
新しい味を求める反面、変わらない味も求めているのです。
料理の味って、一定方向に進化してる気がします。
いや、進化というよりは変化ですね。
昔と今、どちらが優れているとも言えないわけですから。
おいしすぎない、というのもまた立派なおいしさのひとつだと僕は思います。
現代的なその方向性としては、いろんなものが柔らかくジューシーに、もしくはサクサクとクリスピーに、そしてうま味やコク、甘さは増す傾向にあり、塩気や酸味、苦味はマイルドになっている、みたいな傾向。
現代は日々、新しい料理が誕生し続けて多様性が増しているようにも見えますが、実はある角度から見ると、そういった方向で味の画一化が進んでいるようにも感じます。
相談者さんの嘆きも、そんなあたりに起因しているのではないでしょうか。
池波正太郎『むかしの味』はそのタイトルの通り、これが書かれた半世紀前において失われつつあった昔の味をひたすら賛美する、という方向で書かれています。
「最近の寿司はシャリが小さいのにネタばかり分厚くてうまくない」「最近の若いシェフのフランス料理はうまさの方向性がみんな一緒」みたいな感じで、現代なら炎上待ったなしの、なかなかにアグレッシブな内容。
これもまた、画一化するおいしさに対する抵抗として、あえて「あらゆる食べ物は昔の方が良かった」という大胆な世界観設定のもとに書かれた作品というのが僕の解釈です。
ただしそれは「啓蒙」というような大上段に構えたものではなく、あくまで「頑迷な老人というある種のヒール」を嬉々として演じているというタッチです。
ここに書かれた食べ物は、結局、半世紀を経た今でもおおむね生き残っているのですが、それはまさにこの本の功績という部分もあったのではないかと思います。
なので相談者さんのように昔の味を支持するという「活動」もまた、多様性の維持という意味のあることだと思います。
言うなればレジスタンス活動です。
そこにおいて「思い出補正」という要素も確かに無視できないのかもしれませんね。
しかし元来人類は子供の頃から慣れ親しんだ味を一生食べ続ける生き物であり、次々と新しい味に飛びつく日本人がむしろ例外的な存在、なんて話もあります。
思い出補正上等、ってことでいいんじゃないですかね。
「昔の味」は、そんな思い出補正を引き起こすような「変わらない味」という面と同時に、「未知の味との遭遇」という面もあると思っています。
例えば西日本で生まれ育った僕にとって、最近になってから出会った東京の昔ながらの味は、とても新鮮で、新しい体験でした。
いわゆる老舗と言われるような店で出会うそれは、現代的な傾向とすっかり相反していることも少なくありません。
「よくぞ残っていてくれた!」と、お店やそのお店を支え続けてきてくれたお客さんに感謝しながらそれを楽しんでいる自分がいます。
月並みな結論ですが、結局大事なのは「多様性」だと思うんです。
昔の味が市場原理によって駆逐されてしまう前に、贔屓にしたいそれはさりげなく支持して守っていく。
そんな地道な活動を、これからも続けていこうじゃありませんか!
おいしいとは何か? p193
イナダさんにとって「おいしい」とはなんだと思いますか?
旨味成分が濃いものとか脂肪、糖、塩分が揃ってるものとか考えましたがそれらが無くてもおいしいものはたくさんあります。
また暑い、寒いなどの、その時の状況によって「おいしい」は変わってくるなと思います。
イナダさんの考えをお聞かせいただければと思います。
Everything is balance.
敬愛するあるインド人シェフの言葉です。
マスターヨーダみたいでカッコよくないですか?
こんなことを静かに語るシェフの風貌がまた哲学者さながらで、説得力があるったらありゃしない。
おいしさは確かに「バランス」だと思います。
うま味、脂肪、糖、これらが合わさると問答無用でおいしいんですけど、それもまた適切なバランスあっての話ですね。
さらにそこには塩味や酸味などの五味のバランスや、スパイスやハーブなどの香りのバランスが加わり、パターンは無限です。
その中でどういうバランスがベストかは、最終的に作り出したい味によってまた変わってくる。
さらに言えば、うま味、脂肪、糖のいずれかが欠けていても、バランス次第でそれはまた違うおいしさになります。
その場合のバランスの取り方は、よりシビアで高度なものになりますが。
と言ってる話をいきなり覆すようですが、バランスを逸脱したおいしさというものもまたある。
極端な方向に振っていたり、全方位的に足りなかったり。
そしてそういうものの方がむしろ印象が強かったりもします。
もっとも、出てくる料理が全てそういう逸脱したものばかりだと、それはそれでつらいのも確かです。
個人的には、精緻にバランスが取れた料理を基本に、そこにちらほらとバランスを逸脱した要素が見え隠れする、そんな構成の皿や食卓が理想です。
その塩梅もまたバランス。
ほら、やっぱり結局「エブリシング・イズ・バランス」でしょう?
そしてまた、おいしさは純粋に味覚だけでは成立しないと思います。
その食べ物の背後にある文化や情報、言い換えるなら豊かな物語は、それをさらにおいしくしてくれることがありますし、逆にその理解がないと最後までおいしさがわからないことだってあります。
「御託は不要、食べてうまけりゃそれでいいんだよ」というのも確かに正論ではあるのですが、それだけで未知のおいしさに辿り着くことは難しい。
安っぽいウンチクに振り回されすぎるのもそれはそれで問題ではありますが、舌の感覚だけでなく脳もフル回転で味わうことで、おいしさはより深く、そして広いものになるはずです。