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「コメのすべて」を読んだ

コメのすべて」を2025年08月05日に読んだ。

目次

メモ

はじめに p1

日本人にとって、コメが最も重要な作物であることに異論のある人は少ないでしょう。
しかし、一人あたり消費量は減少を続け、今では年間60kgの大台を割り、なおも止まる気配はありません。

コメの消費が減少することを嘆く人はたくさんおられますが、むしろまだこんなに食べられているのかと筆者は驚きを禁じえません。
コメの消費がピークに達した1962(昭和37)年ごろまでは、日本でコメと言えばあこがれの食べ物でした。
それまで好きなだけ食べることができなかったため、多くの人がうれしくて必要以上に食べて幸福を実感していたのです。
それに対し、今の日本人にコメへのあこがれなどありません。
誰でもコメが好きなだけ食べられるのです。

一般家庭で朝はパン食を選択すると想定し、昼、夜にごはん一杯ずつを食べるとすると、一人一日あたり130g程度のコメを消費します。
これを年間に直すと48kg程度になりますから、まだまだコメは食べられていると言えると思われます。
よって、年間一人50kg前後の水準で消費の減少が止まるのかは、日本人の食生活を見ていく上で大変興味深い「事件」になるでしょう。

個人的には、コメの消費量が一人50kgの大台を割ることはあり得ると考えています。
現代にはコメのほかに食べるものはたくさんありますし、増え続ける高齢者は、食が細くなりがちです。
また中長期的に健康指向の波に乗り、麦ごはんや雑穀ごはんを食べる人が増えてくることも予想されます。
しかし、そうした点を考慮に入れても、コメが日本人の主食の地位から脱落することはないでしょう。
コメのない生活など、日本人には考えられません。

ただ、コメを作る農業、特に専業農家は、現在崩壊寸前の危機にあります。
おそらく5年以内、遅くとも10年以内には、農業を主な仕事にしている基幹農業者は2000年水準の半分程度、120万人前後まで減少します。
農家の多くの部分を占める、高齢農家が引退するからです。
チャンスがあれば新規就農したいと思っておられる若い方も少なくないですが、引退する農家の肩代わりができるほど多くはありません。

過疎地を中心に、耕作する者がいなくなって放棄される農地が急増することになるのは、ほぼ確実です。
国際競争力をうんぬんする前に、国内産が足りないため輸入に頼ることになる作物も増えるでしょう。
もちろん農林水産省もこれを見越した対策を打っていますが、効果が出るのが先か、いったん壊滅するのが先かといった、時間との戦いになっています。

しかし、そんな状態でも、おそらくコメは引き続き高い自給率を維持し、生産を抑える減反も行なわれ続けるでしょう。
なぜそうなるのか。
ここに、日本農業の構造的な問題があります。

本書は、そうしたコメの現在のみならず過去から近未来まで、さまざまな視点からコメについての理解を進められるようにいたしました。
また近年人気の出ている麦や雑穀についても一章を割いております。

現実に農業を行なっている者にとって、お客様である消費者は怖い存在です。
前著『農業のしくみ』を出したときも、私は怖くてたまりませんでした。
無農薬やスローフードといったキーワードがもてはやされる時代に、私は農薬や遺伝子組み換え作物を弁護していたのです。
コイツの作っているものは農薬漬けなのか、毒々しい遺伝子組み換え作物なのかと思われたらどうしようかと、ビクビクしていたわけです。

出してみると、そうした心配は杞憂でした。
むしろ「農業について、当事者である農家の意見がまったく聞こえてこない。もっと発言せよ」など、ありがたい言葉をちょうだいすることばかりでした。
農家は、消費者を恐れすぎていたのかもしれません。
本音を言えば自分の作った作物を買ってもらえなくなる恐怖に脅えすぎていたのかもしれません。

食の安全、安心が求められる時代、本当に消費者が求めているものは何なのか。
それは無農薬作物や非遺伝子組み換え作物、あるいはスローフードとは限らない。
最近、そんなことを思います。

コメの種類 p14

コメには、いろいろな分類があります。
まず、育つ場所が違うものとして、水稲(すいとう)と陸稲(りくとう)があります。
水稲は、水の中で育つイネで、私たちがよく知っているものです。
陸稲とは、水の中で育たない、畑に種をまいて育てるコメです。
陸稲は、現在日本ではほとんど作られていません。

コメとしての性格の違いに、「うるち米」と「もち米」があります。
うるち米とは、私たちが普通に食べているもので、もち米は、文字通り、お餅になるコメですが、赤飯やおこわにも使われます。

うるちと、もちの違いは、含まれているでんぷんによって区別されます。
コメに含まれているでんぷんにはアミロースとアミロペクチンの2種類があるのですが、もち米はアミロペクチンのみが含まれ、うるち米はアミロースが1割から3割程度、アミロペクチンが7割から9割程度含まれています。
要は、アミロースが多くなるほど、粘らない、パサパサした感じのコメになるのです。

用途としては、ごはんとお餅のほかに、日本酒があります。
日本酒にするものを酒米(酒造好適米ともいう)と言います。
酒米がなぜお酒に適しているのかと言うと、心白と呼ばれる、でんぷん質を多く含む部分が大きいためです。
この部分が大きいほど、よい酒米になります。

また、コメはほかにも、あられや味噌、醤油などを作るのにも使われますが、こうした用途に使われるコメの多くは、いわゆる「くず米」です。
くず米とは、収穫されたコメの中で、食用として出荷するには粒が小さすぎるもので、コメの出荷時期になると、農家に業者が買いにやってきます。

世界に目を移すと、こうした違いのほかに、コメの形状の違いとして、インディカとジャポニカ、ジャワニカがあります。
ジャポニカは、私たちがふだん見ている太短いコメで、インディカは細長い形状をしています。
ジャワニカはジャポニカと似ていますが、より大型です。
ただ、こうした分類は系統としての分類で、たとえばジャポニカに属する日本のコメの中にも、ジャワニカではないかと思えるような形状のコメもあったりします。

消費者の側で気になるのは、店で売られているコメの品種やブランドです。
「コシヒカリ」や、「あきたこまち」のような有名な品種の場合は、品種名をそのまま商品名として売られることが多いですが、あまり知名度のないコメの場合は、独自に名前を付けて売られることが多いようです。

世界一の生産技術 p22

日本は、食料においては官民問わずコメに最も力を入れてきました。
そのため、日本はコメに関することなら総合力で世界一の技術力をもっています。

しかし、農業についてよく知らない人の中には、誤解によって日本の生産技術を過小評価していることがあります。
なかでも誤解されやすいのは収量です。

現在、日本ではだいたい1反(1アール)あたり500kg前後のコメがとれます。
世界で一番収量が高い国はオーストラリアで、同じ面積で日本の5割増のコメを作ります。
レベルは決して低くありません。
しかし、日本がやる気になれば、オーストラリア並みになることはむずかしくないでしょう。
過去には日本でも、1反あたり1tのコメをとる農家もいたのです。

ではなぜ、そうしないのでしょうか。
減反という生産制限をしなければならない状況下、日本でコメの多収は求められていないからです。
もちろん、昔と比べれば、今作られている品種は例外なく多収品種です。
さらに超多収品種もあるのですが、今のところ味がついてこないので、味第一の日本市場では採用されないだけのことです。
味のくびきをなくせば、いつでも世界一の収量は達成できると思われます。

これまで日本人が官民総出でコメに賭けてきた情熱は、他国の比ではありません。
そのうえ日本は経済大国になったため、研究開発にカネをかけることもできました。
農家や政府が情熱を傾ければ、周辺業界もついていきます。

波及効果として、よい面では、稲作専用のコンバインを世界最初に作ったり、最も安全なコメ用農薬の開発などが挙げられます。

ただ、情熱をコメだけに傾けてきたことは、アンバランスな面も生んでいます。
大メーカーは最も市場が大きいコメ用の製品に力を入れる一方、他の作物用の製品は、どちらかというと中小メーカーがやることになります。
そのため、コメ用の機械は大変進歩しましたが、他の作物用の機械の進歩は遅れています。
また、農学の世界でも、コメを研究している人は、コメ以外の作物研究をしている人よりも優遇されていると指摘する人も少なくありません。

将来は、中国や韓国など、日本に追いつけ追い越せとがんばっている国が日本の前に立ちふさがる可能性もありますが、少なくともこの十年程度の期間では、他国が日本の総合的な技術水準に追いつくことはないでしょう。

コメの一生 p24

コメの種は、もみと呼ばれる、米粒の外皮のついたものです。
もみはおおむね自分の重みの15%くらい水を吸うと発芽の準備を始め、20%ほど吸うと発芽します。
ただ発芽には温度が必要で、積算気温が100°Cから120°Cほど必要です。
積算気温とは1日の平均気温を足していった温度のことで、この場合、平均気温10°Cなら、10日から12日、20°Cだったら5日から6日で発芽するということです。

もみには、でんぷんやたんぱく質など栄養分が含まれています。
コメは発芽し、青い葉をつけて光合成を行なうまで、種の栄養分を使って成長します。

最初に1枚、2枚、3枚と葉が出てくる時期は、根も伸びはじめて、土からの栄養を取り入れはじめます。
田植えは、こうして種からの栄養に頼らずともよいほど苗が育った頃に行なわれます。

初夏の頃、イネは茎が次々と増えはじめます。
これを分げつと呼びます。
コメは茎ごとについていくので、茎数が多いと、とれるコメ(もみ)の量も多くなります。
そのため、分げつ数は多いほうがよいのです。
ただ、分げつが多すぎると、それだけ多くの養分を必要とするため、もみ一粒が小さくなりがちです。
それでは収穫できても「くず米」になってしまいますから、商品として適切な大きさのもみができる最大限の茎数とするのが多収のポイントになります。
分げつが終わり、8月に入る頃にはイネは穂を出してもみの生産を開始します。
もみが出る時期を出穂期(しゅっすいき)と言います。

出てきたもみは、数日すると花を咲かせます。
開花は短時間で終わりますから、気をつけていないと、気がつかないうちに終わってしまいます。
開花が終わって、白い花粉がついた穂を見ることは多いのですが、開花そのものを見ることができる機会は、農家でもあまり多くありません。

もみの中身が充実してくると、穂は少しずつ重くなって、緑色から黄色になっていき、最後には下を向きます。
あまり一つの穂に実がつきすぎると、頭が重すぎるため、雨風に当たるとそのまま倒れてしまうこともあります。

大部分の穂の色が黄色になり、葉の緑色が衰えてきた頃が刈り取り時期となります。

袁隆平 1930~ 世界の食料不足を改善したハイブリッドライスの父 p28

昔、ハイブリッドライスと呼ばれるコメが話題になったことがあります。
ハイブリッドライスとは、雑種強勢という遺伝現象を利用して作られたコメのことです。
最初に開発されたものは超多収に特徴があり、増え続ける世界の人口を養う切り札のように言われました。
袁隆平(ユアン・ロンピン)氏は、そのハイブリッドライスを最初に開発した学者として世界的に有名です。

袁氏は、中国・湖南省の農学校の先生をしていたときに、農村の苦しい生活を改善するため多収穫米の開発を決心します。
最初、優れたイネ株を偶然発見し、これを増やそうとしました。
ところが、これが大失敗。
植えても品質がバラバラなのです。
そこで袁氏は、これは雑種強勢のイネではなかったかと気がつきました。
そこで1964年から開発を始め、9年目に実用的な品種が完成しました。
現在、中国で生産されるコメの半分はハイブリッドライスです。
この業績により袁氏は、「ハイブリッドライスの父」「交雑水稲の父」と呼ばれるようになります。

また袁氏は、ハイブリッドライスは飢餓に苦しむ世界の人を救えるとして、FAO(国連食糧農業機関)の首席顧問に就任する一方、20か国のコメ生産国にハイブリッドライスを導入しました。

しかし、ハイブリッドライスは、中国の経済力が向上していくにつれ人気が薄れ、近年は作付けが減ってきました。
40年前の日本と同じく、安いコメよりおいしいコメを中国市場も欲しがりつつあるのです。

袁氏のハイブリッドライスはその後も研究が進められ、スーパーハイブリッドライスに進化しました。
2006年から栽培されるようになるスーパーハイブリッドライスは、ハイブリッドライスを人工衛星に入れて宇宙に放り出し、微小重力や宇宙線にさらして突然変異を起こしたものを回収し、育種・選抜する手法がとられました。
収量は10aあたり1.2~1.3t程度確保できる見込みで、味も向上したようです。
もちろん、中国のみならず、食料不足に苦しむ国の食料事情改善にも使えると期待されています。

中国のイネゲノム解析の力の入れようから見て、袁氏の次の開発目標は遺伝子組み換え技術を使ったものになると見られます。
袁氏もすでに高齢でどこまでやれるのかわかりませんが、中国政府のバックアップのもと、彼が開発にまい進していくのは確実です。

苗作り p30

コメ作りでは、苗半作と言われるほど、育苗(いくびょう)と呼ばれる苗作りが重要とされています。
特に日本では、種まきの季節はまだ寒いことが多いため、育苗には気を遣います。

まずやるのは種の選抜です。
比重の大きい、中身が詰まっている種もみを選び出しますが、それには塩水選と呼ばれる方法が使われます。

塩水選とは、塩水の中に種もみを入れて、浮かんでくる軽いもみを取り除く方法です。
一般に使われる塩水の密度は1.13g/㎡(もち米の場合は1.1g/㎡)です。
これは卵が浮いてくる濃度とほぼ同じであるため、農家は水の中に卵を入れて、浮いてくるまで塩を入れ、ちょうどいい濃度にします。

浮いてきた種もみを取り除くと、次は種をいっせいに発芽させます。
温度を30~30°Cにした温水を用意し、種もみをひたし、白い芽がちょろっと見え、まだ根が出てこない程度になると引き上げます。

引き上げたもみは、日陰でしばらく陰干しして水を切ったあと、種まき機を使って、育苗箱にまかれます。

次に行なうのは、苗代(なわしろ)作りです。
まず耕した田んぼに水を張り、ロータリーでかくはんして泥水状態にします。
泥が沈んで水が澄んできたら、水を抜いて田んぼに入り、溝を作ります。
また、苗箱を置くところのデコボコを直して、できるだけ平らにしておきます。

溝を作ったあとすぐに、苗箱を置いて、上から均等に押さえていきます。
これは、田んぼの水が苗箱に均等に染み込んでいくようにするためです。
土が乾いてから置くと、残っているデコボコのため、箱と土の間にすき間ができて、水を吸わなくなり、苗が育ちません。

苗箱を置き終わると、寒冷紗をかけるなどして保温します。
生長と温度が十分になったら寒冷紗を取り去ります。

その後は苗の生長具合を見ながら液肥と呼ばれる液体状の肥料をやったり、地面から水が十分に上がってこないときのために上から水をかけたりして約1か月苗を育てます。

耕起から代かき p32

まず、トラクターで耕起(こうき)と呼ばれる土を起こす作業を行ないます。
田んぼ全体にすぐに水がしみ込むように土壌にすき間を作っておき、次の代かき作業をしやすくするのです。

耕起したら、すぐに代かき作業を行なうことも多いのですが、雑草が多い場合はしばらく放っておくこともあります。
雑草を腐らせ、アクを減らすためです。

雑草がまだ腐っていない状態で土をかきまわすと、アクが出ます。
少しなら問題ないのですが、アクが多くなると風に乗って一か所にたまります。
たまったアクは、田植えのとき、まだ根づいていない苗を倒してしまうことがあるのです。

そのため、雑草が多い場合は、耕起するときに、どれだけ多くの雑草をすき込んで、地面から見えなくするようにするかが大事になります。
これはトラクターの速さとロータリーの回転数によってかなり調整することができるので、農家の腕の見せ所になります。

水を田んぼにいっぱい入れたら、代かきと呼ばれる、田んぼに苗を植え付けられる状態にする作業を行ないます。
トラクターの後ろで回転するロータリーによって土を細かく砕き、かき混ぜてトロトロの土にします。
水漏れしやすい田んぼでは、二度、三度この作業をやって、より土を細かくします。

土をトロトロにし終えたら、次に水漏れ対策を行ないます。
田んぼの水は主に横から漏れていくので、漏れないように泥で固めるのですが、近年はこの作業が早くできる、ポリエチレンのフィルムを畔に張って水漏れを防ぐことが多くなりました。

水漏れ対策がすむと、また4日ほど放置して田んぼの泥が沈むのを待ちます。
すぐ植えるとトロトロに過ぎて田植えをしても苗が倒れてしまうのと、泥水の中に浮いていた細かな土が沈むことで、地面の下に漏れる水を止めてくれるからです。

そして、いよいよ前半の最も大掛かりな仕事である、田植えの日がやってきます。

田植え p34

田植えの前には、いったん田んぼの水を抜きます。
これは、田植え機が動くと水が波を打ち、植えた苗を押し流してしまうからです。
水が抜けるのを待っている間、農家は苗を田んぼに運んでおきます。
そして機械の必要部分に注油をし、苗を田植え機に装てん、田植えを始めます。

田植えは、一人でもできますが、二人いたほうが仕事ははかどります。
田んぼは1枚、2枚と数えますが、農家は1日に何枚も田植えをします。

一人だと必要なところに必要なだけ苗を持っていく作業だけで、かなり時間がかかります。
二人いると、一人は田植えに没頭でき、もう一人が準備作業を田植えの最中にできるので、1日に多くの田植えができるのです。

田植えのコツ(注意点)は二つあります。

一つは、いかにまっすぐ植えつけるかです。
最初に畔に沿って植えているときはいいのですが、畔から離れると、田植え機についているガイドと、前方に自分で目標を作る方法を併用して、田植え機の進行方向が曲がらないようにします。

もう一つのコツは、機械で植えたあと、補植と呼ばれる植えもらしを埋めるための手植えをいかになくすかにあります。

田んぼの端まで田植え機が行くと、田植え機は頭を180度回転させて次の列を植えていきます。
最後に周囲を植えて回って戻ってくるのですが、そのとき、田んぼの隅っこ以外は補植をしなくてよいのが、上手な田植えなのです。

きちんと田植えがすむと、水を再び入れながら、植えられなかった場所の補植をして、畔に残してある苗の箱やマットを回収、家に帰って田植え機を洗います。
田植えが終わったあとの田植え機は泥だらけになっています。
そのまま翌日まで置いておくと、泥が乾いて固まって、可動部分が動かなくなったりするからです。

水管理と防除 p36

田植えのあと稲刈りまでは、水管理と、防除と呼ばれる害虫、雑草対策の日々が続きます。
水管理とは、田んぼの水が少なくなったら補充したり、水を抜かねばならないときに抜くことを言います。

まず田植え後、田んぼは普通、水をいっぱいにして、地面が水面上に出ない状態を維持します。
これは、除草剤を効かせるためです。
この時期に使われる除草剤は、水の中で雑草の芽が出ようとしているところを叩きます。
水が少なく地表が水面から出ていると、除草剤が効かないため、そこから雑草が生えてきてしまうのです。

その後、イネの生長を見ながら必要に応じて肥料をやります。
このときに使われるのは、工場で作られた扱いやすい粒状の肥料です。

水がたまった田んぼの中に足を踏み入れると、ズブッと沈み込んで大変歩きにくいものです。
そんななか、たい肥などかさばって重い肥料は使いにくいのです。

農薬は、農業試験場など研究機関の出す病気や害虫の発生予察(予想)をもとに散布時期を決めるのが建前ですが、実際は近所にいるコメ作りの名人がまくのを見て、自分もまきだすという人が少なからずいます。

農薬散布は肥料と同じようにまくこともありますが、よく使われるのは動力噴霧器と呼ばれる、機械を背負ってまくタイプの機械です。
最近は、ラジコンヘリを使って散布する人もいます。
地域によっては、一斉防除といって、飛行機を使って地域全体の農薬散布を行なうこともあります。

ある程度育って、中干しと呼ばれる、水を切り、土壌に空気を入れる作業の後、出穂期と呼ばれる稲穂の出る時期がやってきます。
この頃になると、農家は数日おきに水を抜いては入れる「間断かんがい」を行ないます。
これは、この時期に水をいっぱいにしたままだと、土中の酸素が減って根が呼吸できず、腐ってしまうからです。
とはいえ、水は必要ですから、入れては抜いて、酸素補給を繰り返すのです。

すぐ水が抜ける、排水のよい田んぼなら水を抜くだけでよいのですが、簡単に抜けない、排水の悪い田んぼの場合は、小さな溝を掘って水を抜きやすくしますが、それでも抜けない場合はスコップを使ってイネごと掘ることもあります。

これを繰り返しているうちに、足を踏み入れたらズブッと沈み込むんぼは、徐々に堅くなり、足を踏み入れても沈まない、刈り取りのしやすい田んぼに変わっていきます。

稲刈り p38

稲刈りには、一般にコンバインと呼ばれる、稲刈りと脱穀を一度にやってしまう機械が使われます。
脱穀とは、イネの穂からもみを取る作業のことです。

刈り取られたイネは、コンバインの中心にあるこぎ胴で脱穀され、運搬用の袋やタンクにたまるようになっています。

コンバインを田んぼに入れるには、入り口と角にあるイネを手で刈り、コンバインを回転させるスペースを作ります。
稲刈りを始めて角までくると、2、3回バックと前進を繰り返し、コンバイン左側のイネを刈って回転するときに踏みつけないようにしてコンバインを回転させます。

そして、機械の大きさにもよりますが、4回ほど周囲を回るとイネを踏みつぶすことなく自由に動き回るスペースができます。

ここまでくると、農家は、田植えのときの並びに沿って、2辺を刈っていくことが多いようです。

時間的には、そのまま周囲を刈るようにらせん状に刈ったほうが早いこともあるのですが、農家はあまりコンバインを回転させたくありません。
コンバインは、クローラと呼ばれるゴムのキャタピラで地面と接していますが、これが回転するとき、田んぼを掘ってしまうからです。
特に雨降りのあとなど田んぼに水分が残っているときはよく掘れてしまいます。
2辺刈りをするとコンバインを回転させなくてもすむので、地面を掘ることが少なくなるのです。

コンバインには、大きく分けてもみを袋に入れるタイプと、グレンタンクと呼ばれる機械内の貯蔵庫に入れるタイプがあります。
袋に入れるタイプは、袋がいっぱいになったら、その場所に袋を置いて、また別の袋をつけて稲刈りを進めます。
グレンタンクの付いたコンバインは、戦車の砲身のようなオーガを使って軽トラックに積み込みます。
トラックの荷台がもみでいっぱいになると、家に持ち帰り、乾燥機に入れます。

乾燥機などの設備を持たない、主に兼業農家では、もみを家に持ち帰らず、農協のカントリーエレベーターに持っていきます。
そのためカントリーエレベーターは、兼業農家が稲刈り作業をする土日祝祭日が込み合うのが通例となっています。

乾燥・もみすり p40

田んぼから持って帰ってきたもみは、まず乾燥機に入れられます。
コンバインで刈り取ったもみは、刈り取った日の天気によって違いますが20%以上の水分を含んでいます。
水分率を15%前後まで落としておかないと、コメは積むと発酵して熱を出し、最後には腐ってしまうからです。

乾燥には、半日~1日程度は普通にかかります。
そのため農家が1日に行なう稲刈りは、普通はもみで乾燥機がいっぱいになるまでしかできません。
乾燥機の容量が少ないと、1日3時間くらいしか稲刈りができないなんてこともあります。

乾燥機はもみを熱風にさらして乾燥させますが、ゆっくり行なう必要があります。
急に乾燥すると、「胴割れ」といって米粒にひびが入ってしまうことがあるからです。
ひびが入ると、後の作業で米粒が割れたり、コメを炊くときに割れてしまうことが多くなります。

乾燥が終わったもみは、もみすり機に入れて周囲の殻を取り、玄米にします。
かつては玄米を袋詰めする前に、選別機(ライスグレーダー)を通していました。
近年はライスグレーダーが前工程のもみすり機や、後工程の計量器と一体化しているため、見かけなくなってきています。

選別を通らずに不合格となったコメを「くず米」と言いますが、これは別途袋に入れて取っておきます。
稲刈りが終わった頃に専門の回収業者が買いにくるからです。

ライスグレーダーで選り分けられた大きなコメは、規定の米袋に入れられて、出荷できる状態になります。

出荷は、多くの場合JA(農協)を通して行なわれます。
出荷したコメは品質のチェックを受け、一等米、二等米などのランク付けをされて、ランクに応じた価格で買い取られます。

農協以外、たとえば直接消費者に売る場合などには、コメは農家に保管されます。
コメは冷暗所に保存するのが原則で、昔はどこの農家にも納屋に専用のブリキ缶を置いてありました。
近年はエアコン付きの専用貯蔵庫が使われています。
一定以上の温度になると自動的に冷房がかかって、夏場でも食味を落とすことのない保管が可能となりました。

保管には、もみのまま貯蔵する場合もあります。
これも食味を落とさないための保管法で、注文があるごとにもみすりを行ないます。

消費者への販売方法は、玄米で渡す場合と、精白して渡す場合があります。
精白するとそのままコメを使えますが、玄米の場合は消費者が各地にあるコイン精米機を使って自分で精白することになります。

バインダー稲刈り p42

稲刈りは、近年ほとんどがコンバインで行なわれています。
コンバインを使わない(使えない)場合は、バインダー(稲刈り機)を使い、刈り取ったイネを天日に干す方法があります。

バインダーを使う利点は、コンバインより安価で、小回りが利き、軽いことです。

小規模の田んぼでコメを作っていると、コンバインは高く付きすぎますし、千枚田のような変形した田んぼでは、コンバインは小回りが苦手なので使いづらいのです。

水が抜けなくて地盤が柔らかく、コンバインを入れると沈み込んで動かなくなるようなところでも、バインダーなら刈り取れます。

天日で干していると、ゆっくり乾燥し、コメを痛めない上に、イネがまだ生きている間にもみに養分を蓄えようとするため、コメが太ります。

また、ワラがとれるので、売ることもできます。
売り先は、昔は畳屋さんでしたが、今はワラを家畜に食べさせたり、家畜舎の敷きわらに使う、畜産農家がほとんどです。
畜産農家に家畜糞のたい肥を田んぼにまいてもらう代わりに、ワラを渡す、物々交換のような取引をしているケースもあります。

反面、稲刈りから脱穀までの作業に、コンバインと比べて100倍ではきかない時間と手間がかかります。
また、刈り取った直後の、まだもみも水分も残っている状態のワラは、意外と重いものです。
何百回、何千回とイネを持ち上げ、ハサ(稲架)にかける作業は、見かけよりも重労働です。

現代は農家と言えども機械化が進んでいるので、都会の運動不足のサラリーマンより体力があるとは言えません。
そのため、イネをかける作業は、下手をすると腰を痛めます。
農家の中には、腰を痛めないようサポーターをつけてイネをかける作業をする人もいます。

コメがおいしくなり、ワラを売ることもできるといっても、そうした事情から、今日ではバインダーは補助的な農機具としてしか扱われず、新技術開発のための投資もほとんどされていないようです。

ただ、農家の中には、バインダーで刈ったイネであることを消費者にもっと訴えて、高い付加価値のコメとして売ろうとする動きも一部にあります。

兼業農家のアウトソーシング p44

前頃までで述べた方法は、主として専業でコメを作っている場合の手順ですが、農家の数としては圧倒的に多い兼業農家の米作りでは、作業の外部委託(アウトソーシング)が進んでいます。

兼業農家は、専業農家と違ってサラリーマンなど別の仕事をもっています。
かつては、農業の副業としてほかの仕事をやっていたことが多かったのですが、現在ではほかの仕事のほうがメインとなって、農家としての仕事は休日にやることが圧倒的に多くなりました。
ほかの仕事の合間にできないような農作業は、やりにくくなります。

そのため、手間や時間のかかる作業は、農協や生産組合と呼ばれる専業農家を中心としたグループに委託することが多くなってきたのです。

委託の中でも多いのは、育苗と、収穫後の乾燥・もみすりから販売までの作業です。
これらを委託した場合、農家は買ってきた苗で田植えをして、稲刈りをするまでの作業だけをすればよくなります。
これによって、小規模な兼業農家は、1年1週間程度の時間でコメ作りができることになります。

作業委託は、兼業している仕事に支障が出ないようにすること以外に、もう一つメリットがあります。
買う機械を減らせるので、農業への投資額も少なくてすむのです。

場合によっては、一切農作業をせずに、すべて委託してしまうこともあります。
これは、それまで農家をやっていたが、高齢化などで継続が不可能になった人が頼むことが多いようですが、農業に見切りをつけた農家が土地だけ貸すといったケースもあります。

こうしたアウトソーシングは、農協や専業農家にとってビジネスチャンスにもなっています。
農協の側から見ると、一軒の農家からより多くの売上を上げることにつながりますし、専業農家の側から見ても、比較的容易に規模拡大を図ることにつながります。

ただし、専業農家にとってアウトソーシングを受ければいいというわけでもありません。
詳しくは後述しますが、アウトソーシングを受けることによってコストを下げたり、機械の稼働率を上げたりできる場合でなければ、かえって仕事の効率が落ちることになるからです。

また、農家の減少と高齢化は、現在でもかなり進んでいるため、アウトソーシングに出そうとしても、受けてくれる専業農家がいないということもあります。
そして、受けてくれる専業農家自身も高齢化しています。

田んぼが多すぎて、農家にやる気があってもできない時代が、すぐそこまできています。

農業委員会 p46

農業は、政府の政策と、地域の事情に合わせて行なわなければなりません。
そのため、政府と農家の間をつなぐ農業委員会が各地に設けられています。
農業委員会には二通りあります。
一つは市町村の役場の中にある部署としての農業委員会、もう一つは、集落単位で作られる農業委員会です。

市町村の農業委員会は、市町村の公務員と、各集落から選出された農業委員によって運営されます。
もっとも、農業委員になりたがる人がいないため、事実上の持ち回りとなっていることも多く、めったに選挙がない地域もたくさんあります。

市町村の農業委員会の仕事は、基本的に農地と減反の法的な保全管理となります。
農地は、法律により所有者は自分の農地を勝手に処分できないようになっています。
農地を手放すときも買うときも、農業委員会の許可がないとできません。
また農業委員会の許可がなければ、農家が作業用の小屋一つ建てることもできないのです。

なぜこうした制度になっているかというと、そうしないと農地が他業種の者に食い散らされるからです。
農業は工業、商業よりも生産性が低いため、農地価格は安くなっています。
そのため、安い農地を買って、工場や店などを造ろうとする者があとをたちません。
そうした者たちから農地を守るのが農業委員会の仕事です。
実際には農地転用と呼ばれる、農地を埋め立ててほかの用途に使うことは可能ですが、農業委員会を納得させる、相応の理由がないとむずかしくなっています。

集落単位の農業委員会の仕事は、農協との連絡やコメの減反関連が主になります。
農協との連絡とは、種もみや肥料、農薬などの購入案内が多く、なかには、農業とまったく関係のない売り込みのチラシが配布されたりもします。

減反関連は集落ごとに降りてくる減反目標を、数値を見ながら、Aさんはいくら、Bさんはいくらと割り振っていきます。
そして減反した田んぼであることを示す札を配付します。
田植えの時期が過ぎたら、この札をさしてある田んぼにイネが植わっていないのを確認するために使われます。

そして、秋になるといくらぐらい出荷するようになるのかとか、災害があった場合には、どの程度被害があったかなどを調べ、農協など関係先に状況報告をして、交付金の配分などを行ないます。

共同作業 p48

農村には、多くの共同作業があります。
自治会、青年会、消防団、お寺の行事などは、農業に関係なくあります。
もちろん、農協とのつき合いも欠かせません。

コメ農家に限った仕事は、まず貯水池(ため池)や水路の維持管理です。
水があまり豊富に得られない地域では、ため池の水がなくなると田んぼに水を入れられなくなります。
そのため貯水池の管理当番の仕事が定期的に回ってきます。

当番は、朝、水が欲しい農家からの連絡を受けて貯水池の水門を開け、要らなくなると閉めます。
専業農家であれば自分の仕事の合間にできる仕事ですが、サラリーマンと兼業している農家では、会社を休む必要が出てきます。
会社を休むことができない兼業農家は、当番1日につき数千円のペナルティを払って代役をたてることが多いようです。

草刈りや水路の泥さらいのような大掛かりな仕事は、祝祭日など日を決めて各農家から人を出し、一斉にやるのが普通です。
仕事が終わったら、集会所などに集まって、弁当とビールで懇親会を行ないます。

地域の神社を支え、祭りを維持するのも、大事な仕事の一つです。
各地で行なわれている神社の祭りの中には、豊作祈願を目的としたものがたくさんあります。
こうした伝統行事には、常にコメが奉納されます。
昔から、コメの豊作を農家が望んでいたことの証明です。

祭りには大きく分けて、単に神事が行なわれるだけの祭りと、農村が総出で祝う祭りがあります。
前者の場合は、神社の氏子の一部が参加するだけですみますが、後者の奉納舞踊やだんじりの引き回しをやる場合は、農村全体が総出で取り組みます。

祭りの準備はたいてい1週間から2週間でできますが、祭りにかける情熱が特に強い地域では、準備に何か月もかけることもあります。

ただ、農村の高齢化が進み、若者の人数が少なくなってきたため、大きなだんじりを動かしたりするのが次第に困難になってきています。
そのため祭りの担い手を他所から募集する地域も出てきました。

松島省三 1912~1997 V字型多収技術を開発した日本の第一人者 p50

日本には、昔から多くの優秀なコメの研究者がいます。
その中でも、戦後稲作技術の発展に大きな貢献をした人として、稲作技術について多少なりとも学んだことのある人であれば、松島省三博士の名を挙げない人は稀でしょう。

松島博士は、長野県のクリスチャンの家に生まれ、東京大学で学んだのち、農林水産省に就職します。
以来、定年退職になるまでひたすら稲作の研究に没頭しますが、彼の名を一躍高めたのは昭和30年代、農家が増産に燃えていた頃に完成した多収技術「V字型施肥」です。

「V字型施肥」とは、イネの生育期を初期、中期、後期と分けたときに、初期と後期に重点的に肥料をやり、中期にはやらない方法です。
これをグラフに表すとVの字のように見えるので、こう呼ばれます。

彼の研究の特徴は、徹底した現場主義と斬新さにあります。
学者としては妥協を知らぬ強面であると同時に、農家にとって大事なことは何かを突き詰めて考える人でもあったと伝えられています。

その典型例として挙げられるのは、田植えの労力を極端に削減した「株まきポット稲作」でしょう。
農家にとって、苗を規則正しく植えていく田植えは、大変な労力のいる仕事でした。
松島博士は、土が比較的多くついたポットの苗を掴み、田んぼに投げ入れる方法を開発し、劇的に労力を削減しました。

この方法は、従来のまじめな農家からは一見デタラメに見えます。
それを農家に実行させることができたのは、松島博士の人望と名声があったからこそでしょう。
「株まきポット稲作」は、田植え機の普及によって短期間で姿を消しますが、田植え機不要で労力削減を実現したのは不朽の業績と言えます。

農水省を定年退職後、松島博士は中国やアフリカに赴きます。
現地の稲作指導に尽力し、スーダンで10aあたり900kg、ケニアでは1280kgの最高収量を記録したと言います。
コメ余りの日本では求められなくなった多収化技術は、海外で生き続けているのです。

加工によって名前が変わる p52

市販されているコメの中には、商品名のほかに、加工の仕方でいろいろな製品名がついています。
同じものでも違うコメのように見えることも多いため、コメを買うとき、これはどんなコメなのかを知る、基礎知識をまず身につけましょう。

まず、玄米です。
玄米とはもみからもみ殻を取った状態のコメで、ヌカの層がついたままのものです。
食味の点で劣りますが、ヌカの栄養もそのまま食べるため、栄養価の高いコメでもあります。

白米とは、玄米からヌカの部分を取り去ったもので、最も大量に売られているコメです。
食味がよい反面、玄米よりも栄養価は低いコメです。

分づき米とは、玄米と白米の中間に位置するコメで、中途半端にヌカを取ります。
ヌカの取り具合によって八分づき、七分づきなどのランクがあります。
数字の大きいほうが、より白米に近くなります。

胚芽米とは精白するときに普通は取り去られる胚芽部分が残してあるコメを言います。
胚芽部分はコメの中でも最も栄養に富んだ部分です。

発芽米とは、玄米を一定時間水に浸けて発芽させた状態で乾燥させたもので、発芽する過程でできた栄養素ギャバが注目されています。

無洗米とは、基本的に白米と同じですが、コメを洗わなくても炊けるのが特徴です。

アルファ化米とは、一度炊いたもち米を急速乾燥させて、炊かなくてもお湯を注げば食べられるようにしてあるコメです。
コメのでんぷんは、Bでんぷんと呼ばれるでんぷんで、これを炊くとアルファでんぷんに変わるため、アルファでんぷんのまま保存可能にしてあることを示すネーミングです。
常温で長期保存できるので、非常食にも向きます。

チルド米飯、冷凍米飯と呼ばれるものもあります。
これは、冷凍で長期保存が可能なごはんで、電子レンジなどで加熱すればすぐ食べられます。

その他にもいろいろなネーミングがありますが、基本的にこれらの区分の組み合わせや、加工の方法に独自性を持たせたものになります。

p64

そうした手段がとれない場合、たとえば実家から何十kgとコメを送ってくるような場合は、玄米で送ってもらいましよう。
玄米状態なら白米より劣化は遅いからです。
精米はコイン精米機なら10kg単位、家庭用なら好きなだけ精米して、劣化を極力防ぐことができます。

不幸にも虫がわいてしまった場合は、日光の当たるところで薄く広げて干しておくと、虫は逃げていきます。
もちろん虫が逃げた後のコメは、食べても大丈夫です。

p66

最後に、あまり安値で買い叩こうとしてはいけません。
安値で買い叩くような人には、お返しをする農家もいるからです。

大不作でタイ米の輸入が実施されようとした1993(平成5)年、輸入反対派の国会議員が「タイから輸入したコメにはネズミの死骸が混じっていた」と批判したことがあります。
この発言は、大いに社会をにぎわせましたが、農家は知っていてマスコミにはしゃべらなかったことがあります。
そんなことは、日本でも、しょっちゅうあることだということです。

コメの乾燥機には、秋以外の時期に、よくネズミが入り込みます。
ネズミは出られなくなって死に、ミイラ化します。
管理が行き届いた農家は、ネズミが入らないようにして機械を保管しますが、そうでない農家はミイラが入ったまま乾燥機を動かします。

コメが乾燥機に入れられると、コメの重みでミイラは粉々になり、フアンによってほかのゴミごと吹き飛ばされます。
接触していたもみ殻も、もみすり時に除去されるので安全性には問題はありません。
しかし、そんなコメを買うとわかれば、消費者は気持ちよくないでしょう。

そんなコメを掴まされるのは誰か、わざわざ書く必要もありません。

コメでいくら儲かるのか p70

コメを作って食べていくには、どの程度の規模の稲作をやればいいのでしょうか。
これは、毎年のコメの価格や地域間の差、そして経営規模によっても変わってくるのですが、最低でも後楽園球場2個以上、10へクタール(10町歩)程度の規模が必要です。

日本では、1反(1アール=約1000㎡)あたり、おおむね500kg前後のコメがとれます。
出荷用の袋は30kgように作られているため、1反あたり16~17袋程度のコメがとれるわけです。
1袋あたりの出荷価格は、銘柄によって差がありますが、平均に近い8000円としましょう。

すると売上は、1反あたり13万円前後となります。

そこから経費を引いていくと、労賃として残るのはおおむね5万円前後です。
年間500万円の所得を得るにはその100倍が必要となるわけです。

そのため、それ以下の面積でコメを作っている農家は、野菜など、別の作物で収益を確保している場合がほとんどです。
逆に、あまり面積が必要ない作物を主力にして農業をする人の中には、土地が広すぎるため、作るものに困ってコメで面積を埋めていることもあります。

規模拡大は、田んぼを買うよりも、借りる方法がよくとられます。
借りるときには地代を払うのが普通ですが、なかには無料で、場合によっては管理料をもらって借りられることもあります。
なぜなら、田んぼは放っておくと荒れるからです。
高齢などの理由で引退した農家が田んぼを維持するのは大変なので、管理してくれるなら無料、ないしはお金を払ってもいいというわけです。

農家の数が減少しつつあるため、現代の農家は好むと好まざるとにかかわらず大規模化していく傾向にあります。

比較的若い農家には、引退した農家の田んぼの面倒をみてくれと、耕作依頼がよくきます。
なかには、大規模化など考えていなかったが、そうした仕事を受けていたら、いつの間にか大規模農家になってしまったなんてこともあります。

ただ、規模拡大は慎重にやらなければいけません。
詳しくは後述しますが、下手に大規模化すると仕事が忙しくなるだけで、儲けがついてこないことがあるのです。

なぜコメを作るのか p72

コメは、ここ30年、ずっと減反と呼ばれる生産調整が行なわれています。
「調整」と言っても、実際は「制限」です。
たとえば減反率30%と定められると、コメを作りたいと思っている面積の3割は、コメ以外の作物を作らなければなりません。

減反は、消費量よりもコメを多く作りすぎて、価格が下落するのを防ぐために行なわれます。
ここで疑問をもつ方がいらっしゃるでしょう。
どうして農家は、儲からない上に価格下落の危険性のあるものを作りたがるのか?

答えは、コメを作るのがいちばんラクだからです。

日本の農家の圧倒的多数は、第2種兼業農家と呼ばれる、農業以外の収入が多い農家です。
要は、ふだんはサラリーマンなど別の仕事をしていて、休日に農業をやる人たちです。

彼らは、基本的に農業で儲けようとは思っていません。
親から受け継いだ田んぼを手放すことに罪悪感があり、田んぼを守らなければならないと思って、しかたなく農業をやっている人がほとんどだと言ってもよいでしょう。

そうした人たちにとって農業は片手間です。
農業以外の仕事の都合が最優先になります。
よって収益よりも、土日だけでもできる、手間のかからない作物を作るほうが都合がよいのです。
そんな考えで選ばれることの多い作物、それがコメなのです。

しかし、片手間にせよ米作りをやるには、多くのコストがかかります。
特に農機具代は馬鹿になりません。
最低限必要な、田植え機とコンバイン、軽トラックと周辺機器を買うだけでも、いくら安く見積もっても300万円はかかります。

先に、1反あたりいくら儲かるか示したデータを思い出してください。
機械の耐用年数は10年程度です。
1年あたり30万円の機械代がかかるとすると、3反や4反程度の田んぼで片手間にコメを作るなら、誰が見ても赤字になるのがわかるでしょう。
3反、4反程度の面積でコメを作っている第2種兼業農家は今でもたくさんあります。
すなわち、第2種兼業農家は、先祖から受け継いだ田んぼを守るために、赤字でもコメを作り続けるのです。

そんな、経済性とはまったく異なる論理で動いている世界で、価格競争をしていちばん強いのは誰でしょう。
大規模経営は、収益を上げなくてはいけませんからコストダウンにも限界があります。
最も強いのは、農業で収益を上げなくてもよく、いくら安くなってもコメを作り続ける第2種兼業農家なのです。

コメ農家は多忙? p74

農業というと、現代人には自然とともに生きる、どちらかというとゆったりとした生き方ができる職業と思われています。
昔の人なら、いつも忙しくしているのに生活が全然ラクにならないと思っているのが普通です。

コメ農家の場合、どちらが正しいのでしょうか。

先に書いたように、第2種兼業農家が小規模にやる場合は、サラリーマンの休日をあてる程度で十分コメ作りを行なうことができます。

大規模に行なう場合は、もちろん栽培する面積に応じて仕事の量が増えます。
しかし、作っている間はいつもきりきり舞いしているわけではありません。

稲作で最も時間をとられるのは田植えの時期と稲刈りの時期です。
小規模稲作農家では、この時期1日、2日きりきり舞いしたら済みますが、大規模農家は、1か月くらいは続くことになります。

あまり忙しくない時期、イネの管理などに使う時間は規模によって増減しますが、比較的暇な時期があると、農家は野菜を作るなど、別の作物を作っていることが多いようです。

コメの作れない冬の時期も、別作物を作っていることが多いのですが、なかには農業以外の副業を行なう人もいます。
副業は、特に冬、雪が大量に降って農業ができない地域の人がやることが多いようです。

副業として昔多かったのは酒造りの杜氏として出稼ぎに出ることでした。
戦後の高度経済成長期には、建設労働者として大都市に出ていった人がたくさんいました。

現在では、出稼ぎにいく人はほとんどありません。
昔と違って、今は近くに仕事がたくさんあるからです。

仕事場として、特に魅力的なのはスキー場関連の仕事でしょう。
農業ができない時期がちょうどスキーシーズンとなりますから、農業の差し障りになることがありません。
スキ場近辺で、冬季にペンションを経営する農家もあります。

日本のコメはなぜ高い? p76

日本のコメは、国際価格に比べて圧倒的に高価になっています。
そのため、消費者は高いコメを買わされているとして輸入自由化を主張する人は少なくありません。

そうした人の中には、日本でも稲作の大規模化を推し進めれば、価格は安くなると主張する人もいます。
これは、半分は当たっていますが、半分は外れています。

理由は、二つあります。
大規模化すればコストが落ちることはありますが、落ちないことも多いこと。
もう一つは、いくら大規模化を進めても、国際価格並みの低価格を実現することは不可能だということです。

一般に大規模化するとコストは落ちると思われていますが。
実際は違います。
大規模化によるコストダウンを狙うには、まず大型機械を投入可能な、土壌条件のよい田んぼが、たくさんまとまって一地域に存在する必要があります。
これが、日本ではなかなか手に入りません。

日本でも東京ドームの5個や10個くらいの面積でコメを作る農家はけっこうあります。
しかし、理想的な農地を手に入れられることは少ないのです。
特に、高齢になって引退した農家の田んぼを借りて使う場合などは、田んぼが分散します。
また、多くの田んぼを使おうとすると、仕事時間に余裕がありません。

たとえば雨が降って田んぼの土が軟らかいときは、本来稲刈りをしてはいけないのですが、スケジュール上やらなければならなくなることもあります。
そんなことが積み重なると、大規模化してかえって効率が落ちることも少なくありません。

また、国際価格並みの価格にするには、あらゆる分野でコストダウンを行なわなければなりません。
仮に理想的な農地がふんだんに手に入れられたとしても、それだけでは国際価格には届きません。
投入する資材や物流コストにも手を入れる必要があります。
しかし、そこは農家の努力でできるものではありません。
メーカーや小売、物流業者など、関係者すべてがコストダウンを達成しなければ、十数分の一の価格など達成できるわけがないのです。

古代米香り米は諸刃の剣 p80

コメの差別化として色が変わった古代米や、香り米などを作る農家が増えてきています。
なかには、田んぼにいろいろなコメをわざと混ぜて植えて、観光客を呼び込むアートにしている人もいます。

こうしたコメは、普通のコメよりも高い価格で取引されますが、農家としてはあまり儲かるものではありません。
多くが昔の品種であり、現代の品種よりも収量が低いことが多いためです。
そして、ほかにも二つほど大事なことがあります。

一つは、普通のコメとはまったく違った色や香りのコメを調整するときは、乾燥機やもみすり機、精米機を徹底的に清掃するか、色彩選別機を買うか、あるいは、新たに専用の設備をそろえる必要があります。

なぜなら、こうした色の違うコメが普通のコメに混じっていると、見た目にきたなくなるので、商品性が著しく落ちます。
逆もまた然り。
黒色米に白いコメが混じっている場合も同じです。

現代の調整機械は、こうした掃除はしやすくなっていますが、完ぺきに掃除するとなると、構造的にむずかしいものが多いのです。
もう一つは、こうしたコメを作っていると、色の遺伝子をもつ花粉が普通のコメに受粉して、普通のコメに色を付けてしまう可能性があることです。

古代米は、実は本当に古代のコメか、根拠は希薄です。
しかし品種選別が進んでおらず、食べられたらよかったため、白いコメも黒いコメも一緒に植えられていた時代に選抜されたのは間違いないでしょう。
現在でも、東南アジアの一部でそんなコメが植えられています。

しかし、時代が進むにつれ、人は、見た目にきれいな白いコメを選別してきました。
色の付いたコメも栽培されてきましたが、そうしたコメは花粉が飛んできてほかのイネに影響が出ないように、ほかの田んぼとは離れて孤立したところで植えられ、同じように選別されてきたのです。

現代、こうしたコメを作る人は、そうした事情をよくご存じでないことが、けっこうあります。
そのため、もう少し時間が経つと、普通のコメに色が付いたとか、香りが付いたといったトラブルが発生する可能性があります。
すなわち、こうしたコメが、これまで先人が営々として培ってきた、遺伝子選抜の成果を破壊してしまうのです。

もっとも、色彩選別機を使えば色彩米が混じっていても、白いコメだけ選別することはできます。
香りで選別する機械はありませんし、近い将来できる見込みもありません。

しかし、いざとなれば収穫したコメから種もみをとらず、買ってくるようにすれば対処できます。
そのため、昔では非常識なことでも、今ならできると考えてもよいかもしれません。

農家の経営力は低いのか p82

農業は一般に遅れた産業と考えられています。
農業のむずかしさは多くの人が認めるのですが、農業の経営技術が他の産業より劣っているとする意見は根強いものがあります。
実際はどうでしょうか。

先に結論を言えば、この意見は半分正しく、半分は間違っています。
第2種兼業農家には、儲からないのが最初からわかっているので、それほど熱心にやらない人が多いのは事実です。
ここでは、農業で食べている専業農家について考えてみましょう。

農家の計数管理には、確かに問題があります。
たとえば、10年の耐用年数の機械を買うのに、償却するのに7、8年ならよしとするようなところがあります。

その償却も、企業の考えているような償却ではなく、その間の儲けをすべて機械代として払うことを前提としているのです。
すなわちその間は機械代を払うために働き、残りの期間が儲けというわけです。
これでは儲ける気がないと思われても仕方がありません。

しかし、そうした考えをしてしまう背景には、何としても機械を長持ちさせようとする技術力があります。
オフィスでコピー機の紙づまり以上のトラブルが起きると、普通はサービスマンを呼びます。
農機でもそれは同じですが、農家はコピー機の紙づまり以上の故障でも、修理マニュアルなしに自分で直してしまう人が少なくありません。
機械を耐用年数の倍の期間持たせるなど常識です。
計数管理の発想が違うといったほうがいいかもしれません。

また、農家が計数管理に暗いという前に、ほかの事業に携わる人がどれほど明るいかの比較は案外なされません。

大企業の計数管理は立派にされているのが普通ですが、それは会計の専門家やそれに近い人たちに担当させているからです。
一般社員も計数管理の素養をもっているのは、会計事務所や経営コンサルタント会社くらいではないでしょうか。

一般に農家は個人で仕事をすべてやらなければなりません。
そうした事情を考慮に入れれば、農家の計数管理能力もそれほど低いものではないと思われます。

現代の経営環境下、農業で生活ができる。
そんな農家の経営能力が低いわけがないのです。

農家も使う労働時間平準化テクニック p83

作付け時期の異なる品種のコメを時期に応じて植えることで、最も多忙な田植えと稲刈りにかける期間を延ばし、労働時間を平準化する。
昔から使われている方法だが、売れるコメと……にくくなっている

コストダウンの工夫 p86

コストダウンがむずかしいなか、それでも生き残りのための努力は続けられています。
ここでは、一例として直まき栽培を挙げましょう。

直まき栽培とは、苗代を作って苗を育ててから、田んぼに植える(移植する)従来の方法ではなく、種もみを直接田んぼにまいて、そのまま栽培しようとする方法です。
田んぼを耕す場合は、直まき栽培。
田んぼを耕さない場合は、不耕起直まき栽培と呼ばれます。

この栽培法の利点は、稲作の中でも労力のかかる、田植えを省略できることにあります。
不耕起となると、田んぼを耕すこともなくなります。
さらに不耕起だと土が硬いため、根も強く、深く張るようになって倒れにくく、長年やっていると土もスポンジ状になって、より健康なイネが作りやすくなるとされています。

高齢者にとっては労力が削減でき、大規模農家には手間のかかる田植えがなくなることで、より規模の拡大が可能となります。

しかし、この農法は土地を選びます。
種もみは水中では発芽しないため、田んぼは最初、雨が降っても水がすぐ抜ける状態にしなければなりません。
水がたまった状態では、発芽不良になるからです。
そして生長期には、水がよく保てる田んぼでなければなりません。

また、普通の田植えでは耕し、水を入れることで雑草をゼロにした状態で植えることができますが、直まき栽培はそうはいきません。
雑草は種もみと競争して生えてくるので、除草剤なしにはできない農法でもあります。

このほかにも、多くの農家がさまざまなコストダウンの努力を行なっていますが、基本的には大規模化に勝る方法はありません。

そのため、大規模化がむずかしい農家は、コストダウンよりもコメに付加価値を付けて高く売ることに関心が向きがちです。
次の章に出てくる有機栽培米などが増えてきているのには、そうした大規模化を選ぶことのできない農家が、少しでも付加価値を付けて売ろうと参入を始めていることも背景にあります。

株式会社の参入 p90

株式会社が農業を行なうことは、最近まで厳しく規制されていました。
しかし、構造改革特区での試用を経て、2005年より株式会社の農業への参入が認められました。

株式会社の参入が認められなかったのは、農地がほかの用途に使われる土地より格段に安いことに目をつけて取得しようとする者から、農地を守るためでした。
たとえば農業をやると偽って土地を入手し、やっぱダメだったと言って農地に店舗や工場などを建てようとする者に農地を渡さない。
それが政策目的だったのです。

しかし、農業の斜陽化が止められない農水省は、株式会社を農業に参入させたほうが農業活性化に役立つのではないかと、考えを改めました。
現在参入している会社には、大きく分けて食品(飲食含む)業界、建設業界、そしてまったくの異業種があります。

食品業界は、種まきから消費者の口までのすべてを自社でまかなう垂直統合戦略の一環として参入するところが多いのですが、なかには、有機農産物が欲しいが、市場では確保できないので自分で作ることにしたところもあります。

建設業界は公共事業の削減によって仕事が減ったため、その穴埋めとして参入することが多いようです。
地方では建設業者は農業も兼業していることが多く、やりやすいのでしょう。

まったくの異業種では、社会貢献や社長の夢など、参入動機もさまざまです。

企業には、農家にはマネのできない膨大な資金力があります。
しかし、その成否は予断を許しません。
特にコメの場合、高収益を上げられる土地の確保は、大規模農家よりも困難だからです。

もともと一農家が食べていくとしても10ヘクタールは必要ですから、企業がコメを作るとすると、少なくとも100ヘクタールの経営規模は必要となるでしょう。
それだけ一度にまとまった土地を確保することは、たとえ田舎でも容易ではありません。
また、高収益を狙える広い農地は、すでに多くのコメ農家が使っています。
残っているのは、耕作放棄田などになりがちです。
耕作放棄田は、普通まとまって存在しませんから、経営効率を上げることは事実上不可能です。

少しずつでもよい農地を確保し、規模を広げていくような形で事業を拡大することもできるでしょうが、それでは会社として赤字の期間が長く続きます。
そうなると、上場会社なら株主から経営責任を問われる可能性もあります。

企業が農業で成功しないとは言いませんが、その最初の事例がコメになる可能性は薄いと見るべきでしょう。

井原豊 1929~1997 「への字」型施肥を提唱したカリスマ農家 p92

松島博士のV字型施肥は、戦後のコメ増産に大きな貢献をしました。
しかし、松島博士の方法とまったく逆の方法を唱え、松島博士に並ぶ名声を得た人がいます。
兵庫県太子町の農家、井原豊氏です。

井原氏は、会社勤務等のかたわら、1ha程度の農業を営む兼業農家でした。
彼は、最初の18年に交通警察官と自動車教習所の教官、その後の17年間は企業調査会社に勤務します。
井原氏は、そこで多くの企業調査に携わり、伸びていく企業、潰れていく企業を観察します。
彼独特の農業観は、この時代に形成されました。

農協や政府の言うとおりに農業をやってはならない。
農家のやることは農業で儲けることであって、農家を相手に儲けようとする者に従うことではない……。
長年親しまれてきたNHKのテレビ番組「明るい農村」に出てきた、朴訥で正直者といった農民像ではなく、最少の出費で最大の収穫を得ることにどん欲な農家であろうとしたのです。

金のかかる化学肥料を買って自分でまくより、畜産農家にワラを提供するのと引き換えにたい肥をまいてもらえばタダで土作りができる。
微量元素である鉄分の補給は、トラクターのロータリーの爪がちびる分で十分だ。
だから製鉄会社が処分に困った鉱滓を売っているのを使う必要はない……今でも語り継がれる井原語録は、儲ける企業のがめつさを農業に応用したような趣があります。

しかし彼が名声を確立したのは、がめつい言葉を多く発したからではありません。
松島博士のV字型施肥とまったく反対の肥料のやり方である「への字」型施肥の提唱によるものです。
V字型が中期に肥料をやらないのに対し、中期に肥料をやって初期・後期には控えるので、「への字」と命名されました。

この方法はV字型稲作の方法に馴染めなかった農家に絶大な支持を受け、コメ農家の中で井原氏はカリスマとして有名となります。
井原氏は、その後大豆の多収栽培の研究を行なったり、高齢により衰える体力に合わせた高収益農法を模索するなどしていましたが、1997年、ガンで死去します。

晩年、関係者に「自分が死んだら『巨星落つ』と書くな。せいぜい『リトル・スター落つ』くらいにしておけ」と言い残しました。
最後までユニークさを失わない一生でした。

コメの敵と対する武器 p96

種まきからコメが収穫されるまでには、多くの障害があります。
なかでも大きなものは、害虫、病気、雑草、台風の四つです。
害虫は、コメができる前にイネを枯らせたり、商品性を落としたりします。
病気になれば収量に大きく響きますし、雑草はイネの生育を阻害します。
もう一つ、肥料不足も障害と言っていいかもしれません。

台風は、イネが受精するときに来ると花粉を飛ばしてしまって受精をできなくしたり、イネを倒してしまって刈り取りを困難にしたり、場合によっては地面で発芽させてしまったりします。

昔は、こうした敵に対し、人間はほとんど無力でした。
防衛手段もなかったわけではありませんが、効果は限られていたのです。

しかし、20世紀、生物学と化学の進歩が、コメ作りの敵のうち台風以外の三つに対して猛攻撃を開始します。
農薬と化学肥料の出現です。
それまでさんざ苦しめられてきた敵たちが、いとも簡単にやっつけられるのを見た農家は驚き、狂喜しました。

高齢のベテラン農家の中には、農薬散布のことを「消毒」と言う人が多くいます。
農家以外の人は、農薬散布=毒の散布と考えますが、昔の農家は逆に思っていたのです。
もちろん農家は、農薬が毒物であることを知らなかったわけではありません。
実際、防備を怠って農薬散布して体を悪くしたり、死んでしまった農家もいます。
しかし、農家にとって「毒」とは、第一に害虫・病気・雑草のことだったのです。

現在では、そのうえ“規模”が新たな敵として台頭してきています。
農薬や機械がなかった頃は、おおむね一農家1町歩(1ヘクタール)くらいでした。
手作業で稲作が可能な規模が、それくらいだったからです。

現在では専業なら一農家5町歩、10町歩はあたりまえで、20町歩、30町歩も珍しくありません。
それくらいの規模にならないと、食べていけないからです。

大規模化してくると、農作業も時間との戦いになります。
いかに時間をかけず、コストをかけず日々の管理を行なうかを考えなければ、経営を維持していけません。

そんななか、最も安定していて、最も安くつく武器。
それが農薬である限り、農薬がなくなることはないでしょう。

殺虫剤を減らす工夫 p100

減農薬は、熱心な農家なら、必ず考えているテーマです。
特に無農薬栽培をしたいと思っていなくても、農薬は買えばお金がかかりますし、散布する手間もかかります。
別に無農薬を指向していなくても、お金と手間を節約しようとするのは、当然のことだからです。

農薬をまかずにすむなら、まかないほうがいい。
特に高齢の農家にとっては、切実なテーマでもあります。

どんなとき、農薬をまかなければならないのか、まかなくていいのか?
減農薬を行なうときに、最初に行なうのは、実態の調査です。

田んぼを見にいって、状況を見るのは、多くの人がやっています。
最初にざっと自分の田んぼと人の田んぼ、そして周囲に生えている雑草の色を見ます。
一見同じようでも、よく見ると肥料の効き具合で微妙に葉の色が違います。

葉の色があまりに薄いようなら、肥料の散布を考えなければいけない……。
そんなことを考えながら、田んぼの中に入ってイネをかき分けて様子を見ます。
雑草は生えていないか、害虫はいないか、見て回るのです。

多くの農家は、そこで問題を見つけると、対処を考えます。
害虫がいるなら殺虫剤を、病気が来ているなら殺菌剤を使うのが普通ですが、そこでいったん立ち止まって考えることが大切です。
農薬をかけずにすませられないか……。

病気の場合は対処がむずかしいことが多いのですが、虫の場合は何もしないという選択肢もあり得ます。
害虫がいれば、害虫を食べる益虫もいます。
害虫の量が少なければ益虫が増えてくれば、農薬をまかなくとも、それほど被害は出ないからです。
どんな害虫が面積あたりどの程度いるのか。
少なければ、そのままにして益虫に活躍してもらおう。
それが観察眼の鋭い農家の方法です。

こうしたやり方の不利な点は、小面積では管理が可能であるものの、大面積となると、そうはいかないことです。
1回見て回るだけでも数日かかるような規模になってくると、何かあったときに気がつくのが遅れます。

また、一部の害虫に関しては、性フェロモンを使い、誘い出して捕まえる方法もあります。
この方法は、無農薬農法の一つとして紹介されることが多く、作物や土壌に散布されないため使っても無農薬扱いされます。
しかし、性フェロモン自体は法律上純然たる“農薬”です。

草取りのあの手この手 p102

除草の方法には、大きく分けて三つの方法があります。
耕種的防除、抑草資源・資材防除、共生動物や共生植物による防除です。

耕種的防除とは、主に耕すときの工夫によって草を減らす方法で、有名なものではプラウ耕や田畑転換などがあります。

プラウと呼ばれる鋤を使って冬に地面をひっくり返すと、寒さに弱い地中の塊茎(地下茎の塊、じゃがいももその一つ)や種が地表に出て、寒さで死ぬことで、春からの発生を減らすことができます。
田畑転換は、田んぼを畑にすることで、水が多いところで繁殖する雑草を減らすものです。

もちろん、昔ながらの手押し機や手取りによる除草もここに含まれます。

抑草資源・資材防除とは、米ヌカなど有機物質を投入して、有機物が分解する過程で出る有機酸によって雑草を殺したり、田植えと同時に紙を敷いて、光を通さないようにして発芽を抑え、発芽しても伸びることができず枯らせてしまうなどの方法です。

共生動物防除は、アイガモやコイその他、自分で動き回る生物に雑草を食べてもらったり、水を濁らせて発芽を抑えます。
共生植物防除は、浮き草などイネと競合しない植物に水面を覆わせることで光を遮断したり、雑草が生える前に自分が成育場所を奪うことで除草効果を果たします。

これらの方法は、単独で用いられることもありますが、それでは効果が薄いことが多いため、組み合わせて用いられることが多いようです。

もちろんこうした方法は、やれば大丈夫というわけではなく、相応の技術と知識が必要となります。
雑草の種類によって有効な方法と、そうでないものがありますし、生物を使ったやり方は、粗雑にやると、かえって危険だったりします。

たとえばアイガモをたくさん入れすぎるとエサが不足してイネも食べますし、浮き草を入れるタイミングを間違えると田植え直後のイネを倒したり、遅すぎると浮き草が田んぼを覆う前に雑草が生えてしまいます。
こうした調整は、ガイドラインはありますが、個々の農家が試行錯誤して試してみないと、うまくいくかどうかはわからないのが実際です。

広がるアイガモ農法 p104

無農薬のコメのイメージリーダーとなっている、最も成功している栽培法です。
景観としても魅力があり、アイガモ農法を行なうと、それだけで田んぼが観光地となってしまうほどです。

田んぼにアイガモを放すと、雑草と虫を食べてくれますが、イネは食べない習性を利用したものです。
無農薬に加え、アイガモの糞は、そのまま肥料にもなりますから、無肥料での栽培が可能になります。

アイガモは一般に専門の育雛場から買ってくるのですが、そのまま田んぼに放すと逃げ出したり、犬猫やキツネ、カラスなどに食べられてしまうので、田んぼの周囲を電気柵や網で囲います。
しかし、なかなか被害をゼロにすることはむずかしく、なかには田んぼの上まで網で覆うこともあります。

田んぼによっても違いはありますが、だいたい10反(10アール)あたり20~30羽程度を放します。
少なすぎると雑草が食べきれないで残ります。
多すぎると、いくらイネを食べないアイガモでも空腹のためイネを食べてしまうからです。

アイガモは出穂期と呼ばれる、稲穂が出る直前になると、田んぼから出され、今度はアイガモ肉として売られることになります。

無農薬で栽培が可能な農法として、アイガモ農法は消費者の間でも人気が高く、アイガモ農法で作られたコメは高値で取引されています。

農家でアイガモ農法をやろうとする人は増えていますが、今なお少数派です。
理由は、一般の農法と比べて手間がかかる上に、収益上安全な農法ではないからです。

先に挙げたように、まずアイガモ害獣から守ろうとすると、田んぼ一面に網や電気柵などを張る手間がかかります。

また、アイガモは、田んぼの重要な雑草であるノビエなどは食べてくれないことが多いようです。
ノビエはイネ科の雑草で、成長の中期くらいまではイネとそっくりなために食べないものとみられています。

そして、出穂期以後、アイガモは田んぼから出されますが、その後にも害虫はやってきます。
特にウンカの本格的な被害は、まさにこの後に襲ってきます。
ウンカの被害が小さくてすむならいいのですが、大きくなると予測された場合、農薬を使ってしまうと無農薬で栽培したことになりません。
無農薬だからこそ消費者はアイガモ米に魅力を感じるのであって、農薬を使ったら商品の魅力がなくなってしまいます。

アイガモ農法も決して万能ではないのです。

福岡正信 1913~ 世界に認められたが農家からは否定された究極の「自然農法」 p114

福岡正信氏は、世界で最も有名な日本の百姓です。
アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞するなど、彼が提唱する「自然農法」の名は世界中にとどろいています。

福岡氏は1913(大正2)年、愛媛に生まれます。
家が裕福だったため、学校に行くことができ、卒業後、横浜税関植物検査課での検疫の仕事のかたわら、横浜山手にあった植物病理研究室で研究をしていました。
この頃の福岡氏は、科学の無限の可能性を信じていました。

しかし、病気がもとで死の恐怖におびえ、悩み苦しむようになります。
そんなあある日、山手を夜通し歩きまわって、くたくたになって切り株に座り、うとうとしているうちに夜が明けました。
近くにいたゴイサギの鋭い声に目をさました福岡氏は、その瞬間、心身が一変しました。
神の世界に触れたのです。
しかし、神はすぐ消え去ってしまいました。
もう一度、神に触れたい。
そうした希望が、彼を自然農法に向かわせます。

福岡氏の自然農法の特徴は、人間は極力なにもやらず、自然の力をそのまま活かそうとするものです。
彼は科学を否定し、宗教的な主張を行なうことで有名でした。
しかし、実際の栽培方法は、独自の合理性に貫かれており、きわめて科学的です。
有機農法をやらない人でも、参考になることがたくさんあります。
そうした彼独特の農法と哲学は、同時に資本主義、あるいは科学の進歩に不安を感じる人たちに強烈にアピールする力をもっていました。

しかし、この農法は、日本の農家にはまったくと言っていいほど普及せず、むしろ軽べつされています。
彼をほめたたえるのは、日本では一部の学者と生き方にこだわる人たちのみです。

そうなった理由は、彼の農法では、農家としてまったく生活できなかったからです。
彼自身、農業で生活費をすべてまかなったことは、おそらく生涯一度もないでしょう。
いかに独特の合理性があろうとも、生活の糧を得る経営的側面から見るならば、これほど愚劣な農法はありません。

彼の哲学では、トラクターや田植え機を使うようでは、その時点で失格なのですから。

近づく米先物取引 p120

コメの先物取引開始の機運が高まってきました。
2006年いったん導入見送りが決定したものの、近い将来この問題は再燃することでしょう。

先物取引とは、3か月後や6か月後など、未来の商品の価格を予想して売買する取引のことです。
たとえば3か月後取引される商品が、今800円の価格になっているとします。
3か月後1000円になると、今買った人は800円で買った商品を1000円で売ることができます。
逆に3か月後600円になると、800円で買った商品を600円で売らなければなりません。
先物市場とは、そうした「売買の約束」を売買している市場です。

世界最初の先物取引は、江戸時代、大坂堂島の米市場で始められました。
この時代に活躍し、多くの相場技術を後世に伝えたとされる人に本間宗久がいますが、彼が本当に相場の神様であったかについては、諸説あるようです。

日本では戦前まで、コメの先物市場が需給調整の役割を果たしていましたが、戦時下の経済統制のために1939年に廃止、その後は食糧管理法による価格統制に移行しました。
その市場がまた開かれようとしているのは、法改正などにより自由化されたコメの価格変動を少なくし、公正な価格を形成し、農家のリスクを減らすためです。

政府が価格を管理していた時代と違い、現代のコメは不作になると価格が上昇し、豊作になると価格は下がります。
農家は、春の種まきをするとき、秋いくらで売れるのかわかりません。
豊作になると、全部売ることができなくて、安値で処分しなくてはならなくなる可能性もあります。
しかし、作る前にいくらで売れるかがわかっていれば、安心してコメを作ることができます。

先物市場にコメが上場されると、コメは農家、あるいは農協や米穀店などと、先物取引で一儲けしようとする投機家の間で売買されることになります。
そこで作られた価格に満足すれば、農家や農協は、その価格で売りを建てます。
すると、実際にコメができて引き渡すときに、いくら価格が下がっていても、農家は最初に売り建てた価格でコメを売れるのです。
現物の価格との差は、投機家などの買い手が引き受けます。
もちろん、思っていたよりも現物価格が上がった場合は儲け損なうことになりますが、赤字を出す危険から逃れることはできています。
これを、先物取引を利用したリスクヘッジ(保険つなぎ)と言います。

ただ、不安要素もあります。
公正な価格形成のためには、多くの投機家の参加が必要ですが、日本の場合、先物取引はリスクの高いやり方として敬遠されがちです。
実際は、リスクを減らす手法もあるのですが、そうした方法を知らない人が多いため、ときに商品先物市場は一部の者の手によって乱高下することもあります。
そうした事情から、先物市場の設置が、果たして意味があることなのか疑問の声もあります。

川崎磯信 1936~ 食管法下の米流通に衝撃を与えた日本一のヤミ米商兼コメ農家 p134

1991年11月12日、東京霞が関にあった食糧庁に、段ボールの箱を持った一人の男がやってきました。
彼は受付であいさつをすますと、自分をヤミ米を販売した罪で告発してほしい。
違法行為の証拠書類は、段ボールの箱に入っている旨を伝えました。
当時、政府の管理下にないコメ、すなわちヤミ米を売るのは違法行為であるにもかかわらず、食糧庁は彼の自首を無視します。
それがニュースとして流れると、日本中で蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。
彼の名は、川崎磯信。
コメを作りながら、富山県一の米穀商になった人です。

川崎氏はもともと熱心なコメ農家で、コンテストにも何度も入賞した実績がありました。
ずっとコメを作っていられれば幸せでした。
そのためコメ余りによって政府が減反を指示してきたとき、素直に従いました。
しかし、何年経っても政府の言うとおりの結果にならないため、川崎氏は説明を求めましたが納得できる答えが返ってきません。
そのため川崎氏は減反を拒否。
食糧庁は、政府管理のもとでしか合法的にコメは売れないことを知りつつ、彼のコメを買わないという報復に出ます。

困った川崎氏は、コメを知人に分けると大好評。
なぜそんなに喜んでもらえるのか、わからなかった川崎氏は理由を調べます。
すると、農家はおいしいコメを作っているのに、消費者のもとに届かない流通の実態と、食糧管理法が利権確保の道具になっていたことを知ります。
食糧管理法は時代に合わなくなり、食糧庁、農協、米穀商の利権保護の法に変質してしまった。
そう思った川崎氏は、政府のコメ政策を根本から変えなければならないと考えました。

しかし、一農家にできることは限られます。
そこで自分がヤミ米を売った罪で裁判にかけられ、米流通の矛盾をその場で明らかにする戦略をとりました。
裁判にかけられるために、ヤミ米商となったのです。
それも自分はヤミ米を売っているとわざわざ宣伝して商売を始めました。

商売は瞬く間に成功し、川崎氏は富山県一の米穀商になります。
彼のもとには農協を含めた多くのヤミ米商が出入りし、その記録を川崎氏はすべて食糧庁に持ち込んだのです。
しかし、保身に走る食糧庁はいっこうに告発しないため、川崎氏は税務署に収入を明らかにした上で税務申告をしないから脱税で捕まえろと宣言。
騒ぎはますます大きくなり、川崎氏と政府のケンカはますます盛り上がりました。

現在、米流通の世界は、おおむね川崎氏の考えたとおりのものになってきています。
一農家の捨て身の攻撃が、どれだけ政府を動かす結果になったのかは明らかではありませんが、彼の攻撃が時代を一歩進めさせたのは、誰しも認めざるを得ないでしょう。

昔のコメとどこが違う? p136

現在、日本で作られているコメは、そのほとんどが戦後品種改良によって作られた新品種です。
過去にさかのぼってみても、その時代に栽培される品種は、当時最も新しい品種が主流でした。
それぞれの時代が求める性質を、そうした新品種がもっていたからです。

よって、同じコメと言っても、昔の人が食べていたコメと、今の人が食べているコメとは、かなりの違いがあります。
では昔のコメと今のコメとはどこが違うのでしょうか。

まず、先に挙げた耐寒性がありますが、この性質が必要なのは寒い地域で栽培するケースに限られます。
耐寒性以外に、第一に求められたのは、均一な成長です。
同じ時期にまいた種もみが、同じ時期に発芽し生長しなければ、同じ田んぼで、これは刈れる、これはまだ熟していないから刈れないといったことが起きて、作業効率が悪くなるからです。

その次に求められたのは、収量です。
同じコメを作るなら、収量の多いほうが儲かります。
昔は10アールあたり250kgも収穫できれば大豊作でしたが、今の時代にこの程度しかとれないなら、凶作です。
現代のコメは、昔の大豊作時の2倍が普通作です。
豊作なら、もっと差が出ます。
収量には一粒の種もみからどれだけのコメがとれるかといった面と、あとは刈り取るだけというところまで実った米粒が地面に落ちてしまわないという面があります。
イネは人間のためにコメを実らせているわけではないので、実ればすぐに地面に落ちて子孫を増やしたがります。
これを脱粒性と言います。

第三に求められたのは、倒れないイネです。
コメがたくさん付くと、イネの頭が重くなって倒れやすくなります。
そうすると台風や大雨がやってくると、イネが倒れてしまいます。
イネが倒れると稲刈り作業も面倒になる上に、もみが地面に接して湿気を帯び、場合によっては穂に付いたまま発芽してしまい、商品性が落ちます。
イネを倒れにくくするためには、茎を強くするより、丈を短くする方法がとられました。
これは倒伏性と言われます。

第四に病気や害虫に強いイネです。
病気や害虫にやられたら、そもそもコメがとれません。
これを耐病性、耐虫性と言います。
現在においても耐病性のある品種はありますが、耐虫性のよい品種はありません。

ここまでは昔から求められてきたことですが、戦後はさらに二つの要素が求められました。
一つは大量の肥料をやっても倒れないイネです。

もともとコメはそれほど多くの肥料を必要とはしませんが、やればそれだけ収量が向上します。
昔は肥料の確保が困難だったため、肥料をやりすぎることはそうありませんでした。
しかし、戦後の日本は経済成長によって肥料の入手が容易になりました。
そのため肥料をやりすぎて、失敗する農家が続出したのです。
肥料をやりすぎてもちゃんと育つ。
そんなイネが求められたのです。
求められたもう一つの特性は、食味、すなわち味でした。

p139

今や学校給食ですら、昔の人が見るとレストランのメニューかと思うほどバラエティに富んだものが出てきます。
コメがなくても食べるものはたくさんあります。
そのうえ、コメを腹いっぱい食べたいと夢見て、最低でも3杯おかわりしていたような人も高齢化して、今では2杯食べることすらなくなってきています。

麦のいろいろ p170

麦は、冬作に向くイネ科作物です。
世界的にもコメと並ぶ重要な作物で、日本では夏にコメ、冬に麦を作って田んぼを一年中使っていました。

高く売れるコメは出荷し、自分たちは麦ごはんを食べてきた農家は、昔はざらにいました。
1950(昭和26)年、故池田勇人総理が米価・麦価に関する質問に答えた発言が「貧乏人は麦を食え」として伝わり物議をかもしたのには、そうした背景があったのです。

日本が経済的に豊かになるにつれ麦ごはんは消えていきましたが、近年健康食として見直され、積極的に食べる人も増えてきました。
また、豊かな食生活の中で育った若い人の中には、麦ごはんに「貧乏」のイメージをもたず、むしろ珍しいごはんとして喜んで食べる人も少なくありません。

ただ、ごはん以外の形では、日本人は今でも大量に麦を消費しています。
パンやうどん、ビールなど多くの食品が麦を原材料にして作られています。

麦には左図のように多くの種類があります。
日本のみならず、世界的に需要が多いのは小麦です。
これはパンを作るのに使われるためです、日本ではパンのほかに、うどんなど、麺類にもたくさん使われています。

大麦・はだか麦は、小麦と比べると生産量はぐっと落ちますが、醤油や味噌用など根強い需要があります。
また、麦ごはんになるのも大麦・はだか麦です。

もち麦という麦の名を聞いたことがある人もいらっしゃるでしよう。
これはもち米と同じく、もちを作ることができる、もち性の麦のことを言います。
ただ実際は、もち麦麺といった麺を作るのに使われることが多いようです。

自給率一ケタと極端に低い割には国産麦を使った商品が多いと、いぶかる方がおられるかもしれません。
これは、麦が人間用だけでなく、家畜の飼料として輸入されているものが多いためです。
そのため、普通に食卓にのぼるものは、自給率の低さの割には国産のものが多いことになります。

麦の自給率の低さは、大豆のそれと並んで農政上大きな問題となっています。
そのため、減反の代わりに栽培する作物として麦は大豆と並んで増産を期待されています。

日本の麦栽培 p172

麦は、コメ用の機械が流用できる作物です。
コメの精米に相当する精麦機以外は流用できると言って差し支えありません。
一般に6月に田植えをする場合に限られますが、コメの植えられていないときに麦を栽培すると、田んぼは一年中作物を栽培することができます。

戦前、そして戦後しばらくは、コメと麦を作って一年中田んぼを使う農家は多くいました。
しかし高度成長期から近年まで、コメ農家の多くは麦作を行なっていませんでした。
その理由は三つあります。

一つは、麦の価格が安いことです。
現在、コメは10アールあたり500kgとれて、30kgあたり8000~9000円程度で取引されます。
麦は同じ面積で300kg程度しかとれず、300kgあたり4000円程度でしか取引されません。
麦栽培は、虫がほとんどいない冬にやるため、種まき時に排水対策と雑草対策をしていれば、普通は収穫まで何もしなくてもできます。
コメよりも手間がかからない代わり、収益も低いのです。

第二に、機械の流用ができると言っても、実際は流用に手間ひまがかかることもネックになります。
機械は使うと、中に過去の収穫物が残るからです。

たとえばコンバインでコメを収穫した後に麦を収穫すると、機械内に滞留していたコメが混入します。
もちろん農家は機械の清掃を欠かしませんが、機械の構造上すべてを取り除くことができないのです。

それでも麦にコメが混入しても精白段階で破壊されてしまうので問題ないのですが、逆にコメに麦が混入すると厄介です。
コメ用のもみすり機では、硬いムギは破壊されず、混入したままになります。
するとコメの商品性が落ちてしまいます。

第三に、コメの精白にあたる精麦の機械は、個人農家が買えるものではありません。
昔でも米穀商に頼んで精白してもらうのが普通でした。
ところが麦の生産が減少するにつれ、精白設備をもっている米穀店はほとんどなくなっています。
地域によっては、精白してくれる業者を探すのが大変です。
そのため、農家としては自前の販売がむずかしいことが多く、一般に政府に売る以外の選択肢をとることができません。

ただ、近年は地域農産物生産者のグループなどで麦用の専用コンバインをそろえたり、加工食品を作るグループで必要な機械を購入することもあり、状況は改善しつつあるとは言えます。

麦流通のしくみ p174

日本の麦は、前に記したように大変安く取引されています。
しかし、外国産麦は、そんな安い国内産よりもはるかに安値で輸入されます。
しかし、国内産麦の生産が壊滅しないのは、価格プール制度と呼ばれる制度があるからです。

価格プール制度とは、政府が麦の輸入をすべて管理し、業者への売渡価格(入札価格)を決め、売渡し価格から輸入コストを差し引いた差益分を国産麦の価格補てんに使う制度です。
そのため国内の流通業者は国内産も外国産も同価格で入手することになります。
この制度に関しては外国からの批判もありますが、現在の低い自給率の状態では、麦作を守る大変合理的な制度であると言えましょう。

1973(昭和48)年前後、日本の麦作が最低水準に落ち込むと、政府は麦の増産を狙って、コメから麦への転作を奨励するようになります。
それから紆余曲折はあるものの、麦の生産はいくぶん回復してきました。
しかし、その分、麦作経営安定資金と呼ばれる補助金の支出が増え、政府の麦会計は赤字が続いています。

そのため、コストダウンが大きな課題となっていますが、麦にはもう一つ、品質の問題もあります。
外国産と比べて品質が安定せず、購入す国内の製粉メーカー(小麦粉などを作るメーカー)などから改善を要求されています。

日本の麦の品質が安定しない理由の大きなものは、日本の気候と作られ方にあります。
麦は、どちらかというと世界的に雨の少ない地域で作られている、水に弱い作物です。
しかし日本には、収穫期に梅雨という大敵がいます。
収穫期の雨は、麦の品質を低下させることがあります。

作られ方の問題とは、夏にコメを作り、冬に麦を作る生産スタイルをとる人が多いことです。
これは米麦二毛作といって、田んぼを一年中無駄なく使う大変合理的な方法です。
コメからの転作で、夏場は野菜や大豆を作るケースも増えましたが、主流は今もこちらです。

しかし麦の収穫時期と、田植えの時期が重なることが多いのです。
そのため麦が完全に成熟するのを待っていると、田植えが遅れるといったことがよく発生します。

麦はコメよりも儲かりませんから、そんなとき、田植えを優先します。
麦がまだ完全に成熟しきっていない場合でも麦の収穫がなされるなら、品質低下もやむを得ないことになります。

そうした事情から、梅雨を避け、田植えまでの時間的余裕をもたせるよう、成熟の早い新品種が求められています。

麦の需要拡大策 p176

現代の国産麦の需要は、そこそこ堅調です。
しかし、需要を拡大する努力は行なわれています。
努力のキーワードは“国産”と“健康”です。

麦の需要と言えば、一番大きなものはパンや麺を作る小麦です。
特に戦後、パンの需要拡大につれて小麦の市場も大きくなりました。
しかし国産小麦はうどんなど、麺に使うにはよかったものの、パンには向かない性質をもっていました。
そのため、パン用は外国産が使われていたのです。

国産小麦の需要を拡大するために、国産小麦でパンを作る試みが長年なされています。
これはかなり困難な試みではあったのですが、近年そこそこ成果をあげつつあります。
国内産小麦を使ったパンということで、好意的に見てくれる小売業者や、消費者の存在も追い風となっています。

大麦・はだか麦に関しては、近年の健康ブームの影響で麦ごはんを食べる人が増えてきたため、こちらも少しずつ需要は拡大している模様です。

麦ごはんに使われるのは、あっぺん麦と言って、麦を押しつぶして平らに、柔らかくしたものが主流です。

しかし近年、麦を2分割してコメに似せた形に削り、コメに近い食感をもつようにした米粒麦が登場しています。
これには大変高度な技術が用いられており、新規需要もかなり開拓しました。
しかも、まだまだ知名度も低いので引き続き成長が見込めるものと思われます。

また一部では、あっぺんや米粒のように食感をコメに近づけるのでなく、麦そのままの食感を楽しむために精白以外の加工をせず、丸麦のまま売る試みや、麦アイスを作ることも行なわれています。

ビール麦に関しては、ビール会社との契約栽培が行なわれているため、特に新規需要の開拓の試みがあるとは聞きません。
ただ、一時期雨後のタケノコのように各地に出現した、中小ビール会社の経営が思わしくないため、小麦、大麦と比べると若干元気がありません。

雑穀のいろいろ p178

雑穀とは、一般にコメ、麦以外の穀物を総称する言葉です。
ただ、厳密に定義された言葉ではなく、人によって雑穀とする作物の範囲は異なります。
トウモロコシやソバ、あるいはアマランサスといった作物を雑穀とする人も少なくありませんが、ここではアワ、ヒエ、キビなど、明治時代以前から日本で栽培されていた穀物を雑穀と呼びましょう。

雑穀は世界中で栽培されており、アジア・アフリカには、雑穀を主食としている地域もたくさんあります。
もともと栄養価が高く、やせた土地でも育つ作物が多いためです。
コメと同じイネ科の作物が多いため、うるち、もち、酒に使える雑穀もあります。

日本でも盛んに作られていましたが、統計がとられはじめた大正時代あたりから作付面積は減少傾向にあり、戦後急速に減少しました。
その結果、1970(昭和45)年に農水省統計から姿を消します。
取引価格が安く、採算が合わなくなったからです。

しかし近年、いわゆる健康食とし雑穀への関心が高まっています。
いちばん身近な雑穀の使い方は、コメに混ぜる食べ方でしょう。
こうした食べ方が流行るのは、一つには昔と違って、今は雑穀の価格が高いからです。
昔、コメが十分食べられなかった地域では、三穀飯や五穀飯といったコメ、麦、雑穀を混ぜた食事が主流でした。
今、そうした食生活を実行しようとすると、輸入物でも魚沼産コシヒカリを食べるのと同じくらいの支出が必要です。
国産にこだわると、もっとおカネがかかるごはんになってしまいます。

もう一つの理由として、現在の家庭の主婦は、雑穀を料理する知識がないのも無視できません。
雑穀を常食として食べていた時代の人は、多くが70歳を超えていますが、こうした年代の人が、子どもに料理法を教えなかったためです。
この時代の人は、雑穀食を貧困の象徴として考えており、コメがふんだんに食べられる時代には不要になると考えました。
彼らは、今雑穀ごはんを食べるのが、どれほどぜいたくなことか説明すると、たいてい驚きます。

雑穀はコメや麦と同じ穀物ですから、コメとまったく同じとは言わないまでも、調理はむずかしくありません。
しかし、料理する自信がないものを買って、新しい料理に挑戦する人はそれほど多くありません。
これは雑穀に限らず、ほかの農産物でも同じです。
健康食としてテレビで紹介された作物の加工品は売れても、作物そのものは調理する自信がなくて売れないことが多いのです。

雑穀の作り方 p180

雑穀の栽培方法は、大きく分けて2種類ありますが、栽培自体はそれほどむずかしいものではありません。
最初に肥料をほどこし、耕したあと、野菜よりも小さい畝をたくさん作ると種まきの準備は完了します。
肥えた土地では、肥料は不要です。

まく種の量は、実際より多めになります。
ハト麦を除けば、種が小さすぎて、きちんとまけないためです。

発芽して、葉が2、3枚付いてくると、適度に間隔を空けることを考えながら間引きを行ない、よく育つものだけを残します。

コメと違って品種改良が進んでいないため、雑穀の多くは1mから1m50cm程度まで成長します。
これだ大きくなると、背が高すぎて倒れやすくなるため、土寄せといって根元に土を盛って、倒れにくくします。
それでも間に合わない場合は、テープなどを張って支えます。

穂が実ってくると、スズメなどが食べにくるため、糸を引いたり網を張ったりして防ぎます。

そしてきれいに色づいたときが収穫どきです。

収穫したあとは、農家の軒先などで自然乾燥させてから脱穀します。
コメのもみすり、精白にあたる調整作業は、昔から商売を続けている近くの穀物商に依頼する場合もあれば、今なお石臼で行なうこともあるようです。
もっとも、雑穀生産の多い岩手県では、農協所有の専用施設が近年建設されています。

ヒエやハト麦の場合は、上記の方法でもとれますが、田植え機を使って“雑穀植え”を行なうなど、コメと同じ方法で仕事を進めることもできます。
コメと同じく、水中でも育つからです。

ただハト麦は、苗の状態では水が張られた環境だと成長が遅れますので、ある程度育つまで水は切っておきます。

その後はどちらにもコメと同じような管理を行なうことになります。
収穫にコンバインを使うこともできます。

入手困難な国内産雑穀 p182

現在日本に流通している雑穀は、ほとんどが輸入品で、ハト麦を除き、一般に国内産の入手は困難です。
特に、日本で生産している人が10人もいないと言われるシコクビエともなると、国内産の入手は絶望的と言ってもよいでしょう。

加えて、雑穀ブームになっても生産はほとんど増えていません。
日本産の雑穀の多くは、今なお絶滅の危機に瀕しています。

日本で人気が高まっているのに国内産が増えない理由は、まず第一に雑穀の価格が安すぎることにあります。
雑穀は、種類によって違いますが、おおむねコメの倍前後の価格で売られています。
それでも安すぎるのです。

日本の雑穀は、最近でこそ少し進められていますが、戦後品種改良がほとんど行なわれておらず、生産性は低いままです。
収量は、多くが10アールあたり250kg以下で、コメの半分もありません。
すなわち倍の価格で売ってもコメより儲からないのです。

第二に、コメのような生産の機械化がほとんど行なわれていません。
これも最近でこそ一部作られていますが、それでもほかの作物の機械を改造・流用したものに過ぎません。
そのため、農家はコメを作るときより、いろいろ苦労を強いられます。
機械が手に入らない雑穀農家の中には、戦前の道具を見つけてきて、それを大事に使っている人もいるくらいです。

第三に、一部の雑穀は、鳥に大変やられやすい特徴をもっています。
具体的にはアワやキビですが、こうした雑穀はスズメの大好物です。
実際、鳥のエサにも使われているくらいですから、実が熟した頃には、コメなど見向きもせずに、ものすごい勢いでやってきます。
コメもスズメに食べられますが、栽培面積が多いですから普通はあまり気になりません。
しかし雑穀はスズメにとってコメよりおいしく、栽培面積が少ないため、地域のスズメが集中してやってくるのです。

そのため、収穫時期には畑一面を網で覆わないと丸ごと食べられてしまいます。
スズメなどの鳥の少ない地域なら多少の被害ですみますが、網を張らなければとれないようでは、手間がかかりすぎます。

第四に、普及を進める市民団体などが無農薬でできることを強調しており、市場では無農薬が当然のように思われているのも無視できません。
雑穀の無農薬栽培は、決して不可能ではないのですが、全国どこでも可能とは言えません。
特に雑草や病害虫の多くなる暖地では、ほぼ不可能ではないかと考える農家も多いのです。

そんな農家に大打撃を与えかねない事件が2002年に勃発します。
いわゆる無登録農薬事件です。

日本の雑穀は復活するか p186

雑穀の将来は、どちらかと言えば悲観的ですが、一部には光明も見られます。
コメや麦と同じように大量生産を行ない、コストを下げる努力が行なわれています。

いちばん早く努力が始まったのはハト麦でした。
コメと同じく水の中で成長していくため、コメ用のノウハウで栽培が可能なためです。
機械も改造すれば流用可能で投資額も低くなります。
一部ではかなり力を入れて生産が行なわれていますが、生産量は伸び悩んでいます。

日本で最も熱心に雑穀生産に取り組んでいるのは岩手県です。
なかでも有望視されているのはヒエです。
ヒエには、コメの栽培技術や機械の流用が可能だからです。

また、ヒエの栽培に他の地域では抵抗があることも、競争上見逃せません。
ヒエというと、日本の一般農家にとっては、毎年コメ栽培のときに頭を悩ませる雑草です。
だから、昔栽培していた地域以外では、雑草を作るとは何事かといった心理的な抵抗があるのです。

雑草ヒエと栽培用のヒエとでは、同じヒエでも少々系統が異なっており、栽培用のヒエが雑草化することはありません。
しかし、心理的抵抗は簡単になくならないため、しばらくは他地域との競争は起きないと思われます。

ただし、いずれの場合も単独で採算をとるのはむずかしく、コメの転作の補助金を頼りに生産を続けているのが現状です。

ほかにも各地で大面積での取り組みが始まっていますが、いずれにしても需要に追いつくだけの生産は行なわれていません。

日本の雑穀生産が本格的に立ち上がるには、まずコメや麦に費やされた日本の農業技術を本格的に導入する必要があります。
収量を大幅に向上させ、機械化を進めるノウハウは、コメによって十分に培われています。

第二に、産地化の推進も必要でしょう。
現在、日本では毎年のように夏の渇水が問題になっていますが、水をコメほど使わない雑穀を渇水地帯に作るようになれば、農業用水と飲料水の間での水の取り合いも緩和されることになるでしょう。

そして、そうした試みは、最終的には日本の農業振興のみならず、アジア、アフリカの人口急増地帯での食料自給率向上にもつながってくるはずです。

稲塚権次郎 1897~1988 世界の貧困を救った「緑の革命」につながる麦「農林10号」を開発 p188

日本が大阪万博にわいていた1970(昭和45)年、アメリカの農学者ボーローグが、ノーベル平和賞を受賞しました。
彼の開発した高収量の小麦が、貧困に苦しむ国の食料事情を劇的に改善したからです。
この事件は当時、「緑の革命」と呼ばれました。

緑の革命が実現したのは、以前の何倍もの収量を実現する麦が開発されつつあったことが背景にあります。
稲塚権次郎氏は、そうした品種のもととなった麦、農林10号の開発者です。

稲塚氏は、富山県に生まれ、東大卒業後、秋田県にあった農事試験場・陸羽市場に配属され多くのコメの品種開発に携わります。
その後、岩手県の農事試験場に移りここでも多くの麦の新品種を作ります。
農林10号は、優秀な品種でしたが、より雪害により強い品種がすぐ登場したため、短期間で姿を消しました。

その後、稲塚氏は北京に赴任し、ここでも多くの新品種を開発しました。
敗戦によって引き揚げてからは、石川県の土地改良に携わり定年を迎えます。
定年後、富山に戻った稲塚氏はここでも地元の土地改良に取り組みますが、病に倒れた妻の介護をしながらの仕事でした。
当然、農林10号のことなど、忘れています。

しかし、開発者からも忘れられていた農林10号は、戦後アメリカの学者が見つけ、海を渡りました。
機械化に適した背の低い品種を作りあぐねていたアメリカの育種家たちは、農林10号に注目。
農林10号との交配によって背の低い麦を作ると、収量も普通の2倍、3倍にもなる例が続出しました。
そうしたなか、人口が多いのに穀物の収量が低かったインドやパキスタンに適した新品種を開発したのがボーローグだったのです。
“Norin10”と稲塚の名は、麦の世界に革命をもたらし、何億人もの人間を飢餓から救った品種として、世界に知られるようになります。

手が自由にできるからと、いつもリュックを背負っていたのがトレードマークだったと言われる稲塚氏は、その後もほとんど富山を離れず、外国に行くこともなかったようです。
そして、そうしたライフスタイルを崩すことなく、人生をまっとうしました。

この時代のコメや麦の育種家には、生前に正当な評価を得られなかった人も少なくありません。
そうした人たちと比べれば幸せな人生だったと言えます。
しかし、死の数日前、両親の写真を前に親不孝を許してくれと一晩中大声で謝っていたという話が残っています。
貧困に苦しむ両親を見捨てて、自分の道を行ったことが負い目になっていたようです。