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「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を読んだ

投稿時刻2024年2月5日 15:00

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を 2,024 年 02 月 05 日に読んだ。

目次

メモ

p58

二〇世紀の終わりには、精神科医は「こころ」を司る者だったし、世間の人々も精神科医にそのような役割を期待していた。
ところがこのように、現代の精神科医はもう「こころ」を診ていないし、司ってもいないのである。

治療を受ける患者の側も、そうした診断と治療に疑問を持つことは少なくなっているように私には感じられる。
私が研修医だった頃によく耳にした精神科医に対する不満は、「こころ」に関するものだった。
もっと「こころ」を知って欲しいとか、「こころ」をわかってくれないとか、そういったクレームを情報感度の高い患者が訴えていた。
だが今日、情報感度の高い患者は認知行動療法のような、エビデンスの蓄積したアプローチを期待している。

マスメディアで「こころ」を物語る専門家も、いつの間にか精神科医ではなくなった。
かわりに人々の「こころ」を物語ってみせるのは、バラエティ芸人や小説家といった、正真正銘のナラティブの専門家たちだ。
世間はもう、精神科医やカウンセラーに「こころ」を語るよう、以前ほどには期待してはいない。

p73

とはいえ、人間が「こころ」を捨ててしまったわけでない以上、現代人とて悩んだり葛藤したりすることはある。
ところが「こころ」について考えるにあたって、現代の精神医学の診断基準はほとんど役に立たない。
なぜなら「こころ」という、第三者の目に触れることのできないブラックボックスを排除し、第三者でも観察できる行動や振る舞いをよりどころとしたのが現代の診断基準だからだ。

p75

超自我とは、家庭や共同体や社会からインストールされ、内面化された「かくありたい」と思っているものや「かくあらねばならない」と思っているもので構成された、「こころ」の機能を指す。
うまく働いている時の超自我は、その人を「かくありたい」理想へと導くモチベーションの源になったり社会の通念や習慣に馴染ませたりすることで、社会適応を助けてくれる。
その反面、「かくあらねばならない」という束縛より罪悪感の源になることもあれば、「かくありたい」理想と実際の自分自身とのギャップが大きい時には劣等感や羞恥心やコンプレックスの源になったりすることもあり、超自我が生きづらさの源になってしまうこともありうる。

p81

先の章でおいおい触れていくが、現代の通念や習慣は、基本的に資本主義と個人主義、その両者をとりもつ社会契約といった思想に根ざしていて、法律をはじめとする制度もそれらを支持している。

p85

同様のことは、かつて自由なアングラの地と思われていたインターネットでも進行している。
一九九〇年代~二〇〇〇年代前半のインターネットには、「死にたい」に限らず、語義どおりに読めば精神疾患を疑いたくなる書き込みがあちこちに存在していた。
逆に言えば、世間では言いにくいことも気兼ねなく書き込めたのが二〇年ほど前のインターネットだった。

しかし今日のインターネットはそのようなものではない。
たとえばツイッターは、自殺に関する検索をしたユーザーに自殺防止センターの連絡先を表示するようにしており、フェイスブックも二〇一七年から自殺に関する投稿内容のモニタリングを始めている。
こうした試みは、ユーザーの自殺予防には一定の効果を奏するだろうが、他方、ツイッターやフェイスブックに「死にたい」に関連したことを書かせない・語らせなくするものでもある。

このように、「死にたい」というありふれた物言いは、希死念慮という医学用語に翻訳されることで自殺予防に役立てられるようになったと同時に、おいそれとは他人に聞かれるわけにはいかない、インターネットからも追放されなければならないものとなった。
美しい国の一億総活躍社会では、「死にたい」という言葉はほとんど聞かれないか、もし聞かれたとしても速やかに医療と福祉によってサポートされ、マネジメントされるだろう。

p119

昭和時代には、多くの人が自宅で死を迎えていた。
病に伏した患者はかかりつけの医者が診て、家族に囲まれ、地域共同体の人々の訪問を受けた。
ニュータウン化やタワーマンション化の遅れた、昭和然とした地域の家屋はプライバシーの概念が未確立だったけれども、それゆえ縁側などをとおして地域社会にそのまま繋がっていたから、病に伏した人は死に至るまで社会との接点を失いにくかった。

死そのものも社会のなかで取り扱われていた。
葬式は自宅で、そうでなくても菩提寺で行われるのが一般的だった。
葬式は見知らぬ葬儀業者によってではなく、葬儀を熟知している地域共同体の人々によって、地域共同体のしきたりに沿って行われていた。
そのような死のありかたを、欧米社会の「パブリック」という概念に基づいて論じることはできないが、少なくとも死が「プライベート」ではなかったと言えるし、盆や彼岸の行事も含め、死者を弔う行為は地域共同体での暮らしの一部をなしていた。

p120

日本では、高度経済成長期以降に、病と死が地域生活の場から遠ざけられていった。
戦後間もなくから一貫して自宅での死は減り続け、病院での死が増え続けた。
こうした状況に危機感を覚えた厚生省は、昭和六〇年以降、医療法や老人保健法の改定、診療報酬の改定などをとおして自宅死を推進しようとしているが、平成二八年になってもなお、自宅死の割合は一三%に留まっている。

p123

一方、健康には健康美としての価値やブルジョワ的な上昇志向のニュアンスも含まれていて、消費個人主義社会のなかで他人に差をつけ、ナルシシズムを充当するためのシンボルとしても機能する。
日常から病や死が切り離され、健康が経済的にも重要とみなされていくなかで、健康が「良い」こととして“普遍的価値”を帯び、私たちの通念や習慣に刻み込まれていくのは不可避だったと言えよう。

p126

成人においては、喫煙も、飲酒も、塩分や糖類の過剰摂取も、その健康リスクを考慮し他人に危害を加えない限りにおいて、自分自身の人生に是非とも必要なら選択されてしかるべきである。
そうした不健康な選択を“愚行権”という言葉で片付けたがる人もいるが、それが適切な物言いだと私は考えていない。
不健康=悪という捉え方は現代社会にありがちな通念ではあるが、人類普遍の通念ではないし、不健康な人生が必ず愚かなわけでも、不健康な選択のひとつひとつが必ず後悔をもたらすわけでもないからだ。
もし、現代の人間が本当に自由だとするなら、リスクを冒してでも生きたい生を生き、生ききって死ぬような人生も肯定されて然るべきであり、そのような人生を“愚行権”のひとことで片付けてはならない。
ましてや、健康が人生の主として振る舞い、私たちの行動や通念を支配し、あまつさえ他人の行動選択をののしり、軽悔するための大義名分になるようなことはあってはならないはずである。

p128

にもかかわらず、統計学や生理学が誕生してたかだか一〇〇年あまりのうちに健康リスクという概念が浸透し、“普遍的価値”の最右翼となったことに、私は一抹の不安を感じずにはいられない。

p132

ところで仏教では「生・老・病・死」を四苦と呼び、これらが苦の源であるとしている。
老・病・死がリスクであるとするなら、そもそも生きていること、生まれてくること自体もリスクと言わざるを得ない。
実際、これから述べていくように、生は現代社会におけるリスクとして、合理性をもって回避されようとしている。

p177

昭和以前ならマジョリティだったであろう、屈強な体格の成人男性は、今日では用心深く振る舞わなければならない。
そのような男性が不審者候補とされず、肩身の狭い思いもしないためには、自分が非暴力的な秩序の側の人間であることを、身なりや行動をとおしてディスプレイし続ける必要がある。
清潔で臭わないことも重要だ。
不清潔で臭ければ不審の念を抱かせ、周囲に不安を与えてしまう。
もちろん女性とて例外ではなく、悪臭がぷんぷんする女性、不安や威圧感を与える外観や挙動の女性は街の秩序から浮き上がってしまう。

洗練された現代人は誰しも、そのような清潔かつ無臭、威圧感や不安感を与えないような身だしなみや挙動を子ども時代からトレーニングされ、ハビトゥスとして身に付けている。
現代人にふさわしいハビトゥスを身に付け、実践していれば屈強な体格の男性といえども不審者扱いされる心配はない。

しかし、誰もがそのようなハビトゥスを身に付け、実践できるものだろうか?
たとえば経済資本にも文化資本にも恵まれた家庭で育った人は、そうしたハビトゥスを比較的短時間で身に付けることができる。
というより子ども時代から意識するまでもなく身に付けてしまっている。
デオドラントや身だしなみにお金や時間を費やすことも容易だ。

だが経済資本にも文化資本にも恵まれない家庭で育った人はこの限りではないし、デオドラントや身だしなみにお金や時間を費やす余裕がない人も実際には多い。
そのような人々が、ここで言うマジョリティの仲間入りを果たすためには、経済資本や文化資本に恵まれている人々よりずっと努力しなければならないし、到底それがかなわないこともあるだろう。

加えて、先天性に関連した問題もある。
たとえば第二章で紹介した発達障害に該当する人は、ADHDではその不注意さや落ち着きのなさゆえに、ASDではコミュニケーションの難しさや独特の感覚のゆえに、身なりを整えること、清潔なライフスタイルを維持すること、威圧感や不安感を与えないことに苦労しやすいかもしれない。

p189

そうした習慣や通念は社交界に出るために必須であり、中~上流階級のステータスでもあったから、人々は礼儀作法を子ども時代から叩き込もうとした。
その結果、清潔でなければ恥ずかしい他人に不快感を与えるのは恥ずかしい・威圧感を与えるのは不躾だと本心から思う世代が育てられることになる。
世代を経るにつれて礼儀作法はますます内面化され、超自我を司るようになり、人々の行動を礼儀作法の枠内へと閉じ込めていく。

p215

売買や商取引も同様である。
地域共同体での買い物とは異なり、世間話をしなくても構わないし、義理のために買う必要も、付き合いのために値引く必要もない。
資本主義と社契約のロジックが徹底しているおかげもあって、私たちは金銭を媒介物として、効率的売買をやってのける。

相互不信を避けるべく、私たちが支払っている代償 p215

こんな具合に、現代人はお互いを必要最低限にしか知り合わないコミュニケーションに慣れきっているわけである。
たとえばコンビニで買い物をする際、私たちは店員の趣味や悩みを知らないし、むしろ詮索するのは失礼だとみなしている。
ご近所同士もまた然り。
媒介物となる話題がない限り、ご近所同士はお互いについて何も知らず、知ろうともしない。

p230

インターネットの空間設計は、本章のはじめで紹介した環境管理型権力と規律訓練型権力で言えば前者の側面が強調されがちだが、お互いを覗きあい、値踏みしあい、効率性を意識しあうコンテンツ媒介型コミュニケーションの繰り返しをとおして、私たちは私たち自身を監視しあい、訓練しあい、馴らしあい続けている。
そういう意味では、後者の側面も併せ持っている。

私たちの暮らす街、私たちの住む家屋にしてもそうだ。
よくできた精神科病院の空間設計が患者の行動や症状を変えるのと同じように、街や家屋の空間設計は私たちの行動を変え、通念や習慣をかたちづくり、個人主義的でプライベートに敏感な、資本主義にも社会契約にもよく馴染んだ個人を再生産していく。

とりわけ東京のような、あらゆる場所が人工的で、資本主義と社会契約のしるしに覆い尽くされた街では、街そのものが環境管理型権力として機能し、街そのものが規律訓練型権力としても機能している。
すべてがコードで設計されたインターネットに比べれば隙間はあると言えるけれども、従来の町村部に比べれば隙間はずっと少ない。

そのような街で暮らす人々の人生とは、ますます清潔に、ますます行儀良く、ますます功利主義的な個人として訓練され続ける人生だ。
職業選択の自由・売買の自由・コミュニケーションの自由が保証されているこの社会は、その前提条件となっている秩序への適応を私たちに迫り、資本主義や個人主義や社会契約のロジックにふさわしい個人であるよう求めてやまない。
私たちはその大前提にたったうえではとても自由だし、機会の平等にも開かれているけれども、その自由や平等の与件となっている通念や習慣には強く束縛され、それらを補完する法制度や空間設計が日に日に強化されていく社会を生きている。
このような社会の歩みのなかで暮らしている私たちは、ますます自由になっていると本当に言えたものだろうか。

本当にやってきたポストモダン p232

私たちは今、規律訓練型権力と環境管理型権力がかつてないほど力を持ち、生活やコミュニケーションの隅々まで覆い尽くした時代に生きている。
それらによって売買とコミュニケーションは限りなく自由になった反面、オンラインでもオフラインでも空間設計によって行動をコントロールされるようになり、一連の功利主義的状況から逸脱することも難しくなった。
行動経済学で言う「ナッジ」もまた、環境管理型権力に関する経済学からのアプローチだと理解できる。
そうやって私たちは、まんまとショッピングモールで買い物し、オンラインゲームのアバターにお金をかけ、インスタグラムにはよく映える写真を投稿し、フェイスブックにはご立派なメンションを書こうとする。

p266

子どもほどではないかもしれないが、恋愛もまたリスクだ。
結婚には離婚が、交際には破局が、思慕には失恋がついてまわる。
自己愛パーソナリティ化した現代人にとって、そうしたナルシシズムに傷がつく体験は是非とも避けたいものだ。
男女はお互いに、見た目や肌ツヤといった視覚的にわかりやすい指標や年収や職業といった数値化しやすい指標に惹かれあうと同時に、自分自身が人間市場のなかでどれぐらいの値札がつき、どれぐらいのパートナーと釣り合うのかをよく考え、無用なリスクは避けようとする。

内閣府の少子化社会対策白書によれば、結婚を望んでいる大半の人々には出会いがなく、出会いを探してすらいないというが、これは、合理的な行動選択のように私には見える。
アメリカのような、パートナー文化の社会的圧力の強い国ならいざ知らず、そうした文化が乏しく、社会的圧力も弱い国では、わざわざパートナーを求めなければならない理由は乏しい。
そもそも異性に声をかける行為自体、大変にリスクが高い。
かつてはオフィス・ラブなどという言葉もあったが、今日、職場の同僚異性に声をかける際には、セクシャルハラスメントとみなされるリスクを冒さなければならない。

現代社会のやりとりは、社会契約のロジックに従うのが望ましいコンビニでは売買についてやりとりすべきで、職場では仕事についてやりとりすべきで、男女の出会いのような、私生活を侵犯しかねないやりとりは夾雑物とみなされている。
そうすればお互いの多様な生き方を尊重しあい、リスクを回避しあい、相手を傷つけるかもしれないやりとりを避ける危害原理を遵守しあえるからだ。

だからこれは恋愛に限った問題ではない。
社会契約のロジックに従い、お互いに迷惑をかけず、ハラスメントを避けあう現代的な態度を洗練させれば、街でよその子どもに声をかけることはもちろん、大人同士のやりとりも安易にはできなくなる。
売買や仕事はスムーズに行えるし、趣味の集まりでコンテンツを媒介物としたコミュニケーションに終始することはできよう。
しかし、売買の外側、仕事の外側、コンテンツを媒介物としたコミュニケーションの外側で他人に接することは難しくなってしまう。

p272

それでも私たちは、通念や習慣の奴隷になってはいけないし、現代社会のありようを当たり前だと思いすぎてはいけないのだと思う。
法制度の枠組みを遵守し、空間設計に覆われながら暮らすことと、それらに盲従し、何も考えなくなることはイコールではない。
三平方の定理や原子配列といった自然科学領域のファクトと違って、ある社会、ある時代で常識とみなされている社会科学領域のファクトは永遠不変ではない。

通念や習慣に従いつつ、心のなかで舌を出していても本当は良いはずである。
たとえば芥川龍之介は「最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである」と記しているが、そのような態度は通念や習慣に呑み込まれないためにあって構わないものではないかと思う。
現代の秩序に引っかかりどころのある人が、引っかかりどころのあるまま生き、心のなかで舌を出していても構わない社会であって欲しい。
秩序への盲従を強いるような社会ではあって欲しくない。

p281

医学部の学生時代から私は、たびたび「生物―心理―社会モデル」という言葉に出合ってきた。
この言葉はジョージ・エンゲルという精神科医が一九七七年に提唱したもので、おおざっぱに言えば「疾患や臓器しか診ない医療ではなく、個人の心理的、社会的状況にも目配りした医療」を提言したものだ。
大筋として、この言葉に反対する人はいないのではないだろうか。

p297

*14 ハビトゥス:
日常生活のなかで意識するまでもなく自分のものとなっていて、身体化されているさまざまな慣習行動を指す言葉。
社会学の領域ではピエール・ブルデュー以降に特に用いられるようになった。
たとえば言葉遣いや用いる語彙のバリエーション、身振りや身だしなみ、趣味趣向やライフスタイル、倫理判断や趣味判断などは、ハビトゥスとみなすことができる。
本書の内容で言うと、毎日の入浴習慣、健康に根ざした趣味や習慣、効率性や合理性に根ざした生活態度、それらを子ども時代から当たり前のように身に付けていて意識するまでもないとしたら、それらは典型的なハビトゥスである。
*15 文化資本:
フランスの社会学者、ピエール・ブルデューによって体系化され、発展した概念。
ブルデューの解説書である石井洋二郎『差異と欲望—ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む』藤原書店、1993年には、以下のように記されている。
“「文化資本」とはひと口に言えば、経済資本のように数字的に定量化することはできないが、金銭・財力と同じように、社会生活において、一種の資本として機能することができる種々の文化的要素のことである。
たとえば、学校などの教育機関によって教え込まれたさまざまな知識。
あるいはもっと広く、書物やテレビその他、多様なメディアを通して獲得された全般的な教養。
また、育った家庭環境や周囲の人間関係を通して涵養され形成された趣味とか、芸術との接触や種々の人生経験によってつちかわれた感性なども、やはり文化資本の一種と考えることができる。”(25頁) 

文化資本は直接的に経済資本を増大させないが、人や組織へのアクセスを左右したり、社会的地位や信用を獲得する一助となることで、間接的に経済資本の増大に貢献する。
また、同じような文化資本を持つ者同士の人間関係を結びつけるという意味では社会関係資本 (第一章注* 19 参照) とも関連する。
ブルデューは文化資本を 1 身体化された状態 2 客体化された状態 3 制度化された状態に分類しており、このうち 1 は、いわばハビトゥス化した文化資本である。

p301

*21 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト:
ドイツの社会学者、テンニースが分類した共同体や社会のあり方。
ゲマインシャフトは、血縁や地縁にもとづいた近代以前から存在する共同体や社会。
時間、意思、作業、財産などがメンバーによってシェアされ、資本主義、個人主義、社会契約のロジックは明瞭ではない。
本書で記している昭和以前の地域共同体はゲマインシャフト的な性格の強い共同体、または社会ということになる。
一方ゲゼルシャフトは、時間、意思、作業、財産などを個人がそれぞれ独自に持っており、資本主義、個人主義、社会契約のロジックがはっきりと適用される共同体、または社会である。
本書で述べている現代の日本、ひいては東京は、昭和以前の地域共同体と比較してゲゼルシャフト的な性格の強い共同体、または社会ということになる。