「勝てば官軍」を2025年07月09日に読んだ。
目次
- メモ
- p27
- 「原価の二倍」で売る時代がきた p31
- 金持ちの間で流行させることを考えよ p42
- 金持ちから儲けることを考えよ p43
- 「女」と「口」を狙え p47
- 金に「きれい」、「汚い」はない p51
- 簿記3級の資格は必須である p64
- 24時間メモをとれ p71
- 六〇パーセント確実ならば決行せよ p78
- ビジネスに満塁ホームランはない p102
- 「勝てば官軍」の論理しかない p106
- では、負ければどうなるか? p108
- コンピュータが地域性をふっとばした p118
- 超スピード時代の決算は毎日やれ p122
- 「金の卵」をさがすより、教育して戦力とせよ p135
- みんなが食べている一番安い物にハズレはない p146
- 一パーセントを狙っても充分ペイできる p155
- 預金も株も不動産もダメな時代の蓄財法 p166
- 増えないなら、金で安全を買うという考え方 p167
- 成功の秘訣は才能と努力、プラス運である p174
- 高い金をとって値打ちのないものを売るのは学校だけだ p212
- p242
メモ
p27
そこでわたしは「まだまだ値下げしていない商品がある。それをすべて半額で継続的に売り出し、その過程でハンバーガーを思い切って値下げして継続しよう」と考えた。
これでもか、これでもかと安売りしてその分、三倍、四倍の客を獲得するのだ。
これが〈戦争〉でなくてなんであろうか。
まさしく価格破壊戦争である。
勝てば官軍なのである。
以後、年間を通してわたしは、他の追随を許さない低価格路線を断行した。
四月、七月、一〇月と三度にわたって主力商品の価格改定を行ない、たとえばハンバーガーは二一〇円から一三〇円、ビッグマックは三八〇円から二八〇円へと大幅に定価を引き下げた。
「原価の二倍」で売る時代がきた p31
相次ぐ値下げを断行するにあたり、値下げはどこまで可能なのか、適正価格はいくらなのかということになってくると、これまでの経験や勘は通用しない。
わたしが定価二一〇円のハンバーガーを一三〇円に値下げした背景には、独自の「顧客満足度曲線」という綿密なマーケット・リサーチの裏付けがあったのだ。
お客を対象に「あなたはいくらなら買いますか?」「あなたはいくらなら満足しますか?」というリサーチを行ない、グラフに表してみる。
ハンバーガーに関しては、一六〇円までは購買意欲は上がらないが、一五〇円を切ると急激に売れるという結果が出た。
満足度は一三〇円で八〇パーセント、一〇〇円で一〇〇パーセントである。
ならば一三〇円で行こうということになったのだ。
一〇〇円セール、八〇円セールを実施したのも、こういった裏付けがあったからだ。
世の中、出回っている大方のモノは三〇パーセントくらいの満足度であるという。
八〇パーセントの人が満足してくれる価格設定は珍しいということから、マクドナルドのハンバーガーが、いかに適正価格であるか、ということがおわかりだろう。
原価との関連でいえば、いままで日本では「小売価格は原価の三倍」というのが常識だった。
ところがデフレ経済のいま、原価の二倍に設定しなければ買ってもらえない時代が来ているのだ。
それにはどうするかというと、徳川時代以降連綿と続いてきた「メーカー→大問屋→中問屋→小問屋→小売り業」という流通経路を「メーカー→小売り」という経路に変えなければならない。
マクドナルドは自分でつくって、自分で売っているから間にミドルマンがいない。
だから原価の二倍で売れるのだ。
その意味では低価格戦略はこの伝統的流通経路の「革命」、つまり流通革命なのである。
金持ちの間で流行させることを考えよ p42
わたしの成功の基盤には、「宇宙はすべて七八対二二に分割されている」という大原則が、厳としてある。
「この原則(法則)をはずれたら、金儲けはできない。
儲けたくないのなら、なにをやってもいい。
世の中には、石をきざんで喜んでいる人もいるのだから。
でも、儲けたいなら、けっして原則をはずれてはいけない」と、欧米の名だたる商人たちから教えられたのだ。
たとえば、空気の成分は窒素七八に対して酸素その他のもの二二の割合になっている。
人為的に「窒素六〇、酸素四〇」の空間をつくりだしたところで、人間はそのような空間では生活できない。
また面積を一〇〇とする正方形に内接する円の面積は七八・五、正方形の残りの面積は二一・五である。
空気も正方形もそれに内接する円も、みな自然界に存在している現実である。
その割合がすべて七八対二二――厳密にいうと、プラスマイナス一の誤差があるから、ときには七九対二一になり、ときには七八・五対二一・五になることもある――だということは、これは宇宙の法則、不変真理の法則なのである。
また、世の中には「金を貸したい人」が多いか、「金を借りたい人」が多いかといえば、「貸したい人」のほうが断然多い。
一般には「借りたい人」のほうが多いと思われているようだが、サラリーマンでも、「儲かる」となれば「貸す」という人が圧倒的に多いはずだし、マンション投資などのインチキ金融にひっかかる人が後を絶たないように、事実は逆で、「借りたい人」より「貸したい人」のほうが多いのだ。
銀行が成り立っているのは、言いかえれば多くの預金者から金を借りて一部の人に貸しているからである。
この世の中は「貸したい人」七八に対して「借りたい人」二二の割合で成り立っているといえるのだ。
金持ちから儲けることを考えよ p43
金はある手から洩れてくる。
金の絶対数がないところでは、いくら知恵をしぼっても洩れてきはしないのである。
なんであれ、ビジネスは現実に金を持っている人から取らないとなりたたない。
金を持っていない人びとを相手にしていては、どんなにあがいても商売できるものではない。
その意味でわたしは、毎年、税務署に確定申告をする年収二〇〇〇万円以上の人びとが基本的なお得意さんだと考えている。
このクラスの人を相手にすれば、はっきりいってかなり儲けさせてもらえる。
一般大衆にくらべて、数こそ少ないが、金持ちが持っている金のほうが圧倒的に多い。
宇宙の大法則に従えば、一般大衆の持っている金を二二とすれば金持ちのそれは七八だからである。
「現実に金を持っている人を相手にして、ちょっとしたお金持ちならかならず欲しがって、しかも現実に手の届くものを売ること」、それこそが商売の秘訣なのである。
その意味では、日本人は相対的に豊かになって、他の国にくらべればお金持ちになっているから、金儲けはやりやすいのである。
発展途上国での金儲けがむずかしいのは、金持ちの絶対数が少ないからなのだ。
「女」と「口」を狙え p47
商売には究極のところターゲットは二つしかない。
「女」と「口」を狙う商売である。
男は働いて金を稼いでくる。
女は男が稼いできた金を使って生活を成り立たせる。
これは古今東西を問わず「真理」である。
「公理」である。
商才が人並み以上にあると思う人は、女を狙って商売すれば必ず成功する。
「男」から金を巻き上げるのは「女」を相手にするより十倍以上もむずかしい。
なぜならば、給料は銀行振込で、小遣いは妻からもらっているというサラリーマンが圧倒的に多いように、男は金を消費する権限を持っていないからである。
それに反して女は稼ぐ苦労を知らないからムダな金を使う可能性がある。
商売とは、他人の金を巻き上げることだ。
儲けようと思えば女を狙い、女の持っている金を奪うことである。
女はだれでもみな、美しくなりたいと思っている。
化粧をして飾りたてれば美しくなれると思い込んでいる。
不美人だけがそう思うのではない。
ある美容整形医によれば、整形に来るのは「両親からいただいた立派な顔があって、どこをなおすんだ、なおす必要ないじおやないか」というような美人が多く、整形したほうがいいような人はかえって来ないそうだ。
女は化粧品にも金を惜しまない。
どんな不美人でも口紅をつける。
いろんな化粧品で顔を塗りたてる。
どうせ土台が悪いんだからよくなるわけもないのに、高い化粧品代を払って化けようとする。
あるいは貴金属を身にまとう。
別に飾りたてたからといって人間の値打ちが上がるわけではないのだが、女は、そういうふうに飾る動物なのだ。
飾らなければきれいに見えない動物なのだ。
古くは天岩屋戸の前で踊った天鈿女命も曲玉をつけて飾り立てていたではないか。
これはいうならば女が神様から与えられた「負の遺産」である。
だから、女がその「負の遺産」を持ちつづけるかぎり、女は狙いやすい。
妖しくきらめくダイヤモンド、指輪、ブローチ、ネックレス、ブランド物の高級ハンドバッグ、豪華なドレスや流行の先端をいくファッション、高級化粧品――それらのすべてが、あふれるばかりの利潤をぶらさげて待っているのである。
とはいえ、女を狙うには商品の選択からセールスまで、ある程度の才能が必要である。
そこへいくと「口」に入れるモノを扱う商売は、さしたる商才を必要とはしない。
会社勤めにあきたらず、脱サラを夢見る人のほとんどがまず、「喫茶店でもやるか」「ラーメン屋でもやるか」と考えるように、だ。
口に入ったものは必ず消化され、排出される。
一個一〇〇円のアイスクリームも、一枚一万円のステーキも、数時間後には排泄物となる。
つまり、口に入れられた商品は刻々と消費され、何時間か後にはつぎの商品が必要になってくる。
売られた商品がその日のうちに消費され、排出されていく。
こんな商品はほかにはない。
土曜日も日曜日も、一日の休みもなく稼いでくれるのは銀行預金の利息と「口に入れる商品」だけだ。
だから確実に儲かる。
太古の昔から「口に入れるモノを扱う商売」は、かならず金が入って儲かる商売なのである。
金に「きれい」、「汚い」はない p51
徳川二六〇年の封建制度の基盤は農業、すなわちコメであった。
武士階級は農民からコメを年貢として取り立てることで支配者として君臨してきた。
商業は、その支配の基盤をゆるがす危険なものだった。
だから、ときには田沼意次の時代のように、商品経済がとって替わったように見えても、それは一時のことで、松平定信が農本主義に回帰させてしまうのである。
武士階級が支配のイデオロギーとした農本主義的意識は、徳川封建制が滅んで資本主義化した一五〇年後のいまも、日本人の意識の根底にどっかと根を下ろしている。
その典型的なあらわれが、「金」に対する意識である。
日本人は「金」というと、すぐに「きれいな金」か「汚い金」かという。
金を儲けることを軽蔑する。
しかし、そんな考え方が世界に通用しないことはいうまでもない。
資本主義社会では、金がすべてである。
金さえあれば、人生の問題の九九パーセントは解決する。
それが資本主義というものだ。
日本人はまず「金」に対する農本主義的な考え方を捨て、金儲けができないのはバカだと思うようにならなければならない。
「きれいな金」と「汚い金」といった金銭観は、いいかえれば「法」を守っているかいないかという一種の倫理観に発している。
その倫理観は、これもまた徳川二六〇年の産物だが、「法は完璧だ」という思い込みの上にできあがったものだ。
だが、どんな法律も人間がつくったものだ。
万人に等しく適応して、一〇〇パーセント完璧ということは絶対にありえない。
いかなる秀才が知恵をしぼってつくろうとも、法律はすべての人間を規制することは不可能である。
大多数は規制できても、かならず規制できない部分がある。
それをアメリカで「ループホール」という。
日本語に訳せば「穴」である。
いや、「例外」といったほうがいいか。
そのループホールをつけば金が儲かるというので、アメリカにはループホール専門の弁護士がいる。
というと、日本人には「法の抜け道」をいく悪徳弁護士に見えるだろうが、「この法律にはこういうループホールがありますよ、やりませんか」というのはまったく合法なのである。
法の「ループホール」をついて、例外条項に該当するように考え、税金を低くすることは決して脱税ではないのである。
政府のほうは、そのループホールをつく人が多くなると、ネズミの穴をうめるように法を修正するのである。
ループホールをつかなくても、法律の範囲内で知恵を働かせるのは当然の行為である。
たとえば、バブル期に買っていたゴルフ会員権を、値下がりしたいま、やむなく手離したとしよう。
儲けが出れば、資産の譲渡による所得として譲渡所得の対象となるが、このケースのように赤字が出た場合には、他の所得と通算できるので、確定申告のときに、赤字分を他の所得から差し引いて申告すれば、税金がその分、少なくなるのである。
これは、土地や建物の場合にも適用できるので、堂々と申告すればよいのだ。
取られたら取り戻す、は鉄則である。
よほどのへそまがりでないかぎり人間はみな、金がほしい、儲けたいと思っているはずである。
「世の中で金と女は仇なり、早く仇にめぐりあいたい」という戯れ歌があるが、その通り、みんな「早く仇にめぐりあいたい」のである。
となれば、「きれいな金」、「汚い金」といった金銭観はすぐさまきれいさっぱり捨ててしまうことだ。
捨ててしまって、金儲けは人生の最重要事項だと心得ることだ。
だから、政治家にたのんだほうが有利だという場合はたのんだほうがいい。
合法的な政治献金でも「悪」だと聖人君子ぶっていては、金儲けのチャンスを逸することにもなる。
政治家と政治的信条が違うから政治献金をしてまでたのまないという人もいるが、政治とビジネスはまったく無関係である。
金儲けにイデオロギーはいらないのである。
簿記3級の資格は必須である p64
事業を永遠に続けていくためには将来の人材を養成しなければならない。
組織のなかの誰がいなくなってもすぐその穴をうめられる代役をつねに育てていなければならない。
だから、わたしは、社員を徹底的に教育する。
大学を出たからそれで教育は終わりなどということは、わたしの会社ではありえない。
教育は死ぬまで続くのである。
その教育の内容はなにかといえば、資本主義の基本である「数字」の教育である。
わが社の社員は、わたしにいわせれば最低「簿記三級」の資格をもっていなければならない。
わたしは、社員がその資格をとるように、講師を呼び勉強させた。
その結果、合格者は八〇パーセントだった。
わたしは、あんなやさしい試験なのになぜ二〇パーセントも不合格なのだろうと不思議だったのだが、考えてみると、大学出にとって簿記は勉強すべき対象ではないという社会的な通念から抜けきれていないからなのだ。
わたしが、わが社の社員は全員「簿記三級」の資格を取るべきだ、取れといったのは、わたしが幹部社員だと思っている社員が、ある日突然、「社長、減価償却ってなんですか」と聞いたことにはじまる。
「エッ?減価償却を知らないの」、「知りません」
わたしは彼の質問に答えるよりもなによりも、彼が「減価償却」のなんたるかを知らないという事実に愕然としてしまったのだが、気をとりなおして説明し、「じゃあ、キャッシュフローって知ってるか」と訊いてみた。
案の定、「知りません」という。
減価償却もキャッシュフローも、仕事をしていく上では大切な知識だ。
とくにキャッシュフローは、帳簿上の数字はマイナスでも、それがプラスであれば商売がなりたつケースがあるので、それがわからなければ仕事はできない。
わたしは、簿記という言葉が悪いのだなと思った。
簿記といえば、ソロバン時代を連想させるし、ただ丹念に記帳して加減乗除をやった結果が合えばいいという、家計簿的な発想しかないのだ。
商業学校の一科目のように低くみられてしまう。
わたしにいわせればその家計簿でも、このマンションの減価償却はいくらで何年で返してという計算ができなければ無意味なのである。
それなのに……。
わたしは、簿記というのは経営計数学なのであって、会社を経営していくためには絶対必要なものなのだ、これができなければ、将来を「読む」ことはできないのだということをこんこんと説明して、幹部社員全員に「簿記三級」の資格を取るようにと“命令”したのだ。
そんな面倒なことをしなくても、社員はよく働けばそれでよいのだという発想をわたしはとらない。
社員の成長なくして会社の永遠の発展はありえないのである。
24時間メモをとれ p71
ベッドルーム、風呂場、トイレット、食卓、リビングルームと、わたしの家には、いたるところにメモ用紙と鉛筆がおいてある。
メモ用紙といっても、新聞に入っている広告とか不要になったカレンダーを、手があいているときに小さく切ってメモ用紙にするのである。
わたしが、テレビを見ていても、食事中でも、本を読みながらでも、寝ているときでも、いつでもどこでも思い出したり思いついたりしたことをすぐにメモするからである。
メモをとるのは、わが家にいるときだけではない。
人と話をしているときでも、これはいい話だな、ヒントになるなと思えばメモをとる。
そのメモを、わたしは毎日見る。
一週間ごとにまとめて整理して見直して、この話はこうなったな、この話はどうなっているのかと点検する。
人の名前など、覚えるまでメモをもっている。
二年前に亡くなった母の戒名をどうしても覚えられないので、そのメモはいまだにもっているといったぐあいに、だ。
たった一枚のメモにわたしの全生活が入っているといってもいい。
だから、わたしは手帳は持っていないが、メモ用紙はかならず持っている。
しかも、たしがメモをとるのはメモ用紙にというだけではない。
誰かと食事をしているときに、ああ、これはメモしておこうということがあれば、たとえば割り箸の袋にメモをする。
マッチの箱にもメモをする。
とかく日本人には、重要なことを聞き流し、うろおぼえのままですませてしまう悪癖がある。
ときにはわざと曖昧さをおとぼけに利用することすらある。
だが、ビジネスに曖昧さは禁物なのだ。
話の要点は、きちっと記録しておくことが必要なのである。
それは手帳でなく一枚のメモ用紙でもいいのである。
アメリカ人もよく「おまえはメモ魔だなあ。
メモばかりとっているじゃないか」と呆れるが、わたしにとってメモをとるのは子どものころからの習慣なのだ。
わたしは、子どものころから記憶のいいほうであまり物忘れはしなかったのだが、いま考えてみるとそれは、わたしにそういう習慣があったからだ。
いまでも、人は「藤田さんは記憶力がいい、よくおぼえている」というけれども、それは「おぼえている」からではなくて「物忘れ防止法」を知っているからなのである。
六〇パーセント確実ならば決行せよ p78
そうなるには、やはり「民主主義」というものが根底になければならないのだが、日本の「民主主義」は、国民が戦って獲得したものではなく、敗戦によってマッカーサーから与えられたものだという特殊なものであるところが、難しいところである。
わたしは、戦前、戦中の軍部独裁から戦後民主主義の時代へという社会の変わりようも、アメリカ民主主義も体験してきているのだが、そういう体験からすると、戦後五〇年たったとはいえ、日本の民主主義はまだうまく機能していない。
なによりも、民主主義は、あらゆることを自由にフランクに議論できる、タブーはないということなのだが、日本にはディスカッションできない“タブー”があまりにも多すぎる。
しかもその“タブー”は、ほとんど戦前からのものである。
そういう“タブー”の多さが、官僚による“規制”となってあらわれている。
日本が、官僚の支配する国といわれるのは、そこに原因があるのだ。
そういう意味では日本という国は民主主義国というには未成熟な、いうならば「官農工商」の国なのである。
この徳川二六〇年をそのまま引き継いだような社会システムを徹底的に壊していくためには、企業のシステムのアメリカ化、つまり中間管理職をなくしてトップとその他大勢が直接つながるシステムを構築していかなければならないのだ。
トップがすべてを掌握し、なおかつみずからも第一線で仕事をするということはできない相談だという反論が出ることは、わたしも承知している。
しかし、わたし自身は、コンピュータを駆使してトップダウン方式で日々仕事をしているのである。
その経験からいえば、トップたるもの、やってやれないことはない。
トップには、それを可能にするだけの経験と知識があるではないか。
中間管理職が多く、稟議書システムをとることの弊害は、トップの決断力を鈍らせるというところにもあらわれる。
人の意見を多く聞けば聞くほど、あれかこれかと右顧左眄して懐疑主義的になり、即決即断できなくなる。
なにもしなくなる。
ところが自分が現場にいれば、人の意見の取捨選択は可能である。
即決即断して、誤ったと思ったら即座にあらためることができる。
たとえそれが朝令暮改であろうと、朝改暮改であろうと、決断しないよりはいいのである。
オーナー社長は大胆であっていい。
自分の会社だから会社の損は自分の損。
だからなにをするにもよく考えて行動する。
行動すればよいのである。
わたしにいわせれば、人生は六〇パーセント確実ならばやるべきである。
やらなければどうしようもない。
また、六〇パーセント確実だと思ったことは成功するのである。
それを一〇〇パーセントの確率まで待っていたならば、チャンスはよそに逃げていってしまう。
トップたるものの知識と経験は、「決断」するためにあるのだといっても過言ではないのである。
ビジネスに満塁ホームランはない p102
わたしの信条の一つに「ビジネスに満塁ホームランはない」という言葉がある。
「満塁ホームラン」は野球の言葉であって、ビジネスの言葉ではない。
ビジネスはあくまでも一歩前進また一歩前進、尺取り虫のように一歩一歩重ねていって成功にいたるものであって、ビジネスに成功するには「時間×努力」が巨大なエネルギーとなることを自覚しなければならない。
ところが多くの人は、巨大なエネルギーをほしいと思っていながら、それが「時間×努力」であることを知らないまま、一振りで満塁ホームランを狙うから失敗してしまうのだ。
わたしは、マクドナルドの社員たちにも事あるごとに口を酸っぱくしていっている。
「満塁ホームランを狙うな、一歩一歩でいい。
努力と時間をかければ巨大なエネルギーになるのだ」と。
ハンバーガーを一〇〇円で売れば三〇〇〇万個売れた。
八〇円で売れば五〇〇〇万個も売れた。
これはその前に、二一〇円で売り、一三〇円で売ってと一歩一歩、時間をかけて努力してきた結果なのだ。
だから大成功にいたったのであって、いきなり八〇円で売って満塁ホームランを狙っても、この結果は出なかっただろう。
「勝てば官軍」の論理しかない p106
日本人は、基本的に「性悪説」ではなく「性善説」をとっている。
それは、講談や浪花節でもわかるように、とにかく長い間、「勧善懲悪」というモラルになれ親しんできたからだ。
どんなに苦しもうと善は最後にはかならず勝ち悪は滅びる――そういうモラルで、生きてきたし、いまも生きている。
テレビの『水戸黄門』があれほど長く人気をたもっているのは、ストーリーが「勧善懲悪」の最たるもので、つねに悪代官や悪商人を黄門さまが懲らしめて終わるからだ。
しかし、ビジネスの世界ではそうはいかない。
ここでは、相手も絶対に儲けようと思っているのだし、自分もそう思っている。
自分が儲けるためには、相手をどん底に陥れる。
そうしなければ自分がやられる。
おたがいに食うか食われるかの修羅場で戦っているのだ。
そんな修羅場に「性善説」でのぞめばどうなるか。
「汝、右の頬を打たれなば左の頬を出せ」などといっていたのでは、あっというまに足をすくわれ、骨の髄までしゃぶりとられてしまうことは目に見えている。
だからわたしは、人間の本性は「悪」だという立場をとる。
そういう立場をとってはじめて、自分をプロテクトしてビジネスができるという信念をもっている。
性善説や勧善懲悪はあくまでも『水戸黄門』の世界で生きているフィクショナルなものであって、われわれの生きている現実の世界のものではないのである。
国際政治における日本が、とかくピエロじみて見えるのは、そのフィクションを現実だとカンちがいしているからなのだ。
現実は、ちょっとでも油断するとなにもかもむしりとられてしまいかねないものなのである。
だから仕事をする以上は、「性悪説」に立たないかぎり絶対に騙される。
敗者になってしまう。
一度敗れれば、復活するのは難しい。
とくにビジネスが国際的なものになるだろう今後は、ますます「性悪説」の立場にたたなければならないことは、自明のことだろう。
ビジネスの世界には「勝てば官軍」の論理しかない。
「敗者の美学」といったものは、文学の世界でだけ意味がある。
文学でメシが食えるか、金儲けができるかと、わたしは声を大にしていいたい。
なんとあくどいことを、と思われるか。
だが、人間、悪に強ければ善にも強いのである。
逆もまた真なりではないのである。
では、負ければどうなるか? p108
ビジネスの世界は「勝てば官軍」である。
負ければ即「倒産」しかないのである。
負けてからいくらりっぱな理屈をならべたり、いいわけをしたりしても、なんの意味もない。
わたしたちは、親方日の丸の公営企業で働いているわけではないのである。
公営企業は、いいわけや敗者の論理をならべたてていればどんなに赤字を出しても絶対に倒産はしない。
自民党の小泉純一郎元首相が「三等郵便局を民営にしろ」と主張して、当の郵便局長はもちろんのこと同じ自民党内の政治家たちから猛烈な反発をくらっているが、わたしは小泉議員の主張をもろてをあげて支持する。
なぜならば、小泉元首相は「民営化して“勝てば官軍”の論理を貫徹させよ。
いくら赤字を出そうが、あれこれへ理屈をならべたててのんべんだらりとやっていようが、“親方日の丸”だから絶対倒産しないという“敗者の論理”を一掃しなければならない」といっているのだから。
くりかえしていっておこう。
ビジネスの世界は「勝てば官軍、負ければ倒産」、その間に“灰色地帯”などはありえないのである。
食うか食われるかの修羅場なのである。
コンピュータが地域性をふっとばした p118
いままでは「三人寄れば文殊の知恵」というごとく、ビジネスは人の力でやってきた。
だが、いまはコンピュータの時代だ。
世界中の情報に瞬時にアクセスできるインターネットもある。
そんな時代のビジネスは、いかに効率よく勝負するかということを第一に考えなければならない。
たとえば、マクドナルドでは、ディストリビューション・システムを効率化して、いままで毎日運んでいたものを二日に一回にするとか一週間に一回にしている。
そのために冷凍品の配送に冷凍車を使っているのだが、これも常温輸送ができるようになればいらなくなる。
実際、冷却技術が進歩して従来、冷蔵・冷凍扱いであった品も常温輸送が可能になってきているので、ほんとうに近い将来、冷凍車は不要になるだろう。
太平洋を横断するにも冷凍コンテナや冷蔵コンテナはいらなくなる。
そういうシミュレーションは、コンピュータを使えばいくらでもできるし、わたしにいわせれば、だから「効率のよいビジネス」のいきつくところは、一人でコンピュータに向かってすべてを処理し、人はまったく使わないというところだということまでを視野に入れて考えるべきだということになる。
時代は、ある意味ではとても恐ろしい時代になってきているのだ。
最近、四国の高松に本拠をおく通販会社が、あたかも東京の銀座にある通販会社のようなイメージで商品を売っているのをテレビで見て、わたしは、その思いをさらに新たにした。
もはや商売は銀座でなくてはとか、新宿でなくてはなどといっている時代ではなくなったのである。
いままでは、どこか繁華街の目抜き通りに大きな事務所をかまえないと商売はできないと、だれもが思い込んでいた。
銀行などはその典型だ。
ところが、コンピュータが地域性などふっとばして、「時間」も「空間」もゼロに近づけているいまは、兜町ではなく新潟県の山奥にいても莫大な株の取引ができるのである。
ビジネスもまた同じである。
その意味ではわが社も、こんな東京のど真ん中にいなくとも、もっと辺鄙なところにいてもいいのだ。
コンピュータとファクスと電話があれば、オフィスを東京にかまえる必要などない、どこでも商売はできるのだ。
わたしが「効率のいいビジネス」というのは、そういうビジネスのことなのである。
超スピード時代の決算は毎日やれ p122
わたしと同年代の社長は、コンピュータというと秘書まかせで逃げてしまうが、わたしは毎日コンピュータを使ってデータを出し、ハンバーガーを八〇円で売るためには何をどう変えなければならないかを検討し、結論が出れば即座に社員に指示している。
これはなにもコンピュータが使えるようになった昨日今日はじめたことではない。
わたしは、二五歳で事業をはじめた時から毎日、五つ玉の算盤で、その日の売り上げ・仕入れ・人件費などを計算して「決算」をしていたのだ。
算盤は電卓に代わりコンピュータに代わったが、毎日「決算」するというわたしのビジネス原則はまったく変わっていない。
わたしはマクドナルドという“巨大戦艦”の艦長だ。
毎日、潮の流れや戦局を読んで疾走する船を操縦しているのである。
オレは艦長だから舵を取るのは一年一回、後は乗組員にまかせる、よきにはからえ、とおさまりかえっていたのでは、船は沈没してしまう。
日本が世界に誇った戦艦大和や武蔵の最後をみればわかるように、いかに巨大といえども、だから絶対に沈没しないということはありえないのである。
わたしがコンピュータではじきだすのは「決算」だけではない。
決算は過去の数字の整理である。
わたしは毎日、その過去の数字と向き合うことで、これからどうするかをシミュレーションしているのである。
コンピュータのはじきだすデータにわたしの発想をぶつけて、コンピュータと「対話」し、発想を「構想」に、現実の「戦略・戦術」に具体化しているのである。
わたしは、エンデバーが宇宙に飛び出して衛星を回収したとき、あの光速にみまがうようなスピードに感嘆した。
感嘆すると同時に、それと同じようなスピードを持ったコンピュータは、近い将来、人類の生活のすべてを大変革するだろう、すべての事業は「光速」でやらなければならない時代を到来させると考えた。
「金の卵」をさがすより、教育して戦力とせよ p135
わたしは、日本マクドナルドという会社をつくったとき、日本最高の給料を払える会社にしようと決意し、それをスローガンにしてきた。
会社の業績は伸びているとか、店の数は多いとかいっても、社員がハッピーでないというのではどうしようもないからだ。
社員がハッピーであるには、月給が日本最高ということと同時に、日本の会社にどうしようもなくはびこっている学歴、あるいは学校歴というものをなくして、全社員が同じなのだということでなければならない。
実際、わがマクドナルドでは、全社員が「ハンバーガー大学」という同じ大学を出たハンバーガー学士だ。
小学校しか出ていない人、中学校だけの人、高校卒、大学卒――そんな世間並みの「学歴」はなんの意味もない。
会社にはそんな人事記録はいっさいない。
みんな、ハンバーガー大学で一ヵ月間トレーニングして卒業したハンバーガー学士だ。
生年月日と生まれたところ、それにハンバーガー学士第何期生と、それだけしか記録していない。
だから、わたしも社員の学校歴はまったくわからないし、知りたいとも思わない。
ときたま社員に「わたしは同志社大学です」とか「京都大学です」、「慶応大学です」といわれて、ああ、そうかと思うだけだ。
わたしからみれば、誰もみな同じ大学を出ている人間たちなのである。
わたしは、どこの会社でも、「学歴不要」とか「学歴無用」という前に、自分の会社に必要な人材を育てる教育機関をつくればいいと思っている。
そこを卒業できないのは、役に立たないということにすればいいのだ。
だからわたしは、いわゆる「金の卵」は探さない。
宇宙の法則によれば、総合点が七八点ならばそれでいい。
その人間をどう教育するか、教育して戦力とするかが、わたしにとっては大切なことなのだ。
ほとんどの人間の能力は七八点あるものだ。
ということは、普通の人をどう教育するか、ということにつきる。
日本の教育というものは、中学から高校、大学と進めば進むほど、抽象的な難しい理論をつめこむが、マクドナルドにはそんな抽象的な理論はいらない。
実務がすべてである。
ハンバーガーをどのように焼いて、お客さんには「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と応対する、つくってから一〇分たったものは廃棄処分にするといった実戦教育で、戦力に仕立て上げていくのである。
だからわたしは、新入社員にはかならず、「この会社に入ったからには、いいことをやろうとかスタンドプレーをやろうと思うな。
どこの部署にいっても、みんながいちばんイヤだな、めんどくさいな、やっかいだなと思うようなことを、率先してやってくれればいい」という。
全社員が、そういうふうに、イヤなことを自分から進んでやるようになれば、会社はさらに発展すると思うからだ。
まだ海のものとも山のものともわからない新人たちに、ひとの一番イヤがることをやる、やるだけでなく、そんな仕事はオレのところにみんなもっていらっしゃいというようになってほしいのだ。
もちろん、わたしは新入社員たちが仕事に対してどのような姿勢でいるか、わたしが望んでいるような仕事のしかたをしているかどうか、そのことをしっかり見ているし、そういう姿勢で積極的に働く社員をもっとも高く評価する。
みんなが食べている一番安い物にハズレはない p146
日本にいたのでは日本のことしか見えない。
だから「西欧化」を先取りして金儲けをしようというのであれば、文化の違う外国に行って、その国で流行っているもの、ウケているものをじっくりと見てくることだ。
よく、イタリアに行ったら何を食べればいいか、ドイツに行ったらなにがいいかなどと聞かれる。
そういうとき、わたしは「その国でみんなが食べている一番安いものを食べることだ。
絶対にハズレはない」ということにしている。
実際、その国でみんなが毎日食べている安いもの、それが一番うまいのだ。
なぜかというと、安くてうまいから、みんな食べているのだから。
たとえばわたしの好物である大阪のきつねうどんや、わたしが成功したアメリカのハンバーガーがそれにあたる。
一パーセントを狙っても充分ペイできる p155
自分の売りたい商品は、何歳に向いているのか、まずターゲットをはっきりさせ、そのターゲットとする年齢層はどのくらいいるのか。
それを調査した上で商品を生産し販売していかなければならない。
そんなことはビジネスのイロハだ、なにをいまさらという人がいるが、そういう人に限って、ターゲットをしぼりきれずに「全天候型」になってしまい、失敗してしまう率が非常に高いのである。
「全天候型」というのは、現在のように価値観が多様化し、趣味嗜好が多岐にわたっている時代には、およそ不可能なことなのである。
また、その必要もないことである。
日本の総人口は一億二五〇〇万人なのだから、そのうちの一パーセントを狙ってビジネスが成立すれば、それで充分ペイするのである。
二パーセントもいればもう充分すぎるくらい充分なのである。
預金も株も不動産もダメな時代の蓄財法 p166
金はいま一グラム約一四〇〇円だ。
一〇年前は二〇〇〇円していた。
わたしはずっと買っていて損をしているけれども、しかし依然として、いかなる状況にあっても、もっとも頼りになる財産は金だと確信している。
なぜかというと、モラトリアムとなって、流通している紙幣も銀行預金も無効だとなれば土地しか残らないが、土地は急に買うことなどできやしない。
金ならば一グラム約一四〇〇円で買える。
いまから金を買って持っていれば、モラトリアムになって、あなたの持っているおカネは使えませんよ、紙幣も無効です、貯金もダメですとなっても、逃げられるからだ。
昔、「ダイヤモンドは永遠なり」という言葉があった。
人びとは万一に備えてダイヤモンドを買っていた。
ところが、かつて一カラット一〇〇万~一二〇万円だったダイヤモンドもいまは一カラット二〇万~三〇万円とまさに二束三文に下落している。
なぜ下落したかというと、あの当時は一ドル三六〇円だったのだ。
つまり三六〇万円で買ったダイヤモンドがいまや一〇五万円と約四分の一になったのだ。
そういう意味では二〇〇〇円が一四〇〇円と、七割になった金はより安全である。
安全というのは、今日一〇万円で買えば明日も一〇万円だという意味ではない。
目減りの度合いが少ないということで安全なのだ。
ということは、金の相場は世界中とつながっているからだ。
日本の金相場は即ロンドン、ニューヨークの世界相場につながっていて、日本だけの相場ではない。
ロンドンの金相場が一オンス四〇〇ドルとするなら、それをその日の為替レートで換算していくらと決められる。
だから円安になれば金価格は上がるのだ。
増えないなら、金で安全を買うという考え方 p167
一方、金鉱を掘っても金の含有量は非常に少ないので、一オンスの金を掘り出すのに三〇〇ドルぐらいかかるという。
原価が三〇〇ドルでマーケット・プライスが四〇〇ドルだが、金の価格はこの原価より下がることはない。
原価を割れば誰も掘らなくなるのだから、下限は決まっている。
だから世の中どうなろうと、金の価格はそうめちゃくちゃに下がることはない。
だから、と、わたしはみなさんにアドバイスしたい。
貯めるのは現金だけではありませんよ、と。
日本人もそろそろおカネを貯めるのではなく世界通貨である金を貯める方向へ行かなければならない、世の中はそういう方向へと進んでいるのですよ、と。
わたしがいいたいのは、世界相場があってあまり変動しないものにリスクヘッジしていくのがこれからの長期的財産分散術だということだ。
これまでは、現金三分の一、株式三分の一、不動産三分の一と、財産三分法といわれていたが、いまや日本では現金も株もダメなら不動産もダメになってる。
となれば、財産三分法は完全にアウトだ。
だから、わたしは、金・銀・プラチナ・銅・アルミニウムといった国際商品、なかんずく金で逃げるしかないというのだ。
金を買って、いままでのようにいかに増やすかではなく、いかにタダになるのを防ぐかという方向で財産を分散させていくのだ。
ともかく、世界を見渡すと、こんな混乱というか行きづまりになっているのは、ロシアと日本だけだ。
それ以外はみんな伸びている。
あんなに赤字のアメリカでさえ発展している。
本来なら、日本こそ大発展していいのに、膨大な貯金をかかえて四苦八苦しているなど、考えられないことが現実になっている。
こうなったのは政治が悪いからだといってみても、それはほとんど愚痴でしかない。
政治がよくなるという保証などありはしない。
となれば、くりかえすが、この破局的状況を切り抜けるのは個人の才覚でしかない。
政府なんか当てにしないで、中国と同じように自分で財産を確保していくことだ。
これには金だと、強調しておきたい。
成功の秘訣は才能と努力、プラス運である p174
一九七一(昭和四六)年七月二〇日に日本マクドナルドが銀座三越に一号店を創業して満二四年目のその日に、当時、三越の専務として積極的に支援していただいた岡田茂氏が亡くなった。
日本マクドナルドはその時点で一四八一店舗、年商二五〇〇億円超という日本最大の外食産業となった。
日本外食産業の一ページを開くのに理解を示していただいた岡田さんの御冥福を祈るばかりである。
東大法学部在学中にGHQの通訳を務めながら輸入商社「藤田商店」を創業以来、起業家としてわたしは、「人間、才能や努力だけでは成功できない、大事なのは運だ」といいつづけてきた。
わたしが日本マクドナルドを創業したのは四五歳のときだが、そのきっかけは、アメリカの友人がシカゴのマクドナルド・コーポレーションの創始者レイ・クロック社長を紹介してくれたからだ。
そのとき、わたしは、ハンバーガーを日本で、とは思ってもいなかった。
ところが、クロック氏と二〇分ほど雑談していると、彼が突然、「藤田さん、ビジネスとはあなたのいうとおりのことだ。あなた、日本でハンバーガー・ビジネスをやらないか」といった。
わたしは少考し、「アドバイスは受けるがオーダー(命令)は受けない。それでよければやる」と答えた。
そくざにクロック氏は、「OKだ。絶対に成功させてくれ」といった。
それが、七一年の銀座三越一号店となったのだ。
それから四年後だったか、九州から一六歳の少年がわたしに会いたいと上京してきた。
わたしは、忙しくて時間がないと断ったのだが、彼は一週間、毎日、会社を訪ねてきた。
その熱意にほだされてわたしは彼に会った。
彼は、「わたしは九州鳥栖の出身で、これからアメリカに行って勉強したいのですが、なにを勉強したらいいでしょうか。自動車とか飛行機とか石油とか、学びたいことはいろいろあるのですが」といった。
わたしは「今はこの部屋くらい大きなコンピュータを使っているが、遠からずハンディなものになるだろう。アメリカに行って勉強するならコンピュータしかない。コンピュータだけ勉強していらっしゃい」とアドバイスした。
「わかりました」といって少年は、アメリカでコンピュータを勉強して帰国、日本ソフトバンクという会社を創った。
ソフトバンクは九四(平成六)年に上場して五〇円の株が一挙に一万九〇〇〇~二万円になるほど急成長した。
少年の名は孫正義――といえば、「ああ、あの人か」と思い当たることだろう。
新聞王マードックと組んでのテレビ朝日株の取得、アメリカのコンピュータ会社の買収と、日本の“ビル・ゲイツ”といわれている最近の孫正義くんの華々しい活躍とひきかえ、ひっそりとこの世を去っていった岡田茂氏とわたしの二五年を想いだし、栄枯盛衰は世のならいとはいえ、感慨ひとしおである。
それにしても、わたしがクロックさんに出会ったり、三越の岡田専務や孫くんに出会ったりしたのは、お互いに運だと思う。
人生は才能と努力だけでなく、運が大きく左右するものなのである。
高い金をとって値打ちのないものを売るのは学校だけだ p212
わたしは、常々「いまや超国家主義の時代である。
マクドナルドこそ、典型的超国家企業であり、マクドナルドの全社員はアメリカ人でも日本人でもないマクドナルド人間、すなわち世界人である。
われわれは世界人の企業として、まずは、自己のために、さらに世界のために働かねばならない」といってきた。
「重要なことは国際化である。
明治以降、食の分野では国際化が遅れている。
日本食を食べないと力が出ないというが、それは単なる食習慣を錯覚しているにすぎない」といってきた。
だから世間には、わたしを、「日本」や「日本人」のことなど眼中にないコスモポリタンと思っている人が多いようだが、わたしが「国際化」を主張するのは、他ならぬ「日本および日本人」の未来を深く考えているからだ。
わたしは祖国日本を愛することにおいては誰にも負けないと自負している。
「藤田さんは過激だからな」という経済人は多い。
なぜならば、わたしが、「消費税を一〇パーセントに上げると同時に所得税を一律二〇パーセントとする大減税で消費経済を伸ばすべきだ、そうでなければ日本は“沈没”する」と主張しつづけているからだ。
たしかに、わたしの主張は「過激」に見えるだろう。
わたしがくりかえしていっていることは、徳川時代から日本人を骨がらみにしている思想、モラルを変えなければならないということだから、だ。
子どもが学校よりも塾での勉強に集中しているのは、いい中学に行き、いい高校に行き、そして東大に入ることを目的にしているからなのだから、その弊害を断ち切るには、「東大を出た人は国家公務員にはしない、一流銀行も採用しない」という規則をつくればいい、そうすれば東大を出ても官僚になれないのだから、塾に行く子どもはいなくなり、本当の教育ができるのだと思う。
すると、「藤田さんは過激だから」というが、わたしにいわせれば、資本主義社会で高い金をとって値打ちのないものを売るのは学校だけだ。
しようもない学校ほど授業料が高い。
東大卒のように安い授業料で出た人は値打ちがあって、高い月謝を払った人は値打ちがないというのはおかしいのだ。
これからは起業家精神が必要だという。
ならば、そういう精神を持てるような教育をしなければならないし、そのためには東大を出ればエスカレーター式に社会的地位が上昇していくというようなことはやめなければならない。
ほんとうに優秀な人、特殊な才能を持っている人が頭角を現していけるようにならなければならないのだ。
このことは、東大出であるわたしがいうのだから、絶対に間違いはないのだ。
そういうと「藤田さんは過激だ」という同じ人が、そのあとに「過激だけれども、もつといってくれ」という。
それは、みな、そのことにどこかで気がついてはいるからだ。
気がついてはいるのだが、しかし自分では波風を立てたくない。
アクションは起こさない。
しかし、幕末の坂本龍馬のように、先進的な考えを持っている人が世の中を変えていかないと、わたしの愛する日本は消滅してしまう。
わたしは、その危機感につき動かされて、かくあれかしと語っているのだ。
p242
だからいつまでたっても、この国は、「衣」と「食」はなんとか世界の水準に伍してきたが、「住」は世界のレベルはおろか、いまだに自国の戦前のレベルにすら回復していない。
これは日本人に、長い目でものを計画するという習慣がないからだ。
春、米の種をまいて秋に収穫するという、そういう生活をくりかえしているものだから、何十年何百年先のことは考えない。
考えられない国民なのだ。
だからこんなに貧しい、というか、狭いところに住んでいるのだ。
これからの日本人は、短期的な勝負を狙わないで長期的な勝負を狙ってほしい。
わたしは、このハンバーガービジネスもはじめからいっているように三〇年かかる。
一サイクルは三〇年だ。
三〇年辛抱すれば成功できる、その次はまた次の三〇年だ。
だから三〇年間がんばろう。
そうすればゼロ歳の子が三〇歳になるから、その子がハンバーガーを食べて育てばその次の世代もハンバーガーを食べにくる。
だから三〇年サイトで見てやろうということができたのだ。
わたしは、一九八一(昭和五六)年に出した第一回目の五年勤続社員への賞状にもはっきり書いた。
「われわれは二一世紀における巨大産業の革命的先駆者であり、五〇〇〇億円企業の実現をめざしているのだ」と。
創業時にすでに三〇年後の目標を定めていたのだ。
ようするに、ビジネスは息の長い立場でものを見なくてはいけない。