「考えないこと-ブッダの瞑想法」を 2,024 年 11 月 02 日に読んだ。
目次
- メモ
- いらない思考をいったん止める p14
- p16
- 実況で心が安らぎストレスも消えていく p17
- 過去も未来もない空っぽの心 p20
- 「元に戻す」=リセットする p21
- 空性で食べる p24
- 自我を使わない食事 p26
- 煩悩が見えてくる p27
- 心が安穏だと、体に最適な食事ができる p28
- 空性の心と自我 p30
- 悩みや問題が起きる原因 p34
- 何にも頼らない心をつくる p37
- 願っても、結果は変わらない p42
- 心の中で起きていることに気づく p45
- 悩んでいる「自分」を観察する p46
- すべては心が支配する p50
- 心を解放する気持ちで p54
- 「自分は今、何をしているのか」を見てみる p55
- 3ステップ+1オプションの言葉 p58
- 朝一番と夜寝る前が効果的 p60
- Step1 私の幸せを願う p62
- Step2 親しい生命の幸せを願う p64
- Step3 生きとし生けるものの幸せを願う p66
- オプション 自分の嫌いな生命、自分を嫌っている生命の幸せを願う p68
- 慈悲の瞑想の終わり方 p70
- 「私は幸せでありますように」……慈(メッター) p72
- 「私の悩み苦しみがなくなりますように」……悲(カルナー) p73
- 「私の願いごとが叶えられますように」……喜(ムディター) p75
- 「私に悟りの光があらわれますように」……捨(ウペッカー) p77
- 親しい生命の幸せを願う p78
- 生きとし生けるものの幸せを願う p80
- 自分と他者の区別がない広大な心を育てる p82
- 自分の嫌いな生命、自分を嫌っている生命の幸せを願う p84
- 感情をつくらない=思考を止める p98
- p102
- もっとも大事な「今」にエネルギーを使う p105
- 「立つ」→「座る」 p130
- 「目を閉じる」 p131
- 「体を固定する」 p132
- 「深呼吸」 p133
- 「待つ」→感覚の実況中継 p133
- 体に起こる感覚の中でも強い感覚を実況 p135
- 湧き出す感情も実況中継する p138
- まわりの音や光も淡々とやり過ごす p139
- 座る瞑想の終わり方 p140
- フィルターを通した認識は「捏造」 p184
- 「捏造」しない唯一の方法 p188
- 満たされない渇愛が、不幸のスパイラルをつくる p192
- 知識は少量でも幸福になれる p199
- 智慧は人間の宝物 p201
- 純粋な「心」は存在しない p202
- Q 慈悲の瞑想「私の親しい生命」の幸せを念じる場合、亡くなった人を思ってもいいものでしょうか? p214
- Q 「幸せになる」ということは、つまるところどういうことなのでしょうか? p215
- おわりに p220
メモ
いらない思考をいったん止める p14
日常生活の中で、私たちは何かに失敗したり、トラブルを起こしたり、うまくいかないと思うことがよくあります。
そして派手に悩みます。
毎日、悩みをいっぱい抱えて、心配しながら眠るので、ろくに寝られない。
疲れがとれないまま、また朝早く起きなくてはならないのです。
それって、全然おもしろくないし、笑えない状態でしょう。
朝、目が覚めるとニコニコして、夜、布団に入る度に、またニコニコと「今日はよかったなあ」と思える人生にはなっていないのです。
私たちの人生で起こるすべての悩みや苦しみ、不安の原因は何なのでしょうか?
それは現実離れした思考や妄想である、とブッダは教えました。
ブッダは、「妄想という〈悪魔〉を退治することです。現実と関係のない、いらない思考や妄想を、いったん止めてみなさい」と説いたのです。
実際、妄想をし始めるとキリがないことは、あなたも経験済みでしょう。
悩みや苦しみに押しつぶされそうなときは、思考をいったん止めて、妄想を排除して、「今の気持ちはどう?」と感じてみることです。
でも、どうやって?
そこでブッダは、瞑想というアプローチを提案されるのです。
p16
私たちが妄想する場合、それは決まって過去のことか未来のことです。
たとえば、天ぷらを揚げているとします。
高熱の油で具材を揚げながら、「子どもは何時に帰ってくるのか」「帰りがいつもより遅い」と妄想してみてください。
次々に湧き出す妄想に気をとられているうち、天ぷらは焦げてしまいます。
それだけならまだしも、油に引火して火事になったら大惨事になりかねません。
そんなことにならないよう、天ぷらを揚げるときは、丁寧に一つずつ「はい、油に入れます」と“実況中継”して、きちんと確認しながら揚げれば、油も飛び散りくうしょうません。
「できあがりました。次を揚げます」と調理に集中すれば、その間、思考や妄想は湧き上がりません。
過去にも未来にも引っ張られず、今に集中している心の状態は、ストレスが消え安穏になっているはずです。
実況で心が安らぎストレスも消えていく p17
今、実況中継という言葉を使いました。
これがブッダの瞑想のカギなのです。
その瞬間、瞬間を絶えず実況中継していると、集中して忙しいので、よけいなことを考えたり、妄想したりする余裕がなくなります。
気がつくと心が安穏になっています。
これだけでストレスも消えていきます。
「今、この瞬間に集中する」ことは、「過去を捨てて、未来も捨てて、現在に生きる」ということです。
そうすると、おもしろおかしく人生を過ごすことができます。
この「今の瞬間の心」を指す言葉に「空」という仏教用語があります。
正確にいえば「空性」です。
サンスクリット語では「シューニャター(śūnyatā)」、「一切の現象は空であること」という意味です。
ですからよく知られた「般若心経」で、「色は空なり(色即是空)」としているのは少々言葉足らずで、正しくは「色は空性なり(色即是空性)」なのです。
空性という、何もない状態に心を保ってみる。
難しいことのように思うかもしれませんが、みなさんも空性の心を日常生活で体験できます。
詳細は本文に譲りますが、何の基礎知識もなしに、ここでやってみましょう。
用意するものは、片手で持ち上げられる程度のスマホ、カード、マグカップなど身のまわりの小物でけっこうです。
まず、机の上の右側に用意したものを置きます。
それを心の中で実況中継しながら、机の左側へと運びます。
用意したものを手にとって、机の右から左へ移動させる、たったこれだけです。
実況するときは一切何も考えないこと。
私たちは、もう考えることが病気のようになっていて、末期状態です。
それをストップするために実況中継します。
実況することは、あくまで思考を止めるための方便です。
まず、手を膝の上に置きましょう。
置き方は自由です。
ただし、その位置はおぼえておきます。
ここから自分の動作をコマ送りのように区切り、それを観察します。
動作はできるだけゆっくり行います。
「(手を)上げる、伸ばす、下げる、(ものを)とる」という具合に、動きをひとコマずつ区切ってください。
動作を切れ目なく実況するのがコツです。
このひとコマごとの動作を完璧にやれば、悩みは生まれません。
失敗もないのです。
実際に実況中継するときは、「(膝から)手を上げる、上げる、上げる」
これで一コマ。
( )の中は説明用に示しているので、実況では不要です。
次は、「(手を)伸ばす、伸ばす、伸ばす」「(手を)下ろす、下ろす、下ろす」
「(もの)とる、とる、とる」。
ゆっくりでいいので、完璧にやります。
今度は手にとったものを移動します。
「(手を)上げる、上げる、上げる」「(ものを)運ぶ、運ぶ、運ぶ」。
「下ろす、下ろす、下ろす」「(ものを机の左側に)置く、置く、置く」
そして最後は、手を膝の元の位置へ戻します。
「(ものを離した手を)上げる、上げる、上げる」「(膝へ)戻す、戻す、戻す」「(手を)下ろす、下ろす、下ろす」「置く、置く、置く」
これで前半が終了です。
ここまでを1分くらいかけて行ってください。
過去も未来もない空っぽの心 p20
この瞑想をすることで、心が空性になるのです。
過去も未来も何もない。
それが「悟りの心」です。
今、私たちはちょっとした模擬状態で空性を体験していますが、繰り返し実践して、悟りにまで達したら、いつでも心が空性なのです。
心が空性だったら、その心から、何でもつくることができます。
つくってまた元に戻すこともできます。
海の波と同じです。
波というのは、寄せては返しの繰り返しで、キリがないでしょう。
一つの波があらわれて、また引いて、元に戻ってゆく。
そこで、もしもあらわれた波が引かなかったら、どうなるでしょうか?
波が止まったら、船も航海できなくなってしまうのです。
私たちのふだんの心は、そういう状態でいるのです。
思考があらわれて、ずっと居座ってしまう。
だから、身動きできないのです。
それに比べて、空気はどうでしょうか?
空気は誰とも対立しません。
どこにでも入っていきます。
空気はどこにも入っていくけれど、誰とも戦わないのです。
紙コップがその形を保っているのは、本当は空気のおかげです。
空気が消えてしまうと、紙コップは粉々になるのです。
そのように、空性ということは、すべてを支えているけれど、一切の現象と対立しないのです。
みなさんにも、そういう心をつくってほしい。
「空性の心」をつくる秘訣は、こうやって実況中継してみることなのです。
ここで紹介したのは、とてもシンプルなやり方ですが、真理を発見するための大切なレッスンです。
「元に戻す」=リセットする p21
瞑想の後半は、机の左側へ移動したものを右側へ戻し、手を元あった膝の上に置くまでです。
実況中継の仕方は変わりませんが、カードや手を「元に戻す」ということがここでのポイントになります。
形をとっているものには、自分にふさわしい場所があります。
形をとった時点で、場所は決まっています。
私たちの記憶力、ものごとをおぼえる能力が、この「元に戻す」という行為で抜群に開発されます。
私が講演をするとき、その日に話す内容は会場へ向かう車の中とか、ある瞬間にパッと考えてしまいます。
「今日は何を話そうかな」「こういうふうにしゃべろう」と、瞬時に決まります。
講演用のスライドをパワーポイントでつくると2時間くらいかかるのですが、記憶しているデータは頭の中に瞬間で出てきます。
見栄を張っているわけではないのです。
これも、心に空性を習わせているからできることなのです。
ですから、瞑想の最後は意識をして、ものと手を元の場所へ戻してください。
この一連の動作に前半1分、後半1分の計2分ほどかけてください。
集中を切らすので時計は使わず、ゆっくり、穏やかな気持ちで、しかし完璧に取り組んでください。
「瞑想なんて超カンタンだ」、そんな気分でラクに、楽しく行えばいいのです。
ゆっくり、美しく、気持ちよく、「上げる、上げる、伸ばす、伸ばす、下ろす、下ろす」
そうやって、喜びを感じながらやってみてください。
終わったら、そこで一度チェックしてみましょう。
実況の間はどんな心の状態でしたか?
何も考えていなかった、怒りがなかった、欲がなかった、苦しみや悩みがなかった、嫉妬がなかった、自我がなかった……。
どれか一つでもあてはまれば、瞑想中の心が完全に清らかだった証しです。
その心のありようが純粋に清らかな心、無色透明の空性の心なのです。
たった2分ほどの瞑想で、あのブッダが、大阿羅漢たちが、大聖者たちが体験し無色透明の心を、たとえ一時的であっても体験できるのです。
空性で食べる p24
空性の心を実体験するのに、もう一つ恰好な例があります。
食事をするときに、空性の心で食べるのです。
ふだんは「ちょっと味が薄いな」とか「冷めておいしくない」など、自我丸出し、つまり主観丸出しでしている食事を、「自我のない心」でとってみてください。
すると、おどろくような智慧があらわれます。
たとえば、ご飯を食べます。
日本人なら食べ慣れたものですね。
もちろん、お米の種類で味が違ってきますが、ただ食べていれば、お米はどれもだいたい同じ味と思っていませんか?
ところが違うのです。
口に入れたご飯は、同じものを二度と食べられません。
一度きり、1回だけです。
食べたらおなかの中に入って、永久的に消えるわけです。
だから、1回ご飯を口に入れて噛んで味わって食べたら、次に口にするご飯は別の味を持っているのです。
たとえば、40回ぐらいご飯を口に運んだら、40通りの味になるはずなのです。
実際に空性の心でご飯をいただくと、もっと微細な変化に気づきます。
噛む度に味が変わります。
ご飯を入れたときの味、噛んだときの味、もう1回噛んだときの味。
そしてのみ込むときは、口の中の味がゼロになるのです。
それが実感できます。
たとえば、瞑想しながら柿を食べたとします。
まず切って「(口に)入れて、入れて、入れて、噛む、噛む、噛む、味わう」。
そうやって、柿を噛み切ってみてください。
おいしく感じます。
歯応えもあります。
実況中継しながら噛み続けていると、果肉がなくなるにつれて甘みも変わってきます。
そしてほとんど液体になる。
そしてご飯と同じように、ほぼ味がない状態になります。
この一連の味や歯触りの変化を、コマ送りのように鮮やかに体感できます。
こうした体験をすると、自分が今まで幻覚の中で生きていたこと、真理の世界は膨大で深遠であることを思い知らされます。
自我を使わない食事 p26
「空性の心で食べる」の延長で、ぜひ「食べる瞑想」を試してみてください。
食べる瞑想のポイントは、「食べるとき誰ともしゃべらないこと」「自我を使わないこと」「実況中継しながら食べること」の三つです。
先ほど説明した要領で、ゆっくり行います。
箸をとる場合は、「(手を)伸ばす、伸ばす、伸ばす。(箸を)とる、とる、とる」
箸で食べ物をとって口に運ぶときは、「(箸を)伸ばす、伸ばす、伸ばす。(おかずを)とる、とる、とる」
「(口に)運ぶ、運ぶ、運ぶ。(口を)開ける、開ける、開ける」
食べ物を口に入れたら一度箸を戻し、手も元のところに戻します。
戻したら、「噛む、噛む、噛む。味わう。噛む、噛む、噛む。味わう。のみ込む」などと実況します。
実況中に「おいしい」という言葉は使いません。
おいしいと感じるのは「自我」だからです。
瞑想は無我の世界なので、客観的に「味わう」と表現します。
こうやって観察しながら実況すると、体の細胞たちがしっかり集中して、食べ物を受け入れる態勢になります。
煩悩が見えてくる p27
食べる瞑想をすると、すぐ煩悩が見えてきます。
これまで、いかにガツガツと、いら立ちの気持ちで食べていたかに気づきます。
たとえば、満腹でも「もったいないから」といって余りものを食べませんか?
もったいないからと無理に食べるものは、すべて体に悪い影響を与えます。
「もったいない」というのは、自分の欲、自我だからです。
体は物体です。
物体を維持するにはエネルギーが必要ですが、それにも程度というものがあります。
自動車に燃料を入れるとき、たくさん入れたいからとシートの中にも入れますか?
入れないでしょう?
タンクが満タンになれば、十分なはずです。
体も同じこと。
適量でやめておけばいいのに、よけいな考えが、自我が邪魔をして食べすぎてしまうのです。
しかし、瞑想で食べるときは、必要な分量の食べ物が口に入ります。
そして最適な栄養がチャージされます。
体が自然にそうするのです。
心が安穏だと、体に最適な食事ができる p28
これを食べたら脳にいいとか、あれは肝臓にいいとか。
体のことを考えて、食べものを選ぶことにも一生懸命です。
食べもののことで頭を悩ませます。
しかし、仏教がすすめる安穏の心である空性の心になれば、そんな必要はなくなります。
毎日、ご飯と納豆だけ食べても、心が安穏であれば栄養失調になりません。
生命の法則にまかせておけばいいのです。
「あれが体にいい」「これを食べたい」と自我を出したところで、間違ってしまうのです。
「我はいる」と思った時点で、地獄の門がドーンと開くのだとおぼえておいてください。
空性の心とは、我はないという真理、「無我」に安らいだ心でもあるのです。
空性の心と自我 p30
日常生活のさまざまなシーンで行えるのが、ブッダの瞑想の特徴です。
いつでも、どこでもできるので、時間も場所もフレキシブルに選べます。
たとえば、台所で食器を洗っているとき、掃除機で部屋を掃除しているとき、買い物に出たときでも瞑想ができます。
通勤途中の道すがら、オフィスで仕事をしているスキマ時間でもできるのです。
先ほど紹介した食べる瞑想も、そのひとつです。
いつもやっている「食べる」というマンネリの行為であっても、瞑想をとり入れることで、まったく新しい世界が開けてくるのです。
しかし、瞑想を何かの目的のために実践すると、その結果が出るまでにものすごく時間がかかります。
それは食べる瞑想でも指摘したように、「自我」が入り込むことで空性の心が成り立たなくなるからです。
自我というのは錯覚です。
自我という錯覚からあらゆる煩悩、つまり心の汚れが生まれます。
自我は決して実在しないのです。
体にある眼・耳・鼻・舌・皮膚という感覚器官にそれぞれの対象が触れる度に、自我という錯覚が仮にあらわれるだけ。
その錯覚に基づいて、私たちはあれこれと考えているのです。
ですから、考えることはまるっきり当てにならないのです。
錯覚に基づいて思考、つまり妄想しているからこそ、私たちは苦しくて不条理な世界をつくっているのです。
世の中というのは、いつでも因果法則の流れです。
法則に反して、強引に自我の流れをつくろうとしても、決してスムーズに流れません。
私が「今日、暖かくなってほしい」と思っても、暖かくなってくれないようなものです。
明日は雨ではなく、雪が降ってほしいと思ってもそうはならないのです。
ですから、無我を感じてください。
自我の錯覚を破って、無我を感じてください。
無のこころ、空性のこころを、実況中継で感じてみてください。
それで、この俗世間を乗り越えた真理の境地に達することが、みなさまにできると思います。
悩みや問題が起きる原因 p34
これから本格的な瞑想の説明を始める前に、何のために瞑想をするのか、という問題を少し考えてみたいと思います。
僧侶である私のところへは、いろいろな相談が持ち込まれます。
そのほとんどが、心の外に何か「原因」を求めて、そこに責任があるかのようにみなす「悩み」ばかりなのです。
でも本当は、自分の外に「原因」などありません。
「原因」があるとすれば、その人の心の問題だけです。
このことをまず考えてみましょう。
あなたは、「生きる」とはどういうことだと考えていますか?
生きる目的は何か、どのように生きればよいのか、成功を収めて生きるとはどういうことか、などの疑問は、人の頭をふつうに横切るものです。
しかし、納得のいく答えは出てこない。
それは生きることに対して人それぞれ、さまざまな価値観や人生観が投影されるからでしょう。
ある人にとっては、たくさん稼いで、財産を蓄えることが「生きる」ことかもしれません。
またある人にとっては、偉くなって、多くの人から認められるのが「生きる」ことかもしれません。
その他、健康に病気をしないで生きたいとか、格好のいい人と結婚をしたい、歳をとってもシワのない顔や体でいたい、若々しくいたいということが「生きる」ことかもしれません。
これらをまとめると、つまるところ生きるとは、さまざまな業績をつくったり、いろいろなものを集めたりする、ということに尽きるのではないか、と見えてきませんか?
人間は、毎日必死になって「もの」を集め、業績を集めています。
この場合、物質的な「もの」だけでなく、概念的な「もの」も入ります。
家やクルマ、洋服や電化製品などの持ち物だけでなく、現金、株、債券、土地、子どもなども「もの」という単語に入るのです。
業績には仕事の業績や学業の成績も入りますし、社会的地位や名声なども含まれます。
しかし、少し観察してみてください。
天災や戦争が起きれば、それまでどんなにお金や宝石をためこんでいたとしても、何の意味もありません。
死ぬ人は死ぬし、ケガをする人はするのです。
ふつうに生活していても、ケガや病気、予測できないことはたくさんあります。
夫婦で旅行しようと思って一生懸命お金をためていたら、夫が病気で倒れ、貯金や計画が無駄になってしまったとか、子どもが大きくなったときのために家を増築したけれど、部屋が増えたとたんに留学が決まって、その部屋が必要なくなった……などというのは、よくあることではないでしょうか?
お金も、業績も、家も、財産も、とにかく「もの」は、人がどんなに大切にしていようとも、決してあてにはならないのです。
ものだけでなく、人間は、自分一人でただ生きることさえ自分の自由にはなりません。
どんなにお金があっても、どんなに貧乏でも、完全に自由に生きている人などいません。
決められた時間に寝て、決められた時間に起きて、決められたものを決められたように食べているだけでしょう。
それを幸せだ、自由だといっていますが、どこが自由なのか。
本当に自由ならば、食べることくらいは自由にしてもいいのに、食べる時間も食べ方も、ほとんどの人は決められたようにしています。
何にも頼らない心をつくる p37
このことを、ブッダは、パーリ語(ブッダの時代のインドの言葉)で、「アッター・ヒ・アッタノー・ナッティ(Attā hi attano natthi)」という言葉でおっしゃいました。
これは、直訳すれば「自分には自分さえもないのだ」という意味です。
自分には自分がある、つまり自分だけは頼れると思っても、それもあてにならない。
病気になったり、気が変わったり、周囲の事情が変わったりして、自分をあてにできなくなる、そんなことはあたりまえなのだという意味です。
自分さえあてにならないのですから、この世には本当に自分の自由になるものな「自分もあてにならない」ということについて、もう少し説明します。
ふつう私たちは、豊かになればなるほど幸せになれると思っています。
でも本当にそうでしょうか?
家の中に高価な宝石や壺があれば、掃除ひとつにも気を遣います。
安いものなら壊してもあまり気になりませんが、何千万円のものが壊れたら、大変なストレスですよね。
つまり、豊かになればなるほど、その豊かさに比例して苦しみも大きくなります。
私たちは生きている以上、幸せになりたいと思い続けています。
しかし、「もの」を追い求めても、それは叶わないのです。
それどころか、「もの」にとらわれ、それを追い求めることが、不幸の原因になります。
「自分」にさえ頼れないのに、世の中の「もの」に頼れるでしょうか?
何にも頼ってはいけません。
頼れるはずのないものに頼るから、期待と失望を繰り返し、生きることが楽しくなくなるのです。
つまり、すべての悩みや問題の原因は「心」にあるのです。
心以外の何かに原因を求めても、何も解決しません。
心以外に原因を求めて、ものを集めたり増やしたりしても、決して幸福への道は開けません。
むしろ逆に、不幸への道をまっしぐらです。
何にも頼らない強い心をつくる。
それこそが仏教でいう「解脱」です。
もちろん、解脱というのは誰にでもできることではありません。
しかし、みなさんが日常言われるような「悩み」でしたら、たちどころに解消できる方法があります。
それが、これから説明する瞑想です。
願っても、結果は変わらない p42
たとえば「試験で一番になりたい」という願望を持つとします。
一番というのは一人です。
挑戦する全員が一番になるわけではありません。
一番になりたいと願望した時点で、自分も知らない、たくさんの受験者たちがライバルになるのです。
その人々をどのように抑えればよいのかなど、ふつうはわからないし、できることでもありません。
見ず知らずのライバルと競争するという願望は、矛盾です。
よく知っている人なら、競争できます。
しかし、なぜよく知っている人と競争する必要があるのでしょうか?
ライバルではない、敵ではないからこそ、知っている人になったのです。
ですから、この願いも矛盾しています。
願ったからといって、それだけで一番になることは成り立ちません。
それは受験者の能力によって決まることです。
その願望は、一番にならなかったら大きな悩み、苦しみ、落ち込みをつくります。
一方で、精いっぱいがんばった結果なら、どんな学校に入ることになってもかまわないと思ったとしましょう。
この考えは、弱き者の思考とはいえないのです。
一番になるという願望を持ってがんばっても、結果を気にしないで自分の力いっぱいがんばっても、結果は同じです。
よけいな願望をつくると、その分よけいな苦しみが生まれるだけです。
願望なく精いっぱいがんばった人が、もし一番になったならば、大変な喜びを感じます。
しかし一番になる願望があった人が、希望どおりに一番になっても、びっくりするほどの喜びはないのです。
この話のポイントは、願望によって結果は左右されない、ということです。
誰でも、精いっぱい努力するのはあたりまえのことです。
そのうえ、一番になりたいという願望をつくったところで、それはよけいな感情にすぎないのです。
それどころか気楽に努力することを妨げます。
願望とは「感情」なので、合理的ではないのです。
ところが、いわゆる宗教では、こういう矛盾した人間の欲望のあり方を分析したり吟味したりしません。
人の願望をそのまま応援します。
自分の教えを守ってお祈りや祈祷をすれば救われると説くのです。
たとえば、ある宗教は、自分たちの仲間になれば、天国で生まれ変わると説きます。
それが本当かどうか、どうやってたしかめるのでしょうか?
死んだ後にどうなるかをたしかめるには、まず自分が死んでみるほかありません。
ということは、今まだ生きていて死後がどうなるかを説いている人がいれば、その人は自分で見たことのない、体験したことのない話をしていることになります。
仏教が他の宗教と違うのは、ブッダの教えは、誰でも見て体験できることにだけ基づいており、実践すれば即座に結果が得られるという点です。
もしブッダの教えが間違っていると思うなら、そのどこが間違っていてどこが間違っていないのか、きちんと自分の頭で判断して、自分の考えを言ってよいことになっています。
仏教は「科学的な教え」です。
一般的な観点からすると、宗教とはいえないほど、科学性は徹底しています。
科学的というのは、この場合、きちんと結果が出てくるということ、そして、話の内容が本当かどうか、自分でたしかめられるということです。
心の中で起きていることに気づく p45
瞑想の話に戻りましょう。
瞑想というと、何か神秘的なものだと勘違いされやすいのですが、ここでいう瞑想は、これまで見てきたような祈りなどとは違って、誰でもできるし、結果もすぐわかります。
瞑想は英語でいうとメディテーションですね。
その意味は、一つの対象に心を集中させるというものです。
念仏を唱えたり、何か一つの作業に集中して取り組んだりすること。
これはメディテーションです。
後に述べる慈悲の瞑想(サマタ瞑想)は、この意味のメディテーションと近い概念です。
本書で紹介するもう一つの瞑想、ヴィパッサナー瞑想は、意識を何かに集中させるのではありません。
むしろ自分の心の動きを観察する、自分の心の中で起きていることに「気づく」という意味です。
悩んでいる「自分」を観察する p46
仏教でいう瞑想というのは一種の訓練で、誰にでもできる心のトレーニングでもあります。
走ったり泳いだりして体を鍛えるように、心を鍛えて強くするトレーニングです。
いちばん大切なのは、瞑想によって「私はここにいる」ということを知ること。
そこからすべてが始まります。
私がここにいて、その私がいろいろなことを考えます。
明日の仕事はどうしよう、今日の夕飯は何にしよう、どんな人とつき合おう、上司のあのひと言はどういう意味だったのだろう……など、人間がいろいろなことを考えたり悩んだりするのは、結局すべて「私はここにいる」ということがスタート地点です。
ある人が、大変悩んで夜も眠れなかったとします。
食事も満足にとれず、どんどんやせていきます。
本人は、自分の悩みについてさまざまに原因を考えます。
でも、実はそう思うほど「大変な悩みごと」があるのではないのです。
まず、自分が「今、ここ」にいることには気づかない。
代わりに、自分に大変な悩みごとがあると判断して、さらに悩むのです。
「自分がいる」ということが、すべての根本にあります。
他の人が、その「大変な悩みごと」を聞いたら、「こんなの悩みではない」と言うかもしれません。
すべての根本には、「自分がいる」ということがあって、その自分がいろいろと考えを巡らせる。
このことによって、「悩み」や「問題」が起きているのです。
その「自分」の判断によって、ちょっとしたことが大きな悩みになったり、問題となったりするわけです。
同じ問題であっても他人から見れば、ばかばかしい、くだらない、とるに足らないものだと判断できることも多いのです。
ですから瞑想で最初にするのは、自分自身に気づくこと。
こういう悩みがある、こんなひどい問題がある、貧乏だ、金持ちだ、恋人が嘘をついた、わがままだ、近所の人がうるさい、病気で苦しい、仕事がつまらない、うまくいかないなど、どんなことでもそれを「悩み」と判断しているのは自分です。
自分でした判断に自分が縛られ、苦しんでいる。
それが「苦しみのある自分」なのです。
それからまた、自分に苦しみがあるから悩むという悪循環になる。
この悪循環を断つためには、「自分がいる」ということを観察して、勉強しなくてはいけません。
「自分」を勉強して、悪循環の根を断たなければなりません。
すべては心が支配する p50
私たちの多くは、まず健康維持が大切だといって、体の管理に懸命になりがちです。
しかし本当は、体よりも心をもっと健やかにしようと努力するべきなのです。
それには二つの意味があります。
一つは、いくら体を健やかにしても、そこにはおのずから限界があるということです。
体をきれいにしようとしても、洗いすぎると肌が荒れてしまいます。
運動をしすぎたら倒れてしまいますし、食事に神経質になりすぎると、食べるものが何もなくなってしまいます。
いくら運動をして食べ物に気をつけて、規則正しく生活していても、突然倒れてしまうこともあります。
ある日突然、自分の体の細胞が自分に逆らって、攻撃してくることがあるのです。
どう気をつけてもあてにならないものなのです。
それに、どんなに努力しても、体は必ず老化していきます。
何をしても、どう生きても、老いが進んで、最後には必ず死ぬ。
これだけは誰にも否定できない事実です。
もう一つは、人間の体も含め、すべては心が支配しているということです。
ちょっと観察してみてください。
たとえば腕を動かしたいとき、あなたはまずどうしますか?
「腕を動かしたい」と心で思って、それから腕を曲げるのではないですか?
歩くにしても、まず「歩く」と心の中で命令して、足を動かして歩くのではないですか?
逆に、体に心と反対のことをさせるのは、なかなか難しい。
「立つ」という基本動作のことを考えてみましょう。
自分が「立ちたい」と思えば、何の困難もなく立てます。
ところが、「立つ」という意志のない人を立たせるのは大変難しいですよね。
デモの記事や報道で、警察官が座り込む人々の手や肩を持って、ごぼう抜きにしている映像を目にすることがありますが、相手の意志に反して引っこ抜くのは、いかに屈強な警察官でも難しそうですね。
逆に失神状態の人を立たせるのも、大変難しいのです。
自分で立とうと思ったら、何のこともないかんたんなことです。
今、私が手を上げたとします。
これは体が勝手にやったことではありませんね。
心が命令したから、手が上がったのです。
心が「走れ」といったら走りますし、「ごはんを食べなさい」といったら食べるのです。
息を吸って吐くことから始まって、人間のするすべてのことは、人間の「心」が命令して行っているのです。
字を書くときも、心が「字を書こう」と命令しているから書けます。
書いた字が、汚くて読みにくいとしたら、それは体がそうしているのではなくて、心がそうさせているのです。
だからきれいに書けないのです。
心を解放する気持ちで p54
本書では、二つの瞑想法を紹介します。
一つは「慈悲の瞑想」、もう一つは「ヴィパッサナー瞑想」です。
ここで、注意点を述べておきましょう。
慈悲の瞑想をすると、とても清らかな気持ちになります。
その心になることが、次のヴィパッサナー瞑想への下準備となります。
まず、慈悲の瞑想をして、清らかな落ち着いた心の状態に持っていきます。
そして、ヴィパッサナー瞑想へと移っていきます。
高い効果を上げるためには、「ありのままの真理を見たい。一切のストレスから自分を解放したい」という気持ちで、自分を観察していきましょう。
「何かをつかみとって、幸福になる」という決意が大事です。
はじめてだから、慣れていないからという気持ちは持たないでください。
「自分は今、何をしているのか」を見てみる p55
ヴィパッサナー瞑想で得られる「智慧」は、「知識」と違って、長くやったから身につくというものではありません。
ちょっとしたひと言、ちょっとした一瞬でも、何かを得られます。
頭の中でよけいなことを考えてはいけません。
判断はやめるのです。
ただ、一つひとつの観察を通じて自分に会ってください。
「はじめまして」という感じで、何のフィルターもかけずに、自分の姿を見てください。
これは、いわば心を映す「鏡」をこしらえるということ。
この鏡を持っていないと、たいてい自分がどういう人間かを知らずに過ごしてしまいます。
たとえば、頭がかゆくなると頭をかきますね。
「そこ」が自分です。
目がちょっとかゆくなった。
「私の目がかゆい」、そこで目をなんとかして、かゆみをとろうとする。
それが「自分」です。
足を組んでいたら足が痛くなった。
そこで足を動かして、痛くないようにする。
そういうふうに無意識にしていることがたくさんあるでしょう。
このような活動の積み重ねが、「自分」という概念をつくっているのです。
しかしこの概念は、たくさんの無駄な思考で目が曇らされているために、「自分」をわからなくしています。
そこで、1分単位でいいので、「自分は今、何をしているのか」ということを確認してみてください。
というのは、そうした感覚だけが事実で、あとは全部妄想だからです。
妄想をカットすると、自分が何であるかがあらわれてきます。
蜃気楼のようにとらえきれなかった「自分」というものが、結局はとるに足らない、シンプルな行為の流れであることが発見できると思います。
たとえば、心に恨みが起こるとします。
そのときは、相手の欠点だけを見ているのです。
欠点は誰にでもあります。
その欠点に触れる度、必ずしも人を恨む気持ちになるとはかぎりません。
その瞬間、心が相手の欠点を「恨みの対象」として解釈した場合です。
同じ欠点に対して、笑ってしまう場合も、気にしない場合も、心配することもあり得ます。
自分を観察しない人は、恨みがあらわれた途端、相手が悪いと判断します。
自分を観察する人は、まず恨みが起きたら、自分の心に現実的にあらわれた恨みのみを観察するのです。
この訓練を続ければ、どんな瞬間でも、自分の心はどんな状況にあるのかを発見できるようになります。
3ステップ+1オプションの言葉 p58
「慈悲の瞑想(いつくしみの瞑想)」は、仏教用語でいう「サマタ瞑想」のひとつです。
「サマタ」とは、英語では“calm”にあたり、「落ち着く、穏やかになる」という意味で、静かな落ち着いた心をつくる瞑想法です。
サマタ瞑想にはいろいろな種類があり、坐禅、ヨガ、念仏、声明などがそうです。
ヒーリングミュージック、α波音楽も一種のサマタ瞑想と考えることができるでサマタ瞑想で心が落ち着いてくると、脳にα波という脳波が生じます。
脳波は脳内の神経細胞同士が外部からの刺激に反応して発する信号で、各脳波の持つ周波数によって心の状態がわかるとされています。
通常、私たちが目覚めているときや、あれこれものごとを考えたり、緊張や心配ごとがあったりすると、β波という脳波があらわれます。
しかし、目覚めた状態でリラックスしているときや、集中している状態ではα波に切り替わるのです。
慈悲の瞑想法は、完全に安全で、副作用もまったくないサマタ瞑想で、心を落ち着かせ、心を統一するための実践です。
三つのステップと一つのオプションで成り立っています。
①自分の幸せを願う
②親しい生命の幸せを願う
③すべての生命の幸せを願う
オプション……私の嫌いな生命、私を嫌っている生命の幸せを願う
62ページから始まる3ステップと1オプションにある言葉を唱えます。
時間や場所の制約はありません。
一日にこれだけやる、といった時間の決まりもありません。
できるだけリラックスして、明るい気持ちで始めてください。
どんな姿勢で瞑想してもかまいません。
立ってでも、座ってでもできます。
歩きながらでもできます。
言葉は、心の中で念じても、口に出して唱えても、好きな節をつけて、歌のように歌ってもかまいません。
そのときの場所や状況で決めてください。
朝一番と夜寝る前が効果的 p60
時間と場所が許すなら、後に紹介するヴィパッサナー瞑想の「座る」方法(→142ページ)と同様に、背すじをまっすぐのばして座り、目をつむって念じるのがいいのですが、そうでないときは、電車の中、歩きながら、あるいは入浴中など、いつでもどこでも、どんな姿勢で行ってもいいでしょう。
一日にどれだけやらなければいけないという決まりはありません。
時間は、長ければ長いほどいいに越したことはないのですが、できるときに念じていれば、やればやるほど心が静まり、清らかになっていきます。
気をつけたいのは、気持ちが伴わず言葉だけが浮いてしまうこと。
言葉が空回りしないように、一字一句に心を込めて、集中しながら念じてください。
一つおすすめするのが、朝一番と就寝前に瞑想をルーティンにすることです。
起きてすぐに慈悲の瞑想を念じると、仕事や家での悩みやトラブル、それによってたまっていたマイナスの気持ちがやわらぎ、その日一日をすっきりした気持ちで過ごすことができるでしょう。
夜寝る前に念じれば、その日一日に起きたちょっと嫌なこと、感情のもつれ、気持ちのわだかまりなどが薄らぎ、新しくパリッとした気持ちで翌日を迎えることができるでしょう。
時間が許すときは、一日中念じてもいいのです。
ゆっくりであっても、自分が変わっていくことを実感できると思います。
憎しみ、怒り、差別する心が解けていき、広い心を持った穏やかな人間にだんだん成長していきます。
すると自分でも不思議なほど、ものごとがうまくいくようになっていきます。
人間関係にしこりがあった人、体調がすぐれなかった人も、いつの間にかよくなっていきます。
心が変われば、体も変わり、取り巻く世界まで変わるのです。
Step1 私の幸せを願う p62
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光があらわれますように
私は幸せでありますように
私は幸せでありますように
私は幸せでありますように
Step2 親しい生命の幸せを願う p64
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光があらわれますように
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命が幸せでありますように
Step3 生きとし生けるものの幸せを願う p66
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとしいけるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとしいけるものの願いごとが叶えられますように
生きとしいけるものに悟りの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
オプション 自分の嫌いな生命、自分を嫌っている生命の幸せを願う p68
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光があらわれますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光があらわれますように
慈悲の瞑想の終わり方 p70
慈悲の瞑想は、最後に次の言葉を唱えて終わります。
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
「私は幸せでありますように」……慈(メッター) p72
慈悲の瞑想の1行目は、「私は幸せでありますように」です。
この言葉を念じることで、慈(メッター)という善の心を育てます。
慈とは、生命を友だちだと思う気持ち、いつくしむ気持ちのことです。
誰でも、生まれてきている以上、自分の幸せを求めています。
「幸せになりたい」とは、突き詰めれば「生きていたい」という気持ちです。
しかし問題は、この気持ちが行きすぎたとき、互いにぶつかり合ってしまったときです。
Aさんという人の「生きたい」という気持ちとBさんの「生きたい」という気持ちがぶつかり合えば、そこには必ず問題が起きます。
これが不幸の始まりなのです。
行き違いやすれ違い、悩みの原因になります。
そこで大切なのは、幸せになりたい、生きていたい、という自分の気持ちをごまかすことなく見つめることです。
自分にとって自分はとても大切な存在である、という事実を素直に受け入れることです。
そうすることで、自分だけでなく、他の生命も同じ願いを持っているのだ、ということに気づけるのです。
ただし、「幸せ」について、あまり具体的なことをイメージしないように気をつけてください。
「あの絵画が買えたら幸せ」とか、「子どもがあの学校に受かってくれたら幸せ」といった具体的なイメージが頭に浮かんでしまうと、瞑想している意味がなくなります。
欲の妄想が次から次へと膨らんで、止まらなくなります。
そういう欲の妄想は、すべて心の毒です。
この毒を消さないと、瞑想の目的から離れてしまうのです。
ですから、「幸せになりたい」という気持ちは、イコール「生きていたい」という気持ちなのだと理解してください。
つまり、今生きていて、この本を読んでいるというだけでも、あなたはとても幸せな人間なのです。
そんなふうに、できるだけ広い意味で「幸せ」をとらえて、自分の幸せを願ってください。
「私の悩み苦しみがなくなりますように」……悲(カルナー) p73
2行目の「私の悩み苦しみがなくなりますように」です。
この言葉で、生命の悩みや苦しみをなくしたいという悲(カルナー)の心を育てます。
そのために、まず自分自身が悩みや苦しみをなくしたいと思っていることを確認するのです。
悩み、苦しみといっても、何か具体的なことを思い浮かべる必要はありません。
常識的に考えれば、悩みや苦しみは避けたいものでしょう。
瞑想の文句では、現在の悩み、苦しみを対象にしています。
あなたは、今何の悩みもないという気分でいるかもしれません。
でも、事実はそうではないのです。
ブッダは「生きることは苦」と説きました。
実際、私たちの人生には絶えず「苦」がつきまといます。
その苦をなくそうと努力することが、すなわち「生きること」になっているのです。
たとえば呼吸をしないで息を止めていたら、すぐ耐え難い苦しみに陥ります。
ですから、この瞬間吸うことも吐くことも、耐え難い苦しみを回避すること、苦を避けることなのです。
そういうわけで、2行目を念じる場合も、日常生活で起こる具体的な悩み、苦しみをあれこれ思い浮かべたり、感情を引き起こしたりする必要はありません。
ただ「悩み、苦しみがなくなりますように」とシンプルに念じるだけでけっこうです。
「私の願いごとが叶えられますように」……喜(ムディター) p75
3行目は、「私の願いごとが叶えられますように」です。
これは、心に喜びを引き起こさせる言葉です。
この言葉を繰り返すことで、生命の希望が叶ったり、成功したりしたときに、それを素直に喜ぶ気持ちを育てます。
仏教用語で、「喜(ムディター)」という心です。
かんたんにいえば、嫉妬の反対です。
何か願いごとが叶ったとき、努力が実ったとき、私たちは肩の荷が下りた気分にならないでしょうか?
ホッとして、「よかった!」という気持ちが生まれるまずです。
ここでも、一つ注意していただきたいことがあります。
この行を念じる場合は、大胆な願いごとを考えないようにしてください。
成功させなければならない大きな課題を抱えている人は、瞑想中、そのことが思い浮かぶでしょう。
でも、それはやめてください。
そんな大胆な願いごとを持っていない人は、この行を念じても意味がないのではないか、と思うかもしれません。
しかしそれもまた、勘違いなのです。
願いごととは何でしょうか?
このように理解してみてください。
私たちはあらゆる瞬間に、何かに挑戦して生きています。
小さな希望を叶えながら生きているのです。
たとえば、足を組んで痛くなった人は、「楽になりたい」という願いを起こします。
それで足を伸ばして楽になるのです。
買い物をしたくなったら、コンビニやスーパーに行くでしょう。
それで必要なものを買って帰るのです。
このように、小さなコマ単位に人生を考えると、「私たちは瞬間、瞬間に希望があって、その都度、それを叶えながら生きている」という事実が見えるはずです。
私たちは、大胆な願いごと、非現実的な夢・希望・願望ではなく、コマ単位で発見できる希望を重視したほうがよいのです。
そういう種類の希望が叶わなかったら大変なことになります。
おなかが空いているのにお弁当を買えない、のどが渇いているのに飲み水がどこにもない、といった状況に置かれたらとても困るでしょう。
しかし、人生の中でそこまでひどい目に遭うことは、そうそうないと思います。
それならば、自分の人生はけっこううまくいっていると、かんたんに喜べるはずです。
大胆な願いごと、非現実的な夢・希望・願望は単なる妄想にすぎません。
それにとらわれることで、さまざまな悪感情が引き起こされてしまいます。
瞬間ごとに希望が叶っていることを確認して、それに喜びを感じながら、素直に「私の願いごとが叶えられますように」と念じてみましょう。
「私に悟りの光があらわれますように」……捨(ウペッカー) p77
4行目の「悟りの光」とは、つまり「智慧」のことです。
すべての生命に対して、区別・差別をしないで平等に見ることができること、いつでも冷静な気持ちで生命に接することができる心境を仏教用語で「捨(ウペッカー)」といいます。
冷静であることは、智慧があることの特色なのです。
悲(カルナー)の項目でも紹介したように、生きることは、苦しみとの戦いです。
私たちは瞬間、瞬間、何らかの問題に遭遇しています。
その問題は解決できたり、できなかったりまちまちです。
解決できないと心が乱れ、悩んだり苦しんだりします。
解決できたならば、そのときは心が冷静でいられるのです。
人生をコマ単位で見ると、次から次へと起こる問題は、そう大きなことではありません。
立ったまま電車で通勤しているとき、電車が急ブレーキをかけたとします。
反動で体が倒れそうになるので、瞬時に手を伸ばして吊り革をとります。
そうすることで、自分の身を守り、他人の体に倒れて迷惑をかけることも避けるのです。
智慧というのは、そのように小さなコマ単位で問題をさっさと解決することで、徐々に開発されるものなのです。
ですから、「悟りの光」「智慧」について大胆なことを考える必要はありません。
シンプルに、「いつでも、問題を解決できるひらめきがあればいいのではないか」という気分で念じてみましょう。
親しい生命の幸せを願う p78
ステップ2の「親しい生命」というのは、あなたにとって無理なく、ごく自然に親しさを感じられる人々・生命のことです。
「かれらが不幸せであったなら、自分も幸せではいられない」
「自分の幸せは、相手の幸せと同じ」
そう思える人々・生命のことを思うのです。
いつくしみの言葉をゆったりと念じましょう。
ステップ1で自分の幸せを願ったときと同じ心を、そのまま周囲の親しい存在に広げるのです。
自分のまわりの人々、親しい生命が、全員幸せになってほしいと、心から真剣に念じてください。
真剣に願えば願うほど、自分のことだけが気になっていた狭い心が、親しい生命も含めた、より広いものに育っていきます。
心の器が大きくなるのです。
このステップでも、願いの対象は具体的でないほうがいいのです。
具体的に願ったら、そこに欲が生まれてしまいます。
また、この瞑想は、「願掛け」のように誰かの幸せを直接実現しようとするものではありません。
「幸せになってほしい」という対象を「自分」から「親しい人」に広げることで、自分の心をトレーニングすることが目的です。
あくまでも対象は、自分の心です。
いつくしみの言葉を、心をこめて念じることで、あなたの心の中には喜びと清らかなエネルギーが満ちてきます。
こうしたプラスのエネルギーは、必ず周囲の人に伝わっていきます。
あなたのまわりの人々に、やさしい波動が伝われば、あなたは必ず幸せになります。
ですから、前のステップと同様に、「幸せ」の意味をできるだけ広くとらえて、心から願ってみてください。
生きとし生けるものの幸せを願う p80
「自分」→「親しい人」と「幸せを願う」対象を、ステップごとに広げてきました。
ステップ3ではさらに進んで、「この世に生きるすべての生命」に、対象を広げます。
願う対象を広げていけば、やがて自分の心も広大になり、清らかになっていきます。
エゴという心のサビが剥がれて、どんどんきれいになっていきます。
エゴがなくなれば、まわりの命にも、幸福とやすらぎが広がっていきます。
どの命も、この世に生きる以上、幸せになりたいと願っています。
自分と同じように、他の人々も、他の生き物も、微生物でさえも、すべてが自分の幸せを願いながら生きているのです。
私たちの命は、こうした無数の命に支えられて存在しています。
一人ひとりの人間は、他の無数の人々に支えられて生きています。
つまり、社会がないと人間は生きていけません。
そして人間社会は、動物、植物、微生物などの力があってはじめて成り立っています。
食べ物にしても、空気にしても、命あるもの、かつて命のあったものの名残が、食べ物や空気として、私たちの体を維持してくれているのです。
微生物のはたらきがなければ、私たちの体はたちまちおかしくなってしまいます。
だから「すべての命の幸せを念じる」といっても、それは一方的なボランティアではありません。
むしろ、すべての命が自分とつながっている、この世は無数の命がクモの巣状につながったネットワークであり、自分は自分だけで生きているのではない、命のネットワークに生かされているのだ、と感じる智慧のことなのです。
無数の命と命が支え合うこの世界。
こういうイメージを持って、「ありとあらゆる命が幸せでありますように」と念じてください。
自分と他者の区別がない広大な心を育てる p82
古くから実践されてきた、慈悲の瞑想の方法を一つ紹介します。
「この家に住むみんな(人間と他の生命)、この集落に住むみんな、村に住むみんな、この地方、この国、周囲の国々、世界の国々」、というふうに幸せを願う対象を広げていきます。
次に、「人間、動物、神々、霊、地獄にいる生命も幸福でありますように」と、念じる対象を広げる。
それから、「この宇宙、他の宇宙に住む生命」にも広げてみる。
最後に「一切の生命は幸福でありますように」と念じる。
これは、今も仏教の国々で行っている方法のひとつです。
また、自分がいる場所から、「東・西・南・北・上空・地下」という六方に、無限に生命の幸せを願う気持ちを広げる方法もあります。
ブッダが経典の中で紹介されているのは、この方法です。
自分に理解できる分け方で、小さなブロックから巨大なブロックまで広げればよいのです。
慈悲の瞑想で最終的に達する位置は、ものごとを「生きとし生けるもの」というスタンスで観察できるところです。
こうしたトレーニングを積めば、やがて「私」と「他者」の区別のない、広大で無制限な気持ちが心の中に育っていきます。
その気持ちは、だんだん心に根を下ろして、少しくらいのトラブルがあっても揺らがないようになります。
トラブルに足を引っ張られるどころか、ものごとを広大なスタンスで見られるようになるので、心は徹底して安定した状態になるのです。
強い精神力が身につきます。
これは、慈悲の瞑想で達する「サマーディ」という境地です。
自分の命も、一切の生命の命も、平等に感じられるようになると、「自分という個は実体として存在しない」「他人という個も実体として存在しない」ということを発見する可能性もあります。
それは確実に、エゴが消えた状態です。
もし、この状態に達したならば、悟りの境地に達しているのです。
エゴが完全に消える境地は、悟りの3番目の段階で、「不還果」といいます。
究極の悟りは、次の4番目の最終段階だけですから、慈悲の瞑想だけでも、悟りへ進むこともあり得ます。
慈悲の瞑想を欠かすことなく、あわせて次章で紹介するヴィパッサナー瞑想を実践すれば、誰でも悟りに達します。
自分の嫌いな生命、自分を嫌っている生命の幸せを願う p84
瞑想のオプションとして、「あなたの嫌いな生命、あなたを嫌っている生命」の幸せを願ってみます。
どうしても気が合わないとか、趣味が合わないとか、利害関係が衝突するとか、コミュニケーションがうまくとれないなどの理由で、敵対的な関係になってしまう人がいます。
誰でも、好きな人もいれば嫌いな人もいます。
組織や集団の関係を見ても、ライバル会社、ライバル校、敵対国、敵対するグループなどは、常に存在します。
しかし、前のステップまでで、心が着実に成長していれば、このような関係の相手に対しても、その幸せを願えるようになります。
自分の心が成熟してくると、嫌いな人や相手のことが心に浮かんでも、何も思わなくなります。
さらに成長すると、どんな生命も嫌いにならなくなります。
今まで嫌いだと思っていたけれど、実はその相手は自分にとって鏡のようなもので、その相手がいるから自分の存在が引き立ったり、あるいは反面教師になったり、という形で、自分の行動の指針になっていた……ということも、往々にしてあります。
つまり、敵だと思ったその生命が、実は広い意味では自分の仲間だったということに気づかされます。
こんな心境になれたら、すべての敵はいなくなります。
敵のない人生とは、すなわち無敵だということです。
どんな高価な財宝でさえもかなわない、そんな宝を手にしたのと同じです。
心がこのような状態まで成長したら、慈悲の瞑想はその目的を十二分に達成したことになります。
しかし、最初は無理をしないようにしてください。
これはあくまでもオプションの瞑想ですから、まずは試しに念じてみて、自分の心の中をチェックしてみてください。
最初は1回だけ念じれば十分です。
嫌な気持ちになるようなら、その時点でやめてください。
1回念じて支障がないようなら、続けて2~3回念じてもいいでしょう。
自分の心の成長に合わせて、嫌な気持ちが起こらない、無理のない範囲で試してみてください。
感情をつくらない=思考を止める p98
私たちは、何かを見たり聞いたりすると、つい心の中に感情をつくってしまいまむみょうす。
それは、心が「無明」の状態にあるからです。
たとえば音を聞くと、どうしても心は感情をつくってしまいます。
感情が起きれば、結局それは苦しみにつながります。
でも、聞かずにはいられませんし、聞きたくないと思っても、体が勝手に聞いてしまうのです。
見たくなくとも、ものがあると目に像が映り、見てしまうのです。
体に感覚がある以上、仕方のないことです。
見ざる、言わざる、聞かざるを実践しても、人間には思考というものがありますから、「私は考えたくない」と思っても、まったく何も考えずにいることは、ふつうの人にはできません。
そして考えてしまう以上、それは仏教から見ると、すべて誤った考え、誤知なのです。
誤知は無明から生まれます。
だとしたら、無明をなおしてしまえばいいのではないでしょうか?
すべての問題を元から断つのです。
無明がなくなれば、何を見ても聞いても心は汚れません。
慈悲の瞑想のポイントは、心を統一して、静かな、穏やかな気持ちになることでした。
これに対してヴィパッサナー瞑想のポイントは、ものごとにとらわれないようにすること、離れること、関わりが起こらないようにすることです。
仏教のことばでは、「遠離(厭離)」といいます。
誰かが自分に話しかけてきたとします。
ふつうであれば、人間はすぐその言葉に意味をつけて解釈します。
たとえば、「あの人は怒っている」というように。
そのような解釈をやめて、言葉の内容に関わりを持たず、「音、音」と確認するのです。
その音について、何も考えないように努力するのです。
たとえば、きれいな花を見つけたとします。
あるいは美しい名画を見たとします。
見ると当然、心の中に感情が湧いてきます。
感激したり、感動したりします。
前向きのものであろうと、後ろ向きのものであろうと、それはどちらも感情です。
感情には、欲がつきまとっています。
欲のない感情はありません。
ですから心にとっては悪なのです。
汚れなのです。
ヴィパッサナー瞑想で鍛えられた心は、何かを見たり聞いたりしても、そのものの中には入っていきません。
これが、遠離ということです。
一枚の絵を見たとします。
自分は大した絵だとは思わなかったのに、「これはゴッホの絵です」とか、「数億円で売られているのですよ」と言われていろいろな情報が頭に入ってくると、最初の感想はどこへやら、「ああ、これはすごい絵だ」というふうに思えてきませんか?
世間の評判や専門家の意見によって、かんたんに動かされてしまうのです。
ヴィパッサナーとは、パーリ語で「明確に観察する」という意味だと、前に話しました。
この場合でいうと、「いい絵」とか「悪い絵」というような主観をはたらかせず、事実で受け止める、ということなのです。
絵を見たとき、「見えました」「見えています」「見えています」と念じてみます。
そうすると、「見えている」対象に対して、さまざまな思考や妄想、感情などは起こりにくくなるのです。
これは遠離を体験する実践です。
耳に音が入ってくれば、ふつうは音楽であったり、雑音であったり、人の声であったり、鳥の声であったりと、何らかの判断をします。
それによって、心に何らかの波が立ってしまいます。
ですから、この瞑想では、「音」「音」、あるいは「聞こえている」「聞こえている」と、事実だけを念じます。
そうすると、音は自然に耳から入りますが、感情は生まれなくなり、感情による迷い、悩み、憂いなどが生まれなくなるのです。
p102
ヴィパッサナー瞑想の真髄は、思考をストップさせること。
思考をストップさせるには、普段より何倍も強く頭をはたらかせなくてはなりません。
世間では思考をたくさんする人ほど、頭がいいとみなすようですが、事実は反対です。
思考は頭を鈍らせます。
思考をストップさせるために、頭を何千倍もの速さではたらかせなければならないのです。
思考が減ると、その分苦しみが減り、智慧があらわれます。
「思考を停止するトレーニング」=ヴィパッサナー瞑想は、今、この瞬間に起きていることを、言葉で、心の中で絶えず確認する実践です。
私は、このトレーニングを理解しやすくするために、「実況中継」という言葉を使っています。
サッカーや野球などスポーツの実況中継は、今、起きていることをアナウンサーが説明していきますね。
あれをもっと時間の単位を短くして、もっと詳しく確認するのが、ヴィパッサナー瞑想だと思ってください。
しかし、放送局の実況中継のように、評価すること、専門家の解説を入れることはしません。
ただ、体に起こることをそのまま確認し続けるのです。
一瞬たりとも絶えることなく、体に何かが起き続けます。
これを実況すると、他のことを考えている余裕がなくなります。
ふだんより何倍も忙しくなります。
それで、思考しない状況が生まれるのです。
もっとも大事な「今」にエネルギーを使う p105
ノンストップで実況中継が確実にできるようになると、悩み、苦しみがそれだけですっと消えていきます。
私たちが悩んだり苦しんだりしていることは、ほとんどが過去のことです。
過去のできごとを忘れないで何度も思い出している。
そして思い出す度、同じ苦しみにとらわれている。
それが悩みです。
未来のことも、悩みの種になります。
人間は将来のことを考えれば考えるほど、心配でたまらなくなります。
ですから、過去を思い悩む苦しみと未来を案じる心配とで、心はずっと痛めつけられます。
過去と未来とにエネルギーを奪われて、もっとも大事な「現在」に振り向けるエネルギーが不足しているのです。
これが、人生がうまくいかない原因です。
人間は、考えることでエネルギーを無駄遣いしているのです。
ですから、ヴィパッサナー瞑想によって過去や未来に向けるエネルギーをカットし、「現在」にのみ意識を集中すると、脳は活性化して、能力を発揮できるようになります。
脳が活性化すると、心は強い幸福感、満足感を覚えるようになります。
脳が幸せになると、体の調子もよくなっていきます。
「立つ」→「座る」 p130
この瞑想は、少々難しいかもしれません。
最初は短時間でもいいので、徐々に慣れていってください。
「座る瞑想」は、一見「坐禅」と似ていますが、まったく別のものです。
この瞑想では、自分の自然な呼吸を感じながら、今、この瞬間のありのままの自分を客観的に感じていきます。
ポイントは、とにかくスローモーションで動くこと、そして、常に実況中継を細かくしていくことです。
座る姿勢は、お尻を坐布に乗せて足を組んで座る形でも、椅子に座った形でも、どちらでもよいですが、いつでも背すじと頭を伸ばした状態を心がけてください(①)。
まず、座ります。
座るときも、実況中継しながら超スローモーションで座っていきます。
「座ります、座ります、座ります」
座ってから、まずはしっかり背すじを伸ばします(②)。
最初は力が入っていてもかまいません。
徐々に力を抜いてそのままの姿勢で、リラックスします。
力が抜けてきたら、上半身をストンと前に30度くらい傾けます(③)。
「目を閉じる」 p131
倒れたら、そのままの姿勢で実況しながら目を閉じます。
目を閉じてからも、「目を閉じます、閉じます、閉じます」と10秒から30秒くらい実況中継します。
そして、30秒くらいそのままの姿勢を続けます。
すると、次第に体の重さを腰に感じてくると思います。
体の重さを感じたら、徐々に背すじを伸ばし、胴体をまっすぐにして、腰から頭までの上半身をできるだけ、ゆっくり、ゆっくり上げます。
「上げます、上げます、上げます」と、実況中継を忘れないように。
「体を固定する」 p132
胴体がまっすぐの状態に戻ったら、体を固定します。
「体を固定します、固定します、固定します」と実況中継します(④)。
腰に体重を乗せ、背すじをすっと伸ばしたまま、肩、胸、おなかあたりの筋肉の力を抜いてリラックスします。
これ以後は、「ストップモーションの瞑想」になるので、体を動かさないようにします。
ここまでで、いったん終えてもかまいません。
「深呼吸」 p133
体を固定したら、まずは深呼吸します。
ポイントは、強制的に腹式呼吸をすることです。
おなかいっぱいに空気を吸って吐き出してください。
「吸います、吸います、吸います」と実況中継をします。
「吐きます、吐きます、吐きます」と続けてください。
これをワンセットとして、5~6回くらい繰り返してください。
少し「疲れたな」と思うくらいがちょうどいい回数です(⑤)。
「待つ」→感覚の実況中継 p133
少し疲れてきたら、深呼吸はやめて、「待ちます、待ちます、待ちます」と実況中継をします。
約20回、「待ちます」と繰り返してください(⑥)。
そうすると、だんだん体がリラックスして、自然に呼吸している状態になっていきます。
リラックスしてきたら、おなかのあたりに意識を向けてみてください。
特定の部位ではなく、広く下腹部の感覚を感じてみます。
すると、息をするにしたがって、おなかが膨らむ、縮む、膨らむ、縮む、という感覚がだんだんはっきりと感じられるようになってくるはずです。
この段階になるまで、「待ちます」と実況を続けてください。
おなかの膨らみ、縮みを感じたら、実況中継の仕方を変えます。
ここからは、おなかの動きを実況中継します。
「膨らみ、縮み、膨らみ、縮み」と中継していきます(⑦)。
おなかの動きがゆっくりになって、「膨らみ、縮み」の間に隙間ができてしまった場合は、「膨らみ、膨らみ、膨らみ」「縮み、縮み、縮み」というふうに、同じ言葉を繰り返してください。
このとき、「膨らませます」「縮ませます」という言葉は、絶対に使わないでほしいのです。
「膨らませます」「縮ませます」という言葉には、「私の(おなか)が」という主語が入り込んでいるからです。
ヴィパッサナー瞑想は、客観的に、ありのままの事実を見る訓練をするので、なるべく主語のない言葉を使ったほうがいいのです。
「膨らむ」「縮む」という動詞自体、主語がなければ成り立ちませんから、それもやめましょう。
「膨らみ、膨らみ、縮み、縮み」にしてください。
体に起こる感覚の中でも強い感覚を実況 p135
この瞑想は、どうしても雑念が入り込んでしまい、うまくいかないことも少なくありません。
この雑念こそが、私たちが取り払わなければならない心の汚れであり、悩みやストレス、苦悩をつくり出す悪魔です。
しかも、かなりの強敵です。
ちょっとやそっとでは、とうていやっつけることはできません。
瞑想をしていると、雑念が次から次へと襲ってきます。
これは避けられません。
しかし、思考しないことにチャレンジすることが目的なので、思考してしまっては元も子もありません。
これに対しては、正面から戦おう、雑念を気にしないことにしよう、膨らみ・縮みだけを実況しようと思わずに、「雑念」を確認してください。
そのとき、「雑念、雑念、雑念」または、「妄想、妄想、妄想」と3回必ず念じるのです。
それが雑念をカットする方法です(⑧)。
座る瞑想を行う際は、体を動かさないで、固定したままで座っていてください。
しばらく続けていると、体のどこかが痛んだり、しびれたりもすると思います。
かゆみが出てくることもあるでしょう。
そのときは、その痛んだ部分、しびれた部分、かゆい部分に意識を集中して、これも実況中継します。
「痛み、痛み、痛み」(痛い、痛い、は禁句です。)
「しびれ、しびれ、しびれ」(しびれる、しびれる、は禁句です。)
「かゆみ、かゆみ、かゆみ」(かゆい、かゆい、は禁句です。)(⑨)
痛み、しびれ、かゆみなどは、頭の生み出した妄想ではなく、現実です。
ですから、この現実を認め、淡々と実況中継をすればいいのです。
ただし、体を動かさないでください。
体を動かすことは、精神的に負けたことになるのです。
膨らみ、縮み、痛み、かゆみ、しびれなどは、すべて体の感覚です。
ですから、この現象の中で、何を実況してもかまいません。
痛みを実況している間でも、雑念が割り込んだら、「妄想、妄想、妄想」と3回実況して、「痛み、痛み」に戻ります。
しびれ、かゆみ、などの場合も同じです。
痛み、かゆみなどは、ずっと続くものではありません。
消えていきます。
その後は、「膨らみ、縮み」の実況に戻ります。
ここでのポイントは、体に起こる複数の感覚の中でも、強い感覚を実況することです。
湧き出す感情も実況中継する p138
瞑想を続けていくと、観察能力が上がっていきます。
そして、膨らみ、縮み、痛み、かゆみ以外に、自分の心の中にさまざまな感情もあることに気づき、発見するのです。
怒り、悲しみ、妬み、喜び……いろいろなものが見えてくるはずです。
最初は明確な形ではないと思いますが、だんだん見えてきます。
もちろん、そうした感情も実況中継してください。
「怒り、怒り、怒り」「妬み、妬み、妬み」といったような言葉で、ただ、何の判断も交えずに実況中継します(⑩)。
怒りが悪い、妬みが悪いなどと考えると、それは妄想になってしまいます。
起きた現象なので、そのまま確認して実況します。
この種の妄想や感情が湧き起こるのは当たり前のことで、何も不思議なことではありません。
こうした妄想をカットすることこそ、瞑想の目的です。
見つけたら、その都度実況中継で確認してください。
妄想も感情も、その都度消えてなくなります。
いっぺんになくならないで、粘って続く場合もあります。
こちらも粘って、実況中継だけするのです。
まわりの音や光も淡々とやり過ごす p139
瞑想している間、さまざまな音も耳に入ることでしょう。
それにより、集中力が壊れてしまっては困ります。
音が入ると、私たちは反射的に「○○の音」と判断してしまいます。
しかし、瞑想中は何の音かと決して判断してはいけません。
たとえば「車のクラクション」だと思ったとします。
しかし、目を閉じている人は、耳に入った音が車のクラクションだと、100%の確実性では言えないはずです。
クラクションだと思ったことは、妄想になります。
ですから、どんな音が入っても集中力を途切れさせず、「音、音、音」と実況してください。
目を閉じているときには、脳の視覚野も勝手にはたらいてしまうこともあります。
いろいろなものが見えたりもします。
ふつうのものも、そうではないものも見えるのです。
気にする必要はありません。
家を大掃除するときは、家の中が落ち着かない状態になることはふつうです。
脳の大掃除の場合も同じことです。
そのときは、「見える、見える」と実況するだけです。
さまざまな形で光が見えることもあります。
これも、気にしないことです。
「光、光」と実況するのです。
興奮しないこと、混乱しないこと、解釈しないことです。
心配することもまったくありません。
ブッダの瞑想は、完全に安全なのです。
座る瞑想の終わり方 p140
初心者は、最低20分は続けて、座る瞑想を終わります。
終わり方も大事です。
次のようなステップで終了します。
まず、予定時間になったら、深呼吸に戻ります。
「吸います、吸います、吸います」
「吐きます、吐きます、吐きます、終わります」
これをワンセットとして、3回繰り返して落ち着いたところで、なるべくゆっくり目を開けてください(⑪)。
これで、座る瞑想を終了します。
最初は座り続けることがつらいかもしれません。
まずは20分くらいチャレンジしてみてください。
続けられる時間は、その人の経験や精神力などによってまちまちです。
次の二つのポイントで、自己判断してみてください。
・明確に、真剣に、実況中継を続けられる時間
・痛みなどが出てきて、忍耐できるぎりぎりの時間
決して無理をする必要はありません。
瞑想は苦行ではないのですから、長時間苦痛に耐えて行ったからといって、よいことがあるわけではありません。
自分に最適な、時間と場所で試してみてください。
フィルターを通した認識は「捏造」 p184
では、フィルターとは何でしょうか?
一つは「欲」です。
私たちは常に、自分が「こうあってほしい」という思いのままに対象を見ます。
つまり、「そのまま」でなく「わがまま」に見るのです。
二つ目は、「怒り」で認識するフィルターです。
そのときは「嫌だ」と判断してしまう。
そう判断すると、すべて嫌なものに見えてきます。
逆に好きと決めつけたものは、何であろうと好き、すばらしいというふうに見ます。
三つ目に、「無知」というフィルターがあります。
人間は、この地球上で自分たちが一番偉いと思っています。
そして、その見方を立証するため、強引に情報やデータを探しています。
たとえば、人間には知能がある、他の生命には知能がない。
だから人間がいちばん偉いのだと思ってしまいます。
でも、見方を変えれば、知能がなくとも、他の生命は何の問題もなく堂々と生きています。
他方、人間は、たくさんの知識を持って苦労しないと生きられません。
火のおこし方、道具のつくり方・使い方を知らないと、たちまち食べることもできなくなって死んでしまいます。
それでも人間が他の生命より偉いと考えている人が多いのは、その見方に合うデータや情報だけを拾って見ているからです。
これら三つのフィルター(欲・怒り・無知)で捏造された認識を、パーリ語で「パパンチャ(papañca)」といいます。
日本では「戯論」と訳されていますが、「捏造」という日本語がぴったり合っています。
間違った認識による妄想幻想のことだと理解してもよいのです。
もう少し詳しく説明してみましょう。
この三つのフィルター(障害)を、ブッダは「貪瞋痴」として整理しました。
ひと言でいうと、「貪」は欲望・欲求、「瞋」は怒りや妬み、「痴」は無知を表します。
「貪」は、何でも自分のものにしなければ収まらない心のエネルギーです。
物欲、名誉欲、金銭欲、所有欲など、「貪」から生まれる欲は、この世のほとんどのトラブルや問題の原因になっています。
「貪」は自分の思いどおりにしたいというエネルギーですから、自分の利益だけを考え、他人の利益を考慮しないという態度につながります。
「瞋」は、ものごとを嫌な目で認識するとき「瞋」のフィルターを通しているのです。
「食」のフィルターで、好きなものだと期待して認識したところで、結果はそうでなかった場合、「瞋」があらわれることもあります。
たとえば、おいしいものを期待して食べたのに、期待外れにまずかったら、嫌な気分になって怒りが湧いてきます。
「瞋」が欲をさらに加速することもあります。
食べたものがまずかったら、その嫌な気分を消すために、無性においしいものを食べたくなるのです。
「痴」とは、ありのままに認識しない私たちのふつうの認識状況です。
知識がないということではありません。
知識があるとき、さらにありのままに認識するのではなく、知識というフィルターを通すのです。
ありのままに認識するためには、フィルターを壊さなくてはいけません。
「捏造」しない唯一の方法 p188
こうしたフィルター(障害)によって曇らされているがゆえに、人間は対象をそのままに見ることができません。
たとえば、誰かがすごくかわいい犬を飼っていて、あなたは飼っていないとします。
道ですれ違ったりすると、とてもかわいい犬なので、「かわいいなあ」と素直に思います。
その後、自分の犬を飼い始めたとします。
道で以前出合った犬を再び見かけたとしても、前と同じ気持ちでいられるでしょうか?
前は「かわいい」とだけ思っていたのに、今は「自分の犬のほうがかわいい」とか、「かわいさは同じくらいだが、あっちのほうが賢そう」とか、いろいろなことを考えてしまいます。
つまり、「欲」が入ったことで、パパンチャが生まれたのです。
人間の苦しみの根本は、パパンチャという捏造機能。
だから、これを破らないと、人は幸せにはなれません。
このパパンチャを破る唯一の方法が、ヴィパッサナー瞑想です。
心に起きている現象を、人間の歪んだレンズ、汚れたフィルターを通して見るのではなく、起きていることをそのままで見てみよう、ということなのです。
そのままで見るためには、何を体験してもそこに判断を入れず、体験をそのままで見つめる必要があります。
判断はやめます。
思考は邪魔です。
ヴィパッサナー瞑想とは、考えない、判断しないトレーニングなのです。
満たされない渇愛が、不幸のスパイラルをつくる p192
エゴは、「自分は偉い、だから他の生命は、私の思いどおりになるべきだ」という観念です。
この観念を追い出さないと、人間は幸せになれません。
「何かを思いどおりにしたい」という欲求は、渇愛です。
渇愛の根本にはエゴがあります。
しかも渇愛には限界がありません。
一つ手に入れれば二つ、二つ手に入れれば三つ……と無限に膨らんでいくのです。
人間の欲望は無限に膨らむのに対して、世界にあるものは有限ですから、渇愛は絶対に満たされることはありません。
満たされない欲望(渇愛)から満たされない思い(苦)が生まれ、苦がまた渇愛を生む。
このようにして、人間は不幸になっていきます。
ブッダは、瞑想でしかこうした不幸の根を断ち切ることはできないと言っています。
あらゆる判断を停止し、心に実際に起きていることだけをモニターしていくと、「感覚」が見えてきます。
どんな生命にも感覚があり、常に動いています。
私たちは、生きる上で、怒ったり、笑ったり、歩いたり、座ったり、勉強したり、仕事をしたり、考えたり、いろいろなことをしています。
それらはすべて、ある感覚を受けて反応したことから成り立っているのです。
「感覚がある」ということは、「命が生きている」ということです。
しかし人間は、他の生命と違って、この感覚を元にさまざまな誤った思考・観念・概念・感情などをつくり出しています。
それは前に、パパンチャ(捏造)という言葉で説明しました。
悩み、苦しみも、ありとあらゆる問題も、パパンチャにより生じるものです。
認識は、欲望などの煩悩によって歪められているから、パパンチャというのです。
ですから、ヴィパッサナー瞑想によって、パパンチャが起こらないように努力してみるのです。
パパンチャを引き起こさない努力によって、心が成長します。
清らかになり、煩悩がなくなります。
同時に、生きるとは何かということを、ありのままに発見するのです。
それが智慧です。
感覚の中には視覚、触覚などの五感以外に、考えること(意)も入っています。
感じたものについて、私たちは感情を引き起こします。
それから、思考や概念などを引き起こす。
「美しい音楽だ」「おいしい食べ物だ」「きれいな人だ」などです。
その思考・概念は感情に操られたものです。
それらが止まることなく回転し、新たな思考・概念をつくり出す。
その思考・概念は、より強い感情に操られたものになります。
ちょっとしたできごとでも、精神的にまいってしまうところまで、いともかんたんに膨張することはあり得るのです。
知識は少量でも幸福になれる p199
こういう概念で頭の中がいっぱいになっている人を、世間では「知識人」と呼びます。
知識人にも2種類あります。
ただ概念をたくさん知っているだけの人と、その概念を何かに応用できる人です。
知識を応用する力とは、つまり「智慧」です。
この智慧は、仏教でいう解脱の智慧とはまた違うものです。
知識を応用する能力で、仏教用語で「方便」といいます。
知識をいかに有効的に応用できるか、という能力の有無が人生を左右するのです。
同じ教育を受けて同じ知識を詰め込んでも、ある人には役立ち、ある人にはまったく役立たない。
その違いは、智慧(方便)のはたらきがあるか否かによって決まるのです。
知識が少なくても、応用能力に富んだ人は、それで不幸になることはないのです。
ここで朗報です。
ヴィパッサナー瞑想の実践で、この応用能力がかなり向上します。
知識は大量でなくても、応用できるならば、その人は幸福になるのだと、ブッダは説いています。
『法句経』19、20の偈(詩)を参照して、説明します。
「仏教をよく学び、知識は豊富で、他人にも教えてあげる先生になっていても、自分で応用しない人は、他人の牛を日雇いでめんどうを見る人と同じです。
牛から得られる恵みには、何の縁もありません」
インドでは、牛は宝物です。
肉食が少ないインド人にとっては、牛乳を加工することで得られる五味(乳味・酸味・生酥味・熟酥味・醍醐味)は最高のぜいたくなのです。
牛を飼うことの意義は、五味に恵まれることですが、日雇いの牛飼いには、その権利はありません。
仏教の知識が豊富な出家者であっても、応用しない人は、ブッダの教えの醍醐味には縁がないのです。
わずかな仏教知識であっても、それを応用する人(実践する人)は、仏教の醍醐味の持ち主です。
牛飼いと、牛の持ち主の差は大きいのです。
もう一つ問題があります。
実践する気持ちは毛頭なく、巨大な知識人になろうと思っても、勉強できる量には限界があります。
世の中にある知識、すべてを学ぶ能力も時間も、一人の人間にはありません。
ですから、知識だけの人はいつでも不完全です。
知識によって、幸福になることもありません。
応用能力がある人だけが、大いに幸福を感じるのです。
智慧は人間の宝物 p201
瞑想を続けていくと、「知識とは、ただの現象にすぎない」ということがわかります。
人の悪感情によって危険な知識を練り上げることもできるのだと理解します。
瞑想実践する人は、自分にある知識は絶対、他人の不幸に応用しません。
今までの知識はより有効に、より効率的に、人々の幸福のために応用するのです。
知識は誤知です。
瞑想実践で、誤知が正知に変わります。
このことを仏教では「正見」といいます。
誤知を克服して正見に達した人に、解脱の智慧があらわれるのです。
ブッダは「人間の宝物は智慧である」と言います。
「無知の状態で生きていても何の意味もない。
いくら長生きをしても無意味だ。
智慧を持って生きることは、たとえ一日の寿命であっても、無知のまま百年生きるよりははるかに尊いのだ」と説いています。
純粋な「心」は存在しない p202
瞑想実践は、心を育てるのだと書きました。
ここで知っておきたいのは、この「心」というものはいったい何か、ということです。
ここでは、仏教がいう心について説明します。
一切の現象は無常であると説かれているので、人に霊魂があってもそれは永遠不滅になりません。
心も当然、無常なものでなければなりません。
わかりやすくするために、かんたんな単語を使います。
心とは、「生きている、命がある」という意味です。
生きている、ということは、客観的に調べられます。
呼吸したり、食べたり、老いたり、病気になったりすることが、生きていることです。
一瞬たりとも止まることなく、死ぬまで生きているのです。
この生きるはたらきが、心です。
絶対的で変わらないものではありません。
「生きている」ということは、変化することそのものです。
次の説明に入りましょう。
私たちの体という物体が、情報を認識する。
見る、聞く、味わう、感じる、考える……。
それは生きることです。
それをするために、六根で感じなくてはいけないのです。
その感じること(感覚)が、心のスタート地点です。
感じた「知」に対して、好き嫌いなどの感情が入り込む。
それから、「意」で概念をつくったり考えたりもする。
このように、「心のはたらき」という巨大なシステムが成り立っています。
この肉体から感覚が消えた瞬間に、人は死にます。
命があった体が、物体になるのです。
すべての生命の心の本質は、基本的に同質になるはずです。
虫の心も、私の心も、本質的には同一なのです。
それは「本質的」にそうだというだけです。
実際は、各個人の心は違うものです。
同じ人であっても、朝の心と午後の心は違います。
例えていうならば、心は水のようなものです。
水がどこの水でも本質的には水に変わりないように、人間の心もまた、誰の心であっても、みな同じようなものです。
本質的には同じものです。
しかし、水といっても、厳密にいうといろいろな混ぜ物があったりして、二つとして同じ水はありません。
どんなに純度が高くても、その成分は微妙に違っています。
さらに水は、その中に溶けたものによって、お茶になったりコーヒーになったりします。
お茶もコーヒーも、別々の飲み物です。
しかし、お茶にもコーヒーにも含まれる純粋な水は、同一です。
溶けているものによって、別々な飲み物になるのです。
この世で、100%の純粋な水が存在しないのと同じく、純粋な心も存在しません。
心といえば、必ず何かが溶けているのです。
Q 慈悲の瞑想「私の親しい生命」の幸せを念じる場合、亡くなった人を思ってもいいものでしょうか? p214
A……
人の死は、悲しみをつくり出します。
思えば思うほど悲しくなります。
「悲しみ」は、「怒り」の別名でもあります。
また、「無知」も潜んでいます。
人の死という、人間にはどうしようもないことに対して怒り、不満を述べるのが悲しみです。
つまり、怒りという負の感情で心を満たしていることになります。
慈悲の瞑想の対象は、あくまでも「生きとし生けるもの」です。
「亡くなった人」は、生きている生命ではなく、「自分の思い出」が対象となってしまいます。
仏教では輪廻転生を説きます。
人は死んだら、すぐ別の生命に生まれ変わります。
亡くなった人に対して、いつくしみを持っても、すでに別の生命になっているので、願いは届きません。
「宇宙が幸せでありますように」と念じるようなもので、意味がありません。
慈悲の瞑想は、「生命が幸せでありますように」ということに意味があります。
「生きとし生けるもの」の中には当然、故人が生まれ変わった生命も含まれているので、とくに亡くなった人を思い浮かべなくても大丈夫です。
Q 「幸せになる」ということは、つまるところどういうことなのでしょうか? p215
A……
幸福になることは、仏教の目的でもあります。
現在「仏教」と呼ばれているものは、ブッダの教えである「幸福の道」をまとめたものです。
仏教ではそれを大きく4箇条に整理し、「四聖諦」と呼んでいます。
1番目の教えは、「生きることは苦(ドゥッカ)である」ということ。
この場合の「苦」とは「空しい、不安定」というような意味で、執着するようなものではないということです。
生きる人が確実に得られるものは、「老・病・死」です。
そして、愛するものから離れなくてはいけないこと、嫌なものに出会わなくてはいけないこと。
ほしいものを得られないこと。
それらが生きることです。
要するに、生きることは苦である、ということなのです。
2番目の教えは、「なぜ苦しみが生まれるのか」ということ。
何をしても、ものたりないという気分が常にあることと、生き続けたいという希望があること。
これは、生に対する愛着です。
しかし、一切は無常なのでその希望は叶いません。
何を得ても、それらは無常なのでなくなります。
ですから、何かを得ても不満は消えません。
不満が増すばかりの「生きること」に対する愛着を、ブッダは「渇愛」と名づけています。
3番目の教えは、苦が消えた幸福な状態について。
涅槃、平安、安穏などの言葉で表現されている境地のことです。
4番目の教えは、苦しみから逃れ、完全な平安、安らぎ、幸福に達するための具体的な方法について。
仏教の目的は、あらゆる苦しみから脱出して、究極の幸福に達することなのです。
おわりに p220
本書では瞑想の方法だけでなく、その前提となる仏教のものの見方、考え方などについても詳しく解説しました。
第5章の「心所」で、とりわけ瞑想で発見しなければいけない「貪・瞋・痴」という不善心所について説明しましたが、瞑想はこの不善心所を発見してなくしていくと同時に、清らかな心を構成する、善心所を育てることを目的としているのです。
慈悲の瞑想の「慈・悲・喜・捨」も、ヴィパッサナー瞑想で実践する「気づき(sati サティ)」も、善心所に含まれています(厳密には、慈と捨は違う名称で呼ばれています)。
不善心所は、発見してなくすべきもの、善心所は自覚的に育てるべきものです。
育ててほしい善心所の中で、最も大切なのは智慧(paññā パンニャー)という心所です。
仏教の修行の目的は、「智慧があらわれること」。
仏教でいう智慧とは、ありのままの真理、無常、苦、無我、因縁の法則などを正しく見ることができるはたらきです。
智慧は、一般的な善心所とは別に育てなくてはいけない心所です。
つまり、清らかな心で生きているからといって、必ずしも智慧が生じるわけではないのです。
ものごとが永久的に続くと思うのは、無知ゆえです。
ものごとは瞬間しか成り立たないという無常の真理を理解し、その体験をすることが、智慧を開発する道です。
たとえば人に優しくすることは善いことですが、そこで喜んで終わるのではなく、智慧も育ててもらいたいのです。
善いことをしても「これはこの瞬間だけのこと、すべてはすぐに消えていく」という無常の方向で考えてみるのです。
そのように考えると、智慧が生まれてきます。
人に優しくしたからといって、その人を永久的に助けたわけではないし、自分が永久的な何かを得たわけではありません。
たとえば、人に夕食をごちそうしてあげたとします。
それでその人が喜んだとしても、ずっとその人を追いかけて「この前、私はあなたを喜ばせてあげたでしょう。
あなたは満腹になったでしょう」などと言い続けるのはおかしいことです。
けれども、無知な人の行動はそれと似ていますね。
ですから無知の人がいくら善いことをしても、大胆な善い結果は得られないのです。
智慧がある人が善いことをすれば、確実に善い結果が得られます。
私たちにも、時たま智慧は生まれます。
「世の中は無常だ」と思ったりするのは智慧です。
しかし、智慧はなかなか心に根づきません。
心の中に無知という巨大な木があり、びっしりと深く根を張っていると考えてください。
その無知の根の代わりに、智慧の根を根づかせなければならないのです。
そこで、まず無知の木のそばに、智慧の木の種を植えます。
種を植えても大きな木のそばですから、日当たりは悪いし、育ちにくくて、なかなか根づきません。
日が当たるようにしたり、水をやったり、いろいろとお世話をしてください。
そうすると芽が出て、少しずつ根を張っていきます。
智慧の木には、たくさんの善心所がついているので力強いのです。
無知の木は大きいけれど、智慧の木よりも弱い。
智慧がある程度大きくなると、無知の木は倒れてしまいます。
その代わりに、智慧の根がきちんと定着します。
そのようにして、智慧で無知を追い払うのです。
私たちの仕事は、無知をなくそうとするのではなく智慧を育てようとすること。
そうすれば、無知の大木もいずれ弱って死んでしまいます。
ものごとは、めまぐるしいスピードで変化しています。
それを頭だけで理解しても、心の中では「ものごとはずっとあるのだ」と思ってしまう。
心の波動はあまりにも速いのです。
スピードが速ければ速いほど、そこに何かが「ある」ように思えます。
「魂がある」「私がいる」などと思ってしまうのは、心があまりにも無常だからです。
実際は、人間の心もすべての現象も、流れている川のように、瞬間、瞬間変化し続ける。
そこに実体はありません。
それを瞑想体験でしっかりわかることで、智慧が完成します。
本書で解説した瞑想で、あなたには智慧を育てていただきたいのです。
そのために、智慧が開発されるための基礎となる、仏教的なものの見方、考え方などを、あえて丁寧に解説しました。
瞑想を実践しながら、折にふれてこの本を読み返していただければ幸いです。
2023年6月
アルボムッレ・スマナサーラ