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「イシューからはじめよ」を読んだ

投稿時刻2024年11月24日 17:33

イシューからはじめよ」を 2,024 年 11 月 22 日に読んだ。

目次

メモ

p2

ちまたに「問題解決」や「思考法」をテーマとした本は溢れている。
しかし、その多くがツールやテクニックの紹介で、本当に価値あるアウトプットを生み出すという視点で書かれたものは少ないように感じる。
意味あるアウトプットを一定期間内に生み出す必要のある人にとって、本当に考えなければならないことは何か。
この本はそのことに絞って紹介したい。

この本でもいくつかカギとなる考え方を紹介する。
しかし、それは単なるノウハウではなく、本当にやるべきことを補助するための道具箱、という位置づけだ。
「ロジックツリー」「MECE」「フレームワーク」……、どれも正しく使えばとても強い力をもつツールだが、それらを知っているだけでは答えを導くことはできない。
「カナヅチをもっていればすべてのものがクギに見える」という言い回しがあるが、このように目的を知らずにツールだけを使うのは危険だ。
いわんや、「アウトプットとして何を生み出すことに意味があるのか」、ツールからその答えを導き出すことはできない。

悩まない、悩んでいるヒマがあれば考える p4

「〈考える〉と〈悩む〉、この2つの違いは何だろう?」
僕はよく若い人にこう問いかける。
あなたならどう答えるだろうか?

僕の考えるこの2つの違いは、次のようなものだ。
「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること
この2つ、似た顔をしているが実はまったく違うものだ。

「悩む」というのは「答えが出ない」という前提に立っており、いくらやっても徒労感しか残らない行為だ。
僕はパーソナルな問題、つまり恋人や家族や友人といった「もはや答えが出る・出ないというよりも、向かい合い続けること自体に価値がある」という類の問題を別にすれば、悩むことには一切意味がないと思っている(そうは言っても悩むのが人間だし、そういう人間というものが嫌いではないのだが……)。

特に仕事(研究も含む)において悩むというのはバカげたことだ。

仕事とは何かを生み出すためにあるもので、変化を生まないとわかっている活動に時間を使うのはムダ以外の何ものでもない。
これを明確に意識しておかないと「悩む」ことを「考える」ことだと勘違いして、あっという間に貴重な時間を失ってしまう。

僕は自分の周りで働く若い人には「悩んでいると気づいたら、すぐに休め。悩んでいる自分を察知できるようになろう」と言っている。
「君たちの賢い頭で10分以上真剣に考えて埒が明かないのであれば、そのことについて考えることは一度止めたほうがいい。
それはもう悩んでしまっている可能性が高い」というわけだ。
一見つまらないことのように思えるかもしれないが、「悩む」と「考える」の違いを意識することは、知的生産に関わる人にとってはとても重要だ。
ビジネス研究ですべきは「考える」ことであり、あくまで「答えが出る」という前提に立っていなければならない。

「悩まない」というのは、僕が仕事上でもっとも大事にしている信念だ。
これを伝えた若い人たちを見ていると、この本当の意味がわかって実践に入るまでに1年程度かかることが多い。
しかし、その後は「アタカさんから教わったことのなかでこれがいちばん深いですね」と言われることが多い。

バリューのある仕事とは何か p22

生産性を上げるために最初に考えるべきは、そもそも「生産性」とは何かということだ。
ウェブ上のフリー百科事典「ウィキペディア」では、「経済学で、生産活動に対する生産要素(労働・資本など)の寄与度のこと。
あるいは資源から付加価値を生み出す際の効率の程度のこと」とあるが、これでは何のことやらさっぱりわからない。
この本で言うところの「生産性」の定義は簡単で、「どれだけのインプット(投下した労力と時間)で、どれだけのアウトプット(成果)を生み出せたか」ということだ。
数式で表現すれば、図1のようになる。

生産性を上げたいなら、同じアウトプットを生み出すための労力・時間を削り込まなければならない。
あるいは、同じ労力・時間でより多くのアウトプットを生み出さなければならない。
ここまでは自明のことだと思う。
どうだろうか?

では、「多くのアウトプット」とは何だろうか?
言い換えれば、ビジネスパーソンであればきっちりと対価がもらえる、研究者であれば研究費をもらえるような「意味のある仕事」とは何だろうか?

僕のいたコンサルティング会社では、こうした意味のある仕事のことを「バリューのある仕事」と呼んでいた。
プロフェッショナルにとって、これを明確に意識することが大切だ。
プロフエッショナルとは、特別に訓練された技能をもつだけでなく、それをベースに顧客から対価をもらいつつ、意味あるアウトプットを提供する人のことだ。
つまり、「バリューのある仕事とは何か」という問いへの答えがわからなければ、生産性など上げようがないのだ。

1分ほど時間をとって、落ちついて考えてもらいたい。

プロフェッショナルにとって、バリューのある仕事とは何か?

どうだろうか?

僕はこれまで、多くの人にこの問いを投げかけてきた。
だが、明瞭な答えが出ることは多くなかった。
よくある答えは、
・質の高い仕事
・丁寧な仕事
・ほかの誰にもできない仕事
といったものだ。

これらは正しい面もあるが、本質を突いたものとは言えない。

「質の高い仕事」というのは、「バリュー」を「質」に言い換えているだけだ。
では「質」とは何か、という同じような問いに戻ってしまう。
「丁寧な仕事」というのも、「丁寧であればどんな仕事でもバリューがある」と言ったら、多くの人は違和感をもつことだろう。
最後の「ほかの誰にもできない仕事」というのは一見正しいように思えるが、もう少し考えてみよう。
「誰にもできない仕事」というのは、通常の場合、ほとんど価値をもたない仕事だ。
価値がないからこそ、誰もやってこなかったのだ。

「質の高い・丁寧・誰にもできない」といった答えは、問いの本質の半分にも達していない。

「バリューのある仕事とは何か」

僕の理解では、「バリューの本質」は2つの軸から成り立っている。

ひとつめが、「イシュー度」であり、2つめが「解の質」だ。
前者をヨコ軸、後者をタテ軸にとったマトリクスを描くと、図2のようになる。

「イシュー」という言葉は本書の「はじめに」でも出てきたが、あまり聞いたことがない人もいるだろう。
「イシュー」で検索しても日本語ではほとんど説明がないが、英語の「issue」で検索すると定義がたくさん出てくる。
僕の言うところのイシューは、図3のような定義があてはまる。

AとB両方の条件を満たすものがイシューとなる。

したがって、僕の考える「イシュー度」とは「自分のおかれた局面でこの問題に答えを出す必要性の高さ」、そして「解の質」とは「そのイシューに対してどこまで明確に答えを出せているかの度合い」となる。

前頁の図2のマトリクスに戻ると、この右上の象限に入るものが「バリューのある仕事」であり、右上に近づくほどその価値は上がる。
バリューのある仕事をしようと思えば、取り組むテーマは「イシュー度」と「解の質」が両方高くなければならない。
問題解決を担うプロフェッショナルになろうとするなら、このマトリクスをいつも頭に入れておくことが大切だ。

多くの人は、マトリクスのタテ軸である「解の質」が仕事のバリューを決める、と考えている。
そして、ヨコ軸である「イシュー度」、つまり「課題の質」についてはあまり関心をもたない傾向がある。
だが、本当にバリューのある仕事をして世の中に意味のあるインパクトを与えようとするなら、あるいは本当にお金を稼ごうとするなら、この「イシュー度」こそが大切だ。

なぜなら、「イシュー度」の低い仕事はどんなにそれに対する「解の質」が高かろうと、受益者(顧客・クライアント・評価者)から見たときの価値はゼロに等しいからだ。

「深い理解」にはそれなりの時間が必要 p40

脳は脳自身が「意味がある」と思うことしか認知できない。
そしてその「意味がある」と思うかどうかは、「そのようなことが意味をもつ場面にどのくらい遭遇してきたか」によって決まる。

p51

イシューと仮説は紙や電子ファイルに言葉として表現することを徹底する。
当たり前に聞こえるかもしれないが、多くの場合、これをやれと言われてもうまくできない。
なぜ言葉にできないのかといえば、結局のところ、イシューの見極めと仮説の立て方が甘いからだ。
言葉にすることで「最終的に何を言わんとしているのか」をどれだけ落とし込めているかがわかる。
言葉にするときに詰まる部分こそイシューとしても詰まっていない部分であり、仮説をもたずに作業を進めようとしている部分なのだ。

僕が「言葉にすることを徹底しよう」「言葉に落とすことに病的なまでにこだわろう」と言うと驚く人が多い。
僕は「理系的・分析的な人間」だと思われているようで、そうした僕から「言葉を大切にしよう」というセリフが出ることが意外なようだ。

これもイシューに基づく思考の本質が誤解されている部分だと思う。

人間は言葉にしない限り概念をまとめることができない。
「絵」や「図」はイメージをつかむためには有用だが、概念をきっちりと定義するのは言葉にしかできない技だ。
言葉(数式・化学式を含む)は、少なくとも数千年にわたって人間がつくりあげ磨き込んできた、現在のところもっともバグの少ない思考の表現ツールだ。
言葉を使わずして人間が明晰な思考を行うことは難しいということを、今一度強調しておきたい。

「新しい構造」で説明する p65

深い仮説をもつための2つめの定石は「新しい構造」で世の中を説明できないかと考えることだ。
どういうことか?
人は見慣れたものに対して、これまでにない理解を得ると真に大きな衝撃を感じるものだ。
そのひとつのやり方が先ほどの「常識の否定」だが、もうひとつのやり方が検討の対象を「新しい構造」で説明することだ。

これは、僕たちの脳神経系のしくみのためだ。
脳はコンピュータでいうところの「メモリ」も「ハードディスク」にあたる記憶装置もなく、神経がつながりあうだけのつくりをしている。
つまり、神経間の「つながり」が基本的な「理解」の源になる。
よって、これまであまり関係していないと思っていた情報の間につながりがあるとなると、僕たちの脳は大きなインパクトを感じる。
「人が何かを理解する」というのは、「2つ以上の異なる既知の情報に新しいつながりを発見する」ことだと言い換えられる。

この構造的な理解には4つのパターンが存在する。
簡単に説明しておこう。

・共通性の発見
いちばん簡単な新しい構造は共通性だ。
2つ以上のものに、何らかの共通なことが見えると、人は急に何かを理解したと感じる。
たとえば、「あの人はメキシコの建国の際に2つの対立陣営を束ねる大きな役割を果たした人です」と言われるより、「あの人はメキシコにおける坂本龍馬です」と言われたほうが(日本人であれば)圧倒的に理解したと感じるだろう。
「オフィス用プリンタとビル内エアコンは収益構造のしくみが同じ」と言われれば、どちらかを知っている人であれば「なるほど」と思うだろう。
腕と鳥の翼が実は同じ器官が異なるかたちに進化したものだと知れば、比較して意味合いを引き出すことができる、というのも同じだ。

・関係性の発見
新しい構造の2つめは関係性の発見だ。
完全な全体像がわからなくとも、複数の現象間に関係があることがわかれば人は何か理解したと感じる。

「ポールとジョンは親友でおおむね同じ行動をしている」「ジョンとリッチは対抗しており、まったく反対の行動をしている」ということを知っていれば、ポールの最近の行動を見れば、おおむねリッチが何をしているのかがわかる。

科学分野では「まったく異なるホルモンに関わる脳内の2つのレセプターの働きに関係性がある」というのが典型例だ。
これが10個の異なるホルモンレセプター間の体系的な関係となれば、かなり理解につながったように感じる。
実際、このパターンの研究でいくつものノーベル賞が授与されている。

・グルーピングの発見
新しい構造の3つめはグルーピングの発見だ。
検討対象を何らかのグループに分ける方法を発見することで、これまでひとつに見えていたもの、あるいは無数に見えていたものが判断できる数の固まりとして見ることができるようになり、洞察が深まる。

グルーピングの典型例はビジネスにおける「市場セグメンテーション」だ。
市場を何らかの視点に基づいた軸で切り分け、それぞれのグループごとに違う動きが見えれば、それまでとは違う洞察を得て、自社商品・競合商品の現状分析や今後の予測がしやすくなる。

・ルールの発見
新しい構造の4つめはルールの発見だ。
2つ以上のものに何らかの普遍的なしくみ・数量的な関係があることがわかると、人は理解したと感じる。

物理法則の発見はほとんどがこれに当てはまる。
「机の上から落ちる鉛筆」と「地球から見る月が安定して浮かんでいる」というのが同じロジック(=万有引力)で説明できる、というのもそのひとつだ。

ビジネスではここまで数式化できることは少ないが、遠く離れたように見える2つの出来事に強いルール性がある、という例は珍しくない。
たとえば「ガソリンの工業的な取引価格が上下すると10ヶ月遅れでサトウキビの農産品価格が同様に動く」といった決まったパターンが見えると、何らかのより深い構造的な気づきにつながる。

いきなり「常識を否定」するような強力なイシューを発見できなくても、がっかりする必要はない。
見てきたとおり、「新しい構造」で現象を説明できないかを考えることがもうひとつの正攻法だ。
そして、これらにつながる視点で新たなことが検証されれば深い洞察とインパクトを生み出す。
朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマンは、かつて「科学が役に立つのは先を見て推理を働かせる道具になるからだ」と言ったが、これはまさに深構造的な理解を得ることの本質を示している。

条件③ 答えを出せる p70

「本質的な選択肢」であり、十分に「深い仮説がある」問題でありながら、よいイシューではない、というものが存在する。
それは、明確な答えを出せない問題だ。
そんなものがあるのか、と言われるかもしれないが、どのようにアプローチをしようとも既存のやり方・技術では答えを出すことはほぼ不可能という問題は多い。

たとえば、僕のサイエンスの師匠の1人である山根徹男(元ベル研究所・現サンパウロ大学教授)が教えてくれた話がある。
1960年代、山根先生がカリフォルニア工科大学に在学していたとき、当時天才の名をほしいままにしていたファインマンから聞いたというものだ。

「確かに〈重力も電磁気的な力も三次元の空間にありながら、距離の二乗に反比例する〉というのは非常に興味深い現象だ。
ただ、このような問題には関わらないほうがよい。
現在のところ、答えが出せる見込みがほとんどないからだ」

僕は物理学徒ではないが、この問題は50年ほどたった今も、数多くの天才たちの手を通り抜けて解明されないままのはずだ。
ファインマンは正しかった。

科学の世界では、ファインマンの例のとおり、「実際に答えを出し得る手法が見えないために、昔から謎であることがわかっているのに手つかずの問題」というものが多い。
手法が出てきたことでようやく研究がはじまった、という問題が目白押しなのだ。

問題が提示されてから300年以上もかかってようやく解かれた「フェルマーの最終定理」も、プリンストン大学のアンドリュー・ワイルズが近代数学の粋を尽くして解いたということだが、まさにこの「手法が見つかってはじめてよいイシューとなった」という例のひとつだろう。
生物学者・利根川進(1987年にノーベル生理学・医学賞受賞)の言葉も示唆に富む。

「(略)ダルベッコが後に僕のことをほめていうには、トネガワはそのときアベイラブル(利用可能)なテクノロジーのぎりぎり最先端のところで生物学的に残っている重要問題のうち、なにが解けそうかを見つけ出すのがうまい、というんだね。
(略)いくらいいアイデアがあっても、それを可能にするテクノロジーがなければ絶対にできない。
だけど、みんなこれはテクノロジがなくてできないと思っていることの中にも、そのときアベイラブルなテクノロジーをぎりぎりまでうまく利用すれば、なんとかできちゃうという微妙な境界領域があるんですね(略)」(「精神と物質」/文藝春秋)

利根川の師匠の1人であるリナート・ダルベッコ(1975年にノーベル生理学・医学賞受賞)とそれを受けた利根川の言葉はよいイシューの本質をよくとらえている。
どれほどカギとなる問いであっても、「答えを出せないもの」はよいイシューとは言えないのだ。
「答えを出せる範囲でもっともインパクトのある問い」こそが意味のあるイシューとなる。
そのままでは答えの出しようがなくても、分解することで答えを出せる部分が出てくればそこをイシューとして切り出す。

ビジネス上でも、こうした問題は山積みだ。

たとえば、値づけ(プライシング)の問題がある。
「3~8社くらいまでの企業数で市場の大半を占めている場合(実際にはほとんどの市場がそうだ)、商品の値づけはどうすべきか」というのは実際には非常に難しい問いで、現在でも明確な「決まり手」、つまり分析的にきっちり答えを出す方法は存在しない。
プレーヤーが2社であれば、ゲーム理論を活用してあるべき方向性はかなりのところまで答えを出せるが、これが3社以上のプレーヤーとなると、とたんに難しくなる。

ありふれた問題に見えても、それを解く方法がいまだにはっきりしない、手をつけないほうがよい問題が大量にある、というのは重大な事実だ。
また、他人には解けても自分には手に負えない問題、というのもある。
気軽に取り組んだはいいが、検証方法が崩壊した場合には、時間の面でも手間の点でも取り返しのつかないダメージになりかねない。

「インパクトのある問い」がそのまま「よいイシュー」になるわけではない。
そしてファインマンが言ったとおり、「答えが出せる見込みがほとんどない問題」があることを事実として認識し、そこに時間を割かないことが重要だ。

ということで、「よいイシューの条件」の3つめは、イシューだと考えるテーマが「本当に既存の手法、あるいは現在着手し得るアプローチで答えを出せるかどうか」を見極めることだ。
「現在ある手法・やり方の工夫で、その問いに求めるレベルの答えを出せるのか」。
イシューの候補が見えてきた段階では、そうした視点で再度見直してみることが肝要だ。

序章で述べたとおり、気になる問題が100あったとしても、「今、本当に答えを出すべき問題」は2、3しかない。
さらに、そのなかで「今の段階で答えを出す手段がある問題」はさらにその半数程度だ。
つまり、「今、本当に答えを出すべき問題であり、かつ答えを出せる問題=イシュー」は、僕らが問題だと思う対象全体の1%ほどに過ぎない(図3、次頁)。

イシュー見極めにおける理想は、若き日の利根川のように、誰もが「答えを出すべきだ」と感じていても「手がつけようがない」と思っている問題に対し、「自分の手法ならば答えを出せる」と感じる「死角的なイシュー」を発見することだ。
世の中の人が何と言おうと、自分だけがもつ視点で答えを出せる可能性がないか、そういう気持ちを常にもっておくべきだ。
学術的アプローチや事業分野を超えた経験がものをいうのは、多くがこの「自分だけの視点」をもてるためなのだ。

p76

大学の研究などではこの作業に数カ月をかけるケースもあるだろうが、ビジネスにおいてこれは非効率であり、生産性の高いやり方とは言えない。
イシューを明確化し、肝となる検証をスピーディに進め、仮説を刷新してこそ、真に生産性の高い毎日が実現する。
多くの場合、検証までの1サイクルは1週間から長くても10日程度で回すので、この最初の仮説を出すために考える材料を集める作業は可能であれば2、3日程度で終えたいところだ。
ヒアリングなど用意に時間がかかるものはあらかじめ仕込んでおく。

p78

あまりにも基本的なことに聞こえるかもしれないが、これらを呼吸するようにできている人は少ない。
「優秀」とか「頭がよい」と言われている人ほど頭だけで考え、一見すれば効率のよい読み物などの二次情報から情報を得たがる傾向が強い。
そして、それが命取りになる。
肝心の仮説を立てる際に「色眼鏡をつけて見た情報」をベースにものを考えることになるからだ。

現場で何が起こっているのかを見て、肌で感じない限り理解できないことは多い。
一見関係のないものが現場では隣り合わせで連動している、あるいは連動しているはずのものが離れている、といったことはよくあるが、これらは現場に出向かない限り理解することができない。
間接的な報告や論文などの二次的情報では決して出てこないところだ。

p79

なお、これらの現場に出て、一次情報に触れた際には、現場の人の経験から生まれた知恵を聞き出してくる。
読み物をどれだけ読んでもわからない勘どころを聞き、さらにその人がどのような問題意識をもっているかを聞いておく。
現在の取り組みにおけるボトルネック、一般に言われていることへの違和感、実行の際の本当の押さえどころなどだ。
お金では買えない知恵を一気に吸収したい。

日本の会社の多くでは、社内はともかく外部の専門家に直接話を聞く、といったことをあまりしないようだが、これは本当にもったいないことだ。
「社外秘の事柄が多いから、あまり外部と交流できない」という理由であれば、それは多くの場合、考え過ぎや思い過ごしだ。

知らない人に電話でインタビューを申し込むことを英語で「コールドコール」と言うが、これができるようになると生産性は劇的に向上する。
あなたがしかるべき会社なり大学・研究所で働いており、相手に「守秘義務に触れることは一切話す必要はなく、そこで聞いた話は内部的検討にしか使われない」といったことをきちんと伝えれば、大半は門戸が開くものだ。
実際、僕自身もこれまで数百件の「コールドコール」をしてきたが、断られた記憶は数えるほどしかない。
生産性を上げようと思ったらフットワークは軽いほうがいい。

意味のある分解とは p108

多くの場合、イシューは大きな問いなので、いきなり答えを出すことは難しい。
そのため、おおもとのイシューを「答えを出せるサイズ」にまで分解していく。
分解したイシューを「サブイシュー」という。
サブイシューを出すことで、部分ごとの仮説が明確になり、最終的に伝えたいメッセージが明確になっていく。

イシューを分解するときには「ダブりもモレもなく」砕くこと、そして「本質的に意味のある固まりで」砕くことが大切だ。

たとえば、「卵の成分ごとの健康への影響」をイシューとした場合、サブイシューでは白身・黄身などの成分に分けた検討が必要になるだろう。
だが、ここでよくあるのが、ゆで卵をスライスするように同じようなサブイシューばかりを設定してしまうことだ。
確かにダブりもモレもないが、これでは何と何を比較し、何に答えを出そうとしているのかがわからない(図2)。

「そんなバカげたことがあるわけがない」と思われるかもしれないが、現実では、これに近い例をたくさん目にする。
「ダブりもモレもなく」という概念は「MECE」(120頁で詳説)という言葉で説明されることも多いが、こうしたものを学びはじめた当初は、本当に切り分けるべき構造に目配りができないことも多い。

「事業コンセプト」の分解 p110

イシューの分解について、例を挙げて考えていこう。

「新規事業コンセプトの有望なアイデアを検討する」というプロジェクトの場合、「事業コンセプト」自体が非常に大きな概念なので、このまま仮説を出してイシューを磨こうとしてもあいまいな仮説しか立てられない。
「事業コンセプトとは何か」と言うと、さまざまな考え方があると思うが、ひとつの考え方として次のようなものがあるだろう。

1 狙うべき市場ニーズ
2 事業モデル

事業コンセプトをこの2つの要素の掛け算と考えると、相互に制約は受けるものの、それぞれを独立したものとして扱うことができる。

具体的な仮説がない段階では、「市場ニーズ」のイシューは「どのような市場の固まりニーズを狙うのか」、「事業モデル」のイシューは「どのような事業のしくみで価値提供を行い、事業を継続的に成り立たせるか」となる(図3)。

この段階でもまだイシューの固まりが大きいので、答えを出すためにもう一段砕いていく。
「市場ニーズ」の場合は、
・どのようなセグメントに分かれ、どのような動きがあるか……ニーズ視点でのセグメンテーション・セグメントごとの規模と成長度
・時代的に留意すべきことはあるか……不連続的な変化の有無と内容、ユーザーのスイッチトレンドの有無と内容、国内外先端事例からの気づき
・具体的にどの市場ニーズを狙うべきか……取り得るオプション、競争視点からの評価・自社の強み、取り組みやすさからの評価
という3つのサブイシューにまで落とし込めば仮説が立てやすくなり、具体的な検討につなげることができる。
「事業モデル」も同じように分解していく(図3、前頁)。

p122

科学にもビジネスにも、ある程度確立したフレームワークがいくつもあるが、ストーリーラインづくりに使えるものはそれほど多くはない。
必要に応じて学び、使い分けていけばよい。
また世の中によく知られているフレームワークだからといって、必ずしも自分の取り扱うテーマに役立つとは限らない。

危険なのは、フレームワークにこだわるあまり、目の前のイシューを無理やりそのフレームにはめ込んで本質的なポイントを見失ってしまう、あるいは自分なりの洞察や視点を生かせなくなってしまうことだ。
冒頭にも書いた「カナヅチをもっていればすべてのものがクギに見える」という状況になってしまっては本末転倒であり、このような状態になるくらいならフレームワークなど知らないほうがよい。
マッキンゼーの大先輩である大前研一が生み出した前述の「3C」であれ、前に紹介したハーバードビジネススクール教授のマイケル・ポーターが生み出した「ファイブ・フォース」であれ、どんなに有名なフレームワークであっても万能なわけではないことは、いつも頭のどこかに置いておきたい。

分析の本質 p148

絵コンテづくりの第一歩は、分析の枠組みづくり、つまり軸を整理することだ。
ここで言う「軸」とは、分析のタテとヨコの広がりを指す。
単に「◯◯について調べる」ではなく「どのような軸でどのような値をどのように比較するか」ということを具体的に設計する。

僕はこれまで多くの人に分析に関するトレーニングを行ってきたが、ここで、僕はいつも同じ質問をする。
それは「分析って、何だろう?」というものだ。

「分析とは何か?」、ここで返ってくる答えは、
・分けること
・数字で表現すること
といういずれかが多い。

最近は、事業戦略の本が溢れているせいか、
・戦略的な課題について検討すること
という答えもある。
それぞれ何らかの意味はあるのだが、こと「分析の本質」という視点で考えるとこれらはいずれも的を射ているとは言えない。

「分析とは分けること」というのはよく聞く答えだが、「分けない分析」も実はたくさんある。
たとえば「東京の平均所得は地方よりも高い」という事象を検証しようとする場合、東京都と、一例として僕の出身地である富山県を対象にすると、それぞれの1人あたり、または世帯あたりの平均所得をそのまま比較するだけで事足りる。
「東京と地方では年齢層が違う」という議論があるならば、同じ年齢層同士の平均を比較する。
「分ける」必要はどこにもない。

「分析とは数字で表現すること」というのはどうだろう?
一見正しそうに思えるが、実は「数字で表現しない分析」というものもある。
たとえば、ネアンデルタール人の頭骨と現代人の祖先であるクロマニヨン人の頭骨を重ね合わせてみる。
そうすると、眉の上の部分の骨の隆起の仕方や額の傾斜など、さまざまな違いが見えてくる。
これも教科書や論文でよく見る立派な分析だ。
あるいは、ある薬品が神経形態に与える影響を調べる場合、薬剤の有無や濃度別に写真を撮ってそれを比べることもある。
数字はまったく使っていないがこれらも立派な分析だ。

「分析とは戦略的な課題について検討すること」というのも、これまでの例、つまり科学研究など戦略的な課題をテーマにしない世界でも分析が日々行われているのを見れば、本質を突いた答えではないことがわかるだろう。

「分析とは何か?」

僕の答えは「分析とは比較、すなわち比べること」というものだ。
分析と言われるものに共通するのは、フェアに対象同士を比べ、その違いを見ることだ。

たとえば、「ジャイアント馬場はデカい」という表現を聞いて、「これは分析だと思うか?」と周りの人に尋ねてみると、ほとんどの人が「分析だとは思わない」と答える。
しかし、図4のように、ジャイアント馬場の身長を日本人と他国の人の平均身長と比較して見せた場合には、今度はほとんどの人が「これは分析だ」と答える。

この差は単純に「比較」の有無だ。
「比較」が言葉に信頼を与え、「比較」が論理を成り立たせ、「比較」がイシューに答えを出す。
優れた分析は、タテ軸、ヨコ軸の広がり、すなわち「比較」の軸が明確だ。
そして、そのそれぞれの軸がイシューに答えを出すことに直結している。

つまり、分析では適切な「比較の軸」がカギとなる。
どのような軸で何と何を比較するとそのイシューに答えが出るのかを考える。
これが絵コンテづくりの第一歩だ。
定性的な分析であろうと定量的な分析であろうと、どのような軸で何と何を比べるのか、どのように条件の仕分けを行うのか、これを考えることが分析設計の本質だ。

定量分析の3つの型 p152

定性分析の設計は、意味合い出しに向けて情報の整理とタイプ分けを行うことが中心となるが、分析の大半を占める定量分析においては、比較というものは3つの種類しかない。
表現方法はたくさんあるが、その背後にある分析的な考え方は3つなのだ。
このことを押さえておくだけで分析の設計がぐっとラクになる。
では、この3つの型とは何だかわかるだろうか?
答えは次のようなものだ。
1 比較
2 構成
3 変化
どれほど目新しい分析表現といえども、実際にはこの3つの表現のバラエティ、および組み合わせに過ぎない(図5)。
それぞれについてもう少し詳しく述べてみよう。

▼比較
「分析の本質は比較」と述べたとおり、比較はもっとも一般的な分析手法だ。
同じ量・長さ・重さ・強さなど、何らかの共通軸で2つ以上の値を比べる。
シンプルだが、それだけに軸さえうまく選べば明瞭かつ力強い分析になる。
洞察を盛り込んだ条件で比較できれば相手をうならせる結果になる。
この条件を深く考えることが比較における軸の整理となる。

▼構成
構成は、全体と部分を比較することだ。
市場シェア・コスト比率・体脂肪率など、全体に対する部分の比較によってはじめて意味をなす概念は多い。
「この飲料の砂糖濃度は8%だ」というのも、「毎日炭酸飲料を飲む人は5人に1人いる」というのも、構成による分析的表現だ。
これらの例からわかるとおり、「何を全体として考えて、何を抽出した議論をするか」という意味合いを考えることが構成における軸の整理となる。

▼変化
変化は、同じものを時間軸上で比較することだ。
売上の推移・体重の推移・ドル円レートの推移などはすべて変化による分析の例だ。
何らかの現象の事前・事後の分析はすべて変化の応用だと言える。
「時間というあいまいなものでは軸の検討などしようがない」と思われるかもしれないが、「夜明け前」と「夜明け後」の比較であれば、夜明けのタイミングを「ゼロ」として記録したデータを重ねていく、といった手法もある。
結局、変化であっても「何と何を比較したいのか」という軸の整理が重要になる。

知覚の特徴から見た分析の本質 p171

なぜ、分析を比較の視点で設計し、イシューやサブイシューに答えを出すことが効果的なのか。
これを僕のサイエンスの専門である脳神経系の働きから少し考察してみよう。

結論から言えば、答えを出すべきイシューに、比較によって意味合いが生まれるのは、僕たちの脳の情報処理の特徴のためだ。
第1章でも少し触れたが、実は神経系にはコンピュータにおける記憶装置にあたるものがない。
あるものは神経同士のつながりだ。

知覚の視点から見たとき、留意しておきたい神経系の特徴が4つある。

1 閾値を超えない入力は意味を生まない
脳神経系の基本単位である単一のニューロンでは、ある一定レベルの入力がないと情報を長距離にわたって伝達する活動電位というものが発生しない。
これを「全か無の法則」というが、神経系は群であろうと脳のレベルになろうと、基本的に同じ特性をもっている。
その結果、匂いであろうが音であろうが、ある強さを超えると急に感じられるようになり、あるレベルを割り込むと急に感じられなくなる。
コンピュータも最小の情報モジュールとしてゼロ(0)とイチ(1)で処理をしているが、入力の強さと出力はあくまで線的な関係で行われる。
一方、脳の場合、閾値が「入力の意味をもちうるライン」として存在しているのだ。

2 不連続な差しか認知できない
脳は「なだらかな違い」を認識することができず、何らかの「異質、あるいは不連続な差分」だけを認識する。
これもコンピュータにはない特徴だ。

たとえば、「食堂でうどんを食べているときに、どこか離れている人がラーメンを食べていることにすぐに気づいた」というような経験をしたことがある人は多いと思う。
しかし、目の前にあるうどんの匂いが食べているうちに数パーセント弱くなっても(これは実際に起こることだ)、それをすぐに察知できる人はいない。
音であれ視覚であれ、これと同じことが言える。

脳は「異質な差分」を強調して情報処理するように進化してきており、これは脳における知覚を考える際の根源的な原理のひとつだ。
そしてこれが、分析の設計において明確な対比が必要な理由でもある。
明確な対比で差分を明確にすればするほど脳の認知の度合いは高まる。
そう、分析の本質が比較というよりは、実は私たちの脳にとって認知を高める方法が比較なのだ。
そして、私たちはこれを「分析的な思考」と呼んでいる。

これに関連した留意点としては、分析イメージを設計する際(第4章で詳説)には、同じような分析の型が続かないようにすることが重要だ。
私たちの脳は異質な差分しか認識しないため、同じかたちのグラフやチャートが続くと、2枚目以降に関しては認知する能力が格段に落ちる。
同じかたちが3枚続けば大きなインパクトを与えることは相当難しくなる。
チャートの表現レパートリーは多くもち、極力同じかたちが続かないように工夫する。

3 理解するとは情報をつなぐこと
大脳皮質の情報処理の中心となるピラミッドのようなかたちをしたニューロンはひとつあたり数千から五千程度のシナプス(神経間の接合)を形成し、ひとつのニューロンが多くのニューロンとつながっている。
ここで異なる情報をもった2つ以上のニューロンが同時に興奮し、それがシナプスでシンクロ(同期)したとき、2つ以上の情報がつながったということができる。
すなわち、脳神経系では「2つ以上の意味が重なりつながったとき」と「理解したとき」は本質的に区別できないのだ。
これが第3の特徴、すなわち「理解するとは情報をつなぐこと」という意味だ。

これを噛みしめつつ考えると、どうしてある種の説明は心理的な壁がない場合でも理解されないのか、ということがわかる。
つまり、既知の情報とつなぎようのない情報を提供しても、相手は理解のしようがないのだ。
そしてこれが、私たちが分析の設計において、「軸」を重視しなければならない理由でもある。
分析における比較の軸は、複数の情報をつなぎ合わせるヨコ糸でありタテ糸となる。
同じ基準から異なるものを見ることによって、情報と情報の「つなぎ」が発生しやすくなり、理解が進む。
優れた軸は複数の異なる情報をつなぐ力が強いのだ。

4 情報をつなぎ続けることが記憶に変わる
「理解することの本質は既知の2つ以上の情報がつながること」だと述べた。
この結果、マイクロレベルの神経間のつなぎ、すなわちシナプスに由来する特性として「つなぎを何度も使うとつながりが強くなる」ことが知られている。
たとえてみれば、紙を何度も折ると、折れ線がどんどんはっきりしてくることに似ている。
これはヘップという人が提唱したことから「ヘップ則」と呼ばれているが、何度も情報のつながりを想起せざるを得ない「なるほど!」という場面を繰り返し経験していると、その情報を忘れなくなる。
当たり前のように思えるが、これは日常ではあまり意識されていない。

きちんと意味のあることを相手に覚えてもらおうと思うなら、オウムのように同じ言葉を繰り返してもダメだ。
「××と○○は確かに関係している」という情報が実際につながる「理解の経験」を繰り返させなければ、相手の頭には残らない。
外国語を学ぶとき、単語帳だけ見ていても覚えられないが、さまざまな場面である単語が同じ意味で使われていることを認知するとその単語を覚えられる、というのも同じ話だ。

そういう視点で見ると、間違った広告・マーケティング活動は枚挙にいとまがない。
受け手の既知の情報と新しい情報をつなげる工夫こそが大切だ。

そしてこれが、明確に理解できるイシュー、サブイシューを立て、その視点からの検討を続け、その視点から答えを出さなくてはならないことの理由でもある。
常に一貫した情報と情報のつながりの視点で議論をすることで受け手の理解が深まるだけでなく、記憶に残る度合いが大きく高まるのだ。

p182

日本が生んだ世界的な脳神経科学者の1人であるマーク・コニシこと小西正一(カリフォルニア工科大学教授・米国科学アカデミー会員)の言葉にこんなものがある。

「生物学には質問を肯定する結果が出ないと何の役にも立たない実験が多い。
このような実験のことをアメリカの科学者はFishing expedition(魚釣の遠征)という。
魚が釣れなければくたびれもうけとなるという意味である。
理想的な実験とは、論理も実験も簡単で、どんな結果が出ても意義のある結論ができるものである」(「ロマンチックな科学者」井川洋二編、羊土社)

p189

この本でも紹介している理論と実験双方に秀でた希有の物理学者、エンリコ・フェルミは、「米国を走っている電車の数」「(フェルミが教授として教えていた)シカゴにいるピアノ調律師の数」など、世の中のどんな数字でもざっくりと推定することができたという。
一見、どうやって出したらよいのかわからないような数字だが、前提(世帯数・ピアノをもつ世帯率・ピアノを調律する頻度など)と枠組みを使って出していく。
このような推論の方法は「フェルミ推定」として知られてきたが、これも構造化によって数字を出す例だ。

p193

もっとも簡単なのは「人に聞きまくる」ことだ。
格好よく言えば「他力を活用する」わけだ。
それなりの経験ある人に話を聞けば、かなりの確率で打開策の知恵やアイデアをもっているものだ。
運がよければ同様のトラブル時にどのようにして回避したかを教えてもらえることもあるし、通常では手に入らない情報の入手法を聞けることもある。
自分の手がける問題について、「聞きまくれる相手」がいる、というのはスキルの一部だ。
自分独自のネットワークをもっているのは素晴らしいことだし、直接的には知らない人からもストーリーぐらいは聞けることが多い。

では、人に尋ねようのない問題や独自のやり方がうまくいかないときはどうするか。
この答えは、「期限を切って、そこを目安にして解決のめどがつかなければさっさとその手法に見切りをつける」というものだ。
期限の目安は分野によって違うだろうが、新しい手法が機能するかどうかの見極めまでなら、ビジネスの場合では数日から1週間程度だろうし、僕のやっていた生命科学分野の研究では、2、3週間程度とすることが多かった。

誰にでも愛着のあるやり方・手法がある。
信頼性もあるし、ふつうにやれば慣れているのでスピードも速い。
特にその手法が自分や自分のチームが生み出したものだったりすると、人の性としてどうしてもそれにこだわりたくなるものだ。
ただ、こだわりはほどほどにしないと、そこに足をすくわれ、分析・検証が停滞してしまう。
どれほど馴染みがあって自信のある手法でも、それでは埒が明かないとわかれば、さっさと見切りをつける。

通常、どんなイシューであろうと、分析・検証方法はいくつもあるし、どれかが絶対的に優れているということもさほどない。
自分の手法より簡単で時間のかからないアプローチがあれば、当然それでやるべきだ。

この冷徹な判断が僕らを助けてくれる。
その手法以外は考えられないという状況に陥っていないか、常にチェックしておきたい。
どんな分析でも代替策が何もないという事態は極力避ける。
どんな方法であってもよいからイシューに答えを出せればよいと考え、その視点で手法の見切りが必要かどうかをこまめに考えることだ。

回転数とスピードを重視する p197

正しくアウトプットを理解し、注力し、トラブルを回避すれば、最後は「軽快に答えを出す」だけだ。
どんなイシューもサブイシューも、答えを出してはじめてそれに関する仕事が終わった、と言える。
ここで大切なことは「停滞しない」ことだ。
要は手早くまとめていくのだが、そのためには次のコツを知っておきたい。

停滞を引き起こす要因として、最初に挙げられるのが「丁寧にやり過ぎる」ことだ。
「丁寧にやってなぜ悪いのか」と言われるかもしれないが、生産性の視点から見ると、丁寧さも過ぎると害となる。
僕の経験では、「60%の完成度の分析を70%にする」ためにはそれまでの倍の時間がかかる。
80%にするためにはさらに倍の時間がかかる。
一方で、60%の完成度の状態で再度はじめから見直し、もう一度検証のサイクルを回すことで、「80%の完成度にする半分の時間」で「80%を超える完成度」に到達する。
単に丁寧にやっていると、スピードだけでなく完成度まで落ちてしまうのだ(図5)。

よって、数字をこねくり回さず、手早くまとめることが大切だ。
1回ごとの完成度よりも取り組む回数(回転数)を大切にする。
また、90%以上の完成度を目指せば、通常は途方もなく時間がかかる。
そのレベルはビジネスではもちろん、研究論文でも要求されることはまずない。
そういう視点で「受け手にとっての十分なレベル」を自分のなかで理解し、「やり過ぎない」ように意識することが大切だ。

最後に「解の質」を示すマトリクスを載せておきたい(図6)。
序章の繰り返しになるが、インパクトのある方法でイシューに答えを出せればそれは素晴らしいことだ。
だが、大切なのは「答えを出せるかどうか」だ。
どれほどエレガントなアプローチを取ったとしても、それが正しくイシューに答えを出せなければ何のインパクトも生み出さない。
そして、もうひとつ「スピード」というものがここでは決定的に重要になってくる。
この「完成度よりも回転数」「エレガンスよりもスピード」という姿勢を実践することで、最終的に使いものになる、受け手にとって価値のあるアウトプットを軽快に生み出すことができる。

p205

僕が最初に訓練を受けた分子生物学の分野では、講演・発表をするにあたっての心構えとして「デルブリュックの教え」(マックス・デルブリュックはファージという細菌に感染するウイルスを使った遺伝学の創始者の1人、1969年にノーベル生理学・医学賞を受賞)というものがある。
これは科学に限らず、知的に意味のあることを伝えようとしている人にとって、等しく価値のある教えではないかと思う。
それが次のようなものだ。

ひとつ、聞き手は完全に無知だと思え
ひとつ、聞き手は高度の知性をもつと想定せよ

どんな話をする際も、受け手は専門知識はもっていないが、基本的な考えや前提、あるいはイシューの共有からはじめ、最終的な結論とその意味するところを伝える、つまりは「的確な伝え方」をすれば必ず理解してくれる存在として信頼する。
「賢いが無知」というのが基本とする受け手の想定だ。

p213

エレベータテストとは「仮にCEO(最高意思決定者)とエレベータに乗り合わせたとして、エレベータを降りるまでの時間で自分のプロジェクトの概要を簡潔に説明できるか」というものだ。
時間にすれば20~30秒程度で複雑なプロジェクトの概要をまとめて伝える、というこのスキルは、トップマネジメントをクライアントとして仕事を行うコンサルタントや大規模プロジェクトの責任者には必須のものだ。
そのような立場にいない人でも、このテストによって、「自分がそのプロジェクトや企画、論文についてどこまで本当に理解し、人に説明し、ひいては売り込めるようになっているか」について測ることができる。

p221

そして、それぞれのチャートが本当にひとつのメッセージしか含んでいないこと、そして、それが正しくサブイシューにつながっていることを確認する。
2つ以上のことを言いたいなら2つのチャートに分断する。
中身のあるはずのチャートがぱっと目で理解できないときには、メッセージが混在している場合が多い。
ひとつのメッセージであれば強調する場所も比較のポイントも明確だが、2つ以上のメッセージを突っ込んだとたんにわけがわからなくなるのだ。
「1チャート・1メッセージ」を徹底するだけで、1つひとつのチャートが劇的にシンプルになる。

人がチャートを見て「わかる」「意味がある」と判断するまでの時間は、経験的に長くて15秒、多くの場合は10秒程度だ。
僕はこれを「15秒ルール」と呼んでいるが、人はこの程度の時間で「その資料をきちんと見るかどうか」を判断している。
つまり「最初のつかみ」が悪ければ、そのチャートは存在しなかったことと同じになってしまうのだ。

大きなプロジェクトの場合、まとめたものの価値を判断する人は、経営者であれ論文の審査者であれ、おおむねとても忙しく、自分に自信をもつ人たちだ。
数枚続けて「このチャートには意味がない」と判断すれば、すぐに彼らの心の窓は閉じてしまう。
目線が下に落ち、目の輝きが失われる。
ゲームセットだ。

個別のチャートにおいても、周りの人に説明してみて、少しでも「これは説明しづらい、あるいはこれは伝わりにくい」と思ったら見直しを考える。
繰り返しになるが、ここで最初に考えるべきは「1チャート・1メッセージ」の法則を守っているか、ということだ。

僕が米国での研究時代にお世話になったある教授に言われ、今も大切な教えにしている言葉がある。

「どんな説明もこれ以上できないほど簡単にしろ。
それでも人はわからないと言うものだ。
そして自分が理解できなければ、それをつくった人間のことをバカだと思うものだ。
人は決して自分の頭が悪いなんて思わない」

p238

結局のところ、食べたことのないものの味はいくら本を読み、映像を見てもわからない。
自転車に乗ったことのない人に乗ったときの感覚はわからない。
恋をしたことのない人に恋する気持ちはわからない。
イシューの探究もこれらと同じだ。