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「影響力の武器」を読んだ

投稿時刻2023年12月18日 17:26

影響力の武器」を 2,023 年 12 月 18 日に読んだ。

目次

メモ

vii

しかし、いちばん多く行ったのは参与観察です。
これは、研究者がいわばスパイになる研究法です。
自分が何者であるか、どういう意図をもっているのかを隠したまま、関心をもっている環境に潜入し、研究対象とする集団の完全な一員になるのです。
たとえば、百科事典(あるいは掃除機、肖像写真、ダンスのレッスン)のセールスを行う組織が用いる売り込みの戦術を知りたいとすれば、販売員見習い募集の新聞広告に応募して、彼らの方法を直接教えてもらうのです。
まったく同じ方法ではないにしても、似たようなやり方で、広告やPR、募金活動を行う組織に入り込み、彼らのテクニックを調べることができました。
本書で紹介していることの多くは、われわれにイエスと言わせることに専心している組織に、説得のプロもしくは欲望を刺激するプロを装って何度も飛び込んだ私自身の経験に基づいています。

この約三年にわたる参与観察で私はさまざまなことを学びましたが、特に有益だったことが一つあります。
それは、その道のプロたちが相手にイエスと言わせるために使う戦術は数限りなくあっても、その大部分は六つの基本的なカテゴリーに分類できるということです。
それぞれのカテゴリーを支配するのは、人間の行動をつかさどる基本的な心理学の原理であり、この原理が用いられる戦術の力となっています。
本書ではこの六つの原理――返報性、一貫性、社会的証明、好意、権威、希少性――を取りあげていきます。
これらの原理は、社会でどのように機能するのでしょうか。
また、説得のプロたちは、それらの原理がもつ巨大な力をどう巧みに組み合わせ、購買、寄付、譲歩、投票、同意を獲得する要請に仕立てあげていくのでしょうか。

viii

私は六つの原理のなかに物欲の原理、つまり、人は選択をする際にできるだけ少ない支出で多くを得ようとする、という原理を含めなかったが、
だからといって、選択を行うときに抱く、利益を最大化し、損失を最小化したいという欲求が重要ではないと考えているわけではない。
また、承諾誘導のプロたちがこの原理を無視しているという証拠があるわけでもない。
それどころか、私の調査では、その道のプロは、説得力のある「いい話があるんですよ」というやり方を(本心からの場合も、そうでない場合もあるが)しばしば使うことがわかっている。
本書で物欲の原理を独立させないことにしたのは、これがあたりまえの動機、言うまでもない要因であり、認識しておく必要はあるが詳細に記述するには及ばないと考えたためである。

読者からのレポート 1 マネジメント専攻の大学院生より p9

私が住んでいる街でアンティーク・ジュエリー店の店主が「高価なもの = 良質なもの」の影響力から得た教訓について、こんな話をしてくれました。
店主の友人が婚約者に何か特別な誕生日プレゼントを贈りたいと店にやって来ました。
店主は、ネックレスをショーケースから取り出して、友人に見せました。
それは店で五〇〇ドルで売っている品だったのですが、心のなかでは二五〇ドルにまけてあげるつもりでいました。
友人はそのネックレスを見て、えらく気に入った様子でした。
ところが、値段は二五〇ドルだと言った途端、友人の顔は曇り、買う気が失せてしまったようでした。
将来自分の花嫁になる女性には、「本当に良い」ものを贈りたかったからです。

事の次第を理解した店主は、翌日、別のいいネックレスがあるからと言って、友人にもう一度店に来てもらいました。
今度は通常価格の五〇〇ドルを提示して、そのネックレスを友人に見せました。
友人は、これも払いが行われる前に、経営者は友人にこう言ったのです。
「結婚のお祝いだ。二五〇ドルにまけとくよ」
その言葉に友人は大喜びでした。
二五〇ドルという価格に何か侮辱されたような気持ちになることもなく、彼に感謝し、喜んで店を後にしたのです。
著者からひと言
注目していただきたいのは、安価な商品を軽蔑した人が、二倍の価格をつけたターコイズを買った客と同じように、その商品が良質な品だと確信したがっていた点です。
「高価なもの = 良質なもの」というルールの逆側、つまり「安いもの = 悪いもの」というルールも同じように働くことは確かなところだと思います。
結局、英語では安い(チープ)という言葉は、単に価格が安いというだけでなく、「粗悪品」という意味もあるのです。
「ただより高いものはない」という日本のことわざがこの点を雄弁に語っています。

p10

ランガーの実験では、人間的な行動をとらない場合が多くあることも明らかにされていますが、多くの研究者が、たいていの場合は人の行動は機械的だと確信しています。
たとえば、前に述べた宝石店の話を思い出してください。
間違って最初の二倍の価格がついたときに初めて、客はターコイズの陳列棚に殺到したのです。
「カチッ・サー」という観点から考えなければ、彼らの行動には、まったく説明がつきません。

客の多くは裕福な観光客であり、ターコイズについて大した知識はもちあわせていません。
そこで、宝石を買おうとしたときに、「高価なもの = 良質なもの」という標準的な原理、つまりステレオタイプを用いたのです。
商品の品質についてよく知らない場合、人びとが、しばしばこの種のステレオタイプを使うことは、多くの研究で明らかにされています。
「良質な」宝石を欲しがっていた観光客は、価格だけが釣りあげられた宝石を見たときに、これは買う価値があるものだと信じ込んでしまったのです。
品質の善し悪しを決める信号が価格しかなかったために、価格の劇的な上昇だけが、品質のよい宝石を追い求める客を刺激でき、その結果、売上が大きく伸びたのです。

p16

おそらく、この点が最も劇的に強調された事例は、航空会社の職員が機長症候群と名づけた、人の死に直結する現象でしょう。
アメリカ連邦航空局によると、多くの航空機事故は、機長が犯した明白なミスをほかの乗員が正さなかったために発生していると報告しています。
つまり、機長の致命的なミスについて、他の乗員はそれがその本人にとって非常に重要な問題であるにもかかわらず、「専門家がそう言うなら、正しいに違いない」というルールを適用したがために、対応せずに放置してしまったのです。

この現象について、 IBM の元会長ジョン・ワトソン・ジュニアが第二次世界大戦中に体験したことを生々しく描写しています。
大戦中、彼は将校が死傷した航空機事故の原因を調査する任務に当たっていました。
調査した事故のなかに、著名な空軍大将ウザル・エントが関係したものがありました。
フライトの直前になって、エントの副操縦士が体調を崩して任務から外れることになりました。
代わりに副操縦士の役を仰せつかった隊員は、伝説的な空軍大将と共に飛べることを大変名誉に思っていました。
離陸の際、エントは歌を口ずさみながら、時折、それに合わせて首を上下に軽く動かしていました。
そしてなんと、副操縦士はこの動作を、車輪を引っ込めろという合図に取ってしまったのでした。
離陸速度にはまだまったく達していませんでしたが、副操縦士は車輪を引っ込め、機体は滑走路に叩きつけられたのです。
この事故で、折れたプロペラの羽根が背中に突き刺さり、エントは脊椎損傷で下半身不随になってしまいました。
ワトソンは、この副操縦士から話を聞き、その内容を次のように記しています。

副操縦士に対して、私は尋ねた。
「なぜ離陸に必要な速度に達していないと知りながら、車輪を上げたりしたんです?」。
すると彼はこう答えた。
「私は、大将がそうするように自分に促したと思ったんです」。
愚かなことをしたものである。 (p.117)

さて、これは本当に愚かなことでしょうか?
この状況だけを取りあげて考えるなら、答えはイエスです。
それとも理解可能な行動でしょうか?
常に近道を要求され続ける現代の生活を鑑みるなら、やはり答えはイエスです。

p20

宝石店を経営している私の友人のことを覚えているでしょうか。
彼女ははじめは偶然に利益を得たわけですが、そのうち「高価なもの = 良質なもの」というステレオタイプを定期的にしかも意図的に利用するようになりました。
今や旅行シーズンになると、価格をかなり釣りあげることによって売れにくかった商品をさばくようにしています。
彼女に言わせると、これは非常に効率がいいらしいのです。
あまり疑おうとしない観光客が相手の場合(実際そういう人たちが多いのですが)、こうすることによって莫大な利ざやが得られます。

またたとえこの方法がうまくいかなくても、商品に「値下げ」という札をつければ最初の価格で売れてしまうのです。
この場合も、釣りあげられた価格に対する「高価なもの = 良質なもの」という反応を利用しているのです。

「高価なもの = 良質なもの」という原理を使って、何とか安く品物を手に入れようとしている人に甘い罠を仕掛けるという手法は、決して私の友人が開発したわけではありません。
教育者で作家のレオ・ロステンは、一九三〇年代、彼の家の近所で紳士服店を営んでいたドルベック兄弟(シドとハリー)の例を紹介しています。
シドは、客が店の三面鏡を前に試着しているときに、自分は耳が悪いので、もう少し大きな声で話してくれるように何度も客に頼みます。
そして、お気に入りの一着を見つけた客が値段を尋ねてくると、奥で仕立てをしている兄に向かって「ハリー、このスーツはいくらだっけ?」と声をかけます。
するとハリーが、仕事の手を休めて、実際よりもずっと高い値段を答えてよこします。
「オール・ウールの最上級のやつだね。四二ドルだ」。
シドは、その声がよく聞こえない素振りをしてもう一度尋ねます。
ハリーの答えは同じです。
「四二ドル」。
シドは客の方に振り返って答えます。
「二二ドルだそうです」。
多くの客は高価なもの = 良質なものとすっかり信じているため、急いで代金を払い、シドが「誤り」に気がつく前にそそくさと店を後にしたということです。

p23

このコントラストの原理によって用意される小さな影響力の武器は、悪用されないとも限らない、そう肝に銘じてください。
この原理の怖いところは、うまく機能するばかりでなく、見破ることがほぼ不可能だという点にあります。
この原理の使い手は、自分のためにその場面を組み立てているという形跡をまったく見せずに、その影響力を利用することができるのです。
紳士服の販売店がいい例です。
ある男性がファッショナブルな店に入って、三つ揃いのスーツとセーターを買おうとする場面を考えてみましょう。
もしあなたが店員だとしたら、その客の財布の紐を最大限ゆるめさせるために、スーツとセーターのどちらを最初に見せるでしょうか。
紳士服の販売店では、このような場合、高い品物の方を先に買わせるように店員を指導しています。
常識から考えると、逆のような気がします。
スーツに大枚をはたいたすぐ後では、さらにお金を払ってセーターを買うのに二の足を踏みそうです。
しかし、さすがに専門家はよくわかっています。
彼らのやり方はコントラストの原理に合致しているのです。
まずスーツを先に買わせるべし。
そうすれば、セーターを選ぶときには、どれほど高価なものでも、比較するとさほど高くないように感じる、というわけです。
新しいスーツと一緒に附属の品(シャツ、靴、ベルト)を買おうと思っている人にも、同じようにこの原理が当てはまります。
常識的な見方とは逆に、さまざまな証拠がコントラストの原理から導かれる予測を支持しています。

セールスマンがもっと多くの利益を上げようと思うなら、高価な品を先に見せるべきです。
そうしないと、コントラストの原理の影響力を利用できないばかりでなく、その原理のせいで商売がやりにくくなってしまいます。
安い商品を最初に見せて次に高い商品を出すと、客はそれを一層高価に感じてしまうのです。

多くの営業職にとって、これは望ましくないことでしょう。
要するに、最初に手をつける水の温度いかんによって同じバケツの水を熱くも冷たくも感じさせられるのとちょうど同じように、先に提示する商品の価格次第で、同じ商品の価格を高くも安くも感じさせられるのです。

p24

知覚のコントラストを上手に利用しているのは、紳士服の販売店ばかりではありません(図11参照)。
不動産会社の承諾誘導法について潜入調査したときに、コントラストの原理に則ったテクニックに出会ったことがあります。
商売のコツを覚えるため、私はある週末、営業の人間に連れられ、見込み客の物件巡りに同行しました。
その人物――ここではフィルと呼んでおきましょう――が、研修期間中の私の教育担当でした。
私はすぐあることに気がつきました。
新しい客に住宅を見せるとき、フィルは必ず魅力のない住宅から始めるのです。
このことを尋ねると、フィルは笑いながら次のような説明をしました。
それらは彼が「当て馬物件」と呼んでいるものだったのです。
その会社はリストにボロ屋を一つか二つ高い価格で載せていました。
そうした住宅は客に売るためではなく、ただ見せるためだけにあります。
これと比較すれば、会社の商品目録のなかにある本当の住宅がとても素晴らしいものに見えるからです。
営業の人間が皆この当て馬物件を利用していたわけではありませんが、フィルは使いました。
まず客にボロ屋を見せた後で、本当に売りたいと思っている物件に連れていくと客の「目が輝く」そうで、それを見るのが好きだと言っていました。
「ひどい家をいくつか最初に見せておくと、その後の家が本当に立派に見えるんだ」。

読者からのレポート 2 シカゴ大学ビジネススクールの学生より p27

シカゴのオペア空港で搭乗を待っていたときのことです。
どうやら飛行機の座席がオーバーブッキングされていたらしく、次の便でもかまわないという人は申し出てほしい、お礼にサービス引換券を差しあげるという内容のアナウンスが流れてきました。
ところがそのサービス券の額がなんと一万ドル(約一〇〇万円)だというのです。
もちろん、このとんでもない金額はジョークでした。
聞いている人を笑わせたかったのでしょう。
実際ウケていました。
ところがその後、アナウンスを行った保官が実際の額(二〇〇ドル〈約二万円分の引換券)を示しても、誰一人、応じないのです。
結局、応募者が現れるまでにその額は三〇〇ドル、五〇〇ドルと二回引き上げなくてはなりませんでした。

ちょうどその頃、私は「影響力の武器』を読んでいましたから、何が起こったのかすぐに理解できました。
係官は笑いを取った代わりに、コントラストの原理によって失敗してしまったのです。
一万ドルという金額を口にしたばかりに、多くの人にとって二〇〇ドルが雀の涙ほどに感じられてしまったのでしょう。
ずいぶんと高くついたものです。
航空会社は乗り換えに応じてくれた客、一人につき三〇〇ドル〈約三万円〉も余計に損をすることになりました。
著者からひと言
有利に事を運ばせるためにコントラストの原理を使うとしたら、係官はどのようなアナウンスをすればよかったと思いますか?
おそらく、「五ドル相当の引換券を差しあげます!」とジョークを放って、次に二〇〇ドルという実際の(そして実際よりも魅力的な額に聞こえるはずの)金額を提示した方がよかったはずです。
笑いもボランティアも同時にゲット、となったことは確実です。

返報性のルールはどのように働くか p41

間違いなく、人間社会は返報性のルールから非常に大きな利益を得ています。
そこで、人間社会はその成員がこのルールを遵守し、信じるように教育しようとします。
私たちは皆、このルールに従って行動するよう教えられますし、このルールを守らない者に対して加えられる社会的制裁や嘲笑について知っています。
他人から取るだけ取って、そのお返しをしようとしない人びとに対しては多くの人が嫌悪の念を感じますから、私たちは、他人から「たかり屋」とか「恩知らず」とか「借金を踏み倒した」とか言われないように一生懸命努力します。
しかし、そうした努力をする過程で、私たちはしばしば、恩義を感じさせることによって一儲け企む相手にまんまと「だまされて」しまうことがあるのです。

p45

クリシュナ協会の解決策は、見事なものでした。
寄付を求めるやり方を、標的とする相手に気に入ってもらう必要がなくなるように変えたのです。
リーガンの研究では、返報性のルールが頼み事をする人間への嫌悪感さえ凌駕して強い力を発揮することが証明されましたが、彼らはこの返報性のルールを取り入れた寄付金集めを始めたのでした。
この新しい方法でも、寄付を募るのは、やはり空港など通行人の多い公共の場所ですが、標的とする相手に寄付を求める前に
「プレゼント」――本(たいていは古代インドの聖典『バガバッド・ギーダー』)や『神のもとへ帰れ』という協会の雑誌、あるいは最も安がりにすませる場合には、花を渡します。
何も知らない通行人は、突然花を手に押しつけられたり、ピンで上着に留められたりして、こんなものはいらないといくら言い張っても、返すことはできません。
「いいえ、これは私たちからのプレゼントですから」と勧誘者は言って、返されることを拒否します。
このように、返報性のルールの力を無理矢理その場面に持ち込んだ上で、クリシュナの信奉者たちは協会への寄付を求めるのです。
相手が施しを求める前に施しをしておくというこの戦略は恐ろしいほど成功しました。
これにより、ハレー・クリシュナ協会は膨大な経済的利益を獲得し、それが寺院、事業、建物などを所有する資金となって、アメリカ国内と外国に三百二十一カ所もの協会支部をもつことになったのです。

余談ですが、教訓的な話があります。
クリシュナ協会にとっては、この返報性のルールの効力も今ではすっかり失われてしまいました。
その理由は、返報性のルール自体が社会で弱体化してきたからではなく、クリシュナにそれを使わせない方法を私たちが身につけるようになったからです。
一度その手口に引っかかった後、多くの旅行者は空港や駅などでクリシュナ協会の服をまとった募金勧誘者を警戒するようになり、相手に遭わないで済むようにまわり道をしたり、勧誘者の「プレゼント」を撃退する準備をあらかじめ整えたりするようになったのです。
その結果、クリシュナ協会は厳しい財政難に陥りました。
北米だけでも寺院の三分の一が経済的な理由から閉鎖せざるを得なくなり、残った寺院で生活する信奉者の数も約五千人から八百人程度まで激減したのです。

無料とは言えない試供品 p52

返報性の力は、言うまでもなく商売の世界においても見られます。
例はたくさんありますが、ここでは私たちに馴染み深いものを二つ検討してみましょう。
マーケティングのテクニックとして、無料の試供品を配るという手法は、効果が高く、長い歴史があります。
たいていの場合、顧客となりそうな人たちに製品を配布し、その反応を見るわけです。
確かにこれには、生産者が製品のよさを消費者に知ってもらうために行っているという一面はあるでしょう。
しかし、無料試供品の真の強みは、それが一種の贈り物であるため、返報性のルールを持ち込めるという点にあります。
無料試供品を配布する販売促進員は、相手の力を利用して敵を倒す柔道家と同じです。
製品の存在を知ってもらいたいだけというような振りをしつつ、贈り物につきものの報恩の義務の力を起動させているのです。

無料試供品がよく提供される場所、スーパーマーケットでは、買物客がしょっちゅう製品を少量渡されて、食べてみるよう勧められます。
多くの人が、笑みを絶やさない販売促進員から試食品をもらっている以上、楊枝と紙皿だけを返して立ち去るわけにはいかないと感じてしまいます。
それで、試食した品をそれほど気に入っていなくても、その製品を少しは買ってしまうことになります。
このやり方に似た販売方法で非常に効果的なものが、ヴァンス・パッカードの『かくれた説得者』に紹介されています。
それによると、インディアナ州のあるスーパーマーケットの経営者は、一日数時間だけチーズを買物客の前に出し、それを客に自分でスライスさせて、試食品として食べてもらうというやり方で、驚くなかれ四百五十キロものチーズを売ってしまったのです。
これとは違った形の無料試供品戦術を用いているのがアムウェイ社です。
同社は家庭用品や身の回りの品を生産し、全国規模のネットワークで戸別の訪問販売を行っています。
この会社(発足当時は地下室を借りて事務所としていましたが、今では年商一五億ドルものビジネスに成長しています)では、無料試供品を利用したBUGという手法が用いられています。
BUGはアムウェイ社の製品をひとまとめにしたもので、そのなかには家具用クリーナー、洗剤、シャンプー、防臭スプレー、殺虫剤、窓ふきクリーナーなどが入っており、特別デザインのトレーやポリ袋に入れられて顧客の家に届けられます。
アムウェイ社の極秘マニュアルには、販売員がBUGを届けた後、すべきことが書かれています。
「なんの義務も課さず、もちろん無料ということで二十四時間、四十八時間、ないしは七十二時間置かせてもらってください。そして製品を試しに使っていただきたいのですとだけ説明してください。そう言えば、誰も断りません」。
試用期間が終わると、販売員がその家庭に戻ってきて、客が買いたいと思う製品の注文を取ります。
BUGのなかの製品は、そんな短期間のうちに全部使いきる人はほとんどいませんから、販売員は使いかけの製品をBUGに戻し、近所の別の家で同じ手順を繰り返します。
何人もの販売員が同時期にいくつものBUGを自分の担当地域で回しています。

p55

同じように返報性のルールの威力をよく示す話があります。
この話では、先ほど紹介した囚われの身になった兵士と違って、ある女性が相手に贈り物を与えるのではなく、強いの義務が伴った贈り物をすることによって自らの命を救いました。
一九七八年十一月、南米・ガイアナのジョーンズタウンのリーダーであったジム・ジョーンズ師は、全住民に集団自殺を呼びかけました。
ほとんどの者は、それに従って毒の入った飲み物を飲んで死んでいきました。
しかし住人の一人、ダイアン・ルイはジョーンズ師の命令を拒み、ジョーンズタウンから抜け出してジャングルに逃げ込みました。
そうできたのは、以前困っていたとき、ジョーンズ師から特別な恩恵を受けることを拒否していたおかげだと、ダイアンは考えています。
病気で伏せっていたときに、ジョーンズ師から特別食を提供するという申し出があったのですが、断っていたのです。
なぜなら、「一度でも彼からそんな恩恵を受けたら、言うことを聞かなくてはいけなくなるとわかっていました。だから、彼には借りを作りたくなかったんです」。
おそらくジョーンズ師の間違いはダイアンに聖書を教え過ぎたことでしょう。
特に「出エジプト記」二十三章八節を――「あなたは賄賂を受け取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである」

返報性のルールのために、知らぬ間に恩義を感じてしまう p56

返報性のルールの力はとても強いため、相手が見知らぬ人や嫌いな人でも、最初にその人から親切な行為をされてしまうと、一つぐらいなら要求に応じてもいいという気になってしまうということは、すでに述べました。
しかし返報性のルールにはもう一つ大きな特徴があります。
それは、私たちの心が、余計なお世話をされた場合でも、恩義の感情が生まれるように出来ているということです。
思い出してみましょう。
返報性のルールとは、相手がしてくれたのと同じような親切を相手に返すべきだ、というものです。
そのため、受け取ったものが自分の頼んだものでなくても、私たちはお返しの義務を感じてしまうのです。
たとえば米国退役軍人障害者協会の報告によると、普通の郵便で寄付のお願いをした場合、応じてくれる人の割合は一八%程度だそうです。
しかし頼まれてもいないちょっとしたグッズ(オリジナルの住所ラベルシール)を同封して郵送すると、成功率は二倍近い三五%にもなるのです。
ここで重要なのは、自分から頼んで何かをしてもらっても、より強い恩義を感じるとは限らないということではなく、自分から頼んだかどうかとは関係なく恩義の感情が生まれる、という点です。

p63

不利益のなかには、それが予想されるために、他人からの贈り物や特別なはからいを断らせるようなものもあります。
女性はよく、高価なプレゼントをもらったり、お金のかかる夜のデート代を負担してもらうと、その男性に対してお返しをしなくてはという不快な義務感を感じると言います。
一杯の飲み物をおごってもらっただけでも、借りがある気持ちになることがあるのです。
私が教えているクラスの女子学生は、レポートのなかでその不快な義務感について率直に書いています。
「これまでいろいろ嫌な思いをして、ようやくわかったので、もうクラブで知りあった男の子に飲み物をおごってもらうのはやめました。
私が何か性的な義務を負っていると自分で思うのも、相手に思われるのも嫌だからです」。
この女子学生の心配には根拠があることが、研究の結果からわかっています。
女性が飲み物の代金を自分で払わずに、男性におごらせると、その女性はすぐにその男性と性的関係をもつ気があるのだろうと(男性からも女性からも)判断されるのです。

p89

無料の情報提供は、ほかの多くの業種でも広く用いられている。
たとえば、家屋の害虫駆除を請け負う企業の調査によると、無料の家屋点検を行うことに同意した人は、必要であると納得すれば、点検をした会社に害虫駆除の仕事を頼むことが明らかにされている。
最初に無料サービスを行った会社に頼む義務があると感じているようだ。
客にこうした義務感があるため、ほかの会社と比べられることはまずないとわかっているので、請け負った仕事に対して相場より高い額をふっかける悪徳業者もある。

読者からのレポート 6 元・家電量販店の店員より p90

私はかなり長いあいだ、ある大手量販店のテレビ・ステレオ売場で働いていました。
この店では、従業員が再雇用されるかどうかは、店が提供する保証期間延長の契約を何人の客と結べるかによって決まりました。
この話を聞かされてすぐ、私は「拒否したら譲歩」法を使ったうまいやり方を考え出したのです。
もっとも、そのときは、この方法に名前がついているとは知りませんでしたが。

店では製品購入の際に提案する保証期間の延長プランを、一年延長、二年延長、三年延長と三つ用意していましたが、客がどれを選んでも、こちらの実入りは同じです。
客からすれば、三年延長という最も高い契約は当然避けたがります。
それがわかっていましたから、私は最初にわざとこの一番高い契約を熱心に勧めました。
こうしておくことで、後で願ってもない結果を手中に収められるのです。
この三年のプランが断られた後、それではということで、比較的安価な一年延長のプランを持ちだします。
もちろん、これこそがもともと選んでもらいたかったプランです。
このやり方は効果抜群でした。
同じ売場のほかの従業員は四〇%前後の契約しか取れなかったのに、私は平均して七〇%の客から契約を取ったのですから。
客も、保証期間を一年延長できて満足している様子でした。
どうやって契約を取っていたのか、人に話すのは今回が初めてです。
著者からひと言
たいていそうなのですが、「拒否したら譲歩」法を使う場合、コントラストの原理も同時に働いていることに注意しましょう。
最初に大きい要求を出してから、それより小さな要求を出すと、譲歩のように思えるだけでなく、二つ目の要求が実際よりもささやかなものに見えるのです。

p92

返報性のルールを使って私たちを丸め込もうとする者に対する最善の防衛法は、他者の最初の申し出を杓子定規に拒否してしまうことではない。
むしろ最初の親切や譲歩は誠意をもって受け入れ、後で計略だとわかった時点で、それを計略だと再定義できるようにしておくことである。
再定義が成功すれば、受けた親切や譲歩のお返しをしなければという気持ちにはならないのである。

p97

二人のカナダ人の心理学者が、競馬場にいる人びとについて興味ある事実を見出しました。
彼らは自分が賭けた馬の勝つ可能性について、馬券を買う直前よりも、買った直後の方が、勝率を高く見積もっていたのです。
もちろん、その馬が勝つ可能性は現実にはまったく変わっていません。
競馬場も、コースも、馬も同じです。
しかし、ひとたび馬券を買ってしまうと、購入者の心のなかでは勝つ見込みが明らかに高まったのでした。
これは一見奇妙な現象に見えるかもしれませんが、この劇的な変化は多くの人がよく知っている影響力の武器と関係があります。
ほかの影響力の武器と同様、この武器は私たちの心の奥深くに根付き、静かな力によって私たちを動かしています。
ひと言で言えば、それは自分がすでにしてしまったことと一貫していたい(そして、一貫していると他者から見てもらいたい)という欲求です。
ひとたび決定を下したり、ある立場を取る(コミットする)と、自分の内からも外からも、そのコミットメントと一貫した行動をとるように圧力がかかります。
そのような圧力によって、私たちは自分の決断を正当化しながら行動するようになります。
そして自分が正しい選択をしたと自分に言い聞かせるだけで、本当に、自分の決定に対する満足度が上がるのです。

一貫性のテープが回る p99

一貫性原理の方が人間の行動を方向付けることは、心理学では以前から知られていることです。
レオン・フェスティンガーやフリッツ・ハイダー、セオドア・ニューカムといった著名な理論家たちは、一貫性を保ちたいという欲求を、人間の行動を動機づける力の一つとみなしています。
しかし、一貫性を保とうとするこの傾向は、私たちに普段ならしたがらないことさえさせるほど強力なのでしょうか。
その点に疑問の余地はありません。
この一貫していたい(一貫していると見てもらいたい)という欲求のせいで、しばしば私たちは自分の利益と明らかに反した行動をしてしまいます。
したがって、これは非常に強力な影響力の武器になる可能性を秘めているのです。

コミットメントが鍵 p112

一貫性が強力な力を発揮して、人の行動を方向づけていることに気がつくと、すぐに重要かつ現実的な疑問が浮かんできます。
そもそもこの力はどのようにして発動するのでしょう。
強力な一貫性のテープをサーと回転させるカチッは、何によって生み出されるのでしょうか。
社会心理学者は答えを知っていると考えています。
コミットメントです。
たとえば、私があなたにコミットメントをさせる(立場を明確にさせたり、公言させたりする)ことができたとしたら、あなたの自動的な一貫性を、そのコミットメントと一致させるお膳立てがととのったことになります。
一度、自分の立場を明確にすると、行動をその立場と一貫させようとする強い力が自然と生じます。
私たちは、情報が少ない段階で行った予備的な判断にも影響を受け、最終段階の決定をその予備的な判断と一貫させようとします。

p118

承諾に関心をもつほかの人たちもこのやり方の有効性に気づいています。
たとえば慈善団体的にコミットメントを強めていくことで、より大きな要求を飲ませる方法をよく用います。
研究が示すところによると、インタビューに応じるなどの最初の小さなコミットメントが、骨や臓器の提供といった行動を引き起こす「承諾へのはずみ」となりうるのです

同様に、多くの企業もこの方法をよく用いています。
販売員の場合ですと、この戦略は大きな買い物させるのに、まず小さなものを売るところから始めるという形を取ります。
最初に買わせるのは、どれほど安い品であってもかまいません。
それを売る目的は、儲けを出すことではなく、コミットメントをさせることにあるからです。
そのコミットメントから、自然ともっと大きな買い物へと流れていくことが期待できるのです。
『アメリカン・セールスマン』という業界紙に載ったある記事が、それを簡潔にまとめています。

まずは小さな注文を取り、そこから商品全体へと拡大してゆくための道を開く、というのが一般的な考え方です(中略)。
こんなふうに考えてみてください。
ある人が商品を注文したとき、その利益が少なくて電話をかける時間や労力と見合わないとしても、その人はもはや見込み客ではありません立派な顧客なのです。 (p.14)

最初に小さな要求を飲ませ、それから関連するもっと大きな要求を通すというやり方には、「段階的要請法」という名前がついています。
社会科学者がこの方法の有効性に気づいたきっかけは、一九六六年にジョナサン・フリードマンとスコット・フレイザーが発表した驚くべきデータです。
彼らが報告したのは、ある研究者が、ボランティアを自称してカリフォルニアの住宅地を回り、一軒一軒の家主に途方もない依頼を行うという実験の結果でした。
家主たちは、家の前庭に公共サービスのための看板を設置させてほしいと頼まれました。
看板がどんなものなのかの説明として、一枚の写真を見せられました。
写真には、魅力的な家と、とても大きく下手な字で「安全運転をしよう」と書かれた看板が写っていて、素敵な家の外観は看板でほとんど隠れてしまっていました。
当然ながら、大多数の住人はその依頼を断りました(承諾率はわずか一七%)。
ある特定のグループだけはきわめて好意的な反応を見せ、なんと、七六%もの人が自分の庭の提供を申し出たのです。

p132

その後、この種の会社は、すばらしく単純な手口を編み出して、このような契約破棄の割合を減らすことに成功しました。
何をしたかといえば、販売員ではなく、客自身に契約書を書かせただけです。
それでも大手百科事典販売会社の販売訓練プログラムによれば、こういう個人的なコミットメントがあるだけで「お客に契約破棄をさせないための心理的助け」となるのです。
アムウェイ社と同様、こういった組織は、人が自分の意見を紙に書き記すと何か特別なことが起きると知っていたのです。
つまり書いてしまったことに見合う行動をするようになるということを。
これとは別によく使われる手が、一見裏がないように思える販売促進プランです。
影響力の武器の研究を始める前、私は P&G 社やゼネラル・フーズ社といった大企業が、なぜ例の「二十五語、五十語、百語以内の」推奨文コンテストを例年実施するのか、つねづね不思議に思っていました。
どのコンテストも似たり寄ったりの内容に見えます。
「私はこの製品が好きです。なぜなら…」という書き出しに、ケーキミックスや床ワックスといった課題商品の優れた点を大袈裟に称賛した短い文章を続けることが求められます。
会社は応募作を審査し、優勝者に賞品を贈ります。
不思議に思っていたのは、会社にとってこれがどんな利益になるのかという点でした。
コンテストは、商品を買わなくても参加できる場合がほとんどで、誰にでも参加資格があります。
それでも会社は、費用を進んで負担し、次から次へとコンテストを開催するのです。

しかしそれも、もはや不思議ではなくなりました。
推薦文コンテストの裏にある目的――できるだけ多くの人に製品を支持させる――は、中国が捕虜収容所で行った政治エッセイコンテストの裏にある目的――中国の共産主義を支持させる――とまったく同じなのです。
どちらでも同じ手順が踏まれています。
参加者は、滅多に手に入らない景品につられて、自主的に推奨文やエッセイを書きます。
しかし、入選しようと思うなら、課題に選ばれたものを褒めなくてはならないのはわかっています。
そこで、称賛すべき点を探し、それを応募作に盛り込むことになります。
その結果が、朝鮮にいた何百という戦争捕虜であり、何十万人というアメリカ国内の人びとです。
彼らは、課題に選ばれたものの魅力を証明する文章を書き、その結果、自分で書いたことを信じるようになるという魔術を経験したのです。

社会的証明の原理 p189

あの笑い声がそれほどまでに効果的な理由を明らかにするために、私たちがその性質を理解すべき、強力な影響力の武器をもう一つご紹介しましょう。
社会的証明の原理です。
これは、人はほかの人たちが何を正しいと考えているかを基準にして物事を判断する、というものです。
この原理が特に適用されるのは、どう行動するのが正しいかを決めるときです。
特定の状況で、ある行動を遂行する人が多いほど、人はそれが正しい行動だと判断します。

ほかのみんながやっているなら、それは適切な行動だとみなす態度は、通常の場合はうまく機能します。
一般に、社会的証拠に合致した行動をする方が、それと反対の行動をとるよりも、間違いを犯すことが少ないはずです。
たいていの場合、多くの人が行っているのであれば、それは正しい行動なのです。
社会的証明の原理がもつ、こうした特徴は、この原理の強みであると同時に弱点でもあります。
ほかの影響力の武器と同じく、この原理のおかげで、私たちは行動の仕方をてっとり早く決められるのですが、同時に、この方法を悪用して利益を得ようとする人に引っかかりやすくもなっています。

他者がもたらす力 p191

自分の利益のために社会的証拠を利用しているのはテレビ番組制作者たちだけではありません。
みんながやっているなら、その行為は正しいと仮定する私たちの傾向は、いろいろな場面で悪用されています。
バーテンダーは、よく、店を開ける前に何枚かのドル紙幣をチップ入れに混ぜておきます。
それを前の晩の客が残していったチップに見せかけて、たたんだお金でチップを払うのが、バーにふさわしい行動であるという印象を与えようとしているのです。
教会の受付も、しばしば同じ理由から募金箱に前もってお金を入れておきますが、こうすることによって、やはり実入りがよくなります。
キリスト教福音派の牧師は、聴衆のなかにサクラを仕込んでおくことで知られています。
サクラは打ち合わせ通りに、決められた時間になると、前に進み出て証言と寄付をします。

広告主は、製品の「伸び率が最高」とか「一番の売れ行き」といったことを私たちに強調したがります。
こうすれば、製品のよさを直接わからせる必要がないからです。
多くの人がそう考えていると言いさえすれば、それが十分な証拠だと思われます。
長時間にわたって寄付を呼びかける番組のプロデューサーは、膨大な時間を費やして、すでに寄付をした視聴者の氏名を読みあげ続けます。
これが、まだ寄付していない人にどのようなメッセージを与えようとしているのかは明らかです。
「ご覧なさい。みんな寄付をしましたよ。寄付をするのは正しいことに決まっています」というわけです。
ナイトクラブの経営者のなかには、店にまだ客を入れる余地がかなりあるのに、入場制限をして、外に長い行列を作らせる人がいます。
目に見える社会的証明をでっちあげて、店の質の高さを示そうというのです。
セールスマンは、すでにその製品を買った人たちのことをいろいろと織り交ぜて話をするように教えられています。
セールス・コンサルタントのキャベット・ロバートは、この原理をうまくとらえたアドバイスを駆け出しセールスマンたちに与えています。
自分で何を買うか決められる人は全体のわずか五%、残りの九五%は他人のやり方を真似する人たちです。
ですから、私たちがあらゆる証拠を提供して人びとを説得しようとしても、他人の行動にはかなわないのです」。

p193

他者の行動を映画にして見せるやり方は、強い影響力で子どもの行動を変化させましたが、これはさまざまな問題行動に対する心理療法で応用可能です。
たとえば、心理学者ロバート・オコナーが引っ込み思案の幼稚園児を対象にして行った研究では、この点についてはっきりした証拠がいくつか得られています。
この種の子ども――おそろしく内気で、仲間がゲームをしたり集まったりしているときに、脇でポツンと立っているような子ども――には、誰でもお目にかかったことがあるでしょう。
オコナーは、こうした小さい頃の行動が、長期にわたる孤立化のパターンの端緒となり、大人になってからも、社会的に快適な、そして適応した生き方をさせにくくするのではないかと心配しました。
そして、このパターンを一変させる試みとして、幼稚園を舞台にした十一の場面から成る映画を作りました。
どの場面も、まず一人ぼっちの子どもが、何か社会的な活動をしているほかの子どもたちを眺めているところから始まり、やがて積極的にその活動に参加し、最後にはみんなが楽しそうにしているところで終わりました。
オコナーは、極端に引っ込み思案な子どもを何人か、四つの幼稚園から選び出し、この映画を見せました。
その影響はじつに強烈でした。
映画を見たすぐ後から、引っ込み思案だった子どもたちが、幼稚園の普通の子どもたちと同じくらい、よく仲間と交わるようになったのです。
六週間後、もう一度観察を行うために幼稚園を訪れたオコナーは、さらに驚くべき光景を目にしました。
映画を見なかった引っ込み思案の子どもたちが、相変わらず一人ぼっちでいたのに対して、映画を見た子どもたちは、今や多くの社会的活動で仲間たちを引っ張ってゆく存在になっていたのです。
この二十三分の映画をたった一回見たことが、生涯続いたかもしれない不適応行動のパターンをひっくり返すのに十分なようでした。
社会的証明の原理は、これほど強い力をもっているのです。

p193

もし、ある行為が適切なものに思えるかどうかが、同じ行為を遂行している他者の数に大きく影響されるということに疑いを抱くなら、簡単な実験を行ってみるといい。
まず、人通りが多い歩道に立って、空か高いビルの一点をしばらく見あげてみる。
その間、あなたの周りにはほとんど何も起こらない。
たいていの人は見あげることなく通り過ぎるだろう――わざわざ立ち止まってあなたと一緒に見つめる人はまずいないはずである。
さて、次の日、四人の友達を連れて同じ場所に行き、一緒に空を見あげていただきたい。
一分としないうちに、多くの通行人が立ち止まって、あなた方と一緒に空に向けて首を伸ばすことだろう。
あなた方のグループに加わらない通行人にとっても、チラとでも見あげなければならないという圧力は、ほとんど抵抗しがたいものだろう。
もし、あなたの実験の結果が、三人の社会心理学者がニューヨークで行ったものと同様なものとなるとしたら、全体の八〇%の通行人に何もない空の一点を凝視させることになるはずである。

p210

自分の不確かさを解消するために、他人の反応を調べるとき、私たちは、ささいな、しかし重要な事実を見逃しがちです。
すなわち、そうした他者も、おそらく同じように周囲の人の反応を吟味しているという点です。
曖昧な状況では特に、周囲の人たちが何をしているのかを知ろうとする傾向がもつことにより、集合的無知と呼ばれる非常に面白い現象が生じてきます。
そして、この現象を十分に理解すれば、この国で日常茶飯事になっていることで、不可解だとか、お国の恥だとか言われてきた出来事、つまり大勢の人がその場に居合わせながら、誰一人として、助けを切に求めている犠牲者に援助の手を差し伸べようとしないという事例に説明がつきます。

科学的研究 p216

ラタネとダーリーの推論のなかで興味深いのは、緊急事態に陥ったときに「人数が多いから助かる」と考えるのは、多くの場合、完全な誤りであるという点です。
緊急の援助を必要とする人は、多くの人がいる場合よりも、たった一人の人が居合わせた場合の方が、生き残る可能性が高いかもしれないのです。
この奇抜な命題を検証するために、ダーリーとラタネ、彼らの学生、それに同僚たちは、印象的な一連の研究を体系的に行い、いくつかの明確な知見を見出しました。
彼らが用いた基本的な手続きは、一人、あるいは数人のグループの目の前で緊急事態を起こすというものでした。
そして緊急事態に陥った人が、こうした状況で援助を受けられた回数を記録しました。
最初の実験では、ニューヨーク大学の学生が、てんかんの発作に見舞われたふりをしました。
居合わせた人が一人のときには、援助を受けられる確率は八五%でしたが、五人が居合わせたときの確率は三一%にしかなりませんでした。
一人であれば、居合わせた人のほとんどが援助をするのですから、私たちの社会が、苦しんでいる他者を気にかけない「冷たい社会」であると主張するのは、難しいことになります。
明らかに、援助の割合を恥ずべき水準にまで押しさげている要因は、ほかの傍観者の存在でした。

p240

私たちが出会う社会的証明の最も厄介な一面は、模倣犯罪でしょう。
一九七〇年代に関心の的になったのは、あたから空気感染するウイルスのように世界中に広がった、航空機のハイジャックでした。
一九八〇年代、私たちの関心は、製品への異物混入事件に移りました。
有名なのは、家庭用鎮痛剤タイレノールにシアン化合物が混入された事件や、ガーバー社のベビーフードにガラス片が混入された事件などです。
FBI の法医学専門家によると、このように国中で広く報道される事件が一つ起こるたびに、平均で三十件、同種の事件が発生するそうです。
最近では、私たちは大量殺人の連鎖におののくようになりました。
こうした事件は、最初は社会人の職場で起こっていましたが、信じられないことにアメリカ各地の学校でも発生するようになりました。
たとえば、一九九九年四月二十日、コロラド州リトルトンで二人の高校生が血の惨事を起こしましたが、その直後から警察は、同じく問題を抱えた生徒たちが関与した事件や犯罪計画、未遂事件に頻繁に対応しなければならなくなりました。
そして残念ながら、そうした全てのうち二つが「成功」してしまいました。
リトルトンの銃乱射事件から十日と経たないうちに、カナダのアルバータ州テーバーでは十四歳の少年が、ジョージア州コンヤーズではそれぞれ事件を起こし、二代合計で八人のクラスメートを殺傷したのです。
また、二〇〇七年四月にバージニア工科大学で身の毛もよだつ恐ろしい銃乱射事件(犯人の学生は直後に自殺)がありましたが、その週、国中の新聞各社が、地元のニュースとして報じた、他人を巻き込んだ自殺事件の発生件数は軒並み増加していました。
この時期、ヒューストンだけでも、そうした事件が三件発生しています。
教訓的なのは、バージニア工科大学での銃乱射事件の後、次に同様の規模をもった重大事件が発生したのは、高校ではなく、北イリノイ大学だったという点です。

p248

私自身の考えでは、ジョーンズタウンでの出来事を分析しようとした多くの試みは、ジム・ジョーンズの個人的資質に注目しすぎていたと思います。
もちろん彼はまれに見る精力的な人物でしたが、彼の発した力は、並外れた個人の資質よりもむしろ、基本的な心理学の原理を理解していることに由来していると、私は考えています。
リーダーとして見た場合、彼が本当に優れていた点は、一個人のリーダーシップの限界を知っていたところです。
いかなるリーダーでも一人の力だけで、集団のメンバー全員を常に従わせることはできません。
しかし、強力なリーダーであれば、集団のかなりの割合の人を従わせることが可能です。
そして、集団のかなりの数のメンバーが納得したという生の情報が、それ自体、ほかのメンバーを納得させるのです。
したがって、最も影響力のあるリーダーというのは、集団の状況をどう整えれば、社会的証明の原理が自分に有利に働くようになるかを知っている人なのです。

ジョーンズが見事だったと思われるのは、まさにこの点です。
人民寺院の共同体をサンフランシスコの都会から赤道に近い南米の僻地に移すという決定は、じつに優れた一手でした。
そこは、不確かさと極度の類似性という条件がそろっていたので、ほかのどこよりも社会的証明の原理を自分のために操作することが容易な場所だったのです。
千人の共同社会というのは、一人の人間が個の力で常に支配するには大きすぎますが、そこでなら、その共同社会を信者の集団からただの群れに変えることが可能でした。
そして屠殺場の管理者が昔から気づいていたように、群れの心理を操るのは容易なことです。
何人かのメンバーを自分の望む方向に向けておきさえすれば、残りの人びとは――動物がその先頭ではなく、自分のすぐ周りにいる動物に反応するように――おとなしく、そして機械的に従うものです。
おそらくジョーンズ師の驚くべき力を最もよく理解できるのは、彼個人の芝居がかったスタイルにではなく、彼が社会的柔術の技に精通していたことに目を向けたときでしょう。

自動的な行動に気をつける p250

誤ったデータが原因で、社会的証明の原理が役に立たなくなってしまう状況が二つあります。
一つは社会的証拠が意図的に歪められて提供される場合です。
こうした状況を作り出すのは常に、それを悪用しようとする者たちです。
彼らは私たちにやらせたい行動をみんなが行っているという印象現実がどうかなど知ったことではありませんを生み出そうとします。
テレビのお笑い番組で使われる、例の笑い声も、推されたデータの一種ですが、世の中にはもっと多くの詐術が横行しており、そのほとんどは驚くほどあからさまです。

たとえば、あらかじめ用意された反応というのは、電子機器メディアの専売特許でもなければ、電子時代特有の現象でもありません。
実際、社会的証明の原理の稚拙な悪用法は、最も由緒ある芸術形態の一つ、グランドオペラの歴史のうちにも見ることができます。
これはサクラと呼ばれるもので、パリのオペラハウスの常連ソートンとボーシェが一八二〇年代に始めたと言われています。
二人は、単なるオペラの常連というばかりではなくビジネスマンでもあり、その商品は「拍手喝采」でした。

外見の魅力 p276

外見的魅力のある人の方が、他者との付き合いで有利になるというのは、一般によく知られていることですが、最近の研究によれば、どうも私たちはその効果の大きさと影響が及ぶ範囲をかなり過小評価していたようです。
魅力的な人に対しては、カチッ・サー反応が生じるらしいのです。
すべてのカチッ・サー反応と同じように、それは考えることもなく、自動的に起こります。
反応それ自体は、社会科学者がハロー(後光)効果と呼んでいるカテゴリーに入ります。
ハロー効果というのは、ある人が望ましい特徴を一つもっていることによって、その人に対する他者の見方が大きく影響を受けることを言います。
身体的魅力がしばしばそのような効果をもたらすことは、今や多くの証拠から明らかになっています。

これまでの研究によると、私たちには、外見のいい人は才能、親切心、誠実さ、知性といった望ましい特徴をもっていると自動的に考えてしまう傾向があります(これらを示す証拠については、ラングロワらのレビュー論文を参照)。
さらに言えば、私たちは判断を下すとき、身体的魅力が果たしている役をしていません。
「器量がよい = 優秀」という無意識の過程が引き起こす結果のなかには、驚くべきものがいくつもあります。
次の事例はその一つです。
一九七四年のカナダ連邦選挙を扱った研究によると、外見が魅力的な候補者はそうでない候補者の二・五倍もの票を獲得しました。
証拠から考えて、多くの有権者が外見の魅力的な政治家たちに好意を示したのは明らかであるにもかかわらず、その後の追跡調査の結果は、有権者がそのようなバイアスに気づいていないことを示しています。
実際、調査対象となったカナダの有権者の七三%は、投票するにあたって、候補者の身体的魅力の影響など一切受けなかったと、断言しています。
そのような影響の可能性を認めたのは、わずか一四%に過ぎませんでした。
有権者が、候補者の外見的魅力に影響されて投票先を決めたわけではないと言うのは自由ですが、そうした要素があることを示す証拠は繰り返し確認されているのです。

p282

わずかな類似性でさえ他者に対する望ましい反応を作り出すのに効果があり、見せかけの類似性は簡単にでっちあげられるのですから、「似たもの同士ですね」と言って近づいてくる相手には特に注意するよう、ここで忠告しておきたいと思います。
実際、近頃では、自分とよく似ているように思える販売員に対して用心しておいた方が賢明です。
多くの販売訓練プログラムは、研修生に客の姿勢、雰囲気、話し方を「鏡のように似せて、相手に合わせる」よう教えています。
これらの特徴の類似性が、好ましい結果をもたらすと、明示されているからです。

p283

成功の秘訣は客が自分を好きになるようにさせたことだと言う、世界で最も偉大な自動車セールスマン、ジョー・ジラードのことを覚えていますか。
彼は一見馬鹿らしくて割に合わないようなことをしていました。
神川、一万三千人以上のお得意さんの一人ひとりに、メッセージを印刷した挨拶状を送ったのです。
種類は毎月異なっていました(新年、バレンタインデー、感謝祭など)が、印刷されたメッセージは常に同じで、「あなたが好きです」と書いてあったのです。
ジョーが説明したように、「挨拶状には何もいらないんですよ。自分の名前以外には何もね。私がお客様に好意を感じているということを伝えるだけでいいんです」。

「あなたが好きです」という状が、まるで時計仕掛けのように毎年十二回ずつ届けられるのです。
そしてその状に印刷された「あなたが好きです」は、ほかの一万三千人のもとへも届いているのです。
これは真心が感じられず、自動車を売るためであることが見え見えの好意の表明に、効果があったりするのでしょうか。
ジョー・ジラードは、あったと考えています。
そして自らの職業において、あれほどの成功を収めた人物ですから、その意見は傾聴に値します。
ジョーは人間性についてのある重要な事実を理解していました。
それは、私たちが、おめでたいほど、お世辞に弱いということです。
もちろん、そうでないときもあります――とりわけ、そのお世辞を言う人が私たちを操作しようとしているという確信がもてれば、まず乗せられたりはしません――が、一般的に言って、私たちには他者からの称賛を信じ、それを言ってくれる人を好む傾向があります。
ノースカロライナで行われた実験は、私たちが称賛に対していかに弱いかを明らかにしています。
その実験では、男性の参加者から好意を引き出す必要のある人が、彼らに論評を加えました。
何人かに対しては肯定的なことだけを言い、別の何人かには否定的なことだけを言い、残りの人たちには、肯定的なことと否定的なことの両方を言いました。
この実験から、興味深い結果が三つ見出されました。
第一に、論評を加えた人は、称賛だけを与えたグループから最も好かれました。
第二に、この傾向は、実験参加者が、論評を加える人は自分たちから好意を得ようとしているのだと、はっきり認識している場合であっても変わりませんでした。
最後に、ほかのタイプの論評とは違って、純然たる称賛は、それが正確でなくても効果をもちました。
肯定的なコメントは、それが真実であろうとなかろうと、そのお世辞を言う人に対して、等しく好意を生じさせたのです。

明らかに、私たちはお世辞に対して自動的に肯定的な反応を示してしまい、その結果、私たちの好意を得るために、意図的にお世辞を言う人の犠牲になってしまうのです。
このように見てくると、「あなたが好きです」という挨拶状を毎年十五万通以上印刷して郵送する費用が、前ほど馬鹿げているとも、高くつくとも思えなくなってきます。

夏休みはキャンプへ p290

協同アプローチの論理を理解するためには、トルコ生まれの社会学者ムザファー・シェリフとその協同研究者たちが半世紀以上前に行った興味深い研究プログラムを再検討することが助けになるでしょう。
この研究チームは集団間の対立の問題に関心をもっていたので、少年たちのサマーキャンプでこうした対立の生まれる過程を調査することにしました。
少年たちは、自分たちが実験の対象にされていることにはまったく気づいていなかったのですが、シェリフたちはキャンプの社会的環境を巧妙に操作して、それが集団間の関係にどのような影響を及ぼすのかを観察しました。

ある種の敵意を作り出すのに、さほどの手間はかかりませんでした。
少年たちを二つの住居キャビンに分けるだけで、両グループのあいだには「われわれ 対 彼ら」という感情が生まれ、少年たちに、それぞれのグループの名前(イーグルスとラトラーズ)をつけさせると、ライバル意識が一層高まりました。

少年たちはすぐに、もう一方のグループの能力や成果をけなしはじめました。
しかし、この程度の対立はまだ序の口でした。
やがて実験者が意図的に、両グループ合同のミーティングに競争的な活動を導入すると、対立はますますエスカレートしました。
キャピン対抗の宝探し、綱引き、運動競技会では、罵り合いや小突き合いが発生しました。
競技中には、「ずる」「こそ泥」「卑怯者」といった野次が飛び交いました。
その後、どちらのグループも相手のキャビンを襲撃し、団旗を盗んで燃やしてしまいました。
威嚇のための看板も掲げられ、食堂での乱闘は日常茶飯事になりました。

シェリフにとって、この時点で明らかになったことがありました。
それは不和を作るのに手間はかからないということです。
参加者をグループに分け、しばらくはグループごとに活動させます。
それから、双方を一緒にさせ、競争心が持続するように煽り立てるのです。
これだけで、二つのグループの敵対心は煮えたぎるほどにまで高まります。

さて、ここで実験者はより難しい問題に直面することになりました。
今やゆるぎないものとなった対立を、どうやって解消するかという問題です。
最初は、二つのグループが一緒に過ごす時間を増やす、接触アプローチを読みました。
しかし、合同で行う活動が、映画や社会的イベントのように楽しいものだったときでさえ、悲惨な結果が待っていました。
ピクニックは食べ物を奪い合う場に、催し物は叫び声のコンテスト会場に、食堂の列はつかみ合いの喧嘩の舞台に変わってしまいました。
シェリフの研究チームは、フランケンシュタイン博士と同じように、もはや自分たちではコントロールできない化け物を作り出してしまったのではないかと心配しはじめました。
その後、対立が頂点に達した時点で、単純かつ効果的な作戦を試してみることにしました。

グループ同士で競争をすると全員の利益を損ね、協力すればお互いの利益になるような一連の状況を作ったのです。
たとえば、一日がかりの足の途中で、町へ食料を買いに行くために唯一使えるトラックのエンジンがかからないことが「発見」されます。
そこで全員が集められ、トラックが動き出すまで、皆で押したり引いたりしたのです。
別の場合には、キャンプの水道(離れた所のタンクからパイプで引かれたものです)を、研究者がわざと途中で止めてしまいました。
すると、少年たちは共通の危機に直面したことで一致団結した行動の必要性を痛感し、皆でその日のうちに問題を見つけて修理を終わらせました。
もう一つ、協力の必要な状況が作られました。
面白い映画が貸し出されているけれど、お金の余裕がないために借りられないと、少年たちに告げたのです。
唯一の解決策はお金を出し合うことだと気がつき、少年たちは皆でお金をとりまとめ、その映画を借りました。
そして、一緒にその映画を観ながら、なごやかな一夜を過ごしたのです。

こうした協同作業の効果は、すぐに出たわけではありませんでしたが、その成果は著しいものでした。
共通の目標に向かって力を合わせ、首尾よくそれに成功したことが、二つのグループのあいだにあった溝に橋を架けることになったのです。
まもなく、挑発するような物言いは聞かれなくなり、列に並んでいるときの押し合いもなくなり、違うグループの少年たちが同じテーブルに着いて食事をするようになりました。
それだけでなく、親友の名前をあげるように言われたときに、以前は自分と同じグループの仲間の名前しかあげなかった少年たちの多くが、別のグループの少年の名前もリストに含めるようになりました。
何人かは研究者たちに礼を言いさえしました。
前回リストを作成してから、考えが変わっていたので、友人を評価し直す機会を与えられたことが嬉しかったのです。
次のエピソードはこの辺りの事情をよく表わしています。
少年たちはキャンプファイアーから戻るべく、皆で一台のバスに乗り込みました(以前なら、そんなことをすれば必ず何か騒動がもちあがったに違いないのですが、このときは、少年たちのたっての希望でそうなったのです)。
そして帰る途中でバスが休憩所に止まったとき、一方のグループの少年たちは、残っていた自分たちの資金五ドルをはたいて、以前は憎々しい敵であった相手にミルクセーキを奢ることに決めたのです!

この驚くべき心の変化の原因をたどっていくと、少年たちが互いに敵ではなく、味方だと思わなければならなかった時点に行きつきます。
最も重要な手続きは、実験者が両グループに共通の目標を与えたことでした。
これらの目標を達成するために必要とされた協力こそが、最終的に敵対グループのメンバーもお互いわかりあえる仲間、頼りになる支援者、友人、そして親友なのだと理解させることになったのです。
お互いの協力によって成功が得られたとき、勝利を分かち合うチームメートに敵意を抱き続けるのは、きわめて困難になっていたのです。

p304

望ましくない連合の働き方に関する教育は、主に親によって行われてきたように思われます。
思い出してみてください。
向こうの通りの「悪い子」とは遊ぶなと、しょっちゅう言われませんでしたか。
近所の目からは「つきあっている仲間でその人のことがわかる」のだから、たとえ自分では悪いことをしていなくも関係ないのだと、言われませんでしたか。
親たちは連合が生む罪について、教えていたのです。
連合の原理の好ましくない側面を、私たちに教育していたのです。
そして彼らは正しかったのです。
人は実際に私たちが友人と同じ特性をもっているとみなすのです。

望ましい連合に関しては、承認誘導の専門家が教えてくれます。
彼らは絶え間なく、自分自身あるい製品と、私たちの好きなものとを結びつけようとしています。
車の広告で、美人のモデルが車の隣に立っているのはどうしてだろうと不思議に思ったことはありませんか。
広告主が期待しているのは、彼女たちの望ましい特性――美しさと好ましさ――をその車に付加することなのです。
一緒に並んでいるというだけで、私たちが魅力的なモデルと製品に同じ反応をするはずだと、広告主は信じており――実際私たちは同じように反応するのです。

ある研究では、魅惑的な若い女性モデルが写っている新車の広告を見た男性は、その速さ、力、高級感、デザインの点で、モデルがいない同じ車の広告を見た男性よりも高く評価しました。
ところが、後で聞いてみると、若い女性の存在が自分の判断に影響を及ぼしたとは、誰も考えていませんでした。

p315

このように、著名な作家アイザック・アシモフは、私たちが勝負事一般を見るときの反応を次のように描写しています。
「ほかのすべての条件が等しければ、人は自分と同じ性別、同じ文化、同じ地方の人を応援する(中略)その人が証明したいと思っているのは、自分がほかの人より優れているということなのである。応援する相手が誰であれ、その相手は自分の代理になる。そして、その人の勝利は自分の勝利も同然なのである」。
このような観点からすれば、スポーツファンの熱情にも納得がいきます。
試合は、その固有の形式や芸術性を楽しむだけの軽い娯楽ではありません。
そこには自己が賭けられているのです。
だからこそ、群衆は地元チームの勝利にいつも貢献してくれる人をあれほど崇拝し、多大な感謝を示すのです。
その同じ群衆が、敗北に関わりをもった選手やコーチ、審判員に対してしばしば凶暴な振る舞いに及ぶのも、こうした理由によるのです。

権威のもつ影響力の強さ p334

大多数の読者が、まるで悪夢のような話だと思ったことでしょう。
しかし、このシナリオがどれほど悪夢めいているかを真に理解するために、知っておくべきことがまだあります。
それはこの話がほぼ実話だということです。
ミルグラムという心理学者が実際にこのような実験を行いました。
実験で「教師」役を務めた参加者は、壁を蹴り、金切り声を上げて懇願する「学習者」に対して、強い危険な電気ショックを与え続けました。
ただし、このシナリオの実験手続きには一つ、現実と異なっている点があります。
実際には、電気は流れていませんでした。
苦しみのなかで情けと解放を求めて叫び続けた「学習者」は、じつは実験参加者(被験者)ではなく役者で、ショックを受けている演技をしていただけでした。
つまり、ミルグラムの研究の真の目的は、罰が学習や記憶に及ぼす効果とはなんら関係がなかったのです。
実験の目的は、まったく別の疑問――何の罪もない他者に対して、苦痛を与えるように指示された場合、普通の人はどの程度の苦痛まで与えようとするだろうか――の解明でした。

p336

最後に、ミルグラムの参加者たちは、一般市民の代表とはとても言えないような心の歪んだサディスティックな人の集まりだったという説明も、満足のいかないものであることが判明しました。
新聞広告に応募して、ミルグラムの「記憶」実験に参加した人たちは、年齢、職業、学歴に関して、私たちの社会における標準的な層を代表していました。
さらに、後で実施された一連の性格テストの結果から、これらの人たちは全体として、心理学的に見てまったく正常であり、精神疾患の徴候は微塵も認められませんでした。
実際、彼らはあなたや私と同じような人たちでした。
あるいは、ミルグラムが好んでそう表現していたように、彼らはあなたや私自身なのです。
もし彼が正しくて、そのぞっとするような結果が私たちにとって他人事でないなら、まだ説明のついていないこの疑問は、嫌になるほど身近な問題になってしまいます。
なぜ、私たちはこんな真似をすることができるのでしょうか。

ミルグラムはその答えを知っていると確信しています。
彼が言うには、それは私たちの心に深く根ざした、権威に対する義務感と関係があります。
あの実験場面で、参加者(「教師」)は実験をやめるべきか、身も心も大混乱を来していました。
しかし、ボス――実験服を着た研究者――は、参加者に自らの義務を遂行するよう促し、また必要とあらば、命令しました。
ミルグラムによれば、このボスの意向に参加者が反抗できなかったところに、真の問題があるのです。

p339

ミルグラムには、蓄積されたデータから、ぞっとするような現象を示す証拠が繰り返し現れているように見えました。
「人は権威者の命令にはとにかく従おうとするということが、この研究の主たる知見である」。
別の形態の権威――政府――がもつ、一般国民からぞっとするほど高いレベルの服従を引き出す力について心配している人びとにとっては、気のふさぐ結果です。
さらにこの結果から、権威のもつ影響力がいかに強力に私たちの行動をコントロールしているかがわかります。
ミルグラムの実験参加者が、与えられた課題に身悶えし、冷汗をかきながら苦しんでいるのを目の当たりにして、彼らをそのようにさせてしまう力の存在を誰が疑うでしょうか。

p341

実は、ミルグラムは最初、ナチス政権下のドイツ国民がなぜ強制収容所で何百万もの罪のない人びとの殺戮に荷担したのかを理解しようとして、研究を始めた。
計画では、アメリカで実験手続きがうまくいくことを確かめた後、ドイツで同じ実験を行うことになっていた。
ドイツ国民なら十分に服従を示すだろうから、服従という概念の完全な科学的分析ができると確信していたのである。

しかし、コネチカット州ニューヘイブンで行った最初の実験がこのような驚くべき結果だったので、研究費を節約でき、おまけに自宅の近くで研究できることも明らかになった。
「非常に多くの人が服従しました。ですから、ドイツで実験を行う必要がほとんどないことがわかりました」と彼は述べている。
しかし権威に服従する傾向は、アメリカ人だけにあるのではない。
ミルグラムの基本的な実験はオランダ、ドイツ、スペイン、イタリア、オーストラリア、ヨルダンでも繰り返され、同様の結果が得られている(総覧研究としてメーウスとラーイメイカーズのものがある)。
数十年のときを経ても、ミルグラムの結論の妥当性は変わらない。
彼の研究の特徴を再現して行われた最近の研究でもミルグラムの参加者と現在の参加者の反応に目立った違いは見つからなかった。

盲目的な服従のもつ魅力と危険性 p342

人間をある行動に駆り立てるような強力な動機を目の当たりにすると、その動機にはそれなりの存在理由があるはずだと考えるのが自然です。
権威への服従という動機の場合には、人間社会の組織について少し考えるだけで、たくさんの理由が浮かんできます。
幾重にも重なり、そして広く行きわたっている権威のシステムは、社会に多大な進歩をもたらしてきました。
それらが存在したからこそ、資源の生産、貿易、国土防衛、領土拡大、社会的コントロールのための洗練された仕組みを発展させることができたのです。
その反対の極にあるのが無政府状態です。
それは文化をもっている集団に対してなんの利益ももたらさず、社会哲学者トマス・ホッブズが、人生を「孤独で、貧しく、汚く、残酷で、はかない」ものにしてしまうと断言した状態です。
したがって、私たちはこの世に生まれて以来、適切な権威に従うのは正しく、従わないのは間違いだと教育されています。
このメッセージは子どもの頃には、家でのしつけや、小学校で習う唱歌、物語、童謡のなかに盛り込まれ、成人になってから遭遇する法律、軍隊、政治の各システムのなかにも受け継がれています。
正当な権威に服従し忠誠を尽くすという考えは、それぞれのシステムにおける価値観と非常によく合致しています。

肩書きの力 p350

肩書きは、獲得するのが非常に難しくもあり、同時に易しくもある権威のシンボルです。
ふつう肩書きを得るためには、何年も仕事を続けて業績を上げる必要があります。
しかしこうした努力を一切しない人でも、ラベル付けするだけで相手から承諾を自動的に得ることができます。
これまで見てきたように、テレビコマーシャルに出ている俳優や詐欺の名人は、それを常にうまくやっていると言えるでしょう。

最近、私はある友人――東部にある有名大学の教授です――と話をしました。
彼は、話の内容ではなく、肩書きによって私たちの行動が影響されることの例を教えてくれました。
その友人はよく旅行に出かけますが、そのときバーやレストラン、空港で見知らぬ人とちょっとした会話を楽しむそうです。
多くの経験から、彼はこうした会話の最中は、教授の肩書きを決して明かすべきでないと学びました。
なぜなら、そうした途端、会話の流れが変化するからだそうです。
それまでの三十分、自分から進んで話をし、会話の相手であった人が突然、お上品で、うなずくばかりの、退屈な相手に変わってしまうのです。
それまでは友人が意見を言えば、丁々発止のやりとりが生まれていたのに、もはや相手はあらたまってしまい、正しい文法と言葉遣いで話を合わせてくれるようになるのです。
この現象に苛立ちを覚え、また多少困惑した――「だって教授だろうとなんだろうと、私は、彼らがそれまで三十分も一緒に話していたのと同じ人間なんだよ」というのが友人の弁です――ため、今ではこうした場合にいつも職を偽ることにしていると、友人は言いました。

普通、肩書きを偽るというのは、承諾誘導の使い手が行うように、実際にはもっていない肩書きをもっているように見せかけるわけですが、友人はこれとまったく逆のことをしているわけです。
いずれの場合にしても、そのように偽らなければならないこと自体、権威のシンボルがいかに強い影響を行動に及ぼすかを示しています。

服装 p356

機械的な服従の引き金となる権威のシンボルの二つ目は服装です。
肩書きよりはまだ実体を伴っていますが、この権威のマントもやはりあらゆる点で偽造可能です。
警察の詐欺師ファイルには、素早い変装の手口を使った詐欺師の記録が溢れています。
彼らはカメレオンよろしく、病院の白、教会の黒、陸軍の緑、警察の青など、その場面で自分が最も有利になるような色の服で身を包みます。
権威のありそうな服装が、その中身を保証するわけではないと、犠牲者が気づいたときには、もう後の祭りというわけです。

p358

制服ほどあからさまではないものの、私たちの文化には、ほかにも伝統的に権威者の地位を示すと見られ、効果を上げている装いがあります。
仕立てのよいスーツです。
これも、見知らぬ人から驚くほどの承諾を引き出すことができます。
たとえば、テキサスで行われた実験では、研究者がある三十一歳の男性に、交通法規を破るように頼みました。
いろいろな状況で、信号を無視して道路を横断させたのです。
そのうちの半分の状況では、ピシッとしたビジネススーツにネクタイという格好をさせました。
残りの場合には作業服を着せました。
研究者たちは少し離れた場所から、信号待ちをしている人のうち何人が男性の後について道路を渡ってしまうかを数えました。
スーツを着ているときに、ついてくる人の数は作業服のときと比べて、三・五倍にもなりました。

装飾品 p361

制服としての働きのほかに、衣服が装飾として使われる場合には、より全般的な権威のシンボルとなることがあります。
スタイルのよい高価な服は地位の威光をもたらします。
それと似た効果をもつのが、宝石のような宝飾品や自動車です。
アメリカでは、特に自動車に関心がもたれます。
「アメリカ人の恋は車で実る」というように、自動車には格別な意味が与えられているからです。

サンフランシスコ湾岸地域で行われた実験の結果では、高級車に乗っている人に対しては、特別な敬意が払われていることが判明しました。
信号が青に変わってもすぐ前にいる車がなかなか発進しない場合、それが新型の高級車であるときには、旧型の大衆車であるときと比べて、ドライバーがクラクションを鳴らすまでの時間が長かったのです。
後続の車のドライバーは、大衆車のドライバーに対してはほとんど辛抱しませんでした。
ほぼすべてのドライバーがクラクションを鳴らしましたし、その大半は二度以上鳴らしました。
そのうちの二人に至っては、直接リア・バンパーに自分の車をぶつけました。
しかし高級車の威光はたいしたもので、ドライバーの半数以上が、クラクションをまったく鳴らさず、前の車が動き出すまで、その後ろでじっと待っていたのです。

p378

野球カードから骨董品まで、あらゆるものの収集家は、希少性の原理によって品物の価値が決まることをよく知っています。
一般に、ある品物の数が少ないか、少なくなりつつあるなら、それだけその品には価値があることになります。
収集市場における希少性の重要性がとりわけよくわかるのは、「貴重なミス」の現象です。
不鮮明な切手、二度打ちされた硬貨などの欠陥品がときとして最高の価値をもちます。
ジョージ・ワシントンの肖像が三つ目になっている切手は、解剖学的な正確さにも、人を引きつけるような美しさにも欠けていますが、人びとはこぞってそれを探し求めます。
ここに、教訓的なアイロニーがあります。
普通は廃棄される理由となる欠点が、希少性と結びついたときには、価値を生む美点となるのです。

大人が示すリアクタンス――愛、銃、そして洗剤 p391

恐るべき二歳児は、心理的リアクタンスを最も顕著に示す年頃なのかもしれませんが、行動の自由に加えられる制限に対して強く反発する傾向は、私たちの生涯を通して見られます。
しかし、こうした傾向がとりわけ反抗的な形で現れる時期がもう一つあります。
十三歳から十九歳の時期です。

私はかつて、ものの道理がわかったご近所さんから、こんな助言を受けたことがあります。
「どうしても何かをやらなきゃいけない場合には、三つ選択肢がある。
一、自分でやる。
二、大金を払って人にやってもらう。
三、ティーンエイジャーにそれをやっちゃいけないと言う」。

二歳のときと同じように、この時期も個としての感覚が現れるという点に特徴があります。
ティーンエイジャーにとって、こうした個としての感覚の出現は、何かにつけ親の支配を受ける子どもの役割から脱却し、あらゆる権利と義務を伴う大人の役割を目指そうとすることを意味しています。
驚くには値しませんが、思春期の若者には、義務よりもむしろ、彼らが若い大人としてもっていると感じている権利の方に注意を向ける傾向があります。
そして、この時期に、それまでと変わらず親の権威を押しつけるとしばしば逆効果になるのも、驚くには値しません。
彼らは、親の支配に反発して、巧妙に策を弄したり、正面きって戦ったりするのです。

最適の条件 p403

ほかの効果的な影響力の武器と同じように、希少性の原理にも、ほかの場合より強く効果を発揮できる条件があります。
したがって、私たちが身を守る上で現実的かつ重要な課題は、どんなときに希少性が私たちに最も強い影響を与えるのかを知ることです。
これについては、ステファン・ウォーチェルとその同僚たちが考案した実験から多くを学ぶことができます。
ウォーチェルの研究チームが用いた基本手続きは単純なものでした。
消費者嗜好研究の参加者に、瓶のなかからクッキーを与え、それを味見して質を評価してもらうのです。
そのとき、参加者の半数には、十枚のチョコチップクッキーが入った瓶から一枚取り出して与え、残りの半数には二枚しか入っていない瓶から一枚を取り出して与えました。
希少性の原理から予想できるように、クッキーは、二枚しか残っていないうちの一枚だった場合の方が、好意的な評価を受けました。
残り少ないところから渡したクッキーは、たくさんあるなかから渡した、まったく同じクッキーよりも「また食べたいと思う」、「商品として魅力的」「高級感がある」と評価されたのです。

p407

革命に見られる顕著な歴史的パターン通り、アメリカの黒人たちは、進歩が始まる前よりも、長らく続いていた進歩が足踏みしたときに、より反体制的になったのです。
このパターンは、支配者を志す人にとっては価値ある教訓となることでしょう。
自由ということに関して言えば、それをしばらくのあいだだけ与えることは、まったく与えないより危険なのです。
昔から抑圧されてきた集団の政治的・経済的地位を改善しようとする政府にとっての問題は、そうすることによって、その集団に以前はまったくなかった自由を確立させる点にあります。
そして、この確立された自由が万が一にも脅かされるようなことになれば、深刻な結果を招くでしょう。

読者からのレポート 21 ニューヨークの投資マネージャーより p409

私は最近、『ウォールストリート・ジャーナル』で、希少性の原理と、人は何かを剥奪されると、それが何であれ欲しくなる、という傾向を例証する記事を読みました。
それは、プロクター・アンド・ギャンブル (P&G) 社がニューヨーク州北部で実施した実験の様子を伝える記事でした。
P&G は自社製品と引き換えられるクーポン券を廃止し、代わりに製品の通常価格を下げたのです。
これが、消費者の大きな反発――不買運動、抗議、苦情の殺到――を招きました。
しかし、 P&G のデータでは、クーポンは全体のわずか二%しか使用されておらず、クーポン廃止実験期間中、客は平均して同社製品をそれ以前と同じだけ購入し、しかも不便が減ったと感じていたのです。
記事によれば、この激しい反発は、 P&G が認識していなかったことに起因していたのです。
つまり「多くの人にとって、クーポンは事実上、奪い得ない権利」だったのです。
何かが剥奪されようとするとき、たとえそれをまったく使ったことがなくても、人びとがいかに強く反発するか、これは本当に驚くべきことです。
著者からひと言
P&G の幹部たちは、消費者が示したこの一見不合理な反応に当惑したかもしれませんが、知らないうちにそうなる下地を作っていたのです。
割引クーポンは一世紀以上にわたり、アメリカの日常風景の一部でした。
なかでも P&G は何十年も積極的に製品を「クーポン化」し、それによってクーポンを、消費者に期待する権利があるものとして確立したのです。
そして、人びとが最も熾烈な戦いを繰り広げるのはいつも、長らく確立されてきた権利を守ろうとするときなのです。

p413

漁師とデパートが、釣りあげようとする対象に激しい競争心を植え付ける手段には、非常に似通った点があります。
魚を引きつけ漁獲を上げるために、漁師は撒き餌と呼ばれる針につけていない餌をばらまきます。
同じような目的で、バーゲンセールを行うデパートはいくつかの目玉商品を大きく宣伝し、特に安い価格で放出します。
いずれの場合も、それが餌としての役目をうまく果たせば、熱に浮かされた群衆が形成され、それを奪い取ろうとするのです。
なんとかそれを手に入れようと一直線に突進する集団は、競争を煽る状況に乗せられて、ほとんど盲目と化しています。
人間も魚も、自分の欲しいものが何だったのかを忘れ、競い合っているものなら何にでも食らいつこうとしはじめるのです。
餌なしの針をくわえて乾いた甲板の上をのたうちまわるマグロと、デパートのつまらない品々を山ほど抱えて家に帰り、一体何が起こったんだろうと呆然としている買物客は、なんと似通っていることでしょう。

p422

私たちが丸め込まれそうになっている状況において、希少性の原理によって自分を見失っていることに気がついたとしましょう。
その場合、私たちが取るべき反応は次の二つのステップを踏むはずです。
まず、希少性の影響によって生じた情動の高まりを感じたらすぐに、その高まりを、いったん立ち止まって考える合図として使います。
賢明な承諾をするためには、混乱し、熱に浮かされて反応してはいけません。
必要なのは、自分自身を落ち着かせ、理性的なものの見方を取り戻すことです。
これができたら、第二段階に移ります。
今度はそれが欲しい理由を自問します。
とにかく手に入れることが主要な目的だというのが答えなら、欲しいものの入手可能性を利用して、それを手に入れるために、どれくらいの金額までなら出すつもりがあるかを推し量りましょう。
しかし、主にその機能ゆえに欲しい(つまり、運転したり、食べたり飲んだりするためにそれが欲しい)というのが答えなら、考慮の対象となっている品は、手に入りやすかろうと入りにくかろうと、それによって機能の善し悪しが変わるものではないことを忘れてはなりません。
簡単に言えば、数が少ない場合であっても、クッキーの味に変わりがなかったことを思い出さなくてはならないのです。

訳者あとがき p445

本書は、 Cialdini, R. B. (2008). Influence: Science and Practice. 5th ed. Prentice Hall. の全訳である。
原書初版は一九八五年に出版されたが、日本ではその第二版が『影響力の武器』(誠信書房、一九九一年)というタイトルで翻訳出版され、その一六年後に原書第四版が『影響力の武器[第二版]』(同、二〇〇七年)として出版された。
今回訳出されたのは原書第五版である。

p446

しかし、近年、社会心理学の発展はもとより脳科学や行動経済学など新しい研究領域でも影響力に関わる重要な研究成果が多数生み出されている。
そこで、チャルディーニらのグループがとった方策は、
『影響力の武器』の方は新しい研究成果や世の中の変化や合わせて内容やスタイルを少しずつ修正するにとどめ、個々の研究に基づく新しい知見は別の書籍のなかに反映させていくというものである。
『影響力の武器 実践編』がその一例であり、最近出版された Martin, S.J., Goldstein, N., & Cialdini, R. (2014). The small BIG: Small changes that spark big influence. Business Plus. がこれに続く(訳書が誠信書房から出版される予定)。
こうした書籍に触れることによって、読者にとっては「なぜ、人は動かされるのか」に関する知識がさらに豊富になると同時に、それらが頭の中で整理され、より実践的なものとなるはずです。