「人を動かす」を 2,024 年 10 月 16 日に読んだ。
目次
メモ
p20
一八四二年の秋、リンカーンは、ジェームズ・シールズとよぶ見栄坊で喧嘩早いアイルランド生まれの政治屋をやっつけた。
スプリングフィールド・ジャーナル紙に匿名の諷刺文を書き送ったのである。
これが掲載されると、町中が大笑いした。
感情家で自尊心の強いシールズは、もちろん怒った。
投書の主がだれかわかると、さっそく馬に飛び乗り、リンカーンのところに駆けつけて決闘を申し込んだ。
リンカーンは決闘には反対だったが、結局ことわりきれず、申し込みを受け入れることになり、武器の選択は、リンカーンにまかされた。
リンカーンは腕が長かったので、騎兵用の広刃の剣を選び、陸軍士官学校出の友人に剣の使い方を教えてもらった。
約束の日がくると、ふたりは、ミシシッピー河の砂州にあいまみえたが、いよいよ決闘が始まろうとしたとき、双方の介添人が分け入り、この果し合いは預かりとなった。
この事件では、さすがのリンカーンも胆を冷やした。
おかげで、彼は、人の扱い方について、このうえない教訓を得たのである。
二度と人を馬鹿にした手紙を書かず、人をあざけることをやめ、どんなことがあっても、人を非難するようなことは、ほとんどしなくなった。
それからずっとあとの南北戦争のとき、ポトマック河地区の戦闘が思わしくないので、リンカーンは司令官をつぎつぎと取りかえねばならなかった。
マックレラン、ポープ、バーンサイド、フッカー、ミードの五人の将軍をかえてみたが、そろいもそろってへまばかりやる。
リンカーンはすっかり悲観した。
国民の半数はこの無能な将軍たちを痛烈に非難したが、リンカーンは“悪意をすてて愛をとれ”と自分にいい聞かせて、心の平静を失わなかった。
「人を裁くな人の裁きを受けるのがいやなら」というのが、彼のこのんだ座右銘であった。
p27
死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。
その批評が当っていればいるほど、効果はてきめんだ。
およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。
相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。
英文学に光彩を添えたトマス・ハーディが小説を書かなくなったのは、心ない批評のせいであり、英国の天才詩人トマス・チャタトンを自殺に追いやったのもまた批評であった。
若いときは人づき合いがへたで有名だったベンジャミン・フランクリンは、後年、非常に外交的な技術を身につけ、人を扱うのがうまくなり、ついに、駐仏米大使に任命された。
彼の成功の秘訣は「人の悪口は決していわず、長所をほめること」だと、みずからいっている。
人を批評したり、非難したり、小言をいったりすることは、どんなばか者でもできる。
そして、ばか者にかぎって、それをしたがるものだ。
理解と、寛容は、すぐれた品性と克己心をそなえた人にしてはじめて持ちうる徳である。
英国の思想家カーライルによれば、「偉人は、小人物の扱い方によって、その偉大さを示す」。
p42
「わたしには、人の熱意を呼びおこす能力がある。
これが、わたしにとっては何ものにもかえがたい宝だと思う。
他人の長所を伸ばすには、ほめることと、励ますことが何よりの方法だ。
上役から叱られることほど、向上心を害するものはない。
わたしは決して人を非難しない。
人を働かせるには奨励が必要だと信じている。
だから、人をほめることは大好きだが、けなすことは大きらいだ。
気に入ったことがあれば、心から賛成し、惜しみなく讃辞を与える」。
これが、シュワップのやり方である。
ところが、一般の人はどうか?
まるで反対だ。
気に入らなければめちゃくちゃにやっつけるが、気に入れば何もいわない。
「わたしは、これまでに、世界各国の大勢の立派な人々とつき合ってきたが、どんなに地位の高い人でも、小言をいわれて働くときよりも、ほめられて働くときのほうが、仕事に熱がこもり、出来ぐあいもよくなる。
その例外には、まだ一度も出あったことがない」と、シュワップは断言する。
実は、これが、アンドルー・カーネギーの大成功の鍵なのだと、シュワップはいっている。
カーネギー自身も、他人を、公私いずれの場合にも、ほめたたえたのである。
カーネギーは、他人のことを、自分の墓石にまできざんで賞讃しようとした。
彼がみずから書いた墓碑銘は、こうである。
「おのれよりも賢明なる人物を身辺に集むる法を心得しものここに眠る」。
p44
われわれは、子供や友人や使用人の肉体には栄養を与えるが、彼らの自己評価には、めったに栄養を与えない。
牛肉やじゃがいもを与えて体力をつけてはやるが、やさしいほめことばを与えることは忘れている。
やさしいほめことばは、夜明けの星のかなでる音楽のように、いつまでも記憶に残り、心の糧になるものなのだ。
p47
人間は、何か問題があってそれに心を奪われているとき以外は、たいてい、自分のことばかり考えて暮らしている。
そこで、しばらく自分のことを考えるのをやめ、他人の長所を考えてみることにしてはどうだろう。
他人の長所がわかれば、見えすいた安っぽいお世辞などは使わなくてもすむようになるはずだ。
他人の真価を認めようと努めるのは、日常生活では非常にたいせつな心がけであるが、ついおろそかになりがちである。
子供が学校から良い成績をもらって帰ってきても、ほめてやることを怠り、はじめてケーキがうまく焼けたり、小鳥の巣箱がつくれたりしても、励ましのことばをかけてやることもなかなかしない。
子供にとって、親が示してくれる関心や、賞讃のことばほどうれしいものはないのである。
p49
エマーソンは、また、こうもいっている。
「どんな人間でも、何かの点で、わたしよりもすぐれている――わたしの学ぶべきものを持っているという点で」。
エマーソンにしてこのことばあり、ましてやわれわれ凡俗はなおさらである。
自分の長所、欲求を忘れて、他人の長所を考えようではないか。
そうすれば、お世辞などはまったく無用になる。
うそでない心からの賞讃を与えよう。
シュワッブのように、“心から賛成し、惜しみなく讃辞を与え”よう。
相手は、それを、心の奥深くしまいこんで、終生忘れないだろう――与えた本人が忘れても、受けた相手は、いつまでも忘れないでいつくしむだろう。
p51
だから、人を動かす唯一の方法は、その人の好むものを問題にし、それを手に入れる方法を教えてやることだ。
これを忘れては、人を動かすことはおぼつかない。
たとえば、自分のむすこにたばこを吸わせたくないと思えば、説教はいけない。
自分の希望を述べることもいけない。
たばこを吸うものは野球の選手になりたくてもなれず、百メートル競走に勝ちたくても勝てないということを説明してやるのだ。
p52
米国の心理学者オーヴァストリート教授の名著『人間の行為を支配する力』につぎのようなことばがある。
「人間の行動は、心のなかの欲求から生まれる……だから、人を動かす最善の法は、まず、手の心のなかに強い欲求を起させることである。
商売においても、家庭、学校においても、あるいは政治においても、人を動かそうとするものは、このことをよく覚えておく必要がある。
これをやれる人は、万人の支持を得ることに成功し、やれない人は、ひとりの支持者を得ることにも失敗する」。
p57
自動車王ヘンリー・フォードが人間関係の機微にふれた至言を吐いている――
「成功に秘訣というものがあるとすれば、それは、他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、他人の立場からも物事を見ることのできる能力である」。
実に味わうべきことばではないか。
まことに簡単で、わかりやすい道理だが、それでいて、たいていの人は、たいていの場合、見のがしている。
p63
きょうもまた数千のセールスマンが、十分な収入も得られず、失望し疲れはてて街を歩いている。
なぜだろう彼らは常に自分の欲するものしか考えないからだ。
われわれは、別に何も買いたいとは思っていない。
それが彼らにはわかっていないのだ。
われわれは、ほしいものがあれば、自分で出かけて行って買う。
われわれは、自分の問題を解決することには、いつでも関心を持っている。
だから、その問題を解決するのに、セールスマンの売ろうとしているものが役立つことが証明されさえすれば、こちらから進んで買う。
売りつける必要はないのである。
客というものは自分で買いたいのであって、売りつけられるのはいやなのだ。
p75
ウィーンの有名な心理学者アルフレッド・アドラーは、その著書でこういっている――
「他人のことに関心を持たない人は、苦難の人生を歩まねばならず、他人に対しても大きな迷惑をかける。
人間のあらゆる失敗はそういう人たちのあいだから生まれる」。
心理学の書はたくさんあるが、どれを読んでもこれほどわたしたちにとって意味深いことばには、めったに出くわさないだろう。
このアドラーのことばは、何度もくりかえして味わう値打ちがある。
p77
わたしは、サーストン氏に、成功の秘訣をたずねてみた。
学校教育が彼の成功に何の関係もないことはあきらかだ。
少年のころ家を飛び出し、浮浪者になって、貨車にただ乗りをしたり、ほし草のなかで寝たり、他人の家の前に立って食物を請うたりしていたのである。
字の読み方は、鉄道沿線の広告を貨車のなかから見て覚えた。
彼は、奇術についてとくにすぐれた知識を持っていたのかというと、そうではない。
奇術に関する書物は山ほど出版されており、彼と同じ程度に奇術について知っているものは大勢いるという。
ところが、彼は、ほかの人にまねのできないものをふたつ持っている。
第一は、観客をひきつける人がらである。
彼は、芸人としての第一人者で、人情の機微を心得ている。
さらに、身ぶり、話し方、顔の表情など、微細な点にいたるまで、前もって十分な稽古を積み、タイミングに一秒の狂いもない。
つぎに、サーストンは、人間に対して真実な関心を持っている。
彼の話によると、たいていの奇術師は、観客を前にすると、はらのうちでこう考えるのだそうである――
「ほほう、だいぶ間のぬけたのがそろっているな。こんな連中をたぶらかすのは朝めし前だ」。
ところが、サーストンは、まったくちがう。
舞台に立つときは、彼はいつもこう考えるという――
「わたしの舞台を見にきてくださるお客さまがいるのはありがたいことだ。おかげで、わたしは日々を安らかに暮らせる。わたしの最高の演技をごらんにいれよう」。
サーストンは、舞台に立つとき、かならず心のなかで「わたしは、お客さまを愛している」と何度もくりかえしとなえるという。
読者は、この話を、ばかばかしいと思おうが、こっけいと思おうが、ご自由である。
わたしは、ただ、世界一の奇術師が用いている秘法を、ありのままに公開したにすぎない。
p83
友をつくりたいなら、まず人のためにつくすことだ。
人のために自分の時間と労力をささげ、思慮のある没我的な努力をおこなうことだ。
ウインザー公が皇太子のころ、南米旅行の計画を立てられた。
外国へ行けばその国のことばで話したいと考え、公は、出発前何カ月間もスペイン語を勉強した。
南米では、公の人気は大変なものであった。
長年、わたしは、友だちからその誕生日を聞き出すように心がけてきている。
もともとわたしは占星術などまるで信じない男だが、人間の生年月日と性格、気質には何らかの関係があると思うかどうか、相手にまず聞いてみることにしている。
そして、つぎに相手の生年月日をたずねる。
仮に十一月二十四日だと相手が答えたとすると、わたしは心の中で十一月二十四日、十一月二十四日と何度もくりかえし、すきを見て相手の名と誕生日をメモに書きつけ、家に帰ってから、それを誕生日帳に記入する。
毎年正月には、新しい卓上カレンダーにこれらの誕生日を書き込んでおく。
こうしておけば、忘れる心配がない。
それぞれの誕生日には、わたしからの祝電や祝いの手紙が先方に届いている。
これはまことに効果的で、その人の誕生日を覚えていたのは世界中でわたしひとりだったというような場合もよくある。
友をつくりたいと思えば、他人を熱意のある態度でむかえることだ。
電話がかかってきた場合にも、同じ心がけが必要で、電話をもらったのがたいへんうれしいという気持を十分にこめて「もしもし」と答えるのである。
p88
ナフルは、別に新しい真理を発見したわけではない。
紀元前一〇〇年に、ローマの詩人パブリアス・シラスがすでにつぎのごとく説いている――
「われわれは、自分に関心を寄せてくれる人々に関心を寄せる」。
他人に示す関心は、人間関係のほかの原則と同様に、かならず心そこからのものでなければならない。
関心を示す人の利益になるだけでなく、関心を示された相手にも利益を生まねばならない。
一方通行ではなく、双方の利益にならなくてはいけない。
ニューヨーク州のマーティン・ギンスバーグは、入院していたとき、ひとりの看護婦から特別な心づかいを受け、それが、どんなに自分のその後の人生に深い影響をおよぼしたか、つぎのように報告している。
「感謝祭の日のことだった。
わたしは十歳で、市立病院の社会保険病棟に入院しており、その翌日整形外科手術を受けることになっていた。
そのあと何カ月もの病床生活、肉体的苦痛などに対する覚悟もできていた。
父はすでに亡くなり、母とふたりっきり、小さなアパートで生活保護を受けて暮らしていたが、手術の前日というのに、母はいそがしくて病院にくることもできなかった。
時間がたつにつれて、さびしさ、絶望、そして手術への恐怖で気がめいってきた。
母はひとりでわたしのことを心配しているにちがいない。
話し相手もなく、いっしょに食事をする人もいない。
感謝祭だというのに、ごちそうをつくるお金もない。
そう思うと涙がとめどもなくわいてきて、わたしは枕のしたに頭をつっこみ、毛布をかぶって声を立てずに泣いた。
悲しさはますますつのり、からだ中に苦痛が走った。
すすり泣きの声を聞きつけた若い見ならい看護婦が近づいて毛布を持ちあげ、涙でよごれた顔をふいてくれた。
そして、自分も感謝祭の日に家族からはなれて働くのは、とてもさびしい。
だから、今晩はいっしょにお食事をしましょうといって、ふたりぶんの夕食を盆にのせてわたしのベッドへはこんできた。
七面鳥やマッシュポテトやクランベリ・ソース、それにデザートのアイスクリームまで、感謝祭のごちそうがそろっていた。
彼女はしきりに話しかけて、手術への恐怖心をまぎらそうとした。
勤務時間は午後四時までだというのに、十一時ごろわたしが寝入るまで、ゲームをしたり、お話を聞かせたりして、つきあってくれた。
十歳だったあの日から、何回も感謝祭がめぐってきた。
そのたびにあの日のこと――恐怖と孤独感、そして、それを克服する力を与えてくれた見知らぬ女性のやさしさ――を思い出す」。
p93
ミシガン大学の心理学教授、ジェームズ・マッコネル博士は、笑顔についてつぎのような感想を述べている。
「笑顔を見せる人は、見せない人よりも、経営、販売、教育などの面で効果をあげるように思う。
笑顔のなかには、渋面よりも豊富な情報がつまっている。
子供たちを励ますほうが、罰を与えるよりも教育の方法としてすぐれているゆえんである」。
p97
世のなかの人はみな幸福を求めているが、その幸福をかならず見つける方法がひとつある。
それは、自分の気の持ち方をくふうすることだ。
幸福は外的な条件によって得られるものではなく、自分の気の持ち方ひとつで、どうにでもなる。
幸不幸は、財産、地位、職業などで決まるものではない。
何を幸福と考え、また不幸と考えるか――その考え方が、幸不幸の分かれ目なのである。
たとえば、同じ場所で同じ仕事をしている人がいるとする。
ふたりは、だいたい同じ財産と地位を持っているにもかかわらず、一方は不幸で他方は幸福だということがよくある。
なぜか?
気の持ち方がちがうからだ。
わたしはニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスなどアメリカの大都会で、空調設備のある快適なオフィスに働く人たちの楽しそうな顔を目にしてきたが、それにおとらぬ楽しげな顔を、熱帯の酷暑のなかで原始的な道具を使って働く貧しい農夫のあいだでも見たことがある。
「物ごとには、本来、善悪はない。ただわれわれの考え方いかんで善と悪とが分かれる」――これは、シェークスピアのことばである。
「およそ、人は、幸福になろうとする決心の強さに応じて幸福になれるものだ」――これは、リンカーンのいったことだが、けだし名言である。
先日わたしはこのことばを裏づける生きた実例を目撃した。
ニューヨークのロング・アイランドの駅の階段をのぼっているとき、わたしのすぐまえを三、四十人の足の不自由な少年たちが、松葉杖をたよりに悪戦苦闘しながら階段をのぼっていた。
つきそいの人にかついでもらっている少年もいた。
わたしは、その少年たちが嬉々としたようすを見せていることにびっくりした。
つきそいのひとりに聞いてみると、こう答えた――
「そうです、一生からだが不自由になったとわかると、子供たちは、最初ひどいショックを受けますが、そのうちに、ショックがうすれて、たいていは自分の運命をあきらめ、ついには、ふつうの子供たちよりもかえって快活になります」。
わたしはこの少年たちに頭のさがる思いがした。
彼らは、わたしに一生忘れえぬ教訓を与えてくれたのだ。
p100
つぎに引用するエルバート・ハバードのことばを、よく読んでいただきたい。
いや、読むだけでは何にもならない――実行していただきたい。
家から出るときは、いつでもあごを引いて頭をまっすぐに立て、できるかぎり大きく呼吸をすること。
日光を吸いこむのだ。
友人には笑顔をもって接し、握手には心をこめる。
誤解される心配などはせず、敵のことに心をわずらわさない。
やりたいことをしっかりと心のなかで決める。
そして、まっしぐらに目標に向かって突進する。
大きなすばらしいことをやりとげたいと考え、それをたえず念頭におく。
すると、月日のたつにしたがって、いつのまにか、念願を達成するのに必要な機会が自分の手のなかににぎられていることに気がつくだろう。
あたかもサンゴ虫が潮流から養分を摂取するようなものである。
また、有能で真面目で、他人の役に立つ人物になることを心がけ、それを常に忘れないでいる。
すると、日のたつにしたがって、そのような人物になって行く………心の働きは至妙なものである。
正しい精神状態、すなわち勇気、率直、明朗さをつねに持ちつづけること。
正しい精神状態はすぐれた創造力をそなえている。
すべての物ごとは願望から生まれ、心からの願いはすべてかなえられる。
人間は、心がけたとおりになるものである。
あごを引いて頭をまっすぐに立てよう。
神となるための前段階――それが人間なのだ。
むかしの中国人は賢明だった。
処世の道にきわめて長じていた。
そのことわざに、こういう味わい深いものがある――
「笑顔を見せない人間は、商人にはなれない」。
笑顔は好意のメッセンジャーだ。
受け取る人々の生活を明るくする。
しかめっ面、ふくれっ面、それに、わざと顔をそむけるような人々のなかで、あなたの笑顔は雲のあいだからあらわれた太陽のように見えるものだ。
とくにそれが、上司や、顧客や、先生、あるいは両親や子供たちからの圧迫感に苦しんでいるような人であれば、「世間にはまだ楽しいことがあるんだな」と希望をよみがえらせる。
p106
アンドルー・カーネギーの成功の秘訣は何か?
カーネギーは鉄鋼王と呼ばれているが、本人は製鋼のことなどほとんど知らなかった。
鉄鋼王よりもはるかによく鉄鋼のことを知っている数百名の人を使っていたのだ。
しかし、彼は人のあつかい方を知っていた――それが、彼を富豪にしたのである。
彼は、子供のころから、人を組織し、統率する才能を示していた。
十歳のときには、すでに人間というものは自己の名前になみなみならぬ関心を持つことを発見しており、この発見を利用して他人の協力をえた。
こういう例がある――まだスコットランドにいた少年時代の話だが、ある日、彼は、ウサギをつかまえた。
ところが、そのウサギは腹に子を持っていて、まもなくたくさんの子ウサギが小屋にいっぱいになった。
すると、えさが足りない。
だが、彼にはすばらしい考えがあった。
近所の子供たちに、ウサギのえさになる草をたくさん取ってきたら、その子の名を、子ウサギにつけるといったのである。
この計画はみごとに当った。
カーネギーはそのときのことを決して忘れなかった。
後年、この心理を事業に応用して、彼は巨万の富をなしたのだ。
こういう話がある――彼は ペンシルバニア鉄道会社にレールを売りこもうとしていた。
当時、エドガー・トムソンという人が、その鉄道会社の社長だった。
そこで、カーネギーは、ピッツバーグに巨大な製鉄工場をたて、それを“エドガー・トムソン製鋼所”と命名した。
ペンシルバニア鉄道会社は、レールをどこから買いつけたか――それは、読者のご想像にまかせる。
カーネギーとジョージ・プルマンが寝台車の売りこみ競争でしのぎをけずっていたとき、鉄鋼王はまたウサギの教訓を思い出した。
カーネギーのセントラル・トランスポーテーション会社とプルマンの会社は、ユニオン・パシフィク鉄道会社に寝台車を売りこもうとして、互いに相手のすきをねらい、採算を無視して泥試合を演じていた。
カーネギーもプルマンも、ユニオン・パシフィクの首脳部に会うためにニューヨークへ出かけた。
ある夜、セント・ニコラス・ホテルで、この両人が顔を合わせ、カーネギーが声をかけた。
「やあ、プルマンさん、こんばんは。考えてみると、わたしたちふたりは、お互いにばかなことをしているようですなあ」。
「それは、いったいどういう意味かね?」
プルマンが、問いかえした。
そこでカーネギーは、前から考えていたことを彼に打ちあけた。
両社の合併案だ。
互いに反目しあうより、提携したほうが、はるかに得策だと熱心に説いた。
プルマンは注意深く聞いていたが、半信半疑のようすだった。
やがてプルマンは、カーネギーにこうたずねた――
「ところで、その新会社の名前はどうするのかね?」
すると、カーネギーは、言下に答えた。
「もちろん、プルマン・パレス車輛会社としますよ」。
プルマンは急に顔をかがやかせて、こういった――
「ひとつ、わたしの部屋で、ゆっくりご相談しましょう」。
この相談が、工業史に新しいページを加えることになったのである。
このように、友だちや取引き関係者の名を尊重するのが、カーネギーの成功の秘訣のひとつだった。
カーネギーは自分のもとで働いている多数の労働者たちの名前を覚えていることを誇りにしていた。
そして、彼が企業の陣頭に立っているあいだは、ストライキが一度も起らなかったと自慢していた。
p139
人間の行為に関して、重要な法則がひとつある。
この法則にしたがえば、たいていの紛争は避けられる。
これを守りさえすれば、友はかぎりなくふえ、常に幸福が味わえる。
だが、この法則を破ったとなると、たちまち、はてしない紛争に巻きこまれる。
この法則とは――
「常に相手に重要感を持たせること」。
すでに述べたように、ジョン・デューイ教授は、重要な人物になりたいという願望は人間のもっとも根強い欲求だといっている。
また、ウィリアム・ジェームズ教授は、人間性の根元をなすものは、他人に認められたいという願望だと断言している。
この願望が人間と動物とを区別するものであることはすでに述べたとおりだが、人類の文明も、人間のこの願望によって進展してきたのである。
p159
生来わたしはたいへんな議論好きだったので、この教訓は実に適切だった。
若いころ、わたしは世のなかのあらゆるものについて兄と議論した。
大学では論理学と弁論を研究し、討論会に参加した。
おそろしく理屈っぽくて、証拠を目の前につきつけられるまでは、めったにかぶとはぬがなかった。
やがてわたしは、ニューヨークで討論と弁論術を教えることになった。
今から考えるとひや汗が出るが、その方面の書物を書く計画を立てたこともある。
その後、わたしは、あらゆる場合におこなわれる議論を傾聴し、みずからも加わってその効果を見まもってきた。
その結果、議論に勝つ最善の方法は、この世にただひとつしかないという結論に達した。
その方法とは――議論を避けることだった。
毒蛇や地震を避けるように議論を避けるのだ。
議論は、ほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終るものだ。
議論に勝つことは不可能だ。
もし負ければ負けたのだし、たとえ勝ったにしても、やはり負けているのだ。
なぜかといえば――仮に相手を徹底的にやっつけたとして、その結果はどうなる?
やっつけたほうは大いに気をよくするだろうが、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。
――「議論に負けても、その人の意見は変らない」。
p164
リンカーンはあるとき、同僚とけんかばかりしている青年将校をたしなめたことがある。
「自己の向上を心がけているものは、けんかなどするひまがないはずだ。
おまけに、けんかの結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、いよいよけんかはできなくなる。
こちらに五分の理しかない場合には、どんなに重大なことでも、相手にゆずるべきだ。
百パーセントこちらが正しいと思われる場合でも、小さいことならゆずったほうがいい。
細道で犬に出あったら、権利を主張してかみつかれるよりも、犬に道をゆずったほうが賢明だ。
たとえ犬を殺したとて、かまれた傷はなおらない」。
p166
オペラ歌手ジャン・ピアースは、結婚して五十年になるが、あるとき、こんなことを話してくれた。
「わたしたち夫婦は、むかしひとつの協定を結び、どんなに腹の立つことがあっても、これを守りつづけてきた。
ふたりのうちどちらかがどなりはじめたら、もうひとりは黙ってそれに耳をかたむけるという取決めだ。
なぜかといえば、ふたりともどなりはじめたら、たちまち意思の疎通は吹っ飛び、あとはただ騒音で空気が震動するだけだから」。
p167
自分の考えることが五十五パーセントまで正しい人は、ウォール街に出かけて、一日に百万ドルもうけることができる。
五十五パーセントに正しい自信すらない人間に、他人のまちがいを指摘する資格が、はたしてあるだろうか。
目つき、口ぶり、身ぶりなどでも、相手のまちがいを指摘することができるが、これは、あからさまに相手を罵倒するのとなんら変りない。
そもそも、相手のまちがいを、なんのために相手の同意を得るために?
とんでもない!
相手は、自分の知能、判断、誇り、自尊心に平手打ちをくらわされているのだ。
当然、打ちかえしてくる。
考えを変えようなどと思うわけがない。
どれだけプラトンやカントの論理を説いて聞かせても相手の意見は変らない――傷つけられたのは、論理ではなく、感情なのだから。
「では、君に、そのわけを説明しましょう――」。
こういう前置きは、禁物だ。
これは、「わたしは君より頭が良い。よくいい聞かせて君の考えを変えてやろう」といっているにひとしい。
まさに挑戦である。
相手に反抗心を起させ、戦闘準備をさせるようなものだ。
他人の考えを変えさせることは、もっともめぐまれた条件のもとでさえ、たいへんな仕事だ。
何をこのんで条件を悪化させるのだ。
みずから手足をしばるようなものではないか。
p170
「おそらくわたしのまちがいでしょう」といってめんどうの起きる心配は絶対にない。
むしろ、それで議論がおさまり、相手も、こちらにまけず寛大で公正な態度をとりたいと思うようになり、自分もまちがっているかも知れないと反省する。
p171
理屈どおりに動く人間は、めったにいるものではない。
たいていの人は偏見を持ち、先入観、嫉妬心、猜疑心、恐怖心、ねたみ、自負心などにむしばまれている。
自分たちの主義、宗教、髪の刈り方、そして、クラーク・ゲーブルが好きだとか嫌いだとかいった考え方を、なかなか変えようとしないものだ。
もし人のまちがいを指摘したければ、つぎの文章を読んでからにしていただきたい。
ジェームズ・ロビンソン教授の名著『精神の発達過程』の一節である。
「われわれは、あまりたいした抵抗を感じないで自分の考え方を変える場合がよくある。
ところが、人から誤りを指摘されると、腹を立てて、意地を張る。
われわれは実にいいかげんな動機から、いろいろな信念を持つようになる。
だが、その信念をだれかが変えさせようとすると、われわれは、がむしゃらに反対する。
この場合、われわれが重視しているのは、明らかに、信念そのものではなく、危機にひんした自尊心なのである……“わたしの”というなんでもないことばが、実は、人の世のなかでは、いちばんたいせつなことばである。
このことばを正しくとらえることが、思慮分別のはじまりだ。
“わたしの”食事、“わたしの”犬、“わたしの”家、“わたしの”父、“わたしの”国、“わたしの”神様――下に何がつこうとも、これらの“わたしの”ということばには同じ強さの意味がこもっている。
われわれは、自分のものとなれば、時計であろうと自動車であろうと、あるいはまた、天文、地理、歴史、医学その他の知識であろうと、とにかく、それがけなされれば、ひとしく腹を立てる……われわれは、真実と思いなれてきたものを、いつまでも信じていたいのだ。
その信念をゆるがすようなものがあらわれれば、憤慨する。
そして、何とか口実を見つけ出してもとの信念にしがみつこうとする。
結局、われわれのいわゆる論議は、たいていの場合、自分の信念に固執するための論拠を見いだす努力に終始することになる」。
p174
南北戦争のころ、全国に名の聞えた編集長でホラス・グリーリーという男がおり、リンカーンの政策に大反対をとなえていた。
この男は論駁、嘲笑、非難などの記事によって、リンカーンの意見を変えさせようと何年間もがんばりつづけた。
リンカーンがブースの凶弾に倒れた日にさえ、彼は、リンカーンに対する不遜きわまる人身攻撃をやめなかった。
で、効果はあったか?
もちろんない。
嘲笑や非難で意見を変えさせることは不可能だ。
人のあつかい方と自己の人格を陶冶する方法を知りたければ、ベンジャミン・フランクリンの自叙伝を読めばよい。
読みはじめると、夢中になることはうけあいである。
また、アメリカ文学の古典でもある。
この自伝で、フランクリンは、いかにして自己の議論好きな悪癖を克服し、有能さと人あたりの良さと外交的手腕にかけてはアメリカ一流の人物になれたか説明している。
フランクリンがまだ血気盛んな青年のころ、彼の友人でクェーカー教の信者がいたが、その男に、だれもいないところで、手きびしい説教をくらった。
「ベン、君はだめだよ。
意見のちがう相手に対しては、まるで平手打ちをくらわせるような議論をする。
それがいやさに、君の意見を聞くものがだれもいなくなったではないか。
君がそばにいないほうが、君の友人たちにとってはよほど楽しいのだ。
君は自分がいちばん物知りだと思っている。
だから、だれも君にはものがいえなくなる。
事実、君と話せば不愉快になるばかりだから、今後は相手にすまいと皆がそう思っているんだよ。
だから、君の知識は、いつまでたっても、今以上にふえる見こみはない――今の取るに足りない知識以上にはね」。
この手ひどい非難をすなおに受け入れたのが、フランクリンの偉いところだ。
この友人のいうとおり自分は今破滅の淵に向かって進んでいるのだと悟ったあたり、彼は偉大であり賢明だったわけだ。
そこで、彼はまわれ右をした。
従来の傲慢で頑迷な態度を、たちどころに投げ捨てたのである。
フランクリンはつぎのようにいっている――
「わたしは、人の意見に真っ向から反対したり、自分の意見を断定的に述べないことにした。
決定的な意見を意味するようなことば、たとえば、“確かにとか”とか“疑いもなく”などということばはいっさい使わず、そのかわりに『自分としてはこう思うのだが……』とか『わたしにはそう思えるのだが……』ということにした。
相手が明らかにまちがったことを主張しても、すぐそれに反対し、相手の誤りを指摘することをやめた。
そして、『なるほどそういう場合もあるだろうが、しかしこの場合は、少し事情がちがうように思われるのだが……』というぐあいに切り出すことにした。
こうして、今までのやり方を変えてみると、ずいぶんと利益があった。
人との話し合いが、それまでよりもよほど楽しく進む。
控え目に意見を述べると、相手はすぐ納得し、反対するものも少なくなった。
わたし自身の誤りを認めるのがたいして苦にならなくなり、また、相手の誤りも、たやすく認めさせることができるようになった。
この方法を用いはじめたころは、自分の性質をおさえるのにずいぶん苦労したものだが、しまいには、それがやすやすとできるようになり、習慣にさえもなってしまった。
おそらくこの五十年ほどのあいだ、わたしが独断的ないい方をするのを聞いた人は、だれもいないだろう。
新制度の設定や旧制度の改革を提案すると、みなすぐに賛成してくれたのも、また、市会議員になって市会を動かすことができたのも、主として、第二の天性となったこの方法のおかげだと思う。
もともとわたしは口べたで、決して雄弁家とはいえない。
ことばの選択に手間どり、選んだことばもあまり適切でないことが多い。
それでいて、たいていの場合自分の主張を通すことができたのである」。
p196
相手の心が反抗と憎悪に満ちているときは、いかに理をつくしても説得することはできない。
子供を叱る親、権力をふりまわす雇い主や夫、口やかましい妻――こういった人たちは、人は自分の心を変えたがらないということをよく心得ておくべきだ。
人をむりに自分の意見に従わせることはできない。
しかし、やさしい打ちとけた態度で話しあえば、相手の心を変えることもできる。
右のような意味のことを、リンカーンはすでに百年前に述べている――
“一ガロンの苦汁よりも一滴の蜂蜜のほうが多くの蠅がとれる”ということわざはいつの世にも正しい。
人間についても同じことがいえる。
もし相手を自分の意見に賛成させたければ、まず諸君が彼の味方だとわからせることだ。
これこそ、人の心をとらえる一滴の蜂蜜であり、相手の理性に訴える最善の方法である。
p204
イソップはクリーサスの王宮につかえたギリシアの奴隷だが、キリストが生まれる六百年も前に、不朽の名作『イソップ物語』を書いた。
その教訓は、二千五百年前のアテネにおいても、また現代のボストンにおいても、バーミンガムにおいても、同じく真実である。
太陽は風よりも早くオーバーを脱がせることができる親切、友愛、感謝は世のいっさいの怒声よりもたやすく人の心を変えることができる。
リンカーンの名言“一ガロンの苦汁よりも一滴の蜂蜜を用いたほうが多くの蠅が取れる”をよく心にとどめおいていただきたい。
p228
二千五百年前に、中国の賢人老子が、現代にも通用することばを残している。
「河や海が数知れぬ渓流のそそぐところとなるのは、身を低きに置くからである。
そのゆえに、河や海はもろもろの渓流に君臨することができる。
同様に、賢者は、人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人のうしろに身を置く。
かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがない」。
p294
たとえ自分が正しく、相手が絶対にまちがっていても、その顔をつぶすことは、相手の自尊心を傷つけるだけに終る。
あの伝説的人物、航空界のパイオニアで作家のサンテグジュペリは、つぎのように書いている。
「相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪におちいらせるようなことをいったり、したりする権利はわたしにはない。
たいせつなことは、相手をわたしがどう評価するかではなくて、相手が自分自身をどう評価するかである。
相手の人間としての尊厳を傷つけることは犯罪なのだ」。
p300
人を変えようとして、相手の心のなかにかくされた宝物の存在に気づかせることができたら、単にその人を変えるだけでなく、別人を誕生させることすらできるのである。
これが、大げさだと思われるのだったら、アメリカが生んだもっともすぐれた心理学者であり哲学者でもあるウィリアム・ジェームズのつぎのことばに耳をかたむけられるとよい。
われわれのもつ可能性にくらべると、現実のわれわれは、まだその半分の完成度にも達していない。
われわれは、肉体的・精神的資質のごく一部分しか活用していないのだ。
概していえば、人間は、自分の限界よりも、ずっとせまい範囲内で生きているにすぎず、いろいろな能力を使いこなせないままに放置しているのである。
これを読むあなたも、使いこなせず宝の持ちぐされになっている能力を種々そなえておられるのだ。
批判によって人間の能力はしぼみ、励ましによって花開く。
p318
これは、子供だましのような気がするかも知れない。
だが、ナポレオン一世も同じようなことをやった。
彼は、自分の制定したレジョン・ドヌール勲章を千五百個もばらまいたり、十八人の大将に“元帥”の称号を与えたり、自分の軍隊のことを“大陸軍”と呼んだりした。
歴戦の勇士を“玩具”でだましたと非難されると、彼は答えた。
「人間は玩具に支配される」。
p319
人を変える必要が生じた場合、つぎの事項を考えてみるべきだ。
一、誠実であれ。守れない約束はするな。自分の利益は忘れ、相手の利益だけを考えよ。
二、相手に期待する協力は何か。明確に把握せよ。
三、相手の身になれ。相手の真の望みは何か?
四、あなたに協力すれば相手にどんな利益があるか?
五、望みどおりの利益を相手に与えよ。
六、人にものをたのむ場合、そのたのみが相手の利益にもなると気づくように話せ。
これで、必ず相手から良い反応が期待できると考えるのは、やや単純すぎる。
だが、少なくともこの原則を応用しなかった場合にくらべると、相手を変える可能性は高くなる。
これは、大勢の人が経験している。
もし、わずか十パーセントでも成功の確率を高めたとしたら、十パーセントだけ人を変える能力を高めえたことになる。
そして、これこそ、その努力がもたらす“利益”なのである。
p328
「わたしは一生のうちにばかなことも大いにやるかも知れないが、恋愛結婚だけはしないつもりだ」。
これは、ディズレーリのことばである。
彼は、それを実行した。
三十五歳まで独身をつづけ、ある金持ちの未亡人に求婚した。
十五も年上の婦人で、五十年の歳月を経た頭髪には霜を置いていた。
むろん、恋愛ではない。
彼が金を目当てに求婚しているのだということを、彼女はよく知っていた。
そこで彼女は、条件をひとつ持ち出した。
彼の性格を知るために、一年間待ってくれというのだ。
そして期限がくると、彼女は承諾した。
いかにも散文的で、勘定高い話だが、その結果は非常な成功で、このふたりほど幸福な結婚生活を楽しんだ夫婦はめずらしい。
ディズレーリの選んだ金持ちの未亡人は、若くもなければ美人でもなく、また、頭がいいわけでもなかった。
文学や歴史の知識もなく、吹き出したくなるようなまちがいを平気で口にした。
たとえば、ギリシア時代とローマ時代とは、どちらが先だかわからない。
服装や家具調度のこのみにも、まるでセンスがない。
だが、結婚生活におけるもっとも重要なものを持っていた――すなわち、男性操縦の術を心得ていたのだ。
彼女には、夫の知能に対抗するなどという考えは少しもなかった。
才女たち相手の機知の応酬に疲れるて帰ってきたディズレーリにとって、妻のとりとめもないおしゃべりは、このうえないなぐさめとなった。
やさしい妻の思いやりにつつまれた家庭は、彼にとって何ものにもかえがたい心の休息所だった。
彼が人生の幸福を感じたのは、妻とともにすごしているときだった。
彼女は彼の良き協力者であり、心の友であり、また助言者でもあった。
その日の出来事を早く彼女に話したいばかりに、彼は、いつも会議が終るとすぐ家に飛んで帰った。
彼女は(これが重要なことだが)、夫の仕事に対して絶対の信頼を寄せていた。
彼女は三十年間、ディズレーリのためにのみ生きた。
彼女の富も、彼のために費やすからこそ、値打ちがあると考えた。
そのかわり、彼女はディズレーリにとって、かけがえのない女性となった。
彼女の死後、ディズレーリは伯爵になった。
だが、それ以前に、自分が平民だったころ、彼はヴィクトリア女王に妻を貴族の列に加えるように具申し、一八六八年に彼女は貴族の列に加えられた。
彼女が人前でどんなへまをしでかしても、彼は決して彼女を責めたり、とがめたりしなかった。
もし、だれかが彼女をからかったりしようものなら、彼は、むきになって彼女をかばった。
彼女は決して完全な妻ではなかったが、とにかく三十年間、飽きずに夫のことばかり話し、夫をほめとおした。
その結果、「結婚して三十年になるが、わたしは、いまだに倦怠期というものを知らない」とディズレーリにいわせた。
ディズレーリも人前ではっきりと、妻は自分の命よりもたいせつだといっていた。
その結果、「夫がやさしくしてくれるので、わたしの一生は幸せの連続です」と、妻はいつも友だちに語っていた。
ふたりのあいだでは、こういう冗談がよく交わされていた――
「わたしがおまえといっしょになったのは、結局、財産が目当てだったのだ」。
「そう。でも、もう一度結婚をやり直すとしたら、今度は愛を目当てに、やはりわたしと結婚なさるでしょう」。
ディズレーリは、それを認めていた。
たしかに彼女は完全な妻ではなかった。
だが、ディズレーリは、彼女の長所を十分に伸ばしてやるだけの賢明さを持っていたのである。
p334
大むかしから、花は愛のことばと考えられてきたが、それほど高価なものではない。
ことに季節の花は安いものだ。
町角でいくらでも売っている。
それでいて、世の夫たちは、ひと束の水仙も家へ持って帰ろうとしない。
彼らは、花といえば蘭のように高価なものばかりだと思っているか、あるいはアルプスの高嶺の花エーデルワイスのように、容易なことでは手に入らない貴重品ばかりとでも思い込んでいるのだろう。
たかが数本の花を妻に贈るのに、彼女が入院するまで待つことはなかろう。
明日は、帰りがけに、バラの二、三本も買ってみてはどうだろう。
ためしにやってみることだ。
p338
ウィリアム・ジェームズの論文『人間の盲目性について』に、こういうことが書いてある――
「ここで述べる人間の盲目性とは、自分以外の動物や人間の感情に対する無感覚さで、われわれは、すべてこの傾向をそなえている」。
顧客や同僚に対しては決して乱暴な口をきかない男も、平気で妻をどなりつける。
だが、真の幸福を得るためには、仕事よりも結婚生活を、はるかに重視する必要があるのだ。
たとえ平凡でも、幸福な家庭生活を味わっているもののほうが、独身の天才よりも、数等幸せだ。
ロシアの文豪ツルゲーネフはいった――
「わたしのために夕食の支度をして待っていてくれる女性がどこかにいたら、わたしは才能のすべてを投げすてても悔いない」。
円満な家庭というものは、世の家庭の何パーセントくらいあるのだろうか?
ドロシー・ディックス女史は結婚の五十パーセント以上は失敗だといっているが、ポール・ポピノー博士の説は違う。
博士によると、「事業に成功する率は、結婚の成功率よりも低い。
事業では七十パーセントが失敗するが、結婚では七十パーセントが成功する」そうだ。
ディックス女史は、結婚についてつぎのような結論を出している――
「結婚という出来事にくらべると、出生は単なるエピソードにしかすぎないし、死もまた取るに足らない事件にすぎない。
男が仕事にそそぐだけの熱意を、なぜ家庭にもそそげないのか、その理由が、女性にはわからない。
百万の富をつくるよりも、やさしい妻と平和で幸福な家庭を築くほうが、男にとっては、はるかに意義のあることだが、家庭円満のために真剣な努力を傾ける男は、百人にひとりもいない。
人生でもっとも重大なことを、成行きにまかせている。
妻に対しては、強圧的な態度をとるよりも、やさしい態度を示すほうがよほど有効なのに、男はなぜ後者を選ばないのか、女には理解できない。
妻を思いのままに動かす術を、夫はみんな知っているはずだ。
少しほめてやれば妻が満足することを、夫は承知している。
古い服でも、それがよく似合うといってやれば、妻は最新流行の服をほしがらないことも知っている。
妻の目にキスをしてやると、彼女の目は見えなくなり、唇にキスをしてやれば、ものがいえなくなることも、夫は十分に心得ている。
夫はそれくらいのことは十分知っているだろうと、妻は思っている。
彼女は自分を喜ばせる方法を夫に教えてあるはずだ。
にもかかわらず夫はその方法を用いようとせず、彼女と争って大損害をこうむっても、お世辞をいうよりはましだとでも思っているらしい。
これでは妻が腹を立てるのも当然だ」。
p344
原著者デール・カーネギーは、アメリカにおける成人教育、人間関係研究の先覚者で、デール・カーネギー研究所の所長として、話術ならびに人間関係の新分野を開拓した。
彼は、アメリカ国内のみならず、ロンドン、パリなどヨーロッパの各地にも出張して講習会を開くかたわら、ウェスティングハウス電機会社、ニューヨーク電話会社その他の大会社の顧問として、社員の教育にあたり、直接に彼の指導をうけた職業人は、二十数年間で一万五千人以上の数にのぼっていたという。
そのうちには、社会の各方面で重要な地位を占める有名人も多数ふくまれている。
カーネギーは、最初、このような指導をおこなうにあたって、適当なテキスト・ブックの必要を感じ、手をつくしてそれをさがし出そうとした。
ところが、おどろいたことには、人間関係について実際に役立つ書物は一冊も出版されていない。
やむをえず、彼は、自分でそれを書く決心をした。
そのために、彼は、新聞、雑誌、裁判記録をはじめ、心理学書、哲学書、そのほか人間関係の問題に関連のある書物をかたっぱしからしらべあげ、助手をつかって、一年半にわたる資料あつめをおこなった。
また、マルコニー、フランクリン・D・ルーズヴェルト、クラーク・ゲーブルなど、各界の名士を大勢たずねて、直接にその談話をあつめることもやった。
この調査の結果、カーネギーは、人を動かす原則をうちたて、それを印刷した小さなカードをつくって講習会の教材とした。
ところが、講習会の回をかさねるごとに、このカードが増補されて、薄いパンフレットになり、そのパンフレットの頁数がしだいにふえて、十五年後には、ついに一冊の本になった。
それが『人を動かす』という書物である。
だから、この本は、一朝一夕に頭だけで書かれたものではない。
十五年にわたるカーネギーの指導の現場から生まれてきたもので、著者の説は、すべて実験ずみのものばかりなのである。
デール・カーネギーは、ミズーリ州の農家に生まれ、州立の学芸大学に学んだ。
そのころ、彼は異常な劣等感に悩まされており、それを克服するために弁論を研究した。
大学卒業後、教師、セールスマン、食肉会社員、行商人など、雑多な仕事を経験したが、一九一一年には、ニューヨークに出て、演劇研究所にはいり、地方まわりの劇団に所属した。
劇団の仕事も、あまり長つづきはせず、やがて彼はニューヨークにもどって、トラックのセールスマンをはじめた。
そのうちに、彼は、自分にもっとも適した仕事はやはり大学時代に研究した弁論術だと気づき、YMCAの弁論術講座を担当することになった。
はじめは、一晩に二ドルの報酬しか得られなかったが、しだいにこの講座の受講者がふえて、まもなく、一晩の報酬が三十ドルとなった。
ついに、彼は、成人教育に自己の適性を見いだしたのである。
そこにいたるまでの彼の放浪は、決してむだではなかった。
世の辛酸をなめつくし、社会の表裏を知りつくして、ついに彼は人間性の秘密をさぐりあてたのである。
彼の成功はそこにもとづいており、彼の説がわれわれを納得させるのもそれがためである。