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「道は開ける」を読んだ

投稿時刻2024年10月18日 18:37

道は開ける」を 2,024 年 10 月 18 日に読んだ。

目次

メモ

p27

オスラー博士が訴えたのは、私たちは明日の準備をする必要はないという意味だろうか?
いや、決してそうではない。
博士はあの講演の中で、明日の準備をする最良の手段は、諸君の全知全能を傾け、あらゆる熱情を注ぎ、今日の仕事を今日中に仕上げることであると説いたのだ。
これこそ未来に対して準備を整える唯一の方法と言えるだろう。

オスラー博士は、エール大学の学生たちに向かって、一日の始まりに「私たちの日ごとの食物を今日もお与えください」というキリストの祈りを唱えるようすすめている。

心に留めてほしいのは、この祈りが「今日の」食物のみを求めている点だ。

この祈りは、昨日口にせざるをえなかった古いパンのことで不平を言っているのではない。
まして「おお神よ、穀倉地帯はカラカラに乾ききっており、旱魃に見舞われるかもしれませんそうなると、来年の秋にはどのようにしてパンをつくればよいのでしょう?」とか「私が失業したら、神よ、私はどのようにしてパンを得たらよいのでしょう?」などとは言っていない。

そうだ、この祈りは私たちに今日のパンだけを求めるように教えている。
今日のパンこそ、人間が口にしうる唯一のパンなのだ。

ずっと昔、人々が苦しい暮らしをしている石ころだらけの土地をひとりの哲人が放浪していた。
ある日、丘の上で群集に囲まれた彼は、古今東西を通じてもっともよく引用されることになる言葉を群衆に伝えた。
幾世紀にもわたって語りつがれているその言葉とは――
「それゆえ、あすのことを考えるな。あすのことはあす自身が考えるだろう。一日の苦労はその一日だけで十分だ」。

多くの人々は、「あすのことを考えるな」というキリストの言葉に従わなかった。
人々は、この言葉が実行困難な理想であり、根拠のない考えだとして、拒絶したのだった。
彼らは言う。
「明日のことを考えないわけにはいかない。
自分の家族を守るために、保険をかけなければならない。
老後に備えて、金も貯めなければならない。
立身出世のことを考え、その準備をしなければならない」と。
確かに、そのとおりだ!
実のところ、このキリストの言葉は三百年以上も前、ジェームズ一世が統治していたころに英訳されたものだが、当時と現在とでは言葉の意味が変わっている。
三百年以前には考え (thought) という言葉が、しばしば心配 (anxiety) という意味で使われていた。
現代語訳の英訳聖書では「あすのことを思い悩むな」という、より正確な表現が使われている。

いずれにしても、明日のことは配慮すべきである。
細心の注意を払って計画し準備すべきである。
だが心配するには及ばない。

p32

私は、ついに陸軍の診療所に収容された。
ある軍医の助言によって、私の身に一生の転機が訪れることになった。
彼は、私の身体をすっかり診察したあとで、私の病気は精神的なものだと教えてくれた。
『テッド、君の人生を砂時計と考えてみるんだ。
砂時計の上部には、無数の砂がはいっている。
そして、それらの砂はゆっくりと、一定の速度で中央のくびれた部分を通過して行く。
この砂時計を壊さないためには、君や僕が余計な手出しをせずに、砂の一粒一粒がくびれた箇所を通過するままにしておくほうがいい。
君にしても、僕にしても、ほかのだれにしても、この砂時計そっくりなのさ。
朝、仕事を始めるときには、その日のうちに片づけてしまわねばならないと思われるものが山ほどある。
けれども、われわれには一度に一つのことしかできないし、砂時計の砂がくびれた部分を通るように、ゆっくりと、一定の速度で仕事を片づけるしか手はない。
さもないと、肉体や精神の働きが狂ってしまうのだ』。

私は、軍医から『一度に一粒の砂……一度に一つの仕事』という言葉を聞いた記念すべき日以来、ひたすらこの哲学を実践してきた。
この助言のおかげで、私は戦争中、心身ともに救われたのだ。
またこの言葉は、印刷会社の広告宣伝部長という現在の地位に役立っている。
私は、かつて戦時中に体験したものと同じ問題が仕事の上にも生じてくることに気づいた。
つまり、同時にさまざまな問題を片づけなければならない――だのに、それらを片づけるだけの時間がないのだ。
在庫品の減少、新商品の取扱い、仕入れの手配、住所の変更、開店や店じまい、などなど。
気持ちを高ぶらせ、神経質になる代りに、私は軍医から教わった言葉を思い出した。
『一度に一粒の砂、一度に一つの仕事』この言葉を何度も何度もくり返しながら、自分の仕事をできるだけテキパキ効率よく片づけることにしたが、おかげで戦場で危うく破滅しかけたときの混乱や動揺を再び味わうことなく仕事をやりおおせている」。

われわれ現代人の生活におけるもっともおそろしいことの一つは、病院のベッドの半数が、累積した過去の重荷や、不安に満ちた未来に押しつぶされた、神経症や精神的な葛藤に悩む患者たちによって、占められているという事実であろう。
しかし、彼らが《あすのことを思い悩むな》というキリストの言葉や、《今日、一日の区切りで生きよう》というウィリアム・オスラーの言葉に注意を向けてさえいたら、彼らの大部分は今日も幸福で実り豊かな生活を送ることができたはずなのだ。

p35

一九三八年の春、私はミズーリ州バーセイルズ市の近郊で商売をしていました。
学校は貧弱で、道路はお粗末でした。
私は、さびしさと落胆のために自殺を考えたこともありました。
とても成功はおぼつかないように見えました。
生きがいなどありません。
毎朝、目覚めることも、人生に向かい合うこともおそろしく、あらゆることを気に病んでいました。
車の月賦が払えなくなるのでは…家賃の支払いはどうしよう……食事代がなくなるのでは……病気になるのではないかと心配でしたが、医者にかかる費用もなかったのです。
私が自殺に踏みきれなかったのは、妹がさぞや嘆き悲しむだろうと考えたためと、葬儀の費用がなかったためでした。

ところが、ある日ふと読んだ文章によって、私は失意の底から立ち上がり、生きて行く勇気を与えられました。
その文章中の天の声のような一句に対する感謝の念は、終生、変わらないでしょう。
その一句とは『賢者には毎日が新しい人生である』というものです。
私は、この句をタイプで打って、自分の車の窓ガラスにはりつけました。
運転中でも、絶えずこれを見ていました。
私には、一日だけを精いっぱいに生きるのなら、たいして苦にならないことがわかりました。
昨日のことを忘れられるようになり、明日のことを気にかけなくなりました。

毎朝、私は『今日は新しい人生だ』と自分に言い聞かせたのです。
私は孤独から生じる不安や、貧困による恐怖を克服することができました。
いまは幸福ですし、暮らしもかなり豊かになり、人生に対する情熱と愛も十分あります。
どのような人生が訪れるとしても、私は二度と不安におののくことはないでしょう。
いまでは、未来をおそれる必要はないことを知っています。
一日だけを精いっぱいに生きること――そして、『賢者には毎日が新しい人生である』ことを十分に承知しています」。

p39

ホワイト・クィーンが言ったことをあなたは覚えているだろう。
「明日になったらジャムがあるとか、昨日だったらジャムがあったのにといっても、それは今日のジャムでは絶対ないのだ」。
私たちのほとんどはそうなのだ――昨日のジャムをあれこれ考えたり、明日のジャムについて悩んだりしている――きょうのジャムをいまパンに分厚く塗る代りに。

p39

フランスの大哲学者モンテーニュでさえ、この種の過ちを犯した。
彼は言う。
「私の生涯は、おそろしい災難に満ち満ちたものに思われたが、その大部分は、実際には起こらなかった」。
私の人生にしても、皆さんの人生にしても、同じことだ。

ダンテは言っている。
「今日という日は、もう二度とめぐっては来ないことを忘れるな」。
人生は信じられないほどのスピードで過ぎ去って行く。
私たちは、秒速三十キロで空間を走っている。
「今日」は、私たちにとって、かけがえのない所有物である。
私たちにとって、唯一の確実な所有物なのだ。

2 悩みを解決するための魔術的公式 p43

皆さんがたは、悩みを解決するための手っ取り早くて、しかも確実な効果を得る秘訣を知りたいあまり、本書をもっと先まで読むのはもどかしいとお思いではなかろうか?

それなら、ウィリス・H・キャリア氏が実践した方法をご紹介しよう。
キャリア氏は空調産業を開発した天才技師であり、ニューヨーク州シラキュース市のキャリア・コーポレーションの社長である。
これは私が今まで聞いた中で、悩みを解決する方法として最善のものだが、その話を私は先日、ニューヨークのエンジニアズ・クラブで昼食をともにしたときに、キャリア氏から直接聞く機会をもった。

「私は若いころ、バッファロー市にある鋳物工場に勤めていました。
私のところに、ミズーリ州クリスタル・シティの板ガラス製造工場にガス浄化装置を取り付ける仕事がまわってきました。
何百万ドルもの仕事です。
この装置は、ガスから出る不純物を取り除いて燃焼効率を上げ、エンジンの損耗を防ぐためのものでした。
この方式によるガス浄化装置は開発されたばかりで、たった一度違った条件のもとで試運転されたにすぎませんでした。
クリスタル・シティでの作業中に、予期しなかった障害が発生しました。
その装置は稼働するにはしたのですが、保証契約書にうたったほどぐあいよくいかなかったのです。

私は、自分の失敗に打ちのめされる思いでした。
まるで、だれかに頭をガーンとなぐられたかのようでした。
胃や腸はキリキリねじれ、しばらくは心配のあまり、眠れぬ夜がつづきました。

とどのつまり、いくらクヨクヨ悩んでみてもどうなるものでもないという気持ちになりました。
そこで、不安な気持ちを振り捨てて、目前の事態に対処する具体的な方法を考えだしたのです。
今度はうまくいきました。
私は、これと同じ不安解消法を三十年以上にもわたって用いています。
それはだれにも実行できるごく単純なもので、三つの段階から成り立っています。

第一。
まず状況を大胆率直に分析し、その失敗の結果生じうる最悪の事態を予測すること。

私の場合、だれかに逮捕されたり、射殺されることは考えられませんでした。
これは確実でした。
ただ、会社から首を切られることになるかもしれません。
また、私の雇い主はその装置を回収せざるをえなくなり、投資した二万ドルを損するかもしれません。

第二。
生じうる最悪の事態を予測したら、やむをえない場合にはその結果に従う覚悟をすること。

私は自分に言い聞かせました。
今度の失敗は私の経歴に傷をつけるだろうし、悪くすると、失職するかもしれない。
だが、そうなれば別の仕事を探せばいいのだ。
条件は少し悪くなるかもしれないが……。
経営者の立場はどうだろう?
これは開発中の新方式だということはわかっている。
それが二万ドルかかっても、その負担には耐えられる。
とすれば、研究開発費として計上すればいいではないか。

生じうる最悪の事態を予測し、その結果に従う覚悟ができると、とたんに重大なことが起こりました。
私の気分は落ち着き、何日ぶりかで平安を味わったのです。

第三。
これを転機として、最悪の事態を少しでも好転させるように冷静に自分の時間とエネルギーを集中させること。

私は目前にある二万ドルの損失を軽減するために、さまざまな方法を発見しようと努力しました。
何度か試験したあげくに得た結論は、あと五千ドルかけて付属装置をつければ、問題は起きないというものでした。
さっそくこれを実行して、会社に二万ドルの損失を与える代りに、一万五千ドルの利益をもたらしたのです。

もし私がいつまでも悩みつづけていたならば、こういう結果にはならなかったでしょう。
悩みにつきものの最大の欠陥は、私たちの集中能力をうばってしまうことです。
ひとたび悩みはじめると、気持ちが絶えず動揺して、決断力が失われます。
しかし、自分の目をむりやりに最悪の事態へと向けさせ、それに対する心の備えを固めれば、妄想はことごとく消え去り、問題解決のため全力を集中できるような立場に自分を置くことができるのです。

ここにご紹介した出来事は、遠い過去のことがらですが、結果が実に役に立ったので、私はそれ以来ずっとこの方法を用いてきました。
おかげで、私の人生を通じて、悩みらしい悩みを持ったことがありません」。

ところで、ウィリス・H・キャリアの魔術的な公式は心理的な面でなぜそれほど効果があり、応用範囲が広いのであろうか?
その理由は、私たちが悩みのために盲目状態になって手探りしているときに、厚い黒雲の中から引き降して豊かで固い大地を踏みしめられるようにしてくれるからだ。
私たちには、自分がどこにいるかがわかる。
もし、しっかりとした地面に立っているのでなかったら、いったいどうやって考えをまとめることができよう?

p46

応用心理学の祖ウィリアム・ジェームズは、一九一〇年になくなっている。
だが、もし彼が今日生きていて、この最悪の事態に対処する秘訣を聞いたならば、彼も双手を上げて賛同したいにちがいない。
どうしてそれがわかるのか、だって?
彼は教え子たちに、こう言ったことがあるからだ。

「事態をあるがままに受け入れよう」。
つまり「起きてしまったことを受け入れることこそ、どんな不幸な結果をも克服する出発点となるからだ」。

中国人の思想家・林語堂も、ベストセラーとなった『生活の発見」という著書で、同じ考え方を述べている。

「真の心の平和は、最悪のことがらをそのまま受け入れることによって得られる。心理学的に考えれば、エネルギーを解放することになるからであろう」。

まさに、そのとおりだ!
心理学的に見て、エネルギーを解放することなのだ!
私たちが最悪のことがらを受け入れてしまえば、もはや失うものはなくなる。
裏を返して言えば、どうころんでも儲けものなのだ!
キャリアも言っている。
「とたんに私の気分が落ち着き、何日ぶりかで心の平安を味わったのです。これを転機として、私は思考力を取りもどしました」。

まことに道理にかなっているではないか。
それにしても、数えきれないほどの人々が怒りと混乱のために自分の人生を台なしにしてしまったが、もとはといえば最悪の事態を受け入れようとしなかったからである。
事態を改善しようとせず、破滅にひんしても、できる範囲内での救出作業すらしなかったのだ。
運命を建て直そうとせずに、「経験と悪戦苦闘」したあげく、最後にはメランコリア(憂うつ病)という心のしこりの犠牲者となってしまったのである。

p47

キャリアの魔術的公式を身につけ、これを自分の問題に応用した別の例をあげよう。
私のクラスの受講生であったニューヨークの石油商の話である。

この受講生は、こう切り出した。
「私は恐喝されていました!
私はそんなことがありうるなんて思ってもみなかったのです。
恐喝なんて映画以外に起こりうるとは思ってもみなかったのですが、私は実際に恐喝されていたのです!
私が社長をしていた石油会社はたくさんの配達用トラックを持っており、運転手も大勢いました。
その当時は物価管理局の規制がきびしく、石油は割当制だったので、お客に対して配達できる量は限られていました。
私は気がつかなかったのですが、一部の運転手は得意先へ届ける量をごまかして、その分を自分たちの客に横流ししていたようでした。

私がはじめてこの不正取引を知ったのは、ある日、政府の査察官と名のる男が面会を求めてきて、口止め料を要求したときでした。
男は、会社の運転手たちの行為を証拠だてる書類を持っていて、もし私が金を出さなければ、書類を地方検事あてに送ると脅迫しました。

もちろん、少なくとも私自身はなんら心配ないことは百も承知でした。
けれども、法律の上では、企業は従業員の行為についても責任を負っているわけです。
そのうえ、この事件が表沙汰になり、新聞に書き立てられでもしたら、悪評が広まり、会社の命とりともなりかねません。
私は自分の事業に――二十四年前に父が創立した会社に誇りを持っていました。

私は苦悩のあまり、病気になりました!
三日三晩というもの、食事はのどを通らず、一睡もできません。
私は半狂乱で、堂々めぐりをくり返すだけでした。
金を出そうか、たった五千ドルではないか。
それとも、やれるものならやってみろと言おうか?
私はどちらにするかを決めかねて、悪夢でうなされる始末でした。

ところが日曜の夜、何気なく『悩みを解決するには』という小冊子を手にして読みました。
カーネギー・コースの教室でもらったものでした。
その中で、キャリアの話にぶつかったわけです。
《最悪の事態を直視せよ》とありました。
そこで、自問してみました――私が金を出さないとすれば、最悪の事態とはどんなことだろう?
はたして恐喝者どもは地方検事に書類を送るだろうか?

それに対する答えは――会社の倒産。
これが最悪の事態だ。
刑務所へやられることはない。
たかが信用をなくして、会社がつぶれるだけではないか。

つぎに、自分にこう言い聞かせました――よかろう、会社は倒産だ。
すでにその覚悟はできた。
では、そのあとはどうなるのだろう?

会社が倒産するとなると、なにか職探しをしなければなるまい。
だが、たいしたことではない。
私は石油についてはくわしい――私を雇いたいという企業の二つや三つはあるだろう……だんだんと気分が落ち着いてきました。
三日三晩も取りつかれていた恐怖心も薄らいできました。
興奮状態もさめて、そして、おどろいたことに、思考力を取りもどしたのです。

ようやく頭もすっきりしてきて、第三の《最悪の事態を好転させる》ことにまで考えが及ぶようになりました。
あれこれと思案しているうちに、まったく別なことを思いつきました。
自分の弁護士に洗いざらい話してみよう。
もしかすると、考えてもみなかった手段を教えてくれるかもしれないぞ。
まったくバカげたことだが、こんなことさえ以前の私には思い浮かばなかった。
考えていたのではなく、ただ悩んでいたのですから!
私は朝一番に弁護士のところに行こうと決心しました。
そして、ベッドにもぐり込み、死んだように熟睡したのです。

その結果ですか?
つぎの朝、私の弁護士は、私のほうから地方検事に会いに行って事実を打ち明けるべきだと言いました。
私は教えられたとおりにしました。
すっかり話し終わると、検事は、この種の恐喝事件はかなり前から続出しており、『政府の査察官』と名のる男は警察から手配されていると言って、私をびっくりさせました。
この札つきペテン師に五千ドル払おうかどうしようかと三日三晩も苦しんだ私は、事の真相を聞かされて、ほっと胸をなでおろしました。

この経験のおかげで、私は忘れられない教訓を得ました。
悩みの種になりそうな緊急事態が発生すると、きまって私はあの《ウィリス・H・キャリアの公式》を用いるのです」。

p53

そこで、第二のルールを示そう。
もし悩みの種を抱えているならば、ウィリス・H・キャリアの公式を使って、三つのことをやってみるべきだ。

一、「起こりうる最悪の事態とは何か」と自問すること。
二、やむをえない場合には、最悪の事態を受け入れる覚悟をすること。
三、それから落ち着いて最悪状態を好転させるよう努力すること。

p57

有名なメイヨー兄弟は、国内の病院ベッドの過半数が、神経症患者によって占められていると発表した。
しかしながら、これらの人々の神経は、死体解剖時に高性能の顕微鏡で調べてみると、その大部分は、見たところジャック・デンプシーの神経に劣らず健康であった。
彼らの「神経症」は、神経の肉体的損傷によるものではなく、無力感、欲求不満、不安、苦悩、恐怖、敗北、絶望が原因である。
プラトンも述べている。
「医師のおかしている最大の過失は、心を治療しようとせずに、肉体を治療しようとすることだ。
しかし、心と肉体は一つのものであり、別々に治療できるはずがない!」。

p58

医学がこの真理を認識するまでに二千三百年かかった。
心身医学と呼ばれる新しい医学、神と肉体を同時に治療する医学が発達してきたのは、ようやくつい最近のことだ。
機が熟したとは、このことだろう。
すでに医学は、細菌が引き起こす病気、天然痘、コレラ、黄熱病その他、無数の人々を早死にへと追いやった多くの病気をほとんど全滅させた。
けれども医学は、細菌のためではなく、苦悩、不安、憎しみ、欲求不満、絶望といった感情が引き起こす精神と肉体の破綻に対しては、いまだに対処できない。
これらの心の葛藤による死傷者は異常なまでの速度でふえつづけ、その範囲も広がっている。

なにが心の健康を失わせるのだろうか?
まだ完全な解答が出ているわけではない。
しかし多くの場合に、恐怖や苦悩が大きな役割を果たしていると考えられる。
過酷な現実に対処できず、不安に駆られ、苦悶する人は、周囲との関係をすべて断ち切り、自分でつくり上げたひそかな夢の世界へと逃避する。
このようにして自分の悩みを解消したことにするのである。

p61

悩みによってリューマチや関節炎になり、車いすの身となる例もある。
コーネル大学医学部のラッセル・L・セシル博士は関節炎の世界的権威であるが、彼は関節炎をもたらす四つの原因を指摘している。

一、結婚生活の失敗
三、孤独と苦悩
二、経済的障害と悲嘆
四、長期にわたる恨み

当然のことながら、これら四つの情緒的状態が関節炎の唯一の原因というわけではない。
関節炎は多種多様であり、その原因も千差万別である。
けれども、くり返すが関節炎をもたらすもっとも普通の原因は、ラッセル・L・セシル博士が挙げた四つに尽きるのだ。

p64

今日のアメリカでは、心臓病が死因の第一位に挙げられる。
第二次世界大戦中の戦死者はおよそ三十万人だが、同じ時期に心臓病で死亡した人は二百万人にも達した。
しかも、このうち百万人は、悩みや高度に緊張した生活がもたらした心臓病による死亡者である。
アレクシス・カレル博士が「悩みに対する戦略を知らないビジネスマンは若死にする」と言った理由の一つは、この心臓病のことなのだ。

ウィリアム・ジェームズが言ったように、「神はわれらの罪を許してくださるが、神経組織はそうはしてくれない」のだ。

4 悩みの分析と解消法 p72

私に仕えるしもべは六人
(私の知っていることは全部彼らが教えてくれたのだ)
彼らの名前は「なに」「なぜ」「いつ」「どのように」「どこ」「だれ」
――ラドヤード・キプリング
第一部第二章で示したウィリス・H・キャリアの魔術的公式でもって、悩みの問題はすべて解決できるだろうか?
もちろん、そんなわけがない。

では、どうするか?
種々雑多な悩みに対処するための準備をしなければならないが、まず問題を三段階に分けて分析することを学ぼう。
三段階とは――
一、事実の把握
二、事実の分析
三、決断――そして実行

わかりきったことかもしれない。
アリストテレスもこのように教えたし、これを実践した。
私たちも日常を地獄同然に塗り変えている問題を解決しようとすれば、この方法を用いなくてはならないのだ。

p79

幾度も経験を重ねた結果、私は決断に達することがいかに大切であるかを知った。
はっきりとした目標を決めることができず、いつまでたっても考えがまとまらずに堂々めぐりをくり返す。
それが人間の神経をずたずたにし、生き地獄へと追いやるのだ。
明確な決断に達すれば、即座に苦悩の五割が消え失せ、その決断を実行に移すと同時に、残りの四割が蒸発する。

つまり、つぎの四つの段階を踏めば、悩みの九割を追い払うことができる。
一、悩んでいる事柄をくわしく書き記す。
二、それについて自分にできることを書き記す。
三、どうするかを決断する。
四、その決断をただちに実行する。

p80

彼の方法がなぜそれほどすぐれているのだろうか?
その理由として、効果の大きいこと、具体性のあること、問題の核心をついていることが挙げられる。
特筆すべき点は、第三の欠くべからざる法則「何かの行動で示すこと」という面を最優先させていることだ。
私たちが行動でもって示さなければ、真相の究明や分析もすべて空念仏に等しい――まさにエネルギーの浪費でしかなかろう。

ウィリアム・ジェームズはこう言っている。
「ひとたび決断を下し、あとは実行あるのみとなったら、その結果に対する責任や心配を完全に捨て去ろう」(この場合、ウィリアム・ジェームズが「心配」を「不安」の同義語として用いているのは明らかであろう)。
要するに、事実にもとづいて慎重に決断したならば、行動に移れということだ。
考え直したりするな。
ためらったり、危ぶんだり、あともどりしてはならない。
ひとたび自分を疑いだしたら、また別の疑いが生じてくる。
もはや肩ごしにうしろをふり返ってはならないのだ。

私は、オクラホマ州きっての石油業者として知られたウェイト・フィリップスに対して、どのようにして決断を実行に移すのかと質問したことがある。
彼はこう答えた。

「私が思うに、問題をある限度以上に考えつづけると、混乱や不安が生じやすい。
それ以上調べたり考えたりすれば、かえって有害となる時機がある。
それが決断をし、実行し、そして絶対にふり向いてはならない時機なのだ」。

p105

さすがにジョージ・バーナード・ショーは傑物だった。
つぎの彼の言葉は、まことに的を射ているではないか。
「みじめな気持ちになる秘訣は、自分が幸福であるか否かについて考える暇を持つことだ」。
裏を返せば、そんなことを考えないことだ!
手につばをつけて、忙しく働こう。
そうすれば血のめぐりはよくなり、頭脳も回転し始めるだろう――まもなく体内の生命力が激しい勢いでほとばしり、心の中から悩みを一掃してしまうだろう。
多忙を求め、多忙を維持するのだ。
これこそ、地球上に存在するもっとも安価な治療薬であり、しかも絶大な効果を有するものなのだ。

p119

世界でもっとも著名な保険会社――ロンドンのロイド船舶協会――は、まれにしか起こらない出来事を気に病むという人間の性質を利用して莫大な富を築き上げた。
ロイド協会は、一般人が心配している災難など起きないであろうという見通しにもとづいて賭けをしているわけだ。
ところが、彼らはそれを賭けと呼ばずに保険と名づけている。
けれども、実は平均値の法則にもとづいた賭けなのだ。
この巨大な保険会社は二百年にわたって発展を続けてきたが、人間の性質が変わらない限り、さらに五百年は安泰を誇るであろう。
靴や船舶や封ロウなどの、一般人が想像するほど多くは起きない災難に対して、平均値の法則によって、保険を引き受けることで。

p128

私たちは、やむをえない場合には、実におどろくべき早さでどんな状況でも受け入れることができ、それに自分を順応させ、それを忘れることができる。

私が折にふれて思い出すのは、オランダのアムステルダムにある十五世紀の寺院の廃墟で見た碑銘である。
そこにはフランダース語で「そはかくのごとし。かくあらざるをえず」と書かれていた。

私たちは長い人生を歩むあいだに、どうにもならない不愉快な立場に立たされることが多い。
それはどうにもしょうがない。
選択は私たちの自由である。
そういう立場を天命として受け入れ、それに自分を順応させることもできるし、あるいは、一生を台なしにしてまでも反抗し、神経衰弱になることもできる。

p131

エリザベス・コンリーは、私たちだれもが遅かれ早かれ学ばなくてはならないこと、つまり天命を受け入れ、それと調子を合わさねばならないことを学んだ。
「そはかくのごとし、かくあらざるをえず」。
これはあまり手軽に学べる教訓ではない。
王座を守る君主たちでさえ、このこと心に留めておかねばならない。
故ジョージ五世はバッキンガム宮殿の図書室の壁にこんな言葉を掲げておいた。
「月を求めて泣かぬよう、こぼれたミルクを悔やまぬよう、余に教えよ」。
これと同じ考え方をショーペンハウエルはこう表現している。
「あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ」。

確かに周囲の条件だけで人間の幸福や不幸が決まるわけではない。
私たちの感情を左右するのは、周囲の条件に対する反応のしかたである。
キリストは「天国はあなたがたの中にある」と説いた。
これは地獄についても同様である。

p133

十二回以上もの手術と盲目に耐えなければならないとしたら、並みの人間ならきっと神経が参ってしまうだろう。
ところが、ターキントンは「私はこの経験をもっと愉快なものと交換しようとは思わない」と言いきるのだ。
この経験から彼は受容ということを学んだ。
これによって、人生がどんなに不幸をもたらそうと、自分の力で耐えられないものはないことを悟った。
ジョン・ミルトンが発見したように、「盲目であることが悲惨なのではなく、盲目状態に耐えられないことが悲惨であるだけだ」という教訓を得たのだった。

p137

エルジー・マコーミックが『リーダーズ・ダイジェスト』に書いた記事によれば、「われわれが不可抗力に逆らうのをやめると、ある種のエネルギーが放出され、そのおかげでもっと豊かな人生を創造することができる」。

不可抗力に逆らうに足る十分な気力と体力を持ち合わせており、同時に新しい人生を創造するに足るだけの余裕を残している人間などだれひとりとして存在しない。
どちらか一方を選ぶしかなかろう。
避けようのない人生の猛吹雪におとなしく従うこともできるし――さもなければ、徹底的に抵抗して破滅するのもいいだろう。

p141

キリストの十字架刑以外に、歴史に残る臨終場面といえばソクラテスの死をおいてない。
今から百万年後においてもなお、人間はプラトンの不滅の記述――あらゆる文学作品中でもっとも感動的な名文――を読みながら感動するだろう。
裸足のソクラテスに嫉妬と羨望を抱いた一部のアテネ人は彼にあらぬ罪をきせ、裁判にかけて死刑を宣告した。
ソクラテスに好意的だった牢番は毒杯をすすめながら、こう言った。

《もはや動かしがたい事態に対して潔く従われんことを。》

ソクラテスは言われたとおりにした。
彼は神々しいまでの平静さと諦観をもって死に臨んだ。

《もはや動かしがたい事態に対して潔く従われんことを。》この言葉はキリスト生誕より三百九十九年も前に言われたものである。
しかし、悩みに満ちた今日の世界にとって、この言葉は過去のいかなる時代にもまして必要とされている。
《もはや動かしがたい事態に対して潔く従われんことを。》

p141

いささかでも悩みの解消法に触れている本や雑誌なら、私は事実上ほとんど目を通してきた!
皆さんとしては、私の読書体験から得られた悩みに関する最良の忠告を知りたいであろう。
そこで、ここにごく短い言葉で紹介しよう――浴室の鏡にでも貼りつけておいて、顔を洗うたびごとに心の悩みも洗い流してはいかがであろうか。
このかけがえもなく貴重な祈りは、ラインホルト・ニーバー博士によって書かれたものである。

神よ、われに与えたまえ、
変えられないことを受けいれる心の平静と、
変えられることを変えてゆく勇気と、
それらを区別する叡知とを。

p176

盲目のミルトンは、三百年も前に同じ真理を発見していた。

心こそ己れの居場所、そこでこそ
地獄を天国に天国を地獄につくる

ナポレオンやヘレン・ケラーも、ミルトンの言葉を完全に実証している。
ナポレオンは多くの人間が熱望するもの――栄光、権力、巨万の富――をことごとく手に入れたけれども、セント・ヘレナでは「私の生涯で幸福な日々は六日もなかった」と言ったのである。
一方、盲目で聾唖のヘレン・ケラーは「人生とは本当に美しいものだと思います」と断言している。

半世紀の生涯で私が学んだことがあるとしたら、それは、「自分に平和をもたらすのは、ほかならぬ自分自身なのだ」という言葉で表現できる。
この表現はエマソンが『独立独歩』というエッセイの中でいみじくも用いた結びの文句にほかならない。
「政治的な勝利、地代の値上げ、病気の全快、長いあいだ留守にしていた友人の帰還、このほか種々の外部的な事象は人間の精神を高揚させ、幸せな日々が到来するような予感を抱かせる。
これを信じてはならない。
そんなことは決してない。
自分に平和をもたらすのは、ほかならぬ自分自身なのだ」。

p182

だいぶ前に私は一冊の本を読んで、忘れることができないほど深い感動を受けた。
ジェームズ・アレンの『思索する人』と題するその本には、こんなことが書かれていた。

「人が事物や他人に対する考え方を変えると、自分に対する事物や他人の態度が変わってくることを発見するだろう……自分の考え方を根本的に変えてみよう。
するとその結果、生活の外的条件が急変してしまうのにおどろくだろう。
人間は自分が欲するものを引きつけるのではなく、あるがままのものを引きつけるのである……われわれの目的にかなう神は、われわれ自身の内にいる。
これこそ自己にほかならない……人間が成就するものはすべて、その人間自身の考えがもたらした直接的な結果である……人間は自分の思考を高めていくことによって向上し、征服し、成就することができる。
自分の思考を高めようとしなければ、その人間はいつまでたっても弱々しく、卑屈でみすぼらしいだけだ」。

p183

壮快で建設的な考え方をするためのプログラムを実践することによって、われわれの幸福のために闘おう。
ここにそのプログラムがある。
これには「今日だけは」という題がついている。
私はこのプログラムの含蓄の深さに注目して、そのコピーを何百枚も配布した。
これは三十六年前に故シビル・F・パートリッジが書いたものである。
これを実践すれば私たちの悩みはほとんど消え去り、フランス人が口にする「生きる喜び」を無限に増大させることができよう。

今日だけは

一、今日だけは、幸福でいよう。
リンカーンは「たいていの人々は、自分で決心した程度だけ幸福になれる」と言ったが、まったく至言である。
幸福は内部から生じる。
外部のことがらではない。

二、今日だけは、自分自身をその場の状況に順応させて、自分の欲望のためにすべてを順応させることを控えよう。
自分の家族も仕事も運も、あるがままに受け入れて、自分をそれに合わせよう。

三、今日だけは、身体に気をつけよう。
運動をし、身体を大切にし、栄養を取ろう。
肉体を酷使したり、軽視することはつつしもう。
そうすれば、身体は意のままに動く完全な機械になるだろう。

四、今日だけは、自分の精神を鍛えよう。
何か有益なことを学び取ろう。
精神的な無精者にはなるまい。
努力と思考と集中力を必要とするものを読もう。

五、今日だけは、魂の訓練のために三つのことをしよう。
だれかに親切をほどこし、気づかれないようにしよう。
ウィリアム・ジェームズが教えているように、修養のために少なくとも二つは自分のしたくないことをしよう。

六、今日だけは、愛想よくしよう。
できるかぎり晴れやかな顔をし、おだやかな口調で話し、礼儀正しくふるまい、惜しげなく人をほめよう。
他人の批判やアラ探しをつつしみ、他人を規則でしばったり、戒めたりすることをやめよう。

七、今日だけは、今日一日だけを生き抜くことにして、人生のあらゆる問題に同時に取り組むことをやめよう。
一生のあいだつづけるとしたら、いや気のさすような問題でも、十二時間ならばがまんできる。

八、今日だけは、一日の計画を立てよう。
処理すべき仕事を一時間ごとに書き出そう。
予定どおりにはいかないかもしれないが、ともかくやってみよう。
そうすれば、二つの悪癖――拙速と優柔不断と縁が切れるかもしれない。

九、今日だけは、たったひとりで静かにくつろぐ時間を三十分だけ生み出そう。
この時間を使い、ときには神について考えよう。
人生に対する正しい認識が得られるかもしれない。

十、今日だけは、恐れないようにしよう。
とくに幸福になることを恐れたり、美しいものを楽しむことを恐れたり、愛することを恐れたり、私の愛する人が私を愛していると信じることを恐れないようにしよう。

p187

私たちが敵に憎しみを感じると、むしろ自分自身が敵に支配されることになる。
そしてその支配力は私たちの睡眠・食欲・血圧・健康・幸福にまで及んでくる。
敵は私たちを悩ませ、苦しめ、仕返しさえしていることを知ったら、小躍りして喜ぶであろう!
私たちの憎悪は少しも敵を傷つけないばかりか、かえって私たち自身が、日夜、地獄の苦しみを味わうことになる。

つぎの言葉はだれの言葉だと思われるだろうか?

「もし利己的な人たちがあなたを利用しようとしたら、そんな連中とつき合うことはない。
だが、仕返しは考えないことだ。
仕返しをしようとすれば、相手を傷つける前に自分が傷ついてしまう」……もしかすると、夢みるような瞳の理想主義者が言った言葉のように聞こえるかもしれないが、そうではない。
ミルウォーキーの警察署が発行した公報に載ったものである。

仕返しによってどのように傷つくというのだろう?
結果はさまざまである。
雑誌『ライフ』によると、健康を破壊することもあるという。
「高血圧症に悩む人々に共通した性格といえば、すぐに他人をうらむことである。
他人へのうらみが慢性化すれば、慢性高血圧症と心臓病に結びつく」と『ライフ』は述べている。

だから、キリストが「自分の敵を愛しなさい」と言ったのは、単に道徳律を説いただけではなく、二十世紀の医学をも説いていたのだ。
「七たびを七十倍するまでゆるしなさい」と言ったキリストは、高血圧症・心臓病・胃潰瘍・その他の病気の予防法について語っていたのだ。

私の友人のひとりが、最近、重い心臓病にかかった。
医師は彼女にベッドを離れることを禁じ、どんなことが起きても、決して腹を立てないように命じた。
医師たちの常識からいって、心臓が弱っているときには、怒りを爆発させたとたんに死ぬこともありうる。
ありうるどころか、数年前にもワシントン州スポーケンに住むレストランの経営者は、怒りを爆発させたとたんにあの世行きとなったのである。
私の手元には地元の警察署長ジェリー・スワタウトからの手紙がある。
「数年前に、当地で喫茶店を経営していたウィリアム・ファルケイバーという六十八歳の男が、激怒に駆られて死を招いた。
彼のコックがコーヒーを皿で飲むと言ってゆずらなかったためである。
その喫茶店主は怒りのあまりピストルを手にしてコックを追いかけ、ついに銃を握ったまま心臓麻痺で昇天してしまった。
検死官は立腹による心臓麻痺と断定した」。

キリストは「自分の敵を愛しなさい」と言ったとき、いかにすれば私たちの表情が良くなるかについても説いていたのだ。
私や皆さんが知っている人々の中にも、憎悪と怨恨のために顔のシワがふえ、皮膚がこわばり、せっかくの容貌が台なしになった例があるはずだ。
全世界の美容外科も、寛容・親切・愛情の満ちあふれた精神がなくては、その効果は半減してしまうであろう。

憎悪は私たちの食べる楽しみすらも奪ってしまう。
聖書にはこう書いてある。
「野菜を食べて互いに愛するのは、肥えた牛を食べて互いに憎むのにまさる」。

私たちが敵を憎むことによって精力を使いはたし、神経質になり、容貌が衰え、心臓病に冒され、寿命まで縮めていると知ったならば、彼らは手を打って大喜びするのではなかろうか?

たとえ敵を愛することができなくても、少なくとも自分自身を愛そうではないか。
せめて私たちの幸福や健康や容貌を敵の支配にゆだねなくてすむ程度に、自分自身を愛そうではないか。
シェークスピアもこう言っている。

敵のために暖炉を熱しすぎて
おのが身を焦がさぬように

p191

私たちは聖者とちがって自分の敵を愛するのはむりかもしれない。
けれども、自分自身の健康と幸福のために少なくとも敵をゆるし、忘れてしまおう。
これこそ賢明というものだ。
孔子も言っている。
「虐待されようが、強奪されようが、忘れてしまえばどうということもない」。
私はアイゼンハワー元帥の令息ジョンに向かって、あなたのお父さんは今までにうらみを抱いたことがあるだろうかと質問したことがある。
「いいえ」彼は答えた。
「父は一分間といえども、自分の好まない人間のことを考えながらむだな時間をすごしたことはありません」。

p196

エピクテトスは千九百年もむかしに、われわれは自分のまいたものを刈り取る、そして運命はわれわれの悪事に対しては災いで報いると語っている。
「結局のところ、人間はだれも自分のあやまちに対してつぐないをさせられる。
このことをよく知る人間は、だれにも腹を立てず、だれをもうらむことなく、だれの悪口を言うこともなく、だれをも非難せず、だれをも不快にすることなく、だれをも憎まないであろう」。

p198

私の育った家庭では毎晩、聖句を読むか聖書の一節を復唱したあと、ひざまずいて「家庭の祈り」を唱えるのが常だった。
今でも私の耳の底には、わびしいミズーリの農場で聖書の一節をくり返す父の声が聞こえる。
それは人間が理想を持ちつづけるかぎり唱える言葉とも言えよう。
「あなたの敵を愛しなさい。
あなたをにくむ者に善を行ないなさい。
あなたをのろい、侮辱する者のために祈りなさい」。

p202

もっともな話ではないか?
人間の天性とは、しょせん生来の性質であり、一生を通じて変わらないのであろう。
だから、それを受け入れるしかあるまい?
ローマ帝国の支配者のうちで傑出した賢者といわれるマルクス・アウレリウスにならって、現実的な考え方をしようではないか。
彼はこんな日記を残している。
「私が今日これから会おうとしているのは、おしゃべりで、利己的で自己中心的で、恩知らずの人間どもだ。
だが私は別に驚きもせず、困ってもいない。
そんな連中のいない世界など想像できないのだから」。

p204

アリストテレスの言う理想人――幸福を享受するのにもっともふさわしい人間――とは、私の父のような人ではあるまいか。
アリストテレスは言っている。
「理想人は他人に好意をほどこすことから喜びを得る」。

p212

だが、私たちにはこれらの真価がわかっているだろうか?
残念ながらわかっていない。
ショーペンハウエルが「われわれは自分に備わっているものをほとんど顧慮せずに、いつも欠けているものについて考える」と言ったが、確かに「自分に備わっているものをほとんど顧慮せずに、いつも欠けているものについて考える」傾向こそ、地上最大の悲劇と言ってもよい。
おそらく不幸をもたらすという点では、歴史上のあらゆる戦争や疾病に劣らないであろう。

p216

ローガン・ピアソール・スミスの名言はつぎのように簡潔である。
「人生には目標とすべきものが二つある。
第一は自分の欲するものを手に入れること、第二はそれを楽しむことである。
数ある人間のうちでも、第二のことを実践できるのは賢者だけでしかない」。

p228

皆さんはこの世で何かしら新しさを持っている。
それを喜ぶべきだ。
自然が与えてくれたものを最大限に活用すべきである。
結局のところ、すべての芸術は自叙伝的なのである。
あなたに歌えるのは、今のあなたの姿であり、あなたに描けるのは、今のあなたそのものなのだ。
あなたは、あなたの経験や環境や遺伝子が作り上げた作品であるべきだ。
良くも悪くも、あなたは自分の小さな庭を育てねばならない。
良くも悪くも、人生というオーケストラの中で、あなたは自分の小さな楽器を演奏しなければならないのだ。

p229

エマソンは『独立独歩』というエッセイの中でこう述べている。
「だれでも教育を受けている過程で嫉妬は無知であり、模倣は自殺行為にほかならないという確信に達する時期がある。
それは、良かれ悪しかれ人間は自分を天与の運命とみなすべきだという確信であり、広大な宇宙にはすぐれたものが数々あるが、人の糧となる穀物の種は、割り当てられた一区切りの土地に自分の労苦をそそいで初めて得られるのだという確信でもある。
人間の中にひそむ力はもともと新鮮である。
自分に何ができるかを知っている人間は自分以外にないが、自分でさえ試みるまではわからない」。
これは、エマソン流の表現だ。

17 レモンを手に入れたらレモネードをつくれ p231

本書を執筆中のある日、私はシカゴ大学を訪れ、ロバート・メイナード・ハッチンズ総長に悩みからのがれる方法をたずねたところ、こんな答えが返ってきた。

「私はシアーズ・ローバックの社長、故ジュリアス・ローゼンワルドの『レモンを手に入れたら、レモネードをつくれ』という忠告に従うように心がけている」(訳者注―レモンという言葉には不快なものという意味がある)。

これこそ偉大な教育者が実行していることなのだ。
だが、おろか者はこれと正反対のことをする。
彼は人生の贈物がレモンだと知ると、あきらめ顔で「私は負けた。これが運命だ。もはやチャンスはない」などと言い出す。
そして世間に文句をつけ、自己憐憫にどっぷりひたり込んでしまう。
けれども、賢い人はレモンを手にして自問する。
「この不運からどんな教訓を学ぶべきだろう?どうしたら周囲の状況がよくなるであろう?どうすればこのレモンをレモネードに変えられるだろうか?」。

p232

一生を費やして人間とその潜在能力を研究した偉大な心理学者アルフレッド・アドラーによれば、人間の驚嘆すべき特質の一つは「マイナスをプラスに変える」能力である。

p235

『神々にそむいた十二人』の著者、故ウィリアム・ボリソはこう書いている。
「人生でもっとも大切なことは利益を活用することではない。
それならバカにだってできる。
真に重要なことは損失から利益を生み出すことだ。
このためには明晰な頭脳が必要となる。
ここが分別ある人とバカ者との分かれ道だ」。
ボリソがこう述べたのは彼が列車事故で片足を失ったあとだった。

私はまた両足を失いながらマイナスをプラスに変えた人を知っている。
ベン・フォーストンという名の男で、私は彼にジョージア州アトランタにあるホテルのエレベーターの中で出会った。
エレベーターに足を踏み入れたとき、隅の車いすに両足のない男がニコニコ顔で座っているのが目についた。
目的の階につくと、彼は私に向かって、車いすを動かしたいのでもう少し寄っていただけませんかと、明るい声で頼んだ。
「どうもご迷惑をかけてすみません」彼はこう言って、心の底からあふれ出る笑みを浮かべながら出て行った。

私は自室へもどってからもあの快活な身体障害者のことしか考えられなかった。
そこで、彼の部屋を探しだして身の上話をしてもらった。

「一九二九年のことでした」彼はほほえみながら話した。
「庭の豆に支柱を立てようとしてヒッコリーの木を切りに出かけました。
切った木を車に積んで帰る途中で、その一本が不意に車の下に滑り落ちたため、ちょうど急なカーブを曲がろうとしていた私は、ハンドルが切れませんでした。
車は土手の下に転落し、私は木にたたきつけられました。
背骨をやられ、両足は麻痺してしまいました。
二十四歳のときのことですが、それ以来一歩も歩いていません」。

わずか二十四歳にして一生を車いすで送るはめになるとは!
私は、どうしてその事故を克服するほどの勇気を持ち合わせていたのかときいた。
「いや、そんなものは持ち合わせていなかったのです」と彼は言った。
一時は逆上したり反抗したりして、自分の運命をのろったという。
しかし何年かするうちに、反抗したところで自分を苦しめるだけだと気がついた。
「最後に、世間の人たちの親切心と心づかいが理解できました。
そこで私のほうでも、できるだけ親切と心づかいを忘れないようにしました」。

長い年月が過ぎた今でも、あの事故をおそろしい災難であったと思うかという質問に対して、即座に「ノー」という返事が返ってきた。
「今ではあの出来事を喜んでいるくらいです」。
事故のショックと悲憤から立ち直ると、彼は別の世界で生きることにした。
すぐれた文学書を読み始めると、文学に対する愛情は深まり、十四年間に千四百冊を読破したという。

それらの書物は彼の視野を広め、夢想だにしなかったほど彼の生活を豊かにしてくれた。
音楽にも親しむようになり、以前は退屈だと感じたシンフォニーにも心をおどらすようになった。
けれども何より大きな変化は、考える時間ができたことだった。
「生まれて初めて私は世界を見つめ、物の価値を判断できるようになりました。
以前私が手に入れようとしていたものの大部分は、取るに足りない無価値なものだったと気がつきました」。

彼は読書の結果、政治に興味をおぼえ、社会問題を研究しながら車いすで遊説してまわった!
彼は多くの人々と知り合いになり、人々にも知られるようになった。
そして相変わらず車いすに座っているが、今はジョージア州の州務長官である!

ずっとニューヨークで成人教育にたずさわってきた私が発見したことは、成人たちの多くが大学に行けなかったことを心から残念に思っているということである。
彼らは、大学教育を受けられなかった点が、大きな悪条件になっていると考えているらしい。
私は必ずしもそうは考えない。
世間には高卒で成功している人がたくさんいるからだ。
だから私はよく、これらの受講生に、小学校さえ満足に出られなかった男の話をする。

彼は赤貧の家に育った。
父親が死んだとき友人たちが出し合った金で棺桶を買ったほどだった。
父の死後、母親は傘を作る工場で一日十時間も働いたあと、賃仕事を家へ持って帰り、夜の十一時まで仕事をした。

このような境遇に育った少年は教会の素人演劇クラブに加わった。
彼はすっかり演劇に惚れ込んでしまい、雄弁術を身につけようと決心した。
これが機縁となって政界に身を投じ、三十歳前にニューヨーク州の議員に選ばれた。
しかし残念ながら、彼はこの職責を果たすには準備不足であった。
彼は率直に自分は何をしたらいいのかまったくわからなかったと述懐している。
彼は賛否の投票を求められている長文で複雑な議案を読んだけれども、彼にとってそんな議案はチョクトー族インディアンの言葉で書かれているのと同然だった。
彼は森林に足を踏み入れたこともないのに森林委員に選ばれ、銀行の口座も持っていないのに州立銀行法委員に選ばれてしまった。
彼は苦悩し、狼狽し、自信を失い、議員を辞職しようとまで考えたが、母親に対して敗北を認めるのがはずかしくて思いとどまった。
絶望の中で一日十六時間勉強しようと決心した彼は、無知というレモンを知識というレモネードに変えようとした。
それを実行した結果、彼は自分を地方の一政治家から国家的な人物にまで育て上げ、『ニューヨーク・タイムズ』が「ニューヨークで最大の人気を集める市民」とたたえるほど傑出した存在になった。

話題の主はアル・スミスである。
アル・スミスは独学で政治の勉強を始めてから十年後に、ニューヨーク州の政治に関する最高権威となり、四回もニューヨーク州知事に選ばれるという前人未踏の記録をつくった。
一九二八年には民主党の大統領候補にもなった。
コロンビア、ハーバードをはじめ六つの大学が、小学校しか卒業していない男に名誉学位を贈った。

アル・スミスは私に、もしマイナスをプラスに変えるために一日十六時間の勉強をしなかったら、何一つ実現しなかっただろうと話してくれた。

ニーチェの超人についての定義にも「窮乏に耐えるだけでなく、それを愛するのが超人である」とある。

p240

ハリー・エマソン・フォズディックは「洞察する力』という著書で述べている。
「『北風がバイキングを作った』。
スカンジナビアにこんなことわざがあるが、これはわれわれの人生に対する警鐘と考えることもできる。
安全で快適な生活、困難でなく、楽しくのんびりした生活さえあれば人間は自然に幸福になり、善良になるという考え方は、いったいどこから来たのだろう?
それどころか自己憐憫に陥っている人間は、クッションの上にそっと寝かされていてさえ、やっぱり自分を憐れみつづける。
歴史を見ればわかるように人間が自己の責任を背負って立てば、環境が良かろうと悪かろうと中程度であろうと、名声と幸福が必ずやってくる。
だからこそ、北風がいつもバイキングの生みの親となったのだ」と。

p240

私たちが失望落胆して、もはやレモンをレモネードに変える気力も失せたとしても、とにかく二つの理由のために私たちは現状打破を試みなければならない。
つまり、どちらからいっても、すべてが得で、失うものは何もないからである。

第一の理由――成功するかもしれない。

第二の理由――たとえ成功しなくても、マイナスをプラスに変えようとするだけで、うしろをふり返らずに前方を見つめることになる。
消極的だった考えが積極的になり、それが創造力を活動させ、われわれを多忙にし、過ぎ去ったものをなげく時間や気持ちはなくなってしまうだろう。

p240

つぎに挙げるのは、偉大な精神分析医アルフレッド・アドラーの筆に成るおどろくべき報告である。
彼は憂うつ症の患者に対して、決まって同じことを言った。
「この処方どおりにしたら、二週間できっと全快しますよ――それは、どうしたら他人を喜ばすことができるか、毎日考えてみることです」。

この言葉だけでは信用されないかもしれないので、アドラーの名著『人生の意味』から少し引用することにしよう。

憂うつ症とは、他人に対する長期に及ぶ憤怒、非難のごときものである。
とはいえ、保護・同情・支持を得たいがために患者は自分の罪の意識に沈みこんでいるように見える。

憂うつ症患者の第一の記憶は通常、つぎのようなことだ。
「私は長いすに横になりたかったが、兄がそこにいたので大声で泣きだした。
それで兄はしかたなくいすを明け渡した」。
憂うつ症患者はしばしば自殺によって自己に復讐する傾向を持っている。
だから医師が第一に注意しなくてはならないのは、彼らに自殺の口実を与えないようにすることである。
私自身は彼らの緊張を緩和する治療の第一歩として、「したくないことは決してするな」と説くことにしている。
これはすこぶる控え目のようではあるが、あらゆる障害の根源に迫るものと信じる。
もし憂うつ症患者がしたいことをしていいのだったら、だれも恨みようがないはずである。
自分自身に腹いせもできないではないか。
私はこう伝える。
「映画に行きたいなら行けばいい、遊びに行きたいなら行けばいいさ。途中でイヤになったら、やめることだ」。
これはどんな人間にとってももっとも望ましい状態である。
これは、なんとか優越感にひたりたいという気持ちを満足させる。
自分は神だ、好きなことができると。
だが一方では、それは彼の生活方式にすんなりとは当てはまらない。
彼は他人を支配し、非難したいのだが、他人が彼に同意すれば、彼らを支配する方法がないのである。
この法則は彼らの不平を除去する。
私の患者からはひとりの自殺者も出ていない。

たいていの場合、患者は「しかし、したいと思うことなど別にありません」と答える。
私は何回となくその答えを耳にしているので、すでに準備ができている。
「じゃあ、したくないことをむりにすることもないさ」。
ときには「私はとにかく一日中寝ていたい」と答える患者もある。
私がよろしいと言えば、患者のほうでイヤになることを知っている。
それを拒めば、彼が暴れだすこともわかっている。
そこで、私は同意する。

これが第一の法則である。
つぎには、より直接的に彼らの生活方式に攻撃を加えるのである。
こう言うのだ――《この処方どおりにしたら、二週間できっと全快しますよ。それは、どうしたら他人をよろこばすことができるか、毎日考えてみることです。》
これは彼らにとって重大な意味がある。
彼らは「どうすれば他人を悩ますことができるか」と、このことばかり考えている。
これに対する答えはとてもおもしろい。
ある者は「そんなことは簡単だ。これまでにも実行してきたことだから」と答える。
彼らは決して実行してはいない。
だから考えてみろと勧めるのだ。
彼らは考えようとしない。
すると私はこう言う。
「夜よく眠れない時間を利用して、どうすれば他人を喜ばすことができるかを考えたらいい、それが病気回復への第一歩ですよ」。
翌日私はきいてみる。
「昨日勧めたとおりにやってみましたか?」。
彼らは答える。
「ベッドにはいると、すぐ眠りこんでしまいました」。
もちろん、これらのことはすべておだやかで打ちとけた態度で行なうべきで、少しでも高圧的な態度を見せてはならない。

ある者はまた、こう答える。
「どうしてもできません。それほど悩んでいるのです」。
それに対して私は言う。

「悩むのをやめることはない。でも、ときどきなら他人のことも考えられるでしょう」。

私はいつも彼らが他人に関心を向けるように望んでいる。
ある者はこう言う。
「なぜ他人を喜ばさなくてはならないのですか?やつらは少しも私を喜ばそうとはしないのに」。
「あなたの健康のためですよ」と私は答える。
「ほかの連中は今にきっと後悔するでしょう」。

「私は先生の忠告をよく考えてみました」と答える患者は実にまれである。
私のすべての努力は、患者の社会的関心を増大させることに払われている。
彼らの病気の真の原因は、協調精神に欠けている点にあることを承知しているから、彼らにそれを意識させようと思うのである。
彼らが仲間の連中と平等かつ協同的な立場で結合しえたら、そのときに彼らは全快する……宗教によって課せられたもっとも大切な仕事は常に「あなたの隣人を愛せ」であった……仲間に対して関心を持たない人間こそ、人生において最大の苦難に悩み、他人に最大の危害をもたらすものである。
あらゆる人生の失敗は、こういう人々のあいだから生まれる……私たちがひとりの人間に対して要求できるもの、同時にその人間に対して与えうる最高の賛辞といえば、彼こそ手をたずさえてゆく仲間であり、あらゆる人々の友であり、恋愛と結婚において真の伴侶であるということなのだ。

アドラー博士は一日一善を力説している。
では、善行とは何だろうか?
預言者モハメッドは言う。

「善行とは他人の顔に歓喜の微笑をもたらす行為である」。

なぜ一日一善を実行すれば、その人はおどろくべき効果が得られるのか?
他人を喜ばそうとすることによって、自分自身について、つまり悩み・恐怖・憂うつ症の根源となっているものについて考えなくなるからだ。

p261

それがあなたの本心なら、それでもよかろう。
けれども、あなたの説が正しいとしたら、有史以来の偉大な哲学者や賢人たち――キリスト、孔子、釈迦、プラトン、アリストテレス、ソクラテス、聖フランシスコなど――は、すべてまちがっていたことになる。
しかし、あなたはたぶん宗教的指導者の教義をあざ笑うだろうから、無神論者の説を聞くことにしよう。
まずケンブリッジ大学教授、故A・E・ハウスマンといえば往時の碩学であるが、彼が一九三六年同大学で行なった『詩の言葉と本質』という講演の中につぎのような一節がある。
「古今東西を通じてのもっとも深遠な道徳的発見は、キリストのつぎの言葉である。
『自分のために生命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために生命を失う者はかえってそれを得るのである』」。

私たちは生まれてこのかた、説教家がこの言葉を口にするのを聞いている。
ところが、ハウスマンは無神論者、厭世主義者であって、自殺しようとしたことさえある人だ。
しかも彼は、自分のことしか考えない人間は、人生から多くを得られないことを知っていた。
そんな人間は必ずみじめなのである。
しかし他人への奉仕で自分自身を忘れる人間は、人生の喜びを見いだすにちがいないのだ。

p271

私がヘンリー・フォードにインタビューしたのは、彼が他界する数年前のことだ。
会見前の私は、彼の顔には長年にわたって世界最大の事業の一つを創立し、経営してきた心労が刻み込まれているにちがいないと予想していた。
ところが、七十八歳の彼がいかにも落ち着いており、まったく健康で温和なことを知ってすっかりおどろいた。
悩んだことはありませんか?
と私がきくと、彼はつぎのように答えた「ありませんな。
何ごとも神が支配しておられるし、神は私の意見を必要とされない。
神が責任をもってくださる限り、万事が結局は理想的に処理されると信じます。
何を悩むことがありましょう」。

p276

私は、死にたいと口走る人の話を聞くたびに『死んではいけない、死んではいけない!』と叫びたい気がする。
歯を食いしばって生きなくてはならない真暗闇の時間などほんの一瞬にすぎない――そのあとに未来が開けてくれるのだ……」。

平均すると、合衆国では三十五分にひとりの割合で自殺があり、百二十秒にひとりの割合で発狂している。
自殺の大部分と狂気の過半数とは、もしこれらの人々が宗教や祈りの中に平和と慰めを見つけ、それを身につけていたならば、防止することができたはずである。

p286

バード提督は「宇宙を回転させている無限の原動力と結合する」ということが何を意味しているかを理解していた。
それを理解しうる能力に恵まれたからこそ、彼は生涯でもっとも困難な試練を切り抜けることができた。
そのことは、彼の著書『ひとりで』に語られている。
一九三四年、彼は南極の奥地ロス・バリヤーの万年雪にうずもれた小屋で五ヵ月間暮らした。
彼は南緯七十八度線以南における唯一の生物であった。
猛吹雪が小屋の上で咆哮した。
寒気は零下八十二度まで下がった。
彼は果てしない暗闇にすっぽりと包まれた。
そして彼は、ストーブからもれる一酸化炭素のため、徐々におそろしい中毒におかされていることに気づいたのである。
どんな対策があろう?
もっとも近い救援隊でも百九十八キロ離れていた。
到達までに最低数カ月は必要だった。
彼はストーブと換気装置を修理したが、ガスもれは止まらなかった。
彼は中毒のためにしばしば意識を失い、床の上に倒れていた。
食べることも、眠ることもできなかった。
ほとんど寝棚を離れることができないほど衰弱してしまった。
翌日の朝まで命がもつまいとおそれたことも、たびたびあった。
彼は、この小屋で死ぬにちがいない、そして死体は降りしきる雪に埋もれてしまうだろうと確信した。

何が彼の生命を救ったのか?
ある日、彼は絶望の中で日記帳を取り出し、自分の人生観を書き留めようとした。
彼は書いた。
「人類は宇宙において孤独ではない」と。
彼は頭上の星のこと、星座や惑星の規則正しい運行について考えた。
また永遠なる太陽が、その時期になれば、どのようにして荒涼たる南極地方の隅々を照らすためにもどってくるかを考えた。
そして彼は、日記帳に「私は孤独ではない」と書いた。

この、孤独ではない、地球の果ての氷穴の中にいても、自分は孤独ではないという自覚こそ、リチャード・バードを救ったのだ。
彼は言う。
「これが私に難局を切り抜けさせてくれたのだ。
一生のうちに、自分の体内にたくわえた資源を使い尽くす寸前にまで追い詰められる人は、ごくわずかしかいない。
人間は力をたくわえた深い井戸を持っているが、それは決して使われない」。
リチャード・バードは、このたくわえた井戸から汲み上げることを学び、その資源の利用法を学んだ――神にすがることによって。

p290

もしあなたが生まれつきにせよ教育の結果にせよ宗教的な人間でなく、コチコチの懐疑論者であるとしても、祈りはあなたの期待以上にあなたを助けてくれるだろう――祈りは実用的なものだから。
実用的とはどういう意味か?
つまり、祈りは神を信じる信じないは別として、あらゆる人々が共有する非常に根源的な三つの心理的欲求を満たしてくれるのである。

一、祈りは、私たちが何のために悩んでいるかを言葉で正確に表現する助けになる。
第四章ですでに述べたが、実体があいまいでハッキリしないうちは、問題に対処することは不可能である。
祈りはある意味で、問題を紙に記述することと似ている。
もし問題の解決に助力が欲しいのなら、相手が神であっても、それを言葉で表現しなければならない。

二、祈りは私たちに、自分ひとりではなく、だれかと重荷を分担しているような感じを与える。
人間は重い荷物やとても耐えられない苦悩を独力で耐えて行けるほど強靭ではない。
場合によっては近親者や友人にさえ打ち明けにくい悩みもある。
そういうときは、祈りあるのみだ。
精神分析医は口々に、圧迫感や緊張感にとらわれたり、苦悩しているときに、それを他人に打ち明けることは治療上にも効果があると言っている。
だれにも話せないときにはいつでも神に訴えることができる。

三、祈りは、行為という積極的な原理を強制する。
これこそ行動への第一歩である。
毎日、何かが成就されるように祈るのは、必ず何らかの恩恵にあずかっているか、少なくとも成就しようと努力しているからにちがいない。
アレクシス・カレル博士は言う。
「祈りは人間が生み出しうるもっとも強力なエネルギーである」と。
なぜそれをもっと利用しないのか?
自然の神秘な力が私たちを支配しているかぎり、それを神と呼ぼうと、アラーと呼ぼうと、はたまた霊魂と呼ぼうと、その定義にこだわる必要はないではないか?

今すぐに本を閉じ、寝室へ行って戸を閉め、ひざまずいて重荷を降ろそう。
もしあなたが信仰を失っているなら、全能の神にそれを再びお恵みくださいと祈るがいい。
そして、七百年のむかし、アッシジの聖フランシスコの書いた美しい祈りを口にしよう。

主よ、わたしをあなたの平和の道具として
お使いください。
憎しみのあるところに 愛の
いさかいのあるところに ゆるしの
疑惑のあるところに 信仰の
絶望のあるところに 希望の
闇に 光の
悲しみのあるところに よろこびの
種を蒔かせてください。
おお 偉大なる主よ
慰められることよりは 慰めることを
理解されるよりは 理解することを
愛されるよりは 愛することを
わたしがもとめますように。
わたしたちは与えることの中で受け
ゆるしの中でゆるされ
死の中でこそ 永遠の命に生まれるのですから。

p301

現在の私は、一般の人々が他人のことなど気にかけないこと、また他人の評判などには無関心であることを知っている。
人間は朝も昼も、そして夜中の十二時過ぎまで、絶えず自分のことだけを考えている。
他人が死んだというニュースよりも、自分の軽い頭痛に対して千倍も気をつかうのである。

たとえあざむかれ、バカにされ、裏切られ、背中にナイフを突き刺されても、親友中の親友によって奴隷に売られたとしても、そのために自己憐憫に陥るのは愚の骨頂である。
キリストのことを思い出すべきだ。
彼が最大の信頼を寄せていた十二使徒のひとりは、今の金でわずか十九ドルほどの賄賂のためにキリストを裏切ったのだ。
またほかのひとりは、キリストが難に遭うと彼を見捨てて逃げ、三度までキリストを知らないと断言して、誓いまでした。
キリストにしてこのありさまであるとしたら、自分たちがそれ以上を期待するのはむりというものだ。

何年も前に私が気づいたのは、他人からの不当な批判をまぬがれることはとうてい不可能だが、もっと決定的に重要なことが私にはできるということだ。
つまり、不公平な批判で傷つくかどうかは私しだいなのだ。

p303

故マシュー・C・ブラッシュがアメリカン・インターナショナル・コーポレーションの社長だった当時、私は彼に批判が気になるかどうかをたずねてみた。
すると彼は「もちろん、若いときは非常に気になった。
会社の全従業員から完全な人物だと思われたかった。
そう思われていないことがわかると私は思い悩んだ。
私にもっとも反感を持っていると思われる男の機嫌をとろうとしたが、それはかえってほかの者を怒らせる結果になった。
それで今度はその男と妥協しようとすると、ほかの連中が気を悪くした。
ついに私は、個人的な非難をまぬがれるために反感をなだめたり、抑えようと努力すればするほど、敵がふえていくことに気づいた。
そこで私は自分に言い聞かせた。
『人の上に立つ限り、非難をまぬがれることは不可能だ。気にしないようにするしか手はない』と。
この考えはおどろくほど効果があった。
そのとき以来私は、いつも最善を尽くすことを心がけ、あとは古傘をかざして、非難の雨で首すじをぬらさないようにしている」。

22 私の犯した愚かな行為 p306

私は私の個人的な書棚にFTDと見出しをつけた一つの書類を保存している。
FTD――つまり“Fool Things I Have Done”「私が犯した愚かな行為」の略である。
それには自分が今までにやってきた愚行の一つ一つが記録されている。
そして、ときどきこれらのメモを秘書に清書させているが、特に個人的でバカげたものは気はずかしいので、自分で記述している。

私は今でも、十五年前に私がその書類つづりに挟み込んだデール・カーネギー批判をいくつか思い出せる。
もし私が自分に対して真正直であったら、私のキャビネットはその愚行メモであふれてしまったにちがいない。
三千年前にサウル王が「われ愚かなりき、あまたのあやまちを犯しぬ」と言った言葉は、私にもそのまま当てはまるのだ。

愚行メモを取り出して、自分が書いた自分に対する批判を再読することは、今後の自分が直面するであろう困難な問題、つまりデール・カーネギー管理に対処するのに役立つ。
私は自分が苦境に立つとよく他人を非難したことがあったが、年をとるにつれ、結局あらゆる不幸は自分の責任であることを悟った。
多くの人々も、年をとるにつれて、それを悟るようになる。
「私の失脚はだれのせいでもない、自分のせいだ。
私が私自身の最大の敵であり、私の悲惨な運命の源であった」とナポレオンもセント・ヘレナで語っている。

p308

エルバート・ハバードは言っている。
「だれでも一日に少なくとも五分間は、どうしようもないバカになる。知恵とはその限界を超えない点にあるのだ」。

小人はごくささいな批評に対しても逆上するが、賢い人は自分を非難し、攻撃し、論争した相手からも学ぼうとする。
ウォルト・ホイットマンは、それをこんなふうに説いている。
「君が教訓を学んだ相手は君を賞賛し、親切で、味方になってくれた人々だけだったのか?
君を排斥し、君に立ち向かい、君と論争した人々からも大切な教訓を学ばなかったのか?」。

敵から非難されるのを待っていないで、彼らを出し抜いてしまおう。
私たち自身が自分に対する冷酷な批評家になろう。
敵が一言も発言しないうちに、自分で自分の弱点を見つけて矯正しよう。
これこそチャールズ・ダーウィンが実行したことだ。
事実、彼は十五年間を批評に費やした。
ダーウィンは不朽の名著『種の起源』を脱稿したとき、天地創造に関する彼の革命的な概念が、思想・宗教界を震撼させることを知っていた。
そこで彼は、自分自身の批評家になり、さらに十五年間を事実の再調査、推論の再検討、結論の批評に費やしたのである。

23 活動時間を一時間ふやすには p315

悩みを解決する本で、なぜ疲労の予防法について一章を割いたか?
それは、疲労がしばしば悩みを引き起こす、少なくとも悩みに感染しやすくさせるからだ。
疲労はまた、かぜをはじめあらゆる疾病に対する肉体的抵抗力を弱める。
精神分析医によれば、疲労は恐怖や心配に対する感情面の抵抗力を低下させるという。
だから疲労の予防は、悩みの予防に通じるのである。

私は「悩みを予防することに通じる」と言ったが、これはひかえ目な表現である。
エドマンド・ジェイコブソン博士はもっと積極的である。
彼は休養に関して、『積極的休養法』と『休養の必要性』という二著を世に問うている。
シカゴ大学臨床生理学研究所長として、彼は多年にわたり治療の一環として休養を利用する研究をつづけてきた。
彼は、いかなる興奮や感情の高ぶりも「完全な休養状態の中では存在しえない」と断言している。
言い換えれば、休養状態に入れば、悩みつづけることはできないことになる。

だから、疲労と悩みを予防する第一の鉄則はたびたび休養すること、疲れる前に休息せよ、である。

p318

私はハリウッドの一映画監督にも、同じことを実行してみるように勧めた。
彼は奇跡が起こったと告白した。
その男とは、名監督のジャック・チャートックなのだ。
数年前私に会いにきたときの彼はMGM映画社の短編部長だったが、クタクタに疲れきっており、あらゆる対策を試みていた。
強壮剤、ビタミン剤をはじめ種々の薬を服用したが、何の効果もなかった。
私は彼に、毎日休息をとってみるように提案した。
というと?
つまり事務所で原作者たちと会議を行なうときでも、長いすに寝そべって、せいぜいからだを楽にしてみることを勧告したのだ。

二年後に再会した際に、彼はこう言った。
「奇跡が起こった。
主治医がそう言うのだ。
前には短編の構想を相談したりするとき、からだを固くしていすに腰かけていたものだが、今は横になったままでやっている。
ここ二十年来、こんなにいい気持ちになったことはない。
昨今は以前より二時間も多く働いているが、疲れるなんてことはない」。

p324

ここでちょっと本書を離れて、自分自身で検討していただきたい。
こうして本書を読んでいくとき、あなたは顔をしかめていないだろうか?
目と目の間に、ある種の緊張を感じないか?
ゆったりといすに腰を下ろしているか?
肩をいからしてはいないか?
顔をこわばらしてはいないか?
もし全身が布製の古い人形のように柔軟な状態でなかったら、あなたはこの瞬間に、神経性の緊張と筋肉の緊張とを生み出しているのだ。
皆さんは神経性の緊張と神経性の疲労とを生み出しているのだ!

精神的労働をすることによって、こんな不要な緊張が生じるのは、なぜだろうか?
ジョスリンは「ほとんどの人は、困難な仕事は努力する気持ちがなければうまくいかないと信じこんでおり、このことが大きな障害となっている」と述べている。
そこで、私たちは精神を集中するときに顔をしかめ、肩をいからせ、努力という動作をするために筋肉に力を入れるが、それは全然私たちの脳の働きを助けてはいない。

p325

どのようにしてリラックスするか?
心から始めるのか、それとも神経から始めるのか?
どちらからでもない。
どんなときでも、まず最初に筋肉をリラックスさせることだ!
では、試してみよう。
やり方をわかってもらうために、まず目から始めることにしよう。
この一節を読み終える。
お終いまで読んだら、目を閉じる。
そして静かに目に言ってやるのだ。
「休め、休め。緊張をほぐせ。しかめっつらはやめろ。休め、休め」。
一分間、静かに何回もこう言いつづけることだ。

二、三秒後には、目の筋肉がそれに従い始めたのに気づかなかったか?
だれかの手で緊張がぬぐい去られたように感じなかったか?
信じられないかもしれないが、あなたはこの一分間に、リラックスする技術のあらゆる鍵と秘訣とを会得したのだ。
あご、顔の筋肉、首、肩、全身についても同じことが当てはまる。
しかし、もっとも重要な器官は目である。
シカゴ大学のエドマンド・ジェイコブソン博士は、もし目の筋肉を完全にリラックスさせることができたら、人間はあらゆる悩みを忘れるだろうとまで言っている。
なぜ目の神経の緊張を取り除くことがそれほどまでに大切かというと、全身で消費している神経エネルギーの四分の一は、眼が消費しているからだ。
視力の完全な多くの人々が「眼精疲労」に悩まされる理由もここにある。
彼らは目を緊張させているからだ。

p335

そうだ、あなたは、リラックスしなくてはならない。
不思議なことだが、堅い床はバネのきいたベッドよりもくつろぐのに適している。
抵抗が強いので背骨のためによいのだ。
よろしい。
ではいくつかの運動法を挙げておこう。
一週間つづけてみて、あなたの顔つきや気持ちにどんな効果があらわれたかを調べていただきたい。

a
疲れたと感じたときにはゆかに横たわって、全身をできるだけ伸ばす。
ころがってもよい。
一日に二回行なう。

b
目を閉じる。
そして、つぎのようなことを言ってみるのもよいだろう。
「太陽が頭上でかがやいている。空は青く澄んでいる。自然はおだやかで世界を支配している。私は自然の子として宇宙と調和している」。
あるいは、もっといいことは、祈ることだ!

c
もし時間の余裕がなくて横になれないなら、いすに腰をかけていても、ほとんど同じ効果を上げることができる。
くつろぐには堅くて背のまっすぐないすが最適である。
エジプトの座像のようにまっすぐに腰をかけ、手のひらを下にして、ももの上におく。

d
さて、ゆっくりとつま先を緊張させ、それからゆるめる。
足の筋肉を緊張させる。
そしてゆるめる。
全身のあらゆる筋肉を下から上へ同じ運動をさせる、そして首に及ぶ。
頭をフットボールのように力強く回転させる。
そのあいだ筋肉に対して「休め……休め」と言いつづける。

e
ゆっくりと安定した呼吸で神経をしずめる。
深呼吸をする。
インドのヨガの行者はまちがっていない――リズミカルな呼吸は、神経をしずめるには何よりもよい方法の一つで顔のしわやトゲトゲしさに気をつけて、それをなくそう。

f
顔のしわやトゲトゲしさに気をつけて、それをなくそう。
額の八の字や口もとのしわを伸ばすこと。
日に二回そうすれば、エステティックサロンへ行ってマッサージをしてもらう必要はなくなるだろう。
しわはすっかり消えてしまうだろうから!

p341

もしジョージ・バーナード・ショーが、一番重要なことがらを最初に処理するというきびしい原則を守っていなかったら、おそらく彼は作家として失敗していたであろうし、一生を通じて銀行員で終わったかもしれない。
彼の日課は必ず五ページ書くことであった。
この計画に従って、彼は失意の九年間も、――その九年間の所得は全部でたったの三十ドル、一日当り一ペニーにすぎなかったのだが――ひたすら五ページずつ書きつづけた。
ロビンソン・クルーソーでさえ、毎日のスケジュールを一時間刻みでつくったではないか。
私は長いあいだの経験から、人間は必ずしも物事をその重要性に応じて処理しえないことを知っている。
しかし、また一番重要なことがらを最初に処理するように計画するほうが、行きあたりばったりのやり方よりも、はるかに良いことも知っている。

p354

毎朝自分自身に励ましの言葉をかけるなんて、バカバカしい子供じみたことであろうか?
そうではない。
これこそ健全な心理学の真髄ともいうべきものだ。
「われわれの人生はわれわれの思考によってつくられる」。
この言葉は十八世紀前にマルクス・アウレリウスが『自省録』に書いたときと同様、今日でも真理なのである。

一日中、自分自身に話しかけることによって、勇気と幸福について、また権力と平和について考えるように自分を導くことができる。
感謝すべきことがらについて自分自身と対話していると、心おどるような考え方が胸いっぱいにみなぎり、歌いだしたくなるであろう。

正しい考え方をすることによって、どんな仕事についても嫌悪感を減らすことができる。
上役はあなたが仕事に興味を持ってほしいと願っているから、収入もふえるはずだ。
しかし上役の希望などはどうでもよい。
仕事に興味をもつことがあなたのためになるということだけを考えてほしい。
あなたは人生から得る幸福を倍増させることができるかもしれない。
なぜなら、あなたは起きている時間の半分近くを仕事に費やしており、その仕事の中に幸福を発見できないのなら、幸福などどこにも見いだすことはできないであろう。
仕事に興味を持てば悩みからも解放されるし、長い目で見れば昇進や昇給にもつながるであろう。
仮にそんな効果がなくても、疲労は最小限に軽くなり、余暇を楽しむことができるようになるだろう。

p378

多くの人々は宿命論を軽蔑する。
それで正しいのかもしれないが、だれにもわからない。
しかし、われわれは皆、自分たちがしばしば運命に左右されるということを知っているはずだ。
たとえば、私が一九一九年八月のある暑い日の午後零時三分にアラビアのロレンスに話しかけなかったとしたら、その後の私の生活は、まったく変わったものになっていたはずである。
自分の生涯を振り返ってみるとき、私の生涯は私の力ではどうにもならないような出来事によってたびたび形成されてきたことに気づく。
アラビア人はそれをメクトウブまたはキスメットと呼んでいる。
アラーの思召しの意味である。
名称はどうでもよいが、とにかく人間に対して不可思議な働きをするもののことだ。
私はサハラを去って十七年後の今日でもなお、アラビア人たちから学んだ「避けようのない事態に対して愉快に服従する」態度を保持している。
この哲学は、百千の催眠剤よりも私の神経を鎮静させるのに役立つのである。

p389

そして教授は、悩みの悪習を打破するために三つのルールを示してくれた。

ルール1 自分が悩んでいる問題は何か、それをはっきりさせること。
ルール2 問題の原因を見つけること。
ルール3 問題解決について、ただちに建設的な努力をすること。

この面接のあと、私は建設的なプランを立てた。
まず物理で落第点をとったことを苦にするかわりに、なぜ失敗したかを自問してみた。
私が愚鈍だったからではない。
私はバージニア工大に在学中、学校新聞の主筆を務めたことだってあるのだ。

私が物理で失敗したのは、物理に興味を持たなかったためだ。
私は将来、工業技師になるつもりだったので、役に立つかどうかわからない物理には力を入れなかったのだ。
しかし、私は態度を変え、自分に言って聞かせた。
「学校当局が物理の試験にパスしなければ資格を与えないと言っているのに、それをとやかく言うとは、おまえはいったい何様だ?」。
私は物理の再試験を受ける手続きをし、そして、今度はパスした。
物理はむずかしいなどと悩むことをやめて、まじめに勉強したからである。

私はまた、アルバイトをすることによって経済的な悩みを解決した。
学校のダンスパーティなどで飲みものを売ったり、父から金を借りたりしたが、借金は卒業後すぐに返済してしまった。

また、ほかの士官候補生と結婚するのではないかと気をもんだ女の子にもプロポーズして、この恋愛問題もめでたく解決した。
彼女こそ現在のミセス・ジム・バードソルにほかならない。

今その当時をふり返ってみると、私の悩みは一種の混乱、つまり原因をつきとめることを忘れ、事実に向き合うことを回避したことから生じた無気力状態にすぎなかったことがわかる。

p425

問題は、今日だけに徹して生きようとしないことだった。
私は昨日の過ちをいたずらに後悔したり、未来について恐れたのである。
「今日という日は、昨日思い悩んでいた明日である」という言葉を何度も耳にしたが、私には何の役にも立たなかった。
私は一日二十四時間の計画を立てて生活するように忠告された。
今日一日だけが、私の自由に支配できる唯一の日であるから、一日一日を最大限に利用すべきだとも言われた。
そうすれば多忙になって、過去や未来について悩んだりする暇はなくなるとも教えられた。
その忠告はいかにも論理的であったが、そんなとてつもない考えを実行することは私には困難だった。

p432

医師たちがロックフェラーの生命を救う仕事に着手したとき、彼に三つの規則を課した。
彼はこの三つの規則を残る人生で文字どおり厳守した。
それは、つぎのようなものだった。

一、悩みを避けること。
いかなる場合にも、どんなことがらに対しても決して悩まないこと。

二、くつろぐこと。
そして、戸外で軽い運動をすること。

三、食事に気をつけること。
もう少し食べたいという程度でやめること。

p441

かつて私を半狂乱に追いやったような問題と直面する際には、気持ちを落ち着けてから、本書の第一部第二章に述べられている三つの段階を適用してみる。
まず、起こりうる最悪の事態は何かと自問する。
第二に、それを精神的に受け入れようと努める。
第三に、その問題に精神を集中して、やむをえない場合には受け入れようとすでに覚悟した最悪の事態を、少しでも改善するにはどうしたらよいかを考えるのだ。

自分の力ではどうにもならないこと、あるいは、どうしても受け入れたくないことで悩んでいるときには、ちょっと手を休めて、つぎの祈りをささげることにする――
「神よ、私に、自分には手を負えないことがらを受け入れるだけの冷静さと、できる範囲のことがらを変える勇気と、それらのちがいを見分ける分別とを与えたまえ」。

本書を読んで以来、私は本当に新しい幸福な生き方を経験している。
もはや不安によって自分の健康と幸福を破壊しはしない。
毎晩私は九時間眠れる。
食事もおいしい。
私からベールが取り除かれ、戸が開かれた。
今や私は、自分の周囲にある美しい世界を見て楽しむことができる。
私は神に対して、私の人生を、そして、こんなにすばらしい世界に生きていられることを感謝している。