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『いかにして問題をとくか』を読んだ

いかにして問題をとくか』を2025年09月06日に読んだ。

目次

メモ

いかにして問題をとくか

第1に
問題を理解しなければならない.

第2に
データと未知のものとの関連を見つけなければならない.
関連がすぐにわからなければ補助問題を考えなければならない.
そうして解答の計画をたてなければならない.

第3に
計画を実行せよ.

第4に
得られた答えを検討せよ.

問題を理解すること

◇未知のものは何か.与えられているもの(データ)は何か.条件は何か.

◇条件を満足させうるか.条件は未知のものを定めるのに十分であるか.
または不十分であるか.または余剰であるか,または矛盾しているか.

◇図をかけ.適当な記号を導入せよ.

◇条件の各部を分離せよ,それをかき表わすことができるか.

計画をたてること

◇前にそれを見たことがないか.または同じ問題を少し違った形で見たことがあるか.

◇似た問題を知っているか.役に立つ定理を知っているか.

◇未知のものをよく見よ! そうして未知のものが同じかまたはよく似ている,見なれた問題を思い起せ.

◇似た問題ですでにといたことのある問題がここにある.
それを使うことができないか.
その結果を使うことができないか.
その方法を使うことができないか.
それを利用するためには,何か補助要素を導入すべきではないか.

◇問題をいい変えることができるか.それを違ったいい方をすることができないか.定義にかえれ.

◇もしも与えられた問題がとけなかったならば,何かこれと関連した問題をとこうとせよ.
もっとやさしくてこれと似た問題は考えられないか.
もっと一般的な問題は? もっと特殊な問題は? 類推的な問題は?
問題の一部分をとくことができるか.
条件の一部を残し,他を捨てよ.
そうすればどの程度まで未知のものが定まり,どの範囲で変りうるか.
データを役立たせうるか.
未知のものを定めるのに適当な他のデータを考えることができるか.
未知のものもしくはデータ,あるいは必要ならば,その両方を変えることができるか.
そうして新しい未知のものと,新しいデータとが,もっと互いに近くなるようにできないか.

◇データをすべて使ったか.条件のすべてを使ったか.問題に含まれる本質的な概念はすべて考慮したか.

計画を実行すること

◇解答の計画を実行するときに,各段階を検討せよ.その段階が正しいことをはっきりとみとめられるか.

振り返ってみること

◇結果を試すことができるか.議論を試すことができるか.

◇結果を違った仕方で導くことができるか,それを一目のうちに捉えることができるか.

◇他の問題にその結果や方法を応用することができるか

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いままでわれわれに与えられてきた教育ははじめに一般的なものを授け,問題をそれにあてはめて処方通りにとけばよいという,いわゆる料理本的な傾向があまりにもつよかった.
ほんとうに学問を深め,それを活かすためには新しい心の創造が何よりもまず大切なことである.
それにはどうすればよいかをこの本が鮮やかに示してくれている.

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この本は数学の教師と学生とを目標としてかかれたものであるが,新しいことを見つけ出すことに興味をもつ人達ならば誰にでも役に立つであろう.
そのような興味はちょっと考えただけではそれほど一般的なものではないように見えるかもしれないが,実はそうではない.
新聞や雑誌がクロスワード・パズルや各種のクイズにさく紙面から考えても,人々は実用にならない問題をとくのに時間をつぶすことを案外好むように思われる.
実際の役に立たない問題をとこうとする欲望の背後には,とくための方法と手段,あるいは動機や手続きを理解しようとする欲望と,深い好奇心とがうかがわれる.

この本はできるだけ簡単に,問題の筋道を述べたものであるが,それはしかし長い間の真面目な研究に基づくものである.
しばしば発見的(heuristic)とよばれるこの種の研究は今日ではあまりはやらないが,その過去は長いものであり,また幾分の将来性があるものといえよう.

問題をとく方法を研究することによってわれわれは数学のもう1つの別の側面を知ることができる.
即ち数学は2つの面をもっていてその1つはユークリッド以来の厳密な科学であるが,それはまた同時に,たしかにそれとは違った何か別のものでもある.
ユークリッドの仕方で表現される数学は,系統的な演繹的科学である.
しかしながらでき上りつつある数学は実験的な帰納的科学である.
この2つの観点は数学の歴史と共に古いものであるが,第2の観点は次のような新しさをもっている.
即ち,つくられつつある過程における数学は,学生にも教師にも,また一般大衆にもいまだかつてこのような形で示されたことはなかったということである.

発見的研究の問題は関連するところが非常に多く,数学者,論理学者,心理学者,教育学者,さらには哲学者さえもがこれはそれぞれ自分たちの領域に属する問題であると主張するであろう.
著者は多くの反対者からの批判を十分覚悟しているし,自分の能力の限界もよく承知しているけれども,彼は問題をとくことに関しては相当の経験をもち,いろいろの程度の数学を教授した経験があることを付け加えておく.

6. 4つの区分 p9

問題の答えを見つけようとするときには,われわれは問題を色々の角度から見,これを色々なやり方でとこうと試みる.
われわれは幾度も幾度も立場を変えなければならない.
最初は問題を不完全にしか理解していないであろうが,進むにつれてやや展望が開けて来,答えに達したときにははじめとはかなり違った見方をするようになっているであろう.

われわれのリストの問いと注意とを都合よくまとめるために,われわれは全体の仕事を4つに区分することとしよう.
まず第1に問題を理解しなければならない.
即ち求めるものが何かをはっきり知らなければならない.
第2にいろいろな項目がお互いにどんなに関連しているか,またわからないことがわかっていることとどのように結びついているかを知ることが,解がどんなものであるかを知り,計画をたてるために必要である.
第3にわれわれはその計画を実行しなければならない.
第4に解答ができ上ったならば振り返ってみて,もう一度それをよく検討しなければならない.

これらの段階はそれぞれいずれも皆重要なものである.
時たま学生はすばらしい思いつきをしてあらゆる準備を飛びこして一気に解答を得てしまうことがあるかもしれない.
そういう運のよい思いつきは,もちろん望ましいには違いないが,よい考えもないのに学生がこの4つの段階のどれかを無視してしまうことは,甚だ望ましくないことである.
いちばんわるいことは,学生が問題をよく理解しないうちに計算や作図に飛びついてしまうことである.
問題の大きなつながりを理解しなかったり,何らの計画をももたずに,細かい仕事をはじめるということは無意味である.
学生が自分の計画を実行しながら各段階を検討するならば,多くの場合間違いをさけることができるであろう.
学生ができ上った解答を調べ直し検討することを怠るならば,大切な結果が失われてしまうであろう.

7. 問題を理解すること p10

理解しない問題に答えるということはばからしいことである.
自分の望まない目的に対して働くということはつらいことである.
そのようなばからしくてつらいことが学校の内外ではよく起る.
しかし教師はそれが教室で起らないように努めなければならない.
学生は問題を理解しなければならないのである.
しかし彼はそれを理解するだけでなく,それをとこうと欲しなければならない.
学生が問題を理解せず,それに興味も感じないからといっても,それはあながち学生の罪ばかりではない.
問題はむずかしすぎもせず,といってやさしすぎもせず,自然で面白く,時には巧みに表現されていることが望ましい.

まず第1に問題を説明してある言葉がわかりやすいものでなければならない.
教師はこの点をよく確かめておく必要がある.
彼は学生にそれを繰返させ,すらすらいえるようにさせておかなければならない.
学生はわからないこと,わかっていること,与えられている条件などのような,問題の重要な部分をつかんでいなければならない.
教師は常に次のような質問を忘れてはならない.
即ち未知のものは何か,与えられているものは何か,条件は何か.

学生は問題の重要な部分について注意深く繰返し,いろいろな角度からこれを検討しなければならない.
問題に関連した図があれば,それを描いて未知のものと与えられたものとを記入すべきである.
それらに名前をつけることが必要ならば,適当な記号をつけるべきである.
記号をつけようとすればいやでもその対象のことを考えないではいられないであろう.
このような準備的な段階において,確実な答えよりもむしろ大体の推定をしようと望む場合には,次のような問いが役に立つことであろう.
即ち与えられた条件を満足することができるか.

9. 計画をたてること p12

未知のものを求めるためにはどんな計算や作図をしなければならないかということについて少なくも輪郭だけでも知っているならば,それで計画はできたことになる.
問題を理解してから計画をたてるまでの道程は長くて苦難にみちたものであろう.
問題をとくことの大部分はどんな計画をたてたらよいかということを考えつくことにあるといってよい.
そのような考えは少しずつでき上ってゆくものである.
しかし時には幾度もやり直したり迷ったりした揚句にたちまち素晴しい思いつきが浮んでくることもある.
教師はこの素晴しい思いつきができるようにそっと学生を助けてやることができればいちばんよい.
われわれがこれから問題にしようとする問いと注意とはこの思いつきを助けるためのものにほかならない.

学生の立場を理解するには教師は自分の経験や問題をとくときに出会った困難や成功のことを思い起してみなければならない.

もちろん対象について十分な知識がなければよい思いつきは得られないし,知識が全然なければ思いつくことは不可能である.
よい思いつきはそれまでの経験と知識とに基づくものである.
単に記憶するだけでは十分でなく,適当な事実について考えをめぐらさなければよい思いつきは得られない.
材料があるだけでは家は建たないので,必要なところに適当な材料を当てがわなければならないのと同様である.
数学の問題をとくのに必要な材料は前にといたことのある問題とか,証明したことのある定理のような既存の知識の中から適当に選び出されたものでなければならない.
したがって関連した問題を知っているかという問題から出発するのがよい.

しかし当面の問題に何かしら関連があるというような問題は実はあまりにその数が多すぎる.
どうしたらその中から本当に役に立つ少数のものを選び出すことができるであろうか.
それに対する助言はこうである.
未知数をよく見よ,そして未知数が同じかまたは似ている問題を思い起せ.

当面の問題に似通った問題ですでにといたことのあるものが思い出せたら,もうしめたものである.
そういう幸運は求めれば得られるものである.
すでにとかれた似よりの問題がある.
それを利用することができるか.

これらの問いについて真面目に考えることは考えを正しく進める上にしばしば役に立つ.
しかしそれは決して万能ではない.
もしうまくいかなければ,別な手がかりを探さなければならない問題をいろいろな角度から眺め,問題を少し違った形にいい変えてみることが必要である.
問題を違った形にいい変えることができるかわれわれのリストの問いの多くは問題をいい変える具体的な手段を教えてくれるであろう.
それは時には一般化することにより,また時には特殊化することにより,類推することにより,あるいは条件の一部分を取り除いたりその他いろいろな方法で行われる,まだ大切なことはいろいろあるがその詳細にはここでは立ち入らない.
問題を変形することは時には適当な補助問題を考えることと同じことになる.
問題がとけなかったら,まずそれと似通った問題をとけ.

すでに知っている問題や定理を応用しようとしたり,いろいろ変形したり補助問題を考えたりしているうちに初めの問題から脇へそれてしまって全然見当がつかなくなる心配がある.
そのような場合には次のように考えてみるとよい.
与えられたものは皆使ったか.
条件は全部考慮したか.

11. 計画を実行すること p16

計画をたて解の見当をつけることはやさしいことではない.
成功するには骨が折れ,予備知識と精神訓練及び注意の集中に加えて,幸運もまた必要である.
これに引きかえ計画を実行するのははるかにやさしい.
必要なのは主に忍耐だけである.

計画は大体の輪郭を与えるものであって,詳細はこの輪郭の中に収まらなければならない.
そこでわれわれはその詳細を一歩一歩辛抱強く確かめてすべてが完全にはっきりとするまで調べなければならない間違いがまぎれ込むようなあやしげな隅々が残らないようにすべきである.

学生が計画をのみ込んでしまえばそこで教師は比較的楽になる.
いちばん危険なのは学生が自分の計画を忘れてしまうことである.
それは学生が計画を他人から受取った場合,たとえば教師のいうことを鵜呑みにした場合に起りやすいことであるが,たとえ人から少し助けてもらったにせよ,自分自身で計画をたててその構想に満足した場合にはこれを容易に忘れることはない.
しかしその場合でも一歩一歩各段階を検討し確かめながら進むことを注意しなければならない.

われわれは一歩一歩が正しいかどうかを《直感的》にかあるいは《形式的》に確かめることができる.
即ち問題になっている点に注意を集中して,それが非常にはっきりと理解できてもはや何の疑いもないように感じられるか,または形式的な法則に従ってそれが間違いでないことを推論するかである(《洞察》と《形式的証明》との違いは多くの場合明瞭である. これ以上の議論は哲学者にまかせることとしよう).

大切な点は学生が各段階が正しいことを正直に納得しなければならないということである.
ある場合には教師は《理解》するということと《証明》するということの違いを強調する必要がある.
その段階が正しいことをはっきりと理解できるかしかしまたその段階が正しいことを証明できるか.

13. 振り返ってみること p18

かなりできのよい学生でも解答が得られてそれをきちんとかいてしまうと,本をとじて何か他のことに気をとられるのが普通である.
このようにして彼らは仕事の大切で意義深い部分をにがしてしまうのである.
解ができ上ったときにこれを振り返り,結果を調べ直してそれまでにたどった道を見直すことは,かれらの知識をいっそう確かなものにし,問題をとく能力をゆたかにするものである.
よい教師はどんな問題でも完全にときつくされるものではないということをよく理解し,これを学生につよく印象づけなければならない.
いつも何かやるべきことは残っているものであり,どんな場合でも解答の理解をさらに深めることは可能である.

学生はすでに計画を実行した.
彼は解答をかき,各段階を検討した.
そしてその解が正しいと信ずべき根拠をもっていると信じている.
それにもかかわらず誤りは常に可能であり,議論が長くて複雑な場合においては特にそうである.
したがって検証は常に望ましい.
特に結果や議論を手っ取り早く直感的に試すことができる場合にはそれを忘れてはならない.
結果が正しいかどうかを試すことができるか.
議論が正しいかどうかを試すことができるか.

われわれが,ある事物の存在やその性質を知ろうとする場合には,われわれはそれを見たり触れたりしたいと考える.
そのときに2つの違った感覚を通して確かめようと望むように,われわれは2つの違った仕方で証明をしたいと望むのである.
同じ結果を違った仕方で導くことができるか.
われわれはもちろん長くてむずかしい議論よりは短くて直感的な方を選ぶ.
それを一目で理解できるか.

教師の最大の義務は,学生に数学の問題がお互いに何らの関係がないものであるように思わせたり,またそれが他の事柄と無関係であるなどと考えさせないようにすることである.
解答を振り返ってみることは問題の間の関連を調べるのに絶好の機会である.
学生が解答を振り返ってみて真面目に努力した揚句,成功したと思えばそれに興味を感ずるようになるであろう.
そうして何か他のことが同じような努力でできないか,またいつか別のときにうまく成功しないだろうかを熱心に追求するようになるだろう.
教師は同じ手続きや結果を再び利用することができるように学生を力づけることが必要である.
その結果や方法を何か他の問題に利用することができるか.

慣れること p37

どこから出発したらよいか
問題に述べてあることを手がかりとして出発すればよい.

どうすればよいか
できるだけはっきりと,生き生きと,問題の全貌をとらえること.
はじめからあまり細かいことに気をとられてはならない.

そうすれば何ができるか
問題を理解し,それに慣れ,その目標を心にきざみつけなければならない.
問題に注意すれば記憶を刺激し,関連のある事柄を思い出すのに役に立つ.

もっとよく理解するように努めること p37

どこから出発したらよいか
また問題に述べてあることを手がかりとして出発すればよい.
問題がはっきりと心にきざみ込まれて,ちょっと目を離してもそれを見失ってしまう気づかいがなくなってから出発すべきである.

どうすればよいか
問題の主な部分を分離せよ.
仮説と結論とは《証明問題》の主な部分であり,未知数と与えられたデータと条件とは《決定問題》の主な部分を構成する.
問題の主な部分に注目し,それを1つ1つ考え,代る代るいろいろな組合せで考察し,各々の部分と他の部分,または部分と全体との関連を考えるべきである.

そうすれば何ができるか.
後で必要になると思われる細かい部分をあらかじめ考えておくことは大切である.

よい考えを探すこと p38

どこから出発したらよいか
問題の主な部分の考察から出発しなければならない.
これらの部分がはっきりと並べられ,前にしておいたことのある仕事が役に立ち記憶が役立ちそうなところで手をつければよい.

どうすればよいか
問題をいろいろな角度から考察し,すでに知っている事柄との結びつきを探すべきである.
各部分の違いを強調し,違った部分を調べ,また同じ部分を違った仕方で研究し,いろいろな仕方でいろいろな角度から検討したりすべきである.
各部分の新しい意味を見出し,全体の新しい見方をするように努めよ.

前に知っていることとの結びつきを探すべきである.
過去に同じような情況の下で助けになった事柄を思い出すように努力し,これから調べようという問題に関係の深い事柄を見出し,それに役立つようなことを理解しようと努めよ.

何を理解することができるか
最後の目標を一目のもとに了解させるような考え方,そのような考えはどんなに役に立つか.
それは進む道の全部もしくは一部分を示すであろう.
それはどう進んだらよいかを暗示するどんな考えでも思いついたらそれは幸いである.

不完全な考えをどうすればよいか,それが有望なものに思えたらそれを真面目に考えるべきである.
それが信頼できそうにみえたらその考えに従ってどこまで行けるかを確かめ,情況を再検討せよ.
その考えが役に立って情況が変ったら,新しい情況をいろいろの立場から検討し,前にしたことのある仕事との関連を求めよ.

それを繰返せばどうなるか
運がよくてもう1つ別な考えを思い食器ついたとしよう.
多分今度は問題が解決できるであろう.
恐らく次にはもう少し前の考え方が必要であり,少しはまごつくかもしれないが,多くの新しい考えはそれが大したものではなく,また多少ぼんやりしたものであっても,あるいはさらにそのようなぼんやりしたものに何かをつけたした考えや,あまり大事でない考えの修正にしかならないようなものであっても,とにかくそれは皆有効であろう.
しばらくの間よい考えが少しも浮んでこなくても問題をよりよく,よりお互いの関連がはっきりと釣合のとれた形で理解できれば喜んでよい.

計画を実行すること p39

どこから出発したらよいか
問題の解決に導いた,よい考えから出発せよ.
問題の主なつながりを把握し,まだ欠けている細かな部分を補足できるという自信のついたところで出発すればよい.

どうすればよいか
しっかりと問題を把握せよ.
役に立つと思われるすべての代数的または幾何学的操作を実行せよ.
形式論理もしくは直感によって各段階が正しいことを証明せよ.
もしも問題が非常に複雑な場合には,まず全体を大きな段階に分け,その各々をさらに細かい段階に分けることを考えよ.
最初は大きな段階を,そして後に細かい段階を調べるようにすればよい.

そうすればどうなるか
各段階が間違いない,正しい解決に到達することができる.

後ろを振り返ること p39

どこから出発したらよいか
すべての点で完全で正確な解答から.

どうすればよいか
解答をいろいろな角度から検討しすでに知っている事柄との関連を求めよ.

解答をくわしく検討し,できるだけそれを簡単にするように努めよ.
問題を見渡してそれが一目で了解できるように努力せよ.
解答を改良し,もっと直感的ですでに知っている事柄とできるだけ自然に調和するような形にせよ.
解答に用いた方法をくわしく調べてその要点を発見し,それを他の問題に利用するように心掛けよ.
また結果を調べてこれを他の問題に利用するように心掛けよ.

そうすればどうなるか
そうすればさらに新しいよい解答を見出し,さらに新しい興味のある結果を発見できるであろう.
とにかくこのようにして解答を見渡し,これをくわしく検討する習慣を身につけるならば,知識がよく整理されてすぐ役に立つようになり,問題をとく能力が上達するであろう.

分解と結合 p43

分解と結合とは大切な心の働きである.
人間はその興味をそそり好奇心をそそるような事物を調べようとする.
即ち借りようと思う家のこと,重要だがよみにくい電報のようにその目的と由来のつかみにくい事柄やとこうとする問題などを探求する.
はじめその事物の全体的な印象が得られたとしても,その印象は恐らく十分なものではないであろう.
やがて細部に気がついてそれに注意を集中し,やがてまた他の細部へと移ってゆく.
それらの細部の間にはいろいろの組合せが行われ,もう一度事物を全体として見直したときには,前とは違った見方をするようになるであろう.
即ち始めは全体を部分に分解し,それから前とは多少違った全体に結合するのである.
もしも最初からあまり細部に気をとられすぎると目標を失ってしまうことになろう.
あまり多くのことがらや細部のことがらは心の重荷である.
それは重点を見失わせる原因になる.
目前の木のために森を見ることができない人を想像するとよい.

違った仕方で同じ結果が得られるか p52

われわれが求めた解法が長たらしくて複雑な場合には,もう少しすっきりした,手っ取り早い解がないかと考えるのは人情である.
違った仕方で同じ結果が得られるか,それを一目のうちにみとめることができるか,このように,1つの解法が見つかっても,まだ別なとき方を考えてみることは面白い.
われわれは物体を2つの違った感覚を通して確かめようとするのと同様に,ある論理的な結論を2つの違った導き方で証明したいと考えるのである.
われわれがものを見てそれに触れようとするように,1つの証明を見つけた後でもう1つ別な証明を求めようとする.

2つの証明は1つにまさる《錨は2つあった方が安全である》

データをすべて使ったか p56

われわれの知識がだんだん動員されてくるにつれて,しまいにははじめよりももっとよく問題を理解するようになる(進歩と成果1を見よ).
今は果してどうであろうか.
すでに必要なものは求められたであろうか.
われわれは十分に理解したであろうか.
データをすべて使ったか,条件をすべて使ったか,《証明問題》にあってはこれに相当する質問は,仮説をすべて使ったか,である.

p57

4. しかし上述の叙述については,幾分の注意と制限とを述べておかなければならない.
これをそのままあてはめてよいのは《叙述が完全》で《合理的》な問題の場合だけである.

叙述が完全で,しかも,合理的な《決定問題》は必要なデータはそろっていて,不必要なデータは1つもないようなものでなくてはならない.
条件はちょうど十分で,互いに矛盾したり,多すぎたりしてはならない.
そういう問題をとくにはもちろんすべてのデータを使い,すべての条件を充たさなければならない.

《証明問題》の対象は数学の定理である.
もしもその叙述が完全で,しかも合理的であるならば,定理の仮説を表わす文句は結論に欠くべからざるものでなければならない.
そういう問題をとくにはもちろん仮説の中のすべての文句を使わなければならない.

伝統的な数学の教科書では,問題の叙述は完全であり,合理的であるものと考えられている.
しかしそれにあまり頼りすぎてはいけない.
ちょっとでも疑問があればその条件を満足させることができるか,と尋ねてみるべきである.
そのような問いに答えることによりある程度までその問題が予想通りよい問題であることが納得できるであろう.

この頃の見出しに述べてあるような質問は,われわれの問題が合理的で叙述が完全である場合か,または少なくともそういう心配がなさそうなときに限るのである.
5. ある意味で《叙述が完全》だという問題は数学以外でもありうるものである.
たとえば,よい将棋の問題は1つしか解答がなくて,棋盤の上に無駄な駒は1つもないというようなものである.

実際的な問題の叙述は極めて不完全なものであるから,ここに述べたことがらは徹底的に考え直さなければならない.

p63

3. ギリシャの伝説によれば分析の方法を考え出したのはプラトンだということになっている.
伝説はあてにならないが,それがプラトンでなかったとしてもやはり彼におとらぬ哲学的な天才が考えたとしか信じられなかったであろう.

たしかにこの方法には見逃せない何かがある.
向きを変えてゴールから離れ,目的にまっすぐ進まないで逆向きに進んでゆくことは心理的に抵抗を感ずることであろう.
適当な手順を見出すときには,実際の行動とちょうど逆の順に進まなければならない.
この逆向きな考え方は,注意して示さないと,すぐれた学生でさえ心理的な反発を感じて理解できないであろう.

具体的な問題を逆向きにといてゆくことは,なにも天才でなくてもわずかの常識があれば誰にでもできる.
まず目的に集中し,それがどんなものかをよく理解する.
それはどのような前提から導かれあるか,これは自然な質問であり,こう尋ねながら逆向きにといてゆく.
ごくやさしい問題もこのように逆にとくことができる(パプス4を見よ).

逆向きにとくことは誰にでもできる常識的なやり方であって,それがプラトン以外の数学者や数学者以外の人たちによって行われていたことはほとんど疑う余地がない.
ギリシャの学者たちがプラトンに価する仕事とみとめたのは,このような手続きを一般的な言葉で表現し,それを数学またはそれ以外の問題をとくのに役に立つ操作であると銘をうったことにあるのである.
4. さて,ここでプラトンから犬や,鶏やチンパンジーにうつることがあまり突然にすぎないのなら――心理学の実験に話題を変えるとしよう.
図18に示すように一方があいて,三方をかこんでいる図のような柵がある.
犬を柵の一方におき,他の側に食物を置く.
この問題は犬にとって割合にやさしいものである.
はじめはすぐに食物にとびつくような姿勢をするが,すぐに回って柵の端からとび出して,まごつかないですぐに食物のところへ走ってゆく.
犬と食物とが非常に近いときにはそう簡単にはゆかないで,はじめは吠えたり,引っかいたり,柵にとびかかったりしてから,やっと迂回するという《よい思いつき》(われわれにいわせれば)が浮んでくるのである.

犬の代りにいろいろな動物を置いた場合を比較すると面白いチンパンジーや4才の子供(子供の場合には食物よりおもちゃの方が魅力がある)にとってはこの問題は何でもない.
ところが鶏にとってはおどろくほどむずかしく,柵のこちら側をむきになって右往左・往し,たとえ成功したとしてもそれまでに非常な時間を無駄にしてしまう,しかしさんざん苦労した上で,偶然に成功することはありうるのである.
5. ここに簡単に述べた,たった1つの実験から一般的な結論を出そうというつもりはない.
しかしわれわれがそれを確かめその価値を見直そうとするのなら,類推することは無益ではない.

迂回することはどんな問題をとくにも役に立つ.
この実験はその意味で象徴的である.
鶏はさんざんまごついて何度も繰返した揚句,偶然理由もわからずに成功する人のようなものであり,犬が問題を解決するまでに吠えたり,引っかいたり,とびかかったりするのは,われわれが2つの容れ物でやったのと同じようである.
容れ物に目盛を想像するのは,犬がほえたり引っかいたりするのと同じように無益であり,われわれが求めるものははるかに深いところにあることを示すにすぎない.
われわれははじめ前進し,のちに逆向きに転ずるという考えに思い到るのである.
ちょっと様子を見た後に迂回して走ってゆく犬は,正しいにせよ誤りにせよ,すぐれた洞察といってよかろう.

しかし鶏が不手際だといって責めることはできない.
迂回し,目的から離れてそれを見ずに進み,目的に向ってまっすぐ進まないということは困難なことであり,鶏のむずかしさとわれわれのむずかしさとはたしかに通ずるものが存在するのである.

発見学 p65

発見学を正確に定義することはむずかしい.
論理学か,哲学か,心理学に属する研究でしばしば言及されるが,くわしく論じられたためしもなく,現在では忘れられたも同然の学問である.
その目的は発見や発明の方法と法則とを研究することである.
ユークリッドの解説者のうちにはそれを扱ったものがいくらかあり,パプスの叙述はその点で興味深いものである.
いちばん有名なのはデカルトとライプニッツの研究であるが,この2人は共にすぐれた数学者であり哲学者であるベルナルド・ボルツァノは発見学について注目すべき叙述を行った.
この本は発見学を近代的な形で復活させ,これにつつましい表現を与えようとしたのである.
近代発見学を見よ.

発見的という言葉は,発見の役に立つという意味に用いられる.

発見的推理 p66

発見的推理は最終的で厳密なものではなく,仮のものであり,そうであるらしいという性質のものであって,その目的は当面する問題の解を求めることである.
われわれはしばしば発見的推理が必要である.
われわれが完全な解答を求めたときは完全に確実になるが,そこに至るまでにわれわれは多少推測的な考えで満足しなければならない.
最終的なものに達するまでには,途中で仮のものが必要なのである.
われわれが建物をたてるときに足場が要るように,厳密な証明には発見的推理が必要である.

発見の法則 p67

発見の法則の第1は才能と好運である.
第2はじっと座ってよい考えが浮ぶまで待つことである.

これに関する確実な法則を得る望みはほとんどない,ということをあらかじめ知っておかなければならない.
すべての数学の問題のときを発見するため絶対に間違いのない方法は,錬金術師がむなしく探し求めた《哲学者の石》よりももっと望ましいものである.
そのような法則は魔法を演ずるであろうが,世の中に魔法などというものはありえない.
すべての問題に役立つ確かな法則は昔の哲学者の夢であり,それは夢以上の何ものでもないのである.

合理的な発見学は絶対確実などということをねらいはしない.
それはただ問題をとくときに役立ついろいろな過程(心理操作,心理行動,心理的段階など)を研究しようと努めるだけである.
問題に関心をもつ健全な精神の持主ならば,誰でもそのような過程を経験するはずである.
それは有能な人たちが自身に問い,有能な教師が学生に問ういくつかの決まった問いや注意によって示唆されうるものである.
そのような問いや注意をかなり一般的な形で述べ,系統的に配列したものは哲学者の石に比べれば見劣りするかもしれないが,実現可能なものである.
われわれのリストはその集録である.

p87

3. ユークリッドの書き方はいつも同じ方向,即ち《決定問題》にあってはデータから未知のものへ,《証明問題》にあっては仮説から終結へ,である.
あらゆる新しい要素,即ち点とか線とかは直接データからもしくはその前の段階から導かれた要素から正確に導き出されたものでなければならない.
あらゆる新しい論証は直接仮説から,もしくはその前の段階から正しく導かれた論証に基づくものでなければならない.
すべての新しい要素や論証は最初にでてきたときによく検討されるが,そのとき一度だけしか検討されない.
われわれはいつも直面する段階に注意を集中していればよく,前を見たり後ろを見たりする必要はない.
われわれが検証しなければならない最後の要素は即ち未知のものであり,われわれが検証しなければならない最後の論証は終結である.
各段階が正確であれば,最後の議論,したがって全体もまた正しいのである.

もしわれわれの目的が各段階を詳細に検討するのが目的ならば,ユークリッドの方法は手放しで推奨されてよい.
特にそれがわれわれ自身がつくり上げた論証であり,それが長くて複雑で,しかしわれわれがそれを見出しただけでなくその大綱を見わたして,ただあとは各々の特定の点について検討しさえすればよいのだったら,すべてをユークリッド式にかき表わすのがいちばんよい.

しかしはじめての読者や聴き手にわからせるのが目的だったら,ユークリッドのやり方を手放しで推奨することはできない.
それは各々の特定の点を検討するには適当であるが,議論の大綱をつたえるには適当ではない.
すぐれた読者はすぐに各段階が正しいことを了解するであろうが,議論全体の出どころや目的や関連などを理解するのに苦しむであろう.
その理由はユークリッドの表現が多くの場合発見の順序とまさに正反対だからである(ユークリッドの表現は厳格に《合成》の順序に従っている.パプスの項,特に3,4,5を見よ).

実際的な問題 p90

実際的な問題はいろいろな点で数学の問題とは違っているが,解答の主な動機や手続きは本質的には同じものである.
工業上の問題は多くの場合数学の問題を含んでいる.
次にこれら2つの問題の違いと類似と関連とについて簡単に述べよう.
1. 実際的な問題として川にダムをつくる問題を考えよう.
それには専門的知識は必要でない.
科学のない有史以前にも人は収穫に必要な灌漑のためにナイル川の渓谷やその他の土地にダムをつくった.

ここでは近代的なダムについて考えるとしよう.

未知のものは何か.
これにはどこにダムをつくるべきか,どんな形,どんな大きさにしたらよいか,どんな材料でつくるか等々たくさんある.

条件は何か.
これもあまり多すぎて簡単な文章で述べるわけにゆかない.
大きな計画では経済的な条件を充たさなければならず,また他の重要な要件をできるだけ損なわないようにしなければならない.
ダムは電力を供給し,灌漑やその他の公益に役立つことが必要であり,かつ水害を防がなければならない.
しかし他面において,できるだけ船運を妨げ漁獲のじゃまになったり風致を損なったりしないことが大切である.
その上できるだけやすく,しかも速やかに建設されることが望ましい.

与えられているものは何か
望ましいデータ(与件)というものは数限りない川の近くの地形や分流や支流,土地がしっかりしているかどうかの地質学的なデータ漏水の恐れの有無,利用できる材料が何であるかということ,年間降水量についての気象データ,貯水の深さ買収すべき土地の代金,材料の費用と労賃など.

われわれの実際の例では未知のものと,データと条件とが数学の場合に比べてもっと複雑で,もっとぼんやりしたものである.
2. 問題をとくためにはある程度の予備知識が必要である.
現代の技術者は高度の専門的知識をこなしうるし,材料の強弱に関する学理や,自分の経験,文献にのっている技術的経験を利用することができる.
われわれはそんな専門的な知識をもってはいないけれども,昔のエジプト人がどんな考えでダムをつくったかを想像してみることはできる.

彼は土手や石垣で水を支えた,もっと小さなダムを見たことがあったことであろう.
彼はまた洪水が土砂を流して岸におしよせるのを見たであろう.
そうして土手の割れ目や洪水で浸蝕された箇所の修繕に携わったことであろう.
また洪水のためにダムが押流されたのも見たであろう.
何世紀もへてきたダムの話や,不意に決潰して事故を起こした話をきいたこともあろう.
あるいはまた川の水がダムに及ぼす圧力や,ダムの歪みや応力について考えをめぐらしたであろう.

しかしエジプトのダム建設者は正確な,定量的な流体の圧力の知識や固体の歪みや応力の知識をもっていなかった.
そのような考えは現代の技術家の得意とするところである.
しかし彼らとても正確な科学的水準に達していない知識をも使わなければならない.
流水による侵蝕や沈泥の運搬,いろいろな材料の塑性のようにまだあまりはっきりしていないことがらに関する知識は,むしろ経験的なものにすぎない.

われわれの実例は数学の知識に比べて実際の問題でははるかに複雑で,あいまいな知識であることを示している.
3. 未知のもの,与えられたもの,条件,概念,予備知識,これらすべてが純粋の数学の問題に比べて,実際的な問題では複雑で,あいまいである.
まだこの他の差異もあろうが,これは重要な,主な差異であり,問題をとくときの動機と手続きとは両種の問題の双方に共通したものである.

実際の問題をとくには数学の問題をとくよりも,もっと豊富な経験が必要であるということは通念になっている.
それはそうかもしれない.
しかし違うのは準備すべき知識の内容であって,問題をとく場合の基本的な態度には何の差異も存在しないと考えられる.
ある問題をとくときにわれわれは同じような問題をといた経験に頼りつつ,ちょっと形の違う,似よりの問題を見たことがあるか,関連した問題を知っているかと尋ねるのである.

数学の問題をとくにはかなり整理された,はっきりした概念から出発する.
実際的な問題をとくには幾分ぼんやりした考えから出発しなければならない.
この考えをもっとはっきりさせることが,それから後で問題になる.
問題に含まれた,すべての本質的な概念を考慮に入れたか.
これはすべての問題に通用するが,それは介在する概念によっていろいろに違った役割をするのである.

叙述の完全な数学の問題では,すべてのデータや条件はたくさんにあって,できるだけ考慮はしても,あるものは割愛しなければならない.
大きなダムの設計者を例にとろう.
彼は公益を考え,経済的な利益をも重んずるが,いちいちの小さな要求や不平は無視しないわけにはいかない.
彼の問題のデータは厳密にいうと無数である.
たとえば基礎を築くべき土地の地質学的性質について知りたい場合にも,まだ不確かな点が残っていても途中でデータを集めることを打切らなければならない.

すべてのデータを使ったかすべての条件を使ったか.
数学の問題ではこの通りに従わなければならないが,実際の問題ではこの問いを少しゆるめて,解答に重要な関連のあるデータはすべて使ったか,解答に重要な影響を与える条件はすべて使ったか,というように尋ねなければならない.
われわれは適当な情報を利用し,必要ならばさらに多くの情報を集めるが,事実どこかに線を引いて情報を集めることをやめ,何かを捨てざるを得ないのである,《もしも,船舶の絶対安全を願うなら,海へ出ないがよい》,事実,結果には大した影響のないデータというものがたくさんに存在するのである.
4. 昔のエジプトのダムの設計者は経験についての常識的な解釈に頼るよりほかしかたがなかった.
現代の技術者は常識だけに頼ることができず,特に彼の計画が新しい大胆なものであるほどそうである.
彼は計画中のダムの抵抗を計算し,内部の歪みや応力を予測しなければならない.
彼は弾性理論(それはコンクリートにはかなりよくあてはまる)を利用しなければならない.
そのためには数学が必要である.
実際の工業の問題には数学が必要なのである.

このような数学はここで述べるにはあまりに技術的にすぎるものであるから,ごく一般的なことだけを述べるに止めよう.
実際の問題に関連して数学の問題を提起し,これをとくには,われわれは近似的な解で満足しなければならない.
実際の問題の細かいデータや条件は無視せざるを得ないのである.
正確さを犠牲にしても簡単になるならば,計算が少しくらい不確かでも我慢すべきである.
5. 一般の関心をひくに値する,近似ということについてもう少し述べておかなければならない.
しかし専門的な数学の知識は予想することができないから,ここではごく直感的な,示唆に富む例を1つだけあげよう.

地図をつくることは大切な実際の問題である.
地図をつくるのに,われわれはしばしば地球を球と仮定する.
しかしこれは近似であって,正確ではない.
われわれは地球の表面は数学で定義されるような面ではなく,極のところで平たくなっていることを知っている.
しかし球と仮定すれば地図をかくことがずっと簡単である.
ずっと簡単になり,ほんのわずか正確を犠牲にするだけならばその方がよい.
地球と同じ形の大きなボールを考え,赤道の直径が25メートルあるとすれば,ボールの北極と南極の距離は25メートルに対してほんの1センチメートル以下しか違わない.
このように球はよい近似になっている.

p100

1. 一般化,特殊化,類推,分解と結合とかのような,問題を変形する一般的な方法に慣れていれば,新しい問題を考えることは容易である.
与えられた問題から出発してこのような方法により新しい問題を考え,それをもととしてまた次の問題をという風にいくらでも原理的には進んでゆけるはずである.
しかし実際にはそうしてでてくる問題がむずかしくてとけなくなるので,そんなに際限なしには続けられない.

しかしすでにとかれた問題の解答を使って容易にとけるような問題をつくることは可能であるが,それは一般にあまり面白くない問題である.

面白くて,ときうるような新しい問題をつくることはやさしいことではない.
それには経験と嗜好と好運とが必要である.
にもかかわらず,われわれは1つの問題をといた後にもっとよい問題はないかとあたりを見回さなければならない.
よい問題は松茸のようなものである.
それは群をなして生えている.
1つ見つかったら,あたりを見回すとすぐ近くにいくつか見つかるであろう.

決定問題と証明問題 p106

これら二種類の問題の間に平行線を引くことができる.
1. 《決定問題》は問題の中の未知のものを見つけるのが目的である.

未知のものは未知数,求めるもの,あるいは必要なものなどとよばれる.
《決定問題》は理論的なものでも実際的なものでもよく,抽象的でも,具体的でもあるいはまた真面目な問題でも単なるなぞなぞであってもかまわない.
われわれはあらゆる種類の未知のものを見つけ出すことができる.
われわれは対象に関して考えられる限りありとあらゆる種類のものを見出し,求め,つくり出し,あるいは構成しようと努める.
探偵小説において未知のものは殺人犯であり,将棋にあっては駒の動きであり,謎では多くの場合言葉であり,初歩の代数の問題ではそれは数である.
幾何の作図ではそれは1つの図形である.
2. 《証明問題》の目的はある命題が正しいか正しくないかを示すことである.
この命題は正しいか,正しくないか,という問いに答えることである.
それが正しいこと,もしくは誤りであることを証明して,明確な答えを出さなければならない.

証人は被告がある夜在宅したと証言する.
判事はそれが正しいか誤りかを見出し,その根拠をできるだけ十分にしなくてはならない.
判事の問題は1つの証明問題である.
もう1つの証明問題の例はピタゴラスの定理の証明である.
われわれはピタゴラスの定理が正しいか正しくないかを証明せよとはいわない.
結論が誤っているかもしれないという含みを残すことは望ましいことではあるが,そんなことはまずありそうもないからわれわれは普通これを省略するのである.
3. 決定問題の主要部分は未知のものとデータと条件である.

各辺がa,b,cである三角形を作図する場合,データはa,b,cであり,求める三角形は各辺がそれぞれa,b,cであるという条件を充たさなければならない.
もしも高さがa,b,cの三角形を作図するならば未知のものは前と同じ三角形の範疇に属し,データは同じa,b,cであるが,未知のものとデータとを結ぶ条件は違うのである.
4. ふつうの数学の問題では《証明問題》の主な部分は証明すべき定理の仮説と終結の2つである.
《もしも四辺形の辺がすべて等しければ,その対角線は互いに直交する.》
この文章のコンマで区切られた前半が仮説,後半が終結である.

[すべての数学の問題が仮説と終結とにうまく分けられるとは限らない.
《素数は無限にある》という定理をこのような2つに分けることは困難であろう.]
5. 《決定問題》をとくためにはその主要部分である未知のものと,データ及び条件をはっきりと知らなければならない.
われわれのリストはこれに関する多くの問いや注意を含んでいる.

未知のものは何か. データは何か. 条件は何か.
条件をいくつかの部分に分けよ.
データと未知のものとの関連を求めよ.
未知のものをよく見よ! そうして未知のものが同じかまたはよく似た問題のことを思い起せ.
条件の一部を残して他を捨てよ. それでどこまで未知のものが定まり,どの範囲で変化しうるか. データから何か役に立つものを引出しうるかその未知のものを決めるのに適当な他のデータを思いつくか. 未知のもの,データもしくはその両方を変えて新しい未知のものと,新しいデータとが互いに近いものになるようにできるか.
すべてのデータを使ったか. すべての条件を使ったか
6. 《証明問題》をとくためにはその主要部分である仮説と終結とをはっきりと知らなければならない.
われわれのリストは《証明問題》に特に適当した多くの問いや注意を含んでいる.
仮説は何か. 終結は何か.
仮説をいくつかの部分に分けてみよ.
仮説と終結との関連を求めよ.
終結をよく見よ! そうして終結が同じかまたはよく似た定理のことを思い起せ.
仮説の一部を残して他を捨てよ. それでもまだ終結は正しいか,その仮説から何か役に立つものを引出しうるか. 終結を導くに適当な他の仮説を思いつくか. 終結,仮説もしくはその両方を変えて新しい仮説,新しい終結とが互いに近いものになるようにできるか.
すべての仮説を使ったか.
7. 《決定問題》は初歩の数学で重要であり,《証明問題》は高等な数学において大切である.
この本では《決定問題》が特に重視されるが,いつかもっとくわしい本をかくときには,公平なつりあいを保つように心がけたいと思っている.

帰謬法と間接証明 p109

帰謬法と間接証明とは別のものであるが,しかし互いに関連しあっている.

帰謬法は間違った仮定から,著しく不合理な結論を導いて,その仮定の誤りであることを示すことである.
《誤りに帰着させる》ことは数学的な手法であるが,皮肉屋がよく使う諷刺に,一脈通ずるものがある.
諷刺はいつもある主張を取り上げて,これを誇張し,しまいにそれがひどくばかげたものであるという結論を導くのである.

間接証明は反対の仮定が間違いであることを証明して,ある結論が正しいことを証明するやり方である.
間接証明はこのように敵方の名声をおとすことによって当選する政治家のやり口に似たところがある.
帰謬法も間接証明も問題をとこうとする人の心に浮かぶ発見の有力な武器である.
それにもかかわらず数名の哲学者や多くの学者たちがそれを好まないということは理解できないことではない.
なぜなら皮肉屋や政治家が好きな人はいないからである.
われわれはまずこれらの方法がどんなに役に立つかを示し,その後でその欠点を論じよう.

記号 p118

普通の数の記法がどんなに具合よくできているかを知りたければ,ローマ数字は使ってもよいが,われわれが使いなれたアラビア数字を使ってはいけないという制限つきで,かなりの数の加え算をやろうとしてみるとよい.
たとえばMMMXC,MDXCVI,MDCXLVI,MDCCLXXXI,MDCCCLXXXVIIというような数をとってみてほしい.

数学に記号が大切なことはいうまでもない.
十進法を使って計算する現代人は,そのような記法を知らなかった昔の人よりもずっと有利な立場にある.
代数や解析幾何や微分積分の記号に慣れている現在の学生たちは,昔アルキメデスのような天才が考えた面積や体積をずっと楽に取り扱うことができるであろう.
1. 話すことと考えることとは深く結びついている.
言葉を話すことは思考を助けるものである.
ある哲学者や文献学者はもう少し先へ進んで,言葉は理性にとって欠くべからざるものであると主張する.

しかしそれは幾分誇張のきらいがある.
むずかしい数学の研究を少しやった経験があれば,かなりむずかしいことを,図形を見たり代数の記号をいじっただけで言葉を少しも使わなくても考えることができることを知っている.
図形と記号とは数学的なものの考え方に深く結びついていて,それが心の働きを助けるのである.
そこで哲学者や文献学者の狭い表現を,言葉とその他の符牒を含めて符牒は理性に欠くべからざるものであるといい変えることができる.

とにかく数学の記号を使うことは言葉を使うのとよく似ている.
数学の記号は言葉のようなもの,即ちぴったりした言葉,簡明で,明確で,しかもふつうの文法のように例外などがない規則に従った表現である.

このような考え方をすれば,方程式をたてることはふつうの言葉から数学の記号という別の言葉へと翻訳をすることである.
2. +,-,=というようなある種の数学的記号は習慣上きまった意味をもっているが,大小のギリシャやローマ文字はそれぞれの問題によって違った意味をもっている.
新しい問題に当面したときは,新しい適当な記号を導入しなければならない.
ふつうの言葉でもそうである.
違った文脈においては同じ言葉が違った意味をもつ.
正確に表現しなければならない場合には慎重を要するのである.
3. よい記号というのは,あいまいでない,含蓄のある,しかも覚えやすいものでなければならない.
それはまぎらわしい他の意味を表わしてはならず,よい意味では,しかし含みのあるものでなければならない.
記号の順序と組合せはものごとの順序と組合せを示すものでなければならない.

p123

10. クラスにおける最もできのよくない学生ばかりでなく,よくできる学生でさえも代数がきらいである.
記号はかなり技巧的であり,新しい記号を覚えることは記憶の負担にたえないというのである.
頭のよい学生は何か代償がなければそのような負担を承知しない.
すぐれた学生が数学の記号という言葉が思考を助けるということを,自身の経験により十分納得できなければ代数が好きになれないのももっともである.
学生にそういう経験をさせてやるのが教師のいちばん大切な仕事であるといってよい.

p131

3. いま述べた法則は帰納によって発見されたものであるが,それが見出されたいきさつから一方的で不完全ではあるが歪められない形の帰納の姿をみとめることができる.
帰納は観察の背後にひそむ規則性と関連とを見出そうとする.
そのいちばんの武器は一般化,特殊化,類推などである.
一般化の第一歩は観察した事実を理解しようとする努力からはじまる.
それは類推に基づくものであって,いろいろの特殊の場合にあてはめて試されるのである.

類推については哲学者の間にもいろいろ意見のくいちがいがあるから,ここでこれ以上述べることを差控えよう.
しかし多くの数学の仕事は,はじめ帰納によって発見され,後に証明されるものであることを付け加えようと思う.
厳密な形で述べられた数学は系統的演繹的科学であるが,でき上りつつある数学は実験的帰納的科学である.
4. 数学においても物理的科学におけるようにわれわれは観察と帰納を使って一般的な法則を発見する.
しかしただ違うのは物理的科学では観察と帰納以上の権威をもつものはないが,数学では厳密な証明という権威があるということである.

しばらくこのような実験的な仕事をした後で,われわれは少し見方を変えた方がよい.
もっと厳密な考え方をしよう.
これまで面白い結果を発見したが,そこに達するまでの推理は単に確からしいという実験的な,かりそめの,発見的なものにすぎなかった.
それを厳密な証明によって完全なものとするように努めよう.

きまりきった問題 p135

二次方程式の一般的な解法がわかっているときにはx²-3x+2=0をとくことは《きまりきった問題》とよぶことができる.
それは一般的の解の中の文字にただ-3と2とをあてはめればよいからである.
一般に文字を使ってといてなくても,数個の同じような二次方程式をといたすぐ後では.
それは《きまりきった問題》とよぶべきであろう.
一般的な解に特殊な値をあてはめたり,よく説明された手本にしたがって何の独創がなくても一歩一歩真似してとけるようなものは《きまりきった問題》である.
《きまりきった問題》を与えておけば教師は似た問題を知っているか,という問いに対する答えを学生の鼻先につきつけたも同然である.
学生はただひからびたお題目に従ってちょっと用心深く辛抱しさえすればよく,自分の判断や独創力を働かせる必要は少しもないのである.

《きまりきった問題》は数学を教えるには少なからず必要なものであるには相違ないが,それしかできない学生をつくるとしたらそこれは許し難いことである.
きまりきった数学の機械的な操作だけを教えて他のことを数えないとしたら,それこそ料理本以下である.
なぜなら料理本には判断と想像とを働かせる余地がいくらか残されているが,このような数学の教本にはそれさえもないからである.

未来の数学者 p137

未来の数学者は賢明な解答者でなくてはならない.
しかしそれだけでは不十分で,いずれは大きな数学の問題をとかなければならない.
それにはまず自分の天分がどんな発見に向いているかを知る必要がある.

なによりも大切なのはでき上った解答を振り返って見ることであある.
自分の仕事のたどってきた道を眺め,解答の最後の形を見ていろいろのことを見出すであろう.
問題のむずかしさや決め手となる考え方に考え及び,あるいは何が助けとなり,何が行く手をさえぎるものであったかを知ろうとすることであろう.
彼は簡単な直感を欲するであろう.
それを一目のうちにとらえることができるかである.
またいろいろな方法を比較し,展開するであろう.
それを違った方法でとくことができるか.
すでにとかれた問題と比較しながらそれをとこうとし,さらにいまといた問題をもととして新しい問題を考え出そうとする.
他の問題にその結果や方法を応用することができるか.
できるだけいまといた問題を完全にこなせば,すぐ役に立つよく整理された知識を獲得するであろう.

未来の数学者も模倣と実行とによって学ぶことに変りはない.
よい模倣の手本を見出すべきである.
よい先生に学ぶべきであり,有能な友人と競争すべきである.
何よりも大事なことは普通の教科書をよむばかりでなく,自分が本当に模倣しようと思う著者を探すためによい本をよむことである.
彼は単純で,示唆に富み,美しいと思われることを求めてそれを楽しむべきであり,問題をとき,自分のゆき方にかなった問題を選び,その解答につき思いめぐらし,新しい問題をつくらなければならない.
このようにして彼の最初の発見をするように心掛け,自分の好み,自分のゆき方を見出すべきである.

未知のものをよく見よ p138

これはいい古された忠告である.
それは,ラテン語の《respice finem》に相当する.
目的を見よである.
目的を心に留めよ.
ゴールを見失うな.
何をしようとしているかをよく考えよ.
要求されていることを見失うな.
何をしようと努めているかを心にとどめよ.
未知のものをよく見よ.
結論をよく見よ.
respice finemのこの最後の2つのいいまわしは,それぞれ数学の《決定問題》と《証明問題》とに特に適当したものである.

われわれは目的に注意を向け,意力をそそぎ,それを達成するための手段を考えるその目的のためにはどんな手段を選ぶべきか.
いかにして目的に達しうるか,そういう結果をうるにはどうすればよいか,そういう結果にどこかで出会ったことはないか.
そのためによく使われる手は何か,そうして同じかまたはよく似た未知数をもつ,よく知れた問題を思い出せ.
そうして同じかまたはよく似た結果を得ようと努力せよ.
ここでもまた最後の2つのいいまわしはそれぞれ数学の《決定問題》と《証明問題》とに特に適当したものである.

問題がとけなかったら p145

問題がとけなかったらそのことをあまり気にかけないで,もう少しやさしい問題をとくことで満足しなければならない.
即ちまずこれと関連した問題をとこうとするのである.
そうすればまたもとの問題をとこうという元気がでてくるに違いない.
人間がすぐれているのは,直接には越え難い障害物を迂回し,もとの問題がとけそうもない場合には何か補助の問題を考え出すところにあることを忘れてはならない.

もっとときやすい,関連のある問題を考えつかないか.
関連した問題を知っているか,と尋ねられたときに考えたことを思い出すだけでなく自分で新しい問題をつくり出さなければならないのである.

この項の表題ではじまっているリストの項の内容はすべて問題を変形することに関する共通の目的をもっている.
それは一般化,特殊化,類推や,いろいろの分解と結合によって達せられるものである.

別の問題を変形させること p146

すでに述べたように,虫は窓から逃げようとして何度も繰返し繰返しガラスにぶつかり,自分がもと入ってきた開いている隣の窓から出ようとはしない.
鼠はもっと賢明に行動することができる.
わなにつかまると棒のすきまから出ようとし,次々とすきまから出ようと試みる.
このように試みをかえ,いろいろな可能性を試すのである.
人間はいろいろな可能性をよく理解し,失敗や間違いによって学び,もっとさらに賢明に行動しうるか,あるいは少なくとも賢明に行動できるはずである.
《いくども試みよ》という忠告はありふれたものであるが,それは有意義なものである.
虫や,鼠や,人間はその忠告に従って行動する.
もしも人が他のものよりもよく行動するとすれば,それは自分でもっと賢明に問題を変形させるからである.

無意識の仕事 p150

ある晩私はある作家について話そうとしたのであったが,それが誰であったかが想い出せなかった.
私はその作家の1つの小説のすじをかなりはっきり記憶していたので,少なからず苦しんだ.
彼の他の小説についてもいくつか知っていたし,名前の他はすべてはっきりしていた.
繰返し思い起そうと努力したが駄目であった.
翌朝前夜の苦心を思い出したとたん,その名前は何の苦もなく自然に浮んできた.

読者もまた恐らく同様の経験をもっていられることであろう.
そうして,もしも読者が問題を熱心にとこうとしているならば,問題とくに関して同様の経験があるであろう.
しばしば問題がどうしてもとけないで,いくら努力しても何も得られない.
しかし一晩休んだ後で,または幾日かたった後で,すばらしい考えが浮んできてすぐにとけてしまう.
このようなことは問題の種類が何であっても同じことである.
忘れた言葉,クロスワードの中のわからない言葉綴りの最初の字,数学の問題の答えなどみなそうである.

これらの現象は無意識の仕事と考えられる.
大切なのは長い間中断した後で,それを考えるのをやめたときよりもいっそう解答に近く,はっきりと意識のうちに蘇ってくるということである.
誰がそれを解明し,解答へと近づけたか,いうまでもなく無意識に働いていた自分自身にほかならない.
他に解釈のしようはない.
しかし心理学者の研究はこれに別の解釈を与える手がかりを見出しているから,いつかはそれがもっとはっきりしたものになるかもしれない.

無意識の仕事と考えることが当っていようがいまいが,われわれが意識的な考察をおし進めることには限界がある.
問題からしばらく手をひくによい潮時がある.
《枕に相談せよ》とは古い諺である.
問題から離れて頭を休めることにより,明日やすやすとなしとげうるであろう.
《今日がだめならまた明日》という諺もある.
しかし全然収穫がないままに手を休めることはしない方がよい.
仕事を離れるときには何か少しの点は解決し,何かは明らかにしておくべきである.

われわれが非常な熱意をもってそれをとこうとし,異常な緊張をもって取り組もうとする問題だけがこのような成功をおさめるのであって,意識的な努力と緊張とは無意識の仕事には欠くべからざるもののようである.
もしそうでなかったら話がうますぎる.
果報は寝て待てということになるからである.

昔はこのようによい考えが突然浮んでくることを霊感とよび,神の恵と考えていた.
諸君は働くことにより,または少なくとも熱望することによりはじめて霊感を得ることができるのである*.

なぜ証明が必要か p153

ニュートンについて次のような伝説がつたわっている.
彼が学生のころ幾何学の勉強をはじめ,当時の習慣に従ってまずユークリッドからはじめた.
彼は定理をよんでそれが自明なので証明をとばしてしまった.
彼にはこれほど明白なことを皆がどうして苦しんで証明しようとするのかが不思議であった.
しかし幾年かたってそれではいけないことに気付き,考えを変えてユークリッドをほめ讃えたのである.

この話の真偽は別として,なぜ学ばなくてはならないか.
なぜ教え,なぜ証明しなくてはならないかという疑問は依然として残るであろう.
証明を全然しないか,すべてのことを証明するか.
あるいはあることがらだけを証明し他を省くのがよいか.
もしあることだけを証明するのだったら,何を証明すべきであるか.

似た問題を知っているか p161

すでにとかれている問題と少しも似ていない無関係の全く新しい問題などというものを考えることはできない.
もしあったとしても,それはとけないであろう.
事実,問題をとくときにわれわれは前にといた問題を利用し,その結果や方法,あるいはこれをとくときの経験を役立たせている.
もちろんわれわれが利用する問題は当面の問題に何らかの関係がなければいけない.
それだからこそ似た問題を知っているか,と尋ねるのである.

当面の問題に多少関係のあるすでにとかれた問題を思い起すことは決して困難ではない.
それどころかそういう問題があまり多すぎるので,どれを選んでよいのか困ることであろう.
われわれはよく似た問題を探さなければならない.
即ち未知なものをよく見,あるいは当面の問題に関係のある,すでにとかれた問題を一般化,特殊化,あるいは類推によって探すのである.
ここで述べた問題はすでに知っている知識を動員することを目的としている(進歩と成果1を見よ).
われわれの数学的な知識の本質的な部分はすでに証明された定理の形で蓄えられている.
したがって役に立つ定理を知っているか,と尋ねるのである.
この質問はわれわれの問題が《証明問題》である場合,即ちわれわれが与えられた定理が正しいか正しくないかを証明する場合に特に適している.

診断 p178

診断という言葉はここでは《学生の仕事の特徴をよく調べること》を意味する.
点数はその1つの表わし方であるが,それは少しぞんざいにすぎる.
教師が学生の仕事を進歩させようとするならば,患者の健康を改善しようとする医者が診断を必要とするように仕事のよい点わるい点をくわしく調べなければならない.

注意の集中が足りないために問題を不完全にしか理解していないことは,多くの場合において見られる.
計画をたて,解答の見通しをつけることに関しては2つの反対の傾向の欠点があるある学生は何の計画も考えもなしにいきなり計算や作図にとりかかり,他のものはまたぼんやりと何かよい考えが浮んでこないかと待っていて,何も考えをさそう努力をしないのである.
計画を実行するにあたってはいちばん多い欠点は不注意と,各段階を確かめる忍耐がないことである.
結果を確かめることをしないということは断然多い学生は答えができると嬉しくて,すぐさま鉛筆をおいてしまい,とんでもない結果ができてもびくともしないのである.

教師はこのような診断を注意して行い,リストの問いを繰返すことによって学生のこのような欠点を矯正しうるであろう.

よい思いつき p210

《よい思いつき》とか《すばらしい考え》とか《曙光をみとめる》とかいう言葉は,解答が突然前進することをいい表わす日常的な表現である(進歩と成果6を見よ).
よい思いつきが浮ぶということはだれでもよく経験することであるが,それについて述べることはむずかしい.
したがってアリストテレスのような昔の権威ある学者が,たまたまそれについてすぐれた説明をしていることを知ることは興味深い.

多くの人々はよい思いつきは《目先がきく》ということであるという考えに賛成するであろう.
アリストテレスは次のように述べている.
《目先がきくということはたちまちのうちに物事の本質的な関連を見ぬいてしまうことである.
たとえば人が金持ちと話しているのを見ると,すぐにその男は金を借りようとしているのだと想像するようなものである.
また月の明るい面がいつも太陽の側にあるということを見てたちまちその理由を悟る.
即ち月は太陽の光によって輝くと考える*ようなものである.》

最初の例は悪くはないが平凡である.
金持ちと金についてそれくらいの想像をすることはそれほど聡明でなくてもよいし,その思いつきもそれほどすばらしくはない.
しかし第2の例は,はなはだ印象的であることはちょっと考えてもすぐわかる.

われわれはアリストテレスの時代の人達は時計がなかったから時間を知りたいときには太陽と星とを見まもらなければならなかった,ということを念頭におかなければならない.
また街燈がなかったから夜出歩こうとすれば月の満ちかけを観察しなければならなかった.
彼らは現在,町に住んでいる人達に比べて空を見る機会が多かったし,彼らの頭脳は天文学に関するジャーナリスティックな表現に基づく不消化な断片的知識のために毒されてもいなかった.
彼らは満月は太陽と同じように平たい円盤で,ただ太陽に比べて暗いのだと考えた.
彼らは月の形と位置とが常に変るのを不思議に思いまた日の出や日没の近くに昼間の月を見て《月の明るい方の側はいつも太陽の方の側にある》ことを見出した.
それはすばらしい成功であるといわなければならない.
そうして月の形が変るのは一方の側から光に照されている球の半分が明るく,他の半分が暗いのに似ているということにも気がついた.
太陽や月は平たい円盤ではなくて円い球であり,一方が光を与え一方がうけ取るのだということもわかった.
彼らは《たちまちのうちに》本質的な関連を理解し,以前に知っていたことを整理することができた.
これは突然と想像が結実し,すばらしい思いつき,天才のひらめきが起った結果である.
*本文に多少手を加えてある.
もっと正確な翻訳についてはWilliam Whewell,The Philosophy of the Inductive Sciences(1847)vol.2,p.131.