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「成功はゴミ箱の中に」を読んだ

成功はゴミ箱の中に」を2025年08月23日に読んだ。

目次

メモ

p14

人は誰でも、幸福になる資格があり、幸福をつかむかどうかは自分次第、これが私の信条だ。
シンプルな哲学である。

p16

「未熟でいるうちは成長できる。成熟した途端、腐敗が始まる」

p22

前日にマクドナルド兄弟と話ができたおかげで、様々な知識を得ることができた。
たとえばスタッフの鉄板さばきである。
ピシャリと音を立てて、ハンバーガーのパティを裏返したり、鉄板の温度を下げずに、表面の汚れをこすり落とし、続けてパティを焼くといった方法等に感心したが、なかでも最も感銘を受けたのが、フライドポテトの揚げ方だ。
マクドナルド兄弟も、事業が成功した理由の一つは間違いなくフライドポテトだと言っていた。
ふたりは作り方のプロセスを口頭で説明してくれたのだが、私はどうしても自分の目でそれを確かめたかった。
そこには、何か大きな企業秘密が隠されているに違いなかったからである。

普通の人は、フライドポテトにとりたてて関心など持たない。
ハンバーガーや、ミルクシェイクを口にする間の、間に合わせのような存在、それがフライドポテトというものだ。
しかしマクドナルド兄弟のポテトは別格だ。
ふたりはフライドポテトにあふれんばかりの情熱を注いでいたのである。

私の中で、フライドポテトは、だんだん聖なるものに思えるようになり、準備は儀式のように、神聖に執り行われているというイメージが出来上がっていた。

そして、ある日ついに、その「聖なる儀式」をこの目で見せてもらえることになったのである。
マクドナルド兄弟は、材料にアイダホポテトの最高級品を使用していた。
一個約八オンスである。
倉庫にはケースが山積みになっており、その周りには目の細かいワイヤが二重に張り巡らされていた。
これは、ネズミや害虫を除けるのと同時に、常に新鮮な空気に触れるようにするためである。
私は、倉庫からケースが出され、台車に載せられて八角形のビルに運ばれる姿を信心深く見守っていた。
ここで、一つひとつ丁寧に皮を剥き、すべて剥き終わったら、細長くカットされ、冷たい水を張ったシンクに入れられる。
フライドポテト担当の男性は、シャツの袖を肩までまくり、シンクに手を突っ込んでポテトを静かにかき回す。
すると、水は瞬く間にでんぷんで白く濁った。
次に、水を抜き、つやつやと輝く一本一本にスプレーホースで水を当て、完全にでんぷんを洗い流す。
それからポテトはワイヤバスケットに入れられ、フライバットの隣に山積みにされて、揚げられるのを待つ。

レストランにおいて、一般的に、フライドポテトを揚げる油は、チキンや、何かほかのものを揚げるなどして使い回しにされることが多い。
レストランは否定するだろうが、実際はほとんどの店がそうしている。

それは、「取るに足らない問題」とされていた。

しかし、それは間違った認識であり、これがフライドポテトに対するアメリカ人の食欲を減退させる原因となっていた。
一方、マクドナルド兄弟は、フライドポテトを揚げる油は、ほかの材料には決して使用しない。
第一、そんな誘惑など起こるはずもない。
なぜなら、揚げ物メニューは、フライドポテト以外に何もないのだから。
これを考えると、一袋三オンスで、一〇セントとは、非常に安い価格設定だ。
事実、フライドポテトは飛ぶように売れていた。
アルミニウムの大きな塩入れが、フライドポテトの受け取り口に、長い鎖でつながれて置いてあり、それは、救世軍のブラスバンドの少女が持つタンバリンを思い起こさせた。

マクドナルド兄弟の、フライドポテトにおける試みは非常に興味深く、プロセスをじっくりと見せてもらえたことに私は満足した。
兄弟が語ってくれたように、実際見たところ、どの工程も作業は非常に単純だ。
一度、工程を自分の頭に叩き込み、後でスタッフにやり方をきちんと教えれば、誰でも言われた通りに、一つひとつの作業をこなせるようになると確信できた。
同じように、マクドナルド兄弟とのビジネスもうまく運ぶと考えたが、それは大きな誤りだったと後に思い知らされる。

p30

一九五四年、運命の日、私はマクドナルド兄弟の手でサインされたばかりの契約書をブリーフケースにしまい込み、シカゴに飛んで戻った。
私はビジネスの戦争で負傷を負った古参兵のようだったが、第一線に立ちたくてうずうずしていた。

私は五二歳だった。
ビジネスに身体を酷使し、糖尿病と関節炎を患い、胆嚢のすべてと、甲状腺の大半を失っていた。
だが、生涯で最高のビジネスが私の行く先に待ち受けていると信じて疑わなかった。
私は未熟で、成長の途中にあり、空を飛行しているような心持ちで人生を歩んでいた。
上空は強い日差しで覆われ、澄み切った青空と、コロラド川からミシガン湖まで続く山々の傾斜が限りなく続いていた。
だが、飛行機がシカゴへと着陸態勢に入り、下降するにつれ、空が灰色に煙り、天候は荒れ出した。
いまにして思えば、それは後に起こる出来事の前兆だったのかもしれない。

p32

少年時代、私は読書好きではなかった。
本は退屈なものに思えたからだ。
それよりも活発に動き回るほうを好んだ。
だが、考え事をするのは好きだった。
起こり得る、あらゆる状況を想像し、どう対処するかを考えては楽しんでいたのである。

「レイモンド、何をしているの?」と母によく聞かれた。

「何も考え事をしているだけだよ」と返事をすると、

「それは空想というのよ。
また『夢見るダニー』病が始まっちゃったのね」と母は言った。

高校に入ってからも、空想に耽りながら帰宅する私を人々は「夢見るダニー」と呼び続けた。
しかし私は自分の空想が無駄なエネルギーを消費しているとは思わなかった。
必ず何らかの行動に移していたからだ。
たとえば、レモネードスタンドのアイデアを思いついたときには、すぐ実行に移し、一生懸命働き、レモネードを大量に売った。
中学生のときには食料雑貨店で一夏働いてみた。
叔父の経営する薬局でも働いた。
友人二人と小さなミュージックストアを開いたこともある。

仕事があれば何でもやってみた。

仕事とは、その人の人生にとって、ハンバーガーの肉のような存在である。
「仕事ばかりして遊ばなければ人間駄目になる」という格言があるが、私はこれには同意しない。
なぜなら、私にとっては、仕事が遊びそのものだったからだ。
野球をして得るのと変わらない喜びを仕事からも得ていたのである。

p38

その年度の終わりにアメリカ合衆国は第一次世界大戦へ参戦する。

その頃私はコーヒー豆や装飾小物の訪問販売の仕事を得ていた。
その世界で手応えを感じていた私は、学校へ戻る気などさらさらなく、戦争の影響のほうが気になった。
誰もが『オーバー・ゼア』(第一次世界大戦下、欧州に遠征したアメリカ兵を勇気づけた曲)を口ずさんでいた。
私が行きたいところも、まさに「彼方」、戦地であった。
両親は猛反対したが、それを説き伏せ、赤十字病院の救急車ドライバーとして勤務することになった。
年齢を詐称しなければならなかったが、嘘や曲がったことを嫌う私の祖母でさえ、このことに理解を示してくれた。
私の配属された隊は、訓練のためにコネティカット州に集まり、そこでもう一人、年齢を偽って入隊していた人物に出会った。
私たちが休日には街へ繰り出して女の子を追っかけ回している間も、彼は宿舎に残り、絵を描いていたことから、変わり者呼ばわりされていたその人物こそ、かのウォルト・ディズニーである。

p74

一九三〇年になると、私のセールス活動は、リリー・チューリップ社に大きな利益をもたらすようになる。
同時に私自身もペーパーカップ・ビジネスにおける新たな戦略を模索し始めた。

当時、私は細かいプリーツの入ったスフレカップを、シカゴで急成長中のウォルグリーン・ドラッグ・カンパニーに売っていた。
彼らはこの容器をソーダ・ファウンテンでのソース入れとして使っていた。
ある日、店先でランチタイムの人々の往来を観察しているうちに、あるアイデアがひらめいた。
飲み物をペーパーカップに入れてテークアウトのオーダーを受けられれば、さらに売り上げを伸ばすことができるのではないか。

ウォルグリーンの本社は四三番ストリートと、ボーウェンアベニューの交差点に位置しており、ドラッグストアは、本社のすぐ近くにあった。
さっそく接客をしている男に近づき、セールストークを始めた。
マクナマラという名のその男は頭を振り、肩をすくめながらこう言った。
後日、私は再び言った。

「君がまともじゃないか、それとも私をまともじゃないと思っているか、どちらかだね。
同じ麦芽乳が、カウンターでは客に一杯一五セントで売れるんだ。
それなのにわざわざ一・五セントもペーパーカップ代を余計に支払う変わり者がどこにいるというのかね」

「売る数を増やせばいい」と私は反論した。
「このペーパーカップに飲み物を入れてカバーをかけ、バニラウエハースやクラッカーを袋に入れてやればいいんだ」

彼の顔は赤く変色し、天を仰ぎながら、こんな愚かな人間がいるとは信じられないという表情を見せてこう言った。

「いいか、まず余分に出資して利益を上げるなんて不可能だ。
そのうえ、カバーをつけたり袋に入れたりして、店員の時間まで割くつもりか?
夢でも見ているんじゃないか」

「マクナマラ、もし売り上げを伸ばしたいなら、方法は一つしかない。
持ち帰り用を売るしかない。
信じられないならこうしよう。
二〇〇個、いや三〇〇個のカバー付きカップを無料で提供する。
一ヶ月試すのに必要なだけくれてやるから。
君のところの客は、ほとんどがウォルグリーン本社の社員だ。
彼らにアンケートを取って、このアイデアが好きかどうか聞いてみればいい。
カップは無料なんだ。
試してみる価値はあるだろう?」

彼はやっと同意してくれた。
彼にカップを与え、ソーダ・ファウンテンの端に売り場を設けた。
これは初日から大当たりだった。
マクナマラは私以上に、このテークアウトのアイデアに喜んだ。

その後、マクナマラの紹介でウォルグリーン社の仕入れ責任者であるフレッド・ストールに二人で会いに行き、双方にとってメリットのある契約を結んだ。
彼らの店が一軒増えるたびに、こちらの売り上げも伸びる点が最大のポイントだった。
こうした乗算方式を基に、西部の小さな屋台ではなく、大きな売り上げが期待できる大手企業をセールス相手に選んでいった。
ビートライス・クリーマー、スイフト、アーマーといったチェーン店を所有する大型店舗や、社員食堂を持つ大きな工場を所有するU・S・スティールなどと次々に契約を結んだ。
軌道に乗れば乗るほど、担当分野が拡大し、さらなる可能性が増えていった。

p85

私は見栄を張らないように気をつけていたが、部下から見れば、私の格好は憧れであり、私のようになろうと躍起になっていた。
手入れの行き届いたスーツと靴、清潔感を与える髪形と爪の手入れなど、相手に好印象を与えるための外見の大切さを強調した。

「見た目も、行動も、スマートに」とよく彼らに言った。
「最初に売るのは、自分自身だ。それに成功できれば、ペーパーカップを売るのは楽だ」

p98

「あきらめずに頑張り通せば、夢は必ず叶う」

一九七六年三月、私はこの台詞をダートマス大学の卒業生に向かって言っていた。

起業家になる心得について講演を依頼されたのだ。

「もちろん、努力もせずに手に入るものではない。
好き勝手にやればいいというわけでもない。
リスクへの覚悟も必要だ。
ひょっとしたら一文無しになるかもしれない。
けれども、一度決めたことは、絶対にあきらめてはならない。
成功にリスクは必ずつきまとう。
しかし、それこそ醍醐味である」

p115

一九三七年、彼らはサンタアニタ・レース場付近のアーケディア商業地のオーナーに、小さなドライブインを建てる計画を話し、承諾を得る。
ふたりともまったくの素人だったが、バーベキューシェフを雇って猛勉強した。
二年後には鉄道駅のあるサンバーナーディノ周辺でさらに大きな店舗予定地を探し始めた。
そしてバンク・オブ・アメリカのS・E・バグレー氏の協力により五〇〇〇ドルのローンを組むことができ、店を手に入れた。

彼らのレストランは典型的なドライブインスタイルで、一〇代の若者を中心に売り上げを伸ばした。
だが、第二次世界大戦後、この手法では売り上げが頭打ちだと気づく。
駐車場は常に満杯だが客席数が限られているからだ。
そこで、彼らはある決断を下す。
一九四八年、人気のあった店を閉め、テークアウト中心という新しい経営方式で再びオープンしたのだ。
サービスとメニューを最小限に抑え、これが後に全米各地で次々にオープンするファストフード店のモデルになった。
ハンバーガー、フライドポテト、飲み物がテキパキとした流れ作業で提供され、誰もが驚くほど繁盛した。
プロセスを簡素化することで、微に至る品質管理が可能になった。
一九五四年、それを初めて目の当たりにしたとき、私はニュートンの頭に「ジャガイモ」が落ちてきたかのような衝撃を受けたものである。

だからこそ、ディック・マクドナルドに「自分のような店を持ちたい変わり者がいるだろうか」と聞かれたときに、すかさず「私がやりましょう!」と答えたのだ。
予想外の返答に、兄弟は一瞬驚いていたが、すぐに顔を輝かせ、具体的な話に移った。
そして弁護士を呼び必要書類を作成するのにそれほど時間はかからなかった。

p118

「なぜ、マクドナルド兄弟のやり方をそっくりそのまま真似て、自分で店を開かなかったのか?」とよく聞かれる。
彼らは私に経営のすべてを明らかにしていたし、確かにコピーするのは簡単だったと思う。
だが正直言って、そんな考えは私の頭にはなかった。
私はビジネスを、セールスマンの視点でとらえていたのだ。
マルチミキサーの営業のほうが、ハンバーガーを売るよりは将来性があると思っていた。
さらに兄弟は独自の調理用機材を持っていた。
特注のアルミ製鉄板はじめ、あらゆる機械が、細部にわたって計算し尽くされた方法で活用されていた。
そこへきて、名前だ。
マクドナルドという名前は当たるという直感があった。
名前はさすがにコピーできない。
だが、真の答えは、やはり私はまだ正直者で、世間知らずだったからなのだろう。
彼らからアイデアだけを盗んで、それに値する代価を支払わないという考えなどおよそ浮かばなかった。

p124

西海岸と中西部の気候の違いから生じる問題にも悩まされた。
換気と空調整備については何人もの建築専門家に相談したが、彼らは教会や学校といった大規模建築は得意のようだったが、私の小さな店にはお手上げだった。
シカゴは四月にしては寒く、かまどをすぐに点火させる必要があった。
しかし、上部にある換気扇が、かまどからの暖気を外に出してしまい、その際に生じる風で、種火までもが消えてしまうのだった。
これはガス漏れの原因となり危険である。
結局、室温は常に四℃になった。
夏には正反対のことが起こり、冷気が外に吸い出されてしまい、室内は四〇℃近くまで上がったのである。

それ以上に悩まされたのはフライドポテトだ。
一向にうまく揚がらない。
私はエドに、自信たっぷりにマクドナルド製法のフライドポテトを説明していた。
まず、ジャガイモの皮はできるだけ薄く剥く。
少し皮を残した状態にすれば、風味が逃げない。
次に、シンクに冷水を張って、その中にポテトを入れる。
袖を肘までまくり上げ、外科医が手術するときのように手を消毒し、水がでんぷんで白く濁るまで両腕でゆっくりとかき回す。
排水後は、もう一度ポテトをよくすすぎ、水気を十分に切ってからフライバスケットに入れる。
新鮮な油でこんがり揚げれば、美しいきつね色のフライドポテトの出来上がり……。

……そのはずが、出来上がったものは想像とはおよそ懸け離れていた。
何を間違えたのだろうか。
調理工程を見直してみたが、間違いは見つからない。
サンバーナーディノの店でマクドナルド兄弟が行っていた手法を頭に叩き込んでいたのだから、間違いはないはずだ。
もう一度やってみた。
結果は同じだった。
私が求めているポテト、カリフォルニアで味わったあの素晴らしいフライドポテトではなかった。
マクドナルド兄弟に電話で聞いてみたが、彼らにも原因はわからなかった。

耐え難き事態だった。
あのマクドナルドの最高の味の品質をそのまま数百店でも可能にするという私の夢は、初めの一歩でつまずいたのである。

原因を探ろうと、ポテト&オニオン協会に問い合わせたが、彼らも最初は原因がわからなかった。
ところがある日、協会の研究者に、実際にサンバーナーディノ店と同様の買い付け方から調理法まで説明していたときのことだった。
私がアイダホポテトを金網を張り巡らせた大きな木箱に入れて、日陰で保存する説明にさしかかったところ、「それだ!」と彼は叫んだ。
ジャガイモは掘られたときはほとんどが水分だが、乾燥によって糖分がでんぷんに変わることで、味が上がる。
マクドナルド兄弟は、このことを知らなかったが、たまたまフタのない容器にジャガイモを入れ、砂漠特有の乾燥した空気に触れさせることによって、自然乾燥させていたのだった。

原因がわかると、即座にシカゴでは独自の対処法を考えることにした。
地下室に貯蔵する際、最新の箱はいちばん奥へ、古いものを手前に置くようにし、巨大な扇風機を設置して通風を良くするように努めた。
これを見たエドは感動し、「世界でいちばん甘やかされているジャガイモですね!料理するのがもったいないくらいです」と言った。

「それでいいんだ。これからはもっと甘やかして、二度揚げすることにしよう」と私は答えた。
ポテト&オニオン協会の研究者にアドバイスされた通り、いったんポテトを熱油の中に浸し、取り出して油を流す。
温度が下がったら、再び油に入れて揚げる。
開店から三ヶ月後、ようやく私の期待通りのフライドポテトが出来上がった。
ひょっとしたらサンバーナーディノ店を上回るおいしさだったかもしれない。

ポテト&オニオン協会のアドバイスを取り入れながら試行錯誤を重ねた結果、我々オリジナルのフライドポテト製法が生まれた。
まず二つのバスケットを三分間油に浸す。
この時点では色合いもグレイがかっており、魅力的なものではないが、冷ましているうちに、油がポテトに染み込む。
この浸み込んだ油がでんぷんに作用し、再び油に一分間入れたときに化学変化を起こして、あの味ができるのだった。
二回目に油に浸されたときには、輝く黄金色に変化していた。
それをステンレスの油切り容器に入れ、太陽灯を当てて油を切る。
注文が入り次第、角砂糖ばさみでテークアウト用の袋に詰められた。
この調理法は、コストがかかりすぎたため現在では行われていない。
当時でさえ、一〇セントで本当に元が取れるのか?
と人々に聞かれたものだ。

サプライヤーの一人が、ある日私にこう言った。
「レイ、君はハンバーガービジネスを行っているんじゃない。
フライドポテトビジネスだ。
何が秘訣かは知らないが、君のところのポテトは、このあたりでは最高だよ。
これを求めて客はやってくるんだ」

「その通りだ」と私は言った。

「だが、誰にも言うなよ!」

p135

我々は未開の地を開拓しているようなもので、何十年も存続していくための確固たる基盤をつくらなければならなかった。
これは経営に携わる者だけが味わえる醍醐味ともいえよう。
自分たちで考えた事業が成功していく様子を見るのは、それは感動的であった。
だが同時に、小さな失敗が重大な問題に発展するという危険性も伴っていた。
これについての私の考えは、経営者とは、そもそも失敗を犯さない人がなるべき職業だというものだ。

私がこの時期に下した決断の中に、その後の私のフランチャイズシステムとマクドナルドの発展に大きな影響を及ぼしたものがある。

それは、仕入れに関して、我々は一切口を出さないということだ。
店舗が成功するためには力を尽くして手伝う。
それがこちらの収益にもつながるのだから。
だが、同時に相手を客のように扱うのは不可能だった。

パートナーのように扱う一方で、商品を売り利益を追求するのは相反する行為だと私は考える。
サプライヤーになってしまえば、自分の利益のほうが心配で、相手のビジネスの状態などは二の次になってしまうだろう。
自分の収益を上げるために、商品の品質を下げることも考えるかもしれない。
そうなれば、フランチャイズは損害を被り、長い目で見れば、その損害は自分たちにも返ってくる結果となる。
我々の後にも、サプライヤーを兼ねたフランチャイズシステムをつくり上げたケースはあるが、いずれも失敗している。
我々のシステムは、それぞれのフランチャイズオーナーが最低価格で品物を仕入れることを可能にした。
この私の決断により、マクドナルドは他社が直面した「アンチトラスト運動」を回避することができた。

マクドナルドの店内に、公衆電話、ジュークボックスやいかなる自動販売機も置かない、というルールを敷いたのも私だ。
オーナーたちは副収益を得る目的で、これらを導入したいと考えており、反対の声は強かったが私は譲らなかった。
こうしたものは、お金にならない客を店に入れることになる。
注文もせずに店内にとどまられても文句が言えない状況を自ら生み、ひいては不良のたまり場ともなりやすい。
マクドナルドの家族団欒のイメージからも程遠いので、断固拒否することにした。
また、当時、自動販売機には犯罪組織が絡んでいた場合が多く、無用のトラブルを回避したかったことも大きい。

p139

我々はマクドナルドを名前以上の存在にしたかった。
マクドナルドを、安定した品質と、運営が標準化された、レストランのシステムの代名詞としたかったのだ。
特定の店舗やフランチャイズオーナーのクオリティによって顧客を増やすのではなく、どの店に行っても同じサービスが受けられるというように、マクドナルドのシステム自体に対するリピーターをつくりたかった。
そのためには徹底的な教育と、施設の見直し、運営への評価などが必要であり、さらに日夜の研究開発が必要だった。
これらを実現するためには、どのような調理技術を各店舗に指導するかが鍵となった。
彼らが思いもつかない、あっと唸らせる画期的な方法を、我々が構築しなければならない。

さらに、当時のフランチャイズ大手、テイスティフリーズやデイリークイーンという、当時、アメリカで二強といわれたフランチャイズ最大手の実例と、カリフォルニアの店舗の実績から、マクドナルドが進むべき具体的な道とは「店舗を自分たちの手で造る」ということだとわかった。
店舗開発を自ら行うことにより、自分で土地を選ぶことができ、店舗を戦略的に点在させることができ、全米規模での市場調査もできるようになる。

p144

「ガスに点火」というのは、当時、我々が好んで使っていた言い回しで、「誰かがガスに点火する」ということは、その人物は正しいことを行っているという意味だった。
これはマクドナルド兄弟によって規定された店舗造りを行う中で生まれた言葉である。
ある日、ジム・シンドラーがフライドポテトを揚げるのには、マクドナルド兄弟が使っている電気式ではなくて、ガスを使ったほうがより効率的だと提案した。
値段も安いし、良い製品も出回っていた。
そこで我々は、全マクドナルド店で「ガスに点火」することを選んだのである。

p153

ハリーは経営学と経済学に基づき、状況を分析するというやり方で、いわば学究的であったのに対し、私はセールスマンとして実践の場で培ってきた勘と、主観的人物評価を頼りに突き進んでいくタイプだった。
私が重要ポストに選んだ人間が、会社の隆盛に大きく貢献をしたため、何を基準に経営陣を選んでいるのかとよく聞かれた。
しかし口で言えることは、経営学の教科書に書かれているようなありふれたものであり、つまらない答えになるだろう。
選択基準を言葉で説明するのは非常に難しい。
教科書やルールで明確に定められたものではなく、状況に応じて、直感的に判断されるものだからである。

p164

おそらく、フレッドはどこにいても、努力により自分の帝国を築いていたに違いない。
というのも、私は彼だけでなく、彼の妻パティを知っているからである。
彼女が夫を成功させたと言ってもいい。
彼女はフレッドが店舗経営者になっていても、そばで彼を支え続けただろう。
マクドナルドのレストランは、アメリカの中小企業の最たるモデルであり、夫妻で協力し合うのは我々の基本原則であった。
主として、夫が経営やオペレーションに注意を払い、妻が帳簿をつけ人事を取り仕切る、といった相互利益の仕組みは会社の全レベルにも応用できる。
だから私は、常にオーナーの夫人たちには夫の仕事には関わるよう勧めている。
彼が汗水たらしてハンバーグを焼く担当であろうと、高級机の向こう側で書類を相手に仕事していようと、一人より二人のほうがよいに決まっているのだから。

p180

我々のビジネスには、広告とPRに関して二つの態度がある。

一つは広告に使われた一セントまで、厳しく経費として取り扱う「がめつい」人間としての態度だ。
私の見解はプロモーターと等しい。
私は広告に出費することに何の躊躇もない。
なぜなら、それがすべて利子とともに自分の元へ返ってくるからだ。
もちろん返ってくる形は様々で、だからこうしたタイプの人間にあまり感謝されないのかもしれないが。
そういう人たちの視野は狭く、収入をレジに入っている現金としてしか考えられていない。
私にとっての収入とは、ほかの道から来るものだ。
いちばん良いのは、満足した顧客の笑顔として返ってくること。
この価値は非常に大きい。
その顧客は必ずリピーターとなり、戻ってきたときには友人を連れてくるからだ。
我々のテレビCMが好きな子供は、両親にせがんで来店し、マクドナルドには客がもう二人増えたことになる。
これは広告費から来る直接的な利益だ。
しかし、心が狭い人間にはこれがわからない。

ハリー・ソナボーンはケチではなかった。
彼は金を生むための金を使うことに躊躇しなかった。
その代わり、物事は整頓されていて論理的でなければならなかった。
だから私が一九五七年に小さなPR会社と一ヶ月五〇〇ドルで長期契約した際には烈火のごとく怒った。
ハリーにとって、彼とジューンの経済的犠牲を考慮すればそれは屈辱的なことであったが、何よりも、契約した結果が我々に与える効果を、私が説得力を持って明確に伝えられなかったことに腹を立てたのだった。
それはもっともだった。

しかしそれはお互いさまだろう。
その会社、クーパー・アンド・コリン、現在のコリン・コミュニケーションズは、いまでも我々と仕事をしている。
マクドナルドという名前が一般家庭に浸透したのは、彼らのおかげだ。

時折目撃したせこい体質についてはほかにもある。
それは競争に対する否定的な姿勢だ。
彼らは競争に優越の感情を持って入る。
他人の秘密を知り、陥れようとする。
ご多分に漏れず、彼らは競争相手の悪口を言うためにいつも以上に張り切ったりするだろう。

幸運なことに、マクドナルドの組織内にはそうした人間は多くない。
彼らのスタイルは我々のスタイルに合わないため、マクドナルドに入ったとしても長居できないのだ。

だが、競争相手にスパイを送り込むべきだと真剣に言う人間もいた。
信じられるだろうか。
ドナルド・マクドナルドがスパイだったなんて!
そんなばかげた考えに対する私の回答はこうだ。

「競争相手のすべてを知りたければゴミ箱の中を調べればいい。知りたいものは全部転がっている」

私が深夜二時に競争相手のゴミ箱を漁って、前日に肉を何箱、パンをどれだけ消費したのか調べたことは一度や二度ではない。

私は競争相手と正々堂々と戦う。
強みを鍛え、品質、サービス、清潔さ、そして付加価値に力を入れれば、我々についてくることができずに競争相手は消滅していくだろう。
実際、過去に何度も目にしてきたことだ。
前に触れたミズーリ州スプリングフィールドのジョー・ポストのマクドナルドは私の強い味方だった。
彼の成功により、その地域のファストフードの模倣店が増えた(我々の人気を見込んで多くの店が我々の不動産の動きを追い、多くの場合は我々の店のすぐ隣に店を開いたことを特筆しておく)。
ジョーは彼らの追随を許さなかった。
誰の真似をするでもなく、スパイを送り込むわけでもなく、単純に古きマクドナルドの「QSC&V」を公共に与え続けることによってである。

我々の店に競争店からスパイが送り込まれてくることもあった。
急成長の柱となった、ある企業のフランチャイズ本部は、我々のオペレーティングマニュアルを入手した。
噂によると、自社のドライブインにハンバーガーとフライドポテトを取り入れて拡大することが目的であったらしい。
それに対する私の態度は次の通りだ。

「競争相手が私のスタイルの真似をしたり計画を盗むことは阻止できない。だが、彼らは私の脳内までは盗めない。だから彼らには一マイル半の距離を残しておいてやる」

p220

カリフォルニアでの成功がピークに達しようとしていた頃、マクドナルドでは初期計画や投資による収益を回収できるようになっていた。
一九六三年には、賃貸や購入物件からの収益がようやく生まれ始めた。

直営店の構築や運営についてのプログラムも三年目を迎え、ギアがかかり始めていき、利益が山のように高く積まれ始めた。

ハンバーガー大学はシステムとして社内に浸透し、一九六三年には認定されたフランチャイズオーナーやマネジャーたちを、コンスタントに各方面へと送り込んでいた。
送り込まれた先で、彼らは、品質、サービス、清潔感、バリューの信条を広めた。
クラスは平均二五人から三〇人までになり、二週間のプログラムを年に八回から一〇回ほど開いた。
また、ハンバーガー大学では、イリノイ州アリゾナにある我々の研究開発所が開発した新しい機材のテストや、機材使用についてのトレーニングなども行った。

ジューンの夫、ルイス・マルティーノが研究開発所を一九六一年に開いた。
彼はイリノイ州グレンエリンでの店舗経営の体験から、いまよりさらに精巧な機械設備や電力の補助が、商品規格を統一するために必要だと考えた。

彼の最初のプロジェクトは、フライドポテトの調理時間を計るコンピュータの開発だった。
我々は、それまではポテトの揚げ色や、油の泡の状態で揚げ頃を計っていた。
そこに規格ができれば、それは画期的なことだった。
というのも、ポテトを担当する人はそれぞれ独特のポテトに対する色などの見解を持っており、その結果、商品にばらつきが出てしまったからだ。
我々は、ルイスのコンピュータによって、当て推量ではなく、一回ごとにポテトに含まれている水分量に応じて、揚げている時間を修正することにより、フライドポテトを均一の状態に仕上げることに成功した。
また彼は、ケチャップとマスタードを、パティの上に同量に出すディスペンサーの開発も行った。
我々の掲げた、パティ用の牛肉は脂肪分が一九%以内でなくてはならないという規約は、実行が非常に難しく、多くのサンプルを持って研究所に行き、テストを行わなければならなかった。
しかし、ファットライザーの開発によりそれは大きく前進した。
それは非常にシンプルかつ精巧な機械で、フランチャイジーは自分の店で肉の脂肪分量を確かめられるようになった。
そして、一九%以上の脂肪が含まれていたら、彼はサプライヤーの配達を拒否できるようになったのだ。
この結果、サプライヤーたちは進んで品質を上げようと努力するようになった。

p228

組織の問題を解決するため、私は全国を五つの地域に分けた。
初めに一四州からなる西部地域をつくった。
ここがいちばん成長が速く、またシカゴから管理するのが最も困難だったからだ。
私はスティーブ・バーンズをエリアマネジャーに選んだ。

スティーブは一九六一年にルー・パールマンの会社からマクドナルドに入ってきた。
ルー・パールマン時代、彼はマクドナルドを担当し、ペーパー製品を卸していた。
一九六二年、カリフォルニアの食品リサーチ研究所のケン・ストロング(現所長)とともに、スティーブは冷凍フライドポテトを開発し、それが私の関心を引いた。

冷凍フライドポテトの考えは私にとって、非常に魅力的だった。
それは最高のポテト、アイダホラセットバーバンクスを継続的に供給できるということを意味し、我々がすべてのポテトを腐らせる心配をせずに買い占めることが可能となるからである。
輸送費も削減でき、四角い箱に入った冷凍ポテトは、一〇〇ポンドの袋に入った生のポテトより扱いが簡単になる。
そして、店においては、汚れて時間を取られる仕事が二つなくなるのだ。
皮剥きと、ブランチングという仕事が。

マクドナルドには、「おいしいフライドポテトは、生のポテトからしかできない」と信じている頑固者が何人もいた。
彼らにとって、皮を剥き、でんぷんを洗い流し、ブランチングをする行為は神聖なものと考えられていた。
彼らがそう考えるのは、私に大きな責任がある。
それを強く主張した張本人は私であり、ハンバーガー大学では、それを儀式化させたからだ。

だが、フランチャイジーが自分たちのポテトを自分たちで剥く、というのは、牛を自分でさばき、肉をミンチ化してハンバーガーを作る、というのと同じだ。
そこまで大げさではないとしても、ポテトの皮剥きというのはすでに大きな課題となっていた。
少なくとも、一店舗ではその作業が完全に不可能で、ほかにも数店はポテトの皮剥きのせいで深刻な困難に直面していた。
いずれも施設内にある肥だめが、地元の土との関係であまりよく機能していないことが原因だった。
ポテトはカーボランダムホイール(研削機)で剥かれ、皮は汚水処理に一緒に流れ、それが恐ろしい悪臭を放っていた。
どんなに臭う厩舎でさえ、ポテトの皮の発酵臭よりはまだましだろう。
客にしても、廃棄物の中に沈みかけているレストランなど、避けて通るのは間違いない。

我々のフライドポテトの品質はマクドナルドの成功の大きな要因であり、その成功を、基準に満たない冷凍ポテトによって危機にさらしたくはなかった。
そこで、冷凍食品のテストには力を入れ、品質管理が一定基準を満たさなければシステムに取り入れないと決めた。

同時期に、我々のビジネスに多大な影響を与えることになるもう一つの商品も開発されていた。
フィレオフィッシュサンドだ。
それはシンシナティのルー・グルーンが、知恵を振り絞っ生み出したものである。
私とハリーが、フランチャイズパートナーを見つけるのに悪戦苦闘していた最中、彼は我々と抜け目のない交渉を行い、そのエリアの独占権利を得ていた。
彼のいちばんの競争相手はビッグボーイズ・チェーンで、当時、市場を独占していた。
グルーンも奮闘してはいたが、毎週金曜日は惨敗だった。
シンシナティはカトリック信者の人口が多く、ビッグボーイズにはフィッシュサンドイッチがあったからである。
この二つの要因により、教会が肉の摂取を禁じる金曜日、マクドナルドはまったく商売にならなかったのである。

最初にルーが魚のアイデアを持ってきたとき、私は断固反対した。
「ありえない!法王がシンシナティに来たらハンバーガーを食べさせたらいいじゃないか。我々のレストランを、君の魚で臭くするなんて真っ平だ!」

だがルーはフレッド・ターナーとニック・カロスに、「我々は魚を売るか、店を売るかのどちらかを選択しなければならない」と迫った。
そして、フレッドらは調査に調査を重ね、最終的に私を納得させるプレゼンテーションを行い、私はそれに応じた。

アル・バーナーディン、当時の食品化学技術者は、ルーとともにどのような魚を使うべきか考えた。
オヒョウか、タラか悩み、最終的にタラにした。
特にこだわりはなかったが、タラという名前からは子供時代に嫌々飲まされたタラ肝油が連想された。
さらに調査すると北大西洋ホワイトフィッシュという名前で売り出しても法的に問題ないと判明したので、そちらを選ぶことにした。
このサンドイッチの開発には苦労を重ねた。
調理時間はどのくらいか、どのようなパンを使うか、厚さはどのくらいにしたらよいか、タルタルソースをどうするか、などである。
ある日、テストを行うキッチンで、アルが「ルー・グルーンの店の若いスタッフが、フィッシュサンドイッチとチーズを一緒に食べている」と話した。

「そうだ!」
私は大声を上げた。
「このサンドイッチに欠けているものはそれだ!一枚のスライスチーズだ。いや、半分のスライスチーズだよ」。
さっそく試してみると抜群においしかった。
これが、マクドナルドのフィレオフィッシュにチーズが入った経緯である。

我々は週に一度、金曜日に、限定エリアでの販売をスタートした。
だが、他店からも要望が殺到し、一九六五年に全店舗で販売を始めることとなった。
「人を釣り上げる魚」というキャッチフレーズの入った広告も展開した。
フレッド・ターナーとディック・ボイランの二人のカトリック教徒に言ってやった。

「まぁ見ていてくれ。魚の調理のために、マクドナルドはこれだけ投資したんだ。法王も規則を変えてくれるさ」

数年後、規則が変わっていなかったとしてもまったく問題はない。
それだけ、魚からの収益も上がるということなのだから。

私の味覚は鋭い。
フィレオフィッシュとチーズのように、世間に好まれそうな食べ物の組み合わせはたいていピンとくる。
しかし、時には外すこともあるようだ。
そのいい例がフラバーガーである。
私は、これはフィレオフィッシュより成功すると賭けていた。
フラバーガーとは、二枚のスライスチーズと焼いたパイナップルを、トーストしたパンにのせるというもので、私の大好物なのだが、実際、販売をしてみるとまったく鳴かず飛ばずであった。
ある顧客にはこう言われた。

「フラは好きだけど、バーガーはどこ?」

すべてがうまくいくとは限らない。

p264

一九六五年に南カリフォルニアに牧場を買った。
マクドナルド・セミナー用のセンターにし、同年にスタートした慈善事業の本部にしようとしていたのだ。
素晴らしい立地で、敷地内に山を見渡せる大きなロッジを建てた。
そして、ジョニと私はロッジの大きな石の暖炉の前で、一九六九年の三月八日に結婚したのである。

ついに、私は一人前の人間になれたような気がした。
私は自分に言い聞かせた。
少し人生を楽しんだほうがいい。
一人でもがき、奮闘する日々に終わりを告げようと。

だが、ビジネスは絵画をペイントするのとは違う。
最後の一筆を入れ、壁に掛けて楽しむのとは異なるものだ。
マクドナルドの本部には、壁の至る所にスローガンが掛けてあり、そこには「ビジネスは立ち止まったら終わる。一人ひとり、常に成長を心がけよ」と書かれてある。
マクドナルドを後退させてはならない。
フレッド・ターナーは経営手腕を発揮し、素晴らしい仕事をしていたし、それは充分に承知していたが、細部には私が確認すべき点が数多くあった。

多くの企業では、トップはいずれ名誉職へと移る。
名ばかりの取締役会長職が用意されている。
だが私は違う。
私はもう会議中に言い争ったり机を叩いたりすることはない。
それはフレッドやほかの役員の仕事だ。
私は椅子に深く座り、ビッグダディの役を演じて、聞かれたときにだけどう思うか言えばいいのだ。
だが、新商品開発と不動産開発についてだけは別だ。
私の得意分野があるとすれば、この二つだろう。
自分が決断できるという意味では、昇進したことでこれらの仕事はさらに楽しいものになった。

p274

ブレント・キャメロンについてもう少し言えば、私は彼との意見の相違を常にクリエイティブなものとして好意的にとらえていた。
彼がロスのエリア・スーパーバイザーだったとき、カリフォルニアのオフィスで我々はよくぶつかった。
彼とフレッドはいつも保守的な立場から物を言う。
私は自由派で、この違いが役員会議を意義のあるものにした。

私に異論を唱える人間はいつの時代も少数ではあったが存在し、私の新商品志向を、セールスの鬼だった私が、次に熱中している、ばかげた趣味だと思っていた。

「マクドナルドはハンバーガービジネスだ」と彼らは言う。
「クロックはなぜチキンを売ることを考えるのか?」
または「うまく機能している仕組みをわざわざ変える必要があるのか?」。

マクドナルドに新しく投入された商品がどれだけあるか、フィレオフィッシュやビッグマック、ホットアップルパイ、エッグマックマフィンなどを見れば、それは明白だ。
これらの商品の成功に異を唱える者は誰もいない。

興味深いのは、これらがフランチャイズオーナーのアイデアから生まれた商品だということだ。
会社は一人のオーナーの発明により利益を得、彼らは我々の広告力や企業イメージにサポートを受けている。
これが私の理想とする資本主義のあり方だ。

これらの商品開発に至ったきっかけは「競争」だった。
ルー・グルーンは、シンシナティのカトリック教区にあるビッグボーイチェーンと戦うためにフィレオフィッシュのアイデアを出した。
ビッグマックは、バーガーキングや、周囲の数多くの飲食店に勝つために作られた。
このビッグマックのアイデアは、ピッツバーグのジム・デリガッティによってもたらされたものである。

コネティカット州エンフィールドのフランチャイジー、ハロルド・ローゼンは聖パトリックの祭日用の特別ドリンク、シャムロックシェイクを開発した。

「ローゼンという名字の奴がアイルランド人の飲み物を考えるなんてな」

彼は真面目に言った。

「あり得る話だ」と私は言った。

「クロックという名前の奴がハワイアンのフラバーガーを開発したんだからな」

彼は何も言わなかった。
私が冗談を言っていることがわからなかったからだ。
創造的なメニューを考え出すのは何もフランチャイジーばかりではないと伝えたかったのだが。

ラージサイズのフライドポテトを考え出したのは、私の古い友人で、バラバン&カッツ・ムービー・チェーンの取締役でもあるデイブ・ウォラースタインだ。
マーチャンダイジングに長けている人物で、ディズニーランドに最初のスナックバーを導入し、現在はマクドナルドの社外取締役でもある。

彼はフライドポテトが好きだが、一袋では少なすぎ、二袋では多すぎると言い、我々は対策を考えていた。
すると彼が、家にいちばん近いシカゴの店で、ラージサイズの提供を始めてみたらどうかと提案し、我々はそのアイデアを即座に取り入れた。
その店には窓があり、いまではその窓は「ウォラースタイン窓」と呼ばれている。
マネジャーやクルーがその窓を見上げると、デイブがいつもラージサイズのオーダーの売れ行きを見るために覗き込んでいたからだ。

心配は無用だった。
ラージサイズはロケットのように爆発的な売れ行きを見せ、いまでは店のいちばんの売れ筋商品となった。
彼はマクドナルドの仕事に情熱を注いでくれた。
現役を退いて時間が有り余っている彼がいま最も気に入っていることは、私と一緒に飛行機に乗り、マクドナルドの店を見学に行くことだ。

ホットアップルパイは、マクドナルドの看板デザートを、長い時間をかけて開発している中で生まれた商品である。
私は、メニューに膨らみを持たせるためにはデザートが必要だと考えていた。
しかし、既存の製造システムにうまく乗り、なおかつ万人に愛されるデザートを作り出すのは至難の業だった。
初めはストロベリーショートケーキを試してみたが、売れ行きが良かったのは最初だけで、徐々に人気は下がり、最後にはまったく売れなくなった。
パウンドケーキにも希望を持っていたが、売れるには華やかさに欠けていた。
広告を行ったとき、ぱっと人の目を引く商品が必要だった。
あきらめようとしていたそのとき、リットン・コクランが西部で好まれている揚げたパイはどうかと提案してきた。
そして、周知の通り、ファストフード界の歴史に名を刻む結果となったのである。

マクドナルドにとって、ホットアップルパイと、その後にできたホットチェリーパイは、フィンガーフードとしての独自性と伝統を兼ね備えた、非の打ちどころのない商品だった。
パイは爆発的に売れ、会社の利益に著しく貢献した。
さらに我々は、冷凍パイの製造と供給のために新しい会社を立ち上げた。

一九七二年、クリスマス休暇でたまたま私はサンタバーバラを訪れていた。
現地のオペレーター、ハーブ・ピーターソンから電話があり、彼は私に見せたいものがあると言う。
それが何かは電話では教えてくれなかった。
断られたくなかったのだろう。
確かに、電話で聞いたらその通り断っていただろう。

それは突拍子もない提案だった。
ブレックファーストサンドイッチである。
テフロンの輪の中で焼いた卵を、黄身を崩して、チーズのスライス一枚とカナディアンベーコンで飾り、オープンフェースのトーストと、バター付きのイングリッシュマフィンとともに提供する。
目の前に出されたときは、とくに関心がなかった。
だが味見をした途端、即決した。
おいしかったのだ!
すぐにでもこの商品を全店に置きたかった。
現実的には不可能だったが。
我々のシステムの中にこの商品を組み込むのに実に三年かかった。
そしてフレッド・ターナーの妻、パティがヒット商品になる名前をつけた。
エッグマックマフィンだ。

エッグマックマフィンによって、マクドナルドに新たなるビジネスチャンスが広がった。
朝食ビジネスだ。
まるで第六艦隊が戦闘態勢に入るように、我々は迅速に行動に移した。
R&D部門、マーケティングと広告のエキスパート、オペレーションとサプライの専門家が一丸となって朝食ビジネスのプログラムに取り組み、私は浮き浮きした気分になった。

このビジネスにはいくつかの課題もあった。
朝食セットとして売り出すにはパンケーキが必要で、そうなると、パンケーキの商品開発を行わなければならなかったからだ。
だが、パンケーキの賞味時間は短い。
そこで我々は、まだオーダーが少ないうちは、オーダーが入ってから作らなければならなかった。
ハンバーガーやフライドポテト向けの、スピーディで効率的な生産ラインを、朝食用メニューのために緩め、再調整しなければならなかった。

プランニングから製造までのあらゆる問題から抜け出した後は、朝食メニューを導入するかどうかは各フランチャイジーに判断を委ねた。
導入すれば、労働時間がその分増えることを意味し、スタッフの数を増やさなければならないかもしれない。
専門トレーニングも行わなければならないだろう。

現在、朝食プログラムはゆっくりと実地店数を伸ばしている。
ゆくゆくは全米の店で展開されることになるだろう。
日曜のブランチのように、新たなニーズもあると思う。

ほかにも多くの実験的新メニューを導入している。
いくつかは、モデル店で実際にテストされ、近い将来に商品化される可能性がある。
ほかは、理由はそれぞれ異なるが、商品化されないだろう。
あらゆる実験に対応するテストキッチンと研究所が私の牧場にあり、数々の新商品がここでテストされている。
これはオークブルックにあるクリエイティブ施設に加えて造られたものだ。

フレッド・ターナーは、いつでも新メニューに懐疑的な態度を取り、皮肉な台詞でアイデアに水を差すのである。
たとえば、「それはいけるかもしれないですね。とはいえ、いつになったらバナナ焼きを作るのですか?メープルシロップの入れ物を添えるのもいいですね。夕食時には、火を灯しサーブするのも素敵ですよ」

こういった皮肉など私は気にしない。
フレッドが考えていることはわかるし、尊敬もしている。
彼は我々に新商品開発だけに熱中してほしくないのだ。
もちろん、そんなつもりはない。
ただ市場の変化に柔軟に対応できるようにしておきたいと思っている。

我々のアイデンティティを保つためにできることと、絶対にできないことがある。
たとえば、我々がピザを売ることは可能だ。
だが、ホットドッグは絶対に売らない。
その理由は、ホットドッグの中身は何が入っているかわからないからだ。
我々の品質を守るためには、そういった商品は置けないのだ。

役員の中には、地図に売り上げ別に色違いのピンを刺している者もいる。
私にはそんな地図はいらない。
そんなものはすべて頭の中に入っている。
どこにどういう店があるか、フランチャイズオーナーは誰なのか、売り上げはどのくらいか、問題点は何かといったことだ。
もちろん四〇〇〇店もの店があるので、フィールドコンサルタントや、エリアマネジャーのように日々の詳細なオペレーション内容はわからない。
だが私は不動産活動を通して、常に全店と携わり続けている。

p283

一九七四年、フォーティ調査社が七五ページにわたる、一九七九年までのマクドナルドの将来の成長展望を分析した書類を発表した。
そこには我々の経済的地位と、私自身も考えている不動産開拓の展開が記されている。

マクドナルドが成功した理由は、低価格でバリューの高い商品をスピーディかつ効率的に、清潔で居心地のよい空間で提供することだ。
メニューの種類は少ないが、そのほとんどが北米で認知された人気の高い商品である。
これらが、ほかのレストランのように経済の変動に左右される心配が少ない要因だ。

一九七〇年代初頭まで、マクドナルドは郊外を中心に拡大していた。
だが、最近では全国区の広告を展開し、国中から出店への要求が高まっている。
よって、マクドナルドは拡大プログラムをさらに進めることが可能となった。
現在、都市部には一〇〇店を超える店が進出しているが、それだけではなく、ショッピングセンターや大学キャンパスにまでマクドナルドは進出しており、そのほとんどが好調だ。
今後も多数の店舗がオープンする予定である。

マクドナルドは、人口が集中しているところならば、どこに出店しても成功できると我々は考える。
たとえば郊外や都市部。
また、学校、ショッピングセンター、公園、スタジアムといった場所でも、売り上げをはじき出すだろう。
それは「隅から隅まで」というタイプの拡張であり、マクドナルドは、アメリカの食文化に根差すという成功を収めたことにより、今後も継続的に成長していくだろう。
一九七九年まで毎年四八五店がオープンし、世界的にも発展していくと見ている。

「隅から隅まで」。
その通りだ!
国内には数え切れないほどの「隅」があり、我々はもちろんそこへ進出するつもりだ。

マクドナルドのフランチャイジーになるにはどうしたらいいのか?
一〇〇%のエネルギーと時間を投入する覚悟があることが何より大切だ。
頭脳明晰である必要はなく、高校以上の学歴もいらないが、マクドナルドへの情熱と、オペレーションに集中する力が不可欠だ。

フランチャイジーの価値は過去数年で飛躍的に上がった。
一九五五年、九五〇ドルでスタートし、一〇年後、株式公開した際の平均投資額は八万一五〇〇ドルだった。
現在では、フランチャイズ加盟とそれに関わる出資は、器具、家具類、看板、そのほか、ローンなどの利子や経費を除いた金額として、二〇万ドルにまで跳ね上がった。

フランチャイジー応募者は、最初の面接で、マクドナルドがフランチャイジーに求めるものと、与えるものについての説明を受ける。
出資費用と、システムに関する説明を聞いた後にもまだフランチャイジーに対する意欲が失われていない場合、応募者の家の近くにあるマクドナルドで働くことが義務付けられる。
ここで、応募者の仕事と重ならないよう、夜または週末に働きながら、現場のクルーの仕事とマネジメントの両方を学んでもらう。
万が一、マクドナルドのオペレーションに彼の性質がそぐわない場合、それはこの時期にチェックすることができる。
この経験と、彼の地域のライセンスマネジャーとの話し合いの結果、四〇〇〇ドルのデポジットを支払い、彼がどの地域で店舗を開く可能性が高いかの説明を受ける。
以前と比べ、フランチャイジー応募者のリストに入るのは狭き門となった。
我々は現行のフランチャイズオーナーや、十数年来の社員を優先的に配慮するからである。

候補地が挙がってきたら、応募者に知らせる(たいてい登録から二年以内だ)。
候補地に納得すると、さらにマクドナルドで働いてもらい、昔の仕事の癖抜きなどをしながら、頻繁に連絡を取り合う。
さらに家を売り、店が建つ地域に新しい家を購入し、マクドナルド店でさらに五〇〇時間働くことを申し付ける。
オリエンテーションや、マネジメント講座にも出席してもらう。
店のオープン四~六カ月前には、ライセンス保有者はハンバーガー大学に出席し、より高度なマネジメント技術を学ぶ。
ここでマネジメントスキルや、最初の客を迎えるときに必要なオペレーションのノウハウを知ることになる。

こういったすべての準備やトレーニングは、マクドナルドでのフランチャイズ事業の成功を約束するものになる。
もちろんこれで終わるわけではない。
我々は、エリアマネジャーを通じて、常に彼をサポートしている。

レストラン開発、トレーニング、マーケティングアドバイス、商品開発、そして商品パッケージングにまで行き渡る調査、これらすべてが相互に関係しながら、全国に展開する広告と継続的な監視により、値段のつけられないサポートシステムが形成される。
これらに対し、フランチャイジーは売り上げの一一・五%を企業に払う。
私はこの金額を良心的な設定と考えている。

我々のフランチャイジー第一号、アート・ベンダーは、売り上げの一部をマクドナルドに支払うのをやめて、独立してレストランを開いたらよいのにとよく言われるそうだ。
レイ・クロックにビジネスを教えられたのだから、自分で開くのは簡単なのではないかと。

「レストランを成功させることはできるかもしれない」とアートは言う。
「だが、いまマクドナルドから受けているサポートを、個人で調達するということを考えなければならない。
それにマクドナルドというブランド。
全国にアートの店と広告するかって?
やめてくれ。
購買力も必要だし、マネジャーのトレーニングのためにハンバーガー大学、商品開発……。
一人でどうやって賄えっていうんだい?」

p305

我々はサンフランシスコの労働組合との戦いで、「衝撃的な嘘」をついたと糾弾されたこともあった。
それは、言い換えれば、我々がいい加減なことをしていない、ということだ。
いつだって敗者になるのは衝撃的だ。
私がアリオト市長に「三店目のマクドナルドをサンフランシスコに開くためには、何をすればよいですか?」と聞いたと報道された。
だが私はそんなことは断じて言っていない。

これは、いままでに失敗を犯したことがないと言っているわけではない。
失敗について、おそらく一冊分の本が書けるだろうが、あまり興味深いものにはならないだろう。

ハリー・ソナボーン、ジューン・マルティーノと私でシカゴ南部のビアガーデンレストランに投資したことがあるが、失敗に終わった。
独自に高級ハンバーガーレストラン、レイモンズの経営に乗り出したこともある。
ビバリーヒルズとシカゴに一店ずつ出店したが売れなかったので、損失を切り離して、すぐに店を畳んだ。
レイモンズから学んだことは大きく、現在人気の高い都市型マクドナルドのプロトタイプになった。
レイモンズの問題点は、私が頑固に、限られた取引の中で、高品質にこだわったことによって、ホットドッグの皮のように収益を薄くしてしまったことだった。
カリフォルニア時代に立ち上げたベンチャー、ジェーン・ドビンズ・パイツリー・チェーンについても同じことがいえる。
素晴らしいアイデアで、パイも最高だった。
だが最高すぎて、売れば売るほど破産した。

私はマクドナルドに数々の失敗をもたらしてきた。
すでに、フィレオフィッシュによって貪り食われた不運なフラバーガーのことは詳しく書いた。
ルー・グルーンはいまも、チャンスさえあれば、そのことで私をからかう。

ローストビーフはまた別の失敗だ。
最初はとても興奮していた。
だが、ローストビーフは我々の業務形態では困難な食材だった。
数店では売れたが、システムに取り入れることができなかった。
ローストビーフの失敗は、我々に検査の必要条件について学ぶ機会を与えた。
私が常にそうであり続けたように、大きなリスクに挑戦するつもりならば、こういった経験は重要だ。
失敗は避けられない。
失敗したときは、その経験から学べばよいのだ。
ローストビーフに関しては、こうした教訓を学べたので、失ったもの以上の見返りを得られたといっていい。

多くのウスノロたちがすでにベラベラとしゃべっているもう一つの失敗について、仕方ないので話すとする。
一九七二年のニクソン大統領への二五万ドルの献金についてだ。
ニクソン陣営の資金調達者、モリー・スタンに言いくるめられた私は、後になって間違った理由で献金してしまったことに気づいた。

私の動機はニクソン支持というよりは、反ジョージ・マクガバンの立場から来ていた。
ネガティブな行為からポジティブな結果は生まれないという自分のポリシーに反していることに、当時は気づかなかった。
この寄付において最悪だったことは、どこかの馬の骨が、私の動機は当社の製品、クオーターパウンダーの価格を、連邦物価統制委員会に好意的に扱ってもらうための行為だと噂したことだった。
私の友人でもある弁護士のフレッド・レーンが言うように、「この件はウォーターゲート特別調査委員会、政府会計部、司法省、下院訴追委員会によって調査されたが、不正は発見されなかった」のだ。
彼の言葉を使わせてもらうのは、私の言葉は印刷に適さないからだ。

ダートマス大学での講義で、ある学生が私に、マクドナルドの役員たちには自分と同じ政治観を持つよう要求するのかと質問した。

「私が答えます」とフレッド・ターナーが間に割って入った。
「クロックはニクソンに投票し、私はマクガバンに投票した」

「その通り」と私は付け加えた。
「そしてどちらも間違っていた」。
笑いが収まった後、さらに私は付け加えた。

「もし二人の役員が同じ考えを持っているなら、もう一人は余計だ」

誰かがマクドナルドや私に対し、いい加減な記事で攻撃を仕掛けてくるたびに、私は激怒し、罵る。
そして、敬服するハリー・トルーマンの言葉「熱が我慢できないならキッチンを去れ」という言葉の通り、私はまだキッチンから出るつもりはない。
フライ返しを置く前に、マクドナルドのためにやりたい計画はまだまだあるからだ。

p321

マクドナルドにおいての個人の成功物語とは、決して教育ではない。
信念だ。
これは私のお気に入りの説教へと続く。

やり遂げろ―――この世界で継続ほど価値のあるものはない。
才能は違う――才能があっても失敗している人はたくさんいる。
天才も違う――恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世にいる。
教育も違う――世界には教育を受けた落伍者があふれている。
信念と継続だけが全能である。

p325

ダウンタウンシカゴの開発を始めると決めたときはうれしかった。
私の古巣へ戻ってこられたのだ。
市の候補地のことなら知り尽くしている。
そこへ行く輸送路、歩行者数など。
たいていは、誰が所有者で何年所有しているのかも知っている。
ディストリクトマネジャーのジャック・オライリーに言ったように、三五年も同じ街でペーパーカップとマルチミキサーを売り歩いていたら、たいていのことは覚えるというものだ。
自分の客に、より良いサービスを行う気があるのなら、地下のレイアウトや、脇道のアクセスがあるのかなど微細に至るまで調べるのが普通だろう。
そういう人たちには在庫のさばき方や、物流のアイデアを教えてあげられるかもしれない。
それが私がいつもしてきたことで、詳細な知識の結集となり、それはマクドナルドに還元できている。
自分の仕事にこのような姿勢で向かえるのなら、人生に打ちのめされることはない。
これは取締役会長から皿洗い長に至るまで、すべてのビジネスマンにいえることだ。
「働くこと、働かされること」を楽しめなければならない。

いまのアメリカの若者には、仕事を楽しむ方法を学ぶ機会が与えられていない。
この国の社会的、政治的哲学は人生から一つずつ、リスクを取り除くことを目標としているようだ。
ダートマスでのスピーチで若い学生たちに伝えたように、誰かに幸福を与えることは不可能だ。
独立宣言にもあるように、唯一できることは、その人に幸福を追う自由を与えることだ。
幸福とは約束できるものではない。
それはどれだけ頑張れたか、その努力によって得られる、その人次第のものなのだ。

幸せを手に入れるためには失敗やリスクを超えていかなければならない。
床の上に置かれたロープの上を渡っても、それでは決して得られない。
リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もないのだ。
我々が進歩するためには、個人でもチームでも、パイオニア精神で前進するしかない。
企業システムの中にあるリスクを取らなければならない。

これが経済的自由への唯一の道だ。
ほかに道はない。

ボーダフォン買収に真っ先に賛成した柳井さん p348

――ソフトバンクの社外取締役に藤田さん、柳井さんが入ったのはどういう経緯でしょうか?


藤田さんは日本を代表するベンチャー企業家ですし、また、ユダヤ的経営を知っている企業家でした。
あの頃、日本ではユダヤ的経営について批判的な意見がたくさんあったと思うんです。
それなのに藤田さんは堂々と「ユダヤ商法のすばらしさ」を語っていた。
勇気のある経営者でした。
ですからお願いしました。

――藤田さんは孫さんの依頼に対して、どう応えたのでしょう?


即決でした。
むろん、高校生のときに私が訪ねていったこともよく覚えていて、「僕が孫君のお役に立つのなら喜んでお受けしたい」と。
藤田さんは豪快で愉快な方でしょう。
役員会で話しだすと止まらないんです。
でも、真髄を突くような意見をびしっと発言されていた。

柳井さんは私にとって尊敬する経営者ですから、お願いしました。
ただ、柳井さんは現役だし、経営の先頭に立っている方でしょう。
逡巡もあったのですが、ソフトバンクにとって必要な方だからどうしても入ってほしかった。

それまでソフトバンクは一般の消費者に直接、商品を売るといった経験は少なかった。
しかし、ブロードバンドに進出すると一般消費者を相手にしなくてはならない。
それにはユニクロの柳井さんの知恵を借りなきゃいけないと思ったのです。

柳井
ソフトバンクの役員会は活発ですよ。
外から見ていると、ソフトバンクという会社は孫さんがひとりで全部決裁しているような印象がある。
だが、実際の役員会はみんなが議論して、物事を決めている。
ソフトバンクの役員会に出ていると、孫さんは人の意見に耳を傾ける経営者だと感じます。


役員会だけじゃなくて、私は自分の部屋に若い社員を呼んで、長い時間、議論したりする。
なかなか外にはそういったイメージが伝わっていないけれど。

柳井
それはいけない。
そこは直さなきゃ。


そうですね。
確かに。
柳井さんは役員会で私が案件を説明すると、たいてい反対する(笑)。
投資としては高すぎるからやめておけとか、持ってる資産を早く売れとか……。
ただ、ボーダフォンを買収すると発議したときは真っ先に賛成してくれた。
早く買うべきだと発言された。

柳井
そうです、僕はあの案件には賛成しました。
あれは今後のソフトバンクにとって絶対に必要なものです。
買わないことのリスクのほうが高いと判断しました。
だって、ソフトバンクはすでに通信の闘いのなかにいる。
これから攻めていかなきゃならないのに、武器を買うか買わないかなんて話をしていたら闘いにならない。

まあ、話を戻すと意見を自由に言える社風は大切です。
僕はいつも言うのだけれど、社長の指示した通りに現場の社員が実行するような会社は間違いなくつぶれます。
現場の人間が「社長、それは違います」と言えるような会社にしておかないと知らず知らずのうちに誤った方向に進んでしまう。
ただし、現場の社員は社長が本質的に何を指示しているのかを理解しておくこと。
それを現場の判断で組み替えていくのが仕事なんです。


役員会や社内会議でよくありがちなのは肩書が上の人の意見が通ってしまうこと。
ある意見に対して、正しい、間違っているという判断でなく、「これは社長の意見だから、あれは部長が言ったことだから」と通してしまうと、誰も意見を言わなくなる。
新入社員の発言でも、それが正しいことならば会議を通るという体質にしておかないと、会社は成長していきません。

一、成功者の発想法――商売の神髄はbe daring, be first, be different p356

「ハンバーガーのメニューはたった二種類で、ハンバーガーとチーズバーガーだけだ。
ハンバーガーの肉はフライドポテト同様一〇分の一ポンドで、価格もともに一五セント。
チーズバーガーは四セント増し。
ソフトドリンクは一〇セントで、一六オンスのミルクシェイクは二〇セント、コーヒーは一杯五セント、これがメニューのすべてだった」

「突然私の脳裏に、マクドナルドの店舗を、国中の主要道路に展開させるという考えがひらめいた。
各店に置かれた八台のマルチミキサーが、ブンブン音を立てながら休みなく働き、お金をかき出してくれる。
何とも魅力的な商売ではないか」

「我々はマクドナルドを名前以上の存在にしたかった。(中略)
特定の店舗やオペレーターのクオリティによって顧客を増やすのでなく、どの店に行っても同じサービスが受けられるというように、マクドナルドのシステム自体に対するリピーターをつくりたかった」

この言葉はいずれもレイ・クロックがマクドナルド兄弟のハンバーガー店と出合い、全米チェーンに発展させていく過程で出てきたものです。
驚くことに、レイ・クロックがファストフードのハンバーガーチェーンを構想したのは五二歳のときでした。
日本のビジネスマンなら定年後のことを考える年齢です。
私はこのときの彼の姿にアメリカの資本主義を感じてしまう。
いくつになっても成功を目指し、起業をためらわないというのがアメリカンドリームを信じる男の姿なんです。

彼の前半生も面白い。
紙コップのセールスマン、ラジオ局のピアノ弾きなどを経てミルクシェイクを作る機械、マルチミキサーの会社を立ち上げた。
そんなレイ・クロックがセールスの途上で出合ったのがマクドナルド兄弟のハンバーガーレストランだったのです。
マクドナルド兄弟の店はそれまでの飲食店と違い、メニューを絞り、効率よく、しかもシステマティックに運営されていた。
レイ・クロックは一目見た途端、マクドナルドを全米チェーンにしようと構想したわけです。
何とも楽天的な人だなと思ってしまう。

ここで見過ごせないのは彼が飲食業のプロではなかったことです。
アウトサイダーとしての客観的な目で事業の将来性を見抜いた。
それが彼の才能ともいえる。

そんなレイ・クロックは私にとって恩人といえる……。
彼が残した「Be daring(勇気を持って)、Be first(誰よりも先に)、Be different(人と違ったことをする)」という言葉は商売の神髄を表すものだと思いました。
初めて読んだとき、手帳に書いて、何度も何度も眺めたくらい。

さらに、レイ・クロックが始めた「いつでもどこでも誰でも食べられる」というファストフードのコンセプトに触発されて、私も「いつでもどこでも誰でも着られる」チェーンをつくろうと思いたちました。
ファーストリテイリングの「ファースト」はファストフードから取ったものなんです。
以後も、マクドナルドのシステムはずいぶんと研究しました。

「完全なシステムを初めから考えつく人もいるが、私はそのような全体構想パターンでは考えず、まず細部を十分に検討し、完成させてから全体像に取り掛かった。
私にとってはこちらのほうがはるかに柔軟性に富んだアプローチだったのだ」

「私は細部を重視する。
事業の成功を目指すならば、ビジネスにおけるすべての基本を遂行しなくてはいけない」

同じくレイ・クロックの言葉ですが、これを読むと私はクロックよりも、むしろ日本マクドナルドの創業者、藤田田さんを思い出します。
きっと、藤田さんもレイ・クロックから大きな影響を受けたのでしょう。
だから、発言も似てくる。

二、失敗を乗り越える力――原理原則を「知る」ことと「わかる」ことは違う p360

「幸せを手に入れるためには失敗やリスクを超えていかなければならない。
床の上に置かれたロープの上を渡っても、それでは決して得られない。
リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もないのだ。
我々が進歩するためには個人でもチームでも、パイオニア精神で前進するしかない。
企業システムの中にあるリスクを取らなければならない。
これが経済的自由への唯一の道だ。
ほかに道はない」

失敗とどう向き合うかは大切です。
成功者を見ていると、レイ・クロックに限らず、誰もが事業の失敗をちゃんと受け止め、そうして前進している。
マイクロソフトのビル・ゲイツは「You must worry」と強調している。
これは「悩みなさい」という意味でしょう。
つまり、社員一人ひとりが悩み、壁にぶつかってみなければ成長はないということを言っているのです。

「ひょっとしたら自分の仕事は失敗の範疇に属するのではないか、いまやっていることよりもさらにいい方法があるのではないか」と常に自らに語りかけながら仕事をしていかないと進歩も成長もありません。
自分が達成した少しの成功に甘んじていたらそこでおしまい。
「オレの仕事は間違ってない」と盲信したり、「自分はビジネスでは連戦連勝だ」とうそぶいている人たちは成功の基準が低いんですよ。
だから、失敗していることに気づいていない。
それこそ問題です。

僕は数々の失敗をしてきました。
ニューヨーク郊外のモールへの出店は提案を聞いたとき、「うまくいかないんじゃないか」と思いました。
だが、ゴーサインを出し、最終的な失敗の責任は自らが負うと覚悟を決めました。
そうして出店したものの、ものの見事に失敗しました。

また、その前に、野菜のビジネスに進出したときも失敗した。
本来、新しく始める事業とはユニクロの力が生きる業種、もしくはプラスの相乗効果が望める業種でないといけない。
そうでなければ新しい事業に進出する意味はない。

これ、当たり前のことです。
原理原則です。
僕も一応は原理原則だと知っていました。
けれども本当の意味では、この原理原則を「わかっていなかった」。
わかるというのは身に沁みることです。
自分で体験して、これが原理原則なんだなと実感しない限り、その後の行動指針にはなりません。
僕は「知った」のでなく、「わかって」よかったと思ってます。

本に書いてあることを読むのと、実際にやってみることの違いは大きい。
本で読んだり、他人に聞いても、本当の意味はわかるものじゃない。

そして、一度は失敗しても、また次の成功を目指すのが経営者の仕事です。
レイ・クロックはそうやって体験を積み重ねてきたから、マクドナルドを成功させることができたんじゃないでしょうか。
成功者とは失敗を体験して、それでいて楽観的に前進していく人のことです。
僕はそう思う。

僕のこれまでを考えると失敗の連続です。
連戦連敗といってもいい。
ただし、致命的な失敗はしていない。
「ここまでの失敗なら耐えられる」と自分の力が及ぶ範囲で挑戦してきたので、どうにかやってこられたのです。
そして、失敗とわかった後は素早く撤収しました。
失敗のまま事業を継続したら、働いている従業員を将来性のないものに縛ることになる。
彼らの人生を無駄にはできない。
私たちは限られた資源や条件の中で事業をしています。
成長しない事業に人材を投入する余裕はない。
失敗とわかった後はすぐに切り上げること。

p364

「私は、職権というのはいちばん下のレベルにいる人の手にあるべきだと常に考えていた。(中略)
それが人々を企業とともに成長させる唯一の方法なのだ」

経営者が会社を私物化し、エゴイズムを通すのはいけない。
まったくその通り。
レイ・クロックの言う通りです。

僕は座右の銘を教えてくれと頼まれたとき、こんなことを書きます。
《店は客のためにあり、店員とともに栄える。店主とともに滅ぶ。》

店は客のためにあるという部分はよく知られている。
しかし、それだけじゃ足りない。
客を大切にして店員と心を合わせれば店は大きくなる。
しかし、店主がエゴを持ち出して、店を私物化した途端に滅びてしまう。
家族を役員に入れたり、社員を召使のように使うようになってはいけない。
当たり前のことなのだけれど、これもまたわかっていない経営者が多い。
会社が駄目になるのは経営者の心がけです。

三、リーダーシップ――お客様に配ったアンパンと牛乳への想い p365

「あきらめずに頑張り通せば、夢は必ず叶う」

「もちろん、努力もせず手に入るものではない。(中略)
好き勝手にやればいいというわけではない。
リスクへの覚悟が必要だということだ。
ひょっとしたら一文無しになるかもしれない。
けれども、一度決めたことは、絶対にあきらめてはならない」

「マクドナルドは誰にでも成功を授与するわけではない。
ガッツとそれを持続させる力が我々のレストランで成功するためには必要だ。(中略)
常識を持ち、目標に向かっていく強い信念と、ハードワークを愛せる人物なら誰でもできるのだ。(中略)
マクドナルドの店を持ち真剣に働くものは、誰もが成功し、間違いなく億万長者になるだろう」

ユニクロは二〇一〇年に売り上げを一兆円にすると言いました。
そう言った以上は達成しなくてはならない。
ですが、一兆円は終着点ではありません。
あくまで過程です。
一兆円を超えても成長し続ける会社にすることが目的で、一兆円を達成したら、そこで終わりという意味ではない。

会社は無限の成長をしない限り存在意義はない。
私はそう考えています。
そうでないといつのまにか組織が老化し、腐敗してしまう。

レイ・クロックはこの本の中で「未熟でいるうちは成長できる。成熟した途端、腐敗が始まる」と言っています。
会社は常に未熟で、しかも成熟へ向かっているときが会社にとって健康な状態なんですよ。

「リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もないのだ」

リーダーシップとは決してあきらめないことでしょう。
困難に突き当たっても経営者はあきらめてはいけない。
あきらめることイコール会社が潰れることです。

真剣に企業経営している人は「ひょっとしたらオレの会社は駄目になるかもしれない」という危機感を持ちつつやっています。
そして、経営者なら誰もが「金がない」という現実と直面したことがある。
どれほど優良企業といわれているところでも、経営者はそうした体験をしているはずです。
それが当たり前。
では、どうやって、金のない時期を乗り越えていくか。
それはこつこつ金を貯めて、自分の信用力を高めるしかない。
一攫千金を狙って訳のわからない投資をするなんてことは馬鹿げたことです。
我々のような小売業では日々の小さな単位の金が貴重です。
そうした金を少しずつ積み重ねていくしかない。

四、成長する組織づくり、人材づくり――なぜ、高学歴社員だけでは駄目なのか p369

「仕入れに関して、我々は一切口を出さないということだ。
店舗が成功するためには力を尽くして手伝う。
それが私の収益にもつながるのだから。(中略)
パートナーのように扱う一方で、商品を売り、利益を追求するのは相反する行為だと私は考える。
サプライヤーになってしまえば、自分の利益のほうが心配で、向こうのビジネスの状態などは二の次になってしまうだろう。
自分の収益を上げるために、商品の品質を下げることも考えるかもしれない。
そうなれば、フランチャイズは損害を被り、長い目で見れば、その損害は自分たちにも返ってくる結果となる」

レイ・クロックという人は本質を見抜く人です。
この話も「本部はフランチャイズへ送る商品から利益を上げるな」ということでしょう。
フランチャイズへ送る商品に多額の利益を乗せていたら、現場はやる気がなくなります。
それならフランチャイズに加盟している意味はないと独立してしまうケースもあるでしょう。
長い目で見ると、本部とフランチャイズが固く結束して商品を売っていくことが利益に結び付く。
むろん、ちゃんとした経営者ならばレイ・クロックと同じように考えるでしょう。

ここで問われるべきなのは本質を見抜く力や真の経営能力をどうやって身に付けるかでしょう。

経営に携わっていない時点から経営者の意識を持って仕事をすること。
それだけです。
経営とは自分の仕事や会社の事業が顧客に何をもたらしているかを考えることです。
経営者の視点で自分なりの判断を下していくことが訓練になる。

僕も父親の会社を継ぎ、衣料品の世界でやっていく、と決めてから勉強を続けました。
あの頃は年商が一〇億円、三〇億円だったけれど、その規模の経営者以上の勉強をした。
とにかく成長したかったからです。
そのために経営を考え、組織をつくり、人材を見つけてきました。
目標は高く、視線を上げて仕事をすることです。

「世界には教育を受けた落伍者があふれている」

「天才はだめだ。
報われない天才は、問題児ときまっている。
秀才もいかん。
この世は成功できない秀才がうじゃうじゃいる。
学歴だけでもだめだ。
どこもかしこも、学歴の高い怠け者ばかりだ」(ともにレイ・クロックの発言。『ザ・フィフティーズ』D・ハルバースタム著より)

レイ・クロックは決して大学卒を認めていないわけではない。
学歴で自分を飾るな、自分ができることは何なのかを謙虚に見つめろと言いたいのでしょう。

「MBAを持っている。ユニクロで経営に携わりたい」

そう言ってくる人が大勢います。
実際に面接して、「何ができるの?」と聞いていくと、ほとんど具体的に説明できない。
MBAを取ったということだけを繰り返す……。

MBAは資格です。
他人より少しは早く経営者への入り口に立てるかもしれない。
しかし、MBAを持っているからといって、その人が経営のプロであるとは限らない。
むしろそうでない場合のほうが圧倒的に多い。

MBAを持っていると自慢する人に限りませんが、頭のいい人って、自分の考えがすべてと思いがちです。
なかなか他人の意見を受け入れようとしない。

けれども実際に仕事をするには他人の意見に対する理解力が必要なんです。
自分の視線だけで世の中を眺めるのでなく、上の人の視線になって想像する場面もあれば、下の人の視線で考えることもある。
寛容性や他人への共感がないとビジネスの現場は回っていきません。
いろいろな人に会って、いろいろな考え方を知ること、いろいろな現象を分析する能力がなければ経営はできない。

藤田田さんも同じようなことを言っています。

「ビジネスマンならば庶民に会え。庶民の視点で考えろ」と。

ビジネスマンで有名人が好きな人がいるでしょう。
「オレはこんな芸能人を知っている。あの有名経営者とは懇意にしている」と主張する人……。
藤田さんはそういう人間を「バカじゃないか」と一喝する。

「自分のスノッブ精神を満足させるために有名人と交際するやつはビジネスの意味をわかっていない。
世の中で金を使うのは庶民だ。
庶民と会って、庶民の生活を知ることが金儲けへの道だ」

確かにマーケットを知るとは世の中の大多数を占める一般消費者の生活を実感することです。
有名人の友達になることに血道をあげるのは意味がないことでしょう。

「大企業の上に立つ者には、背負わなければならない十字架がある。
そこに上り着くまでに、多くの友人を失うことになる」

レイ・クロックも後継者やビジネスパートナーについて悩んでいたようですが、実は僕は後継者を一人考えています。
だが、彼は九九%まではいいのだが、最後の一%が足りない。
足りないところ?
頭が良すぎるというか、部下の立場まで下りていって本音を引き出すことにやや欠けている。
まだ若いから今後、変わっていくでしょう……。

僕と似ているところも多いんですよ。
頑固だし、言い出したら引かないし。
そして、原理原則で考え、実行する。

ただ、会社のオーナーは一人の後継者をつくるだけではいけない。
社内に経営者のチームを育てなくてはならない。
組織や仕組みで会社が成長を続けていけるようにする。
一人の優秀な経営者を待ち望むよりも組織自体を確実にするほうが正しいように思います。

五、ヒットの作り方――売れるブランド、売れる営業の相関関係 p374

「マクドナルドに新しく投入された商品がどれだけあるか、フィレオフィッシュやビッグマック、ホットアップルパイに、エッグマックマフィンなどを見ればそれは明白だ。(中略)
興味深いのはこれらがフランチャイズオーナーのアイデアから生まれた商品だということだ」

マクドナルドは現在、世界で約三万店あり、一日に五〇〇〇万人来店するそうですから、その半分としても二五〇〇万個ものハンバーガーが売れていることになります。
しかし、ヒット商品ってそういうものなんですよ。
商品の名前が有名になったのがヒット商品じゃなくて、実態としてとてつもない数が売れ続けているものがヒットなんです。

ユニクロでは現在、年間四億点の商品が売れています。
ほとんどの商品が何十万点、何百万点というオーダーで売れる。
なかには一千万点以上も売れる商品もある。
そうなってくると、売っている最中はニーズに対応することで精いっぱいですよ。
以前、フリースが爆発的に売れたとき、ある評論家から「ユニクロはフリースをコントロールして売るべきだ。そうすれば長続きのするヒットになる」なんて言われました。

「何を言ってるんだ」というのが僕の胸中でした。
商売とはモノを買いに来たお客さまがいたら売るのが基本中の基本。
目の前にお客さまがいるのに商品を出さないなんてことはできません。
「売らずに倉庫に置いておけ」とは現場を知らない人が言うこと。
よほどニッチな商品でもない限り「売るのをコントロールする」ことはできません。

ヒットする商品をどう作るかに関していえば、ユニクロでは日々、開発しています。
開発部隊がいますし、むろん僕や社員も考えている。
なかなか難しいことですが…。

世の中には商品が溢れ返っています。
ほとんどの商品は売れないと思ったほうがいい(笑)。

では、どんなものが売れているかといえば、売る側が信じて売っているものです。

「これ買ってください。これは絶対いいものです」

そう断言できる商品は売れます。

反対に「これ、ちょっとまずいな」と感じた商品は売れません。
お客さまはシビアです。
商品と自分のお金を交換するわけだから、お金にふさわしい価値があるかないかを瞬時に見抜く。
ですから、絶対にだますことはできない。
もし、お客さまをだまそうとすれば必ず大きなしっぺ返しに遭います。

「我々のアイデンティティを保つためにできることと、絶対にできないことがある。
たとえば、我々がピザを売ることは可能だ。
だが、ホットドッグは絶対に売らない。
その理由は、ホットドッグの中身は何が入っているかわからないからだ。
我々の品質を守るためには、そういった商品は置けないのだ」

よく、ヒット商品、ブランドというと他社と違ったネーミング、パッケージ、宣伝戦略を取ればいいと考える経営者がいます。
それは根本的に間違っている。
いくら金をかけて宣伝をし、ネーミングに凝り、美しいパッケージにしても、それを買った消費者が商品の良さを実感しない限りヒットにはなりません。
ましてブランドにはならない。
売れる商品とは、誰もがまだ作ってはいなかったもの、また買いたいと思わせるものです。
レイ・クロックが作った「マクドナルドのハンバーガー」は当時、ほかのレストランが出していたハンバーガーよりも、安く、早く食べることができ、しかもおいしかったのです。
だからヒットした。
ほかのレストランが作っていたのと同じ質と値段のハンバーガーだったら、これほどの世界的商品にはならなかったのではないでしょうか。
宣伝やパッケージのことばかりに頭を悩ますよりも、商品の実体を作ること。
消費者が注目するような商品を開発することです。

六、ライバルとどう戦うか――なぜレイ・クロックはゴミ箱を見るのか p379

「競争相手のすべてを知りたければゴミ箱の中を調べればいい。
知りたいものは全部転がっている。
私が深夜二時にゴミを漁って、前日に肉を何箱、パンをどれだけ消費したのか調べたことは一度や二度ではない」

「そもそもこの業界を産業と呼ぶなんて、ちゃんちゃらおかしい。
そんなご大層なものじゃない。
鼠と鼠が、犬と犬が食い合う世界だ。
こっちがつぶさなくては、自分がつぶされる。
だから今後も手を弛めるつもりはない。
これがアメリカ流適者生存の法則ってやつさ」

「相手が溺れかかっていたら、そいつの口に注水ホースをねじこんでやるね」(後者二つの発言は『ザ・フィフティーズ』より)

レイ・クロックのレトリックは藤田さんに似たところがあります。
偽悪家というか自分を悪役にして人をあっと驚かせることに快感を感じる人のように思います。
きっと悪役になった自分を楽しみながら見ているのでしょう。
この言葉なんて、その最たるものじゃないかな。
しかし、彼のファイティングスピリットには敬意を表さざるを得ません。

僕は競争相手に勝とうとするのならば同じ土俵に上がっては駄目だと思っています。
自分だけのポジションを新しくつくること。
そこを大きく伸ばしていくしかない。

マクドナルドだって既存のレストランを競争相手にしたわけじゃないでしょう。
レイ・クロックは「いつでもどこでも誰でも食べられる」ハンバーガーを作り、それを新しい商品として世界に広めていったわけです。
同じ町のレストランに勝とうといった精神では世界企業にはなれません。

ユニクロもファッション業ではあるけれど、これまでのファッション、これまでのカジュアル衣料とは違った意味の新しい商品を作り出してきた自負を持っています。

ユニクロが初めて郊外店を出したとき、それまでよりも家族連れのお客さまが増えました。
僕が見ていたら、若い男性向けに作った服を中年男性や若い女性が次々と買っていったのです。
供給する側が分類した「メンズ」商品にこだわることなく、自分のスタイルに合う快適な服だと感じたのでしょう。
だから中年男性も若い女性も買ったのです。
以来、私はカジュアルの意味は変わったと思いました。

それまでのカジュアルウエアとは「よそいきより安いけれどデザインはまあまあの服」のことでした。
しかし、ユニクロが言う「カジュアル」は違います。
自分のスタイルに合った、着こなしを楽しむ服のことです。
我々が「こう着てくれ」と言うのではなく、自由に快適に楽しんでもらえればいい。

そして、私たちはカジュアルだからといって決して手を抜いて作ってはいません。
ベーシックなデザインで、品質も高く、値段もリーズナブルです。
ですから一人で何点でも欲しくなりますし、また幾通りにも組み合わせて楽しむことができる。
そういう服だから、年間に四億点も売れているのです。

そんなカジュアルに対する思想を理解してもらうためには安い服こそお金持ちに買ってもらわなくてはいけない。
また、実用品ほど感度の高い人にアピールしなくてはならない。
ですから、我々はプライスのために品質やデザインを犠牲にすることはありません。

世にライバルと目されているGAPやZARAはライフスタイル、モードを意識した服です。
ユニクロが考えるカジュアル衣料とはまったく違う商品です。
ですから彼らを競争相手とは思っていません。

「彼は宿舎に戻り、絵を描いていたことから変わり者呼ばわりされていた」

レイ・クロックは一〇代の学生時代に第一次世界大戦を経験しました。
そのとき、一緒の軍隊にいたのがあのウォルト・ディズニーだったのです。
そのふたりが後のアメリカ文化を代表する企業を作り出すとは誰も想像もしなかったでしょう。

僕の人生に大きな刺激を与えてくれたライバルを一人挙げろと言われたら、孫さんでしょう。
上場した年(一九九四年)に孫さんのソフトバンクも株式を公開し、その年初めてお目にかかりました。
僕が注目していたのは孫さんが身を置いていたIT業界です。
とくに成長性と体質でした。
僕自身は繊維産業の中にいて、生産性の低さや優秀な人材が集まりにくいことを何とか変えてやろうと思っていたのです。
そこでIT業界の効率性、高収益性、成長性を勉強しようと……。

もう一つ学びたいと思ったのは変化への対応能力です。
IT業界ほど変化の激しい業界はありません。
そんな中にいて、孫さんのソフトバンクは毎年、利益を上げ、成長を続けている。
それは彼とソフトバンクに変化への対応能力があるからでしょう。
孫さんの最初の事業はパソコンのゲームソフト卸売業でした。
以後、PC―LANの構築、ヤフーなどインターネット関連への投資、そして現在のブロードバンド、通信業と次々と主力事業を替え、そのたびに大きな成果を収めている。
我々もそれを見習わなければいけない。
今は大丈夫だからといって安閑としているわけにはいきません。
変化へのすばやい対応はどんな業界にあっても必要なことなのです。

七、大富豪の金銭感覚――お金は儲けるより使うほうが難しい p383

「私は金を崇拝したこともないし、金のために働いたこともない。
ただ自尊心と達成感のために働いてきた。
金は厄介な代物だ。
手に入れるより、追いかけているほうがずっと面白い。
面白いのはゲームそのものだ」(『ザ・フィフティーズ』)

「クロックさんがそんなに気力と情熱があるのは興味深いですね。
彼はマクドナルドの株を四〇〇万株持っていて、一株五ドル上がったのは皆さんご存じですよね」

「だから何だっていうんです?それでも私は一度に一足の靴しか履けないんですよ」

金を儲けるよりも使うほうがはるかに難しい。
僕は家族の分まで入れると時価総額で五〇〇〇億円くらいの資産を持っている。
それは死ぬ前にできるだけ使いたいと思っています。
なぜそう考えるようになったかといえば、父親の死がきっかけでした。
父親はこつこつ金をため、死んだ後、定期預金の通帳に六億円もありました。
何を買ったわけでもなく、贅沢もしないで、子供に大金を残したのです。
そんな父親の一生を見てますから、僕自身は儲けた金を何かに費やしたい。
財産として子供に残しても仕方ないと思ってます。
ただ、問題はまだ何に使うか決めていないこと。
でもねえ、こういう発言をすると手紙がどっさり来て、「おまえに利殖の方法を教えてやる」とか「オレのところに寄付しろ」……。
何とも言えません。
まとめてゴミ箱に捨てるだけ。
儲けた後の行動は他人がちゃんと見ています。
大金を手に入れた若いベンチャ経営者のなかには金銭感覚がズレた人がいます。
三〇代くらいでプライベートジェットを買ったり、高級車を何台も車庫に置いたり……。
仕事をほったらかしにして、ゴルフしたり、世界旅行したり……。

世間や取引先がそんな経営者を信用しますか?
社員だってやる気がなくなるでしょう。
銀行なんて実にシビアだから、生活が派手になった経営者には冷たくなる。

「ゴルフがうまくてひげを生やしてる社長には金を貸すな」という銀行マンもいるくらいです。

僕くらいの年齢になったら、ある程度の贅沢は許されるかも知れませんが、それでも、国内の温泉へ行くのにプライベートジェットは必要ない(笑)。

若い経営者には贅沢をするよりも、まず何のために起業したかをもう一度、思い返して欲しい。
三〇歳から死ぬまで遊んで暮らすことはできません。
いつか駄目になります。
もっとも、「それでもオレは遊びたい」という人には何も言うことはありません。
僕も忙しい身ですから。

「こちらレイ・クロックです」

「良いニュースと悪いニュースがあります。(中略)
悪いニュースとは、我々がひどいゲームをお見せしているということです」

「謝罪します。
私はうんざりしています。
これは私が見た中でいちばん下らない、最悪の試合です!」

「マクドナルドのスタッフなら熟知しているが、客はお金を払った分だけの価値を受け取るべきだという私のこだわりでもあった。
『選手は応援している客に対して最高のパフォーマンスをしなければならない』と公言した最初のオーナーは私であった」

これはレイ・クロックがメジャーリーグのサンディエゴ・パドレスを買収し、ゲームを観戦したときの言葉です。
選手のふがいないプレーに激高したクロックは自らマイクを取り、観客に謝罪しました。
直情径行の人です、彼は。
けれども、この言葉にあるように、経営者としてのレイ・クロックは客に最高の商品(ゲーム)を届けたかった。
その気持ちは正しい。

金を儲けた人の社会還元の一つにプロスポーツへの出資があります。
僕自身は野球やサッカーのオーナーになろうとは思っていません。
現在、サポートしているのは唯一、『考える人』(新潮社二〇〇二年七月創刊)という季刊誌だけです。
広告はユニクロだけという契約ですが、数ページの記事広告を入れているだけで、商品広告は載せていません。

サポートする発端は『考える人』の編集長をしている松家仁之さんからの手紙でした。

「地に足の着いたシンプルな暮らしのなかで、物事を考える」ことをテーマにしたい。
ただし、そうした雑誌は読者、広告ともになかなか集めづらい、ついてはサポートしていただけないか。

静かな調子の手紙で非常に説得力がありました。
それで、松家さんに会ってみました。

「なぜ、私に」と尋ねたら、「ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんから柳井さんのことを聞きました」と言う。

僕は沢木さんの作品はすべて読んでいて面識もあります。
沢木さんからの推薦でもあり、また、松家さんの提案もユニクロの社風に合うと感じました。
以来、応援しています。
このところ、評判も良く、読者も着実に増えているようです。
こうしたサポートならばやっていても楽しい。

いずれにせよ、稼いだ金をどう使うかはその人間の人生に対する考え方が反映されます。
本人の考え次第なんです。