「決定版・ゲームの神様 横井軍平のことば」を 2,024 年 02 月 05 日に読んだ。
Amazon のマーケットプレイスでは、 17,600 円というプレミア価格で販売されていた。
目次
メモ
p8
本当の先端技術を使ったら売れるものはできません。
娯楽の世界ではそんな高い商品は誰も買ってくれないのです。
私は世の中を見て「枯れた技術」を使えと言っている。
p9
もともと先端技術は娯楽品をつくるために出てきたものではありません。
軍事であったり医療であったり、そういうもののためにできた技術です。
それがだんだんいろんな用途に使われていくうちに値段が安くなっていく。
p11
(いまのゲームは)
松茸とフォアグラで餃子をつくっているようなもんですね(笑)。
p12
どうしたら儲かるかとか、どうしたら発想は出てくるかとか、良く聞かれますが、その度「もう一回子供から始めて、いろんなものに興味を持ちなさい」とアドバイスするんです。
p13
私の発想とは、古いものを今の技術で可能にすること。
p19
「ゲーム作りは面白ければよく、ハイテクが必要なわけではない。
むしろ高価なハイテクは商品開発のじゃまになる。
そのためにごくありふれた技術を使い、それをまるで違う目的に使うことによってヒット商品というものは生まれるのではないか」という考えは、次の「枯れた技術の水平思考」につながる彼の思想を語るうえで重要である。
コストバランスをとりつつ、シンプルなものづくりに徹すること。
これらのヨコイズムは、いまなお任天堂のハード機やゲームに色濃く反映されている。
任天堂製品の壊れにくさ、扱い易さ、独自の遊びの提供を重視する考え方といった、いわば現在の任天堂イズムと同じものである。
2 枯れた技術の水平思考 p20
ありふれた技術を転移させることによりヒット商品を生み出す魔法の言葉「枯れた技術の水平思考」とは、2つの言葉に分かれる。
まず「枯れた技術」。
これは「すでに広く使用されてメリット・デメリットが明らかになっている技術」のことで、コストが高くなく、いわば「枯れている」(コストの低い)ものを利用するということだ。
「水平思考」とは、現在利用されているジャンルから離れ、まったく別のものに置き換えて使うことにより、新しいものを生み出すという考えである。
当時の「電卓戦争」の余波で、液晶の需要過多で困っていたシャープの窮地を救った〈ゲーム&ウオッチ〉こそ、まさに「枯れた技術の水平思考」が生まれた瞬間であった。
横井は新幹線で電卓を遊んでいるサラリーマンを見かけたことから〈ゲーム&ウオッチ〉のアイディアを思いつき、大ヒット商品を生み出したのである。
これが〈ファミリーコンピュータ(ファミコン)〉につながり、奇跡の任天堂大躍進へとつながっていくきっかけとなった。
p23
〈Xbox 360〉や〈プレイステーション3〉に性能で劣る〈wii〉が、新しいコントローラーという遊び方の変革により、
ハイスペックモデルよりも爆発的な人気を獲得したのは記憶に新しい。
岩田社長はその成功の秘訣が「枯れた技術の水平思考」であることを明言している。
横井軍平の生み出した哲学を用い、アイディアを絞ること。
それがものづくりの突破口なのだ。
p27
私が包み隠さず言ってしまうのは、男の本能は女の子にあるんですよ。
どういう発想でものが売れるかっちゅう講演をよくやるんですが、人間の本能を知らなきゃダメだ、と言ってるんです。
その本能が何かというと「セックス」なんですよ。
ゲームっていうのは競い合いでしょ。
競い合いのルーツって言ったら人間の殺し合いなんですよ。
そのもうひとつ奥の原点というのは雌をめぐる雄同士の戦い合いなんです。
だからローマ時代には、プロの殺し屋を雇ってコロシアムで戦わせたりする。
あれがゲームの原点で、それはなぜかって言うたら、勝つことによっていかに多くの雌に自分の子孫を生ませるかっちゅう……これが、もう地球上の動物ほとんどがそうなんですから。
そういう感覚でものを見なければ、何が売れるか売れないか、わからんですよ。
p46
アイディアとは、子供の頃思ってた「不可能」なことを、いま雑誌などを見て、新しい技術のきっかけというか、ぱっと引っかかるものがあるんですよ。
そこで昔のものと引っかけて新しい物が出てくるんです。
アイディアノートとかはないです。
よく、アイディアとか浮かんでばっとメモをしておくとか言うのは、あれは大嘘です。
頭の中で興味を持ったものというのは、確実に覚えていますよ。
残ってますよ。
書くということは、書かなければ忘れてしまう大したアイディアでないということですよ。
6人との不思議な出会い p64
その6人は、ゲーム業界とはまるっきり縁の無い人たち。
その出会いが面白いものなんですよ。
任天堂に居る時に、私を5年間つけまわした人がいるんですよ。
私が任天堂で開発部長をやっていた頃に祇園のお寿司屋さんで知り合ったんですけど。
「任天堂の開発部長をやっております」といって。
それから私を接待するんですよ。
食事に行ったりゴルフに行ったり。
しかし、その人が一向に仕事をくれと言わないんですよ。
「あんた一体何の目的でこうするのかね。」と思うわけですよ。
そして、ちょうど5年目に「横井さんに会わせたい人がおるんですよ」と言われて、祇園のお茶屋さんに行ったらその6人がおられたんですね。
そういう人たちは、各業界の全部経営者です。
ゲーム業界とは関係無い人ばかりで弁護士、建築家、そういう人たちですよ。
みんな飲み友達で、なんか面白いことをやろうかといつも頓挫してた時に、その中の1人が私を引っ張り込んできたんですよ。
この人に頼めば何か面白い事ができるのではないかと思ってくれたようで、みんな大賛成してくれたんですよ。
みんな京都の人です。
6人いるわけですから、どこをとってもうちが面倒みるという人ばかりですよ。
今は最初に「俺がやる」といったところがフォローしてバックアップしているわけですね。
非常に脱サラという感覚とは違った、夢を持てた幸せなスタートができたんですよ。
p67
しかし、変わったからゲームというのが文化になったんだと思っています。
だから非難はできませんよ。
でも、だからこそ私は、テレビゲームはゲームではないと思うんですよ。
私なりに言うと、ゲームとは言って欲しくないんですね。
ゲームとは、〈くねくねっちょ〉みたいなものです。
テレビゲームは別の遊びじゃないかと思う。
どちらかというと、アニメとか、映画に近いものであると思うんですよ。
そういう所がまたもてはやされている。
それはそれで良いんですよ。
でも私は「ゲームのアイディアというものはまだまだありますよ」と言いたいんです。
それは何かというと、格闘ゲームが人気と言われていても、結局〈たまごっち〉や〈ポケモン〉が流行るように、ゲームの基本が結構強いんですよ。
私は、〈ゲーム&ウオッチ〉を50種類以上つくってきていますから、この分野は強いんですよね。
最も得意とする分野です。
だったらその分野で何かやったら一番手っ取り早いかなと思って。
テレビゲームというのは、確かに映像と音響とゲーム以外のところは凄いけど、これは、いずれ行き詰まってしまうんではないのでしょうか。
コンピュータグラフィックス(CG)が追い求めているのは何かと言うと、いかに自然な映像をつくり出すか、というところです。
しかし、それをすでに通り越しているんですよ。
CGのほうが凄くなってしまったら、実写の映像と合わなくなるんです。
CGとは、実写の映像とCGの違いをいかにわからなくさせるかが面白さであるわけで、あれはCGの質を落としてでも、実写の映像と合せているはずなんですよ。
そうしないとCGだけが浮き上がってしまいますからね。
そういうものを追い求めていくと、今はもう行く所までいって、行き詰まっているんではないかと、そういう気がするんです。
だから今のテレビゲームは、あれ以上リアルになってどう変わるんだと思うわけです。
ゲームの本質なんて言うのは、昔と同じじゃないですか。
横井氏の考えるゲームとは p70
私がよく話をするのは、スーパーマリオのキャラクターがとことこ歩いて敵に遭遇してぶつかって、ここでパッタリやられてしまう。
ここでパッタリやられてしまう。
と、そこで、このキャラクターをミッキーマウスに置き換えて同じ事をさせると、やっぱり同じゲームができるわけですよ、一つはマリオのゲームでもう一つはミッキーマウスのゲームですよ。
もっと言えば、ミッキーマウスでもマリオでも主人公を●にして敵を■にして世の中のゲームに置き換えたら、みんな同じ物になってしまうわけですよ。
じゃあ、なんのために映像を変えているかというと、私はCGいうのは、「HOW TO PLAY」を教えるものだと思っている。
たとえば、ミッキーマウスを操作してずっと来て、ぶつかったものが非常に奇麗なものだと味方だと思ってしまう。
実際は敵なのに。
だからこれを恐ろしい映像にすることによって、説明書無しにこれを避けて行こうと思うわけじゃないですか。
こういう目的で、ゲームのCGを昔は考えたんですよ。
ゲームボーイが白黒である理由 p72
カラーって言うのは面白いもんでね、概念的に見えるものなんですよ。
黒板にチョークで雪だるまの絵を描いたら誰が見たって白く見えるんです。
そういうものなんですね、色っていうのは。
それが白黒とかカラーとかいう話が出てくるのを聞いていると、昔、美智子様の結婚式の時に白黒のテレビがカラーになって大ヒットしたと。
だから白黒のゲームボーイをカラーにするとそうなるという変な結び方をするんですね。
私はそうじゃないと思う。
どこが違うかというと、テレビというのは情報機器なんですよ。
情報機器というのは、たとえばニュースで「青森でこんな真っ赤なりんごが取れました」ということを知らせるには色があったほうが良いと思うんです。
しかし、ゲームの世界では、りんごが赤であろうが青であろうが関係無いんですよ。
それはりんごの絵を描けば殆どの人が赤に感じてくれるわけですから。
単にぱっと見た時に派手さがあるというメリットがあっても、本当に必要なものではないと私はゲームの中の色やキャラクターに思うんですよね。
だから、それを同じ値段でカラーがついたり、細かくできたりすればそれに越した事はないです。
でも、そのために値段が高くなるというデメリットのほうが大きいということですよ。
面白さにカラーは必要ない p75
面白さはカラーである必要はない。
たとえば碁盤の目を見て、ある人が碁を考えついた。
「これは新しいアイディア」だと。
これで将棋もできると考えたらこれも新しいアイディアなんですよ。
オセロもできるとかチェスもできるとか。
これがゲームの考え方なんです。
しかし、これ以上新しいことを考えられなくなったから、何かないかなってなる。
そしたら「えい、碁の白黒が地味だから赤青にしよう」と、これが今カラーがついてるのと同じ発想なんですよ。
赤青になったら白黒よりは奇麗かな、と思うけどゲームの本質は何も変わっていない。
先ほどの、キャラクターをどう書くかという話ですが、私がたとえば将棋にキャラクターを載せなさいって言われたら何をするかというと、コマの進む方向に矢印を印刷しますよ。
「HOW TO PLAY」それでわかりますよ。
それがキャラクターだと私は思います。
しかし、ゲーム市場全体がそういう方向に動いている。
マニア化しているから。
ゲームといっても本当はグラフィックスを追いかけるようになってるんですね。
だからつくるほうも買うほうもみんなそうなっているのでしょうね。
だけど、それをやってしまうと後でやることが無くなるよ、って思いますけどね。
私は、〈ファミコン〉が出てきて〈スーパーファミコン〉が出てきた時に、これは先が不安だなと思いました。
だから、これといかにして違うことをやろうかなというのが私の念願でした。
はっきり言ってファミコン時代、いわば8ビットは、おばちゃんからおじちゃん、子供までみんなが楽しめたゲームなんですよ。
それが、だんだん難しくなってマニア化していって16ビットになり、32ビットになって。
私にだって遊べないですよ、あの格闘ゲームは。
どう操作していいのかわからない。
そういう形でマニア化していってるんですよね。
そうすると以前100いたユーザーが、恐らく50になってしまった。
ただ、50の人間が以前の3倍くらいのお金を使っているから、なんとなく市場は広がっているように感じられるけど、絶対人口は少なくなっているはずです。
そんな事をずっとつづけていったら先細になって終わってしまうから、何かもう一回、かつての100の人間を引き付けなければいけない。
そういう「ものづくり」をしなければいけない、と思ってつくったのが〈バーチャルボーイ〉だったわけですね。
エンターテインメント p82
エンターテインメントというのはなかなか難しい世界で、アイドルとかは別に美人じゃない、歌の下手なのがスーパースターになってる。
これは、周りが盛り上げてそうなっちゃうんですよね。
結局そう見えるんですよ。
遊びというものは、みんな同じで、みんなが面白いと言ってやっているものは、どんなにくだらん物でもスターになっちゃうわけですね。
比較しようが無いですよ、面白さって。
ゲーム機の中でも私はそれなりに面白さは表現できる。
ただ、みんな商売を考えるから。
たとえば、32ビットで〈くねっくねっちょ〉を考えたって5000円じゃ誰も買わないでしょ、じゃ、あれを1000円にしたら、できると思うんですよ、値段とのバランスがありますからね。
世の中って言うのは、物をつくるほうも売るほうも、それで儲けようという気持ちがあるから話にならへん、そういうこと抜きで、何が
面白いかということを追いかけたら、32ビットで500円のゲームが出てきても良いと思う。
そしてら、みんな納得して、500円でこんだけ面白かったら良いと。
実際ゲームボーイと〈ニンテンドー64〉と比べて、ゲームボーイを白黒だからどうとか言わないじゃないですか。
誰も比較しないじゃないですか。
あれは、全然違うものだという見方をするからですよ。
だから同じテレビゲームの中でも、1万円のソフトがあっても500円のソフトがあっても良いと思うんですけど。
そうしたら、それなりのコストパフォーマンスを感じるものをつくれば、私はもっと面白いことができると思うんですけどね。
でもそういう事を考える会社が無いですからね。
どうせやるなら儲けてやれ、とかいう形になってしまっているからね。
時代 p85
今は簡単になんでもできちゃうでしょ。
無い物をつくろうという気がおこらない。
試行錯誤が必要無くなっていますからね。
私たちが子供の頃は本当に物が無くて、欲しいものはつくらないと無かったですから。
そういう意味では、もし私が今生まれたらこういう人間にはなってなかったと思いますよ。
だから私の息子というのは、実に不器用ですわ。
世界で初めてカラオケをやった p86
私が自分でつくったものは、沢山ありますよ。
カーラジオもつくったし、カラオケも世界で最初にやった。
社員旅行、バスで行くんですよ。
そうするとマイクロフォンを回して歌でも歌え、ということになるんです。
みんな伴奏無しで「なんで歌うんだ」という感覚があったわけですよ。
だから、旅行前に、私ピアノ習ってましたから自分の歌を自分で伴奏して録音したわけですよ。
それで、カセットテープ持っていって、伴奏と一緒に歌ったら大拍手になったわけですね。
それから何年かして、カラオケが出てきて、そしたら上司が「横井君のやってたやつが今ごろ商品になって出てる」と言われたの覚えてます。
p101
僕が何かをつくるときに思うことは、「今ここにある道具を使って、今までなかったものをつくれないか?」ってことだ。
まだ誰も見たことのないすごい技術や、湯水のようにお金を使ってすごいものをつくるってのは、そりゃすばらしいことだとは思うけれど、僕らみたいに大企業に勤めているわけでもなく、最先端の研究に従事しているわけでもない人間にとって、それはもう考えるだけ無駄なことだ。
さて、では、「ここにあるものを使って、ここにないものをつくる方法」とはなんだろう?
そんな都合の良いことがあるだろうか。
それは確かに難しくて、それなりの技術や知識も必要になってくる。
だけど、僕がいつも信じているのは「今あるものより、ないもののほうが多い」ってことだ。
それを証明することはできないけれど、たぶんきっと素敵で面白いことってのはすでに生み出されてしまったのではなく、これから生み出されるのだ。
世界中にあるあらゆる可能性をかき集めて、それでもなお「すでにあらゆるエンターテインメントは生み出されてしまった」などということは誰にも言えないだろう。
僕がリアル脱出ゲームを思いついたときは、雷が落ちたみたいな衝撃だった。
「web脱出ゲームを現実世界でやる」というたったワンセンテンスで表現できてしまうこのアイディアは、
その会議に出席していたたった3人の人間をこの上なく熱狂させた。
そのアイディアはすぐにメーリングリストでスタッフ全員に送られ、そのメールを読んだスタッフは全員「これは面白そうだ!」という連絡を僕にしてきた。
p113
3年前に社長命令でVRについて調べたのですが、『VRは娯楽商品にはならない』というのが結論でした(笑)。
ヘルメット型ディスプレイは重いし、満足がいく絵をつくり出すには、スーパーコンピュータ級の能力が必要だし。
大ヒットの裏側 p142
これからお話しするのは〈ゲーム&ウオッチ〉という商品のことです。
ご覧になると覚えておられる方があるかも知れません。
京都から東京まで行く新幹線の中が退屈で、退屈しのぎが何かできないかなと考えていた時のことです。
私の前の席に座っていたサラリーマン風の人が、ポケットから電卓を引っ張り出して、退屈しのぎにスイッチを押して遊んでいました。
それを見て「専用のゲーム機をつくれば、この新幹線も退屈でなくなるな」という発想からつくった商品が〈ゲーム&ウオッチ〉です。
これは昭和55年に発売すると同時に大ヒットし、全世界で約5千万個が売れたわけです。
後から人に教えられてわかったのですが、この〈ゲーム&ウオッチ〉を出した当時というのは、任天堂は大変な負債を抱え、経営が最大のピンチの時であったようです。
〈ゲーム&ウオッチ〉は、そのピンチを切り抜け、のちに〈ファミコン〉というものが任天堂から出てくる原動力となったと聞いています。
その〈ファミコン〉がまた大ヒットして、任天堂は世界に知られるような会社になったわけです。
〈ゲーム&ウオッチ〉は一つのハードに一つのゲームソフトというものですけれども、一つのゲーム機でカセットを替えることによって、
いろんなゲームが楽しめる〈ファミコン〉方式のゲームができないかというところから平成元年につくったのが〈ゲームボーイ〉という商品です。
これも、売り出してやはり大ヒットしました。
売れる商品を生む 「枯れた技術」と「水平思考」 p144
ざっと任天堂時代の話をしたわけですが、いろんな商品を開発する時というのは、最先端技術を振り回して、すごい商品づくりをしようとしたのではありません。
非常にありふれたもの、たとえば先程の〈ゲーム&ウオッチ〉は電卓が基本になっています。
かつては40数万円もした電卓が、ポケットに入るような大きさで数千円まで下がったからこそ、この〈ゲーム&ウオッチ〉というものが出現したわけです。
したがって、私のものの考え方というのは、このタイトルにもなっている「技術というのは最先端を使うべきでない」ということです。
「儲かる商品づくりには最先端はかえってマイナスになる」そして「散々使いこなれて、枯れてきた技術を、水平思考、つまりまるっきり違う目的に使うことによって、ヒット商品というものは生まれ出るのではないか」。
つまり電卓をそのまま垂直思考したのでは、電卓のままですが、そこまでこなれて枯れた電卓技術を水平思考して、ゲームというものに置き換えたからこそ〈ゲーム&ウオッチ〉がヒットしたのではないか。
〈ゲームボーイ〉も同じことが言えるわけです。
液晶技術が非常に枯れてきた。
枯れた原因はやはり液晶テレビに散々使われたことで、値段が非常に安くなってきた。
だから、この〈ゲームボーイ〉が1万円を切るような値段で発売できた。
それがヒットにつながったということです。
技術者というのは、得てして新しい技術に飛びつき、それをなんとか使ってすごいことをやろうとする。
私は任天堂時代に、部下には絶対にそれをさせませんでした。
私が部下に対して常に言ったのは「すごい商品をつくるな。売れる商品をつくれ」ということです。
特に学校を卒業して、バリバリの新入社員で入ってきた技術者は、学校で習ったすごい技術を使って、すごいことをやろうということに燃えています。
ところが、そんなものはとてつもなく高いものになってしまって、およそ営業には結びつかないような商品をつくってしまう。
このように枯れた技術を使うというのが私の哲学です。
いままでそれをやってきたために、いろんなヒット商品に結びついたのではないかと思います。
p157
初めに申し上げておきたいのですが、私が辞めた瞬間、「山内社長のワンマン体制に嫌気がさした」ととる人が大勢いました。
しかし、私は任天堂がここまで大きくなったのは、実はワンマン体制のおかげだと思っています。
ワンマン体制=悪という感覚でとらえる人は多いのですが、商品開発の場合そうともいえません。
たとえば任天堂の転機となった、〈ゲーム&ウオッチ〉。
これは私が開発したものですが、ワンマン体制だからこそ生まれた商品だといえるのです。
あれは私が、38歳の時でした。
電卓タイプのゲームで、大人向けの手の中に隠れるような薄っぺらいものをつくりたいという提案をしたのですが、社長が興味を示して「すぐにやれ」ということで開発がスタートしました。
しかし社内の声は冷たいものでした。
営業も宣伝も半数以上が「そんなもの売れるものか」という否定的な意見なのです。
つまり、普通の会社組織のように私が〈ゲーム&ウオッチ〉を提案し、営業会議で検討して、重役会に語ってという手続きを経ていたら、必ずどこかで潰されていた商品だったのです。
ところが社長がやれと言っているものだから、誰も反対できない。
私は財務面のことはよく知らないのですが、〈ゲーム&ウオッチ〉の発売前、任天堂は70億とも80億とも言われる借金があったそうです。
それが〈ゲーム&ウオッチ〉を売り出して一年後には借金を全部返済し、40億ぐらいの銀行預金ができました。
発売は開発者の私ですら十万個売れたら多少は会社の足しになるかなという程度の考えだったものが、結果的には五千万個近く売れてしまった。
ところが、社長はこのわずかに溜まったプラスぶんを〈ファミコン〉にドーンと投資した。
それが成功したのですから、勝負師といえるでしょう。
私だって、最初それを聞いた時は、せっかくプラスになったのにそこまでしなくても……という気がしたほどです。
つまり、馬券を一枚買ったらわずかに儲かった。
それを全部次の馬に注ぎ込んだらまた当たったということが何度も起こって、任天堂が世界に名前を轟かすような企業になったのですから、これは社長のワンマン体制ぬきには語れません。
任天堂は「すきま」産業 p166
たしかに、彼らにとってみれば「世界の任天堂」に入社してきたのでしょうが、私達にとっては、京都の小さな企画会社。
いまでも規模はそれ程大きくありません。
自分で物をつくっているわけでもなく、企画を考えて外注しているだけです。
そういう意味では、「すきま産業」でこまわりをきかせて頑張ってきたのですが、ここにきて、そうもいかなくなってきました。
私が55歳になったら独立しようと漠然と考えていたのも、そんなことが原因かもしれません。
たとえば、最近の任天堂では、新しい商品は年商1千億以上売れる可能性のあるものでなければだめだということを一つの基準にしています。
1千億以上売れないものはやっても無駄だという発想なのです。
なぜなら〈スーパーファミコン〉も〈ゲームボーイ〉もそれくらい売れています。
そこで新しい商品を開発、販売、宣伝しようとすると、いまある柱のどれかをやめなければならないということになるのです。
もちろん、設備投資をし、人員を増やせば新商品はできますが、その場合、従業員千人たらずの現在の規模を拡大しなければならなくなります。
上場企業になった以上、株主への責任もありますから、そんなに無茶はできません。
となると、1千億の売上げの見込めることしかできなくなるんです。
しかしそんなアイディアは、おいそれとあるものではありません。
この話をほかの会社の人にしたら信じられないと言われました。
あの天下のトヨタでも、100億儲かるならやろうということになると。
しかし任天堂は違います。
任天堂の商品の数は非常に少なく、それで数千億円の売上げをだしているからです。
こうなると単なる閃きではもう賄いきれません。
これからは衛星事業だとか、マイクロソフトと提携するとか、そういう分野に乗り出していかざるを得ないでしょうから、私の存在価値もだんだん下がっていくだろう、そんな気持ちもありました。
つまり、私は一生アイディアを出し、玩具をつくりつづけたかった。
任天堂創業精神の「すきま型玩具」のアイディアをひねくっていきつづけたかった――これが退社の唯一の理由なのです。
かつて、いろんな企業からスカウトのお話を頂きました。
ものすごいボーナスを約束されたりもしましたが、どんな形の仕事をするんだと聞いたときに、やっぱり任天堂のほうがいいと思い、心が動くことはありませんでした。
p172
独占商品ならば1円高かろうが安かろうが関係ない。
ある商品をつくるうえで、10円高い商品でも売れるアイディアだったら、1円商品が高くなっても関係ないわけですから、アイディアこそ一番重要で、それをどこでいかに安くつくるかはあとの問題になります。
任天堂も中国への工場移転が話題になりましたが、私は国内生産でも、会社がじゅうぶん潤うだけのアイディアでなければ、優秀なアイディアとはいえないと思っています。
ただし、間違えてもらっては困るのは、世界にない商品をつくるということは、世界の最先端をゆく、世界にはまだない技術を使おうということではありません。
「最先端」にこだわり、「不要」なものを沢山つけて「高価」な玩具をつくるとしたら、それこそ「大企業病」であり、「すきま」精神を忘れた行為だと思うのです。
たとえば、〈ファミコン〉の外側は「とにかく値段を1万円以下にしたい」という精神のもと、私が指示してつくったものですが、今、常識のようになっている「十字キー」と呼ばれるコントローラーがあります。
あれはいかにしてコントローラーを安くつくるかということから出てきたアイディアでした。
当時のコントローラーはいわゆるジョイスティックというもので、大変コストがかかるものでした。
どうしたら安くなるかというので思い出したのが〈ゲーム&ウオッチ〉の〈ドンキーコング〉という商品につけた十字スイッチでした。
このときはいかに薄くしてジョイスティックの機能を実現するかということで考えたアイディアでしたが、結果的にそれが非常に安くできたという経験があったので、そのまま〈ファミコン〉に利用することにしたのです。
〈ゲーム&ウオッチ〉を開発した時にも、私はいかに小さくするか、つまり画面サイズをどこまで小さくできるかということに悩み抜きました。
いらないものはいらない p176
皆さんも、お持ちになっている家電製品で、使い方がわからず、全く使ったことがない機能がいくつもある製品があるでしょう。
ワープロやビデオにもそういうものがあります。
これは、大企業がつくる製品だからではないか、私などそんなことを考えることもありました。
〈ゲームボーイ〉の場合、ハードもソフトも同じ部内で開発していました。
ハード屋に指示を出し、ソフト屋にそのハードでどんなことができるのかを検討させたのを見て、またハードのこの部分はいらない、ソフト屋はそんな機能は使わないといった作業を繰り返します。
だからこそでき上がった商品はまるっきり贅肉のないものになりました。
つまり、いらない機能を全部捨てたからあの値段でできたのです。
私は娯楽という分野ではそれが非常に重要なことだと思います。
もちろん、コンピュータだとそうはいきません。
パソコンは誰がどんな目的で使うかわからないので、あらゆる機能をくっつけるしかない、という設計思想でつくっているからです。
これはある意味では正しいと言えるでしょう。
しかし、技術者の心理として、あと1%値段を上げればこんなこともできるという感覚が積もり積もって、いっぱいよけいなものがついたものができる――そういうことは「大企業」ではよく起こることなのです。
私がいう「大企業」とは、大きい企業という意味ではありません。
「すきま」意識、商品開発意識が欠けた企業という意味です。
私はたとえ1%でも、いらないものはいらないんだという考えで削っていきました。
それでいわゆるユーザーがほんとに必要とするものだけの商品ができ、コストも最低のものができ上がってくるのです。
実際、娯楽品のような不要不急の商品は安くなければ売れません。
しかも玩具の場合、10万セット売れてワーッと喜ぶような業界ではなく、1千万売らないと話にならない世界なのです。
最先端技術に関しても、飛びつくな、じっと見守れ、娯楽に使える値段に落ちた時に狙えと言いつづけてきました。
〈ゲーム&ウオッチ〉の発想も、かつて数十万円もした電卓がポケットサイズで3千円ぐらいになって、これは使えるということになって生まれた。
本当の先端技術を使ったら売れるものはできません。
娯楽の世界ではそんな高い商品は誰も買ってくれないのです。
私は世の中を見て「枯れた技術」を使えと言っている。
たとえば画期的な技術があるとします。
それで物をつくると1個の部品が何万円もする。
これが大量生産されていろんな産業機械とか民生機器に使われていく。
1個百円ぐらいに落ちていく。
そこからがわれわれの出番なのです。
もともと先端技術は娯楽品をつくるために出てきたものではありません。
軍事であったり医療であったり、そういうもののために出てきた技術です。
それがだんだんいろんな用途に使われていくうちに値段が安くなっていく。
しかし娯楽に使おうとはまだ誰も考えつかないそこを狙うのが利口なやり方であり、私が言う「世界にまだない商品」の開発なのです。
別な言い方をすると「枯れた技術の水平思考」です。
炭素繊維がいい例でしょう。
最初は宇宙開発に使われ、次に飛行機の主翼になり、結局身近になって釣竿とゴルフクラブでヒットしています。
ソニーのウォークマンがいい例です。
先端技術がヒット商品に結びつくわけじゃない。
ソニーの技術でなければできないものでもけっしてない。
ああいう閃きこそ重要なんです。
今度発売になった〈ニンテンドー64〉はそういう意味では私の商品開発哲学とは違います。
だからといって〈64〉が間違っているなどと大それたことも言いません。
〈64〉が大ヒットすればその考えもまた正しかったということでしょう。
しかし、私は、〈ゲームボーイ〉流の「すきま」商品が好きであり、今後もそういう仕事が続けたかった。
そう考えてゆくと、任天堂をやめ、独立するしかない――という結論に達したのです。
p182
ずっと開発をやってきましたが、無から有を生み出す人間がほんとうに世の中には少ないのです。
30年開発をやりましたが、私のもとで働くことでクリエイティビティを持った人間が育つということはありませんでした。
息子が「お父さん、どういうときにアイディアって浮かぶの」と聞くぐらいだから、これは親子も関係がない。
つまり、遺伝も関係がないということです。
ただ、私がよく息子に言うのは、
「お前、女の子にモテたいだろ、それがアイディアを考えるコツだ」
人の気持ちを引きたい、それは男でも女でも一緒です。
その気持ちを商品にぶつけることが、売れる商品に結びついてゆく。
だから一生懸命モテる努力をしたほうがいい。
沢山の人間が喜んでくれるものをつくる、これこそが売れる商品の根本でしょう。