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「ドーパミン中毒」を読んだ

投稿時刻2024年7月14日 13:38

ドーパミン中毒」を 2,024 年 07 月 14 日に読んだ。

目次

メモ

依存症の危険因子 p32

依存症になる一番の危険因子として、その“ドラッグ”(麻薬などの薬物とその他依存症をもたらすもの・行動をまとめてこう呼ぶことにしよう)へのアクセスのしやすさがある。
簡単に手を出せてしまう場合に、私たちはやってみようと思ってしまうのだ。
試してしまうことで依存症になる確率は上がってしまう。

p38

今、世界には以前は存在しなかったデジタルドラッグが流通している。
以前実在していたものも今はデジタルプラットフォーム上に存在しており、そのため指数関数的に利用しやすく強力になって増殖してしまった。
オンラインポルノ、オンラインカジノ、オンラインゲームなど数限りない。

さらにテクノロジー自体に依存性がある。
ライトが輝き、ファンファーレが鳴り、底なし沼。
そこで時間を費やせば費やすほど大きな報酬が与えられる触れこみだ。

私が比較的平凡な吸血鬼の恋愛小説から、女性のための社会的に認可されたポルノまがいの作品へと進んでいってしまったのも、電子書籍リーダーの出現のせいかもしれない。

消費という行動自体もドラッグとなっている。
私の患者のベトナムからの移民、チーはオンラインで商品を検索し、買うというサイクルにハマってしまった。
何を買うかというところから興奮が始まり、それは配達を待っている間も続き、パッケージを開ける瞬間に頂点に達するらしい。

残念ながら、アマゾンからの荷物のテープを剥ぎとって中身が現れてしまうと、その興奮は続かない。
彼は安物の商品でいっぱいになった部屋と数万ドルの借金を抱えた。
そうなってさえ彼は止めることができなかった。
そのサイクルを回し続けるためにもっと安い商品――キーホルダーやマグカップ、プラスチックのサングラスなど――を注文し、到着するやいなや返品するという手段に出たのだ。

p44

インターネットは衝動的過剰摂取を促進しているが、それは単にインターネットが古いドラッグ、新しいドラッグを問わず簡単に手に入るようにしたからだけではない。
インターネットがなければ決して思いつきもしないような行動を促すようになったからである。
動画は単に「話題になる」だけでなく、文字通り伝染する。
皆が真似して人から人に広がっていく「ミーム」(文化的遺伝子)になっていくわけだ。

人間は社会的動物である。
オンラインで誰かがある方法で行動しているのを見ると、その行動は他の人がやっているからという理由で「普通」に見えてしまう。
ツイッターには専門家や大統領に限らず、誰もが同じように好んでメッセージを発信する。
ツイート=小鳥のさえずり、つぶやき。
SNSプラットフォームには最適な名前だ。
私たちは鳥の群れのようなものだ。
一人が羽を広げるやいなや群れ全体が飛び立ってしまうのだ。

p48

特に裕福な国に暮らしている人たちの中でも貧しい人、教育を受けていない人というのが、最も衝動的過剰摂取の問題を受けやすい。
彼ら/彼女らは大きな快楽を与える強力で新奇性の高いドラッグに簡単にアクセスできる上、有意義な仕事、安全な住居、質の高い教育、手ごろな価格の医療、法律で定められた人種や階級による差別のない暮らしにはアクセスできない。
これが依存症のリスクを高める危険な連鎖を作っている。

p74

神経伝達物質はたくさんあるのだが、今はその一つ、ドーパミンに焦点を当てよう。

ドーパミンは1957年に初めて人間の脳内の神経伝達物質として確認された。
二人の科学者が別々に研究していて発見した。
スウェーデンのルンドにいたアルヴィド・カールソンとそのチーム、そしてロンドン郊外に拠点を置いていたキャサリン・モンタギューである。
カールソンはその後ノーベル医学生理学賞を受賞している。

ドーパミンは報酬処理に関わる唯一の神経伝達物質ではないが、最も重要なものの一つだ。
ドーパミンは報酬が得られたことの快楽というより、報酬を得ようとする動機の方に重要な役割があると思われる。
「好き」というより「欲しい」に関係しているのである。
ドーパミンを作れないように遺伝子組み換えされたマウスは食べ物を求めようとせず、口元に食べ物がある状況ですら餓死してしまう。
しかし食べ物を直接口の中に入れられればそれを噛み、食する。
その時は美味しく食べているように見える。

動機と快楽の違いについて議論はあるものの、ドーパミンはあらゆるドラッグの潜在的な依存性を測るために使われる。
あるドラッグを使うことで脳内の報酬回路(腹側被蓋野と側坐核と前頭前野をつなぐ回路)にドーパミンが放出されればされるほど、また放出が早ければ早いほど、そのドラッグは依存性が高いと考えられる。

「高ドーパミン」ドラッグが文字通りドーパミンを多く含んでいるわけではない。
ドラッグは、脳の報酬回路にドーパミンが多量に放出される引き金となるのである。

箱に入れられたラットの場合、チョコレートはラットの脳のドーパミンの基礎放出量を55%増加させる。
セックスは100%、ニコチンは150%、コカインは225%である。
街角でやりとりされる薬物「スピード」「アイス」「シャブ」の有効成分であり、注意欠陥障害の治療として用いられる「アデロール」の有効成分でもあるアンフェタミンは1000%ドーパミンの放出量を増加させる。
この計算によれば、覚醒剤をパイプで一吸いすることはオーガズム10回分に相当することになる。

p78

似たような快楽刺激に繰り返し晒されていると、快楽の側へのシーソーの最初の傾きが弱く、短くなる一方で、事後反応の苦痛の側への偏りは強く、長くなってしまうのだ。
科学者が「神経適応」と呼ぶ過程である。
繰り返しによりグレムリンは大きく、早く、多数になるので、前と同じ効果を得るのにより多くのドラッグが必要になるのだ。

快楽を得るのにより多くのドラッグを必要とすること、あるいは、一定量の摂取で前より少ない快楽しか感じられなくなることを「耐性」と呼ぶ。
耐性は、依存症発症の重要な因子だ。

p81

約2年間衝動的に恋愛小説を貪って、私はついに、もう楽しめる本が見つからないという状態に辿り着いた。
それは、小説を読んで快楽を得る回路が酷使され、燃え尽き症候群になってしまい、もうどんな小説でもその回路を蘇らせることはできないというような状態だった。

快楽主義、つまり快楽のために快楽を追求するということが「無快感症」、つまりどんな快楽も感じられなくなる状態に至らしめるというのはなんという皮肉だろう。
読書は私にとって喜びを得、現実から逃避できる一番の手段だったから、もう読書が効かなくなってしまったというのはたいへんなショックで辛かった。
しかし、それでもまだ読書を捨てることはできなかった。

依存症のある患者の話を聞いていると、ドラッグがもう効かないというポイントにどう辿り着くかがよくわかる。
彼ら/彼女らはもう全然ハイになれないのだ。
それでも、ドラッグを摂らなければただ惨めになるだけである。
依存性のある物質が引き起こす禁断症状として典型的なものは不安、過敏症、不眠症、身体的違和感だ。

快楽と苦痛のシーソーが苦痛の側へ傾いていることが、ある程度長い期間、薬を断っていたとしてもまた手を出してしまう原因だ。
苦痛の側へシーソーが傾くと、ただ普通の状態になりたい(水平状態を取り戻す)ためにドラッグが猛烈に欲しくなるのだ。

神経科学者ジョージ・クープはこの現象を「不快感による再発」と呼んでいる。
再び使用するようになるのは快楽を求めるためではなく、長く摂取しないでいたことによる身体的、心理的苦痛を和らげたいという欲求によるということである。

ただこれも言っておこう。
充分に長く待てば、脳は(通常は)ドラッグがもう来ないことに再適応し、元のホメオスタシスを取り戻すことができる。
シーソーが水平に戻るのである。
水平になれば再び、日常のシンプルな報酬に喜びを感じられるようになる。
散歩に出る喜び。
日の出を見る喜び。
友達との食事の楽しみ。
それらに気付けるようになる。

p86

ギャンブルをすると、最終的な報酬(通常お金)に対してだけではなく、報酬がもらえるかどうかがわからないという予測不能性に対しても多量のドーパミンが放出されることが科学的に示されている。
ギャンブルをする動機は金銭的な利益というよりも、むしろ報酬の予測できなさにあるということである。

2010年の研究で、ヤコブ・リネットらはお金を得る時と失う時のドーパミン放出状態をギャンブル依存症の人と健康な人とで比較した。
この二つのグループで、お金を得た時については違いは見られなかった。
しかし健康なグループと比較して、ギャンブル依存症の人の脳ではお金を失った時でも著しくドーパミンレベルが上昇していた。
そして報酬回路内のドーパミン放出量はお金を失うか、得られるかの確率がほぼ同じ(50%)時――つまり、不確実性が最大の時に最も高かった。

ギャンブル依存症から見えてくるのは、報酬の予期(報酬に先だったドーパミン放出)と、報酬の反応(報酬がもたらされた後、あるいはその最中のドーパミン放出)は別物だということだ。
私のところに来ているギャンブル依存性の患者は、ギャンブルをしている間は心のどこかに負けたいという気持ちがあると言っていた。
負ければ負けるほどギャンブルを続けたいという衝動が強くなり、勝った時の快感も爆発的になる。
この現象は「損失追跡」と呼ばれている。

私は、似たようなことがSNSのアプリでも起きている気がする。
SNSでの他者の反応はとても気まぐれで予測できない。
「いいね」を得られるかどうかわからないという不確実性が実際に「いいね」をもらうことよりも私たちをドキドキさせ、依存させるのではないか。

p88

コカインを毎日摂取すると、ラットは初日は生き生きとジョギングしている感じだったが、最終日には狂ったように走り回るようになってしまった。
コカインの効果への敏感さが累積していったのである。

この研究者たちがコカインの注射をやめると、ラットは走り回るのをやめた。
1年後――ラットの寿命に相当する時間である――ラットにもう一度コカインを注射すると、ラットはすぐさま元の実験の最終日のように走り回った。

ラットの脳を調べると、報酬回路にコカインによって誘発された変化が見られた。
コカインに対する感受性が上がったまま下がらない、ということと一致する結果である。
コカインのような薬物は脳を恒久的に変えてしまうことがあるのだ。
同様の結果がアルコールやオピオイド、大麻といった他の依存性のある物質でも示されている。

重度の依存症と闘っていた人が、何年もやめられていたにもかかわらず、たった1回連想させる刺激に晒されただけで衝動的に使用するように戻ってしまう。
そんな場面を臨床の仕事の中で私も見てきた。
これはドラッグに対して上がった感受性がなかなか下がらないために起こることなのだ。
以前使ったドラッグの影響が後々まで響くのである。

ドーパミンに溺れる私たち p92

科学が私たちに教えてくれるのは次の事実だ。
全ての快楽には犠牲がつきものだ。
快楽の後からやってくる苦痛は当の快楽よりも長続きし、強烈である。

快楽を与える刺激に長時間、繰り返し晒されると、苦痛に耐える能力が下がり、逆に快楽を感じる閾値は上がる。

瞬間的に、かつ永久的に記憶に刻んでしまうので、快楽と苦痛の教訓は忘れることができない。
どんなに忘れたくてもだ。
一生維持される脳の記憶中枢・海馬の刺青だ。

系統学的に相当成立が古い、快楽と苦痛を処理する神経機構は進化の中で種を超えてほぼ無傷のまま残ってきた。
それは、何もかもが不足していた世界にはぴったりのシステムだった。
快楽がなければ私たちは食べることも飲むことも生殖もしない。
苦痛がなければ、傷や死から自分を守ろうともしない。
繰り返される快楽に対して、脳の中でシーソーの支点をずらしていくことで、私たちは終わりなく努力し、あるものでは満足せず、常に新しいものを探し求めるようになる。

しかしそれが今や問題となっている。
人間は究極の探求者となり、快楽を追求し、苦痛を避けるという課題にあまりにも一生懸命になりすぎた。
その結果、私たちは世界をもののない場所から凄まじくものが溢れる場所へと変えてきてしまった。

p101

高ドーパミンのドラッグは必ず何か問題を引き起こす。
健康。
人間関係。
モラル。
すぐには現れなくても、いつか必ず現れるのだ。
デリラに悪い面がまだ見えていない――両親との確執を除けば――というのは、ティーンエイジャーにはありがちだが、ティーンエイジャーだからというわけではない。
意識と問題が結びつかない理由はさまざまだ。

第一に、ドラッグが引き起こす結果は、使用している限り完全には見通せないからだ。
髙ドーパミンの物質や行動は原因と結果を正確に評価する能力を曇らせる。

クロナガアリなど収穫アリの採食行動を研究している神経科学者ダニエル・フリードマンはかつて私にこう言った。
「世界は感覚ばかりが溢れていて、因果に乏しい」。
つまり、ドーナツが美味しいことは感じられても、1ヶ月毎日ドーナツを食べ続けたらウエストラインに3kg肉がつくだろう、ということにはその瞬間、無自覚であるということだ。

p102

しかしながら、年を取るにつれて、慢性的な使用は予期せぬ結果をもたらすことになる。
私のところに治療を求めて来る患者の多くは中年である。
彼ら/彼女らは悪い面がよい面を上回るような逆転をしたからこそ、私を見つけ出すのだ。
AA(アルコホーリック・アノニマス)グループで彼らが言うのはこんなことだ。
「うんざりしていること自体にうんざりした」。
対照的に、ティーンエイジャーの患者はまるでうんざりなどしていない。

それでも薬物を使用しているティーンエイジャーに、使用することでどうなるかという悪い結果を見せるのはやめさせる力となることがある。
例えばそれが、使用し続けて他の人が困っているよ、というだけのことであっても。
そして短い期間だったとしてもやめていられれば、真の原因と結果が見えるようになるかもしれないのだ。

「何かを断つこと節制(abstinence)」のA p105

DOPAMINEのAは、「何かを断つこと節制(abstinence)」のAである。

「断つ」ことがホメオスタシスを回復させるためには欠かせない。
「断つ」ことによって、小さな報酬から喜びを得る能力やドラッグ使用と感じ方の間の真の因果関係を見る能力が回復する。

快楽と苦痛のシーソーで言えば、ドーパミン断ちをすることでグレムリンがシーソーから飛び降り、シーソーが水平位置に戻る充分な時間が与えられることになる。
問題はこうだ。
やめることで脳にいいことが起こったと実感するために、どれくらいの期間やめている必要があるのだろうか?

神経科学者ノーラ・ボルコウの脳画像研究を思い出してほしい。
薬物をやめて2週間経ってもまだドーパミン伝達は通常以下だった。
彼女の研究は、2週間の「薬物断ち」では不充分だという私の臨床経験とも一致する。
2週間では患者たちは多くの場合、まだ禁断症状を感じている。
彼ら/彼女らは依然「ドーパミン欠乏状態」にあるのだ。

他方、4週間では充分なことが多かった。
マーク・シュキットらは毎日大量にアルコールを摂取し、かつうつ病の診断基準を満たしている男性グループを調査した。
シュキットはサンディエゴ州立大学の実験心理学教授で、アルコール依存症の人の生物学的な子供は、アルコール使用障害を発症する遺伝的リスクが高いことを示し、有名になった。
私はこの才能ある先生から2000年代初めに、依存症学会で多くの教えを受けられたことを光栄に思っている。

シュキットの研究に参加した男性うつ病患者たちは4週間病院に入った。
その間、うつ病の治療は一切受けず、断酒だけをした。
全く飲酒せずに1ヶ月が経ったとき、80%の人はもう、うつ病の診断には適合しなくなっていた。

この発見は次のことを意味する。
彼らの多くにとってうつ病は、大量飲酒の結果であり、飲酒とは別にうつ病があるわけではなかった。
もちろん違う説明もできる。
多くの人のうつ病が治ったのは病院でよい治療に出会えたからだとか、自然治癒したからだとか、うつ病は外的要因に関係なくアップダウンする病だからだとか。
しかし標準的な治療、すなわち薬を使ったり心理療法を受けたりという治療で、うつ病がよくなる人は、大体50%であることを考えると、80%という結果は注目に値する。

私の経験では、4週間を待たなくとも脳の報酬回路がリセットされる患者もいれば、4週間以上必要な人もいた。
大抵の場合、長い期間、強力なドラッグを多量に摂っていた人はより長い時間がかかると言っていい。
また若い人は脳の可塑性が大きいため、年長の人よりも早く再調整ができる。
さらに、身体的な禁断症状は依存する対象物によって変化する。
ゲームのようなものならば軽くすむことがあるが、アルコールやベンゾジアゼピンといったものだと生命を脅かすことがある。

このため重要な注意点がある。
重度のアルコール、ベンゾジアゼピン(ザナックス、バリウム、クロノビピン)、オピオイド依存症など、突然やめることで生命を脅かすような禁断症状を起こす可能性がある場合は、ドーパミン断ちをお勧めしない。
こうした患者には、よく医者が観察しながら量を減らしていくことが必要だ。

患者たちから「これまで依存してきたものを他のものに代替できるか」と聞かれることがある。
大麻をニコチンに変えるのはどうか?
ゲームをポルノにするのは?
しかし、長期的に有効な戦略になることはほとんどない。

シーソーに乗ったグレムリンに打ち勝ち、快楽の方へ傾けるほど力のある報酬ならなんでも、それ自体に依存性があると言える。
ある依存症から別の依存症に変わるだけなのだ(あるいは二重の依存症になってしまうか)。
あまり力のない報酬であれば、報酬とは感じられない。
日常の小さなことに喜びを感じる能力を失ってしまうのもそのせいだ。

少数の人たち(約20%)は、ドーパミン断ちをしても気分がよくならない。
これも重要なデータである。
この場合、飲酒は精神症状の主因ではないことを示しており、こうした患者はアルコール依存症と精神疾患とを併発している可能性がある。
独自に治療することが必要だとわかるのである。

ドーパミン断ちが効くとしても、精神疾患があるならその治療は同時にするべきだ。
通常、依存症以外の精神疾患に取り組むことなしに依存症に対処しようとすれば、どちらにも悪い結果をもたらすことになる。

それでもやはり、ドラッグ使用と精神症状の関係性がどうなっているか理解するためには、患者に充分な時間、高ドーパミンの物質から離れてもらい、観察する必要があるのだ。

セルフ・バインディング p124

「自分を縛る」というのは、機械を捨てるというジェイコブの行為をまさに表す言葉である。
それは、衝動的な過剰摂取をあまりしないで済むように意図的に、自ら進んで、自分と自分がハマっているものとの間に壁を作る方法だ。
自分を縛れるかは、そもそも意志の問題ではない。
もちろん少しは個人の主体性が必要とされる。
しかしむしろ自分を縛れるかどうかは、意志の限界を率直に認めることなのだ。

効果的にセルフ・バインディングを行う秘訣は、まず強力な衝動の魔法にかかっている時には自発性など失われるものだと認めることである。
だからこそ、自らに選択能力がまだ残っている間に行うのである。

一度、使いたいという衝動を感じてしまうと快楽を求めよう、苦痛を避けようとする反射的な力に逆らうことはほとんど不可能になる。
欲望の発作の中では選択などできないのだ。

しかし、自分と自分がハマっているものの間に具体的な壁を作ることによって、欲望と行動との間で私たちは一時停止ボタンが押せるようになる。

さらに、セルフ・バインディングは現代では必須となった。
タバコの税金、アルコールの年齢制限、コカイン所持を禁止する法律など外的にルールや処罰を定めることは必要だが、それで充分ということには決してならない。
今の私たちの世界では、高ドーパミン製品の種類は増え続ける一方で、それらへのアクセスは事実上、無制限だからである。

p142

オピオイド依存症の被験者は、平均すると未来を9日という長さで捉えていた。
一方、健康な人にとっての未来とはおよそ4・7年先のことを意味した。
この顕著な違いは、依存性のある薬物の影響下では「時間的視野」がいかに狭くなるかを示している。

逆に患者たちに回復しようと決めた瞬間はどんなだったか聞くと、長い時間軸で物事を見ているとわかる表現をする。
1年間ヘロインを吸っていた患者はこう私に言った。

「突然、もう1年もヘロインを使い続けてきたんだなって認識したんです。それでこう思いました。今やめなかったら一生このままかもしれないって」

今この瞬間だけでなく、全人生の軌跡を考えてみることでこの若者は日々の自分の行動のより正確な把握ができた。
同じことがデリラにも起こっていた。
10年先もまだ大麻を吸っている自分を想像したからこそ4週間大麻を断つ気になったのだ。

今日のドーパミン過多な社会の中では、私たちは皆すぐに満足が得られることに慣れてしまっている。
何か買いたいと思ったら次の日には玄関に届いている。
何か知りたいと思ったら次の瞬間に画面に答えが出ている。
私たちは熟考してものを解き明かしたり、答えを見つけるまでジリジリしたり、欲しいものが来るまで待ったりする習慣を失ってしまったのだろうか?

神経科学者のサミュエル・マクルーアらは即時報酬と遅延報酬に関係する脳部位を調べた。
被験者が即時報酬を選んだ時、感情と報酬処理に関わる脳の部位が点灯した。
遅延報酬を選んだ時は前頭前野――計画を立てたり抽象的な思考に関わる脳部位――が活性化した。

この研究から何が示唆されるか?
報酬回路が私たちの人生の主な導き手になっているので、私たちの前頭前野は萎縮しつつあるのかもしれないということだ。

高ドーパミン製品の摂取は遅延報酬割引に影響する唯一の因子ではない。

例えば資源の貧しい環境で育った人たちは、資源が豊かな環境で育った人たちと比べて、死を思い起こさせると遅延報酬よりも即時報酬を選ぶことが多い。
スラム街に暮らす若いブラジル人は同じ年齢の大学に通っている人よりも未来の報酬を割り引きやすい。

安物のドーパミンを簡単に手に入れられるこの現代社会において、貧困が依存症の一つのリスク要因になることに何か不思議はあるだろうか?

暇な時間が依存を増やす p144

衝動的な過剰摂取をもたらすもう一つの因子は余暇の時間が増えていることだ。
余暇の時間が増えて私たちは退屈を持て余している。
農業、製造業、家事その他の以前だったら時間と労力とを要した仕事が機械化され、人々が1日当たり仕事に費やす時間が減り、余暇の時間が増えることになった。

南北戦争(1861~1865)直前、アメリカの平均的な労働者は農業従事者でも製造業従事者でも1日につき10~12時間、1週間につき6日半、1年につき51週間働いており、余暇の活動に費やすのは1日のうち2時間あるかどうかだった。
多くは移民女性だが、中には1日13時間、週に6日働く労働者もいた。
また、奴隷として働かされていた人もいた。

現在、アメリカ人の余暇の時間は1965年から2003年の間で週に5・1時間増えた。
年計算では270時間の増加である。
2040年までには、アメリカで暮らす人の典型的な余暇の時間は1日7・2時間、働く時間は3・8時間だけになるのではないかと予想されている。
他の高所得国も同様である。

p155

以前にはタブーとされていたドラッグが社会的に許容され、商品に変わる例は現代では多数に上り、しばしば医療品という装いまでまとう。
タバコは電子タバコやニコチンパッチとなった。
ヘロインはオキシコンチンになった。
大麻は医療用大麻になった。
私たちが断つと決めるや否や、その古いドラッグは素敵なパッケージの買いやすい新しい製品となり、「やあ!これはいいんだよ。今はあなたにとっていいものになったよ」と再登場してくるのである。

p192

近代的な給排水・加熱設備の出現により温水風呂、温水シャワーが当たり前になったが、氷のように冷たい水に浸かる冷水浴は最近再び人気が出てきている。
耐久スポーツのアスリートは、冷水浴が筋肉疲労を素早く回復させると断言する。
「スコティッシュ・シャワー」、「ジェームズ・ボンド・シャワー」とも呼ばれる、イアン・フレミングの小説『007』シリーズの主人公ジェームズ・ボンドが実践していた方法が今は人気だ。
熱いシャワーを浴びた後に、少なくとも1分間、冷たいシャワーを浴びて締めるのである。

オランダ人のヴィム・ホフのような氷水浴の指導者たちは、もう少しで凍ってしまうという温度に1回で何時間も浸かっていることができるという能力で有名になった。

プラハのカレル大学の科学者たちは論文誌『欧州応用生理学ジャーナル』に次のように発表している。
14°Cの冷水に1時間身を浸す(頭は出している)という実験に10人の男性が参加した。
血液サンプルを調べると、冷水に浸かると血漿ドーパミン濃度が250%、血漿ノルエピネフリン濃度が530%増加することが明らかになった。

ドーパミンは冷水浴をしている間、徐々にそして確実に上がっていって、出た後も1時間ほど高い状態を保っていた。
ノルエピネフリンは最初の30分で急激に上がり、その後の30分は頭打ちとなり、冷水から出た後1時間で3分の1にまで下がったが、冷水浴後2時間を過ぎても基準値以上の状態を保っていた。
ドーパミンとノルエピネフリン量は、苦痛な刺激そのものから解放された後まで長い間、高い値を維持したのである。
これこそマイケルの「出るとすぐにハイになるんです……何時間もいい気持ちでいられるんです」という発言の意味するところである。

p205

私たちが幸せを感じる一つの鍵は、ソファーから立ち上がり、バーチャルではなくリアルに体を動かすことだ。
よく患者に言うのだが、近所を一日30分散歩するだけで違いが出てくる。
以下は議論の余地がないほど確かなことだ。
運動は私が処方するどんな錠剤よりも気分、不安、認知、エネルギー、睡眠の状態をよくし、その効果を持続させる。

苦痛への依存 p216

「冷水に入った時の最初のショックが強ければ強いほど」マイケルは言った。

「出た後の高揚感が大きくなると気づいたんです。
だからもっとその最初の苦痛を強くする方法を探しました。
肉用の冷凍庫を買いました。
蓋と内蔵冷却コイルがついている細長い入れ物です。
そこに毎晩水を入れました。
朝には表面に薄い氷が張っていて、温度は0°Cくらいになります。
入る時は氷を割らなくてはなりません。

でも水というのはジェットバスみたいに動いていないと、数分もあれば体の熱であったまってしまうんですね。
それで、氷風呂に入れるモーターを買いました。
この方法で、入っている間ずっと凍ってしまう寸前の温度を維持できるようになりました。
また、寝る時のベッド用に水が循環して冷えるマットレスパッドを購入し、最低温度で寝るようにしました。13°Cくらいですね」

マイケルはそこで突然話すのをやめて、ニヤリと笑って私を見た。
「話していて気が付いたんですが、これって依存症みたいですね」

p225

「オーバートレーニング症候群」という耐久スポーツのアスリートの中ではよく言われが、あまり理解されていない現象がある。
あまりにトレーニングをしすぎ、それまでたっぷり出ていたエンドルフィンがもはや出ない地点に達することを言う。
運動はむしろ、燃え尽きた感覚や気分不調を残すのみになる。
私の患者のクリスがオピオイドで経験したようにまるで報酬回路のシーソーが限界に達し、動かなくなってしまったような状態だ。

エクストリーム・スポーツや耐久スポーツをやっている人は皆依存症だと言っているわけではない。
そうではなく、どんな物質、どんな行動にも依存症になる可能性はあり、そのリスクは得られる効果が強ければ強いほど、量や持続時間が増えれば増えるほど上がるということを言いたかっただけだ。
シーソーを苦痛の側にあまりにも強く、長く押しつけた人たちもまた、ドーパミン欠乏状態に長く陥ることになってしまうのである。

説明責任を作る「正直な自伝」 p252

日々の生活についての一つ一つのシンプルな真実は鎖の中の一つ一つの輪のようなもので、その連なりが正直な自伝的物語になってゆく。
自伝的物語は、その人が生きてきた時間を表すものである。
自分の人生について語る時、物語は私たちの過去を教えるだけでなく、将来の行動を形作ることにもなる。

精神科医として20年以上もの間、何万人という患者の話を聴いてきて、私は人が自分の物語を語るその「語り方」が精神の健康状態の指標となり、予測因子となると確信した。

患者が自分を語る時に自分を被害者として語ることが多く、起こってしまった悪い結果に対してほとんど責任がないというような話し方をするならば、その人の健康状態はあまりよくないことが多く、その先もうまくいかないことが多い。
彼ら/彼女らは人を責めるのに忙しく、自分を回復させることに本腰を入れて取り組むことができない。
対照的に、自分の責任を明確にしながら物語を始める場合、症状がよくなっていくことが多い。

被害者物語が多いのは、今の私たちが状況の犠牲者として自分自身を見がちで、自分の苦悩に対して補償や報酬が与えられるべきだと考えがちであるという、大きな社会的傾向を反映している。
たとえ実際に何かの被害者になってしまったのだとしても、被害者意識を超えて物語が進展することがなければ、癒しを得ることは難しい。

人が癒しの物語を語るように持っていくことができたら、心理療法はよい仕事をしたといえる。
自伝的物語が一つの川だとしたら、心理療法はその川を地図に載せ、必要があれば川の流れを変更させる手段である。

癒しの物語は実際の人生の出来事に則って作られるものだ。
真実を探し求め、あるいは手元のデータに限りなく近づけようとすることで、自らの人生に対して真の洞察や理解を得る機会が与えられる。
自分の人生を充分に見渡した上で選択することができるようにもなるのだ。

前に少し触れた通り、現代の心理療法は大きな目標を掲げすぎて達成できないことがある。
精神衛生医療の従事者は共感することに夢中になりすぎかもしれない。
単に無責任に共感するだけならその場では患者の苦悩が和らいだように見えたとしても、本当には何も変わらないという事実が見えなくなっている。
セラピストと患者が協力して、「この人は自分ではコントロールできない力の永遠の犠牲者である」という物語を作り上げてしまったら、患者はずっと犠牲者のままであり続ける可能性が高い。

しかしもし、セラピストが患者に自分の責任(起こった出来事自体に責任がなくとも、その出来事にどのように「今ここ」で反応するかという責任はある)を取れるように手助けできるなら、患者は自分の人生を前向きに進める力を得る。

この点に関して、私はAAの理念や教えに深い感銘を受けてきた。
AAのずば抜けて優れた標語の一つは、よくパンフレットに太字で印刷されている「私には責任がある」である。

「責任」に加えて、AAはその理念の中心に「徹底した正直さ」を置いていて、この二つを一緒にやっていく。
AAの回復プログラム「12ステップ」の4番目は参加者に「徹底的に、恐れず、道徳面で自分自身の棚卸し(棚上げではなく)をする」ことを求めている。
これは、個人が自分の性格的な欠点をくまなく見直し、それらの欠点が問題にどうつながってきたかを見出すことを意味する。
5番目は「告白のステップ」である。
これは「神に対して、自分に対して、他の人間に対して、自分の悪いところを偽らずに正確に認める」ことを求める。
このシンプルで実践的で体系的なアプローチは、実際に人をガラリと変えてしまう力がある。

私自身、スタンフォードで30代の頃、精神科の研修医をしていた時に経験した。

私の心理療法の先生であり指導者については本書の最初の方で書いたが、中折帽をかぶっていたあの人が私に「12ステップ」をやってみるよう勧めてきたのだ。
母親に対する怒りを解消する手段としてだった。
彼は私よりもずっと前に、私が依存症的と言っていいほど繰り返し母に感じる苦痛を持ち出し、内心とてもこだわっていることに気づいていた。
それまでにも数年、母と自分の関係を理解するため心理療法に時間を費やしていた。
しかしそれは母が私の望むような母親、私が必要だと思う母親ではないことに対する私の怒りの炎に薪をくべるだけだったようだ。

先生は自分がアルコール依存症から何十年という長期回復をしていること、その回復にはAAと12ステップが役立ったことを隠さず明かしてくれた。
当時の私の問題は正確な意味では依存症ではなかったが、彼は直感的に12ステップが役に立つことがわかっていて一緒にやってくれたのである。

p256

それから書き出すという苦痛な作業を行なった。
そう、紙に書き出すことでリアルに見えるようになってくるものがあるのだ。
自分の性格的欠点と、それが私たちの緊張関係にどう関わってきたかということが見えるようになった。
古代ギリシャの悲劇詩人アイスキュロスが言ったように、「苦しんで、苦しんで、真実の中へ入っていく」。

p258

私自身が癒やされることによって、母との関係性は改善されていった。
私は母に対し多くを要求することがなくなり、ゆとりが出て、決めつけることが少なくなった。
そして私たちの対立がもたらした多くのいい点にも気がつくようになった。
つまり母ともっとうまくいっていれば、私に今ほどの逆境への強さはなかっただろうし、自らを頼む力もついていなかっただろう。

今は全ての人との関係について同じように真実を見る練習を続けている。
いつもうまくできるわけではなく、本能的に誰かに責任を負わせたくなってしまうことがある。
しかし、そこでもしも自分を律し、勤勉に励むことができれば、自分にも責任があることに気づく。
そうした場所に辿り着き、自分にも他人にも本当の話ができたとき、ああ、これでいいのだ、これが公平なのだという感覚がやって来る。
私が喉から手が出るほど欲しかった世界の秩序が与えられるのである。

p260

現実の経験が理想からかけ離れていると自分に距離を感じ、現実を非現実のように感じるものである。
自分が作り上げた偽りの像と同じくらい偽物だと。
精神科医はこの感覚を「脱現実化」とか「脱人格化」と呼んでいる。
それは恐ろしい感覚で、自殺念慮につながってしまうことが多い。
結局、現実感を持てなければ、人生を終わらせても大したことがないように思ってしまうのである。

偽りの自己に対する解毒剤は確かな自己である。
徹底的な正直さはそういう自己に辿り着くための手段だ。
それは私たちを現実に結びつけ、この世界に実在していると感じさせてくれる。
それはまた自分がついてきた嘘を全て維持するのにかかる認知的負荷を減らし、今この瞬間にもっと自発的に生きられるよう心のエネルギーを解放してくれる。

偽りの自己を見せようとしなくなると、私たちは自分自身や他者に対して開かれる。
精神科医のマーク・エプスタインが確かな自己への彼自身の旅路を綴った『自分であり続ける』で書いているように、「周囲をなんとかしようとすることをやめると、爽やかな気持ちになってきて、いいバランスが見つかり、自発的に動いている自然界や自分の中にある自然とつながっているという感覚が持てる」ようになるのだ。

p262

スタンフォードのマシュマロ実験について前に書いた。
3歳から6歳の子供に行われた、報酬をどれだけ遅らせられるかというあの実験である。

2012年、ロチェスター大学の研究者たちがその1968年のスタンフォード実験に一点重要な変化を加えた。
一つのグループの子供たちに、マシュマロ実験を行う前に約束を破られる経験をさせたのだ。
研究者たちは、子供がベルを鳴らしたら戻ってくると言っていたのに戻らなかった。
別のグループの子供たちは同じことを言われたが、ベルを鳴らすと研究者たちはちゃんと戻ってきた。

後者のグループの子供たちは約束を破られたグループの子供たちよりもマシュマロをもらうために4倍も長く(12分)待とうとした。

マリアがアルコール依存症から回復することが、なぜディエゴを肥満の問題に向き合おうとさせたのか?
これをどう理解したらよいのだろう?
またなぜ大人たちが子供との約束を守ることが、子供に自分の衝動を抑えさせることになったのだろう?

私はこれを「充分状態のマインドセット(無意識の思考・行動のパターン)」と「欠乏状態のマインドセット」という区別を使うことで理解している。
真実を語ることは「充分状態のマインドセット」を生じさせる。
嘘をつくことは「欠乏状態のマインドセット」を生じさせる。
説明してみよう。

周囲の人が約束を守ってくれる信頼できる人たちで、その人たちが真実を言ってくれるなら、私たちは世界とその中で暮らす未来について自信が持てる。
その人たちだけでなく、世界も秩序があり予測可能で安全な場所だと信頼できる。
そう感じていると何かが不足していても、きっとそのうちうまくいくと信じることができる。
これが「充分状態のマインドセット」である。

周りの人が嘘をついたり約束を守らなかったりすると私たちは未来に自信を持てなくなる。
世界は当てにすることができない危険な場所になる。

私たちは生存競争モードに入り、長期的な利益よりも短期的な利益を好むようになる。
実際には物が豊富にあってもだ。
これが「欠乏状態のマインドセット」である。

神経学者のワレン・K・ビッケルらによる実験は、被験者が「充分状態」と「欠乏状態」とを表す物語の一節を読んだ後で、金銭的な報酬を遅らせる能力にどんな違いが出るかを調べた。

「充分状態」の物語とはこんなものである。
「仕事であなたは昇進したばかりです。
ずっとあなたが住みたいと思っていた場所へ移住する機会を得ました。
しかし、今住んでいる場所に留まることもできます。
会社は移住にかかる多額の費用を負担しますし、それを使わずに取っておいてもいいと言っています。
あなたは以前より100%多く収入を得ることになります」

「欠乏状態」の物語とはこんな風である。
「あなたは仕事をクビになったばかりです。
あなたはあなたが嫌いな場所に住んでいる親戚の家に引っ越さなければなりません。
そしてそこに移るために貯金を全部使ってしまうことになります。
失業保険は出ないので次の仕事を見つけるまで収入が全く得られません」

結果は予想通り、「欠乏状態」の物語を読んだ被験者たちは遠い未来の報酬を待つより今すぐ報酬を得ようとすることが多かった。
「充分状態」の物語を読んだ人たちは報酬の受け取りを引き延ばすことができた。

資源が乏しいと人は目先の利益に囚われ、少し先の未来に報酬が本当にやってくるかどうか自信が持てなくなるというのは直感的に理解できる。

問題は、なぜ物質的な資源が豊富にある豊かな国に暮らしている人の多くが、それにもかかわらず「欠乏状態のマインドセット」で生活しているのかということだ。

これまで見てきたように、物質的に豊かでありすぎることは、少なすぎることと同じくらいよくないことなのだ。
ドーパミンが過剰に分泌されると報酬を遅らせる能力が損なわれる。

SNSの誇張や「ポスト真実」の政治(はっきり言おう、これは嘘をつくことだ)が、私たちの「何かが足りない」という感覚を増幅させる。
その結果、物が豊富にある時でさえ私たちは貧しいと感じてしまうのである。

同様に、物が希少な時に「充分状態のマインドセット」を持つこともできる。
「満ち足りている」という感覚は物質的世界を超えたところから生み出される。
自分以外のものを信じ、未来に向かって努力し、人間同士の結びつきや意味が充実した人生を育んでいくことができればそれが社会的な接着剤となり、たとえ極貧の中にいても「充分状態のマインドセット」を持つことができる。
そしてその結びつきや意味を見つけるには徹底的な正直さが必要なのだ。

p276

正直であることは自覚を促し、満足のいく人間関係を作らせ、確かな自分史を語る責任を持たせ、報酬を遅らせる能力を高める。
私は患者たちからそのことを教わった。
そしてそれは、依存症を将来発症することを防ぐことさえもできるのかもしれない。

私は正直であろうと毎日格闘している。
自分のことをよく見せたい、悪いことをしてしまった言い訳をしたいと思ってほんの少しだけ物語を装飾しようとする自分がいつもどこかにいる。
今は、その衝動と一生懸命戦っている。

実践するのは難しいが、この便利な道具――真実を言うという手段――は私たちがやろうと思えばすぐ手にできる。
ある朝起きて、「今日は何についても絶対に嘘をつかない」と決めればいいだけなのだ。
そうすればそのうちそれぞれの人生がよくなっていくだけではなく、もしかしたら世界を変えることにさえなるかもしれないのだ。

第9章 「恥」が人とのつながりを生む p277

衝動的過剰摂取に関して言うと「恥」はややこしい概念である。
ある行動を永続させてしまうことにもなれば、止める原動力にもなる。
では、この両極がどう結びつくのだろうか?

まずは、恥とは何かから話を始めよう。

心理学の文献では、今日、恥は罪悪感とは違う感情として扱われている。
恥は自分自身を人間として悪く思う感情であり、罪悪感は自分の取った行動を悪く思う感情で、自己に対する肯定感は持ち続けている。
恥は非適応的な感情である。
罪悪感は適応的な感情である。

私はこの「恥」と「罪悪感」の分離に疑問を感じている。
なぜなら「恥」と「罪悪感」は経験的には同じものだからだ。
理性では、自分を嫌わずに「悪いことをした善人である」と思うことはできるかもしれないが、恥や罪悪感を感じた瞬間、お腹にグッと強い感情のパンチが入るわけで、その感覚は同じではないか。
すなわち罰せられる恐怖や見捨てられる恐怖が混ざりあった後悔だ。
その後悔は他者に見つかってしまったことに対するもので、やってしまったこと自体に対する後悔は含まれていることもあるし、いないこともある。
見捨てられる恐怖はそれ自体が罰の一形態で特に強力である。
追い出される、避けられる、もう集団の一員ではいられないというのは、人にとって非常に怖いことである。

しかしこの「恥」と「罪悪感」の分離からわかる現実もある。
私は、この差は私たちがその感情をどう経験するかではなく、他人が私たちの逸脱行為にどう反応するかだと信じている。
他人に拒否され、非難され、忌避されればその人は「破壊的恥」と呼ばれるサイクルに入ってしまう。
破壊的恥は、恥ずかしいという感情をさらに悪く強い形で感じさせ、そもそも恥を感じることになった行動から抜け出せないように仕向けていく。
一方、他人に抱き寄せられ贖罪や回復のための明確な指針を与えられれば、「向社会的恥」のサイクルに入っていく。
向社会的恥は恥ずかしいという感情を和らげ、恥ずかしいと感じる行動をやめたり減らしたりするように仕向けていく。

p288

宗教的な組織と積極的に関わっている人は平均して、薬物やアルコールの乱用率が低いという研究結果がある。
しかし信仰を基盤とする組織が罪を犯した人を避けたり、秘密や嘘を張り巡らせるように仕向けたりするなど恥の方程式の間違った側に立ってしまうと、破壊的恥のサイクルに陥ることになる。

破壊的恥のサイクルは次のようなものである。
過剰摂取が恥の意識を持たせる。
グループから避けられたり、避けられないようにしようとグループに嘘をついたりする。
これはどちらもさらなる孤立に導く。
それがさらなる過剰摂取を呼び込む。
こうしてこのサイクルから抜けだせなくなる。

p290

向社会的恥ではコミュニティを繁栄させるためには恥は役に立つ重要なものであると考える。
恥がなければ社会はカオス状態となってしまう。
それゆえに違反行為に恥を感じることは適切でよいこととされているのだ。

さらに向社会的恥は、私たちは皆欠点があり、間違いを犯すもので、許される必要があると考える。
集団の規範を守るよう促すには、はみ出してしまった人をすべて追い出すのではなく、恥ずかしいことをしてしまった後に何をすべきかという「ToDoリスト」を作るのが重要だ。
償うために具体的にやれることをリスト化すればいいのである。
これがまさにAAが「12ステップ」でやっていることだ。

向社会的恥のサイクルは次のように進む。
過剰摂取が恥の意識を持たせる。
徹底的な正直さが求められる。
破壊的恥で見たような敬遠ではなく受容と共感がもたらされる。
その時、償うために必要な行動リストもついてくる。
その結果、自分には居場所があると感じられることになり、摂取が減少する。

p293

正直に自己点検していくと、自分自身の欠点がより理解できるようになるだけではない。
他人の欠点に対してもより客観的に評価して対応できるようになる。
自分自身に責任を持てば、他人にも責任を持たせることができる。
恥をかかせるのではなく、恥を活用することができる。

ここでの鍵は思いやりを持って説明責任を果たすことである。
この教訓は依存症でもそうでなくても全ての人に当てはまることで、日常生活にある全ての関係性に通じることである。

シーソーの教訓 p313

1 快楽のあくなき追求(そして苦痛からの逃避)は苦痛に導く
2 回復はそれを「断つ」ことから始まる
3 ドーパミン断ちは、脳の報酬回路をリセットする。おかげでシンプルなものごとに喜びを見出すことができるようになる
4 セルフ・バインディングで欲求と摂取の間に文字通り壁を作ることができる。メタ認知できる余地もできる。それがドーパミン過剰の現代には必要である
5 薬でホメオスタシスを回復させることはできるが、苦痛を薬で取り去ることで私たちが失うものを覚えておくこと
6 苦痛の側にシーソーを押すことは、シーソーを快楽の側ヘリセットする
7 苦痛の依存症にならないよう気をつけること
8 徹底的な正直さは自覚をもたらし、親密な関係性を作り、「充分状態のマインドセット」を育む
9 向社会的恥は私たちが人間という種族に属していることを思い出させる
10 世界から逃げ出すのではなく、世界の中に没入することで本当の癒しが見つかる

p319

不完全を不完全と認めること、日々の生活の小さなことで嘘をつかないように心がけ、自分を人生の責任者とすること。
それは外部の情報を取り込むよりもよほど勉強になることなのかもしれない。
着実に自分の居場所を作っていく。
自分がどんな人間か、周りの人がどんな人間か、確実な像が結べる。
この本を訳してレンブケという精神的支柱に頼って、自分の内面に深く降りていく体験をした。