「DIE WITH ZERO」を 2,025 年 02 月 17 日に読んだ。
目次
- メモ
- p26
- 金やモノのために、あなたが失っているもの p28
- 人生で一番大切な仕事は「思い出づくり」 p44
- 「老後の備え」より大切なこと p58
- 「ゼロで死ぬ」は効率の極み p74
- 寿命を予測したことはあるか? p96
- 「長寿リスク」への正しい備え方 p98
- 貯蓄より長寿年金をすすめる理由 p100
- 「富」の最大化から「人生」の最大化へ p104
- p141
- p144
- 「収入の◯割を貯金する」をやめる p154
- 健康の改善は、人生を大改善する p175
- 若い頃に健康に投資した人ほど得をする p180
- 中年期には、金で時間を買いなさい p182
- 死ぬ前に後悔することトップ2 p193
- 「タイムバケット」で後悔しない人生をつくる p198
- 老後に必要な金を確認する「魔法の計算式」 p217
- リスクを取らないリスク p242
- 住む場所を変える不安を乗り越える方法 p252
- リスクを恐れるあなたへ p256
メモ
p26
そんなある日、会社の上司ジョー・フレルと話をしていて、なぜか私の貯金の話になった。
私は自信たっぷりに、節約して1000ドル貯めたことを伝えた。
うまくやりくりしているのを褒めてもらえるだろう、と。
ところが、それは大きな間違いだった。
「お前はバカか?はした金を貯めやがって」
そう言われ、頬をビンタされたように衝撃を受けた。
「この業界に入ってきたのは、大金を稼ぐためだろう?
ちまちま節約なんてするな。
これからもっと稼げるようになる。
このまま一生、年収1万8000ドルが続くと思っているのか?」
その通りだった。
まだウォール街で働き始めたばかりだったが、これから数年間で確実に収入は上がっていくはずだ。
この少ない稼ぎのなかから、将来のために無理な節約をする必要などない。
「この1000ドルは、今しかできないことのために費やすべきだ」
人生が変わった瞬間だった。
収入と支出のバランスについての考えが一変した。
当時は知らなかったが、上司が話していたのは会計の世界では古くからある、「消費の平準化」と呼ばれる考え方だった。
人の収入は月や年によって変わる。
だが、支出をその変動に合わせる必要はない。
収入の多いときは貯蓄に回し、少ないときにそれを切り崩せば、同額の支出を維持できる。
そもそも銀行の預金口座とは、このような使い方をするためにあるものだと言える。
だが、そのときの私は、預金口座を逆の方法で使っていた。
つまり、豊かになっているはずの将来の自分のために、若く貧乏な今の自分から金をむしり取っていた。
彼にバカと言われたのも無理はない。
「将来、自分が今より豊かになるなんてわからないだろう」という人もいるかもしれない。
もっともな疑問である。
雑用係が必ずしもトレーダーとして成功するわけではない。
ハリウッドのメールボーイが必ずしも大物になれないように。
私も今のポジションにたどり着くまでにはいくつもの障壁を乗り越えてきた。
自分が将来、どれだけの金を稼げるかなんて想像もできなかった。
だが、何百万ドルもの大金を稼げるかはわからないが、近い将来、年収1万8000ドル以上を稼げる確信はあった。
なぜなら当時の年収は、レストランでウェイターをしたほうがもっと稼げるレベルの薄給だったからだ。
金やモノのために、あなたが失っているもの p28
この頃、私は人生の指針となる本にも出会った。
『Your Money or Your Life』(ビッキー・ロビン、ジョー・ドミンゲス著)という本だ。
もう何度も読み直している。
刊行から25年がたった今でも新たな世代の読者に受け入れられ、特に「FIREムーヴメント」(Financial Independence, Retire Early=経済的に独立して、早期に引退する)という考え方を支持する人たちに受け入れられている。
この本は、私の時間と人生の価値観を完全に変えた。
人生の貴重な時間を浪費してきたことにも気づかされた。
本書では、金は「ライフエネルギー」を表すものだと主張している。
ライフエネルギーとは、人が何かをするために費やすエネルギーのことだ。
働くときも、この有限のエネルギーを使っている。
つまり仕事で得た金は、それを稼ぐために費やしたライフエネルギーの量を表している。
給料の額は関係ない。
1時間働いて稼いだ8ドルであれ20ドルであれ、それを使うことは、1時間分のライフエネルギーを使ったことになる。
私はこのシンプルな考え方にとてつもない衝撃を受けた。
「時は金なり」なんて古いことわざより、はるかに心に響いた。
「仕事はライフエネルギーを奪い、代わりにお札という紙切れに変えているだけじゃないか」と。
そう考えたとき、世界がそれまでと違う場所に見えた。
私はモノを買うのに必要な時間を計算し始めるようになった。
店でお洒落なシャツを見かけたら、値札を確認して暗算した。
「ダメだ、このシャツを買うために2時間も働けない!」
ほかにも、この本には価値あることがいくつも書かれている。
たとえば、「収入は、必ずしも労働の時間単位の価値を表していない」というものだ。
つまり、年収7万ドルの人より年収4万ドルの人のほうが、1時間あたりに得ている価値は大きいかもしれない。
なぜか?
それにもライフエネルギーが関係している。
もし、その仕事に必要なコスト(毎日の長い通勤、高収入の仕事に相応しい身なりをするための衣料費、長時間労働など)が高ければ、年収7万ドルの人のほうが4万ドルの人より貧しくなってしまう。
それに、稼いだ金を使って何かを楽しむための時間も少なくなる。
仕事を比べるときは、この隠れたコストを考えなくてはいけない。
私にとって、これはクッキーにも当てはまる。
私は膝の軟骨に問題があり、一定の体重を保たなければならない。
だから美味しそうなクッキーを見ると、そのカロリーをウォーキング時間に換算するのが習慣になっている。
このクッキーには、トレッドミルで1時間歩くだけの価値はあるか?
答えはノーだとは限らないが、ともかくこんなふうに考えることで、クッキーを無自覚に口に入れたりはしなくなる。
収入と時間の問題であれ、食事と運動の問題であれ、ライフエネルギーを意識すれば、衝動的、習慣的に行動せず、理性的に判断しやすくなる。
もちろん、すべての仕事(や運動)が時間の無駄だというわけではない。
仕事には楽しい側面もある。
だが世界の多くの人は、人生は仕事だけではないことを知っている。
ヨーロッパの有給休暇の長さを見てもそれはわかる。
フランスやドイツでは6週間以上もある。
私が大好きなカリブのセント・バーツ島では、どの店も昼間に2時間シャッターを閉める。
家族や仲間とゆったりとしたランチを楽しむためだ。
先進国に住む人々より、彼らのほうがはるかにワークライフバランスに優れているのかもしれない。
『Your Money or Your Life』のメッセージも同じだ。
この本は、金のために人生を犠牲にすべきではない、仕事や物質の奴隷になってはいけない、と呼びかけている。
人生で一番大切な仕事は「思い出づくり」 p44
この章ではまず、なぜ経験が大切かを、改めてあなたに理解してもらいたい。
そして、一刻も早く経験への投資を始めるべきであることを心に刻んでほしい。
人生は経験の合計だ。
あなたが誰であるかは、毎日、毎週、毎月、毎年、さらには一生に一度の経験の合計によって決まる。
最後に振り返ったとき、その合計された経験の豊かさが、どれだけ充実した人生を送ったかを測る物差しになる。
だからこそ、この人生でどんな経験をしたいのかを真剣に考え、それを実現させるために計画を立てるべきだ。
そうしなければ、社会が敷いたレールのうえをただ進むだけの人生になってしまう。
いつかは目的地(死)にたどり着くが、その道のりは自分自身が選びとったものではない。
残念ながら、そんな人生を生きている人は多い。
こう言い換えてもいい。
彼らは人生という名の井戸から、毎日ポンプで水を汲んでいる。
だがその水を、小さなコップでしか受けていない。
コップはすぐにいっぱいになり、水が溢れてしまう。
こうして喉の渇きを十分に潤せないまま時は過ぎ、人生の終わりを迎えるのだ。
なんともったいないことだろうか。
人生最後の日に、満足のいく経験に満ちた人生を送れなかったと気づいたときの後悔がどれほど大きなものか、想像してみてほしい。
テレビドラマ『ダウントン・アビー』の執事、カーソンはこのことを見事に表現している。
「人生でしなければならない一番大切な仕事は、思い出づくりです。
最後に残るのは、結局それだけなのですから」
素晴らしい言葉だが、うっかりすると片方の耳からもう一方の耳に抜けていってしまいそうにもなる。
その場では、なるほど、そうだなと共感してうなずいても、すぐにいつもの日常に戻ってしまう人は少なくない。
私もそうだった。
だが、晩年を迎えていた父との経験が「人生の仕事は思い出づくり」という考えの重さを教えてくれた。
晩年の父は肉体的にかなり衰弱していて、もう遠くにパケーションに行くことはできなくなっていた。
だから私は、旅行の代わりに、自分でも気恥ずかしくなるような贈り物をした。
それは、思い出の映像がたっぷりつまったiPadだ。
父は大学時代、アイオワ大学でフットボールをしていた。
同大学のホークアイズがローズボウルを制覇した1959年にもチームの一員だった。
私はその輝かしいシーズンの映像を探し出し、デジタル化してiPadで再生できるようにした。
人は誰でも、常に思い出を通して人生の出来事を再体験できる。
私はこのプレゼントで、父の思い出が鮮やかに蘇ることを願った。
幸い、父はとても気に入ってくれた。
椅子に座り、画面に映し出される映像を見ながら、笑い、泣き、思い出に耽っていた。
老いた父には、もう人生の新たな経験は望めない。
それでも栄光のフットボール部時代の動画から、大きな喜びを引き出すことはできた。
人生最高のプレゼントだと褒めてくれたくらいだ。
私はそのとき、人生の最後に残るのは思い出だと改めて感じた。
身体が弱って思うように行動ができなくなっていても、それまでの人生を振り返ることで、大きな誇りや喜びを味わい、甘酸っぱい思い出に浸ることができる。
「人生の最後に残るのは思い出」という考えは、私たちが老後について一般的に耳にする考えとは正反対である。
私たちは、「老後に向けて貯蓄しよう」といったメッセージを常に耳にしている。
子どもの頃から「いざというときのためにお小遣いを貯めておきましょう」と聞かされて育ち、大人になっても同じことを言われ続ける。
アリとキリギリスの寓話の有名な結末は、アリが穀物を収穫して満足そうな(得意気な)顔をしている一方で、夏に遊んで蓄えを使い果たしたキリギリスがお腹を空かせているというものだ。
どちらの生き方が正しいとされているかについては議論の余地がない。
もちろん、間違っていたのは将来を考えず、刹那的な生き方をしたキリギリスのほうだ。
ただ、誤解しないでほしい。
私は誰もがキリギリスのように生きればいいと言いたいのではない。
人生の冬に備えて蓄えなくてもいいとも言わないし、経験のためならどれだけ金を使ってもいいとも言わない。
そんなのはバカげている。
私が言いたいのは、現代の社会では、勤勉に働き、喜びを先送りすることを美徳とする、アリ的な生き方の価値が持ちあげられすぎているということだ。
その結果、キリギリス的な生き方の価値が軽視されすぎている。
つまり、キリギリスはもう少し節約すべきだし、アリはもう少し今を楽しむべきなのだ。
この本の目的は、アリとキリギリスの生き方の中間にある最適なバランスを見つけることだ。
「老後の備え」より大切なこと p58
人生にリターンをもたらす経験はさまざまだ。
何かを学ぶ、スキーをする、子どもたちの成長を見守る、旅行をする、友人と美味しい食事を楽しむ、世の中を変えるための活動をする、コンサートを鑑賞する――。
私たちはそのような経験をするために金を稼ぐ。
その経験に金を使えば、記憶の配当によって、金融商品への投資と同じようにリターンが得られる。
ときに、そのリターンの割合はとてつもなく高くなる。
借金をして一人旅をしたジェイソンの場合がそうだ。
だから彼は、どれだけ金をもらってもヨーロッパ旅行の記憶を消したくないと言った。
もちろん、すべての経験が人生を変えるようなものになるわけではないし、とてつもないリターンをもたらすわけでもない。
それでもどんな経験からでも、リターンは得られる。
だからこそ私たちは経験を買う。
多くの人は、何のために稼ぎ、金を貯め、投資するのかを忘れているように見える。
何のために貯金しているのかと尋ねると、たいていの人は「老後のため」と答える。
もちろん、それは正しい。
私たちは将来のために老後資金を貯め、それを増やすために投資すべきだ。
老後にひもじい思いはしたくないし、子どもたちに金銭的なサポートをさせたくもない。
だが、年を取れば取るほど、行動に移せる経験の種類は減っていくこともまた事実だ。
もちろん、老後の備えは必要だ。
だが、老後で何より価値が高まるのは思い出だ。
だから私はあなたに、できるだけ早く経験に十分な投資をしてほしいと考えている。
記憶の配当について考え始めると、「善は急げ」だということがよくわかるようになる。
経験への投資が早ければ早いほど、記憶の配当はたくさん手に入る。
20代に何かを経験すれば、30代で経験したのに比べて長い期間、記憶の配当を得られ続ける。
リターンの合計が元の経験を上回ることさえある。
逆に、死の間際で何かを経験しても、もらえる記憶の配当は少なくなる。
だから、とにかく早い段階で経験に投資すべきだ。
そうすれば、年齢を重ねるほどに驚くほど多くのリターンが得られる。
「人生の早い段階から経験に投資しろといわれても、金がないからどうしようもないよ」と思った人もいるかもしれない。
だが金がなくても工夫次第で経験への投資はできる。
人生を豊かにする経験に時間と金がかかるのは事実だ。
投資する時間と金が多いほど、経験から得られる満足度も高くなる。
だが、若くて元気で、好奇心に満ちた人なら、金をかけなくても経験から大きな喜びを引き出せる(ジェイソンも安ホテルに泊まり、公園でバゲットを食べるような貧乏旅行をしたが、それが一生の経験になったように)。
若くて金がない人は、自分にできる経験を探そう。
たとえば、自治体が開催している無料の野外コンサートやフェスティバルに参加してみる。
友人と話す、ただ一緒にすごす、トランプやボードゲームを楽しむといったことでもいい。
徒歩や公共交通機関を使って、地元の街を探索してみれば、いろんな出会いや発見があるはずだ。
こんなふうに金をかけずに楽しめる機会を十分に活用している人は少ない。
ぜひ試してみてほしい。
「ゼロで死ぬ」は効率の極み p74
エンジニア出身であるせいか、とにかく私は効率が好きで、無駄が嫌いだ。
そして、人生のエネルギーを無駄にすることほど、もったいないことはないと考えている。
だから私にとって、「ゼロで死ぬ」というのは完全に理にかなっている。
もちろん、死ぬ前にゼロに到達すべきではない。
死ぬ直前にひもじい思いをしたい人などいない。
だが、せっかく貴重な時間と労力を費やして稼いだ金を、生きているうちにできる限り使い切ってほしいと思うのだ。
こうした考えを世に訴えているのは、私だけではない。
古くは1950年代、ノーベル賞を受賞した経済学者のフランコ・モディリアーニが、ライフサイクル仮説(LCH)というものを提唱した。
これは、生涯にわたって金を最大限に活用するための消費と貯蓄の方法を示すものだ。
モディリアーニの基本的な主張は、生涯を通じて金を最大限に活用するには、「死ぬときに残高がちょうどゼロになるように消費行動をすべき」というものだ。
仮に、もしいつ死ぬかがわかっているのなら、そのときまでに金を使い切れば、最大限の喜び(と効率)が得られることになる。
「いつ死ぬかなんてわからない」という現実的な疑問に対して、モディリアーニはとてもシンプルな答えを示している。
「安全に、かつ不要な金を残さないためには、人が生きられる最長の年齢を想定すればいい」と。
つまり、自分が可能な限り長寿をまっとうすることを前提に、1年当たりの消費額を決定するのだ。
だが、多くの人はそれすら計算していない。
なんとなく必要以上の金を貯め込んでいるか、必要なだけ貯めていないかのどちらかだ。
長期的に計画を立てて行動するより、短期的な報酬(近視眼的)のために生きたり、自動運転モード(慣性的)で生きるほうが楽だからである。
目の前の刹那的な楽しさを優先し、有り金をすぐに使ってしまう近視眼的な生き方はキリギリス型であり、ひたすら将来のために貯蓄に励み、人生の最後になっても手つかずの金を大量に残してしまう慣性的な生き方はアリ型だと言える。
だが、そうなってしまうのも仕方がない。
行動経済学も、何かが合理的だからといって(たとえば過度な貯蓄をやめて、もっと金を使うこと)、人はその通りの行動を取るとは限らないと明らかにしている。
それだけ慣性は強力なのだ。
経済学者のハーシュ・シェフリンとリチャード・タラーも、これを「昔ながらのしきたりに従っている家庭に、新しいルールを教えることは難しい」と表現している。
寿命を予測したことはあるか? p96
ここまで読み進めてくれた読者は、少なくとも原則として「ゼロで死ぬ」のは良い考えだと同意してくれたのではないだろうか。
だが、この目標を本当に達成できるかどうかについては懐疑的かもしれない。
それはある意味で正しい。
なぜなら厳密に言えば、完全にゼロで死ぬのはそもそも不可能だからだ。
つまり、死ぬときにちょうど資産がゼロになるように使い切るには、人生最後の日を正確に知らなければならない。
だが神様ではない限り、誰も自分が死ぬ日を正確には予測できない。
だからといって、何も打つ手がないわけではない。
寿命計算機を使ったことがあるだろうか?
最近では、保険会社の多くがウェブサイトで無料提供しているツールだ。
面白いのでぜひ試してみてほしい。
当然ながら、この計算機は正確な寿命を算出してくれるわけではない。
だが、現在の年齢や性別、身長、体重(BMIはどれくらいか?)、喫煙・飲酒習慣などの健康因子、家族歴などの質問に答えることで、寿命の予測値は得られる。
その結果、94歳まで生きるといううれしい予想値が得られるかもしれない。
あるいは40キロ減量し、酒や煙草をやめない限り、55歳で死ぬと予測されてしまう人もいるだろう。
自分の人生の残り時間を予測するのは、あまり楽しいことではないかもしれない。
だが、たとえ面白くなくても、自分があとどれくらい生きるかを真面目に考えてみることには価値がある。
自分がいつ死ぬか想像すらしていなければ、適切な判断がしにくくなるからだ。
その結果、慎重派の人は150歳まで生きるかのような過度な貯金をしてしまう。
元本には一切手をつけず、利息だけで生きようとする人のように、永遠の命を期待しているかのような節約生活を送ろうとするかもしれない。
そして手つかずの資産をたくさん残したまま、自分が思っていたよりも早く死んでしまうのだ。
つまり、決して使うことのない金を稼ぐために、人生の貴重な時間をたくさん無駄にすることになる。
自分の寿命をおおよそでも予測しておくだけで、これからの人生でどれだけ稼ぎ、貯め、使うかについて、はるかに良い決断ができるようになる。
自分の寿命に意識的になることは、これからの人生でどうすれば金を最適に使えるかを考えるための最初のステップなのだ。
「長寿リスク」への正しい備え方 p98
一方で、寿命を予測したところで、いつ死ぬかわからないという不確実性はぬぐえない。
早死にするリスクは「死亡リスク」と呼ばれている。
一方、予想よりも長生きする可能性は「長寿リスク」と呼ばれる。
長生きするのはいいが、その結果として資産が尽き、生活に困窮してしまうリスクだ。
私たちの寿命の両端には、早く死にすぎて金を無駄にしてしまうリスクと、長く生きすぎて金が足りなくなるリスクがあるのだ。
この2つのリスクへの対処策を理解しておく必要がある。
死亡リスク(早死リスク)への対処については、あなたもそれを対象にした金融商品を知っているはずだ。
そう、生命保険だ。
生命保険会社は、あなたと同じく、あなたがいつ死ぬのかを正確に知っているわけではない。
それでも、あなたが死んだときに遺族に保険金が支払われるのは、保険会社が多くの人から保険金を集めているからだ。
保険の契約者のなかには、平均より早死にする人も、長生きする人もいる。
だから保険会社は、平均値より外れている両側の死を相殺できる。
人々の寿命に関するデータを十分に精査すれば、どれだけの掛け金を集めれば契約者に保険金を支払え、かつ会社として利益を上げられるかを弾き出せる。
だから保険会社は、あなた個人がいつ死ぬかを正確に予測する必要はない。
つまり保険会社は、大勢の人のリスクをプールすることができる。
これは私たち個人では真似できないことだ。
言い換えれば、あなた一人では保険代理店には勝てない。
だからこそ人は、自分一人でリスクから身を守ろうとはせず、さまざまな保険商品を購入する。
たとえば、多くの人は早死にで家族を困窮させるリスクを回避するために、なんらかの生命保険に入っている。
だが一方で、長寿リスクに対処する金融商品があることはあまり知られていない。
死ぬ前に金がなくなってしまうリスクを恐れる人は多いのに、だ。
ぜひ、これから紹介する金融商品について調べてみてほしい。
それは、「長寿年金」と呼ばれるものだ。
これは本質的に、生命保険とは反対の性質を持っている。
すなわち、生命保険は加入者が早死にするリスクから「家族」を守るためのものだが、長寿年金は長生きしすぎて資産を使い果たしてしまうリスクから「加入者本人」を守るためのものだ。
ニューヨーク・タイムズ紙の「ユア・マネー」のコラムニスト、ロン・リーバーは次のように説明している。
「長寿年金を販売する保険会社は、この商品を投資対象のように宣伝することが多い。
だが、実際にこれは保険に近い。
保険が経済的リスクを回避するためのものであるように、長寿年金も長生きによる資金リスクを保証するために購入するものだ」
実際、長寿年金は投資ではなく保険だと考えたほうが合理的だ。
投資としては、あまりうまみのあるものではない。
この年金の目的は、死ぬ前に金を使い果たしてしまうリスクに対して保険をかけることにある。
貯蓄より長寿年金をすすめる理由 p100
長寿年金の仕組みはこうだ。
長寿年金を買うと、掛け金はすべて保険会社のものになる。
たとえば、60歳の時点で30万ドルの長寿年金を購入したとする。
50万ドルはこの時点ですべて保険会社が所有することになる。
その見返りとして、あなたは残りの人生の月々の支払いが保証される(たとえば、毎月2400ドル)。
どの保険も同じだが、もちろん長寿年金も無料ではない。
だが、最高の人生を送るために、生きているうちに金を最大限に有効活用しようとするなら、長寿年金の購入はとても賢明な策となる。
なぜなら、たとえ保険会社に手数料をとられたとしても、毎月手にする支払額は、あなた個人が「不確実な寿命に対して、死ぬまで金に困らないだけの額」を貯め、それを切り崩して使うよりも多くなるからだ。
たとえば、老後の支出ルールとして一般的によく言われるのは「4%ルール」だ。
これは、退職時に貯蓄から毎年4%を使い続けるというものである。
だが長寿年金なら、毎年、購入額の4%以上の支払いを得られるはずだ。
しかも、自己資産を毎年4%切り崩す場合とは異なり、支払いは生きている限り保証される。
高く安定した支払いが保証されるのは、年金の購入時点で掛け金がすべて保険会社のものになっているからだ。
途中で死んでも、あなたに掛け金は払い戻されない。
たとえば極端な場合、長寿年金を購入した翌日にあなたが死んだら、支払いはゼロになる。
代わりに、その掛け金は長生きをする幸運な他の誰か(長寿年金の購入者)への毎月の支払いに使われる。
長寿年金を買っていなければ、自身に保険をかけるのと同じ備えをしなければならない。
だが、これはおすすめできない。
大手の保険会社とは違い、一人では早死にと長生きしすぎのリスクを相殺することはできないからだ。
結局、人生最後の日まで経済的な安心を感じるために最悪のシナリオに対処しようとすると、予備の金を大量に残しておかなければならない。
つまり、使わない金を貯めるために、何年も働かなければならなくなる。
こうやって自身で保険代理店のようなことをしようとすると、人生を最大化するという目標は遠のいてしまう。
繰り返すが、私たちは一人では良い保険代理店にはなれないのだ。
一般的に、経済学でも長寿年金は長寿リスクに対処するための合理的な方法だと考えられている。
専門家は、なぜ長寿年金を購入する人が少ないのか昔から頭を悩ませていて、この問題は経済学で「長寿年金の謎」と呼ばれるくらいだ。
とはいえ、私は誰もが貯金をはたいて長寿年金を買うべきだと言っているのではない。
ここで言いたいのは、死ぬ前に資産が尽きないようにしながら、生きているうちに金を使い切る方法はあるということだ。
少なくとも、こうした解決策を検討すらしないことは、あなたの人生にとって大きなデメリットになる。
なお、長寿リスクにどれくらい備えるかは、あなた自身の「リスク許容度」による。
リスクに対する許容度が低い(死ぬ前に金がなくなることがわずかでも受け入れられない)人は、長寿年金を購入したり、予備の金を十分に貯めたりすればいい。
あなたが123歳まで生きる確率は現時点のデータから言えばかなり小さい(人類史上の長寿記録は122歳164日間だ)。
だが、極端にリスクを嫌う人なら、123年生きることを前提にして老後資金の計画を立てればいい。
あるいは、あなたの予測寿命が85歳で、5~6パーセントの誤差へのリスクを許容できるなら、あと数年先、たとえば90歳まで生きると想定して、5年分の老後資金を余分に用意すればいい。
予想通りに85歳で死んだときの5年分の老後資金を無駄にしたくないのであれば、その資金は用意しないという選択もできる(その分の金を有意義な体験に使う)。
もちろん、そのリスクを許容できるなら、の話だ。
これは、どれが正しいという話ではない。
リスク許容度は、個人の好みの問題だ。
ただ1つ言えるのは、リスク許容度を考えて備える場合と、単に闇雲な恐怖にかられて備える場合とでは、とてつもなく大きな違いが生まれるということだ。
自分の余命を予測し、リスク許容度を考慮して、何年分の生活資金が必要になるかを計算するのと、死ぬ前に金がなくなることや、死ぬことそのものをただ漠然と恐れるのとでは雲泥の差だ。
金や死を恐れ、逃げ回るようにして生きていると、結局は金を無駄にしてしまうことになる。
何年も苦労して稼いだ金を使わずに死んでしまうことにもなりかねない。
つまり、恐怖の奴隷として何年も働き続けなければならなくなる。
「富」の最大化から「人生」の最大化へ p104
ただし、長寿年金は複雑な商品でもある。
深く理解するには専門書が必要だ。
異なる種類の商品がいくつもあるし、年齢や健康状態、貯蓄額、リスク許容度などの要因によっては、まったく利用しないか、老後の資産運用の一部とみなしたほうがよい場合もある。
こんなときに役立つのが、ファイナンシャルアドバイザーの力を借りることだ。
あなたが長寿年金の本を読みたくないのなら、専門家の意見を聞くのがよいだろう。
その場合、アドバイザーには自分の望みをはっきりと伝えるべきだ。
なぜなら、長寿年金をあなたにすすめようとしないファイナンシャルアドバイザーもいるからだ。
金融用語で「運用資産」と呼ばれるものの割合から報酬を得ているアドバイザーの場合、そのインセンティブは運用資産を増やすことで得られる。
つまり、顧客であるあなたが資産運用をやめて長寿年金を購入すれば商売にならなくなってしまう。
このタイプのアドバイザーにとっては、長寿年金は競合なのである。
だが、時間単位の相談料で報酬を得るタイプのアドバイザーもいる。
このタイプのアドバイザーには、長寿年金を避けるインセンティブはないし、逆に長寿年金を売ることで手数料が入るわけでもない。
そのため、損得勘定抜きで、あなたにとって最適な老後資産の運用方法を考えてくれるだろう。
その場合でも、まずはあなたの目標が何であり、どのような問題を解決しようとしているのかを明確に伝えなければならない。
私たちは、できる限り人生を充実させるにはどうすればよいか、という問題に取り組んでいる。
もう一度繰り返そう。
私たちの問題は「できる限り人生を充実させるにはどうすればよいか」だ。
見境なく豊かになることではない。
つまり、この本の目的は、富の最大化ではなく、人生の喜びを最大化するための方法を探すことだ。
この2つは根本から違う。
金は目的を達成するための手段にすぎない。
金は、人生を楽しむというもっとも重要な目標の達成に役立つ。
一方で、金を増やすことを最優先してしまうと、その目標の達成は難しくなる。
だから、「できる限り人生を充実させるにはどうすればよいか」という一番大切な目標をいつでも忘れないようにし、あらゆる判断の指針にしてほしい。
ファイナンシャルアドバイザーに相談するときも同じだ。
相談料ベースのファイナンシャルアドバイザーに、「死ぬまでに資産が尽きないようにしつつ、できる限り人生を楽しみたい」と伝えれば、それを実現するための計画を一緒に考えてくれるはずだ。
p141
実際に、それを実行に移した人もいる。
投資家のロバート・F・スミスだ。
彼は、モアハウス・カレッジを2019年に卒業した生徒全員の学生ローンを自分の財産で返済した。
動機が何であれ、総額がいくらであれ、スミスは自分が死ぬまで待つことなく、今、学生たちがローンを抱えずに大学を卒業できるようにした。
教育に投資の利点があることは十分な裏付けからもわかっている。
だからこそ、早く寄付をすることでその価値は高まる。
教育を受けることは、個人だけではなく、社会全体にも良い影響が生じる。
教育を受ける人の数が多いほど、その社会では貧困や犯罪、暴力の発生率が低下する。
これは教育がもたらす極めて重要な社会的利益だ。
経済学者が教育への投資収益率を数値化した結果、中等教育以上の教育が社会にもたらすリターンは年間10%を上回っている。
これほど確実に高い収益率を生み出す投資はない。
つまり、教育関連の慈善団体に寄付する意図があるなら、さらに自分で資産を増やしてからにするのは非効率ということだ。
その場合、教育が生み出す10%以上の高い収益率で、あなた個人の力で寄付金を増やすことになるからだ。
ブルームも教育にかかわる団体へ寄付をしていたが、やはりそれは非効率だったといえる。
p144
実際、ここで伝えたアプローチを採用する慈善家も増えてきている。
億万長者の慈善家、チャック・フィーニーはこれを「生きているうちに与える(giving while living)」と呼んでいる。
デューティーフリー・ショッパーズ・グループ(空港などによくある免税店)の創設者として莫大な財産を築いたフィーニーは、私の主張の最高のロールモデルだ。
フィーニーは若い頃からその資産を(匿名で)寄付し始め、30代になったときには通算で80億ドル以上を寄付していた。
フィーニーもシルビア・ブルームと同じく質素な暮らしをしていた。
だがブルームとは異なり、資産を慈善団体に寄付するのを自分が死ぬまで待たなかった。
フィーニーは今80代で、妻と共にあえて賃貸アパートに住んでいる。
その純資産は現在、これまでに寄付してきた額のほんの一部でしかない約200万ドルに減っている。
だが、残りの人生を生きるためには十分な金だ。
フィーニーはビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなど、多くの大富豪に影響を与えてきた。
「収入の◯割を貯金する」をやめる p154
私は、この支出と貯蓄のバランスが人生のステージに応じて変化していくことにも気づいた。
だが、一般的な家計管理のアドバイスはそうなっていない。
たとえば、ファイナンスの専門家は、年齢やそのときの経済的な状況にかかわらず、給料の一定額(たとえば、「1割」や「2割」)を貯蓄することをすすめている。
2割の場合を見てみよう。
これは「50-30-20ルール」と呼ばれる一般的な家計管理のルールに基づいている。
政界入りする前は破産を専門とする法学教授だった政治家エリザベス・ウォーレンは、家計を安定させるバランスの取れた金の使い方としてこの「50-30-20ルール」を提唱した。
このルールによれば、収入の50%は生活費(家賃、食費、公共料金など)に、30%は人生を楽しむため(旅行、娯楽、外食など)に使い、残りの20%は貯蓄や借金の返済に当てる。
特にルールを決めずに支出している人にとって、このルールは素晴らしい(かつシンプルな)方法に見えるだろう。
実際、このルールは人気があり、多くの人が実践している。
だが、家計の安定だけに留まらず、「人生を最大限に充実させる」という本書の目標を実現するには、収入と支出のバランスをより洗練させなければならない。
私は、誰にとっても当てはまる収入と支出の比率はないと考えている。
何より、貯蓄に回すべき割合は、20代、30代、40代、50代と年齢によって変えていくべきだ。
最適なバランスは人によって異なるし、年齢や収入に応じても変化する。
50-30-20ルールなどは、つまり支出と貯蓄の比率を一定にすることを提案している。
たとえば、収入の20%を貯蓄する50-30-20ルールでは、その比率は80対20だ。
生きるために必要な支出(50%)を差し引いたとき、自由に使える金(私が「経験」と呼ぶもの)と貯蓄の比率は30対20となる。
このバランスを、人生を通して保つのは正しくない。
ジョーや経済学者のレヴィットのアドバイスに同意している人なら、その理由がわかるだろう。
若く、これから数年間で収入の増加が十分に見込めるとき、収入の20%も貯蓄するなんてバカげている。
レヴィットが言うように、しばらくは右肩上がりの収入が手に入るなら、金を借りたってかまわない(現在の収入より多くを使う)。
もちろん、それはクレジットカードの借金を際限なく増やしてもいいということではない。
当然、そのような高金利のローンを抱えるのは避けるべきだ。
適度な額を、責任を持てる範囲で借りなければならない。
若くて今後も収入増が見込める状態で、何も考えずに収入の20%を貯蓄していたとしたら、思い出に残る経験に金を使うチャンスを逃していることになる。
さらにいえば、将来、さらに豊かになるはずの自分のために、今の若い自分が稼いだ金を捧げていることにもなる。
一生の視点でみれば、これは最適な金の使い方とは言えない。
80対20のバランスが若者にとって最適ではないことに同意してもらえたとして、今度はそれよりも少し年を取ったときのことも考えてみよう。
ある程度の年齢に達すると、当然、老後のために貯蓄を始めなければならなくなる。
若い頃のように収入が増え続けるとも限らないので、将来への備えが必要だ。
まとまった出費が必要なことも何かと増えるだろう。
そのため、貯蓄は多すぎず(経験を逃さないために)、少なすぎずが大切になる。
今を楽しみつつ、将来にも備えられる最適なバランスが求められる。
ただし、貯蓄を始めるべき年齢に達したとしても、引退するまでずっと収入に対して同じ比率で貯蓄すればいいわけではない。
そのような魔法の数字は存在しない。
なぜなら、金から楽しみを引き出す能力は年齢とともに下がっていくからだ。
だから、貯蓄すべき年齢になっても、その割合は若いほど低くなるようにすべきだ。
人生の残り時間によって、今を楽しむことと将来に備えることとのバランスを最適化していこう。
20代、30代といった若い時期から、退職する、死の床につくといった人生の末期を想定し、そこから逆算して考えてみるといいだろう。
すると、今このときをどう過ごすか、その金を本当に貯蓄にまわすべきかといった考えに微妙な変化が見られるはずだ。
健康の改善は、人生を大改善する p175
年齢を問わず、健康ほど、経験を楽しむ能力に影響するものはない。
健康は、金よりもはるかに価値が高い。
どれだけ金があっても、健康をひどく損ねていたらそれを補うのは難しい。
だが、健康状態が良好なら、たとえ金は少なくても素晴らしい経験はできる。
これは、極端に健康状態が悪い場合だけに当てはまるわけではない。
たとえば、太っていれば、人生の楽しみを味わうチャンスを逃すことになる。
あなたのまわりにも、肥満のために膝が悪い、運動不足で筋力が落ちている、体型にコンプレックスがあるといった理由で、ハイキングや水泳、日光浴などを避けている人はいないだろうか。
誰かと一緒にハイキングに出かけたとしても、すぐに息が上がって、せっかくの機会を存分に楽しむこともできない。
なかには、若い頃はスポーツマンだったのに、運動をやめたことで10キロも20キロも体重を増やしてしまった人もいる。
1日中パソコンと向かい合うような仕事をしている人も、太ってしまうことが多い。
その仕事で収入が増えたとしても、そのお金で楽しめるだけの健康を損なってしまっている。
日頃から健康に苦しむ患者を目の当たりにしている医療従事者でさえ、必ずしも健康に気を配れているとは限らない。
マサチューセッツ州のカイロプラクター、スティーブン・スターンも、数十年にわたって患者を治療しながら、自らも体重の問題に悩まされてきたことを告白している。
運動で体重を減らしても、結局その習慣を続けられずに元の体重に戻り、苦労して身につけた体力も落としてしまう。
彼は59歳のとき、この負のスパイラルから抜け出そうと決意した。
患者の多くがたどるような不幸な運命を避けたいと思ったからだ。
スターンに関する記事は、こう伝えている。
スターンは、自分と同年代(もしくはそれ以下の年齢)の患者が、身体能力を失うケースを数え切れないほど目にしてきた。
その原因は怪我や病気だけでない。
単なる怠慢な健康管理が多くを占めていた。
さらに彼は、この年齢で健康を大きく崩すと、元に戻すのが極めて難しいことも知っていた。
スターンは60歳になる手前で、もう一度体力を取り戻すことを決心した。
そして、それ以前とは異なり、段階的に体力をつけるアプローチを取った。
若い頃のように激しいトレーニングはもうできなくなっていたからだ。
このゆっくりとした着実なアプローチは功を奏した。
ウォーキングと体操を通して、体力をかなりのレベルまで上げることができた。
また、長年悩まされてきた膝の痛みは消え、筋力やバランス感覚も格段に向上した。
今では66歳にして、30歳の人にもできないような、膝を曲げたままの逆立ちまでできるようになった。
また、努力によって自信も生まれ、新たな挑戦にもチャレンジできるようになった。
娘と一緒に登山をするなど、楽しい経験を味わえるようにもなった。
だがスターンは、自分が30歳の人と同じではないことは知っている。
手にしたのは、自分の年齢としては十分に満足のいくレベルの健康だ。
「私は老人であり、老人ができる範囲で身体を動かせるだけさ」
そう語っている。
スターンのようなエピソードは、心に訴えるものがある。
私たちは、「何かを始めるのに遅すぎることはない」というメッセージが大好きだ。
だが、私はそのことを伝えたいわけではない。
実際のところ、数十年も健康管理を怠っていれば、取返しがつかなくなることもある。
手遅れにならないよう、健康への投資はできる限り早く始めたほうがいい。
私がスターンのエピソードを通じて伝えたかったのは、あらゆる年代で、健康の改善は人生を改善するということだ。
確実に、経験をもっと楽しめるようになる。
ある経験から最大の価値を引き出すために金、健康、時間の3つが必要であるなら、もっとも大きく影響するのは健康である。
健康を損なえば、生涯の充実度は大幅に下がってしまう。
健康悪化の影響は、複利的に膨らむことが多い。
たとえば現在、ベストの健康状態から見て2%マイナスだとすれば、その低下率は年々増えていき、10年後や15年後には20%ほどになっている可能性がある。
たとえば、あなたが5キログラム太りすぎだとしよう。
今現在では、たいした問題ではないように思える。
だが、体重が1キロ増えると、膝には4キロの負担が余分にかかる。
5キロの太りすぎは、膝に20キロの余分な負担をかけることになる。
すると当然、時間の経過とともに膝の軟骨がすり減り、痛みを感じるようになる。
天然の緩衝装置である膝はダメになり、長時間歩くと苦痛が生じ、走ることはまったくできなくなる。
その結果、運動不足になり、さらに体重が増え、他の健康問題も引き起こされる。
アメリカで、肥満の増加に伴って膝関節の置換手術が急増しているのも不思議ではない。
このように、最初はたいした問題でないように思われる健康の悪化が、他の深刻な健康問題を招き、いずれ日常的な動作すらままならなくなる。
先に述べたように、人生とは動くことである。
動くことが苦痛になったり制限されたりすれば、できる経験の幅も減ってしまう。
誰もが人生最後の日まで元気でいたいと願っているが、実際には若い頃から健康を損ね、その悪影響を指数関数的に増やしているケースが少なくない。
健康管理をおろそかにした結果として、人生を充実させ、喜びを味わう能力を加速的に低下させているのだ。
アインシュタインは、「複利は宇宙で最大の力だ」と語ったらしい。
健康の小さな変化は、人生全体の充実度に甚大な悪影響を及ぼす可能性がある。
若い頃に健康に投資した人ほど得をする p180
だが、良い知らせもある。
健康を少しでも改善すれば(たとえば、1%でも健康を向上させ、悪影響の複利効果を回避すれば)、人生トータルでできる経験が大幅に増加する。
誰もが、「年齢にかかわらず、健康には惜しみなく時間と金を投資すべきだ」というアドバイスを耳にしたことがあるはずだ。
一般的に、医療費は加齢と共に上がっていく。
人は高齢になるほど、病気の治療や延命のために健康に金を使おうとする。
だが、若い頃に健康に投資するほうが、人生全体の充実度は高まる。
食生活に気をつけ、筋肉を鍛えておけば、できるだけ長く健康を保て、経験も楽しめる。
70代になって老人向けのスポーツだけでなく、スキーやテニスも楽しめ、スリムな体型を維持し、階段を上り下りする、椅子から立ち上がる、食料品の袋を運ぶなどの日常的動作も快適になる。
今あなたが、観光する、スノーボードを楽しむ、幼い子どもたちと遊ぶ、といった活動でどれくらい早く身体が疲れるかは、その日をどれくらい楽しめるかに大きく影響する。
これから先の人生で、その積み重ねがどれほどの違いになるかを考えてみてほしい。
それもあって、私は健康の目標を仲間内での賭け事にするのが好きだ。
友人がフルマラソンを完走できるか、目標体重まで減量できるか、といったことに金をかけて楽しむのだ。
これまで数え切れないほどこの手の賭けをしてきたが、大切なのは金ではない。
人生に大きな影響を与える健康目標を達成しやすくなることだ。
最近のお気に入りは、ポーカー界の2人の若い友人、ジェイムとマットのステープル兄弟との賭けだ。
ジェイムは太っていて、過去に何度も減量に失敗していた。
逆にマットは痩せていて、筋肉をつけたがっていた。
私は2人のモチベーションを高めるために、1年後に彼らが同じ体重に達する(正確には、1ポンド以内の誤差になる)ことができたら、大金を払うと言った。
すると2人は驚くような努力をし、見事な変身を遂げた。
ジェイムは50キログラム近くも減量し、マットは20キログラム以上も体重を増やした。
2人の挑戦前後の写真は、インターネットで見ることができる。
2人は賭けに勝ったことに大きな喜びを感じ、成果を誇りに感じている。
だが、仮に彼らがあとわずかの差で賭けに負けていたとしても、失った金よりも、得た健康のほうがはるかに大きかったと言えるだろう。
2人の若さを考えればなおさらだ。
彼らは、目標を達成したことで得られる充実感を、これから先、何年も享受できる。
健康の向上で得られるメリットは、良い老後を過ごせるだけではない。
健康への投資は、今、このときから味わうあらゆる経験にかかわってくるのだ。
中年期には、金で時間を買いなさい p182
私は、バランスの取れた充実した生活を送るために、金で時間を買うことも大切だと考えている。
これは特に、ある程度の収入はあるが、時間は足りていない中年期の人たちにとって効果が高い。
その典型例は洗濯だ。
誰もが毎週の洗濯を面倒だと感じている。
だがこの家事は、専門のサービスに安く外注できる。
たとえば、あなたが時給40ドルで働いているとする。
毎週、1週間分の洗濯物を洗濯機にかけ、乾かしてたたむのに、2時間近くかけているとしよう。
だが高性能の設備を備え、毎日24時間洗濯を行っている専門サービスに50ドルを支払えば、はるかに手際よく、きれいに仕上げてくれる。
はたして、1週間分の汚れた洗濯物を自宅まで取りに来てもらい、翌週きれいに折りたたんだ衣類を届けてもらうサービスに週50ドルを費やすことに価値はあるのか?
もちろん、ある。
あなたの時給は40ドルだから、2時間は80ドルに相当する。
その分、働いたほうが効率がいい。
もちろん、この浮いた2時間は、仕事に費やさなくてもかまわない。
子どもを公園に連れて行ったり、読書をしたり、友人と昼食をとったり、洗濯するよりも楽しい経験に使えばいい。
洗濯はほんの一例だ。
同じことは掃除のような他の家事にも当てはまる。
私は、収入が少なかった20代の頃から、こうしたアウトソーシングを積極的に利用してきた。
だから、土曜日の朝はアパートの部屋を掃除するのではなく、セントラルパークでローラーブレードをして遊んだり、サラベスでブランチを楽しんだりすることができた。
今では、そんなふうに金を使った自分に感謝している。
生涯消えることのない、楽しい週末の思い出をたくさんつくれたからだ。
金に余裕があるほど、このアプローチを採用すべきだ。
時間は金よりもはるかに希少で有限だ。
私自身、常に金を時間に換える方法を模索している。
1日は24時間しかない。
だが、工夫次第で自由な時間を最大限増やすことはできる。
これは単なる私自身の経験則や持論に留まらない。
心理学の研究もこれを裏付けている。
時間をつくるために金を払う人は、収入に関係なく、人生の満足度を高めることがわかっているのだ。
言い換えれば、金で時間を買うメリットを享受するのに、金持ちである必要はない。
ある実験では、仕事を持つ人を対象に、時間の節約に金を使わせた(別のグループには同じ額でモノを購入させた)。
その結果、時間の節約に金を使うほうが大きな幸せを感じられる理由が明らかになった。
時間節約型のサービスを利用すると、時間のプレッシャーが軽減され、その日を気分良く過ごせるようになるのだ。
こうしたサービスを繰り返し利用していると、毎日を気分良く過ごせ、人生全体の満足度が高まることもわかった。
私もこの説明は理にかなっていると思う。
だが、メリットは他にもあると考えている。
つまり、金を払って面倒な雑事から自分を解放するということは、マイナスの人生経験を減らし、プラスの人生経験(それをするための時間を手に入れたので)を増やすことになる。
これで、幸福感が増さないはずがない。
これまでの人生を振り返って、時間よりも金に比重を置いていたと後悔する人もいるかもしれない。
今35歳や40歳のあなたであれば、20代は仕事ばかりしていて、素晴らしい経験を逃してきたと悔やんでいるかもしれない。
過ぎ去った年月は戻ってこない。
だが、人生のバランスを取り戻すことはできる。
まだ健康なうちに、20代でできなかったことにたくさんチャレンジしてみよう。
若い頃に働き詰めではなかった同世代の人よりも、経験に重点を置こう。
どんな瞬間にも、そのときにすべき理想的な経験がある。
そう考えて、最適な時間の使い方を模索しよう。
死ぬ前に後悔することトップ2 p193
考えや行動を変える時間が残されている人にとって、死の床にある人たちの後悔の念が役に立つことがある。
もちろん、人生を振り返ったときに何を後悔するかは人それぞれだ。
だが、多くの人に話を聞くと、共通のパターンが浮かび上がってくる。
オーストラリア人のブロニー・ウェアは、長年、緩和ケアの介護者として数多くの患者を看取ってきた。
彼女は、余命数週間の患者たちに人生で後悔していることについて聞いていたそうだ。
そのなかで、もっとも頻繁に耳にした「5つの後悔」をテーマにしたブログ記事は大きな話題を呼んだ。
このブログは後に書籍化もされている。
その5つのうち上位2つの後悔は、本書の主張にも重なる。
最大の後悔は、「勇気を出して、もっと自分に忠実に生きればよかった」であった。
他人が望む人生ではなく、自分の心の赴くままに夢を追い求めればよかった、と。
人々は、自分の夢を実現できなったことを後悔していた。
自分の心の声に耳を傾けず、誰かに用意された人生を生きていると、人生の最後に大きな後悔を抱くのかもしれない。
多くの人々が、人生の最後に「働きすぎなければよかった」と後悔するのもそのためだろう。
よく言われるように、「人生を振り返ったとき、オフィスで長時間を過ごさなかったことを後悔する人などいない」のである。
実際、ウェアが患者から聞いた後悔のなかで2番目に多かったのは(男性の患者では1位だった)は、「働きすぎなかったらよかった」だ。
これは、まさに私が本書で主張していることの核心だとも言える。
「私が看取った男性はみな、仕事優先の人生を生きてきたことを深く後悔していた」とウェアはつづっている(女性にも仕事をしすぎたことを後悔する人はいたが、患者の多くは高齢者であり、まだ女性が外で働くのが珍しい時代を生きてきた人たちだ)。
さらに、働きすぎは後悔しても、一生懸命に子育てしたことを後悔する人はいなかった。
多くの人は、働きすぎた結果、子どもやパートナーと一緒に時間を過ごせなかったことを後悔していたのだ。
「タイムバケット」で後悔しない人生をつくる p198
ではここで、人生の各段階の有限さを意識しやすくするシンプルなツールを紹介しよう。
「タイムバケット」というツールだ。
「自分は残りの人生で何をしたいのか」を、大まかな時間的枠組みのなかでとらえることができる。
このツールを使えば、死ぬまでに経験したいことを各段階別にリストアップして行動計画を立てられ、先延ばししすぎるという過ちを避けやすくなる。
具体的な活用法を説明しよう。
まず、現在をスタート地点にして、予測される人生最後の日をゴール地点にする。
それを、5年または10年の間隔で区切る。
区間は、たとえば5年区切りなら「25~29歳」、10年区切りなら「30~39歳」といったものになる。
これがやりたいことを入れる「タイムバケット」(時間のバケツ)となる。
次に、重要な経験、すなわちあなたが死ぬまでに実現させたいと思っていること(活動やイベント)について考える。
私たちは誰でも夢を持って生きている。
だが、単に頭で考えているだけではなく、実際にそれをすべて書き出すことが大切だ。
完璧なリストである必要はない。
これからの人生でやりたいことすべてを、今の時点で把握できているとは限らないからだ。
新しい経験や人との出会いによって、それまでは想像もしなかった「やりたいこと」がリストに加わる可能性は大いにある。
人生は発見の連続だ。
折に触れて、このリストに新たな項目を付け加え、内容を修正していけばいい。
とはいえ、あなたはすでに、はっきりとした「死ぬまでにやりたいこと」のアイデアをいくつも頭に描いているはずだ。
たとえば、子どもを持つ、ボストンマラソンを走る、ヒマラヤをハイキングする、家を建てる、特許を申請する、起業する、「国境なき医師団」のボランティアをする、ミシュランの星つきレストランで食事をする、サンダンス映画祭に参加する、50回スキーをする、オペラを鑑賞する、アラスカにクルーズ旅行する、古典小説を20冊読む、スーパーボウルをスタジアムで観戦する、ゲームの大会に参加する、イエローストーン国立公園に行く、秋のバーモント州を旅行する、子どもたちとディズニーランドに3回行く……。
こんな感じで、自由な発想でやりたいことをいくつも書き出してみよう。
このリストは、あなたという人間をよく表すものになる。
あなたは、人生で積み重ねた経験でつくられているからだ。
なお、リストを作成するときは金について心配する必要はない。
これは重要なポイントだ。
このリストをつくる目的は、「どのような人生を送りたいか」を想像することだ。
この時点では、金のことは気にせず、死ぬまでにやりたいことを無条件で考えてみよう。
リストを作成したら、次はそれぞれの「やりたいこと」を、実現したい時期のバケツに入れていく。
たとえば、「残りの人生であと50回スキーに行きたい」のなら、それを実現したいのは、どの5年区切り、または10年区切りの期間になるだろうか。
まだ金のことを気にする必要はない。
その経験を人生のどの時期にしたいかということだけに注目しよう。
「やりたいこと」をバケツに入れていく作業は、簡単なものもあれば、難しいものもある。
はっきりとどの時期に実現したいかがわかるものもある一方で、旅行など、いつでもできると思えるようなものもある。
ただし、すでに述べたように、70代や80代のときよりも、40代や50代のときのほうが旅をしやすいのは事実だ。
「やりたいこと」のなかには、人生の特定の時期に行ったほうがより満足度が得られるものもあるだろう。
たとえば、一般的に、登山をしたりロックコンサートを鑑賞したりするなら、若いほうが高齢になってからよりも楽しめる。
当然ながら、体力が求められる活動は、全般的にタイムバケットの左側(若い時期)に寄ることになる。
もちろん年を取ってからもハードな活動は楽しめる。
70代になってもフルマラソンを走る人もいる。
キャサリン・ベイアーズという女性は、85歳のときにボストンマラソンを完走した。
とはいえ、それはかなり例外的なケースだ。
彼女の場合も、このレースは人生で14度目に完走したフルマラソンだった。
「死ぬまでにやりたいことリスト」に期間を設定すると見えてくるのは、物事にはそれを行うための相応しい時期がある、という事実だ。
また、期間を明確にすることで、同じ期間での両立が難しい「やりたいこと」があることに気づくかもしれない。
具体的な計画を立てなければ、いつまでたっても実現しないものがあることもわかるだろう。
これは、いわゆる一般的な「死ぬまでにやりたいことリスト」(バケットリスト)とは対照的だ。
期間を区切らない従来型のバケットリストは、年齢を重ね、人生の残り時間が少なくなってきたことに気づいた人が、焦る気持ちで、生きているうちにやりたいことを書き出すことが多い。
事前に計画していたというよりは、慌てて残り少ない時間で何かをしようとする、受け身の発想で生まれがちだ。
一方のタイムバケットでは、人生に対して積極的なアプローチが取れる。
残りの数十年の人生を5年や10年の単位で分け、期間内でやりたいことを実現させていく具体的な計画を立てられる。
漠然と「死ぬまでにできたらいいな」と夢想することとは大違いだ。
やりたいことを現実的な問題としてとらえられるようになる。
また、実際に期間で区切ることで、年代を問わず実現できそうな「やりたいこと」にも気づくだろう。
たとえば、図書館を利用する、クラシック映画を鑑賞する、小説を読む、チェスをプレーするなどは、年を取ってからでも十分に楽しむことができる。
クルーズ船での旅行なども同様だ。
その一方で、すべての「やりたいこと」があらゆる年代に均等に振り分けられず、ある期間に集中する傾向もわかるはずだ。
グラフで表せば、中央を頂点として左右がなだらかに下がっていく「ベル型の曲線」の右半分のような形をとる。
金の問題は気にせず、健康と時間のみに目を向けると、体力があって子育てにも時間を取られない若いときに、さまざまな経験(特に、体力が求められる活動)をしたいからだ。
また家族をつくりたい人は、子どもと一緒に過ごしたい経験が増えるので、30代や40代がピークになることが多い。
老後に必要な金を確認する「魔法の計算式」 p217
ピークを決める前に、必ず確認すべきことがある。
それは、人生を終えるまでに生活に困らないだけの金があるかどうかだ。
これは、資産を取り崩すために外せない条件だ。
老後資金を十分に貯めていない人は少なくない。
私はあなたに人生を最大化してもらいたいと思っているが、無責任な支出をすすめるつもりはない。
これから「資産のピーク」は金額では決めず、時期で決めるべきという考えを紹介するが、それもある程度の老後資金がなければ、意味のないアドバイスとなる。
また、これは充実した人生を送るという考えに基づいたアドバイスであることにも留意してほしい。
本書を読み、金の管理についての新たな視点を得たと思った人も、実行に移す前に、事前にプロのファイナンシャルアドバイザーや会計士などの専門家に相談することをすすめる。
この点を理解してもらったうえで、「老後に必要な最低限の資金」をどう算出すべきか、私の考えを説明しよう。
その額は一般的に目標とされる貯蓄額よりもかなり少なくなる可能性がある。
最悪のシナリオ(死ぬ前に金がなくなること)を避けることを念頭に算出するからだ。
つまりこれは、収入なしで老後を生きるために必要な額を意味している。
この基準に達していれば、それ以上、老後資金のために働く必要はなくなり、計画的に資産を取り崩していく時期を考えられる。
この老後資金の額は、当然すべての人が同じにはならない。
たとえば、生活費は住んでいる場所によっても変わるし、扶養家族がいれば当然一人暮らしよりも生活費は高くなる。
誰にでも当てはまるのは、この最低限必要な資金は、1年間の生活費と、予測される残りの人生の年数を掛けたものであるということだ。
たとえば、あなたの年間の生活費が1万2000ドルだとしよう(かなり低い額だが、あくまで任意の数字と見なしてほしい)。
あなたは今55歳で、80歳まで生きると想定していたとする。
すると、あと25年生きることになり、この期間を生き延びるための金が必要になる。
あと25年生きるために、55歳のあなたにはどれくらいの金が必要になるか。
まずは大まかな計算をしてみよう(これは最終的な答えではない)。
単純に1年間の生活費に人生の残り年数を掛けると次のようになる。
(1年間の生活費)×(人生の残り年数)=1万2000ドル×25=30万ドル
繰り返すが、これは最終的な答えではない。
貯金しなければならない実際の金額は、30万ドルよりはるかに少なくてすむ。
なぜか?
資産は、ただ寝かせておくわけではないからだ。
株式や債券に投資すれば、資産は利息を生み出す。
あなたが働いていなくても、収入が得られることになる。
物価上昇率以上の利息は、取り崩した資産に加算されるからだ。
ただし1つ断っておくと、株式や債券を保有していても、必ず物価上昇率以上の利息が得られるとは限らない。
リターン率は年ごとに異なるし、かなり変動することもある。
だが今回は、概念を説明するために物価上昇率以上の利息が常に3%であるという前提で計算を行う。
では、実際に計算してみよう。
55歳の時点で、資産が21万2000ドルあるとする。
最初の1年間に生活費として1万2000ドルを使ったとすると、1年後に資産はいくら残るのか?
手元に残るのは20万ドルちょうどではなく、約20万6000ドルである。
年初に1万2000ドルを差し引いたとすると、残りの20万ドルが3%の利息となる6000ドルを生み出すからだ。
同じ額の支出(生活費)と収入(利息)を繰り返すなら、あなたは21万2000ドルで25年間生活できることになる。
ある額の生活費を毎年引き出すときに必要な資産額を計算する専門的な計算式に当てはめると、それがわかる(正確には、3%の利息、毎年1万2000ドルの生活費で25年間生活するためには、21万3210.12ドルから始める必要がある)。
毎年生活費を引き出すごとに、元の資産は減っていく。
だが利息分が増えるので、思ったほどの速さでは減っていかない。
このため、1年間の生活費に人生の残り年数をかけたものより少ない額の資産を用意するだけですむ。
では実際のところ、老後にどれくらいの資産を最低限用意すればいいのか。
私は、「毎年の生活費×残りの年数」の70%ほどをすすめている。
先の例でも、この割合は71%強である(21万3210.12ドルは30万ドルの71.07%)。
もちろん、利息が高くなれば必要な資産の割合は低くなる。
利息が5%で、他の条件がすべて同じである場合、55歳の時点で必要な資産は30万ドルの58%弱、17万3426.50ドルになる。
反対に、利息がゼロなら、55歳の時点で30万ドルの資産を用意しなければならない。
ただし、ほとんどの場合70%でカバーできる。
では、死ぬまでに必要な金を計算する式を整理してみよう。
死ぬまでに必要な金=(1年間の生活費)×(人生の残りの年数)×0.7
1年間の生活費や人生の残りの年数の数字を変えて、さまざまな試算をしてみよう。
たとえば、フロリダで老後を過ごしたいと考えているのなら、現地での生活費の相場を調べ、その数字を当てはめてみるといいだろう。
人生の残りの年数が変わることで、死ぬまでに必要な金がどう変化するかも確認してみよう。
繰り返すが、この「死ぬまでに必要な金」は最低限の額だ。
この額の資産をつくったとしても、すぐには引退しない人がほとんどだろう。
より老後の生活の質を上げるために働き続けるのは妥当な判断だとも言える。
とはいえ、この額に到達すれば、資産を取り崩しながら生活する時期については考え始められるようになる。
「最低限の生活費は確保したので、のたれ死にはしない」という安心感を得ることで、資産のピークを「金の額」ではなく「時期」として考えられるようになるのだ。
なお、この死ぬまでに最低限必要な金には、いくつもの資産が使えることにも注意したい。
たとえば自宅を保有していれば、売却して小さな家に住み替えることで資産をつくれる。
自宅を担保にすれば、返済不要な形で毎月一定額の融資を受けることもできる(逆住宅ローン)。
想定以上に長生きして、途中で資金が底を突いてしまう不安があるなら、資産で長寿年金を購入し、生きている限り年金を得るという方法もある。
リスクを取らないリスク p242
NBAチーム、ダラス・マーベリックスのオーナーで、人気テレビ番組『シャーク・タンク』にも投資家の一人として出演するマーク・キューバンは、幼少期から起業家精神を学んできた。
12歳のときには近所の人たちにゴミ袋を売り、16歳のときには切手の転売で利益を得た。
ピッツバーグの労働者階級出身の彼は、カーペット業者などの安定した職に就いてほしいという母親の要望を断り、大学に進学して経営学を学んだ。
授業料は、得意のディスコダンスのレッスン料や、キャンパス内でパブを経営して得た金で支払った。
ところが、店内での未成年の飲酒が警察に見つかり、パブは閉鎖に。
卒業したときは一文無しになっていた。
だが彼は、すでにそのとき、ビジネスの世界で成功するための能力と自信を得ていた。
その後、地元の銀行で働き、23歳のときには、なけなしの生活道具を旧式のフィアットに載せ、大学時代の友人に誘われてテキサス州ダラスに向かった。
その友人を含む5人とアパートで共同生活を始めた。
寝床はビールの染みがついたリビングのカーペットの上だったという。
彼は積極的に行動した。
まずバーテンダーとして働き、次にソフトウェア販売店のセールスマンとしての職を得た。
そして、上司に逆らって店をクビになったとき、起業を思いついた。
コンピューターのコンサルティングビジネスを行うマイクロソリューション社を立ち上げ、数年後の33歳のときにはこの会社を600万ドルで売却。
そのまま5年間のリタイア生活に入った。
その後、リタイア生活から復帰し、再び新しいビジネスで大成功を収め、億万長者になった。
私が注目したいのは彼の成功ではない。
なにより興味深いのは、彼が成功を手にするまでに何度も大胆な行動を取り、そのどれにもリスクを感じていなかったことだ。
ダラスへの移住も、そこで仕事を得たことも、上司に逆らって解雇されたことも、その後の起業も、どれも彼にとってはリスクではなかった。
「当時の私には何もなかった」と後にキューバンは回想している。
「失うものは何もなかったから、突き進むしかなかったんだ」と。
つまり彼は、失敗するリスクより、成功によって得られるメリットのほうがはるかに大きい状況にいた。
このような状況を、「非対称リスク」と呼ぶ。
非対称リスクに直面したときには、チャンスをつかむために大胆な行動を起こすことが合理的な判断になる。
極端に言えば、デメリットが極めて小さく(あるいは、失うものが何もなく)、メリットが極めて大きい場合、大胆な行動を取らないほうがリスクとなるということだ。
このとき、大胆な行動を取らなければ、心理的な悪影響も生じる。
「もしあのとき思い切って行動に移していたら……」と一生後悔し続けるかもしれない。
逆に大胆な行動を取れば、心理的に良い影響が生じる。
たとえうまくいかなくても、意義ある目標に挑戦したことを誇りに感じられるはずだ。
全力で取り組んだのなら、結果がどうであれ、その経験から多くの良い思い出も得られるだろう。
これは、以前に紹介した「記憶の配当」の一形態だと言える。
後で振り返ったとき、期待した結果が得られなかった経験も、ポジティブな記憶の配当を生み出すのだ。
大胆な行動は、将来の幸福度を高めるという意味での投資になる。
つまり、あなたの人生を豊かにする。
もちろん、デメリットが極端に少なく、メリットが極めて大きいというケースはめったにない。
だが、デメリットとメリットが同じくらいだと思えるケースでも、冷静に考えれば、思っていたほどデメリットが大きくないケースも少なくない。
特に、若いときほど大胆な行動を取りやすい。
年を取ってからリスクを取ると、それは大胆ではなく愚かな行動になることもある。
これは、身体的なリスクを考えるとわかりやすい。
たとえば、私は子どもの頃、よく自宅のガレージの屋根から飛び降りて遊んでいた。
楽しかったし、怪我をしたこともない。
リスクだなんて1ミリも思っていなかった。
だが、50歳になった今、ガレージの屋根から飛び降りるのは愚かなことだ。
体重は重くなっているし、子どもの頃のように膝で衝撃を吸収できない。
おそらく病院に直行するはめになるだろう。
つまり、今の私にとっては、得るよりも失うことのほうがはるかに多い。
同じことは、チャンスが消滅するまで、時間の経過とともにリスクと報酬のバランスが変化するさまざまな領域で発生する。
若いときは、リスクを取っても成功すれば大きな形で報われる可能性が高い。
つまり、得られるだろうメリットは莫大だ。
同時に、失敗しても立ち直る時間が十分にあるからデメリットも小さくなる。
私の好きなポーカーでは、プレーヤーがチップを追加で購入(リロード)することがある。
若いときは、人生というゲームのなかで何度もリロードが繰り返せる段階だ。
失敗の影響も長い目で見れば打ち消していくことができる。
私自身、23歳のときに大きな失敗をした。
投資銀行のジュニアトレーダーとしての職をクビになったことがある。
自分が求めるキャリアの経験を積めていたのに、疲れてブースで居眠りしていたのを見つかって解雇されたのだ。
不安だったし、これから何をすべきかもわからなかった。
それから1ヵ月間は無職で過ごしたが、ちっとも楽しくなかった。
結局、株式仲買人として別の会社に就職し、失業生活は終わった。
給料は良かったが、それは私が本当にやりたい仕事ではなかった。
それでも、とにかく働かなければならなかったし、どうにかなるだろうという思いもあった。
まだ23歳で、失敗しても軌道修正できる時間が豊富にあったからだ。
この仕事で失敗しても、またやり直せばいい。
何があっても、野垂れ死んだり、路頭に迷ったりはしないだろうと。
マーク・キューバンのように、非対称リスクに直面したときに大胆な行動を取っても、必ず成功につながるわけではない。
どんなに頑張っても、うまくいかないことはある。
だが、失敗にも価値はある。
私の場合も、株式仲買人として働いたのは良い経験になった。
失うものはほとんどなく、軌道修正をする時間も十分にあり、素晴らしい思い出がいくつもできたからだ。
住む場所を変える不安を乗り越える方法 p252
人は移住や旅行などの場面でも大胆な行動を避けようとする。
他の都市に移住するなど想像もできないという人も多い。
遠く離れた土地に移り住めば大きなチャンスが得られるような状況にあっても、「知り合いがいない」「母親の近くにいたい」といった理由で尻込みしてしまう。
だが、たった2、3人の友人から離れることを恐れて、新たな挑戦の機会を逃してしまうのは実にもったいないことだ。
逆に言えば、その2、3人に自分の住む場所を選ばせているようなものだ。
もちろん、大切な人との関係をおろそかにしてもいいというわけではない。
だが冷静かつ合理的に考えてみれば、思い切って新天地に移住しても、それまでの人間関係は保てるし、新しい土地でも友人をつくれることがわかるはずだ。
こうした合理的な考えをするためには、不安を数字に置き換えてみるといい。
たとえば、現在の仕事より年収が2万ドル多く、やりがいがありそうな仕事に就けるが、そのためには国内のかなり遠方(または国外)に移住しなければならないとする。
友人や家族と離れた場所に住むことを不安に覚える人もいるだろう。
そんなとき、私はこう尋ねる。
「普段、その人たちとどれくらいの時間を過ごしているのか?」と。
多くの場合、実際はそれほど一緒にいないことがわかる。
人は身近にあるものはいつでも手が届くと考えがちだからだ。
その結果、その気になれば会える大切な人とも、実のところ頻繁には会ってはいない。
加えて、「移住先からのファーストクラスの往復航空券はいくらになるか?」とも尋ねる。
これは、移り住んだ土地から地元に戻るためにかかる最高額の費用だ。
だがファーストクラスの航空券代も、転職によってアップした2万ドルに比べればごくわずかな額にすぎない。
大切な人と会うために年に何度か地元に戻ったとしても、十分におつりがくる。
さらに、金の問題だけではなく、移住によってさまざまな体験ができることも加味して考えるべきだ。
これらを考えた後でも、やはり地元に残るという人はいる。
もちろん、私はその人の考えを尊重する。
だがこれは、見方によっては地元に留まるために2万ドルを支払っているとも考えられる。
私自身、移住を拒んでいたら、人生で最大のキャリアチャンスを逃していた。
25歳のとき、2年前に会社をクビになった後で転職し、天然ガスのブローカーとして働いていたときのことだ。
大学を出たての頃に比べると、10倍から15倍もの給料を手にしていた。
高給取りになれたのはうれしかったが、仕事そのものは嫌いだった。
電話営業は苦痛だったし、客に自分が気に入られるかどうかが営業成績に大きく影響するという仕事の性質も肌に合わなかった。
ブローカーという仕事の性質上、ある程度は自分の裁量で状況をコントロールできるが、どれだけ頑張っても超えられない限界も感じた。
それが、私がトレーダーになりたかった理由だ。
ブローカーを個人顧客向けに不動産を売る仕事と喩えるなら、トレーダーは物件自体を売買するのが仕事だ。
大きなリスクを取るが、成功すれば大きな報酬を得られる。
トレーダーになる機会は、意外な形で訪れた。
あるとき、テキサスにいる顧客のもとを訪れたときのことだ。
いつもの出張だと思っていた。
だが実際には、その顧客は私を面接しようとしていた。
話が終わると、自身が経営する会社でヘッドオプショントレーダーとして働かないかと誘ってくれた。
私は、その仕事をやりたいかどうか確信を持てないような態度で条件を聞き、交渉した。
だが、心のなかではこう叫んでいた。
「ニューヨークに戻ったら、すぐにでも荷物をまとめてテキサスに移住するぞ!」
まわりからは、ニューヨークでの好条件の職を辞めてまで、うまくいくかどうかがわからない仕事に転職するのは理解できないと言われた。
しかも、よりによって保守的な土地柄で知られるテキサスに移住してまで。
私自身、黒人であることもあって、この土地に(または南部の州全般に)対してステレオタイプな先入観を持っていた。
だが、成功すれば大金を稼げるトレーダーになれる。
大きなチャンスを目の前にしていた私にとって、そんなことは問題ではなかった。
必要なら、シベリアにだって移住しただろう。
それに、このチャンスに飛びつかなければ、あとで自己嫌悪に陥るだろうこともわかっていた。
失うものもなかった。
テキサスでうまくいかなくても、ニューヨークに戻ってまたブローカーとして働けばいい。
たとえ失敗したとしても、挑戦したことは残りの人生で誇りに思えるはずだ。
ネガティブな経験でさえも、ポジティブな記憶の配当をもたらすことがある。
つまりそのときの私にとって、これは得る物が大きく、失う物は少ない賭けだった。
結果として、すべてがうまくいった。
私はトレーダーとして成功し、テキサスが大好きになった。
ヒューストンで就職してから1週間後、上司と一緒にチャリティーオークションに行き、馬とショットガンを落札した。
ニューヨークの友人たちに共同馬主になったと言うと、みんな驚いていた。
今はもう馬主ではないが、そのときに手に入れた旧式のショットガンはまだ保有している。
ニューヨークで出会い、仲良くなった人たちとの友情を保つ一方で、ヒューストンでも幸せに暮らし、気の合う仲間をたくさん見つけることができた。
もちろん、「世の中、そんなにうまくいくことばかりじゃない」という人もいるだろう。
私がトレーダーの仕事をオファーされたのも、大金を稼げたのも、そもそもそれ以前に高収入のブローカーの職を得ていたのも、すべて幸運ではないかと。
それでも、私が実体験を通じて実感した、「人生には大胆に行動すべきときがある」という考えは、あらゆる人に当てはまるものだと確信している。
リスクを恐れるあなたへ p256
チャンスをつかむために高収入の仕事を辞める人もいれば、まったく貯金がない状態から行動を起こす人もいるだろう。
昼間はバーガーキングで働きながら夜間にプログラミングを学ぶ男性も、屋台ビジネスを仲間と一緒に始めようと準備をしている女性も、スケールは小さいかもしれないが大胆に行動を起こしている点では同じだ。
「安定しているが充実感が得られない道」ではなく、「確実性は低いが経済的、心理的にはるかに大きなやりがいが感じられる大胆な道」に進もうとしているのだ。
もちろん、リスクを恐れる人の気持ちもよく理解できる。
私の母も公務員で、教師をしていた。
だから私が公務員になることをずっと望んでいたし、そのことについて幾度となく議論もした。
母は、「公務員はなんといっても安定している」といって譲らなかった。
だがそれは、私が人生に求めていたものとは正反対のものだった。
私はリスクを承知のうえで何かに挑戦し、大きな成功をつかみとりたかった。
郵便局が常に職員を募集していて、安定した収入を得られるのなら、他のすべてが失敗したときに就職すればいいと思っていた。
なにも、最初から公務員にならなくてもいいじゃないか、と。
ただし、母の生い立ちを考えれば、それも無理はないと思っている。
彼女はアフリカ系アメリカ人で、大恐慌の直後に生まれ、公民権運動が起こる前の時代を生きてきた。
嫌と言うほど不公平を体験し、つらい思いを味わってきたからこそ、安全や安定を何よりも求めるようになったのだ。
生い立ちによってリスクに対する考えは変わる。
それに、人には生まれつきリスク許容度に違いがある。
だから私は、あなたがどれだけのリスクを負うべきかについては話さない。
だが、少しでもあなたの背中を押すために、最後に大胆に行動するための3つのポイントだけ伝えておこう。
1つ目は、あなたがどれくらいリスクを取ろうが、どんな大胆な行動に出ようが、一般的にそれは人生の早い段階が良いということだ。
繰り返しになるが、若い頃のほうが失敗のダメージは少なく、成功して得られるメリットは大きくなる。
2つ目は、行動を取らないことへのリスクを過小評価すべきではないということだ。
大胆な行動を取らず、同じ場所に留まれば、安全に思えるだろう。
だが、それによって何かを失っている可能性にも目を向けるべきだ。
安全な道は歩めるかもしれないが、行動して得られるはずだった経験値を失っている可能性もある。
たとえば行動によって1万ポイントの経験値を得られたのに、リスクを避けたために7000ポイントしか得られていないかもしれない。
その場合、人生の満足度が30%減ることになる。
もし満足感が30%少なくなっても、安心が手に入るならかまわないという人もいるだろう。
もちろん、それは問題ない。
どの程度のリスクを取るかはあなた自身が決めることだ。
私が伝えたいのは、その決定によってどのような影響が生じるかをよく考えてほしいということだ。
3つ目は、「リスクの大きさ」と「不安」は区別すべきだということだ。
人は不安に襲われていると、実際のリスクを過度に大きく見なしてしまう。
大胆な行動を想像するとすぐに不安を覚えてしまう人は、まずは考え得る最悪のシナリオを頭に浮かべてみよう。
次に、その最悪のシナリオを乗り越えるためのあらゆる安全策を検討してみよう。
たとえば、失業保険や家族からの支援、民間保険などを利用できないかと考えてみる。
すると、リスクを取ることで起こり得る最悪のシナリオも、想像したほど悪くはないと気づけるかもしれない。
もしそうなら、リスクを取ることのプラス面にも目を向けやすくなるだろう。