コンテンツにスキップする

「デザインリサーチの教科書」を読んだ

投稿時刻2024年7月14日 13:38

デザインリサーチの教科書」を 2,024 年 07 月 14 日に読んだ。

目次

メモ

p13

TwitterやFacebookなどのソーシャル・ネットワーキングサービス上ではインターネットミームの一種として「デザインの敗北」なるフレーズが駆け巡ることもある。
これはデザイナーが対象をスタイリッシュにしようとした結果、見た目は良いが実際に利用するユーザーにとっては使い勝手の悪いものとなってしまい、注意書きのテプラを貼り付けるといった対処が必要な状態を指す。
いずれにしてもデザインとは見た目に関するもの、見た目を良くするものであるという認識が根底にある。

この「デザイン=見た目の話」として認識されているのは日本に限った話ではない。
私はデンマークのデザインスクールにてデザインを学び、様々な国や地域の人々と一緒にプロジェクトに取り組んだ経験があるが、多くの国においてデザインに対する一般的な認識に大きな差はないと感じている。

このイメージがいまだ大多数を占めることに変わりはないが、少しずつ変化の兆しが見えていることも事実である。

例えば、グランドデザイン(Grand Design)という言葉をニュースなどで見聞きしたことはないだろうか。
「国土のグランドデザイン」「大阪のグランドデザイン」といったように、国として、あるいは特定の地域として将来どのような方向を目指すべきかという、ときには数十年を要するような壮大なビジョンを描く時に使用される言葉であり、それが色や形についての話をしていないことは明白であろう。
この場合における「デザイン」という言葉は、大きな目的を達成するための仕組みやシステムの構想についての企画・設計を指す。

p15

グラフィックデザインとインダストリアルデザインの違いは、デザインの対象がビジュアルシンボルか物理的なモノかであるともいえる。
ここで重要なポイントとして、インダストリアルデザインとして何か物理的なモノを作り上げる際には、グラフィックデザインが必要になってくる点である。
例えばiPhoneを想像していただくとよいかと思うが、ハードウェアとしての造形の他に、iOSというソフトウェアを作り上げる必要があり、そこにはグラフィックデザインの知識、スキルなどが要求されることは想像に難くないだろう。
インダストリアルデザインがグラフィックデザインを内包する形で示されているのはこのためである。

p25

この流れを受けて、建築家のヴァルター・グロピウスがドイツに設立したデザインスクールがバウハウスである。
バウハウスは芸術と技術の統合を理念に掲げ、王侯貴族のための芸術ではなく庶民生活をより豊かにするためのデザインを目指した。
一方で、モホリ=ナジ・ラースローにより、合理主義、機能主義的方針へ舵を切る。
これは工業化のトレンドに合わせてビジネスとして製品づくりを行う場合に、スケーラビリティを考慮する必要性が出てきたためであり、インダストリアルデザインの文脈に迎合するものであった。

p26

T型フォードが生産終了してから2年後の1929年、アメリカを発端に世界恐慌を迎えた時、世界的な不況にあえぐ企業に活力を与える方法としてデザインへの注目が集まった。
デザインで見た目を良くして消費者を刺激し、購買意欲を沸かせるのである。
やはりこの文脈でもデザインはあくまでも作り手の都合、つまりビジネス的な側面を第一に捉えており、消費者の社会的身分や地位を誇示しようとする欲求を巧みに利用していて消費者の真の欲求に応えようとするものではないといくつかの批判が当時からなされていた。

p27

我々はパソコンやスマートフォンのようなデジタルプロダクトを利用する時、画面に表示されるボタンやアイコンなどを手がかりに操作し望む結果を得ようとするが、これは内部の複雑さに比べると非常に限定されたインターフェースである。
画面デザインに関わるデザイナーが、この限られた人々との接点で適切なユーザーインターフェースを提供しなければ、そもそもユーザーが利用することすらできないのである。
人間中心設計に携わる人の必読書といっても過言ではない D.A. ノーマンの『誰のためのデザイン?』(新曜社)の原著が出版されたのが1988年であり、この頃からユーザビリティの重要性に注目が集まり始める。

ロジカルシンキングの限界 p35

ロジカルシンキングとは、情報を集めて整理していけば問題を適切に解くことができるという考え方である。
しかしロジカルシンキングには3つの問題点があると指摘されている。

ひとつはインターネットやテクノロジーの進歩によって、情報の入手難易度が大きく下がった点である。
インターネット以前は、特定のトピックについて調べようと思っても、そもそもそのトピックについて書かれた本が存在するかどうかさえ容易に判明しなかった。
何らかのトピック、例えばデザインを学ぶための本を探そうとする場合、書店の棚に並んでいる本から探すことが第一のステップとなり、そこに並んでいない本は、本を探す人にとってこの世に存在しないも同然なのである。
このように、適切な情報を入手することで競合と差をつけられた時代においては、ロジカルシンキングは非常に有効な武器であったが、インターネットが普及した現在はどうだろうか。

大手通販サイトなどでトピックについて検索してみれば、そのトピックに関連してこの世の中に存在する(中には絶版になったものも含まれているだろうが)本のリストを一瞬で入手することができる。
このように、情報入手の難易度が下がり、誰でも容易に様々な情報にアクセスできるようになった現代では、物事を判断するために誰もが同様の情報を入手し、利用することとなる。
その結果、競合同士は同じ答えに行き着き、同じ戦術をとることになってしまうだろう。
これでは戦おうにも消耗戦となってしまい、お互いに旨味の少ない状態だ。

ふたつ目の問題点は、情報の入手難易度が大きく下がったことによって、一瞬にして大量の情報を掴める点である。
我々はどの程度の情報を把握することができるのだろうか。
また、それらの情報を整理するコストは情報の量に比例するのだろうか?
一般的に考えれば、情報と情報の関連性などを理解した上で整理する必要があるため、情報量に対して指数関数的に必要な時間が増えるであろう。
つまり、ロジカルシンキングの前提である、情報を集めて整理していけば問題を適切に解くことができるというストーリーは、扱う情報が多すぎる場合には破綻してしまう。

そして最後に、人々の要求の高まりと Wicked Problem (厄介な問題)の顕在化が挙げられる。
複雑な未来においては、将来の予測が難しいだけではなく、そもそもの解決を図ることに難しさがある。
このことを Wicked Problem と呼ぶ。
Wicked とは「邪悪な、悪意のある、意地悪な」のような意味を持つ英語であり、日本語では「厄介な問題」と呼ばれることが多い。
これは下記のような特徴を持っている。

- 解くべき問いが不完全で、矛盾し、要件が常に変化しており、一意に定めることが難しい。
- 社会的な複雑さのために誰もが納得できる「解決」といえるような点がない。
- 課題同士が複雑な依存関係を持っているために、ひとつの問題を解決しようとしても、他の問題が顕在化したり、あるいは新たな問題が生じたりする。

この言葉はもともと社会政策が解くべき課題に対する説明として導入が図られたものであるが、現在では、プロダクトづくりにおいても広く使われるようになっている。

前述した産業革命などは Wicked Problem のよい例である。
産業の発展により社会が豊かになった一方で、様々な社会問題も引き起こしているのである。
列車や自動車が発明されて人々は遠く離れた地まで容易に赴くことができるようになったが、交通事故という概念がこの世に生まれたともいわれている。
もちろんそれゆえに列車や自動車は悪だと簡単に決めつけられるものではないが、私たちプロダクトデザインに携わる者としては、私たちが生み出すプロダクトが社会に対してどのような影響を与えるのかを常に考えなければならず、それは可能な限りポジティブなインパクトでなければならないだろう。

このように、現代のプロダクト開発においてロジカルシンキングでは限界がある。
情報の曖昧さを許容し、情報を包括的に捉えて、独自の視点を入れ込みながら、そしてプロジェクトの影響範囲を最大限に見極めながらプロジェクトを進めることが重要になってくる。

p48

人々がどのような生活をしているか、人々がどのようなニーズや願望を持っているか、社会がどのような課題を抱えているか、未来のあるべき姿とはどのようなものなのか……デザイナーがプロダクトをデザインする前に、あるいは初期段階で収集する情報は、多岐にわたる。
デザインに着手したあとも、プロジェクトは正しい方向へ向かっているだろうか、ユーザーに受け入れられるだろうか、ビジネスとして成功するだろうかなど、様々な事項についてリサーチを重ねる。
リサーチはプロダクトをデザインするため、あるいは意思決定を支えてプロジェクトを前に進めるために行われる。
これら多種多様なリサーチを私たちはデザインリサーチと呼ぶ。

デザインリサーチの目的 p49

デザインリサーチの目的は大きく分けると2つである。
ひとつ目は可能性を広げること。
そして、ふたつ目は可能性を狭めること、つまり意思決定をすることである。

p72

デザインリサーチでは統計データよりもまず一人ひとりに注目し、人々を集団として扱うようなことをしない。
私たちは一人ひとりが異なる考え方や生活様式を持っており、一人として同じ人間はこの世に存在しないからだ。
人々を安易に抽象化したり、グルーピングしたとしても、それは人々を理解したことにはならないのである。