コンテンツにスキップする

「デザイン、学びのしくみ」を読んだ

投稿時刻2024年5月18日 16:04

デザイン、学びのしくみ」を 2,024 年 05 月 18 日に読んだ。

目次

メモ

デザインを学ぶ人に向けて p12

デザインを学ぶ一番良い方法は、とにかく手を動かしてデザインしてみることです。
少し乱暴に聞こえるかもしれませんが、見様見真似で形を作っているうちに、デザインできるようになる、というのが本当です。

それは、水泳の練習に似ています。
泳げるようになるには、とにかく水に入ってみるしかありません。
子どもたちは、水の中で遊んでいるうちに、水に浮くことを覚えます。
泳げる人の真似をしながら、次第に泳げるようになっていきます。
逆に、陸の上でいくら流体力学や人間工学を学んでも、泳げるようにはなりません。
泳ぎ方を頭で理解したら、泳げるようになるのではなく、泳ごうとしているうちに、体が泳ぎ方を理解するのです。
デザインの学びも同じです。

それで、もしあなたが、これからデザイナーになりたいと思っているなら、(せっかく本書を手にとっていただいたのに恐縮ですが)本を読むよりも、まずは、とにかくデザインを始めてみましょう。
デザインの勉強は、文字通り「形から入る」のが一番です。

とはいえ、そう言われてもどこから手をつけて良いのか分からなければ、子どものころに好きなイラストや漫画を真似して描いたのと同じ要領で、好きなデザインを真似してみましょう。
あなたには、きっとデザインに興味を持つきっかけになった作品や、あこがれている作家がいるはずです。
試行錯誤しながらお手本通りに形を作る過程が、デザインの学びになります。
ちなみに、僕のお勧めは文字のデザイン(タイポグラフィ)から始めてみることです。
お気に入りの書体をトレースしたり、文字を使ってポスターを作ったりしているうちに、形を作れるようになります。
理由はよく分からないけれど、作ることが苦しいことも含めて)楽しくてしょうがないと感じるなら、あなたには素質があります。

そうやって形が作れるようになると、次第に内容について考えられるようになります。
そして、そのうち文脈についても理解が及ぶようになるでしょう。
逆に、最初からデザインの理論を学ぼうとすると、手が止まってしまうことがあります。
理論も大切ですが、それを学ぶのはデザインできるようになってからで十分です。

本書では、プラットのコニュニケーションデザイン学科のカリキュラム(学習計画)を紐解いて、学生たちが、どんなコースをどんな順番で履修していくのかご紹介します。
子どものころから絵を描くのが好きで、美大を目指すことにした学生たちは、美大でも造形から始めて、次第により複雑な内容を扱えるようになっていきます。
そして、ほんの数年で、素晴らしいデザインを生み出せるように成長します。

どんな学びでもそうですが、学ぶ内容だけでなく、学ぶ順番が大切です。
デザインの能力も、理論的に設計されたカリキュラムに沿って「意図的な練習(Deliberate Practice)」を積み上げることで上達していきます。
逆に、デザインを続けていれば、自動的にデザインがうまくなる、というわけではありません。
同じ作業をただ繰り返しているだけでは、成長は期待できません。
本書の内容は、デザインを学ぶ学生だけでなく、すでにデザイナーとして働いている方にとっても、独学の道標となるはずです。

p16

デザインリサーチャーのリズ・サンダースとピーター・ジャン・スタッパーズは、デザインの変化を「Design For People, Design With People, Design By People」という三つのステップで説明しています。
平たく言うと、デザインは、デザイナーがみんなのためにデザインする時代(Design For People)から、デザイナーとユーザーが一緒にデザインする時代(Design With People)へ、そしてみんなが主体的にデザインする時代(Design By People)へと広がっているということです。

p24

情報整理や課題解決の手法に、5W1Hというものがあります。
情報を、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How)に分けて考えることで、思考の解像度が上がり、情報をより深く理解することができます。
デザインのプロジェクトでも、内容を分析したり、構想をまとめたりするために、よく使われる手法の一つです。

デザインの学びも、5W1Hを使って分析してみることで、そのしくみをよく理解できます。
例えば、何を(What)、いつ(When)学ぶかは、とても大切です。
カリキュラム(学習計画)に沿って、特定の内容を論理的な順番で学ぶことで、デザインの技術を効率的に伸ばせます。
さらに、どこで(Where)、どのように(How)学ぶかを意図的に設計することで、成長を加速できます。
さらに、それを誰から(Who)学ぶかは、デザインの学びを大きく左右するでしょう。
「分けると、分かる」と言いますが、漠然とデザインの学びを捉えるのではなく、分解してみることで、そのしくみをよく理解できます。

デザインの高等教育 p38

デザインや芸術の教育に影響を与えた源流の一つが、17世紀フランスに設立されたエコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校、以降「ボザール」)にあると言われています。
このボザールでの教育は、王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当するエリート人材の育成を目指したもので、伝統に重きが置かれ、理想化された様式美を踏襲するものだったようです。
ボザールで始まった教育スタイルは、後の高等教育機関におけるデザイン教育にも大きな影響を及ぼしているように思います。

かのバウハウスでは、工房型の訓練と理論の研究が、バランスよく統合されていました。
バウハウスでは、マイスター(師匠)と呼ばれる教師が、作品の実制作を通してレールリング(徒弟)と呼ばれる学生たちを教えていました。
同時に、パウル・クレーやヴァシリー・カンディンスキー、ラズロ・モホリ=ナジといった教師たちのノートを紐解くと、理論が徹底的に研究されており、理想や哲学が追求されていた様子がうかがえます。
それは、ボザールにおける伝統を重んじる古典主義とは少し異なるかもしれませんが、理想を追求する姿勢には共通するものを感じます。
それら視覚芸術を実践する者たちが、技能を実践的に教えるだけでなく、デザインという新しい価値創造のあり方を一つの学問として確立しようとして奮闘した姿に深い感銘を覚えます。

本書を執筆するにあたり、デザイン教育における実践的な工房型の職能訓練と、実験的な理論の研究とのバランスについて改めて考えさせられました。
もちろん、工房型の職能訓練にもさまざまなレベルがありますし、理論の研究と一口に言っても基礎から応用まで多様かもしれませんが、いずれにしてもそれらは二項対立するものではなく、その両立が創造的な学びを支えるのだと思います。
バランスの取り方はいろいろですが、そのバランスのあり方に、デザイン教育に対する哲学や価値観が表れるように思います。

カリキュラムのしくみ p39

デザイン学科のカリキュラムとは、デザイナーになるために必要な知識や表現技術を段的に学ぶための学習計画です。
学生たちは、この計画に沿ってコースを受講していくことで、デザインを体系的に学び、デザイナーとして段階的に成長していきます。
「やり抜く力」の著者、アンジェラ・ダックワース教授は次のように述べています。

人間の持つどんなに複雑でクリエイティブな能力も、それを構成するスキルは細分化することができる。
そして、一つひとつのスキルは、練習をしつこく積み重ねることによって習得することができる。

つまり、デザインを学ぶには、それを細分化し、学ぶべき順番に並べた学習計画が不可欠ということです。
習得のスピードには個人差があるかもしれませんが、その計画に沿って意図的な練習を積み重ねることで、誰でもデザインを習得できます。
実際、どんなに素質があっても、漠然とデザインしているだけでは技術は積み上がっていきません。
また、いつまでも簡単な作業を繰り返していても、成長は望めないでしょう。

デザインの要素分解とその構造 p41

B・A・ドンディスは、自著『形は語る』の中で、コミュニケーションデザインの基礎である視覚リテラシー(視覚的な読み書きの能力)を、内容と形、そして表現者と受け手の四つに要素分解しています(次ページの図を参照)。
言い換えれば、コミュニケーションデザインを学ぶとは、この四つの要素とその関係性を学ぶということです。
この本は1973年に出版されたものですが、テクノロジーやメディアが進化した今でも、その基本的な構成要素はほとんど変わっていません。

プラットのコミュニケーションデザイン学科のカリキュラムは、基本的にこの視覚リテラシーの構造に基づいて設計されています。

まず1年次の基礎課程では、「形」に注目し、視覚表現の基本を学びます。
形をさらに「光と色彩」や「時間と働き」といった要素に細分化して集中的に学び、次にその構成の仕方について学びます。
これは、言語の習得に例えると、まず文字や単語を学び、次に構文を学ぶことに似ています。
文字が書けなければ、文を書くことはできませんが、視覚表現でも同じことが言えるでしょう。
学生は、視覚表現の基本要素をまず習得し、より複雑表現を生み出すための土台を固めていきます。
授業では、講義を聞いて理論を学ぶというより、ドローイングやコラージュなどの制作を通して、形を見ることや作ることを学

2年次から始まる専門課程では、視覚的な記号を形成する「内容と形」の関係に注目します。
グラフィックデザインの巨匠ポール・ランドは、「デザインとは、内容と形の関係である」と言い切っていますが、専門課程の最初に、コミュニケーションデザインの基礎をおさえます。
例えば、アイコンやシンボルがどのように意味を伝えるかを学びます。

3年次になると、より複雑で統合的なデザインを扱うようになります。
視覚リテラシーの構成要素である「表現者と受け手」をつなぐメディアについて学び、デジタル化されたプラットフォームでの双方向のインタラクションや参加型のコミュニケーションを扱います。
近年メディアの進化によって、コミュニケーションのあり方が多様化していますが、それに伴って課題や授業の内容も複雑になっています。

3年次までに、コミュニケーションデザインの基本を一通り学んだ後、最終学年では卒業論文に取り組みます。
それは、学生が自分のデザイナーとしての哲学や価値観を定める機会となります。
言い換えれば、学生は、「表現者」として、何を「良いデザイン」とするのかということを自分なりに定義します。
バウハウスのラズロ・モホリ=ナジは「デザインとは職能ではなく、姿勢だ」と言っていますが、自分のデザイナーとしての姿勢を主体的に定めることは、デザイナーとして活動していくために不可欠です。
先人の知恵を継承することは学びの基本ですが、主体的に自分の価値観や哲学を定めることは、創造の基本でしょう。

p70

【解説】
前述のリサーチ・アナリシス・プロセスでは、アイデアを生み出す創造的なプロセスや方法論に注目しますが、このコースではそのアイデアを形にする制作プロセスや、そのためのツールの使い方を学びます。
プロから学ぶことで、効率的にその勘所をおさえられます。
ともすると高等教育では、思考力の訓練が強調され、ツールの教育がおろそかになりがちです。
もちろん、「アイデアを形にするためのテクニックやツールの使い方は自力で学ぶほうが良い」という考え方にも一理ありますし、そういった技能を主体的に習得していく姿勢は仕事をする上でも重要です。
とはいえ、学生のうちに、新しいツールを習得するための基礎的な学習モデルを獲得しておくことはとても大切でしょう。

ちなみに「80対20の法則」として知られる、パレートの法則が、ツールの習得にも当てはまります。
多くの場合、ツールの20%の機能が、80%の成果を生み出します。
例えば、アドビイラストレーターの機能の2割を理解していれば、8割の作業に対応できるでしょう。
つまり、一つのツールを完璧にマスターすることを目指すよりも、同じ時間で五つのツールを学ぶほうが4倍も生産的であるということです。
もちろん、一つのツールを完璧にマスターすることで見える景色もありますが、すこし中途半端に思えるとしても、入門コースで、複数のツールの基礎を少しずつ学ぶというのは、良い方法だと思います。

p72

【解説】
コミュニケーションデザインの文脈の理解は、意味のあるデザインを生み出す上で不可欠です。
例えば、1950年代に流行した建築様式で、装飾性が低く無骨な意匠表現を外観に多用するブルータリズムが、2017年ごろから、グラフィックデザインのスタイルとして取り入れられ、よく目にするようになりました。
トレンドにはいろいろな解釈があるものですが、無骨で飾らないグラフィックデザインのブルータリズムを、テンプレートで生成された「美しい(薄っぺらく、うそっぽい)」デザインに対するアンチテーゼと解釈できるかもしれません。
それをポスト真実やディープフェイクと重ねるとさらに意味が深まります。

とはいえ、個人的にはグラフィックデザインのブルータリズムがトレンド化して、テンプレート化していく様子に矛盾を感じないわけではありません。
グラフィックデザイナーたちは、こうした微妙なニュアンスを伝えられるようになるために、自分たちが社会的な文脈の中で作品を生み出していることに自覚的である必要があるでしょう。

p85

【解説】
アメリカには新卒採用という考え方がないので、学生たちが一斉に就職活動を始めるということもなく、思い思いのペースで仕事を探します。
リクルートスーツがあるわけでも、エントリーシートの記入があるわけでもありません。
優秀な学生は2年次から積極的にインターンシップを探し、卒業前に就職が決まるケースもありますが、卒業した後もしばらく仕事を探している学生も少なくありません。
いずれにしても、終身雇用も年功序列もデザイナーにはまずありませんから、キャリアが続くかぎり、定期的に就職活動がありますし、フリーランスになれば、常に仕事を探し続けている状態です。

カリキュラムの最後に、学生たちを社会に送り出すコースがあることは、とても大切だと感じます。

視覚言語の習得 p87

次に、コミュニケーションデザイン学科のカリキュラムの基盤となっている、視覚言語(視覚リテラシー)とその習得について、もう少し深掘りしてみましょう。
ちなみにこの基盤は、デザインの分野によって多少異なります。
プロダクトデザインであれば、意味よりも機能が重視されるかもしれませんし、視覚言語というよりも、造形言語という表現のほうがしっくりくるかもしれません。

理論と実践 p87

プラットでの授業とは別に、2020年の5月から2年間ほど、ストリートアカデミー(通称、ストアカ)というプラットフォームで「デザインのしくみ」という講座を毎週開催しました。
デザインに関心のある方や、現役のデザイナーの方に、視覚リテラシーや創造的なフレームワークを説明する講座で、2年間で、のべ800名ほどの方が受講してくださいました。
講座後に感想を聞くと、「自分はデザインを独学で学び、実務を通してデザインの技術を身につけてきたので、美大の先生からデザインの理論を学べて良かった」と言われることがよくありました。
美大では技術だけでなく理論をしっかり学べるという印象をお持ちの方が多かったように記憶しています。

前述のカリキュラムからも分かるように、確かに美大では、デザインを体系的に学べます。
コースの内容や構成はとても論理的で、学びを段階的に積み上げていけるからです。
基礎的な内容からカリキュラムがスタートするという意味では、「美大ではデザインの理論を学べる」という理解も正しいでしょう。

とはいえ、コミュニケーション学科のカリキュラムをご覧いただくと分かりますが、必修科目の中には「記号論」や「視覚リテラシー」といった授業はありません。
デザインの授業で、そうしたデザインの理論が講義の形で扱われることもあまりありません。
特定の方法論に関する説明があったり、創造的なフレームワークが紹介されることはありますが、たいていは制作と講評会の繰り返しを通して、実践的にデザインを学びます。
もちろん、教師のコメントはデザインの理論に裏打ちされたものですし、記号論やゲシュタルト心理学に触れることもあるかもしれませんが、理論そのものを深掘りすることは、あまりありません。
実際、僕自身も、デザインの理論を意識するようになったのは、美大を卒業してしばらくしてからでした。

ここまで、かなり論理的な話をしてきたにもかかわらず、授業ではあまり理論を深掘りしないというのは、意外に思われるかもしれません。
もう少し、説明しましょう。

すでに触れたように、特に視覚的なデザインの学びは、言語の習得に似ています。
視覚的なコミュニケーションにおいても、記号を用いて意味を伝えますが、それは音声言語のしくみとほぼ変わりません。
音声言語の習得は、親の話す言葉を聞くことから始まり、パターン認識を通して自然に身についていくものですが、視覚言語も同じように見ることを通して自然に身についていきます。
実際、たいてい子どもは「お母さん」という言葉を覚えるよりも先に、自分の母親を見分けることができるようになります。

もちろん、言語は自然に身につくとはいえ、より高い言語能力を獲得するためには、学校に通い、何年もかけて読み書きを学ぶ必要があります。
例えば、文学作品を読み解き、文章を書くことで、読み書きを学びます。
とはいえ、日本人であっても、日本語の文法(言葉の種類とその並べ方のルール)を完璧に説明できる人は少ないのではないでしょうか。
同様にデザインも、視覚的な文法(視覚的な言葉の種類とその並べ方のルール)を学ぶよりも、まずは視覚的な読み書きを、制作や講評会を通して学ぶほうが自然です。

実際、美大のカリキュラムは造形を学ぶことからスタートします。
視覚(造形)表現の基本構成要素から学び始めるのは、視覚言語の文法に基づいた正しい順番ですが、学生たちは特に視覚言語の文法を意識する必要はありません。
むしろ、視覚表現の世界にどっぷりつかり、観察と造形を通してその言語を身体的に習得するほうが近道です。

第二言語としての視覚言語 p89

言語の習得には、二つのパターンがあります。
一つは乳幼児期の母語の習得であり、もう一つは、成長してからの第二言語の習得です。
前述のように、母語はまずは自然に身につき、その後、意識的な読み書きの基礎教育を通して読解力や表現力を習得します。
成長してからの第二言語の習得は、残念ながら母語のように自然には身につきません。
例えば、自然に話せる日本語の文法を学んだ記憶は曖昧なのに、英語の文法は必死に暗記した記憶があるのではないでしょうか。

美大には、視覚言語が母語(ネイティブ)の学生が多く集まっています。
幼いころから絵を描いたり、ものを作ることが好きで、視覚的な読み書きを自然に身につけてきた人たちです。
彼らは、美大の授業を通して、デザインの古典を読み解き、自分でもデザインする過程を通して、視覚的な読み書きの能力をさらに伸ばしていきます。
とはいえ、その多くは、視覚言語の文法を常に意識しているわけではありません。

ちなみに私たちは、視覚に障害がない限り、視覚的な世界で生まれ育ちます。
つまり、幼少期は誰でも視覚言語ネイティブとして育つわけですが、ある時期から視覚言語をあまり使わなくなるようです。
興味深いことに、ベティ・エドワーズは、「子どもが9歳か10歳になると、絵を描く技能という点では突然、成長が止まるように見える」と指摘しています。
それは10歳ごろまでに自然言語による思考が支配的になり、視覚的な空間認識よりも名前やシンボルが優勢になることが原因のようです。
学校では視覚言語を意識的に学ぶ機会はあまりないので、そのまま視覚的な言語能力の成長は止まってしまいます。
それで、大人になってからデザインを学ぼうとすると、第二言語を学ぶような苦労があるわけです。

では、大人になって改めて視覚言語を学ぶ場合、第二言語を学ぶようにして、まず文法を学ぶ必要があるのでしょうか。
個人差があるので一概には言えませんが、誤解を恐れずに言えば、大人になってから視覚言語を学ぶ場合であっても、視覚的な文法を学ぶよりも、まずは視覚的な読み書きから始めるほうが前述の通り近道のように思います。

確かに、どの言語にも法則があり、その構造を理解することで、言語能力は向上します。
例えば、視覚言語にも記号論やゲシュタルト心理学、色彩論といった、いわゆる視覚的な文法があり、その学習にはそれなりのメリットがあります。
とはいえ、そうした文法や理論を学ぶよりも、まずは文字通り「形から入る」ほうが視覚言語の習得は早いように思います。
実際、頑張って視覚的に読んだり書いたり(見たり描いたり)しているうちに、幼いころに覚えた視覚言語の記憶が呼び起こされていきます。

第二言語の習得について、僕自身の経験を紹介しましょう。
僕は、父親の留学で、1歳半から3歳までを米国で暮らしました。
近所の子どもたちと遊びながら、自然に英語を学び、帰国時には英語で遊んでいたそうです。
しかし、日本で暮らすうちに、英語は忘れてしまいました。
その後、高校3年生の時に、父親の転勤でまた米国で暮らすことになりました。
引っ越した先のカンザス州の田舎には日本人がほとんどおらず、地元の高校に編入し、いきなり英語で授業を受けることになりました。
大袈裟に言えば、「英語を話すか死ぬか」といった状況で、必死に頑張った結果、なんとか英語でコミュニケーションがとれるようになりました。
再び英語を話せるようになるには、それなりに時間がかかりましたが、今思えば、幼少期の経験が多少アドバンテージになっていたように感じます。
いずれにしても、英語を話す人に囲まれて、英語を話す以外にコミュニケーションの方法がない状況に身を置くことは、僕にとって英語を習得する一番の方法でした。

美大における実制作を通した工房型の学びには、前述のような言語習得モデルがベースにあるように感じます。
視覚言語ネイティブの学生に囲まれて制作を通してデザインを学ぶのが、視覚言語を学ぶ一番の近道です。
もちろん、闇雲に学ぶのではなく、論理的な順番(カリキュラム)で意図的な練習を積み重ねることで、段階的に視覚リテラシーが身についていきますが、あまり文法や理論にとらわれるのではなく、とにかく作ること(視覚的な読み書き)に集中するほうが効率的でしょう。

倣うと習う p92

幼少期の言語学習や、その後の基礎教育における読み書きの学習の基本は、真似るということです。
習うと倣うは、とても似ています。
まずは、幼児期に親が話している言葉を耳で聞き、自分も同じように真似ることで、言語が習得されていきます。
また、文学作品を読み解き、自分でも文章を書いてみるというのも、一種の模倣といって良いでしょう。
実際、素晴らしい文学作品を生み出す作家たちは、ほぼ例外なく膨大な量の古典を読んでいます。
自分の中に蓄積された文章を再構築することで、作家は自分の文体を獲得していきます。

視覚言語の習得も、真似ることが基本です。
工房での師弟関係においても、弟子は師匠の技を見て模倣しながら、成長していきます。
偉大な芸術家の作品を模写することは、美大の古典的な訓練の一つです。

人の作品を真似ることに後ろめたさを感じるかもしれません。
人の作品を真似すると、自分のオリジナリティが失われてしまうように感じることもあるかもしれません。
しかし、あまり心配する必要はありません。
人の作品を黙って自分の作品として発表するのは間違っていますが、練習段階で先人の肩を貸してもらうことには、何の問題もありません。
先人たちも、彼らの先人の真似をしながら、技術を磨いたのです。
真似することで、造形の基本的な型がパターン学習されていき、そのパターンが蓄積されていくことで、いずれ自分なりの表現ができるようになります。

例えば、レゴブロックで遊ぶシーンを想像してみましょう。
たいてい、最初から自分のオリジナルの作品を作るのではなく、パッケージに載っている完成写真を見ながら、設計図通りにブロックを組み立てることから始めます。
組み立てたり崩したりを繰り返す中でブロックに対する理解が深まっていきます。
そのうち手持ちのブロックの数や種類が増えたり、自分なりのアレンジができるようになり、だんだんと自分の作品が作れるようになっていきます。
同じように、視覚言語の習得も、まず真似をして作ってみることが基本です。
そのうち手持ちの表現が増え、自分なりのアレンジができるようになり、自分の作品が作れるようになっていきます。

実際、アウトプットのクオリティは、インプットのクオリティに比例します。
ほぼ例外なく、素晴らしい作品を生み出している学生たちは、素晴らしい作品をたくさん見ています。
積極的に美術館やギャラリーに出かけて、最先端の表現に触れています。
例えばある学生は、自分の作品がなかなか垢抜けないことに悩んでいました。
非常に聡明な学生でしたが、視覚表現のバランスやリズムには、改善の余地がありました。
そんなとき、クラスの課題の一つとして、グラフィックデザイナーの巨匠の一人であるソール・バスの作品を徹底的にリサーチする機会がありました。
その後の彼女の作品は一皮むけ、とても洗練されたものに変わりました。

ちなみに、インプットのレベルは、観察力に比例します。
目の前のものをありのままに見るためには、それなりの訓練が必要です。
前述のように、基礎課程の最初にドローイングの授業があるのは、表現力を訓練するのと同時に、観察力を鍛えるためです。
繰り返しになりますが、理論的に設計されたカリキュラムに沿って意図的な練習を積み重ねることで、学生自身は視覚言語の文法をあまり意識せずに、自然に視覚リテラシーを伸ばせます。

p97

この考え方をタイポグラフィの学習にも当てはめられます。
有名なドイツのタイポグラファであるヤン・チヒョルトは、タイポグラフィを学ぶ際に、まず一つの書体を徹底的に学ぶことを勧めています。
なぜなら、一つの書体を極めると、他の書体のことも理解できるようになるからです。

ちなみに、タイポグラフィについて理解できると、他のデザインの分野についても理解できるようになります。
少し大袈裟に言えば、タイポグラフィの中に、デザインのすべてが詰まっています。
実際、音声言語と視覚言語の中間にあるタイポグラフィは、デザインの概念モデルとして非常に優れているように思います。

文法を学ぶタイミング p98

視覚言語の学びの基本は、論理的に設計された学習計画に沿って、視覚的な読み書きの練習を意図的に積み重ねることです。
率直に言えば、特に初級レベルでの成長は、制作の量に比例します。

逆に、僕はここまで、記号論やゲシュタルト心理学、色彩論といった、いわゆる視覚言語の文法ともいえる理論を学ぶことをあまりお勧めしてきませんでした。
そういった理論は、制作の中で実践的に身につけるほうが自然で、理解が早いからです。
それは例えば、新しいボードゲームで遊ぼうと思う場合、まずルールを完璧に覚えようとするよりも、ゲームを知っている友達と遊びながらのほうがずっと早く遊べるようになることに似ています。
そして、そのほうがずっと楽しく遊べます。

とはいえ、視覚言語の文法や理論を学ぶことにも、メリットがないわけではありません。
どんな言語にも法則がありますし、その法則を理解することは、言語能力の向上に大いに役に立ちます。
つまり、鍵は文法を学ぶタイミングにあるのではないかと思います。
ある程度デザインの技術を身につけた上で、自分の経験を振り返り、学んだ知識を体系化する上で、文法や理論は役立ちます。
それは中級から上級へと学びのステージが上がる際の足がかりとなるでしょう。
母語を身につけるようにして視覚言語を学び、制作を通して十分に読み書きを訓練した学生たちは、自分の学習体験を振り返り、学びを論理的に整理整頓することで自信を深め、次のステージへと上がっていきます。

さらに、個人でデザインするモードから、チームでデザインするようになる際に、共通の理論や方法論が必要になります。
特に、ディレクターとしてチームを率いる場合は、デザインを論理的に言語化することが求められるでしょう。
それは、運動選手がプレイヤーからコーチへと役割が変わる際に、身体的な技能や感覚の言語化を求められるようになることと似ています。

視覚言語の文法や理論の理解は、教師にとって特に大切です。
もちろん、プロとしての経験は理論以上の学びを提供する場合がありますし、学生にとっても説得力のあるものでしょう。
とはいえ、学生の作品を正しく分析し、成長の機会を作るには、やはり普遍的で再現性のある理論が必要です。
特に、将来の不確実性と向き合うには、応用技術の背後にある普遍的な原理原則の理解が不可欠です。
学生が、制作を通して、普遍的なデザインの原則を身につけられるよう助けるには、教師自身がその原則を十分に理解している必要があるでしょう。

才能と努力とカリキュラム p101

「やり抜く力」の著者、アンジェラ・ダックワース教授は、「才能とは努力によってスキルが上達する速さのこと」であると述べています。
とてもシンプルな定義ですが、才能の本質を捉えています。

学生の中には、他の学生と同じ授業を受けていても飲み込みが早く、あっという間に成長する学生がいます。
その能力が先天的なものなのか、育った環境ゆえに発達したものなのかは分かりませんが、確かに「才能」のある学生がいます。
特に視覚的なバランス感覚やリズム感覚、パターン認識力に優れた学生は、素晴らしいデザインを生み出します。

しかし、ダックワース教授が指摘するように、才能とは、あくまでも努力との掛け合わせで、開花するものです。
人の2倍の才能があっても、努力が0であれば、掛け算は0にしかなりません。
実際、才能よりも努力のほうが大切です。
ダックワース教授は「2倍の才能があっても、2分の1の努力では負ける」と述べています。
これは、僕の観察とも一致します。

ちなみに僕は、誰でも何かしらの才能を持っていると考えています。
才能には個人差がありますが、才能のない人はいません。
才能の中には、特に造形の分野で開花するものがあり、ゆえにその才能を持っている人がデザインの分野で高く評価されることがあります。
それは身体的な特徴とほぼ同じで、背の高さや手の大きさがあるスポーツには非常に有利なことと同じです。
しかしデザインは非常に汎用的な活動です。
それには造形の才能だけでなく、思考力や共感力といったさまざまな能力が求められます。
つまり、デザインの分野では誰もが自分の才能を活かす機会があります。

この章で考えたデザイン学科のカリキュラム(学習計画)は、その才能と努力の掛け算を最大化するためのしくみです。
成長のスピードには個人差がありますが、理論的に設計されたカリキュラムに沿って、意図的な練習を積み上げるとき、学生は確実に成長します。
ほんの15週間(1学期)の間に、まるで別人のように成長する学生も少なくありません。
「自分の能力は、努力でさらに伸ばすことができる」ということを体験を通して学んだ学生たちは、さらに学びに対して意欲的になっていきます。
ダニエル・ピンクが、自著『モチベーション3.0』の中で述べるように、「熟達(マスタリー)」は学びをドライブする非常に強い動機付けとなります。
熟達すればするほど、さらに熟達したいという動機が強くなっていきます。
実際、圧倒的なパフォーマンスを上げる人たちは、さらなる高みを目指し、努力を重ねます。

学びの畑を耕す p106

植物の成長は種に宿る生命力に依存しています。
しかし、種だけでは成長できません。
種は、土にまかれ、水分や気温といった一定の条件が整ったときに、芽を出し、成長し、実をつけます。
学生の成長もこれに似ています。
人には元々、創造力や好奇心が備わっていますが、才能が開花し実を結ぶには、学生の主体性を尊重し、成長を支える環境が必要です。

幼稚園を考案したことで知られるフリードリッヒ・フレーベルは、子どもたちがある特定の条件の元でよく育つことを理解していました。
彼は「教育の役割は、それらの条件を整えることである」と主張しています。
では、デザインの学びを加速する、創造的な学びの場について考えましょう。

創造的な学びを加速する四つの基本要素 p107

MITメディアラボのミッチェル・レズニック教授は、『ライフロング・キンダーガーテン 創造的思考を育む4つの原則』の中で、創造的な学びに欠かせない条件として、プロジェクト、パッション(情熱)、ピア(仲間)、プレイ(遊び)の四つを挙げ、それぞれの頭文字をとって「四つのP」と呼んでいます。
レズニック教授は、世界中で2500万人以上の若者たちが参加するプロジェクトや、オンラインコミュニティでの活動を通して、この「四つのP」の効果性を実証しています。

美大の授業には、多くの場合すでにその四つの条件が含まれていますが、そのしくみを正しく理解し、バランス良く学びの場を設計することで、創造的な学びをさらに加速できます。
僕のクラスでも、この「四つのP」の効果が最大化するようにクラスを設計し、その効果を確認できています。
「四つのP」の詳しい解説は、レズニック教授の著書をご覧いただくとして、ここでは、それらの条件をどのようにデザインの学びの場に実際に組み込めるかを考えてみましょう。

プロジェクト(制作課題) p107

創造的な学びにはプロジェクトが不可欠です。
実際、ほとんどのデザインのコースは、学生が作品を作ることを中心とした構造になっています。
授業では、講義や読書課題もありますが、たいていその役割は作品の創作を支えることです。
実際、講義や読書で学んだ内容は、制作の中で実践的に応用されて初めて納得できるものです。
また、ツールの使い方を学ぶにしても、実際に制作で使わないと、学んだことをすぐに忘れてしまいます。

美大生の多くは、本を読んだり講義を聞いたりするより、手を動かしてものを作ることを好みます。
子どものころから手を使って考えてきた彼らにとって、それはとても自然な学び方です。
例えば、学生たちは、タイポグラフィの作品を制作する中で文字の構造やその働きを理解していきます。
そのようにして、思いと体に刻み込まれたタイポグラフィの基礎は、概念モデルとして機能し、将来の学びを支えます。

制作を通して自分の技術が上がっていることを実感できると、制作はますます楽しいものとなり、学生たちはさらにのめり込んでいきます。
教師たちも、制作に没頭している学生にわざわざ話しかけるといった余計なことはしません。
怪我をする危険がない限り、放っておくほうが深い学びにつながるものです。

パッション(情熱) p111

当然ですが、学生たちは自分が作りたいものを作っているときに、より意欲的にプロジェクトに取り組みます。
良い課題はたいてい間口が広く、学生が自分の関心を持ち込める隙間や余白が意図的に仕組まれています。
レズニック教授はそれを「広い壁」と表現しています。

例えば、医療に関心のある学生が、デザインフィクションのプロジェクトのテーマとして遺伝子組み換え技術を選んだり、フィルムに関心のある学生が、コダックのリブランディングに取り組んだりします。
ときには自分が魅力を感じる素材やツールをプロジェクトに持ち込むかもしれません。
いずれにしても、プロジェクトに自分のパッション(情熱)を組み合わせることで、学生主体の学びをさらに加速できます。

「情熱が先か、制作が先か」 p113

もちろん、理想は、学生が自分自身の関心事を積極的にプロジェクトに持ち込み、時間も忘れて制作に没頭することです。
しかし、少し乱暴に聞こえるかもしれませんが、多くの場合「自分の関心事とは何か」と考えて悩むよりも、とにかく何かを作り始めるのが近道です。
情熱と制作は、卵と鶏の関係と同じで、どちらが先でなければいけない、ということはありません。

とにかく目の前にある鉛筆や粘土に手を伸ばして、小さな形を作り始めることで、扱うべきテーマが見えてくるケースは少なくありません。
実際、学生たちは情熱がないわけでなく、それに気がついていないだけのことが多いようです。

また、造形的な情熱は、頭の中で言語的に思考しているだけでは、はっきりしないものです。
一歩踏み出して形を作ってみることで、それまで漠然としていた思いが、特定の題材や素材に結びつくかもしれません。
それは制作の中でさらに深まり、膨らんでいくことでしょう。
このことは、子どもがレゴで遊んでいるうちに、飛行機ができあがり、世界旅行という物語が生まれていくことに似ています。

また、「自分は何に関心があるのだろう」と悩むよりも、積極的に新しいことに興味を持ち、その関心を深めることは大切です。
ダックワース教授が指摘するように、自分が何を好きになるかを最初から分かっている人は決して多くありません。
一見つまらなそうに思えることも、先入観にとらわれずに、真剣に観察してみると「面白い」と思える点がいくつも見つかるものです。
多くの場合、関心というのは受動的に与えられるものではなく、能動的に獲得するものです。
人の興味や関心は、体験によって大きく変わるものですが、行動を起こすのは自分です。

さらに、誤解を恐れずに言えば、自分のテーマに自信を持てるかどうかは、制作次第です。
問題はそのテーマ自体が面白いかどうかではなく、それをどれほど面白くできたかでしょう。
実際、一見つまらなそうに見えるテーマを選ぶほうが、ハードルが低く、しかも飛躍も起こりやすいと考えれば、少しは気が楽になるのではないでしょうか。
例えば、卒業論文のコースで、学生たちが「壁」や「米」といった日常的なテーマを通して、複雑な人間関係や文化に対する理解を深め、素晴らしい作品を生み出しました。
要は、あまり難しく考えずに、とにかく自分の好きなことから始めれば良いのです。

p116

ちなみに、学生の成長と制作量は基本的に比例します。
トム・ケリーとデイヴィッド・ケリーは、自著『クリエイティブ・マインドセット』の中で、次のようなエピソードを紹介しています。

ある賢い陶芸の教師は、初回の授業で、陶芸クラスをふたつのグループに分けた。
半数の学生には、作品の質に基づいて成績を付けると伝えた。
授業で学んだ内容の集大成として、クラスの最終回にたったひとつの陶芸作品を提出してもらうわけだ。
残りの半数の学生には、量に基づいて成績を付けると伝えた。
たとえば、重さ50ポンド分の作品を完成させれば問答無用で成績はAだ。
コース全体を通じて、「質」で評価される学生は、完璧な陶芸作品を作り上げるために全身全霊を注いだ。
一方、「量」で評価される学生は、毎回ノンストップでろくろを回しつづけた。
そして、この実験の結果はもうおわかりだろう。
学生たちの直感とは裏腹に、コースの終了時点で、優秀な作品を作ったのは「量」で評価される学生たちばかりだった。
つまり、陶芸の技術を磨くことにほとんどの時間を費やしていた学生たちだ。

確かに、自分の情熱をプロジェクトに組み込むことは大切です。
好きなことと課題の掛け合わせが、創作を加速するのは確かですが、多くの場合、自分の好きなことや自分に向いていることを探して悩むよりも、とにかく作り始めてみるのが一番の近道です。
学生たちは、制作の中で自分のテーマを発見し、自分なりの視点を獲得し、デザインに没頭していきます。
繰り返しになりますが、レズニック教授が述べるように、課題の設計には、学生が自分のパッション(情熱)を持ち込める「壁の広さ(間口の広さ)」と、あまり悩まずに制作に取り掛かれるような「敷居の低さ」、そしてその可能性をどこまでも追求できる「天井の高さ」があるのが理想でしょう。

ピア(仲間) p118

ともに学ぶ仲間がいることで、学びの効果は何倍にも拡張されます。
例えば、学生たちは制作を通してデザインを学びますが、同じ目標に向かって努力する仲間がいるのはとても心強いものです。
レズニック教授はコミュニティに関して次のように述べています。

人は気遣いと敬意を向けてくれる仲間に囲まれていると感じると、より多くの新しいことを試みたり、創造的なプロセスには不可欠な、リスクをとる行動に向かう可能性が高まります。

p120

ダックワース教授は「やり抜く力」の中で「自覚のあるなしにかかわらず、私たちは自分が属している文化、自分と同一視している文化の影響を、あらゆる面で強く受けている」と述べていますが、学生たちは、良い意味でも悪い意味でも、クラスメイトから強い影響を受けます。
やる気のない生徒に囲まれている中で頑張るのはたいへんですが、みんなが必死に制作に打ち込んでいる中で怠けるのは居心地の悪いものです。
例えば、社会学者のダニエル・チャンプリスは、競泳の選手たちを対象に行った研究の結論として「偉大な競泳選手になるには、偉大なチームに入るしかない」と述べています。
つまり、最高の学びには、互いに高めあえる最高の仲間が必要なのです。

競争と成長 p120

多様性が豊かで、しかも学生がそれぞれ自分なりのテーマで制作を行う環境では、単純に作品を比較することが難しく、学生同士が張り合うといった状況はあまり起こりません。
教師も(たとえそれが短期的に学生のやる気を強めるとしても)学生の作品を比較して競争をあおるような野暮なことは決してしません。
とはいえ、同じ年代で、しかも同じことを学んでいる学生たちは、どうしても自分をクラスメイトと比較します。
「りんごとみかんを比較しても仕方ない」と頭では理解していても、クラスメイトのことが気になるものです。

例えば、前述のようにニューヨークの美大には世界中から腕に自信のある学生が集まってきます。
地元ではアーティストと呼ばれて崇められていた若者が、世界レベルでは大勢の中の一人であるという現実を突きつけられ落ち込む、ということは少なくありません。
しかし、そうした気づきは健全な自意識や謙遜さを養い、常に学ぶ姿勢を持つために不可欠です。

また、行き過ぎた競争は生産的ではありませんが、健全な競争意識は、学生の成長を促します。
競争意識と制作意欲を混同すべきではありませんが、ライバルの存在は切磋琢磨を促し、互いに対する敬意を育みます。
そして、結局のところ、ライバルに勝つ一番良い方法は、単純に比べられない自分なりの視点や表現を持つことだということを学生たちは次第に理解していきます。
こうした創造に関する本質的な学びは、一人でデザインを学んでいるだけでは決して得られません。

プレイ(遊び) p124

遊びと学びは一見相反するように思えるかもしれませんが、最高の学びは遊びのように楽しいものです。
「仕事とは、しなくてはいけないからすることで、遊びとは、しなくてもいいのにすることである」とマーク・トゥエインは述べていますが、同じことが学びにも当てはまるでしょう。
学生たちが自分の意思で制作に取り組み、それを心から楽しむとき、学びは遊びになります。
マリア・モンテッソーリ、レフ・ビコッキー、ジャン・ピアジェら20世紀の心理学者は、子どもは遊びを通じて学ぶことを示す画期的な研究を残しています。

仕事や学びを遊びのように感じる感覚は、特殊なものではありません。
例えば、漫画『宇宙兄弟』の作者である小山宙哉さんは、ご自分の仕事について次のように述べています。
「自分にとっては、漫画と向き合っている時間が、最も楽しい遊びをしている時間で、仕事ってつもりじゃない。ずっと遊んでいて申し訳ないって感じです」。
また『宇宙兄弟』の編集者である佐渡島庸平さんも「僕にとって、編集という仕事は最高の遊びです」と述べています。
そしてお二人とも、その遊びを通して、最高レベルのお仕事をされています。

僕自身も(お二人とはスケールがまったく違いますが)デザインを仕事と感じることはあまりありません。
確かに、良いアイデアが出ずに七転八倒し、自分の才能のなさを呪うことはありますが、そうした大変さも含めて、デザインの仕事が楽しくて仕方がありません。
新しい物語や価値を生み出す活動は、とても楽しいものです。
それは、人の幸せのために、ものを生み出すことが人間性の本質にとても近い活動だからかもしれません。

もちろん大学レベルの授業を遊びと捉えるのは簡単ではありません。
難しい講義を聴くのは苦痛ですし、心から「やってみたい」と思える課題ばかりではありません。
しかし、学びと遊びの境界線はかなり曖昧です。
特に、もともとデザインが好きで美大に来た学生にとって、その境界線を飛び越えるのはそれほど難しいことではありません。

p127

では、どうすればプロセスを楽しめるでしょうか。
その一つの良い方法は、少し寄り道をしてみることです。
お茶のパッケージをデザインするのであれば、まずはいろいろなお茶を飲んでみたり、お茶屋さんを訪ねてみたり、お茶会に参加して自分でお茶を点ててみたりすると良いでしょう。
遊びには少しお金がかかりますが、学費に比べれば微々たるものです。

自分なりの仮説を立てて自由に実験し、多様な評価軸で制作を捉え、そのプロセスを楽しむとき、課題は遊びに変わります。
それを一言で言えば「遊び心」と表現できるかもしれません。
バウハウスのラズロ・モホリ=ナジは、「デザインとは職能ではなく、姿勢だ」と述べていますが、どうやら彼も、デザインを仕事とは思っていなかったようです。
モホリ=ナジを含め、バウハウスの教師たちの作品には、伸びやかな遊び心が詰まっています。

余白と遊び p129

学びを遊びに変えるには、生活の中に隙間や余白が必要です。
日本語では、余裕があることを「遊びがある」と表現しますが、遊びと余裕はほぼ同義なのかもしれません。
確かに、遊び心をもってプロセスを楽しむには、時間が必要でしょう。
しかし、忙しい学生生活の中で、余裕を持つのは至難の技です。
スケジュールに隙間があれば、すぐに「やらなければいけないこと」が侵食してきます。
時間的なプレッシャーは、遊びを仕事に変えてしまいます。
それで、コースの設計に、上手に時間的な隙間を組み込むことが重要になります。

また、余裕が大切だとはいっても、ただ暇なだけの生活をしていては、余白を上手に管理する技術は身につきません。
学生たちは、忙しい生活の中で、意図的に余白を学びや仕事に組み込む技術を身につけていきます。
プラットのキャンパスでは、課題の締切に追われ徹夜明けなのに、心から楽しそうにしている学生をよく見かけます。

p143

学びの舞台に立つ教師には、授業という即興劇を、記憶に残る学びへと昇華させるための演技力が求められます。
特に大切なのは、対話を発展させる問いを投げかける技術です。
学びは、問いを重ねることで深まっていきます。
繰り返しになりますが、不確実な未来と向き合うために学生が学ばなければいけないのは、「答え」ではなく「答えを生み出すプロセス」です。

知識や経験があると、どうしても答えを教えてあげたくなるものですが、教師はその衝動を抑え、むしろ学びを深める問いを投げかけるべきでしょう。
学生は、教師から答えを与えられると、それ以上自分で考えようとしなくなってしまいます。
ジャン・ピアジェは、「子供に何かを教えてしまうと、その子供が自分自身でそれを発見するチャンスを、永遠に奪ってしまう」と述べています。
自分が教師という役割を演じているという俯瞰的な視点や、学生は体験から学ぶという理解は、答えを教えたくなってしまう衝動を抑える助けになるでしょう。

たいていの場合、教師はまず課題という問いを学生に投げかけます。
その上で、学生がありきたりの答えに落ち着いてしまうことがないよう、質問を投げかけたり、あえて学生の想定を超えるコメントをしたりして、学生自身から問いを引き出します。

例えば、SVAでタイポグラフィを教えてくれたマイケル・ケイ先生は、講評会である学生の作品を絶賛し、「このデザインはさまざまなレベルで機能している」と言いました。
当時の僕は、先生の講評を聞いて、「デザインは、さまざまなレベルで機能する」ものなのだということは分かりましたが、それが何を意味するのかまったく理解できませんでした。
先生の講評と自分の理解とのギャップは、自分の中に問いを生み、デザインを捉える視座を高めてくれました。

そうした問いと向き合うことで、学生たちは次第に自分で問いを立てることを学んでいきます。
学生が自問する「もし○○だったら」という問いが、創造を飛躍させます。
さらに、造形を通して素材と対話する中で、問いに気づくこともあるでしょう。
教師の役割は、学生がそうした問いを自分で見つけられるような機会を作ることです。

学生は、分かりやすい答えや、すぐに使える技術を求めるものです。
変化のスピードが指数関数的に加速している現代社会において、その傾向はますます強くなっているように感じます。
しかし、すぐに分かることは、すぐに忘れます。
すぐに使えるものは、すぐに使えなくなります。
知恵や姿勢を学ぶには、分からないことに腰をすえてじっくり向き合う必要があるでしょう。

p147

もちろん、失敗から学ぶことは少なくありません。
間違いを直すことも、成長には必要です。
視覚的な読み書きにも文法があり、間違った表現では意味が伝わりません。
教師は、学生から嫌われることを恐れて、間違いを率直に指摘することをためらうべきではありません。
しかし、学生自ら新しい答えを生み出す創造力を伸ばすには、間違わないだけでは不十分です。
マイナスをゼロにしても、プラスの価値を生み出すことにはなりません。
むしろ失敗を恐れずに、新しいことに挑戦する姿勢を育てる必要があります。

人はもともと創造的です。
創造力を十分に発揮できないのは、創造力がないからではなく、人前で恥をかくのが恐ろしいからです。
つまり、創造力を伸ばすには、失敗に対する恐れを克服する必要があります。
それには、間違いを必要以上に大袈裟に取り上げないことが大切です。

p154

前述のように、知識が簡単に手に入るようになった時代において、教師に求められるのは知識を一方的に伝えることではなく、その知識を使って価値を生み出すための方法を自らの実践を通して見せることです。
言い換えれば、デザインの教師の資格は、蓄積した知識の量ではなく、教師自身も一学修者として真剣に学び、価値を生み出しているかどうかで決まります。

デザインの素晴らしさとは、それが思考だけではなく、形をも生み出すところです。
理論を追求し新しい知識を生み出すことも大切ですが、それを社会実装することこそデザイナーの責任であり仕事です。
つまり、理想を形にするデザインのプロセスの中で、最後まで創造的な姿勢を崩さないことが、デザイナーであるということでしょう。
教師自身がデザイナーとして挑戦し続ける姿は、学生にとってどんなデザインの理論よりも大切な学びとなります。

成果が出るまで伴走する p155

前述のように、デザインの学びのゴールは「分かる」ことではなく「できるようになる」ことです。
学生は、成果が出るまで努力を続けてはじめて「能力は努力で伸ばせる」ことを自分の体験を通して学べます。
つまり、教師の仕事は、説明したり、やって見せることで終わるわけでなく、学生が「できるようになる」まで続きます。

p156

例えば、学生の作品の見た目が垢抜けない場合、どのような原因が考えられるでしょうか。
もしかすると、表現が洗練されていないのは、普段目にしているものに原因があるかしれません。
アウトプットのクオリティは、インプットのクオリティに比例します。
例えば、学生に、最近気になっている作家や作品を聞いてみると、そもそも意識的に良いものを見ていないことがあります。
また、良いものを見ていても、観察力が足りないために、十分に消化できていないこともあるでしょう。
加えて、ツールの使い方に慣れていないために、作ることに精一杯になってしまい、表現にまで手が回らないケースもあるかもしれません。

p157

それぞれの学生が抱える問題の根本的な原因を見極めて、対処法を考えるのは簡単ではありません。
また、成果が出るまで見届けるには、かなりの気力と体力が求められます。
実際努力しても、眼に見える成果を確認できるとは限りません。
それでも、「努力すればたいていのことはできるようになる」ということを、学生が体験を通して学ぶことはとても大切です。
学生が「成長思考」を持てるかどうかは、その後の成長を大きく左右します。

教育と倫理 p158

創造の基本は、人が無自覚に受け入れてしまっている常識や先入観を再検討することです。
自覚的に行うことで、これまでになかった新しい価値が生み出され、文化はさらに豊かになってきました。
しかし、同時に、古き良き価値観が、合理的な説明がないというだけで否定され、長い年月をかけて築かれてきた伝統が崩れてしまうこともあります。

つまり、本当の価値を生み出すには、健全な価値観を持っていなければなりません。
人にはもともと倫理観が備わっているように思いますが、特に創造的な活動に携わる人たちは、徳や愛情といった人間性を培う必要があるでしょう。
学生たちは、制作を通して、「自分は何を価値と考えるのか」という問いと真剣に向き合う必要があります。

特に、表現を学ぶ学生たちは、表現することの責任を自覚する必要があります。
例えば、コミュニケーションデザインを学ぶということは、いわば性能の良い拡声器を手に入れるようなものです。
友達との会話であれば、自分の好きなことを言ってもかまわないかもしれませんが、世界に向かって発言することには責任が伴います。
スパイダーマンも言っているように、「大いなる力には、大きな責任が伴う」のです。

p159

もちろん、デザインの授業は、デザインを教えるものであって、倫理や道徳を説く場ではありません。
倫理的な判断をするのはあくまで学生自身であり、教師は自分の基準を学生に押しつけるべきではありません。
とはいえ、多様性を認めることと、なんでも許容することとは違います。
教師は、学生のデザイナーとしての成長だけではなく、人としての幸せについて、真剣に考えるべきでしょう。
そして、必要とあらば、倫理的な危険から学生を真剣に守るべきです。

やる気の問題 p162

イギリスのことわざに「馬を水辺につれていくことはできても、水を飲ませることはできない」というものがあります。
喉の乾いていない馬に水を無理矢理飲ませることができないように、学ぶべき内容や環境をどんなに整えても、学ぶ気のない学生に教えることはできません。

どのクラスにも、やる気のなさそうな学生が一人か二人はいるものです。
討論にあまり参加せず、制作に身の入らない学生をときどき見かけます。
ところが、一見やる気のなさそうな学生が、別のクラスでは精力的に制作に励んでいる姿を見かけ、学生のやる気のなさを学生のせいにしていた自分自身に気づくことになります。

ダニエル・ピンクは自著『モチベーション3.0』の中で、MITの教授のダグラス・マグレガーの研究を引用し、人の動機について次のように述べています。

従業員の大半は基本的に仕事が嫌いで、できることなら仕事をしたくないと思っている、とほとんどのリーダーは考えていた。
主体性を欠く従業員たちは、責任を負うことをおそれ、ひたすら安全を望み、指示を必要とする。
結果として、「組織の目標達成を目指して、適切に仕事に取り組ませるためには、ほとんどの者に対して強制し、管理し、指示を出し、罰を用いて脅す必要がある」。
だが、マグレガーは、これとは異なる見解を主張した。
人間の本質をもっと正確に評価し、組織運営にとってもっと効率的な出発点となる見解だ。
仕事に興味を抱くことは、「遊びや休息と同じくらい自然」である。
クリエイティビティや創意工夫の才は、すべての人に広く備わっており、適切な条件のもとなら、誰もが責任を感じ、責任を求めさえする。

仕事と同じように、学びや創作は「遊びや休息と同じぐらい自然」なことです。
喉の乾かない馬がいないように、好奇心がない人はいません。
つまり、学生のやる気のなさには、何らかの原因があるはずです。
ここでは、次の五つの要因について考えてみましょう。

・学習性無力感(固定思考)
・分からない授業
・創造を阻む四つの恐れ
・忙しすぎる日々
・交換条件つきの報酬

交換条件つきの報酬 p177

学生に、努力と引き換えに何かの報酬を約束すれば、「やる気」を引き出せるでしょうか。
短期的にはできるかもしれませんが、長期的にみれば「交換条件つきの報酬(これをしたら、あれをあげよう)は、逆効果であることが知られています。

ダニエル・ピンクは、動機と報酬の関係について次のように説明しています。

数学の勉強をさせようとして、問題集を1ページ終えるごとにお小遣いを与えたとしよう。
そうするとその子はほぼ確実に、短い間なら熱心に勉強するが、長い目で見れば数学そのものへの興味を失う。
人は、他人の意欲を掻き立て行動を促し、そこから利益を得ようとして報酬を用いるが、かえって活動に対する内発的動機づけを失わせるという、意図せぬ隠れた代償を払う場合が多い。

交換条件つきの報酬は意欲を高めますが、いちど報酬で意欲を高めると、次からはより大きな報酬を与えなければならなくなり、悪循環を生みます。
さらに、交換条件が成立しなくなれば、意欲もなくなってしまうでしょう。

例えば、学歴が安定を保証すると考えて受験勉強に励んだ学生は、世の中の不確実性が高まるにつれて、学習意欲を失うかもしれません。
つまり、交換条件つきの報酬には、「勉強しても仕方がない」という固定思考を助長する可能性があります。

前述のように、人は生まれつき固定思考を持って生まれてくるわけではありません。
それは、後天的に学習された思考パターンです。
繰り返しになりますが、そうした思考パターンを、教師も含めて、大人が助長してしまっていることは少なくありません。
「そんな成績では年収の良い仕事にはつけない」と言えば、学びの目的は「年収」に置き換わってしまい、勉強のROI(投資利益率)を計算するようになってしまいます。

また、交換条件つきの報酬は人の自律性を奪うことがあります。
それは「やりたいからやる」という自発的な動機を「やらされている」という意識に変え、人の意欲を減退させます。
特に個人の思いや意思が大切な創造的な活動においては、致命的になることがあるでしょう。
ダニエル・ピンクは、「絵画にしろ彫刻にしろ、外的な報酬ではなく活動そのものに喜びを追い求めた芸術家のほうが、社会的に認められる芸術を生み出してきた」と述べています。

さらに、競争をあおることも、長期的に見ると学生の内発的な動機や自律性を奪います。
それは、それが「競争相手に勝つ」ことを、学びの報酬に置き換えることになるからです。
確かに、健全なライバル意識は、学生同士の切磋琢磨を促すことがあります。
また適度な競争は課題にゲーム感覚を組み込むことにもなり、学生のやる気を刺激します。
とはいえ、競争に勝つことや、それによって自分のプライドを満足させることは、本来、勉強の目的ではありません。

例えば、漫画家の東村アキコさんは、自伝的漫画『かくかくしかじか』の中で、美大の入試や学生生活について描いています。
主人公は、必死にデッサンを学んで美大に合格するものの、大学では「自分の描きたいものは何か」と考え、絵が描けなくなってしまいます。
これはあくまでも僕の憶測ですが、過酷な受験勉強の中で、デッサンを学ぶことの目的が、素晴らしい作品を生み出すことから、大学に合格することへと置き換わってしまい、創作意欲を一時的に見失うきっかけになってしまったのかもしれません。
もちろん、美大に行くという目標を持つことが間違っているわけではありません。
実際、目標は成長に不可欠です。
目標を達成することで、自分の成長を確認することができるからです。
問題は交換条件つきの報酬が、手段と目的をすり替えることがある、ということです。
美大に行くことは手段であり、目的ではありません。

このように、交換条件つきの報酬は、学びの目的と手段をすり替え、人の意欲を弱めることがあります。
教師は、学生の意欲を引き出すために、安易に交換条件つきの報酬を用いるべきではありません。
むしろ、学びの報酬は、成長そのものであるべきです。

やる気を引き出す方法 p180

課題や制作に取り掛かるのを億劫に感じることは誰にでもあります。
パソコンの電源は入れたものの、だらだらと動画を見ているうちに時間が過ぎてしまうことはよくあるものです。
ここまで考えてきたように、やる気を弱める要素を一つ一つ取り除くことで、人に本来備わっている創作意欲を解放できます。
とはいえ、やる気を出すための一番良い方法は、とにかく手を動かして作り始めるということです。
ナイキが言うように「Just do it.(とにかくやる)」が、ベストプラクティスです。

そもそも、やる気というのは、何かをしているうちに出てくるものです。
意思があるから行動する、という考え方はとても理性的に聞こえますが、行動が意思を強めることは少なくありません。
例えば、指を動かすと、脳の活動が活発になることが知られています。
特にデザインのような創造的な活動の場合、その活動自体が内発的な動機を強めます。
極論すれば、やる気を引き出すには、創作をやる気の問題にしてはいけない、ということでしょう。

実際、着実に成長し、素晴らしい作品を制作している学生たちは、基本的にやる気の有る無しに関わらず、コンスタントに制作に取り組んでいるものです。
確かに創作には意思や意図が必要ですが、多くの場合、創作は瞬発的なやる気の問題ではなく、継続的な習慣の問題です。

もちろん、やる気がでない原因は複雑で根深く、原因が分かったからといってすぐに解決できるとは限りません。
「Just make it.(とにかく作れ)」と学生を励ましても、なかなか手は動きません。
僕自身、学生の無気力の原因をあれこれ考えて仮説を立て、いろいろな方法を試してきましたが、うまくいくことばかりではありません。
教師自身も、成果が出るまで粛々と努力を続けるしかないのでしょう。

最後に学生の名誉のために言っておくと、幸い、僕の周りにいるプラットの学生たちは、学びに対してかなり真剣です。
たまに怠けたり、集中できなかったりする日があるとしても、全般的にとても真面目に課題と向き合っています。
同様に、武蔵美の学生たちも、寝る間を惜しんで制作に没頭していました。
ほとんどの学生は、制作が楽しくて、やる気について考えている暇もないようでした。
そうした学生の創作意欲に応えるために、僕も必死に授業の準備をしています。

コミットメント p182

どんな理由や経緯であれ、デザインを学ぶことにしたのであれば、勉強や制作に打ち込みましょう。
どうせやるなら、徹底的にやるほうが良いと思います。
スターウォーズのヨーダが言うように、「やるか、やらないか、だ。やってみよう(試してみよう)、はない」のです。

成果が出るかどうか分からないことに、コミットするのは不安です。
しかし、中途半端な制作では、思わしい成果はでません。
「自分は本当にデザイナーになりたいのか分からない」という気持ちも理解できます。
しかし、中途半端な制作を続けていては、いつまでたってもデザイナーになるべきか否かは判断できません。

時間は有限で、失われた時間は取り戻せません。
本気で取り組んだ結果、自分はデザイナーには向いていないことが分かったのなら、納得して別のことを目指すことができます。
逆に、徹底的にやってみて、絶対これだと思えば、その後も思い切り続けられます。

僕の卒業制作を担当してくれたキャレン・ゴールドバーグ先生は、最初の授業で緊張している学生全員に向かって「卒業制作は大変です。
正直、彼氏や彼女と付き合っている暇はありません。
それで、もし付き合っている彼氏や彼女がいるなら、今すぐ別れなさい」と真顔で言い放ちました。
そして確かに、その卒業制作は誰かとデートしている余裕などまったくないほど大変でした。
そして、もちろん、先生は誰よりも真剣に僕たちと向き合い、誰も脱落させることなく、最後まで卒業制作を見届けてくれました。
今でも、心から感謝しています。

ゴールドバーグ先生の勢いには到底かないませんが、僕も、特に2年生のコースを担当するとき、最初のクラスで「このコースを取ることにしたのであれば、とにかく覚悟を決めてコミットしなさい。
中途半端に受講しても、時間の無駄です」と学生に言うようにしています。
実際、ある学生は、僕のクラスで真剣に制作に打ち込んだ結果、納得してデザインとは別の道を選びました。
別の大学に転校するために推薦文を書いて欲しいと言われたので、喜んで送りだしました。
幸いほとんどの学生は、真剣に制作に打ち込む結果、デザインの素晴らしさを再発見し、さらにデザインを好きになります。
ある学生からは、「覚悟を決めてコミットするように、というアドバイスが一番役立った」と言われました。

いずれにしても、コースは15週間しかありません。
15週間真剣に努力して納得して自分の進路を決めることができるならとても効率的です。
そして、その経験は、その後もずっと役に立ちます。
ダックワース教授によると、自分がやろうと決めたことを最後までやり通した経験がある若者は、その後の人生において、成功する確率が高くなることが研究で明らかになっているそうです。

ですから、とにかく真剣に勉強や制作に打ち込んでみましょう。

楽しもう p184

矢沢永吉は、大観衆の前に立つ恐ろしさを、むしろ「楽しめ」と自分に言い聞かせて、大きな舞台に立つそうです。
それが、最高のパフォーマンスを生み出し、大観衆を感動させます。
そもそもステージで歌っている永ちゃんがつまらなそうにしていたら、お客さんだって楽しめません。
デザインも同じです。
素晴らしいデザインの作品は、たいてい遊び心にあふれています。

それで、課題制作に圧倒されそうになったり、つまらない単純作業をこなさなければいけないとき、まずそれをどうやったら楽しめるか考えてみましょう。
宿題を遊びに変えるにはどうしたら良いか考えるのです。
写真の切り抜き作業を、時間制限を設定して、ゲーム化してみるのはどうでしょうか。
とにかく、クラスメイトを笑わせることを考えて、次のポスターを考えてみるのも良いかもしれません。
実は、うまくなることを考えるよりも、楽しむ方法を考えるほうがずっと近道なのです。

英語に「Don't take yourself too seriously」という表現があります。
「自分のことをあまり深刻に考えすぎないように」というような意味ですが、自分に期待しすぎて余裕がなくなったり、自分の評判や将来について心配しすぎたりすることがないように、注意を促すためによく使われる親切な表現です。

若いときに、自分のことを考えるのは自然なことです。
「何者かになりたい」と思うのは向上心の現れでしょう。
デザイナーとして自分なりの文体を手に入れるには自分と向き合う時間がどうしても必要です。
とはいえ、自分がどう思われるかばかり気にしていると、デザインがだんだんつまらなくなっていきます。
それで、時には自分のことを考えるのをやめて、好きな人のために作品を作ってみましょう。

ダックワース教授は、何かをやりとげるためには、楽観的であることが重要であると指摘しています。
傑出したデザイナーたちは、仕事に対しては真剣で、とても高い水準にコミットしていますが、常にユーモアのセンスを持ち、肩の力がほどよく抜けています。
ですから、ちょっと肩の力を抜いて、デザインを楽しみましょう。

分析と統合(発散と収束) p203

よく知られている創造のプロセスに見られる型の一つとして「発散と収束」というパターンがあります。
創造的な活動には、選択肢を増やしていく「発散」のフェーズと、選択肢を絞り込んでいく「収束」のフェーズがあり、その二つのフェーズの繰り返しによって価値が生み出されます。

創造のプロセスを発散と収束の二つのフェーズに分けることで、創造の可能性が広がります。
例えば、まず発散のフェーズでは、アイデアを広げることに自分の能力を集中し、収束のフェーズではそれを絞り込むことに能力を集中します。
ともすると、アイデアを出すことと、それを評価することを同時に行ってしまいがちですが、まずはアイデアをたくさん出すことに集中していると、思ってもみないアイデア同士がつながり、可能性が広がります。
つまり、創造を二つのフェーズに分けることで、より効率的に能力を発揮できるようになります。
また、フェーズを二つに分けたことで、反復が生まれ、創造のプロセスがダイナミックに動き出します。

IDEOのティム・ブラウンは、この発散と収束を補足する言葉として、「分析(アナリシス)と統合(シンセシス)」という言葉を使っています。
発散と収束という表現は、本質的な概念をよく言い表していますが、分析と統合という表現はもう少し具体的で、デザインやビジネスの文脈でも一般的に使われています。
RAPでは、コースのタイトルに分析(アナリシス)という言葉を使っていることもあり、この分析と統合という表現で、創造の基本的な型を説明しています。

分析というのは、簡単に言うと「分ける」という意味です。
「析」という漢字にも、「ばらばらに切り離す」という意味があるそうですが、分析というのは基本的に要素分解を指しています。
扱っている対象を分解して、それぞれの要素を細かく観察したり、要素同士の関係性を確認したりすることで、対象に対する理解が深まります。
つまり、分けるということは、「分かる」ということです。
そして、分けていくことで、要素が増え、理解が広がっていきますから、基本的に分析は発散のステージと言えるでしょう。

分析を通して分かったものを、統合することで新しい意味や価値が生み出されます。
バラバラにした要素を組み直したり、組み替えたり、ある場合には新しい要素を組み入れたりすることで、新しいモノやコトが生み出されます。
つまり統合は、分析で広がった可能性を絞り込んでいく、収束のフェーズと言えるでしょう。

例えば、新しいお茶の商品やサービスを開発しようとする場合。
デザイナーはまず、お茶を徹底的に要素分解するでしょう。
お茶を、いつ、どこで、誰が、どのように、なぜ消費しているのか、徹底的に分析します。
さらに、消費と生産がどのようにつながっているのかを調べたり、地域によるお茶の飲み方の違いや、文化的意味の違いを比較したりします。
そのようにお茶を分析することで、お茶のことが分かっていきます。
お茶について十分要素分解できたら、次にそれを再統合します。
そのときに、要素を組み替えたり、新しい要素を組み入れたりすることで、新しいお茶の商品やサービスが生まれるでしょう。
例えば、「お~いお茶」の事例では、容器や名前を変えることで、それまでの「お茶は自宅や会社で飲むもの」「お茶はただで飲めるもの」というイメージを払拭し、「緑茶飲料市場」を創出することに成功しました。

分析と統合の例として、文章を書くことについて考えてみましょう。
文章を書くことは、最も創造的な活動の一つですが、そこにも分析と統合のパターンがあります。
文章は、文字や言葉が統合されてできていますが、それは、推敲や編集を経て、つまり、書き上がった文章を分解し、再統合することで、完成されていきます。

この分析と統合のパターンは、芸術的な創作にも見られます。
例えば、1940年代に制作されたピカソの版画を見ると、「雌牛」が視覚的に分解され、単純化されていく様を見ることができます。
さらに1973年代に作成されたピカソの大作「ゲルニカ」を見ると、要素分解された雌牛が再統合されているのが分かります。
もちろん、ピカソ本人が分析と統合のパターンを意識していたわけではないかもしれませんが、ピカソほどの芸術家の制作にも分析と統合の型をある程度観察できるのは興味深いことです。

ダブル・ダイヤモンド・プロセス p206

「発散と収束(分析と統合)」のパターンを発展させたプロセスとして、英国のデザイン評議会が提唱する「ダブル・ダイヤモンド・プロセス」があります。
これは2005年に開発されたモデルで、発見(Discover)、定義(Define)、開発(Develop)、提供(Deliver)の四つのフェーズで構成されています。

例えば、「発見」は、解決すべき課題を発見するフェーズです。
これは基本的に、調査と分析のフェーズで、可能性が広がる発散的な段階です。

次の「定義」のフェーズは、発見のフェーズで広がった可能性を絞りこんでいく収束的な段階です。
このフェーズでは、分析結果を統合し、課題を定義します。

「開発」のフェーズでは、プロトタイプをたくさん作り、さまざまな可能性を検討します。
これは、可能性が広がる発散のフェーズですが、形をたくさん作ることで理解が深まりますから、分析のフェーズとも捉えることができるでしょう。

そして「提供」のフェーズでは、プロトタイプを検証し、最終的な形へと収束させていきます。
これは統合のフェーズになります。
つまり、ダブル・ダイヤモンド・プロセスでは、名前の通り、創造の最も基本的なパターンである発散と収束、もしくは分析と統合が2回(ダブル)繰り返されます。

この段階的なプロセスは、直線的に進むことも少なくありませんが、多くの場合、各段階を一往来します。
要件を定義する段階になって、調査や分析が足りないことに気がついたり、提供に向けてテストを繰り返したりする過程で、開発が不十分であることに気づくといったことが起こります。
とはいえ興味深いのは、各フェーズを行ったり来たりするとしても、基本的には発散と収束(分析と統合)が繰り返されている、というところです。

コースを担当する教師によって扱うプロセスは異なりますが、僕が担当するRAPの授業では、デザインの基本的なプロセスとして、このダブル・ダイヤモンド・プロセスを使っています。
コースの最初に、このプロセスについて説明するだけでなく、プロジェクトのスケジュールがダブル・ダイヤモンド・プロセスに対応するようにして、学生たちがそのプロセスを自然に体験できるようにしています。
さらに、後述するプロセスブックに制作過程をすべて記録させることで、学生がそのプロセスに対して意識的になれるようにします。

学生たちは、こうした学習体験を通して、創造の型を習得していきます。
例えば、発見のフェーズでちょっとした違和感に気づくことや、定義のフェーズで自分なりに課題を定義することが、デザインの可能性を広げることを学びます。
ルイ・パスツールの名言に「観測の分野では、偶然は準備の整った思いにのみ微笑む」という言葉がありますが、学生たちは、創造的なプロセスの型を学ぶ中で、どのように偶然の発見やひらめきを創作に取り入れることができるかを学んでいきます。

新しい価値を生み出すには、未知に対する恐怖を受け入れ、乗り越える必要がありますが、こうした創造の型は、そのための基盤となります。
確かな理論に基づいた、普遍的な創造の型を身につけることは、学生の自信を深めます。

p221

例えば、IDEOのデイヴィッド・ケリーは、自著『クリエイティブ・マインドセット』の中で、問題の枠組みを捉え直す、リフレーミングのテクニックを紹介しています。
例えば、「明白な解決策から離れる」「焦点や視点を変える」「真の問題を突き止める」「逆を考える」「扱う範囲を決める」といった方法です。
また、濱口秀司さんは、課題を定義する際に、その「範囲」と「目的」、そして「切り口」の三つを考えてみるように、と勧めています。

さらに、課題設定の表現の仕方にも、いくつかのコツがあります。
例えば、「どうしたら、我々は○○できるだろう(How might we)」という定型文を使って課題を定義することができます。
「我々は(We)」という主語を使うことで、課題を自分ごと化することができますし、「どのように(How)」と尋ねることで、課題を解決できる前提で積極的に課題と向き合うことができるでしょう。

さらに、「もし○○だったら(What if)」という仮説を立てる方法もあります。
デザインは未来を形にする行為ですから、デザインの課題には仮説が伴うはずです。
いかに素敵な仮説を立てられるかが、素晴らしいデザインを生み出すきっかけとなるでしょう。
前述のように、そのような仮説はプロジェクトを遊びに変えます。
編集者の佐渡島庸平さんは、「自分で仮説を立て、情報を集めて、仮説を補強し実行していると、仕事がどんどん楽しくなっていく」と述べています。

p223

ダブル・ダイヤモンド・プロセスにおいて、制作が開発と提供の二つのフェーズに分かれている点は重要です。
最初に直感的に思いついたアイデアに惚れ込んでしまい、可能性を広げる前に作品を作り込んでしまう学生は少なくありません。
しかし、まずプロトタイプ(試作品)をたくさん作ってみて、創造の可能性を広げることが大切です。

自分が作っているものを「作品」ではなく「試作品(プロトタイプ)」と呼ぶことで失敗の定義が変わりますし、フィードバックに対しても積極的になれます。
例えば、作品に対する批評に対しては、どうしても感情的になってしまいますが、それが試作品であれば、ずっと客観的に受け止められるでしょう。

一つのひらめきや偶然が、作品全体を良くすることもありますが、たいていの場合は、小さな努力の積み重ねが、意味のある作品を生み出します。
視覚的なスタイルを扱うことの多いデザインは、華やかに見えるかもしれませんが、その活動は基本的に泥くさいものです。
宮崎駿さんの言うように、「大事なものは、たいてい面倒くさい」ものです。
結局のところ、最後まであきらめなかった学生が、一番成長するし、良いものを作ります。
学生たちは、こうしたプロセスを通して、創造にどうしても必要な粘り強さ(レジリエンス)を身につけていきます。

プロトタイプとアンラーニング p224

プロトタイプをたくさん作る作業は、造形を通した分析といえるでしょう。
形を作ることで対象への理解を深めたり、課題を再定義したりすることにつながります。
思考には自然言語によるものだけではなく、造形言語によるものもあることを体験を通して理解しておくことは、とても大切です。

こうした造形を通した思考により、アンラーニングが起こりやすくなります。
アンラーニングとは、先入観や偏見を取り払い、物事の本質を学び直すことを意味しています。
言い換えれば、アンラーニングとは、対象について「自分は何も分かっていなかった」と思えるほど深く学ぶことと言えるでしょう。
知っていると思っていたことが、分からなくなるというのは、少し不安なものですが、分かっていることだけでは、新しい意味や価値は生まれません。
言い換えれば、アンラーニングのない創作は、想定内の作品しか生み出しません。

とはいえ、思い込みを捨てて、学び直すのは、決して簡単ではありません。
それには努力だけではなく、謙虚な姿勢が求められるからです。
つまり、アンラーニングのためのツールが必要になるわけですが、造形を通した思考は、そうした思考ツールの一つと言えるでしょう。

造形的なアンラーニングを説明するために、原研哉さんが「デザインのデザイン」で書かれていた話をご紹介しましょう。

例えば、デザイナーが、コップのデザインを依頼されたとします。
デザイナーの思いの中には、すぐにいわゆるコップの形が思い浮かびます。
しかし、コップをデザインし始めた途端に、コップの形のグラデーションが立ち現れます(次ページ参照)。
そして、コップとお皿の境界線や、コップと花瓶との境界線が曖昧になります。
そうやって、コップについて少し分からなくなります。
しかし、コップについて少し分からなくなったとき、デザイナーのコップに対する理解は確実に深まっています。
この「少し分からなくなったときに、もっと分かっている」というのが、造形を通したアンラーニングということです。

新しいスキルの習得 p236

どんなスキルを学ぶか決まったら、次にそのスキルについてリサーチを始めます。
学生たちは、まずグーグルでスキルについて検索します。
図書館でスキルについて調べたり、友達や家族に話を聞いたりする学生もいます。

リサーチの途中で、学生たちは、作家のジョン・カウフマンによる「最初の20時間」というTEDでの講義を視聴します。
講義の中でカウフマンは、20時間あれば、たいていのスキルを身につけられると主張していますが、鍵となるのはそのスキルを分析することであると述べています。
例えば、カウフマンは弾き語りを学んだ体験を紹介していますが、ほとんどの楽曲は四つのコードを学べば弾けるようになることを明らかにしています。
講義を視聴した学生たちは、スキルを漠然と捉えるのではなく、分析することで、学びやすくなることを理解します。

次に学生たちは、2~3週間かけてスキルを習得していきます。
多くの学生は、ユーチューブでチュートリアルを見つけて練習を始めます。
感度の高い一部の学生たちは、そのスキルを持つ親族や友人からスキルを直接教えてもらうこともあります。
例えば、編み物を学ぶことにした学生は、自分の母親からそのスキルを教えてもらうといった具合にです。
こうしたプロセスの中で、学生たちは、自然な形で、より意味深いインタビューの仕方を学んでいきます。
さらに、その過程で、母親との関係が深まり、編み物のソーシャルな側面に気がついたりもするでしょう。

世の中には、実際に自分でやってみなければ分からないことがたくさんあるものです。
例えば、編み物を学ぶには、簡単な編み物から始めて、編み物をしながら段階的に学んでいくほうがずっと効果的でしょう。
そのようにして、学生たちは自分の五感すべてを通して、言葉では説明できないコツやニュアンスを理解し、スキルを習得していきます。
これは「ラーニング・バイ・ドゥーイング(行動学習)」と呼ばれるアプローチで、一次調査と捉えることができるでしょう。
自分の実体験を通して対象を深く理解するというリサーチは、より意味のあるデザインを生み出していく上で、非常に大切です。

こうした体験を通して、学生たちは、「知っている」と「できる」の間には大きな違いがあることを理解していきます。
これは、そのままデザインの習得にも当てはまります。
素晴らしい本を読んだり、目の覚めるようなレクチャーを聞いたりすることも当然学びになりますが、それだけではデザインはあまり上達しません。
デザインを学ぶ一番の方法は、デザインすることです。

さらに、新しいスキルを学ぶ中で、学生たちは自分なりの学び方を習得していきます。
例えば、ある学生は折り紙を学ぶのに、各ステップの絵を描きながら学ぶことが役立つのを発見しました。
つまり、学生たちはこの課題を通して、学び方を学ぶわけですが、その新しいことを学ぶスキルは大学だけでなく、社会人になった後もずっと役に立ちます。
特に、変化の激しいデザイン業界で長くキャリアを続けていく上で、常に新しいスキルを身につけようとする姿勢は、必要不可欠でしょう。
さらに、こうした学習体験を通して、学生たちは、どんなスキルでもその気になれば学べるという自信(つまり、成長思考)を高めていきます。

リフレーミング p238

学生たちは、新しいスキルを学ぶことを通してリサーチの方法について学んでいることは理解しつつも、次第に「デザインの授業で、デザインとはまったく関係のないスキルを学ぶのはどうしてだろう」と考えるようになります。
当然、編み物が上手になったり、楽器が弾けるようになることが、美大に通う理由ではありません。

そして、最初は、新しいスキルの習得に注目していた学生たちは、次第に「そのプロセスを発表する」という課題の目的を考えるようになります。
そして、実はこのプロジェクトが、コミュニケーションデザインの本質を教えるものであることに気づいていきます。

何かを調べて(学んで)、それを発表する(伝える)という流れは、すべてのコミュニケーションデザインに当てはまるモデルです。
例えば、パッケージのデザイナーは、商品について徹底的に調べて、その素晴らしさを表現するパッケージをデザインするでしょう。
商品について調べる一番良い方法は、その商品を自分も消費してみる(体験を通して学ぶ)、ということです。
もちろん、その同じ型は、コミュニケーションに限らず、プロダクトやサービスのデザインにも当てはまります。
その調査の質が高ければ高いほど、アウトプットの質は上がります。
当然、自分の体験を通して得られた生の情報は、より説得力のあるアウトプットへとつながるでしょう。

さらに、学生たちは、プレゼンの対象(オーディエンス)について考える過程で、同じように新しいスキルを学んでいるクラスメイトに対して、自分の学習プロセスを発表することの目的について考え直します。
例えば、単に学習プロセスを説明するよりも、そのスキルを学ぶ中で自分が得た特別な経験を話すほうが、クラスメイトの関心を引くことに気がつくかもしれません。
また、成功談よりも失敗談を語るほうがずっと共感してもらえるかもしれません。
そのようにして学生たちは、「プロセスを発表する」というのは、物語を語ることだと理解していきます。

こうしたプロセスを経て、この「新しいスキルを学ぶ」というプロジェクトが、「物語を語る」というコミュニケーションデザインのプロジェクトへとリフレーミングされていきます。
どんな伝え方がクラスメイトの関心を引き、感動を生み出すのかという考え方は、後にブランドの物語を語ったり、ソーシャルメディアで体験を共有したりするときに役立ちます。

良い課題というのは、一つの課題の中に、学びが幾重にも重なっているものです。
このニュー・スキルという課題は、リサーチやプロセスの手法だけでなく、創造的な姿勢や、コミュニケーションデザインの本質を学べる構造になっています。

p247

もちろん、プロセスの良し悪しは作品の出来栄えに反映されます。
つまり、作品が素晴らしければ、自ずとプロセスも良かったということになります。
そうであれば、作品の出来栄えを講評すれば十分ではないか、という考え方もあるでしょう。
しかし、学びという視点で考えると、「作品が良くできた」ということよりも、「なぜ作品が良くなったのか」ということを理解できるほうがより深い学びにつながるように思います。
つまり、作品の良し悪しではなく、やはり、作品をプロセスと関連づけて考えられるかが、学びのきっかけを生み出すのではないでしょうか。

読書課題 p257

多くの場合、講義を聞くよりも、自分で本を読んだほうが勉強になります。
もちろん、内容を分かりやすく噛み砕き、教師の経験を交えて話される講義からは、読書以上の学びを得ることができますが、その分野の専門家が時間をかけて書いた本の情報量にはかないません。

専門書は、読み解くのが大変な場合もありますが、その分だけ深い学びを得られます。
学生たちは、学校を卒業した後も学び続ける必要がありますが、学生のうちに良い読書の習慣を身につけておくことは益となるでしょう。
RAPでは、15週間の間に、全部で12の読書課題を扱います。

推薦図書 p264

以下、RAPの推薦図書や論文をいくつかご紹介しましょう。

ティム・ブラウン、『デザイン思考が世界を変える』
本書でも紹介した収束的思考や発散的思考、分析と統合(綜合)について、とても丁寧に説明されています。
創造のプロセスの大切さを学ぶ上で非常に参考になります。
RAPでは「人間中心デザイン」は扱いませんが、デザイン思考の文脈を理解しておくことは、役に立つでしょう。

トム&デイヴィッド・ケリー、『クリエイティブ・マインドセット』
この本もデザイン思考に少し偏っていますが、創造的な態度を持つ上でのヒントがたくさん紹介されています。
特に創造の不確実性に伴う、恐怖を克服する方法を扱った第2章はとても役に立ちます。

エレン・ラプトン、『デザインはストーリーテリング「体験」を生み出すためのデザインの道具箱』
この本を読むと、デザインの可能性を一望できます。
デザインに、時間という次元が組み込みこまれ、デザインが単なる問題解決というだけではなく、ストーリーテリングとして再定義されていきます。
確かに言われてみれば、地下鉄の路線表やサイン計画も、パッケージデザインも、時間軸のある体験のデザインと言えるでしょう。
特にデジタル化されたメディアで、体験が分断されることなくつながっていく現代社会において、デザインを物語として捉える感覚はこれからのデザイナーにとって不可欠でしょう。

ナイジェル・クロス、『デザイン科学からデザイン分野へ。デザイナー的な知り方や考え方を理解する』
デザインリサーチを定義し、その手法や目的について考察した素晴らしい論考です。
デザインの文脈でリサーチについて考える上で、とても参考になります。
また、圧倒的な能力を発揮するデザイナーに共通する特徴についての論考は、デザイン教育の目標を考える上での指針となります。

ベラ・マーティン、ブルース・ハニントン、『リサーチデザイン、新・100の法則』
デザインのプロセスの中でよく出てくるリサーチの手法を網羅的に紹介している良書です。
それぞれの手法の説明は短く簡潔で、入門書や参考書として役に立ちます。

学びとは? p283

本書で、繰り返し論じたように、学びは本来、自律的なものです。
答えは与えられるよりも、自分で見つけたり、生み出したりするほうがより深い学びになります。
ダニエル・ピンクが指摘するように、人はもともと、「自らの意思で行動を決めることを望み(自律性)、意義あることの熟達(マスタリー)を目指して打ち込み、さらなる高みへの追求を、大きな目的へと結びつける」ものです。
それは単なる理想主義ではなく、科学的に証明されつつある人間の本質です。

ダックワース教授が指摘するように、能力は才能と努力の掛け算で伸びていくものですが、論理的に設計されたカリキュラムはその掛け算を何倍にも拡張します。
自分が成長しているという自覚は、学生の意欲をさらに強めます。
また、教室という舞台には、学生を主役とする。
創造的な学びを加速する要素が組み込まれています。
教師の役割は、そうした学びのしくみを理解し、一人一人の学生に合わせて学びをカスタマイズすることで、彼らの好奇心や想像力といった主体性を支えることでしょう。
もちろん、理想と現実は違いますが、思い描いた理想を形にするのがデザインです。
そういった意味で、教師こそ優れたデザイナーでなければいけないと感じます。

p287

さて、幸いなことに、僕はそこまで優秀ではなかったので、すぐに世界は自分を中心に回っているわけではないことに気づきました。
そして、素晴らしい友情、幸せな結婚、そして教えることを通して、「受けるよりも、与えるほうが幸せである」ということを学びました。
僕は、ストア派の哲学者が言ったように、「愛されたいと願うなら、愛せ!」という逆説を理解したのです。
シンプルでしょう?

それで、教訓はこうです。
学んだことを自分のためだけではなく、あなたが愛し、大切に思っている誰かのために活かしてください。
そうすれば、あなたの人生はより有意義で幸せなものになるでしょう。
本当です。
約束します。

p290

初めて本を書くために僕が採用した方法は、これまで参考にしてきた名著を読み返し、そこから刺激を受けながら、自分の文章を書くという。
ずいぶん他力本願な方法でした。
例えば、IDEOのトム・ケリーとデイヴィッド・ケリーの『クリエイティブ・マインドセット』ミッチェル・レズニックの『ライフロング・キンダーガーテン』。
ダニエル・ピンクの『モチベーション3.0』、アンジェラ・ダックワースの『やり抜く力』、B・ジョゼフ・パイン二世とジェイムス・H・ギルモアの『経験経済』、D・A・ドンディスの『形は語る』など、挙げれば枚挙にいとまがありません。
これらは、僕がこれまで、授業を計画したり、講義を準備したりするときに参考にしてきた本です。