コンテンツにスキップする

「ストーリーとしての競争戦略」を読んだ

投稿時刻2024年10月24日 19:16

ストーリーとしての競争戦略」を 2,024 年 10 月 21 日に読んだ。

目次

メモ

p2

皆さんは、それぞれの実践世界で、何らかの「解くべき課題」に直面していることでしょう。
そして、それは普通ちょっとやそっとで解決がつく問題ではないでしょう。
資源や時間の制約の中でどうやったら業務プロセスをもっと効率化できるか。
どうすれば競争力のある製品を開発できるか。
そもそもどうやったら業績が上がるのか。
とても具体的で切実な問題があるはずです。
しかも課題の中身は一人ひとり違います。
今、一〇〇人の実務家がいれば、そこには一〇〇通りの、それぞれに異なった「解くべき課題」があるはずです。

一方の私はというと、いわゆるビジネスの「実務経験」はありません。
私は学生の頃から、自分がビジネスの方面に進むとまずいことになるだろうという確信(?)がありました。
子どもの頃から、競争となるとどうにもダメなのです。
厳しい競争や利害関係にできるだけ巻き込まれず、自由気ままに好きなことだけして生きていきたいな、というのが私の漠然とした将来についての希望でした。
できることなら歌舞音曲の方面でユルユルとやっていきたかったのですが、それもままならず、流れ流れて行き着いた先が今の学者という仕事です。
皮肉なことに、「ビジネス」スクールで「競争」戦略を教えているのですが、それでも利益を追求するビジネスではないことには変わりありません。
大学はNPO(非営利組織)であります。

p3

「机上の空論」という言葉があります。
この言葉の意味するところを、私は図1・1のように理解しています。
ビジネスの成功を事後的に論理化しようとしても、理屈で説明できるのはせいぜい二割程度でしょう。
丹羽宇一郎さんは「経営は論理と気合だ」と言います。
理屈で説明できないものの総称を「気合」とすれば、現実の戦略の成功は理屈二割、気合八割といったところでしょう。
あっさりいって、現実のビジネスの成功失敗の八割方は「理屈では説明できないこと」で決まっている。

「理屈では説明できないこと」とは何でしょうか。
まず、「運が良い」ということがあります。
運が良いこと、これはどう考えてもビジネスの成功を大きく左右する要因です。
幸運は理屈ではとうてい割り切れません。

もっと大切なものに「野性の勘」があります。
ビジネスは多かれ少なかれ「けもの道」です。
その道の経験を積んだ人しかわからない嗅覚がものを言います。
右か左かどちらに行くべきか、判断を迫られたときに野性の勘で右を選び、五年経って振り返ってみたら、あのときのとっさの判断が効いていた、というようなことはしばしばあります。
これもまた理屈では十分に説明できません。

野性の勘なり嗅覚は、さまざまな実務の局面で有効な判断基準のようなもの、「こういうときはこうするものだ」というフォームのようなものです。
自分のけもの道を「走りながら考える」ことによって、実務家は判断基準なりフォームを構築していきます。
自らの一連の行動が貴重な実験です。
自分(や日常的に観察できる周囲の人々)の行動の一つひとつが判断基準の有効性を検証するためのサンプルになります。
けもの道を日々走り、走りながら考える中でフォームが練り上げられ、これが野性の勘を研ぎ澄ませるわけです。

実務家であっても、完全に個別の具体的な現実にべったり張りついて、本当の意味での「直感」で場当たり的に判断し、行動しているかというと、そんなことはありません。
優れた実務家は、必ずといっていいほど何らかのフォームを持ち、それを野性の勘の源泉として大切にしているはずです。
学者のいう「理論」ではありませんが、その人に固有の思考や判断の基準があるのです。

当人にとっての有用性という意味では、野性の勘が一番上等です。
自動車を運転しているときのことを考えるとわかりやすいでしょう。
車で走っている人ほど、よく「見える」のです。
ちょっとした障害物があっても、すぐにそれを認識し、ハンドルを切るなどして素早く反応し、適切な行動をとれます。
これは立ち止まっている人間には、なかなかできない芸当です。
そのけもの道を走っている人だけが、走っているがゆえに、きちんと見ることができるのです。

「無意味」と「嘘」の間 p5

理屈では説明がつかない野性の勘が勝負の八割を決める。
そのとおりだと思います。
しかし、それでもなお、私は学者と実務家がやり取りすることには意義があると思っています(そうでないと、この本はここで早くもおしまいになってしまいます)。

図1・2をご覧ください。
理屈(論理)と理屈でないものの比率は一緒です。
八割は理屈では説明がつかないにしても、ビジネスのもろもろのうち二割は、やはり何らかの理屈で動いているわけです。
「ここまでは理屈だけれども、ここから先は理屈じゃない」というように、左から右へと考えてみてください。
すると、「理屈じゃないから、理屈が大切」という逆説が浮かび上がってきます。

何が理屈かをまるでわかっていない人には、「理屈じゃない」ものが本当のところ何なのかもわかりません。
私も実務家の方々と議論しているときに、「まぁ、理屈としてはそうですが、現実は理屈じゃないので……」と言われることが少なくありません。
しかし、私の経験からすれば、「現実は理屈じゃない」という声に迫力を感じる実務家に限って、総じて理屈っぽく、論理的なのです。
「いやー、ビジネスなんて理屈じゃないよね」ということで、のっけからけもの道を爆走しているだけでは、肝心の野性の勘をつかめないはずです。
野性の嗅覚が成功の八割にしても、二割の理屈を突き詰めている人は、本当のところ何が「理屈じゃない」のか、野性の嗅覚の意味合いを深いレベルで理解しています。
「ここから先は理屈ではなくて気合だ」というふうに気合の輪郭がはっきり見えています。
だからますます「気合」が入り、「野性の勘」に磨きがかかる。
「理屈じゃないから、理屈が大切」なのです。

ここでいう理屈、堅くいうと「論理」、これは何を意味しているのでしょうか。
論理(logic)とは、「AならばBである」というように二つ以上の思考や現象をつなぐ理由づけ(reasoning)を指しています。
ですから、論理は what や how や when よりも、一義的には why を問題にしています。
一般的な定義でいえばこのとおりなのですが、経営や戦略を考えるという文脈では、論理とは「無意味」と「嘘」の間にあるものとして理解できます。

この本を読んでくださっている皆さんは、経営とか戦略といった方面にご関心がある方々でしょうから、いわゆる「ビジネス書」を手に取ってご覧になることも少なくないと思います。
書店のビジネス書の棚のところに行くと、ありとあらゆる分野についての本が所狭しと並んでいます。
こういう本を書いている私がいうのもちょっと何ですが、私の見るところでは、そのうちの二割か三割程度は、ほとんど無意味なのではないかと思うのです。
タイトルは伏せておきますが、ある本を例にとって説明しましょう。
その本は、次の三つの主張を手を替え品を替え繰り返すという内容になっています。
第一に、日本経済はもはや成熟している。
第二に、だからイノベーションで付加価値をつくることが大切である。
第三に、差別化の武器としてはブランドが重要である。

私も著者の主張に基本的に賛成です。
しかし、こうした話はほとんど全く無意味だと思います。
なぜかといえば、この三つはいずれも自明のことだからです。
「ブランドが大切だ」と言っても、それは誰しもがふだんから思っていることですから、「そうだよね……」と納得するだけでおしまいです(仮に「ブランドなんて何の役にも立たない。
そんなものはどうでもいい」という主張をしている本があったら、ちょっと読んでみたいと思います。
そういうことを主張するためには、どうしても「論理」が必要になるからです)。
自明の主張は今に始まった話ではありません。
一七世紀の東インド会社の人々も、「イノベーションが大切だ」とか「ブランド力をつけましょう」と言っていたのではないでしょうか(さすがに「日本経済は成熟している」とは言っていなかったとは思いますが)。
誰にとっても自明の話は聞いていて耳に心地よく響くのですが、意味がないことには変わりありません。

一方で、いきなり「嘘」の世界を展開する本も少なくありません。
たとえば「こうやったらブランドカが向上する!」というような「法則」を主張する類の本です。
法則とは、どこでも成り立つ、どんな文脈でも再現可能な一般性の高い因果関係を意味しています。
自然科学であれば、たとえば「この材料を使うとこの温度でも高温超電導が可能になる」という一般法則は成立します。
そうした自然現象の法則を求め、法則を定立しようとするのが科学の基本スタンスです。

ところが、この後でまたこの話題には戻りますが、結論を先にいうと、その種の法則は、幸か不幸か(たぶん「幸」のほうだと思いますが)、戦略論の対象にはなりえません。
経営や戦略は「科学」ではないからです。
小売業界でとてもうまくいった施策を鉄鋼業界にそのまま持ち込んでも、うまくいくとは限りません。
かえって変なことになるかもしれません。
同じ業界であったとしても、ある会社でうまくいったやり方であっても、他の会社で全く効果がないということはごく普通にある話です。

先ほどの「理屈二割の気合八割」の話に戻れば、もしそんな普遍の法則があったら、成功要因の一○割を理屈で説明できてしまいます。
本当に一般性の高い法則があれば、その法則を取り入れて、それに従ってやっていればうまくいくのですから、経営などそもそも必要なくなります。
「こうやったら業績が上がる」という法則は、大変に魅力的に聞こえるのですが、こと経営に限っていえば、そうした主張はどこまでいっても嘘なのです。

一橋大学の沼上幹さんは「どうすれば成功するのか教えてほしい」という実務家の問いに対して、次のような説得的な答えを提出しています。

この問いに対して経営学者に用意されている答え方が一通りしかないということはもはや明らかであろう。
すなわち、「法則はないけれども、論理はある」という答え以外に、社会科学の一分野としての経営学は用意できるものがないのである。

戦略の論理化 p9

戦略の論理化は実務家にとってきわめて大切です。
ここでは三つの理由を強調しておきます。

第一に、けもの道で身につく嗅覚は決定的に大切なのですが、その一方で、限界もあります。
それは、日々けもの道を走っていると、視野が狭くなり、視界が固定するという問題です。
走りながら考えている人は、どうしても視界が狭くなります。

先の車の運転のたとえ話にあるように、日常の理論はひとたび自分の視界の中に入ると非常によくものを見せてくれます。
しかし、見える範囲は限られてきます。
運転中によそ見をしていると危険だからです。
この傾向は高速で走っている人ほど顕著です。
厳しくなる競争の中で、人々はますます速く走ることを強いられています。
高速道路を走っている状態を想像してみてください。
速く走れば走るほど、どうしても視点も固定してきます。
ものがよく見え、的確な判断と行動ができるという野性の嗅覚の強みは、「走りながら考える」ということ自体にあるので、視野と視界の問題はすぐには解決のつかないジレンマです。

そこで、視点を転換し、視界を広げるために、他のさまざまな業界や企業や経営者に学ぶ必要が出てきます。
しかし、それはそう簡単ではありません。
ここに論理が大切になる第二の理由があります。
この後すぐにお話しするように、戦略はサイエンスというよりもアートに近い。
優れた経営者は「アーティスト」です。
その会社のその事業の文脈に埋め込まれた特殊解として戦略を構想します。
それが優れた戦略であるほど、文脈にどっぷりと埋め込まれています。
経営者が経験に即して語る戦略論は迫力に満ちていますが、ユーザーがその知見を自らの状況に当てはめるのは困難です。
いったん論理化して汎用的な知識に変換しておけば、(具体化能力のある)実務家は、その論理を異なった文脈に利用できるわけです。
反対に、論理化のプロセスがなければ、知見の利用範囲がきわめて狭くなってしまいます。

第三に、ありがたいことに論理はそう簡単には変わりません。
目前の現象は日々変化します。
だからこそ「変わらない何か」としての論理が大切になるのです。

p13

たとえば、その辺を歩いているときに、「ところでおうかがいしますが、あなたの会社の戦略は何ですか?」と聞かれたら、どのように答えますか。
もちろん現実にこのような人がいたらかなり怪しいので警戒してしまうのですが、ここでお聞きしたいことは、業界の事情通でない、ごく普通の知的水準の人に、自社の戦略をどのように説明するか、ということです。
その答えに、あなたの戦略についての暗黙の定義があるはずです。

「あなたの会社はどういう会社ですか?」という質問であれば、答えは簡単です。
こういう製品を扱っていて、誰が得意先で、売上高はどれぐらいで、従業員は何人ぐらいで、どこにオフィスがあって……というようにいくつも答えが出てくるでしょう。
ところが、「あなたの会社の戦略は?」となると、話が少し変わってきます。
答えにまごついてしまう人も多いのではないでしょうか。

「違いをつくって、つなげる」、一言でいうとこれが戦略の本質です。
この定義の前半部分は、競合他社との違いを意味しています。
競争の中で業界平均水準以上の利益をあげることができるとしたら、それは競争他社との何らかの「違い」があるからです。
他社との違いがなければ、経済学の想定する「完全競争」となり、余剰利潤はゼロになります。
だから違いをつくる。
これが戦略の第一の本質です。
詳しくは次の章でお話しします。

ここで強調したいのは戦略のもう一つの本質、つまり「つながり」ということです。
つながりとは、二つ以上の構成要素の間の因果論理を意味しています。
因果論理とは、XがYをもたらす(可能にする、促進する、強化する)理由を説明するものです。
個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。
それらがつながり、組み合わさり、相互に作用する中で長期利益が実現されます。

神戸大学の三品和広さんは、次のような三点の興味深い指摘をしています。
いずれも戦略の「つながり」という本質にかかわる重要なポイントです。
第一に、経営の問題の多くは、大きな事象を構成要素に分解し、そのうえで一つひとつの要素を別個に吟味しようとするアナリシスの発想に基づいている。
だから企業の組織デザインにしても、マーケティング、アカウンティング、ファイナンスといった構成要素に分解される。
第二に、しかし、戦略の神髄はシンセシス(綜合)にあり、アナリシス(分析)の発想と相いれない。
だから、戦略に対応する部署は企業の中に見つからない。
第三に、戦略は部署でなくて人が担う。
サイエンスの本質が「人によらない」ことにあるとすれば、戦略はサイエンスよりもアートに近い。

戦略は因果論理のシンセシスであり、それは「特定の文脈に埋め込まれた特殊解」という本質を持っています。
優れた戦略立案の「普遍の法則」がありえないのは、戦略がどこまでいっても特定の文脈に依存したシンセシスだからです。

p15

こうした優れた経営者による戦略論は迫力があります。
第一に、当人の特殊な文脈の中で練り上げられた知見であるので、戦略の文脈依存性が確保されています。
第二に、実際に丸ごと作動したシンセシスであるので、因果論理が骨太です。
第三に、最も重要なこととして、その経営者は現実に成功(もしくは失敗)しているので、成果との因果関係が(少なくとも結果においては)強力に確保されています。

この種の迫力には学者の戦略論が遠く及ばないものです。
たとえば、永守さんの主要なメッセージは「すぐやる、必らずやる、出来るまでやる」ですし、丹羽さんのそれは「汗出セ、知恵出セ、モット働ケ」です。
柳井さんが二〇〇七年に全社に向けて打ち出した方針は、「儲ける」の一言でした。
本質を短い言葉にしてしまえばそういうことなのですが、実行と経験に裏打ちされた主張を通して読めば、きわめて骨太な「論理」が浮かび上がってきます。
自分でやったこともなければ、成果も示すことができない私が、実務家に向かってこの種の主張を文字どおり口にしたとすれば、黙殺されるか、冷笑されるか、殴られるかのいずれかでしょう。

p19

要するに、ジェニーンさんは、「文脈に埋め込まれたシンセシス」という戦略の第二の本質を強調しているわけです。
日本企業とアメリカ企業は異なった文化的な文脈に置かれている。
だから日本でうまくいくことがアメリカでもうまくいくとは限らない。
同じアメリカの企業でも、それぞれに異なる文脈のもとで動いている。
だから、よその会社でうまくいく戦略であっても、ITTでうまくいくとは限らない。
戦略なり経営というものはどこまでいっても、その会社や事業の特定の文脈に埋め込まれたシンセシスであって、さまざまな断片をつなぎ合わせた総体として初めて意味を持つ。
経営はサイエンスでなくアートだ。
それなのに、「経営理論」は全体を無理やり要素に分解して、個別の要素を文脈から引きはがしてああだこうだとこねくり回す。
だから理論には意味がない、というのがジェニーンさんの苛立ちです。

ジェニーンさんは究極の理論として「セオリーG」を提示しています(Gはジェニーンさんの頭文字)。
それはこういうものです。
「ビジネスはもちろん、他のどんなものでも、セオリーなんかで経営できるものはない」。

「ストーリー」とは何か p20

実体験の迫力を出そうとしても出せない経営学者としては、特定の文脈に埋め込まれたシンセシスとして戦略を扱いながらも、経営者とは違ったアプローチで、しかし実務家にとって有用な戦略論を語る必要があります。
そこで私がたどり着いたのが、「ストーリーとしての競争戦略」という視点なのです。
ストーリーの戦略論は、因果論理のシンセシスという戦略の本質を正面から捉える視点です。

ストーリーとしての競争戦略は、「違い」と「つながり」という二つの戦略の本質のうち、後者に軸足を置いています。
競争戦略は、「誰に」「何を」「どうやって提供するのかについての企業のさまざまな「打ち手」で構成されています。
戦略は競合他社との違いをつくることです。
さまざまな打ち手は他社との違いをつくるものでなくてはなりません。

しかし、個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。
それらがつながり、組み合わさり、相互作用する中で、初めて長期利益が実現されます。
ストーリーとしての競争戦略は、さまざまな打ち手を互いに結びつけ、顧客へのユニークな価値提供とその結果として生まれる利益に向かって駆動していく論理に注目します。
つまり、個別の要素について意思決定しアクションをとるだけでなく、そうした要素の間にどのような因果関係や相互作用があるのかを重視する視点です。

戦略をストーリーとして語るということは、「個別の要素がなぜ齟齬なく連動し、全体としてなぜ事業を駆動するのか」を説明するということです。
それはまた、「なぜその事業が競争の中で他社が達成できない価値を生み出すのか」「なぜ利益をもたらすのか」を説明することでもあります。
個々の打ち手は「静止画」にすぎません。
個別の違いが因果論理で縦横につながったとき、戦略は「動画」になります。
ストーリーとしての競争戦略は、動画のレベルで他社との違いをつくろうという戦略思考です。

サッカーにたとえるとわかりやすいでしょう。
相手チームに勝つために、どこのポジションにどういう選手を配置するかという問題は戦略を構成する「点」です。
しかしそこで選ばれ、配置された選手たちが繰り出すパスがどのようにつながり、ゴールへと向かっていくのかは、点を結びつける「線」の問題です。
サッカーの戦略というのは、要するにそのチームに固有の「攻め方」なり「守り方」を意味しているわけですが、攻め方なり守り方はいくつもの線で構成された「流れ」や「動き」として理解できます。
戦略の実体は、個別の選手の配置や能力や一つひとつのパスそのものではなくて、個別の打ち手を連動させる「流れ」、その結果浮かび上がってくる「動き」にあるのです。

ストーリーとしての競争戦略とは、「勝負を決定的に左右するのは戦略の流れと動きである」という思考様式です。
将棋や囲碁にしても同じ話で、普通私たちが戦略というときは、意識しているか無意識かは別にしても、個々の打ち手ではなく、打ち手をつなぐ流れ、勝利に向けたストーリーをイメージしているはずです。
戦略をストーリーとして捉える思考は、何も新しい話ではなく、素朴なレベルではごく自然な理解です。

個別の要素についての意思決定(たとえば、ある製品の生産を社内でやるか、それとも外部企業に任せるか)は、基本的に what や who (whom) や how や where や when を確定するということです。
こうした個別の打ち手に対して、戦略ストーリーが問題にするのは why です。
右で「線」とか「流れ」といっているのは、なぜある点がもう一つの点につながるのか、ある打ち手がなぜ次の打ち手を可能にするのか、という因果論理に注目しています。
戦略を一連の流れを持ったストーリーとして考えなくてはならないゆえんです。

戦略の「流れ」と「動き」 p22

マブチモーターは技術的に成熟した、小型モーターを専門につくっている会社で、一見してあまり儲かりそうもない業界に身を置いているのですが、高い利益率を長期的に維持してきました。
いずれまた事例として詳しくお話ししますが、小型モーター事業について、マブチの考えたそもそものストーリーは、最も単純化していえば「大量生産によるコスト競争力で勝つ」というものです。
「大量生産」という打ち手と「低コスト」をつなげる線は、「規模の経済」という、ごくありふれた論理です。

これだけならば話は単純なのですが、マブチの戦略ストーリーが面白いのは、大量生産につながる打ち手として、「モーターの標準化」という意思決定をしたことにあります。
今でこそ「標準化」は当たり前のように聞こえますが、当時のモーター業界では常識に反した「禁じ手」でした。
玩具やドライヤーなどの家電製品に使われていた小型モーターは、それぞれのセットメーカーからの特定仕様の注文を受けて、それに合わせて生産されていました。
セットメーカーは自社の競争力を高めるために製品差別化を行おうとするので、それに内蔵するモーターも少しずつサイズや特性を変えなければなりませんでした。
受注生産時代のモーターは典型的な多品種少量生産でした。

モーターを特定少数のモデルに標準化すれば、これまでの少量生産のくびきから解放されて大量生産が可能になるだろう。
マブチの顧客であるセット(モーターを組み込んだ完成品)業界にしても、競争が激しいところばかりで、製品開発のサイクルも早まる一方だ。
一円でも安く、一日も早い開発を迫られるユーザーにとって、モーターの標準化は初めのうちは抵抗があるだろう。
しかし、そこを我慢すれば長期的には経済合理性を認められるはずだ。
そのうちにユーザーが次々とマブチの標準モーターを買うようになれば、さらに標準モーターに対する抵抗は薄れ、マブチにとってはますます規模の経済がコストを下げるという好循環が生まれるだろう……。
こうしたストーリーが構想されたのです。

標準化の他にも、それを取り巻くように、玩具や生活家電以外の「新しい市場の段階的な開拓」、中国を中心とする「海外での直接生産」、意図的に自動化の水準を下げた「労働集約的な生産ライン」、支店や営業所を持たない「一極集中の営業体制」といった手をマブチは打ちました。
そうしたいくつもの打ち手が相互に因果論理でつながり、全体として「標準化→大量生産→規模の経済→低コスト」という長期利益をたたき出すシュートを可能にしました。
その背後には、さまざまな打ち手がなぜ結びつき運動していくのかについての論理を突き詰めた独自のストーリーがありました。
マブチの成功は、個別の打ち手が功を奏したというよりも、ストーリーの勝利でした。

p25

マブチはブラシつき小型モーターという最も技術的に成熟した分野に特化し、さらに重要なこととして、「モーターの標準化」を戦略のカギとしていました。
技術的に成熟した製品であれば、中国での労働集約的な生産ラインに適していますし、中国での安価な労働力の恩恵を享受しやすくなります。
製品が標準化されていれば、多種多様なモデルをつくる必要がそもそもないので、熟練の程度が低い労働力に依存したとしても、深刻な問題にはなりません。
同じものを長期間ひたすらつくり続けるので、熟練の形成も容易です。

マブチの成功を見た同業他社が、中国現地生産の戦略を「ベストプラクティス」として導入したとしても、周囲の打ち手とのつながりに欠けていれば、かえって筋の悪い話になってしまいます。
ストーリーの断片を切り取ったスチール写真を見るだけでは映画が評価できないのと同じように、ストーリー全体を通して見ないことには、筋の良し悪しは判断できません。

p27

ベトナムのへんぴな場所を選択したのにも論理があります。
全品品質検査は作業者の熟練がカギになります。
中国の労働市場は流動性が高く、作業者がなかなか定着しないこともあり、ベトナムのほうが適しています。
それでも、いろいろな会社の工場が集まっている工業団地に出てしまうと、作業者が他の工場に転職してしまう可能性が高まります。
そこでマニーは、周りに工場が一つもないような場所を長い時間をかけてゼロから切り拓き、その周囲に住む人々を採用するのです。
採用した従業員は徹底的にトレーニングし、スキルを育成します。
従業員は地元で仕事につけますし、周りに他の工場もないので転職するインセンティブを持ちません。
必然的に定着率がきわめて高くなり、熟練が形成され、全品品質検査による世界最高の品質が相対的に低コストで維持できるという成り行きです。
マニーの海外生産は、戦略ストーリーを構成する他の要素と強い因果論理でつながっています。
つまり、戦略が筋の良いストーリーになっているのです。

①「アクションリスト」ではない p28

繰り返しますが、戦略の本質は「シンセシス」(綜合)にあります。
経営の問題の多くは、大きな事象を構成要素に分解し、そのうえで一つひとつの要素を別個に吟味しようとするアナリシスの形をとりますが、戦略に限ってはシンセシスにその神髄があります。

ところが、現実には、肝心のシンセシスの側面がきれいさっぱり欠如している「戦略」が少なくありません。
そこに一貫したストーリーが流れているかどうかは、情報量の多さとか分析の密度、正確さとは別ものです。
ストーリーになっていない戦略であっても、いろいろな要素が盛り込まれているのが普通です。
市場環境やトレンドはどうなっているのか。
ターゲット・マーケットとしてどのセグメントをねらうか。
どういう仕様の製品をどういうタイミングでリリースするか。
プライシングはどうするか。
どういうチャネルを使うか。
どのようにプロモーションするか。
どこを自社で行い、どこをアウトソーシングするのか。
生産拠点はどこに置くのか。
必要なポイントが広範かつ詳細に検討されています。
何枚ものパワーポイントが出てきます。

しかし、そうした構成要素が全体としてどのように動き、その結果何が起こるのか、ストーリーのつながりと流れがさっぱりわかりません。
話している当の会社の人も、その「戦略」が全体としてどのように動くのか、本当のところはよくわかっていない。
これが「アクションリスト」の戦略です。

なぜそうなってしまうのでしょうか。
通常のオペレーション業務のように、戦略をつくるという仕事を担当部門の「分業」で、「分析的」にやろうとする発想にそもそもの間違いがあると思います。
トップは目標を打ち出すだけで、戦略をつくる作業を会社のさまざまな業務部門に投げてしまう。
それを受けてそれぞれの業務部門が、目標を達成するためのアイテムを、自分の担当する分野の範囲でひねり出し、バラバラに上にあげる。
それを受けて、「経営戦略部門」が見た目はきれいなプレゼンテーション資料に落とし込む、というプロセスです。
これでは戦略をつくるという仕事が、アクションリストを長くしたり細かくする作業にすり替わってしまいます。
本来は「動画」であるはずの戦略が無味乾燥な静止画の羅列になり、文字どおり「話にならない」のです。

②「法則」ではない p29

戦略「論」が宿命的にやっかいなのは、法則の定立がほとんど不可能だということです。
にもかかわらず、一部の戦略論、特に「アカデミック」な戦略論には法則の定立をめざそうとするものが少なくありません。
この数十年の正統派経営学の基本姿勢は、法則の定立を志向しています。
これは経営の実在をコントロール可能なシステムであると想定し、大量観察を通じてそのシステムの挙動に規則性を見出し、そこから法則を導出しようという立場です。
こうしたアプローチは、近年の統計学の発達や自然科学の成功にも影響されて、より「科学的」であるという印象を与えます。
できるだけ多数の多様なシステムを観察することで、より一般化の程度が高い法則を導出し、その法則を実務家に伝授していくというプロセスが正統派経営学の標準となりました。

この種の「法則戦略論」への傾斜は、アカデミズムの自然な帰結ともいえます。
「科学的」な実証研究は、大量サンプルを統計的な手法で分析した結果として、「他の条件が一定であれば(all other things being equal)、XであるほどYになる」という「厳密」で「一般性の高い」法則の定立をめざします。

私はこの種の法則戦略論の有用性を疑わしく思っています。
なぜならば、第一に、そもそも戦略とは他社との違いを問題にしているからです。
大量観察を通じて確認された規則性は、あくまでも平均的な傾向を示すものでしかありません。
そこで提示された「法則」に従うということは、他社と同じ動きに乗るということであり、戦略にとっては自殺的といえます。
第二に、「他の条件が一定であれば」といったとたんに、戦略の本質である「文脈依存性」や「シンセシス」が根こそぎ切り捨てられてしまいます。

厳密で一般性の高い知見が実務家にとって全く無意味だとは言うつもりはありません。
経営者が自らの意図と文脈に引きつけて解釈すれば、自社の戦略を構想するときに有用な論理のパーツを提供することも多々あるはずです。
しかし、戦略論の学術雑誌を熟読する経営者というのは、よっぽどのマニア以外には想像しにくいでしょう。

③「テンプレート」ではない p30

そこで、こうしたアカデミックな戦略論からかなり独立した形で、「プラクティカルな戦略論」の流れが出てきます。
実務家への影響力という意味では、こちらのタイプのほうが圧倒的に強いでしょう。
しかし、正統派経営学の法則定立のくびきから解放されているにもかかわらず、プラクティカルな戦略論もまた「静止画」になりがちです。
その理由は、こうした戦略論が実務家のニーズに「過剰に適応」するからです。

その典型が「テンプレート戦略論」です。
因果論理のメカニズムを解明するよりも、実務家が「それ、使えますね!」とすぐに食いつくようなツールの開発に主眼を置くタイプの戦略論です。
たとえば、実務家に影響力のあった戦略論に「ブルー・オーシャン戦略」があります。
「バリュー・イノベーション」という概念をはじめ、有用な論理があちこちで展開されています。
しかしその一方で、この本は実務家のニーズに過剰適応している面もあるように思います。
せっかくの論理化の面白さよりも、本の中では「戦略キャンバス」「アクション・マトリックス」といったテンプレートが前面に打ち出されています。

ユーザーである実務家が戦略論を過剰に「実用」しようとする結果、論者には必ずしもそのつもりはないのに、いつのまにかテンプレート戦略論として定着するという成り行きも少なくありません。
マイケル・ポーターさんの有名なフレームワークの一つに「バリューチェーン」があります。
「チェーン」(連鎖)という名前がついているぐらいですから、本来は異なった活動の「つながり」を理解するためのものであるはずです。
実際、本の中でポーターさんは異なる活動のシンセシスについて詳細な議論を展開しています。
しかし、バリューチェーンのフレームワークはほとんどの場合、企業のさまざまな活動を分類整理するだけのテンプレートとして使われているのが現実です。
皮肉なことに、バリューチェーンがフレームワークとして普及するに従って、肝心の活動間のつながりの論理はますます軽視されるようになった感があります。

この手のテンプレートで最も広く使われているものは、おそらく SWOT 分析でしょう。
SWOT というのは Strengths (自社の強み)、 Weaknesses (自社の弱み)、 Opportunities (競争環境の機会)、 Threats (競争環境の脅威)を整理して理解するためのフレームワークです。
「自社の強みと弱み」と「外部の機会と脅威」との掛け算からなる四つのマス目を埋めれば、とるべき戦略が見えてくる、というのが建前です。
マス目にそれぞれの要因やアイテムを列挙するのはそれほど難しくはありません。
しかし、何を自社の強みないしは弱みと見るのか、何が脅威で何が機会なのか、こうしたことは実はきわめて高度な論理と判断を必要とするはずです。

百歩譲って、そうした判断ができたとしましょう。
SWOT は「自社」と「外部」の間にある因果論理を考える助けにはなるかもしれません。
しかし、自社の「強み」と「弱み」の間にある因果論理については分析者の目をふさいでしまいます。
戦略ストーリーの「キラーパス」(第5章)のところで詳しくお話しするように、ある部分での(多分に意図的な)「弱み」が、別の部分での「強み」をもたらしているということは、優れた戦略がしばしば含んでいる因果論理なのです。

考えてみれば、テンプレートの戦略論は戦略の本質にことごとく逆行しています。
シンセシスであるはずの戦略立案が、テンプレートのマス目を埋めていくというアナリシスに変容します。
戦略をその企業の文脈から無理やり引きはがし、構成要素の因果論理や相互作用を隠してしまいます。
本来は動きのあるストーリーのはずの戦略は、かくして限りなく静止画へと後退していきます。

④「ベストプラクティス」ではない p33

戦略論が過剰に「実用的」となったあげくに静止画化してしまうという皮肉は、「ベストプラクティス」についても当てはまります。
ベストプラクティスの戦略論は成功事例の最も「目立つ」部分に注目し、そこから教訓を引き出そうとします。
さまざまな業界や企業のベストプラクティスを知ることそれ自体は意味のあることです。
しかし、ベストプラクティスを取り入れるだけの「戦略」が戦略の名に値しないのはいうまでもありません。
これまた「違いをつくる」と「シンセシス」という競争戦略の二つの本質にまるで逆行するからです。

世の中で取りざたされているベストプラクティスに飛びつき、それをいち早く自社に導入する。
論理的な思考が弱いというよりも、そもそも「思考の欠如」といったほうがいいかもしれません。
沼上幹さんはこの種の論理的思考の欠如を「カテゴリー適応」というものの考え方の問題として指摘しています。
「A子さんはなぜ男性にもてるのか」という問いに対して、「A子さんが女性だから」と答えたとしたら、ほとんどすべての人は説明になっていないと思うでしょう。
女性でも男性にもてない人はいるからです。
確かに、男性にもてる人は女性が多い(男性にもてる男性というのもいるとは思いますが)。
ただし、女性というカテゴリーを持ち出すだけで説明が終わったと考えるのは間違いです。
この答え方では「なぜ」という問いに対する回答にはなりません。

カテゴリー適応の典型的な例として、沼上さんは次のような例を挙げて説明しています。
「インテルは儲かっているのに、ノートPCが儲からないのはなぜか」という問いに対して、「ノートPCはアセンブリ(組立)業だから儲からないのだが、インテルはデバイス業だから儲かるのだ」と答える人は少なくありません。
これは「アセンブリ」とか「デバイス」というカテゴリーに分類して説明しようとしているという意味で、カテゴリー適応であるといえます。
確かにアセンブリ事業の利益率とデバイス事業の利益率を平均すれば後者のほうが高いかもしれませんが、そこには「なぜ」に答える論理はありません。

「アセンブリ=儲からない」「デバイス=儲かる」という話が理由の説明になっていないということは明白です。
たとえば、いっときベストプラクティスとして喧伝された「スマイルカーブ」の理論(?)を考えてみましょう。
「スマイルカーブ」というのはこういう話です。
バリューチェーンにある川上から川下までの活動を眺めてみると、中間に位置するアセンブリ(スマイルマークの口の曲線の底の部分)は付加価値が出せないけれども、川上のデバイスや素材、川下のサービスやマーケティング(スマイルマークの口の曲線の両端の上がっている部分)は付加価値を出しやすい。
だから水平分業が大切だ。
アセンブリはアウトソーシングをして、デバイスかサービス(もしくはその両方)に集中するのがよい、というのです。

これはカテゴリー適応そのもので、論理が欠如していることは明らかです。
アセンブリは儲からないからアウトソーシングに切り替えろ、というのですが、スマイルカーブの教えに忠実な企業からアウトソーシングを受けてバリバリ儲かっているアセンブリ専門企業もたくさんあるわけで(もちろん儲かっていないアセンブリ専門企業もそれに劣らずたくさんありますが)、この一点だけをとっても、スマイルカーブの教えは眉唾ものといえるでしょう。

「自前主義にこだわった垂直統合モデルはもう古い。これからは水平分業だ」というよく聞く話も、これとほとんど同じです。
もちろん垂直統合を捨て、水平分業に移行することによって収益を確保している会社もたくさんあります。
自前主義が利益の足を引っ張っている会社も少なくないでしょう。
しかし、「だから水平分業だ」、これでは論理があまりに希薄です。
論理で綴るストーリーになっていないのです。

いつの時代も「最新のベストプラクティス」は世の人々の話題になります。
しかし、そのほとんどは流行にすぎません。
一年か二年で忘れられてしまいます。
「ベストプラクティス」が意味を持つのは、それがきちんとした因果論理で自社の戦略ストーリーに組み込まれたときだけです。
しかし、皮肉なことに、ベストプラクティスというカテゴリー適応的な発想は、それ自体にストーリーの因果論理をないがしろにするという性格を持っているのです。
流行のベストプラクティスに飛びつくだけでは、いつまで経っても独自のストーリーは出てきません。
それどころか、藤本隆宏さんが言うように、他社のベストプラクティスを拾っては捨て、拾っては捨ての「賽の河原の石積み」になってしまいます。

⑤「シミュレーション」ではない p35

戦略ストーリーという言葉は、「シナリオ」とか「ロードマップ」と似たものに聞こえます。
言葉のそもそもの意味としては、ほとんど同じといってもよいぐらい近いのですが、問題は、会社で「シナリオ・プランニング」とかいうと、単純なシミュレーションをやるだけになってしまうということです。
つまり、ある条件を事前に仮定したうえで、GDPの成長率や為替レート、当該事業の市場規模、自社のシェア、売上高、そのときの期待投資収益率など、さまざまな数字を入れ込んで、条件が変わると期待投資収益率がどのように変化するのかを調べる、というような作業です。

シミュレーションは時間軸が入っていますから、その意味では動画の側面もあります。
しかし、この種の数字を羅列しただけのシミュレーションが戦略ストーリーの名に値しないのはいうまでもありません。
数字の背後にある因果論理がほとんど考慮されていないからです。
それぞれの数字がなぜそのように連動するのか、これを特定するためには相当に深い論理的推論が必要となるはずですが、肝心の因果論理が、「GDPに比例して市場規模が大きくなるはずだ」というような、あまりにも単純な仮定にすり替わってしまいます。
これでは数字が条件の変化や時間とともに動いていくだけで、ストーリーにはなっていません。

一貫した戦略ストーリーが先にあり、さまざまな条件がそのストーリーにどのような影響を与えるのか、事後的にチェックするためには、この種のシミュレーションは有用かもしれません。
しかしそれは戦略を立てた後のおまけというか、確認のような作業であって、戦略そのものではありえません。

⑥「ゲーム」ではない p36

近年発達したゲーム理論は、複数の意思決定主体が合理的な基準に従って行動したときに生じる状況を、主として数理モデルを使って分析する手法です。
その適応領域は経済学をはじめとして、社会学、政治学など広範にわたっています。
戦略論もその例外ではありません。

ゲームの戦略論は、ゲームの全体構造を俯瞰する立場から、そこに参加するさまざまな企業や供給業者、顧客などが相互作用して生じる状況を考察しようとします。
局所的な打ち手のみならず、ビジネスの全体構造の中で、各参加者(ゲームのプレイヤー)の相互作用がどのような意味を持ち、そこから何が生じるのかが捉えられるというところに、ゲーム戦略論の強みがあります。
ですから、ゲームの視点にはストーリーの戦略論と一脈通じるところがあります。

しかし、私が「ストーリー」という言葉にこだわる理由の一つには、そこに「ゲームではない」という意味を込めたいという意図があります。
私が違和感を持つのは「ゲーム」という視点の基本的な前提です。
ゲームの戦略論は、自社を取り巻く他社に働きかけながら、自社にとって都合の良い外的環境をつくり出すことをめざしています。
ここに利益の源泉があるというのがゲームの戦略論の考え方です。

そのような「おいしい」状況をつくり出す手段として、ゲームの戦略論は企業の「戦略的行動」(strategic behavior)に注目します。
たとえば、戦略的な低価格の設定や強気の投資によって、潜在的な参入業者や競合他社のやる気をそぐというような行動です。
より一般的な言葉でいえば、「駆け引き」です。

しかし、「他社の合理的な反応を予測する」というゲーム戦略論の基本的な視座は、クールに過ぎると思います。
ゲームの戦略論のように「合理的な駆け引き」にとらわれると、「シグナリング」や「スクリーニング」といった個別の戦略的行動にばかり目が向き、結果的にプレイヤーの合理的な行動をスナップショット的に捉えることに終始しがちです。

しかも、ゲーム理論的な戦略思考は、ゲームに参加しているプレイヤーがすべて基本的には合理的で、相互の行動がもたらす成り行きを完全に理解できている、と想定しています。
しかし、何を合理的とするかは、それぞれの企業の主観的な判断に大きく影響されるはずです。
プレイヤーが置かれている文脈が異なれば、「合理的な行動」の中身も変わってくるでしょう。
ゲーム理論的なフレームワークは論理的思考を助けますが、それが現実の戦略構想の指針になるとは考えにくい、というのが私の意見です。

「ビジネスモデル」と「ストーリー」 p38

話をストーリーの戦略論に戻しましょう。
マブチモーターやマニーのように業界標準以上の長期利益をたたき出している企業をじっくり眺めていると、きちんとした因果論理で綴られた戦略ストーリーが浮かび上がってきます。
それはまさにストーリーであって、法則やテンプレートやベストプラクティスで説明できるものではありません。

マイケル・デルさんは「ホームランでなく、ヒットをねらう。ビジネスは野球と同じで、できるだけ高い打率をめざすのがベストだ。
なぜなら、永遠に続く大ヒット製品やテクノロジーなど存在しないからだ」と言っています。
画期的な新製品、まだ誰も参入していない新興市場、自社だけで占有可能な技術、こうした強力な点の一撃があれば成功できるかもしれません。
この種の要素レベルの差別化は目立ちますし、わかりやすく、華々しい成功をもたらします。
しかし、これだけグローバルに情報が行きわたった時代になると、そうした「必殺技」は探してもなかなか見つかりません。
すぐに他社も同じようなことを仕掛けてきます。

p40

ストーリーとしての競争戦略という思考は、こうした研究と多くを共有しています。
もっといえば、ここでいう「戦略ストーリー」を「ビジネスモデル」「ビジネスシステム」「アーキテクチャ」とそのまま読み替えてしまっても、たいして不都合はありません。
現に、ジョアン・マグレッタさんは、二〇〇二年の有名な論文“Why Business Models Matter”の中で、「ビジネスモデルとは、なぜ事業が有効に動くのかを説明するストーリーである」と明言しています。

企業の競争優位の源泉が戦略の構成要素のレベルから「システム」なり「仕組み」のレベルへとシフトしているという問題意識の点でも、私の話はこれらの研究と共通しています。
「ストーリー」「モデル」「システム」「アーキテクチャ」、呼び名の違いは別にしても、こうした考え方はいずれも個々の要素ではもはや企業が持続的な競争優位を確立しにくくなっているという問題意識に立脚しています。
加護野忠男さんは、「ビジネスシステムの静かな革命」という興味深い議論をしています。
システムレベルの差別化は構成要素レベルの差別化と比べて、「静かな差別化」です。
だからこそ、システムレベルの差別化はまねされにくく長持ちするという面があります。
差別化の次数を要素からシステムへと繰り上げれば、新しい競争優位が獲得できるという論理です。

「短い話」を長くする p44

ストーリーという視点を強調する二つ目の理由は、このところ特にその傾向が強まっていると思うのですが、現実の企業経営の中で、戦略ストーリーをじっくりと考え、語り合うことが希薄になっているのではないかという懸念です。

従来の戦略論には「動画」の視点が希薄でした。
戦略のあるべき姿が動画であるにもかかわらず、その論理を捉えるはずの戦略「論」はやたらと静止画的な話に偏向していたように思います。
しかも、戦略論の「静止画症候群」は、このところよりいっそう顕著になっているのではないか、というのが私の問題意識です。

素朴に考えれば、そもそもあらゆる戦略は面白い「お話」であるべきなのですが、これまでも強調してきたように、ストーリーということになると、 what や when や how much だけでなく、 why が話の中心になります。
ところが、やっかいなことに、 what や when に比べて、 why に対する説明はどうしても話が長くなります。
しかも、 why の線は一本ではありません。
複数の打ち手があれば、前後左右に一手を結びつける線は広がっていきます。
特定の文脈に依存した因果論理のシンセシスである以上、戦略はワンフレーズでは語れません。
ある程度「長い話」にならざるをえません。

ところが、それを論理化するはずの戦略論はやたらと「短い話」に終始しているのが現状です。
その典型が、前にお話ししたようなテンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論です。
こうした短い話が横行するのも、もとをただせば戦略論のユーザーのニーズがあるからです。
なぜユーザーは静止画的な短い話を好むのでしょうか。
思いつくままに理由を挙げてみましょう。

第一に、とにかく忙しい。
戦略ストーリーを突き詰めて考えるゆとりがない。
そういう人にとっては、テンプレートやベストプラクティスがあれば、手っ取り早く「戦略をつくっている気分」になれます。

第二に、テンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論の主たるユーザーは、実際のところ、経営者というよりも経営企画部門などの「戦略スタッフ」であることが多い。
彼らの仕事は戦略構想そのものではなく、戦略を構想する人(経営者や事業部門長などのジェネラル・マネジャー)が必要とする情報の整理や分析です。
そもそもシンセシスの任にない人々であれば、手っ取り早いアナリシスのためのテンプレートを好むのは自然な成り行きです。

第三に、「プロフェッショナル経営者」という幻想です。
もちろん、真の意味での経営技量なりシンセシスに優れた経営者は存在します。
しかし、ここでいうカギカッコつきの「プロフェッショナル経営者」というのは、戦略があたかも標準的なスキルセットであると誤解している人々のことを指しています。
「経営者の戦略スタッフ化」といってもよいでしょう。
こうした人々にとってテンプレートやベストプラクティスは過度に心地よく響きます。

第四に、コンサルタントによるマーケティングの影響があります。
コンサルタントが戦略論を本や論文で供給するのは、それが往々にして本業のマーケティングにとって有効だからです。
優れたコンサルタントであれば、テンプレートの価値はその使い方次第であるということをよくわかっているはずです。
だからこそ、特定の文脈で問題解決をするという彼らの存在価値があるわけです。
しかし、文脈に依存した特殊解は、幅広く潜在する顧客へのセールス・ピッチにはなりにくい。
かくしてコンサルタントによる戦略論は、「文脈に依存したシンセシス」という肝心要のところを(多分に意識的に)省略した、静止画のオンパレードになりがちです。

第五に、静止画的な短い話は、コミュニケーションが簡単だということがあります。
ビジネスはある意味で「長い話」を嫌うものです。
厳しい競争にさらされているほど、素早くわかりやすい「ソリューション」が求められるようになり、長い話を突き詰めて考え、話し合い、共有するゆとりがなくなります。

情報技術の進展は入手可能な情報の量を飛躍的に増大させました。
しかし、ここで忘れてはならないのは、「情報(information)の豊かさは注意(attention)の貧困をもたらす」というトレードオフです。
戦略ストーリーを支えている因果論理は、「情報」よりも「注意」の産物です。
大量の情報が飛び交うほど、因果論理についての注意は希薄になります。
逆にいえば、因果論理を捨象した「静止画」であるほど情報技術で扱いやすく、したがってコミュニケーションしやすく、また共有しやすくなります。
「共有したつもりになりやすい」といったほうがいいでしょう。
戦略を一枚のテンプレートにまとめてしまえば、メールに添付して一時に一〇〇人に送りつけることはできます。
しかし、これでは情報を伝達しているだけで、戦略についての注意を喚起し、共有することはできません。

第六に、近年のマクロ環境の変化があります。
グローバル化、投資家からの圧力の高まり、こうしたこのところのマクロな経営環境の変化は、とりわけ長い話を嫌がる傾向を加速させているように思います。
グローバル化が進むと、言語や文化的な背景が違う社内外の利害関係者と意思を共有しなければなりません。
そうした文脈で長い話を持ち出すのは、自然と気が引けるものです。

投資家は長い話を嫌がる生き物の最たるものです。
投資家には静止画、もっといえば「数字」しか受けつけないという抜きがたい体質があります。
こうした経営に対するプレッシャーは、それはそれで企業を鍛えるという健全な面があるのですが、ストーリーとして戦略を構想し、組織全体にそのストーリーを浸透させることが以前よりも難しくなっているといえそうです。
その結果、因果関係や相互依存の論理がすっ飛ばされて、戦略が「静止画」化してしまいがちです。

こうしたいくつもの圧力は、戦略論を「短い話」へと押し込めてしまい、シンセシスとしての戦略構想がよって立つ因果論理から実務家の目をそらしがちです。
「長い話」としての戦略論を取り戻す必要がある、そして、そこにこそストーリーの戦略論の役割と貢献があるというのが私の考えです。

p50

これがこの話の一番重要なポイントで、ストーリーとしての競争戦略の一つの本質を物語っているのではないかと私は思います。
つまり戦略ストーリーというのは、きわめて主体的な意志を問うものだということです。
言い換えれば、戦略ストーリーは、前提条件を正確に入力すれば自動的に正解が出てくるような環境決定的なものではないということです。

環境決定論者には戦略ストーリーは必要ありません。
ピレネー山脈の遭難の話にしても、ビジネスにしても、未来は不確実です。
どんなに精緻に分析しても、結局のところ将来どうなるかは正確にはわかりません。
どこかに一つ正しい戦略があるわけではないのです。
地図の上に一本の道筋をつけたとしても、それ以外にもいろいろな道がありえます。
戦略は「当たり外れ」の問題ではありません。
少なくとも事前においては、そこにストーリーがあるかないかという有無の問題です。
もしくは、その道筋のついた地図を手に進んでいく人々が、「信じているか、いないか」の問題です。
将来はしょせん不確実だけれども、われわれはこの道筋で進んでいこうという明確な意志、これが戦略ストーリーです。
ストーリーを語るということは、「こうしよう」という意志の表明にほかなりません。
「こうなるだろう」という将来予測ではないのです。

意志表明としてのストーリーが組織の人々に共有されていることは、戦略の実行にとって決定的に重要な意味を持っています。
なぜならば、ビジネスは総力戦だからです。
武術研究家の甲野善紀さんは、優れた武術家の強さの正体は何かと問われて、「一対一で向きあっていても、実際は一対一の勝負ではなく、身体のあらゆる部分を動員することによって一対一〇〇の勝負に持ち込むこと」だと答えています。

これは「多勢に無勢は敵わない」という、ある面、すごく単純な原理なんです。
身体が大きくて力があるように見える人が部分を使って出す力を仮に七〇として、私の身体中の部分部分を全員協力態勢にして出す力が一〇〇なら、その相手には負けないということです。
… (中略) …ウエイトトレーニングでは、重いものを持って「うー、重い、重い」と負荷をかけることで部分部分の筋肉を太らせるわけです。
しかし、部分を強調すると、それぞれの部分はそれで強くなったとしても、「俺が、俺が」と言い始める。
そして、その「俺が、俺が」という部分がたくさんできると、それらは協力しにくいんです。
それぞれが勝手に自己主張するから全体としての相互互助システムにならない。

これは、要素の強みではなく、要素がつながって生まれる流れで勝負するという、まさにストーリーの発想です。
ストーリーの共有は勝負を総力戦に持ち込むための条件として大切です。
ストーリーを全員で共有していれば、自分の一挙手一投足が戦略の成否にどのようにかかわっているのか、一人ひとりが理解したうえで日々の仕事に取り組めます。
戦略がどこか上のほうで漂っている「お題目」でなく、「自分の問題」になります。
自分が確かにストーリーの登場人物の一人であることがわかれば、その気になります。
こうしてビジネスは総力戦になるのです。
複数の会社で企業再建に成功した三枝匡さんはご自身の経験に基づいて次のように発言しています。

鮮明な戦略ストーリーを描いてそれに現場の社員を巻き込むと、画期的な組織活性効果が生まれることがあるという手法に、私が経営現場で開眼したのは三〇代前半の経験です。
… (中略) …私の場合、どこの会社に行ってもとにかく大切な第一ステップは、皆にわかってもらえる戦略ストーリーを組み立てることなんです。
… (中略) …うまくいくときは、戦略を打ち出すと、見ていてみんなの表情がスッとまとまった感じがするわけです。
部屋の空気が変わるんです。
その感覚ですね。
なんとなくそれぞれぶつくさ言っていたのが、みんなファーッと熱を帯びてきます。
夜中まで仕事しようが徹夜しようが全然構わないみたいな状態になる。
そういう変化の感覚は、リーダーの醍醐味みたいなものですね。

戦略の実行にとって大切なのは、数字よりも筋の良いストーリーです。
過去を問題にしている場合であれば、数字には厳然たる事実としての迫力があります。
しかし、未来のこととなると、数字はある前提を置いたうえでの予測にすぎません。
戦略は常に未来にかかわっています。
だから、戦略には数字よりも筋が求められるのです。

これまではあまり強調されることはありませんでしたが、ストーリーという戦略の本質を考えると、筋の良いストーリーをつくり、それを組織に浸透させ、戦略の実行にかかわる人々を鼓舞させる力は、リーダーシップの最重要な条件としてもっと注目されてしかるべきだというのが私の意見です。
インセンティブ・システムなどさまざまな制度や施策も必要でしょうが、そんな細部に入り込む前に、人々を興奮させるようなストーリーを語り、見せてあげることが、戦略の実効性にとって何よりも大切だというのが私の見解です。

このところ会社のさまざまなことごとについての「見える化」が大切だ、という話が強調されています。
オペレーションのレベルの話で、しかもそれが過去に起こったことのファクトについての話であれば、私も見える化に大いに賛成です。
しかし、話がオペレーションよりも戦略レベルになると、見える化が本末転倒になってしまいます。

たとえばこういう話です。
ある経営者が新興市場への投資を決断しようとしています。
現時点でのオプションとしては中国とインドとロシアがあるのですが、時間と資源が限られているために、まずどこから攻めるか、優先順位の意思決定をしなければなりません。
そこでその経営者は戦略企画部門のスタッフを呼んで指示します。
「それぞれの市場への投資の期待収益率を出してくれ」。
指示を受けた「戦略スタッフ」はリアル・オプションの手法を駆使しつつ、いろいろな前提や仮定を置いて期待収益率をはじき出します。
で、社長に報告します。
「期待収益率を計算しましたところ、中国は一五%、インドは一〇%、ロシアは五%でした!」。
社長は決断します。
「そうか、中国にしよう……」。

これは話を極端にしているのですが、実際のところ、戦略的な意思決定をするのに暗黙のうちにこその種のアプローチをとっている経営者は決して少なくありません。
これでは見える化どころか「見え過ぎ化」です。
因果論理についての深い思考は全くありません。
もし本当に戦略がこんなものであれば、子どもでも経営者が務まります。

戦略構想は定義からして将来を問題にしています。
起こったことを数字で体系的に見える化しても、その延長上には戦略は生まれません。
あらゆる数字は過去のものだからです。
日々事実を積み上げていくオペレーションにとっては見える化は武器になりますが、将来の戦略構想ではあまり役に立ちません。
まだ誰も見たことがない、見えないものを見せてくれる。
それが優れた戦略です。
そのためにはストーリーを描くしかありません。
戦略をストーリーとして構想し、それを組織の人々に浸透させ、共有するしかないのです。

見える化という思考様式は戦略にとっては役に立たないどころか、ものの考え方が戦略ストーリーの本質からどんどん逸脱してしまいます。
戦略にとって大切なのは、「見える化」よりも「話せる化」です。
戦略をストーリーとして物語る。
ここにリーダーの本質的な役割があります。

p55

ポジショニングの戦略はそれがもたらす成果との因果関係がより明確なので、どちらかというと「短い話」で済む傾向にあります。
GEのジャック・ウェルチさんが一九八〇年代にとった戦略はその好例です。
ウェルチさんは就任と同時に「ナンバーワン、ナンバー2の事業しかやらない」「参入障壁が低くて多数乱戦になる事業はやらない」「市場や技術の変化の激しい事業はやらない」といった切り口で、手がける事業領域を大胆に絞り込みました。
これは徹頭徹尾ポジショニングの戦略です。
ウェルチさんの戦略的意思決定は数年のうちに増収をもたらしました。

一方の能力重視の戦略は、ポジショニングに比べて、成果との因果の距離が遠くなります。
藤本隆宏さんに言わせれば、「能力構築には少なくとも一〇年を要する」のです。
トヨタ生産方式は、カンバン方式、自働化によるラインでの問題解決、平準化生産といったさまざまな構成要素のシンセシスであり、能力に軸足を置いた優れた戦略ストーリーの典型例です。
能力構築の積み重ねが結局のところトヨタの競争力の実体なのですが、それが能力に基盤を置いているために、個別の取組みと成果との因果関係は相対的に不明確にならざるをえません。

能力構築を重視する戦略は、欧米や他のアジア諸国の企業と比較した場合の日本企業の独自性です。
今後も日本企業の競争力の源泉として重要であることは間違いありません。
ただし、能力の戦略はポジショニングと比べて、時間的にも、因果論理という意味でも、「長い話」を必要とします。
ポジショニングは意思決定できても、能力構築は意思決定だけではどうにもなりません。
個別の要素がどのようにつながり、相互作用を起こして、成果につながるのかというストーリーが意識されていなければ、能力構築から競争優位を引き出すことはできません。
ストーリーがないと、能力重視の経営は、「うまくやれ」「なんとかしろ」という単なる現場依存になりがちです。
これでは単なる戦略不在になってしまいます。

p57

ハリウッドの映画制作の組織では、機能分化の論理が徹底的に浸透しています。
監督、脚本、撮影、編集、出演(俳優)、特殊撮影、衣装、美術といった主だった機能だけでなく、俳優との出演料の交渉だけに特化した代理人、衣装や背景の色合いを決めることだけに特化したカラリスト、出演する側にしても自由度が高くさまざまなことに発言権がある主演級のスターから、特定のアクションを担当するスタントマン(これもアクションの種目別に細かく専門分野が分かれている)、声を出すことがないエキストラ(一言でも声が映画に出るような人は「俳優」という全く別のカテゴリーであり、出演料も格段に違ってくる)まで、機能分化が極端に進んでいます。

撮影にしてもカメラマンは「撮影すること」に特化しており、自分の撮った絵が最終的にどのような映像に仕上がるのかはわからないで仕事をするわけです。
最終的な映像に仕上げるのは「編集」の仕事です。
編集がその機能専門性を発揮できるように、撮影側では一つのシーンであってもありとあらゆる角度から数多くのテイクを撮っておくというやり方です。
編集者は多くのテイクの中から良いと思うものを取捨選択し、映像をつくり上げます。

このような徹底した機能分化は、たとえばスティーブン・スピルバーグさんのような強力なリーダーを必要とします。
まずスピルバーグさんが事前にきっちり全体の絵を描き、それをジグソーパズルのピースのように機能単位へと分割し、それぞれの機能担当者が個々のピースできっちりと仕事をし、出来上がったピースをスピルバーグさんに提出します。
それを受けて、リーダーでありコンセプトの構想者であるスピルバーグさんがピースを組み合わせて映画へと再構成します。

競争戦略と全社戦略 p67

この章では、競争戦略の論理と思考様式について、なるべくそのエッセンスに絞ってお話ししたいと思います。
競争戦略を考えるうえで大切になるいくつかの前提から話を始めましょう。
論点は、①競争戦略の対象範囲、②競争戦略の目的、③利益の源泉、の三つです。
以下、この順にお話ししていきます。

まずは競争戦略の対象範囲です。
戦略には異なる二つのレベルがあります。
一つは競争戦略、もう一つは全社戦略です。
ここでのポイントは、両者を区別して考えるということです。

競争戦略(competitive strategy)とは、特定の業界、つまり競争の土俵が決まっていて、ある企業の特定の事業がその競争の土俵で他社とどのように向き合うのかにかかわる戦略です。
ここでの戦略思考の単位は企業全体ではなく、あくまでも特定の事業です。
ですから、競争戦略は事業戦略(business strategy)ともいいます。
メルセデス・ベンツとBMWは高級乗用車という業界で競争しています。
もう少し範囲を広げて自動車業界というくくりで見れば、メルセデスやBMWはトヨタ、日産とも競合関係にあります。
こういった特定の業界で競合他社に対していかに戦うかを決めるのが競争戦略です。

特定事業の競争戦略と別の次元にあるのが全社戦略(corporate strategy)です。
多くの企業は複数の事業分野を持っています。
われわれはどのような事業集合であるべきか。
複数の事業のバランスをどのように構築して、全社的に最適な事業ポートフォリオにするか。
そのために、どの事業に最も優先的に経営資源を振り向けるべきか。
どのような分野に進出して、どのような分野から撤退するべきか。
こうしたことを考えるのが全社戦略です。

「パナソニックとソニーは競争している」。
この文章は別におかしく聞こえませんが、厳密にいえば間違っています。
パナソニックとかソニーとかいうのは、会社の名前です。
ところが、会社という全社レベルでは、競争の実体はありません。
実際に顧客を向いた製品市場で競争しているのは、パナソニックとソニーではなく、たとえばパナソニックの液晶テレビ事業とソニーの液晶テレビ事業です。
このように事業レベルに下りて、初めて競争戦略の問題が出てきます。
パナソニックとソニーはいずれも多角化した企業として多くの事業分野を持っていますから、競争戦略とは別種の問題として、どのような事業のポートフォリオであるべきかという全社戦略を必要としています。

トヨタ自動車や日産自動車といった会社は、(厳密にいえば自動車以外の事業もあるのですが)基本的には事業構成のほとんどが自動車事業ですから、こうした専業企業の場合は、全社戦略と競争戦略は実質的に重なります。
ただし、自動車以外の業界に進出しようとする場合は、自動車業界の競争戦略とは別に、全社戦略を考える必要が出てきます。

GEは戦略的な経営に優れた会社として引き合いに出されることが多く、GEの戦略についての本もたくさんあるのですが、そのほとんどはGEの競争戦略よりも全社戦略に注目しています。
たとえば、ジャック・ウェルチさんがCEOだった時代に有名になった「ナンバーワン、ナンバー2戦略」は、業界で一位か二位になれる事業分野に集中投資し、それ以外からは撤退するという話です。
これは事業構成の組替えにかかわる戦略ですので、全社戦略に含まれます。

GEという会社全体を代表する経営者としてのウェルチさんにとっては、特定の事業への参入や撤退を意思決定し、個別の事業の成果を評価し、その事業に対する資源投入の水準を決めることが仕事になります。
GEが展開している個別の事業の競争戦略は、CEOの直接の仕事ではありません。
GE全体のCEOになる以前、ウェルチさんは一時期GEのプラスチック事業の責任者でした(GEプラスチックスの社長)。
この当時のウェルチさんにとっては、全社戦略は自分の仕事の領域外でした。
競争戦略をつくり、実行することが仕事だったわけです。

全社戦略と競争戦略は、もちろん相互に関係していますが、大きく性格が異なります。
ウェルチさんの自伝でも、事業責任者だった頃とGE全体のCEOになってからとでは、同じ経営者としての仕事であっても、その中身に大きな違いがあったと振り返っています。
戦略を考えるときは、この戦略のレベルの違いを意識し、両者を混同しないことが大切です。
この本では競争戦略の話をしています。
全社戦略は対象外です。

勝ち負けの基準 p70

競争戦略の二つ目の前提は、勝ち負けの基準です。
競争というからには勝ち負けがあります。
どの業界を取り上げてみても、そこには強い企業と弱い企業が混在しています。
なぜ、強い企業は強く、弱い企業は弱いのでしょうか。
競争戦略論という分野は、この問いに対して納得のいく説明、しかも場当たり的な説明ではなくて、統一的な視点に基づいた説明を与えることを目的としています。

この会社は強いとか、あの会社は弱いとか、イヤな言葉ですが「勝ち組」とか「負け組」とか、ふだん私たちはそういう言葉を自然に使っています。
ところで、われわれは何を基準にそういっているのでしょうか。
どういう状態が「勝ち」であり「成功」なのでしょうか。
つまるところ、企業経営は何を最大化するべきなのかという問題です。
一見すると当たり前のように見えますが、改めて考えてみると、なかなかに込み入った、そのために誤った理解を招きやすい問題です。

企業がめざすべきゴールとは、本当のところ何なのでしょうか。
勝ち負けを判定する基準として大切そうなものをとりあえず七つばかり並べてみました。

①利益
②シェア
③成長
④顧客満足
⑤従業員満足
⑥社会貢献
⑦株価(企業価値)

皆さんはこのうちのどれが最も大切だと思いますか。
人によっては「すべて大切だ」と答えるかもしれません。
ここで挙げた七つはいずれも何らかの意味での「成功」の基準ですから、すべて大切だといってしまえばそのとおりなのですが、あえて優先順位をつけるとすれば、一番大切なのはこのうちのどれか、という質問です。

競争戦略の考え方では、答えは①の「利益」です。
もう少し詳しくいうと、「長期にわたって持続可能な利益」です。
戦略論ではSSP(Sustainable Superior Profit:持続可能な利益)といったりします。
長期とは具体的に何年くらいかと聞かれると困ってしまうのですが、少なくとも四半期の単位の瞬間風速的な利益ではなく、五年、一〇年と持続可能な利益を追求するというのがまっとうなゴールの置きどころです。

p72

しかし、シェアを大きくすることそれ自体はいたって簡単なことです。
経営の難しそうな複雑な会社であっても、私にお任せいただければ、(私でさえ)さまざまな製品分野でたちどころにシェアを一〇ポイント上げることをお約束できます。

どうするかって?
まずは、価格をいきなり半額にします。
生産能力さえあれば、出荷台数ベースではもちろん、金額ベースでも相当にシェアを大きくすることができるでしょう。
つまり、シェアを大きくしようと思えば、極端に攻撃的な「低価格戦略」をとればいいだけのことです。

しかしこの「低価格戦略」の問題は、利益が出ないどころか、そのうちに会社がつぶれてしまうということです。
シェアが大切なのは、それが一般には利益と高い相関関係を持っているからです。
競争戦略についての古典的な研究で「PIMS研究」といわれているものがあります。
PIMS研究がもたらした一つの重要な発見事実は、「シェアと収益性には正の相関関係がある」というものでした。
なぜそうなるのかという論理についてもPIMS研究はいろいろなことを教えてくれるのですが、それはさておき、利益を出すという目標を達成するための重要な手段の一つとなりうるという意味で(というか、この意味においてのみ)、シェアが大切になるのです。
もちろん一時的に利益を犠牲にして、シェアを追求するという戦略はありえます。
しかし、この場合でも、将来期待できる利益を得る手段としてのシェアの追求であることに変わりはありません。
ゴールとして優先するのはあくまでも利益なのです。

事業家と投資家の違い p80

だからといって、私は時価総額極大化をダイレクトに「ねらって」いた一九九九年のソフトバンクや孫さんを批判するつもりはありません。
時価総額極大化経営は、当時のソフトバンクに限っていえば、むしろ理屈からして正しいことだったと思います。
先に引用したインタビューの続きで、孫さんはこう言っています。

われわれは、出資先をインターネット関連の企業に絞り、一つの会社に二〇から三〇%ぐらいまで出資する。
経営に影響を与える程度は出資し、それでいて経営をコントロールしないのです。
… (中略) …従来の財閥や企業グループでは、親会社がグループ企業の株式の五一%以上を持ち、グループ企業には全部同じブランドをつけ、同じような規則や社歌までつくり、さらに同じロゴマークまで採用した。
これに対してソフトバンクは、意図的に株式の五一%以上は持たない。
ブランドネームやロゴマークも統一しない。
それぞれがバラバラに、勝手に成長していく。

これは何を言っているかというと、要するに孫さんはソフトバンクを、事業をする会社ではなく投資会社としてはっきりと位置づけていたのであり、自分を投資家として定義していたという話です。
そうであれば、「時価総額極大化経営」はまことに自然な話です。
投資会社を率いる投資家が利益よりも時価総額極大化を優先してねらうのは、今も昔も当たり前です。

p84

いうまでもなく、会計上の営業利益や経常利益の絶対額で企業のパフォーマンスを測るというのは乱暴に過ぎます。
実際は、ROS(売上高利益率)、ROA(総資本利益率:税引後利益を総資産で割ったもの)、ROE(株主資本利益率:税引後利益を総株主資本で割ったもの)、EPS(一株当たり利益)、一株当たりキャッシュフロー、ROIC(投下資本収益率)といったさまざまな「比率」で利益を捉える必要があります。
ただし、いずれの比率を使うにしても、分母が変わるだけの話で、おおもとはすべて利益です。
分子にある利益がなくては話になりません。
リストラその他のさまざまなテクニックで分母を小さくすれば、利益成長なしにこうした比率を良くすることもできなくはないのですが、それは本筋ではありません。

利益とはつまるところ、収入からコストを引いたものです。
お客さんが支払ってくれる金額の水準とそれを得るのにかかる金額の差分です。
子どもでも理解できる非常にシンプルな尺度です。
だからこそ、ねらうべきゴールとして有効なのです。
投資家や金融機関など、企業を外部から評価する立場は別にして、企業経営の立場に立てば、目標設定が客観的で包括的で精緻かどうかよりも、組織の中のさまざまな人々に浸透し、共有され、ねらうべきゴールとして軸がぶれないことのほうがずっと大切です。
あまり複雑な指標で成果をこねくり回してしまうと、せっかくのシンプルであることの強みが損なわれ、何のために何をやっているのかがわからなくなり、会社が変な方向に走ることにもなりかねません。

インターネット・バブルの頃はNOPLAT(Net Operating Profits Less Adjusted Taxes:みなし税引後営業利益)やEBITDA(Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation and Amortization:金利税金減価償却費差引前利益)といった複雑な指標が、特にアメリカでは注目を集めました。
繰り返しますが、企業を外部から評価する投資家や彼らのために仕事をしているアナリストがどのような物差しを使おうと勝手です。
しかし、企業がこのような複雑な指標を経営のゴールにしてしまった結果、経営者や働いている人々の努力の方向が、持続的な利益を出すという本筋からどんどん外れてしまったというケースは少なくありませんでした。

この背景には経営者の報酬システムの問題や、それによってゆがめられた経営のモラルハザードなどさまざまな問題があります。
最近ではこの種の複雑な経営指標に対する懐疑の声が大きくなってきました。
EBITDAはEarnings Before I Tricked the Dumb Auditor(もの言わぬ監査役をペテンにかける前の利益)の略だとか、むしろEPITDA(Earnings Post-Indictment, Trial, Denunciation and Arrest:起訴、裁判、告発、逮捕の後の利益)だとか、この種の冗談が言われるようになったのも、そのような成り行きです。

業界の競争構造 p85

企業が一義的に追求するべきゴールが利益だとすれば、次に押さえておきたいのは、利益はどこから生まれるのかという「利益の源泉」についての理解です。
戦略論の考え方からすると、企業が生み出す利益には、いくつかの源泉があります。

第一の利益の源泉が、「業界の競争構造」です。
世の中にはそもそも利益を出しやすい業界と、利益を出しにくい業界がある。
業界の利益ポテンシャルに影響を与える要因は何か。
これが業界の競争構造という問題です。
もし皆さんがこれからフリーハンドでゼロから事業を始めるという立場にあれば、業界の競争構造を理解することは、とりわけ重要な意味を持っています。
利益が出やすい業界を注意深く選び、利益が出にくいような構造にある業界への参入を避ける、この戦略的選択がとても大切になります。

業界の競争構造という話は、引越しにたとえるとわかりやすいでしょう。
暑い夏や寒い冬を過ごすのが嫌で、快適な生活をしたいと考えている老夫婦が引越しを検討しているとします。
彼らがまず考えるのは、「どこに住むか」ということでしょう。
東京や大阪は夏の暑さが厳しいですし、かといって北海道では冬がきつい。

いずれにせよ、自分たちの目的を達成するためにこの老夫婦が考えるべきことは、どの町に住むかということであって、どういう家を建てるかは二の次の問題です。
もちろん冷暖房を完備した断熱材たっぷりの家を建てたほうが快適なわけですが、そもそも住むところが厳寒酷暑の地であれば意味がありません。
ここでいう「どこに住むか」が競争する業界の選択という問題です。
ハワイであればごく簡素な家でも快適に暮らせるでしょうし、北極に住むということになれば、要塞のような特殊な家を建てないことには快適どころか生命の危機に瀕してしまいます。

p87

GEは世界を代表する高収益企業です。
この背景には、参入すべき業界についての冷徹な判断があります。
GEが手がけている事業は、製造業について見れば、航空機エンジンやエネルギーなどのインフラストラクチャー事業、プラスチックやシリコンなどの産業財事業、医療用機器、バイオなどのヘルスケア事業と、いずれも何らかの理由で参入障壁が高く、競争業者がある程度限定されている分野に限られています。
ヘルスケアも航空機エンジンも競合の数はせいぜい三社四社です。
そこで買収をテコにしながら徐々に寡占状態をつくっていくのがGEの戦略です。
会長兼CEOのジェフ・イメルトさんは「私は三二社が競争する携帯電話や一五社が競合するノートPCのような世界は好きではない」と言い切っています。
まさに「どうやって戦うか」よりも「どこで戦うか」を重視重視する考え方です。

p88

競争戦略論の有名な分析枠組みの一つに、マイケル・ポーターさんが確立した「ファイブフォース」があります。
ファイブフォースについては聞いたことがある方も少なくないと思います。
これはある業界の競争構造が儲かりやすいようになっているかどうかを分析し、理解するためのフレームワークです。
ポーターさんご自身の本はもちろん、多くの競争戦略の教科書に必ず出てくる話なので、ここでは内容の詳細には立ち入らず、その基本的な考え方だけを押さえておきたいと思います。

このフレームワークの前提はシンプルです。
どんな業界でも、その業界の利益を奪おうとする圧力(force)がかかっています。
これらの圧力が大きければその業界の潜在的な利益機会は小さくなり、逆に圧力がそれほどなければ潜在的な利益機会が大きくなります。
圧力には次の五つの種類があります。

その第一の圧力が、「業界内部の対抗度」です。
対抗度(rivalry)というのは聞き慣れない言葉ですが、その業界にすでに参入している既存企業の間の競争の激しさを意味しています。
対抗度はさまざまな要因によって変わってきますが、たとえば、競争企業の数を考えてみましょう。
一〇〇社がひしめき合っているような業界よりも、三社だけしか参入していない業界のほうが利益を出しやすいのが普通です。
もし独占であれば対抗度はゼロになります。

市場の成長性も対抗度を左右します。
急速に成長している業界では、市場全体が毎年大きくなっていくのですから、新たに開拓される更地をどの企業が獲得するかという競争になります。
しかし、成長が止まってしまった業界では、どこかの企業が成長するということは、どこかが売上やシェアを減らすということになります。
これは「朝起きたら、隣の家の塀が二メートル自分の敷地に踏み込んできた」という話なので、更地の取り合いよりも対抗度は高くなります。

対抗度が高い業界の典型例が航空業界です。
今、東京からニューヨークに飛ぶとして、あなたは何を基準に航空会社を選びますか。
機内サービスや出発・到着時刻など、多少のサービスの違いがあったとしても、結局は運賃の安い航空会社を選ぶ人が多いでしょう。
つまりは価格競争です。
価格という単一の軸で競争をせざるをえなければ、対抗度は非常に大きくなります。

「業界内部の対抗度」が、すでに参入している企業間で現実のものとなっている競争に注目しているのに対して、第二の圧力である「新規参入の脅威」は潜在的な競合関係を問題にしています。
今その業界に参入している企業が平均的に見て高い利益水準を達成していれば、その業界に参入しようと考える企業もまた多いでしょう。
しかし、参入するにはコストがかかります。
このコストのことを参入障壁といいます。
誰でも簡単に入っていけるような業界であれば、参入を阻止するために価格を低く設定する、といったことが必要になります。
結果としてその業界の利益機会は小さくなってしまいます。

参入障壁が高い業界の例として、写真フィルム業界があります。
写真フィルムの製造は大変な投資を必要としますし、販売チャネルを構築していくのも気が遠くなるほどの努力を要します。
写真フィルムメーカーはかなりの利益を長年にわたってあげ続けていました。
それでもなかなか参入業者が現れなかったのは、それだけ参入障壁が高いからです。

その一方で、現在の写真フィルム業界は、第三の圧力、「代替品の脅威」にさらされています。
デジタルカメラの急速な台頭で、デジタルメディアとプリンタがあればフィルムを買わなくても済んでしまいます。
このように、代替品とは「買い手にとって同じ機能やニーズを満たし、しかもそれを手に入れれば、もともとあった製品が必要なくなってしまうような製品」を意味しています。

競馬と競輪と競艇は、いずれもギャンブルですから、買い手から見た価値は「ドキドキハラハラしながら、あわよくばひと山当てる(という期待を持つこと。現実にはそんなうまい話はほとんどないのですが)」です。
この意味で買い手にとって同じ機能やニーズを満たす関係にあります。
しかし「競馬をやれば競輪はもういいや」とはいかないことに注意が必要です。
競馬の負けを競輪で取り返し、それでもダメだったら競艇で勝負するという人は少なくありません。
このような関係は代替ではなく「補完」といいます。

今、和文タイプライターを使っている人は、よっぽどの和文タイプ・マニア(?)を別にすれば、ほとんどいないでしょう。
ワープロという代替品が登場し、これに取って代わられてしまったからです。
また専用機としてのワープロを使っている人もごく少ないでしょう。
PC(で動くワープロソフト)という代替品があるからです。
代替品の脅威があれば、その脅威にさらされている業界の利益機会は小さくなります。
代替品は、右の例にあるように、既存製品よりも高いコストパフォーマンスを持つのが普通です。
その業界にとどまって競争しようとすれば、代替品よりも価格を引き下げて買い手を引きつけておかなければなりません。

第四と第五の圧力、「供給業者の交渉力」と「買い手の交渉力」は、製品やサービスの利益における競合関係に注目しています。
業界と供給業者、買い手はいつも利益の綱引きをしているという考え方です。
どんな業界でも投入資源(材料や生産機械や従業員や部品など)の供給業者を必要とします。
ですから、業界と供給業者との間には日常的に取引関係があります。
交渉力とは、この取引においてどちらがパワーを持つのかを意味しています。
供給業者の交渉力が強ければ、それは業界にとって脅威になります。
業界の利益が供給業者のほうに流れてしまうからです。
交渉力とは、利益の綱引きにおける力の強さにほかなりません。

その業界と買い手との間にも取引がありますから、ここにも交渉力の問題が出てきます。
買い手の交渉力が強い場合、その業界の利益機会は小さくなります。
つまりファイブフォースの考え方では、「お客さまは神様」ではなく、交渉を通じて利益を取り合っている「敵」ということになります。
交渉力の「弱いお客」が潜在的な利益をもたらす「良いお客」なのであって、「強いお客」は必ずしも良いお客ではありません。

こうして考えると、冠婚葬祭業界やパチンコ業界などは、買い手との綱引きの点で魅力的な構造にあるといえるでしょう。
結婚式を挙げるということはそうそうないことですし、これから結婚しようという二人は頭の中がぼんやりしていることが多いので、それほど懐に余裕がない場合でも、結構結婚式場の言いなりになって結婚式のプログラムや食事、衣装、お花などさまざまな「高い買い物」をしがちです。
葬儀業者とハードな価格交渉をしている遺族はあまり見かけません。
パチンコに至っては、お店が「もうやめたらどうですか。そんなにお金を使わなくても……」と勧めたとしても、「いや、頼むからもう少しやらせてくれ!」というお客さんが少なくないでしょう。
要するに交渉力は買い手よりも業界側が握っているわけです。

p97

以上で説明したように、ファイブフォースは五つの側面からその業界が直面している脅威の大きさを分析し、業界の利益機会を検討するためのフレームワークです。
この分析からは大きく分けて次の二つのことがわかるでしょう。

一つは、いうまでもなく、競争構造の分析によって町の住みやすさを知ることができるということ。
繰り返し強調しますが、利益の第一の源泉は業界の競争構造です。
幸いにして、皆さんの業界がファイブスターであれば、自然体で一所懸命やっていればまずまずの利益が期待できるでしょう。

もう一つは、戦略の必要性です。
実は、第二の利益の源泉が「戦略」なのです。
そもそもハワイに住んでいたら、極端な言い方をすれば、戦略は必要ありません。
自然体で暮らしていればよい。
しかしすべての企業が初めから住みやすい国に住んでいるわけではありません。
多くの企業は、北極とまではいかなくても、星が一個か二個しかつかない業界での競争を強いられています。

業界の競争構造の話の冒頭で、私はわざと「もし皆さんがこれからフリーハンドでゼロから事業を始めるという立場にあれば」という条件を設定しました。
しかし現実には、全く白紙状態から起業しようとするような人を別にして、フリーハンドで業界の選択をできる立場にある人はあまりいません。
特定の業界にすでに住んでいるという人のほうがずっと多いでしょう。
その業界の外から利益ポテンシャルを見極めようとするアナリストやコンサルタントや潜在的な新規参入者といったアウトサイダーにとっては、ファイブフォースはとても役に立つ考え方ですが、競争の当事者である業界のインサイダーにとっては、「今さらそんなこといわれても困るよ」という面があるのです。

業界の競争構造は、かなりの程度まで個別企業の努力を超えた環境要因ですから、いきなり業界全体をファイブスターに持っていこうとしても無理があります。
つまり、ほとんどの企業にとって、競争のフォース(圧力)は多かれ少なかれ受け入れなければいけない問題なのです。
そこで、第二の利益の源泉である「戦略」が必要になるわけです。

たとえ現時点でハワイのようなファイブスターの業界に住んでいる企業であっても、中長期的な観点に立てば、戦略は無視できません。
なぜかというと、ほとんどの業界において、星の数は時間とともに徐々に減っていくのが普通で、増えることはあまりないからです。

これには二つの理由があります。
その一つはまたしても競争です。
もしある業界がハワイであれば、そこは明らかに住みやすいのですから、多くの企業がぜひとも引っ越したいと考えるでしょう。
いくらある時点での参入障壁が高くても、なんとかしてそれを乗り越えるか、かいくぐるかして、その業界で暮らしたいものだと考えるはずです。
多くの企業にとって魅力的な業界であれば、時間とともに立て込んできて、だんだん住みにくくなってくるということが容易に推測できるでしょう。

もう一つは、マクロレベルの競争環境の変化です。
グローバリゼーションや技術革新、規制緩和といった大きなトレンドは、ほとんどすべてが競争の圧力を強め、以前は光り輝いていた星を一つまた一つと消していく方向に作用します。
つまり、マクロで見れば、やっかいなことに世の中は必ずといっていいほど利益が出にくいような方向へと進んでいくのです。

興味深い例題として、いくつかの業界を取り上げて、インターネットに代表されるITが、ファイブフォースのそれぞれの圧力にどのようなインパクトをいくつもたらしたかを考えてみてください。
小売業界の場合はどうでしょうか。
インターネットによってEコマース(電子商取引)が急速に普及しました。
それまでの小売業と比べて、Eコマースは実際の店舗を持たなくても済むので、参入障壁は飛躍的に低くなりました。
買い手である顧客は(「カカクコム」などの比較サイトを使うことにより)容易に商品を、特に価格に関して、これまでよりも格段に広い範囲で比較検討できるようになりました。
サプライヤーは、インターネットの出現で、小売業者を通さずに直接消費者に商品を売る可能性を手に入れました。
要するに供給業者や買い手の交渉力が増したということです。
新規参入が容易になり、差別化が難しくなったため、業界内部の対抗度も上がります。
このようにインターネットという新しい技術の登場は、結果的に業界の競争構造をより利益が出にくい方向へと駆動することとなりました。

インターネットが世の中に出てきた頃、全く新しいビジネスチャンスが拓ける、と多くの経営者が期待しました。
もちろん、アマゾンや楽天のように、インターネットの技術革新がもたらすチャンスを現実につかんで、大きな利益を上げるのに成功した企業もあります。
しかし、巨視的に見れば、インターネットの台頭で、かえって競争の圧力にさらされ、これまで享受できていた利益を失っている企業のほうがずっと多いのが実情です。
インターネットが業界の競争構造に与えるインパクトを考えると、これはごく自然な成り行きです。
グローバリゼーションにしても規制緩和にしても、マクロレベルの大きなトレンドは、ほとんどの場合、業界の競争構造を、利益が出にくいという意味で「悪化」させると考えておいていいでしょう。

インターネットという技術革新がもたらした機会を実際に利益に結びつけることができた企業にしても、それはインターネットが業界の競争構造をより魅力的にしてくれたからではありません。
必ずしも住みやすくない業界において、どのようにして利益を出すのかという戦略に長けていたからです。

逆にいえば、第一の利益の源泉である業界の競争構造がそれほど魅力的でなくても、第二の利益の源泉である戦略で勝負できれば、持続的な利益を獲得しうるということです。
北極であるPC業界にありながら、デルは長期利益を実現してきました。
航空業界はそれに輪をかけたようなド北極ですが、それでもサウスウエスト航空はずっと利益を出し続けていました。
スターバックスコーヒーがコーヒーショップ業界に参入した当時、アメリカのコーヒーショップ業界の状況は、客観的に見ればまるで魅力的ではありませんでした。
アメリカ人のコーヒー離れは傾向として完全に定着しており、コーヒーの需要はじりじりと下がっていたため、撤退する企業が相次いでいました。
そもそも当時のアメリカでは、温かい飲み物を飲まないという人が増えていたのです。
にもかかわらず、あとの章で詳しくお話しするように、スターバックスはこの業界で大成功を収めました。
デルやサウスウエストやスターバックスの利益はどこから来たのでしょうか。
いずれも魅力的でない業界の住人でしたから、第一の源泉にはまるで期待できません。
それぞれの企業の戦略が長期利益をもたらしたのです。

p102

体系的な目標設定が不可欠なのはいうまでもありません。
目標が設定されなければ、戦略もありえません。
しかし、ここではっきりさせておきたいのは、目標の設定それ自体は戦略ではないということです。
「二〇〇X年第2四半期までに営業利益率一〇%確保!これがわれわれの戦略だ」というのは、要するに戦略ではなく目標を言っているわけです。

ところが、実際の仕事の局面では、目標をきちんと立てていると、あたかも戦略を立てているかのような気になってくるということがよくあります。
つまり、「目標を設定する」という仕事が「戦略を立てる」という仕事とすり替わってしまいがちなのです。
その結果、戦略がはっきりしないままで終わってしまうというパターンです。
今思えば、バブル期にとんでもない拡大路線を突き進んだあげく玉砕してしまった企業には、戦略を突き詰めることなく目標が独り歩きしてしまったというケースが多くありました。

報告会でのプレゼンテーションに話を戻すと、目標の後に続くのは、決まって「どういう組織体制でいくのか」という話でした。
たとえば、これまで製品別に組織されていた営業部門を顧客サービスを強化するために顧客のタイプ別に再編成する、ある製品分野を強化するため、それに対応した事業部長直属の独立したチームをつくり、そこに精鋭を集中的に投入する、といった話です。
このような組織的な手立ては、戦略を実行するためには大切な要素です。
しかし、戦略そのものではありません。
この手の組織編成の話もまた戦略にすり替わりがちです。

驚くべきことに、その報告会では以上の目標と組織の話でプレゼンテーションが完結してしまうという発表が少なくありませんでした。
これで終わってしまえば、リーダーの戦略の中身とは、要するに「行け!思いっきりやってこい!……以上!」ということです。
目標はきちんと示されています。
どこに向かっていくべきかは明確です。
その目標に対して、どういう部隊編成で進んでいくのかも決められています。
しかし、どこをどうやって進めばいいのか、目標地点にたどり着くまでの道筋が全くわかりません。
目標を示して、隊列を整え、後は「行ってこい!うまくやれ……」(これにときどき「骨は拾ってやる」というのが続くこともある)で終わってしまえば、経営とはなんとも楽な仕事です。

「そんなことなら誰でもできますよ。リーダーである皆さんは高い給料を取って何のために存在しているのですか」と挑発的な発言をしてみたところ、ある人がこう言いました。
「『行ってこい!うまくやれ……』だけに聞こえるかもしれないが、話はそんなに簡単じゃない。
一言で部下を動かす迫力と統率力、そこが上司の腕の見せどころなんだよ……」。
これはこれで一面の真理を含んではいるのですが、戦略がないことには変わりありません。

話がもっと分析的な方向に進んでいくプレゼンテーションも少なくありませんでした。
この事業の総需要は今後五年間このように推移していくであろう、マーケット全体はこういうセグメントに分かれており、どこのセグメントが伸びて、どこが伸びないのか、といったような市場環境の分析です。
わが社の主要な競合企業としてはX、Y、Zの三社があり、それぞれはこんな方向で進んできている、といった競合についての分析がそれに続きます。
この種の環境の分析をどんなに精緻に積み重ねていっても、その延長上に自然と戦略が出てくるわけではありません。
しかし、こうした分析をきちんとしていると、やはり戦略を立てている気分になってくるものです。
これもまたすり替わりです。

p107

最後に、「気合と根性」。
その事業戦略報告会では、多くのプレゼンテーションがこうした言葉で締めくくられました。
「目標を何としてでも達成するという不退転の決意で臨む」「さまざまな困難が予想されるが、意のあるところ必ず道は拓けると信じている」……。
要するに気合と根性です。
「最後はなんとかする。われわれの総力を有機的に結集すれば、必ずなんとかなる」という「念力」といったほうがいいような論理(?)が出てきます。

この本の冒頭でお話ししたように、気合と根性が大切だということはもちろん否定しません。
会社にとって一番大切なことかもしれません。
しかし、「大切にする」と「依存する」ではまるで違います。
気合と根性に寄りかかったリーダーからは、戦略は出てきません。
顧客は自社の言いなり、供給業者も頭を下げてくる、新規参入はありそうもない、といった「ハワイの住人」にとっては、戦略はそれほど必要ありません。
戦略とは、ある意味では「北極の住人」の発想です。
「最後はなんとかなる……」ではなく、むしろ「放っておいたら絶対になんともならない」というのが戦略的な思考です。

「違い」をつくる p109

一見すると戦略のようで、その実「戦略でないもの」をここまで見てきました。
だとしたら、戦略とは何でしょうか。
前の章でも簡単に触れたように、競争戦略の第一の本質は「他社との違いをつくること」です。
競争の中で業界平均水準以上の利益をあげることができるとしたら、それは競争他社との何らかの「違い」があるからです。

「競争がある中で、いかにして他社よりも優れた収益を達成し、それを持続させるか、その基本的な手立てを示すものが競争戦略です」と先ほど述べましたが、「競争がある中で」というところをわざわざ強調したのにはわけがあります。
競争というのは、要するに「放っておいたら儲けが出ない状態」のことを意味しています。
経済学を多少かじったことのある人ならば、「完全競争」という言葉を聞いたことがあるでしょう。
理屈は経済学の教科書に譲りますが、もし経済学のいうような「完全な」競争になってしまえば、企業の儲け、すなわち余剰利潤はゼロになります。
企業である以上、利益を出すことはさも当たり前のように思うかもしれません。
しかし、競争というものの本来の性質を考えると、競争があるにもかかわらず利益が出ているというのは、実はとても不自然でもろい状態なのです。

このように考えると、一見お隣同士に見える経済学と経営学が、基本的なものの考え方において、実は正反対を向いているということがわかります。
経済学者は完全競争の状態を基本的には「良い」ことであると考えます。
なぜならば、この状態で世の中が最も「効率的」になるからです。
「市場原理を徹底させろ」というような主張は経済学者の典型的なものの考え方です。
独占禁止法といった法制度も、その根底には完全競争による効率を尊重する思考様式があります。

競争戦略は個々の企業の間にある差異にこだわります。
経済学が想定する完全競争になってしまえば利益は出ない。
だとすれば、利益を出すためには、経済学でいう完全競争の前提を壊せばいいわけです。
それは「みんな同じ」という前提です。
完全競争の世界では、個々のプレイヤーには「顔」がありません。
しかし、プレイヤーの間に違いがあれば、完全競争にならないので、利益を生み出すチャンスが拓けます。
これが競争戦略の一番根本にある考え方です。

「競争が厳しくて儲からない」という嘆きは、古今東西いつでも世の中に渦巻いているわけですが、それがむしろ自然な成り行きです。
本書をお読みの方々の中には赤字に苦しんでいる方もいるでしょう。
理屈からいえば、恥じる必要はありません。
ぜひ堂々と「儲からないよ!」と主張してください。
(完全な)競争状態というものは、そもそも儲からないようにできているのです。
競争がある中で、どうやって儲けるのか。
これは、はなからやっかいな問題なのです。
競争があるにもかかわらず儲かるという「不自然な状態」をなんとかつくり上げて維持しましょうというのが競争戦略に突きつけられた課題です。

どんなにきちんと目標を定め、隊列を整え、環境を分析し、気合を入れたところで、競合他社との違いがなければ、すぐに競争の荒波に呑み込まれてしまいます。
言い換えれば、競争とは企業間の「違い」をなくす方向に働く圧力だといえます。
競争がある状況では、放っておけば「違い」はどんどんなくなってきます。
「違い」がなくなってしまえば、あとに残るのは(コスト優位の裏づけのない)単純な価格競争です。
こうなってしまえば、利益は出ないのが理屈です。

幸いなことにファイブスター業界に住んでいて、自然体で経営していれば利益が出ます。
しかし、おいしい業界はそうそうありません。
あらゆる業界は少なくとも潜在的には必ず何らかの圧力に直面しています。
「天国に行くための最良の方法は、地獄に行く道を熟知することである」というのは天才的な政治学者マキャベリの言葉です。
もし自社の業界があまり星のつかない業界であったとしたら、その業界の中で競合他社に対して「違い」を構築する必要があります。

「違い」には「違い」がある p111

ここで強調したいのは、他社との違いを考えるときに、二つの異なったタイプの違いがあるということです。
話をわかりやすくするために、あなたの身近な人、家族の誰かかお友達を一人思い浮かべてください。
あなたとその人の違いは何でしょうか。
違いであれば何でもよいので、すぐに思いつくものから順に一〇個を挙げてみてください。

たとえば、身長とか、性別とか、年齢とか、髪型とか、体重とか、職業とか、趣味とか、血液型とか、さまざまな違いが見つかったと思います。
さて、そうしたあなたとその人との違いを、何らかの切り口で二つのグループに分けてください。
どういう分類を思いつきますでしょうか。

「変えられるもの」(たとえば、髪型)と「変えられないもの」(血液型)とか、「見ればわかるもの」(身長)と「見ただけではわからないもの」(趣味)とか、これまたいろいろな分類の切り口があると思います。

ここで注目する切り口は、「程度の違い」と「種類の違い」という分類です。
程度の違いというのは、その違いを指し示す尺度なり物差しがあるというタイプの違いです。
右に挙げた例でこのグループに入るのは、「身長」「年齢」「体重」です。
「髪型」も「髪の長さ」と捉えれば、このグループに入ります。
これらの違いに共通するのは、その背後に何らかの物差しがあるということです。
英語の形容詞でいう比較級としての違いといってもよいでしょう。

二つ目のグループは、「種類の違い」です。
このグループには、「性別」「職業」「趣味」が含まれます。
種類の違いには、それを指し示す物差しがありません。
性別でいえば「私はこの人よりも三〇%男性である」ということは普通ありません(ごくたまにはありますが)。
「髪型」も髪の長さよりもスタイルとして捉えたならば、こちらに入るでしょう。

すでにお話ししたように、「違いをつくる」ということが競争戦略の本質なのですが、そこから先は「違いの中身」や「違いのつくり方」について、二つの異なるパラダイム(基本的なものの見方)があります。
茶道の世界に表千家と裏千家があるように、競争戦略論にも二つの違った「流派」があるのです。
「表千家」と「裏千家」とでは、ここで見た二種類の違いのどちらを重視するかが違ってきます。

結論を先取りすれば、この二種類の違いのうち、「種類の違い」を重視するのが表千家で、こうした考え方を「ポジショニング」といいます。
一方の裏千家は、どちらかというと「程度の違い」に競争優位の源泉を求める考え方で、ここでカギとなるのが「組織能力」という概念です。
詳しくはこれからお話ししていきますが、ここで押さえておきたいポイントは、この二つの基本的な戦略観では意図する違いのタイプが異なる、ということです。

表千家と裏千家との違いを説明するために、レストランの例を考えましょう。
料理がとてもおいしいという評判で流行っているレストランがあるとします。
なぜ評判が良いのでしょうか。
その料理を考案したシェフのレシピが優れているのかもしれません。
使っている素材や料理人たちの腕やチームワークが良いのかもしれません。
シェフのレシピに注目するのがポジショニング(SP:Strategic Positioning)の戦略論です。
これを、以下ではSPの戦略と呼びます。
厨房の中に注目するのが組織能力(OC:Organizational Capability)に注目した戦略で、これをOCの戦略と呼びます。
順に、それぞれの中身を見ていきましょう。

ポジショニング――シェフのレシピ p114

ポジショニングとは「位置取り」のことです。
SPの戦略論では、戦略とは企業を取り巻く競争環境の中で「他社と違うところに自社を位置づけること」です。
もっと平たくいえば「他社と違ったことをする」、これがSPの戦略論の考える競争優位の源泉です。

かつての松井証券は小さな「株屋さん」でしたが、個人の株取引では大手企業をしのぐ存在になりました。
松井証券が急成長したのは、証券業界の中で「他社と違ったことをした」からです。
何をするべきか、事業を構成するさまざまな活動の戦略的選択がはっきりしていました。
まず、従来の証券会社の「営業」から手を引き、インターネットの株式取引の仲介に特化しました。
ターゲットは法人顧客や、たまに株を売買することもあるというごく普通の個人投資家ではなくて、頻繁に株の売買を繰り返す、知識がかなり豊かでやる気満々の個人投資家です。
手数料が自由化された後の競争の激化を受けて、多くの証券会社が「コンサルティング」の名の下にきめ細かい情報提供を伴うサービスを強化しましたが、松井証券はその種の複雑な業務に手を出さず、売買仲介に集中しました。

このような松井道夫料理長の描いた「レシピ」に注目するのがSPの戦略論です。
のんべんだらりとすべてをやろうとしても他社との違いはつくれません。
何をやるかをはっきりさせて、違ったことをやろうというのがSPの発想です。
「選択と集中」という言葉は、SPを意味しているといってよいでしょう。

p116

液晶モニターの視野角度が広い、プレインストールしてあるソフトの種類が多い、バッテリーの持続時間が長い、耐久性が高い、薄くて軽い、といった一連の違いは、ポジショニングという考え方からすれば、戦略ではありません。
なぜならば、そうした違いは、身長や年齢や体重と同じように、いずれも程度の違いにすぎないからです。
SPの戦略論は、程度問題としての違いをOE(Operational Effectiveness)と呼び、SPとは明確に区別して考えています。
戦略はSPの選択にかかっており、OEの追求は戦略ではない、というのがポジショニングの考え方です。
つまり、戦略とは doing different things であり、 doing things better ではないという発想です。

なぜ、ポジショニングの戦略論はSPの違いを重視するのでしょうか。
少なくとも三つの理由があります。
第一に、OEは賞味期間が短いということです。
薄くて軽くてバッテリーが長持ちするPCは確かにベターではあります。
競合他社もより薄く軽く長持ちするように自然と頑張るでしょう。
この意味で程度問題としての違いをめぐる競争は、PC業界の業界最小最軽量競争のように「いたちごっこ」になりやすく、はっきりとした違いをつくれずに消耗するだけで終わってしまう危険性があります。

第二に、SPがはっきりしていないと、企業はすべての要素をベターにしようと努力の方向を拡散してしまい、その結果、報われないことにお金を使ってしまうという問題です。
「視野角度が他社よりも広い」ということそれ自体は、決して悪いことではありません。
しかし視野角度を一度広げるには、それなりの開発コストがかかっているはずです。
バッテリーの持続時間を一分増やす、インストールしてあるソフトを一本増やす、一ミリ薄くする、一グラム軽くする、こうしたことはいずれもコストを伴っています。
そのコストが果たして報われるかどうか、それはSPに立ち戻ってみないとわからないのです。

p118

このことと関連して第三に、あるOEの物差しの上で右に行くのがベターなのか、それとも左に行くほうがベターなのか、SPがはっきりしていなければそもそもこのこと自体がわからないという問題があります。
PCの例で考えても、「サービス対応がきめ細かい」とか「製品のラインアップが充実している」といったOEが本当にベターかどうかは、ポジショニングとの兼ね合いでしか決まりません。
第二の理由として指摘した「ベターにするためのコスト」を考えあわせると、「充実している」製品ラインは、もしかしたらより悪いことなのかもしれないのです。

SPの視点に立てば、先のエピソードに出てきたさまざまな「違い」のアピールは、OEを列挙しているだけであって、実際は効果的な戦略になっていないということがわかると思います。
明確なSPの違いが「なかった」ことが、多くの日本の総合エレクトロニクスメーカーのPC事業の業績悪化の背景にあったといえるでしょう。
そもそも「総合」という言葉自体がSPの欠如を露呈しているということになります。

ポーターの競争戦略論 p118

ここで勘の良い人ならば、あることに気づくでしょう。
「利益を出すためには、まずは儲かりやすい業界とそうでもない業界を見極めることが大切だ。
もし、利益の極大化がビジネスのゴールであれば、PCのような利益が出にくい業界で競争すること自体がそもそも間違っているのではないか……」という疑問です。

SPの考え方からすれば、これは至極まっとうな疑問です。
大きな広がりを持つ競争空間の中で自社をどこに位置づけるのか、というのがSPですから、経営者がまず考えなければならないのは、「そもそもどの業界に参入し競争するのか」という問いかけにほかなりません。
利益が出やすいような構造にある業界で仕事をするに越したことはないのです。
つまり、業界の競争構造を一つ目の利益の源泉とする考え方は、SPの発想に基づくものです。

すでにお話ししたように、(もちろん実際には年収の極大化をねらったわけではないでしょうが)松井秀喜選手は野球という種目を選択しました。
この競争すべき業界の選択が、そもそもポジショニングの第一歩だということになります。
しかも、松井選手は日本のプロ野球からメジャーリーグへと競争の土俵を替えました。
さらに、所属チームは人気と資金力のあるヤンキースを選択しました(現在は、ロサンゼルス・エンゼルスに所属)。
ポジションは相対的に手薄だった外野手です。
SPの戦略論は、このように業界の選択から始まって、その中でどこに自分を位置づけるか、さらにその中で……、というように、階層的にポジショニングの選択を繰り返していくという考え方です。

そもそも表千家の戦略論の家元とでもいうべき人が、ファイブフォースの考案者であるマイケル・ポーターさんその人です。
ポーターさんの戦略論はどこがすごかったのでしょうか。
それは、それ以前の古典的な戦略論と比べてみればよくわかります。

ポーターさんによって表千家が確立される前の戦略論には、「ビジネスポリシー」というラベルがついていました。
ビジネスポリシー時代の戦略論は、一言でいってしまえば、戦略策定に有用な手続きや技法の寄せ集めでした。
代表的な例が前章でも触れたSWOTです。
この他にも、製品/ミッション・マトリックスや多角化マトリックス、ディシジョン・ツリー、PPM、経験曲線といったさまざまなツールが開発され、戦略策定の手順が精緻化されていきました。
この辺の話は、戦略論のクラシックである『戦略策定』という本に詳しいので、興味のある方は一読をお薦めします。
このようにごく初期の戦略論は、戦略を策定するために有用な技法を開発し、経営者の戦略的な意思決定のために役立つ手続きを明らかにするという性格のものでした。

ポーター戦略論も、ファイブフォースだけでなく、基本的な競争戦略の類型論や戦略グループといったさまざまなフレームワークを提示しています。
しかし、以前の戦略論と決定的に違うのは、使われた概念や提案されたフレームワークのすべてが一つの論理、すなわち「ポジショニング」という考え方で貫かれているということです。
ポーターさんは「他社と違ったユニークな存在であるということが利益へのカギだ。
そしてユニークさとは企業のポジショニングの問題である」と断言します。
ポーター戦略論は、個別の技法を超えて、一つの論理で一貫して組み立てられた思考体系です。

ポーターさんを家元とする表千家の戦略論にしても、全くのゼロから突然生まれたわけではなくて、そのベースには経済学の一分野である産業組織論があります。
産業のあり方が企業の行動を規定し、その結果としてその産業の収益性が予想され、ひいてはその産業に所属する企業の収益性も予想できるという考え方です。
経済学の一分野である産業組織論は、産業の余剰利益はそもそも社会に帰属すべきものであって、望ましい状況ではないという前提からスタートしていました(だから独占禁止法などによって、「魅力的な構造」が定着するのを規制しなければならない、という発想が出てくる)。
SPの戦略論は、ある意味では産業組織論の発想を逆転させたものです。
魅力的な構造を持った業界であれば、余剰利潤を得られるだろう、というわけです。

いずれにせよ、それまでの戦略論には、理解の体系の基盤となるような骨太の論理がありませんでした。
戦略論に一貫した論理を初めて持ち込み、戦略を「論」として確立したということにポーター戦略論の最大の貢献があります。

逆説的な話ですが、業界の競争構造という考え方は、競争ではなく、むしろ「無競争」に注目しています。
競争があるという前提で競争に勝つ、というよりも、正面から競争をしなくても済むような位置取りを見つけようという考え方です。
平たくいえば「うまいこと儲かるところに身を置こう」という発想です。

しかし、仮にそういう業界が見つかったとしても、その業界が魅力的であるということの一つの重要な理由は参入障壁の高さにありますから、実際にその業界のプレイヤーとなって利益を獲得するのはそもそも困難であるのが普通です。
どこかに儲かりやすいビジネスがあるはずだ、という業界の競争構造に注目する考え方が本来的にアウトサイダーの視点に立っているというのは、この意味です。
一世を風靡したポーターさんの最初の著作『競争の戦略』は、その本質からすれば「無競争の戦略」といったほうがよいのかもしれません。

トレードオフ p122

前章でも触れたマブチモーターは、「北極」といってもよいモーター業界で持続的に利益をあげていた、SPの戦略のお手本のような企業です。
同社のシェアは一貫して五〇%以上、売上高経常利益率は一九七五年以来三〇年間、平均して二五%以上の高水準にありました。
低価格の汎用部品メーカーとしては驚異的な高収益企業であるといえるでしょう。

持続的な高収益のカギを握るのが、小型ブラシつきモーターに特化し、そこでモーターの標準化を進めるというマブチの戦略です。
同社に独自のSPは、セットメーカーに合わせてさまざまだった小型モーターを、限られた種類のモーターへと標準化したことでした。
ユーザーがマブチの標準モーターを買うようになると、さらに規模の経済がコストを下げ、マブチに価格競争力をもたらすという好循環が生まれました。

競争相手に対するマブチの競争優位は、結局のところ低コストや短納期、安定供給といった「程度の問題」ですから、表面的にはOEであるように見えます。
しかし、重要なことは、そうした実現された競争優位の背後には、明確なSPの裏づけがあり、これらのSPがあってこそ、低コストや短納期が実現できているということです。

SPの戦略とは活動(activity)の選択、つまり「何をやり、何をやらないか」を決めるということです。
マブチはある種類の小型モーターに特化し、それ以外のタイプのモーターには手を出していません。
標準化にこだわるということは、カスタマイズした製品は手がけないということです。
この例からわかるように、明確なポジショニングによる違いを構築するためには、「何をやるか」よりも、「何をやらないか」を決めることがずっと大切です。

なぜかというと、SPの戦略論を支えているのは「トレードオフ」、つまり「あちら立てればこちらが立たぬ」という論理だからです。
標準化とカスタマイゼーションを同時に推し進めることはできません。
投入できる資源には限りがあるので、同時にすべてのことをやるのは不可能です。
資源が分散し、利益が相反します。
裏を返せば、「何をやらないか」をはっきりさせれば、他社との違いを持続させることができるという論理です。

p124

デルはトレードオフとしてのSPを突き詰めた戦略をとっています。
デルといえば「ダイレクト・モデル」が有名です。
その中身は、多くの方がご存じのように「コスト競争力」「受注生産」「直接販売」といった要素からなっています。
しかし、こうしたことをより正確にいえば、「最先端の技術を追いかけず、コモディティになった製品分野しか手を出さない」「見込み生産をしない」「外部のチャネルを使わない」というように、デルは何をしないかをはっきりと決めているわけです。
これがトレードオフを重視する思考様式です。
先ほどお話しした他のPCメーカーが、薄いとか軽いとか速いとかのOEに終始していたのと対照的です。
「どのような違いをつくっていますか」という問いかけに対して、デルのように「何をしないか」に注目した答えが次々と出てくるのであれば、SPの戦略が明確な会社であるといえるでしょう。

このようにSPとは、競争上必要となるトレードオフを行うことにほかなりません。
逆にいえば、トレードオフが存在しないのであれば、何も選択する必要はなくなり、ポジショニングも必要なくなります。
しかし、その場合にはどんなに良いアイディアでも、すぐさま競争相手に模倣されてしまうでしょう。
だからこそ、「何をやらないか」という選択が大切になるのです。
ポジショニングの戦略論の根底には、このシンプルな論理があります。

組織能力 厨房の中 p125

ここまで、表千家にあたるSPの考え方を説明してきました。
これに対して、裏千家にあたるのがOC(組織能力)です。
SPが「他社と違ったことをする」のに対して、OCは「他社と違ったものを持つ」という考え方です。
SPがシェフのレシピだとすれば、OCは厨房の中に注目する視点です。
冷蔵庫の中にある素材とか料理人の腕前に違いの源泉を求めます。

SPの戦略論が企業を取り巻く外的な要因(その際たるものが業界の競争構造)を重視するのに対して、OCの戦略論は企業の内的な要因に競争優位の源泉を求めるという考え方です。
SPの考え方を説明するときに松井選手の例を使いました。
野球という種目を選択する、外野手という(文字どおりの)ポジションを選択する、同じプロ野球でも、日本ではなくアメリカのメジャーリーグを選択する、ヤンキースに所属する、といった「活動の選択」がSPだとすると、松井選手のバッティングセンス、スイングスピード、その背後にある動体視力や筋力、さらには精神的な成熟に注目するのがOCの戦略論です。

つまり、「競争に勝つためには独自の強みを持ちましょう」という考え方です。
こういってしまえば当たり前のように聞こえるのですが、大切なのは、ここでいう「独自の強み」とは何なのかということです。

OCの戦略論の起源は、経営資源という観点からその企業に固有の強みや弱みを考える資源ベースの企業観(RBV:Resource-Based View of a firm)という理論にあります。
経営資源とは、企業に蓄積・保有されているヒト、モノ、カネ、情報、知識といった企業活動に必要な要素の総称です。
しかし、すべての経営資源がOCとなるわけではありません。

OCは無数にある企業の経営資源の中のごく一部を指す概念です。
どこの会社にも事務所があるでしょうし、そこには鉛筆や電話やファクシミリやコピー機があります。
金額の大きさは別にして預金残高もあるでしょうし、従業員もいます。
このようなヒト、モノ、カネはいずれも企業活動に必要な経営資源ですが、競争優位の源泉としてのOCとはいえません。

さまざまな経営資源の中で、「組織特殊性」(firm-specificity)の条件を満たすものを、一般の経営資源と区別してOCといいます。
組織特殊性とは、平たくいえば「他者が簡単にはまねできず(まねしようと思っても大きなコストがかかる)、市場でも容易には買えない」ということです。
SPがトレードオフを強調するのに対して、OCのカギは「模倣の難しさ」にあります。

半導体業界では、数多くの機械や装置が「経営資源」として不可欠になります。
その多くは半導体製造企業の外部にある製造装置メーカーが開発しています。
半導体メーカーは製造装置メーカーの製品を購入して生産ラインを組むのが普通です。
たとえば、半導体生産プロセスの中に「露光」という段階があります。
これはステッパーとかアライナーと呼ばれる露光装置によって行われます。
現在ほとんどの半導体メーカーで使われている露光装置は、外部の製造装置メーカーによって供給されています。
お金さえ出せば買うことができます。
この意味で、それがどんなにハイテクで価値のあるものであったとしても、それ自体はOCではありません。

コンビニエンスストアの販売・在庫管理システムについても同じことがいえます。
一部のコンビニエンスストア・チェーンは、エレクトロニクスメーカーと協同で、他社に先駆けてPOSなどのITシステムを開発し、受発注管理に導入しました。
このようなシステムは、初期の段階では他社よりも効率的なオペレーションを達成するうえで有効でした。
しかし、現在ではそのようなITシステムはどこのコンビニエンスストア・チェーンでも利用されるほど普及しているので、ITシステムそのものはOCとはいえないでしょう。

今ここで、二つの企業が同じ製品を、同じ原材料と生産プロセスを使って、同じ顧客に、同じ流通チャネルで販売しているとします。
この場合、企業間に違いがないので、両社は価格競争に陥り、十分な利益をあげられません。
しかしあるとき一方の企業が、生産効率を飛躍的に高めるような生産システムの開発に成功したとします。
ここで残りの一方の企業がとりうる選択肢には二つあります。
一つは現状のやり方をそのまま維持するという道です。
この場合、その企業の利益水準はますます悪化するでしょう。
もう一つの道は、競争相手が開発した生産システムがなぜ効率を改善したかを理解し、それをまねするという選択肢です。
もしその生産システムがあまりコストをかけずに簡単に模倣できるものであれば、競争は元の状態に戻ります。

ここで問題となるのは、そのような経営資源が他の企業にとって模倣可能なものであるかどうかです。
もしその経営資源が短い期間に、低コストで他の企業に移転・模倣されてしまうものであれば、せっかくの競争優位もいずれ消滅してしまいます。
こう考えると、お金があるという資金的資源そのものはOCとはいえないことがわかります。
お金は最も移転可能性が高い経営資源だからです。
資本市場や金融市場を通じて調達することができ、企業間での取引も容易です。

他社がそう簡単にはまねできない経営資源とは何でしょうか。
組織に定着している「ルーティン」だというのが結論です。
ルーティンとは、あっさりいえば「物事のやり方」(ways of doing things)です。
さまざまな日常業務の背景にある、その会社に固有の「やり方」がOCの正体であることが多いのです。

セブン-イレブンの「仮説検証型発注」 p128

コンビニエンスストア業界を例に考えてみましょう。
セブン-イレブンは、他社と比べて一日一店舗当たりの平均販売金額が高く、競争優位にあるといえます。
しかし、外から眺めている限りでは、セブン-イレブンが他社と明らかに違うSPを持っているようには見えません。
他のコンビニエンスストア・チェーンと比べて、立地にそれほどのユニークさがあるとは思えませんし、売っている商品にも一見してわかる違いはありません。
店の大きさもあまり変わらないし、営業時間はどこも二四時間です。

ポジショニングの視点から見れば、ライバルのローソンのほうが、むしろSPを意識した戦略をとっているように見えます。
「ナチュラルローソン」のように、ターゲットを若い女性に絞り、他のコンビニエンスストアにないような独自の品揃えを展開する新ブランドもありますし、M&Aによる新業態や新サービスの開拓にも積極的です。

セブン-イレブンの戦略のカギは、SPよりもOCにあります。
セブン-イレブンのOCのうち最も重要なものが、「仮説検証型発注」と呼ばれる、セブン-イレブンが長い時間をかけて開拓していった「やり方」です。
仮説検証型発注については、神戸大学の小川進さんが詳細に研究しています。
小川さんの研究成果に即して、セブン-イレブンの仮説検証型発注というルーティンがどのような意味でOCになっているのかを見ていきましょう。

ウォルマートに代表されるアメリカの大規模小売チェーンでは、「自動発注システム」という考え方で発注業務が行われています。
自動発注ではそれぞれの店舗に、本部からその店が発注すべき数量が示されます。
店舗に供給される発注量は、本部側が過去の発注履歴や販売実績の情報を蓄積し、ある計算式に基づいてコンピュータでデータを処理することによって算出されます。
ウォルマートはデータマイニングなどのITを駆使して、本部が各店舗の在庫を管理し、最適な発注量が店舗ごとに自動的にはじき出せるようにすることをめざしてシステムを練り上げてきました。

自動発注というやり方には、さまざまなメリットがあります。
定量的なデータの裏づけをもって、発注量を「科学的」に決めることができます。
店舗側の発注担当者に高度なスキルを要求しなくとも、過去の発注履歴や実績からはじき出された「適切な」オペレーションが約束されます。
パートタイマによる労働力に大きく依存している小売チェーンで、こうしたメリットは特に大きくなるでしょう。

発注履歴や販売実績をデジタル情報として蓄積し、その情報を発注に活かすという点では、セブン-イレブンの仮説検証型発注も自動発注と同じです。
しかし、誰がデータを分析し、実際に発注量を決定するのかが異なります。
コンビニエンスストアのPOSなどのITは、現在ではごく一般的なツールとして普及しています。
しかし、ここで競争優位をもたらしているのは、ITそのものではなく、それをどうやって使うのかという、セブン-イレブンの「ルーティン」のほうです。

仮説検証型発注では、発注の意思決定は本部ではなく店舗の側にあります。
店舗の発注担当者は、自ら立てた仮説に基づいて発注量を決定します。
たとえば、セブン-イレブンのある店長が、店舗近くの小学校で週末に運動会があるということを知ったとします。
すると、その人は「ふだんよりもおにぎりが多く売れるのではないか」という「仮説」を立て、発注量を決めるのです。

本部のコンピュータが供給するのは、店舗の担当者の意思決定をサポートするための情報です。
先の例でいえば、天気予報は運動会当日のおにぎりの発注量を決めるうえで重要な情報でしょう。
店舗の担当者は、自分の経験に基づく直感や洞察と本部から提供されるデータを組み合わせて仮説を立て、発注量を決定し、その仮説が間違っていなかったかを販売データで確認します。
さらにそこでの学習が次の発注に反映されます。
仮説検証型発注がルーティンであるというのは、それがこうしたサイクルの日々の繰り返しであるという意味です。

仮説検証型発注には、自動発注にない、いくつかの強みがあります。
第一に、実際にモノを売る店舗の担当者のコミットメントが高まるということです。
自動発注では、発注量は本部が実質的に決定するので、店舗の担当者は商品需要に関心をなくし、何も考えなくなってしまいます。
商品が売れ残っても、自分の発注ミスではなく、本部の責任だと考えるはずです。
これを繰り返していけば、店舗が市場の変化に鈍感になってしまいます。
第二に、発注担当者が自身の経験や勘を本部からくる客観的なデータと自由に組み合わせて仮説を立てられるということです。
自動発注では、どのようなデータを使って発注量を算出するかがあらかじめ決められています。
店舗の人間が気づいた市場の動きをすぐに発注に反映させられませんし、一人ひとりの経験や勘を活かすこともできません。
第三に、運動会のおにぎりのように、本部では手に入らないローカルな「埋もれた情報」を活かした発注が可能になります。
このような強みが、他社を上回るセブン-イレブンの日販額を支えているのです。

仮説検証型発注を支えているもう一つのルーティンは、対面コミュニケーションによる情報のやり取りが本部と店舗の間で双方向的かつきわめて頻繁に行われているということです。
店舗からは経験や勘、これまでに成功した仮説にかかわる情報が店舗指導を担当する「オペレーション・フィールド・カウンセラー」(OFC)を通じて本部に伝えられます。
本部からもOFCを通じて、本部に集約されたさまざまな成功事例が店舗にフィードバックされます。
さらにセブン-イレブンでは、毎週一〇〇〇人を超えるOFCが全国各地から本部に集まり、商品・市場の動きについて情報交換するというルーティンが組み込まれています。

なぜ、まねできないのか p131

なぜ、このようなルーティンとしてのOCは模倣が難しいのでしょうか。
相互に関連し合った三つの理由があります。
第一の理由は、暗黙性です。
「因果関係の不明確さ」といってもよいでしょう。
あるルーティンがどのように作用して、それがなぜ高い経営成果をもたらすのかという因果関係は、SPと比べてはるかに不明確です。
セブンイレブンの発注ルーティンが典型的にそうであるように、OCの存在がごく日常的な「仕事の進め方」に埋め込まれているために、その実態は外部からは見えにくいのが普通です。
POSやグラフィック・オーダー・ターミナルといった発注業務で使われているITはまねできても、得られる情報のどこに注目し、どのように使いこなすかという本質的なレベルまではなかなかまねできません。

第二の理由は、経路依存性(path dependency)です。
組織ルーティンは企業の内部で長い時間をかけて、紆余曲折を経て形成されます。
ですから、OCのあり方は、その企業のそれまでのビジネスの経験や経路と切り離しては考えられません。
これを経路依存性といいます。
結果的に出来上がったルーティンを表面的に模倣し、導入することはできるかもしれません。
しかし、そのルーティンが経路依存的であった場合、そこから全く同じ効果を引き出すためには、それが出来上がってきた歴史的なプロセスをもう一度たどらなければなりません。
これは非常に困難です。

たとえば、OFCを全国から集めて、会議を毎週開くことは他社にもできるかもしれません。
しかし、セブン-イレブンのOFC会議は長い時間をかけて練り上げられたものであり、それと同等の効果を手に入れるには、やはり長い時間がかかるでしょう(ただし、右に紹介した小川さんの研究によると、他の大手コンビニエンスストアには、毎週現場の担当者が集まって議論するというようなルーティンはありません。
本部に集まることがあっても、月に一回程度です。
毎週一〇〇〇人以上の担当者を一カ所に集めるコストがはっきりしているのに対して、それと成果との因果関係がわかりにくいというのがその理由でしょう。
これは先述した第一の理由です)。

第三の理由は、OCそのものが時間とともに進化するということです。
セブン-イレブンは、一九七八年から受発注のオンライン化を進めて、一九八二年にPOSシステムを導入し、仮説検証型発注へと移行しています。
その後、セブン-イレブンの業績は向上し、仮説検証型発注の有効性は競争他社も認めるところとなりました。
ファミリーマートは一九八九年に、ローソンは一九九二年に、それぞれこれまでの自動発注的なやり方(ローソンでは「レコメンド発注」と呼ばれていた)から仮説検証型発注に移行しています。
しかし、移行したからといってすぐにセブン-イレブンと同じ能力を手に入れられるかというと、そうではありません。
そのときには、店舗の仮説を立てる能力や発注の精度、本部での成功事例の蓄積などにおいて、セブン-イレブンはさらに先を行ってしまっているからです。
小川さんの研究によれば、セブン-イレブンでさえも、仮説検証型システムを海外に移転する際には、時間をかけて徐々に日本の水準に近づけざるをえないようです。

イトーヨーカ堂は、一九七三年にアメリカのサウスランドと提携してセブン-イレブンを日本に持ち込みました。
サウスランドはその後経営不振に陥り、一九九一年にイトーヨーカ堂に買収されることになったのですが、この時点でのサウスランドの発注システムは、一九七三年時点でのそれと全く変わっていなかったそうです。
つまり、サウスランドは「コンビニエンスストア」という新しい業態のSPでは先行したものの、OCがなかったために競争優位を維持できなかったのです。
逆にいうと、現在の日本でのコンビニエンスストア業界の競争を見れば、SPの切り口だけでセブン-イレブンの競争優位を説明することは難しいでしょう。
セブン-イレブンの戦略がSPよりもOCに軸足を置いているというのは、こうした意味です。

トヨタの製品開発能力 p134

いうまでもなく、トヨタは業界標準以上の高い利益を持続している企業です。
製造業でいえば世界最強企業の一つでしょう。
しかし他社と違うSPを確立しているかというと、そうでもありません。
さまざまな国や地域で自動車を売っていますし、高級車からスポーツカー、ミニヴァン、小型車までフルラインで製品を揃えています。
ハイブリッド・システムに軸足を置いた「エコカー」へ取組みを別にすれば、GMやフォードとそう変わりません。
つまり、トヨタの「レシピ」は独自のものとはいえないのです。
中国進出というような市場のポジショニング」ではむしろ他社に先行されている面もあります。
しかし、トヨタの利益水準が他社を大きく上回るのは厳然とした事実です。
なぜでしょうか。

セブン-イレブンと同じように、トヨタの場合も、その答えは「厨房の中」、OCにあります。
たとえば、トヨタ生産方式(TPS:Toyota Production System)です。
TPSを構成している要素としては、JIT(Just In Time)やそのためのサプライヤーとの関係づくり、カンバン方式、平準化生産、人偏のついた自働化による改善、「なぜ」を五回繰り返す問題解決などが広く知られています。
これらはいずれもトヨタに定着している「物事のやり方」、つまりルーティンです。
TPSはまさにOCの塊です。

「カンバン」や「ケイレツ」「カイゼン」といったTPSを構成している要素はもはや欧米でも有名で、ライバルによって研究し尽くされている感があります。
しかし、それでも競争他社はトヨタと同等の強みを手に入れることができないでいます。
それはトヨタのOCの実体が組織ルーティンに埋め込まれているため、他社は簡単にまねできず、かといってどこに行っても売っていないからです。
トヨタ自身ですら、自社の強みを余すところなく明確に説明することはできないかもしれません。

トヨタに代表される日本の自動車メーカーは製品開発でも組織能力に基づく競争優位を持っています。
東京大学の藤本隆宏さんと一橋大学の延岡健太郎さんの研究は、日本の自動車メーカーの製品開発の強みがOCに立脚しているということを見事に描き出しています

製品開発のパフォーマンスを測る指標の一つに、開発のリードタイムがあります。
リードタイムが短いほど開発コストを抑えられるのはもちろん、市場の変化に対応しやすくなります。
この物差しで日米欧の自動車メーカーを比較すると、日本企業はヨーロッパ企業に対して一九八〇年代から一貫して優位を持続しています。
アメリカ企業には一九九〇年代の前半に一時期追いつかれましたが、九〇年代後半以降は再び大きく引き離しています。

このような競争優位の背景には、いくつかのOCがあります。
その一つは、日本企業の開発プロジェクト人員数が欧米企業と比較して圧倒的に少ない(三分の一から四分の一)ことです。
これには日本の開発現場での「多能化」が関係しています。
トヨタがその典型ですが、技術者の専門化の程度が低く、職務範囲が広くなっています。
これは仕事のやり方に欧米と大きな違いがあることを示唆しています。

プロジェクトマネジャー(PM)のリーダーシップにもこの違いが表れています。
トヨタは「重量級PM」と呼ばれる、PMに強い権限を持たせる開発組織を持っています。
これが開発の競争力に高い成果を与えていることは、藤本さんたちの研究もあって、一九九〇年代には欧米企業にも知られるようになりました。
欧米企業は日本企業に学び、PMの権限を強めてきました。

しかし、同じ重量級PMといっても、欧米企業のPMは製品コンセプトの創造やマーケティングには十分な権限を持っていません。
なぜかというと、欧米では分業が高度に進んでおり、コンセプトづくりやマーケティングはそれぞれの専門分野が担当するため、PMに権限を集中できないのです。
公式組織としてはPMの権限を強化できても、欧米の「重量級PM」は肝心のコンセプト創造への関与が弱いため、トヨタと同じやり方は再現できていません。

フロントローディングとITツールについても同じことがいえます。
トヨタがスピーディーに製品を開発できる一つの理由は、その初期段階から、部品間のかみ合わせの良さやつくりやすさを織り込みながら個々の部品が開発・設計されていることにあります。
つまりできるだけ前工程で調整の質と量を増やすことが重要で、これを「フロントローディング」(前倒し)といいます。
フロントローディングを進めるためには三次元CADのようなITツールが有効な面があります。
実物の試作車がまだない段階での問題解決ができるからです。
欧米企業はトヨタよりも三年以上早く三次元CADの導入を進めました。

ところが、一九九〇年代中盤以降、フロントローディングをさらに進化させることができたのはトヨタに代表される日本企業のほうでした。
ツールである三次元CADを導入しているかどうかよりも、開発の早い段階から関連するすべての技術者が共同で問題解決に取り組む組織ルーティンができているかが重要だからです。
分業志向が強い欧米企業は、三次元CADを下流における設計情報の完璧な受け流しに使おうとしました。
そのため先端的なITを導入しても、それをリードタイムの短縮のためのOCに昇華させることができなかったのです。

藤本さんと延岡さんの研究は、トヨタや日本の自動車メーカーの競争優位がSPよりもOCに立脚しているということを物語っています。
藤本さんの言葉を使えば、SPが「頭を使う本社発の戦略」であるとすれば、OCは「体を鍛える現場発の戦略」であり「体育会系の戦略」です。

回避か対抗か p137

ここまで、競争戦略の考え方を、戦略論の表千家であるポジショニング(SP)と裏千家の組織能力(OC)との二つの視点からお話ししてきました。
いずれも、要するに違いをつくるという話なのですが、「違いには違いがある」というのが、ここで言いたかったことです。
SPはユニークなシェフのレシピで違いをつくろうとします。
それに対して、OCは厨房の中にある他社が簡単にはまねできない、素材であるとか包丁の切れ味で勝負しようという戦略です。

SPの戦略は、競争優位の源泉を企業を取り巻く外的なコンテクストに求めます。
つまり、広い競争空間のどこかにうまく他社との違いをつくることができる「位置取り」があるはずで、それをはっきりさせようという発想です。
つまり「アウトサイドイン」(外から内へ)の発想です。

一方のOCは、外的なコンテクストよりも、その企業の内部にあるコンテクストを重視します。
自分たちの持っている武器をよく理解したうえで、それを簡単にまねができないOCに練り上げていけば、それが他社との違いになって、利益が出るだろうという考え方です。
これは「インサイドアウト」(内から外へ)の発想です。

SPの戦略の中身は、何をやって何をやらないかという意思決定です。
すでにお話ししたように、この考え方に立てば、OE(他社よりもベター)は戦略にはなりえません。
「何をやるか」よりも、「何をやらないか」のほうに戦略的な意思決定の本質があります。
なぜかというと、「何をやらないか」の選択がトレードオフをつくるからです。
トレードオフをつくれば、「あちら立てればこちらが立たぬ」になるので、他社に対する違いを持続することができます。

これに対して、OCはむしろSPの持続性に懐疑的な立場をとります。
いくらトレードオフをつくっても、そのSPが成功したら、他社もなんとかして同じ活動を選択してくるのではないか、という懸念です。
OCは違いとして、前に使った言葉でいえば、OEを重視しているといえます。
SPかOEかという分類ではOEであっても、そのOEが他社にまねできないものであればそれはOCであり、利益の源泉となりうる、という考え方です。
時間をかけてでも、容易にはまねできないルーティンを構築していくことが戦略の焦点となります。

このようにSPとOCを対比していくと、それぞれの考え方の根底にある基本思想の違いが浮かび上がってきます。
SPの戦略の本質を一言でいえば、「いかに競争圧力を回避するか」という思想です。
放っておくと競争圧力をもろにかぶってしまいます。
だからこそ独自の位置取りが必要になります。
うまい位置取りをすれば、正面からの殴り合いをせずに済みます。
この意味で、SPの戦略論は「競争の戦略」というよりは、本質的には「無競争の戦略」なのです。

OCは競争を回避するのではなく、むしろ「男には戦わなければいけないときがある」(女もそうですが)という構えで、競争圧力を受け入れ、それに対抗しようとする戦略です。
殴り合いはしょせん避けられない、だから受けて立とう、その他社がまねできないような強力なパンチに磨きをかけていこう、という話です。
より「競争的」な競争戦略といってもよいでしょう。

右で対比したSPとOCの違いは、それぞれが意図する競争優位のあり方を考えると、さらにはっきりしてきます。
図2・1はコストと品質のフロンティアを示したものです。
この図では品質を縦軸、コストを横軸で示していますが、右に行くほどコストが「下がり」ます。
ですから原点から離れるほど、コストも品質も「良い」状況になるわけです。
図の曲線は、ある時点でとりうるコストと品質の限界を示しています。
図にあるように、顧客が認知する品質と低コストとはトレードオフの関係にあるのが普通です。

SPとは、このフロンティア上のどこに自社を位置づけるのかという問題です。
図2・1にあるように、BMWは、フロンティア上の左上に位置取りをする戦略です。
これに対して、ヒュンダイは低コストを重視する右下に位置取りをしています。
この仮想例では、どちらがより優れているということではありません。
SPの考え方からすれば、位置取りが異なるということが大切なのです。
異なった位置取りをすれば、BMWとヒュンダイは正面からの殴り合いを避けることができます。
つまり、ベクトルの方向をはっきりと決めましょう、ベクトルの向きで他社との違いをつくりましょう、というのがSPの戦略です。

ベクトルの方向、つまりSPの視点からすれば、トヨタはどっちつかずに見えます。
しかし、トヨタはこの業界で他社を大きく上回る収益性を実現しています。
これはトヨタが既存のフロンティアを突き抜けているということを意味しています。
何がこれを可能にしているのでしょうか。
それは「トヨタ生産方式」に代表されるトヨタに独自のOCです。

図2・1からわかるように、SPがベクトルの向きを問題にしているのに対して、OCは原点からの距離、つまりベクトルの大きさを意味しています。
他社にないOCを構築すれば、向きにかかわらず、原点からの距離が大きくなるという発想です。
既存のフロンティア上にあるBMWとヒュンダイは、(この仮想的な例でいえば)OCの強さは同じです。
トヨタは強力なOCを持っているために、この二社に対しても競争優位にあります。
このように、SPとOCでは、それぞれが実現しようとする競争優位のあり方が異なります。

p142

このように、SPとOCは異なったマネジメント観を背後に持っています。
MBAプログラムで教えている私の経験では、MBAの学生はどちらかというと、SPの考え方を好む傾向にあります。
将来、自分の意思決定で会社を動かしたいと思っているような人がMBAになるための勉強をしにくるわけで、そういう人たちにとって、OCよりもSPの戦略のほうがしっくりくるのは自然なことです。

この一〇年で最もよく読まれたビジネス書の一つにジェームズ・コリンズさんの『ビジョナリー・カンパニー』とその続編があります。
コリンズさんは次のような主張をしています。

革命や、劇的な改革や、痛みを伴う大リストラに取り組む指導者は、ほぼ例外なく偉大な企業への飛躍を達成できない。
偉大な企業への飛躍は、結果を見ればどれほど劇的なものであっても、一挙に達成されることはない。
たった一つの決定的な行動もなければ、壮大な計画もなければ、起死回生の技術革新もなければ、一回限りの幸運もなければ、奇跡の瞬間もない。
逆に、巨大で重い弾み車を一つの方向に回し続けるのに似ている。
ひたすら回し続けていると、少しずつ勢いがついていき、やがて考えられないほど回転が速くなる。

このような考え方は、ここでの分類でいえば、SPよりもOCを持続的な競争優位の源泉として重視する立場です。
経営トップによるSPのビッグ・ディシジョンは決して「偉大な会社」を約束しないとコリンズさんは繰り返し主張しています。
OCは右の引用の中にある「弾み車」のようなものです。
どの意思決定が企業の業績を左右したかは特定できません。
日常で繰り返される一つひとつの小さな決定や行動が、積もり積もって弾み車の勢いとなる、という考え方です。
しかも、傍から見ていて、どの意思決定が弾み車の勢いに貢献したのかがわからない(そもそもそういう問題の立て方に意味がない)のですから、どうしたら弾み車を勢いよく回せるのかはわかりません。
つまり、すぐにはまねできないということになります。

p150

SPとOCとの対比のところでお話ししたように、SPは企業の外的なコンテクストに競争優位を求める戦略思考ですから、競争環境がもたらす機会(opportunity)をいち早くものにすることに最大の関心があります。
近年に出現した「機会」のうち最大のものは、なんといってもインターネットでしょう。
インターネットが普及し始めた頃に設立されたドットコム企業、ネットベンチャーの多くがSPに戦略の軸足を置いたのは自然な成り行きです。

初期の典型的な成功例がイーベイです。
イーベイの成功の理由は、急速に普及するインターネットの機会を捉え、他社に先行してC2C(個人間取引)のオークションに位置取りを定めたということにあります。
C2Cのインターネット取引のマーケットメイカーという位置取りは、ひとたびうまく回りだすと強力にネットワーク外部性が働きます。
強力なSPを固めてしまうと、極端にいえば、SPだけでかなりの長期にわたって食べていけるわけです。

日本では同様のおいしいポジションをヤフー・オークションが先に握ってしまったので、アメリカでは大成功したイーベイも、日本ではすぐに撤退してしまいました。
この辺にもイーベイの戦略がSP志向だということが表れています。
日本でのヤフーは、その後も持続的にC2Cオークション事業のリーダー企業の地位を維持しています。

このようなネットワーク外部性が強力に働く世界を別にすれば、初期はうまく機会を捉えたSPで勝負できても、業界が成熟するにしたがって、レシピの独自性を維持することが難しくなるのが普通です。
そこでOCの役割が大きくなってきます。
競争優位はSPとOCの組合せなのですが、業界が成熟するにつれてOCの占める部分が大きくなっていくのが一般的です。
ですから、ネット業界のような新しい業界で成功している企業にはSPに戦略の軸足を置くものが多く、一方で自動車産業のように成熟した業界ではOCに軸足を置く企業が優位に立つ傾向にあります。
トヨタは後者の典型的な例です。

SPとOCのテンション p151

話をSP-OCマトリックスに戻します。
理屈からすれば右上のセルに位置する企業が最も強いのですが、現実の企業の競争戦略は、SP志向かOC志向のどちらかに偏る傾向にあります。
SPとOCは、その発想が対照的なだけに、どちらかが優勢になると一方は劣勢になるという綱引きのような関係にあります。
つまり、SPとOCの間にはテンション(対立関係)があるのが実際のところです。

「コストと品質のフロンティア」のところで説明したように、SPの戦略はある種のトレードオフを前提として、ベクトルの方向で違いをつくろうとします。
これは本質的には「無理をしない」という発想で、正面からの殴り合いを回避し、無競争の状態になるべく近づこうという考え方です。
これに対してOCは、トヨタの例で説明したように、時間をかけてでも独自能力を構築し、これをテコに既存のトレードオフを突破しようとします。
つまり、「無理をすれば道理(トレードオフ)が引っ込む」という発想です。
ですから、どちらかの論理で競争優位を追求することが、他方の論理を弱めることになります。

このことはトップマネジメントの経営スタイルの違いを考えるとわかりやすいでしょう。
SP志向の経営者は、自らの大胆ではっきりとした戦略的選択で競争優位を獲得したいと考えます。
白黒をはっきりさせるエッジが利いたタイプ、プロのディシジョン・メイカーといったイメージです。
こうした経営者はどちらかというとせっかちで、自分の戦略的選択についての意思決定が、なるべく早く企業の業績に反映されるのを好みます。
逆にいえば、それが競争優位にどのようにつながるのか、はっきりとした因果関係がその時点ではわからないようなアクションは積極的にはとらないでしょう。

これとは反対に、OC志向の経営者は「じっくりと体を鍛えておけば、それが後々になって効いてくる」という体育会系の考え方の持ち主です。
筋力トレーニングと同じで、強めの負荷をかけてトレーニングをしていたほうが、だんだんとそれまでは持ち上がらなかったような重たいものでも持ち上げられるようになります。
「無理をしていれば、そのうちに無理が無理でなくなる」というわけで、積極的に無理を受け入れるという発想です。

このような体育会系の経営者にとっては、意思決定によってトレードオフをはっきりさせるということは、その意思決定の時点で将来のOCを鍛える可能性を殺してしまうことになりかねません。
資源に限りがあるからこそ、「何をやらないか」をはっきりさせなければいけないというのがSPの発想なのですが、「(今はできなくても)鍛えているうちにできるようになる」というのがOC志向の経営者です。
こういう人であれば「何をやらないか」を事前にはっきりさせようとは思わないでしょう。

p156

これは明確なSPなしに、成り行き任せに総花的展開をしてしまうという例の典型です。
限られている経営資源(それはトヨタよりもずっと少ない)をすべての方向にばら撒いてしまえば、「五兎を追うものは一兎をも得ず」という結果になるのは自然な成り行きです。
この頃のマツダは、競争優位を構築するための思考があまりにOCに偏っており、フィールズさんがいうように、フォードと比べてOCは優れていたかもしれないが、あまりにSPが希薄だったことが深刻な業績悪化をもたらしたといえます。

フィールズさんの出身であるフォードは、当時は戦略家で知られたジャック・ナッサーさんをCEOに擁し、SPの方向にバイアスが強くかかった戦略をとっていました。
つまり、シェフのレシピとしてのSPはいろいろと繰り出しているけれども、いざ厨房に入ってみると、OCはぱっとしないというタイプです。

フォードは伝統的に本社が現場を牽引していくというSPに偏った会社です。
伝説的な秀才といわれたロバート・マクナマラさんのように、本社の経営のプロが優れたレシピを書くことによって成長してきました。
ナッサーさんもまたその例に漏れず、相対的に利益を出しやすいピックアップ・トラックやSUV(Sport Utility Vehicle)に軸足を置き、その一方で本社の金融サービス部門が利益を稼ぎ出すという体制をとっていました。

フォードの戦略が本社のSPに偏っていることを示唆する興味深いエピソードがあります。
フォードは二〇〇二年にパラジウムを中心としたレアメタル(希少金属)の在庫で一〇億ドルの評価損を出し、ウォール街を仰天させました。
自動車メーカーは排ガスの浄化システムに使用するレアメタルを購入しています。
排ガス規制に伴う需要の増大とロシアからの供給が予測できないことを危惧して、パラジウムの価格は上昇傾向にありました。
燃費の悪いSUVを大量に生産していたフォードは、本社調達部門の主導で長期的な供給契約を締結し、パラジウムの備蓄購入を開始しました。
これが大量の在庫を積み上げる結果になりました。

ところがその後パラジウムの需要は減少し、これが市場価格を低下させたため、高い値段で大量に在庫を持っていたフォードは評価損を計上せざるをえなくなりました。
なぜ需要が減ったのでしょうか。
それは日本の自動車メーカーを中心に、価格の高騰が危ぶまれたレアメタルの使用量を減らすような技術開発が進んだからです。
たとえば、ホンダではパラジウムなどのレアメタルの使用量を七〇%も削減できるような排ガス浄化システムが開発されました。
トヨタでも、別のレアメタルで代替したり、材料開発で使用量を減らすという努力が続けられました。

フォードも努力をしなかったわけではありません。
ミシガン州ディアボーンにある研究所は触媒コンバータで使われるレアメタルの寿命を延ばす研究に取り組んでいました。
しかし、研究所の開発チームと調達部門の間の連携は全くとられていませんでした。
本社調達部門の主導でパラジウムの在庫の積み増しに突っ走った背後には、こうした「やり方」があったのです。

要するに、日本企業が現場のOCでレアメタルの問題を克服しようとしたのに対して、フォードは本社の調達部門スタッフの特定の「戦略的意思決定」(長期契約でパラジウムを備蓄購入する)で問題を解決しようとしたわけで、SPにあまりにも偏っていたという話です。

マツダの経営を任されていたフィールズさんは、こうしたフォードのバイアスと、逆にSPをはっきりさせずにOCへと流れてしまうマツダのバイアスに気づいていました。
「フォードは頑張りが利かないのが問題だ。
しかし、マツダは何でも頑張ればなんとかなると思っている。
マツダは何を頑張らなくてもいいかをはっきりしなければいけないし、フォードはマツダの頑張りに学ばなくてはいけない。
フォードのいい部分とマツダのいい部分を組み合わせ、それぞれの悪いところをつぶしていく、これが自分の挑戦だ」というのが当時のフィールズさんの認識でした。
マツダとフォードの戦略に見られるコントラストは、SPとOCの間にテンションがあることを如実に物語っています。

p162

数多くのM&Aで成長している日本電産は、ゴーンさんが日産でやったことを永守重信総料理長が何回も繰り返しているようなものです。
日本電産はその時点では必ずしも業績が良くない企業を買収します(なぜならば、もともとピカピカの企業であれば高くつく)。
ただし、それは往々にして図の右下、つまりかなり良い厨房にあるのに、レシピがはっきりしないため低迷している企業です。
左下の企業ではありません。
「技術も人材もあるが、経営の問題で業績不振に陥っている企業は立て直しやすい」というのが永守さんの考え方です。
そうした被買収企業に永守料理長が独自のはっきりしたレシピを導入していくことによって、急速に業績を好転させ、グループ全体の増収増益につなげています。
SPとOCのうまい組合せを意識した戦略です。

SP先行型の左上に位置する企業が右に移動するのと、OC先行型の企業が右上に上がるのと、果たしてどちらの実現可能性が高いのでしょうか。
もちろんケース・バイ・ケースなのですが、一般論としていえば、レシピ先行型の企業が優れた厨房を手に入れるよりも、厨房のOC先行型の企業がレシピを獲得するほうが短期間に成果が出やすいといえそうです。
レシピは動きだせば早いのですが、厨房を強化するにはどうしても時間がかかります。
この意味で、右下に位置する企業には大きなポテンシャルがあります。
日本にこの種の企業がたくさんあるとすれば、日産やキヤノンや日本電産のパターンで、SPをはっきりさせることによって競争力を回復する可能性があります。

しかし、SP先行型の企業には一つの大きな強みがあります。
それは、業績が悪くなるときに、はっきりと、しかも早く悪くなれるということです。
この種の企業は、シェフのレシピが空振りしてしまえば、それっきりです。
OCで持ちこたえることができません。
みるみるうちに業績が悪化します。
これは必ずしも悪いことではありません。
経営陣や社員が今そこにある危機をはっきりと認識できるため、揺り戻しがかかりやすいのです。
前にお話ししたHPはその例です。
こういうときは往々にしてシェフが交代することになります。
新しいシェフが乗り込んできて、レシピを書き換えます。

これに対してOC先行型の企業では、厨房が徐々にダメになっていく、という怖さがあります。
冷蔵庫の中身がだんだんと、時間をかけて腐っていく。
マネジメントや社員もはっきりとした危機感を持ちにくい。
そのあげく、気づいたときには何もない左下に陥ってしまう危険があります。
カネボウの破綻の事例に見られるように、日本のかつての優良企業の破綻の背後にはこうしたメカニズムがありそうです。

p164

その業界で競争している他社に対して違いをつくる。
これが戦略の本質でした。
厳しい競争構造に置かれた業界であっても、戦略で競争優位を構築できれば、持続的な利益を手に入れられます。
「違いのつくり方」にSPとOCという二つの違った思考がありました。
競争優位という山に登るには、SPとOCという二つのルートがあるわけです。
SPとOCそれぞれの競争優位に対する構えを理解すること、これが思考の基盤です。

SPが明確でOCも強い、これが最強の状態です(さらに欲をいえば、魅力的な競争構造にある業界にいればさらによい)。
ただし現実にはSPとOCの間にはテンションがあり、企業の戦略思考はどちらかに偏るのが普通です。
このテンションにどうやって対処するかが、企業経営に突きつけられた本質的な挑戦課題となります。

「三枚のお札」 p167

「三枚のお札」という昔話をご存じでしょうか。
私は子どもの頃この話が大好きでした。
自分の娘が小さいときにもよく読み聞かせたものです。
時代や地域によってさまざまなバリエーションがあるそうですが、だいたいこういうお話です。

あるお寺の小僧が和尚さまの言うことをちっとも聞かないので、怒った和尚さまは三枚のお札を持たせてお寺を追い出してしまう。
小僧は仕方なく山へ行き、出会ったおばあさんの家に泊まる。
おばあさんが山姥だということに気づいた小僧は、逃げ出そうとしてお手洗いへ行きたいと言うと、腰に縄をつけられてしまう。
小僧はお手洗いの柱に縄を結えつけて、急いで逃げる。
山姥はすごい形相で追いかけてくるが、和尚さまにもらったお札を一枚投げると、つるつる滑る氷の山が出てくる。
ところが山姥は氷の山をなんとか乗り越えてくる。
二枚目のお札を投げると、川が出てくる。
すると山姥は水を全部飲み干して追いかけてくる。
最後に三枚目のお札で火を出すが、山姥は飲み込んだ水を吐き出して火を消してしまう。
もう少しで山姥に捕まるというところで小僧は命からがらお寺に逃げ戻り、和尚さまに助けを求める。
すると、和尚さまは山姥と化け比べを始める。
最後は豆に化けた山姥を和尚さまが食べてしまい、救われた小僧は心を入れ替えて良い子になりましたとさ、めでたし、めでたし……。

競争戦略とは、この昔話でいう三枚のお札のようなものです。
競争とは「すごい形相で追いかけてくる」山姥にほかなりません。
追いつかれてしまえば、利益が出なくなります。
そこで一枚目のお札が出てくるわけですが、これが業界の競争構造です。
もしこのお札の効き目が強力であれば(つまり、ファイブフォースでいう「魅力的な業界」に住むことができたならば)、めでたし、めでたしということで、一件落着です。
ところが、そうはうまくいかないのが現実です。
ファイブスターの業界はそうそうありませんし、そもそも参入障壁が高いということが「魅力的な業界」の条件の一つになっていますので、入れてもらうのは簡単ではありません。

今、幸運にも魅力的な業界の住人であったとします。
しかし、氷の山が時間とともに溶けて小さくなってしまうように、「星」の数は時間の経過とともに減少するのが自然な成り行きです。
かつてはハワイのように住みやすい(利益が出やすい)業界であったのに、気がついてみると宮崎になっているということになります。
椰子の木が生えているのは同じですが、冬は結構寒いものです。
ハワイと同じ生活スタイルでは風邪を引いてしまいます。
規制緩和やグローバル化、デジタル化、情報化といったマクロレベルのトレンドは、ことごとく星の数を減らす方向に作用します。
経済学の理屈からして、世の中が「合理的」になっていくほど、完全競争、すなわちゼロ星の世界に近くなっていきます。

ここで出てくるのが二枚目のお札、「戦略」です。
戦略のお札にはSP(戦略的ポジショニング)とOC(組織能力)の二枚があります。
どちらを先に切るかは業界や企業によりますが、まずはSPのお札を切るとしましょう。
他社と違うSPに位置取りすれば競争の圧力をまともにかぶらないで済むので、利益を確保でき、めでたし、めでたしです。

ところが、話はここで終わりません。
SPで一時的に成功できたとしても、そのうちにまた山姥(競合他社)が追いかけてきます。
やっかいなのは、そこで選択したSPが結果的に成功すればするほど、山姥もそれだけ一生懸命に追いかけてくるということです。
SPには先行者優位やトレードオフといった模倣を防止する論理(川)が組み込まれているのですが、山姥はなんとか追いつこうとするでしょう。

SPで決着がつかなければ、三枚目のお札としてOCが出てきます。
前章でお話ししたように、SPの違いがシェフのレシピであれば、OCの違いは、厨房に立つ料理人の腕や使用する包丁の切れ味といった企業の内部に蓄積された能力です。
優れたシェフが「意思決定」をしたところで、即座にOCが手に入るわけではありません。
OCは定義からして模倣が難しいルーティンなので、他社がその能力を手に入れるためには、能力構築に向けた日々の筋トレが必要になります。
山姥としても乗り越えるのには時間がかかるでしょう。
しかし、他社も同じような筋トレを始めたら、時間はかかりますが、いずれはかなりの程度まで追いつかれてしまうかもしれません。

ストーリーは「四枚目のお札」 p170

ここまで山姥が迫ってきたら、どうすればよいのでしょうか。
そこで出てくるのが、四枚目のお札としての「ストーリー」です。
今日の企業を取り巻く競争環境を考えると、特定のSPやOCの違いだけでは持続的な利益を創出しにくくなっています。
持続的な競争優位の切り札は戦略ストーリーにあります。

第1章のサッカーのメタファーを使って、ストーリーとしての競争戦略という視点を改めて説明しておきましょう。
図3・1をご覧ください。
戦略のゴールは業界の標準以上の利益を持続的にあげること(SSP:Sustainable Superior Profit)にあります。
これがサッカーでいう「得点」に相当します。
得点の多いチームが「勝ち」となるというのが、競争の基本的なありようです。

個別チームの思惑とは別に、サッカーという種目は特定の競争構造を持っています(サッカーの場合はルールで競争構造が定義されています)。
前章でお話ししたように、競争構造のありようは点の入り方に影響を与えます。
サッカーはなかなか点が入りにくく、一〇点差をつけて勝つということはほとんどありません。
ただし、こうした競争構造に置かれているのは競合チームも同じことです。
得点の絶対的な大きさではなく、その業界での競合他社よりも多い得点を獲得するというのがSSPの発想です。

ここで戦略の中身とは、SSPというゴールに向けて繰り出されるさまざまな「パス」を意味しています。
戦略の構成要素は業界で競争している他社との違いです。
パスにはSPとOCの二種類があります。
いずれにせよ、戦略とは、ゴールに向けてさまざまなパスを繰り出し、敵よりも多い得点をあげるためのものです。

ストーリーとしての競争戦略という視点は、そうしたパスがどのように組み合わさり、SSPのゴールへのシュートに至るのか、というパスの「つながり」に注目します。
個別のSPやOCだけでは「静止画」にすぎません。
「静止画」をつなげてゴールに至るパスの流れや動きを「動画」として構想する。
これが、戦略をストーリーとして組み立てるということです。

ストーリーは、業界の競争構造、ポジショニング、組織能力に続く第四の利益の源泉です。
同じサッカーをするにしても、他社と違うパス回しの流れを確立すれば、競争優位を獲得できるというわけです。
ここで競争優位の正体は、個別の構成要素よりも、パスのつながりのほうにあります。
ですから、猛烈に足が速かったり、誰もまねができないようなドリブルの個人技を持つような「ファンタジスタ」揃いである必要はありません。
一人ひとりの選手がスーパースターでなくとも、ユニークなパス回しで勝負しようというのがストーリーの発想です。

デイリーファッションの小売専門店を運営するしまむらは、後ほどまた触れるように、独自のストーリーで差別化し、ストーリーを競争の武器として長期利益を達成してきた会社です。
元社長の藤原秀次郎さんはしまむらの強みについて次のように語っています。

仕組みを構築してしまえば、外部から推測することが難しく、まねしにくい。
形だけ似たものをつくるならすぐできる。
でも仕組みに立ち入って聞く人はあまりいない。
実は質問できないところにポイントがある。
全体の仕組みをセットで構築すれば、一部だけ他社がまねしても、まとまりとしての全体が実現できず、良い結果に結びつかない。

冒頭で紹介した「三枚のお札」のストーリーが面白いのは、登場人物(小僧や和尚さまや山姥)のキャラクターが強烈だからでも、登場する道具(氷の山や川や火)が特別だからでもありません。
ストーリーを構成する要素は、昔話でおなじみのごくありふれたものばかりです。
「三枚のお札」が長く語り継がれた「名作」なのは、こうした登場人物や道具立てのつながりが面白いからです。
文字どおり「ストーリー」が優れているのです。

表3・1 戦略ストーリーの5C p173

・競争優位 (Competitive Advantage)
ストーリーの「結」……利益創出の最終的な論理

・コンセプト (Concept)
ストーリーの「起」……本質的な顧客価値の定義 

・構成要素 (Components)
ストーリーの「承」……競合他社との「違い」
SP (戦略的ポジショニング) もしくは OC (組織能力)

・クリティカル・コア (Critical Core)
ストーリーの「転」……独自性と一貫性の源泉となる中核的な構成要素

・一貫性 (Consistency)
ストーリーの評価基準……構成要素をつなぐ因果論理

p174

WTP - C = P 

これが最も根本的な利益(P)の定義です。
この式にあるWTPというのは、Willingness To Pay、すなわち顧客が支払いたいと思う水準を意味しています。
顧客が何らかの価値を認めるから収入が発生するわけで、その大きさはWTPによって決まります。
当然WTPを獲得するためには何らかのコスト(C)がかかります。
煎じ詰めれば、利益は「WTPからそれにかかるコストを引いたもの」です。

p175

厳密にいえば、「低価格戦略」という言葉はありえません。
それは「高コスト戦略」という言葉が非常に奇妙に聞こえるのと同じ理由です。
戦略ストーリーのゴールは長期利益にありますので、シュートは「なぜ儲かるのか」に対する答えになっていなければなりません。
「低価格」と「高コスト」はいずれもWTPとコストのギャップを圧迫し、利益を小さくする方向に働きます。
これでは儲からなくなる理屈になってしまいます。

シュートになりうるのは、「低価格」ではなく、あくまでも「低コスト」のほうです。
低コストの裏づけがあれば、状況によっては攻撃的な低価格を仕掛けることもできるでしょう。
しかし、低コストであったとしても必ずしも低価格にする必要はありません。
シュートの軸足を決めるときには、価格とコストを分けて考えるのが基本です。
たとえば市場でのプレゼンスを短期間で高めるとか、規模の経済や経験効果をねらって一気に生産量を増やすというような意図で、低コストの達成に先行して「戦略的」に低価格に踏み切ることはもちろんありえます。
しかし、その場合は先行的な低価格という打ち手が他の打ち手とどのように連動して最終的に利益創出のシュートにつながるのか、そのストーリーがきちんと描かれていることが条件になります。

基本的には競争優位の最終的な中身はこのどちらかなのですが、もう一つ、「そもそも競争があるから利益をあげにくいのであって、競争がなければそれに越したことはない」という第三のシュートがあります。
相手チームがいて、そこに競争があるからなかなか点が入らない、だとしたら、そもそも競争がなければ、相手に邪魔されずにPKをやるようなものだから、ほぼ確実に点が入るのではないか、というのが第三のシュートの基本的な発想です。
これは要するに「独占」による無競争状態をつくるということです。
ただし、自然に市場全体を独占することは普通はできません。
どうするかというと、業界全体を相手にせずに、競争の土俵を自ら特定のセグメントや領域に狭く絞り、その範囲に限定して事業を行うことによって、事実上競争がないような状態をつくる、すなわちニッチに特化するというのが第三のシュートの中身になります。

p179

もちろんこれはきわめて控え目な予測に基づく数字で、実際の購入希望者は三〇〇〇人にのぼりました。
三〇〇〇人の購入希望者は、まず一〇%の手付金を支払わなければなりません。
エンツォは「普通のフェラーリ」よりもさらに特殊なスーパーカーで、日本円に換算して八〇〇〇万円近くという新車価格がつけられました。
フェラーリはこのお金を銀行に入れたうえで、これまでのフェラーリの使用経験とか、フェラーリクラブに入っているかとか、さまざまな条件をもとに時間をかけて実際に販売する顧客を三九九人選びます。
こうして選ばれた幸運な人々が、ようやくフェラーリ・エンツオを手にすることができたわけです。

これはエンツォというごく特殊な「スーパー・スーパーカー」の例ではありますが、フェラーリの経営は、ごく小規模の生産でビジネスを成り立たせるためのさまざまな工夫が凝らされています。
社員規模でいえば三〇〇〇人程度の会社ですが、その内訳はF1レース関連に六〇〇人、開発が四〇〇人、あとは生産部門の従業員です。
フェラーリにはそもそもデザイン部門がありません。
デザインは奥山さんのいたピニンファリーナのようなデザイン会社に外注します。
エンジニアリングにしても、フリーのエンジニアを社外から結集し、特定の課題に対応したプロジェクトを走らせ、仕事が終わるとチームを解散するというような柔軟なやり方がとられています。

フェラーリというと豪勢にコストをかけて開発・生産をするようなイメージですが、実際の総コストを見ると、一モデルの開発費は大手の企業よりもはるかに低い水準に抑えられています。
それもこれも、販売する台数を限定し、「売らない」ということがニッチをシュートとした経営の根幹にあるからです。

ストーリーを構想する第一歩としてシュートの軸足を定めなければならないのは、①WTP、②コスト、③ニッチ特化による無競争、の三つのシュートの間にトレードオフの関係があるからです。
もちろん①と②を同時に実現できればそれに越したことはないのですが、WTPシュートにつながるパスとコスト低下につながるパスとの間には、あちら立てればこちらが立たぬの関係があるのが普通です。
①および②と③のシュートの間にもトレードオフがあります。
「成長を実現しつつ、無競争で利益を出す」というのには無理があります。
フェラーリの例にあるように、成長に対するストイックな姿勢が、無競争のニッチを維持する前提条件だからです。

「すき間市場をねらう」というような言い方で、ニッチの戦略は多くの会社でしばしば議論に上ります。
しかし、多くの場合は「ニッチに特化する」といった次の瞬間に、「年間二〇%成長をめざす」というように、筋が通らないというか、論理がねじれた話になりがちです。
本当にニッチに焦点を定めて無競争による利益を追求するのであれば、成長はめざしてはいけないことだからです。
成長し、ある程度の規模の市場になれば、競争相手が利益機会を求めて参入してくるはずですから、ニッチがニッチでなくなってしまいます。
そうなれば、そもそもの利益創出の最終的な論理も崩れてしまいます。
ストーリーの最後にくるシュートは、あくまでも「なぜ儲かるのか」という論理にこだわるものでなくてはなりません。
最後のところでの利益創出の論理が甘くなると、ストーリー全体が台無しになってしまいます。

p186

ストーリーが優れているということは、パスが縦横にきちんとした因果論理でつながっているということを意味しています。
戦略ストーリーの評価基準はストーリーの一貫性(consistency)です。
一貫性の次元として、次の三つが考えられます。

・ストーリーの強さ(robustness)
・ストーリーの太さ(scope)
・ストーリーの長さ(expandability)

つまり、強くて太くて長い話が「良いストーリー」というわけです。
それぞれについて順に説明していきましょう。

①ストーリーの強さ p186

今、話を単純にして、XとYという二つの構成要素の間のつながりを考えます。
ここでつながりとは、XがYを可能にする(促進する)という因果論理を意味しています。
たとえば「量産すればコストが下がる」という因果関係は、規模の経済という論理に基づいています。

ストーリーが「強い」ということは、XがYをもたらす可能性の高さ、つまり因果関係の蓋然性が高いということです。
「量産すればコストが下がる」という因果関係は、「テレビCMをやればWTPが上がる」という因果関係よりも、一般的にいってより確からしく、したがって、より「強い」ストーリーだといえるでしょう。
もちろん本当にそうなるかどうかは、やってみなければわからないのがビジネスの常なのですが、論理的な蓋然性でいえば、前者のほうが強そうです。

②ストーリーの太さ p190

優れた戦略の二つ目の条件は、ストーリーの太さです。
「太さ」とは、構成要素間のつながりの数の多さを指しています。
一石で何鳥にもなるパスがあれば、その分ストーリーは太くなります。

③ストーリーの長さ p192

ストーリーの長さとは、時間軸でのストーリーの拡張性なり発展性が高いということを意味しています。
反対に、パスの間に強いつながりがあっても、将来に向けた拡張性がなければ、それは「短い話」で終わってしまいます。

ここでいう話の長さというのは、ある戦略を説明するときに要する物理的な時間の長さを意味しているのではありません。
「くどくど説明しなければいけないような戦略は成功しない」というのはそのとおりです。
論理があいまいで、説明にダラダラと時間がかかってしまうという意味での「長い話」が良くないのはいうまでもありません。
論理がきちんと突き詰められていれば、話はシンプルになります。
その意味での「短い話」はむしろ歓迎です。

ここでいう短い話とは、ストーリーを構成する因果論理のステップが少ないということを意味しています。
逆に、長い話とは、因果論理が前へ前へとつながっていき、ストーリーに拡張性や発展性があるということです。
「それで、どうなるの?」という問いに対して、次々と答えが繰り出される、これが話の「長さ」です。

p226

競争戦略における一貫性の重要さは、これまでも多くの論者が指摘してきたことです。
それ自体は特に目新しいことではありません。
SPの競争戦略論の本家・元祖・家元であるマイケル・ポーターさんも、活動システム(activity system)という考え方を提示し、多くの活動の間にあるフィットが競争優位の基本であると強調しています。
それはこういう論理です。
ライバルが一つのSPを模倣し、対抗できる可能性は、たいていの場合一〇〇%よりも小さい。
そうであれば、システム全体に対抗する可能性は、〇・九×〇・九=〇・八一、〇・九×〇・九×〇・九=〇・七二九というように急速に現実味をなくしていく、というわけです。

ストーリーという切り口から見れば、一貫した戦略ストーリーから生まれる競争優位は、構成要素の交互効果(interaction effect)に立脚しているため、その持続性はポーターさんの説明よりもずっと強力になります。
ストーリーを構成する要素の間に因果論理のつながりがあるので、バラバラに見たときの各要素への対抗可能性が〇・九であっても、全体を掛け合わせた数字は、〇・九の単純な乗数よりもずっと小さくなるでしょう。

競争優位の神髄 p229

一つひとつは小さい話かもしれませんが、数多くの因果論理が着実に積み重なって戦略ストーリーの一貫性が出来上がっています。
ストーリーの一貫性の正体は、「何を」「いつ」「どのように」やるのかということよりも、「なぜ」打ち手が縦横につながるのかという論理にあります。
要するに、論理が大切だということです。
静止画を動画にするのは論理です。
ストーリーの一貫性の正体も論理にあります。
論理のないところにストーリーはつくれません。

論理というと何やら難しそうですが、サウスウエストにしてもマブチにしてもデルにしても、パスをつなげている論理は、いわれてみれば当たり前のことばかりです。
普通の知的な能力があれば、誰でも容易に理解できます。
ビジネスはしょせん人間が人間に対してやっていることです。
アインシュタインの相対性理論のような、(当時からしてみれば)突拍子もないような論理をひねり出す必要はありません。

サウスウエストの創業者であるハーブ・ケレハーさんや、デルのマイケル・デルさん、マブチモーターの馬渕隆一さんは、実に優れたストーリーテラーでした。
しかし、考えてみれば、彼らにしても当たり前の理屈を当たり前に突き詰めただけなのです。
ケレハーさんやデルさんや馬渕さんが論理の超人だったわけではありません。
だいたいそんな人ならば、独自の思考世界に埋没してしまい、かえってビジネスで成功できそうにありません。

「論理が大切」、そんなことは誰もがわかっていることです。
にもかかわらず、なぜ多くの企業の「戦略」が論理不在の、無味乾燥な静止画の羅列で終わってしまうのでしょうか。
一つには、構成要素(個別のSPやOC)が目に見えるのに対して、それをつなぐ論理は目に見えない、ということがあるでしょう。
しかしそれ以上に、個別のアクションやプラクティスが「目に見え過ぎる」ようになっていることが大きいと思います。

世の中で流通する情報の量は以前と比べて飛躍的に増大しています。
新聞や雑誌などのメディアは、他社の動向や成功事例を毎日、洪水のように吐き出しています。
コンサルタントに聞けば、彼らはその業界の「ベストプラクティス」を、それこそ手に取るように知悉していますから、いろいろなことを教えてくれるでしょう。
しかし、第1章で強調したように、そうしたアプローチは要素のつながりについての論理を覆い隠してしまいます。

「ベストプラクティスに学べ!」という思考(?)様式には、そもそも「違い」をつくるはずの戦略を阻害し、同質的な競争へと企業をドライブしていくという面があります。
しかし、問題はそれ以上に深刻です。
安易なベストプラクティスの導入が戦略ストーリーの基盤となる論理を殺し、その結果として戦略ストーリーの一貫性を破壊しかねないからです。
コメディーで観客を爆笑させる喜劇俳優を、彼が客を呼べる大スターだからといって、悲劇の主役に起用したらどうなるでしょうか。
彼が持ち前の芸風を発揮するほど、せっかくのストーリーがぶち壊しです。

アルバックは真空技術を使って、液晶や太陽電池などの先端分野の製造装置を開発し製造する企業です。
生産性向上のためには会議の数を減らし、時間を短くしたほうがよいというのが常識ですが、アルバックは数多くの会議を、しかも時間をかけて「ダラダラやる」ことにこだわっています。
独自の技術開発に事業の軸足を置いてきただけに、かつてのアルバックは技術者が自由闊達に最先端の技術を追求する会社で、技術者一人ひとりがカスタマイズした製品を取引先の要望に応じてつくり込むというやり方がとられていました。
しかし、薄型テレビや太陽電池など巨額投資が必要なハイテク業界では、汎用的な製品に戦略的に投資をして、同じ装置を大量に売ることが大切になります。

その一方で、用途市場の変化が激しく、基盤となる技術にしても不確実性が高いので、どの領域に集中するかはトップダウンでは決められません。
そこでアルバックは技術者の行き過ぎた個人主義を抑制し、現場の技術者全員を巻き込んだ徹底した議論を通じて合意形成をするために、「ダラダラ会議」を頻繁に開くというスタイルを意識的にとっています。
無分別な事業拡大を防ぎつつも新規事業のための技術の種を常に撒き続けるというアルバックの意図からすれば、ダラダラ会議が有効なわけです。

また、アルバックでは技術者を評価する際には、成果主義も否定されています。
ハイテク分野の技術開発はハイリスク・ハイリターンであり、成功するかどうかは運にも大きく左右されます。
成果だけで評価するのはフェアでなく、個人にすべてのリスクを負わせてしまったらかえって技術の種をつぶすことになりかねない、という考え方です。
アルバックの中村久三会長は次のように言っています。

他社が実践している立派な経営手法はたくさんある。
しかし、それにしても自分で考え、独自の経営を編み出したから強くなったのであって、それをまねしても会社として成長しない。
だから私たちも自分で考えることにした。

アパレル業界では、ギャップ、H&M、ザラ、ユニクロ(ファーストリテイリング)のように、製造から小売までを一貫してコントロールする「製造小売」(SPA)と呼ばれるやり方が支配的になっています。
その中でデイリーファッション(日常生活のための衣料品)の専門店を運営するしまむらは、SPAのやり方をとらず、商品をアパレルメーカーから仕入れる伝統的な小売業に特化しています。
その一方で、しまむらは当初から、仕入れた商品を店舗で売り切るという完全買取制を実施しています。
商品の衣料品の小売業としては格段に低い粗利益率でありながら、大手量販店の中でも最高水準の営業利益を長期にわたって維持してきました。

物流は規模の経済を発揮できる専門企業にアウトソーシングするのが常識になっています。
ところが、しまむらは自前で独自の物流システムを構築しています。
しまむらはわずか六店舗の時代から独自の設計思想による物流システムの構築を始め、グループで一五〇〇店以上となった二〇〇九年現在では、七カ所の物流センターを稼働して、全国的な自社物流網を構築しています。
製造を自社でコントロールするというSPAの方向に機能を統合するケースは多いのですが、小売に徹しつつも、物流機能を自前で丸抱えする企業は珍しいといえます。

なぜ、しまむらは物流を自前でやっているのでしょうか。
商品の完全買取で売り切るためには、方法は基本的には二つしかありません。
一つは価格の引き下げです。
しかし、流行や気候の変動で売上が大きく影響を受けるアパレル業界にあって、しまむらの商品価格変更率は業界平均の半分以下という低い水準に抑えられています。

もう一つの方法は、売れない店から売れる店に商品を移すことによる平準化です。
しまむらはこの第二の方法で商品を売り切るために、自前の物流システムをフルに活用しています。
たとえば、トラックが一台につき毎夜五店舗を回ります。
店に商品を届ける代わりに、その店で売れない商品を引き取って、そのトラックに載せて戻ります。
全国の物流センターを経由して、その商品が売れている店に即座に届ける、というやり方です。
しまむらは全国で自在に商品を移動させているのですが、宅配便の四分の一以下という低コストを実現しています。

トラックを夜中に走らせるのは、一つには昼間の渋滞を避けるためですが、もう一つの理由は翌朝に従業員が一斉に作業を始められるようにするためです。
昼間にトラックを走らせると、店の人はいつ到着するのかがわからないため、無駄な時間を過ごすことになります。
朝一斉に仕事を始められれば、夕方の一定時刻までにパート職員の仕事も一斉に終わります。
高い地位に就いた優秀なパートタイムの主婦がしまむらの店舗のオペレーションを支えているのですが、そうした人々を採用して定着させるためには、時間がはっきりと決まっていることが大切になります。
しまむらの社長を長く務めた藤原秀次郎さん(現取締役相談役)は次のように言っています。

つまり、私たちは社内に宅配便と同じシステムを持っているんです。
このシステムによって、同じ物流センターが管轄している店には翌日に商品が届く。
別の物流センターを経由する場合も二日後には着きます。
たとえば青森県の店で売れない商品を二日後に鹿児島県内の売れている店に送る、ということもありえます。
… (中略) …合理化を追求するためには自前のほうがいいんです。
… (中略) …外部に委託すると自分たちの思うように改良できないんですね。

アルバックやしまむらは、個別の打ち手を見ると、時代や業界の常識に反するようなことをしています。
しかし、ある打ち手がうまくいくかどうか、良いか悪いかは、ストーリー全体の文脈でしか評価できません。
当たり前の論理を当たり前に突き詰めるためには、よその会社の動向や世間の耳目を集めるベストプラクティスに惑わされてはなりません。
競争優位の正体がストーリー全体の一貫性、筋の良さにある以上、時間をかけてでも独自のストーリーを追求する姿勢が大切です。
他社の戦略を分析する場合でも、人目を引く派手な打ち手に飛びつくのではなく、それを取り巻く構成要素とのつながりの論理をじっくりと追いかけなくては、その戦略の本筋はわかりません。

p235

戦略は what 、 how 、 where 、 when 、 why といったさまざまな問いかけに答えなくてはなりません。
前章でもお話ししたように、この図では業界の競争構造をひとまず競争戦略の外部にある変数として扱っていますが、どの業界で競争するかという土俵の選択は、文字どおり where を問題にしています。
いつその業界に参入するかというタイミングの選択も重要な問題ですので、これも入れて考えれば、業界の競争構造は where と when に焦点を当てています。

SPは「何をするか」「何をしないか」という活動の選択にかかわる打ち手ですから、ここでは what が主要な問題となります。
典型的にはSPは「自社で内製するのか外部から調達するのか」というようなトレードオフの選択ですから、 which に対する答えといってもよいでしょう。
一方のOCは自社にユニークな「やり方」から生まれる違いですから、戦略の how を問題にしています。

これに対して、戦略ストーリーでは why が一義的な問題となります。
SPやOCの一つひとつの違いがなぜ相互につながり、全体としてなぜ競争優位と長期利益をもたらすのか。
戦略ストーリーとはそうした因果論理の束にほかなりません。

起承転結の「起」 p237

戦略ストーリーの支柱となるのが、前章でお話しした五つのCです。
長期利益というゴールに向かって最終的に放つシュートが「競争優位」(competitive advantage)です。
ストーリーはそれに向けてさまざまな他社との違い(components)を因果論理でつなげたものです。
ストーリーの「筋の良さ」とは因果論理の「一貫性」(consistency)を指しています。
この章では、残りの二つのCのうち、コンセプト(concept)についてお話ししたいと思います。

一貫性の高いストーリーを構想するためには、終わりから逆回しに考えることが大切だということはすでにお話ししました。
つまり、意図する競争優位のあり方を先に決めるということです。
シュートの軸足をWTP(Willingness To Pay:顧客が支払いたいと思う水準)の増大に置くのか、コスト・リーダーシップをねらうのか、はたまたニッチでの無競争をもくろむのか、ここがはっきりしていないと、それに向けたパスの出しようがありません。

サッカーにたとえると、シュートと並ぶ「ツートップ」の片割れがコンセプトです。
個別具体的なパス(構成要素)を繰り出す前に、コンセプトを固めておく必要があります。
戦略ストーリーはこのツートップから始まります。

コンセプトとは、その製品(サービス)の「本質的な顧客価値の定義」を意味しています。
本質的な顧客価値を定義するとは、「本当のところ、誰に何を売っているのか」という問いに答えることです。
競争優位はこちらが儲けるための内側の理屈です。
顧客価値という外側の理屈が成り立たなければ、シュートは打てません。
競争優位とコンセプトのツートップはあくまでもセットで考える必要があります。

ストーリーの起承転結の「起」に当たるのがコンセプトです。
紙芝居でいえば、「はじまり、はじまり……」のところで出てくるタイトルに相当します。
「結」が最終的に構築される競争優位ということになります。
筋の良い戦略ストーリーを構築するためには、その起点として本質的な顧客価値を独自の視点でえぐり出すようなコンセプトが不可欠です。
コンセプトが本質的な価値を捉えていなければ、話は始まりません。
「起」がきちんとしていなければ、「承転結」にどんなに工夫を凝らしても、筋の良い話にはなりません。

p241

コンセプトは顧客に対する提供価値の本質を一言で凝縮的に表現した言葉です。
それを耳にすると、われわれは本当のところ誰に何を売っているのか、どのような顧客がなぜどういうふうに喜ぶのか、要するにわれわれは何のために事業をしているのか、こうしたイメージが鮮明に浮かび上がってくる言葉でなくてはなりません。
リコーの「IPS」や「画像処理のデジタル化」は、まさにそのような言葉でした。
「コピー機」を売ろうとしたわけではありませんでした。
「見たまま」の商品やサービスという切り口ではコンセプトの定義にはなりません。

p247

ここでお話ししたいくつかのコンセプトの例は、いずれも「本当のところ誰に何を売るのか」という問いに対する答えを突き詰めて生まれたものです。
ベネッセの進研ゼミは「子どもを含めた家族のコミュニティ」に「学習を促進するコミュニケーション」を提供しています。
ブックオフは「捨てない人」に「リユース生活のインフラ」を提供しようとします。
ホットペッパーは「生活圏内の事業者と消費者」に限定して、「生活情報の提供による消費のマッチング」を提供するものです。
このように、優れたコンセプトを構想するためには、常に「誰に」と「何を」の組合せを考えることが大切です。
「誰に」と「何を」を表裏一体で考えることによって「なぜ」が初めて姿を現すからです。

「なぜ」は、戦略ストーリーにとって一番大切な問いかけです。
ストーリーを動かす原動力は因果論理にあります。
「誰に」だけ、「何を」だけでは静止画になってしまい、肝心の「なぜ」についての思考が甘くなりがちです。
「なぜ」についての因果論理は「動き」の中にしかありません。
動画でなければ因果論理を考えることができないのです。
「誰に」と「何を」をペアで考えれば、コンセプトが動画になります。
顧客がその商品なりサービスを認知し、反応し、購入を決断し、使用し、価値を認め、継続的に利用し、利用経験を蓄積し、さらに満足を大きくしていく、こうした一連の動きが見えてきます。
そうした動きのあるイメージを思い浮かべ、実際にそのような動きが生まれるかを突き詰めることによって、なぜその顧客がその商品なりサービスに食いつくのか、なぜお金を払うのか、なぜ喜ぶのか、なぜ喜びが持続するのか、いくつもの「なぜ」が見えてきます。

コンセプトを動画で構想するというと、多くの人が「どのように」という方法論に傾きがちです。
しかし、コンセプトから「誰に」と「何を」が抜け落ちて、「どのように」ばかりが前面に出てくると、コンセプト不全に陥るのが常です。
これは戦略ストーリーが失敗作となる典型的な成り行きです。
たとえば、「顧客の囲い込み」とか「サービスの個別化」「顧客の組織化による継続的課金」、こうしたよくあるアイディアはいずれも「どのように」を問題にしています。
それ自体は悪いことではないのですが、この種の方法論が先行したコンセプトは、結局のところ顧客への提供価値よりも自分たちがどのように儲けるのかという手前勝手な妄想に終始してしまうことが少なくありません。

顧客を組織化して囲い込むにしても、それに先行して「誰に」と「何を」を突き詰めなければコンセプトは動画にならないのです。
そこまでの価値を認める顧客は誰か、なぜ彼らを囲い込めるのか、なぜ彼らが継続的にお金を払うのか、サービスを個別化することによって顧客に提供できる独自の価値とは具体的に何か。
コンセプトはこうした一連の「なぜ」に対する答えを含んでいなければなりません。
「なぜ」が希薄なコンセプトでは、リアリティのあるストーリーは切り拓けないのです。

数値目標の設定はストーリーを実際に動かすうえで必須の作業工程ではありますが、「数字」だけではコンセプトにはなりえません。
数字それ自体は「誰に」「何を」「なぜ」に全く言及していないからです。
コンセプトはあくまでも会社の外にいる顧客に提供する本質的な価値の定義です。
会社の中で自分たちが達成すべき目標の設定ではありません。
いうまでもなく、数値目標を設定したからといって自動的に価値を生み出せるわけではありません。
独自の本質的な価値を提供できた結果として、数字が出てくるのです。
前にも強調しましたが、「数字よりも筋」です。
優れたコンセプトが筋の良いストーリーを駆動していけば、数字は後からついてきます。
この順番が逆転してしまえば本末転倒です。
数字も実現できません。

p255

ずいぶん前の話ですが、私のゼミの学生がコンビニの本質的な顧客価値を実際にアルバイトをしながら探っていくという調査研究をしたことがありました。
コンビニは「自分の部屋の延長」であり、このことがコンビニにユニークな消費を起こさせているというのが彼らの結論です。
つまりヘビーユーザーにとってのコンビニは、「お店」というより、飲み物や食べ物がぎっしり詰まった冷蔵庫もあれば(しかも、それはいつも誰かが手を入れておいていてくれる)、最新の雑誌が満載の本棚もある「自分の部屋」だというわけです。
スーパーであれば、人々はまず冷蔵庫の中身を確認し、買うべきもののリストを(紙に書かないまでも頭の中に)持ってスーパーに出かけます。
こうした需要に応えるスーパーの顧客価値は、当然のことながら「良いものをより安く」になります。

ところがコンビニでは、消費空間としての意味合いが相当に違ってきます。
自分の部屋の延長だとすれば、はっきりとした需要がなくても習慣的に足が向きます。
買い物リストを持ってコンビニに行く人はあまりいません。
ちょっとした需要がその場で生じて購買につながります。
だから品揃えや価格で不利であってもモノが売れる、というわけです。

公共料金や携帯電話料金を払いに行くというのはわりとイヤなことなので、ついつい引き延ばしてしまいがちです。
ところがコンビニはそうした料金の支払場所としても成功しています。
これはコンビニが自分の部屋の延長であることと密接に関連していると思います。
習慣的に立ち寄るわけですから、その流れで抵抗感なく払いに行けるのです。
「開いててよかった!」は切羽詰まった顧客に対する価値ですが、今のコンビニはその対極にある消費を捉えているといってもよいでしょう。
そうした消費の一つひとつは少額でも、積もり積もれば馬鹿にできないほど大きくなります。
ここにコンビニが巨大産業になった一つの理由がある、というのが学生諸君の洞察でした。

すべてはコンセプトから p263

筋の良いストーリーに独自のコンセプトは欠かせません。
戦略ストーリーにおけるコンセプトの重要性はいくら強調してもし過ぎることがありません。
どうしたら優れたコンセプトを構想できるのでしょうか。
これにしても法則や必勝法、飛び道具のようなものはもとよりないのですが、コンセプトを考えるときに大切にしておいたほうがよい論理であれば、いくつかお話しすることができます。
以下では、コンセプトづくりにとって大切なことを三つに集約して指摘したいと思います。

第一は、これまでの話と重なりますが、すべてはコンセプトから始まる、ということです。
幸いにして、コンセプトづくりにはたいして投資は必要ありません。
使うのは自分の頭だけです。
サンクコスト(埋没費用)もほとんどありません。
思いついたアイディアがうまく転がっていかなくても、また考え直せばいいだけです。

反対に、コンセプトをないがしろにしたままストーリーづくりに取りかかってしまうと、失敗は高くつきます。
勝ち目のない事業に進出したり、誰も欲しくないような製品を開発したり、工場や従業員などの固定投資をドブに捨てるといった、取り返しのつかないことになりかねません。
コンセプトの構想はある意味で「安上がり」な仕事ですが、逆にいえば、どんなに投資をしても、アタマを使わなければ筋の良いコンセプトは生まれません。
急ぐ必要はありません。
コンセプトの構想にじっくりと時間をかけるべきです。
本質的な顧客価値を捉えていると確信できるコンセプトが固まるまでは、ストーリーの細部を考えても意味がありません。
コンセプトがしっかりしていないストーリーはしょせん砂上の楼閣です。

裏を返せば、「これだ!」というコンセプトが固まれば、ストーリーづくりの半分は終わったも同然だということです。
夏目漱石の『夢十夜』に運慶の話が出てきます。
運慶が無遠慮に鑿を振るって仁王を彫っているのを見て、主人公は「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と不思議に思います。
しかし運慶はいちいち眉や鼻を鑿でつくっているのではなく、そのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを鑿と槌の力で掘り出しているのでした。
まるで土の中から石を掘り出すようなものだから間違うはずもないわけです。

優れたコンセプトは仁王が初めから埋まっている木材のようなものです。
コンセプトが本質的な顧客価値を捉えていれば、ストーリーの主要な構成要素がそこから自然と姿を現すはずです。

p267

スターバックスにしても、「スターバックスはコーヒーショップですね?」に対して、ハワード・シュルツさんは「いいえ、本当のところわれわれが売っているのはコーヒーではありません」と答えるでしょう。
もともとはシアトルの小さなコーヒー小売会社だったスターバックスは、一九八七年にシュルツさんがCEOに就任してから急成長を始めます。
それ以前のスターバックスは本格的なコーヒー豆の小売業者にすぎませんでした。
この時点では、スターバックスのコンセプトはストレートに「本物志向のコーヒーを提供する」ことにあったかもしれません。

しかし、シュルツさんが構想したコンセプトは「第三の場所」(third place)というものでした。
職場でも家庭でもないという意味での「第三」です。
彼はこのように当時を振り返っています。

私のもともとのアイディアは、待たずに済むスタンド式のカウンターを備えたテイクアウトの店を出すことだった。
スーパーに行く途中の住民がちょっと寄って、カフェイン抜きコーヒーを半ポンドばかり買ってくれるだろうと予想していたのだが、そうではなかった。
みんな、店に漂う雰囲気と仲間意識にひかれてやってくるのだった。

一九八〇年代に入って、アメリカは価値観の断片化が進んだ結果、過剰なハイテンション社会になりました。
職場では競争のプレッシャーが強く、家庭でもいろいろな問題があります。
そうした人々は、職場とも家庭とも異なる「第三の場所」を欲しているのではないか、というのがシュルツさんの洞察でした。
ドイツのビアガーデンやイギリスのパブ、フランスやイタリアのカフェのように、ヨーロッパには「人々が安心して集える避難場所」(a safe harbor for people to go)が確立していますが、アメリカにはそうした場所は希薄でした。
つまり、コーヒーを売るのではなく、くつろいだ雰囲気の中でテンションを下げるという経験なり文化を売るというのがスターバックスのコンセプトで、コーヒーそのものはそうした経験を提供する手段であるという考え方です。

スターバックスの意図する最終的な競争優位はWTPの増大です。
「第三の場所」を提供することができれば、単にコーヒーを飲ませるよりも単価を高くすることができます。
しかも、第三の場所は南の島のリゾートに行ってリラックスするという非日常ではありません。
あくまでも日常的な経験ですから、顧客は習慣的に第三の場所に来るようになります。
事実、一九九〇年代後半には、スターバックスの顧客は平均して週に一八回来店するようになっていました。
「高品質でおいしいコーヒーの提供」という見たままのコンセプトであれば、スターバックスはいまだにシアトルのローカルなコーヒー豆小売業者のままだったかもしれません。

p271

戦略の本質が因果論理のシンセシスにあるからこそ、コンセプトが大切になります。
戦略ストーリーのシンセシスの基盤となるという意味で、コンセプトは「扇の要」の役割を担っています。
ストーリーの起点がしっかりしていれば、そこから出てくる構成要素には初めから骨太の因果論理が備わっているものです。
「ユニークなコンセプトが固まれば、ストーリーづくりの半分は終わったも同然」というのは、このことを指しています。

「すべてはコンセプトから」ということは、裏を返せば、「すべてはコンセプトのために」ということでもあります。
ストーリーに含まれるあらゆる構成要素が、コンセプトの実現に向かっていなければなりません。
そうでなければシンセシスの一貫性が崩れてしまいます。
筋の良いストーリーをつくるためには、コンセプトと因果論理でつながらない構成要素は意識的に切り捨てるという姿勢が大切になります。

p274

「誰に嫌われるか」をはっきりさせる、これがコンセプトの構想にとって大切なことの二つ目です。
ターゲットを明確にするということは、同時にターゲットでない顧客をはっきりさせるということでもあります。
ターゲット顧客から徹頭徹尾喜ばれるということは、ターゲットから外れる顧客にはっきりと嫌われるということです。
人間でも同じです。
誰かに非常に愛されている人は、誰かから嫌われているものです。
誰からも好かれている人というのは、本当のところは誰からも好かれていないのかもしれません。
誰に嫌われるかを意図する。
これが筋の良いコンセプトを描くための最も効果的な入口であるというのが私の考えです。

p277

全員に愛される必要はない。
この覚悟がコンセプトを考えるうえでの大原則です。
誰に嫌われるべきかをはっきりさせると、その時点で確実に一部の顧客を失うことになります。
しかし、全員に愛されなくてもかまわないということ、これが実はビジネスの特権なのです。
行政による公的なサービスであれば、そうはいきません。
全員に等しく愛されなければなりません。
これが政府のつらいところです。

それに対して、ビジネスであれば「誰に嫌われたいか」をこちら側で定義できます。
誰からも愛されようと思うと、ストーリーに無理が生じて、筋の良い因果論理が損なわれ、一貫性が失われます。
それを聞いたとたんに「えっ?そんなの僕はイヤだね……」と言いそうな人々がはっきりと思い浮かぶような言葉のほうが、コンセプトとしてはむしろ筋が良いといえます(もちろん、全員が嫌いそうなコンセプトは論外ですが)。
そもそも、本当に全員からこのうえなく愛されてしまうと、独占禁止法に抵触してしまいます。
これは半ば冗談ですが、コンセプトの構想にとって八方美人は禁物だということです。

八方美人に陥らず、誰かにきちんと嫌われるためには、あからさまに肯定的な形容詞をなるべく使わずにコンセプトを表現することが大切です。
顧客価値を定義するというと、どうしても「最高の品質」とか「顧客満足の追求」とか、それ自体で肯定的な意味合いを持つ形容詞を使いたくなります。
しかし、そういってしまうと、誰に嫌われるかがはっきりしなくなります。
「最高の品質」はそれ自体であからさまに「良いこと」なので、よっぽどのひねくれ者でない限り、誰にとっても好ましいことでしょう。
ということは、本当のところ誰が喜ぶかがぼやけてしまうということです。

しかも、肯定的な形容詞でコンセプトを片づけてしまうと、そのとたんに思考停止に陥りがちです。
結果的に品質が最高になったり、サービスがきめ細かくなったりするのは、もちろん良いことです。
しかし、ストーリーを語り起こす起点にいきなり肯定的な形容詞が出てきてしまうと、それに続くストーリーが「よし、頑張ろう……」という短い話で終わってしまいます。
サウスウエストの「空飛ぶバス」にしてもスターバックスの「第三の場所」にしても、肯定的な形容詞はどこにも見当たりません。
だからこそ、面白いストーリーの発火点となったのです。
コンセプトはできるだけ価値中立的な言葉で表現するべきです。

p279

人間の本性、それは文字どおり「本性」であるだけに、そう簡単には変わらないものです。
もちろんビジネスを取り巻く市場環境や技術、好不況といった基礎条件は常に変化しています。
新しい市場(今だったらインドやロシアや中国あたり)が急成長したり、新しい技術が生まれます。
しかし、このような「今そこにある機会」を捉えることに終始し、肝心の人間の本性を置き去りにしてしまっては、空疎なコンセプトしか出てきません。

インターネットが普及し始めた一九九〇年代の後半、これでビジネスのすべてが根こそぎ変わるというようなことが盛んに喧伝されました。
インターネットは隕石みたいなもので、それまで栄えていた恐竜はすべて死滅し、全く新しい世の中が始まるという話です。
もちろんインターネットそのものは画期的な技術です。
多くの企業がインターネットの台頭を機会と捉え、さまざまな「ビジネスモデル」を提案し、新しい事業へと参入しました。

しかし、ここで忘れてはならないのは、インターネットを使う人間の本性にはたいして変化はないということです。
すでにお話ししたように、Eコマースに参入した企業は無数にありましたが、多くの企業は「二四―七―三六五」(二四時間、七日、三六五日)で、「グローバル・リーチ」で、「ダイレクト」で、「ディスインターメディエーション」(中間業者をスキップできる)、こうした当時の流行り言葉をうたっていました。
しかし、これらはいずれも「どのように」についての方法論です。
表層にある方法をコンセプトと履き違えていた企業は、すぐに淘汰されました。
一〇年経ってみると、結局残っていたのはアマゾンや楽天など、人間の変わらぬ本性を見据えたコンセプトから戦略ストーリーを語り起こした企業ばかりです。

p282

コンセプトは人間の本性を見据えたものでなくてはならないという話は、産業財でも同じです。
当時、ネットベンチャーの新星として注目を集めていた企業の一つにバーティカル・ネットがあります。
バーティカル・ネットの標榜するコンセプトは「産業財のオンライン・マーケット」でした。
産業財の垂直的取引のポータルをめざして、たとえば化学業界向けの「ケミカル・オンライン」や水処理関連資材の「ウォーター・オンライン」といったように、産業分野ごとに五〇以上のサイトを運営していました。

この会社は次のような基準で、参入する産業財取引の市場を選定していました。
第一に、大規模市場であること。
特に、一定以上の広告投資のある市場であること。
第二に、支配的な企業がいない分散型市場であること。
第三に、新製品導入率が高いこと。
第四に、グローバルな業界であること。
第五に、その時点で多くの企業がすでにインターネットに慣れ親しんでいる業界であること。

以上の五つは、インターネットの性格を考えると、それぞれに合理的な理由があります。
バーティカルネットは本格的なEコマースに乗り出す準備として、まずは「コンテンツ&コミュニティ・モデル」といわれる、その場で決済まではいかないけれども、売り手と買い手がお互いに知り合うための情報コンテンツのサイトとしてスタートしました。
主要な収入源は、潜在的な顧客を獲得しようとする売り手からの広告料収入でした。
ですから、とりわけ一定以上(一〇〇〇万ドル以上)の広告投資のある市場であることは重要でした。
新製品が次々に出てくるような変化の速い市場のほうがインターネットの強みであるスピードを活かせますし、グローバルな市場のほうが、地球の裏側にいるかもしれない取引相手を発見できるというインターネットのリーチの広さが役立ちます。

p285

右で見た参入市場の五つの条件は、インターネットの強みを活かそうというものであり、その意味では「合理的」です。
しかし、それを使う人間の思考や行動についての洞察にあまりにも欠けていたことが問題でした。
経済学者のアマルティア・センさんの言葉を流用すれば、「合理的な愚か者」(rational fool)といってもよいでしょう。
空疎なコンセプトで筋の悪いストーリーを語り起こしてしまったというのがバーティカル・ネットの失敗でした。

振り返ってみれば、インターネットのように、新しい事業機会が華々しく生まれるときほど「合理的な愚か者」が多数現れる傾向にあります。
目先の新しい機会を追いかけることに終始し、そのため肝心の人間の本性をないがしろにしてしまい、コンセプトの不全に陥るという成り行きです。

人間の本性は変わらない p287

これまで繰り返し強調してきたように、戦略ストーリーは「長い話」でなくてはなりません。
ひとたびストーリーを固めれば、未来永劫とはいきませんが、向こう一〇年、一五年、できたら二〇年ぐらいは、同じストーリーで長期利益を獲得できるというのが理想です。
ストーリーは時流に合わせてころころ変えるものではありません。
ストーリーの寿命は、外的な機会が機会として存続する期間よりも、ずっと長くなければいけないのです。

できるだけ賞味期間の長いストーリーをつくるためにも、人間の変わらない本性を捉えたコンセプトが大切になります。
事業を取り巻く環境や機会は常に変化するものです。
絶えず変化していく環境や機会の表層を追いかけ回してしまうと、結局のところ目が回るだけで、筋の良いストーリーは生まれません。
だから、「変わらないもの」としての人間の本性を捉えたコンセプトが必要なのです。

p289

人間の本性を見つめる。
それは「マーケティング調査をして顧客のニーズを知りましょう」という話とはまるで異なります。
顧客のことを知悉しなければコンセプトは生まれませんが、だからといって顧客の声をいくら聞いても、人間の本性を捉えたコンセプトにはなりません。
顧客はそもそも「消費すること」「買うこと」にしか責任がないからです。
責任のない人に過剰な期待を寄せるのは禁物です。

p291

要するにコンセプトは、自分の頭で深くじっくりと考えるしかないのです。
どんなに投資をしても、自分の頭を使わなければコンセプトは構想できません。
流行の画期的な技術やそのときに華々しく成長している市場セグメント、今そこにいる顧客の声、こうした「外部の事情」に惑わされてはなりません。

人間の変わらない本性を見つめるためには、そのような表面的な誘惑や情報の洪水を意識的に遮断することがむしろ大切です。
宮本さんは、本社が京都にあることの意味について、「東京のように情報があふれていると、それに振り回されてしまって、かえって面白いゲームのコンセプトが出なくなるような気がする。
京都ぐらい中心から離れているところでちょうどよいのではないか」と語っています。
人間の本性を捉えた骨太のコンセプトをつくるためには、その製品やサービスを本当に必要とするのは誰か、どのように利用し、なぜ喜び、なぜ満足を感じるのか、こうした顧客価値の細部についてのリアリティを突き詰めることが何よりも大切です。
繰り返しお話ししてきたように、特に大切なのは「なぜ」についてのリアリティです。
グーグルで広範な情報を検索し、引っかかった情報をいくら深掘りしたところで、顧客価値についてのリアリティのある「なぜ」を手に入れることはできません。

およそあらゆる人にとって、一番リアリティのある「なぜ」は自分自身の生活や仕事の中にあるはずです。
自分自身ほどリアリティを持って理解できる「顧客」は他にはありません。
皆さんもご自身でモノやサービスを消費する状況を思い浮かべてください。
なぜそれにお金を払うのか、なぜ自分がそれに価値を感じるのか、無理して肩肘張らなくても、改めて振り返ってみればきわめてリアリティに満ちた「なぜ」が自然と思い当たるはずです。
消費財でなくても話は同じです。
ちょっとした便利さや価値、不便や不満は仕事の中で毎日のように感じたり、発見しているはずです。

ごく日常の生活や仕事の中で、嬉しかったこと、面白いと思ったこと、不便を感じたこと、頭にきたこと、疑問に思ったこと、そうしたちょっとした引っかかりをやり過ごさず、その背後にある「なぜ」を考えることを習慣にする。
回り道のように見えて、これがコンセプトを構想するための最上にして最短の道だというのが私の意見です。
どんなに画期的なコンセプトも、発想の初めの一歩はそうした日々の習慣の積み重ねの中から生まれるものだと私は思っています。

いろいろとお話ししてきましたが、この章のメッセージはシンプルです。
筋の良いストーリーをつくるためには、起点としてのコンセプトが何よりも大切になります。
「終わりよければすべてよし」は戦略ストーリーには当てはまりません。
起点が空疎であれば、それに続けてどんな打ち手を繰り出したとしても、強くて太くて長いお話はできないのです。
すべての始まりはコンセプト。
これがこの章でお話ししたかったことでした。

p295

起承転結がきちんとしているというのは、古今東西の優れたお話の基本条件ですが、その中でもとりわけ重要なのは、読み手の心をがっちりつかむような「起」と、ストーリー展開のツボとなる「転」の二つです。
戦略ストーリーでも同じです。
この章では戦略ストーリーの5Cのうち残された最後の一つ、「クリティカル・コア」についてお話しします。
クリティカル・コアは「転」にあたります。
ストーリーのヤマといってもよいでしょう。
コンセプトと並んで、クリティカル・コアは戦略ストーリーの優劣を決めるカギとなります。
サッカーにたとえれば、ゴール(長期利益)へのシュート(競争優位)に向けてさまざまなパス(構成要素)を繰り出すわけですが、その中でも「キラーパス」となるのがクリティカル・コアです。

「戦略ストーリーの一貫性の基盤となり、持続的な競争優位の源泉となる中核的な構成要素」、これがクリティカル・コアの定義です。
この定義を前段と後段に分解すると、クリティカル・コアの二つの条件が見えてきます。
第一の条件は、「他のさまざまな構成要素と同時に多くのつながりを持っている」ということです。
クリティカル・コアは文字どおりストーリー全体の中核、つまり他のさまざまな構成要素と深いかかわりを持ち、「一石で何鳥にもなる」打ち手です。
これは前段の「ストーリーの一貫性」に関連しています。

第二の条件は、「一見して非合理に見える」ということです。
ストーリーから切り離してそれだけを見ると、競合他社には「非合理」で「やるべきではないこと」のように見える。
しかし、ストーリー全体の中に位置づければ、強力な合理性の源泉になる。
クリティカル・コアの特徴はこの二面性にあります。
この意味で、クリティカル・コアはストーリーに「ひねり」を利かすものであり、起承転結の「転」なのです。
この第二の条件は、定義の後段の「持続的な競争優位」に関連しており、とりわけ重要な意味を持っています。

スターバックスのストーリー p296

概念的な定義だけではわかりにくいので、以下では、前章のコンセプトのところでも使ったスターバックスコーヒーの事例で見ていきましょう。
スターバックスの戦略ストーリーを、例によってエンディングのほうから読み解いていくことにします。

まずは長期利益に向けたシュート、すなわち競争優位です。
日本でのスターバックスの競争相手の一つにドトールコーヒーショップがあります。
ドトールは低コストにシュートを定め、長い間コーヒ一杯を一八〇円という価格で提供していました。
これに対して、前にもお話ししたように、スターバックスの意図する最終的な競争優位はWTP(Willingness To Pay:顧客が支払いたいと思う水準)の増大にありました。
エスプレッソ・ベースのコーヒーは、当初は(アメリカでは)珍しいサービスでした。
しかし、アメリカだけで七〇〇店という急速な出店を初期の段階から計画していたことからもわかるように、スターバックスはニッチにとどまるつもりはありませんでした。
つまり、「無競争」ではなく、他社と競争しつつも、より大きなWTPを獲得することがスターバックスの意図した競争優位でした。

顧客がより大きなWTPを感じるということは、スターバックスにそれだけプラスアルファの価値があるということです。
その価値の本質は何か。
この問いに対する答えがコンセプトです。
すでにお話ししたとおり、「第三の場所」(third place)、これがスターバックス独自のコンセプトでした。
つまり、コーヒーを売るのではなく、ゆったりとした雰囲気の中でリラックスするという経験なり文化なりを売るということで、コーヒーそのものは、そのための手段であるという考え方です。
第三の場所というコンセプトの定義は、単価を上げるだけでなく、顧客の来店頻度を上げるという意味でもWTPの増大に貢献します。
日常的な避難場所として顧客は習慣的にスターバックスに来るようになります。

サッカーにたとえれば、WTP(競争優位)と第三の場所(コンセプト)がスターバックスの戦略ストーリーのツートップだということです。
このツートップで長期利益のゴールにボールをたたき込もうというのがストーリーのエンディングの部分です。

ツートップを固めると、次に問題となるのは「パス出し」、つまりコンセプトを構成要素へとブレイクダウンしていくという作業です。
スターバックスが第三の場所の実現に向かって繰り出したパスを、「店舗の雰囲気」「出店と立地」「オペレーション形態」「スタッフ」「メニュー」の五つに大まかに分類してお話しすることにしましょう。
ここで重要なポイントは、一つひとつの構成要素がなぜ、どのように第三の場所というコンセプトとつながるのかという論理です。

①店舗の雰囲気
ゆっくりとリラックスできる雰囲気の店舗、これはいうまでもなく第三の場所の実現にとって大切な要素です。
店内の雰囲気を快適で落ち着くものにするために、スターバックスはさまざまなパスを繰り出しています。
前章でお話しした店内禁煙もその一つです。
コーヒーの香りはリラックスの重要な要素です。

間接照明、緩やかなBGM、座り心地の良い大きめのソファ、相対的に(たとえばドトールと比べてずっと)少ない店舗面積当たりの席数、さまざまなリラックスの仕方(一人でくつろぐとか、友達とおしゃべりをするとか)に合わせて異なったタイプの席を用意するというレイアウト、これらはすべて第三の場所というコンセプトの実現にとって有効なパスです。

細かい話になりますが、持ち帰りではなく店内で飲む場合でも、スターバックスの多くの店では紙コップを使います。
これもまたコンセプトにつながる選択です。
陶器のカップを使うと店内にカチャカチャというノイズが広がり、第三の場所の邪魔になるからです。

②出店と立地
スターバックスはプレミアム立地に集中して出店するという戦略をとりました。
日本に参入したときも当初は、銀座から始まって、丸の内、大手町、六本木、麻布、渋谷、青山といった一等地に出店を限定していました。
この時期は、松戸とか錦糸町には出店しませんでした(松戸も錦糸町もそれぞれにイイ街ではありますが)。

なぜ「プレミアム立地」がスターバックスのストーリーにとって重要か、その因果論理を検討してみましょう。
まず思いつくのは、そういう一等地には人がたくさんいるし、懐具合が温かい人々が多そうだからWTPをとりやすい、という論理です。
しかし、これだけでは十分な説明ではありません。
確かにシュートはWTPなのですが、スターバックスのストーリーは漠然とWTPを追いかけるものではありません。
WTPが増大する根拠が第三の場所というコンセプトで明確に定義されています。
一等地集中という立地の選択がなぜ第三の場所の実現につながるのか、その論理を考えなくてはなりません。

スターバックスが重視したのは、ターゲット顧客がスターバックスを利用する文脈です。
第三の場所が念頭に置いているターゲットは、「第二の場所」(オフィス)でアタマを使ってキリキリと仕事をしているようなビジネスパーソンです。
そういう人はリラックスできる「避難所」を日常的に必要としています。
しかも、それは「第一の場所」(自宅)とも違って、一人もしくは気の置けない友人とくつろぐ場であるべきです。

面白いのは、リラックスというのは相対的な概念だという創業者のハワード・シュルツさんの洞察です。
つまり、右でお話ししたように、店内がゆったりした雰囲気になっていることはもちろん大切なのですが、それと同時にスターバックスに入ってくるまでは、お客さんがなるべくハイテンションでいてくれるほうが望ましいというわけです。
店に入る直前まで、テンションが高い状況にあれば、それだけスターバックスの雰囲気とのギャップが大きくなり、リラックスを実感させやすくなります。

東京でいえば、丸の内とか大手町のようなビジネス街の、アタマを使って緊張して仕事をしている人が多い地域にまず出店する。
買い物でテンションが上がりがちな人が多い銀座に出店する。
直前までハイテンションであるだけに、スターバックスに入ったお客さんはリラックス空間をより強く実感するだろう。
そうであれば、スターバックスのコンセプトが構想する顧客価値をより効果的に浸透させることができる、というわけです。
プレミアム立地というパスが、第三の場所というコンセプトにつながる因果論理がよく詰められていることがわかるでしょう。

スターバックスはニッチにとどまるつもりは毛頭ありませんので、今ではもちろん郊外にも数多くの店を出しています。
松戸や錦糸町にもスターバックスがあります(私が住んでいる鷺沼にはまだありませんが)。
ただし、こうした「非プレミアム立地」に進出したのは、日本に参入後、数年経ってからのことです。
スターバックスにとって初期の段階で最も重要なことは、そのコンセプトを顧客に浸透させ、理屈ではなく身体に感じさせることでした。
いきなり松戸や錦糸町に出店してしまえば、そもそもわりとリラックスした街なので、スターバックスに入ったときのリラックスの実感を与えにくくなります。
コンセプトが効果的に伝わりません。
第三の場所のイメージが世の中に十分に浸透するのを待って、ブランドイメージを確立してから松戸や錦糸町にも遅れて出店するという成り行きです。

出店に関して、もう一つ興味深いパスがあります。
それは「クラスタリング」と呼ばれる集中出店です。
これを書いている時点では、スターバックスは東京・港区だけで五〇店舗近くあります。
六本木ヒルズ内だけでも三店舗です。
外食産業の常識からすれば「共食い」してしまうような密度であえて出店する。
これがスターバックスの重視している店舗のクラスタリングです。

なぜこんなことをするのでしょうか。
クラスタリングの背後には、店舗そのものをプロモーション手段にするという発想があります。
裏を返せば、スターバックスは新聞、雑誌、テレビといったメディアでのマスプロモーションにあまりお金をかけません。
その理由は、コンセプトにつながる因果論理を考えれば明らかです。
もし、スターバックスの提供価値が第三の場所といった空間や経験ではなく、「ものすごくおいしいコーヒー」とか「オリジナルのメニュー」であれば、マスプロモーションは効果的でしょう。
言語やイメージで価値を伝えやすいからです。

ところが、スターバックスはより込み入った経験価値を提供しようとしています。
「ストレスがかかる日常の中でのひとときのリラックス」という価値は、文字にしてしまえば簡単ですが、顧客に実際に経験してもらわなければ、中身が正確に伝わりません。
人目につくトラフィックの多い立地に、これでもかというぐらい数多く出店し、とにかく一度は第三の場所を丸ごと経験してもらわないことには話が始まらないのです。

プレミアム立地と同様、このことは特に初期の段階で大切になります。
スターバックスを経験すれば、全員ではなくても一定割合の人は第三の場所が心に響き、気に入ってくれる。
そうした人々の何割かはリピーターになり、コンセプトをきちんと理解してくれる。
そうした人々による口コミが正しくコンセプトを広め、新たな来店者を増やし、彼らの実感がさらにコンセプトを浸透させる。
こうした好循環を起こすために、スターバックスは広告投資を抑え、その代わりに店舗そのものをプロモーション拠点にしたわけです。

③オペレーション形態
チェーン・オペレーションの形態としては、大別してフランチャイズ方式と直営方式の二つがあります。
空港内店舗など一部の例外を除いて、スターバックスは当初から原則的にすべての店舗を直営で展開しました。
日本でも同じです。
サザビー(現サザビーリーグ)とのジョイントベンチャーで「スターバックスコーヒージャパン」を設立し、駅や空港などの直営方式での出店が困難な商圏を除いて、すべての店舗を直営で運営しています。

第三の場所というコンセプトを実現し、維持するためにはサービスのさまざまな側面で細かいコントロールが必要になります。
そのためには、個々の店舗に独立のオーナーがいるフランチャイズ方式ではなく、直営方式が必要になるという考え方です。

④スタッフ
スターバックスは店舗でのサービスに従事するスタッフを「バリスタ」と呼んでいます。
バリスタというのはバーテンダーのイタリア語で、もともとはイタリアのバール(コーヒーや軽食、ちょっとしたお酒を出す立ち飲み中心のカフェ)の店員を指す言葉です。

スターバックスがまだコーヒー豆の小売会社だった一九八三年、シュルツさんは仕入れの仕事でイタリアのミラノに出張しました。
そのときに彼は初めてイタリアのバールを経験し、その文化的な深みにいたく感銘を受けました。
訪れる人々をほっとさせるようなバリスタの振舞いがとりわけ印象的だったそうです。
この経験が、現在のスターバックスを創業するきっかけになりました。
それだけに、インテリアやエクステリア、店舗のレイアウトといったハードウェアだけでなく、バリスタという人的資源が第三の場所にとって大切な要素であるということが、当初から強く意識されていました。

私はミラノにあるボッコーニ大学の経営大学院で教えていたことがあるのですが、さすがに本場だけあって、キャンパスの周りにはたくさんのバールがありました。
講義の間などちょっとした空き時間にいつものバールに行くと、そこには顔見知りのバリスタがいます。
お客さんにも知った顔がいて、ちょっとした無駄話をしながらコーヒーでリラックスする。
まさに第三の場所です。

私もあるバールをひいきにして、いつもそこに行っていたのですが、そのきっかけもバリスタでした。
初めてその店に行ったときから、彼はちょうどよいあんばいに無駄話を持ちかけてくれました。
ミラノで何してるの、というところから始まって、なぜ人々が頻々とバールに来るのかとか、なんで道端に二重に縦列駐車をするのかとか、イタリアの女性がストッキングを履かないのはなぜかとか、行くたびにそんな無駄話をしているうちに、私はすっかりその店が気に入ってしまい、ちょくちょく顔を合わせる知り合いも増え、気がつくと自分の第三の場所になっていました。
バリスタの無駄話はいちいち気が利いていて、客あしらいもつかず離れずという絶妙のものでした。

これは伝統に裏打ちされた本場の技量なので一朝一夕にはまねができないサービスでしょうが、スターバックスもバリスタの育成に相当な手間ひまをかけています。
バリスタ人材を育成するために、スターバックスはすべての従業員(その多くはパートタイマー)に二四時間の教育プログラムを実施しました。
おいしいコーヒーを適切に淹れることができるのはもちろん、バリスタにはお客さんとのコミュニケーション、気の利いた応対やコーヒーについての知識の提供が求められます。
お客さんへのあいさつにしても、チェーン展開をしている競争相手のほとんどは、マニュアルどおりの機械的な応対です。
しかし、スターバックスのバリスタは、バリスタによってあいさつの仕方が違ったり、しょっちゅう来るお客さんであれば顔を覚えていてちょっとした会話をします。

スキルやノウハウを持ったバリスタを定着させるために、スターバックスは週二〇時間以上働く人々を「パートナー」と呼び、ストックオプションや健康保険の適用など、さまざまなベネフィットを提供しました。
アメリカでは国民の三〇%程度が無保険者であり、パートタイマーにまで健康保険を適用する企業はほとんどなかったことを考えると、例外的に手厚い制度であるといえます。
これもまた人的資源が第三の場所の重要な構成要素として位置づけられているということの表れです。

⑤メニュー
第三の場所の提供が目的であり、コーヒーという商品はそのための手段だとしても、高品質のコーヒーは顧客が第三の場所を楽しむために必須の条件です。
スターバックスはアラビカ種のプレミアムコーヒーにこだわり、自社工場で深くローストした豆を使いました。
訓練されたスタッフが標準化されたプロセスでコーヒーを淹れることにより、どこの店でも同じレベルのコーヒーを提供できるように、オペレーションを厳格にコントロールしました。

新鮮さを保つために、コーヒー豆は包装を開封してから七日以内に消費されなくてはならないというルールが設定されました。
七日以上経過した豆はローカルのチャリティに寄付されました。
このように鮮度にこだわるのは、一つには味のレベルを保つためです。
しかし、それ以上に大切な理由は、店内に広がる心地よい香りを維持することにありました。
コーヒーの香りは豆の鮮度によって大きく左右されます。
コーヒーの香りは第三の場所の雰囲気づくりにとってきわめて重要な要素であるという考え方です。

メニューは、ラテやカプチーノ、マキアート、コンパナといった(アメリカ人にとっては)聞き慣れない商品を中心に構成されました。
これもまたコンセプトにつながるパスになっています。
アメリカでは日本よりも一人当たりのコーヒーの消費量がもともと多かったのですが、自宅やオフィスで彼らが飲むコーヒーはほとんどの場合、例の薄くてごくごく飲めるアメリカンなそれでした。
メニューにはそうしたアイテム(カフェ・アメリカーノ)もあるのですが、そうした「普通のコーヒー」を前面に出さないほうが、自宅やオフィスとは異なる第三の場所としての価値がはっきりします。

さまざまな種類のコーヒーがあるだけでなく、温度をぬるめにするとか、普通のミルクをローファット(低脂肪)にするとか、エスプレッソ・ショットを追加してより深い味にするとか、スターバックスは顧客の好みによってカスタマイズに応じました。
これにしても、リラックスするという経験があくまでもパーソナルなものであり、人それぞれで違うということを重視したからです。

コーヒーのメニューやコーヒーを淹れるプロセスは厳密に標準化されましたが、その一方で店舗で販売するフード(スナックやデザートなど)については、それぞれの店舗や地域で地元のものを仕入れるというやり方がとられていました。
平たくいえば、スターバックスはフードにはそれほど力を入れていませんでした。

日本の例になりますが、ドトールはスターバックスよりもフードに力を入れています。
「ジャーマンドック」や「ミラノサンド」といった軽食は、ドトールのターゲット顧客、つまり次の仕事のアポイントメントまでの一五分といった時間帯を使って一休みする(しかもタバコも吸える)ような、慌ただしい人々に人気のメニューです。
時間がないときに、コーヒーと一緒に短時間で食事ができるからです。

スターバックスはレストランではないので、フードメニューに力を入れてしまうと、ドトールのような「効率的な食事の場」として使われてしまうというリスクがあります。
そうなれば、第三の場所というメンタルな価値よりも、短時間での食事という機能的な価値が前面に出てしまいます。
食品の提供は短期的には顧客単価の増大をもたらすのですが、それでコンセプトがあいまいになってしまえば元も子もないので、スターバックスは意識的にフードには力を入れなかったのです。

p315

要するに、第三の場所を維持するために、スターバックスは忙しい人々にあえて嫌われようとしているわけです。
しかし、別の視点から見れば、これは「わざわざ人件費をかけてお客さんを待たせ、回転率を悪くする」というとんでもなく非効率な話です。
「わざと待たせる」というパスは第三の場所の維持にとって大切な意味を持っているのですが、こんなことをフランチャイズ店のオーナーに期待しても、それは無理というものです。
ここからも、スターバックスのストーリーが直営方式を必要とするという因果論理が読み取れます。

直営方式がストーリーのクリティカル・コアになっているということをおわかりいただけたと思います。
このくだりで私が最も強調したかったことは、クリティカル・コアがストーリー全体に一貫性を与えているということです。
クリティカル・コアとコンセプトはストーリー全体の一貫性を高めるうえで、車の両輪のような役割を果たします。
すべての構成要素がコンセプトと強い因果論理でつながっていれば、ストーリー全体の一貫性が高まります。
それと同時に、数多くの構成要素と同時につながりを持つクリティカル・コアがあれば、ストーリーを太くすることによって一貫性を強化することができます。

一見して非合理――持続的な競争優位の源泉 p316

クリティカル・コアの第二の条件に話を進めましょう。
それは「一見して非合理」ということです。
競争相手が非合理だと考えるような要素をあえてストーリーの中に組み込む。
これがクリティカル・コアの文字どおりクリティカルなポイントになります。

スターバックスの直営方式は、この第二の条件も強力に満たしています。
右でも詳しくお話ししたように、フランチャイズ方式と比較した場合、直営方式は明らかに「一見して非合理」な選択です。
スターバックスの戦略ストーリーは、短期間のうちに数百店規模でコーヒーショップのチェーンを展開しようという話ですから、客観的に見れば、少なくとも以下のいくつかの理由でフランチャイズ方式のほうが合理的なはずです。

第一に、低コストという合理性です。
フランチャイズ方式のほうが、少ない初期投資で急速に店舗数を拡大できます。
第二に、低リスクという合理性です。
フランチャイズ方式であれば、もし失敗したとしても、全部を本部で被る必要はありません。
オーナーとリスクを分散することができます。
第三に、深い知識という合理性です。
フランチャイズ店のオーナーは何らかの理由でその商圏に関係があるはずで、そこにいるお客さんについてよりよく知っているはずです。
第四に、高いモチベーションという合理性です。
フランチャイズ方式であれば店長は独立した経営者として、その店舗と一蓮托生です。
うまくいけば、それだけ実入りも多くなります。
直営店の雇われ店長とは真剣さが違ってくるはずです。

スターバックスは短期間での大量出店を明確に意図していました。
しかも、独立系のベンチャー企業ですから、投入できる資源は限られていました。
にもかかわらず、直営方式を選択したという「非合理」は注目に値します。

スターバックスが株式を公開するとき、シュルツさんは多くの投資家やアナリストの前でスターバックスの戦略ストーリーを繰り返し説明させられました。
投資家やアナリストはシュルツさんのストーリーをおおむね好意的に受け止めました。
ところが、話が直営方式のくだりに差しかかると、決まって強烈な異論、反論が巻き起こったそうです。
「直営方式へのこだわりはナンセンスだ。
すべての店舗を自前で抱えてしまえば、分母が大きくなってしまうから、必然的にROA(総資本利益率)は低下する。
出店スピードも鈍る。
投資家はとにかくROAとスピーディーな成長を期待している。
直営方式に替えてフランチャイズ方式を真剣に検討すべきだ」というのが典型的な反論でした。

しかし、「たとえ一時的なロスを抱えるにしても、直営方式は絶対に変更しない」というのがシュルツさんの反応でした。
つまり、シュルツさんは直営方式がそれ自体では「一見して非合理」であるということを十分に知りながら、ストーリーの中核に置いていたわけです。

スターバックスの戦略ストーリーの全体像をすでに読み取っている皆さんにしてみれば、直営方式の合理性はもはや明らかです。
お話ししたとおり、フランチャイズ方式にしてしまえば、周囲のパスをどんなに繰り出しても、意図するコンセプトの実現はままなりません。

しかし、ここがポイントなのですが、直営方式の合理性は、ストーリー全体の中に置いてみなければ、絶対に理解できません。
ストーリーの筋の流れの中に位置づけて初めて、これまでお話ししてきたような直営方式の必要性と重要性が見えてくるのです。
つまり、「それだけでは一見して非合理だけれども、ストーリー全体の文脈に位置づけると強力な合理性を持っている」という二面性、ここにこそクリティカル・コアの本質があります。

なぜ「一見して非合理」が重要になるのでしょうか。
その理由は競争優位の持続性に深くかかわっています。
違いをつくっても、それがすぐに他社に模倣されてしまうようなものであれば、一時的に競争優位を獲得できても、すぐに違いがなくなり、元の完全競争に戻ってしまいます。
そうなると利益は期待できませんから、簡単にはまねできないような違いをつくるということが戦略の重要な挑戦課題です。
これが競争優位の持続性という問題です。

他社がまねできないような違いとは何か。
おそらく一番ストレートな、誰もが思いつくことは、「時間的先行による専有」です。
これから伸びるだろう市場に誰よりも早く参入し、顧客を囲い込むことができれば、それは他社がすぐにはまねできない強みになります。
他社に先駆けて技術を開発し、特許で押さえてしまうというのも同種の論理です。

本章でお話ししたストーリー全体の一貫性も、それ自体で持続的な競争優位の源泉となりえます。
いくつかの構成要素をまねできたとしても、ストーリー全部を丸ごとまねすることはできないし、するにしても時間がかかるという論理です。

しかし、こうした論理に共通しているのは、実際にまねできるかどうかは別にして、少なくとも競争相手は「(それが良いことなので)できるものならまねしたい」という意思を持っているということです。
これに対して「一見して非合理」というクリティカル・コアは全く違った論理を意図しています。
それは「動機の不在」です。
そもそも競争相手がまねようという動機を持っていなければ、まねされないのはいたって自然な話です。

もっといえば、競争相手による「意識的な模倣の忌避」という論理です。
競争相手がわれわれのしていることを非合理だと考えていれば、たとえ「まねしてください」とお願いしても「イヤだよ」と向こうから断ってくれるでしょう。

「A(構成要素)がX(望ましい結果)をもたらす」という因果論理がその業界や周囲にいる第三者に広く定着しているとします。
同時に「BがXを阻害する」という信念が共有されていたとしましょう。
このときにAは「合理的」で、Bは「非合理」です。
多くの会社がAを選択し、Bには手を出さないはずです。
こうした状況で、ある会社がBという構成要素を中核に据えたストーリーをつくったらどうなるでしょうか。
競争相手は「何をバカなことを……」と冷笑するか、黙殺するでしょう。
Bをまねする動機がそもそもないのです。
むしろ、Bをやる企業が出てくることによって、自分たちがやっているAの合理性をより強く認識するでしょう。
そうした会社の側には「意識的な模倣の忌避」が生じ、より積極的にAの方向に踏み出すかもしれません。
つまり、模倣による同質化とは反対に、敵が自ら距離を置いてくれるというわけです。

その後時間が経過し、その一見して非合理なことをやっていた会社(以下、「非合理会社」)が長期利益をたたき出すようになると、当然のことながら競合他社も「非合理会社」の強みを認識し、戦略を模倣しようという動機が生まれます。
いくつかの構成要素はまねされるかもしれませんが、ここでも「非合理」なBの要素についてはまねされる可能性は依然として低いでしょう。

「非合理会社」の戦略ストーリーは、Bを中核として組み立てられています。
ですから、いくつかの構成要素をまねしたとしても、一見非合理なBにまで手を出しきれない他社は、同じストーリーの全体を手に入れることができません。

ストーリーを読み解くセンスに優れた競争相手は(そういう企業は実際のところあまり多くないのですが)、Bにこそ競争優位の根幹があるということを見抜くかもしれません。
しかし、それまでさんざん「合理的」なAの路線で事業を展開してしまっていますから、いきなり回れ右をしてBにスイッチすることは困難です。
その場合、既存のストーリーを全部書き換えなければなりません。
これには不可能といえるほど、長い時間と多くのコストを要するのが普通です。

この話の「非合理会社」にスターバックス、Aにフランチャイズ方式、Bに直営方式を当てはめてみると、スターバックスのクリティカル・コアがなぜ持続的な競争優位の源泉となりえたのかが理解できると思います。

スターバックスにはある程度の先行者優位がありました。
優れた立地の先行的な確保などの点で、スターバックスの競争優位のある部分は時間的な先行性で説明できるかもしれません。
しかし、すでにお話ししたように、シアトルズベストコーヒーのように、早い段階から「スペシャリティーコーヒを提供して人々がゆっくりくつろげるような経験を提供する」という事業のポテンシャルに気づき、スターバックスを追撃した企業は数多くありました。
先行者優位だけでスターバックスの持続的な競争優位は説明しにくいのです。

スターバックスのストーリーの構成要素には特段に難しいものはありません。
特許で保護された技術があるわけでもないし、特別な熟練やノウハウを必要とするオペレーションがあるわけでもありません。
もしすべての構成要素が他社にとって合理的に思えるようなものであったら、早くから丸ごとまねをする企業が出てきてもおかしくないように思えます。
現に、店舗の雰囲気や立地、メニューといった要素については多くの企業がスターバックスを多かれ少なかれ模倣しました。

にもかかわらず、なぜスターバックスの戦略ストーリーは持続的な競争優位を持ちえたのか。
シアトルズベストコーヒーのようなわりとベタな追随企業であっても、その多くがフランチャイズ方式で急速な店舗展開に乗り出したことを思い出してください。
競争相手の目には「一見して非合理」に映る要素がスターバックスのストーリーに組み込まれていたからこそ、この要素については競争相手も模倣しなかったのです。

繰り返しますが、「まねできなかった」のではなく、そもそも「まねしようと思わなかった」というのがポイントです。
「動機の不在」と「意識的な模倣の忌避」のほうが、スターバックスの持続的な競争優位をうまく説明する論理なのではないか、というのが私の考えです。

賢者の盲点を衝く p322

「それだけを見ると一見して非合理なのだけれども、ストーリー全体の文脈では強力な合理性を持つ」というクリティカル・コアは、部分の合理性と全体の合理性が別ものであるということに着目しています。
戦略全体の合理性は、部分の合理性の単純合計ではありません。
逆にいえば、誰にとっても合理的な要素だけでできているストーリーは面白みに欠けるということです。

クリティカル・コアが非合理に見えるのは、競争相手のミスや勘違いではなくて、それが非合理であるという合理的な理由(ちょっとややこしい表現ですが)があるからです。
部分的な非合理を他の要素とつなげたり、組み合わせることによって、ストーリー全体で強力な全体合理性を獲得する。
これがストーリーの戦略論の面白いところです。

ストーリーの本質は「部分の非合理を全体の合理性に転化する」ということにあります。
昔から「損して得取れ」とか「負けるが勝ち」とか「肉を切らせて骨を断つ」(これはちょっと違うかな?) というような言い回しがありますが、こうした言葉はクリティカル・コアと共通の論理を示唆しているといえそうです。
いずれにせよ、この意味で、クリティカル・コアはストーリーにひねりを加える「転」であり、シュートの決定的チャンスをつくり出す「キラーパス」なのです。

p326

「ただの愚か者」は論外です。
「合理的な愚か者」は、ベストプラクティスを満載しているようでいて、結局のところ自滅してしまいます(ただし、独自の戦略ストーリーをつくろうとする人は、鳴り物入りで登場する「合理的な愚か者」にはくれぐれも惑わされないように注意する必要があります)。
「普通の賢者」は文句のつけようがないストーリーを語るのですが、みんなが「正しい」と思う要素ばかりでストーリーが組み立てられているので、競争優位を獲得できても、遅かれ早かれ模倣される可能性があります。

これに対して、戦略の玄人は賢者の盲点、すなわち部分合理性と全体合理性のギャップに持続的な競争優位の源泉を見出します。
賢者の盲点を衝くようなキラーパスを中核に据えて、一貫した戦略ストーリーを構築すれば、「君子危うきに近寄らず」とばかりに、競争相手はむしろ自分から離れてくれます。
自然と他社との違いが持続し、競争優位も維持されるという成り行きです。

p332

デルの戦略ストーリーのキラーパスは何だったのでしょうか。
ここで見てきたような一見して合理的な打ち手ではなく、「自社工場での組立て」こそがキラーパスになっていたのではないか、というのが私の見解です。
一九九〇年代後半時点のデルは、世界に五つあった自社の生産拠点で、自社の従業員を使って出荷するすべてのPCを組み立てていました。
たとえばアメリカ市場向けのPCは、全量がテキサス州オースティンの自社工場で組み立てられていました。

PCなどの標準部品から構成される製品分野では、組立工程は労働集約的なわりには付加価値が低く、バリューチェーン分析をすれば真っ先にアウトソーシングに出される機能でした。
前にお話しした「スマイルカーブ」のモデルが主張するように、PCのような製品で組立工程を内部に抱えるのはあからさまに非効率だと考えられていました。
そこで多くの企業は、「スマイルカーブ」の教えに忠実に、労働コストが安いアジアに拠点を置くPCメーカーやEMS(Electronics Manufacturing Service)と呼ばれる製造専門企業に組立工程を委託していました。

それにもかかわらず、デルは一見して非合理な「自社工場での組立て」にこだわりました。
なぜならば、デルの意図する戦略ストーリーを十全に動かすためには、組立工程を自前で持つことが不可欠だという認識があったからです。

組立てを委託生産にしてしまうと、その部分に限定してみれば安上がりかもしれません。
しかしストーリー全体を考えれば、組立工程をアウトソーシングしてしまうと、生産部門と他部門との日々の細かい調整やきわめてきめの細かいコントロールができなくなり、結果的にデルのめざした低コストのオペレーションが実現できなくなってしまいます。

デルのオペレーション担当副社長(当時)のキース・マクスウェルさんは次のように言っています。

デルの生産システムの下では、組織全体がインテグレートされていなければならない。
バッファを取り除いて在庫がなくなるということは、組織全体が完全に連動して、一丸となって機能しなければならなくなるということを意味している。
どんな仕事でも後回しにしたり、途中にためておくことができない。
「山積みになった仕事」という概念が、そもそもないからだ。

顧客からの注文を受け取ると、デルはすぐさま注文内容を適切な生産拠点に電子的に転送します。
生産拠点ではその注文に合わせた部品リストが自動的に作成され、トラッキングのためのバーコードが取りつけられます。
オースティン工場の場合、PC一台分の部品がすべて一つの箱にまとめられ、五人組のセル生産のチームに移送され、組立てが行われます。
組立て後、PCはソフトウェアのローディング・ゾーンに運ばれ、特別仕様のコンピュータと高速ネットワークを使って顧客が指定したソフトウェアがインストールされます。
最後にさまざまなアクセサリーとともにPCが箱詰めされ、顧客へと発送されました。
このように実際の特定の注文を受けてからカスタマイズしたPCを組み立てるため、「標準モデル」の最終製品在庫は一切ありませんでした。

こうした生産プロセスが可能になるように、デルの生産拠点はサプライヤーとも日常的に細かい調整を繰り返していました。
オースティン工場を例にとると、二〇四あったサプライヤーの数は一九九○年代の後半には四七まで絞り込まれ、残った四七社とは電子的なネットワークで部品の補充ニーズを一時間ごとにやり取りできる体制が構築されました。

さらにデルは、サプライヤーに対して生産拠点や倉庫そのものを自社の組立工場の近くに設置する(co-location)よう働きかけました。
このような高度に統合された生産システムがあって、初めて「直販」「カスタマイゼーション」「受注生産」「無在庫」といったデルの強みが可能になったわけです。

競争が激しいPC業界にもかかわらず、デルは一貫して業界標準を大きく上回る利益を出し続けました。
当然の帰結として、デルの成功を見た競合他社はデルの戦略をつぶさに調べ上げ、あらゆるPCメーカーがデルのやり方を取り入れようとしました。
しかし、デルの戦略ストーリーを丸ごと模倣しようという企業はありませんでした。
結果的に、デルの競争優位は長期的に維持されました。

なぜでしょうか。
一つの理由としては、チャネルのコンフリクトから来るトレードオフがありました。
他社はすでにチャネルを使った販売体制をつくってしまっていたため、デル的な直販に乗り出してしまうと、これまでのチャネルとコンフリクトが生じてしまいます。
ですから、すぐには直販にシフトできません。
しかし、「デル・ダイレクト・モデル」が飛び抜けて成功しているのは誰の目にも明らかでしたから、他社はなんとかデルに追いつこうとして、直販への取組みを積極的に進めました。

たとえば、IBMです。
IBMはデルのダイレクト・モデルの脅威に最も早く気づいた競合企業の一つでした。
一九九二年には「アンブラ」(Ambra)と名づけた独立事業部を構え、顧客への直接販売に乗り出しました。
しかし、アンブラは当初の目標を達成できず、一九九四年には事業部が解散しています。
一方のデルは、一九九六年に「デル・オンライン」を開始しました。
すると、IBMは一九九八年に「アプティバ」(Aptiva)と名づけた製品ラインを用意し、インターネットを通じたPCの直販を始め、デルに追随します。

ただし、こうした直販化の取組みの一方で、IBMはPCの組立てに関しては依然として外部企業への委託を続けていました。
アンブラの組立ては低コストの外部の製造業者に委託されました。
アプティバは台湾のエイサーからのOEM供給でした。
直販の恩恵は手に入れたい。
しかしその一方で、労働集約的な組立てまでも自前で抱えてしまうのはあまりにも非合理だ。
だから委託生産によってコストを低下させよう。
これがIBMの「合理的」な選択でした。

裏を返せば、自社組立てにこだわるという、他社からして「非合理」に見える(ただし、ストーリーを構想したデル自身はその要素の合理性を完全に理解している)要素が効いていたことが、デルの戦略ストーリーの模倣を阻止したわけです。
この意味で、「自社工場での組立て」がデルのキラーパスとして持続的な競争優位の構築に一役買っていたというのが私の解読です。

p342

ベゾスさんは言います。
「リアルな店舗の時代、成功のために大切なことは『一に立地、二に立地、三に立地』だった。
われわれにとって最も大切なものを三つ挙げれば、『技術、技術、技術』だ」。
アマゾンに独自のオペレーション技術が生まれる場となり、技術蓄積の受け皿となるのが物流センターでした。
自前の物流センターなしには、現在の小売業界最高水準を誇る在庫回転率もありえませんでした。
物流センターの効率的なオペレーションがあって初めて、顧客インターフェース部分でのさまざまな価値提供が可能になったのです。

p351

「A(施策)がB(結果)をもたらす」という近視眼的な因果論理が、その業界の通念として広く定着しているとしましょう。
ストーリー全体の流れを見渡せば、「Bをもたらすのは、実はAよりもCである」という意識の外にあった変数がしばしば見出されるものです。
もしくは、ストーリーの組立てによっては「Aであるほど実はBが阻害される」という逆説(パラドックス)が導かれる可能性もあります。
こうした「視界の拡張」「視点の転換」、もっといえば「目から鱗」となるキラーパスを引き出すのがストーリーの戦略論の本領です。

クリティカル・コアの論理が「先見の明」と大きく異なるのは、外部環境の変化に依存しないということにあります。
「先見の明」の論理では、戦略が事後合理性を獲得するためには、外部環境が期待したとおりに変化してくれなくてはなりません。
確かに時間的には変化の先読みをしているのですが、本当のところどうなるかは実際の外部環境の成り行き次第です。
外部環境に対して「受け身」の姿勢になります。
この意味で、事後の合理性に期待する戦略は「やってみなければわからない」のです。

もちろんどんな戦略も、最終的には「やってみなければわからない」という不確実性を抱えています。
競争優位の源泉が「バカなる」であれば、単に合理的なことをしようとする戦略と比べて、不確実性は不可避的に大きくなります。
しかし、「事前と事後」と「部分と全体」では、想定する不確実性の中身に大きな違いがあります。
それは不確実性が外部の環境要因にあるのか、それとも戦略の内部にあるのか、という違いです。

部分非合理を全体合理性に転化するというクリティカル・コアは、ストーリー全体を構想することによって、その戦略が有効性を発揮するコンテクストを自ら意図的につくろうとします。
ですから、外部環境が「先見」のとおりに動いてくれるかどうかにそれほど依存しなくても、独自の競争優位をつくることができるのです。

スターバックスの直営方式やマブチモーターの標準化、サウスウエスト航空のハブ空港を使わない運航、こうしたキラーパスはいずれも競争相手には非合理に見えました。
しかし、ストーリー全体についての構想を持っていたハワード・シュルツさんや馬渕隆一さん、ハーブ・ケレハーさんにとっては、事後の成功を待たずとも、ストーリーの文脈でキラーパスの合理性は事前から明らかでした。
彼らには外部環境の(想定どおりの)変化を期待する必要はありませんでした。
なぜならば、ストーリーを構想することによって、キラーパスが合理性に転化するメカニズムを自らつくり出しているからです。

p353

もっといえば、本当の意味での「先見の明」による成功は、あったとしても例外的で、ほとんどの会社にとってあまり参考にはならないのではないか、と私は思っています。
経営環境が大きく変わり、全く新しい技術や市場が生まれるというような局面では先見の明による成功の機会と可能性は相対的に大きくなります。
しかし非連続的な変化に見えることでも、実際の経営にとっての環境変化は連続的にしか進まないことがほとんどです。

p354

環境変化という外在的な機会はどの企業にとっても等しく降り注ぐものです。
どこかの企業にだけ機会の陽が射すわけではありません。
考えてみてください。
これだけ情報の流通の速度が速い時代にあって、「誰も気づいていない新しい環境変化にいち早く気づき、誰よりも早く実行したから成功した」ということはますます難しくなっているはずです。
自分が気づいていることは、だいたい他の人も気づいていると思ったほうがよいでしょう。
「先見の明」で先行したつもりでも、どこかで誰かがすでに手をつけていてもおかしくありません。
「先見の明」という論理に寄りかかってしまうと、本当の意味で独自の戦略ストーリーは出てこないというのが私の意見です。
要するに、機会は外在的な環境にではなくて、自らの戦略ストーリーの中にあるのです。

p363

防御の論理では、A社にとっての敵(B社)はあくまでも目的合理的な行動をとるものとして想定されています。
自社に追いつこうとして合理的な手を打ってくる。
なんとか戦略を模倣しようとする。
だから防御のメカニズムを戦略に組み込んでおかなければならない。
模倣の障壁を高くすることができれば、B社は完全にはA社に追いつくことができない。
その結果として競争優位の持続性が生まれるという話です。
ここでは図5・5の1にあるように、当初の状態から比べて、障壁に突き当たるまでB社はA社に近づいてきます。
戦略の差異やパフォーマンスの格差は、ある程度まで縮小されることになります。

これに対して、模倣しようとすること自体が差異を増幅するという論理は、結果として起こるB社の「敵失」や「自殺点」がA社に持続的な競争優位をもたらしているという考え方です。
B社はA社に追いつこうとして、主観的には合理的な模倣行動をとるのですが、実際はその過程で自らのパフォーマンスを低下させてしまうという落とし穴に陥ります。
自滅の論理では、B社はA社との距離を詰めてくるどころか、むしろ当初よりも戦略の差異やパフォーマンスの格差は拡大することになります。
つまり、A社が意図的に防御しなくても、B社が勝手に遠ざかっていくというか、「自滅」してくれる。
その結果として、A社の競争優位が持続するという論理です。

模倣それ自体が差異を増幅する p367

自滅の論理のところでお話ししたA社に「渋谷のコギャル」を、追いつこうとして戦略を模倣しようとするB社に「地方都市のコギャル」を当てはめてみてください。
図5・6にあるような、「模倣それ自体が差異を増幅する」というメカニズムが浮かび上がってきます。
渋谷のオリジナルな(?)コギャルのスタイルは一朝一夕に出来上がったものではありません。
好き嫌いは別にして(私はいかがなものかと思いますが……)、コギャル・ファッションは渋谷のセンター街の若者文化の文脈で、ある程度の時間をかけて練り上げられたものでした。

その後、渋谷のコギャルのファッションが素敵だ、格好良いという評価が定着すると、それまでコギャル・ファッションとは無縁だった地方都市の女の子も渋谷のコギャルのようになろうとします。
彼女たちは出来上がった「コギャル・ファッション」を模倣します。
模倣の対象であるオリジナルのコギャルは、ファッションの構成要素(ヘアスタイルやメイクや服やアクセサリー)の交互効果(コギャル・ファッションの元カリスマの言う「メリハリ」や「さじ加減」)についての理解を、スタイルを練り上げていく過程で自然とものにしています。
しかし、出来上がったものを事後的に模倣する地方都市のコギャルにはそうした交互効果の妙がわかりません。

地方都市のコギャルであっても、メディアが発達していますから、テレビや雑誌やインターネットで渋谷のコギャルのファッションについてのさまざまな情報や知識をふんだんに入手することができます。
雑誌を見れば、どういう髪型でどういうふうにメイクをしたらよいか、化粧品や服や靴やアクセサリーについては、どのブランドのどの商品かというところまで情報をふんだんに持っています。
しかも、そうしたファッション・アイテムは市場から調達できるものばかりです。
自分たちの町に売っていなくても、ネット通販で買うことができます。
かくして地方都市のコギャルは本場のコギャルのファッション・アイテムを個別に「ベストプラクティス」として模倣し、導入します。

彼女たちは個別の要素を模倣することによって、地方都市でコギャル・ファッションの全体を再構築しようとするわけですが、構成要素の背後にある肝心要の交互効果までを丸ごと手に入れるのは容易ではありません。
ファッションが交互効果の点で不全をきたします。

さまざまなコギャルの武器を手に入れたのに、いまひとつしっくりこない。
そこで地方都市のコギャルは、個別の構成要素をさらに強めることによってコギャル化を完遂しようとします。
その結果、それぞれの要素を見れば、渋谷のコギャルよりもさらに激しくコギャル化することになります。
これが「構成要素の過剰」です。
皮肉なことに、構成要素が過剰になると、ますます全体として収まりが悪くなるという悪循環が始まります。

その一方で、これまでのスタイルの一貫性も破壊されてしまいます。
地方都市のコギャルはその地方の文化に根差した、それなりに素敵なファッションセンスを持っていたのですが(この例だとちょっと変かもしれませんが、一応そういうことにしておいてください)、そうした強みも失ってしまいます。
こうして、なんだか間の抜けた奇妙な風体の「過激なコギャル」が出来上がります。

このたとえ話では、結果的に渋谷のコギャルは競争優位(?)を持続させることに成功していますが、それは防御の論理では説明がつきません。
渋谷のコギャルは地方都市のコギャルによる模倣を阻止する障壁をつくろうとしたわけではありません。
彼女たちは競争優位を防御するための行動をなんらとっていません。
ただこれまでどおり、渋谷のセンター街で粛々と(?)コギャル・ファッションに磨きをかけていただけです。

この場合、パフォーマンスに相当するのは「ファッションの格好良さ」です。
そもそもは渋谷のコギャルのように格好良くなろうというのが地方都市のコギャルの模倣の意図でしたが、模倣の過程で交互効果の不全を抱えてしまった結果、かえって「格好悪く」なってしまい、両者のパフォーマンスの開きは当初よりもかえって拡大しています。
つまり、地方都市のコギャルの側で自滅の論理が作動し、このことが図らずも渋谷のコギャルの競争優位を持続させたわけです。

コギャルのたとえ話が長くなってしまいました。
企業の競争優位の長期持続性に話を戻しましょう。
優れた戦略ストーリーの競争優位が長期の持続性を持つ理由は、その企業の戦略の模倣を困難にする障壁があるというよりも、このエピソードにある地方都市のコギャルのように、追いつこうとする企業が戦略を模倣しようとする結果、自滅していくからではないか。
これが私の言いたいことです。

優れた戦略ストーリーの競争優位の本質は交互効果にあるので、一見してすぐにわかるような派手な構成要素は必ずしも含まれていません。
そのため競合他社はしばらくその優位に気づかずにやり過ごします。
しかし、そのストーリーの交互効果がフル回転し、いよいよ競争優位を発揮するようになると、結果としてもたらされる高いパフォーマンスは他社の注目を集めるところとなります。

他社はこれこそベストプラクティスとばかりにその戦略を模倣しようとします。
さまざまな情報を収集し、分析し、コンサルタントの助言も活かして、成功しているストーリーの構成要素を洗い出します。
分析してみると、出てきた構成要素の多くのものはわりと簡単に自分のところでもできそうなことですし、お金を出せば市場を通じて手に入れられそうに映ります。
そこで他社は、次から次へと自分の戦略にそれらの要素を導入します。

しかし、地方都市のコギャルがそうであったように、競合他社はオリジナルのストーリーが内包していた交互効果の妙については十分に理解していません。
場当たり的に戦略を模倣しても、オリジナルの戦略の競争優位の本質であった交互効果は発揮できません。
戦略が不全をきたし、かえってちぐはぐなことになります。
「聡明にして間抜け」というわけです。
これまでの戦略の一貫性や強みも破壊され、パフォーマンス低下の憂き目に遭うという成り行きです。

この間、優れた戦略で成功している企業は何をしていたのでしょうか。
競合他社の動きに反応して防衛策をとったわけでも、特段の戦略変更をしたわけでもありません。
オリジナルのストーリーにせっせと磨きをかけていただけです。
気づいたときには、競争他社が勝手に奇妙なことを始め、パフォーマンスを低下させています。
戦略ストーリーが模倣されるどころか、かえって競争優位が確固たるものになるという次第です。

p381

よく知られているように、シュンペーターは、これまでの要素のつながりを破壊し、そこに新しいつながりを構築する「新結合」にこそイノベーションの本質があると喝破しました。
ガリバーの戦略ストーリーは従来の中古車業界が当然のものとして受け入れていた「つながり」を大きく変えるものでした。
ガリバーがやったことは、シュンペーターの定義に忠実な意味でのイノベーションといえます。
一見してたいして利益ポテンシャルがなさそうな成熟した業界でも、ストーリーだけでここまで成功できるというわけで、これがガリバーの事例のとりわけ面白いところです。

第7章 戦略ストーリーの「骨法一〇カ条」 p427

ストーリーの戦略論は二つのフェーズに大別できます。
第一のフェーズは「論理化としての読解」です。
戦略が文脈に依存した特殊解である以上、この作業は必然的に個別の事例を単位としたものとなります。
この連載で取り上げた例でいえば、マブチモーターやサウスウエスト航空やスターバックスコーヒーやガリバーインターナショナルの戦略ストーリーの読解がそれにあたります。

個別事例の読解は、「ベストプラクティス戦略論」とは異なり、成功の要因を列挙することが目的ではありません。
戦略ストーリーを構成する要素の間にどのようなつながりがあり、どのような相互作用を起こしたのかを、その事例の文脈で読み取り、論理化することが目的です。
読解のフェーズは、その戦略の評価を含みます。
ストーリーを支えている因果論理を読み取ることによって、その戦略がなぜ成功(もしくは失敗)したのか、(事後的にではありますが)解明するという作業です。

ここで経営者と経営学者の関係は、小説家と文学研究者のそれに類似しています。
文学研究者は必ずしも小説を書くわけではありませんが、個別具体的なテクストに注目して人間の思考や感じ方を解明し、その作品を評価します。
経営学者にしても実際に経営するわけではないのですが、戦略ストーリーの因果論理を読み解き、なぜその戦略が優れていた(もしくは失敗した)のかを評価するわけで

ストーリーの戦略論の第二のフェーズは、「原理原則の抽出」です。
さまざまな優れた戦略ストーリーの読解を積み重ねていけば、そこに共通の論理を見つけることができるでしょう。
その裏返しで、失敗する戦略が陥りやすい落とし穴も浮かび上がってくるでしょう。
戦略ストーリーをつくろうという人々にとって有用な基本論理を提示する。
ここにストーリーの戦略論のめざすところがあります。

『仁義なき戦い』などの東映任侠映画の花形脚本家であった笠原和夫さんは、撮影所の伝統が生み出した、「面白い娯楽映画」のための「シナリオ骨法一〇カ条」を掲げています。

さてその骨法というやつ――これはパターンではない。
パターンは時勢によって止揚し、あるいは変革しなければならないものだが、『骨法』は千古不易である。
天の岩戸の前で踊った天鈿女命の舞も『ターミネーター』のシュワルツェネッガーの迫力も、同じ骨法に沿っている。

第1章でしつこくお話ししたことですが、面白い映画シナリオを書くための必勝の方程式がないのと同様に、優れた戦略ストーリーをつくるための普遍の法則もありません。
業界や時代や市場や企業が違えば、成功する戦略ストーリーも当然のことながら違ってきます。
戦略ストーリーは、定義からして「他にないただ一つ」(the one and only)であるべきです。

映画がいくつかのジャンルに分類できるように、戦略ストーリーにもいくつかのパターンがあるかもしれません。
しかし、笠原さんがいうように、骨法とはそうした意味での「パターン」ではありません。
コメディーでもサスペンスでもラブストーリーでもアクションものでも、あらゆるジャンルに共通した原理原則、それが骨法です。
以下では、これまであちこちでお話ししてきたことを、戦略ストーリーの「骨法一〇カ条」にまとめてみましょう。

骨法その一 エンディングから考える p429

戦略の目的は、長期利益の実現です。
紙芝居でいえば、最後に出てくる一枚は「……というわけで、長期利益が出ましたとさ。めでたし、めでたし……」でなくてはなりません。
まず取りかからなければならない仕事は、この直前のエンディングのありようを固めるということです。

エンディングを固めるためには、実現するべき「競争優位」と「コンセプト」の二つをはっきりとイメージしなくてはなりません。
実際に実現される順番でいえば、エンディングは文字どおり最後にくるのですが、思考の順番としては、エンディングから逆回しでストーリーを構想するべきです。
さまざまな打ち手をあれこれ考えるのは後回しです。

なぜかといえば、戦略ストーリーの優劣の基準が「一貫性」にあるからです。
一貫性こそが戦略ストーリーがもたらす持続的な競争優位の源泉です。
先に競争優位とコンセプトを固め、一つひとつの構成要素が強い因果論理でエンディングにつながるようにしてあげれば、自然とストーリーがシンプルで骨太になり、一貫性が確保されます。

実現すべき競争優位はわりと単純な話です。
WTP(Willingness To Pay:顧客が支払いたいと思う水準)を上げるか、コストを下げるか、無競争状態に持ち込む(通常はニッチへの特化)か、選択肢は三つしかありません。
しかし、競争優位を決めるだけではエンディングとしては不十分です。
競争優位はこちらが儲ける理屈にすぎません。
なぜ儲かるのか。
それは顧客に何らかの価値を提供するからです。

第2章で強調したとおり、戦略のゴールは長期利益にあります。
この「ゴール」という言葉を「目標」と「目的」に分けて考えてみましょう。
厳密な言葉の定義はさておき、語感としていえば、このうちの目標に相当するのが長期利益です。
この目標を達成する理由であり、手段となるのが競争優位です。

一方のコンセプトは目標というよりも目的という言葉がしっくりきます。
目標が客観的でどちらかというとドライでクールなゴールだとすれば、目的はストーリーの実現にかかわる人々が自ら主体的にコミットするべきホットなゴールです。
戦略が到達すべき目標はあくまでも長期利益にしっかりと定められていなければならないのですが、目的がないがしろにされて目標だけが前面に出てきてしまうと、戦略が一方的に到達目標を示すだけで、無理強いの手段になりかねません。
実現しようとする顧客価値がコンセプトに凝縮され、それが組織の人々に共通の目的になっていなければストーリーは動きません。
ストーリーのエンディングにとっては、コンセプトの定義が最も大切になる次第です。

優れたコンセプトを構想するためには、ターゲット顧客をはっきりさせるだけでなく、そうした人々の心と体の「動き」を頭の中でよくよくイメージしてみる必要があります。
どのような状況と動機で、どのようにその製品やサービスとかかわり、どのように使用し、その結果としてどのように喜ぶのか、顧客の側で起こる一連のストーリーを頭の中でしつこくイメージするということです。
ターゲット顧客の「動き」を細部までリアルに思い浮かべてみることが大切です。

p434

ひとたびコンセプトが確定したら、あらゆる打ち手はコンセプトと明確な因果論理でつながっていなくてはなりません。
コンセプトとのつながりを論理的に説明できないような構成要素はストーリーから排除すべきです。
戦略をつくるときは、競合他社の最新の動向とか、話題になっている業界のベストプラクティスとか、一見して効果がありそうなさまざまな打ち手に心をひかれるものです。
しかし、安易な期待だけでやみくもに手を出すと、ストーリーが拡散し、いたずらに複雑になり、自分でも何のために何をやっているのかがわからなくなってしまいます。
これではストーリーはぶち壊しです。

逆にいえば、確信を持てるようなエンディングが固まれば、ストーリーづくりの五〇%は終わったも同然です。
後はコンセプトを具体的な打ち手へと忠実にブレイクダウンしていけば、おのずと筋の通ったストーリーが浮かび上がってきます。
夏目漱石の『夢十夜』に出てくる運慶の話を思い出してください。
本質的な顧客価値をえぐり出すようなコンセプトであれば、「初めから仁王が埋まっている木材」のように、ストーリーの主要な構成要素が次々に姿を現すはずです。

コンセプトは戦略ストーリーの基盤であり、支柱であり、推進力です。
ストーリーをつくる過程で、判断に迷うことや行き詰まることも少なくありません。
そういうときはコンセプトに立ち戻って考えればよいのです。

p435

裏を返せば、コンセプトは判断に迷ったり、行き詰まったときに、常に立ち戻ることができる何かでなくてはなりません。
そこに立ち戻れば、迷いが解消し、決断に向けて背中を押してくれるのがコンセプトです。
いざというときに立ち戻れないようなコンセプトでは、ストーリーづくりは遅かれ早かれデッドエンドに突き当たります。
コンセプトはストーリーの終点であり、起点です。
個別の具体策に手を出す前に、確信が持てるまでコンセプトを考え抜く。
あらゆるストーリーづくりはそこから始まります。

骨法その二 「普通の人々」の本性を直視する p436

コンセプトを構想するためには、「誰をどのように喜ばせるのか」をはっきりとイメージしなくてはなりません。
そこでは「誰に嫌われるか」という視点が大切です。
「誰からも愛される」というのは「誰からも愛されない」のと同じです。
誰かに本当に必要とされるためには、誰かに嫌われなくてはなりません。
八方美人は禁物です。

しかし、だからといって、独自性を追求するあまり、あからさまに「尖った」顧客をターゲットにしてしまうと、筋の良いストーリーはつくれません。
どんなコンセプトでも、それが心に響く顧客は世の中のどこかに必ずいるものです。
しかし、それがあまりにマニアックであれば、ごく特殊なニッチに押し込められてしまいます。
ニッチに特化した無競争を初めから意図する場合は別にして、あまりにも「独創的」なコンセプトは結局のところビジネスにはなりません。

コンセプトを固めるときは、あくまでも「普通の人々」を念頭に置き、普通の人々の「本性」を直視することが大切です。
普通の人々が確かに必要とすること、欲しがるものを価値の中心に据えるべきです。
「コンセプト・クリエーター」というと、浮世離れした天才肌をイメージしがちですが、その種の人は突飛なコンセプトに飛びつきがちなので、実はコンセプトをつくるという仕事には不向きなのです。
普通の人々が、仕事や家庭やプライベートの局面で、何を考え、何を感じ、どのようなことに困り、何を欲しているのか、こうしたことが自然と肌でわかるような人のほうがコンセプトづくりに向いているように思います。

コンセプトは「今そこにある価値」を捉えるものでなくてはなりません。
「今はまだ顕在化していないけれども、将来のニーズを先取りした」という類の「先進的」なコンセプトは眉唾ものです。
すでに強調したように、コンセプトは人間の本性を見据えたものでなければなりません。
技術や表面的な流行は日々変化していきます。
しかし、人間の本性はそう簡単には変わりません。
人間の本性を考えれば、今そこにある価値でなければ、五年後、一〇年後になっても存在しない可能性が高い。

これを書いている時点で、急速に広まっているインターネットのサービスに「ツイッター」(Twitter)があります。
今の時点ではツイッターは収益源を見出せていないようなので、正確には「事業」とは呼べないのですが、新しいサービスとして多くの人々を捉えています。
この種の現象が起こると、「人間のコミュニケーションや社会のありようが革命的に変わる!」という大げさな話をする人が決まって出てくるのですが、私は全くそうは思いません。
ツイッターは確かに新しい仕立てのユーザー・インターフェースを持つサービスです。
ただし、提供している価値の本質はインターネットが生まれるずっと以前から存在する人間の本性、つまり「日常生活の中で知り合いとつながっていたい」という素朴な欲求を捉えたものです。
だからこそツイッターは急速に受け入れられたのです。

繰り返しますが、人間の本性はそう簡単には変わりません。
表層的な現象にとらわれると、骨太のコンセプトはかえって生み出しにくくなります。
新しくユニークなコンセプトが生まれるのは、人間や社会にとって新しい価値がある日突然出てきたからではありません。
昔から存在する人間の本性についての着眼点がユニークだったり、人間の本性が欲する価値を実現するやり方が変わっただけです。
「日の下に新しきものなし」とはよくいったもので、人間が人間を相手にしてビジネスをしている以上、本当の意味で「新しい価値」などというものは、そもそも存在しないと考えたほうがよいでしょう。
慌てず騒がず、普通の人々を念頭に置いて、人間の本性をしっかり見つめることが大切です。
人間の本性を捉えたコンセプトにするためには、できるだけ価値中立的な言葉を使うべきです。
スターバックスの「第三の場所」やガリバーの「買取専門」、こうしたコンセプトの表現には、それ自体で肯定的な意味を持つ形容詞が一切使われていません。
だからこそユニークな価値を捉えられたのです。

「業界ナンバーワン」とか「世界最高水準」といったベタベタに肯定的な価値を含んだ言葉を使ってしまうと、それ自体が「良いこと」に決まっているので、その時点で思考停止に陥りがちです。
意図する顧客価値の正体が何なのか、なぜその事業を人々が必要とするのか、という本性の部分を突き詰めることなしに、言葉が上滑りします。
あげくに、「さあ、頑張ろう……」という話になりかねません。
「業界ナンバーワン」とか「世界最高水準」のために、あらゆることにバラバラと手を出すことになります。
これでは一貫したストーリーにはなりません。

「言われたら確実にそそられるけれども、言われるまでは誰も気づいていない」、これが最高のコンセプトです。
もちろんここにはジレンマがあります。
みんなが食いつくようなコンセプトであれば、とうに誰かがものにしているでしょうし、まだ誰も気づいていないコンセプトであれば、往々にして突飛なだけで終わってしまいます。
だからこそユニークなコンセプトの創造は難しいのです。
このジレンマを乗り越えるのが本当の創造性です。

骨法その三 悲観主義で論理を詰める p439

優れた戦略ストーリーの条件は一貫性にあります。
一貫性の高いストーリーをつくるためには、打ち手をバラバラと箇条書きするだけでなく、その間にある因果論理をよくよく考えなければなりません。
ここで大切なことは、打ち手をつなぐ因果論理を詰めるときは悲観主義で臨むべきだということです。

ひとたびコンセプトを固めたら、コンセプトについては楽観主義であるべきです。
いちいちコンセプトを疑っていたら、ストーリーづくりは前に進みません(だからこそ、コンセプトについての確信が得られるまでは、ストーリーづくりを前に進めるべきではありません)。
しかし、一つひとつの因果論理を考えるときは悲観主義者の構えをとるべきです。
失敗した戦略ストーリーを眺めていると、「こうやっておけば、どうにかなるさ……」という論理(?)で構成要素がつながっていることが多いものです。

たとえば、「シナジー(相乗効果)をテコにして……」というようなフレーズがやたらと出てくる戦略ストーリーは要注意です。
もちろん相乗効果それ自体は悪いことではありません。
ただし、そこに本当に相乗効果があるのか、なぜ相乗効果が生まれるのか、どのように相乗効果を引き出すのか、そうした論理の中身を詰めることなく、「シナジー」という美辞麗句だけでストーリーを走らせてしまうのは、「どうにかなるさ」と言っているのとほとんど同じです。
「どうにかなるさ」では「どうにもならない」、これが悲観主義者のスタンスです。
ストーリーをつくっている本人は、どうしても自分に都合良く考えがちです。
きちんとした因果論理でストーリーを綴るためには、悲観主義ぐらいでちょうどよいのです。

ウェブバンの事例を思い出してください。
インターネット上でスーパーマーケット事業をやろうとしたウェブバンの戦略ストーリーは、「リアル店舗のスーパーよりもはるかに幅広い品揃え」「巨大でIT化した流通センターへのオペレーションの集約」「消費財のトップ企業との戦略的提携」「自社のトラックとスタッフによる無料宅配」といった構成要素を柱としていました。
このような一連の打ち手は、個別に見るとそれぞれに何らかの競争優位をもたらします。
しかし、鳴り物入りで事業を始めたウェブバンはものの二年で破綻してしまいました。
これらの要素をうまくつなげ、全体を首尾一貫して動かすのに無理があったからです。
過度の楽観主義が招いた失敗といえるでしょう。

悲観主義で論理を詰めるということは、「そうなるだろう」「そうなってほしい」という希望的観測と「本当にそうなる」とを区別するということです。
たとえば、顧客が「(その気になれば)そうするだろう」という期待と、自ら進んで確かに「そうする」ということとの間には、大きなギャップがあります。

私は少し前に携帯電話を買い替えたのですが、最近の携帯電話には、メールやカメラだけでなく、ありとあらゆる機能が盛り込まれています。
メニュー画面にはさまざまなファンクションの長いリストが出てきます。
マニュアルも何百ページという分厚いものです。
いちいち確認したわけではありませんが、おそらく機能的にはすべてがきちんと作動するのでしょう。
ユーザーがその気になれば何百種類ものサービスが利用可能なのでしょう。

しかし、「こういうことができますよ」ということは、ユーザーが本当に(お金を払ってでも)使うということとはほとんど無関係です。
携帯電話の中に一〇〇の機能を入れ込むことは簡単です。
しかし、それを本当にユーザーに使ってもらい、お金を払ってもらい、さらには喜んでもらい、使い続けてもらうには、よっぽど強くて太い論理に裏打ちされたストーリーが必要になります。
この点で、最近の携帯電話のメーカーやキャリアの戦略は、あまりにも楽観的というか、緩い論理にとどまっているのではないか、というのが私の印象です。

ストーリーが過度の楽観主義に傾斜して因果論理が甘くなる最大の理由の一つは、戦略をつくるリーダーやトップマネジメントが、ストーリーの実行にかかわる人々の動きについてのリアルなイメージを思い浮かべずにやり過ごしてしまうということがあります。

リクルートの「ホットペッパー」のチームは飲食店を主要ターゲットとして新規クライアントを開拓する営業活動を推進しましたが、初めのうちは新規受注が思ったように増えませんでした。
飲食店のニーズを聞き出し、それに合った提案をするという「提案営業」が当初から意図されていましたが、それが十分にできていないことが新規受注に苦戦している理由だと考えられました。
そこでそれぞれの生活圏に対応した責任者が集まり、提案営業のための営業ツールが作成されました。

ここで興味深いのは、ホットペッパー事業のリーダーだった平尾勇司さんが、生活圏の責任者自身にそのツールを使った新規飛び込み営業をまずやらせたということです。
ツール作成に集まった責任者全員が午後二時から五時までの三時間をかけて、銀座で二〇件の飛び込み営業を実際にやってみました。
やってみてわかったことは、実際の営業の現場では提案どころではないということでした。
飲食店の経営者は想像以上に忙しく、座って話すどころか、立ち話もさせてもらえません。
中に入って話を聞いてもらう前に、門前払いの連続でした。
これでは営業ツールの使いようがありません。
そこで平尾さんたちは、「どうやって店の扉を開いて、どこの誰にどんな顔をして、どんな切り出し方で声をかければいいのか?」という問題に集中しました。
その結果、「ずけずけと中に入っていって、五分でもいいから話を聞いてもらう」という型が考案され、新規開拓営業のツールがつくり直されました。

ストーリーの登場人物である顧客の動きをイメージすることが大切だという話をしましたが、戦略の実行にかかわる人々もまた重要なストーリーの登場人物です。
ストーリーを組み立てるときには、戦略の実行を担うさまざまな人々の心や体の動きをリアルにイメージしなくてはなりません。
「提案営業」をかけるにしても、マネジメントの目線だけでは営業の前線にいる人々の動きについてのリアリティが希薄になります。
その結果、ストーリーが「そうなるだろう(そうなればいいな……)」の楽観主義に陥り、打ち手が因果論理でつながらなくなります。
悲観主義で論理を詰めるということは、言い換えれば、仕事の現場にいる人々の目に映るシーンを思い描くということでもあります。

『ホットペッパー』は飲食情報誌ではなく、あくまでも生活情報誌として位置づけられていましたが、当初は飲食コンテンツに優先順位を置いてクライアントに対して営業をかけるというのが平尾さんの方針でした。
食欲は人間の三大欲求の一つで、しかもたいていは毎日三回起こります。
飲食にかかわる情報は毎日見てもらいやすいコンテンツになります。
このことが飲食に優先順位を置く理由でした。

営業の焦点が定まり、その後のホットペッパーの営業部隊は「プチコン」(プチコンサルティングの略)と「一人屋台方式」を武器にしたストーリーで、着実に飲食店のクライアントを獲得していきました。

単に広告媒体を売るだけでなく、顧客の収益向上に貢献するようなソリューションを提案すれば、その分広告を受注しやすくなるだろう。
これは誰しもが考えることで、多くの競合企業が「コンサルティング型営業」を唱えていました。
しかし、立地やターゲット設定、投資効果など飲食業界の課題についての本格的なコンサルティングをするためには、広くて深い知識とスキルを持つ優秀なコンサルタントを大量に育成する必要があります。

ホットペッパーにかかわる人々の八〇%以上は、リクルートでCV職と呼ばれる期間三年の契約社員やアルバイトなどの非正社員でした。
もちろん、彼らには飲食店を経営した経験はありません。
本格的なコンサルティングなど絵に描いたモチです。
そこで平尾さんは、コンサルティングの対象を広告の表現領域に絞った提案で勝負しようと考えました。
営業スタッフがその店の良いところを発見し、それを限られた広告スペースの中で表現して、ターゲットである二十代の女性読者に伝える。
これがプチコンです。

多くの企業がより低価格で対抗しましたが、ホットペッパーはプチコンの繰り返しで全国に無数の強力な顧客接点を構築することに成功しました。
競合企業が低価格で対抗しても、顧客はホットペッパーにより大きな価値を認め、ホットペッパーを選び続けました。

プチコンは組織能力を重視した打ち手であるといえます。
顧客接点にいる一人ひとりが日々の営業活動の中でつくり上げる強みなので、構築するのに時間はかかりますが、その反面、競合は一朝一夕にはまねできません。
プチコンは後発の競合企業に対するホットペッパーの優位の基盤となりました。

プチコンは営業スタッフの育成やモチベーションの向上にとっても、大きな意味を持っていました。
スタッフは自らの提案で顧客が喜ぶ姿を日々の営業活動の場で実感することができます。
顧客がもっと喜ぶ姿を見たいと思い、プチコンに磨きがかかります。
それが如実に営業の成果に跳ね返ってきます。

広告業界では、広告コンテンツの制作と営業をそれぞれに専門化した別々の部門で分業するのが普通です。
しかしホットペッパーでは、プチコンを基点とした競争優位の好循環を確かなものにするために、こうした分業を絶対にしませんでした。
一人のスタッフが営業もすれば原稿も書く。
新規開拓営業も既存顧客のリピート営業もする。
電話も訪問も一人でする。
入金も営業もフォローする。
顧客接点のすべてを営業が一人で担います。
これが「一人屋台方式」です。
平尾さんは次のように一人屋台方式の重要性を強調しています。

自分の仕事がダイレクトに顧客の満足という成果につながる仕組みを壊してはならない。
… (中略) …仕事には複雑性があるから面白い。
「自分で考え、決め、行動する」要素が仕事には必要だ。
… (中略) …顧客接点の価値はひとつひとつの熟練度も大切だが流れのほうがもっと大切なのだ。
分業化すれば流れは切れて、モチベーションも切れる。
… (中略) …おもしろいと思って仕事に取り組む営業マンは顧客にとって魅力的な存在になる。
営業マンがおもしろくて工夫し、成長していくことが競合との競争優位性になる。

ホットペッパーの前身の『サンロクマル』もまた、当初から飲食をキラーコンテンツに定めていました。
しかし、そこにはホットペッパーのような一貫したストーリーがありませんでした。
サンロクマルでは営業組織が業務委託だったということもあり、営業の前線は売りにくい飲食よりも売りやすいエステティックサロンに流れていきました。
平尾さんは次のように言っています。

『サンロクマル』には残念ながら勝つシナリオがなかった。
「やりながらシナリオをつくるんだ」などとうそぶき、キレイごとばかりが唱えられた。
それでは、台本のない芝居を役者が演じているみたいなもので、演じながらシナリオを描くと言っているのと同じになる。
アドリブだけで心を動かす劇になるはずがない。
事業が成功するためにシナリオは是が非でもなくてはならない。
考えて、考え抜いて、これでだめなら仕方がないと思えるまで練り込んだシナリオが必要なのだ。
全体の流れはどのように流れていくのか?
どのような順番になるのか?
それはなぜか?
それらによって、働く人たちの一挙手一投足が決まっていく。

ここでいう「悲観主義」は「弱者の論理」と言い換えてもよいでしょう。
ヒト、モノ、カネの制約に苦しんでいる会社であれば、「どうにかなるさ」とは言っていられません。
ストーリーが本当に作動するかどうか、打ち手をつなぐ論理を突き詰めて考えざるをえません。
そもそも、あらゆる戦略は利用可能な資源の制約を前提にしています。
無尽蔵に資源を使えるのであれば(そんなことは現実にはないのですが)、戦略は必要ありません。

p448

ところが、資源が潤沢な(つもりになっている)「強者」は、戦略にとって不可欠な弱者の論理を忘れ、緩い因果論理でストーリーを組み立てがちです。
ウェブバンはベンチャー企業だったのですが、折からのインターネットブームの追い風を受けて、創業の当初から巨額の投資を受けていました。
きわめてキャッシュリッチな状況にあったことが、緩いストーリーの背景にあるといえそうです。

ストーリーが緩くなる典型的なパターンが、特定の「飛び道具」や「必殺技」に寄りかかってしまうという症状です。
インターネットブームの頃の「ポータル戦略」がその例です。
まず、人々が訪れるウェブサイトをつくり、その先にさまざまなサービスをぶら下げておけば、規模の経済と範囲の経済を同時に実現できる!
とんでもなく魅力的な必殺技のように聞こえるのですが、実際に成功した企業はごく一部でした。

ポータル戦略が成功するためには、以下にあるようないくつもの論理を詰めなくてはなりません。
第一に、いうまでもないことですが、なぜ多くの人々がそのウェブサイトを「ポータル」として認識し、実際に日常的に訪問するようになるのか。
第二に、大勢の人々がやってきたところで、なぜそこにあるさまざまなサービスに注意を払い、実際にアクセスするようになるのか。
何でもかんでもぶら下げてしまえば、一つひとつのサービスに対して顧客が実際に注ぐ注意の量は小さくなるはずですし、そもそもそのサイトが何のための「ポータル」なのかがわかりにくくなります。
第三に、ポータルを通じて人々が特定のサービスにアクセスしたところで、なぜそのサービスを実際に使うのか。
第四に、サービスを使うにしても、ユーザーは本当にお金を払うのか。
払うとしたらなぜか。
挙げていけばきりがないのですが、こうした一つひとつの論理を詰めることなしには、戦略ストーリーは動きません。
派手に聞こえる飛び道具がよろしくないのは、それを持ち出したとたんに戦略ストーリーが飛び道具に寄りかかってしまい、「どうにかなるさ」に陥るからです。
論理を突き詰めずに、ストーリーが暴走してしまいます。

このところの例でいうと、「顧客の囲い込み」とか「提案型コンサルティング営業」とか「ワン・トゥー・ワン・マーケティング」とか「オンデマンド」とか「ソリューション・サービス」とか「エマージング・マーケット」とか、その辺が怪しいところです。
この手の飛び道具を持ち出すと、漠然と良いことが起こりそうな気がするのですが、言ったとたんに思考停止を招き、ストーリーの論理が緩くなりがちです。

デパート業界では、多くの企業が「モノではなくライフスタイルを売る」「きめ細かい提案型サービスで顧客を囲い込む」といった話がよく出てきます。
提案型サービスや顧客の囲い込みで長期利益を実現できればよいのですが、話をつなぐ論理がいかにも緩いことが多いのです。

私は実際に数時間、ある大手デパートの婦人服売場で販売員とお客さんの様子を観察してみたのですが、七割以上のお客さんはほとんど販売員と会話をせず、ごく手続き的なやり取りをするだけで買い物を済ませています。
販売員から提案型のアプローチをするケースもままあるのですが、多くのお客さんがむしろ迷惑そうにしています。
現実に提案型サービスを利益に結びつけるためには、相当に強力な論理の裏づけが必要なのは一目瞭然です。
必殺技のお題目を唱えているだけのデパートが少なくないように思います。

将棋棋士の大山康晴さんの極意は、自分の強みの正体を現さないところにありました。
「誰も私の将棋をまねできなかった。まねされるような強さは本物ではない。私にはわけがわからないところがある」と大山名人は言っていたそうです。
新しい手や奇抜な手は使わない。
無理をしない。
相手を一つひとつ封じ込めていく。
いかにも強いというものを感じさせないが、終わってみると勝っている。
「ただ勝つだけでは不十分だ。相手が自分の顔を見るのもいやだというダメージを与える」というのが大山名人の凄みでした。
決定打がないのに負けてしまうので、相手は勝負に負けた以上の心理的な圧迫を受けるというわけです。
相手に強さを感じさせないのが真の戦略家だという話です。

要するに、一撃で勝負がつくような「飛び道具」や「必殺技」がどこかにあるはずだ、それをなんとか手に入れよう、という発想がそもそも間違っているのです。
戦略ストーリーが意図する強みは、個別の打ち手の中にはありません。
打ち手をつなげていく因果論理の一貫性こそが競争優位の源泉なのです。
成功を持続している企業の戦略ストーリーを眺めると、さまざまな打ち手が明確な因果関係でがっちりとつながっている一方で、一つひとつの打ち手はわりと地味に見えるのがむしろ普通です。
戦略ストーリーが意図するのは、一目瞭然の派手な差別化ではなく、「似て非なるもの」という差別化なのです。

骨法その四 物事が起こる順序にこだわる p451

戦略の構成要素そのものよりも、そのつながりに注目しているという点で、ストーリーの戦略論はビジネスモデルの戦略論と似ています。
ただし、大きな違いが一つあります。
それは、ビジネスモデルが戦略の構成要素の空間的な配置形態に焦点を合わせているのに対して、戦略ストーリーは打ち手の時間的展開に注目している、ということです。

「ビジネスモデルを図示してください」と言うと、ビジネスに含まれるさまざまなプレイヤーや機能部門の間のカネやモノや情報のやり取りの絵が出てくるのが普通です。
これに対して、いくつかの事例の読解で見てきたように、戦略ストーリーの絵は「こうすると、こうなる。そうなれば、これが可能になる……」という時間軸に沿った因果論理になります。

因果論理の組立てに不可欠の条件は、共変関係(AとBが連動する)だけでなく、時間的先行性(AがBに先行して起こる)があることです。
戦略ストーリーを考えるときは、いつも頭の中に時間軸がなければなりません。
要するに、物事が起こる順序にこだわるということです。
ビジネスモデルの概念は、確かに全体の「かたち」を捉えるものですが、構成要素の因果論理が巻き起こす「流れ」や「動き」の側面を捉えにくいというきらいがあります。

ウェブバンの話に戻りましょう。
ウェブバンは「ビジネスモデル」については当初から明確な構想がありました。
この構想はすでにお話ししたように因果論理の点であまりにも楽観的だったわけですが、それに加えて、ビジネスの最終的な「かたち」をいきなり実現しようとして、すべてを同時並行的にフルスケールでやろうとしたことに失敗の本質的な原因がありました。
ウェブバンのスポークスマンは当時、「火星に行こうと思ったら、途中までしか飛ばないロケットをつくっても意味がない」と言っていました。
この言葉が同社の思考様式を象徴しています。

先ほど「ポータル」という飛び道具めいたアイディアに幻惑されて失敗した会社がたくさんあるという話をしました。
これもまた、ストーリーの時間的な展開を考えずにアイディアだけに飛びついてしまい、結局何も起こらなかったという成り行きです。

ポータルという言葉は顧客の囲い込みやネットワーク効果による「自然独占」「勝者総取り」の世界を連想させます。
しかし、そもそも初めの段階で顧客が集まって実際にサービスを使ってくれなければ、こうした夢のような先行者利益は文字どおり夢のまた夢でしかありません。
どうやってそのような最終形に到達するのか、時間展開をにらんだストーリーが問題になります。

楽天はポータルとして成功した数少ない会社です。
インターネット上のショッピングモール事業からスタートした楽天は、旅行サービスやクレジットペイメントや証券などの金融サービスへと事業領域を拡張し、日本におけるEコマースの総合的なポータルサイトになっています。
ただし、この種の最終形としてのビジネスモデルは多くの人が思いつくことです。
意図していた最終形だけを見れば、三木谷浩史さんも他の多くの人も、それほど大きな差はなかったかもしれません。

しかし、実際にEコマース事業で顧客ベースを構築できなければ、その向こうにあるポータルのビジョンは絵に描いたモチにすぎません。
第4章でお話ししたように、楽天の戦略ストーリーの起点には「Eコマースは自動販売機ではない」「エンターテインメントとしてのショッピング」というユニークなコンセプトがありました。
一貫した戦略ストーリーで初期の段階で実際にどこよりも多くのリピート顧客を獲得する。
それがあるレベルに達した段階で上場し、調達した資金で買収によって旅行や証券といった他の事業へと参入する。
さらに楽天グループ内部でのユーザーの取引が膨大になったタイミングでクレジットペイメント事業に本腰を入れる……というように、時間軸に沿ったストーリーが描かれていました。
楽天が凡百の他社と決定的に違っていたのは、最終形としてのビジネスモデルではなく、それに至るストーリーなのです。

ストーリーは時間的な広がりを持っています。
意思決定をすれば出来上がるというものではありません。
経営学者のヘンリー・ミンツバーグさんは、戦略を「練り上げる」(crafting)という言葉を使っていますが、まさに戦略ストーリーは物事が起こる順序をよく考えながら練り上げていくものです。
ストーリーの原型は必要ですが、第3章でもお話ししたように、戦略構築の本質は、その後の(多分に偶発的な)機会や脅威を受けて、ストーリーに新しい要素を取り込んでいくという「ストーリー化」のプロセスにあります。

意思決定や実行が早いのは結構ですが、ウェブバンのように「いきなり丸ごと」式にやろうとすれば、ストーリーの時間軸を見失ってしまいます。
まずは立ち止まって、ストーリーの原型を固め、時間展開の中でストーリーを徐々に練り上げることが大切です。

骨法その五 過去から未来を構想する p454

ビジネスを継続的に成長させるためには、「長い」ストーリーが必要になります。
ストーリーに拡張性や発展性が織り込まれていなければなりません。
打ち手の間に強くて太い因果論理があっても、将来に向けた拡張性がなければ、「短い話」で終わってしまいます。
本当のところ、正確な未来は誰にもわかりません。
これまでもたびたびお話ししてきたことですが、私は「先見の明」という話には懐疑的です。
将来どうなるか、予測がつけば戦略をつくりやすくなりますから、多くの人は「これからどうなるのか」に多大な関心を寄せます。
ビジネス雑誌を眺めると、この種の将来予測の記事があふれています。

しかし、「これからどうなるのか」ばかりを考えていると、目先の機会に目が向きがちです。
今だったら「シルバーマーケット」とか「エコビジネス」というような話です。
しかし、その程度の外的な成長機会であれば、誰もが見えているわけです。
その機会があからさまに「魅力的」であるほど競争も激しくなるでしょう。

戦略は長期的に考えなければいけない。
当たり前の話です。
しかし、自分が依拠するストーリーを理解していなければ、本当の意味での「長期」を考えることはできません。
ストーリーは将来の機会を見つめるためのレンズです。
裸眼で漠然と将来を眺めてみても、ありきたりのことしか見えません。
ストーリーというレンズがなければ、真の機会は像を結ばないのです。
ぼんやりとした機会にやみくもに手を出してしまえば、「合理的な愚か者」になるのがオチです。
かえって戦略ストーリーの一貫性が破壊されてしまいます。

「これから」と「これまで」のフィットをよくよく考える必要があります。
従来の自社の戦略ストーリーの延長上に自然とつながる構想でなければ、競争の中で他社に打ち勝つのは容易ではありません。

p457

スターバックスのメニューにしても、食事には当初から意図的に力を入れていませんし、アルコールも出していません。
このようなメニューが「第三の場所」のストーリーとフィットしないからです。
スターバックスはレストランではないので、食事に力を入れるにしてもどうしても軽食中心になります。
そうすると、お客さんにとっては限られた時間で食事を済ますというファストフード的な使い方となり、ゆったりとリラックスする時間を過ごすというよりも、機能的に便利な場所になってしまいます。
アルコールを出してしまうと、ストーリーの意図する落ち着いた空間がパブのような騒がしい場所に変容してしまって、お客さんがリラックスするにしてもその中身が意図とずれてしまい、「第三の場所」が破壊されてしまいます。

ここで注意すべきことは、オペレーションに限定してシナジーを考えれば、食事やアルコールは、不適切どころか、スターバックスのオペレーションの大部分がそのまま使えるという意味で、相乗効果を期待できるメニューだということです。
お店があって、テーブルがあって、従業員がいる。
大規模な追加投資をしなくても、さまざまな軽食を提供するオペレーションは可能です。

事実、初期の頃スターバックスのお客さんにどのようなメニューを追加すべきかという希望を調査したところ、ビールなどのアルコールは常に上位に来たそうです。
第三の場所というコンセプトがターゲットとする顧客のことを考えると、タフな仕事(第二の場所)の後、自宅(第一の場所)に帰る

前に軽くビールでも飲みたいと思うのは自然な話です。
コーヒーもビールも液体という意味では同じですから、オペレーションのシナジーは期待できます。
顧客のニーズはあったわけですから、目先の売上を考えれば、軽食やビールの提供は成長にとって有効な打ち手だったかもしれません。
しかし、スターバックスにとって大切なのは、既存のオペレーションとのフィットではなく、あくまでも構想する戦略ストーリーとのフィットのほうです。
第三の場所というコンセプトから始まるストーリーのありようを考えれば、いくらオペレーションのシナジーが期待でき、短期的には売上増が期待できても、ストーリーとフィットしない打ち手には手を出さないという割り切りが大切なのです。

ストーリーという戦略思考からすれば、事業の成長は、非連続的な「革命」(revolution)というよりも、連続的な「進化」(evolution)の結果です。
「これから」は「これまで」と無関係には考えられません。
裏を返せば、戦略ストーリーは一面では成長の制約要因にもなるということです。
どこまでもストーリーを拡張していくのが理想なのですが、無限の拡張性を持ったストーリーはありません。
スターバックス、デル、マブチモーター、こうした企業はそれぞれに強く太く長いストーリーで長期にわたって成功してきましたが、そろそろ成長の限界に差しかかっているのかもしれません。

これまでのストーリーの延長上に将来を描けなくなったらどうすればよいのか。
事ここに及んで、初めて「革命」というオプションが出てきます。
つまり、これまでのストーリーを捨てて、ストーリーの全面的な書き換えに踏み切るということです。
ただし、口で言うのは簡単なのですが、ストーリーの全面書き換えは一般にきわめて困難です。
成功確率は非常に低い。

p459

いずれにせよ、オリジナルのストーリーの寿命が尽きたときは、全面的に書き換えるしかありません。
では、全面書き換えに骨法はあるのか。
これは究極の難問で、私にはなんとも答えようがありません。
原理原則を導こうにも、読解の対象となる「作品」があまりにも少ないのです。
ただし、この難問を逆手にとれば、次の二つのことが指摘できます。
第一に、ストーリーは「窮屈さ」を感じるぐらいでちょうどよいということ。
戦略ストーリーがしっかりしているほど、ある打ち手がそれまでのストーリーにフィットするかしないか、はっきりと判断できます。
目先の機会にすぐに食いつく前に、それがストーリーの延長上にうまく乗っかるかどうかを自然と考えるものです。
ストーリーとのフィットを追求すれば、何でもかんでも手を出すわけにはいきません。
打ち手の選択肢は必然的に狭まります。
その意味で、優れたストーリーには窮屈なところがあるのです。
窮屈さを感じるということは、それだけストーリーがよくできているということの何よりの証明です。

営利目的のビジネスではないのですが、リナックスに代表されるオープンソース・ソフトウェアは優れた戦略ストーリーの産物です。
よく知られているように、オープンソース・ソフトウェアのストーリーが秀逸だったのは、これまで分断されていたソフトウェアの開発者とユーザーの垣根を取り払い、世界中に分散している膨大な数のユーザーが、自分の必要性や興味に応じて、自ら開発に参加できるようにしたということにありました。
彼らは無償で開発に参加するボランティアなので、マイクロソフトに代表されるこれまでのソフトビジネスのストーリーと比べて低コストでの開発が可能になりました。

しかし、オープンソースというストーリーの強みとしてそれ以上に重要なのは、バグ(ソフトウェアの欠陥)を修正するスピードがはるかに速く、より高品質のものへと製品を素早く改善できるということにありました。
開発にかかわる人数の多さだけがその理由ではありません。
オープンソース・ソフトウェアではユーザー自身が開発者なので、バグを発見して修正するにしても、そのプロセスでの情報のロスが少ないということが決定的に重要な意味を持っています。

ソースコードをブラックボックス化しておく従来のやり方では、ユーザーが不具合を見つけても、彼らはほとんどの場合は技術的に素人なので、そのままやり過ごしてしまいます(第一の情報ロス)。
アクションをとるにしても、まずはソフト会社のカスタマーサポートにコンタクトします。
カスタマーサポートはユーザーの苦情を聞いてはくれますが、多くの不具合はユーザーの使用状況という文脈に依存しているので、文脈を共有していないカスタマーサポートのスタッフが問題の所在を正確に把握するのはなかなかに大変です(第二の情報ロス)。
カスタマーサポートのスタッフが問題を正確に理解したとしても、自分ですぐに修正できるわけではありませんから、ユーザーから寄せられた不具合の解決を会社の開発部門のエンジニアに依頼します。
しかし、エンジニアはいつでも忙しいと相場が決まっているので、すぐに問題は解決されず、しばらくは放置されてしまいます。
そのまま手が回らずに終わってしまうことも少なくないでしょう(第三の情報ロス)。
オープンソースというストーリーはユーザーと開発者を重ね合わせることによって、こうした問題を一挙に解決したわけです。

しかしその一方で、オープンソースのアプローチが優れた製品に結実しているのは、OS(基本ソフト)のようなインフラ系のソフトウェアに大きく偏っていて、アプリケーション・ソフトの分野では必ずしも成功していません。
その理由は、オープンソースのストーリーとアプリケーション・ソフトのフィットの悪さに求められます。

ユーザーが自分の本業(多くの場合、彼らは民間企業のソフトウェアの開発者か企業のシステム部門の専門スタッフ)があるにもかかわらずボランティアとしてオープンソース・ソフトウェアの開発に参加するのは、次の二つの理由があるからです。
第一に、オープンソース・ソフトウェアの開発に参加し、ソフトウェアの改善に貢献することが、エンジニアとして知的に挑戦的で面白い。
第二に、自分がふだんはユーザーなので、ソフトの品質が改善されれば自分の仕事もやりやすくなる。

アプリケーション・ソフトを、水平型(ワープロソフトやスプレッドシートのように多くの人々が使うアプリケーション)と垂直型(特定の業界で特定の目的のために使われるアプリケーション。たとえば個人経営の開業医のための保険の点数計算ソフトなど)に分けて考えてみましょう。
水平型のアプリケーションをオープンソースで開発しようとする場合、ユーザーが開発に参加する動機づけは弱くなってしまうでしょう。
多くの人に使われるという点ではやりがいがあるかもしれませんが、技術的にはあまり挑戦的ではありません。
しかも、ユーザーとしての彼らの興味や知見は、そうしたアプリケーションよりもインフラ系のソフトに向かっています。
一般のオフィスで仕事をしている人々がユーザーの中心ですが、そうした人々には開発に参加するだけの技術的なスキルがありません。

垂直型のアプリケーションはさらに望み薄です。
ほとんどすべての開発者は、垂直型アプリケーションのユーザーではありません。
ユーザーの目的や使用文脈についての知識に欠けています。
点数計算の傍らオープンソースのアプリケーションの開発に関与するような、技術的なスキルを持つ個人経営の開業医はまずいないでしょう。

つまり、一世を風靡したオープンソースというストーリーにしても、すべてのタイプのソフトウェアで通用するほど万能ではないということです。
これはオープンソースのストーリーがそれだけ強くて太い因果論理で出来上がっているということの裏返しです。
逆にいえば、「なんでも来い!」というのは、ストーリーに本当に力を発揮するツボがないということでもあります。
拡張性や発展性に若干の窮屈さがあるほうがむしろ筋が良いストーリーなのです。

第二に、ストーリーを構想する以上、少なくとも一〇年、できれば二〇年ぐらいの賞味期間が期待できるような、できるだけ長いストーリーをめざすべきです。
全面書き換えがきわめて難しい以上、ビジネスは一つのストーリーと心中する覚悟を持つべきだ、というのが私の考えです。

スターバックスにしてもデルにしても、基本的には一つのストーリーで二〇年以上にわたって長期利益を持続してきたわけです。
マブチモーターは四〇年です。
これ以上の寿命を一つのストーリーに期待するのはそもそも酷なのかもしれません。
そんな贅沢な悩みを先取りして心配するよりも、二〇年は持つような拡張性のあるストーリーを構想することが先決です。

アマゾンの創業経営者であるジェフ・ベゾスさんは二〇〇〇年のインタビューで次のように発言しています。

世界を相手にインターネットを通じて顧客満足の高いサービスを提供できる会社はまだない。
私たちはそうなりたい。
アマゾンの顧客が増えても、個人個人に違ったサイトを提供できるので、新しい需要をつくっていく。
それが当社の使命で、やり遂げたらアマゾンの役割は非常に大きなものになるだろう。
(「あと何年でそうした目標に到達できるのか」という問いに答えて)三〇年から四〇年はかかるだろう。
そして、アマゾンは永遠に続く会社になる。

骨法その六 失敗を避けようとしない p463

戦略ストーリーをつくるときには、失敗を避けようとしてはいけません。
未来が定義からして不確実である以上、失敗は避けられません。
避けられないものを避けようとすると、その時点で立ち止まってしまい、前に進めなくなります。
唯一可能な手は、試行錯誤を重ね、ストーリーを修正していくという実験的なアプローチです。

失敗したら修正すればいい、だから、まずは実験的なアプローチでやってみよう。
これはよく聞く話ですが、重大な落とし穴があります。
ごく個人的な活動は別にしても、ビジネスのような高度に組織的な営みの場合、失敗したとしてもそれが失敗だとわからないことのほうがずっと多いのです。
成功と比べて、失敗はフィードバックがはるかにかかりにくい。
結果の数字から見て失敗だということがはっきりしても、本当のところ何がまずかったのか、失敗の正体はちょっとやそっとでは突き止められません。
資源が豊富な大会社であるほど、ズルズルと失敗を引きずる「余裕」がありますから、失敗はなおのこと放置されがちです。

どんなに秀逸な戦略ストーリーでも、それが本当に成功するかどうかは事前には判断できません。
最後のところは、やってみるしかないのです。
この意味で、実験の規模に違いがあるにせよ、あらゆるビジネスは本質的に実験であるといえます。
だとしたら、事前にできること、するべきことは次の二つです。
一つは事前に戦略ストーリーを持ち、組織でしっかりと共有すること。
もう一つはストーリーのつくり手が失敗を事前に明確に定義しておくことです。

p466

もう一つの大切なことは、戦略ストーリーの中で失敗をきちんと定義しておくということです。
つまり、成功と失敗の境界条件をいくつか設定し、いついつまでにこういう条件をクリアできなかったら、そのストーリーは失敗として即座に引っ込めるという出口を設けておくわけです。
たとえば、リクルートのホットペッパー事業にしても、当初から「一八カ月での黒字達成」と「累積キャッシュアウトは二〇億円が上限」という条件が厳しく設定されていました。
この条件をクリアできなければ撤退するという前提で戦略ストーリーがつくられました。
戦略ストーリーは、あくまでも長期利益というハッピーエンディングに向けて進んでいくべきものですが、成功するかどうかはやってみなければわからない以上、その裏に失敗という「アンハッピーエンディング」をあらかじめ織り込んでおく必要があります。

吉越浩一郎さん(トリンプ・インターナショナル・ジャパン代表取締役社長、当時)は次のように言っています。

「川に飛び込め」の精神が大切だ。
迷わず飛び込んで向こう岸をめざす。
もし川が思ったよりも浅ければそのまま走って渡ればよい。
深かったら泳げばよい。
泳いでみれば流れは案外緩いかもしれない。
もし流れが急で泳ぎ切れなかったらどうするか。
これが怖いからなかなか飛び込めない。
だから経営が「はい、ここまで」という撤退のラインを決めておく必要がある。
店舗を新たに出すとき、まず考えなければいけないのは立地でも家賃でもない。
閉店のルールだ。
一定のルールを満たしていない店は月に一回の「閉店会議」で問答無用で閉店する。
うちでは閉店資金が毎月積み立ててある。
いつでも店を閉められる。
ある意味で失敗を認めている。
失敗がルール化されていれば、思い切って川に飛び込める。

骨法その七 「賢者の盲点」を衝く p469

その業界を知悉している(つもりの)「賢い人」が聞けば、「何をバカなことを……」と思う。
しかしストーリー全体の文脈に置いてみれば、一貫性と独自の競争優位の源泉となっている。
部分の非合理を全体での合理性に転化する。
これがストーリーの戦略論の醍醐味です。
ストーリーづくりで一番面白く、しかし難しいのは、そうした「キラーパス」を組み込むというところにあります。

あっさり言ってしまえば、「他社と違った良いことをやる」、これが戦略です。
至極当たり前に聞こえるかもしれません。
しかし、よくよく考えてみるとここには大いなる矛盾があります。
「違ったこと」をやらなければならない。
しかし、「良いこと」であれば、「違ったこと」にはなりにくい。
なぜかといえば、それ自体「良いこと」であれば、遅かれ早かれ他社も同じことをしてくるからです。
そうなればせっかくの違いが失われてしまいます。
そもそも、そんなに「良いこと」であれば、われわれがやりだす前に、とっくに誰かが気づいてやっていてもよさそうなものです。
前章でお話しした「合理性では先行できない」という論理です。

個別の構成要素の一段上にあるシンセシス(綜合)のレベルで戦略の宿命的なジレンマを解決する。
ストーリーの戦略論の腕の見せどころはここにあります。
戦略のある要素が非合理であれば、他社はその部分については模倣しようという動機を持ちません。
むしろ、意図的にそこから離れようとします。
あからさまに「良いこと」をやるのと比べて、違いを持続することができます。
もちろん、それだけでは非合理なので、長期利益にはなりません。
しかし、ストーリー全体の流れの中で部分の非合理を全体の合理性に転化することができれば、「良いこと」と「違ったこと」の矛盾が解け、この両者を同時に、しかも長期的に維持できるわけです。

「カイゼン」や「JIT」(Just In Time)は、今日では世界中の製造現場で導入されているトヨタ発の「ベストプラクティス」です。
ボストンコンサルティンググループの水越豊さんから面白い話を聞いたのですが、一九七〇年代初めに欧米企業の幹部がトヨタを見学したとき、今でいう「トヨタ生産方式」を見て、彼らは「トヨタはものづくりがわかっていない……」と眉をひそめたそうです。
一つは、現場で改善活動に取り組む労働者を見て、「ライン・スタッフ制ができていない。現場でバラバラやっていたのでは、系統だった組織的な問題解決ができない」。
もう一つは、仕掛かり在庫を最小化するために小ロット生産や並行処理を多用する作業フローを見て、「同種の作業をまとめて処理して効率を上げるバッチ方式が全くできていない。分業による専門化と規模の経済の利点を全く理解していない」。
今ではベストプラクティスとして世界中で受け入れられているトヨタ生産方式も、外部にいる「賢者」にとっては、当初は非合理極まりないように見えたという話です。

p471

「先見の明」というのは、その時点では他社が気づいていないような合理性を時間的に先取りするということです。
TPSの合理性にしても、その時点では他社は気づいていなかったのですが、その理由は時間的な先取りではなく、部分の非合理は見えても、他社にとってはストーリー全体の合理性がなかなか見えなかったということにあります。

優れたストーリーは「賢者の盲点」を衝くことによって、ユニークな競争優位をもたらします。
「普通の賢者」の思考に染まってしまうと、賢者の盲点を衝くことはできません。
この意味で、「ベストプラクティスの戦略論」はストーリーの戦略論に全く逆行するものです。
ベストプラクティスの戦略論は「あからさまに良いこと」の集大成です。
どこかにうまい手があるはずだ、それを探して取り入れよう、という発想では、キラーパスの効いた面白いストーリーは決してつくれません。
ここに戦略の素人と玄人の分かれ目があります。

賢者の盲点を衝くためには、まずはその時点で業界の内外で広く共有されている「信念」なり「常識」を疑ってみるという姿勢が大切です。
常識を疑うといっても、「他社が一〇時間でやる仕事を、われわれは一時間でやる」というような、常識の「先を行く」という話ではありません。
「急がば回れ」です。
一般的に「良いこと」と信じられている常識の「逆を行く」という思考様式が求められます。

どうも引っかかる常識にぶつかったときは、なぜその常識が信じられてきたのか、その背後にある論理をじっくり考えてみるべきです。
常識の裏側には、何らかの非常識や非合理が隠されているかもしれません。
トヨタの例でいえば、ライン(現場の作業者)とスタッフ(現場を離れて考える人)をはっきりと分ける組織は、分業と専門化という合理性に立脚しているけれども、改善策を考えるスタッフとそれを実行する現場が分断されてしまうという問題が隠されています。
トヨタの「自働化」や「カイゼン」は、「現場から離れた人には本当に重要な問題が発見できないのではないか」という、従来のものづくりの常識に対する疑問から始まっています。

p472

賢者の盲点を見出すためには、日常の仕事や生活の局面で遭遇する小さな疑問をないがしろにしないことが大切です。
普通に仕事をし、生活をしているだけで、ちょっとした不便や疑問がさまざまに出てくるものです。
なぜこんな不便が解決されずに残っているのか、こういうものがあったら面白いのになぜ世の中に存在しないのか、こういうサービスがあったら楽しいのに……というような疑問です。

こうした疑問が出てきたときに、「なぜ」を考えることを惜しんではいけません。
そうした不便や問題や欠如が解決されずにそのまま残っているのには必ず何らかの理由があります。
その理由をもう一歩深く考えてみてください。
ほとんどの場合、思い当たる理由は「かかるコストがとうてい引き合わない」とか「技術的に無理」とか、その種の「どうしようもない理由」でしょう。

しかし、どんな人でも多かれ少なかれ常識にとらわれているものです(そもそも常識とはそういうものです)。
一歩引いて、論理的に素直に考えてみれば、その時点で世の中や業界や会社で共有されている「常識」が邪魔をして、考えてみればごく簡単な解決策があるにもかかわらず、長い間にわたって放置されている不便や欠如があるかもしれません。
この場合、解決策が賢者から見て「非合理」に映るので、問題が問題としてそのまま放置されて、「常識」がそうした問題の存在を半ば無意識のうちに受け入れてきたわけです。

p475

サウスウエスト航空の「ポイント・トゥー・ポイント・サービス」、マブチモーターの「標準モーター」、ガリバーの「買取専門で小売はしない」といったこれまでお話ししてきたクリティカル・コアとそれがブレイクスルーとなって生まれた戦略ストーリーは、それぞれの経営者の頭の中でこのようなプロセスを経て出てきたのではないかというのが私の推測です。
もちろんこうした段取りが明確に意識されていたわけではないでしょうが、素朴な疑問に対する「なぜ」の思考がストーリーの発火点になったことは間違いありません。

こうした「なぜ」の積み重ねは当事者の頭の中にしかない、ということを改めて強調したいと思います。
よろしくないのは、さまざまな情報を集めて調査をすれば面白いストーリーのネタが見つかるだろう、という受け身的な発想です。
情報のインプットが多くなるほど、常識が強化されます。
情報量が多過ぎると、かえってキラーパスの発想は貧困になるのかもしれません。
これだけ情報が氾濫している時代なのですから、改めて調査してみなくても、必要となる情報の大まかなところはすでにわかっているはずです。
ストーリーを書くための予備知識はそれで十分、まずは書いてみることです。

そもそも、普通のメディアで飛び交っている情報はほとんど頼りになりません。
そうした情報の圧倒的大多数は、多かれ少なかれ「最新のベストプラクティス」的な話です。
キラーパスは『日本経済新聞』の一面には出てきません。
それ自体では「良いこと」に聞こえないからです。
キラーパスの効いたストーリーは、出来合いの情報ばかり集めている素人の発想が及ばないところにあります。
その意味で、キラーパスは玄人好みの戦略なのです。

骨法その八 競合他社に対してオープンに構える p476

唯我独尊の自前主義に凝り固まらないという意味での「オープン化」や、他社の資源を有効に活用するという意味での「オープン・イノベーション」がこのところ注目を集めていますが、ここで言いたいことはそうした話とは全く関係ありません。
「オープンに構える」というのは、競合他社に対して防御的(defensive)な構えをとるべきではないという意味です。

優れた戦略で成功すれば、当然、競合他社は注目します。
他社が戦略を模倣して追いかけてくるのではないかと気になるのは無理もありません。

しかし、いくら戦略の優位や独自性を防御しようとしたところで、このご時世ではどうやっても完全には防御しきれないと思ったほうがよいでしょう。
新薬の特許一発で相当の長期にわたって利益を維持できる製薬業界や、デファクトスタンダードを握ってしまえば、あとは強力なネットワーク外部性で優位を持続できる一部のソフトウェア業界などはあくまでも例外です。
しかし、第5章の競争優位の階層のところでお話ししたように、その戦略が本当に優れたストーリーになっていれば、実際のところ模倣の脅威はそれほど大きくはありません。
ストーリーがどんなに広く知れ渡り、他社がどんなに研究・分析したとしても、直接の模倣の対象となるのはストーリー全体ではなくて、個別の構成要素のほうです。
個別の要素がかなり包括的に模倣されたとしても、他社がストーリーの交互効果という肝心要の強みまで手に入れるのは相当に困難です。
一見して非合理なキラーパスがストーリーのクリティカル・コアになっていれば、追いかけてくる競合他社の側で自滅の論理が作動して、第5章でお話ししたような「地方都市のコギャル」になるかもしれません。
そうなったらしめたものです。

要するに自信を持てるストーリーさえあれば、競争相手の反応に対して鷹揚に構えていることができます。
逆にいえば、競争相手に対してオープンな構えを自然に取れる程度に自信を持てるストーリーを描くことが大切だということです。

優れた戦略ストーリーで競争優位を維持してきた企業を見ると、競合他社に対してオープンな構えのところが少なくありません。
たとえばトヨタです。
もちろんブラックボックス化された技術やノウハウ、知的財産については十分に防御的ですが、トヨタ生産方式(TPS)など戦略ストーリーの柱となる部分については、外部に対してわりとオープンです。
その証拠に、TPSについてその細部まで研究し、その「秘密」を解き明かした本は世の中にあふれています。

デルにしても、創業者のマイケル・デルさんは一九九九年の時点で Direct from Dell という本(邦題『デルの革命』)を出版しています。
副題に「業界を変えた戦略」(Strategies That Revolutionized an Industry)とあるように、デルの創業以来の成功を支えた競争戦略をその詳細に至るまでつまびらかにしています。
もしデルさんが競争他社の戦略の模倣に対して防御的であれば、とうていここまでは書かなかったはずです。

トヨタやデル、その他の優れた戦略ストーリーで成功した企業はなぜオープンな構えを取るのでしょうか。
それは自分たちが構築したストーリーに自信があるからだと思います。
「一部の構成要素は取り入れられても、ストーリー全体はそう簡単にはまねできない」という自信です。
うがった見方をすれば、自社のストーリーを公開することによって、それを模倣しにかかる他社が自滅の論理にはまるのを期待しているのかもしれません。
もっとも、さすがにそこまでは考えていないでしょうが、いずれにせよ、個別の構成要素ではなく自社のストーリーを深いレベルで理解し、ストーリーこそが持続的な競争優位の源泉になっているということを強く自覚しているのだと思います。

デルが急成長を続けていた一九九七年のことです。
デルの優れた業績とそれを可能にした「ダイレクト戦略」はPC業界の内外で注目を集めるようになりました。
第5章でお話ししたIBMだけでなく、ヒューレット・パッカード(HP)や(HPに吸収される前の)コンパックもまた同じような戦略を導入して、デルに盛んに攻撃を仕掛けてきました。
こうした他社の戦略模倣の動きに対して、マイケル・デルさんをはじめとするデルの経営陣は「競合他社の動きを歓迎する。
業界の大手企業がわれわれの戦略を模倣するということは、われわれのやってきたことの信頼性がそれだけ高いということだ」という発言を繰り返しました。

PC業界で当時デルの二倍近くの市場シェアを持ち、業界最大の規模を誇っていた王者コンパックがフルスケールで直販に乗り出すという戦略を表明したときは、さすがのデルも相当に大きな影響を受けるのではないかと取りざたされました。
しかし、このニュースについての感想を聞かれたマイケル・デルさんは「われわれが最高の野球選手だとすれば、コンパックは最高のバスケットボール選手だ。
コンパックは野球をやりたいというのだが……」と発言しています。

これはなかなか含蓄のある言葉です。
球技(PC事業)という点では同じですが、デルのPC事業を駆動している戦略ストーリーはコンパックのそれとは大きく異なります。
どんなにコンパックが優れたバスケットボール選手だとしても、野球ではそうはうまくいかないよ……、というわけで、自分の練り上げてきた戦略ストーリーに対するデルさんの深い自信が読み取れます。

反対に、ストーリーの一貫性よりも特定の構成要素に強みを大きく依存している企業は競合他社に対して防御的にならざるをえません。
その「お宝」ともいうべき要素を模倣されてしまえば、競争優位をいちどきに喪失してしまうからです。
競合他社にまねされて追いつかれてしまうのではないかということが心配になるようでは、まだまだ戦略ストーリーの詰めが甘いということです。
ストーリーとしての戦略に自信が持ちきれないと、どうしても防御的な構えになります。
オープンな自然体で競争相手に向き合えるとしたら、戦略ストーリーも本物です。

ここでいうオープンな構えというのは、オープン・イノベーションなどというときのオープンとは全くの別ものだといいました。
もちろん広い視野を持って他社に学んだり、外部企業と柔軟に連携しながら社外の資源や成果を取り入れるということは悪いことではありません。
しかし、この意味での「オープン」が過ぎると、他社の「優れた点」をやみくもに取り入れることになって、肝心の自社の戦略ストーリーの一貫性が崩れてしまいかねません。
これでは何のために他社に学んでいるのかがわからなくなります。

自社に優れた戦略ストーリーがあり、それが持続的な競争優位をもたらし、他社がおいそれとまねしようとしてもかえって「地方都市のコギャル」になってしまう。
これが競争戦略にとって最高の状態です。
反対に、一貫した独自のストーリーがなく、戦略なるものが成功事例から拝借した個別要素のパッチワークになったあげくに、自分たちが「地方都市のコギャル」になってしまう。
これが最悪の戦略です。

まずは自分の頭を使って、自分の言葉で、自分だけのストーリーをつくることが先決です。
もちろんすぐに完成されたストーリーができるわけではありません。
しかし、自信を持てるだけのストーリーの原型をつくることが大切です。
ストーリーの原型ができてしまえば、あとは業界の一時的な流行や競争相手の短期的な行動に振り回されることなく、試行錯誤を重ねながらストーリーがより強く、太く、長くなるように磨きをかけることが大切です。

骨法その九 抽象化で本質をつかむ p480

戦略ストーリーの骨法を順番にお話ししていると、いつも結論は「自分の頭で考えましょう」とか「ビジネスを駆動している論理を立ち止まって考えましょう」とか、そういう話になってしまうのですが、他社の経験や動向を知ることは、もちろん悪いことではありません。
自分の業界や自社のことだけを考えていても発想が偏りますし、煮詰まってしまいます。

今では新聞や雑誌、インターネットなどなど、さまざまなメディアを通じて、ありとあらゆる情報にアクセスできます。
ただし、どの企業 (who) が、いつ (when)、どこで (where)、何を (what)、どのように (how) やっているのか、こうした個別のファクトについての情報にはそれほどの意味はありません。
どんな情報に接するときでも、その背後にどういう論理があるのか、 why を考える癖をつけることが大切です。

簡単にアクセスできる情報には、肝心の why が欠落しています。
アクションの背後にある論理は、あくまでも自分の頭で読解しなければなりません。
ファクトを漠然と眺めるだけでは、「木を見て森を見ず」です。
個別のファクトをつなぐストーリーを汲み取ることができません。

戦略が特定の文脈に埋め込まれた特殊解である以上、決定論や法則では戦略ストーリーはつくれません。
あらゆる戦略はただの一回しか起こらない出来事なのです。
ですから、戦略思考を豊かにするためには、「歴史的方法」が最も有効です。
要するに、過去に生まれたストーリーを数多く読み、背後にある論理を読解するということです。

読解の対象としては、新聞や雑誌の「速報」的な断片の情報よりも、ある企業の歴史や戦略についてじっくりと記述した本、優れた経営者の評伝・自伝といった、「ストーリー」になっているもののほうが適しているでしょう。
事の成り行きからしてどうしても数は少なくなるのですが、成功した名作ストーリーだけではなく、失敗した「愚作」を読むこともとても大切です。
失敗したストーリーのほうが、むしろファクトの背後にある why を考えやすいものです。

私が個人的に気に入っている抽象化のやり方に、昔の新聞や雑誌の記事を読むというのがあります。
たとえば、私の手元にはこの本を書くための資料としてこの一〇年間のアマゾンについての記事を集めたファイルがあります。
メディアの論調はその時々の業績とか評判に大きく左右されるものです(余談ですが、一九九〇年代の終わりには、多くのメディアがエンロンの「革新的なビジネスモデル」を大絶賛していました。こういう記事を今になって読むと、ぶれない論理を持つことの大切さをしみじみと感じます)。
アマゾンにしても、創業当初は絶賛され、ネットバブルが崩壊して赤字続きが危惧された頃はさんざんにこき下ろされ、最近になってまた絶賛されるという成り行きです。

ここでのポイントは、賞賛されるときもこき下ろされるときも、アマゾンの戦略は基本的に同じストーリーで一貫していたということです。
一〇年分の記事をたどって読んでみると、その時々の表面的な現象に左右されずに、かえってアマゾンの戦略ストーリーが依拠している論理の本質を理解しやすいのです。

p483

かつて学部の学生(大学の一年生から四年生)に教えていた頃の話です。
いろいろな事例を使って競争戦略を講義していたのですが、ある学生が手を挙げて、「先生、もっと抽象的に説明してもらわないとわかりません」と言いました。
学部の学生には実務経験はありません。
こちらとしては具体的な例を使って説明したほうがわかりやすいだろうと思って講義をしていたのですが、実務経験がない学生にビジネスの具体的なことを話しても、いまひとつリアリティがない。
抽象レベルで理解すれば、ビジネスの実際を肌で知らなくとも本質がつかめるはずだ、だからもっと抽象的に説明してほしい、というのがこの学生のリクエストでした。

この学生の発言はなかなか筋が通っています。
もちろん抽象論理だけでは戦略ストーリーはつくれません。
現実のストーリーはもちろん具体的なアクションのレベルに落ちていなければなりません。
しかし、具体的な事象はあくまでも特定の文脈の中でのみ意味を持ちます。
他社の成功要因を自分のストーリーに水平的に応用しようとしても、異なった文脈をまたぐことになるので、そのままでは無理があります。
具体的事象の背後にある論理を汲み取って、抽象化することが大切なのです。
具体的事象をいったん抽象化することによって、初めて汎用的な知識ベースとなります。
汎用的な論理であれば、それを自分の文脈で具体化することによって、ストーリーに応用することができます。

このように抽象化と具体化を往復することで、物事の本質が見えてきます。
ここで大切なことは、思考の推進力はあくまでも抽象化のほうにあるということです。
具体的な事象についての情報であれば、漫然としていても日常生活の中でどんどん入ってきます。
しかし、意識的に抽象化をしなければ本質はつかめません。
三枝匡さんはこのプロセスを、具体的な事象を「冷凍」(抽象化)して、ひとまず「冷凍庫」(知識ベース)に入れておき、必要なときに自分の文脈で「解凍」(具体化)して応用する、というメタファーで説明しています。
具体的な事象は「生もの」なので、一度冷凍しないと、文脈を超えて持ち運ぶことができないというわけです。

これは三枝さんが紹介している話ですが、一九八〇年代に日本的経営のブームが起き、アメリカでもトヨタ生産方式(TPS)は注目を集めました。
しかし、アメリカの人々にとってTPSの本質がわかりにくかったようで、当初は単純に在庫を減らすための一つの方法として受け止められていました。
初期の段階ではTPSの導入は機械組立産業に限られていました。

ところが一九九〇年代に入ると、TPSの本質が「時間」にあるのではないか、という抽象化の視点が提示されました。
企業のあらゆる活動で時間短縮を図ることが競争優位につながるという論理化です。
TPSが「時間に基づく競争優位」という概念で抽象化されると、機械組立ての生産現場だけでなく、営業や開発など企業活動全体に応用できるという気づきが生まれました。
その後、TPSはPC、航空機、医療機器、玩具、樹脂成型、あるいは非製造業の物流、郵便、建設、病院などの分野でも施行されることになりました。

p488

他社のストーリーを読解するときは、このような抽象化が欠かせません。
抽象化すれば、汎用的な知見を手に入れる可能性が飛躍的に高まります。
一見何の関連もなさそうな業界の事例や、時代遅れに見える遠い昔の事例から、自分のストーリーづくりに役立つさまざまなヒントが得られるはずです。
抽象的な論理こそ実用的なのです。

骨法その一〇 思わず人に話したくなる話をする p488

「強さ」と「太さ」と「長さ」の三つが戦略ストーリーの評価基準だという話をしましたが、一番手っ取り早くわかる優れたストーリーの条件は、そのストーリーを話している人自身が「面白がっている」ということです。
自分が面白がっているからといって必ずしも成功するとは限りませんが、このことは優れたストーリーの必要条件として最重要なものの一つであることは間違いありません。
自分で面白いと思えるということは、少なくともその人の頭の中では、ストーリーを構成するさまざまな決めごとや打ち手が論理で無理なくつながっているということを保証しています。

ストーリーの戦略論は、改めて戦略づくりの面白さに光を当てるものです。
ストーリーを構想し、組み立てるということは、そもそも創造的で楽しい仕事のはずです。
にもかかわらず、「中期経営計画」という名分のもとに、難しい目標設定を与えられ、眉間にしわを寄せた渋い顔で「戦略」を考え(させられ)ている人が多過ぎるように思います。
戦略は「嫌々考える」ものではありません。
まずは自分自身が面白くて仕方がない、これが絶対条件です。
そのことを考えていると時間が経つのを忘れてしまうほど心底面白いことであれば、いくらでもエネルギーを投入できます。
努力が苦痛になりません。
多少忙しくとも、ストーリーづくりは自然と前に進んでいきます。

ストーリーの面白さは、組織における戦略の実行と深くかかわっています。
戦略の実行を担う人々は、具体的な仕事としては特定の機能や部門を担当しています。
ストーリーという全体を共有しなくても、アナリシス(分析)の発想に基づいて、組織のメンバー一人ひとりにインセンティブを与えることは可能です。
戦略を構成要素に分解し、特定の個人が担当する範囲を定義し、その人が達成すべき目標を明示し、それに対する報酬を設計してあげれば、その人は動機づけられるかもしれません。
極端な話でいえば、個人に対応して定義された成果をあげるほど、その人の金銭的報酬が上がるような仕組みを用意すれば、一人ひとりが「自分の稼ぎを極大化する」というモチベーションで勝手に動いてくれるだろうという発想です。

しかし、これではマネジメントの放棄と紙一重です。
当たり前の話ですが、自分の稼ぎを極大化しようとする人々の集団では戦略は実行できません。
戦略ストーリーはあくまでもシンセシスです。
相互に独立した要素へと完全に分解することはできません。
アナリシスでは割り切ると、どうしても全体としての整合性がとれなくなります。
個人のレベルでどんなに精緻にインセンティブ・システムを整えても、戦略を駆動する力は生まれないのです。
自分の仕事がストーリーの中でどこを担当しており、他の人々の仕事とどのようにかみ合って、成果とどのようにつながっているのか、そうしたストーリー全体についての実感がなければ、人々は戦略の実行にコミットできません。
戦略ストーリーをつくる立場にいるリーダーだけでなく、ミドルマネジメント以下の多くの人々も、仕事に向かって突き動かされるような面白いストーリーを強く求めているはずです。

p491

サッカーと同様に、ビジネスも総力戦です。
「何を」「どのように」も大切ですが、それ以前に「なぜ」についての全員の深い理解がなくては実行にかかわる人々のモチベーションは維持できませんし、総力戦にはなりえません。
ストーリーを全員で共有していれば、自分の一挙手一投足が戦略の成否にどのようにかかわっているのか、一人ひとりが根拠を持って日々の仕事に取り組めます。
戦略がどこか上のほうで漂っている「お題目」でなく、「自分の問題」になります。
自分がストーリーの登場人物の一人であることがわかれば、その気になります。
こうしてビジネスは総力戦になるのです。

p494

ストーリーがなかったり、あったとしてもリーダーの頭の中にあるだけで組織のメンバーと共有されていなければ、なぜ仕事をしなければならないのか、日々の課題を解決しなければならないのか、それに対する答えはせいぜい「自分の評価が下がってしまうから」ということになります。
戦略の実行にかかわる一人ひとりが、「なぜ」についての本当の根拠を持てません。
仕事の大変さが同じであったとしても、疲れがやたらと暗くなります。
戦略ストーリーは、それにかかわる人々を「明るく疲れさせる」ためのものです。

戦略ストーリーは社内の人々を突き動かす最強のエンジンです。
経営者から出てくる戦略が機能部門ごとの無味乾燥な静止画の羅列であれば、総力戦はとうてい期待できません。
インセンティブ・システムなどさまざまな制度や施策も必要でしょうが、そんな細部に入り込む前に、人々を興奮させるようなストーリーを語り、見せてあげることが、戦略の実効性を確保するうえでとても大切です。
リーダーが自ら面白いストーリーを語り、ストーリーで人々を突き動かし、現場の日常のコミュニケーションでストーリーが飛び交い、全員が一つのストーリーを共有し、「共犯意識」を持っている。
これが私の思い浮かべる理想的な組織のイメージです。

戦略をつくることと戦略を実行することの重要性はいうまでもありません。
しかし、それと同等に大切なこととして「戦略を伝える」ということがあります。
戦略の伝達は策定と実行をつなげるという重要な役割を担っています。
戦略がきちんと伝わらなければ、実行はありえません。
戦略の策定や実行の重要性が強調されているわりには、戦略の伝達はこれまでないがしろにされてきた感があります。
ひとたび戦略をつくったら、リーダーはありとあらゆる機会、フォーマルなミーティングだけでなく、インフォーマルな日常の接触の機会を捉えて、戦略を組織のメンバーに伝え、理解させなければなりません。

戦略ストーリーの伝達はリーダーにとって非常に手間のかかる仕事です。
こぎれいにまとまったチャートやグラフや数字満載のドキュメントをメールで社内にばらまいたり、イントラネットで共有してもストーリーは伝達できません。
静止画ではストーリーは絶対に伝わりませんし、理解されません。
ストーリーを丸ごと伝達するためには、リーダー自らがそのストーリーを直接語ってみせるしかないのです。

ストーリーを語るときはフェイス・トゥー・フェイスのやり取りが基本です。
リーダーが全身全霊を込めて、人々の目を見て直接語りかけ、納得がいくまで何度でも繰り返し説明しなければなりません。
ストーリーの伝達には、その構想以上に投入努力が必要になるかもしれません。
しかし、ここで手間や手数を惜しんではなりません。
リーダーにとって絶対に避けて通れない仕事です。

ただでさえ忙しい中で、リーダーはどうしたらストーリーを伝えるための努力を続けられるでしょうか。
自分で面白いと思えるストーリーをつくることに尽きるというのが私の意見です。
面白い映画を観たり、面白い話を聞いたら、思わず友人や家族にそのストーリーを話したくなるものです。
戦略ストーリーもそれと同じです。
自分で面白くて仕方がないような戦略ストーリーであれば、それを伝えるのが苦になりません。
それどころか、何度でも自然と人に伝え、共有したくなります。

思わず人に伝えたくなる話。
これが優れたストーリーです。
逆にいえば、誰かに話したくてたまらなくなるようなストーリーでなければ、自分でも本当のところは面白いと思っていないわけです。
自分でも面白いと思っていないような話を人にするのは面倒で退屈なものですし、聞かされるほうも迷惑な話です。
自分で面白がっていなければ、人が聞いて面白いと思うわけがありません。
ましてや、そんなストーリーで組織を動かそうとする、これはもはや「犯罪」といってもいいでしょう。

私の経験した範囲でいっても、「話がとにかく面白い」ということが優れたリーダーに共通の特徴であるように思います。
この連載で事例として取り上げてきた会社の経営者にしても、実にお話が面白い方々ばかりでした。
話が面白いというのは、「話がうまい」とか「プレゼンテーションに長けている」とか、そういう表面的なスキルをいっているのではありません。
一般的な意味では、必ずしも「話し上手」でない方もいるのですが、訥々とした語り口の中にも骨太の論理があり、思わず身を乗り出して聞いてしまうような面白さがあります。
何よりも話している本人が面白がって話をしているのです。
ストーリーという戦略の本質を考えると、「話の面白さ」はリーダーシップの最重要な条件の一つです。

一番大切なこと p497

論理が大切だという話をこれまでしつこくしてきました。
だからといって、論理にとらわれて、自分自身にとって「切実なもの」を衰弱させてはなりません。
戦略ストーリーにとって一番大切なこと、それはストーリーの根底に抜き差しならない切実なものがあるということです。

「切実さ」は「面白さ」とは少し違います。
面白いというのは、あくまでも自分を主語にしています。
自分にとって面白いことでなければ、ストーリーづくりは始まりません。
面白ければ、文字どおり寝食を忘れてのめり込めます。

しかし、面白いだけではその情熱は長続きしないように思うのです。
骨法その五でお話ししたように、戦略ストーリーが向こう一〇年、二〇年を射程に入れたものであるとすれば、それだけの長期を支える屋台骨として、面白さを超えたところにある切実さが必要になります。
先に紹介した脚本家の笠原さんは、切実なものを「体の内側から盛り上がってくる熱気と、そして心の奥底に沈んでいる黒い錘である」と表現しています。
戦略ストーリーも、そうした切実なものに裏打ちされていなければなりません。

戦略ストーリーにとって切実なものとは何か。
煎じ詰めれば、それは「自分以外の誰かのためになる」ということだと思います。
直接的には顧客への価値の提供ですが、その向こうにはもっと大きな社会に対する「構え」なり「志」のようなものがあるはずです。
「社会貢献」とか「世のため人のため」というと何やらきれいごとに聞こえるのですが、自分が楽しい、自分のためになるということだけでは、スタートダッシュは効いても、決して長続きしません。

変化の激しい時代だといいます。
しかし、人間の寿命は延びている。
ほとんどの人が数十年間は仕事をするわけです。
事業や会社はもっと長続きするべきものです。
切実なものとは、結局のところ「世のため人のため」なのです。
本当にそうなるかは別にして、少なくとも自分では「世のため人のため」と信じられることでなくては、一〇年、二〇年続く仕事としてもたないのではないでしょうか。
ブックオフの佐藤弘志さんはこういう話をしてくれました。

ブックオフは創業二〇年を目前にしている。
どんな会社でもそうだと思うが、初めのうちは自分たちが生きていくこと、伸びていくことで精一杯だった。
しかし、二〇歳という大人になると、自分たちだけがよいというだけではこれ以上の成長ができなくなってくる。
仕事を通じて世の中に何らかの貢献をしているという実感がなければやっていられない。
中古の書店ではなく、リユース社会のインフラとして、ものを捨てたくないと思う人のための存在になる。
こうした志があるから、現場の一人ひとりがブックオフで働くことに自信と誇りを持てる。
それがなければ会社は続かない。

同じ職場の仲間とパネルディスカッション形式の講演をやったときのことです。
このときはこれから社会に出る若者がオーディエンスでした。
若者は自分の夢を語ります。
「ある分野の資格を取って、専門能力を身につけたい」とか「グローバルに活躍できる人材になりたい」とか「ベンチャー企業を興して起業家として成功したい」とか、そうした話が出てきます。
そこでパネリストの一人だった小林三郎さんがこう言いました。
「それは個人の『欲』です。『夢』という言葉を使わないでください」。
私は横で聞いていて心底しびれました。

人間は多かれ少なかれ利己的な生き物です。
誰も自分が一番かわいい。
しかし、その一方で人間はわりとよくできているもので、自分以外の誰かに必要とされたり、喜ばれたり、感謝されたり、そういう実感を得たときに、一番嬉しく、一番自分がかわいく思えるものです。
それが人間の本性だと思います。

そう考えると、「切実さ」と「面白さ」とは、実際のところはほとんど重なっているのかもしれません。
「好きこそものの上手なれ」です。
自分が好きで、心底面白いと思えることであれば、人は持てる力をフルに発揮できます。
その結果、良い仕事ができるし、自分以外の誰かの役に立てる。
人の役に立っているという実感が、ますますその仕事を面白くする。
ますます好きになり、能力に磨きがかかる。
こうした好循環が仕事を持続させるのだと思います。
「世のため人のため」はつまるところ「自分のため」ですし、本当に「自分のため」になることをしようとすれば、自然に「世のため人のため」になります。

優れた戦略ストーリーを読解していると、必ずといってよいほど、その根底には、自分以外の誰かを喜ばせたい、人々の問題を解決したい、人々の役に立ちたいという切実なものが流れていることに気づかされます。
世の中は捨てたものじゃないな、とつくづく思うのです。
ここまでお読みくださったあなたにとって「切実なもの」とは何でしょうか。
それは自分の胸に聞いてみるしかありません。

ストーリーとしての競争戦略について、長々と手前勝手な話を続けてきました。
この本にしても、書き始めたきっかけには、競争戦略を考えるということを仕事にしている私なりの「切実なもの」がありました。
それは、本来は面白いストーリーであるはずの戦略が、このところ無味乾燥で奇妙な静止画の羅列――それは「アクションリスト」だったり、「テンプレート」だったり、「ベストプラクティス」だったり、ひどい場合は単なる「ワンフレーズ」だったりするのですが――になってしまっているのではないか、という問題意識です。
面白く生き生きとした動画という戦略論の本来の姿を取り戻したい。
それが私にとっての切実な思いです。

もう一つ、自分が面白いと思う話、人に思わず伝えたくなる話をしよう、と心がけてきました。
この本を通じて、自分で面白いと思えない話は一切しなかったつもりです。
少なくとも自分では面白いと思っているのですが、お読みいただいた皆さんはいかがでしたでしょうか。

私の感じた「切実さ」と「面白さ」が皆さんにも伝わり、ご自身の戦略ストーリーづくりにとって少しでも意味のある何かを汲み取っていただけたら、それに優る喜びはありません。
私の話はこれでおしまいです。
最後までおつきあいただきまして、本当にありがとうございました。