「鎮魂」を2025年08月04日に読んだ。
目次
- メモ
- p21
- p49
- p57
- p60
- p65
- 食べられなくてヤクザに p74
- 「血統書つきの野良犬」 p93
- 京都刑務所で「盛力」と改名 p112
- 会社整理の“プロ集団” p128
- p133
- p142
- 司忍・現六代目組長との出会い p144
- p154
- 1年を「1カ月」と考える p162
- p171
- ベラミの勲章 p172
- 山口組の変質 p175
- 山口組を“カネ”の組織にした元凶 p178
- p185
- 田岡満と竹中武 p186
- p205
- 山口組全体が「食える」システムを p230
- 司忍からの1億円 p240
- クーデターの真相 p245
- 理由なき処分 p258
- p275
- 渡辺の死と「さらば、山口組」 p279
メモ
p21
「絶縁」は、ヤクザ社会の中で最も重い処分で、復帰・復縁の可能性が残されている「破門」と違い、その余地はない。
「絶縁状」を回された時点で、山口組内だけでなく、他団体との関係も一切絶たれるため、ヤクザ社会では生きていけなくなり、引退して堅気になるのが通例だ。
しかし、菅谷組長はその後も菅谷組を解散しなかったため、山口組との軋轢が深まっていた。
p49
当時の府警の調べはそれこそ、メチャクチャやったからね。
大阪だけやなく東京や九州、全国の極道から恐れられとった。
だから「府警にパクられるんが嫌やから、和歌山でやったんやろう」と陰口叩かれたわけですわ。
p57
また兵庫県警も同月22日、山口組本部長の大平一雄・大平組組長(前章参照)が2年前に胴元となって開いた「総長賭博」を摘発。
総長賭博とは、直参クラスだけが参加できる博打で、兵庫県警は賭博開帳図利の容疑で、直参18人の逮捕状を取り、大阪・京都・岡山・愛媛等の各府県警の応援を得て一斉摘発に乗り出した。
この総長賭博で、兵庫県警は、ベラミ事件の際に田岡組長の側にいた、組長秘書の細田利明・細田組組長ら6人を逮捕し、三代目山口組の重鎮だった小西音松・小西一家総長(当時は若頭補佐、後の五代目山口組顧問。平成14年に死去)ら8人を指名手配。
そして15日に収監されたばかりの山本健一若頭や、別の事件で服役中だった竹中正久・竹中組組長ら4人を再逮捕し、「大阪戦争」や「ベラミ事件」の報復の指揮命令系統の解明を目指した。
p60
いちばん最初に(実行犯の)若い衆が(大阪府警に)パクられたんですわ。
何(の容疑)か忘れたんやけど、別件でね。
柏田(安廣・現四代目山健組内柏田組組長)んところの若い衆で、成岡(忠造・柏田組副組長)いうんですけど。
次に「米田」いう若い衆がパクられて、この2人が(府警に)ガンガンに“蒸される”んですわ。
その後、飯田がパクられ、俺も逮捕される。
それで(もう1人の実行犯の)竹崎光雄(当時は盛力会副理事長、後に「武崎」と改姓。平成21〈2009〉年、盛力の除籍と共に引退)が、俺のことを心配して出頭する。
で、最後に小野がパクられるんですわ。
竹崎は(府警の取り調べに対し)ずっとがんばっとった。
これは俺、(逮捕後に)刑事から聞いてるんや。
けど、飯田が俺の名前を出しよった。
飯田さえ名前を出さんかったら、どうもなかったんやけど、出したために結果的に(逮捕された)皆が(盛力の関与を)認めざるを得んようなって、総崩れになった。
前にも話したように、俺、(襲撃)現場に車で入ったところ、若い衆に見られてしもてたからね。
飯田がそれを唄うて、他の若い衆も認めたからもう逃げるに逃げられへん。
けどその時(逮捕時)はもう、自分のことより親父をどう守るかしか頭になかった。
府警の狙いは俺やなく、山本健一やからね。
そこが飯田ら若い衆には分かってへんかったわけや。
府警の狙いは俺の殺人(容疑の立件)やなくて、山口組の若頭である山本健一を(殺人教唆で)パクることにあったんだから。
p65
俺の兄貴はアホがつくほどの正直者だから、刑事から「お前、保釈されても弟に(取り調べの内容を)言うなよ。絶対、弟と連絡取ったらアカンぞ」言われて、それを素直に聞いて、居留守を使いよったんだ。
あの時、兄貴が俺に調べの内容を教えてくれておったら、府警の狙いが何なのか、いつ、どの事件でひっかけようとしてるか分かったのに。
そしたら(捜査から)体をかわして、態勢整えることもできたんだ。
パクられた時、刑事に聞かれたよ。
「お前、兄貴から何も聞かんかったんか?」って。
「ああ、聞かんかった」って答えたら、「ほほう、立派な兄貴やのぅ」いうて皮肉言われたわ。
それで初めは、兄貴の関係の会社整理に絡んだ公文書偽造か何かでパクられて、西成署に留置(勾留)された。
それからじきに殺しの(取り)調べに変わった。
正式に(殺人容疑で)再逮(捕)されたんは(公文書偽造等で逮捕された約)40日ぐらい後の話やけど、実際には頭から殺しの調べやった。
それから殺しと別件でまた4日(勾留された)。
結局、3カ月近くぶっ続け(の取り調べ)ですわ。
前にも話しましたけど、当時の府警の調べって、今とはまったく違うんやから。
そりゃもう、メチャクチャ。
(被疑者を)ガタガタにいわしよる。
うちの若い衆も(取り)調べ室でさんざんドツキ回されたり、蹴り倒されたり、なかには道場に連れて行かれて、投げられて、締められて、落とされた者もおったんだから。
さすがに俺はそこまでされんかったけど、精神的に攻めてきよった。
俺を感情的にさせようと毎日のように、三代目の親分や親父への罵詈雑言を浴びせてきてね。
「山健を病院から引きずり出して、犬みたいに首に縄つけて、調べ室の中、引きずり回したろか!」「それであいつの腹でも蹴り上げて、キャンキャン言わせたろか!」とまで言うてきよった。
何を言われてもグッと耐えてたけどね。
俺、子供の頃に中耳炎患ろうて、右のほうの耳の鼓膜に爪楊枝で突いたみたいなちっちゃい穴、開いとるんです。
右の耳がほとんど聞こえんので、人様の話聞くときは、ついついこうやって左耳を向けてしまうんですわ。
刑事はそれを知っとるもんやから、左耳ばかり攻めてきよるわけ。
突然、そばに来て、左耳の近くで「わっ!」と大声出してみたりね。
それを毎日、朝から晩まで長時間、やられるもんだから頭がガンガンして、意識が朦朧としてくる。
ある意味、殴られるより辛いよ。
で、そういう調べする時はいつも、俺の腰紐を、調べ室の窓の鉄格子に短く括りつけて、俺が自由に身動きとれんようにしてからやってきよる。
「お前は空手使うらしいから、何しよるか分からんから」言うてね。
けど、俺は若い頃から少林寺(拳法)はやっとったけど(後述)、空手の技を習得するのはずっと後の話やからね。
ただ、その頃は「プロ空手」(後述)の先生や選手らとも親しく付き合っとったから、府警は俺も空手を使うと思い込んどったんやな。
はじめ府警は「盛力会」の解散を執拗に迫ってきよった。
「頂上作戦」では、枝の組でも解散させれば、あいつら(警察)の手柄になるからね。
「偽装でもかまへんから解散せい」言うてね。
もともと俺はベラミの報復の時から、「親分の仇を討つからには、組織の一つや二つ、警察に潰されてもかまわん」という覚悟は決めてた。
それに自分が組織を解散することで、親父が警察の調べを逃れることができるんなら、肚を括ろうかとも思った。
けど、俺も組織の一員やから、自分の一存で決めるわけにはいかん。
そこで嫁さんを通じて、秀子姐さんにお伺い立てたところ、姐さんの返事は「たとえお父さん(山本健一)が警察に引っ張られるようなことになってもかまわないから、(盛力会を)解散せんとがんばって」というもんやった。
これは嬉しかったね。
親父から励まされている、と勇気が湧いてきた。
食べられなくてヤクザに p74
「盛力一茂」こと平川茂は昭和16年5月2日、四国の香川県三豊郡(現在の観音寺市)豊浜町姫浜に生まれた。
その後、豊浜町は隣接する和田村と合併(昭和30年)するのだが、旧和田村は第六八、六九代の内閣総理大臣、故大平正芳を輩出している。
のんびりとした田舎町ですよ。
ただ四国の他の町と同じように紡績が盛んでね。
俺のお袋も「正織(興業)」という織物会社の工場で、女工さんとして働いておった。
親父とお袋は、俺がお袋の腹の中におる時に別れて、親父の顔は写真でしか知らん。
4つ上に兄貴がおって、小さい頃はお袋と兄貴の3人暮らし。
お袋は女手一つで俺らを育ててくれた。
けど、お袋が勤めとった(紡績)工場が、俺が小学校5年生になる頃には潰れてしもて、その後、お袋は職を転々として苦労しよったですよ。
俺も地元の小中学校を出て、15(歳)で奈良の靴下工場に行かされてね。
(奈良県)「北葛城郡香芝町磯壁」(現在の香芝市)というところの。
「二上山」(香芝市と隣接する葛城市と、大阪府南河内郡太子町にまたがる)という有名な山があるでしょ。
あの真下の田んぼの真ん中に「里井(メリヤス)」という靴下工場(現在の「日本ニット」の前身)があったんですよ。
そこに集団就職で行かされたんやけど、1年ぐらいでクビになって(豊浜町に)帰ってきた。
同じ工場で働いとった娘さんと恋仲になって、それがアカンということで、放り出された。
で、地元に帰って、1年ほど左官に弟子入りしたんだけど、食うていけんもんだから、ヤクザになったんです。
兄貴は中学校卒業した後、大阪に働きに出よったし、お袋も豊浜では食えんので、大阪に出ていってたんで、豊浜に残ってたんは俺1人ですわ。
(左官の)給料はその頃で5000円くらいで、なんぼ切りつめてもメシが食えんかった。
当時はダンスとかが流行っててね。
俺も夜は観音寺のほうのダンスホールに通ってて、自然とそういう奴ら(地元のヤクザ)と知り合うようになった。
観音寺に「宮本組」という地元の組があってね。
博徒ですわ。
おおむヤクザは概ね、「博徒」を起源とする博徒系組織と、「神農」を始祖とする神農系組織に分類される。
博徒系組織は文字どおり博打を生業とし、自らの勢力圏である「縄張」で、「盆」(賭場)を開帳。
胴元として「寺銭」(賭博にともなう手数料。「カスリ」ともいう)を徴収することによって収入を得る。
一方、神農系組織は「的屋」や「香具師」など路上商いの元締めで、「庭場」と呼ばれる勢力圏内で出店。
営業する露店から「所場代」などを徴収することによって生計を維持している。
ヤクザ社会で博徒は「渡世人」、神農は「稼業人」とも呼ばれる。
ちなみに「暴力団」は戦後、警察当局やマスコミが使い始めた呼称だ。
俺はホンマは、ヤクザやるんやったら「合田組」(後の「合田一家」)に入りたかったんですよ。
というのも、合田組を作った合田幸一さんいう人はもともと、豊浜(町)の出身やったからね。
合田組は、山口県下関市で保良之助が結成した「籠寅組」の代貸(博徒組織のナンバー2。若頭、舎弟頭に相当)だった合田幸一が昭和23(1948)年、籠寅組を継承する形で設立。
同43年に「合田一家」と名前を変え、下関を中心にその勢力を拡大していった。
同45年には合田の提唱で、大阪の「松田組」や神戸の「忠成会」、北九州の「工藤会」などと反山口組同盟の「関西二十日会」を結成(第1章参照)。
現在も単独で、警察庁から「指定暴力団」の一つに認定されている。
当時の「合田幸一」といえばヤクザ界のヒーローですよ。
籠寅組が下関に勢力を広げた立役者なんやから。
実は俺のお袋は昔から、合田さんのところと近所付き合いしとってね、俺が赤ちゃんの時は合田さんに抱っこしてもらったこともあったそうなんや。
そういう縁もあったから俺は、お袋に「合田さんところに行けるよう口利いてくれ」言うたんやけど、お袋が(ヤクザになることに)反対して、口利いてくれなんだ。
それで仕方ないから、地元の宮本組に17(歳)の時に入って、19になるまでおった。
博打場の手伝いしとったら、小遣いぐらいは落ちてきたからね。
メシ代やら煙草代やら、なんとのう生活はできたんですわ。
けど、19の時に兄貴が大阪から迎えに来よって。
「こんな田舎でくすぶっとってもしゃーないやろ」言うてね。
兄貴は中学校卒業してから(大阪市中央区)船場の順慶町(現在の南船場)のダンボール屋に丁稚奉公に出ててね、二十歳過ぎで独立したんやけど、その頃にはもう一丁前になってて、「同じヤクザするんやったら、東京なり、大阪なり出て、都会でせい」言うわけですわ。
その時には反発したけど、よう考えたら兄貴の言うとおり、このまま田舎におってもうだつが上がらん思てね、大阪に出た。
それで大阪におった知り合いから、昔の「南道会」の「岡本正雄」という人を紹介してもらって、その岡本さんに1ヵ月、“客分”で預かってもらっとったんです。
南道会は当時、大阪に拠点を置いていた独立系組織で、後に田岡一雄三代目山口組組長の舎弟となった。
その後、三代目山口組直参となる中西組や宅見組は、旧南道会系組織である。
けど、いつまでもそこに世話になるわけにいかんので、(大阪市中央区)長堀にあった運送屋で働きだした。
(運転手の)助手として、鋼材を運んどったんよ。
で、夜は白タク(営業許可を受けず、自家用車を使った違法タクシー)を始めた。
当時、(大阪市阿倍野区)阿倍野の近鉄百貨店の裏側にホテル街があって、いまでもいくつかラブホテルが残ってるけど、コールガールがぎょうさんおったんよ。
全盛期には15人くらい。
そのコールガールのなかで、ボス的な女が俺に惚れよってね(笑)。
加賀まりこみたいな感じの、目がぱっちりしてて、かわいい顔してるんやけど、姉御肌のその女が俺に惚れた。
俺もガキの頃からヤクザしとるから、多少のカスリの取り方ぐらいは知ってたんで、コールガールから1人(当たり、1日)500円から1000円のカスリを取っとったんだ。
それである時、その女がトヨペット・クラウンの中古(車)を買ってくれよったんで、白タク始めた。
「血統書つきの野良犬」 p93
「ワシらは野良犬でも、血統書つきの土佐犬や」と。
「その土佐犬が野に放たれたらどんな犬になるか(山口組に)思い知らせたる」言うて。
当時、まだ25(歳)ですわ。
一心会が解散されて、退廃的な考え方に堕ちいっとったんでしょうな。
けど、愚連隊になった途端、不思議なことに錚々たる若い衆が集まってきてね。
1メートル81(センチ)とか82とか、ええ体格したやんちゃくればっかり来よったんですわ。
どこの組の若い衆と並べても見劣りせん、ドシッとしたのが。
ヤクザしとった時はそんな奴ら来んかったんやけど、愚連隊になったら集まってきよった。
やっぱり人間には、組織に馴染める者と、馴染めん者がおるんですな。
愚連隊になってから来た若い衆のほとんどが昼間、堅気の仕事持ってる奴とか、親がそれなりの鉄工所やってるボンボンとかね。
そういう若い衆らが夜になったらミナミで暴れ倒しよるわけや。
で、そんな若い衆らがまた悪い仲間を連れてきて、そんななかに賭場荒らしするような連中もおったんです。
その賭場荒らしに、俺が拳銃貸したんが運の尽きですわ。
俺は22の時にはもう、45口径2丁と32口径1丁、あとベレッタ2丁と(計)5丁持ってたからね。
当時は職質(職務質問)さえ警戒しとったら、持って歩けた時代やったから。
少なくとも頂上作戦が始まる前、昭和38年ごろまでは。
それで賭場荒らしの連中が、俺の舎弟通じて、「拳銃貸してくれ」言うんで貸したら、連中が賭場荒らすだけやなく、相手殺してしもた。
といっても、殺しに俺の拳銃が使われたんやないんよ。
包丁で刺し殺したんやけど、その前に一発、天井に向けて撃っとる。
それが、俺が貸した拳銃だった。
ことは殺人やから大きい事件になって、拳銃の出所洗われて、パクられた連中が(拳銃が)俺から出たいうことを唄てしもて終わり、ですわ。
銃刀法(違反)やのうて、強盗(の幇助)でパクられてね。
俺も舎弟通じて、賭場荒らしの配当金もらってたから。
ただ最初は唄われるとは思てなかった。
というのも、賭場荒らししたなかでいちばんの兄貴分が下の連中にカマシ(脅し)入れてたからね。
「金徳治」いうてね。
当時はここらで有名なワルの“親分”ですわ。
その金徳治が、俺が拳銃貸した時にね。
若い衆に「ええか、お前ら、パクられても会長(盛力)の名前だけは絶対、出したらあかんぞ。(取り調べが)苦しかったら、死ね。ワシも死ぬから」言うてね。
それでそう言うた金徳治はほんまに、自分で首吊って死によったからね、留置場で。
これで俺もしゃあないなと諦めたよ。
当時の府警の調べは、今とはまったく違てむちゃくちゃやったからね。
そしたら他の、(殺人罪で懲役)15年と無期喰らいよった奴らが唄いよった。
それで結局、強盗(罪)で(懲役)6年、京都刑務所に行くことになった。
京都刑務所で「盛力」と改名 p112
京都(刑務所)の中では、勝手にサンドバッグをつくって(笑)、それ叩いて、体鍛えとったんです。
工場の担当(刑務官)も何も言わんかったから。
もうその頃には「山健(組)」の名は鳴り響いとったからね。
周りの者(受刑者)も何も言わんかった。
刑務所いうのはジャングルと一緒。
オオカミもおればジャッカルもおるし、ハイエナもおる。
けど、そんなところにトラやライオンが1匹でも放り込まれたら皆、おとなしなるでしょ。
それと一緒ですわ。
(京都刑務所に)入った時から、(他の受刑者は)皆、俺の顔を立ててくれた。
入ったその日には「今日から誰が来る」というのは広まってるわけ、担当の横についてる「総務」(担当刑務官を補佐する受刑者)通じてね。
京都の工場では、旋盤で砲金を削っとった。
車の部品のね。
旋盤のなかでも、砲金を削るやつは機械が大きいんよ。
だから送り(加工)速度を遅くしたら、仕上がりまで時間がかかる。
その間はダンベル。
旋盤(工)やからダンベルみたいなもん、なんぼでもつくれるからね。
午前中にその日の仕事を終わらせて、昼飯食って、休憩の時間は手袋つけて、他の者に足持ってもらって、拳で運動場を回るんです。
で、昼から(の作業時)は旋盤の送りをわざと遅くして、ダンベル。
それが終わったら腕立てと、サーキットトレーニングですわ(笑)。
京都におる間はとにかく、体を鍛えてました。
というのも、俺、小さい時分から武道が好きでね。
小学校の時は剣道や柔道やっとったんやけど、中学に入ってからは少林寺拳法を始めた。
近くの警察の道場で。
(少林寺拳法)5段の先生に教えてもらったのが始まり。
それから本格的に体鍛え始めて。
やっぱり筋力が強くないと技がかからんもんだから。
運動靴の底に重しをつけて歩いたりとか、鉄パイプの両端に、セメント流し込んだバケツを2つ、ごつい番線(針金)で括りつけてバーベル代わりにしたり、貧乏やったからね。
鉄げたもバーベルも買ってもらえんかったから。
少林寺は大阪に出てからも、京都(刑務所)を出所後もずっと続けとった。
その後も盛力は、少林寺拳法や空手などの格闘技を続け、平成16(2004)年には、現役の山口組幹部であるにもかかわらず、日本人として初めて、中国河南省登封市にある少林武術の総本山「嵩山少林寺」の素喜大師(平成18年死去)から弟子と認められた。
これについては後章で触れるとして、この京都刑務所時代に、彼はその姓を「平川」から「盛力」に改めたという。
京都刑務所時代から本を読むようになったんです。
最初に読んだのが『孫子の兵法』ですわ。
工場の担当から教えられてね。
それを読み終わると「平川、次は『韓非子』を読め。もうお前の年の頃なら(書いてあることが)分かるはずや」と、韓非子を薦められた。
孫子は文字どおり兵法の基礎で、韓非子は法律の基について書かれてる本ですわ。
「ああ、世の中にはこんな本もあるんか」と感銘を受けてね、出所後にこの2冊を買って、親父のところに持っていったんです。
その後、親父の箕面(市)の別荘に行ったら、応接間の自分が座る椅子の横に置いた丸テーブルに、この2冊だけが置かれてましてね。
あれを見た時は嬉しかった。
渡辺(芳則)にも出所後、「孫子の兵法と韓非子は読んどきなはれ」って薦めたんやけど、読んでなかったんやろな(笑)。
読んどったらあんなことにはならんはずだもの……。
この2冊を読んだ後は『三国志』に夢中になってね。
それを読み終えた後は“三尺物”(講談や浪曲などで、博徒や侠客を主人公とした『天保水滸伝』や『国定忠治』、『清水次郎長』などの演目の総称。江戸時代の博徒や侠客が三尺の帯を締めていたことからこう呼ばれる)に嵌ったんですわ。
そのなかに笹川繁蔵(江戸時代の侠客、『天保水滸伝』のモデル)の一の子分で勢力富五郎というのがおるでしょう。
彼の生き様に惚れてね。
「ヤクザやるからには、こういう生き方をせんとあかん」という気持ちになって、彼にならって「せいりき」と改名したんですわ。
ただ、そのまま「勢力」とするのも能がないから、「盛りあがる力」という意味で「盛力」という字をあてた。
それで出所後、親父に「これからは『盛力』と名乗らせていただきます」と言うたら、親父が、俺の本名の「茂」に、自分の「一」字をとって、「一茂」と名づけてくれた。
だからはじめは「盛力一茂」と名乗ってたんです。
そんな感じで、刑務所では体鍛えたり、本読んだりして、わりと平穏に過ごしとったんやけど、ある日、工場で騒動が起こった。
当時は大日本平和会におって、後にウチ(盛力会)に来ることになった「久富連合(会)」や、他(山口組以外)の組の若い者らが4、5人が、加茂田組(三代目山口組直参)の若頭しとったもん飯田時雄(加茂田組系飯田組組長)んところの(若)頭を工場で、羽交い絞めにして、袋叩きにしよったんよ。
飯田んところの頭はその時、工場の責任者を務めとったんやけど、何かで揉めたんやろうね。
それが羽交い絞めにされて袋叩きに遭ってるもんやから、工場の人間(受刑者)が俺のところに「会長、エライことになってます」って、青い顔してスッ飛んできた。
その時、俺は旋盤(の機械)に乗って砲金を削っとって、その機械が大きいもんやから前が見えんで、何が起こっとるのかまったく分からんかったんや。
それでそいつ(受刑者)の指さす方向見たら、二、三十人(の受刑者)が黒山の人だかりになっとるわけ。
工場の担当(刑務官)もよう、そばに近寄らんのだもの。
会社整理の“プロ集団” p128
京都刑務所を出てから丸1年ほど経ったぐらいかな、「盛力会」の看板上げて、事務所を構えたんは。
難波(大阪市浪速区)元町の交差点のところに「堤ビル」っていうのが今でもあるんやけど、そこの8階のいちばん奥が盛力会の事務所やった。
半分が事務所で、半分は俺の応接間。
応接間から真下を見たら、鉄眼寺のお墓ですわ(笑)。
その頃で若い衆は10人足らずやったかなぁ……。
当時の“仕事”いうたらやっぱり「会社整理」。
潰れそうな会社や、パンクしそうな会社にあらかじめ目つけてね。
倒産したら(債権を)押さえにかかる。
それで(倒産した会社の)債権者を整理してね。
残ったものを売るわけだ。
ただ「会社整理」いうても、俺が直接、するわけやないよ。
実際にはそういう才能や知恵を持った人間が(会社整理を)やる。
そもそも、どこの会社が潰れそうやとかいう情報を、他人より早く入手せなんだらいかんわけだから。
そういう情報を取ることに長けてる者、法律に強い者、頭の切れる人間をスタッフとして抱える。
それでそいつらが俺の名前を使って仕事をして、儲かったら、俺のところに落とすもんを落としていく。
で、いざ、他の組織と揉めそうになったら初めて(盛力会が)出て行く。
会社整理は当時、(ヤクザの世界の中で)流行りやったからね。
ヤクザのなかでも頭の切れる連中は皆、やっとった。
俺も一心会の頃からやっとったし、柳川組(出身者)なんかは強かった。
大きな会社や名のある会社が潰れた時なんか、いろんな組織が(債権を)押さえにかかるんやけど、「山健組の盛力」いうたら、(他の組とは)貫目が違うたからね。
「なに?福井組?それがどないしてん?」、「白神組?はあ?」と、こんな感じ。
ウチが(倒産した会社を)最初に押さえたら、他の組は入れさせへんし、二番手になったって入っていくから。
入れなんだら、出すもん出せ、と(笑)。
そうやっていくうちに、自然にそういう情報や知恵のある奴らが集まってきたし、事務所開いて1、2年もすれば、“仕事”では大阪で5本の指に入っとったね。
若い衆もあっちゅうまに増えて、ベラミ(事件の報復)で(宮城刑務所に)行く頃には30人ぐらいになっとった。
ただ「山健組」の看板で儲けさせてもらっているからには、俺はそれ以上のことを親父にしましたよ。
親父はあんな人だから、宵越しの金は持たない人だから(笑)、ある朝突然、電話がかかってくるんですわ。
当時、宝満国広(宝満組組長。当時は山健組組長秘書、後の四代目山健組相談役)や、岡本のヒサ(岡本久男・岡本会会長。後に二代目松下組組長、六代目山口組直参)とか組長付きの連中から。
「親父が『300万円持ってこい』って言うてる」、「『500万円持ってこい』言うてる」って。
その頃、親父はよう赤坂の「コパカバーナ」(東京・赤坂にあった高級ナイトクラブ)とかで遊んどって、翌朝なったら宝満とかに「盛力呼べ!」言うてね(笑)。
それでもすぐに俺は300万だろうが、500万だろうがその日のうちに用立てて届けた。
俺は仕事でいくら儲かっても、親父のためになんぼか取っといた(取り置きしといた)し、親父のために金を出してくれるスポンサーをちゃんと置いてたしね。
その分、親父も俺を大切にしてくれて、いざという時は必ず俺を連れて行った。
昔、金田三俊さん(金田組組長。元二代目柳川組舎弟。元四代目山口組舎弟。平成元年に死去)が「(住吉一家)親和会」系の新潟の組織と揉めた時に、親父と小西音松さん(初代小西一家総長。当時は三代目山口組若頭補佐、後に五代目山口組顧問。平成14年に死去)が手打ちに行ったんや。
その時に親父が「盛力ついてこい」と。
「お前1人おれば安心や」と。
というのは、俺は粗相がないから。
手打ちしに行くんやから拳銃は持って行けん。
けど拳銃持たんでも、いざとなったら、俺は手も足も使えるからね。
その頃の俺は、親父のお供する時は絶えずポケットに100円玉や100円玉を忍ばせとったから。
万が一の時は、それを相手の顔に投げれば、隙ができる。
その隙に蹴りも出せるし、突きもすき出せる。
俺は“仕事”しながらも、ボディーガードとしての訓練は怠らんかったから。
親父もいざという時のガードには俺を連れて行ったんです。
p133
宅見の全盛期は、許永中なんかを使って1000億、2000億と動かしてたそうや。
ただ、あれほど宅見が儲けたのは、本人の力もさることながら、“二号”の力が大きかった。
宅見の二号は昔、宗右衛門町のホテルメトロ(ザ21)の横に「西城」というクラブやっとって、宅見はそこによう親父を招待しとったんよ。
親父は、宅見のことかわいがっとったからね。
相性が合うとった。
宅見も如才ないし、頭は切れたから。
それで大阪に来た時は、その二号の店にも出入りしとったんや。
俺もお供で何回か一緒に入ったことがあったけど、その時に「ここのママはええブレーン持っとるな」と思った。
一流どころの企業の連中が集まっとったから。
後で聞いたら宅見はこの二号が培った“骨組み”を貰いよったんやな。
けど、それを利用していろんな企業に食い込んでいったんは宅見の才覚や。
とにかく俺にはない“処世術”と“政治力”だけは持っとったわ。
p142
ベラミの報復直前の段階で、「盛力会」いうても30人前後。
山健組全部合わせても500(人)ぐらい。
山健いうても当時はそんなもんやったんです。
昔は柳川組が1500とダントツ。
次に大きかったのが、ボンノさんが破門される前の菅谷組で1200人。
その当時、500人に過ぎんかった山健が1000人、2000人と増えていったのはなんでか。
それは「山本健一」という看板と、ベラミの武勲があったからですよ。
司忍・現六代目組長との出会い p144
宮城刑務所に入って間なしに、俺は名前(渡世名)を「一茂」から「健児」に改めた。
「山本健一の子供」という意味ですわ。
それからはこの世界を引退するまで「盛力健児」で通した。
入所してから半年は、京都(刑務所)の時と同じようにじっと様子を見とった。
けど、(宮城刑務所に)入った時にはすでに、俺の名前は刑務所中に鳴り響いとった。
「山健組の頭補佐が入って来る」と、「ベラミの報復で懲役打たれた男や」と。
だから工場に行っても、(他の受刑者が)石鹸は持ってくるわ、ティッシュは持ってくるわ、まぁ、ゴマすってくるわけですわ。
半年ほど経ってから、俺は京都の時と同じように、体を鍛え始めた。
今度は京都の時よりはるかに先が長いからね。
体を鍛えんかったらもたんので。
それで突きや蹴りや、拳法の真似をしよったら、それを見とった他の者が「教えてほしい」言うてきたんで、教え始めた。
5段までの技がみんな入ってる少林寺(拳法)の教本(『少林寺拳法教範』)を、家から取り寄せてね。
けど俺は、師範の免許は持ってないんで、少林寺そのものを教えるわけにはいかん。
そこで空手の技も取り入れて「護身格闘術」として教え始めた。
大山茂(元「極真会館」最高師範、「国際大山空手道連盟」総主)さんの『パーフェクト空手』(朝日出版社刊)とかを参考にしてね。
(中国武術家の)澤井健一先生の「立禅」(澤井が創始した「太氣至誠拳法」の基本となる修行法)とかも練習に取り入れて。
なかでも参考になったのは「芦原カラテ」(極真会館出身の芦原英幸が設立)やったね。
実戦的だったから。
それで4年ぐらい、毎日、教えとったんです。
当時は午前と午後に15分、昼飯の後に40分ぐらいの休憩時間があったんだけども、昼間の休憩やったら飯を早う食べて、練習する。
旋盤工場の一角に6×4.5メートルほどのスペースがあったんだけど、そこに「教えてほしい」いう奴を集めてね。
常時3、4人は来とった。
7人もおればいっぱいですわ。
そこで練習したんです。
もう実戦ですよ。
「顔より下やったらまともに殴ってもええ」、「蹴りやったら顔もかまわん」いうてね。
習いに来とったんは25歳前後の若いのばかり。
住吉(会)や極東(会)、松葉(会)とかの若い衆らもおった。
なんぼヤクザいうても、体が小さかったり、喧嘩が弱かったら、ムショの中でいじめられるから。
俺のところで突きなり、蹴りなりある程度覚えたら、相手も警戒しよるしね。
それに俺のグループに入ったら、いじめられることは絶対になかったから。
そんなこんなで弱い人間らがみんな集まってきよった。
けど、教えるほうの俺はもう四十前後ですわ。
それがいくら弱いいうても、二十五前後の若い者を一度に相手にするわけやからね。
こっちもそれ以上に鍛えんと体がもたしまへんがな。
せやから脛をバンバン鍛えてね、結合組織つくってましたよ(笑)。
入れ代わり立ち代わりで、4年間で何十人と教えたなぁ……。
その頃は行刑(刑罰の執行や刑務所内の監理体制)が緩くてね。
少々のことでは何も言われんかった。
なかでも俺は特に大目に見てもらっとった。
真面目にお務めしてたから。
護身格闘術も、ちゃんと工場担当(部長)の許可もろてやっとったんですよ。
ただ向こう(刑務所)にも面子いうもんがあるから、それなりに気は遣った。
工場には、保安の(監視)カメラが回ってるんやけど、(練習をしている工場の一角を向いて)カメラがじっと止まるようなら、練習を止める。
また別の方を向き始めたら、再開するというふうに。
練習中に、たまに保安課長が回ってきて、「おい、そんなことして大丈夫か。ケガせえへんのか」と聞くから、「大丈夫です。ケガせんようにやります」言うたら、「それだけは頼むぞ、絶対にな」と。
「はい!」と答えて終わりや。
法務課長が回ってきた時はさすがに止めようとしたけど「(止めなくて)ええ、ええ。ケガせんようにせえよ」言うだけ。
当時は、のんびりしたもんやったよ。
それ以外は、子供の成長だけが楽しみやった。
ベラミ(事件の報復)でパクられたんは上の女の子が5歳、下の男の子が生まれてまだ半年の時。
生まれて半年で、俺は子供と離れなあかんかった。
それから16年間、年に何回かは面会できたけど、あとはずっと手紙のやり取りだけ。
この稼業の宿命とはいえ、自分の子供の成長を近くで見れんというのは、やはり辛いもんですよ。
司と会うたのも、この時分の話ですわ。
俺が宮城に入った年(昭和55年)の秋の刑務所の運動会で、初めて言葉交わしたんです。
「司」とは、司忍(本名・篠田建市)、現在の六代目山口組組長のことだ。
昭和44年5月、司組長の出身母体である「弘道会」の前身、「弘田組」系神谷組の事務所に「大日本平和会」(第3章参照)系山中組の組員5人が乱入。
神谷組の組員4人を死傷させた。
この報復で当時、弘田組若頭だった司組長や、弘田組系佐々木組組員だった髙山清司・現六代目山口組若頭らが、大日本平和会春日井支部長の豊山一家組長を日本刀で刺殺。
この事件で司組長は懲役13年、髙山若頭は4年の刑を受け、司組長は宮城刑務所に服役していた。
当時、司と俺は(宮城刑務所内の)別の工場におってね、運動会の時には各工場ごとに分かれて座るんやけど、司がわざわざこっちまで来てくれて、少しの間だけやったけど一緒に座って運動会見ながら、話をしたんや。
司と俺は、年は俺のほうが一つ上やけども同じ学年でね。
司は昔から腰が低い男で、俺も腰高のほうやないから、すぐに打ち解けた。
そりゃ、当時はもちろん俺のほうが座布団(組織内の地位や立場)は上やったけど、俺はもともと座布団の高い低いで人を見る人間やないから。
そうやって刑務所の中で何回か顔合わせるうちに仲ようなってね。
貼り絵をつくってもらったことがあるんよ。
俺の。
司が出所(昭和58年)する1、2年前かなぁ……。
彼は手先が器用でね、俺がつくってくれ言うたんよ。
そしたら「1ヵ月ぐらい待ってほしい」言うんで待ってたら、それは見事な貼り絵をつくってくれた。
それは今でも大事においてある。
p154
四代目の親分が殺されたんはショックやった。
親父は竹中さんのことをそれこそ、自分の弟のようにかわいがっとったし、俺も(竹中組長を)ほんまの叔父さんのように慕っとったからね。
けど、その四代目の親分が殺されても、俺は絶対に山口組が勝つと信じて疑わんかった。
というのも、一和会には喧嘩ができるメンバーがほとんどおらんかったんだもの。
山(本)広に松本勝美、北山悟……。
一和に行った人間は皆、古参だから。
それまでにある程度、この世界で名前も売れて、自分らが一生、食うに困らんぐらいの金もグッスリ持ってて。
あないなったら今さら喧嘩なんかできん。
山広は加茂田組の戦闘力あてにしとったんやろうけど、加茂田も「山口組あっての加茂田組」やしね。
(それに一和会を結成した時の記者会見で)加茂田がNHKか何かで「(山口組が)来るんならやります」みたいなことを言うたでしょ、あれが(抗争の)引き金ですわ。
その一和会に対し、山口組は竹中組に豪友会でしょ。
そもそもの戦闘力が違たうえに、親分を殺されとるわけだから、気合が違いますわ。
一和会は(分裂当初)6000人おると言われとったけど、正味、そんなにはおらんかったやろうし。
前にも話したけど、松田組との戦争(大阪戦争)の時から(分裂の火種は)燻っとったんです。
山広らは戦争なってもまったく動かんかったんですわ。
それでも親父は我慢しとったんやけど、ベラミ(事件)の後もまだ動かんかった。
親分が撃たれとるにもかかわらず。
それで親父が幹部会で、「戦争しとんのはウチ(山健組)だけやないか!」と激怒したんやけども、(一和会に行った組長は)皆、横向いたり、下向いたりしとったんですわ。
そういう連中が皆、親父が死んだ後、山広にくっつきよった。
親父は当時から「これらは済んどる」言うてましたから。
つまり「ヤクザとして終わっとる」という意味ですわ。
これに対し、親父が頼りにしとったんが、殺された竹中(正久)さんと中山さん、それに宅見ですわ。
俺ら(山健組の)若い者が皆、(ベラミ事件の報復で)懲役に行った後、親父は何かにつけて「姫路」(竹中組)、「高知」(豪友会)、「大阪」(宅見組)と言うてたそうですから。
1年を「1カ月」と考える p162
話を再び“塀の中”へと戻そう。
盛力が服役していた宮城刑務所では、前述の「山一抗争」が始まった昭和59年ごろから行刑が厳しくなったという。
それまでは宮城(刑務所の行刑)も緩やかやったんやけどね。
(昭和)59年の春ごろかな、突然、所長、管理部長、警備隊長が総入れ替えになって、監視が厳しくなった。
さっきも話してたように、それまでは旋盤工場の隅で、(他の受刑者に)「護身格闘術」を教えとったんやけど、止めなあかんようになった。
工場部長に涙ながらに頼まれてね。
「もう教えるんは止めてくれ。(自分が)クビになってしまう」と。
それから俺は、鍛錬が一切できんようになった。
運動場で、蹴りの練習してるだけでも注意されるんだもの。
けどね、股関節というのは絶えず動かしておらんと固まってしまうんですよ。
だから運動場の鉄棒につかまってバレエみたいに横に足上げて(笑)。
空手みたいな縦蹴りはダメだけど、横蹴りみたいに足上げるのはかまへんと(刑務所が)言うもんだから、股関節を柔らかくするために絶えず足を上げとった。
それに毎日、休憩時間なったら、走って、腕立てして、腹筋して、懸垂して……そうやって体を鍛えとった。
それと護身格闘術を教えられんようになってからは、時間ができたもんだから、英語の勉強を始めた。
これからは日本にじっとおったってあかんと思ったからね。
やっぱり海外に出んと、そのためには英語ぐらい身につけておかんといかんだろう、と。
なんせ時間だけはいっぱいあるからね。
それにベラミの事件で捕まる直前まで、「プロ空手」やっとったいう話をしたでしょ。
あのプロ空手で、香港やサウジアラビアにも友達ができて、英語の必要性は痛感しとったから。
あとはひたすら本を読む。
格闘技から兵法、宗教の本までね。
それで読んでいて、心に響いた言葉をノートに書き写したり、それらの本を参考に独自の格闘術や兵法を考えたり、競馬の必勝法とかも研究しましたよ。
ムショにいる間はよう当たってね。
ラジオとか新聞とかで結果分かるから。
ホンマに賭けとったら今ごろ、億万長者ですよ(笑)。
それと俺が引退してから立ち上げた「嵩山少林寺グループ」(後述)の構想を練ったんもこの頃ですわ。
将来、どんな理念を掲げた、どんな組織にするか……とかね。
今、やろうとしていることの構想の基は、ほとんどこの頃に考えていたことです。
実際、16年も(懲役)務め上げて、出所しても、時代も変わっていることやし、いつまで現役(のヤクザ)でおれるか分からん。
ヤクザ辞めたら俺は何をするんや、どう生きていくんやということを考えた。
博徒を辞めた清水次郎長が、(当時の静岡県令・大迫貞清の奨めで)刑務所の囚人を集めて富士山の麓を開拓したという話があるでしょ。
あれで清水次郎長は名前を残した。
だから俺も何か一つだけでも、世間様のお役に立つことができんかと、考えたんがこの「嵩山少林寺グループ」やったんです。
そんな感じで、宮城刑務所では毎日を過ごしてきたんやけど、やはり16年は長かった。
宮城ではね、毎年、4月10日ごろに必ず雪が降るんですよ。
10日前後にその雪が降って、初めて春が訪れるわけ。
この雪が降るのが嬉しくてね。
ああ、これで本当に春が来るんや、と。
それで夏の猛暑を乗り切れば、秋の運動会。
これがいちばん楽しみやった。
秋の運動会が終われば、正月が近いからね、ああ、ようやく1年が終わるなぁ……と。
けどね、娑婆にいる時と同じように「1年」をそのままの時間で捉えとったんでは、体も精神ももたんのですわ。
だから自分の中で「1年」という時間を短縮してね。
「1年」を「1カ月」というような気持ちで過ごすようにした。
そしたら刑期はわずか「1年と4カ月」やからね。
そうでも考えんと、心も体ももたん。
それで、宮城刑務所に来てから、俺の中の「1年」、つまり娑婆では「1年」が経った平成4年(1992年)の5月の中ごろですわ。
メシを食いよったら突然、顎がガクッとなって口が開かんようになってしもうた。
顎関節症ですわ。
今では指3本程度入るぐらいなら(口が)開くようになったけど、(発症)当時は指1本分も開かんかったからね。
今でも顎の奥の関節のところが「グシュグシュ、グシュグシュ」いいよりますわ。
俺の中で「1年」が経って、さすがに精神的にも肉体的にも限界にきとったんやろうね。
あとの「4カ月」、娑婆の時間でいうたら「4年」はそれこそ死ぬ気で乗り切ったんです。
そして平成8(1996)年1月、「15年9カ月」という長い懲役を務めた盛力は、宮城刑務所を出所する。
が、彼が15年ぶりに戻った「娑婆」はまさしく、北野武監督の映画『アウトレイジ』を地でいく、権謀術数渦巻く世界だった。
p171
五代目も「ホンマに長い間、ご苦労さんやったな」と、にこやかに迎えてくれたんやけど、帰り際にこない言われたんや。
「盛力な、お前の目から見たら直参らしくない人間もようけおるけど、頼むわな」と。
まぁ、仲ようやってくれよという意味なんやろな……と、その時は深くは考えんかった。
それで(大阪市浪速区)元町の(盛力会の)事務所に戻ったら、うちの人間が待っとって、ビール抜いて乾杯してお開きですわ。
(出所)当時は(盛力会の組員は)50人もおらんかった。
それで3ヵ月は宅見の言うとおり、のんびりしよう思とったんやけど、俺が出所したんを聞いて、いろんな人間が入れ代わり立ち代わり(事務所に)訪ねて来てくれた。
その中に17年前、住吉署で一緒やった「健心会」(第2章参照)の人間がおってね。
俺、(ベラミ事件の報復で)西成(署)にパクられた後、舌噛んで住吉に移されたでしょ。
そこで一緒になった杉(秀夫・初代健心会会長)んところの若い衆だったんだけれども、これが懲役から出た後、親父(山本健一・初代山健組組長)の見舞いに行ってくれたんだ。
当時、親父は肝臓を患っとって、(恐喝罪などによる懲役3年6カ月の刑の)執行停止中で、「今里胃腸病院」(大阪市生野区)に入院しとったんだけども、そこに見舞いに行って、俺が西成で舌噛んだという話をしてくれたらしい。
その時、「『(盛力)会長は命がけで、親分や組を守りはったんです』言うたら親分、涙ぐんではりましたよ……」とその若い衆から教えてもろた。
それを聞いて初めて、俺は「救われた」と思た。
結局、親の死に目には会えず終いやったけど、やっぱり親父は分かってくれてたんや思てね。
これが俺の唯一の救いやった。
だからこそヤクザ続けておれたんだ。
ベラミの勲章 p172
16年、塀の中におったけど、娑婆に戻ってから、さほどブランクは感じんかった。
“浦島太郎”になったらあかん思うて、ムショの中ではそれこそ新聞だろうが、週刊誌だろうが隅から隅まで読んどったから。
もちろんムショに入る前に付き合いのあったブレーンやスポンサーは、ほとんど(他の組織に)食い尽くされとったけど、それ以上の人らがどんどん集まってきたしね。
そりゃ、そうでしょう。
あの田岡(一雄・三代目山口組組長)の親分のために懲役行った極道なんかそうそうおらんのだから。
俺には、“ベラミ(事件の報復)”という勲章があったから。
この勲章のおかげで、向こうから勝手に(人が)集まってきた。
親父と組織を守るために警察で舌噛んだという話も知られとったし、「そういう人に一度会わせてくれ」いう社長さんも多かった。
だから仕事するうえでは、(懲役に)行く前からはるかにやりやすかった。
もう「盛力健児」という名前が売れ過ぎるぐらい売れとったからね。
大阪中のいろんな社長が集まってきて、そんなかで俺の仕事に金を出してくれる人もおれば、かわいがってくれるスポンサーも出てきますがな。
その代わり、「盛力」という名前を“悪用”されたケースもようけありまんねんで。
大阪の業者でも、俺の名前を勝手に使た奴がいっぱいおりました。
「ウチのケツ持ち(用心棒)は盛力や」とか言うて。
後になってから、そういった話聞いて、「そんな業者、ワシ、知らんがな」いうこと、腐るほどありましたわ。
(名前の)“使用料”をなんぼか落としてくれるんやったら話は別やけど(笑)、そういう奴に限って、(使用料を)持ってきたためしがあらへん。
そのうちに北は青森から、南は九州まで全国至る所で(盛力や盛力会の名前が)出るようになって。
「新潟の工事で、会長んとこの名前が出たんですが……」とか、稲川(会)の人に「盛力さんのお名前が出たんで、一歩引いときました」とか言われて、「え?そんなん初耳でんがな」という話や、噂がいくつもあった。
それで出所から翌年(平成9年)の終わりか翌々年(平成10年)の初めには、(大阪市中央区)瓦屋町に「平盛通商」いう会社つくってね。
最盛期には二十数億集めましたよ。
お金持ちの社長連中や“お友達”が(金)回してくれてね。
というのも俺、堅気さんとの付き合いで絶対にヤクザ出さんから。
一緒にメシ食いに行っても、「ヤクザの親分」というとこ出さないから。
飲みに行っても、女の子相手にアホなことばかり言うてキャッキャ笑わせるだけで。
だから、堅気さんは俺と一緒におっても「まったく肩が凝らん」と言うてくれる。
だからこそ(山口組を引退した)今でもお付き合いしてくれる堅気の社長さんはいっぱいおるんよ。
そんな感じやから、政治家の先生方も安心して付き合えたんとちゃうかな。
九州出身の大物の先生とは今でも兄弟分やし、北海道の元気な先生とも会うとった。
ウチの瓦屋町の事務所の近くに「迎賓館」いうて、朝鮮の料亭みたいなところがあるんやけど、北海道の先生が現役の大臣しとった時は、大阪に来たらそこで会うてね。
顔指さんように、お互いが別々の部屋で食事するんやけど、トイレの近くにもう1つ部屋とっとくんよ。
それで決まった時間になったら「ちょっと用足しに行ってくる」言うて、その部屋で会うんや。
これやったらSPにもバレんで会えるでしょ。
もっともその時、どんな話をしたか、もう忘れてしもたけどね。
そうやって人も金も、集まるには集まったんやけど、俺は人がいいから(笑)、じきに食われる。
「平盛通商」の事務所開いたらすぐに、「1000万くらいやったら、盛力の会長のところに行けば、貸してくれるで」っていう噂がバッと広まってね。
どれだけ(多くの)枝の子(山口組系二次団体の組員)が金借りに来たか。
堅気さんもようけ金借りに来はりましたよ。
けど、今となっては堅気さんから取れへん(回収できない)のはもちろん、枝の子からも取れん。
ヤクザいうても、金あらへんから。
もう、諦めてる(笑)。
(最盛期の)二十数億のうち、俺が飲み食いや遊びにいくら使たか知りませんよ。
けど、言うても5億ぐらいでしょ。
間違いなく15億以上は食われてるもの。
大阪だけでも億単位の金、貸してるんが4人ぐらいおりますわ。
東京にも1人おるな。
皆、俺から逃げてるけど(笑)。
けど、“ベラミの勲章”のおかげで金だけやなくて、人も集まって、ムショから出てきた直後には(組員が)50人足らずやったんが、2年も経てば六百数十人まで大きくなったからね。
山口組の変質 p175
ただ、盛力によると、1年で変わったのは「社会」よりも、むしろ「山口組」のほうだったという。
やっぱりバブルというのは人を変えたんやな。
その筆頭がヤクザやったわけや。
三代目時代の直参連中には、うちの親父も含めて“金”持ってる人なんかおらなんだ。
持ってても何億がせいぜいで、何十億、何百億と抱えてるヤクザなんかいなかった。
それが(懲役から)出てきたら皆、大金持ちですがな。
なかにはカネがあったから、直参になれたような奴もようけおった。
出所直後、五代目が俺に「盛力な、お前の目から見たら直参らしくない人間もようけおるけど……」と言うた意味がしばらくして分かってきたんや。
と同時に、誰がそういう山口組にしてしもたんか……いうのもな。
四代目の親分(竹中正久組長)なんか、人が金持ってきても、「そんな金いらんわい!」言うて蹴る人やった。
受け取る人ちゃうかったんよ、あの人は。
「金は自分で儲ける」と。
だから、袖の下なんて持っていったって、「持って帰れ!」言うて一切、受け取りませんでしたよ。
ところが俺が懲役から帰ってきた頃には皆、カネ、カネ、カネや。
おまけに直参同士で足の引っ張り合いばかりしとる。
(山口組総)本部に行って、何日かしたら分かりまんがな。
そのうちに、何人か心安い人間(直参)が耳元で、「兄弟、あれ、気いつけよ」とか教えてくれるしね。
そしたら、俺もどうしても、そういう色眼鏡で(他の直参を)見てしまうわね。
もちろん三代目時代も、親父(山健)を支持する直参連中と、山広(山本広・山広組組長。第4章参照)につくグループの対立みたいなもんはありましたよ。
それがもとで、三代目の親分と親父が亡くなった後に山一抗争が起こったわけやけど。
けれども、あの時の対立は「今後の山口組をどうするか」、「組の将来」を見据えた、大きい話(原因)ですわ。
それが五代目時代には、ただの、我がのことだけ考えた、足の引っ張り合い。
えらい変わってしもたなぁって思いましたよ。
だからある日、五代目にこう申し出たことがある。
「帰ってきてからワシはいろんな噂を聞いた。正直、今の執行部ではあきまへんで」、「親分、今の執行部、ワシがきれいに“整理”しましょか?」と。
さっきも言うたように、当時は喧嘩やのうて、カネやベンチャラだけで直参になったような者もようけおった。
このままではいかんと、まずは執行部から手始めに、組織を引き締めようと思たんですわ。
悪い人間外して、ええ人間残して。
その入れ替えをせんかったら、(山口組が)いつかは潰れてまうと思たんでね。
出所直後の俺には、それだけの発言力があったから。
あれだけの事件で、長い懲役行ってきたわけだから。
それに五代目も宅見も俺には一服ついとったし、古参(の直参)のなかには実際、俺に「早う執行部に入ってくれ」言う人も多かったからね。
しかし、肝心の五代目が首を縦に振らんかった。
それどころか、俺を遠ざけ始めたんや。
「盛力よ、そないに毎日、(本部に)来んでええぞ」言うてね。
山口組を“カネ”の組織にした元凶 p178
宅見も結果的に、「3カ月経ったら、執行部に入れる」という約束を反故にしよった。
いや、今から考えたら、もともと(渡辺と宅見の)2人にそんな腹、あらへんかったんやろうな。
なにしろ、山口組をカネ、カネ、カネ……の組織に変えてしもた元凶は、この2人なんやから。
出所後に俺を訪ねてきた1人に、渡辺が山健(組)の二代目(組長)で、まだ金がない時に一緒に“仕事”した事件師がおったんや。
そいつが言うには、その仕事が終わった後、渡辺に1億円持っていったら、「ワシャ、こんな大金見たことない」言うて、驚いてたいうんや。
ところが、ある直参によると「渡辺が(山口組)五代目になった後に、宅見が渡辺に20億渡した」という。
この頃から渡辺は金の亡者になったんやろうな。
その後、渡辺はバブルでごっそりと、100億単位の金を握るわけだ。
関空(関西空港の建設工事)の時なんかは、宅見ら(山口組)幹部だけやなくて、大手ゼネコンら土建屋からも10億、20億と入ってきたんだから。
公共工事にはみんなヤクザが絡んどるから。
俺が懲役から帰ってきた時に、近松(博好・近松組組長。平成16年に引退)がこない言うとった。
近松は(山健組と)同じ「安原会系」(第4章参照)の「大平組」の出身で、昔から山健の俺や渡辺とは、心安うしとったからね。
「なあ、兄弟。俺、親分(渡辺・五代目組長)にこないだ聞いたんや。(指を5本立てて)『親分、もうこのぐらい残してまっしゃろ?』と。そしたら(渡辺は)『なんで、そんなにあるんや』と言うたんや。『じゃあ、このくらい(指を4本立てて)でっか?』と聞いたら、『いやいや、そないにあるかいな』と言う。『ほな、これくらい(指を3本立てて)でっか?』って聞いたら、黙ってニコッと笑たんや」と。
つまり、渡辺は(平成8年当時で)300億は持っとったわけやけど、その“使い方”を知らんかった。
帰ってきてから俺、毎晩のように(北)新地や、ミナミやと飲み歩いとったんです。
そしたらバブル時代に五代目がよう通っとったクラブのオーナーにある日、こない言われたんや。
「会長、五代目の親分にあんじょう(ちゃんとした処遇を)してもらってるようでんな」と。
「親分、『盛力が帰ってきたら30億はやらんと』、『家も建てたらんと』って言うてはりましたから」って。
だからこのオーナーは、俺が金持ってると思ってたわけ。
確かに五代目からはもろたよ。
出所した日、挨拶に行ったら、帰りに部屋詰めの子が小っちゃい革の鞄くれたわ。
「これ、親分からです」言うて。
さすがにその場では開けられんから、家帰って開けたら赤い箱に入った(レミーマルタンのブランデー)「ルイ13世」が2本と1万円札が500枚。
500万円ですよ。
何かの冗談かな……て思たよ(笑)。
俺、べつに金が欲しくて体かけたんと違いまっせ。
それにもともと「金は自分で儲けるもんや」という考え方やし、さっき話したように、出所後も金には困らん生活しとったから。
ただ組織のために体かけた人間にはそれなりの報い方があるやろう、と。
俺が逆の立場やったら、「ご苦労さんやったな」言うて、家族が一生食うに困らん金を渡して、兵隊の200か300(人)でもつけて、それなりのポジションに据えるよ。
それが、この世界の“常識”なわけ。
そういうことをちゃんとせなんだ(しなかった)から(五代目は)罰が当たったんですよ。
その後も、渡辺が(クーデターで)引退(平成17年)するまでの9年間に、「こないだの工事で、親父(渡辺)に、どうも10億ぐらい入っとるで」、「いや、20億や」とか、「あの直参は1億、(渡辺に)持って行った」、「どこそこのゼネコンは2億、持って行った」いう話をさんざん聞かされた。
そりゃそうやろう。
山口組の当代やったら、全国の利権が手に入るわけやから。
ただ、それらの“富”が一部の幹部に集中したらいかん。
やっぱり組織全体が潤わんと。
金に困ってるところ(組)があったら助けたらんと。
「兄弟」なんやから。
一部の人間だけが温い飯食うてたら、組織はガタガタなりますよ。
俺はもともとこういう考えやから、五代目や宅見からすれば、俺ほどうるさい存在はあらへんかったやろうな。
俺は任侠としての筋通すからね。
それでどんどん“窓際”に追いやられていって、そうなると周り(直参)の目も変わってきますわな。
「ベラミの最大の功労者か何か知らんけど、窓際に追いやられとるやんけ」と。
その頃ぐらいから、ですわ。
ああ、俺はしょせん、三代目、四代目までのヤクザやったんやな、こんな組織やったらいつまでもヤクザ続けておれんな……と思い始めたんは。
けど、俺にも意地があったからね。
そうかい、と。
渡辺と宅見がそういう腹やったら、自分で力つけたろかい、と。
金は放っておいても入ってくるから、あとは兵隊やと。
そこで、五代目に言うたんよ。
「あん時の若い衆、返してくれ」と。
p185
帰ってきてから半年も経たん間に、そんなことが立て続けにあったもんやから、俺は山口組も山健組もいったい、どないしてしもたんやろ……と思いましたよ。
それからじきの話ですわ。
俺の心が離れる決定的な一言を、渡辺が言いよったんは。
ある日、渡辺と話をしている時に、なにかのはずみで(渡辺が)こない言いよったんや。
「盛力、俺は田岡(一雄・三代目組長)を超えたぞ……」
渡辺が何をもって「超えた」と言ったかは知らんよ。
抱えている金(の額)なんか、兵隊の多さなんか、(組織の)規模なんか…………。
そんなことアホらしくて、聞き返しもせなんだ。
けど、「山口組中興の祖」を、うちの親父が死ぬまでお仕えした、俺がベラミ(事件の報復)で体をかけた三代目の親分を呼び捨てにして、おまけに「超えた」とは、こいつは何を言い出すんやと思てね。
今日の山口組をつくってくれたのは誰なんや、今、俺らがこうしてヤクザできてるんは、誰のおかげやねん、と。
傲慢もここに極まれりやな思て。
それ以降、俺から“奥”を訪ねることはなくなった。
田岡満と竹中武 p186
16年という長きにわたる服役の末、山口組に復帰した「大阪戦争最大の功労者」を待っていたのは、三代目時代とは変わり果てた古巣の姿だった。
が、そんな盛力を精神的に支えたのが、その三代目の長男、田岡満氏だったという。
懲役から帰ってきたらすぐに満ちゃんから連絡があって、以前(第4章参照)にもましてええ付き合いが再開したんです。
満ちゃんとはしょっちゅうミナミで一緒にメシ食べてね。
夏は鱧、冬になればてっちりに連れてって、その後は(満は)歌が好きやから、マイクのいいところへ連れて行ってあげて。
毎回、午前様で遊んでましたよ。
その代わり、満ちゃんにはいろんな悩みも聞いてもろて、ホンマにええ友達でしてん。
当時、俺の本宅は(大阪市住吉区)長居にあったんやけど、その長居の家にも遊びに来てね。
長居の家には(三代目の長女で、満氏の妹の)由伎さんや、由伎さんの息子さんも遊びに来て、みんなで一緒にご飯食べたりしてたんです。
とにかく、俺はどんなに忙しくても2ヵ月、3ヵ月に1回は必ず、満ちゃんを招待しとった。
もちろん満ちゃんと気が合うた、ヤクザ抜きで付き合いできる、いろんなことを相談できるという心安さもあったんやけど、俺は「生きた供養」をしよう思てね。
三代目の親分やフミ子姐さんが亡くなった時に、2人がいちばん心配しはったんは、残された満ちゃんや由伎さんら家族のことですわ。
親やったら子供たちのことをいちばん心配する。
当たり前のことです。
だから俺は満ちゃんや由伎さんら田岡家の人たちとお付き合いを続けることで、三代目の親分と姐さんの「生きた供養」をしよう思たんです。
そして実は満氏以外にもう1人、陰ながら盛力を支え続けた人物がいる。
竹中正久・四代目組長の実弟で、四代目の死後、山口組を追われた竹中武・竹中組組長だった(第5章参照)。
武さんは、俺が戻ってきてしばらく後に、わざわざ岡山から訪ねて来てくれてね。
難波の南海サウスタワー(ホテル大阪・現スイスホテル南海大阪)に部屋取って、そこで会うたんです。
武さんは言いよったですよ。
「会長な、兄貴がおったら、会長に対してこんな処遇は絶対にせえへん。ほんま、辛抱してや」
それからも武さんが亡くなる(平成20年)まで絶えず連絡を取り合っとった。
武さんが大阪まで来てくれたり、俺が岡山まで行ったり。
俺が岡山に行く時も、武さんが岡山駅の横のホテルに部屋、取ってくれてね、そこで会いよった。
人目につくところで会ったら、どんな邪魔が入るか分からんかったからね。
部屋の中で話して、1人が先に出て、もう1人が後から出るようにして。
武さんには、ほんまに励ましてもろてね。
五代目や組織に対して腹に据えかねることがあった時でも、「会長、辛抱、辛抱やで」と。
武さんは山口組に帰りたかったんや。
当たり前やわな。
四代目の親分が生きてたら、ゆくゆくは武さんが若頭やってもおかしくなかったんだから。
武さんがあのまま山口組におれば、五代目はともかく、六代目を継いどったかもしれんのだから。
武さんは「早く、俺が帰れるような、山口組に戻してくれ」と言うとった。
それで「絶対、俺(武)が入ったら、2人で仲ようやっていこう」と約束したんだから。
それで俺は五代目に何度も掛け合ったけど、聞く耳持たんかった。
なにしろ渡辺は武さんを嫌っとったから。
四代目の親分がまだ生きてはる時分、高知の中山(勝正・豪友会会長、四代目山口組若頭)さんとこに行きはるいうんで、(若頭)補佐連中が伊丹(空港)に集まったんやけど、渡辺が集合時間に遅刻して来よったんや。
それで皆の前で武さんにガンガンにかまし入れられたんよ。
その時、武さんはヒラの直参やったんやけどな(笑)。
だから渡辺からすれば、武さんの顔も見たくないんや。
一方の武さんからすれば、そもそも渡辺が(四代目山口組の若)頭補佐になれたんは誰のおかげよ、いう気持ちがあった。
武さんが言うには「(竹中・四代目組長が)渡辺を(若頭)補佐にしたんは、山健さんが(三代目山口組の若頭になった時に)うちの兄貴を補佐にしてくれた、その恩義があるからや」と。
にもかかわらず、自分の(山口組への)復帰に反対し続けるもんだから、「あの馬鹿たれが」言うて怒っておった。
それでも俺は(武を山口組に復帰させるために)いろいろ動いたよ。
けど、あかんかった。
俺の力不足やったんはもちろんやけど、宅見も、野上(哲男・二代目吉川組組長、六代目山口組最高顧問。平成22年死去)さんも、岸本(才三・岸本組組長、六代目山口組最高顧問。平成19年引退)さんも幹部連中は皆、武さんのこと嫌っとったから。
皆、渡辺と同様、若い頃に武さんにバン、バーンとかまし入れられとるから(笑)。
武さんは、四代目の親分と一緒で、ほんまもんの極道やったからね。
五代目も、宅見も、当時の執行部も、組織のことを考えて、個人的な恨みつらみは捨てて、武さんを迎え入れてたら、山口組ももうちょっとマシな組織になっとったかもしれん。
が、もうすべてがあとの祭り、ですわ。
満ちゃんと武さん、この2人が俺の心の支えでしてん。
この2人がおったからこそヤクザ続けていこう思たし、この2人のためにも俺が山口組におり続けなあかんと思ったんですわ。
だから、どれほど冷や飯食わされても、俺は五代目に尽くしましたよ。
渡辺芳則という人間にやなく、「五代目山口組」に。
盛力健児という人間を捨てて、「山口組直参」の一人として。
五代目が「使用者責任」で神戸地裁に訴えられた時に、(その訴訟を)取り下げさせたんも俺ですよ。
p205
結局、宅見と五代目の関係はカネに始まりカネに終わったというこっちゃ。
それから宅見は、五代目をひっくり返そうと動き始めた。
クーデターですわ。
自分の言うこと聞いてくれる桑田(兼吉・若頭補佐)を六代目に据えて、自分は稲川聖城(稲川会総裁)さんみたいに「総裁」か「最高顧問」にでもなろう思てたんやろ。
また、桑田を六代目に据えるには据えるんやけど、1年で引退させて、司(忍・現六代目山口組組長)を七代目にして、その間、自分はずっと「総裁」でおろうと考えとった――という話もあった。
ただ、いずれにせよ、それにはどないしても乗り越えなあかん“障害”があった。
それが中野太郎やったんや。
前述のとおり、中野は盛力や渡辺と同様、山健組のなかでも古参メンバーの1人で、渡辺が立ち上げた「健竜会」では初代相談役に、渡辺が二代目山健組組長を継ぐと舎弟頭補佐に就いた。
そして渡辺が五代目を継承すると若頭補佐に直るなど、絶えず渡辺の傍にいて、自他ともに認める「五代目の片腕」だった。
そこで宅見は初め、中野を抱き込もうと思ったんよ。
宅見は中野にこう言いよったらしい。
「自分さえ承諾してくれたら、明くる日にトラック一杯分持ってくる」と。
つぶつまり中野さえ、クーデターに協力してくれるんやったら、いや、目瞑っとってくれるだけでええ、そうしてくれるんなら翌日には札束を「トラック一杯分」持ってくるという意味ですわ。
「トラック一杯分」の札束いうたら50億ですよ。
少なくとも中野は(宅見の発言を)そう理解しとった。
そりゃ、当時の宅見にはそれくらいのカネ、ありますよ。
なにしろ(大阪の)どこかの信用組合が潰れた際に宅見の関連(企業への融資)だけで「1800億」分の書類が出てきたちゅー話なんやから。
その信金だけでも1800億ですよ。
2000億以上は持ってたはずや。
宅見が関与したとされる、戦後最大の経済事件「イトマン事件」(平成2年に発覚)では、同事件に関係した「大阪府民信用組合」(平成4年に経営破綻)から流出した1300億円を含め、総額約5000億~6000億円が闇に消え、うち3分の1の約2000億円が山口組に流れたとみられている。
そしてその大半は宅見が手中に収めたといわれており、宅見の資産は最盛期で「2000億円」とも、「3000億円」ともいわれていた。
山口組全体が「食える」システムを p230
というのも、当時は極道の世界も不況でね。
月に80万~90万円の「経費」(直参が山口組総本部に収める会費。いわゆる「上納金」)、五代目時代には一時、月50万円まで下がったんやけど、月々の経費を収めるのにも四苦八苦している組があったんだ。
その一方で、五代目や宅見みたいに一部の上の者だけが潤っとるという状況があった。
貧乏やから、堅気の人間を喰いモノにしたり、シャブに手出す奴が出てくるんであってね。
みんなメシさえ食えれば、もうちょっとまともな、任侠道が歩めるんやないか、と。
だから俺は日本全国の公共工事を山口組で仕切ってね、これまでみたいに売り上げの全部を地元の組織が独り占めするんやのうて、そのうちの何パーセントかを本部にプールするようにしたらええやないか、と考えたわけや。
年間72億ほど本部にプールできたら、当時は直参120人ぐらいおったんかね、月々(平均)500万円くらい渡せるやないか、と。
もちろん(直参の)ランクによって差はつけるよ。
ただ、本部が直参から経費を徴収するんやのうて、逆に本部から直参に手当が出せるような仕組みはできんものか、とね。
一部の組織だけが儲けるんやのうて、山口組全体が潤うようなシステムを考えておったんです。
そりゃ儲けてる組織からは「ワシら、己の甲斐性でやっとるんじゃ」いう文句が出てくるやろうけど、その組とて「山口組」の看板使てることに変わりはないんだから。
「山口組」の看板使わんことにはシノギができんのだから。
金持ちの組も貧乏な組も「兄弟」やからね。
そうでもせんと、組織ごとに(貧富の)差があり過ぎて、このままでは山口組は潰れる思た。
ちょうどええ機会やから、この中部国際空港(の建設工事利権)を皮切りに、日本全国の利権を山口組で仕切っていこうと思ったんです。
近松にも俺の考えを説明して、(近松が)「分かった」言うたから引き受けたんです。
司にも、高山通じてこの話しよう思てね。
司忍からの1億円 p240
けど、その後、俺は司に一度、助けてもらったことがあってね。
中部国際空港の(利権を巡る)ゴタゴタも収まって、司の(盛力に対する)誤解も解けて、(司が)クーデターを起こす(平成19年7月の)1年ほど前、司がまだ(若)頭補佐やった時の話や。
俺はある“仕事”を手がけとって、一両日中にどうしても1億円を現金で用意せなあかんようよいごちになった。
だいたい俺は、宵越しの金は持たん性質やから(笑)そんな金あらへん。
けど、その頃には五代目とも完全に切れとったから、無心するわけにもいかん。
それで俺は司を頼ったんよ。
名古屋まで行って、頭下げて。
司は黙って、「兄弟、分かった」と。
「明日、若い衆でええから、来らして(寄越して)」言うてくれた。
それで次の日には1億円、きっちり用意してくれた。
帯封された100万円の新札の束が10積み重なったレンガが上下に10個、ピッチリとビニールで包まれ(コーティングされ)ておった。
これには俺も、さすがや思うたね。
あの時はホンマに助かった。
金は後で少しずつ返したけど、この一件では今でも司に感謝してますんや。
けど、それと同時に、司の資金力も見せつけられたね。
やっぱり、中部国際空港がデカかった。
あの時は結局、五代目の息のかかった業者が一枚噛んだだけで、あと(の利権)は弘道会にグッスリ入っとる。
(空港島の)護岸工事や、埋め立て工事にいる石や砂利(の利権)は、弘道会の企業舎弟が全部仕切りよったから。
ある時、司が(弘道会の)若い者にこう言うたらしいわ。
「心配するな。金やったらプール一杯ある」と。
弘道会の(本部)事務所の地下にはプールがあってな。
司はいつもそこで泳いで体を鍛えておって、俺も以前、司の案内で(地)下に降りて、見たことがある。
長さ(全長)が15メートルほどかな、(幅)3コースほどの小さなプールや。
けど、あのプールに「一杯ある」いうたら相当な額ですよ。
半端じゃない。
それだけ司には資金力があったということですよ。
クーデターの真相 p245
その頃にはすでに“奥の院”で当時、司忍若頭と、その側近中の側近といわれる高山清司・二代目弘道会会長、そして元「宅見組」の若頭で、宅見暗殺後に跡目を継いだ入江禎・二代目宅見組の3人をはじめ、当時の執行部のメンバーらが渡辺・五代目組長を取り囲み、引退を迫っていた。
なんでこの場に、入江がおったか。
これこそがクーデターの真相であり、司がそれ(クーデター)に及ぶ「大義」やったんや。
前にも話したとおり、五代目は中野(太郎・中野会会長)が宅見(勝・若頭)を殺すのをどこかの時点で“了承”しとった。
弘道会はその証拠をつかみよったんや。
その証拠が(五代目と中野との会話を録音した)テープなんか、それとも他のもんなんか俺には分からんよ。
けど“動かぬ証拠”であったことは間違いない。
そして司は、その(五代目による)“子殺し”の証拠を五代目に突きつけた後、入江の方に向き直ってこう言うたんや。
「親の仇は取らなあかん!」と。
この司の一言で決着がついた。
五代目は観念しよったんや。
そしてこの時の“論功行賞”があったからこそ入江は、六代目(山口組)になってから、髙山に(山口組ナンバー3の)「総本部長」にまで取り立てられよったんよ。
あの場に入江がおらんかったら「大義なきクーデター」になっておったから。
一方の盛力は、クーデターの現場から約1300キロメートル離れた中国青島で、盛力会の幹部や他の直参と頻繁に電話を交わしながら、ジリジリとした時間を過ごしていたという。
ウチの舎弟や心安い連中(直参)ら何人かと連絡を取り合ってるうちに、“奥”の様子がだいたい分かってきたんや。
あ、これはもうどうしようもないな、名古屋に完全にひっくり返されたな、と。
(クーデターと知って)もちろん驚いたよ。
ホンマにやりよったかと……。
以前から司や髙山の動きに不穏なものは感じとったけど、まさかクーデター(に及ぶ)とは思ってなかったからね。
ただ、正直、それ以上の感慨はなかった。
「ああ、もう、しゃあないな……」と。
その時はもう、俺の心は五代目から離れとったからね。
もし五代目が俺をちゃんと処遇しとったら、渡辺が俺を大切にしておったら、中国にいようが、どこにいようがすっ飛んで(神戸に)戻って、司の前に立ち塞がってやったよ。
体張って盾になっておったよ。
けど、俺にはもうそういう気が起こらんかった。
理由なき処分 p258
2月3日の朝、起きて風呂に入ろうとしたら、事務所から電話があって。
「会長、神戸(の山口組総本部)から執行部が来られるんで、早よ来てください」と。
それで俺は急いで風呂に入って、ヒゲを剃って、(大阪市中央区瓦屋町の)事務所に着いたのが午前10時過ぎやった。
そしたら、もう橋本(弘文・極心連合会会長、六代目山口組若頭補佐、統括本部長、第6章参照)が来て、待っとった。
橋本がわざわざ来るからには、執行部が何か俺に用事があるんやろうと思ったんで、「なんやねん?」と聞いても、言いにくそうにしてなかなか言わんわけよ。
俺も焦れてしもて「ええから、言わんかい」と促したら、橋本が「いや、実は言いにくいんやけど……」と。
「実は会長、除籍でんねん」と言うわけや。
「え?除籍?原因は何や?理由は何や?」と聞いても、橋本は「いやあ、高山の頭からの伝言ですねん」とだけしか言いよらん。
「そんな馬鹿な話、前代未聞やな」と俺は言ったよ。
「理由なき処分ってどこにあるねん」と。
けれども橋本は「髙山の頭が……」で突っ張るわけ。
そりゃ、突然、そんなこと言われるんだもの。
おまけに「理由なき処分」だ。
こっちも一瞬、「ほな、一本(独鈷=独立組織)で行ったろかい」って、思いましたよ。
けど、よしんば「盛力会」を立ち上げたところで、六代目が(府中刑務所から)帰ってきたら話もできるやろうけど、それまでには潰されるやろ。
けど、俺のこっちゃから黙って潰されへんから。
喧嘩になったら徹底的に行くから。
でも、(山口組と)戦争しても行きつく先は破滅、ですわ。
万が一勝ったところで、死刑は免れん。
子分もおるし、家族もおるし、これ以上、皆に迷惑かけられん。
ここらが潮時やろな、と。
俺と橋本の昔の因縁は前に話したでしょ(第4章参照)。
その橋本から引導渡されたんだから、俺のヤクザ人生も終わりやな、と思た。
だからその場ですぐに橋本に「(除籍処分を)受け入れる」と伝えたよ。
(除籍処分を伝えられてから決断まで)ものの10分ですわ。
ただ、なんで俺が処分を受けなあかんのか、これだけははっきりさせなアカン思てね。
6階の俺の部屋の応接間にウチ(盛力会)の若い衆を順番に呼び出して、1人ずつ話を聞いていったんや。
(4日の)午前零時まで。
全員から話聞くんに12時間以上かかりましたよ。
それで、若い者から順繰りに話を聞いていくうちに分かったんや。
飯田(倫功・盛力会若頭)に嵌められたんです。
ある若い衆によると「しばらく前から(飯田・若)頭の様子がおかしかった」と。
別の若い者によると「携帯に電話がかかってきたら、そわそわしながら事務所の裏の非常階段まで出て、『はい、はい、分かりました』と、こんなやりとりをしとった」、「親分(盛力)でもない相手になんでそこまでペコペコしとるんか、不思議やった」と。
さらに別の若い子によると、その電話の相手は「入江(禎・二代目宅見組組長・六代目山口組総)本部長です」というわけや。
それでようやく見えてきた。
入江が“絵”描きよったんですわ。
入江からすれば、俺が邪魔やったんや。
盛力会さえおらんようになったら、(盛力会の)ミナミのシマを(二代目)宅見組が押さえることができるから。
(同じくミナミに縄張りを持っていた)一心会の川崎がおらんよう(除籍)になって、俺もおらんようになったら、ミナミを全部、牛耳れるから。
それで入江は飯田の頭撫でて、俺のアラを探させて、それを高山に報告して……という流れやな、と。
それで最後に、もう(4日の)零時を回っておったよ、飯田本人を呼び出して、こう言うたんや。
「お前、ええ加減にしとけよ」と。
案の定、飯田はとぼけよったわ。
「なんのことでっか」とシラを切りおったんや。
そこで俺はグッと前に出て言うたよ。
「とぼけるな。お前がそこまでするんやったら、ワシは盛力会、一本で行ったろかい!」
そしたら飯田は平身低頭して「末端でもええから置いてください」言いよったわ。
幹部やなく、末端(の組員)でええから、盛力会に置いてください、いう意味や。
そりゃ、(盛力会から)放り出されたら誰に殺られるか分からんからね。
入江に口封じで消されるかもしれんし、ウチの若い者が殺るかもしれんし……。
しかし、俺はこの飯田の言葉聞いて、心底ガックリ来たよ。
ああ、俺はこんな人間をナンバー2に置いとったんか、と。
前にも言うたけど、中野会から(盛力会に)来てくれた足立(秀明・二代目久富連合会会長・前盛力会理事長、第7章参照)ね。
あの足立が死ぬまで「親分、飯田には気いつけなはれや」と言うとったのに、俺は足立の忠告をちゃんと聞かんかった。
己の力を過信しとった。
不徳の致すところですわ。
ただ、実は足立のほかにもう1人、飯田がいつか俺を裏切ると思ってた人間がおってな。
五代目(渡辺芳則・元山口組五代目組長)や。
俺が(平成8年、宮城刑務所から娑婆に)帰ってきた後、2回目やったか、五代目に会った時にこう言われたんや。
「盛力、なんで飯田みたいなのを置いとんねん」と。
「はよ、放り出せ」と。
「なんで」て言われても、刑務所から出てきた時には、飯田がすでに事務所におったんだから。
それを「放り出せ」言われてもやね。
俺は人情味、持ってるから。
俺は、金は持ってないけど(笑)、人情だけは人一倍厚いほうだから。
過去にどんな失敗しても、それを反省しておるんなら置いてやろうか、と。
けど、五代目の言うとおり、それが間違いやったわけや。
そういう意味では五代目のほうが“先見の明”があったわけですよ。
もちろん、俺も(飯田の)次を育てないかん思てたし、実際に何人か育ててた。
そいつらが育ったら、跡目をそれらの誰かに譲って身引こう思ってたんです。
盛力会の二代目を継がすような人材が育てば、譲る段取りはしとった。
だから、俺は普段から、盛力会の事始めとか、宴会の時なんかでも、よく皆に言うとったからね。
「ワシはいつまでもヤクザやってへんぞ」と。
「誰かしっかりした人間がおれば、跡を譲って、(跡目を譲った後も)ちゃんと(応援)したるから、皆、しっかりせい」と。
けれども、その前に入江と飯田に嵌められてしもたんや。
もっとも髙山(若頭)にとっては(盛力を処分する)「理由」なんて、なんでもよかったかもしれんな。
髙山からすれば、俺がそのまま(山口組に)残っとったら(組織運営が)やりにくかったんやろう。
今の山口組で、俺以上に組織に貢献した人間は残ってへんわけやし、いざとなったら六代目(司組長)にも平気でもの言うていくし、簡単に言うたら「目の上のたんこぶ」や。
ただ、俺としても、入江が飯田みたいなん使うて描いた“絵”を鵜呑みにするような、当人から一切、話を聞かんまま処分するような組織にはこれ以上、おれんと思ってね。
前にも言うたけど、宅見は死ぬまで、俺には一服ついとった(遠慮していた)んですよ。
その若い衆やった入江に嵌められて、若い頃にイわした橋本から引導渡されてもたら、もう俺も終わりや、と。
これ以上、我張ってヤクザしたって、もういい目は出んですわ。
平成21(2009)年2月3日、盛力健児は山口組を引退。
菱の代紋を外し、「盛力会」の看板を下ろした。
17歳でヤクザの世界に足を踏み入れて以来、25歳の時に山本健一・初代山健組組長から盃を受け、16年の懲役生活を挟んだ50年に及ぶ極道人生の幕を自ら閉じたのだ。
一方の飯田は新たに「倭和会」を立ち上げ、六代目山口組の直参となった。
当時の執行部の意向で、旧盛力会のほとんどの組員(解散当時は約400人)が倭和会に引き継がれた。
が、盛力を慕う主だった幹部らは次々と引退。
大阪や埼玉、宮城など全国に散らばり、堅気の仕事に就き、静かに暮らしているという。
p275
長峰霊園に着いてから、三代目の親分やフミ子姐さんのお墓にお参りした後、納骨までしばらく時間があったんで、また岸本さんと話をした。
三代目の親分の隣には「組碑」が建てられとって、これまで抗争で亡くなった先達の名前が刻まれてるんやけど、俺がそれ見て何気のう「ようけい(たくさん)死んでまんな……」って言うたら、岸本さんがこない言いはったんや。
「俺はこんな中、入りたない……」て。
渡辺の死と「さらば、山口組」 p279
田岡満氏に続き、渡辺芳則・元五代目山口組組長もこのインタビュー中の平成24年12月1日、神戸市中央区の自宅で死去した。
享年71歳だった。
通夜は同月4日、神戸市北区の斎場で行なわれ、兵庫県警の警察官120人が警戒するなか、司忍・六代目山口組組長や幹部、直参らが参列したが、葬儀は親族と、親しい関係者の間で執り行なわれたという。
通夜や葬式は井上(邦雄・四代目山健組組長)が仕切って、通夜には現役だけやなく五代目時代の直参も何人かは参列したと聞いてます。
俺は通夜にも、葬式にも行かんかったけど。
俺が行ったところで渡辺も喜ばんやろうしね……。
そりゃ、これまで話してきたとおり、現役時代は正直、「殺したろか」と思ったこともあったよ。
けど、相手が仏さんになった今ではそういう思いも消えてしもうた。
さらに言うたら、満ちゃんと、渡辺の死でいよいよ、山口組に対する愛着も、憎しみもなくなってしもた。
今はほんまに心の底から、「さらば、山口組」と言える爽やかな気分です。
最近は毎日、少林寺の道場をつくるべく、堅気の皆さんと真っ当な仕事に励んでますよ。
なかなか思うように儲からへんけどね(笑)。
けど残り少ない人生、せめてこの道場だけはつくりたいと思てるんですわ。
それで無事、道場ができた暁には、その隣にお年寄りや体の不自由な人らを面倒見れるような施設つくって、中野(太郎・元中野会会長)を引き取ったろう……思てね。
中野は今、故郷の大分の(老人保養)施設で療養しておって、たまに嫁はんが見舞いに行くぐらいで、独り寂しく暮らしてますわ。
あいつ、ちっとは金残してると思ったんやけど、やっぱり俺と一緒で、残してなかったみたいなんで。
結局、俺も中野も、山健の親父や四代目の(竹中正久)親分、それに(竹中)武さんとかと同じで、昔ながらのヤクザ、今の時代では生きていけん古い極道やった……ということやったんでしょうな。