コンテンツにスキップする

「バカの壁」を読んだ

バカの壁」を2025年07月10日に読んだ。

目次

メモ

p3

題名の「バカの壁」は、私が最初に書いた本である『形を読む』(培風館)からとったものです。
二十年も前に書いた本ですから、そのときはずいぶん極端な表現だと思われたようです。
結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。
つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。
そういうつもりで述べたことです。

若い頃に、家庭教師で数学を教えたことがあります。
数学くらい、わかる、わからないがはっきりする学問はありません。
わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。
わかる人でも、あるところまで進むと、わからなくなります。
もちろん一生をかければわかるかもしれないのですが、人生は限られています。
だからどこかで理解を諦める。
もちろんそうしない人は、専門の数学者になるでしょう。
しかしそれでも、数学のすべてを理解するわけではない。
それを考えれば、だれでも「バカの壁」という表現はわかるはずだと思っています。

あるていど歳をとれば、人にはわからないことがあると思うのは、当然のことです。
しかし若いうちは可能性がありますから、自分にわからないかどうか、それがわからない。
だからいろいろ悩むわけです。
そのときに「バカの壁」はだれにでもあるのだということを思い出してもらえば、ひょっとすると気が楽になって、逆にわかるようになるかもしれません。
そのわかり方は、世間の人が正解というのと、違うわかり方かもしれないけれど、もともと問題にはさまざまな解答があり得るのです。
そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。
でも多くの人は、反対に考えているようですね。
ほとんどの人の意見が一致している社会がいい社会だ、と。

若い人もそうかもしれない。
なぜなら試験に正解のない問題を出したりすると、怒るからです。
人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。
とりあえずの答えがあるだけです。
私はそう思っています。
でもいまの学校で学ぶと、一つの問題に正解が一つというのが当然になってしまいます。
本当にそうか、よく考えてもらいたい。

この本の中身も、世間のいう正解とは違った解をいくつも挙げていると思います。
でもこの本の中身のように考えながら、ともかく私は還暦を過ぎるまで生きてきました。
だからそういう答えもあるのかと思っていただければ、それで著者としては幸福です。
もちろん皆さんの答えがまた私の答えとは違ったものであることを期待しているのです。

p17

何でも簡単に「説明」さえすれば全てがわかるように思うのはどこかおかしい、ということがわかっていない。

この例に限らず、説明したからってわかることばかりじゃない、というのが今の若い人にはわからない。
「ビデオを見たからわかる」「一生懸命サッカーを見たからサッカーがどういうものかがわかる」……。
わかるというのはそういうものではない、ということがわかってない。

ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、日本人は、“常識”を“雑学”のことだと思っているんじゃないですかね」と言われたことがあります。
私は、「そうだよ、その通りなんだ」と思わず声をあげたものです。
まさにわが意を得たりというところでした。

p20

現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。

実際には、そうではありません。
だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。
そこで宗教を作り出してきたわけです。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教は、現実というものは極めてあやふやである、という前提の下で成立したものだと私は思っています。

つまり、本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中でひとりだけいる。
それが「神」である。
この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提が出来る。
それゆえに、彼らは科学にしても他の何の分野にしても、正しい答えというものを徹底的に追求出来るのです。
唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する、ということなのです。

p22

ピーター・バラカン氏が言うところの「常識と雑学を混同している」とは、こういうたぐい状況を指しているのです。
膨大な「雑学」の類の知識を羅列したところで、それによって「常識」という大きな世界が構成できるわけではない。
しかし、往々にして人はそれを取り違えがちです。

では常識、コモンセンスとはどういうことでしょうか。
十六世紀のフランスの思想家、モンテーニュが語っていた常識とは、簡単にいえば「誰が考えてもそうでしょ」ということです。
それが絶対的な真実かどうかはともかくとして、「人間なら普通こうでしょ」ということは言えるはずだ、と。

モンテーニュは「こっちの世界なら当たり前でも向こうの世界ならそうじゃないことがある」ということを知っている人だった。
もちろん「客観的事実」などを盲目的に信じてはいない。
それが常識を知っているということなのです。

科学の怪しさ p23

ここで勘違いされやすいのが、「科学」についての考え方です。
「そうはいうけど、科学の世界なら絶対があるはずでしょう」と思われるかもしれません。

実際、統計をとったわけではないのですが、科学者のおそらく九割近くは「事実は科学の中に存在する」と信じているのではないかと思います。
一般の人となると、もっと科学を絶対的だと信じているかもしれません。
しかし、そんなことはまったく無い。

例えば、最近では地球温暖化の原因は炭酸ガスの増加だ、というのがあたかも「科学的事実」であるかのように言われています。
この説を科学者はもちろん、官公庁も既に確定した事実のようにして、議論を進めている。
ところが、これは単に一つの説に過ぎない。

p25

「科学的事実」と「科学的推論」は別物です。
温暖化でいえば、気温が上がっている、というところまでが科学的事実。
その原因が炭酸ガスだ、というのは科学的推論。
複雑系の考え方でいけば、そもそもこんな単純な推論が可能なのかということにも疑問がある。
しかし、この事実と推論とを混同している人が多い。
厳密に言えば、「事実」ですら一つの解釈であることがあるのですが。

確実なこととは何か p27

このような物言いは誤解を生じやすく、「それじゃあ何も当てにならないじゃないか」と言う人が出てくる。
しかし、それこそ乱暴な話で、まったく科学的ではない。

そもそも私は「確実なことなんか何一つ無い」などとは言っていない。
常に私たちは「確実なこと」を探しつづけているわけです。
だからこそ疑ったり、検証したりしている。
その過程を全部飛ばして「確実なことは無い」というのは言葉遊びのようなものです。

「確実なことは何も無いじゃないか」と言っている人だって、実際には今晩帰宅した時に、自分の家が消え去っているなんてことは夢にも思っていない。
本当は火事で全焼している可能性だって無い訳ではないのですが。
全ては蓋然性の問題に過ぎないのです。

「もう何も信じられない」などと頭を抱えてしまう必要は無いのです。
そういう不安定な状態から人は時にカルト宗教に走ったりもする。

別に「全てが不確かだ。だから何も信じるな」と言っているわけではないのです。
温暖化の理由が炭酸ガスである可能性は高い、と考えていてよい。
毎日の天気予報では、「降水確率六〇%」という表現がされていて、それを普通に誰もが受け止めています。
それと同じで、「八〇%の確率で炭酸ガスと思える」という結論を持てばよい。

ただし、それは推測であって、真理ではない、ということが大切なのです。
なぜこの点にこだわるかといえば、温暖化の問題の他にも、今後、行政に科学そのものが関っていくことが多くなる可能性がある。
その時に科学を絶対的なものだという風に盲信すると危ない結果を招く危険性があるからです。

付け加えれば、科学はイデオロギーでもありません。
イデオロギーは常にその内部では一〇〇%ですが、科学がそうである必要はないのです。

マニュアル人間 p45

「個性」を発揮せよと求められるのは、子供に限りません。
学者の世界でも同じです。
学問の世界でも、やたらに個性個性と言うわりには、論文を書く場合には、必ず英語で書け、と言われる。

学術論文には「材料と方法」という欄があります。
論文を書くにあたっては、その言語も、「方法」の基礎のはず。
ところが、学者の世界では大概、英語を共通語として、それを使うように求められる。
一体どこが個性なのでしょうか。

英語で書かなくてはいけないという規則は存在しません。
しかし、「英語で書かないと評価されない」と言う人がいます。
そもそも誰が評価されないといけない、などと決めたのかもわからないのですが。

今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。
会社でもどこでも組織に入れば徹底的に「共通了解」を求められるにもかかわらず、口では「個性を発揮しろ」と言われる。
どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。

要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。
組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのは随分おかしな話です。

皮肉なことに、この矛盾した要求の結果として派生してきたのが、「マニュアル人間」の類です。
要は、「私は、個性なんかを主張するつもりはございませんが、マニュアルさえいただければ、それに応じて何でもやって見せます」という人種。
これは一見、謙虚に見えて、実は随分傲岸不遜な態度なのです。

「自分は本当は他人と違うのですが、あなたがマニュアル=一般的なルールをくれれば、いかなるものであろうとも、それを私はこなしてみせましょう」という態度なのですから。
こういう人は、ご自分のことを随分全人的な人間、すなわちあらゆる面でバランスがとれていて、何にでも対応できる人間だと思っているのではないでしょうか。

私自身は、マニュアル通りになんかとても出来ないし、読む気もしない。
最初からそんな気は無い。
しかし、具体的に仕事をやれば、どういう手順がいいのかなんてことは、わかってくるものなのです。

私が昆虫の標本を作る際に、昆虫から交尾器を抜く必要が生じることがある。
その場合には、カラカラに乾いた虫の交尾器をいったん柔らかくして元に戻して、体から抜くのが楽です。

本来はとってきたばかりの虫から抜くのが一番いい。
そうすれば、跡形もなく綺麗に抜けて、後から元に戻すことも出来る。
だから虫を取ってくるとすぐに抜くという作業をするわけです。
この作業には、家庭で洗濯に使っている漂白剤を使用すればいいのですが、それも経験上、わかってきたことです。

こんな手順のマニュアルなんかどこにも存在していません。
しかし、こうしなくては駄目なことはわかっている。
そして硬くなった虫はこうして柔らかくする、というのも、仕事をやっていくうちにわかることなのです。

私は私ではない p52

このように考えれば、「個性」は脳ではなく身体に宿っている、というのは当然のことです。
が、それが現在ではまったく逆転して受け止められている。
非常に似た勘違いが、「情報」についての受け止め方でも往々にして見られます。

一般に、情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、と思われがちです。
情報は日替わりだが、自分は変わらない、自分にはいつも「個性」がある、という考え方です。
しかし、これもまた、実はあべこべの話です。

少し考えてみればわかりますが、私たちは日々変化しています。
ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。
人間は寝ている間も含めて成長なり老化なりをしているのですから、変化しつづけています。

昨日の寝る前の「私」と起きた後の「私」は明らかに別人ですし、去年の「私」と今年の「私」も別人のはずです。
しかし、朝起きるたびに、生まれ変わった、という実感は湧きません。
これは脳の働きによるものです。

脳は社会生活を普通に営むために、「個性」ではなく、「共通性」を追求することは既に述べました。
これと同様に、「自己同一性」を追求するという作業が、私たちそれぞれの脳の中でも毎日行われている。
それが、「私は私」と思い込むことです。
こうしないと、毎朝毎朝別人になっていては誰も社会生活を営めない。

では、逆に流転しないものとは何か。
実はそれが「情報」なのです。
ヘラクレイトスはとっくに亡くなっていますが、彼の遺した言葉「万物は流転する」はギリシャ語で一言一句変わらぬまま、現代にまで残っている。
彼に「あなたの“万物は流転する”という言葉は流転したのですか」と聞いたら何と答えるのでしょう。

このように永遠に残ってしまう言葉を情報と呼びます。
情報は絶対変わらない。
私がインタビューを受けたとして、同じ聞き手に同じように聞かれても、話すたびに内容は微妙に変化します。
しかし、話した内容を収めたテープの中身は変わらない。
生き物と情報との違いはまさにこれです。

自己の情報化 p54

生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけれども、情報というのはその中で止まっているものを指している。
万物は流転するが、「万物は流転する」という言葉は流転しない。
それはイコール情報が流転しない、ということなのです。

流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。
真理は動かない、不変だと思っていた。
実はそうではなく、不変なのは情報。
人間は流転する、ということを意識しなければいけない。

現代社会は「情報化社会」だと言われます。
これは言い換えれば意識中心社会、脳化社会ということです。

意識中心、というのはどういうことか。
実際には日々刻々と変化している生き物である自分自身が、「情報」と化してしまっている状態を指します。
意識は自己同一性を追求するから、「昨日の私と今日の私は同じ」「私は私」と言い続けます。
これが近代的個人の発生です。

近代的個人というのは、つまり己を情報だと規定すること。
本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。

だからこそ人は「個性」を主張するのです。
自分には変わらない特性がある、それは明日もあさっても変わらない。
その思い込みがなくては「個性は存在する」と言えないはずです。

『平家物語』と『方丈記』 p55

脳化社会にいる我々とは違って、昔の人はそういうバカな思い込みをしていなかった。
なぜなら、個性そのものが変化してしまうことを知っていたからです。

昔の書物を読むと、人間が常に変わることと、個性ということが一致しない、という思想が繰り返し出てくる。
『平家物語』の書き出しはまさにそうです。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文から、どういうことを読み取るべきか。
鐘の音は物理学的に考えれば、いつも同じように響く。
しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか。
それは、人間がひたすら変わっているからです。
聞くほうの気分が違えば、鐘の音が違って聞こえる。
『平家物語』の冒頭は、実はそれを言っているのです。

『方丈記』の冒頭もまったく同じ。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

川がある、それは情報だから同じだけど、川を構成している水は見るたびに変わっているじゃないか。
「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」。
人間も世界もまったく同じで、万物流転である。

中世の代表的な名作の両方ともが冒頭からこういう世界観を書き出している。
ということは、中世が発見した基本的な概念がそういうことだった、と考えられる。

では、中世以前はどうか。
平安時代というのは、まさに都市の世界です。
人間が頭の中で作った碁盤の目のような都市が作られている。
今の我々とよく似た時代です。

その時代には、きっと「私は私だ。変わらぬものだ」と藤原道長あたりが言っていたに違いない。
しかし、実はそうではない。
人生は万物流転なのです。

「君子豹変」は悪口か p57

先日、講演に行った際の話です。
控室にいらっしゃった中年の男性が、「私は、君子豹変というのは悪口だと思っていました」と言っていた。
もちろん、実際にはそうではありません。

「君子豹変」とは「君子は過ちだと知れば、すぐに改め、善に移る」という意味です。
では何故彼はそう勘違いしたか。
「人間は変わらない」というのが、その人にとっての前提だからです。

いきなり豹変するなんてとんでもない、と考えたわけです。
現代人としては当然の捉え方かもしれません。

「男子三日会わざれば部目して待つべし」という言葉が、『三国志』のなかにあります。
三日も会わなければ、人間どのくらい変わっているかわからない。
だから、三日会わなかったらしっかり目を見開いて見てみろということでしょう。

しかし、人間は変わらない、と誰もが思っている現代では通用しないでしょう。
刮目という言葉はもう一種の死語になっている。

いつの間にか、変わるものと変わらないものとの逆転が起こっていて、それに気づいている人が非常に少ない、という状況になっている。
いったん買った週刊誌はいつまで経っても同じ。
中身は一週間経っても変わりはしません。

情報が日替わりだ、と思うのは間違いで、週刊誌でいえば、単に毎週、最新号が出ているだけです。

西洋では十九世紀に既に都市化、社会の情報化が成立し、このおかしさに気が付いた人がすでにいた。
カフカの小説『変身』のテーマがこれです。

主人公、グレゴール・ザムザは朝、目覚めると虫になっている。
それでも意識は「俺はザムザだ」と言い続けている。

変わらない人間と変わっていく情報、という実態とは正反対のあり方で意識されるようになった現代社会の不条理。
それこそが、あの小説のテーマなのです。

「知る」と「死ぬ」 p59

人間は変わる、ということについていえば、学生たちを教えているとしみじみ思うのが、彼らは勉強しないという以上に、勉強するという行為の意味を殆ど考えたことがないのではないか、ということです。
それをしみじみ感じる。

勉強するということは、少なくとも知ることとパラレルになっている。
知ることイコール勉強することではないが、非常に密接に関係があるのは当然です。

ところが、あるときから、知るということの意味や捉え方が何か違ってきたんじゃないかな、と思えてならなくなってきた。

私は東大を辞める少し前まで、東大出版会の理事長をやっていた。
その時に一番売れた本が『知の技法』というタイトルでした。
知を得るのにあたかも一定のマニュアルがあるかのようなものが、東大の教養の教科書で出ている。

気に入らない。
それで、何でこんな本が売れやがるんだ、と思って、出版会の中で議論したことがある。
結局、答えが得られない。
私以外は、そんなことを気にしてはいなかったのでしょう。

その後、自分で一年考えて出てきた結論は、「知るということは根本的にはガンの告知だ」ということでした。
学生には、「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話してみます。

この話は非常にわかり易いようで、学生にも通じる。
そのぐらいのイマジネーションは彼らだって持っている。

その桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。
多分、思い出せない。
では、桜が変わったのか。
そうではない。
それは自分が変わったということに過ぎない。
知るというのはそういうことなのです。

知るということは、自分がガラッと変わることです。
したがって、世界がまったく変わってしまう。
見え方が変わってしまう。
それが昨日までと殆ど同じ世界でも。

意識と言葉 p70

意識が自己同一性なり共通性なりを求めるものであることの代表例が言葉だということは既に記しました。
この問題は、特に西洋ではギリシャ哲学の昔から考えられています。

そして、ここから、日本人には理解しづらい「定冠詞と不定冠詞」の違い、つまり「the(定冠詞)」と「a(不定冠詞)」の違いも分かってきます。
意識の共通性を考える上で、ここでは言葉を脳がどう処理しているかを考えてみましょう。

例えば「リンゴ」という言葉を考えてみます。
リンゴという言葉を全員に書かせると、全員が違う字を書く。
当たり前です。
私の字とあなたの字は違う。

そして、活字にしても、明朝だ、ゴシックだと書体が違うこともあるし、同じ活字で印刷しても厳密にいえば、拡大すると紙の繊維が出てきて、インクの微妙な乗り方の差が出てきます。
すべてのリンゴという字は違う字です。

では、どこに正しいリンゴという字があるか。
そんなものは存在しません。

音声にしても同じことです。
英語の正しい発音なんて言っているけれど、それじゃあほんとうに正しい英語の発音をしてみろといったら、それはその人の発音にしか絶対ならない。
ネイティブの発音だって人それぞれどこか違う。

「apple」を「アップル」と言うか「アポゥ」というか「アッポウ」と言うか、同じ発音をしているつもりでもそれぞれ異なる。

同じ人間が同じ言葉を同じように発音したつもりでも、インクの乗り同様、やはりどとかが違うのです。
しかし、我々はそれを同じリンゴとして、全員が了解している。

私の知る限り、この問題を最初に議論したのがプラトンです。
彼は何と言ったかというと、リンゴという言葉が包括している、すべてのリンゴの性質を備えた完全無欠なりンゴがある。
それをリンゴの「イデア」と呼ぶのだ、と。

そして、具体的な個々のリンゴは、その「イデア」が不完全にこの世に実現したものだと言ったのです。
つまり、言葉は意識そのもの、それから派生したものなのです。

プラトンが言いたいのは平たく言えばこういうことです。
「おかしいじゃないか。
リンゴはどれを見たって全部違う。
なのに、どれを見たって全部違うリンゴを同じリンゴと言っている以上、そこにはすべてのリンゴを包括するものがなきゃいけない」

この包括する概念を彼は「イデア」と定義したのです。

プラトンはこのように全部包括する概念を考えた。
では、我々がリンゴという言葉を文字に書いても、音声にしても、全部違うのに、それを同じリンゴだと言っているのはなぜか。

それは、まさに我々が意識の中で、全てを同一のものだと認識することが出来るゆえに起こる現象なのです。

本来なら、外の世界は感覚で吟味する限り、全てのものが違う。
あらゆるリンゴは全部違っている。
さっきの文字の話と同じ。
あらゆる人間は違った人間なのと同じです。

ということは、そこに「人間」という言葉は、本当ならば使えないはずです。
全部が違うことを厳密に考えれば。

脳内の「リンゴ活動」 p73

ではなぜ意識は、それを無視して、「同じ」リンゴだ、と認識する機能を持たなくてはいけないのか。
脳が、それぞれの情報の同一性を認めないことになると、世界はバラバラになってしまうからです。
耳から認識した世界と目から見た世界が別ではしようがない。
だから同じだと脳=意識は言わざるを得ない。

リンゴという言葉を聞いて、または文字を見て、頭の中には「リンゴ活動」とでもいうべき動きが起こる。
リンゴ活動とはどういうものかというと、現実のリンゴを見なくても同じ反応が起こる活動です。
それは、リンゴの絵を描けというときに、視覚野を調べたらわかる。

具体的なリンゴを見ている場合と、リンゴをイメージしろといった場合で、実は脳の中の視覚野ではほとんど同じ活動が起こる。
そうでなくては、イマジネーションだけで絵を描くことは出来ないのです。

つまり、リンゴという言葉が意味しているものは、一方は外からのリンゴだけれど、もう一方は脳の中でのリンゴ活動です。
リンゴという一つの言葉が、その両面を持っている。
このことは、西洋語の中に極めてわかり易い形で出てくるから、まず西洋哲学の問題になったのです。

それはどういうことか。
我々が英語でさんざん悩まされた定冠詞、不定冠詞というのは、まさにこの問題と関係しています。

theとaの違い p74

「机の上にリンゴがあります」と言うときに、英語では「There is an apple on the desk」と言う。
この時の認識の流れはこうなります。

「机の上に何かあって、それが視覚情報として脳に入ってきた時に、私の脳味噌で言語活動が起こった、リンゴ活動が起きた」

その時は「an apple」なんです。

この時点では、あくまでも、視覚情報として入ってきた「赤くて丸い物」に対して脳の中で「リンゴ活動」が発生した結果としての「リンゴ」に過ぎない。
不定冠詞が付く時は脳内の過程に過ぎないのです。

では次に、その外界のリンゴを本当に手で掴んで綴ってみます。
もしかするとそれは実際には、蠟細工かもしれません。
ともかく、この時点でようやく実体としてのリンゴになります。
それが英語では「the apple」になります。
実体となったから定冠詞が付く。

大きな概念としてのリンゴではなく、ある特定の私が手にした(場合によっては実は蠟細工のレプリカだった)リンゴになった。
外界のリンゴはそれぞれ別々な特定のリンゴだということです。

外の世界のリンゴは、それぞれ特定のリンゴ以外あり得ない。
ところが、頭の中のリンゴは、プラトンの言うイデアとしてのリンゴです。
頭の中は見えませんから、意識は一応全部同じだと見なす。
しかし、そういう頭の中のリンゴというのは不定でしょう。
色も形も、大きさも、何も決まってない。
それは「an apple」になるのです。

定冠詞、不定冠詞の差はそれを意味していた。
プラトンから一気に現代に話は飛びますが、言語学の中でそれを指摘したのが、ソシュールのシニフィアンとシニフィエという概念です。

ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されるもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されています。
この表現はわかったようなわからないような物言いです。
実際、ソシュールは難解だとされています。

が、これまでの説明の流れでいえば、「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。
ソシュールも、やはり言葉の二つの側面に注目したのだ、と考えられます。

日本語の定冠詞 p76

では、こういう重要な違いというのが日本語に存在しないかというと、そんなことはない。
日本人にだけ存在しない、というのも変な話です。
脳が共通性を求める、という一方で日本人だけが言語を脳の中で別処理している、なんてことになるのですから。

勿論、同様の区別は日本語の中にも存在している。
あるのだけれども、日本人が言わない、または気にしていないだけです。
専門家は形式的な文法の知識で、定冠詞、不定冠詞にこだわるからわかりづらい。

「昔々、おじいさんとおばあさんがおりました。
おじいさんは、山へ柴刈りに……」という一節は誰でも知っています。
では、この「おじいさんとおばあさんが」の「が」と次の「おじいさんは」の「は」の助詞の違いを説明できますか。

最初に「おじいさんとおばあさんがおりました」と言う時には、子供に、おまえの頭の中に爺さんのイメージと婆さんのイメージを浮かべろ、と言っている。
特定の爺さん、婆さんを浮かべろと。
浮かんだら、今度はそのお爺さんが物語の中で動き出します。
次に、「おじいさんは、山へ柴刈りに」という時には、特定のお爺さんが動き始めるわけです。

見事にこれは定冠詞、不定冠詞の機能をそのまま持っている。
ところが、文法学者は形式文法をやっているため、冠詞と書いてあるから、冠だから、名詞の前に使わなきゃ冠詞じゃない、と思う。
それは助詞だろう、と。

しかし、形式を無視して言えば、機能としてはまったく同じです。
ちなみにギリシャ語を調べると、冠詞は名詞の後ろにあっていいことになっている。

そう考えると、プラトンにせよソシュールにせよ、非常に難しいみたいだけれども、別に何てことはない。
根本的には「自己同一性」に絡んだ、つまり言葉の世界と、あるいは別の言い方をすれば情報の世界と、システムの世界についての思想なのです。

神を考えるとき p78

リンゴは、具体的に存在している。
では抽象的概念、例えば「神」といったものを考えるとき、脳はどう動いているのか。

人間は幼児のときは、まだ脳の中にほとんどプログラムがない。
要するに遺伝子入力で割りつけられたつなぎぐらいしかない。
例えば皆さんが、熱いやかんにさわって「アチッ」と手を引っ込めるときは、脳を使ってない。
簡単に言えば本能というか反射というようなものです。
それで、おくれて脳に届いて「アチッ」と言う。

つまり、入力から出力へというのは非常に単純につながっているわけです。
最も単純につながっているのが動物や虫。
反射的に行動しているわけで、これを通常、本能と言ったりもします。

本能という単純な入出力がメインである動物や虫とは反対に、入力と出力の中間のととろにできてくるバイパスだけが非常に大きくなったのが人間の脳です。
目玉であれ、皮膚であれ、耳であれ、チンパンジーと人間ではさして変わらない。
ほとんど同じと言ってもいい。
遺伝子の塩基配列だって、九八%以上同じです。
チンパンジーの目玉と人間の目玉は、本質的には何も変わらない。
そうすると、視覚入力は変わらないわけです。

脳内の自給自足 p79

問題は、人間の処理装置が巨大になっているというところです。
人間の脳はチンパンジーの脳の約三倍になっている。
だから、大きなコンピュータ=大脳が付いた。
すると、今度は何が起こってきたかというと、外部からの入力で単純に出力する、というだけではなくなった。
外部からの入力のかわりに、脳の中で入出力を回すことができるようになってきた。
入力を自給自足して、脳内でグルグル回しをする。

良く言えば思索と言えるけれども、このグルグル回しばかりやっている人というのは、要するに一生懸命考えてはいるけれども、何も生み出さない人間だということになる。
「下手の考え休むに似たり」とはまさにこういう状態です。

これはおそらく人間にのみ発生した典型的な事態です。
虫でも動物でもそんな悠長なことはしていられない。

では、このグルグル回しが無意味かといえば、もちろんそんなことはない。
人間の身体は、動かさないと退化するシステムなのです。
筋肉であれ、胃袋であれ、何であれ、使わなかったら休むというふうになって、どんどん退化していく。
当然、脳も同じこと。

そうすると、これだけ巨大になった脳を維持するためには、無駄に動かすことが必要なのです。
とはいえ、常に外部からの刺激を待ちつづけても、そうそう脳が反応できる入力ばかりではない。
そこで刺激を自給自足するようになった。

これを我々は「考える」と言っている。

役にも立たないけれども、とにかく入出力を繰り返し、グルグル回す。
回さないと脳が退化する。
意識的にやらなくても、巨大になってしまった以上は自然にグルグル回ってしまいます。

入力があれば、神経細胞は次々次々、別の神経細胞に連絡をしていく。
それで、おそらく人間は非常に余計なことを考えるようになったのだろうと思います。

偶像の誕生 p81

さて、「神」に代表される抽象的概念というのは、このように演算装置の中だけでグルグル回転するようにして作られたものである、ということになります。

しかし、それだけでは他のものと違うから人間は不安になってくる。
どうしても具体的なものが欲しくなる。
そこで、神像だの仏像だのと、偶像を作ったのです。

神に限らず、人間が頭の中だけで生み出すものは非常に数多く存在しています。
これを昔は「概念」と言っていた。
これをプラトンのイデアと言ってもいい。
基本的にはそういうものは、外部との関係があるとはいえ、頭の中の産物です。

「身体」を忘れた日本人 p87

私たちをとりまく壁、いつの間にか作ってしまった壁については、既にいくつか述べました。
現代人は当たり前と思っているが、実際のところと「あべこべ現象」が起きているというのは、情報についての認識だけではありません。
「あべこべ現象」と密接に関係しているのが「無意識」「身体」「共同体」の問題です。
「意識と無意識」は脳の中の問題、「身体と脳」は個体の問題、そして「共同体」は、社会の問題です。

現代の日本では、それぞれにおいてよく似た現象が起きています。
その現象を意識しない、または忘れてしまっていること自体が、日本人の抱えている問題ではないか、と考えられるのです。

戦後、我々が考えなくなったことの一つが「身体」の問題です。
「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。
といっても、「そんなわけはない。
頭痛もすれば肩こりもする」「体重が増えて階段を上るのがキツイことを自覚している」と仰しゃるかもしれません。
ここでいう身体の問題とは、そういうことではありません。

軍隊と身体 p90

ここでのキーワードは「身体」だったのです。
かねてから、「身体問題」が戦後、日本が抱えていた共通の弱さというか、文化にとっての問題点だ、と私は考えていましたが、それが証明された、という感があります。
戦時中まで、身体を担っていたのは軍隊という存在でした。
が、それが終戦で綺麗に消えてしまいました。
以降、実は自分にとって一番身近な身体の扱い方を個人がわからなくなってしまった状態のままなのです。

日本の場合、三代、四代遡れば殆ど皆、百姓です。
つまり都市の人間ではない。
そういう人たちが、近代になって突然、あちこちで自然が都市化したのに伴っていきなり都会人になってしまった。

ここでいう「都市」とは、前章でも述べた脳化社会のことです。
すなわち、人間が脳の中で図面を引いて作った世界が具現化している社会のことを指します。
およそ都市というのは、まず人間が頭で考えたものを実際にそこに作る、という作業から出来ています。

日本では、この都市化に伴って、近代になって急に身体問題が発生してしまっている。
恐らくは古くから都市化の歴史を持っている社会、中国やユダヤ人の文化というのは古くから都市化をしていったために、こういう問題はすでに済んでしまったのだと思います。

それでも、日本においても、ある時期までは軍隊という形で強制的に、都市生活をしている男性においても身体を規定していった。
軍隊というのは、どういう組織かといえば、とにかく考えずに身体の運動を統一させる組織です。
戦場で下手にものを考えていたらその間に殺されるのですから、反射的に動くことを徹底的に訓練で叩き込む。
上官が右、というのに、いちいち「ハテ本当に右を向いてよいものか」などと考えていては話になりません。

身体と学習 p93

身体を動かすことと学習とは密接な関係があります。
脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力をすることが次の出力の変化につながっています。

身近な例でいえば、歩けない赤ん坊が何度も転ぶうちに歩き方を憶える。
出力の結果、つまりここでは転ぶという経験を経て、次の出力が変化する、ということを繰り返す。
そのうちに転ばずに歩けるようになってくる。

脳のモデルとして現在有効であると考えられている「ニューラルネット」というものがあります。
これについては第六章で解説しますが、大雑把にいえば、このモデルを応用して、自ら間違いを訂正して学習をしていくプログラムを作ることが可能です。
出力の結果によって次の出力を変えていくプログラム、と言ってもいい。
これは人間の学習と同じ過程です。

例えばコンピュータに文字を識別させるプログラムを作る場合、こういう自ら学習するプログラムと、細かいところまで全て予め設定して識別するプログラムとでは、前者の方がはるかに効率が良く、簡単なプログラムで済むことがわかっています。

文武両道 p94

ここで言えるのは、基本的に人間は学習するロボットだ、ということ。
それも外部出力を伴う学習である、ということです。

「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そうではない。
出力を伴ってこそ学習になる。
それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。
数学の問題を考えるというのは、こういう脳内での入出力の繰り返しになる。

ところが、往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。
身体を忘れている、というのはそういうことです。

江戸時代は、脳中心の都市社会という点で非常に現在に似ています。
江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流となった。
陽明学というのは何かといえば、「知行合一」。
すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。

しかしこれは、「知ったことが出力されないと意味が無い」という意味だと思います。
これが「文武両道」の本当の意味ではないか。
文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。
両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。

赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。
ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。
それによって自分の反応=出力も変わる。

ハイハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。
または動くと視界が広がることがわかる。
これを繰り返していくことが学習です。

この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。
そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことも出来るようになる。
脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。

大人は不健康 p95

赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。
学生も様々な新しい経験を積んでいく。
しかし、ある程度の大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてしまう。
これは非常に不健康な状態だと思います。

仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。
限定化するということはコンピュータならば一つのプログラムだけを繰り返しているようなものです。
健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。

私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃないか、というくらいに見える世界が変わった。
結構、大学に批判的な意見を在職中から自由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたかがよくわかった。
この制限は外れてみないとわからない。
それこそが無意識というものです。

「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうるさいものだったかわかった、ということを指している。
身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることに繋がるわけです。

これもまた誤解されやすいので念のために付け加えておくと、別に転職の勧めをしているのではありません。
大人だから環境を変えるには離婚とか転職しかない、と思われても困ります。
同じことをずっとやっているようでも、その人の中での理解だとかプログラムの編成替えが行われる、というのは珍しいことではない。

同じことをやっているのが即駄目だ、ということになると、子供の頃から今に至るまで延々と昆虫採集をしている私は進歩ナシ、ということになる。
しかし、もちろんそんな単純な話ではない。

昆虫採集ひとつとっても、かつての私と今の私とでは随分変わっている。
例えば、あゾウムシを採取したが、どの図鑑に照らし合わせても特徴が合致しないことがある。

若い頃ならば、「本と一致させられない自分の目がおかしいのだろうか」なんて思ったかもしれません。
が、長い経験を経た今であれば、「これは本の方が間違っていて、自分の目が正しいのではないか」という可能性も考えることが出来る。
長年の経験によって、同じことについても見方が変わってくることは珍しいことではないし、それは一一種のプログラムの書き換えのようなものです。
ただし、それには科学についての項で述べたように、常に検証の気持ちを持つ必要があります。

理想の共同体 p108

おそらく、社会全体が一つの目標なり価値観を持っていたときには、どのような共同体、または家族が理想であるか、ということについての答えがあった。
それゆえに、大きな共同体が成立していた。

とすると、どういう共同体が理想か、という問題を考える場合、実はその問い自体に大した意味はないのではないか。

家族でいえば、大家族とか核家族とか、そういう形態は、あくまでも何を幸福として目指すのかということの結果でしかない。
同様に、あくまでも共同体は、構成員である人間の理想の方向の結果として存在していると思います。
「理想の国家」が先にあるのではない。

かつては「誰もが食うに困らない」というのが理想のひとつの方向でした。
今はそれが満たされて、理想とするものがバラバラになっている。
だからこそ共同体も崩壊している。
昨今の風潮でいえば、こうしたバラバラであることそのものが自由の表れであるかのような考え方もあります。
これはどこか「個性」礼賛と似ている。

しかし、そうではないのではないか。
「人間ならわかるだろ」という常識と同様、人間にとって共通の何らかの方向性は存在しているのではないでしょうか。

私は、一つのヒントとなるのは「人生には意味がある」という考え方だと思っています。
アウシュビッツの強制収容所に収容されていた経験を持つV・E・フランクルとい心理学者がいます。
彼は収容所での体験を書いた『夜と霧』(みすず書房)や、『意味への意志』『〈生きる意味〉を求めて』(春秋社)など、多数の著作を残している。

そうした著書や講演のなかで、彼は、一貫して「人生の意味」について論じていました。
そして、「意味は外部にある」と言っている。
「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。
より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。
とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。

p112

共同体が機能している時には、人間同士の貸し借りそのものがある種の人生の意味たりえた。
生きていくうえでは何らかの付き合いがあって、そこではどうしても貸し借りが生じる。

何か借りがあれば恩義を返す。
そこには明らかに意味がある。
教育ということの根本もそこにあって、人間を育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。
そしてそれは、基本的には無償の行為なのです。

忘れられた無意識 p115

身体や共同体と同様、戦後私たちが排除してきた、もしくは考えなくなったのが、「無意識」の問題です。
無意識を意識しろ、というのも矛盾した物言いですが、要は無意識が存在していること、そしてそれが重要な存在であることを自覚しなくなった、ということです。

私たちは現在、都市、脳化社会で暮らしています。
その例としては、現代のほかに江戸や平安京をあげました。

脳化社会というのは、皆が思い思いに勝手に建物を作ってゴチャゴチャの状態の都市であろうが、最初から行政なり個人なりが全体をプロデュースして整然としている都市であろうが同じことです。
「ウチの近所は都心のわりに公園が沢山あって緑が多いから自然の中で暮らしている」とかそういうものではありません。
基本的に都市に住んでいるということは、すなわち意識の世界に住んでいる、ということです。
そして、意識の世界に完全に浸りきってしまうことによって無意識を忘れてしまう、という問題が生じてきた。

無意識の発見 p116

フロイトが無意識を発見する必要があったのは、ヨーロッパが十八世紀以降、急速に都市化していったことと密接に関係している。
それまでは、普通に日常に存在していた無意識が、どんどん見えないものになっていった。
だからこそ、フロイトが、無意識を「発見」したわけです。

もともと無意識というのは、発見されるものではなくて日常存在しているものです。
なぜならば、我々は、毎日寝ています。
寝ている間は誰もが無意識に近い状態です。
夢を見ているといっても、覚醒している時とはまったく異なる、低下した意識ですから。

この寝ている時間というのを、今の人はおそらく人生から外して考えていると思われます。
脳によって作られた都市に生活している、というのもその理由のひとつでしょう。

若い人のライフスタイルを見ていると顕著です。
彼らが主な客層であるコンビニは二十四時間営業。
草木が眠る時間でも、コンビニだけは煌々と明かりを点し、若い人たちがたむろしている。
要するに、彼らにとっては寝ている時間は存在していない時間であることの象徴です。

なぜ寝ている時間が無いのか。
寝ている暇を勿体無いと思うのか。
それは、無意識を人生のなかから除外してしまっているからです。
意識が中心になっている証拠なのです。

だから、若者はとにかく起きていようとする。
極端に言えば、ギリギリまで起きていて、ばったり倒れて眠る。
そのためどんどん夜更かしになる。
朝になると、多少とも仕事があって、仕方がないから行ってこようかという風です。

三分の一は無意識 p119

脳化社会である都市から、無意識=自然が除外されたのと同様に、その都市で暮らす人間の頭からも無意識がどんどん除外されていっている。
しかし人間、三分の一は寝ている。
だから、己の最低限三分の一は無意識なのです。
その人生の三分の一を占めているパートについては、きちんと考慮してやらなきゃいけない。

無意識の状態でだって、身体はちゃんと動いています。
心臓も動いているし、遺伝子が細胞を複製してどんどん増えて、いろんなことをやっているわけです。

それもあなたの人生だ、ということなのです。
が、おそらく近代人というのは、それを自分の人生だとは夢にも思っていない。
それは単に寝て休んでいるだけなのだと思っているわけです。
人生から外して考えています。
実はこれが、残りの起きている時間をおかしくしてしまう原因なのです。

完全に意識の連続の世界しか考慮に入れていないから、寝る前の自分と、目が覚めた後の自分が連続している同一の人間だ、と何も疑わずに安易に思ってしまう。

むろん、無意識を意識しろ、といっても矛盾しているというか無理な話です。
ただし、あくまでも自分には無意識の部分もあるのだから、という姿勢で意識に留保を付けることが大切なのです。

賢い脳、バカな脳 p125

賢い人と賢くない人の脳は違うのか。
外見はまったく変わりません。
もちろん、一定以上の限度を越えれば話は別です。
前述した通り、チンパンジーの脳は人間の脳より小さいわけですから。
人間の脳でいえば、通常の三分の一、四五〇グラム、という例もありますが、これは小頭症という病気で、やはり機能には問題がある。
しかし、逆に二〇〇〇グラムも脳がある白痴がいた、という記録もあります。
そういう極端な例を除けば大小は関係無い。

脳みそのシワが多いといい、という俗説もありますが、これも関係無い。
なぜ脳にシワがあるのかといえば、一定の容量の頭蓋骨に沢山の脳を入れるためにクシャクシャにして収めているからシワになる。

新聞紙を小さな箱に丸めて入れるのと同じことです。
シワの数だけなら人間よりイルカの方が多いくらいですから、頭の良し悪しとはまったく関係ありません。

では、利口、バカを何で測るかといえば、結局、これは社会的適応性でしか測れない。
例えば、言語能力の高さといったことです。
すると、一般の社会で「あの人は頭がいい」と言われている人について、では具体的、科学的にどの部分がどう賢いのかを算出しようとしても無理なことでしょう。
そんなものの客観的、科学的な基準を作るのは難しい。
しかも、無理やり客観的な基準を置いて測るなんてことをしたところで、あまり意味が無い。
場合によっては常識と異なる、とんでもない結論が出ることが予想されます。

p128

従って、ある種の特殊な領域で秀でているからといって、「賢い」とはいえない。
こう考えると、果たして何で頭の良し悪しを測るべきか、というのは非常に難しい問題だということがおわかりでしょう。

社会的に頭がいいというのは、多くの場合、結局、バランスが取れていて、社会的適応が色々な局面で出来る、ということ。
逆に、何か一つのことに秀でている天才が社会的には迷惑な人である、というのは珍しい話ではありません。

p133

このニューラルネットの学習曲線は、子供が字を憶える時の学習曲線とほぼ同じだということがわかっています。
子供が一〇〇%文字を憶えるまでの学習曲線は、単純な右肩上がりの曲線ではなく、いったん下がって、また上がる、という特徴があります。
驚いたことに、ニューラルネットでの学習曲線もまったく同じようにいったん落ち込んだ後に上昇する。
まさに人間の脳の働きを再現したモデルだと考えられます。

でもしか先生 p159

教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります。
実際には、物凄く厳しい先生は、生徒に嫌がられるけれど、後になると必ず感謝される。
それが仮に間違った教育をしても、少なくとも反面教師にはなりうるということになる。
が、最近ではそんな厳しい先生はいなくなってきた。
下手なことをして教育委員会やPTAに叩かれるよりは、何もしない方がマシ、となるからです。

反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にない。
なぜそうなったか。
今の教育というのは、子供そのものを考えているのではなくて、先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。
子供に顔が向いていないということでしょう。

よく言われることですが、サラリーマンになってしまっているわけです。
サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。
職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。
自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。

ところが、教育の結果の生徒は作品であるという意識が無くなった。
教師は、サラリーマンの仕事になっちゃった。
「でもしか先生」というのは、子供に顔が向いていなくて、給料の出所に対して顔が向いているということを皮肉に言った言葉です。
職があればいい、給料さえもらえればいいんだと、そういうことで先生に「でも」なったか、先生に「しか」なれなかった。

そういう社会で、現に先生が子供に本気で面と向かって何かやろうとしたら大変なことになってしまう。
その気持ちはわかる。
親は文句を言うし、校長にも怒られるし、PTAも文句を言う。
自分の信念に忠実なんてとてもできません。
仕方がないから適当にやろうということでしょう。

現在、こういう教育現場の中枢にいるのが所謂「団塊の世代」です。
大学を自由にするとか何とか言って闘ってきた年代の人がそうなっちゃっているというのはおかしなことに思えるかもしれません。
が、私は学園紛争当時から、彼らの言い分を全然信用していなかった。
案の定、その世代が今、教師となり、こういう事態を生んでいる。

俺を見習え p163

そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないと出来ないはずです。
突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。
要するに、自分を真似ろと言っているわけです。
それでは自分を真似ろというほど立派に生きている教師がどれだけいるのか。
結局のところ、たかだか教師になる方法を教えられるだけじゃないのか。

そういう意味で、教育というのはなかなか矛盾した行為なのです。
だから、俺を見習えというのが無理なら、せめて、好きなことのある教師で、それが子供に伝わる、という風にはあるべきです。

私は、学生に人間の問題しか教えない。
これは面白いことだ、と自信がある。
解剖は解剖で面白いから、教えろと言われれば教えるけれど、二の次。
いずれにせよ、自分が面白いと思うことしか教えられないことははっきりしている。

解剖から学べるのは、自然の材料を使ってどうやって物を考えるかというノウハウです。
そこの部分は講義じゃ教えられない。
学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。
それが本当の学問です。
そこの能力が、最近の学生は非常に弱い。

逆に、いったん情報化されたものを上手に処理するのは大変にうまい。
これはコンピュータの中だけで物事を動かしているようなものです。
すでにいったん情報化されたものがコンピュータに入っているのだから、コンピュータに何をどうやって入れるかということには長けている。

情報ではなく、自然を学ばなければいけないということには、人間そのものが自然だという考えが前提にある。
ところが、それが欠落している学生が多い。
要するに、医者なんていうのは、逆に言えば、そういうヒトそのもの、自然そのものを愛する人じゃなきゃ出来ないのに、現状はそうではない。

東大病院で研究者が臨床へ出てくると、「一年間懲役だ」なんて言っている。
要するに、患者と接するのがとんでもない苦痛、苦役だという。
これでは本末転倒です。

身体を動かせ p169

ですから、授業をしている身で言うのも矛盾していますが、学生には常々こんな風に言っています。

「こんな穴蔵みたいな教室で、俺みたいな爺いの考えを聞いているんじゃない。さっさと外へ行って、体を使って働け」と。
そのほうが絶対にまともだと思うのです。

実際には、彼らは働くどころか一時間目から寝ていたりするのですが。
これはもう意識的世界が中心になっているということなのです。

意識的世界なんていうのは屁みたいなもので、基本は身体です。
それは、悪い時代を通れば必ずわかることです。
身体が駄目では話にならない。

腹が減っては戦はできない、というのは真理です。
江戸の侍が「武士は食わねど高楊枝」と言うけれども、そんなものは江戸だから言えたことに過ぎない。
侍が飯食わないで侍の仕事ができるかといえば、答えは明白。
天下太平になってしまっているから、そこら辺に気がつかなくて呑気に言っていただけ。

子供が今育っている環境は、私たちが育った環境と非常に違う。
テレビは生まれたときから身近にあるし、体を使わないというのが非常に目立ちます。
別に生物として子供が運動嫌いになってきたというわけではない。
実際には子供たちを連れて山に行くと本当によく動いている。
もともと子供は放っておいても動くものなのです。

部屋に籠もっているのは、単に動き回る、暴れまわる機会が与えられていないだけだ、ということが逆によくわかる。
大人にしてみれば、危ないから家の中で何かをしてくれたほうがずっといいなんてつい考えてしまう。
それで団地なんかにいたら、虫に会うわけでもないし、何にもない。
そうすると、ちょっと子供は不自然に育ってしまう気がする。

別にそれは都会の子に限らない。
田舎の子だからそれができるかというと、全然できない。
極端な話、都会の子が夏休みになって田舎に来ると、初めて近所の川に一緒に行くなんてことがあると聞きます。

欲望としての兵器 p184

欲にはいろいろ種類がある。
例えば、食欲と性欲というのは、いったん満たされれば、とりあえず消えてしまう。
これは動物だって持っている欲です。
ところが、人間の脳が大きくなり、偉くなったものだから、ある種の欲は際限がないものになった。

金についての欲がその典型です。
キリがない。
要するに、そういう欲には本能的なというか、遺伝子的な抑制がついていない。
すると、この種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなくてはいけないのかもしれない。

近代の戦争は、ある意味で欲望が暴走した状態です。
それは原因の点で、金銭欲とか権力への欲望が顕在化したものだから、ということだけではない。
手段の点において、欲が暴走した状態である。

なぜなら、戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。
ミサイルは典型的にそういう兵器です。
破壊された状況をわざわざ見にいくミサイルの射手はいないでしょう。
自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないで済む。
死体を見なくてもよい。

原爆にいたってはその典型です。
「おまえがやったことだよ」とその場所を、爆破後一日たって見せてあげたら、普通はどんなパイロットだって爆弾を落としたがらなくなるでしょう。
何せ何万、何十万という被害者が目の前に転がっているのですから。

その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器を間接化する。
別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。
武器の進化というのは、その方向に進んでいる。
ナイフで殺し合いをしている間は、まさに抑止力が直接、働いていた。
目の前にいる敵を刺せば、その感触は手に伝わり、血しぶきが己にかかり、敵は目の前で倒れていく。

異常者でもなければ、それに快感を感じることはない。
だからこそ、武器は出来るだけ身体から離していきたい。
その欲望を実現していき、結果として、武器による被害の規模は大きくなっていくばかりです。

経済の欲 p186

よく似た現象が、経済の世界にも存在しています。
百万円がないと首をくくった人もいれば、何億円も一瞬で稼いで、ドブに捨てるみたいに使っているやつもいる。
金額の大きい方は、お金を触ってすらいない。
武器でいえばミサイルとか原爆と同様の世界になっている。
欲望が抑制されないと、どんどん身体から離れたものになっていく。
根底にあるのは、その方向に進むものには、ブレーキがかかっていない、ということです。

金というと、何か現実的なものの代表という風に思われがちですが、そうではない。
金は現実ではない。

金は、都市同様、脳が生み出したものの代表であり、また脳の働きそのものに非常に似ている。
脳の場合、刺激が目から入っても耳から入っても、腹から入っても、足から入っても、全部、単一の電気信号に変換する性質を持っている。
神経細胞が興奮するということは、単位時間にどれぐらいのインパルスを出すか、単位時間にどれだけ興奮するかということです。

これはまさに金も同じです。
目から入っても耳から入っても、一円は一円、百円は百円と、単一の電気信号に翻訳されて互いに交換されていく、ある形を得たものです。
これは、目で見ようが耳で聞こうが同じ言葉になるのと同じで、どのようにして金を稼ごうが同じ金なのです。
金の世界というのは、まさに脳の世界です。

ある意味で、金ぐらい脳に入る情報の性質を外に出して具体化したものはない。
金のフローとは、脳内で神経細胞の刺激が流れているのと同じことです。
それを「経済」と呼称しているに過ぎない。
この流れをどれだけ効率よくしようか、ということは、脳がいつも考えていることです。
経済の場合にはコストを安くしてやろうという動きになる。

かつては、金を貯めて大きな家を作りたい、車を買いたいと、金と実物が結びついていた。
もちろん、今でもそういうことはあるにせよ、どんどん現実から遊離していって、今は信号のやりとりだけになっている。

結果として、経済の世界には、実体経済に加えて、ほかの言葉がないのですが「虚の経済」とでもいうべきものが存在している。
虚の経済とは何かというと、金を使う権利だけが移動しているということです。

ビル・ゲイツが何百億ドルかを持っているということは、彼が何百億ドルかを使う権利を持っているということに過ぎない。
その権利が他人に動いたって、第三者から見れば別に痛くも痒くもない。

それが個人に集まろうが、集まるまいが、実は、大勢からみれば大して変わりがない。
その権利のやりとりという面が非常に大きく扱われてしまう。
それが虚の経済です。

お互いに話し合って、「おまえ、そんなに金を持っていたって使いようがないだろう。おれのほうは要るんだから、ちょっと回せ」という話し合いがつけば、それだっていい。
それは虚の経済と考えられる。

実の経済 p188

もう一つ、昔からあるのが実の経済。
これは明らかに、例えば、実際に物資が動いたりするのにコストがかかって、そのコストの対価として払われている金がある。
ところが、実体経済に一番大きな穴があるのはどこかというと、金というのは、政府が自在に印刷できる点です。
要するに兌換券ではなくなったために、現物との関係が今、切れている。
そのため、完全に信用経済になっている。

『貨幣論』(筑摩書房)のなかで岩井克人氏は、「『貨幣とは貨幣として使われるものである』というよりほかにない」と書いています。
金には何らかの価値の根拠があるわけではない。
その金が何で通用するかというと、私が使った一万円を貰った相手が同じ一万円として使えるという思い込み、でしかない、ということです。
次に、その一万円を受け取った人が相変わらず一万円として使えると思っているという、「と思っている構造」の中で通用している。
これは実は裏付けがない。
だから、別な言い方をすれば、紙幣の発行には限度がない。
「と思っている構造」が成立する以上は幾ら刷ってもいい。

こういう状況で、考えておかなくてはならないのは、日本政府なり、世界中なりが、経済統計のみを問題にしているということです。
経済統計というのは非常に不健康な部分を持っている。
なぜなら現在のように紙幣が自由に印刷できるという状況だと、統計そのものが「花見酒経済」になっているからです。

樽が真ん中にあって、八つぁんと熊さんが担いでいて、八つぁんが熊さんに十文渡して一杯飲む。
次には熊さんが八つぁんに十文渡して飲む。
そうすると、樽酒はどんどん減っていく。
この八つぁんと熊さんの金のやりとりは、実は経済統計を極めて単純化したものです。
経済はちゃんと動いている。
にもかかわらず、ひたすら目の前の酒が減っている。
これを経済的な発展と捉えていいのか。

仮に兌換券という考え方が正しいとすれば、最終的な兌換券の根拠となるのは何か。
それはエネルギーになるのではないか。
例えば、一定量の石油に対して一ドルというふうにドルを設定すると、それが恐らくは最も合理的な兌換券なのです。

石油の絶対量に比例していますから、石油が切れたらアウトだということはわかっている。
石油だけじゃなくて、原発一基当たりでも何でもいい。

要するに都市生活、つまり経済というのは、エネルギーがない限り成り立たない。
これは大前提です。
すると、一エネルギー単位が実は一基本貨幣単位だというのは、実体経済のモデルとして考えられるのではないか。

虚の経済を切り捨てよ p190

ヨーロッパが始めたユーロというのは、いろいろな違った社会体制、国の中で、同じ単位の金を使うということです。
ユーロの目指すところは、実は世界統一通貨だと思われます。
では、その世界統一通貨の基準は何か。
まさか、江戸時代のように米だというわけにはいかない。
世界に共通する基準というのは、エネルギー単位以外ないのではないか。
これが実の経済の考え方です。

一方、だれが金を使う権利があるか、その虚のほうの経済、これは本質的に突き詰めて考えていくと意味が無くなってくる。
つまり、情報と絡んでいて、正しい金の使い方というものが決まってくれば、だれが持っていようと大して変わりがないのです。
この二つの経済は、区別されていません。
が、実はきちんと分けていかなければいけない。
経済学者がどう言うかは知りません。
しかし、実の経済と虚の経済を区別しないと、よくわからないうちに、お金は動いていますよと言われ、ああそうかと騙されているうちにエネルギーはどんどん消費され、そのうちに地球環境が破壊されていく。

乱暴に言えば、こんなことを心配しても手出しは出来ないのだから、とりあえず人間の脳から出る欲が、外的要因によって否応無く制限されるまで待つしかないのかもしれません。
しかし、それをやっているうちに取り返しのつかないことが起こる可能性が高い。
その代表例が環境破壊です。
それを防ぐには、実の経済に根を下ろさなくてはいけないのではないか。
虚の経済とは切り離してしまう。
実の経済はきちんと動いているから、金の取り合いはおまえら自由にやってくれ、といいたいところです。

ところが実際には、無駄にお金を回し続けないと経済は成り立たない、という思い込みが世界の常識になっている。
実の経済と虚の経済があるということは常識になっていない。
つまり、八つぁんと熊さんの間で金が回っている、金が回っているのが良い状態だ、と。

しかし、実はそうではないはずなのです。
実体が見えない状態で、欲のままにお金だけを回していけば、「経済は好調だ」とか何とか言っているうちに、いつの間にか目の前の酒樽は空っぽ、ということになってしまう。

神より人間 p192

経済を「実」と「虚」に分ける考え方は、どこかこれまでに述べた「意識と無意識」「脳と身体」「都市と田舎」といった二元論に似ていることに気づかれたかもしれません。
その通りで、私の考え方は、簡単に言えば二元論に集約されます。

普段の生活では意識されないことですし、新聞やテレビもそういう観点からの議論をしませんが、現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。
イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。
一元論の欠点というものを、世界は、この百五十年で、嫌というほどたたき込まれてきたはずです。
だから、二十一世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。
男がいれば女もいる、でいいわけです。

原理主義というのは典型的な一元論です。
一元論的な世界というのは、経験的に、必ず破綻すると思います。
原理主義が破綻するのと同じことです。

もっとも、短期的に見ると原理主義の方が強いことがある。
アメリカでは禁酒法なんて無茶苦茶な法律が通ったぐらいで、この手の一方的な押し付けも一種の一元論的な考え方の産物です。
しかし、そうした一元論はやがて、長い時間をかけて崩壊する。
禁酒法だって無くなってしまった。

いい加減にそろそろ、それに気がついた方がいい。
だから、私はいつも脳について話すのです。

「あんたが一〇〇%、正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見はそこに入っていないだろう。
三分の一は違うかもしれないだろう。
六七%だよ。
あんたの言っていることは、一〇〇%正しいと思っているでしょう。
しかし人間、間違えるということを考慮に入れれば、自分が一〇〇%正しいと思っていたって五〇%は間違っている」ということです。

バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。
バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。
向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。

本書で度々、「人は変わる」ということを強調してきたのも、一元論を否定したいという意図からでした。
今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。
その前提に立たないと一元論には立てない。
なぜなら、自分自身が違う人になっちゃうかもしれないと思ったら、絶対的な原理主義は主張できるはずがない。
「君子は豹変す」ということは、一元論的宗教ではありえないことです。
コロコロ変わる教祖は信頼されない。

だから、都市化して情報化する。
そういう世界では、ご存じのように、中近東が都市化していって、そこから一神教が出てきた。
事の流れからすれば必然なのです。

百姓の強さ p195

もともと日本は八百万の神の国でした。
『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というのも一元論ではない。
我が国には、単純な一元論は無かった。

ところが、近代になって、意識しないうちに一元論が主流になっている。
大した根拠や、そこにつながる文化が無いにもかかわらず、です。

一元論と二元論は、宗教でいえば、一神教と多神教の違いになります。
一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教でもある。

都市宗教は必ず一元論化していく。
それはなぜかというと、都市の人間は実に弱く、頼るものを求める。
百姓には、土地がついているからものすごく強い。
その強さは、例えば成田闘争を見ればわかる。
もう何十年も国を挙げて立ち退きを迫っても、頑として動かない。
これに限らず、昔から支配者は百姓をぶっつぶそうと思って大変な苦労をしてきた。

江戸時代でも、士農工商と支配階級を固定化して、武士だけに武器を持たせ、徹底的に有利にしておいて、やっと百姓とのバランスがとれていた。
そのぐらい、都会の人間というのは弱い存在なのです。

この強さは、人間にとっては食うことが前提で、それを握っているのは百姓だということに起因しています。
何も難しい話ではない。
終戦直後の混乱期に、高い着物を一反持っていって、米は少ししかくれないなんてことはざらでした。
そんなことは、私の世代は体験的にわかっていることです。

基盤となるものを持たない人間はいかに弱いものか、ということの表れです。
しかし、今は殆どの人が都会の人間になっていますから、非常に弱くなった。
その弱いところにつけ込んでくるのが宗教で、典型が一元論的な宗教です。

p198

天皇制だって、昭和の初年ぐらいまでは、その後の太平洋戦争中ほど絶対化されたものだったとは思えない。
天皇を国の一機関として捉える天皇機関説なんてものがあったくらいですから。
ところが、戦争が始まってから、どんどん神格化されていった。

その頃のことを考えれば一番わかり易いのですが、原理主義が育つ土壌というものがあります。
楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。
aを固定してしまう。
それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから。

p204

安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。
一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。
それは一見、楽なことです。
しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。
当然、話は通じなくなるのです。