『ライト、ついてますか』を2025年10月10日に読んだ。
目次
メモ
p9
このいまいましい苦情をそっくりうっちゃるにはどうしたらよいか?
p15
問題とは、望まれた事柄と
認識された事柄の間の相違である
p27
ユーモアのセンスのない人のために
問題を解こうとするな。
p32
事務所経営者から、絶対慎重に扱いますとの確約を得たあと、彼はビリー・ブライトアイズを長とするプログラマのチームに紹介された。
心配を解消するためにこれこれこういう計算をやってもらいたいのだが、という説明を、ビリーは注意深く聞いた。
11件の資産があって、入札は4社から出ているのだから、入札の異なる組み合わせの総数は4¹¹、つまり約400万通りだな、と彼は見当をつけた。(この種の概算ができることは問題解決者にとって大切なことである。そのことについてはほかの本で取り上げたいと思っているが、当面もし自分ではわからないという読者があれば、この数字を信用しておいていただきたい。または数学の心得のある友人に聞いてみるのもよい。)
p36
だが彼らが良心の話を脇へ追いやって20分したとき、ビリーが重役室から帰ってきた。
彼らはビリーに、自分たちがどんなうまい回り道を考えだしたか、盛んに説明したがった。
それによれば費用を900ドルで済ますことができるのだった。
だがビリーは手を振って、彼らを黙らせた。
それから彼は、入札規則を2、3分眺めていたら、ちょっと形式論理を使って、それからちょっとした常識を働かせればいいと気づいた、そしてそのお蔭で問題は、5分以内に完全に解けてしまったのだ、という話をした。
実は重役連にそれが、彼らが何日もかけて解こうとしていた問題の本当の解なのだということを納得させるのにはあと20分かかった。
だがそれはがけ甲斐のある時間だった。
というのはそのお蔭でビリーは、問題定義に関する重要な教訓を、二つも得ることになったからである。
その第1は、
彼らの解決方法を
問題の定義と取り違えるな
そして第2は
彼らの問題をあまりやすやすと
解いてやると、
彼らは本当の問題を解いてもらったとは
決して信じない
というものであった。
p41
解法を問題の定義と取り違えるな。
ことにその解法が
自分の解法であるときには注意
p43
問題の正しい定義が得られたかどうかは
決してわからない、
問題が解けたあとでも
p46
結論に飛びついてはいけないが、
自分の第一印象は無視するな
だが、「真の」問題の定義についてあんなに何度もまんまとだまされたにもかかわらずなお自分は「だいじょぶ」だ、とビリーに気づかせたのは、さらにもっと深い教訓であった。
大切な問いは次のようなものだということを、ビリーはもう大分前から知っていた。
問題は何か?
ビリーをはじめ、関係者みんなが間違ったのは、問いが重要なら答えも重要であるはずだ、と思い込んだためであった。
「そうじゃないんだ。」とビリーは心もうつろに郵便箱を空けながら、ひとりごとをいった。
「全然そうじゃないんだ。
問題を扱う上で本当に大事なのは、問いは決して答えられることがないと覚悟することなんだ。
だがそれは、問い続けている限りは、どうでもいいことなんだ。
だまされて究極の解答を得たと思い込むのは、まんまとだまされて究極の問題定義、つまり究極の、真の答えを得たと思い込んだときに限るんだ。
で、そう思ったとしたら、それは必ず間違いなんだ。
なぜなら『究極の解答』なんてものは存在しないからだ。」
ここまできて、ビリーの気持ちは休まった。
止まりはしなかったが、休まったのだ。
一晩よく寝たあと、彼は町へ出て、自分の机に飾るための青銅の飾り板を注文した。
それにはこう彫ってあった。
正しい問題定義が得られたという確信は
決して得られない。
だがその確信を得ようとする努力は、
決してやめてはいけない
p53
問題とは認識された状態と望む状態の間の相違なのだから、ある問題を「解く」ために状態を変えると、一つ以上の別の問題を発生させることになるのがふつうである。
標語的にいえばこうなる。
すべての解答は次の問題の出所
われわれは決して問題を追い払うことはできないのだ。
問題と解答と、そして新しい問題は、終わりのない連鎖を織り出している。
期待できるのはせいぜい、「解いた」問題がよりやっかいさの少ない問題で置き換えられることだけである。
ときにわれわれは問題を、他人の裏庭、またはお尻に放り込むことによって、よりやっかいさの少ないものに変えることができることもある。
この技法は問題の転嫁と呼ばれ、意識的または無意識的に実施されてきわめて有用であることが多い。
だがたいていの場合、新しい問題は無意識的に作り出される。
この無意識にやってしまうという話はそこらにごろごろころがっている。
よくあることだが、
問題によっては、
それを認識するところが
一番むずかしいということもある
例の工具の危険性がひとたび認識されれば、解決策はぼこぼこと、いくらでも思い浮かぶ。
実際、ダンの工具を毎日使っている技師たちは、それを立てておくと危ないということを認識していた。
彼らはそれを寝かしておく習慣を身につけたが、自分たち以外の者がたまたまその工具をいじったらどうなるか、ということは考えなかったのである。
技師たちと違ってほかの人たちは工具の危険性を知らないだろうから、とかく上に座り込んだり手に孔を開けてしまったりする。
技師たちは自分たちの安全という問題には気づいていたが、それがほかの誰かにとっても問題であり得るということには気づかなかった。
これも問題の転嫁の一例である。
脚を丸めるという設計によって新しい問題が発生しなかったかどうかさえ、断言の限りでない。
あるとしたらそれはどんな問題か、考えてみるとよいだろう。
またむしろ「それらはどんな問題か」考えてみる、という方が正しいだろう。
人間の場合には双子や三つ子は稀だが、世間の問題の場合には三つ子未満の方が稀なのだ。
実際、問題解決を志す人にとってもっとも重要な規則の一つは次のようなものである。
キミの問題理解をおじゃんにする原因を
三つ考えられないうちは、
キミはまだ問題を把握していない
どんな問題定義でも、見落とされる恐れのある要素は何百とある。
そのうちのたった三つを考え出せないようだったら、それは読者が考える能力、または意志に欠けているということを示しているのだ。
読者は、例の危険な工具についてのマネージャの解決法がうまく行かない理由を、三つ考えることができますか?
不適合を見落とす話 p58
何かうまく行かないことがあると、とかくわれわれは工具を作った人でなく、お尻に孔を開けられた人の方を非難する。
ダンの工具が例外だったのは、用途が非常に限られたものであったからだ。
設計に欠陥があることが痛いほどはっきりしたころには、設計家はとうの昔に遠くへ行ってしまっている、という方がむしろふつうである。
もしダンの孔開け器がうちうちで使われずに広く発売されたとしたら、けがをした人々は「どこに座るか考えて座るべきだった」といわれることになったろう。
または工具を立てて置いておいた人が「ほかの人の安全を考えなかった」といわれる、というのが関の山であったろう。
工具が市場で売られていたとすれば、われわれはそれが何千人という人々によって、お尻に孔を開けることなしに使われたはずだ、と仮定する。
だって、もしそうでなかったら、みんな文句をいったはずだからな。
な、そうだろ?
問題の転嫁という問題は設計家、つまりほかの人々のために問題を事前に解くことを商売にしている連中の存在によって一層面倒なことになる。
設計家はビルの持ち主と同様、自分たちがやったことのもたらす結果を経験するということのまずないものである。
だから設計家は絶えず不適合を作り出す。
ここで不適合とは、その解決策とつき合わなければならない人間とうまく合わないような解決策のことをいう。
不適合のうちには、ずばり危険なものもある。
大昔、男たちはひげをそる習慣がなかった。
のちになって彼らは、なぜかひげと彼らの幸福の間にずれを感じるようになったので、ひげをそり、またはそってもらう、ということをはじめた。
カミソリを研ぎながら、彼らはしばしばけがをした。
だがやがて使い捨ての「安全カミソリ」が発明された。
使い捨ての刃を研いでいてけがをする男はいなくなったが、こんどはひげそり男の奥さんや女中さんが、使い捨ての刃を実際に捨てるときにけがをするようになった。
また使い捨ての刃が捨ててないのを見つけた幼児がけがをする、ということもよくあった。
そしてついに、使い古しの刃を捨てるための薄い受け口のついた洗面台が作られた。
そういう洗面台があるところでは、少なくとも女性と子供は安全であった(ただし何らかの理由で女性も脚や脇の下をそりはじめたとき、女性はそうでもなくなったが)。
だがひげそり男たちおよび脚そり女たちは、何十年かにわたって刃を受け口に入れようとしては指を切り続けた。
何百万人という男女が、自分の血が流しに流れたり、タオルについたりするのを眺めながらこんなことを考えていた。
「刃を捨てるのにこれ以外の方法がないなんて困ったもんだ。もしこういう方法があれば誰かがもう発明していたはずなんだから、私は不器用でだめなやつなんだ。」
だがある日、どういうわけだか知るよしもないが、誰かがまた発明をやったのである。
この新発明では替え刃はパッケージから出てきて、そのあとに古い替え刃が入るというようになっていた。
それはそんなに複雑な発明ではなかった。
すぐあとを追いかけるようにして、類似品がわっと出た。
問題ははじめにその問題をどうやって認識するか、というところにあった。
またはむしろ、どうやって設計家にそれを認識させるか、というところにあったというべきか。
多分彼らは、ひげをそるときには床屋へ行っていたのだろう。
またはひげをはやしていたのだろう。
または設計家は、使い捨ての替え刃に関する基本的なアイディアがものになった時点でいなくなってしまった、ということなのかも知れない。
問題が解けちゃったんだから、設計家なんか要らないじゃないか、というのだ。
たいていの不適合は、認識されさえすれば容易に解ける。
たまには「然るべき権威筋」に何かやってもらわなければならないこともあるが、たいていはその不適合とつき合わなければならない者の方から処理できるものだ。
人間というものは実に適応力に富んだものだから、ほとんどどんな種類の不適合にも身を合わせてしまう。
ただしそれは、当人たちが実はそうでなくてもいいのだ、ということに気づくまでのことである。
そのとき、トラブルが起こる。
近年米国で、エネルギー「危機」への対策として自動車の制限速度が55マイル(88キロ)に引き下げられたとき「危機」が解消し次第、もとの65マイル(104キロ)またはそれよりもっと高い水準に戻ることはたやすいと、誰もが考えた。
ところが各方面の、制限速度が高いことで得をする人々にとって残念なことに、制限速度が下がったとたんに、事故率と事故死亡率ががたっとさがってしまった。
この壮大な「実験」がおこなわれるまでは、なぜ毎年5万人もの人々が交通事故で死んでいるのかはっきり知っている人はいなかった。
自動車製造会社は運転者を非難していた。
またアルコール産業以外のすべての人々が飲酒運転を非難していた。
だが本当に制限速度を高くしているのが悪いといって為政者を非難する人はいなかった。
すべての事故を制限速度のせいにすることはできないが、そのかなりの部分がそのせいなのだ、ということが事実によって示されたのである。
その数か月の間に変わったのは公衆の、車と運転者と道路の間の不適合に対する認識であった。
だがこれは何という大きな変化であったことか!
制限速度が次第にもとの致死的な水準に戻るまでには何年もかかるだろう。
もしそれがあまり速く上昇したら、誰かが変化に気づいてしまうだろうから。
道路の制限速度と安全の間の不適合を人々みなの意識にのぼらせたのは、制限速度の突然の変化であった。
そうなる前には制限速度は何年にもわたってじりじりと高まり続け、それとともに事故率も上昇していたが、その間の関係に気づいた人は誰もいなかった。
それと同じようにどんな新しい「解決策」も、問題の定義が間違っていたときそれと気づくのは、もとの設計者よりは利用者の方である。
だがひとたびはじめに感じた親しみのなさが薄れると、人の適応性ゆえに不適合は目に見えなくなる。
このことからも、次の規則がどんなに重要かは、わかるわけだ。
結論に飛びつくな、
だが第一印象を無視するな
だが第一印象が薄れてずっと経ってしまったあとはどうしたらよいのか?
われわれにはもはやなくなっている、視点の新鮮さを手にいれるためには、部外者――コンサルタントなどのような「外国人」――を連れてくるしかないのだろうか?
コンサルタントに悪いところはまったくない(とコンサルタント業をなりわいとする著者ドンおよびジェリーは申すのである)が、彼らのサービスへの依存の度合を低めるための技法を身につけることは可能である。
まずもって、視点の新鮮さが問題だとすればほとんど誰を連れてきても「コンサルタント」として役立つのである。
「エキスパート」のコンサルタントはやめた方がよい。
彼らはわれわれよりもっと、現状に適応してしまっている可能性がある。
道行く人にある設計、または問題定義をどう思うか聞いてみるがよい。
自分たちの方針を予備知識のない人々に説明することによって、われわれはものごとに対する新しい視点を自分たち自身に強制することになる。
そして新しい不適合に気づくことになるのだ。
外国旅行をすると、われわれは「新しい」ものに対して、いやおうなしに見慣れなくて変だという気持ちをもつことになる。
お金は意味をなさないし、道路標識はとんでもないところにあるし、トイレットペーパーもおかしい。
だがもっと有益な経験は、外国からの旅行者を連れて、自分の国を歩くことであるというのは、そのようにすると外国人の目を通じて、もう一度自分の文化の見慣れなさと変てこさを認識することになるからだ。
いま「もう一度」認識する、といったが、それはなぜか?
われわれはその見慣れなさを子供のころには認識していたからだ、大人がわれわれの小さな頭に、「これ以外に世界はないんだぞ。これが一番いい世界なんだぞ。」ということを叩き込むまでは……。
スイスからのはじめての旅行者にアメリカの紙幣を見せてみるがいい。
相手はきっとこういうだろう。
「でもみんな同じ大きさじゃありませんか。盲人はどうやって区別するんですか?」
そこで読者は当惑して黙ってしまうことになるだろう。
というのは、自分が盲人でない限り、お金についてそういう風に考えたことは決してないからだ。
いや、決してだろうか?
ううむ、まあほとんど決して、だろう。
少なくとも子供のころはそんなことは考えなかっただろう。
あのころは1ドル札でさえ、めったと見はしなかったから、それはあんまり問題ではなかったのだ。
そしてスイス人の旅行者が次にいうことはこうだ。
「しかもみんな同じ色なんですね!おつりを出すときしょっちゅう間違うんじゃありませんか?」
そこで読者は「しょっちゅう」というのはどのぐらいのことかなと考え、そしてまたしても当惑して沈黙する。
実際5ドル札と10ドル札が見違えられておつりをもらいすぎたり、もらい足りなかった経験は確かにある。
いまそういわれるまでは、そういう誤りが起こる、その割合を「自然法則」と思ってきたそのわれわれは、いまや認識を新たにしてアメリカ人たちがそういう誤りを減らすためにどれほど適応してきたのか気づくようになる。
それから数日の間は、レジに立つと目を光らせるようになる――ほどなくその気づきも薄れて、もとの快適な忘却状態に戻って行くのだが……。
自分の気づきを本当に大事にしてやるために、一つ2、3日の間、必ず2ドル札(数は少ないが確かに流通していて、よく間違いのもとになる)で支払うようにしてみてはどうか。
こういう経験は、不適合に気づくためのヒントを与えてくれる。
つまりこうだ。
キミの問題定義を
外国人や盲人や子供について
試してみよう。またキミ自身が
外国人や盲人や子供になってみよう
自分が毎日扱っているものを、何か一つ取り上げてみよう。
靴でもいい、シャツでもいい、フォークでもいい。
車のドアでも、歯ブラシでも、そのほか何千とあるさまざまなもののどの一つでもいいのだ。
そして、それをまだ一度も見たことのない外国人の視点に立って「見よう」としてみる。
次に目(または場合に応じて耳または鼻を)をきつくつぶって、それを使おうとしてみる。
自分の背の高さがいまの4分の1であるとして、そのものをはじめて扱ったらどんな具合かやってみる。
また自分には字が読めないとしたらどうか?
手がうまく動かせないとしたらどうか?
それを本についてやってみよう。
中味なんか考えなくていい。
機械的な設計だけで十分である。
本を読んでいるとき不便だったこと(そしてそのときは単に受け入れてしまったこと)を、最低10項目思いつくまで、視点を変えて行ってみよう。
たとえば著者の一人ドンは、2、3分の間にこんなことを思いついた。
1. 下に置いたとき、きちんと立てておきにくかった。
2. 一部分だけ持って歩くということができないので、一部分しかいらないことがわかっているときでも全部持ち歩かなければならなかった。
3. 綴じかたが大げさで扱いにくい一方、綴じかたが大ざっぱで長期間はもたなかった。
4. 手で押さえていないと開いたままになっていてくれなかった。
5. ページが裂けやすすぎた。
6. ページがくっついてしまうことがあった。
7. ページがぴかぴかで光を反射しすぎ、うっとうしかった。
8. 1行が長すぎてときどき同じ行を2度読んだり、1行飛ばしたりした。
9. 余白が少なすぎて書き込みがしにくかった。
10. ハンドルのようなものがついていないので、持ち運びにくかった。
本のような昔ながらの確立した解決策にそんなに多くの不適合があるのだとすれば、われわれのまだ実地に試してないアイディアが完璧であるという、どれほどの望みがあるか?
大してあるわけがない。
だからかなり自信をもって、こういっていいのだ。
新しい視点は
必ず新しい不適合を作り出す
「解決策」を実施に移す前に、そういう視点を持ってみた方が、災害が起こって認識の感度を上げてくれるのを待つよりいいのではないだろうか?
p73
問題定義のうんざりするような道筋をさまよっているときは、
ときどき立ち止まって、迷子になっていないか確認しよう
p77
言葉を紙の上から人々の頭の中に引っ越させるためには、社会的過程が必要なのである。
そういう過程の一つは言葉遊びである。
つまりこうだ。
問題が言葉の形になったら、
それがみんなの頭に入るまで
言葉をもて遊んでみよう
p89
他人が自分の問題を自分で
完全に解けるときに、
それを解いてやろうとするな
p90
もしそれが彼らの問題なら、
それを彼らの問題にしてしまえ
トンネルのかなたのあかり p99
ジェネヴァ湖を見おろす山々を貫いて、長い自動車用トンネルが、たったいま完成した。
その開通式の直前主任技師は、トンネルに入る前にライトをつけるように、との警告を運転者に与え忘れていたことに気づいた。
トンネルの中はしっかりと照明されてはいたが、停電のとき大事故が起こるのを防ぐためにライトをつけておく、というのはぜひ必要な心得であったのだ。
実際、山の中のことだから、停電も十分あり得るのだった。
そこで、こんな標識を出した。
注意 前方にトンネルがあります
ライトをつけて下さい
トンネルは、入口にこういう標識を掲げた姿で、予定の期日に開通し、人々はみなリラックスした。
今や問題は解決したのだ。
トンネルの東側の口を出て400mばかり行った所に、高い場所から広々と湖を見下ろせる、世界一眺めのよい休憩所があった。
1日何百人という旅行者たちがそこに車を止めて、眺めを楽しんだり、健康維持上大切なことをしたり、時にはささやかな、しかしおいしい(土地の言葉でいうと)ピクニークのごちそうを広げたりした。
そして毎日そういう何百人かのうちの十人以上が、体も心もさわやかになって車に戻ってみると、しまった、ライトがつけっぱなしだった、バッテリーが上がっちゃったぞ、と気づくのだった。
警官たちはそういう車をスタートさせたり、牽引したりで、ほとんど手一杯になってしまった。
旅行者たちはぶつぶついい出し、友達にスイスには行くなといってやるぞ、などと口走った。
例によって、ここで立ち止まって自問してみてほしい。
これは誰の問題なのだろうか?
(a) 運転者たち
(b) 同乗者たち(もしいれば)
(c) 主任技師
(d) 警官たち
(e) 県知事
(f) 自動車連盟
(g) その誰でもない
(h) その全員
この種の問題、つまりはっきりした「設計者」なり「技師」なりがいる問題の場合に非常にあり勝ちなのは、それを彼女(ここでは技師はたまたま女性だった)の問題だと判断してしまうことである。
今の場合、運転者たちがそう思うだけではない。
多分技師自身もそう考えるのだ。
何もかも自分が面倒を見なければならないというのは、建築家、技師、およびその他の設計家の間に広く行き渡った印象である。
この話では、技師は運転者およびその乗客のために講じてやる解決策として、次のようなものを考えた。
(1) トンネルの出口に「ライトを消せ」という標識を出すことが考えられるけれど、それだと夜中にライトを消す人があるかも知れないわね。
(2) 状況を無視して、人々に勝手に……、いや、それはだめだわ。現在そうなっていて、役所の方では技師がだらしのない仕事をしたと思っているんだから。
(3) 展望台にバッテリー充電施設を置くことはできるけれども、維持費が大変だし、もしこわれていたら人がもっと腹を立てるでしょうね。
(4) 私企業に充電施設の営業権を与えることも考えられるけれど、それでは展望台を商業化することになって、州政府にも観光客にも受け入れられないでしょうね。
(5) トンネルの出口にもっとくわしい標識を出すことも考えられるわね。
技師は、もっとくわしい標識は考えれば考えられるはずだ、と直感的に感じた。
彼女はいろいろやってみたあげく、とうどう次のような、スイス的厳密性の大傑作に到達した。
もし今が昼間でライトがついているなら
ライトを消せ
もし今暗くてライトが消えているなら
ライトをつけよ
もし今が昼間でライトが消えているなら
ライトを消したままとせよ
もし今暗くてライトがついているなら
ライトをついたままとせよ
でもこんなものを読もうとしようものなら、車はガードレールにぶつかって湖の底深くごろごろと落ちて行ってしまうでしょうね。
こんな解決策はだめだわ。
それに、お葬式はどこの責任で出すことになるのかしら?
ほかにもっといいやりかたがあるに違いないわ。
そこで主任技師は、こんなこんがらがったことを考える代わりに、「彼らの問題」方式を採用し、但し技師の方でもちょっとだけお手伝いをすることにした。
彼女は、運転者たちはこの問題を解決したいという強い動機を持っており、ただちょっと思い出させてやることを必要とするかも知れないだけのことだ、と仮定した。
彼女はまた、およそ免許をもっているほどの運転者なら、何もかもいってやらなければならないほどバカではない、と仮定した。
彼らには
ライト、ついてますか?
とだけいってやれば十分なのだった。
もし彼らがそれでは間に合わない程度にしか頭がよくなかったというなら、彼らはバッテリー上がりよりはもっと重大な問題にいくらでもぶつかっているはずであった。
この標識のお陰で問題は消滅した。
またこの標識は十分短かったから、同じことを何か国語かで表示することができた。
この技師は、このとき得た次の教訓を、決して忘れなかった。
もし人々の頭の中のライトが
ついているなら、
ちょっと思い出させてやる方が
ごちゃごちゃいうより有効なのだ
あなたの頭の中のライト、ついてますか?
p110
こういう状況のもとで、問題全体を「官僚主義」のせいにしたいという気持ちが働くのは、自然なことだったが、それは肩をすくめて「世の中はそんなものよ。それが自然なこと、人の本性なのよ。どうしようもないのよ。」というのも同然であった。
「自然」ゆえに起こる問題は、二つの理由によって最悪である。
第1にわれわれは問題がそんなにかけ離れたところから生じてきたのではどうしようもない、という気持ちに陥り勝ちである。
実際、解決のために何かをする責任を逃れたいとき、われわれはしばしば問題を自然のせいにする。
「つい食べすぎたり、手に入らないものをひどくほしがったり、経費を水増ししたりするのは人の本性さ。」といった具合である。
第2の理由は「自然」の無関心さである。
もし問題の原因を、人、または現実の事物ないし動作に求めることができるのであれば、解決の可能性に関する足がかりが得られる。
問題の源泉に手が届くことによって、または問題を作り出した張本人の動機を理解することによって、われわれは問題を解消したり、それを軽減する道を見つけたりすることができる。
だが「自然」は、まさにその本性ゆえに、いかなる動機ももたない。
アインシュタインがいったように、「自然はずる賢いが、悪意はもっていない」のである。
自然はわれわれ人間にも、われわれの問題にも、完全に無関心であるがゆえに、もっとも手に負えない問題を引き起こすのである。
ジャネットは、このビザの問題に直面して、何もかも「官僚主義」のせいにしたがっている自分に気づいた。
もし彼女がこの誘惑に負けていたとすれば、彼女は今回の旅行全体を――そしてこれまでの貯金全部を――「運命」の手に委ねることになっていただろう。
そして「運命」とは、「自然」の別名であって、何もやらないことに対する世界一ポピュラーないいわけなのだった。
そんな大げさなリスクを受け入れる意志はなかったので、ジャネットは次の決定的な問いを立てた。
この問題はどこからきたのか?
この出発点に立ったいま、彼女はさまざまな候補を挙げることができた。
たとえば、
(1) 本当に助手が8部目のコピーを失くしたのかも知れない。
(2) 本当に彼女がそれをどこかへやってしまったか、それともはじめから持っていなかったのかも知れない。
(3) 灰色顔氏は無能な官僚なのかも知れない。
(4) 灰色顔氏は有能な官僚だが、彼女をポーランドに入国させ、祖母に会わせる、というのとは違う何らかの目標を持っているのかも知れない。
(5) 灰色顔氏は、こういう例外的な事態については何をする権限も持っておらず、したがって問題は誰かもっと上の人からきているのかも知れない。
ジャネットは、このリストがさらに長くもなり得ることを見てとったが、ともかくこれで彼女は問題を「自然」の領域から引き出して、建設的な思考と解決への行動、という領域に移すことができたのである。
ミスター・マチーチン事態を収拾 p112
現代の都市生活では、人が生の「自然」に直面することは、めったとない。
われわれは平日1日を、日が照っているかどうか知ることなしに、そしてそれどころか気にかけることすらなしに、過ごすことができる。
むしろ都市生活者にとっては、官僚制度こそが「自然」なのだ。
われわれは、「偉大なるボス」が彼のほほえみのまなざしを組織に注いでいるか否かを知り、かつ気にかけることなしには、たとえ1時間でも過ごすことはできない。
こういう状況下で官僚制度を、ひんやりした砂を暖める日の光や、腐りかけの魚をむさぼり食ううじ虫と同様の、「自然」現象だと考えはじめるのは、いともたやすいことである。
だが官僚制度は、つねにある淘汰のプロセスからはじまる。
そしてそれは決して「自然」な淘汰ではない。
近頃、ピーターの法則というものが知られるようになった。
それによれば、官僚は組織の中で、その無能の水準に達するまで昇進するという。
またもっと最近には、ポールの法則というのもあらわれた。
それによれば、現代の組織の中では、仕事のむずかしさはすべての官僚の有能さの水準を超える点まで増大するという。
たしかにこのような淘汰のプロセスは存在しているが、それらは特定の人物を、組織のはしご段のある特定の段にたどり着かせるための、数多くの要因のごく一部にしか過ぎない。
トム・タイヤレスのおもちゃいじり p137
われわれはもう、たいていの人は、たいていの場合に、何らかの問題を抱えていると感じているものだということを知っている。
「問題」に対するわれわれの定義の広範さから見て、彼らの感じが正しいことは疑いがないというのは、問題というのは人が望むところと、物事がどうなっているように見えるかとの差であるからだ。
自分が問題を抱えていると知っているかどうかは、感じかたの問題だ。
では何が問題なのか知ることについてはどうか?
それは別問題である。
確かにたいていの人は、問題が何であるか知っていると思っているものだが、彼らはその点ではたいていの場合に間違っている。
そういう間違った印象の見事に逆説的な実例は、「問題解決」は大問題である、という信念の中に見られる。
「私にとって最大の問題は、私があまりよい問題解決者でないことです。」などという人がたくさんいる。
ふふん、だ。
多くの場合に、問題を解決すること(ないし解消すること)は取るに足りない作業である――ひとたび問題は何であるのかわかってしまえば。
学校があんなにだめな問題解決者ばかり生み出している理由は、学生たちが問題は何であるのか見つけるというチャンスを決して与えられないというところにあるのかも知れない。
学校では、問題とは先生が問題だというものなのだ。
それは信じた方がいいのだ。
われわれはたいてい学校に通ったことがある。
通いすぎたことがあるといっていい。
そのためにわれわれは、最初にあらわれた「問題」らしく見える文章に飛びつくという本能を身につけている。
そしてそれをでできるだけ速く「解く」。
なぜなら、誰でも知っているように、試験ではスピードがものをいうからだ。
そしてもう一つ、集中力が大事だ。
こうしてわれわれは、学校で試験を受けているのではないときにも克服することのむずかしいような癖を身につけてしまっている。
だが、著者らがいいたいと思っていることを取り違えないでほしい。
最初に出会った問題文に飛びつき、急いで掘り下げ、苦い結末にたどり着くまでそれに固執するというのが、まさに望むところである場合もあるのだ。
学校というものにとっつかまって、そのだめなものをせめて活用しようと思っている場合はそうだ。
それどころか、学校以外でもそういう場合はあり得る。
実際、例のプロントサウルス・タワー問題は、誰かが「エレベーターが遅すぎるから修理させなきゃ。」という結論に飛びついていたとすれば、またたく間に片づいていたはずなのだ。
この「目をつぶって両足でピョン」という方式は、ぎりぎり生き延びられる程度の成功率をもっている。
もしそれが決して成功しないのなら、人はついにはそれを使わなくなるだろう学校を出てから十分長い期間が経っていれば。
「目をつぶって両足方式」がいつまでも生き延びているもう一つの理由は、「問題解決」が場合によってはそれほどまでに楽しい、というところにある。
一度極上の問題に手をつけてしまったら、ほかの人が割り込んできたときよろこぶのは倒錯者だけである。
われわれはみな、この手の連中とおなじみである。
あの、人の楽しみを台なしにするのが三度のめしより好き、という連中である。
そういう奴がたとえば公衆衛生局長官の喫煙の害に関する報告書が出たとき本当にタバコをやめたとすると、彼はほかの連中も自分の示した模範に従うべきだと考える。
そしてそのことについてほかの連中にお説教をするチャンスを決して逃さない。
仮にわれわれが「真の」問題を解いているのではないとしても、それをわれわれが解きたいと思うことによって、それは真の問題となるのだ。
それも、芝居がかりであればあるほどよいのだ。
つまりは、ほっといてくれ、ということだ!
誰がドンとジェリーに、他人が問題解決を楽しんでいるのをじゃまする道徳的権利を与えたというのか?
これは答え甲斐のある問いだ。
そしてそれらは著者らにとって、まじめに対応した方がよい問いである。
というのは、ドンとジェリーは他人の楽しみをじゃますることにかけては世界有数だからだ。
われわれの道徳的権利は
ほかの連中にされたように、
ほかの連中にもしてやれ
という教訓に根拠を有する。
著者らは、そして読者の多くも、若い元気すぎる問題解決者たちに自分たちの平和な平衡状態をかき乱されて楽しみを台なしにした経験をもっている。
そのことがわれわれに、問題解決者の楽しみのうちのいくらかを台なしにしてやる権利を与えるのだ。
「自分たちの平和な平衡状態をかき乱され」た、とはどういうことか?
よい例は計算機分野の中に見つかる。
計算機がはじめてたっぷりあるという状態になったとき、人々は必ずしもその発明者に喝采を送らなかった。
むしろ計算機は、いやがっている、または少なくとも警戒している公衆に驚くほどの勢いで押しつけられた。
それをやったのは、計算機をおよそありとあらゆる分野に応用することを専門とする、若い熱狂的な問題解決者の軍団であった。
p147
こうしてトム・タイアレスは、他人のために問題を解いてやろうとする人が知っているべき問題定義に関する教訓第1番を学んだのだった。
それはこうだ。
ちょっと見たところと違って人々は、
くれといったものを出してやるまでは
何がほしかったか知らぬものである
p152
問題解決者と解決問題者を問わず、自分の努力に対するこの種のサボタージュから免れられる者はいない。
こうしてペイシェンスは、問題定義に関する教訓第2番を学んだのだった。
それはこうだ。
あとから調べてみれば、
本当に問題を解いてほしかった人は
そんなにいないものだ
p158
だから問題問題解決に関する古いことわざに、こういうのがある。
ちゃんとやるひまはないもの、
もう一度やるひまはいくらでもあるもの
だが、もう一度やるチャンスはいつもあると限らないのだから、あとでうまくやりなおそう、では不十分である。
いい換えればこうだ。
本当にほしいか考えるひまはないもの、
後悔するひまはいくらでもあるもの
だが、たとえわれわれが本当に解答そのものをほしいのだとしても、われわれはどんな解決にも必ずつきまとう、避けることのできない付随的結果に気づかないかも知れない。
昔錬金術師が探求した対象の一つに「万能溶剤」がある。
それは地上のどんな物質でも分解してしまうという溶剤であった。
鉛を金に変える術の探求と同様、この探求も空しいものであったようだが、それは残念なことである。
というのはもしそういうものができたとすれば、それを何に入れたか見ものだからだ!
もしわれわれが万能溶剤を探し求めているのだとすれば、それがいかなる容器でも溶かしてしまうことを、そして地球の中心を貫いて孔を開けてしまうことを、「副作用」と見ることはむずかしい。
にもかかわらずわれわれは、「副作用」を特定の解答のもたらす結果であると見なしたがる。
「副作用なんか起こらないさ。またもし起こったとすれば、解答を改良して起こらないようにすることは必ずできるよ。」
どんなに何度も、この無邪気な態度が災厄をもたらしたことだろうか!
われわれが死の原因を一つずつ取り除いて行ったとすれば、人が老人の人口が増えるという「副作用」に驚くのはなぜだろうか?
われわれが幼児の死の原因を取り除いて行ったとき、総人口がうなぎのぼりになったためにわれわれがショックを受け、幻滅するのはなぜか?
その答えの一つは、人の順応するという傾向にある。
つまり、刺激が繰り返されると応答が段々減少してくるという傾向である。
順応はわれわれの環境の中の不変部分を打ち消すことによって、われわれの生活を単純化してくれる。
何か新しいものがわれわれの小宇宙の中にあらわれたとすれば、それはきわめて刺激的である。
だがしばらく脅威もチャンスももたらさないままに、それがそのままそこにとどまっていれば、それも「環境」――または背景といってもいい――の一部になる。
そしてついには完全に打ち消されてしまう。
つまりこうなる。
魚、水を見ず
人が問題について考えるとき、順応した事物は考慮から除外されやすい。
「解答」が順応した要素を取り除いたとき、はじめてわれわれは飛び上がって驚く。
この現象の深く感動的な表現が、サタジットレイの映画三部作「アプの世界」の、アプの妻が死ぬ場面にある。
アプはこの知らせを受けたとき、ベッドに倒れ、何日もの間動けなくなってしまう。
レイは、見る者には何時間とも思えるほど長い時間、彼がじっと横たわっているところを映し出す。
すると突然、かちかちいっていた目覚し時計が止まる。
アプはびくっと驚き、自分たちもそのかちかちいう音に慣れっこになっていた観客は、突然の不在の落雷のような衝撃を彼と共有する。
アプの妻の心臓がもはや脈打たなくなったとき、いかに深く彼女が自分の生活の一部になっていたかを実感してアプが受けたショックを、われわれも共有させられたのだ、ということにわれわれ観客が気づくのはあとになってのことである。
映画監督と同様、問題解決者も想像上の世界を取り扱う。
解決者は非常に初期から、いやそもそものはじめから、他の関係者が無意識にその中で泳いでいる「水」を見ようと努力しなければならない。
その水は「問題」が「解けた」とき、砂に変容するかも知れないからだ。
追って書き 問題にどっぷり浸かることによって問題解決者が冒す危険にはもう一つある。
問題解決に目を奪われるあまり、人は自らが解答を道徳的に容認できるかどうか考えるのを忘れる。
一人にとっての罪悪は、別の一人にとっては美徳であるかも知れないのだ。
著者らは読者の誰一人に対しても、人を殺すのは間違いだという勇気は持てない。
それは人食い人種に対して人を食べるのは間違いだという勇気が持てないのと同じことである。
多分われわれは、感傷的に見えるという危険を冒してポロニウスの次の言葉を引用すべきなのであろう。
「まず汝自らに対して真実なれ。」
われわれの分野では、自分自身に対して真実であろうと思うなら、解答に、いや問題定義にすら、近づいて感受性が鈍り出す以前に、その道徳的側面について考えてみる必要があるのだ。
そのために使う時間は決してむだにはならない。
なぜなら問題解決は決して道徳的に中立の活動ではないからである。
それが問題解決者にとってどれほど魅惑的であろうとも、だ。